Monday, March 24, 2025

シアトルの春 富と神の両方に仕えることはできません

You can't serve both wealth and God.





財産家の救い

一、 誰にも二人の主人に仕えることはできません。なぜなら、一方を愛し、他方を憎むことになるか、一方に親しんで、他方の気持ちを疎んじることになるからです。(ルカ 第十六章 13)


二、すると彼のもとに青年がやって来て言った、
「善き師よ、永遠の命を得るためには何をすればよいのでしょうか」。するとイエスは答えて言われた、「なぜ私を善いというのですか。善いのはただ神のみです。永遠の命に入りたいのであれば戒めを守りなさい」。「どんな戒めですか」。青年は問い返した。

「殺してはなりません。姦淫をしてはなりません。盗んではなりません。偽証をしてはなりません。父母を敬い、自分と同じように隣人を愛しなさい」。青年は言った、

「私はそれらすべての戒めを守っています。それでもまだやらなければならないことはなんでしょうか」。イエスは言われた、「もし完全になりたいのであれば、帰って所有するものをすべて売り払い、貧しい者にそれらを与えれば、天における富を得ることができます。

その後来て、私について来なさい」。この言葉を聞くと、青年は多くの財産を所有していたので悲しくなり、去って行った。

するとイエスは使徒たちに言われた、「誠に言いますが、富んだ者が天の国に入ることは難しいことです。また、更に申し上げますが、ラクダが針の穴を通る(→FEB版注1)ことの方が、富んだ者が天の国に入るよりも容易なことなのです」。(マタイ第十九章 16-24 ルカ 第十八章 18-25 マルコ 第十章 17-25)


 強欲から身を守る
三、 群集の中のある者が言った、「先生、私の兄弟に相続した財産を分けるようにおっしゃってください」。イエスは言われた、「おお、人よ。誰が私を、あなたたちを裁き、あなたたちの財産の分割をするように仕向けたのですか」。そして更に言われた、「いかなる強欲からも身を守るように注意しなさい。
℘281
人がなにに富んでいようが、その者の命はその者の所有する財産には関係がありません」。 
   
 そこで続けて次のたとえ話を語られた、「畑が豊作だったある金持ちがいた。そしてこのように自分の中で思いを巡らせていた、『もはや収穫物を蓄える場所がなくなってしまったが、どうすればよいだろうか』。 

そしてこのように言った、『私の穀物倉庫を壊し、もっと大きな穀物倉庫を建て、そこに私の全財産とすべての収穫物を保管しよう。そして自分の魂にこう言おう。魂よ、何年分もの食料が沢山蓄えてある。安心して休み、食べ、飲み、楽しめ』。

すると神はその者に言われた、『何と気が狂ってしまったことか、まさに今夜あなたの魂を奪うであろう。そうしたら、あなたが蓄えたものはなんの役に立つであろうか』。

自分だけのために富を蓄える者には、このことが当てはまり、そのような者は神の前には豊かではありません」。(ルカ 第十二章 13-21) 


  ザアカイの家でのイエス
四、 エリコに入ると、 イエスはその町をお通りになった、そこにはザアカイという名の、徴税官の頭で大変富んだ者がいた。彼はイエスと知り合いたくて、イエスがどんな人か一目見ようと望んでいたが、背が低かったため、群集にさえぎられて見ることができなかった。

そこで群集の前へ走って行くと、そこを通られるはずのイエスを見ようと、イチジクの木に登った。イエスはそこへやって来られると目線を上の方へ向け、ザアカイを見ると彼にこう言われた、「ザアカイよ早く下りて来なさい。今夜あなたの家に泊めてもらう必要があります」。

ザアカイは直ちに木から下りると喜んでイエスをお迎えした。それを見てみな不満げに言った、「イエスは罪人の家に泊まりに行かれた」(→序章 Ⅲ 「パブリカン(徴税官))。

 ザアカイは主の前に出ると言った、「主よ、私は財産の半分を貧しい者に分け与え、なんであろうと、もし誰かから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。

するとイエスは言われた、「今日この家には救いが来た。なぜなら彼もアブラハムの子供であるからです。人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためなのです」(ルカ 第十九章 1‐10)

 ℘282   
  悪しき金持ちの話
五、 ある金持ちがいて、彼は紫の衣や高級な布をまとい、毎日贅沢な生活を送っていた。また、ラザロと言う名の乞食がいて、その全身はできもので覆われており、金持ちの家の扉の前に横たわって、その家の食卓から落ちるパンくずでその飢えを癒そうとしていた。

しかし、誰もそれを与えてくれる者はなく、ただ犬がそのできものをなめに寄って来るだけであった。

 さてこの乞食は死に、天使たちによって、アブラハムのもとへ連れて行かれた。金持ちも死んだのだが、その墓場は地獄であった。苦しみに遭っている時、目を上げると遠くにアブラハムとラザロが見えた。そこで金持ちは言った。

「父アブラハムよ、私を哀れに思い、私の舌を冷やすために指先を水で濡らしたラザロをこちらへ送ってください。この炎に包まれた苦しみは大変恐ろしいものです」。

 しかし、アブラハムは答えて言われた、「息子よ、あなたは生きている間に富を受け取り、ラザロは悪いものを受けたことを思い出しなさい。だからいま彼は慰められ、あなたは苦しみの中にいるのです。

また、私たちとあなたたちの間には永遠に深い淵が存在しており、それ故にここからそちらに行こうとする者はそちらへ行くことが出来ず、また、あなたのいる場所から誰もこちらに来ることは出来ないのです」。

 金持ちは言った、「そうであるならば、父なるアブラハムよ、お願いいたします。ラザロを私の父の家へ送ってください。私には五人の兄弟がいますが、彼らがこの苦しみの場所へ来ることが無いように、ラザロにこのことを警告していただきたいのです」。

アブラハムは彼に言われた、「彼らにはモーゼや預言者たちがおり、その者たちの話を聞くがよかろう」。

「違います、父アブラハムよ。もし死者の誰かが彼らに会いに行けば、彼らは懺悔することでしょう」。アブラハムは答えられた、「彼らがモーゼや預言者の話を聞かないのであれば、たとえ死者が生き返ろうとも、その者の助言を信じることはありません」。 (ルカ 第十六章 19-31)


℘283     
  タラントの話
六、 また天国は、ある人が旅に出る時、そのしもべどもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。ある主人が、それぞれの能力に応じ、一人には五タラントを、別の者には二タラントを、そしてまた別の者には一タラントを与えて旅に出た。

すると、五タラントを受け取った者はそのお金で商売をし、もう五タラントをもうけた。二タラントを受け取った者は、同じようにしてもう二タラントをもうけた。

しかし、一タラントしか受け取らなかった者は地面に穴を掘ると、主人のお金をそこに隠した。長い年月が経過し、しもべたちの主人が戻って来ると、勘定をするために彼らを呼んだ。

五タラントを受けた者はもう五タラント差し出すと言った。「ご主人様。あなたは私に五タラントを預けました。ここにそのお金とそれによって稼いだもう五タラントをお返しします」。

主人は答えて言った。「良き忠実なしもべよ。お前は小さなことにも大変忠実であったので多くのものを管理させよう。主人の喜びをともに分かち合うがよい」。

二タラント受けた者は自分の番になると言った。「ご主人様。あなたは私に二タラントを授けられました。ここにその二タラントと、私の稼いだもう二タラントをお返しします」。

主人は答えて言った、「良き忠実なしもべよ。お前は小さなことにも忠実だったので多くのものを管理させよう。主人の喜びを共に分かち合うがよい」。

次に一タラントだけを受けた者が来ると言った、「ご主人様。あなたは厳しいお方で種を蒔かぬところを刈り、なにも散らさないところからも集めます。ですから、あなたを恐れ、預かった一タラントを地中に隠しておきました。ここにそのお金があります。あなたのお金をお返しいたします」。

すると主人は答えて言った、「悪しき怠惰なしもべよ。あなたは私が、蒔かないところから刈り、散らさないところから集めることを知っているのか。それなら、私の金を銀行に預けておくべきであった。

そうしたら私が帰ってきて、利子と一緒に私の金を返してもらえたであろうに。その者より一タラントを取り戻し、十タラントを持つ者に渡すがよい。

すでに持つ者には与えられ、それらは富をより蓄えることになるが、持っていない者は、わずかばかりの持っているものまで取り上げられるであろう。この役に立たないしもべを外の暗闇へ放り出しなさい。そこで彼は泣き、歯を震わせるであろう」。(マタイ 第二十五章 14-30)


  神意に従った富の使い方。富と貧困の試練
七、 イエスの幾つかの言葉を、霊によってではなく、文字通りに解釈した場合に受け取れるように、富がもし救いの絶対的な障害となるのであったとすれば、富を容認した神は、富に抗しきれないような人々を破滅に導く手段を与えたことになりますが、それは道理に反しています。

富と言うのは、それが与える魅力や誘惑に人を引き込むので、貧困よりも危険な試練であることは疑う余地もありません。富は自尊心やエゴイズム、みだらな生活への欲求を強く刺激します。

それは人類を地上につなぎ止める最も強い絆であり、人々の考えを天の方向から遠ざけることになります。貧困から豊かになってしまうと、しばしばそれに有頂天となってしまい、すぐに元の境遇や、ともに貧困を生き抜いてきた仲間や助けてくれた仲間のことを忘れてしまい、それらに対し鈍感で、利己的になり、うぬぼれてしまいます。

しかし、富によって道のりが困難になるとは言え、救済が不可能になったり、それが救済の手段となり得ないのではありません。ある種の毒が、思慮と分別を持って用いられれば、健康を取り戻すことに役立つように、富が何に役立つのかを知る者にとっては、富は救済の手段ともなり得るのです。

 永遠の命を得る手段を尋ねた青年に対してイエスが、「所有するものをすべて売り払い、私について来なさい」と言った時、絶対的な条件として、一人一人が所有するものを捨て、救済はその代償として得られるのだということを確立させようとしたのではもちろんありません。

そうではなく、地上の財産への執着が救済の障害になる、と言うことを示したかったのです。戒めを守っているのだから自分は永遠の命を得るにふさわしいと考えていた青年は、自分が所有する財産を放棄するということを拒否しました。

永遠の命を得たいという彼の願望は、それを犠牲にしてまで得ようというところまで到達していなかったのです。

 イエスが彼に示した提案は、彼の考えの根底を裸にするため決定的な試験であったのです。彼は、疑いなく、世俗的な考え方においてはまったく正直で、誰にも損害を与えず、隣人の悪口を言わず、うぬぼれず、高慢でなく、父母を敬っていたかもしれません。

しかし真なる慈善に欠けていました。彼の美徳は自己放棄にまでは達していなかったのです。イエスはそのことを示したかったのです。「慈善なしには救われません」という原則をあてはめたのです。

 この言葉を厳密にとらえるのであれば、その意味は、地上の限りない悪の原因であり未来の幸せにとって有害である富の廃止と言うことになります。又拡大解釈するならば、富を得る手段としての労働の否定と言うことになります。

しかし、それはばかげた解釈であって、それでは人類を再び原始的な生活へ戻すことになってしまい、それゆえに神の法である進歩の法に矛盾するものとなってしまいます。

 富が多くの悪の原因となり、悪い感情をかき立てて、多くの罪を引き起こすのであれば、それは富を責めるのではなく、神から授かったすべての能力と同じように、それを濫用してしまう人類を責めなければならないのです。

人類にとって最も役立つものも、濫用すれば有害なものになってしまうのです。それは地上の世界が劣った状態にあるということの結果です。もし富が、悪しか生み出すことのできないものであったなら、神はそれを地上に与えることは無かったでしょう。

富が善を生むように仕向けるか否かは、人類の権限に属するのです。もしそれが道徳的進歩に関わる要素でなかったとしても、知性的な進歩に関わる強力な要素であることは間違いありません。
℘286   
 実際に、人類には地球上の物質的向上のために働くという役割があります。いつの日か地表が受け入れるべき人口の全てを迎えることができるように、地球上の障害物を除き、衛生的にし、準備することが人類の裁量に任されています。絶え間なく膨らむこの人口に食物を与えるには、生産性を上げる必要があります。

食料が不十分である国は、不足する食糧を国外に求める必要があります。だからこそ、異国民同士のつながりが必要になってくるのです。

それをより容易にするためには、人々を画する物理的な障害を取り除き、通信をより早くすることが必要なのです。こうした仕事は何世紀にもわたる事業ですが、人類は地球の奥底より物質を取り出さなければなりませんでした。それをより迅速に、安全に行える手段を科学に求めました。

しかしそれを実現させるためには資力が必要でした。人類が科学を生んだように、必要性が富を生み出したのです。この様に、物質的向上の為に働くことは、人類の知性を広げ、発展させますが、

最初は物質的な必要性を満足させるために集中させた知性は、後になって偉大なる道徳的真理の理解を助けることになります。富は実行するための最初の手段であり、それなしでは大きな役割も、活動も、刺激や調査も生まれません。

だから富は、進歩の原理以外の何ものでもないと考えられるのです。


  富の不平等
八、 富の不平等は、現世のみに限って考えれば、解決しようとするだけ無駄な問題の一つでしょう。最初に問われるのが次のような問題です。「どうして人類のすべてが同じように豊かではないのだろうか」。富が平等に分配されないのは、一つの単純な理由からです。

それは、人類のすべてが富を手に入れるために同等に知性的、活発、勤勉ではないからであり、また富を保つために同等に知性的、活発、勤勉ではないからであり、また富を保つために同等に節制できるのでもなければ先見の明があるわけでもないからです。

ただし富が平等に分配されれば、一人一人に必要最低限のものが行きわたるはずだというのは、あくまで数学的に言えることであって、平等に分配したとしても、それぞれの性格や能力の違いから、その均衡はあっという間に崩れてしまうのです。

たとえ均衡を保ち、長続きさせることが可能であったとして、一人一人が生きるために必要なものを所有していたとしたら、それは人類の厚生と進歩のためのあらゆる偉業を廃止することになってしまいます。

そして、分け前が一人一人の必要性を十分満たすものだと認識されてしまえば、もはや人類を発見や有益な事業に取り組むことに駆り立てる刺激は存在しなくなります。神が特定の場所に富を集中させるのは、必要性に応じて、十分な量の富がそこからひろがっていくようにするためなのです。

 このことを認めたところで、今度は、みなの善のために富を役立たせる能力のない人々に、なぜ神は富を与えるのかと言う疑問が出てきます。しかしそこにも神の善意と英知の証が存在するのです。

神は自由意思を与えることで、人類が自分自身の経験によって善と悪との区別をつけ、自分の意志と努力の結果として善を実践するようになることを望んだのです。人類は、善や悪に必然的に導かれるものではなく、そうだとすれば人類は動物と同じく無責任で受動的な道具だということになってしまいます。

富は人間を道徳的に試すものなのです。しかし、それは同時に進歩のための強力な活動手段であるため、神はその富が長い間非生産的であることを望まず、そのためにいつでもそこから取り去るのです。

誰もが富を得、それを費やすために行動し、富のどのような使い方を知っているかを立証しなければなりません。

しかし、すべての者が同時に富を所有することは数学的に不可能であるため、また、その上、もしすべての者が富を所有していたならば、惑星の向上を約束する労働に誰も就かなくなってしまうため、一人一人に富を得る順番があるのです。

このように、今日富を所有しない者は、別の人生においてすでに富を得たことがあるか、もしくはこれから得ることになるのです。その他の、今日所有する者たちは、もしかすると明日にはそれを所有していないかもしれません。富める者も貧しい者もいます。

なぜなら神は正義であり、一人一人が順番に働くように命じるからです。貧困は、それによって苦しむ者にとっては辛抱と忍従の試練なのです。他の者にとって、富は慈善と献身の試練なのです。
℘288  
 ある人に見られるような富の悪用や、野心が引き起こす卑しい感情を見て、「あのような者に富を与えて、神は正しいのだろうか」と嘆くことには一理あります。確かに、もし人類にたった一度の人生しかなかったとしたら、地上の富のこのような分配を正当化するものはなにも存在しません。

しかし、もし私たちが現世だけに目を向けるのではなく、その反対に、複数の人生全体を考慮するのであれば、すべてが正義によって釣り合っているのです。ですから、貧しい者が神意を非難する理由も、富める者を羨ましがる理由も、また富める者がその富によって自らを讃える理由もないことになります。

富が濫用されるとき、悪を防ぐのは法律や奢侈(シャシ)禁止令ではありません。法律は一時的に外見だけを変化させることができますが、心を変えることはできません。そのため、そうした法律はつかの間しか持続せず、いつもその後には手に負えぬ反動が訪れるのです。

悪の根源はエゴイズムと自尊心の中に存在します。いかなる種類の濫用も、人類が慈善の法によって支配された時、なくなることになるのです。 






   霊たちからの指導
   
真なる財産
九、 人間は、この世から持ち出せるように与えられたものだけを、本当の財産として所有しています。地球に到着した時に手に入れ、離れる時に置いていくものは、この世にいる間にだけ享受することができます。

ですから、全ての放棄を強いられるのであれば、その富は、実際に所有しているのではなく、単に使有権だけを得ているのだということになります。では、人間は何を所有しているのでしょうか。肉体を使うことによるものは、何も所有していないのです。

魂を使うことによるもの、すなわち、知性、知識、道徳的な性質は、全て所有しています。それらは人間が地球に来るときに持参し、また持ち帰るもので、誰にもそれを奪い取ることが出来ないものであり、この世においてよりも、別の世界において、より有用となるものなのです。

この世から旅立つ時に、到着した時よりも豊かになっているかどうかは、その人自身にかかっています、したがって、善においてその人が獲得したものが、その人の将来の位置をもたらすことになります。

誰でも遠い国へ旅立つときには、行く先の国で役に立つものを荷物としてまとめます。

そこで役に立たないと思われるもののことは気に掛けません。未来の人生に対しても同じように進んでください。そこであなたたちに役に立つものだけを蓄えておいてください。

 宿に到着した旅人に、代金が払えるのであれば、良い宿が与えられます。ケチな蓄えしかない者には、あまり快適でない宿が与えられます。自分のものとして何も持たない者は、粗末な寝台に寝なければなりません。霊の世界に辿りついた人間にも同じことが起こります。

どこへ行くかはその人の持ち物によります。しかし支払いは金でするのではありません。「地球ではどれだけ持っていたか」「どんな地位にあったのか」「あなたは王子でしたか、それとも労働者でしたか」などとは誰も尋ねません。「あなたは何をもってきましたか」。このように尋ねられるでしょう。

財産や、地位によってではなく、持ちあわせている美徳の合計によってあなたを評価するのです。この点に置いて、労働者の方が王子よりも豊かであることもあり得ます。

地球を離れる前にどれだけの重さの金を別の世界への入場料として払ったかを申し立てても無駄です。そうした人はこう返されるでしょう。

「この場所は買うことはできません。善の実践により獲得できるのです。地上のお金で、あなたは農場や家や城を買うことができました。ここでは、すべてを魂の質によって支払うのです。あなたはそうした質において豊かですか。そうであるならば、あらゆる幸福が待っている第一級の場所へ迎えられます。

そうした質に置いて乏しいのですか。それなら最低の場所へ行って下さい。ここではあなたたちの所有しているものに応じてあつかわれます」。(パスカル ジュネーヴ、1860年) 


十、地上の財は神に属し、神はその望みに応じて分配します。人間はその利用権を与えられているに過ぎず、知性によってほぼ完全な形でその管理を行うことができます。

しかし、それは人間の固有の財産ではないため、神はしばしばすべての予見を取り消すことがあり、富はそれを所有するに最もふさわしい地位にあると信じる者からも逃げて行くことになります。

 あなたたちは、相続される財産に関してこのようなことが起こるのは理解できるが、労働によって得られた財産についてはそうなることは理解しがたい、と恐らく言うでしょう。

疑いようもなく、正当な財産が存在するとすれば、それは正しく得られたこの後者の方であり、入手する時に誰にも損害を与えず、誠実に得られた場合にのみ財産が正当に得られたと考えることができます。

不当に得られたお金、つまり他人の損害のもとに得られたものに対しては、最後の一銭に対してもその精算が求められることになります。しかし、ある人の財産が、所有する人自身の努力によるものであったという事実は、その人が他界する時に何らかの利益をもたらすでしょうか。

財産を子孫に残そうとその人が苦心したところで、多くの場合それは無駄なことではないでしょうか。

もし神が、彼らの手にわたしたいとまったく望まないのであれば、何事もそれにあらがうことはできないのです。精算の必要なしに人間は、生きている間その所有物を利用し、濫用することが出来るでしょうか。いいえ、できません。その所有を許すことによって、恐らく神はその人生の間の努力、勇気、勤勉さに対して報おうとしたのです。

しかし、もしその人が自分自身の自尊心と欲求を満足させるためにそれを用いたとしたなら、そして、もしそうした所有物が破産の原因となるのであれば、それらのものは所有しないほうが良いのであり、一方で得たものを他方で失い、働きの功労を打ち消してしまうことになります。

地上を後にする時、神はその人に対して、もう報酬は受け取っているのだということになるのです。 (守護霊M ブリュッセル、1861年)


 富の使い方
十一、富と神の両方に仕えることはできません。心を黄金への愛に支配されてしまったあなたたちは、このことをよく覚えていてください。

 あなたたちは、財宝が、他の人々よりも優位に立たせ、あなたたちを束縛する欲求を満たしてくれるからと言って、あなたたちはそれを得るために魂を売ってしまいます。それではいけません。富と神の両方に仕えることはできません。

もしあなたの魂が肉体の欲に支配されていると感じるのであれば、あなたたちを締め付けるくびきを急いで取り去りなさい。なぜなら、正義である厳しい神はこう言うからです。

「不誠実なしもべよ、私があなたに託した財産をどうしましたか。善行の為のこの強力な動力をあなたは自己の満足のためにだけ用いました」と。

 では富の最良の利用とはどのようなことでしょうか。その答えを次の言葉の中に探し求めてください。

「お互いに愛し合いなさい」。この言葉の中には、富の正しい利用の秘訣が込められています。隣人愛によって行動する者が辿るべき道が、そこにはすべて示されています。神を最も喜ばせる富の利用は、慈善の中に存在します。

もちろん、有り余る黄金を周りにばらまくことによって行われる、冷たく利己的な慈善のことを私は言っているのではありません。不幸を探し出して、はずかしめることなくそれを立ち直らせる、愛に溢れた慈善のことを言っているのです。富める者よ、あなたの余しているものを与えて下さい。

そしてそれ以上のことをしてください。あなたにとって必要なもののうちの少しを与えて下さい。なぜなら、あなたが必要と思っているものも、現実には過分なものでしかないからです。しかし、知恵を用いて与えて下さい。

騙されるのではないかと心配して、不満を訴える者を拒否してはなりません。悪の根源を突き止めてください。まず苦しみを和らげてあげてください。その次に状況を知り、仕事、助言、愛情があなたの与えるお金よりも役に立つのではないかと考えてみて下さい。

あなたの周りに、物質的な救済と共に神への愛、労働への愛、隣人への愛を広めてください。尽きることなく、またあなたに大きな利益をもたらすことになる善行と言う基盤の上に、あなたの富を投じてください。知性的な富も、金銭的な富と同じように用いなければなりません。

教えの宝をあなたの周りに広めてください。あなたたちの兄弟にあなたたちの愛の宝をふりまけば、それらは実を結ぶことになるでしょう。(シェウ“ェルス ボルドー 1861年)


十二、人生の短さについて考える時、あなたたちにとって、絶えることのない心配は物質的な豊かさであり、道徳的完成には重きを置かず、その方が永遠に重要であるにもかかわらず、それに対してはほとんど時間を割かないか、もしくはまったく従事することがないのを見ると、私は心が痛みます。 

自分たちの行っている活動を前に、それらが人類の最も大切な利益を扱っているのだと言われるでしょうが、たいていそれらは、行き過ぎたあなたたちの必要性や虚栄心を満足させる状況に自分たちを置こうとしているか、不品行に身を任せているに過ぎません。

苦しみや悩み、不幸をどれほど一人一人が自分自身に強いていることでしょうか。多くの場合、十分すぎる財産をさらに増やそうと、眠れない夜を幾晩も過ごしているのです。

無知の積み重ねの中には働きがもたらす富と快楽に対する過度の執着によって苦しい仕事の奴隷と化してしまっていながらも、犠牲と功労の大きい人生を過ごしているのだ──自分のためにではなく、あたかも他人のために働いているかのように──とうぬぼれてしまっている人をたびたび目にします。

なんと気の狂っていることでしょうか。あなたたちの未来や、社会的な便宜を有する者すべてに課せられる兄弟愛の義務を無視しておきながら、エゴイズム、貪欲、自尊心によって生まれた手間と努力が認められるとあなたたちは本当に信じるのですか。

あなたたちは肉体のことしか考えていないのです。あなたの快適な生活、快楽だけがあなたたちの利己的な配慮の対象だったのです。いずれ死ぬ肉体によって、永遠に生きるあなたたちの霊を軽んじたのです。だからこそ、この活発で愛される主があなたたちの君主となったのです。

その主はあなたたちの霊に命令し、その奴隷としてしまうのです。神があなたたちに任せてくれた人生の目的とはこう言うことであったのでしょうか。(ある守護霊 クラクフ 1861年)


十三、人間は、神が手渡す富の管理者であり受託者であるがゆえに、自由意思によって決めたその富の使い方については厳しく精算が行われます。悪用は、個人的な満足なのためにばかり使用したことからなります。

反対に、あらゆる使い方において他人の役に立つ結果を生む場合には、善い使い方であると言えます。

一人一人の功績は、自分自身に強いる犠牲の割合によります。善行は富の使い方の一つでしかありません。富は今日の貧困を緩和します。飢えを和らげ、寒さから守り、避難所の無い者にはそれを与えます。しかし、貧困を未然に防ぐという義務も、与えることと同様に不可欠で価値があることです。

それが特に大きな富の使命であり、富が創り出すあらゆる種類の仕事を通じて、その使命は達成されます。このように富を使った者が創り出した仕事から正当な利益を得るからと言って、もたらされる善が消失してしまうわけではありません。

というのも、仕事は、人間の知性を発展させ威厳を高めるとともに、生きる手段として自分で稼いでいるのだということを、誇りをもって言うことを可能にしてくれるからです。

施し物を受け取ることは人間をはずかしめ、いやしくさせることになります。一人の手もとに集中した富は、それを負う者に快適さと豊かさを広める生きた水とならなければならないのです。おお、富めるあなたたちよ。主の視点に従って富を使って下さい。

あなたたちの心は、その有益な泉に癒される最初の者となるのです。この人生のうちに、心の中に空しさをもたらす利己的な物質的な快楽の代わりに、得も言えぬ魂の喜びを享受することが出来るでしょう。

あなたたちの名は地上で祝福され、地上を後にする時、至上の主は、タラントのたとえ話のようにあなたたちに言います。

「良き忠実なしもべよ、主人の喜びをともに分かち合うがよい」。このたとえ話の中で預けられたお金を地中に埋めた使いは、自分の手中で富を何の役にも立たせずに保管する貪欲な人々のことを表しています。

しかし、イエスが施しもののことをおもに言うのは、イエスが住んでいた当時のその国では、富が職業や産業が後に生んだ労働や一般的なために為に、有益に運用されることができる、ということがまだ知られていなかったからなのです。

よって、多かれ少なかれ、与えることができる者に対して私は言います。必要な時には施しものを与えなさい。しかし、可能な限り、それを受け取る者が恥じることがないように、それを報酬に変えてください。(フェヌロン アルジェ1860年)



  地上の財産への執着心を捨てること
十四、 友よ、あなたたちがすでに入った完成への道を、安心して前進するのを助けるために、私の施しものを持って参りました。私たちはお互いに恩を被っています。霊たちと生きる者たちとが誠実に同胞的に結びつくことによってのみ、更生は可能となるのです。

 地上の財産に対する愛着は、あなたたちの霊的、道徳的進歩の最も大きな妨げとなっています。そうした財産を所有することへの執着は、あなたたちの愛する能力を物質的なものに注ぐことで破壊してしまいます。誠実であってください。

財産は混ざり気のない幸せをもたらしてくれるでしょうか。あなたたちの金庫が一杯の時、いつも心の中には空洞が存在しませんか。この花の篭の底には何時も蛇が隠れていませんか。

あなたたちが感じる正当な満足感、すなわち敬われるべき勤勉な労働を通じて人間が体験するものについては理解することができます。

しかし、神が認めたこの極めて自然な満足感と、他の感情を吸収し、心の衝動を麻痺させてしまう執着心との間には大きな隔たりがあります。

又行き過ぎた道楽と卑しい貪欲さの間にも同様な隔たりがあり、神はこれら二つの悪癖の間に、貧しい者が卑屈になることなく受け取れるように、富める者が見せびらかすことなく与えることを教える、聖なる健全な美徳である慈善を位置付けたのです。
℘295   
 あなたの財産があなたの家族から受けたものであれ、あなたの労働によって得たものであれ、決して、忘れてはならないことが一つあります。全てが神より生じているということです。

あなたのささやかな肉体でさえ、地上であなたに属するものは何もありません。その他の物質的な財産と同様に、死はあなたたちからそれを奪います。あなたたちは所有者ではなく、受託者なのですから、錯覚してはなりません。

神はそれらをあなたたちに貸し与えたのであり、あなたたちはそれを返還しなければならないのです。神は少なくとも、余剰なものが必要なものを欠く人たちの手にわたることを条件に貸し与えるのです。

 あなたたちの友達が、ある金額を貸してくれるとします。あなたはどんなに正直でなかったにせよ、それをきちんと返そうとし、その人について感謝するでしょう。よいでしょうか。豊かな人は皆こうした条件が当てはまります。

神は、富を貸してくれた天にある友達であり、神は、富める者が自分の富についてきちんと認識し、神を愛する心を持つこと以外には、何も望んでいないのです。しかし、その代りにその人と同様に自分の子である貧しい者たちに与えることを、富める者たちに求めるのです。

 神があなたたちに信託した財産を手にすると、あなたたちのうちに熱く狂った欲が目覚めます。あなたたち自身がそうであるように、一時的で消滅する運命にある財産に節度無く執着するのを止め、いつの日か神より与えられたものに対して、主と精算を行わなければならないということを考えたことがありますか。

富によってあなたたちは、知性的な富の分配人と言われるように、地球上における慈善の神聖なる役割を身に付けたのだということを忘れたのですか。

ですから、あなたたちに信託されたものをあなたたちの利益のためだけに用いるのであれば、あなたたちは不忠実な受託者以外の何であると言えるでしょうか。あなたたちの義務を自ら忘れてしまうことがもたらす結果はどんなものでしょうか。

無情で容赦のない死は、あなたたちが身を隠すベールを引き裂き、忘れていた友とあなたたちが精算を行うことを強要することになり、そしてその時、その友はあなたたちの前で裁判官の服を身に付けることになるのです。

 地球上であなたたちは、しばしばエゴにしか過ぎないものを美徳の名によって彩り、自分たちを無駄にあざむこうとしています。貪欲やケチにしかすぎないものを経済性や用心と呼び、自分たちのための浪費にしか過ぎないものを寛大さだと呼びます。

例えばある家族の父親は、慈善を行わずにお金を節約し、貯めることを、子供たちが貧困に陥ることがないように出来る限り多くの財産を残すためだというでしょう。それは全く正当で父親らしいことであり、誰にも非難すべきことではないと認めます。

しかし、それが本当に彼の従う唯一の動機でしょうか。多くの場合、それは、地上の財産への個人的な執着を自分の目と世間の目の前で正当化するための、自分の良心との約束であるのではないでしょうか。

しかしながら、取りあえずは父性愛がその唯一の動機であると認めましょう。ではそのことは、神の前に兄弟たちのことを忘れる理由として十分なものでしょうか。すでに余剰がある時、その余剰が少し少なく与えられたからと言って、子供たちが貧困に陥ることになるでしょうか。

その前に、子供たちにエゴイズムを教え、その心を堅くさせてしまうことになりませんか。彼らの中の隣人愛を衰弱させてしまうことになりませんか。

父親たち、そして母親たちよ、その方法によってあなたたちが子供たちから最大の愛情を獲得できると信じているのであれば、あなたたちは大きく誤っています。他人に対して利己的であることを子供たちに教えることは、彼らに、あなたたち自身に対してもそうあれと教えていることになるのです。

 多く働き、その汗によって財産を蓄えた人が、金は稼ぐほどにその価値を知る、と言うのはごく一般的なことです。それほど正確な言葉もありません。

それならばお金の価値を知っているという人は、可能な範囲の中で慈善を行って下さい。そうすれば、豊かさの中に生まれ、労働から来る荒々しい疲労を感じない人々よりも大きな価値があることになります。

しかしまた、自分の苦労や努力を覚えているその人が、利己的で、貧しい者に対して慈悲心を持たないのであれば、他の人たちよりも責任は重いことになります。と言うのも、貧困に隠された痛みを自分で知っていればいるほど、他人を助けようと感じなければならないからです。
℘297  
 不幸にも、豊かな財産を所有する人々の心の中には、その財産への執着心と同じくらいに強い、ある感情が存在します。それは自尊心です。成り上がり者が自分の仕事と能力の話に酔いしれ、哀れな者が助けを求めると、助ける代わりに「私がやったようにやればよいのだ」というのを目にするのは珍しいことではありません。

彼らの見方からすれば、蓄えることのできた富の所有と神の善意とは全く関係ないことなのです。それを所有する功労は彼だけに属すると考えています。

自尊心が彼の目を覆い、耳をふさいでしまうのです。彼の大した知性と能力にも関わらず、神はたった一言によって彼を地面に倒すことが出来るのだということを理解できないのです。

 財産を浪費することが地上の財産への執着心を捨てたことを示すのではありません。それは不注意と無関心です。これらの財産の受託者である人間は、それらを乱費する権利も、自分の利益のために取り上げる権利も有していません。浪費は寛大さではありません。

それはしばしばエゴイズムの一種なのです。自由にすることの出来る金を、幻想を満足させるために派手に費やす者は、雑務に対しては一銭も支払わないことでしょう。

地上の財産への執着心を捨てるということは、その財産を正しい価値において評価し、自分のためばかりではなく、他人のためにそれを振る舞うことを知り、未来の人生における利益を犠牲にすることなく、例え神がそれを奪うことを決めたとしても、不平を言うことなくそれを失うことが出来るということです。

もし、予見できない不慮の出来事によって、あなたたちがヨブのようになった時には、彼のように、「主よ、あなたは私に与えられ、私から奪われました。あなたの意のままにされてください」と言うべきなのです。それが本当に執着心を捨てるということです。

何よりもまず従順であってください。あなたたちに与え、あなたたちから奪った神を信頼してください。神はあなたたちから奪ったものを再び戻してくれるでしょう。

あなたたちの力を麻痺させる落胆と絶望に勇ましく抵抗してください。神は一撃を響かせるとき、最も激しい試練の横にいつも慰安を与えるのだということを決して忘れてはなりません。

そしてとりわけ、地上の財産よりも無限に貴重な財産が存在するのだということを熟考してください。その考えは、地上の財産への執着心を捨てる上であなたたちを助けてくれます。あるものに対する評価を低くするほど、それを失った時の喪失感は少なくなります。

地上の財産にしがみつく人は、その時ばかりしか目に入らない子供のようです。それから解放されることのできる人は、救世主の次の預言を理解することによって、より大切な事が見える大人のようです。

「私の国はこの世のものではありません」。

 主は、誰もが、所有するものを捨てて、自ら物乞いになれとは命令しません。なぜなら、もしそのようにすれば社会の負担になってしまうからです。そのように行う者は、地上の財産に対する執着心を捨てるということを誤って理解していることになります。

それはまた別の類のエゴイズムであり、なぜなら財産を所有する者に重くかかる責任からその人は免れるということになるからです。

神は財産を、みなの利益のために管理するに適していると思われる者に与えます。ですから裕福な者には使命があり、それを美化し自分の為に役立たせることが出来るのです。神が信託する財産を拒否することは、分別を持ってそれを管理することによってもたらされる善の恩恵を放棄することです。

それを所有しない時には断念することを知り、それを所有する時には有益に利用することを知り、必要な時には犠牲を払うことを知ることによって、その人は主の意向に沿って進むことができます。

ですから、自分たちの手元にこの世で大きな富と呼ばれるものがもたらされた人は次のように唱えてください。「神よ、あなたは私に新しい役割を与えられました。その役割を果たすための力を、あなたの神聖なる意志に沿ってお与えください」。

 友よ、ここに私が教えたかった地上の財産への執着心を捨てることの意味が存在します。私が説いたことを要約して次のように申し上げます。
℘299  
「少ないもので満足することを覚えてください」。もしあなたが貧しいのであっても、財産は幸福には必要ないものなのですから富める者を羨ましがってはなりません。もしあなたが裕福であるならば、あなたたちが自由にできる財産とはあなたたちに預けられたものに過ぎず、弁護人のように、その用途について証明し弁明しなければならないことを忘れないでください。

あなたたちの自尊心と享楽を満足させる為だけにそれを使うことで、不誠実な受託者になってしまわないようにしてください。

受け取ったものをあなたたちの独占的な利益のために自由に扱うことのできる権利なのだとも、寄贈されたものだとも判断してはならず、それが単に貸与なのであると考えてください。

それを返還することができないのであれば、あなたはそれを求める権利も持っておらず、また、貧しい者に与える人は神から受けた負債を精算しているのだということを覚えておいてください。 (ラコルデ-ル コンスタンティーヌ、1863年)


 財産の相続
十五、人間が、生きている間にのみ享受することを神によって許された財産の単なる受託者に過ぎないという原理は、財産をその子孫に相続させる権利を人間から奪うことになりませんか。


 人間が死別する時、生きている間に享受出来た財産を、完全に相続させることはまったく問題のないことです。なぜなら、この権利の結果も常に神の意志に従うものであり、神が望めば、相続を受けた財産を子孫たちが享受することを妨げることも出来るからです。

確実に形成されたかに見える財産が崩壊するのは、まさにそのようなことが原因なのです。すなわち、人間の意志は、子孫に相続された財産の所有を守るところにまでは及ばないのです。

しかし、だからと言って、神から受けた借り入れを子孫に譲る権利を人は失うわけではありません。なぜなら、神は好機であると判断した時には、その財産を奪うことが出来るからです。(聖ルイ パリ、1860年)


FEB版注1
・・・この強いたとえの表現は多少強引であるようにも思えます。と言うのも、ラクダと針との間にどのような関係があるのか理解することが出来ないからです。実は、ヘブライ語のラクダという言葉は、綱(ロープ)と言う意味にも使われるのです。翻訳では、最初の意味で訳してしまっているわけですが、イエスは別の意味でこの言葉を用いたことが考えられます。少なくともその方が自然です。・・・

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