Sunday, March 30, 2025

シアトルの春  山をも動かす信仰   

Faith that moves mountains 
Le Spiritism  Allen Kardec

 

信仰の力

一、イエスが民衆に会いにやって来ると、一人の人が近寄り、ひざまずいて言った、「主よ、私の子に慈悲を。てんかんにかかってとても苦しんでおり、火の中や水の中に何度も倒れるのです。あなたの使徒たちのところへ連れて行きましたが、彼らには治すことはできませんでした」。

するとイエスは答えて言われた、「ああ、何という不信仰な、曲がった時代でしょう。いつまで、私はあなた方と一緒にいることが出来るのでしょうか。いつまであなたたちに我慢ができるのでしょうか。その子をここに、私のところに連れてきなさい」。

イエスが悪霊を脅すと、悪霊は子供から出て行き、その瞬間子供は健康になった。使徒たちはひそかにイエスの許へ行き、尋ねた、「どうして私たちは悪霊を追い払うことができなかったのですか」。イエスは答えて言われた、

「あなたたちの不信仰のせいです。誠に言います、からしの粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『あちらへ動け』と言えば動き、何も不可能なことはなくなります」。(マタイ 第十七章 14-20)
   

二、ある意味では、自分自身の力に対する信念が物質的なことの実現を可能とさせるのであって、自分自身を疑う者はそれを実現できないというのは真実です。しかし、ここでは道徳的な意味においてのみ、これらの言葉を解釈するべきです。

信仰が動かす山とは、困難、抵抗、やる気のなさ、要するに善いことに向かう時にさえも人間の間に現れるもののことです。

日常の偏見、物質的な関心、エゴイズム、狂信の盲目、誇り高き感情などは、どれもが人類の進歩のために働く者の道を遮る山の数々です。強固な信念は、忍耐力や、小さなものであれ大きなものであれ、障害に打ち勝つエネルギーを与えます。

不安定な気持ちは不確実さや、躊躇を生み、打ち勝たねばならない敵対者たちに利用されてしまいます。こうした不安定な気持ちは、打ち勝つ手段を求めることもありません。なぜなら、打ち勝つことが出来ることを信じないからです。


三、別の解釈によれば、信念とはあることを実現できると信じること、ある特定の目的を達成する確信と理解とされます。

それはある種の明晰さをもたらし、それによって思考の中で、そこまでたどり着くための手段や達成しなければならない目標を見ることを可能にさせるがため、それを持って歩む者は、言うならば全く安心して歩むことができるのだということができます。いずれの場合であれ、偉大な事柄の実現を可能にします。

 誠実で真実なる信念は常に平静です。知性と物事の理解に支えられ、望む目的に到達する確信があるために、待つことを知る忍耐をもたらします。ぐらついた信念はそれ自身の弱点を感じています。

関心がそれを刺激すると、怒りっぽくなり、暴力によって自分に足りない力を補おうとします。戦いにおける平静は常に力と自信の証です。反対に暴力は弱さと自分自身に対する不安を表しています。

℘333 
四、信念と自惚れを混同してはいけません。真なる信念は謙虚さを伴います。真の信念を持つ者は自分自身よりも神をより信頼しており、なぜなら自分自身は神意に従う単なる道具であり、神なしには何も存在し得ないことを知っているからです。

こうした理由から、善霊たちがその者を助けにやってきます。自惚れでは、自尊心が信仰を上まわっており、自尊心はそれを持つ者に課された失望や失敗によって遅かれ早かれ、罰せられることになります。


五、信仰(信念)の力は磁気的な動きによる直接的で特別な形でその姿を示します。宇宙的動因であるフルイドに対して人間はその仲介として作用し、その性質を変化させ、いわば抑えようのない衝撃を与えます。

そのようなことから、普通のフルイドのある大きな力に熱心な信仰が結びつき、善に向けた意志の力のみによって治療のような特別な現象を引き起こすことになります。

それらは昔は奇蹟として扱われましたが、自然の法則の結果に過ぎないのです。こうした理由により、イエスはその使徒たちに言ったのです。「治すことができなかったのは、信仰がなかったからです」。


  宗教的な信仰。揺るがぬ信仰の条件
六、宗教的な視点では、信仰とは、さまざまな宗教を組織させたある特別な教義を信じることから成り立っています。どの宗教にもその信仰の対象というものがあります。この点において、信仰は理性的でも盲目的でもあり得ます。

なにも検証することなく、真実と偽りを確かめたりせずに、盲目的な信仰はそれを受け入れ、一歩歩むたびに立証や理性と衝突します。それが過剰になると狂信を生みます。誤りの上に立っていると、遅かれ早かれ崩壊します。

真実に基づく信仰のみがその未来を保証することができます。なぜなら、人々の啓発に対する恐れがまったくないからであり、闇の中で真実たるものは光の中でも真実であり続けるからです。

どの宗教も排他的な真実の主となろうとします。ある信仰のある部分を誰かに盲目的に信じるように教えることは、その信仰が理に適って居ることを示すことが出来ないと告白するのと同じことです。


七、一般に信仰と言うものは他人に示しようがないと言われますが、そのために、信仰がないことには責任が無いという多くの人の言い訳を生んでいます。確かに信仰は他人に示しようがありませんし、増してや強要することは不可能です。

そうです、信仰は獲得するものなのであり、最も頑固な者でさえも、信仰を持つことが許されていない者はいないのです。私たちが述べているのは霊的な真理の基本的なことについてであり、ある特定の信仰に関してどうこう言っているのではありません。

信仰が人々を探し求めるのではないのです。信仰に出合うことができるように、人々が誠実に求めれば、それに出合えないことはないでしょう。

ゆえに、「信じること以上に善いものを私たちは望まないが、それができないのだ」と言う人々は、それを心の底からではなく口先だけで言っているのだということを確信し、そう言う言葉を聞いたら耳を塞いでください。しかし、そうした人の周りには証が雨のように降り注いでいます。ではなぜ、それに気づくことが出来ないのでしょうか。

一部の人たちはそれを無視しています。他の人たちは習慣を変えなければならなくなること恐れています。

大半の人たちには自尊心があり、自分たちより優れた存在を認めることを否定するのです。なぜなら、そうした存在の前に頭を下げなければならなくなるからです。ある人たちにとって信仰は、生まれつきのものであるかのように見えます。

火の粉ほどの信仰さえあれば、それを発展させることができます。霊的な真理を受け入れることに対するこうした容易さは、前世における進歩の明らかな証拠です。 

他の人たちにとってはその反対で、そうした真理が入り込みにくく、それは同様に遅れた性格を示す明らかな証拠です。前者の人々はすでに信じ、理解しました。再生した時には既に知ったことを直感的に持ち合わせて来ているのです。

彼らはすでに教育されています。後者の人々はすべてを学ばなければなりません。これから教育を受けなければなりません。しかしそれを行い、現世のうちに終了できなければ、次の人生においてそれを行うことになるのです。

 信仰のない者の抵抗は、多くの場合、その人自身よりも、物事のその人に対する示され方から来ているということに私たちは同意しなければなりません。信仰には基礎が必要であり、その基礎とは信じようとする者の知性です。そして、信じるためには見るだけでは足りません。

何よりも理解することが必要なのです。盲目的信仰は、もはや今世紀のものではなく(→FEB版注1)それゆえに盲目的な信仰を教える教義が今日、不信仰な人々を多く生み出しているのです。なぜなら、そうした教義は強要によって、人類の最も大切な特権である理性と自由意志の放棄を命ずるからです。

不信仰な人々は主にこうした信仰に対して反抗するのであり、これに関して言えば、まったく信仰とは説明し得ぬものだということができるでしょう。そうした教義は証拠を認めないために、心の中に何か曖昧なものを残し、そこから疑いが生まれます。

理性的な信仰は、理論と事実に支えられ、いかなる曖昧さも残すことはありません。つまり人間は、確かだと思うから信じるのであり、誰も理解することなしに確かさを感じることはできません。理解できないために屈服しないのです。

揺るがぬ信仰とは唯一、人類のいつの時代に置いても理性に対して真正面から向き合うことのできる信仰のことです。

 スピリティズムはこうした結果を導くことで、意図的、もしくは制度的な反対が無い限り、いつも不信仰な者に対して勝利を収めるのです。


  枯れたイチジクの木の話   
八、ベタニアから出かけてきた時、イエスは空腹を覚えられた。そして、遠くにイチジクの木をごらんになって、なにかありはしないかと近寄られたが、イチジクの季節ではなかったために葉しかなかった。するとイエスは、イチジクの木に向かって言われた、

「これから先、誰もおまえから果実を食べることはないだろう」。使徒たちはそれを聞いていた。

次の日、イチジクの木の近くを通ると、根まで枯れているのを見た。そこでイエスが言ったことを思いだすと、ペトロは言った、「先生、あなたが呪われたイチジクの木がどうなったか見て下さい」。

イエスはその言葉を聞くと答えて言われた、「神を信じなさい。誠に言いますが、言葉にしたことはすべて起きると強く信じ、そこをどき、海へ落ちよと、この山に心からためらうことなしにいう者は、実際にそれが起きるのを目にすることになるでしょう」。(マルコ 第十一章 12-14,20-23)


九、枯れたイチジクの木とは、見た目には善に関心があるように見えながらも、実際には善いものをうまない人たちの象徴です。堅実さよりも華々しさを持った説教者のように、その言葉の表面は虚飾に覆われており、それを聞く耳を喜ばすことはできても、詳細について吟味してみると、心にとって本質的な意味を何も持たないことが分かります。

そして私たちは、聞いた言葉の中から何を役立てることが出来るのだろうかと問い直すことになるのです。

 同時に、有益な存在となる手段を持ちながら、そうなっていない人々のことも象徴しています。堅実な基礎を持たないあらゆる空想、無益な主義、教義がそれにあてはまります。殆どの場合そこには真なる信仰である、生産性のある信仰、心の隅々をも動かす信仰が不足しています。

その信仰とは一言でいうなら、山をも動かす信仰のことです。そうした信仰の欠けた人々は、葉に覆われながらも果実に乏しい木のようです、だからイエスはそうした木を不毛であると言いわたしたのであり、いつかそれらは根まで乾いてしまうものなのです。

つまり人類にとって何の善ももたらすことの無いいかなる主義も、いかなる教義も、没落し、消滅するということを指しています。自分のもつ手段を働かせないことにより無益と判断された人はみな、枯れたイチジクの木と同じように扱われるでしょう。

℘337 
十、霊媒とは霊の通訳者です。霊たちにはその指導を伝えるための物質的な器官はありませんが、霊媒がそれを補うのです。このように、こうした目的のために使われる能力を持った霊媒が存在します。

社会が変革しようとしている今日、彼らには非常に特別な使命があります。それは同胞たちに霊的な糧を供給する木となることです。糧が十分であるように、その数は増えていきます。

あらゆる場所、あらゆる国、あらゆる社会階級の中に、裕福な者の間にも貧しい者の間にも、偉大なる者の間にも小さな者たちの間にも現れ、そのためどの場所にも不足することが無く、人類の全ての者が招かれていることが示されるのです。

しかし、もし彼らが、託されたその貴重な能力を神意による目的からはずれたことに用い、不毛なことや、有害なことに使用するのであれば、あるいは、世俗的な利益に仕えるために用いたり、熟した実の代わりに悪い実を結ばせ、それを他人の益のために用いることを拒んだり、自分たちを向上させようとそこから自分たちの為に何かの利益も得ることもないのであれば、彼らは枯れたイチジクの木であるのです。

神は彼らの中で不毛となった力を奪います。そして実を結ばせることを知らない種が、悪い霊たちの間に捕まってしまうのを許すのです。





   霊たちからの指導

   信仰──希望と慈善の母 
十一、 有益になるためには、信仰は活動的にならなければなりません。それを無感覚にしてしまってはいけません。神へ導くあらゆる美徳の母は、それが生み出した子供たちの成長を注意深く見守らなければなりません。

 希望と慈善は信仰から派生しますが、信仰と共に分離不可能な三位となります。主の約束の実現の希望を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たずに、何を期待することができるでしょうか。愛を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たぬのであれば、あなたの価値やその愛は何でありましょうか。

 神性の発露である信仰は、人間を善へ導くあらゆる高尚な本能を目覚めさせます。信仰は更生の基礎です。必要なのは、この基礎が強い持続性を持つことです。というのも、もし、ほんの小さな疑いによってその基礎が動揺してしまうとしたら、その上に築いたものはどうなると考えますか。

だから、ゆるぎない基礎の上にその建物を築いてください。あなたたちの信仰は不信仰な者たちの詭弁や冷やかしよりも強くなければなりません。もっとも人間の嘲笑に対抗できない信仰は、本当の信仰とは言えません。

 誠実な信仰は人の心を捕え、影響力を持っています。信仰を持たなかった者や、信仰を持ちたくないと考える者の心に訴えます。それは魂に響く、説得力のある言葉を持ち、一方で見せかけだけの信仰は、聞く者を無関心にし、冷たくしてしまうように響く言葉を使います。

あなたの模範によって信仰を説き、人々に信仰を吹き込んでください。あなたたちの事業の模範によってそれを説き、信仰の真価を示してください。あなたの不動の希望によってそれを説き、人生のあらゆる苦しみに立ち向かうことができるように人間を強くしてくれる確信を示してください。

 だから美しく善い、純粋で合理性を持った内容に信仰を抱いてください。盲目から生まれた目の見えない娘である、証明のない信仰を認めてはなりません。

神を愛してください。しかし、なぜ愛するのかを知って愛してください。その約束を信じてください。しかし、なぜそれを信じるのか知って信じてください。私たちの忠告に従って下さい。

しかし、私たちが指摘する事柄やそれを成し遂げるための手段について納得した上で従って下さい。信じ、無気力になることなく待ってください。奇蹟は信仰のなす業です。 (守護霊ヨセフ ボルドー、1862年)   


  人間的な信念と神への信仰
十二、人間の信念は、未来の運命に対して生来持っている感覚です。自分自身の内に無限の能力を秘めているのだという認識であり、最初それは潜在的に存在しますが、意志の働きによってそれを発芽させ、育てることが必要です。

 今日まで、信心とはその宗教的側面しか理解されませんでしたが、それは、キリストが信仰を強力な梃子として示したため、イエスは宗教の指導者としてしか考えられていなかったからです。

しかしながら、物質的な奇蹟を引き起こしたキリストは、こうした奇蹟によって、人間に信念があれば、つまり、何かを望み、その望みが必ず満足されるという確信があれば、何ができるのかを示したのです。使徒たちも、イエスの模範に従って、奇蹟を引き起こしたではありませんか。

ただ、こうした奇蹟は、人類が当時その原因をいまだに解明していなかった自然現象に過ぎません。今日、その大部分はスピリティズムと磁気の研究により解明され、全く理解可能なものとなったではありませんか。

人がその能力を地上の必要性を満たすために用いるか、天や未来に対する熱望に用いるかによって、人間的な信念にも神への信仰にもなります。

天における自分の未来を信じる善なる人は、その存在を美しく高尚な行動によって満たしたいと望み、その信念の中から自分を待ち受ける幸福の確信や必要な力を汲みあげ、そこで慈善、献身、自己放棄の奇蹟を引き起こします。

つまり、信念(信仰)によって、打ち勝つことのできない悪は存在しないのです。

 磁気は、行動に移された信念の力の最大の証のうちの一つです。治療などに見られるような珍しい現象は、過去において奇蹟と呼ばれていましたが、それらは信念によって引き起こされるのです。

 繰り返します。人間的な信念と神への信仰があります。もし生きる人々が、自分がもち合わせる力をよく理解し、自分の意志をその力を用いるために使おうと望めば、今日に至るまで奇蹟と考えられていたような事柄を実現することができるでしょう。そしてそれを実現することは、人間のもつ能力の発展に過ぎないのです。(ある守護霊 パリ、1863年)


●FEB版注1
アラン・カルデックはこの言葉を十九世紀に記しました。今日、人類の霊は更に多くを求めます。盲目的な信仰は放棄されました。そうした信仰を強要する教会には不信仰が君臨しています。人類の多くは理想もなく、現世以外の人生への希望も持たずに、暴力によって世界を変えようとしています。

経済的な戦いは風変わりな原因と結果の教義を生み出しました。経済的優勢を激しく切望した二度の世界大戦が地球を痛めつけました。人類のあらゆる希望はキリスト教の復興、キリストの教義の原則が示す、人生の永遠性や、思考、言葉、行動の責任が無限であることを教えるスピリティズムにかかっています。

第三の啓示が無かったら、世界は大いに誤った暴力的、唯物的イデオロギーによって手の施しようもないほど失われていたことでしょう。ーFEB1948


●和訳注 「信念」と「信仰」について
原文では、FOI(フランス語)、FE(ポルトガル語)、FAITH(英語)という一つの言葉によって、日本語で言う「信念」と「信仰」の二つの意味を表現しています。日本語の「信仰」には「神や仏を信じ、崇め尊ぶこと」とあるため、宗教的な意味においてしか用いられることはありません。

本文では必ずしも「神仏」に対する信仰を必要とせずに、人間はその意志によって多くを実現することが出来ることを説明しているため、翻訳に当たっては「信仰」と「信念」とを使い分ける必要がありましたことをお断りしておきます。

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