Wednesday, August 30, 2023

シアトルの晩夏 従順にして謙虚な者ほど成長する。

The more obedient and humble one grows.

2023年最新】モーゼスの 霊訓の人気アイテム - メルカリ

 

〔ある本でインドが民族と宗教の揺籃の地であるとの説を読んだことがあり、われわれの交霊会でもその問題に触れた霊言を聞いたことがあった。その点を質すと(1)――〕


その通りである。今の貴殿の信仰の底流となっている宗教的概念の多くはインドにその源流を発している。インドに発し、太古の多くの民族によって受け継がれてきた。その原初において各民族が受けた啓示は単純素朴なものであったが、それにインドに由来する神話が付加されていったのである。救世主出現の伝説は太古よりある。いずれの民族も自分たちだけの救世主を想像した。キリスト教の救世主説も元を辿ればインドの初期の宗教の歴史の中にその原型を見出すことが出来る。インドの伝承文学の研究がこれまで貴殿が勉強してきた言語学的側面と大いに関わりがあるように、その遠く幽(かす)かな過去のインドの歴史の宗教的側面の研究は今の貴殿にとって必要欠くべからざるものである。関心を向けよ。援助する霊を用意してある。

インド、ペルシャ、エジプト、ギリシャ、ローマ、ユダヤ――これらの民族とその知的発達に応じた神の概念の啓示の流れについて今こそ学ぶべきである。ジャイミニー(2)とヴェーダ・ヴャーサ(3)がソクラテスとプラトンの先輩であったことを知らねばならない。そのことに関してはその時代に地上生活を送り、その事実に詳しい者がいずれ教えることになろう。が、その前に地上に残る資料を自らの手で蒐集する努力をせねばならない。指導はそれが終了した後のことである。

さらに、その資料の中に人間がいつの時代にも自分を救ってくれる者の存在の必要性を痛感して来たこと、そしてまた、そうした救世主にまつわる伝説が太古より繰り返されて来ている事実を見出さねばならない。数多くの伝説を生んだ神話の一つが、純潔の処女デーヴァキー(4)の奇跡の子クリシュナ(5)の物語であることも判るのであろうし、そうした事実がこれまでキリスト教の中で闇に包まれていた部分に光を当てることにもなろう。もっともわれらはこの事実を重大なるものとして早くから指摘して来た。貴殿の異常な精神状態がその分野に関する全くの無知と相俟って、われらをして手控えさせたのである。

このほかにもまだまだ取り除かねばならぬ夾雑物は多い。これを取り除かぬかぎり安心して正しい思想体系の構築は望めぬ。大まかな荒筋においてさえ貴殿にはまだ奇異に思えることが多い。まずそれに馴染んだ後でなければ細部へ入ることは出来ぬ。たとえば古代の四大王国、すなわちエジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマの哲学と宗教はその大半がインドから摂り入れたものである。インドの大革命家であり説教者であったManou(6)がエジプトではManesとなり、ギリシャではMinosとなり、ヘブライ伝説ではMosesとなった。いずれも固有名詞ではなく“人間”Manを意味する普通名詞であった。偉大なる真理の開拓者はその顕著な徳ゆえに民衆からThe Manと呼ばれた(7)。民衆にとっては人間的威力と威厳と知識の最高の具現者だったわけである。

インドのManou(マヌ)はキリストの誕生より三千年も前の博学な学識者であり、卓越せる哲学者であった。いや実は、そのマヌでさえそれよりさらに何千年も昔の、神と創造と人間の運命について説かれたバラモンの教説の改革者に過ぎなかった。

ペルシャのゾロアスター(8)の説ける真理も全てマヌから学んだものであった。神に関する崇高なる概念は元を辿ればマヌに帰する。法律、神学、哲学、科学等の分野において古代民族が受けたインドの影響は、貴殿らが使用する用語がすべてマヌ自身が使用した用語と語源が同一である事実と同様に間違いない事実であるとの得心がいくであろう。近代に至ってからの混ぜ物がその本来の姿を歪めてしまったために、貴殿には類似点を見出し得ぬかも知れないが、博学なる言語学者ならばその同一性を認めることであろう。一見したところ世界の宗教はバラモンの伝承的学識の中に類似性を見出せぬかに思われるが、実はマヌが体系づけ、マーニーManesがエジプトに摂り入れ、モーセMosesがヘブライの民に説いた原初的教説から頻繁に摂取しているのである。

哲学及び神学のあらゆる体系の中にヒンズー(インド)的思想が行き渡っている。たとえば、古代インドの寺院において絶対神への彼らなりの純粋な崇拝に生涯を捧げたデーヴァダーシー(9)と呼ばれる処女たちの観念は、古代エジプトではオシリス(10)の神殿に捧げられる処女の形を取り、古代ギリシャではデルポイ(11)の神殿における巫子(みこ)となり、古代ローマではケレース(12)神の女司祭となり、後にあのウェスターリス(13)となって引き継がれていった。

が、これはわれらが貴殿に教えたいことの一例に過ぎない。ともかく注意をその方向へ向けて貰いたい。われらは極めて大まかな概略を述べたに過ぎない。細かき点はこれより後に埋め合わせるとしよう。貴殿にはまだ概略以上のことは無理である。


――確かに私は知らないことばかりです。それにしてもあなたは人間がまるで霊の道具に過ぎないような言い方をされます。出来のいい道具、お粗末な道具、分かりのいい道具、分かりの悪い道具。


これまでもしばしば述べて来た如く、知識はすべて霊界よりもたらされる。実質はわれらの側にあり、人間はその影に過ぎない。地上にても教えやすい者ほど学ぶことが多いのと同じく、われらの交わりにおいても素直な者ほど多くを学ぶことになる。貴殿に学ぶ心さえあれば幾らでも教える用意がある。


――人間には取り柄(え)はないということですか。


従順さと謙虚さの取り柄がある。従順にして謙虚な者ほど成長する。


――もし霊側が間違ったことを教えた場合はどうなります。


すべての真理に大なり小なりの誤りは免れない。が、その滓(かす)はいずれ取り除かれるものである。


――霊によって言うことが悉く違う場合があります。どちらが正しいのでしょう。真実とは一体何なのでしょう。


言うことが違っているわけではない。各霊が自分なりの説き方をしているまでである。故に細部においては異なるところはあっても、全体としては同じことを言っている。貴殿もそのうち悪と呼んでいるものが、実は善の裏側に過ぎぬことが判るようになるであろう。地上においては混じり気のない善というものは絶対に有り得ない。それは空しき夢想というものである。人間にとっては真理はあくまで相対的なものであり、死後にも長期間に亙って相対的であることは免れない。歩めるようになるまではハイハイで我慢しなければならない。走れるようになるまでは歩くだけで我慢しなければならない。高く跳べるようになるまでは走るだけで我慢しなければならならない。

(プルーデンス)



Tuesday, August 29, 2023

シアトルの晩夏 霊とは何か

what is a spirit 

シルバー・バーチの霊訓 新装版 10の通販/パム・リーバ/近藤 千雄 - 紙の本:honto本の通販ストア

 霊とは何かを言語によって完璧に描写することは絶対に不可能です。

無限だからです。言語はすべて有限です。私はこれからそれを何とか説明してみようと思いますが、いかにうまく表現してみたところで、霊力のほんのお粗末でぎこちない描写でしかないことをご承知下さい。

 宇宙の大霊すなわち神が腹を立てたり残酷な仕打ちをしたりわがままを言ったりするような人間的存在でないことは、すでにご承知でしょう。何度も言ってきたように、神とは法則であり、その背後に働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。

それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。その中に極小と極大の区別もありません。

 こうした大まかな表現によって私たちは自分本来の姿、つまりミクロの神でありミニチュアの宇宙である自我について、どうにかその片鱗をつかむことができます。全体を理解するには余りに大きすぎます。あなた方がこうして地上に生を享けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終わることのない道程です。

何故なら神性は無限に顕現するものだからです。神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している霊は偉大であることになります。

 では、いかにすればこの驚異的な潜在的神性を意識的に発現させることができるのでしょうか。

 それに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようというものです。

要するに物的混沌から脱け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、私はどれといって特定の方法を説くことには賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見出していくべきものだからです。

 自我を一時的に潜在意識にコントロールさせ、それをきっかけにして内部の生命力とのつながりをより緊密に、そしてより強くさせることを目的とした内観法が幾つかあります。それが次第に深まれば霊界からのインスピレーションを受けることも多くなります。

まず心霊的(サイキック)な面が開発されます。続いて霊的(スピリチュアル)な面が開発され(※)宇宙の内奥に存在する生命力がふんだんに流れ込むようになります。

(※サイキックとスピリチュアルの違いはこうした自我の開発のほかに心霊能力にも心霊治療にもあります。心霊治療については第七章でシルバーバーチが詳しく説明しています。心霊能力について言えば、たとえば単なる透視力は動物の超能力と同じで五感の延長にすぎません。これがサイキックです。

つまり目の前に存在するもの──地上にせよ霊界にせよ──しか見えません。これに背後霊の働きが加わり、その場に存在しないもの、あるいは高次元の世界のものを映像またはシンボルの形で見せられるようになれば、それがスピリチュアルです。── 訳者)

 ある種のテクニックを身につければ病気を自分で治し、体内の不純物を排出し、欠陥を矯正することができるようになります。自我の全ての側面──霊と精神と身体の調和を成就することができます。

かくして霊性が本来の優位を確保していくに従って、霊的叡知、霊的理解、霊的平穏、霊的自信、霊的静寂が増し、不滅の霊力との真の繋がりを自覚するようになります。

 人間は霊的存在である以上、宇宙の大霊すなわち神の属性を潜在的に所有しております。あなた方一人ひとりが神であり、神はあなた方一人ひとりなのです。一人ひとりが神の無限の霊力の一翼を担っているのです。地上への誕生はその大霊の一部が物質と結合する現象です。その一部に大霊の神性の全てが潜在的に含まれております。いわば無限の花を開かせる可能性を秘めた種子と言えましょう。

 その可能性の一部が霊界からの働きかけによって本人も気づかぬうちに発揮されるということがあります。むろん無意識よりは意識的の方が望ましいに決まっています。ですが無意識であっても、全然発揮されないよりはましです。人間が同胞に向けて愛の手を差し伸べんとする時、その意念は自動的に霊界の援助の力を呼び寄せます。

その、人のために役立とうとする願望は魂をじっとしていられなくします。そして、やがて機が熟して魂が霊性に目覚める時が来ます。その時からは自己の存在の意義を成就する目標へ向けて意識的に邁進するようになります。

 先にサイキックという用語を用いましたが、これは物質と霊との中間的段階をさします。悟りを求め、あるいは霊能を開発せんとして精神統一の訓練を開始すると、まず最初に出てくるのが心霊的(サイキック)な超能力です。これはその奥の霊的(スピリチュアル)な能力に先がけ出て来ます。

超能力の開発は霊性の発達を阻害すると説く人がいます。そう説く人は心霊的な段階を経ずに一気に、独力で、神との合一を求めるべきであると主張するのですが、私はこれは間違っていると思います。それもあえて出来ないとは申しませんが、大変な修行のいることであり、しかも往々にして危険を伴います。

 霊格が向上するほど生命活動が協調によって営まれていることを悟るものです。自分一個で生きているものは何一つありません。お互いが力を出し合って生きております。一人ひとりが無限の連鎖関係の中の一つの単位なのです。

そんな中でなぜ初心者が熟練者の手助けを拒絶するのでしょう。私たちがこうして地上に戻ってあなた方を手助けし、手助けされたあなた方が同胞の手助けをする。そこにお互いの存在の理由があるわけです。

一人だけ隔離された生活をするようにはなっていないのです。みんなと協力し合って生きていくように出来ているのです。この見解を世界中に広めなければなりません。

すなわち世界の人間の全てが霊的に繋がっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きん出ることは許されないのです。

 登るのも下るのもみんな一緒です。人類だけではありません。動物も一緒です。なぜなら生命は一つであり、無限の宇宙機構のすみずみに至るまで、持ちつ持たれつの関係が行きわたっております。独善的考えから他の全ての方法を蔑視して独自の悟りの境地を開くことも不可能ではありません。

が、私はそうした独善的な生き方には反対です。私の理解した限りにおいて、宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能です。他人の援助を頼まずに独力で事を成就しようとする気構えは、それ自体は必ずしも利己的とは言えません。

私はただ、その方法はお勧めしないと言っているのです。自分を他人に役立てること── これが霊的存在の真の価値だと私は信じます。私はその心掛けで生きて参りました。それが宇宙の大霊の意志だと信じるからです。そうではないと思われる方は、どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい。

 人類の手本と仰がれている人々は、病に苦しむ人には霊的治癒を、悲しみの人には慰めの言葉を、人生に疲れた人には生きる勇気を与えて、多くの魂を鼓舞してきました。要するに己を犠牲にして人のために尽くしたのです。それが神の御心なのです。

悲しみの涙を拭ってあげる。病を治してあげる。挫折した人を勇気づけてあげる。苦境にある人に援助の手を差しのべてあげる。

たったそれが一人であっても立派に神の意志を行為で示したことになります。そんなことをする必要はないと説く教えは絶対に間違っております。救いの手を差し伸べることは決して間違っておりません。それを拒絶する方が間違っております。

 もちろんそこに動機の問題もあります。見栄から行う善行もありましょう。が、それも何もしないよりはましです。邪な考えに発した偽善的行為、これはいけません。魂にとって何の益もありません。摂理をごまかすことはできないのです。完璧なのです。

イエスが〝慈悲の心は耐え忍ぶもの〟(※)と語ったのは神の意志の偉大さを説かんとしたのです。善行はそれ自体の中に報酬が宿されております。

(※コリント前書13・4-この言葉は聖書では〝愛は寛容である〟と訳されております。イエスの言葉はこの後さらに次のように続きます。

〝愛は慈悲に富む、愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼をせず、己れの利益を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ〟。──訳者)

 霊力の道具として働く霊能者は多くの魂へなんらかの影響を及ぼしています。そこが霊的現象の大切な点です。悲しみの人に慰めを与え、病の人に治癒を与え、主観・客観の両面にわたって霊力の証を提供することも確かに大切ですし、これを否定できる人はおりません。が、真の目的は現象的なものを超えたところにあります。魂に感動を与え実在に目覚めさせることです。

地上は未だに〝眠れる魂〟で一杯です。生命の実相をまるで知らず、これから目覚めていかねばなりません。

 霊的現象の目的はそうした個々の魂に自我への覚醒をもたらし、物的感覚を超えて自分が本来霊的存在であることを自覚させることです。いったん霊性を悟れば、その時から神からの遺産として宿されている神性の種子が芽を出して生長を開始します。その時こそ全大宇宙を経綸する無限の創造力のささやかな一翼を担うことになります。

 こうして霊力の道具として役立つだけの資格を身につけるまでには、それなりのトレーニングが要ります。それは大変なことです。何となれば、その結果としてある種の鍛錬、ある種の確信を身につけなければならず、それは苦難の体験以外には方法がないからです。霊力の道具として歩む道は厳しいものです。

決して楽ではありません。容易に得られた霊能では仕事に耐えきれないでしょう。魂の最奥・最高の可能性まで動員させられる深刻な体験に耐えるだけの霊性を試されて初めて許されることです。そうして身に付けたものこそ本物であり、それこそ霊の武器と言えます。

 その試練に耐え切れないようでは自分以外の魂を導く資格は有りません。自ら学ぶまでは教える立場に立つことは出来ません。それは苦難の最中、苦悩の最中、他に頼る者とてない絶体絶命の窮地において身につけなければなりません。最高のものを得る為には最低まで降りてみなければなりません。

こうした霊的覚醒、言えかえれば飢えと渇きに喘ぐ魂に霊的真理をもたらすことは実に大切なことです。それが地上での存在の理由の全てなのです。なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせず地上を素通りしております。

 ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えも出来ていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方が遥かに学びやすく、その方が自然なのです。

悲しみの人を慰め、迷える人を導き、悩める人を救うためには、自らが地上において苦難の極み、悲哀のドン底を体験しなければなりません。自分自身の体験によって魂が感動した者でなければ人に法を説く資格は有りません。

 教える立場に立つ者は自らが学ぶ者として然るべき体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。艱難辛苦── 辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばなければなりません。それが真に人のために役立つ者となるための鉄則です。

そうでなければ有難いのだが、と私も思うことがあります。しかし側(はた)の者には分からないあなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。なぜならその艱難辛苦こそ全ての疑念と誘惑を蹴散らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。

 これも神の摂理として定められた一つのパターンです。霊的成就への道は楽には定められておりません。もし楽に出来ておれば、それは成就とは言えません。楽に得られるものであれば、得るだけの価値はありません。人のために役立つためにはそれなりの準備が要ります。

その準備を整えるためには魂の琴線に触れる体験を積み、霊性を開発し、心霊的能力を可能な限り霊的レベルまで引き上げなければいけません。心霊的能力を具えた人は大勢います。が、それを霊的レベルまで高めた人は多くは居ません。

私たちがかかわるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)の持つ能力、つまり肉体の五感の延長でしかないものには、たとえ地上の学者がどんなに面白い実験(※)をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味があります。

(※ここではESPつまり超感覚的能力の実験を指していますが、シルバーバーチの説を総合すれば、ヨガや密教における超人的な術、未開人におけるまじない的な術、雨を降らせる術なども同類に入ります。──訳者)

 地上には、自分を変えようとせずに世の中を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革は先ず自分から始めなくてはなりません。自分が霊的資質を開発し、発揮し、それを何かに役立てることが出来なければ、他の人を改める資格はありません。

地上人類の霊的新生という大変な事業に携っていることは事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮しなければなりません。

 宗教的呼称や政治的主義主張はどうでもよろしい。私はその重要性を認めません。もし何かの役に立てば、それはそれで結構です。が、本当に大切なのは神の子として授かった掛けがえのない霊的遺産を存分に発揮することです。

その光輝、その気高さ、その威厳の中に生きることです。いかなる名称の思想、いかなる名称の教会、いかなる名称の宗教よりも偉大です。

神の遺産は尽きることがありません。地上に誕生してくる者の全てが、当然の遺産としてその一部を無償で分け与えられております。

 人生の重荷を抱えた人があなた方のもとを訪れた時、大切なのはその人の魂に訴えることをしてあげることです。他界した肉親縁者からのメッセージを伝えてあげるのも良いことには違いありません。メッセージを送る側も送られる側も共に喜ぶことでしょう。しかし喜ばせるだけで終わってはいけません。

その喜びの体験を通して魂が感動し、宇宙の絶対的な規範であるところの霊的実在に目覚めなければなりません。慰めのメッセージを伝えてあげるのも大事です。病気を治してあげるのも大事です。私がこうしておしゃべりすることよりも大事です。

ですが、霊界において目論まれている目的、こうして私どもが地上へ舞い戻って来る本当の目的は、地上の人間の霊的覚醒を促進させることです。

 その仕事にあなた方も携わっておられるわけです。困難に負けてはいけません。神の道具として託された絶大なる信頼を裏切らない限り、決して挫折することはありません。嵐が吹きまくることもあるでしょう。雨も降りしきることでしょう。

しかし、それによって傷めつけられることはありません。嵐が去り太陽が再び輝くまで隔離され保護されることでしょう。

煩わしい日常生活の中に浸り切っているあなた方には、自分が携わっている恵み深い仕事の背後に控える霊力がいかに強力で偉大であるかを理解することは難しいでしょう。

ですから、あなた方としてはひたすらに人の役に立つことを心掛けるほかないのです。あなた方を通して働いている力はこの宇宙、想像を絶する広大な全大宇宙を創造した力の一部なのです。

 それは全ての惑星、全ての恒星を創造した力と同じものなのです。雄大なる大海の干満を司るエネルギーと同じものなのです。

無数の花々に千変万化の色合いと香りを与えたエネルギーと同じものなのです。

小鳥、動物、魚類に色とりどりの色彩を施したのも同じエネルギーです。

土くれから出来た人間の身体に息吹きを与え生かしめている力と同じものです。それと同じエネルギーがあなた方を操っているのです。

目的は必ず成就します。

 真摯な奉仕的精神をもって然るべき条件さえ整えば、その霊力は受け入れる用意の出来た人へいつでも送り届けられます。

怖じけてはいけません。

あなた方は神の御光の中に浸っているのです。それはあなた自身のものなのです。

Monday, August 28, 2023

シアトルの夏 人間的想像と誤謬に埋もれた素朴な真理を明らかにするのが霊団の使命

 The mission of the Spirit Group is to reveal the simple truth buried in human imagination and error.



ウィリアム・ステイントン・モーゼス - Wikipedia
  • The Spirit Teachings
  • ステイントン・モーゼス(著)
  • 近藤千雄(訳)

一八七三年十一月二日。私が提出した質問が無視され、バイブルに記録が見られる時代のキリスト教系全体の神の啓示の発達のあとを本格的に解説して来た。これが、並行して進行している多くの啓示のうちの一つであることは以前から予告されていた。〕



これよりわれらは古き時代においてわれらと同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた過程について述べたく思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。彼らは地上にありては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきた。その一人――神が人間に直接的に働きかけるとの信仰が今より強く支配せる初期の時代の一人に、そなたたちがメルキゼデク(1)の名で知るところの人物がいた。彼はアブラム(2)を聖別(3)して神の恩寵の象徴たる印章を譲った。これはアブラムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においては未だ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては、その民のために送りし神託の代弁者であった。

ここで今まさに啓発の門出に立つそなたに注意しておくが、太古の記録を吟味する際には、事実の記録と、単に信仰の表現に過ぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見うけられる。それらは伝えられる如く秀でたる人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混り合い、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれた時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。それ故、確かにそなたらの聖書と同様にその中に幾許かの事実は無きにしもあらずであるが、その言説の一つ一つに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ。これまでのそなたはそれらの説話を絶対的同意の立場より読んできた。これよりは新しき光――より益多くして興味浅からぬ見地より見る必要があろう。

神は“創世記”に述べられたるが如き、神人同形同性説的なものではない。またその支配は相応しき霊を通して行なわれてきたのであり、決して神自らが特別に選びし民のみを愛されたのではない。

神と人間との結びつきはいつの時代にも一様にして不変である。すなわち、人間の霊性の開発に応じて緊密となり、動物的本能が強まればそれだけ疎遠となり、肉体的並びに物質的本能の為すがままとなる。

かの初期の時代において、選ばれしアブラムに神の聖別を与えたのがメルキゼデクである。が、キリスト教徒もマホメット教徒も挙(こぞ)って称(たた)えるそのアブラムはメルキゼデクの如き直接の霊的啓示には与(あずか)らなかった。アブラムはその死と共に影響力を失い、在世中のみならず死後も、人間界に影響と言えるほどのものは及ぼしていない。そなたには不審に思われることかも知れぬが、地上にその名を馳せたる霊の中にも同じ例が数多くあるのである。地上での仕事が終わりてのち、地上と係われる新たな仕事を授からぬことがある。在世中の仕事に過ちがあったのかも知れぬ。そして死後その霊的香気を失い、無用の存在となり果てることもある。

メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者、イスラエルの民をエジプトより救い出し、独自の律法と政体を確立せる指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強大なる人物であった。当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智――エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈な意志が支配者としての地位に相応しき人物とした。彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それが更に世界へと広がっていった。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成せしめ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定した。その時代はユダヤ民族にとりては他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的創造力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのである。

ここにおいてもまた推理を誤ってはならぬ。モーセの制定せる法律はそなたらの説教者の説くが如き、いつの時代にも適用さるべき普遍的なものではない。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使徒によりて霊的能力を持つ者を通して授けられたのである。当時のイスラエルの民にとりて第一に必要な真理は、彼らを支配し福祉を配慮してくれるのは唯一絶対神であるということであった。エジプトの多神教的教説に毒され、至純なる真理の宿る霊的奥義を知らぬ民に、その絶対神への崇敬と同胞への慈悲と思いやりの心を律法に盛り込んだのである。

今日なお存続せるかの「十戒」は変転きわまりなき時代のために説かれた真理の一端に過ぎぬ。もとよりそこに説かれた人間の行為の規範は、その精神においては真実である。が、すでにその段階を超えた者に字句どおりに適用すべきものではない。かの「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ、地上的煩悩の影響に超然とせるシナイ山の頂上にてモーセの背後霊団より授けられた。背後霊団は今日の人間の忘却せるもの――完全なる交霊のためには完全なる隔離が必要であること、純粋無垢なる霊訓を授からんとすれば低次元の煩雑なる外部からの影響、懸念、取越苦労、嫉妬、論争等より隔絶せる人物を必要とすることを認識していたのである。それだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることが出来るのである。

モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として七十人もの長老――高き霊性を具えたる者――を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高き者が役職を与えられたのである。モーセはそのために律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となりたる後も、人類の恩人として末長くその名を地上に留めているのである。

メルキゼデクがモーセの指導霊となりたる如く、そのモーセも死後エリヤ(4)の指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断っておくが、今われらはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんがために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。また、その巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最少限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたるのちも引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を強く指摘せんとしているところである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。が、それは今のそなたには係わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大なる流れこそそなたにとりて最大の関心事であろう。もっともそれをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘なる宗閥心だけは棄てて貰わねばならぬ。

偉大なる指導者エリヤ、イスラエル民族の授かれる最高の霊はかつての指導者モーセの霊的指揮下にあった。ユダヤ民族が誇るこの二人の指導者への崇敬の念は、神がモーセの死体(からだ)を隠し、一方エリヤを火の馬車に乗せて天国へさらって行ったという寓話にも示されている(5)。崇敬の念のあまりの強さがこうした死にまつわる奇怪な話を生んだのである。指摘するまでもないと思うが、霊が生身の肉体を携えて霊の世界に生き続けることは絶対にない。偉大なる仕事を成し遂げたる霊が次の世界より一段と強力に支配することを教えんが為の寓話に過ぎぬ。エリヤはその後継者エリシャ(6)に己の霊を倍加して授けたという。が、それはエリシャが倍加された徳を賦与されたという意味ではない。そのようなことは有り得ぬことだからである。そうではなく、エリヤの霊力による輝ける業績が後継者の時代に倍の勢力をもって働きかけ、エリシャがそれを助成し実践していったという意味であった。

そのエリヤもまた後の世に地上に戻り指導に当たった。そなたも知る如く、かの“変容(7)”の山上にてモーセと共にキリストの側(そば)にその姿を見せた。二人はその後ヨハネにも姿を見せ、それよりのちにも再び地上を訪れることを告げたとある。


〔私はこの通信の書かれた十一月二日の時点では最後の一文にあるような、二人がのちに再び地上に戻ると述べたということが全く理解できなかった。それがヨハネ黙示録11-3、その他に出ている“二人の証人”のことであることが分かったのは最近のことで、それも私の無名の友人が送って来たヨハネ黙示録に関する小論文を読んで始めてそれと気づいたことで、もしもその小論文を見なかったら知らずじまいになるところであった。その小論文はたまたまその二人の証人と二人の予言を扱ったもので、私にとっては実にうまい時機(タイムリー)に届けられたのだった。

右の通信で私はいろいろと質問をしたが、その中でメルキゼデクの前にも神の啓示を受けた霊覚者がいたかどうかを尋ねた。すると――〕


無論である。われらは最後にイエスに至る流れの最初の人物としてメルキゼデクを持ち出したに過ぎぬ。その流れの中でさえ名を挙げることを控えた人物が大勢いる。すでに述べた如く、その多くが神の啓示を受けていた。エノク(8)がその一人であった。彼は霊覚の鋭き人物であった。同じくノア(9)がその一人であった。もっとも、霊覚は十分ではなかった。デボラ(10)も霊覚の鋭き人物であり、歴史にて“イスラスルの士師”と呼ばれる行政官はすべて、霊感の所有者であるという特殊の資格をもって選ばれたのであった。そのことにつきて詳しく述べる余裕はない。ユダヤの歴史に見られるその他の霊力の現われにつきては、こののち述べることもあろう。今はまずその古き記録全般に視点を置き、さらにその中の霊的な流れの中から(イエスに連なる)一つだけに絞っていることを承知されたい。


――あなたはそうした古い記録は文字どおりに受け取ってはならぬとおっしゃったことがあります。“モーセ五書(11)”のことですが、あれは一人の著者によるものでしょうか。


あの五書はエズラ(12)の時代に編纂されたものである。散逸の危険にあった更に太古の時代の記録を集め、その上に伝説または記憶でもって補充した部分もある。モーセより以前には生の記録は存在せぬ。「創世記」の記録も想像の産物もあれば伝説もあり、他の記録からの転写もある。天地創造の記述や大洪水の物語は伝説に過ぎぬ。エジプトの支配者ヨセフ(13)に関する記述も他の記録からの転写である。が、いずれにせよ現在に伝えられる“五書”はモーセの手になるものではない。エズラとその書記たちが編纂したものであり、その時代の思想と伝説を表わしているに過ぎぬ。もっとも、モーセの律法に関する叙述は他の部分に比して正確である。何となれば、その律法の正確な記録が聖なる書として保存され、その中より詳細な引用が為されたのである。かく述べるのは、論議の根拠として“五書”の原文が引用された際に一々その点を指摘する面倒を省くためでもある。記録そのものが字句どおりに正確ではないのである。ことに初めの部分などは全く当てにならず、後半も当てになるのは正確な記録が残っていたモーセの律法に関する部分のみである。


――想像の産物だとおっしゃいましたが。


散逸せる書を補充する必要があり、それを記憶または伝説から引き出したという意味である。


――アブラハム(14)のことは簡単にあしらっておられるようですが。


そういうわけではない。神の使者としてその霊的指導に当たれるモーセに比して霊格の程度が低かったというに過ぎぬ。こうした問題を扱う上において、われらは一々人間界の概念にはこだわらぬ。アブラハムは人間界ではその名を広く知られているが、われらにとりては、さして重要なる存在ではない。


――エノクとエリヤの生身での昇天――あれは何だったのでしょう。


伝説的信仰に過ぎぬ。民衆の崇敬を得た人物の死にはとかく栄光の伝説がまとわりつくものである。太古において民衆に崇められ畏敬の念をもってその名が語られた人物は、生身のまま天の神のもとへ赴いたとの信仰が生まれたものである。霊力の行使者であり、民衆の最高指導者であったモーセもその死に神秘なる話が生まれた。生前においては神と直接(じか)に親しく話を交わし、今やその神のもとへ赴いたと信じられた。同様に、人間的法律を超越し、何一つ拘束力を知らず、あたかも風の如く来り風の如く去った神秘的霊覚者エリヤ――彼もまた生身のまま天へ召されたと信じられた。いずれの場合もその伝説の根底にある擬人的神と物的天国の観念による産物であった。前にも述べた如く、人間は神と天国に関してその霊的発達程度以上のものは受けとめることは出来ぬ。古代においては神を万能の人間――すべての点で人間的であり、更にその上にある種の特性、人間の自然の情として更にかく有りたいと憧れる特質を具えた人間として想像した。言い換えれば人類の理想像にある特性を付加し、それを神と呼んだのであった。これは決して嘲笑(あざわら)うべきことではない。程度こそ違え人類の歴史は同じことの繰り返しである。すべての啓示は、元は神より出でても生身の霊覚者を通過し、しかもその時代の人類の発達程度に適合させねばならぬ以上、人間的愚昧の霧によりて曇らされるのは必定である。それは地上という生活環境においては避け難き自然な結果と言うべきである。そこで人間の知識が進歩し叡智が発達するに従い、当然、神の観念も改められることを要する。人間がその必要性を痛感して始めて新たなる光が授けられるのである。(そなたらの中には神と霊的生活と進歩に関してわれらの教説からは何一つ学ぶものはないと言う者がいるが、その者たちには今述べたことが最良の回答である。)

天国についても同じである。そなたらは前時代の者が想像し来れる天国の概念を大幅に改めて来た。今どき生身のまま天国の館に赴くなどと信ずる愚か者はおるまい。地上にて崇められたる人物が生身を携えて擬人的神のもとへ昇天して行くなどと信じた時代はもはや過去のものとなった。まさかそなたはその生身を携えて全知全能の神のまわりにて、あたかも地上でするが如くに、讃美歌三昧に耽るなどとは想像すまい。そのような天国は根拠なき夢想に過ぎぬ。霊の世界へ入るのは霊のみである。肉体のまま天空のどこかへ連れて行かれ、そこで地上とまったく同じように、人間と同じ容姿の神、ただ能力において人間を超越しているというに過ぎぬ神のもとで暮らすなどという寓話は、そなたはすでに卒業しているであろう。そのような天国は預言者ヨハネに象徴的に啓示された天国像からの借用に過ぎぬ。そのような神が存在するわけのないことくらいはそなたにも判るであろう。昇天の時(死)は全ての善人に訪れる(15)。が、生身のままではない。地上の務めを終えた疲れ果てたる身体より脱け出で、栄光ある魂としてより明るき世界、いかなる霊覚者の想像をも絶する輝ける天国へと召されるのである。


――伝説の中にもあとで事実であったことが判明したものが沢山あります。問題は事実と伝説とを見分けることが困難なこと、毒草を抜こうとして薬草までいっしょに抜いてしまう危険があることです。神話の中にもちゃんとした意味をもち、立派な真理を含んだものがあります。


それはその通りである。そなたらが聖なる記録としているものの中に混入せる伝説は、多くの場合、偉大なる人物にまつわる迷信的信仰である。神話の中に真理の核が包蔵されていることも事実である。これまでも度々指摘したことであるが、人間はわれらの如き霊とその影響力と目的に関して余りに誤れる概念を抱いてきた。その原因には人間としてやむを得ぬ要素もあるが、克服できる要素もある。知性の幼稚な段階においては、その知性の理解力を超えたものは絶対に理解できぬのが道理である。

それはやむを得ぬことである。それまで生きて来た環境、体験せる唯一の環境と全く異なれる環境の霊的生活を正しく想像できるわけはない。そこで図解と比喩をもって教えねばならぬことになる。これもやむを得ぬことである。ところが人間は比喩として述べた言葉と観念をそのまま掻き集め、そこから辻褄の合わぬ愚かなる概念を築き上げる。これよりのちそなたも、知識の進歩と共に、その過程をより一層明確に理解することになるであろう。

また人間は神の啓示は全て普遍的適用性をもち、一字一句に文字通りの意味があるものと思い込んで来た。われらの説き方はいわば親が子に教えるのと同じであることが判らなかった。抽象的な真理の定義を説いても子供の頭では理解できぬ。子供は教えられた事柄をそのまま受け止める。それと同じ態度で人間は啓示の一言一句をあたかも数学的かつ論理的に正確なるものとして受け止め、その上に愚かにして自己矛盾に満ちた説を打ち立てる。子供は親の言葉を躊躇なく受け入れ、それを金科玉条とする。それが実は譬え話であったことを知るのは大人になってからのことである。人類も神の啓示を同じように扱ってきた。比喩的表現に過ぎぬものを言葉どおりに解釈してきた。謬りだらけの、しかも往々にして伝説的記録に過ぎぬものを数学的正確さをもって扱ってきた。かくして今なお嫉妬に狂う神だの、火炎地獄だの、選ばれし者のみの集まる天国だの、生身のままの復活だの、最後の審判だのという愚か極まる教説を信じ続けている。これらはいわば幼児の観念であり、大人になれば自然に卒業していくべきものである。霊性において成人せる人間はすべからくそうした幼稚なる概念を振り棄て、より高き真理へと進まねばならぬ。

然るに現実は、原始的迷信、愚か極まる作り話がそのまま横行している。想像力に富める民族が描ける誇張的映像がそのまま事実として受け入れられている。数々の空想と誤謬と真理とがまさに玉石混淆となり、より高き真理を理解せる理知的人間にはとても付いて行けぬ。そうした支離滅裂の寄せ集めを一つに繋いでいるものは他ならぬ信仰心である。われらはその信仰心を切断し、信仰心のみで無批判に受け入れて来たものを理性でもって検討し直せと言っているのである。きっとその中には人類の幼児時代より受け継がれた人間的産物を多く見出すであろう。煩わしく且つ無益なるものに反撥することであろう。が、同時に、その残りの中に理性に訴えるもの、体験によりて裏付けされたもの、そして神より出でしものを発見するであろう。父なる神が子なる人間に用意せる計画の一端を暗示するものを手にすることであろう。が、今のそなたにはそれ以上のことは叶わぬ。そなたは、今のその心に余りに多く巣くうところの愚かなる誤謬と誤解より解放された新しき局面を切り開くことのみで佳しとせねばならぬ。過去は根本においては現在へ投げかける照明として、そしてまた未来を照らす仄(ほの)かなる光としての価値を有するものであることを、そなたもそのうち次第に認識していくことであろう。

これで判っていただけるであろうが、われらの現在の仕事の目的もそこにある。すなわち神と生命と進化につきてそなたたちがこれまで抱いて来た思想を一層純粋なるものに近づけ、恥ずべき要素を排除することである。そのためにはまずそなたたちの教義の中の誤りと、神的真理として罷り通って来た人間的想像の産物と、理性的には反撥を覚えつつも信仰心によって受け入れられ、今や歴史的事実の如く結晶してしまった伝説を指摘せねばならぬのである。われらとしてはそなたらの側に忍耐強き真摯なる思考を要求する他はない。またわれらの為すことを全て破壊的と受け取ってはならぬ。夾雑物が取り除かれれば建設も可能となろう。それまでは、もしもそなたの目にわれらが破壊的思想を撒き散らしていると見えるならば、それはより神々しき神の、より崇高なる神殿、より聖なる聖堂を築かんがための予備工事として、まず夾雑物を掻き集め、それを取り除かんとしているに過ぎぬと理解されたい。

(†インペレーター)

Sunday, August 27, 2023

シアトルの夏 ヒデケルの土手のそばでの出来ごとであった。

 It happened near the bank of Hidekel 

モーゼスの「霊訓」〈下〉 (TEN BOOKS) :20220923214037-00157us:SelectShopMar - 通販 -  Yahoo!ショッピング

〔“モーセ五書”を新たな観点から読み直してみて私は、その中に神の観念が徐々に発達していく様子を明瞭に読み取ることが出来た。結局それが一人の作者によるものでなく数多くの伝説と伝承の集成にすぎないという結論に達した。その点について意見を求めると――〕


われらの手引きによる聖書の再検討において、そなたは正しき結論に到達した。そなたをその方向へ手引きしたのは、個々の書が太古の人間の伝説や伝承をまとめたものに過ぎず、そのカギを知らぬ者には見分けのつかぬものであるが故に、いかに信の置けぬものであるかを知らしめんが為である。われらはこの点を篤と訴えたい。そなたらの宗教書より引用せる言説にどこまで信を置くべきかは、むろんそなた自身の理解力にもよるが、それと同時に、その引用せる書の正体と、その言説のもつ特殊な意味にもよる。いかに古き書の中にも崇高なる神の概念を見出すことが可能である一方、その後に出たより新しき書の中にこの上なく冒とく的で極めて人間的な不愉快千万なる概念を見出すことも出来る。たとえば人間の姿をして人間と格闘する神、対立する都市への報復の計画を人間と相談する神、血の酒宴を催し敵の血を啜(すす)って満腹する残忍至極な怪物としての神、友人の家の入口に座し、仔ヤギの肉とパンを食する人間としての神、等々。その説くところは完全に類を異にし、個々の話をいくら集めたとて、正しき理性を物差しとせる判断以上のものとはなり得ぬ。それ故に、無知ゆえに真相を捉え損ね、過ちへと迷い込むことのなきよう、そうした言説は奥に秘められた意味を理解することが肝要である。

重ねて言うが、啓示とは時代によりて種類を異にするのではなく、程度を異にするのみである。その言葉は所詮は人間的媒体を通して霊界より送り届けられるものであり、霊媒の質が純粋にして崇高であれば、それだけ彼を通して得られる言説は信頼性に富み、概念も崇高さを帯びることになる。要するに霊媒の知識の水準が即ち啓示の水準ということになるわけである。故に、改めて述べるまでもあるまいが、初期の時代、たとえばユダヤ民族の記録に見られる時代においては、その知識の水準は極めて低く、特殊なる例外を除いては、その概念はおよそ崇高と言えるものではなかった。

人類創造の計画の失敗を悔しがり、悲しみ、全てをご破算にするが如き、情けなき神を想像せる時代より、人間は知識において飛躍的に進歩を遂げてきた。より崇高にして真実に近き概念を探らんとすれば、人間がその誤りの幾つかに気づき、改め、野蛮な想像力と未熟な知性の産み出せる神の概念に満足できぬ段階に到達せる時代にまで下らねばならぬ。野蛮な時代は崇高なるものは理解し得ず、従って崇高なるものは何一つ啓示されなかった。それは、神の啓示は人間の知的水準に比例するという普遍的鉄則に準ずるものである。故に、そもそもの過ちの根源は人間がその愚かにして幼稚きわまる野蛮時代の言説をそのまま受け継いで来たことにある。神学者がそれを全ての時代に適応さるべき神の啓示であるとしたことにある。その過ちをわれらは根底より改めんと欲しているのである。

今一つ、それより更に真理を台無しにするものとして、神は全真理を聖書の全筆録者を通じて余すところなく啓示し、従って根源的作者は神であるが故に、そこに記録された文字は永遠にして絶対的権威を有するとの信仰がある。この誤りはすでにそなたの頭からは取り除かれている。その証拠に、最早やそなたは神が矛盾撞着だらけの言説の作者であるとは思わぬであろうし、時代によりて相反することを述べるとも思うまい。霊界からの光が無知蒙昧なる霊媒を通じて送られ、その途中において歪められたのである。

そうした誤れる言説に代わりてわれらは、啓示というものがそれを送り届けんとする霊の支配下にあり、その崇高性、その完全性、その信頼性にそれぞれの程度があると説く。またそれ故にその一つ一つについて理性的判断をもって臨むべきであること、つまり純粋なる人間的産物を批判し評価する時と全く同じ態度にて判断すべきであると説くのである。そうなれば聖典を絶対的論拠とすることもしなくなるであろう。全ての聖典を(神が絶対無二のものとして授けたのではなく)単なる資料として今そなたの前に置かれたものとして取り扱うことになろう。その批判的精神をもって臨む時、聖典そのものの出所と内容について、これまで是認され信じられて来たものの多くを否定せねばならぬことに気づくであろう。

さてそなたは「モーセ五書」について問うている。これは前にも少し触れた如く、何代にも亙って語り伝えられた伝説と口承が散逸するのを防ぐためにエズラが集成したものである。その中のある部分、とくに“創世記”の初めの部分は記述者が伝説にさらに想像を加えたものに過ぎぬ。ノアの話、アブラハムの伝説等がそれであり、これらは他の民族の聖典にも同一のものが見られる。“申命記”の説話もみなそうであり、エズラの時代に書き加えられたものである。その他についても、その蒐集はソロモンとヨシアの時代の不完全なる資料より為されたものであり、それがまたさらにそれ以前の伝説と口承に過ぎなかったのである。いずれの場合もモーセ自身の言葉ではない。また律法に関する部分の扱いにおいて真正なる原典からの引用部分は例外として、他に真正なるものは一つも存在せぬ。

いずれ、聖書の初期の書に見られる神の観念につきて詳しく述べることになろう。今は、そうした書が引用せる神話や伝説を見れば、他の資料によりその真正さが確認された場合を除けば、その歴史的記述も道徳的説話も一顧の価値だになきものであることを指摘するに留める。


〔この通信は私自身の調査を確認するところとなった。編纂者が引用したのはエロヒスト(1)とヤハウィスト(2)の二人の記録まで辿ることが出来ると考えた。それは例えば“創世記”第一章及び第二章の③と第二章の④の天地創造の記述の対比、ゲラルにおけるアビメレク王によるサラの強奪(“創世記”第二十章)と同第十二章の⑩~⑲及び第二十六章の①~②の対比に見られる。私はこの見解が正しいか否かを尋ねた。〕


それも数多い例証の中の一つに過ぎぬ。こうした事実を認識すれば、その証拠がそなたの身近に幾らでも存在することに気づくであろう。問題の書はエズラの二人の書記エルナサン(3)とヨイアリブ(4)が引用せる伝説的資料である。数が多く、あるものはサウル王(5)の時代に蒐集され、あるものは更に前のいわゆる“イスラエルの士師(6)”の時代に蒐集され、またあるものはソロモン(7)とヘゼキヤ(8)とヨシア(9)の時代に蒐集されたもので、いずれも口承で語り継がれた伝説に恰好をつけたものに過ぎぬ。啓示の本流がメルキゼデクに発することはすでに指摘した。それ以前のものは悉く信が置けぬ。霊に導かれた人物に関する記録も、必ずしも全てが正確とは言えぬ。しかし全体としての啓示の流れはこれまでわれらが述べて来た通りであったと思えばよい。


〔旧約聖書の聖典がそのような形で決められてきたとなると“預言書”についてはどの程度まで同じことが言えるかを尋ねた。〕


あの預言の書は全てエズラ王の権威のもとに、現存せる資料を加え配列したに過ぎぬ。そのうちのハガイ書(10))、ゼカリア書(11)、マラキ書(12)はその後に付け加えられたものである。ハガイはエズラ書の編纂に関わり、またマラキと共にその後の書を付加して、ついに旧約聖書を完成せしめた。この二人とゼカリアの三人は常に親密な間柄を保ち、大天使ガブリエル(13)とミカエル(14)がその霊姿を預言者ダニエル(15)の前に現わして使命を授けた時にその場に居合わせる栄誉に浴した。預言者ダニエルは実に優れたる霊覚者であった。有難きかな、神の慈悲。有難きかな、その御力の証。


――“ダニエル書”第十章にある“幻(まぼろし)”の話ですか。


ヒデケル(16)の土手のそばでの出来ごとであった。

インピレーター

Saturday, August 26, 2023

シアトルの夏 なぜ苦しみがあるのか

why is there pain

白樺林イラスト/無料イラスト/フリー素材なら「イラストAC」

 
 この交霊会に出席される方々が、もしも私の説く真理を聞くことによって楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が神から授かった使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。

それに敢然と対ち向い、それを克服し、そしていっそう力強い人間となってくださることが私どもの真の目的なのです。

 霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐えきれないほどの苦難を背負わされるようなことは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。

 それは勿論楽なことではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、なにも、苦労する必要などないでしょう。痛みと苦しみの最中(さなか)にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとっていちばんの薬なのです。

 私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿をあえて手を拱(こまね)いて傍観するほかない場合がよくあります。

そこから教訓を学び取り霊的に成長してもらいたいと願い祈りながらです。知識には必ず責任が伴うものです。その責任を取ってもらうわけです。霊はいったん視野が開かれれば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔むことはないはずです。

燦々と太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身に沁みません。魂が眼を覚まし、それまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れ込める暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。

 地上の人生はしょせんは一つの長い闘いであり試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもよいでしょう。魂にはありとあらゆる種類の長所と欠点が秘められております。

すなわち動物的進化の段階の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなた方の個的存在の源泉である神的属性も秘められております。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。

地上に生れてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生れてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、是非とも厳しい試練が必要なのです。    

 運命の十字路にさしかかるごとに右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然と立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られるわけですが、その判断はあなたの自由意志に任されています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。

その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。

地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されております。そのチャンスを前にして積極姿勢を取るか消極姿勢をとるか、滅私の態度に出るか自己中心の態度に出るかは、あなた自身の判断によって決まるということです。

 地上生活はその選択の連続と言ってもよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命つきて霊界へ来た時に待ち受けている生活、新らしい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か、能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まります。単純なようで実に複雑なのです。

 そのことに関連して忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。地上へ再生するに際して各自は、地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。才能がありながらそれを使用しない者は、才能の無い人より大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。 

 悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。

魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。

もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。

 繰り返し述べてきたことですが、真理は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。こちらからいくら援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。霊的知識を理解する時機(トキ)を決するのは魂の発達程度です。

魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれているあなた方人間が物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来ごとを物的モノサシで測り、考え、評価するのは無理もないことですが、それは長い物語の中のほんの些細なエピソート(小話)にすぎません。   

 魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂のこやしです。魂がその秘められた力を発揮するにはいかなるこやしを摂取すればよいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。失意のどん底にある時は、もう全てが終わったかの感じを抱くものですが、実はそこから始まるのです。

あなた方にはまだまだ発揮されていない力──それまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されているのです。それは楽な人生の中では決して発揮されません。

苦痛と困難の中にあってこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことができないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。それ以外に方法がないのです。ほかにもあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。

 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。

何もかもがうまくいき、日なたばかりを歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。

 困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂のこやしです。むろん困難の最中(さなか)にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。しかし、あとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません。

この世に生まれくる霊魂がみな楽な暮しを送っていては、そこには進歩も開発も個性も成就もありません。これは酷(きび)しい辛い教訓ではありますが、何事も価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞はそうやすやすと手に入るものではありません。
 
 神は一瞬たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。

神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。あなた方自身さえも裁く資格はありません。

物的尺度があまりに小さすぎるのです。物的尺度で見る限り世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しか見えないでしょう。当然かもしれません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

 地上では必ずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衝を取り戻します。

霊的に見て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身には分かりません。もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌なことが実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることも有り得るのです。

 ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度では無く霊的尺度で判断するように努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。祈りにはそれなりの回答が与えられます。

しかしそれは必ずしもあなたが望んでいる通りの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとっていちばん望ましい形で与えられます。神は決して我が子を見捨てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的なモノサシで批判することはやめなくてはいけません。

 絶対に誤まることのない霊的真理が幾つかありますが、その内から二つだけ紹介してみましょう。一つは、動機が純粋であれば、どんなことをしても決して被害をこうむることはないということ。

もう一つは、人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ。この二つです。焦ってはいけません。何事も気長に構えることです。
   bigbang 138憶年 earth誕生46億年 
何しろこの地上に意識をもった生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。さらに人間という形態が今日のごとき組織体を具えるに至るのに何百万年もかかりました。

その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。その力、宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤まることのないその力を信じることです。    

 解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。

悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」──こうおっしゃる方があるかもしれません。

しかし私は実際にそれを体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私はただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりです。

一つとして偶然というものがないのです。偶発事故というものが無いのです。全てが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかも一目瞭然と分かるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。
  
 あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。

心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも自信を持って生きることです。そうすれば自然に神の心があなたを通して発揮されます。

愛の心と叡知をもって臨めば、何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことができるのです。愛が全ての根源です。愛──人間的愛──はそのほんのささやかな表現にすぎませんが、愛こそ神の摂理の遂行者です。

 霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや神の御加護があることを一片の疑いも無く信じることができなければいけません。苦難にも悲しみにも挫けてはなりません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも勝るからです。

 恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心を蝕みます。恐怖心は理性を挫き、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼び起こします。

 つとめて恐れの念を打ち消すことです。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信に溢れ、決して取り乱すことがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対というだけではありません。

絶対的な叡知であり、絶対的な愛でもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力が控えているのです。

 はがねは火によってこそ鍛えられます。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証です。夜明け前に暗黒があるように、魂が輝くには暗闇の体験がなくてはなりません。

そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善を尽くし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。


 霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません。陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、言わば硬貨の表と裏のようなものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。

人間の進化のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。

そうした法則の全てに通暁することは人間には不可能です。どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかはありません。盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。

 知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を産み出さなくてはいけません。そういう義務があるのです。それも一つの法則です。

恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。

 太陽が燦々と輝き、全てが順調で、銀行にたっぷり預金もあるような時に神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスです。

然るべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がりかつ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆をかかげる時です。

 霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験して、初めてそれを理解するための魂の準備が出来あがります。どうもその点がよく分かっていただけないようです。

種を蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分がそろわなくてはなりますまい。養分が揃っていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまくそろった時にようやく種が芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。

 人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。何もかもがうまくいき、鼻歌交じりののん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験して初めて霊的知識を理解する素地が出来上がります。

そしていったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、そして厳しさを発揮しはじめることになるのです。そしていったん身につけたら、もう二度と失うことはありません。

それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて霊界から力なり影響なり、インスピレーションなり、真理なり、美なりを引き出せるようになります。魂が進化しただけ、その分だけ自由意志が与えられます。

 霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されます。あなたはしょせん、現在のあなたを超えることは出来ません。

そこがあなたの限界と言えます。が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。いかなる困難、いかなる障害もきっと克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質に勝ります。

霊は何ものにも勝ります。霊こそ全てを造り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。

シルバーバーチ

Thursday, August 24, 2023

シアトルの夏 イエスは庶民を相手に法を説いた

 Jesus preached law to the common people

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〔この時点でいろんな霊から通信が来た。彼らが言うには、その目的は死後存続の確証を積み重ねて私の心に確信を植えつけるためであった。その中の一人に著名人で生前私も親しくしていた人がいたので、その事実を身内の人に知らせても良いかと尋ねた。すると――〕


それは無駄であり賢明でもない。身内の者は交霊の事実を知らぬし、われらが知らしめんとしても不可能であろう。たとえそなたがその話をしたところで、気狂いのたわごとと思われるのが関の山であろう。とにかく今は身内の者に近づくことは出来ぬであろう。これは、後に残せる地上の肉親と何とか連絡したいと思う他界したばかりの霊が味わう試練の一つなのである。

大体において他界してすぐは身内の者に近づくことは出来ぬ。何とかして思いを通じさせねばとあがく、その激しい念が障害となるのである。自分からのメッセージが何よりも証拠としての効き目があり、且つ望ましかろうと思い過ごし、その強き念波が肉親の悲しみの情と重なり合い、突き破らんとしても破れぬ強い障壁を拵えるのである。霊側の思いが薄れ、地上の者がその不幸の悲しみの情を忘れた時に初めて、霊は地上へ近づくことが可能となる。このことについては、このあと改めて述べることもあろう。

さてそなたの知人はそういう次第で、今は血縁関係の者との連絡を断たれている。受け入れる用意なき者に押しつけんとしても有害無益である。これはわれらにも如何ともし難き不変の摂理の一つなのである。われらは理解力なき者に霊的知識を押しつけるわけには参らぬ。哲人にしてなお驚嘆の念をもって眺める大自然の神秘を三歳の童子に説いてみたところで無意味であろう。それは実に無益というものである。

もっとも童子に“害”はないかも知れぬ。が、不用意に押しつけることによりて本来の目的達成を阻害し、真理を授かるべき者が授からずに終わることにもなりかねぬ。賢明なる者はそのような愚は犯さぬ。受け入れ態勢の有無を考慮せずに、ただ霊的真理を送り届けさえすれば地上天国を招来できると期待するのは誤りである。それでは試練の場としての地上の意義は失われ、霊力を試さんと欲する者の、ただの実験場と化し、法も秩序も失われるであろう。そのような法の逆転は許されぬ。そう心得るがよい。


〔ほぼ同じ時期のことであるが、人間的手段を一切使わない、いわゆる直接書記によって書かれた氏名の綴りが間違っていたことから、例の身元確認に関する私の迷いが一段と強くなった。この場合霊媒に責任がないことは明らかである。そこで私は自分の氏名もロクに綴れないような霊を信じるわけにはいかないと強く抗議した。するとインペレーターが答えた――〕


いま身元確認の問題について議論しようとは思わぬが、そなたが言及する事柄は容易に説明のつくところである。あの霊の身元については余が保証し、そなたも少なくとも余の言葉を信じてくれた。綴りの誤りはあの霊自身ではなく、筆記せる霊が犯せるものである。そなたらが直接書記と呼ぶところの現象は今回はそなたのたっての要請に従って行なったが、あのような特殊なものが演出できる者は数多くはおらぬ。そして実際に筆記するのはそれに慣れた霊であり、通信を望む霊のいわば代書の如き役をするのが通例である。これには多くの場合数人の霊が携わる。今回の軽率な誤りに関しては交霊会の最中に訂正したが、そなたはそれに気づかなかったと見える。誤謬や矛盾についてはムキにならず、じっくりと調べるがよい。多くは今回の如く容易に説明のつくものばかりであることが判るであろう。


〔私の精神状態の乱れのせいで交霊会の調子まで乱れてきた。現象の現われ方がおかしく、時に乱暴になったり不規則になったりした。霊側からは“楽器の調子がおかしければ、それから出る音も調子はずれで軋(きし)むのだ”と言ってきた。が、交霊会を催すと気が休まることがあった。しかし反対に神経が緊張の極に達することもあり、その時の苦痛は並大抵のものではなかった。九月三十日に次のような通信が来た。〕


神経を休ませ和(なご)ませることが可能な時もあるが、神経の一本一本が震えるほど神経組織全体が過労ぎみで緊張の極にある時は、それも叶わぬ。われらとしては殆ど手の施しようもなく、せめてそうした精神状態が呼び寄せる低級霊に憑依される危険からそなたを守るのが精一杯である。そのような状態の時はわれらの世界との交信は求めぬよう忠告する。数々の理由により、これ以後は特に注意されたい。そなたはこれより急速に進歩し、それがあらゆる種類の霊的影響を受け易くする。多くの低級霊が近づき、交霊会を開かせては仲間入りを企む。悪自体は恐るに足らぬが、それによる混乱は避けられぬ。高度に発達せる霊媒は指導に当たる霊団以外の霊に邪魔される危険性のある会は避ける用心が肝要である。交霊会には危険はつきものであるが、今のそなたの精神状態では二重の危険性に身を曝すことになる。催す時は忍耐強く且つ受身の精神で臨んでもらいたい。そうすればそなたの望む証拠も得やすいであろう。


〔私は、たとえそう望んだところで所詮は自分自身の判断力で判断するほかはないではないかと答えた。さらに私は疑問を解くカギになると思える事柄を二、三指摘した。私の目には、地上で名声を謳(うた)われた著名人からの通信、しかも私を混乱させるだけだった通信よりも、そのほうが決定的な重要性をもっているように思えたのである。どう考えても世界的な大人物が私ごとき一介の人間のために人を惑わせるような些細なメッセージを伝えにやって来るとは思えなかった。私はむしろ最近他界したばかりで生前私たちのサークルの熱心なメンバーだった知人の身元を明かす何か良い証拠を数多く出してくれるよう要求した。それが身元証明の問題を解決する決定的なチャンスになるように思えたのである。さらに私はスピリチュアリズム思想の拠って来る源泉と規模と問題点、とくに霊の身元の問題について明快にして総合的な説明を切望した。私はこれまでの言説を全て真正なものと認めた上で、そうなるとこんどは、それを嘲笑の的とする反対派の批判に応えるための証拠を完璧で間違いのないものにしてくれないと困る、と述べた。その段階での私には、いくつかの心霊現象とそれを操る知的存在がいるといった程度のこと以外には証言らしい証言は何一つ見当たらなかったのである。それでは話にならない。いくら好意的心情になろうと努力しても、拭い切れずにいる疑問が一掃されないかぎり、それ以上先へ進めなかった。こうした私の言い分に対して十月一日に次のような通信が来た――〕


大神の御恵みの多からんことを。そなたが提出せる問題についてわれらがその全てに対応せず、また議論しようともせぬのは、今のそなたの精神状態では満足のいく完璧なる証拠を持ち出すことは不可能であるからに過ぎぬ。もっとも、多くの点においてそなたが率直かつ汚れなき真情を吐露してくれたことには感謝の意を表したい。が、それでもなおかつそなたの心の奥底に、われらの言説に対する不信と、われらの素性に対する信頼の欠如が潜んでいることを認めぬわけには参らぬ。これは、われらにとりて大いなる苦痛であり、また不当であるように感じられる。疑うこと自体、決して罪ではない。ある言説を知的に受け入れられぬことは決して咎めらるべきことではない。が、出された証拠を公正に吟味することを拒絶し、想像と独善主義の産物に過ぎぬ勝手な判断基準に照らさんとする態度は悲しむべき結果に終わるであろうし、そこにわれらの不満の根源がある。そなたの疑念にはわれらも敬意を払う。そしてそれが取り除かれた時はそなたと共に喜ぶであろう。が、それを取り除かんとするわれらの努力を無駄に終わらせる態度は、われらとしても咎めずにはおれぬところであり、非難するところである。その態度はそなたを氷の如き障壁の中に閉じ込め、われらの接近を阻む。またそれは率直にして進歩的な魂を孤立と退歩へと堕落させ、地上の地獄とも言うべき暗黒地帯へと引きずり込む。そうした依怙地(えこじ)な心の姿勢は邪霊による破壊的影響の所為であり、放置すれば魂の進化を永久に阻害することにもなりかねぬ。

われらはそなたからそのような態度で臨まれるのはご免蒙る。そなたとの霊的交わりを求めんとするわれらの努力がことごとく警戒心と猜疑心とによって監視されては堪らぬ。そなたは何かと言えばユダヤ時代の世相と少数の神の寵愛者を念頭に置き、その視点より現在を観んとする傾向があるが、当時のユダヤ人がイエスに神のしるしを求めた時にイエス自身の口から出た言葉がわれらの言い分と同じであったことをここに指摘しておきたい。イエスがついに自分の言葉以外のしるしは与えなかったことはそなたも知っていよう。なぜか、何の目的あってのことか、それは今は詮索すまい。不可能だったのかも知れぬ。不必要と観たのかも知れぬ。精神的土壤がそれを受け入れぬ状態にあったのかも知れぬ。今のそなたがまさにそれと同じ状態である。議論を強要する時のその荒れた気性そのものが、われらの適切なる返答を阻んでしまうのである。イエスの場合も多分それと同じ事情があったのであろう。そなたの注意を喚起しておきたいのは、イエスが慰めの言葉でもって答え、あるいは奇跡の霊力をもって応えたのは、議論を挑んだパリサイ派の学者でもなく、サドカイ派の学者でもなく、己の知識に溺れた賢人でもなく、謙虚にして従順なる心貧しき人々、真理一つ拾うにもおどおどとしてその恵みに浸る勇気もなく、それがいずこよりいかなる状態にてもたらされるものであるかも詮索せぬ、忠実にして真っ正直な人たちであった。イエスのその態度は生涯変わることがなかった。その態度はまさに父なる神が人間に対するのと同じであった。神の真の恩寵に浴するのは、己の我儘を押しつけ、それがすぐにでも満たされぬと不平をかこつ高慢不遜の独善者ではなく、苦しみの淵にあってなお“父よ、どうか私の望みよりあなたの御意(みこころ)のままに為さらんことを(1)”と祈る、謙虚にして疑うことを知らぬ敬虔なる平凡人である。

これが神の御業(みわざ)の全てを支配する摂理である。それを具体的にキリスト教界に観ることは今は控える。ただそなたに指摘しておきたいことは、そなたの頑(かたくな)な心の姿勢、こうと決めたら一歩も退こうとせぬ独善的議論の態度はそなたにとりて何の益にもならぬということである。われらも不本意ながらもその姿勢を譴責(けんせき)せねばならぬ。過ぎ来(こ)し方を振り返ってみるがよい。われらとの関わり合いの中に体験せる諸々の出来ごとを思い返してみるがよい。そなたの生活全体に行き渡れる背後霊の配慮についてそなたは何一つ知らぬ。そなたの心に向上心を育(はぐく)ませるための配慮、邪(よこしま)な影響より守り通さんがための配慮、悪霊の排除、難事に際しての導き、向上の道への手引き、真理についての無知と誤解より救わんとした配慮――こうした目に見えざる配慮についてそなたは何一つ知らぬ。しかし、その努力の証は決して秘密にして来たわけではない。このところそなたのもとを離れたことは一日とてない。われらの言葉、われらの働きかけはそなたの知るところである。ことに通信は間断なく送り届け、それがそなたの手もとに残っている。その言説の中に一語たりともそなたを欺いた言葉があったであろうか。われらの態度に卑劣なるもの、利己的なるもの、あるいは不親切に思えるものがあったであろうか。われらにとりて不名誉なことをしでかしたであろうか。そなたに対し侮辱的言葉、愚かしき言葉を述べたことがあったであろうか。卑劣なる策略、浅ましき動機によりてそなたを動かしたことがあったであろうか。向上の道より引きずり下ろすが如き行為をしたであろうか。要するに、われらがもたらせる成果より判断して、果たしてわれらの影響は善を志向せるものだったであろうか、悪を志向せるものだったであろうか。神を志向していたであろうか、その逆を志向していたであろうか。そなた自身はそれによりて改善されたと思えるであろうか、それとも改悪されたと思えるであろうか。より無知になったように思えるであろうか、無知より救われたように思えるであろうか。少しでもましな人間になったと思うであろうか、つまらぬ人間になり下がったと思えるであろうか。少しでも幸せになったと思えるであろうか、それとも幸せを感じられなくなったであろうか。

われらの存在そのものにつきて、われらの行為につきて、あるいはわれらの教説につきて、誰れが何と言おうと、筋の通れるものであればわれらは少しも苦にせぬ。聞く耳をもつ者すベてにわれらは公然と主張する――われらの教説は神の教えであり、われらの使命は神より命じられた神聖なるものである、と。

われらは、イエスがそうであり自らもそう述べている如く、公言せる教説については必ずその証となるべきしるしを提供してきた。当然納得して然るべき一連の証拠を提供した。これ以上付け加えようにももはや困難なところまで来ている。霊力の証を求めるそなたの要求に対しては決して労を惜しむことなく応じてきた。それどころか、より一層顕著なる現象を求める同志の要求を満たさんとしてそなたの健康を損ねることまで行なった。いかなる要求も、それが可能でありさえすれば、そしてわれらのより広き視野より判断して望ましきものと観たものは、すべて喜んで応じてきた。確かに要求を拒否して来たものもある。が、それはそなたが無理な要求をした場合、ないしはそうすることがそなたにとりて害になることを知らずに要求した場合に限られる。そなたとは視点が異なることを忘れてはならぬ。われらはそなたより遙かに高き視点より眺め、しかもそなたより遙かに鋭き洞察力をもって眺めている。故に、人間の無知と愚かさより出た要求は拒否せざるを得ぬことがしばしばある。が、しかし、そうした正当な理由によりてわれらが拒否して来たものは、要求に応じて提供せる証拠に比べれば九牛の一毛に過ぎぬ。その証拠は地球に属さぬエネルギーの存在、慈悲深く崇高にして尊き霊力の存在を証し、それが他ならぬ神の御力であることを証すに十分である。それほどの証を与えられ、それほどまで威力を見せつけられてきた霊力をそなたは信じようとせず、且つまた、われらの身元についての言説を真剣に疑る。どうやらそなたにとりては、そなたがこれまで崇めて来た尊き歴史上の人物が、神の使徒をもって任ずる者の指揮のもとに人類の命運の改善を旗印として働いていることが余ほど引っ掛かるのであろう。そこでそなたは拒絶し、無知からとは言え、無礼にもわれらを詐称者である――少なくともそうではなかろうかと疑い、口先でごまかしつつ善行ぶったことをしているのであると批難する。が、そう批判しつつもそなたはわれらが詐称すべき理由を何ら見出し得ず、神のほかに帰すべき源も見出し得ず、慈悲のほかにわれらが地上に派遣されし理由を見出し得ず、人間にとりての不滅の福音以外にその目的を見出し得ずにいる。

そなたのそもそもの誤りはそこにある。われらもその点は譴責せざるを得ぬ。敢えて申すが、それはそなたにとってもはや“罪”とも言うべきものであり、これ以後その種の問題について関わりをもつことはわれらはご免蒙る。さような視点より要求する証は提供するつもりはない。もはやわれらはこれより一歩も譲歩できぬぎりぎりの限界に来ている。これまで披露せしものをそなたが侮(あなど)るのは構わぬが、それによりて危害を蒙るのはそなた自身に他ならぬことを警告しておく。過ぎ来し方をよくよく吟味し、その教訓に思いを寄せ、証拠の価値を検討し、かりそめにも、これほどの教訓とこれほどの量の証拠をただの幻想として片付けることのなきよう警告しておく。

今はこれ以上は述べぬ。ともかくわれらとしては、そなたの如き判断を下されることだけはご免蒙る。われらは当初、われらの霊的教訓の受信者としてそなたを最適任者として選んだ。願わくば現在のその無知と愚かさから一刻も早く脱し、われらがそなたを選べし時のあの穏やかにして真実のそなたに立ち戻られんことを希望する。われらのその願いを、そなたに宿る能力と率直さを以て検討せねばならぬ。今後のそなたとの関わりもそれにて決定される。是非とも公正に、そして神に恥じぬ態度にて判断されたい。決して焦ってはならぬ。早まってはならぬ。事の重大性と、その決断のもつ責任の大きさを認識した上で決定されたく思う。

その間、新たな証を求めてはならぬ。求めても与えられぬであろう。他のサークルとの交わりも避けるよう警告する。あのような方法による通信は危険が伴うことを承知されたい。徒に迷いを増幅させ、それがわれらを一層手間どらせることになる。やむなく生ずる問題に関してはわれらより情報を提供しよう。また決して勧めもせぬが、われらのサークルでの交霊会は敢えて禁止もせぬ。但し、たとえ開いても新たなる証拠は出さぬ。開く以上は何らかの解明と調和のある交霊会の促進を目的としたものであらねばならぬ。

かつてわれらは、そなたにとって必要なのは休息と反省であると述べたことがある。この度も改めて同じことを述べておきたい。そなたのサークルが何としても会を催したいというのであれば、ある条件のもとで時には参加致そう。その条件については後に述べる。が、なるべくならば当分は会は催さぬが良い。かく申しても決してそなたを一人に放置しておくということではない。そなたは常に二重三重にも守られていると思うがよい。これにてひと先ずそなたのもとを去るが、祝福と祈りはそなたと共にあるであろう。

神の導きのあらんことを。

(†インペレーター)

シアトルの夏 正しい霊的真理をお教えするためにやって来たのです。I have come to teach you correct spiritual truths.

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 「私はこうした形で私に出来る仕事の限界を、もとより十分承知しておりますが、同時に自分の力の強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません。

私自身はいつも謙虚な気持です。本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない──私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。

が私はその援助の全てを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちていると言っているのです。

 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると、自信をもって語ることが出来ます。霊団が指示することを安心して語っていればよいのです。

威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人類全体の進化の指導に当たっている、真の意味で霊格の高いスピリットなのです。

 私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけない、といったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れ、といった指示を受けます。

私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束が出来ているということです。

私よりすぐれた叡知を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。

 そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているからです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在なのです。

私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会い出来ることを無上の光栄に思っております。その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。
 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。

神界というのはあなたがた人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が地上経綸の仕事を実施するとなると、こうした小さな組織が必要となるのです。

 私自身はまだまだ未熟で、決して地上の一般的凡人から遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなたがたの悩みがよくわかります。私はこの仕事を通じて地上生活を長く味わってまいりました。

あなたがた(列席者)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く係わりあってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないこともわかります。

 私たちはひたすらに人類の向上の手助けをしてあげたいと願っています。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えするためにやって来たのです。そこから正しい叡知を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。

そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も、地上から送られてくる無知で何の備えも出来ていない厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる。そう思って努力してまいりました。

 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度を取りたくありません。ロボットのようには扱いたくないのです。

死の淵を隔てていても、友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の肉体と心と霊に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。


 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶なさるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。

私たちがあなたがたに代って生きてあげるわけにはまいりません。援助は致しましょう。指導もしてあげましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけにはいかないのです。

 スピリットの中には自らの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私は自ら買って出た口ではないのです。が依頼された時は快く引き受けました。

 引き受けた当初、地上の状態はまさにお先まっ暗という感じでした。困難が山積しておりました。がそれも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに比べれば物の数ではありません。

 私たちの願いはあなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい──持てる知能と技能と天賦の才とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生を享けた真の目的を成就することにつながり、死と共に始まる次の段階の生活に備えることにもなる。そう願っているのです。

 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそ全てを律する実在なのです。そこでは仮面も見せかけも逃げ口上もごまかしもききません。すべてが知れてしまうのです。

 私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。よろこびと楽しみを持ってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなたがたに何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。


 あなたがたは、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が信じて下さい。私も物事を感じ、知り、そして愛することの出来る能力を具えた実在の人間です。

こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。

 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が、幾多の障害をのり超えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。

 神よ、忝(かたじけな)くもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私たちは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を佳しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場となることを知らしめ給わんことを。

 では神の御恵みの多からんことを。」                                            シルバー・バーチ
 

Wednesday, August 23, 2023

シアトルの夏 神と自己と同胞に対する責務

 Obligation to God, Self and Brotherhood

Amazon.co.jp: 霊訓 eBook : ウィリアム・ステイントン モーゼス, 浅野 和三郎: 本

〔繰り返し反論して来た問題――これまで再三言及して来たもの――が八月三十一日になってようやく本格的な回答を得た。〕

これまでにも言及しながら本格的に扱わずにおいた問題につきて述べたく思う。そなたはわれらの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めなく、実体が感じられぬという主張を固持し、それを再三に亙って表明してきた。そなたの主張によればわれらの教説はいたずらに古来の信仰に動揺をもたらし、それに代わる新たなる合理的信仰を持ち合わせぬと言う。その点に関してはこれまでも散発的には述べることはあったが、それらが大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に述べたことはなかった。それをこれより可能なかぎり述べることとする。

まずわれらは全創造物の指揮者であり、審判者であるところの宇宙神――永遠の静寂の中に君臨する全知全能の支配者から説き始めるとしよう。その至高の尊厳の前にわれらは厳粛なる崇敬の念をもってひざまずくものである。その御姿を拝したことはない。また御前おんまえに今すぐ近づこうなどとも思わぬ。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、地上界の時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることであろう。それは最早や限りある数字では表わせぬであろう。

しかし、たとえ拝したことはなくとも、われらはその御業みわざを通じて神の奥知れぬ完璧さをますます認識する。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりである。それはそなたには叶わぬことであるが、われらは無数の方法にてその存在を認識することを得ている。地上という低き界層には届かぬ無数の形で認識する。哀れにも人間はその神の属性を独断し、愚かにも人間と同じ形体を具えた神を想像しているが、われらはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し感得している。われらとの繋がりの中に優しさと愛を感得するのである。

過去を振り返れば、慈悲と思いやりに満ち溢れていることを知る。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われている。未来は……これはわれらは余計な憶測はせぬ。これまでに身をもって味わえる力と愛の御手に全てを託す。詮索好きな人間が好んでするが如き、己の乏しき知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯さぬ。神への信頼が余りに実感あふれるものであるが故に、敢えて思案をめぐらす必要を感じぬのである。われらは神の為に生き、神に向かいて生きていく。神の意志を知り、それを実践せんとする。そうすることが、己自身のみならず、全ての創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信ずるからである。またそうすることが神に対する人間としての当然の敬意を表明する所以ゆえんであり、神が嘉納される唯一の献上物なのである。われらは神を敬愛する。神を崇拝する。神を敬慕する。神に絶対的に従う。が、神の御計画に疑念を挟み、あるいは神秘を覗き見するが如き無礼はせぬ。

次に人間についてであるが、われらは未だその知るところの全てを語ることを許されておらぬ。いたずらに好奇心を満足させることも、あるいは、精神を惑わせることにしかならぬ知識を明かすことも許されておらぬのである。人間の霊性の起源と宿命――いずこより来りいずこへ行くのか――については、いずれその全てを語るべき時期が到来することを信ずるに留めておいて貰いたい。差し当たりては神学が事細かく語り広く受け入れられているところのアダムとイブの堕罪の物語は根拠なき作り話であることを知られたい。恐らくそなたらキリスト者においても、これにまともな思考を巡らせた者ならばそのような伝説に理性がついて行けぬのが正直な事実であろう。差し当たりては人間が物質をまとえる霊魂であることを認識し、支配する神の法則に従いて進歩していくことこそが地上での幸せと死後の向上を導くことを理解すべく努力することである。遙か遠く高き世界のこと――洗練され浄化され尽くせる霊のみが入ることを許される天界のことは、ひとまず脇へ置くがよい。その秘奥は限りある人間の目には見ることを得ぬ。天界への門扉は聖なる神霊にのみ開かれる。そして、いつの日か十分なる試練と進化の暁に、そなたもその列に加えられる日もきっと来ることを信ずればそれでよい。

それよりも今のそなたには、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要であろう。人間はそなたも知る如く一時期を肉体に宿れる“霊魂”なのである。霊体を具えた霊魂であり、その霊体は肉体の死後もなお生き続ける。そのことにつきては聖書でも述べられている。仔細の点には誤りも見られるが、一応正しいと見てよかろう。この霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばならぬ。死後の生活は、そなたの知性の届く限りにおいて、無限である。もっとも、そなたには無限の真の意味は理解できまい。差し当たりてそなたの存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておこう。

その存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿りて生活するに過ぎぬとは言え、意識を有する責任ある存在であり、果たすべき責任と義務があり、各種の才能を持ち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものと見なしている。肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心――往々にして粗末であり未熟ではあるが――を先天的に有する。各自その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、かつ又、要請があり次第与えられる援助の手段も用意されている。こうした事実についてはすでに述べた。こののちにも更に述べることもあろうが、取り敢えず地上という試練の場における人間の義務について述べたく思う。

人間は責任ある霊的存在として、自己と同胞と神に対する義務を有する。その昔、そなたらの先師たちはその時代の知識の及ぶかぎり、そして表現し得る能力の限りにおいて、霊的生活に適切なる道徳的規範を説いた。しかし彼らの知識の及ばぬところ、そしてまた彼らの伝え得ぬところにも、まだまだ広く深き真理の領域が存在する。霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によりて理解され始めたところである。が、その事実により、人間の進化向上を促進せんとする勢力とこれを妨害せんとする勢力とが存在することを窺い知ることが出来るであろう。このことについては、こののち更に述べる機会もあろう。それはさておき、霊的存在としての人間の最高の義務は向上進化の一語――己に関する知識を始めとして霊的生長を促すあらゆる体験を積むことに要約されよう。次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は教養の一語に要約されよう。一つの枠にかぎられぬ幅広き教養を積むことである。地上生活のためのみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動である。そして肉体に宿れる一個の霊としての己に対する義務は、思念と言葉と行為における純粋の一語に要約されよう。以上の進歩と教養と純粋の三つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そしてまた肉体的存在としての人間の己に対するおよその義務が要約されていよう。

最後に、人間と神との関係について申せば、それは最も低き界層の者といえども“無始無終の光の泉”、“万物の創作者”であり“父”であるところの神に近づけるものであらねばならぬ。神を目の前にせる時の人間として相応しき態度は聖書において“天使もその翼もて顔を被う”と表現されているが、まさにその通りである。それは人間の霊に最も相応しき畏敬と崇拝の念を象徴しているのである。うやまおそれるのである。奴隷的恐怖心ではない。あがおがむのであって、屈従的恐怖に身をすくめるのではない。神と人とを隔てる計り知れぬ距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、人間はかりそめにも神の御前にすぐにはべることを求めてはならぬ。ましてや天使にしてなお知ることを得ぬ深き神秘を覗き込まんとする倣慢なる態度は控えねばならぬ。畏敬と崇拝と愛、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性である。

大略ではあるが、以上が自己と同胞と神に対する人間の義務である。枝葉の点については追って付け加えることになろうが、以上の中に人間が知識を広め、よき住民となり、全ての階層の人間の手本となるべき資質が述べられている。この通信、並びにこれまでの通信の中にパリサイ派の学者が重んじたところの儀式的ないし形式的義務についての叙述が見られぬのは、それはわれらがその必要性を認めぬからである。人間が物的存在である以上、物的行為も当然大切である。われらがその点について詳しく言及せぬのは、その重要性について敢えてわれらが述べずとも事足りていると観たからである。われらの中心的関心は霊性にある。全てを生み出すところの霊性である。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行為も自ずと正しく行なわれるものである。われらはこれまでそなたを一貫した原則のもとに扱って来た。それはそなたの関心を真の自己であるところの霊に向けさせ、全ての行為をその内的自我の発現として捉えさせることである。その霊性が地上を去ったのちの霊的生活の全てを決定づけるからである。そこに真の叡智が存する。全てを動かす霊、千変万化の大自然と人類の移り行く姿の底流に存在する生命の実相を知った時、そなたは真の叡智に動かされていると言えよう。現時点においてわれらがそなたに示し得る義務は以上の如きものであるが、次に、その義務を果たせる時とおこたれる時にもたらされる結果について述べねばならぬ。

自己の能力の限りにおいて正直に、そして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして生き甲斐と向上とが得られる。われらが敢えて向上を強調するのは、人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見出すとの不変の真理を見失いがちだからである。これで佳しとの満足は真の魂にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかない。魂は過ぎ去りしものの中に腰を下ろすことは許されぬ。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかない。過去を振り向く態度は満足の表われであり、未来へ向う態度は一層の向上を求める希望と期待の顕われである。満足感に浸り、それにて目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、そのとき魂は退歩の危機にある。霊的存在としての正しき姿勢は常により高き目標に向いて努力し続けることである。その絶え間なき向上の中にこそ真の幸せを見出す。これで終わりという時は来ぬ。決して来ぬ。絶対に来ぬ。

このことはそなたらが人生と呼ぶところの地上の一時期のみに限らぬ。生命の全存在に関しても言えることである。さよう。肉体に宿りて行なえる行為は肉体を棄てたのちの霊界の生活にも関わりを有する。その因果関係はそなたらが死と呼ぶところの境界には縛られぬ。それのみではない。霊界にて落ち着くところの最初の境涯は、地上の行為のもたらす結果によりて定まるのである。怠惰と不純の生活に浸りし霊は当然の成り行きとして、霊界にてそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになる。犯せる罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、一歩また一歩と高き境涯へと向上していく。これが神の法を犯せる者に与えられる罰である。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではない。意識的生活の中に犯せる違反が招来する不可避の悔恨と自責の念の懲罰である。これは懲らしめのムチと言えよう。が、それは復讐に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではない。愛の神がわが子にその過ちを悟らせんとして用意せる因果律の働きなのである。

同様に、善行の報いは天国における永遠の休息などという感覚的安逸ではない。神の玉座のまわりにて讃美歌三昧に耽ることでもない。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によりて安易に得られる退屈きわまる白日夢の如き無為の生活でもない。義務を果たせる満足感、向上せる喜び、さらに向上する可能性を得たとの確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持し得たとの自信。こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に始めて味わえるものである。休息の喜びは働かずしては味わえぬ如く、食事の味は空腹なる者にしか味わえぬ如く、一杯の水の有難さは渇ける者にしか味わえぬ如く、そして我が家を目の前にせる時の胸のたかまりは久しく家を離れし者にして始めて味わえる如く、善の報酬は生活に刻苦し、人生のほこりにまみれ、真理に飢え、愛に渇ける者にして始めて真の味を賞美できるものである。怠惰なる感覚的満足はわれらの望むところではない。あくまでも全身全霊を込めて努力せるのちに漸く得られる心の満足であり、しかもそれは、すぐまた始まる次の向上進化へ向けての刺激剤でしかないのである。

以上に見られる如く、われらは人間を数々の果たすべき義務と数かぎりなき闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱ってきた。別の要素として人間には背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もあるが、ここでその問題を取り挙げる必要性を認めぬ。取り敢えずそなたの視野に映りそなた自ら検討し得る範囲内の事柄に限って述べてきた。また、われらとしては罪なき神の御子、というよりは神との共同責任者としてのイエスに己の足らざるところを全て償わせるが如き、都合よき言説は説かぬ。一度の信仰告白によりて魔法の如く罪を消すと説く、かの贖罪説も説かぬ。卑しき邪悪なる魂も死の床にて懴悔すればイエスがその罪の全てを背負うことによりて立ちどころにして“選ばれし者”の仲間に列せられ、神の国へ召されるなどという説は到底認めるわけにはいかぬ。われらは、そのような卑屈にして愚劣なる想像の産物に類することは一切述べたことはない。援助はある。常に手近にあり、いつでも活用できる強力なる霊力が控えている。しかし、放蕩と貪慾と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くせる人間が、その最期の一瞬に聖者の一人として神の聖域に列せられんが為に自由に引き出せる、そのような都合よき徳の貯えなどはどこにも存在せぬ。臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼び起こす死後の苦しみにおびえる余りにすがらんとする身代わりの犠牲など、どこにも存在せぬ。そのような卑劣なる目的のためには神の使者は訪れぬ。そのような者に慰めを与えに参る霊などおらぬ。万が一にも己の罪に気づき、後悔することがあれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるであろう。神の愛のムチを当てられるままに放置することであろう。何となれば、その苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからである。然るに神学者はそのような者のために神は御子を遣わし、そして全ての罪を背負いて非業の死を遂げさせたのであると説く。それをもって最高の情けある処置であるとし、神の慈悲の最高の表現であると説く。

そのような作り話はわれらの知識の中には存在せぬ。徳の貯えは自分自ら一つ一つ刻苦勉励の中に積み重ねたるもの以外には存在せぬ。至福の境涯に到る道はかつて聖者たちが辿れる苦難の道と同じ道以外にはない。一瞬にして罪深き人間を聖者に変え、したたかなる無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、そなたらの言う天国に相応しき霊となす魔法の呪文など、われらは知らぬ。そのような冒涜的想像の産物はおよそわれらとは縁はない。

人間は一方においてそのような無知にして到底有り得ぬ空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻く折角の霊的援助と加護には全く気づかずにいる。われらは人間自ら果たすべきことを人間に代わって果たす力は持ち合わせぬ。が、援助は出来る。慰めることは出来る。心の支えとなることは出来る。われらは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当たっている。時として余りにあくどく、余りに物質にかぶれ過ぎてわれらの霊力に感応せず、霊的なるものを求めようとせぬ霊に手こずり、あるいは愚弄されることもあるが、霊的援助の手は常に用意されており、真摯なる祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによりて結びつきを強化することが可能なのである。

ああ、何たる無知! 至聖、至純、至善なる霊が常に援助の手を差し延べんと待機しているものを、祈ることを疎かにするが故に、その霊との交わりを得ることが出来ぬのである。魂を神に近づける崇拝、そして天使を動かす祈り――この二つはいつでも実行可能な行為である。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手なる信仰、教義、宣誓、身代わり等々、事実とは程遠きいわれなき作り話に託している。

われらはそうした個々の信仰は意に介さぬ。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩改められていくものだからである。狂気の如き熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体より解放されれば一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられる。生涯抱き続けた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散する。いかに誠意を込めて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われらは信条にはさしてこだわらぬ。それよりもわれらは行為を重要視する。何を信じたるやは問わぬ。何を為せるやを問う。なぜなら人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解するからである。そうした性格も長き苦難の過程を経てようやく改められるものであり、それ故にわれらは言葉より行いに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのである。

われらの説く宗教は行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれなる信仰の宗教ではない。身体の宗教でもあり魂の宗教でもある。打算なき進歩性に富む真実の宗教である。その教えに終局というものはない。信奉者は数知れぬ年月をかけてひたすらに向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨き尽くされたる霊――苦しみと闘争と経験によりて磨き上げられたる霊――が、その純真無垢の姿にて神の足もとにひざまずく。この宗教には怠惰も安逸も見出せぬ。霊の教育の基調は真摯と熱意である。そこに己の行為のもたらす結果からの逃避は見出せぬであろう。不可能なのである。罪科はそれ自らの中に罰を含むものだからである。また己の罪を背負わせる都合よき身代わりも見出せぬであろう。自らの背に負い、その重圧に自ら苦悶せねばならぬからである。さらにまた、われらの宗教には、これさえ信ずれば堕落せる生活をごまかし、これさえ信ずれば魂の汚れを被い隠せるなどという卑怯な期待をもたせて動物的貪慾と利己主義を煽るが如き要素も、いずこにも見出せぬであろう。われらが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではない。そのような気紛れなる隠蔽物は死と共に一気に剥ぎ取られ、汚れた生活が白日のもとに曝され、魂はそのみすぼらしき姿を衆目に曝す。またわれらの宗教には、そのうち神は情けを垂れ全ての罪に恩赦を下さるであろうなどという、ケチくさきお情けを求める余地などさらさら見出せぬであろう。そのような人間的想像は真理の光の前にあっけなく存在を失う。神の情けは、それを受けるに相応しき者のみが受ける。言い換えるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進化がおのずとその報酬をもたらすことであろう。そこにはもはや情けも哀れみも必要とせぬであろう。

以上がわれらの説く霊と肉体の宗教である。神の真理の宗教である。そして人類がそれを理解する日もようやく近づきつつある。

(†インペレーター)

Tuesday, August 22, 2023

シアトルの夏 霊性の開発は茨の道

Spiritual development is a thorny road

高原のスケッチ(ホタルブクロと白樺) イラスト素材 [ 4985898 ] - フォトライブラリー photolibrary

 

 霊性の開発は茨の道です。

苦難の道を歩みつつ、後に自分だけの懐かしい想い出の標識を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。

しかし、利己的生活や無慈悲な生活にそれ相当の償いがあるように、その霊性開発の孤独な道にもそれなりの埋め合わせがあります。悟りが深まるにつれて内的生命、内的輝き、内的喜び、内的確信がいっそうその強さを増していくのです。

生命現象の全てが拠り所とする内的実在界の実相を味わい、神の愛の温もりをひしひしと実感するようになります。それが容易に成就されるとは私は一度も言っておりません。

最高の宝、最も豊かな宝は、最も手に入れ難いものです。しかもそれは自らの努力によって自分一人で獲得していかねばならないのです。

私はかつて地上で何年も生活し、こちらへ来てからも(三次元の世界の数え方で言えば)何千年もの歳月を過ごしてきましたが、向上すればするほど宇宙の全機構を包括し大小あらゆる出来ごとを支配する大自然の摂理の見事さに驚嘆するばかりです。

その結果しみじみと思い知らされていることは、知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟るということは、最後はみな一人でやらねばならない──自らの力で〝ゲッセマネの園〟に踏み入り、そして〝変容の丘〟に登らねばならないのだということです。(第二章参照)

悟りの道に近道はありません。代わりの手段もありません。安易な道を見つけるための祈りも儀式も教義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。

悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。

私がこんなことを説くのは説教者ヅラをしたいからではありません。これまでに自分が学んだことを少しでもお教えしたいと望むからにほかなりません。

さらに私は、一見矛盾するかに思えるかもしれませんが、人のために役立ちたいと望む人々、自分より恵まれない人々──病める人、肉親を失える人、絶望の淵にいる人、人生の重荷に耐えかねている人、疲れ果て、さ迷い、生きる目的を見失える人、等々に手を差しのべたいという願望に燃える人──要するに何らかの形で人類の福祉に貢献したいと思っている人が挫折しかけた時は、必ずやその背後に霊界からの援助の手が差し伸べられるということも知っております。

時には万策尽き、これにて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。

霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が生み出す内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我れ行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。その奇特な意気に感じて訪れてくるのは血のつながった親類縁者──その人の死があなた方に死後の存続に目を開かせた霊たち── ばかりではありません。

あなた方が地上という物質界へ再生してくるに際して神からその守護の役を命ぜられ、誕生の瞬間よりこの方ずっと見守り指導してきた霊もおります。

そのおかげでどれほどの成果が得られたか、それはあなた方自身には測り知ることはできません。しかし分からないながらも、その体験は確実にあなた方自身の魂と同時に、あなた方を救ってあげた人々の魂にも消えることのない影響を及ぼしております。

そのことを大いに誇りに思うがよろしい。他人への貢献の機会を与えて下さったことに関し、神に感謝すべきです。人間としてこれほど実り多い仕事は他にありません。愚にもつかぬ嫉妬心や他愛ない意地悪から出る言葉を気にしてはなりません。

そのようなものはあなた方の方から心のスキを与えない限り絶対に入り込めないように守られております。霊の力は避難所であり、霊の愛は聖域であり、霊の叡知は安息所です。

イザという時はそれを求めるがよろしい。人間の心には裏切られることがありますが、霊は決して裏切りません。たとえ目には見えなくても常に導きを怠ることなく、愛の手があなた方のまわりにあることを忘れないでください。

私としては、たった一言であっても、私の述べたことの中にあなた方の励みになり元気づけ感動させるものを見出していただければ、もうそれだけで嬉しいのです。

私たちに必要なのは霊の道具となるべきあなた方です。豪華なビルや教会や寺院や会館ではありません。それはそれなりの機能があることは認めますが、霊の力はそんな〝建物〟に宿るのではありません。〝人間〟を通して授けられるのであり、顕幽の巨大な連絡網のつなぎ手として掛けがえのない大切なものです。

その道具たらんとして謙虚に一身を擲(ナゲウ)ってくれる人間一人の方が、そうした建造物全部よりも遥かに大切です。頑張ってください。

そしてこれからも機会を逃さず人のため、人のため、という心掛けを忘れないで下さい。世間の拍手喝さいを求めてはなりません。

この世に生れてきたそもそもの目的を果たしているのだという自覚を持ち、地上に別れを告げる時が来た時に何一つ思い残すことのないよう、精一杯努力して下さい。

ここに集える私たち一人ひとりが同胞の幾人かに霊的啓発をもたらすことによって、少しでも宇宙の大霊に寄与することができることの幸せを神に感謝いたしましょう。

人間として霊として、こうして生を享けた本来の目的を互いに果たせることの幸せを感謝いたしましょう。人のために尽くすことに勝る宗教はありません。

病める人を治し、悲しむ人を慰め、悩める人を導き、人生に疲れ道を見失える人を手引きしてあげること、これは何にも勝る大切な仕事です。ですから、こうして神の愛を表現する手段、才能、霊力を授かり、それを同胞のために役立てる仕事に携われることの幸せを喜ばなくてはいけません。神の紋章を授かったことになるのだと考えて、それを誇りに思わなくてはいけません。

これから後も人のために役立つ仕事に携わるかぎり、霊の力が引き寄せられます。人生の最高の目標が霊性の開発にあることを、ゆめ忘れてはなりません。自分の永遠の本性にとって必須のものに目を向けることです。

それは人生について正しい視野と焦点を持つことになり、自分が元来不死の魂であり、それが一時の存在である土塊に宿って自我を表現しているにすぎないこと、心がけ一つで自分を通じて神の力が地上に顕現するという実相を悟ることになるでしょう。

こうしたことは是非とも心に銘記しておくべき大切な原理です。日常の雑務に追いまくられ、一見すると物が強く霊が弱そうに思える世界では、それは容易に思い出せないものです。ですが、あくまで霊が主人であり物は召使いです。霊が王様であり物は従臣です。

霊は神であり、あなたはその神の一部なのです。自分がこの世に存在することの目的を日々成就できること、つまり自分を通じて霊の力がふんだんに地上に流れ込み、それによって多くの魂が初めて感動を味わい、目を覚まし、健全さを取り戻し、改めて生きることの有難さを噛みしめる機会を提供すること──これは人のために役立つことの最大の喜びです。真の意味で偉大な仕事と言えます。

地上のどの片隅であろうと、霊の光が魂を照らし、霊的真理が沁みわたれば、それでいいのです。それが大事なのです。それまでのことは全てが準備であり、全てが役に立っているのです。

魂はそれぞれの使命のために常に備えを怠ってはなりません。

時には深い谷間を通らされるかもしれません。度々申し上げてきたように、頂上に上がるためにはドン底まで下りなければならないのです。地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では〝物〟を有難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。

人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません。そんなものは死と共に消えてなくなるのです。が、他人のために施した善意は決して消えません。なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。

博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。

世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。

が、もしもあなたが他人のために自分なりに出来るだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。

言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するために、あなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重要な仕事です。

手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生れて来たのかを悟り、地上を去るまでに何をなすべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡知と理解を広める仕事に協力していることになります。

肝心なことはそれを人生においてどう体現していくかです。

心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終わってはいけません。今度はそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです。

それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。

自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。

霊的成長にも摂理があり、魂に受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。真の福音、霊的実在についての良い知らせをお持ちしているだけです。

それを本当に良い知らせであると思って下さるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えが出来ていないということです。

イエスはそのことを〝豚に真珠を投げ与えるべからず〟と表現しましたが、これは決してその言葉から受けるような失礼な意味で述べたのではありません。いかに高価なものをもってしても他人を変えることはできないのです。自分で自分を変えるしかないのです。

私たちは同胞の番人ではないのです。各自が自分の行為に責任を持つのであって、他人の行為の責任は取れません。あなたが行うこと、心に思うこと、口にする言葉、憧れるもの、求めるものがあなたの理解した霊的真理と合致するようになるのは、生涯をかけた仕事と言えるでしょう。

あなたにできるのはそれだけです。他人の生活を代わりに生きることはできません。どんなに愛する人であってもです。なぜなら、それは摂理に反することだからです。

そうと知りつつ摂理に反することをした人は、そうとは知らずに違反した人よりも大きい代償を払わされます。

知識には必ず責任が伴うからです。真理を知りつつ罪を犯す人は、同じ行為を真理を知らずに犯す人より罪の大きさが違うのです。当然そうあらねばならないでしょう。

一個の魂に感動を与えるごとにあなた方は神の創造の目的成就の一翼を担ったことになります。これはあなた方に出来る仕事の中でも最も重要な仕事です。

魂に真の自我を悟らせてあげているのであり、これは他のいかなる人にもできないことです。ただし、この仕事は協調の上に成就されるものです。

私ども霊側も強引に命令することはしたくありません。あなた方の理性を押しのけたり自由意志を奪ったりすることはいたしたくありません。あくまでも導くことを主眼としているのです。

あなた方が何か一つ努力するごとに、私どもがその目的に合わせ援助することによって、より大きな成果を挙げるように協力しているのです。

協力し合うことによって人生の全てが拠り所とするところの霊的基盤に関わる重大な仕事に携わることができるのです。

残念ながら多くの人間が実体と影、核心と外殻とを取り違えております。実相を知らずにおります。

言わば一種の退廃的雰囲気の中で生きております──それが〝生きる〟と言えるならばの話ですが、霊の光の啓示を受けた人は幸いです。

私としてはあなた方に、頑張って下さいとしか申し上げる言葉を知りません。霊の無限の力が控えております。

イザという時にあなた方の力となって支えてくれることでしょう。自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにして下さい。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方たちでも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われ、霊的実相を忘れてしまいがちです。

が、それだけは絶対に忘れぬようにしなければなりません。地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。

霊こそ実在です。物質は実在では無いのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じることもできないかもしれません。

少なくとも物的感覚で感識している具合には感識出来ません。

しかし、やはり霊こそ全ての根源であることに変わりありません。あなた方は永遠の存在であることを自覚して下さい。

生命の旅路においてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。

シルバーバーチ