Sunday, December 31, 2023

シアトルの冬 魂の進化  終わることのない巡礼の旅

Growth of the Soul. Never-ending journey

「生命は一つですが、それにはいくつもの等級があります。人間は物質に勝ります。人間は精神と霊で成り立っており、その精神には精神的生活があり、霊には霊的生活があります。さらにこの物的世界を超越した、超物質界に属するバイブレーションもそなえております」

 「人間はその二種類の世界、すなわち今生活しているこの世と、いずれ赴くことになっている、より大きな世界の、双方のバイブレーションを感知することができます。物質でできた身体と霊でできた身体、そしてその両者を結び付けるコードないしはライフライン 〈補注1〉 があります」


 〈訳者補注1〉
 母体と胎児を結ぶ〝へその緒〟と同じように、霊的な栄養を補給するための紐状のものが存在することは日本でも古来から言われており、〝玉の緒〟〝魂の緒〟と綴られている。

へその緒は一本だけであるが、玉の緒はチャクラと呼ばれる主要な生命中枢にあり、特に頭部とみぞおちあたりのものが重要とされている。霊視すると銀色に光って見えるので、西洋では〝シルバーコード〟と呼ぶことが多い。

℘93
 以上はシルバーバーチの霊言からの引用ですが、霊というものが電磁気エネルギーを通してはたらく知性であること、そしてオーラのバイブレーション (磁場) には情報の記憶と検索の機能が備わっていることに得心がいけば、我々の身体を包み込み扶養してくれている生命力の中身が大よそどんなものかが理解できたことになります。

 結局あなたという人物の性格は、そのオーラが機能している場がどのレベルであるかによって決まるわけです。

そのバイブレーションのレベルは、物的身体の五感を窓口として獲得する情報を糧として、あなたという個的存在の精神の内部で醸し出された思念によって、全てではなくても、大半が決ります。

 これをラジオの周波数に譬えて説明すれば、誰しも経験があるように、ある周波数の放送を聞いている時に別の周波数の放送が入ることがあります。

ラジオの場合は相互の関連がないので〝混信〟となりますが、人間のオーラの場合は五つの磁場の相互作用によって、必要な情報が別の次元から入ってくるのです。ホワイトイーグルはバイタル・ボディを例にあげてこう説明しています。

 「この特殊なオーラは、エセリック・ボディと呼ぶ人もいますが、神経組織と密接につながっていて、神経的な負荷が重なると、時と共に物的身体に‷病気〟という形で現れます。間違った思考、間違った食生活、間違った暮らしが生み出す低俗な精神の害毒がこびりつくからです」
℘94  
 別のところでは違った角度から次のように説明しています───

  「物的身体とぴったり合体するように、〝元素体〟(エレメンタル) とでも呼ぶべき媒体があります〈補注2〉。これは本来は邪悪な性質のものではありません。人間のみならず下等な生命体の進化に不可欠の役目を果たしています。

人間はなぜ〝善〟よりも〝悪〟を志向しやすいのかという疑問を抱くことがありますが、その回答はこの〝欲望の媒体〟と呼んでもよいエレメンタルにあります」

 「人類も進化の過程の中で少しずつ高等な自我(現段階ではごく一部しか顕現していませんが)そのエレメンタルな要素を克服していかねばなりません。しかし現実には人類を地上につなぎ止める一種の接着剤として、人類の進化に貢献しているわけです」

「皆さんもこの身体の誘惑を感じているはずですが、それは決して悪の要素とみなすべきではありません。それがあるからこそ霊的なもの、ないしは神を指向する意識の開発を促すことになるからです。地上に降誕するそもそもの目的はそこにあります」 

 〈訳者補注2〉
 原文では the body elemental で、取りあえず 「元素体」 と訳しておいたが、普通はエセリック・ボディに含まれているものとして。個別に扱われることはない。それで、二重になったものという意味でエセリック・ボディのことを〝ダブル〟the Double と呼ぶのが通例である。「複体」 と訳す人もいる。

 
 当然この磁場はマイナスの性格の方が強いので、精神的には低級なバイブレーションに傾きやすく、霊視能力者の目には黒ずんだ赤色にみえます。これは現段階の人類の残っている肉体的欲求や性欲等、下等動物のレベルの波動によるものです。

これから降誕ないし再生してくる後輩にそのチャンスを提供するためには不可欠のもので、決して邪悪な性質のものではありませんが、誕生してきた者はこの地上での生活でそれを適度に発散しながら克服していかねばなりません。

 我々は例外なく自由意思が許されています。ですから、この問題に限って言えば、エレメンタルな磁場が精神の磁場を支配するに任せるか、それともその逆になるように心掛けるかは我々自身の自由意思の選択の問題です。

霊的進化の道は精神のバイブレーションを高めることに掛かっています。逆に言えば、エレメンタルなバイブレーションの進入をどこまで抑えるかです。
℘96
 このようにホワイトイーグルのいうバイタルとエレメンタルが胎児期のオーラを構成しており、ライフライン(玉の緒)を通して、光子の制御機能によって脳にシグナルを伝達します。シグナルを受けた脳はその部位の特性を補完するために、次のような働きをすることが、スチュアート・サザランドの研究で分かっております───

 「基本的な反射作用を受け持ち、爬虫類の脳に類似している後脳(小脳と延髄)はオーラのバイタルの部位と繋がっており、視床下部は下等哺乳動物と同じく性衝動と感情をコントロールしていて、エレメンタルと同じである」と。

 ホワイトイーグルは続いてアストラル・ボディ(幽体)をこう説明する。

「アストラル・ボディは一般の霊視能力者が見てアレコレと診断しているもので、これにも幾つかの色彩があります。エレメンタルの色彩が強いとその色彩もキメが粗くなり、美しいという印象よりは粗野な感じがします」

 「宿っている魂が霊的生命の実在と地上降誕の目的を認識している場合は、オーラの輝きは細やかになり、色彩も一段と美しくなります。ごく普通の人間のオーラは輝きのないもの、陰気なもの、ぼんやりとして鮮明さに欠けるものから、美しくて見事な卵形をしたもの、くっきりとして調和のとれた色彩のものまで、いろいろとあります」

 ホワイトイーグルはこのアストラルの磁場の機能については、具体的なことをほとんど述べていません。そこで私はS・マルドゥーン女史の〝幽体離脱現象〟〈補注2〉 を紹介して、理解に供したいと想います。


 〈訳者補注2〉
 自分の幽体を意識的に体外に出して、それに宿って客観的な観察をする現象を 「幽体離脱現象」 または 「対外遊離現象」 と呼ぶ。実際には人間の全てが睡眠中に体外に出ているのであるが、普通の人間は脳を経ないものは意識できないので、その間のことは朝目覚めた時に記憶が無い。

それを意識を失うことなく思い出させるのが霊能者で、その第一人者がマルドゥーン女史である。ここで引用されているのは心霊研究のH・キャリントンとの共著 The Projection of Astral Body からの一部である。


 マルドゥーン女史はここではシルバーコードのはたらきに集中して観察しています。

「コードはその時どきで集中している網状組織が異なる。観察に都合が良いのは延髄である。自律神経だけで動いている肉体の呼吸機能をつかさどる機関を直接コントロールしているからである。そのコードの組織は、私に見える限りでは、幽体そのものと同じ成分で出来ている」

 「合体している位置から少し動いてズレが出来ると、コードの直径が (古い) 一ドル銀貨ほどであることが分る。それが最大であるが、それを包んでいるオーラの直径は、見た目には六インチほどあるように思える。白っぽいグレーに輝いていて、伸びるとクモの糸を一本に束ねたようにも見える」

 「合体している時と活動している時とでコードはいつも二重の働きをしている。少なくとも見た目にはそう見える。すなわち、一つは規則正しい脈拍。もう一つは心臓の拡張と収縮。

心臓の鼓動の一つひとつが幽体に響き、一つひとつの脈拍がコードで伝わり、一つひとつの幽体の鼓動が肉体の心臓に響く。この三者が同時に起きている」

 「幽体の頭部に触っても心臓の動悸は感じ取ることはできないが、肉体の動悸が自分の手で感じ取ることができるように、幽体の手でコードに触って感じ取ることはできる」

 「幽体の呼吸の一つひとつがコードに響き、同じ呼吸がトランス状態の肉体に連動する。意識を失わずに体外へ遊離した時は、肉体に宿っている時と同じように呼吸を自在に止めることができる。止めると同時に、先ほど述べた拡張と収縮も止まる。が、呼吸が止まっている間も、規則い正しい脈拍は続いている」

 「幽体で深呼吸すると肉体も深呼吸する。短いと肉体の深呼吸も短く、息せき切った呼吸をすると肉体も息せき切った呼吸になる、といった調子である」

 「以上が幽体の〝生命配線〟の目的、つまり〝生命の呼吸〟を肉体に送り届けることである。本当の〝あなた〟は幽体に宿る存在であり、呼吸している生命は宇宙エネルギーなのである」

 こうした観察をしている本人 (マルドゥーン女史) は意識を失わず幽体に宿っており、その間、肉体の機能はすべて維持されています。これで、「本当のあなたは幽体に宿る存在」 であり、肉体は幽体からの入力によって機能していることがお分かりいただけるでしょう。そしてさらに、ホワイトイーグルの次の言葉に得心がいくことでしょう。

 「あなた方は地上生活中に自分のオーラを築いているのです、さまざまな欲望の充足を通して幽体を養い、幽体を通して霊体と本体を養っているのです。本体も地上生活における行為とその反作用、心に抱く思念と願望によって構築されていくのです」

 物的環境における五感の作用の影響によって霊的に向上すると、思考のレベルも向上します。

かくして 「類は類をもって集まる」 ように、意識が高まるにつれて本体の磁場の波動に触れるようになります。霊能者の背後霊団に〝入れ替え〟があるということが言われていますが、それは多分このことでしょう。

 それをシルバーバーチは別の角度から次のように述べています。

 「あなた方が生き、動き、呼吸し、考え、反省し、決断し、判断し、思いを巡らし熟慮するのも、霊の力のお蔭です。見聞きし、動き、歩き、思考し、おしゃべりするのも霊力のお陰です。

あなたの為すことの全て、あなたの存在を形成するものすべてが霊力のお蔭なのです。なぜなら、物質界の全て、あなたの物的身体も、存在と目的と方向性と生命を付与する霊的エネルギーの流入があるからこそなのです」

 「皆さんには肉体の鋳型としてのエーテル質の身体 (ダブル) があります。が、これには筋肉とか胃液とか聴覚とかはそなわっておりません。これは霊が肉体として顕現し、有効に機能するための中継的存在であり、死とともに霊が次の階層の生活にそなえるための基本的な役目を終えます」

 「それは程なくして脱け殻のように剥がれ落ち、変わって別の身体が用意されます。霊的純化の過程を重ねるためには幾つもの身体が必要なのです。皆さんにはそのための身体が幾種類もそなわっています」

 「人生の目的は進化であり、成長であり、成就です。進化するにつれて自動的に古い身体を捨てて、次の段階に必要な新しい身体をまといます」

 「現段階においても、皆さんには幾つのも身体がそなわっていて、それぞれの次元で顕現しているのです。肉体を捨てると今度は幽体をまといますが、それは地上生活中もずっとそなわっていて、その次元のバイブレーションで機能していたのです。

肉体が今のあなた方には実感があるように、その次元においては幽体に実感があるのです」

 「あなた方には複数の身体がそなわっています。それを幽体とか霊体とか本体とか呼んでいます。到達した次元にふさわしい身体で自我を表現します。

次の次元の階層へ行けばそれまでの身体は毛虫が脱皮するように脱ぎ捨てます。到達して発段階にふさわしい形態で自我を表現するわけです。そうした形での発展が無限に続くのです」

 「見方によっては、地上界も幽界の一部であると言えないこともありません。全ての階層が、個別に仕切られているのではなく、互いに浸透し合っているからです。全宇宙の生命の全階層が互いに混じり合い浸透し合っており、それに霊的側面、幽的側面、物的側面があるということです。

今こうして地上で生活している皆さんも、同時に霊的世界ともつながっていることになります」
℘102
 「全生命は一つで、それに無限の進化の段階があるということです。あなたはいずれ霊界の住民となりますが、今この時点でも立派に霊界の住民なのです。要はバイブレーションの問題です。

あなたはいずれ霊的存在となりますが、今この時点でも立派に霊的存在なのです。死んでから霊的存在となるのではありません。死はあなたの霊格を一ミリたりとも伸ばしてくれません」

 「あなたは霊なのです。これまでもずっと霊でしたし、これからも霊であり続けます。今の自我意識は物的身体を通して顕現した部分だけの意識です。あなた方のおっしゃる〝死〟のあとにさらに進化していくにつれて、それまで未開発の部分が顕現されていきます。

しかし、霊そのものはどこかへ行ってしまうわけではありません。どこかからやってきたわけでもありません。ずっと存在していましたし、今も存在していますし、これからもずっと存在し続けます」

 「もし皆さんが、自分が肉体を携えた霊的存在であること、地上界が全てではないこと、物的なものは束の間の存在であることを自覚してくだされば。もしも皆さんが、本当の自分、不滅の自分、神性を帯びた自分が死後も生き延びて無限の進化を続けることを自覚してくだされば」
℘103 
 「そうすれば、賢明なるあなたは自然の成り行きで、本来の生活の場である死後の世界にそなえた生活を送ることになることでしょう。あなたのなさる行為のすべてが、到達した霊的覚醒のレベルに似合ったものとなることでしょう」

 ダブルも含めた幽体についての以上の説明をまとめると、我々人間は肉体と一体となってはたらく目に見えない身体を通して、物質界の波動の中での行為とその反動によって築かれる意識レベルで、自我を表現していることになります。

 その幽体の磁場を支配しているオーラは、他の幾つかの磁場から出るオーラと渾然一体となっていて、五感を通して吸収した知識のすべてが蓄積され、必要に応じて検索することが可能であるといいます。「したがって・・・・・」 と、シルバーバーチは続けてこう語っています───

 「オーラを霊視しその意味を解釈できる人には、その人物の秘密のすべてが丸見えということになります。魂が今どの程度の段階にあるか、精神がどの程度まで発達しているかが分ります。要するに霊性進化の程度をオーラが物語っているのです。言わば、書物を読むようなものです」

 「あなたが口にしたこと、あなたが心に抱いたこと、あなたが行ったことのすべてがオーラに刻まれています。外面をいくら繕っても、あなたの内部の本性をそのまま表しておりますから、オーラはいわば永遠の鑑定書のようなものです」

となると当然キリスト教で言う 「白い立派な椅子に腰かけた人」 がいて審判を下す、というようなことはないことになります。

この地上生活中に、我々各自のオーラに刻まれた人生体験を通じて、自分が自分の審判者ともなり陪審員ともなるのです。霊的進化の次の階梯がどのようなものになるかは、そのオーラのバイブレーションによって決まることになります。

 例えば、どす黒いオーラを持った人、汚れた赤色のオーラをした人、グレーないしは茶色のオーラをした人は、死後、それぞれが暗示するレベルの階層、暗くて陰気な世界へ赴くことになります。ブルーやパープル (深紅色) をした人は我欲を滅却した、霊性の高い魂が集まる階層へ赴きます。類は類を持って集まるわけです。

 ホワイトイーグルはこの幽体の他にさらに霊体と本体の存在を指摘して、次のように述べています───

 「この幽体の向こうに、もう一つ、同じような卵形をしていながら、さらに霊妙な成分で構成されたオーラが見えます。これが霊体のオーラです。これも思念の変化に応じて次々と色彩を変化させています。

そして、この霊体のさらに向こうに、それと浸透し合うように、さらに一段と霊妙なバイブレーションをした神体ないし本体のオーラが見えます。形体も美しく、殆ど形容できないほど神々しい色彩をしています。譬えるものが地上に見当たらないからです」

 ホワイトイーグルが言っていますーー

 「人間の自我がこの本体に宿るのは、肉体が地上生活を終え、幽体による幽界生活───サマーランド 〈補注3〉 も含む───を終え、さらに霊体による霊界生活を終えてからです。それぞれの階層はそれぞれのオーラに宿って初めて体験できるのです」


 〈訳者補注3〉
 Summerland は幽界の一部で、何もかも叶えられる、いわゆる 「極楽」 に相当。実際は地上時代の辛い体験のトラウマを癒すことを主な目的とした、一時休憩所のような境涯。 「常夏の国」 と訳されることが多いが、ひとくちに「夏」 といっても国によってさまざまなので、言語読みの方がよいであろう。


 精神がいちばん反映する霊体のオーラは、宿っている霊的自我の霊格をもっと正確に物語っているとみてよいでしょう。というのは、その自我のバイブレーションを高めるのも下げるのも、他のオーラとの相互作用の結果として精神の中で構成される思念や意思だからです。

 霊体およびエレメンタル (ダブル) の磁場ではたらく生命エネルギーはその磁場だけに限られていますが、精神には自由意思がそなわっているために、神体のレベルのバイブレーションからエレメンタルのバイブレーションまで、そのはたらきが広範囲にわたっているからです。

 これでお分かりになるように、精神が冷静さと自信を持つようになるまでは、幽体とエレメンタルの磁場はちょっとした出来心にも動揺をきたすことになります。これは実は地上界の我々人間に限られたことではないようです。

 私はいわゆる霊媒現象、つまり霊的能力を持つ人間の手 (自動書記) や口 (霊言) を使って先輩のスピリットが伝えてくれるところを分析してみると、死後の世界も地上世界と少しも変わりはなく、身体が肉体から幽体や霊体に変わるだけで、精神的生活は全く同じであることが分ってきました。

シルバーバーチの言う 「ボディ (身体)・マインド (精神)・スピリット(霊)の、三位一体の存在」 であることに変わりないということです。
℘107
 ということは、死んでも人間的個性は少しも変わることはなく、勉強と修養と努力、そして試行錯誤の繰り返しの中で、大宇宙の創造者、シルバーバーチのいう 「大霊」 Great Spirit に少しずつ近づいていくということの連続のようです。

地上の人間の 「脳」 は精神の指揮・命令を受けたり出したりする、いわばロボットの伝達中枢機関にすぎないのです。

 具体的に言うと、五感の反応が脳を通して光子(フォトン)の性質をした信号が伝達され、それを受けた精神の反応が脳を通して五感に伝達され、それが行為となって実行に移されるという具合に、精神はオペレーターの役をしているわけです。

その情報の連絡手段として使用されるのがシルバーコードで、その情報が脳に伝達されて、それが全身の機能に自動的に反応するのです。

「いったんシルバーコードが切断され、肉体と霊(自我)との連絡が途絶えると、それきり肉体の活動はなくなります」 と言うシルバーバーチの言葉に納得がいきます。

 旧約聖書の 『伝道の書』 の第十二章に次のような一節があります───
 《その後、銀の紐 (シルバーコード) は切れ、金の皿は砕け、水がめは泉のかたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける。チリはもとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。伝道者は言う、 「空は空、一切は空である」 と 》 (日本聖書協会一九五五年改訳版)
℘108  
 これは一例に過ぎませんが、昔の思想家は今日の思想家よりもはるかに奥深いことに通じていたようです。第二章の最後で紹介した H・S、バー教授は〝生命の磁場〟の研究の中で精神の問題に言及して、こう述べています───

 「ところで我々は、チャールズ・シェリントン卿が数十年前に指摘した事実、つまり人間の精神は時間の中にも存在しないし、空間の中にも存在しないし、知られている限りいかなるエネルギーの転換もない、ということを思い出すべきである。

ところが精神組織は間違いなく時間の中に存在するし、空間を占めているし、エネルギーの転換が必要である」

「確かにこれは謎めいている、人間の精神という非物質的なものが有機的な神経組織を支配しているというのはいったいどういうことか? 道徳上の規範もこれに類する問題である」

 「道徳律も精神的規律も時間の中に存在していないし、空間を占めていないし、知られている限りではエネルギーの転換もない。にもかかわらず、いわゆる精神世界の方が人間の行動を支配していることを示す証拠は、大ざっぱではあるが、我々はすでに手にしている。精神と肉体という全く異質のものが一体どうしてつながるのか、誰にも分らない」

 バー教授は精神の本質については理解していましたが、彼は〝生命の磁場〟をあくまで単数(一つ) として考察し、複数(いくつも)存在することを知らなかったために、そこから先の理解がいかなかったわけです。

 その複数の磁場の全てがオーラの中に存在することを、ハーバード・L・カーニング教授とW・クロイ博士が学問的に確認してくれたおかげで、我々はホワイトイーグルの霊言を信じて、そうした磁場の働きが明快に理解できる訳です。

 ホワイトイーグルは、自分の霊的進化の責任は自分で負う事を強調して、次のように述べています───

 「地上生活中のあなた方は、心に抱く願望によって、幽体と霊体と本体の発達を促しているのです。最高の波動をもつ本体も、今の地上生活における行為とその反動 (善悪両面の報い)、 思念と願望によって形づくられているのです」

 オーラの波動によって最高の磁場である本体までもが直接的に影響を受けていると同時に、日常生活の中で獲得した知識を活用し、理知的判断によって低級な波動をもつダブルや幽体の内部でのバイブレーションを上げることも可能となります。

それは、逆に言えば、精神に抱く思念が低俗になればバイブレーションが低くなり、それがあなたの生活を支配することになるわけです。

 そうした意識レベルはすぐに幽体に反映し、‷類は類を呼ぶ〟の法則にしたがってそれが増幅され、霊体、本体へと影響が及びます。そうした自然法則の働きで霊格が定まり、そのレベルで死後の生活が始まるわけです。

 霊的磁場でも最高のバイブレーションをしている本体は積極的な思念の源で、個人だけでなく人類全体の幸せを思います。日ごろの生活の中での心の持ちように常に注意を払うことは、本体の磁場のレベルへ近づこうとしていることになります。

 この本体のはたらきは、普通は〝良心〟として意識されています。が、生まれ落ちた民族の伝統的な信仰に影響されて、それが〝ゴット〟〝アラー〟〝父〟〝主イエス〟〝守護天使〟〝指導霊〟などと結び付いていきます。

もしもそれを〝宇宙の大霊〟であると信じているとすれば、それが霊媒という一個の人間を通じて語りかけてきたと思い込むのは、あまりに尊大な考えであるということになります。

 これをシルバーバーチ流に解説すれば、霊的に進化するにつれてオーラの磁場の身体が一つひとつ振り落とされていきますが、いちばん中心部にある叡知の磁場である本体とのつながりだけは途切れることはありません。

言い換えれば、今どの次元の階層にいても、精神の意識レベルを下げることによって、永遠の魂の旅路において必要な叡智と知識を授かることができるということです。
℘111
 ではどうやって授かるのか? それをシルバーバーチは次のように説きます───

 「それはインスピレーションによって授けられるのですが、意識的にしろ無意識的にせよ、私たちの世界 (霊界) の誰かとの繋がりができて、その間だけその霊からパワーやインスピレーションやメッセージを授かるのです。意識的なこともあれば無意識的なこともあります。それはその時の環境条件によります」

 「が、皆さんと私たちの間では常に何らかの思念を授かったり授けたりしています。私たちと同じ波長の次元にいる人間、つまり霊性が似通っている人間は、私たちが送る思念を受け取りますし、彼らもまた私たちに通じる意念を送ってきます。その波長は霊性の進化の程度によって決ります」

 「結局皆さんは受信局であると同時に送信局でもあるわけです。思想や概念を自分一人でこしらえることは滅多にありません。ラジオにもテレビにもチャンネルないしバイブレーション───周波数というのが適当でしょう───というのがあり、それに合わせると聞こえたり見えたりするのと同じです」

 「皆さんにも皆さん独自の波長があり、それと同じ波長をした霊たちからの思想や概念、提案、インスピレーション、指導、その他もろもろのアイディアを受けています。それが皆さんの個性によって色付けされて放出され、また誰か別な人が受け止めたりしています」

 サイコメトリ、ダウジング、テレキネスシ 〈補注4〉 といった物理的な心霊現象でもやはり霊能者の精神の磁場と物体の磁場の波長が一致しているからこそ発生するのです。

物体にも磁場が存在するのは、シルバーバーチが言うように 「物資は霊の働きかけがあって初めて存在を得ている」 からです。

 かくして、存在するものすべてが振動し、放射し、活動しています。その磁場のバイブレーションは動物界、植物界、鉱物界それぞれの振動をしており、人間のオーラと同じように情報を記憶し伝達できるのです。シルバーバーチは言っています───

 「それぞれのバイブレーションに合わせる能力はその霊能者の霊的感性の問題です。あなた方は今、物質のバイブレーションに制約されています。物質しか反応できないのです。

霊視能力を持った人は物的な光線を超越したバイブレーションに感応できる人です。霊聴能力を持った人は物的な音域を超えた霊妙なバイブレーションを聞くことができる人です。要はその霊能者という道具の感度の問題です」

 人間はオーラの磁場を通して固有の性格を発達させると同時に、死後も続く永遠の魂の旅にそなえているのです。それが天国となるか、それとも地獄となるか、その選択は各自の自由意思にゆだねられています。刻一時が選択の時なのです。


 〈訳者補注4〉
 Psychometry. Dowsing. Telekinesis サイコメトリは物体のオーラに刻まれている、その物体にまつわる事情を読み取る能力。ダウジングは地中や海中の水脈や鉱物など、もろもろの潜在物を探り出す能力。テレキシスは念力で物体を動かす能力。能力そのものは精神的なものであるが、働きかける対象が物的なもので、物理現象の中に入れられている。
           

Saturday, December 30, 2023

シアトルの冬 自分とは何か 永遠に変わらぬ真理を求めて

Who am I? Seeking the eternal truth
The UNIVERSE of SILVER BIRCH
by
Frank Newman

 シルバーバーチの最大の特徴は、成熟した大人の精神を持つ人間の理性的判断力に訴える態度に終始したことです。つまり自分が説くことで理性が反発を覚えることがあれば遠慮なく拒否してほしいと明言し、常に人類への慈しみの心で臨み、愚かしい質問にも決して腹を立てず、
失礼な態度を咎めることもなく、その態度と教説の内容は、みずから広言して憚らなかった 「宇宙の大霊から遣わされたメッセンジャー」 に恥じないものでした。

 もう一つの特徴は、自分の教えにハクをつけるために地上時代の高貴な身分や仰々しい肩書き、歴史上の大物の姓名を名のるようなことはしないという、厳しい掟を自ら自分に課したことです。 〈補注3〉


 〈訳者補注3〉
 この一節はシルバーバーチ自身語った言葉を著者が平たく述べたもので、これに類することは、その後もシルバーバーチは、表現を変えながら何度も述べている。

例えば 「私が地上でファラオ (エジプトの王) だったと言えば尊敬し、奴隷だったと言えばサヨナラをなさるおつもりですか」 と皮肉っぽく述べたり、 「人間は肩書きや身分や知名度などに拘るからいけないのです。

私がいかなる程度の存在であるかは、私が述べていることで判断していただきたい」、さらには 「私が述べていることが皆さんに訴えなくなったら、その時は存在価値はなくなったということでしょう」 とまで述べている。

 こうした一連の発現を裏返せば、そこにスピリチュアリズムと言う 〝地球人類の霊的浄化活動〟 が人類史でも空前絶後の、神界までも総動員した途方途轍もない大事業である事を、改めて実感させられる。〈補注2〉 で述べた、人間的煩悩から出る好奇心に超然とした態度がそこにあり 「謙虚」 などという言葉で表せる次元の話ではないのである。


さらにもう一つシルバーバーチは、私の専門であるバイブレーションの変換によって、自分よりさらに高い次元から送られてきたものを、地上で北米インデアンに所属していた霊を地上界(バーバネル) との直接アンテナとして送り届けているのであって、その教えは自分が考えたものではないと率直に述べている点でも、極めて特異です。

上には上があり、そのまた上にも上があり、宇宙は事実上無限の彼方までつながっていると言うのです。

 それは言い換えれば叡知(さとり)にも際限がないということになります。理解度が到達した次元までの知識を授かるのであって、それは一人ひとり違うことになります。スピリチュアリズムの発達の跡をたどってみても、心霊科学の発達も一進一退で、常に疑惑の目で見られてきました。

それは、人類の科学的知性がまだ霊的なものを証明する段階まで発達していなかったことを意味します。

 同じことがシルバーバーチの教えの理解についてもいえます。シルバーバーチが言わんとする核心まで理解が及ばず、結果的には、地上生活を送っている人間にとって都合のよいように解釈されていることがあります。

 新しいタイプの小説でも読むような感覚でシルバーバーチの説く宇宙観を読む人もいるようです。その核心に触れて目を覚まされ、本格的に人生を見つめ直すところまで行く人は、残念ながら少ないようです。あちらこちらで盛んに行われている超能力のデモンストレーションの話題を面白おかしく読むだけで満足している人もいます。

 また、信仰さえあれば知識はどうでも良いのではないかと思っている人も多いようです。そういう人は次のシルバーバーチの言葉をよく噛みしめてください。

 「知識は常に必要です。また常に求め続けるべきものです。もうこれで十分だと思って求めることをやめる人は、事実上、己の無能を宣言し、堕落し、錆びついていくことを求めているようなものです。魂は向上するか堕落するかのどちらかであり、同じ位置に留っていることは出来ません。人間は永遠に休むことのない旅人なのです」

℘45  
 さらに信仰について意見を求められてシルバーバーチはこう述べています。

 「人生には二つの大切な要素があります。一つは知識、もう一つは信仰です。知識の裏づけのない信仰は弱くて頼りになりませんが、知識に信仰を加えると素晴らしい組み合わせとなります」

 「このサークルの皆さんは、人生とその意義についての理解をもたらしてくれた知識をお持ちです。が、その知識も大海の一滴に過ぎないこともご存知です。そこに信仰という要素の必要性が生じます。しかし、あくまでも知識に裏打ちされた信仰であり、盲目の信仰ではありません。

知性を侮辱するような信仰ではなく、知識を基盤とした信仰、信じるに足る知識に裏打ちされた信仰です」

 知識と信仰、この二つの関係は五感で認識する世界と心で認識する世界の関係にすぎません。従って、限られた五感の世界を超越した知識を得ようとすれば、より高い次元で機能している意識に波長を合わせれば良いのです。

その時に直感される知識を〝悟り〟というのであり、それが人間の道徳的・霊的本性の向上を促すことになるのです。それをシルバーバーチはこう説いています。

 「あえて申し上げますが、地上界にもたらされる恩恵は、発明も発見もことごとく霊界にその根源があります。あなた方の精神は地上界へ新たな恩恵が霊界から届けられる、その受信装置のようなものです」
℘46
 こう述べてから、その知識を受け取った者には必然的に義務が生じることを指摘して、次のように述べます。

 「真理というものは、求める人には分け隔てなく与えられるようになっています。しかし、それを求める道は大いなる冒険の旅になることを覚悟しなければなりません。

境界線の見えない、果てしない探究の旅に出かけることを覚悟しなければなりません。時には障害が立ちはだかり危険にさらされることも覚悟しなければなりません。地図のない未知の領域を歩まざるを得ないことも覚悟しなければなりません。

しかし、そうした時でも、あくまでも真理の指し示す道に従い、誤りと思うことは、いかに古くからの教えであっても潔く拒絶する勇気がなくてはなりません」

 「新しい真理というものはありません。真理は真理です。それを受け入れる用意ができているか否かによって、そのレベルが決ります。皆さんも子供の時は能力に似合ったものを教えられます。アルファベットから教わって、知識の成長に従って単語を覚え文章が読めるようになります」


 「その単語に含まれている意味も、一度に分かるわけではありません。少しづつ分かっていきます。どれだけ理解できるかは、一(イツ)にかかって当人の理解力によります。

叡智には無限の奥行きがあります。精神的に、そして霊的に受け入れる用意が出来たものだけのものを手にすることができるのです」


 「みずから思いたって真理探究を志し、行為と想念でもって意思表示をすれば、その人物がそれまでに到達したレベルに相応した知識と教えを授かるように法則がはたらいて、その波動と調和し始めます。そのレベルには限界というものはありません。

ここで生き止まりと言う境界もありません。なぜなら人間みずからが無限の霊性を宿しており、真理も無限に存在するからです」

 「学ぶ前に、それまでの知識を洗い直さないといけません。正しい思考を妨げてきた夾雑物をすべて捨て去らないといけません。それができて初めて霊的成長の準備が整ったことになり、より高い真理を授かる用意ができたことになります。間違った知識、理性が反発するようなこと、宇宙の大霊の愛と叡智と相容れないものを捨て去ることがまず先決です」

 「伸び伸びとした思考が出来るようにならなければいけません。みずからを束縛してはいけません。自分の世界に垣根をこしらえて、新しいインスピレーションを入れなくしてはいけません。

真理探究の道はこつこつと絶え間なく続きます。魂が進化し、それに精神が反応して広がれば広がるほど、境界線はますます広がっていきます」

 「知識、真理、叡智、成長に限界がないことに気付いた時、あなたは真の意味で自由になるのです。心の奥で間違いに気付いたもの、理性が反発するものを即座に捨て去ることが出来るようになった時、あなたは自由になるのです。新しい光に照らして間違いであることが分ったものを、恐れることなく捨て去った時に始めて自由になるのです」

 「第三者の指導によってそういう状態に導くというのも一つの方法であることは違いありませんが、興味を見せているだけでまだ真理に目覚めていない人に、それがどういうものであるかを説明する時は注意が必要です。

当人はそれだけで悟ったように錯覚し、貴重な人間的努力や体験を低次元の霊力で代用して、それでよしという安直な満足感を抱かせる結果になりかねません」 〈補注4〉


 〈訳者注4〉
 これは一口で言えば、霊的真理を丸暗記しても悟ったことにはならないということを述べたものであるが、もっと大切なことも暗示している。シルバーバーチは 「サイキック」 と 「スピリチュアル」 とを区別している。

前者は肉体と幽体のレベルの法則が絡み合って生じる現象のことで、これは自我の霊性は関与しない。これが後者となると自我が覚醒し高級なスピリット、特に守護霊の働きかけが加わる。

前者にもスピリットの働きかけがあるが、まだ地上界の波動から抜けきっていない者、いわゆる 「自縛霊」 の集団であるから、浅はかな知恵で本来は人間が努力して行うべきこと、時には失敗や病気や災難を通して悟るべきチャンスを、あたら奪ってしまうことになる。

「あたら」 というのは高級霊の立場にたってそう述べたもので、彼らは親切のつもりでいても、それは喩えで言えば、学校の宿題を親がやっているようなものであり、あとで困るのは本人自身で、霊的進化が遅れることになる。

誰でも参加してよいような、安直に催される交霊会に出現するスピリットに 「人生相談」 を持ちかけるのは危険である。


 「要するにスピリチュアリズムの基本理念は、地上人類を物質的に豊かにすることではなく、霊的に豊かにすることです。いったい自分とは何なのか、宇宙とは何なのか、そして全てを創造した大霊とは何なのかについての理解に必要な摂理と実在についての知識をもたらすことです」
℘50
 「地上界がそれを必要とするのは、それを知ることこそが人生の全体像をつかみ不可解なことを理解しやすくするからです。その理解さ得られれば、あまりにも長いあいだ進歩のブレーキとなってきた、誤った教えが生み出す幼稚で悪逆な行為に苦しめられることがなくなるでしょう」

 「それが理解できない人はいるでしょう。そんなものは必要ないと考える人もいるでしょう。子供と同じで、まだオモチャが手放せない人もいますから、そういう人にはそういう人なりの教え方が必要です。

霊的真理の普及を目指すこのスピリチュアリズム計画の背後の全体像を、ぜひ理解してください」

 「スピリチュアリズムは、地上界を長いあいだ取り巻いてきた暗闇、今の時代になって、つらい思いとともに次第に分かってきた悪逆非道の原因を根絶することが目的なのです。

そうした邪悪の根源には霊的摂理への無知があります。唯物主義とそれが生み出す私利私欲の悪弊を吹き飛ばしさえすれば、地上界を最大の呪いから救うことができるということを、もうお分かりいただけると思います」

 「皆さんが偶然の産物ではないこと、気まぐれの遊び道具ではないこと、無限のエネルギーを秘めた無限なる霊すなわち神の一部であることは、すでにご存知です。

この真理が世界的規模で受け入れられれば、またこの物質界の彼方にも別の世界が存在すること、地上界で送る自分の生活には自分が責任を取らされ、それが次の世界に反映されること、そこには完全な公正を持ってはたらく永遠に不変の摂理が存在すること、こうしたことを単なる知識としてではなく実感をもって認識できるようになれば、人生の新しい基盤ができたことになります」

 「私たちがこうして地上へ戻ってきた理由はそこにあります。すなわち、たった一人の人物、たった一冊の書物、たった一つの教会、物質界であろうと霊界であろうと、たった一個の存在に忠誠を尽くすのはおやめなさい───ひたすらに大霊の摂理にのみ忠誠をつくしなさい。

と説くためです。誤ることも間違うこともないのは大霊の摂理だけだからです」

 「大霊の摂理の大切さを強調するのはそのためです。それを理解することによって全知識が調和するのです。科学者も哲学者も自由思想家も、その他いかなる種類の人間も、これだけは理性が反発を覚えることはないはずです。

なぜならそれは、永遠に不変・不易の大霊のはたらきの上に成り立っているからです」


 「進化のいかなる段階においても。、暗闇の中を歩むよりは光の中を歩む方が良いに決まっています。無知でいるよりは知識を身につけている方が良いに決まっています。ですから、いやしくも知性を授かった人間ならば、知識の探求は人生の基本的な目的であらねばなりません。

それを怠ると、迷信と偏見と不寛容と頑迷さがのさばるようになり、それを抑えきれなくなります」
℘52
 「ここまで来ればもう十分だという段階は決して来ません。学ぶこと、成長すること、進歩すること、向上すること、より高いものを求め低いものを捨て去ること───これはどこまで行ってもやむことがあってはなりません」

 「しかし、知識には責任が伴います。これも埋め合わせの原理の一環です。かつて所有していなかったものを手にした時、天秤のもう一方には、その知識をいかなることに用いるかという責任が生じます」

 「霊の力の働きかけを人類の歴史の特殊な時期だけに限られた、神の啓示の最後のものと受け止めてはなりません。啓示はその時代、その民族の理解力の進歩に応じて絶え間なく、そして発展的なものが授けられるのです」

 「必然的にそれは理解力の範囲内のものだけということになります。ほんの一歩だけ進んだものが授けられ、それが終了すればさらに次の段階のものが授けられます。その叡智の階段は無限の彼方まで続いているのです」
℘53
 「知識は喜びや幸せ、心の平静をもたらしてくれますが、同時に、その知識をどう生かすかという責任をもたらします。無知が生み出す愚かしい取越苦労を追い出してくれますが、その知識を手にした人間としてやらねばならないことにも気付くはずです。

知らなかったが故に犯す罪にもそれなりの代償は免れませんが、知っていながら犯す罪には、知らずに犯す罪より重い代償を支払わねばなりません」


 「時として、脳だけが発達して、精神と霊の発達が伴っていないことがあります。いわゆる〝知的人間〟ということになりますが、知的だから偉大であるとか立派であるということにはなりません」

 「それは物的側面、つまり脳に限られた発達です。そういうタイプの人間の中には、込み入ったこと、難解なことほど価値があるかに思っている人がいることは事実ですが、精神と霊性が正しく発達していれば、霊的真理の理解もそれだけ深くなります。

結果的には古い誤った概念を捨て去ることになり、それだけ真実に近づくことになります」

 「サークルの皆さんには、普段の物的生活の裏側で人知れず行われていること、地上界に打ち寄せている莫大な霊的エネルギー、皆さんを価値あることに使用せんとして苦心している大勢のスピリットの存在についての知識を得ていただきたいと思います」

 「また、あなた方自身に秘められた霊的本性の強力さと豊かさを我がものとしていただくために、その潜在力について理解していただきたいと思います。大霊の叡知、霊的叡智は無尽蔵であること、大霊の財産は無限であることを理解していただきたいのです」

 「断言しますが、真剣な気持ちで自分を役立てたいと願う人は、宇宙最大のパワー、生命力そのものを引き寄せることになります。それが義務の一つだからです。熱意を込め、そして賢明に活用することです」

 「ご自分の手の届く範囲の人に手を差し伸べなさい。この霊的真理の話をして聞き入れてくれない人は、その人の思う道をいかせればよろしい。

ご自分の光と良心に照らして、これで良いと思う通りにおやりになることです。何ごとも動機が大切です。動機さえ正しければ、いかなる事態になっても、最後は必ずうまくいきます」

 「いつどこで、と迷わずに、いつでもどこでも霊的真理を説くことです。時には拒絶されたり、小バカにされたり、物笑いのタネにされたり、嘲笑の的にされたりすることもあるでしょう。そんなことに構うことはありません。そんなことで怯むようではいけません。

受け入れる用意のできていない人は拒絶して当たり前です。あなたはなすべきことをなさったのです。それよりも魂に渇きを覚え、一滴の水を欲しがっている人が大勢います。
℘55
そういう人にとっては何にも替えがたい貴重な施しであり、そういうチャンスに恵まれたあなたは、たったそれだけで地上に存在した意義があったことになるのです」

 「真理は閉ざされた心には入ることが出来ません。受け入れる用意のできた人の心にだけ居場所を見つけることが出来ます。真理は、大霊と同じく無限に存在します。

このうちのどれだけを手にするかは、各自の受容能力によって決ります。受容能力が増せば、それだけ多くの真理を悟ることになります。が、いくら努力しても、宇宙の真理の全てを手にする段階には到達できません」


 以上は何冊かの霊言集から、霊的真理を知るということはどういうことなのか、また、霊的に向上するためには現在よりも次元の高い意識階層からの教えを吸収しなければならないことを説いた言葉を引用したものです。

それにお金はいりません。必要なのは時間と忍耐力、そして、いかにして高次元の世界の波動に合わせるかの問題だということです。

 波動が合わせられるレベルは、人間性を形成する上で大きく関わる広範囲のテーマや興味にいかなる態度で臨むかによって違ってきます。

それ次第で見えざる世界のどのレベルのスピリットと波動が合うか───呪術師ていどか、それとも煩悩の束縛から解放された高次元のスピリットなのかが決ります。私を指導してくれているスピリットがどの程度のレベルのものか知りませんが、漠然とした集団でないことだけは確かでしょう。

 私が判断している限りで言えば、シルバーバーチの教えは 「いったい自分とは何なのか、宇宙とは何なのか、そして全てを創造した大霊とは何なのかについての理解に必要な摂理と実在について」 現段階の人類に理解できるレベルのカギを与えてくれているものと思っています。

そして 「それが人類の全体像を明るく照らし出し、不可解に思えていたことを理解しやすくしてくれます」

 さらにシルバーバーチは、「学ぶ前に、それまでの知識を洗い直さないといけません」 と述べておりますが、これは 「余りに長い間進歩のブレーキとなってきた、誤った教え」 が幅を利かしてきた科学界にこそ、当てはまります。

この一節に象徴されるシルバーバーチの摂理に関する論説は、キリスト教会のドグマ主義の批判に偏っている嫌いがあるように私には思えるのです。

 大自然の摂理は、天地創造以来ずっと存在していたはずです。いったい人類は、シルバーバーチの言うように、どれほど 「間違った教え」 の重荷によって苦しめられてきたかを、じっくりと考えてみる必要があります。

科学の世界でも確かに 「時として脳だけが発達して精神と脳の発達が伴っていないことがあります。いわゆる〝知的人間〟ということになりますが、知的だから偉大であるとか立派であるということにはならない」 ことは事実です。
℘57
  従ってその狭い分野にのみ携わってきた少数の学者は、彼等なりにそれが全てだと思うわけですから、それを聞かされた者はシルバーバーチの言うように 「不可解なことを理解しやすくする」 カギだと信じがちです。 〈補注5〉


 〈訳者補注5〉
 米国の医師リチャード・ゲアバー博士は一九八八年発行の Vibrational Medicine の中で、本書の 『はじめに』で紹介した 《人体を構成す磁場》 (十八ページ) と原理的に同じイラストを公表して大きな反響を巻き起こした。

スピリチュアリズムに馴染んでいる者は 「ついに医学もここまで来たか」 といった感慨で受け止めたが、オーソドックスな医学にとっては青天の霹靂だった。

案の定、そのうち影が薄れ忘れられかけたが、一九九五年ころから息を吹き返し、意を強くしたゲアバー博士は、それをさらに進めて A Practical Guide to Vibrational Medicine と題した続編を二〇〇〇年に出している。

その中で博士は従来の宇宙観を 「ニュートン力学的機械論」 と呼び、宇宙を巨大な時計のようなものと考えることの間違いを指摘している。オーソドックスな医学によれば人体もうまくできた生物機械に過ぎず、心臓は血液を送り出すポンプ、腎臓はフィルタ―、筋肉と骨格は滑車で動く枠組みと見るので、極めて 「理解しやすい」 わけである。

著者は同じシルバーバーチの言葉でも、このように都合よく解釈することの危険を戒めている。


 シルバーバーチの言う 「いったい自分とは何なのか、宇宙とは何なのか、そして全てを創造した大霊とは何なのかについての理解に必要な摂理と実在についての知識」 を与えてくれるのは、スピリットからのインスピレーションと一体となった科学なのです。

つまり科学というのは、新たに発見される法則にインスピレーションによるお墨付きを与えねばならない立場にあるのです。

しかし、いったんそのインスピレーションを信じ込んでしまうと、それが絶対的な真理として固定観念化されてしまい、いつしか永遠の遺産として精神の一部となっていく危険性があります。

 ここでシルバーバーチの次の言葉を読み返してみる必要ががありそうです。

 「真理は閉ざされた心には入ることは出来ません。受け入れる用意のできた人の心にだけ居場所を見つけることが出来ます。真理は、大霊と同じく、無限に存在します。

このうちのどれだけを手にするかは、各自の受容能力によって決まります。受容能力が増せば、それだけ多くの真理を悟ることになります」

 真理の探究にあたっては次のシルバーバーチの言葉に改めて耳を傾けたいものです。

 「知識、真理、叡智、成長に限界がないことに気付いた時、あなたは真の意味で自由になるのです。

心の奥で間違いであることに気付いたもの、理性が反発するものを即座に捨て去ることができるようになった時、あなたは自由になるのです。新しい光に照らして間違いであることが分ったものを、恐れることなく捨て去った時に初めて自由になるのです」 


 そんな次第で、これからシルバーバーチの教えを引用して私なりの解釈を施していくわけですが、それは科学者として私がこれまでにスピリットの世界から受けたインスピレーションによる解釈であり、それを出来るだけ平易な用語で述べますので、

読者のみなさんも実在について私がどう理解しているかを〝直観〟してくださることを希望します。それがシルバーバーチが説いていることの真髄であると確信しています。

 つまりそれを完全に理解してくださる方は、全体としては極めて少数であろうことは覚悟の上で、ともかくも読者のみなさんに披歴して、お一人お一人のレベルで理解していただけば良いのではないかということです。
℘60 
 スピリチュアリズムが勃発して以来、ほぼ一世紀半にわたって多くの研究がなされ、確固たる証拠は歴然と存在するのですが、物的身体に宿った人間は物的必要性の追求に明け暮れているうちに、それを置き忘れてきました。宇宙の〝霊性〟などはどうでもよいのでしょう。

しかし私は、そうしたものの重要性に目覚めた読者のために、本書で自分自身について、そして自分が存在しているこの宇宙についての認識を提供したいと思います。

 シルバーバーチは 「どこでも霊的真理を説くことです。時には拒絶されたり、小バカにされたり、物笑いのタネにされたり、嘲笑の的にされたりすることもあるでしょう」 と述べていますが、これまでの求道の旅の体験から私は、自分こそそうした逆境のなかで霊的真理を説くべき立場にあることを自覚するようになりました。

もしも自分だけの持ち物として所有しているだけでいたら、シルバーバーチの言う 「せっかく授かった霊的知識が意図している生き方を実践していない」 ことになると気づいたのです。

 ですから、こうして私を霊的摂理を説かねばならないと駆り立てるのは、シルババーチの言葉を用いれば 「地上の至るところで人生の嵐のさなかにいる大霊の子らに、その嵐に耐え抜くための基盤、単なる気休めでない真実の心の支えを築かせてあげたい」 という願いなのです。

この霊的真理こそが喜びと幸せと落ち着きをもたらしてくれるからですが、同時に忘れてならないのは、霊的真理を知ったということは、それをどうするかという義務を伴う、ということだからでもあります。

 シルバーバーチは、それを〝埋め合わせの法則〟の一環と呼んでいますが、それは同時に 「無知が生み出す愚かな恐怖を追い出してくれます」 とも述べています。

そうした言葉の意味を次章からなるべく平易に説いてみたいと思います。それは、シルバーバーチのいう 「その人の手が届かないほど高度なものとなってはいけません。理解力が及ぶ範囲の一歩先を行く程度のものであらねばなりません。

その一歩一歩が人生の目的について、その実在性について、その基盤である永遠不変の原理について、その永遠の実相についてのより深い直感的な悟りを意味する」 からです。


 「全ての邪悪の根源にはその霊的摂理への無知が存在します」 とシルバーバーチは述べておりますが、一九二〇年頃から半世紀余りにわたってシルバーバーチが説いてくれた霊的摂理がほとんど理解されていないことは、世界全体のモラルの低下がそれを物語っております。

 その摂理の意味の重大性を本当に理解するまでは、人間はせっかくシルバーバーチが地球という故郷への通信回路を開いてくれた意義を理解したことにはなりません。

シルバーバーチは言います───「そこに私が大霊の摂理の重要性を強調する理由があります。

というのは、こうした摂理を理解することによって、あらゆる知識が調和するのです。これだけは科学者も哲学者も自由思想家も、その他いかなる分野の人間も反芻することは出来ないからです。

なぜならそれが大霊の永遠にして不変不易の働きの上に成り立っているからです」 そして 「それを吸収し全体像をつかむことが出来て初めて、人生の意義が理解できるのです」 と説いています。

 私が見たところでは、死後の存続という事実そのものは別として、半世紀余りにわたって説かれたシルバーバーチの霊言にちりばめられた叡知の多次元にわたる意味は、まだまだ咀嚼されていません。

それは 「あなた方自身、あなた方が存在している宇宙、そしてその想像主である大霊についての理解」 のレベルを一段高くしてくれる駆動力となるべき性質のものなのです。

 つまりシルバーバーチは人類全体の霊性の進化を視野に置いて、宇宙における人類の位地についての理解のレベルを一段高めることを意図しているのであって、多くの人が陥りがちな幻想の世界の話をしているのではありません。

理性をそなえた人類が、今自分が置かれている宇宙についての正しい認識なしに、どうして〝より高度な教え〟という漠然とした呼ばれ方をしているメッセージが理解できましょう? それが理解できたら、さらに一段高い意識レベルでの理解へ挑戦しましょう。

 『はじめに』 で述べましたが、私は人間と人生の謎の解明を求めて、読書と瞑想に耽った時期がありました。シルバーバーチの霊言集を始めとして哲学や科学の書を読みあさり、またそれらの関連性について瞑想し、理性的理解とインスピレーションに接しました。それらをこれから披露したいと思います。

 シルバーバーチは 「私たち霊団の者は霊的生命についての実相を語る使命を託されているのです。〝霊的〟 という用語にはどこか神秘的な意味合いが漂いますが、そういうものではなく実在そのものなのです」 と述べています。さらに───

 「あなた方は永遠に続く霊的巡礼の旅人です。その道案内としてたずさえていくのは理性であり、常識的分別であり、明晰な知性です。その一部が書物であり、多くの先人たちの生きざまです」

 「それゆえ皆さんは自分にいちばん訴えるもの───誰かがいいことが書いてあると言ったとか、神聖であるからとか、尊いものであるからとかではなく───自分の旅にとっていちばん役に立つと思うものを選ぶべきです」 とも述べています。

 僭越ながら私も、シルバーバーチにならって同じことを述べさせていただきます。


Friday, December 29, 2023

シアトルの冬  シルバーバーチのスピリチュアルな法則 宇宙と生命のメカニズム

Silver Birch's Spiritual Law: The Mechanism of the Universe and Life
The UNIVERSE of SILVER BIRCH
by
Frank Newman
Published in 1998
  by
The Spiritual Truth Foundation
United Kingdom


謝辞
 
 「知識」と言うのは、体験が精神の篩(フルイ)に掛けられて、各自の理解力によって解釈されて初めて身につくもので、何の分析もなしに蓄積されるだけであれば、知識の境界は生涯少しも広がらないことになります。

 そうした分析と選択を行うことのできる柔軟な精神は、一つの型にはまった硬直した精神と違って、人生に愉しみを見出すことができます。その上、そうしたレベルの精神の持ち主は見えざる世界からの導きを得ることになります。

 私にとって、そうした貴重な知識を与えてくれることになった恩人の名前を挙げていったらキリがありません。

霊媒のグレース・クックとウィリアム・クルックス博士、オーラの写真を撮ることに成功したウォルター・キルナー博士、『スピリチュア百科事典』の編集者ナンドー・フォドー博士、幽体離脱現象の研究家シルブァン・アンドゥーンとヒアワード・キャリントン、等々。

こうした方々の業績が触媒となり、私独自の瞑想法による直感力も加わって、私の専門であるエネルギーの 「磁場」、俗にいうオーラの本性と宇宙における存在機能を霊的観点から理解することができました。

 私の理解は物理学者のH・S・バー教授の研究成果によって完全に裏打ちされ、またV・スタンレー・アルダー女史によるオーラの構造理論とも一致しました。さらに 「国際生物物理学研究所」 の研究成果も、偶然にもバー教授のものと一致しました。

 こうした心霊学と物理学の成果に加えて私自身の直感力によって電磁場の理解が深まりましたが、シルバーバーチと名のる高級霊からのメッセージとの出会いによって私の視野は一段と広がり、心霊学と物理学と宇宙学とが渾然一体となって理解できるようになりました。

 シルバーバーチの霊言集はサイキック・ニューズ社から出版され、現在では絶版となっているものも少なくありませんが、第二次世界大戦の戦前・戦中・戦後にわたる実に60年間、途切れることなく出版しつづけてくれた編集者の皆さんに、深甚なる謝辞を述べたいと思います。

 またシルバーバーチ霊が〝同志〟と呼んでいるホワイト・イーグル霊の霊言からも多くを学んでおります。引用することを快く許して下さった出版社にもお礼を述べねばなりません。

 真理は営利を目的として切り売りすべきものではなく、誰にでも自由に分け与えるべきものです。しかし、真理には無限の側面があります。その真理の価値は、それを手にした人の理解力一つに掛かっています。


    
 はじめに

 人間の身体は、肉体だけでなく幽体も霊体も本体もオーラというものを発していることはスピリチュアリズムの常識ですが、残念ながらその 構造と機能に関しては〝学説〟と呼べるほどのものはまだ確立されていません。

 それはなぜかと言えば、科学のさまざまな分野で〝電磁エネルギー〟の存在を確認していながら、学者がそれを物的関連においてのみ研究し、目に見えない身体との関連においての研究がなおざりにされているからです。

 一方、俗に言う〝霊的なもの〟の存在を認めている人々の間では、オーラの構成要素について数多くの発見をしていますが、それが何を意味しているかという肝心かなめについての理解が出来ていません。

それをシルバーバーチは 「霊が全てを支配しているのです。霊は全生命を構成しているエッセンスです。霊こそ生命であり、生命は霊なのです」 と述べてから 『ヨハネ伝』(6・63) のイエスの名言を添えます。

《生かすものは霊なり、肉は益するところなし。我が語りし言葉は霊なり、生命なり》 (英和対照 『新約聖書』 一九五一年版)

 こうした言葉が教えているのは、全生命のエッセンスである霊がなければ、私たちが現在体験している物的表現は存在しないということです。つまり 「霊(スピリット)」 こそ肉体・幽体・霊体・本体の四つの身体の発達をつかさどっている根源的叡智であるということになります。 〈補注1〉


〈訳者補注1〉
 東洋と西洋の霊視能力者によって確認された四つの身体を総合的にまとめたのが次ページの図。キルリアン写真 (後述) やEMRスキャナー (医学で用いるCTスキャナーとキルリアン写真とを組み合わせたもの) でも幽体までは確認できる。

各身体の呼び方は霊視家によって、英語でも日本語でも異なるが、この図でいえば幽体が 「アストラル・ボディ」、霊体が 「メンタル・ボディ」、 本体が 「コーザル・ボディ」 に相当する。なお 「イセリック・ボディ」 というのは以上の三つの身体と肉体とを結ぶ接着剤のような役目をしているテンプレート(型板) で、「ダブル(複体)」 と呼ぶ人もいる。


・・・ここp18に「人体を構成する磁場」の絵図があり・・・肉体 PHYSICAL BODY ダブルETHERIC BODY 幽体 ASTRAL BODY 霊体 MENTAL BODY 本体 CAUSAL BODY と細かく説明があります・・・


 辞書で〝スピリット〟 の項目を見ると 「知性と意思を持った形体のない存在」 とか 「人間に内在する要素で、身体に活力を与えながらも身体から切り離せるもの」 とあります。

ここで言う身体とは物的身体のことですが〝対外遊離現象〟(幽体離脱とも) という超常現象は 「幽体」 と呼ばれている目に見えない身体に宿って体験しているもので、これにもオーラという電磁場があります。

 科学の世界ではオーラのことを 「生命」 とか 「バイオ」 とか 「バイオプラズマ」 とか 「電磁場」 という用語で呼び、

これは肉体から派生する副産物であると説明していますが、肉体に活力を与え維持しているものがそのオーラに内在する知性、すなわち〝霊〟(スピリット)なのですから、「肉体から派生する副産物」 という表現を逆にして 「肉体こそ霊の産物」 ということになり、先ほどのシルバーバーチとヨハネの言葉に〝なるほど〟と得心がいくわけです。

 うれしいことは最近、科学会にも、俗世的偏見を捨てて〝神秘的現象〟と呼ばれているものに表面から取り組もうとする学者が、徐々にではありますが、着実に台頭しつつあります。科学によって宇宙の真相を明らかにしたいと望むのであれば、宗教的ないしは霊的知識を一つの方向性として取り入れなくてはならなくなってきたと言えるでしょう。

 神秘的な修法家や霊覚者が平凡人の五感では見ることも聞くこともできないものを見たり聞いたりして、それをありありと叙述することができるのもオーラの機能を活用しているからですが、困ったことに、そういう能力を持った人たちは、なぜ見えるのか、なぜ聞こえるのかが自分では判らないために、科学者から詰問されると返答に窮してしまい、結果として懐疑の目で見られてしまうことになります。

 ですから超能力を具えた人が自説を理解してもらい、同時に人生とは何か、宇宙はどうなっているかについて、一般常識とは異なる説を打ち出したいのであれば、それを裏付けるだけの実証的資料を用意しなければなりません。科学的データーなくしては、さまざまな形で世の中をリードしている知識層を得心させることは、まず不可能です。

 もちろん、これにも例外があります。伝統的宗教にどっぷり浸かっている人たちです。どこの宗教の教義も人工的教義の上に立っており、それを子供の時から聞かされて育った人はそれを絶対的に信じていますから、その人生観を改めるのは容易なことではありません。

 しかしそれも、科学的知識の普及とともに事情が少しづつ変化しつつあります。〈補注2〉

 それより憂慮されるのは、社会全体のモラルの低下です。これを正すには、やはり科学的基盤を持つスピリチュアリズム思想によって、宇宙の中における人間の位地についての理解を促す努力が必要でしょう。〈補注3〉


 〈訳者補注2〉
 最も抽象的な例は〝地動説〟とキリスト教会の関係であろう。〝天動説〟に異を唱えた最初の学者はポーランドのコペルニクスであるが、彼はもともと聖職者で、しかも病弱だったために研究成果を公表しないま知人に託して他界した。

それが書物となって公表されたものに触発されたイタリアの自然哲学者ジョルダーノ・ブルーノが公然と地動説を唱え、しかも宇宙こそ無限絶対の存在であると説いたことで、キリスト教会によって〝異端者〟として火刑に処せられた。

更に〝自然科学の父〟と言われるガリレオ・ガリレイがコペルニクスの説を支持したことで宗教裁判にかけられ、投獄されているうちに失明し獄死したことは有名な話であるが、こうした理不尽な行為の非を認めて 「教会側の間違いだった」 と詫びたのはローマ法王ヨハネ・パウロ二世で、それも皮肉にも 「コペルニクス大学」 においてであった。

科学的事実を前にしながら己の非を認めるのに四五〇年もかかるとは、宗教界は何と硬直した世界であることか、ニューマン氏はそのことを言っている。


 〈訳者補注3〉
 肉体をまとって生活する場として〝地球〟があるように、幽体で生活する場、霊体で生活する場、本体で生活する場がある。次ページの図は複数のスピリットに個別に訪ねた上でまとめた死後の世界の概略図で、地上界が最も鈍重で粗い波動の世界。仏教で言う生老病死にすべて苦痛が伴うが、だからこそ修行の場として最適であるということになる。


 私は電気工学の分野に携わってきた人間ですが、その間ずっと感じていたのは、いわゆる〝神秘的現象〟にも科学的説明ができるはずだということでした。いくら奇怪な出来事でも、実際に見たと断言する生き証人がいる以上は、それをただの幻覚や錯覚と決めつけるべきではないというのが私の考えです。

ところが現実には、いつの時代にも知識人と言われる人たちは、なぜかそうしたものを真剣に取り上げようとせず、たわごととして一蹴してしまう。そういう人は社会的に影響が大きいだけに、実際にはその方向に特に造脂が深いわけでもないのに、一般人はやはりその人の言うことを信じてしまいます。

   p23に・・・地球を取り囲む三つの階層・・・の絵図がある。
                                       
 〝権威〟というのは、ある特定の分野において真剣に、必要にして充分や研究を積んだ者に自然にそなわるもので、それも、あくまでもその人物の理解力の程度が問われるのです。その〝程度〟には人格の高潔さと熱意が大きく関わってきます。

 私は、ある時期、政府の要請で熱帯地方での学術調査活動に従事した事があり、その滞在中にヒンズー教の火渡りの術や、肉体に銀針や釣針や槍を突き刺しても形跡が残らない術を目のあたりにしていたので、役職から離れた後、当然のことながらそうした〝超常現象〟の不思議の解明に関心が行きました。

 まずそれを科学的見地から、哲学的見地から、そして宗教的見地から扱った書物を読み漁り、更に霊能開発のためのサークルにも幾つか参加してみました。が、それを六年ばかり続けた時点で、なぜかそういう行(ぎょう) には進歩がない───どこか歪んだ方向へ向かっていることに気がきました。

私は思い切ってそれを止めて、自分一人での瞑想に切り替えることにしました。時間を決めて、キチンと精神の統一を図りました。

 他のメンバーの動きに気を散らされることもなく、私は比較的ラクに心を空っぽにすることができ、やがて譬えようもない安らぎと静寂に包まれる段階に到達し、その中で、自分という存在の小さな実感から生まれる真の謙虚さを味わうようになりました。

 さらに進むと、今度はその静寂のなかで、時折、突如として映像や言葉によるインスピレーションが流入するようになりました。それは、それまでに自分が読んだ科学や哲学や宗教の本の内容に関するものでしたが、のちには、大して重要でもないことに集中している時にも体験するようになりました。

 そうした体験の特徴は、いわく言い難い喜びの念を伴っていることで、それは私が受け取った真理が正しいことを確認させてくれると同時に、それが私が抱いている構想の全体像の中でどういう位地を占めているかを教えてくれるものでした。

 書店や図書館でも私の手が一人でに動いて一冊を取り出し、タイトルを見るとなぜこんなものをと思うようなものなのに、ページをめくっていくと、一連の思考過程の中で行き詰まっていたことを打開してくれたり、それが正しいことを確認してくれる文章に出くわすことがよくありました。こうした過程を経て私は、人間と環境とが密接な関係にあることを証明するには科学はどうすれば良いかについて、私なりの考えにたどり着きました。

 科学にはさまざまな分野がありますが、本書で私が提供する証拠はどの分野にも通じるものです。しかし、科学界には古い唯物的な宇宙観に囚われた人がまだまだ少なくありません。

そういう学者は真理への正道を見出して突き進もうとする学者の説を見くびる態度に出ます。実際には入手した新しいデータをもとに宇宙観を総ざらいすれば、古い概念に囚われた科学者も目を覚ますに違いないのです。

 瞑想によって、私自身の精神の世界が広がり始めて数年たってから、ふとしたきっかけで 「シルバーバーチの教え」 を編集した何冊かの書物に出会いました。シルバーバーチというのは、モーリス・バーバネルという人物をチャンネルとしてメッセージを送ってきた、高次元の世界の知的存在です。 (『序』 の 〈補注〉 参照)

 それを読んで驚きました。私が十年ばかりにわたって営々として築いてきた大自然の本質についての考えが、難しい用語でなしに、至って平凡な言葉であっさりと説かれているのです。その核心は、この森羅万象は崇高な超越的叡智が顕現したものであり、それが全存在の内部に宿っており、そこには民族の別も、肌の差別も、宗教的信条の違いもないということです。

 ある時、私の学術論文を読んだSNU 〈補注4〉 会長のゴードン・ヒギンソンが、これをシルバーバーチの教えと結びつけて解説してみてはどうか、と提案しました。なるほどと思って書きあげたのが本書です。

 本書は決して難解な宇宙物理学を説こうというのではありません。人間はいったい何のために生きているのか、死んだらどうなるのか───無に帰するのか、それともどこかで生き続けるのか、といったことについて日ごろから思いを馳せている人々に、思考と議論の糧を提供するものです。


〈訳者補注4〉
 SNUとは 「英国スピリチュアリスト同盟」 Spiritulist Nationl Union のこと。スピリチュアリズムの真実性を信じる者の集団で、英国最大を誇っている。ただ、ゴートン・ヒギンソンが会長をつとめた頃は、その強力な個性で意義ある活動をしていたが、会員が増え肥大化していくうちに内部紛争が絶えなくなり、ヒギンソンが引退してからは、ニューエイジの宗教集団のような様相を呈していると聞いている。

 ちなみにモーリス・バーバネル亡き後 『サイキック・ニューズ』 紙の編集を引き継いだのは、トニー・オーツセンとティム・ヘイで、私は二人とも面会しているが、オーツセンはその後 『トゥー・ワールズ』 の編集長として出ていき、若いヘイが編集長として頑張ったが、その頃からSNUによる買収工作が始まっていたらしく、バーバネルという一枚看板を失ってからの凋落傾向に歯止めがかからなかった。

まもなく 『サイキック・ニューズ』 は買いとられ、内部事情を知っていたヘイを始め、スピリチュアリズムの本質を理解していた社員はすべて辞任している。

 私はSNUの機関紙となってからも一年ばかり購読を続けたが、その間に二度も編集長の辞任劇があり、内部の権力争いを窺わせる記事が見られるようになって、嫌気がさして数年前に購読を止めた。

 こうしたウラ事情をあえて披露したのは、バーバネルが健在だった時代に出版された書物やカセットテープなどの版権は、本書の出版元である 《霊的真理普及基金》 The spiritual Truth Foundation という名称の非営利機関によって管理されていることを知っていただきたかったからである。

『シルバー・バーチのスピリチュアルな生き方Q&A』 は英国の勉強用のテキストとして編纂されたものであり、『シルバーバーチは語る』 というCDブックは、カセットテープだけで販売されていたものを同基金の了解を得て転写・翻訳したものである。(ともにハート出版)。CD化に際し事務長からいただいた手紙には 「実にいいアイディアですね」 という一文が添えてある〉

Thursday, December 28, 2023

シアトルの冬 大自然の摂理

providence of nature

【Q1】

宇宙の全生命を統率している摂理について説明していただけませんか?

 私たち(注1)は、大霊の定めた永遠不変の自然法則を第一義として、これに敬虔なる忠誠とまごころを捧げます。絶対にしくじることのない摂理、絶対に誤ることのない法則、身分の上下に関係なく、すべての存在にわけへだてなく配剤されている英知だからです。

 だれ一人として無視されることはありません。だれ一人として見落とされることはありません。だれ一人として忘れ去られることはありません。だれ一人として孤立無援ということはありません。大霊の摂理・法則が行き届かなかったり、その枠からはずれたりする者は一人もいないのです。この宇宙に存在するという、その事実そのものが、大霊の法則が働いたことの証しなのです。

 人間がこしらえる法律は、そのまま適用できないことがあります。書き換えられることがあります。成長と発展が人間の視野を広め、知識が無知を駆逐し、情況の変化が新たな法律を必要とすることになれば、古い法律は破棄されたり改められたりします。しかし、大霊が定めた摂理は、新たに書き加えられることがありませんし、〝改訂版〟を出す必要もありません。修正されることもありません。今働いている摂理はすべて、無限の過去から働いてきたものであり、これからもそのまま永遠に働き続けます。不変にして不滅です。

 ここで、根源的摂理である因果律について、霊言集の各所で述べているものを集めて紹介しておきましょう。

 因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力をもつ者は一人もいません。刈り取る作物はまいた種から生じているのです。人間はみな、地上生活での行ないの結果を魂に刻み込んでおり、それを消し去ることは絶対にできません。その行ないのなかに過ちがあれば、その行為の結果はすでに魂に刻み込まれており、その一つ一つについて、然るべき償いを終えるまでは霊性の進化は得られません。

 因果律は根源的なものであり、基盤であり、変更不能のものです。自分が種をまいたものは自分で刈り取る──これが絶対的摂理なのです。原因があれば、それ相当の結果が数学的正確さをもって生じます。それ以外にはあり得ないのです。かわって、その結果が新たな原因となって結果を生み出し、それがまた原因となる──この因果関係が途切れることなく続くのです。咲く花は、間違いなく、まいた種に宿されていたものです。

 無限の変化に富む大自然の現象は、大きいものも小さいものも、単純なものも複雑なものも、みな因果律にしたがっているのです。だれ一人として、また何一つとして、その因果関係に干渉することはできません。もしも原因に不相応の結果が出ることがあるとすれば、地上界も物的宇宙も、霊的宇宙も大混乱に陥ります。私の言う大霊もあなたの言うゴッドも、創造神も絶対神も、愛と英知の権化でもなく全存在の極致でもなくなります。

 宇宙は、絶対的公正によって支配されています。もしも犯した過ちが、呪文やマントラを口にするだけで消し去ることができるとしたら、摂理が完全でなかったことになります。自然の大原則が簡単に変えられたことになるからです。

 大自然は、人間的な願望におかまいなく、定められたコースをたどります。成就すべき目的があるからであり、それはこれからも変わることはありません。人間も、その大霊の意志と調和した生き方をしている限りは、恵みある結果を手にすることができます。あなたの心の持ち方次第で、大自然は豊かな実りをもたらしてくれるということです。

 善い行ないをすれば、それだけ霊性が増します。利己的な行ないをすれば、それだけ霊性が悪化します。それが自然の摂理であり、これだけはごまかすことができません。死の床にあっていくら懺悔の言葉を述べても、それで悪行がもたらす結果から逃れられるというものではありません。

 どの法則も大法則の一部です。いずれも大霊の計画の推進のためにこしらえられたものですから、全体としての調和を保ちながら働きます。これは、物質界の人間は男性・女性の区別なく、自分が犯した罪は自分の日常生活における苦難のなかで自分で償うしかないこと、それを自分以外のだれかに転嫁できるかに説く誤った教義(注2)は捨て去らなければいけないことを教えています。

 人間は自分自身が、自分の魂の庭師です。英知と優雅さ、美しさといった霊性の豊かさを身につけるうえで必要なものは、すべて大霊が用意してくださっています。道具は全部そろっているのです。あとは各自がそれをいかに賢明に、いかに上手に使うかにかかっています。

 大霊は無限なる存在であり、あなた方はその大霊の一部です。完全な信念をもって摂理に忠実な生活を送れば、大霊の豊かな恵みにあずかることができます。これは地上のだれについても、例外なく言えることです。真理に飢えた人が完全な信念に燃えれば、きっと然るべき回答を得ることでしょう。

 摂理とはそういうものです。何事にも摂理があります。その摂理に忠実であれば、求める結果が得られます。もし得られないとしたら、それはその人の心がけが摂理にかなっていないことの証しでしかありません。歴史書をひもといてごらんなさい。最下層の極貧の出でありながら、正しい心がけで真理を求めて、決して裏切られることのなかった人は少なくありません。求めようとせずに不平をかこつ人を例にあげて、なぜあの人は…といった疑問を抱いてはなりません。

 もう一つの摂理をお教えしましょう。代償を支払わずして、価値あるものを手にすることはできないということです。優れた霊媒現象を手にするには、霊的感性を磨かねばなりません。それが代償です。それをせずに金銭を蓄えることに専念すれば、それにも代償を支払わなければいけなくなります。

 金儲けに目がくらんで本来の使命をおろそかにすれば、この地上では物的な豊かさを手にすることができるかもしれませんが、こちらへ来てから本来の自我がいかに貧しいかを思い知らされます。

 訳注1──シルバーバーチが「私たち(we)」と言うときは、自分を中心とした霊団を指す場合と、シルバーバーチの言う「liberated beings」、つまり「物」による束縛から解放された高級霊を指す場合とがある。ここでは後者である。

 訳注2──改めて指摘するまでもなく〝誤った教義〟は、キリスト教の「贖罪説」のことで、「イエスへの信仰を告白した者」といった条件つきの法則は全体の調和を乱すという意味。

【Q2】

では、悪人が健康で仕事もうまくいき、善人が苦しい思いをしていることがよくあるのはなぜでしょうか?

 自然の摂理を地上界の現実に照らして判断するのは、基準があまりにもお粗末過ぎます。地上人生は途方もなく巨大な宇宙人生のほんの短い一面に過ぎず、個々の生命は死後も永遠に生き続けるのです。

 が、それはそれとして、地上の現実を、今おっしゃったような表面的な実情で判断してよいものでしょうか。心の奥、魂の中枢、精神の内側までのぞき見ることができるものでしょうか。一人ひとりの内的生活、ひそかに抱いている思い、心配、悩み、苦しみ、痛みがわかるものでしょうか。わかるのはほんの一部でしかありません。

 実際は、あらゆる体験が魂に刻み込まれているのです。楽しみと苦しみ、喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐の体験を通して、霊性は磨かれていくようになっているのです。

【Q3】

人生の教訓が愛と哀れみを身につけることであるのなら、なぜ大自然は肉食動物という、むごい生き物を用意したのでしょうか?

 大自然が悪い見本を用意したかに受け止めるのは間違いです。大自然は大霊の表現です。大霊は完全ですから、大霊の用意した摂理も完璧です。大自然は、その摂理のおもむくままに任せれば、必ずバランスと調和を保つようにできています。
 ですから、人間が大自然と調和した生き方をしていれば、地上世界はパラダイス、いわゆる〝神の王国〟となるはずです。

 たしかに、肉食動物はいます。が、それは〝適者生存〟という大自然のおきての一環としての存在であり、大自然の一側面に過ぎません。全体としては「協調・調和」が自然のあるべき姿です。「共存共栄」と言ってもいいでしょう。人間がきちんと手入れをして自然と調和していれば、素晴らしい〝庭〟になることでしょう。

 実は、ほかならぬ人類こそが、地球上の最大の肉食動物なのです。何百万年もの歴史のなかでこれほど破壊的な創造物を私は知りません。

【Q4】

摂理の働き方は、地上界も霊界も同じなのでしょうか?

 いえ、同じではありません。霊界では、ある一定の進化のレベルに達した者が、同じ階層で生活しているからです。ということは、地上のように同じ界に対照的な体験をもつ者がいないということです。全員が同じ霊格に達した者ばかりなのです。未発達な霊が、高級な霊と同じ階層にいるということがないのです。地上では、毎日毎日、さまざまな知的ならびに霊的発達レベルの者と交わります。霊界では、そういうことがないのです。

 もっとも、特殊な使命を帯びて自分の界より低い界へ下りていくことはあります。そういうことでもないかぎり、私たちが出会うのは、霊的に同じ発達レベルの者ばかりです。霊性が向上すれば、それ相応の階層へ向上していきます。そこでも同じ霊格の者ばかりが生活しています。

 とにかく、私たちの世界には、暗黒と光明といった対照的なものは存在しません。影というものが存在しないのです。霊的光明のなかで生きる段階にまで到達した者は、光明とは何かについての理解ができています。そうでなかったら、光明界にはいられないでしょう。その段階にまで到達していない者は、光と闇で織りなされる夢幻の階層から抜け切っていないことを意味します。

 霊性がさらに向上すれば、そういう対象を必要としない理解の仕方が身につきます。実在についての理解力が増し、実相を実相として悟るようになります。

 霊的洞察力が身につけば、たとえば一本の花を見ても、その美しさの内側と外側まで見えるので、地上では理解できない、その花の全体像がわかるようになります。色彩一つをとってみても、地上界にない無限のバリエーションがあります。微妙な色調があり、また肉眼では理解できない、素材そのものに託された霊的な意味もあります。

 私たちの世界は、地球の引力の影響は受けません。夜はなく、常に明るい光に包まれています。霊性が高まるほど、美しさの内奥が顕現されていきます。

 その意味で、私たちの世界は、創造的な世界です。すなわち、そこに住む者が自らの霊力で創造していく世界です。

【Q5】

地上での行為、地上生活中に、因果律が働くのでしょうか?

 そういうこともありますし、そうでないこともあります。因果律は、必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。が、必ず成就されます。そういうように宿命づけられているからです。原因と結果とを切り離すことはできません。

 ただ、原因の性質によって、それが結果を生み出すまでの時間的要素に違いがあります。ですから、行為によっては地上生活中に反応が出る場合もあり、出ない場合もあります。が、霊的な余波は機械的に影響を及ぼしています。

 なぜなら、たとえば他人を傷つけた場合、その行為は機械的に行為者の魂に刻み込まれていますから、その罪の深さに応じて行為者自身の魂も傷ついて霊性が弱まっています。その結果が、地上生活中に表面化するか否かはわかりません。そのときの環境条件によって違ってきます。当人の永遠の霊的生命を基準にして配剤されるものです。

 埋め合わせの原理は、自動的に働きます。絶体絶命の窮地にあって援助と導きを叫び求めても、何の働きかけの兆候もないかに思えるときがあることでしょう。が、実は、そんななかにあっても、人のために役立つことができるという事実そのものが、豊かな埋め合わせを受けていることの証しなのです。自分も、だれかのおかげで霊的真実に目覚めたのです。このことは、治療家や霊媒としての仕事にたずさわる人に、特に申しあげたいことです。

 もしも埋め合わせと懲罰の原理がなかったら、大霊の絶対的公正はどうなるのでしょう?罪悪の限りを尽くした者と、聖人君子に列せられるような有徳の人物とが、同等の霊性を身につけることができるでしょうか?もちろん、できません。人のために役立つことをすれば、それだけ霊性が高まります。利己的なことをすれば、それだけ霊性が下がります。

 あなたの霊的宿命をよくするのも悪くするのも、あなた自身です。責任はすべて、あなた自身にあります。もしも死の床で懺悔して、それで生涯で犯した罪がもたらす結果からすっかり逃れることができるとしたら、それはお笑いものであり、悪ふざけです。

【Q6】

若いときに犯した罪の償いを、死んで霊界へ行ってからさせられるということがあるのでしょうか?地上にいる間に償いをさせられることもあるのでしょうか?

 すべては環境条件によって決まることです。自分が犯した罪は自分で償う──これは不変の摂理です。魂に刻み込まれた汚点を完全に消し去るまでは、向上進化は得られません。その過ちがいつなされたか(若いときか、中年か、年老いてからか)は関係ありません。能力のすべてを駆使して償わねばなりません。

 その努力を始めたとき、あるいはそう決意したとき、あなたの魂のなかで過ちを正すための別の側面が動き始めます。摂理の仕組みは、そのように簡単なのです。

 若いときに犯した間違いは、肉体を通して顕現している間のほうが償いやすいでしょう。地上で犯したのですから、地上のほうが償いやすいはずです。償いが遅れるほど修正もむずかしくなり、霊的進化を妨げます。
 大切なのは、自分の過ちを素直に悔いて償いを決意したとき、ふだんから見守っている霊団の者(類魂)が、間髪を入れずに、力添えに馳せ参じるということです。向上進化を志向する努力を、人間界の経綸に当たっている高級霊は、決して無駄に終わらせません。

Monday, December 25, 2023

シアトルの冬 霊界でも祝うクリスマスとイースター  ───その本来の意味

Merry Christmas
Christmas and Easter are also celebrated in the spirit world - their original meanings



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 クリスマスもイースターも本来は宗教的祭礼であるが、今では物質的観念に汚染されてその基本的な光彩をすっかり失っている。

 本書で紹介する講演でシルバーバーチはその本来の意義を説明し、それが霊界においてどのように祝われているかを語っている。シルバーバーチらしく最後は、狼と小羊とが一緒に寝そべるような平和、つまり地上天国という理想を説き、そのためには人類が愛と哀れみと慈悲と責任意識を持たねばならないことを力説している───


 私たち地上の霊的啓蒙活動に従事している霊団の指導的立場にある者は、キリスト教でいうクリスマスとイースターに相当する時期に霊界の奥深く帰還する習わしになっております。

 ご承知の通りその二つの祝祭はキリスト教よりさかのぼる太古において、一年を通じての太陽の勢いの変化を神の働きかけの象徴と受け止めたことがその起源です。

 太古において太陽がその輝きを最高度に発揮する時期(夏至、6月下旬、旧暦5月中旬)が〝復活〟(ヨミガエリ)の時、つまり大自然が讃歌を奏で、見事な美しさを披露する時とみなされました。言いかえれば、蒔かれたタネがその頃に華麗なる成長を遂げると考えたのです。

 それに呼応して冬至(12月下旬、旧暦1月中旬)があります。最高の輝きを見せた太陽が衰え始めると、大自然はエネルギーを蓄え、根を肥やしながら季節の一巡の終わりを迎えると考えたのです。来るべき夏至にその成長ぶりを披露するのに備えるというわけです。

 そういうわけでクリスマスは永い一年の巡りの終わりであると同時に、太陽の誕生、新たなる生命が地上へ誕生する、その最初の兆しを見せる時期だと、太古の人は考えました。

 この二つの時期は太古において大切な意味をもっておりました。と申しますのは、〝神のお告げ〟はその二つの時期に授けられると信じられたからです。あなた方現代人は太陽の持つ神秘的な影響力をご存知ありません。

太古の人はその時期に今でいう交霊会を何日にもわたって大々的に催したものでした。その時期にたっぷりと啓示を頂いたのです。

 そこで私たち霊団の指導的役割を担う者は、誕生に相当する人生で最も大切なこの時期(クリスマス)に一堂に会して祝い合うのです。その始まりは太陽の影響力への讃美ということでしたが、それは一種の象徴(シンボル)であり、実質的には生命が他の生命へ及ぼす影響力、物質が他の物質へ及ぼす影響力、惑星が他の惑星へ及ぼす影響力、などが含まれております。

 とくに一年のこの時期が選ばれたのは、私たちに協力してくれている霊たちの地上時代に属していた民族が大自然の摂理を基盤とした宗教をもっていたからです。古い時代の私たちにとっては太陽の誕生の祝いが最大の祝いでした。

それは新しい年の始まりに他ならないからです。四季のめぐりの終わりであると同時に新しいめぐりの始まりでもあるわけです。

 そうした祝いがかつて地上で催されていたことから、これを霊界でも祝うことになりました。もとより、今では霊的な意味をもつようになっております。つまり新しい生命の誕生を祝うのではなく、地上からいったん引き上げて、新しい光を地上へもたらすために霊力の回復を図ることを目的としております。

今この仕事に従事している霊団の者は、地上時代は西洋文明を知らない古い民族に属していましたから、(キリスト教的な祝い方と違ってこの時期を地上から引きげて私たちの本来の所属界へ帰還する機会としております。

 帰還すると評議会のようなものを開き、互いに自分たちの霊団の経過報告をし、どこまで計画通りに行き、どこが計画通りに行っていないかを検討し合います。それとともに新たな計画を討議し合います。私達を地上へ派遣した神庁の方々とお会いするのもその時です。

 その中にかのナザレのイエスの雄姿があるのです。イエスは今なお人類に古来の大真理すなわち〝愛は摂理の成就なり〟を教える大事業に携わっておられます。そのイエスが私たちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励まして下さる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し聞きそして感じ取らせてあげられればと思うのですが・・・・・

 もとよりそれはキリスト教によって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない道具を通して人類に働きかけておられる、一個の偉大なる霊なのです。

 その本来の界に留まっているのは短い期間ですが、私はその間に改めて生命力溢れる霊力、力強さと美しさに溢れるエネルギーに浸ります。

それに浸ると、生命とは何かがしみじみと感じ取れるのです。私はそのことをあくまで謙虚な気持ちであるがままに申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなどひとかけらもございません。

 仮に世界最高の絵画のすべて、物質界最高のインスピレーションと芸術的手腕、それに大自然の深くかつ壮大な美を全部集めて一つにまとめてみても、私の本来の所属界の荘厳美麗な実在に比べれば、至ってお粗末な反映程度のものでしかありません。

 芸術家がインスピレーションに浸ると、手持ちの絵具ではとても表現できそうにないことを痛感して、魂で感じ取ったその豊かな美しさを表現するための色彩を求めます。が、それは地上のどこにも存在しません。霊的な真理と美しさは物的なものでは表現できないのです。

 そうした界層での私の霊的な高揚状態がどうして言語などで表現できましょう。大霊の光輝を全身から放っている存在となっているのです。(章末注参照)

 叡智と理解力と慈悲と優しさに満ち、人間の側から訴えられる前にすべてを察知し、心の中を読み取り、心の動きに通じ、成功も失敗も知り尽くしております。

 全ての宗教の根幹でありイエスの教えの集約でもある、かの愛の名言(愛とは摂理の成就なり)は、全生命の主、無限の創造者たる大霊の名において私たちもその真実性を宣言するものです。

 かくして私たちは本来の霊的状態へ戻り、本来の環境である光彩と喜びと光輝と笑いと豊かさと崇高さと荘厳さを味わいます。その中に浸り、その喜びを味わい、私たちにとってはごく当たり前の状態である壮観を取り戻します。それが私たちのお祝いです。

 助言を頂き、感激を味わい、気分を一新し、元気百倍し、心身ともにすっかり生き返った私たちは、やおらこの冷ややかで陰うつでじめじめとして味気ない、暗い地上世界へと赴き、厚く包み込むそのモヤと霧を払い、真理の光を輝かせるための仕事を再開します。

 地上のクリスマスシーズンにも愛の精神の発露が見られないわけではありません。それが親切と寛容の形をとり、また施しの精神となって表現されております。旧交を温め、縁を確認し合い、離ればなれになった者が一堂に会するということの中にもそれが見られ、又、かつての恨みはもう忘れようという決意をさせることにもなります。

 しかし残念でならないのは、それに先立って大量の動物が殺害されることです。物言わぬ神の子が無益な犠牲とされていることです。〝平和の君〟キリストの誕生がそうした恐ろしい虐殺によって祝われるということは何と悲しいことでしょう。

なぜ平和を祝うために罪もない動物の血が流されねばならないのでしょう。これはまさに地上世界の磔刑(ハリツケ)です。罪なき動物に流血の犠牲を強いて平和を祝うとは・・・・・・

 いつの日か愛と哀れみと慈悲と責任感とが人間を動かし、助けを求める動物たちへの態度を改めることになるでしょう。そうした資質が発揮されるようになってはじめて、罪もない動物への容赦ない流血と残酷と無益な実験も行われなくなることでしょう。地上に真実の平和が訪れ、狼が小羊と並んで寝そべることになりましょう。

訳者注──シルバーバーチはよく〝光り輝く存在〟shining ones という言い方をする。日本でいう〝八百万の神々〟西洋でいう〝天使〟で、『ベールの彼方の生活』第三巻<天界の政庁>篇ではその存在の様子がアニメ風に語られている。

 ただ注意しなければならないのは、その通信霊のアーネルやシルバーバーチが述べているのはあくまでも地球神界つまり地球の創造界のことで、その上には太陽神界があり、さらにその上には太陽系が属する銀河系神界があり、さらには星雲が幾つか集まった規模の神界があり、最後は(少なくとも理屈の上では)宇宙全体の神界があることになる。

 シルバーバーチはその内奥界を含めた宇宙を Cosmos (コズモス)と呼び、物的宇宙を Universe (ユニバース)と呼んで使い分けている。が、そのコズモスは無限・無辺であるとも言っている。

こうなると人間の粗末な脳味噌などではもはや付いて行けない。アーネル霊でさえ〝茫然自失してしまいそうだから、これ以上想像力を広げるのは止めましょう〟と言っているほどである。

 先ほどシルバーバーチが〝私はあくまで謙虚な気持ちであるがままを申し上げているつもりです。見栄を張る気持などひとかけらもございません〟と述べたことにはそうした背景がある。もはや〝謙虚〟などということを超越した次元の話である。

Saturday, December 23, 2023

シアトルの冬 これ以後もさらに大いなる理解力を受けるにふさわしき存在となれるよう導き給わんことを祈るものでございます。

I pray that God will continue to guide you so that you can become worthy of even greater understanding.
「神よ、自らに似せて私たちを造り給い、自らの神性の一部を賦与なされし大霊よ。

私たちは御身と私たち、そして私たち相互の間に存在する一体関係を一層緊密に、そして強くせんと努力しているところでございます。

これまでに私たちに得させてくださったものすべて、かたじけなくもお与えくださった叡智のすべて、啓示してくださった無限なる目的への確信のすべてに対して、私たちは感謝の意を表し、同時に、これ以後もさらに大いなる理解力を受けるにふさわしき存在となれるよう導き給わんことを祈るものでございます。

私たちは、これまであまりに永きに渡って御身をおぼろげに見つめ、御身の本性と意図を見誤り、御身の無限なる機構の中における私たちの位置について誤解しておりました。

しかし今ようやく私たちも、御身の永遠の創造活動に参加する測り知れない栄誉を担っていることを知るところとなりました。

その知識へ私たちをお導きくださり、御身について、私たち自身について、そして私たちの置かれている驚異に満ちた宇宙について、いっそう包括的な理解を得させてくださったのは御身の愛に他なりません。

今や私たちは御身と永遠につながっていること、地上にあっても、あるいは他界後も、御身との霊的な絆が切れることは絶対にないことを理解いたしております。

それゆえに私たちは、いかなる時も御身の視界の範囲にあります。

いずこにいても御身の摂理のもとにあります。御身がいつでも私たちにお近づきになられるごとく、私たちもいつでも御身に近づけるのでございます。

しかし、子等の中には自分が永久に忘れ去られたと思い込んでいる者が大勢おります。

その者たちを導き、慰め、心の支えとなり、病を癒し、道案内となる御身の霊的恩寵の運び役となる栄誉を担った者が、これまでに数多くおりました。

私たちは死のベールを隔てた双方に存在するその先駆者たちの労苦に対し、また数々の障害を克服してくれた人達に対し、そして又、今なお霊力の地上への一層の導入に励んでくださっている同志に対して、深甚なる感謝の意を表明するものでございます。

どうか私たちの言葉のすべてが常に、これまでに啓示していただいた摂理に適っておりますように。

また本日の交霊会によって御身に通じる道を一歩でも前進したことを知ることができますように。

ここに常に己を役立てることをのみ願うインディアンの祈りを捧げます」

Friday, December 22, 2023

シアトルの冬 祈り

 



                                                                

Q1 祈るということは大切でしょうか?

 それは、その祈りがどういうものであるかによって違ってくることです。祈りの文句を目的もなしに繰り返すだけでは、ただ大気中に波動を起こすだけです。

 が、誠心誠意、魂の底からの祈り、大霊 (第10章参照) の心と一体となり、大霊の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものが、その人を大霊の僕として、よりふさわしく、よりたくましくします。祈るということ、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。


【Q2】 
 祈りは主観的なもので、客観的な結果は生み出さないとおっしゃるのでしょうか?人間的に立派になるだけで、具体的には何も生み出さないのでしょうか?

 真実の祈りは、人のために役立つ行為への心の準備であらねばなりません。より高い波長に適合させるための手段です。

 私のいう祈りは、他人の書いた意味のわからない文句を繰り返すことではありません。誠心誠意の祈り、魂の波長を最高度に高めようとする真摯な願いです。その結果として、感応するインスピレーションに満たされて一段とたくましい存在となります。


【Q3】

 他人のために祈ることにも、何か効用がありますか?

 あります。真摯な祈りは決して無駄になりません。思念は生きものだからです。


【Q4】

 遠隔治療にたずさわる治療家による祈りにも、実質的な効果があるのでしょうか?

 あります。先ほどの質問に対しては個人としての祈り (注) を念頭においてお答えしましたが、あらゆるかたちの祈りについてもいえることです。祈っているときは、サイキックな (心霊的) エネルギーを出しており、これを治療専門の霊が利用するのです。

 訳注──「個人としての祈り」 と断ったときのシルバーバーチの念頭には、グループで行なう遠隔治療のことがあったことが前後の文脈からうかがえる。グループで円座をつくり、中心に特定の患者がいるとの想定のもとに祈る方法である。


【Q5】
 他に援助が得られないとき、祈りを通じて霊界からの援助を要請してもよいものでしょうか?

 誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長に感応させます。祈るということ自体が心を開かせるのです。ただし、その祈りは、心と魂と精神を込めたものであらねばなりません。こうしてほしい、ああしてほしといった、ただの要求は祈りではありません。真実の意味での祈りは大きな霊的活動です。

それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならない、というのがいちばん的確な表現かと思います。

 「何とぞ私を役立たせ給え」───これ以上の祈りの言葉はありません。「大霊とその子らのために、自分を役立たせたい」 と祈ることよりも偉大なる仕事、大いなる愛、崇高なる宗教、高邁なる哲学はありません。

 どういうかたちでもよろしい。摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、お腹をすかしている人に食べるものを与えてあげることでも、あるいは暗い思いに沈んでいる人を明るい気持ちにしてあげることでもよろしい。つまりは、その人のためになることであれば、どんなことでもよいのです。

自分のことをあとまわしにしてでも、他人のために役立つことをする術を身につければ、それだけ内部の霊性、すなわち大霊が発現することになるのです。ことは、簡単なのです。

 ところが、聖職者たちは教会を建立し、そのなかで得体の知れない説教をします。私にも理解できないようなむずかしい用語を散りばめ、〝宗教的〟であると信じている儀式をします。が、そんなことはどうでもよろしい。

くじけそうになっている人のところへ行って元気づけてあげ、疲れた人に休息の場を与えてあげ、空腹の人に食べ物を施してあげ、のどの渇いた人に飲み物を与えてあげ、暗闇のなかに沈んでいる人に新しい光明を見出させてあげるのです。そのとき、あなたを通して大霊の摂理が働いています。


【Q6】

 祈りに何の回答もないように思えることがありますが、そんなとき、霊的にはどうなっているのでしょうか?
 
 人間の内部には人間くさいものと神性を帯びたものとが同居していて、両者の間で常に葛藤があります。霊性に軍配があがったときは大霊と一体となったときで、崇高な喜びに浸ります。人間性に軍配があがったときは、霊的自我は落胆しています。

 人生には、しばしば本人がこうあってほしいと思っている道ではなく、当人の存在意義が最大限に発揮される道へ、いやおうなしに導かれることがあります。たとえば、この部屋には、毎日毎晩、霊の一団が訪れています。

その霊団の一人ひとりが、本来なら一直線に向上の道を歩みたいところを、それをしばらくおあずけにして、この部屋に光の環(サークル)を構築するための環境条件を整えるために参加しているのです。いずれここが、暗い地上の片隅まで照らす灯りの始原の一つとなります。そういう仕事に比べれば、地上の人間的な悩みごとなど、ものの数ではありません。

 身を横たえる家もなく、星空のもとで寝て雨風にさらされ、満足に食べるものにもありつけない人が現実に大勢いるというのに、ここにお出でのみなさんの祈り求めるものが、大霊の目から見て、そんなに大切だと思われますか。
 
 みなさんに自覚していただきたいのは、みなさんも大霊の大計画に参画しているということ、そのなかでみなさんご自身の小さな人生模様を織っているということです。今は、その大計画がどういう図柄であるかはわからなくても、そのうちすべてが明かされる日が来ます。そのとき、すべての人種、すべての肌色が、それぞれに役割を果たしていることがわかります。そのときが地上天国となったときです。

 表向きは何事も生じていないかに思えるときでも、霊的刺繍は着々として織り込まれているのです。昼となく夜となく、大霊の計画は休むことなく続けられており、最終的には人間の一人ひとりがいくばくかの貢献をしています。

 人間から、ときおり自分の魂の成長にとってためにならないもの、かえって進化を遅らせることになるものを要求されます。それは、かなえてあげるわけにはいきません。またときおり、それを手にするに値するだけの努力をしていないものを要求されます。それも与えられません。

そしてときとして、(要求を)受け入れるだけの十分な準備をなさっているものを要求されます。それは、ここという好機を見はからって与えられます。みなさんの祈りは、口に出す前から、大霊は、先刻ご承知なのです。

 
【Q7】

 教会で毎日のように唱えられている祈りに、効用があるのでしょうか?

 祈る人それぞれで違うでしょう。口先だけの祈りは空虚な音の響きに過ぎません。魂を込めた祈り、熱誠と憧憬に満ちた祈り、大霊に一歩でも近づきたいとの熱望に燃えた祈りであれば、その熱望そのものが祈りに翼を与え、霊界の深奥(シンオウ)まで届くことでしょう。


【Q8】

 たとえば、幼な子が飲んだくれの親に更生してもらいたいと思って祈る祈りに、効用はあるのでしょうか?

 誠意ある祈りには、それなりのパワーがあります。そのパワーがどこまで物的次元に転換されるかは、さまざまな条件によって違ってきます。今あげられた例の場合ですと、飲んだくれの父親の魂が問題となります。つまり、その祈りのパワーがその琴線にふれるか、それとも霊的なものから遠ざかり過ぎて何の反応も示さないかによって違ってきます。この質問には 「イエス」 「ノー」 では答えられません。


【Q9】

 でも、何らかの影響はあるでしょう?

 人のために役立ちたいという祈り、真理、光明、導きを求めての祈り、これはすべてその人の魂の進化の指標です。その心は物的身体から出たものではなく、霊そのもの、すなわち大霊の一部であり、したがって大霊のパワーを秘めているのです。しかし、それを発揮するためには艱難辛苦の体験を通じて、霊性が進化しなければなりなせん。それまでは、パワーは発揮できません。


【Q10】

 祈りは霊界のだれかが聞き届けてくれるのでしょうか?それとも、その祈りと調和するバイブレーションに反応するパワーを、人間のほうで想定する必要があるのでしょうか?

 そもそも祈りとは魂の発現です。そこのところをまず明確にしておきたいと思います。光明すなわち導きを求めて叫ぶ魂の渇望です。その熱誠そのものが回答をもたらすのです。それが思念のパワーを起動させるのです。それが回答を引き寄せる原因であり、回答が結果です。霊界のだれかが、人間が祈るのを待っている必要はありません。

 なぜなら、人間の祈りの性質によって、それが届く範囲というものが自動的に決まり、その人間の霊性の進化の度合いに応じて、引き寄せられるべき霊が自然に引き寄せられるのです。その霊たちは、地上人類のために働く決意ができていますから、そのパワーが人間の祈りが生み出したパワーを増幅させます。それは思念の波動であり、霊性の一部です。

 つまり、祈る人間の霊性に応じて、宇宙のエネルギーが働くのです。ということは、稼動させることができる宇宙エネルギーは、祈る者の霊格によって、その範囲が自然に決まるということです。

 祈る人の霊性の進化の程度によっては、何らかの理想の観念を思い浮かべて、それに意念を集中するほうがいい場合があるでしょう。そのほうがやりやすいというのであれば、私はあえて否定はしません。

 しかし肝心なのは大霊であり、生命の原則であり、大自然の摂理です。大霊は完全ですから、摂理も完全です。あなたがたの内部に宿る大霊も完全であり、それがあなた方を通じて発現しようとしているのです。祈りにしても、人のための献身にしても、大霊を発現しようとする魂の行為です。そうした魂を開発しようとする行為が、霊性の進化を促すのです。


【Q11】

 あらゆることが変えようにも変えられない法則によって支配されている以上は、大霊に祈っても何にもならないのではないでしょうか?祈りとは、大霊に法則を変更してくれるように頼むことではないかと思うのです。

 私は、祈りをそのようには理解していません。祈りとは、大霊に近づかんとする魂の切実な願いです。その行為そのものが内部に宿る大霊を発現させ、未踏の階層まで至らしめてくれるのです。そこに不公平も特別の配慮もありません。祈りという行為によって魂が身を引き締め、大霊をより多く発現し、それだけ多くの恵みをわがものとすることができるということです。大霊の恵みは無限です。そして、あなたの魂も無限に開発されていきます。


【Q12】

 なぜ人間は、神に罪の赦しを乞うのでしょうか?摂理を犯せば自動的に罰が下されるのではないでしょうか?

 赦しを求めて祈っても、摂理が手直しされることはありません。支払うべき代償は支払わねばなりません。しかし、赦しを求めて祈るということは、自分の間違いに気付いて大霊との調和を求め始めたことを意味します。自我を見つめ、内省し始めたことを意味します。本当の意味での霊性の進化が始まったのです。


【Q13】

 われわれは、摂理に向かって祈るべきなのでしょうか?

それは違います。自分の内部と外部に存在する大霊に向かって祈るのです。波動の調整とひたむきな向上心によって、大霊という無限のパワーとの一体化を少しでも促進しようとする営みです。より多くの光明、より多くの知識、より多くの英知と理解力を求める切実なものであらねばなりません。そういう祈りならば、必ず報われます。なぜならば、誠心誠意の訴えそのものが、内部の神性を発現させるからです。


【Q14】

 ときおり、こちらが祈り求めないうちに霊界からの援助をいただくことがありますが、われわれの必要性をどうやってお知りになるのでしょうか?

 切実な祈りは、然るべき目標に届くものです。必死に祈れば (私の言う 「祈り」 は 「要求」 ではありません)、その祈りは必ず目標に届きます。磁気的引力の法則が働くのです。祈りがかけ橋となって回答が届けられるのです。


【Q15】

 大霊に直接語りかけることができますか?

 あなたは大霊であり、大霊はあなたです。あなたと大霊との違いは、「性質」 ないしは 「本質」 にあるのではなく 「程度」 にあります。大霊は完全の極致であり、あなたはそれに向かって、はてしない努力を続けるのです。

 したがって、大霊は内部にも外部にもあることになります。あなたが神性を発現したとき、すなわち愛、寛容、慈悲、哀れみ、慈善などの行為を実行に移したとき、あなたは大霊と通じあっていることになります。なぜならそれは、大霊があなたを通して働きかけていることにほかならないからです。


【Q16】

 悲しみのどん底にありながら、祈るということをしない人がいますが、どうなのでしょう?神の存在を信じない以上、救いようがないのでしょうか?

 大霊の存在を信じる信じないは問題ではありません。そのことで、大霊がお困りになることはありません。


【Q17】

 ですが、そういう人でも救いがあるのでしょうか?さまざまな理由から神に祈ることも信じることもできないでいながら、大変な悩みを抱え、救いが必要な人がいます。

 救いをいただく資格は、大霊の存在を信じるか信じないかで決まるのではありません。その時点までに到達した精神的、ならびに霊的進化の程度によって決まることです。手助けをいただく資格があるからいただくのです。これも原因と結果の自然法則です。


【Q18】

 霊側では、人間側が祈るまで待っているのでしょうか? それとも、人間側が要求するしないにかかわらず、聞き届けたり無視したりするのでしょうか?

 絶対的な法則によって経綸されている宇宙の大機構のなかにあって、人間、あるいは何らかの形態の存在が忘れ去られるということはあり得ません。自然法則は完壁ですから、すべての存在を包含しており、何一つ、だれ一人その枠からはみ出ることはありません。

 地上の人間が、大霊の目からもれるということはあり得ません。人間の一人ひとりがおかれている情況は、すべて把握されています。祈りがかなえられた場合は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的進化の段階で、当人にとってふさわしいものがかなえられたのです。


【Q19】
 宗教集団で行なう日課の祈祷は、霊界に何か影響を及ぼすのでしょうか?

 ほんのわずかな間でも、波動が一つにまとまれば影響が出るでしょう。が、祈りとは、本来はやむにやまれず発する魂の叫びです。組織的な体制で、機械的に行う行事は祈りではありません。


【Q20】

 スピリチュアリストの集会のなかには、祈りの日を設けているところがありますが・・・・・・。

 日常生活において霊的真理の意義を生かした生き方をしていなければ、自分たちを 「スピリチュアリスト」 と呼んでみても何の意味もありません。大切なのは、自分たちはこういう者ですと名のることではなく、実生活において何をしているかです。


【Q21】

 祈れば、聞き届けてもらえるのでしょうか?

 聞き届けてもらえることもありますが、それは祈りの中身と動機によります。人間はよく、中身の性質上、聞いてあげるわけにはいかないものを要求します。要求通りにしてあげたら霊性の進化を妨げ、あるいは人生観を狂わせてしまうからです。

 祈りというものを、人間の側からの要求を聞いて霊界で審議会を開き、「よかろう」とか「それはならぬ」といった返事をするような図を想像してはいけません。祈ることによって波動を高め、より次元の高い階層と通じることによって、然るべき回答が届けられる条件を整えるのです。


【Q22】

 祈りの機能は何でしょうか?

 本当の祈りとご利益信仰との違いを述べれば、祈りが、本来、どうあるべきかがおわかりいただけると思います。ご利益信仰は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい、お金がほしい、家がほしいといった物的欲望には、霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな欲求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。

 一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、万物の背後にひかえる霊力との融合を求める祈りといった、真実の祈りがあります。こうした祈りには魂の内省があります。つまり、自己の不完全さと欠点を自覚するがゆえに、真摯に祈ります。それが内在する霊的エネルギーを発現することになり、その姿勢そのものが祈りの回答を受け入れる態勢となるのです。

 これまで何度か述べたように、人間の祈りのなかには、それを完全に無視することが最高の回答であるものがたくさんあります。言うとおりにしてあげることが、かえって当人にとってプラスにならないとの判断があるのです。

 しかし、魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める願望は、自動的に成就されます。つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを巻き起こし、そのバイブレーションによって、当人の霊的成長に応じた分だけの援助が、次のステップのために引き寄せられます。

危険のなかにあっての祈りであれば、保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。そのなかには血縁関係によってつながっている霊もいれば、愛の絆によって結ばれている類魂もいます。そうした霊たちはみな、かつて地上時代に、自分も同じようにして救われた体験があるので、その要領を心得ています。


【Q23】

 霊界側は、祈りをどう見ているのでしょう。

 祈りは、人間としての義務を逃れるための臆病者の〝避難所〟ではありません。祈りは、実際の行為で果たさねばならないことの代用となるものではありません。祈りは、義務を免除してもらうための手段ではありません。祈りは、大霊の摂理を出し抜くための手段ではありません。

それはいかなるかたちの祈りによっても不可能ですし、途切れることのない原因と結果のつながりを寸毫(スンゴウ)も変えることはできません。

 自分を役立てたいという願い、義務と責任を自覚した心から発していない祈りを、すべて無視してください。そしてその後に、サイキックないしはスピリチュアルなものとして、ある種のバイブレーションを生み出す祈りが残ります。そのバイブレーションが回答を呼び寄せるのです。それは必ずしも、当人が期待したとおりのものではありません。当人が発したバイブレーションが生み出した自然な結果です。 


【Q24】
 本当の祈りは、自分の意志を大霊の意志と調和させることだとおっしゃいましたが、どうやって調和させるかについては述べておられませんが・・・・・・。  

 祈り方がわからないという方は、無理して祈るべきではありません。祈りとは、精神と霊の行為、自分の意志を大霊の意志と調和させるための手段です。いくらやっても調和させることができないときは、それはあなたの祈りが効果を生み出さなかったということを意味します。真実の祈りには、その後に行為が伴わなければなりません。

 つまり、祈りの行為によって、自分を大いなる生命の力と荘厳さと支配力に調和させることで、それを満身に受け、宇宙的意識と一体となり、精神・霊的に一段と強くなって、より大きな貢献ができるようにならねばなりません。これが、私が理解している祈りです。


【Q25】

 公式の祈りの日に、どういう意義があるのでしょうか?

 祈りに公式も非公式もありません。昼と夜の区別もありません。祈りを発する当人以外の何者によっても影響を受けることはありません。当番の者が先導して述べる機械的な祈りには、何の価値もありません。

 そういう規約になっているため、あるいはそういう習慣になっているために顔をあわせて行なう祈祷───すっかり慣れっこになっているために、何の感慨もわいてこないような祈祷では、大霊に一歩たりとも近づけてくれません。人間にとって必要なものは、大霊は先刻ご承知です。人数を多くして嘆願する必要はありません。

Thursday, December 21, 2023

シアトルの冬 真理を知らないでいることは暗闇の中を歩くことです

To be ignorant of the truth is to walk in darkness


「国家が、そして人類全体が、原爆の恐怖に対処するにはどうすればよいでしょうか」


「問題のそもそもの根元は、人間生活が霊的原理に支配されずに、明日への不安と貪(どん)欲、妬(ねた)みと利己主義と権勢欲によって支配されていることにあります。残念ながら、お互いに扶(たす)け合い、協調と平和の中で暮らしたいという願望は見られず、自分の国を他国より優位に立たせ、他の階層の者を犠牲にしてでも自分の階層を豊かにしようとする願望が支配しております。

すべての制度が、相も変わらず、唯物主義の思想を土台としております。唯物主義という言葉は、今日ではかなり影をひそめてきているかも知れませんが、実質的には変わっておりません。誰が何と言おうが、この世はやはりカネと地位と人種が物を言うのだ、と考えております。そして、それを土台として、すべての制度をこしらえようとします。永遠の実在が無視されております。人生のすべてを目で見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わえる範囲の、つまり、たった五つの感覚で得られる、ほんの僅かな体験でもって判断しようとしています。

しかし、生命は物質を超えたものであり、人間は土くれやチリだけでできているのではありません。化学・医学・原子、こうしたもので理解しようとしても無駄です。生命の謎は、科学の実験室の中で解明される性質のものではありません。魂をメスで切り裂いたり、化学的手法で分析したりすることはできません。なのに、物質界の大半の人間は、霊的実在から完全に切り離された生活を営んでおります。物質こそ生命と思い込んで、最も大切な事実、全生命の存在を可能ならしめているところの根元を無視しております。

地上の全生命は、“霊”であるがゆえに存在しているのです。あなたという存在は“霊”に依存しているのです。実在は物質の中にあるのではありません。その物的身体の中には発見できません。存在のタネは身体器官の中を探しても見つかりません。あなた方は今の時点において、立派に霊的存在なのです。死んでこちらへ来てから霊的なものを身につけるのではありません。母胎に宿った瞬間から(物的身体をたずさえた)霊的存在であり、どうもがいてみても、あなたを生かしめている霊的実在から離れることはできません。地上の全生命は霊のおかげで存在しているのです。なぜなら、生命とはすなわち霊であり、霊とはすなわち生命だからです。

死人が生き返ってもなお信じようとしない人は別として、その真理を人類に説き、聞く耳をもつ者に受け入れられるように、何らかの証拠を提供することがわたしたちの使命の大切な一環なのです。人間が本来は霊的存在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。今日は原爆が不安のタネですが、明日はそれよりもっと恐ろしい、途方もないものとなるでしょう。

が、地上の永い歴史を見れば、力による圧政はいずれ挫折することは明らかです。独裁的政治は幾度か生まれ、猛威をふるい、そして消滅していきました。独裁者が永遠に王座に君臨することは有り得ないのです。霊は絶対であり天与のものである以上、はじめは抑圧されても、いつかはその生得権を主張するようになるのです。

魂の自由性(※1)を永遠に束縛することはできません。魂の自在性(※2)も永遠に拘束し続けることはできません。自由性と自在性は、ともに魂が決して失ってはならない大切な条件です。人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在を超えたものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。人間的知性ではその果てを知ることのできない巨大な宇宙の中での、千変万化の生命現象の根元的要素である霊と、まったく同じ、不可欠の一部なのです。


※1――freedom 外部からの束縛・強制がないという意味での自由。


※2――liberty 心に囚(とら)われがないという意味での自由。


以上のような真理が正しく理解されれば、すべての恐怖と不安は消滅するはずです。来る日も来る日も煩悶と恐れを抱き、明日はどうなるのかと案じながら生きることがなくなるでしょう。霊的な生得権を主張するようになるのです。霊は本来、自由の陽光の中で生きるべく意図されているからです。内部の霊的属性を存分に発揮すべきなのです。

永遠なる存在である霊が拘束され、閉じ込められ、制約され続けることは有り得ないのです。いつかは束縛を突き破り、暗闇の中で生きることを余儀なくさせてきた障害のすべてを排除していきます。正しい知識が王座に君臨し、無知が逃走してしまえば、もはや恐怖心に駆られることもなくなるでしょう。

ですから、ご質問に対する答えは、とにもかくにも、霊的知識を広めることです。すべての者が霊的知識を手にすれば、きっとその中から、その知識がもたらす責務を買って出る者が出てくることでしょう。不安のタネの尽きない世界に平和(やすらぎ)を招来するためには、霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて、他に手段は有り得ません。

ストレスと難問の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は、“真理の使節”としての自覚をもたねばなりません。残念ながら、豊かな知識を手にし、悲しみの中で大いなる慰めを得た人が、その本当の意義を取り損ねていることがあります。

霊媒能力は神聖なものです。いい加減な気持ちでたずさわってはならない仕事なのです。ところが不幸にして、大半といってよい霊媒が自分の能力を神聖なものとは自覚せず、苦しむ者、弱き者、困り果てている人たちのために、営利を度外視してわが身を犠牲にするというところまで行っておりません。

また、真理の啓示を受けた者――長いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って、目もくらまんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行して、滅私の精神が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。まだまだ精進が足りません。まだまだ霊的再生が必要です。

真理普及の仕事を託された者にわたしから申し上げたいのは、現在のわが身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけてはいないか、今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか、時の流れとともに煤(すす)けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか……そう反省してみることです。

霊力の地上へのいっそうの顕現の道具として、おのれの全生活を捧げたいという熱意にもう一度燃えていただきたいのです」

シルバーバーチ

Wednesday, December 20, 2023

シアトルの冬 恩知らずな子供と家族の絆

An ungrateful child and family ties

忘恩は、エゴイズムから直接的に生み出された結果の一つです。誠実な心は何時もそれに抵抗します。しかし、子供たちの親に対する忘恩は、さらに憎悪のこもったものです。

この視点から特に忘恩について考慮し、原因と結果について分析してみましょう。この場合にも、他の場合がそうであるように、スピリティズムは人間の心が抱く大きな問題の一つに光をあててくれます。

 霊は地上を後にする時、その霊の質的に固有の感情や美徳を持ち合わせて行き、宇宙において完成を遂げたり、光を受けようと望むまでそのまま止まったりします。したがって、多くの霊たちは暴力的な憎悪に溢れ、満たされない反逆の欲望を抱いています。

しかし、彼らの一部は、他の一部よりも進歩しており、真実の一片を垣間見ることになります。

すると、憎悪に溢れた感情がもたらす不幸な結果を味わうことになり、善き決意をしようと言う気持ちを抱くことになります。神のもとへ辿りつくには、慈善というたった一つの合い言葉しかありません。

しかし、侮辱や不正の忘却なき慈善は存在しません。赦しなき慈善も、憎悪に満ちた心による慈善も存在し得ません。

 すると、そうした霊たちは今までにしたことのないような努力によって、それまで地上で誰を憎んでいたのかを見ることができるようになります。しかし、憎んだ相手を見ると、彼らの心に中には恨みがこみ上げてきます。

赦したり、自分自身を犠牲にしたり、彼らの財産、家族、もしくは名誉を破壊した相手を愛すると言った観念に抵抗します。しかし、不幸な彼らの心は動揺します。

彼らは躊躇し、ためらい、相反する感情によって気持ちが乱されます。その試練の最も決定的な時に、善の決意が優勢であれば、彼らは神に祈り、善霊たちが彼らに力を授けてくれるように懇願することになります。

 結果的には、何年もの瞑想と祈りの後に、その霊は自分が嫌った者の家族の一員の肉体を利用することになります。新たに生まれようとする肉体の運命を自ら満たしに行けるよう、上位からの命令を伝える霊たちに許可を求めます。選ばれた家族の中で、その霊の行いはどうなるでしょうか。

それはその霊の善き決意に強く固執するかどうかにかかっているのです。かつて憎んだ相手と常に接触することは恐ろしい試練であり、いまだ十分に強い意志をもっていなければ、そこで挫折してしまうことも珍しくありません。

この様に善き決意を持ち続けるかどうかによって、ともすれば、共に生きるように招かれた相手の友達までもが敵になってしまうことがあるのです。ある子供たちに見られる、理解しがたい本能的な反発や憎悪は、この様にして説明することが出来るのです。

その時の人生の中に、そのような反感を実際に生む原因となるようなことは何も起きていません。その原因を知るには、私たちの目を過去の人生へ向ける必要があるのです。

 ああ、スピリティストたちよ、人類のもつ大きな役割を理解しなければいけません。肉体が創られるとき、その中に宿る魂は進歩するために宇宙からやってくるのです。あなたたちの義務についてよく知り、その魂が神に近づくことができるように、あなたたちの全ての愛情を注いでください。

それが神によってあなたたちに任された任務であり、それを忠実に遂げることができればその報酬を受け取ることが出来るのです。その魂にあなたたちが払う注意と与える教育は、その魂の未来での完成と平安を助けることになります。

神はすべての父親にも母親にも、「私があなたに加護を任せた子を、あなたたちはどうしましたか」と尋ねるのだということを覚えておいてください。

もしあなたの責任でその子の進歩が遅れたままであったなら、罰としてその魂を苦しむ霊たちの間に見ることになり、その時、あなたはその魂の幸せの責任を負っていることになります。すると、あなたたちは後悔の念に悩まされ、あなたたちの犯した過ちの謝罪を求めます。

あなたたちのために、そしてその魂のために、再び地上に生まれてその魂をより注意深く見守り、その魂もそのことを認識したうえで、その愛によって返礼することになります。

 だから、母親を拒絶する子供やあなたたちに対して恩知らずな子供を追い出してはなりません。そうしたことやそうした子供があなたに与えられたことは、単なる偶然ではありません。それは過去についての不完全な直感の現れなのであり、そのことから、あなたたちはある過去の人生においてすでに大いに憎んだか、あるいは大いに攻撃されたかのいずれかであると推測することが出来ます。

どちらかが、償うためか、試練の為にやって来たのです。母親たちよ、あなたたちを不愉快にさせる子供を抱きしめ、自分に言って下さい。「私たち二人のどちらかに責任があるのです」と。

神が母性に結び合わせた神聖なる喜びを享受するのに、あなたたちが相応しくなるように、子供たちに、私たちは地上で完成し、愛し合い、祝福されるために生まれてきたのだということを教えてあげてください。

ああ、しかしあなたたちの多くは、過去の人生から引き継いでいる生まれつきの悪の傾向を、教育を通じて摘み取る代わりに、罪深い弱さか、あるいは不注意によってそれらを保ち、大きくしてしまっており、やがてあなたたちの心は子供たちの忘恩で痛めつけられ、それがあなたたちにとって試練の始まりとなるのです。

 任務はあなたたちの目に映るほど難しくはありません。地上の知識は必要としません。無知な者にも知識のある者にも、その役割を果たすことができ、スピリティズムは人類の魂の不完全性の原因について知らしめることにより、その役割の達成に役立ちます。

 小さい時から子供は、前世から持ち越した善または悪の本性の兆候を表します。両親はそれを研究しなければなりません。いかなる悪も、エゴと自尊心からもたらされます。

ですから、両親はそうした悪癖の芽の存在を示す小さな兆候を警戒し、より深く根を張る前に、それらと戦うように注意をしなければなりません。樹木から欠陥となる芽を摘み取る善き庭師のようにしなければなりません。

エゴイズムと自尊心を成長させてしまったのであれば、後になってから忘恩によって報いられても驚いてはなりません。両親が子供の道徳的進歩に応じて、すべてやるべきことを行ったのにもかかわらず、その成果がないのであれば、自分自身を負い目に感じる必要はなく、良心は平静を保つことができます。

そうした時、努力の成果が生まれないことから来るごく自然な苦しみに対して、神は、それが単にその子どもの遅れから来るものであり、今開始された事業は次の人生において完了し、その忘恩の息子はその愛によって償ってくれるのだという確信を与えてくれることによって、偉大な慰安を残してくれているのです(→第十三章 19)。

 神は試練を求める者の能力を超えた試練を与えることはありません。達成することのできる試練がもたらされることしか許しません。もし成功を収めることが出来ないのであれば、それは可能性が不足したからではありません。意欲が欠けていたのです。

悪の傾向に抵抗する代わりに、それらを楽しんでいる人たちのなんと多いことでしょうか。こうした人たちには、後の人生における涙と苦しみが待ち受けているのです。しかし、後悔に対して決して扉を閉ざすことの無い神の善意を賞賛してください。

苦しむことに疲れ、自尊心を捨て去った罪人は、いつの日か足元に身をひれ伏す放蕩息子を迎えようと神は両腕を広げてくれていることに気づくのです。よく聞いてください。

厳しい試練は、神への思いを抱きながら受け止められるのであれば、それはほとんどいつも苦しみの終わりと霊の完成を告げるものなのです。

それは至上の時であり、その時、そうした試練がもたらす成果を失って再びやり直すことを望まないのであれば、その霊は何よりもまず、不平を言うことによって失敗しないようにしなければなりません。

不満を述べる代わりに、あなたたちに与えられた勝つための機会を神に感謝し、神が勝利の褒美をあなたたちの為にとっておいてくれるようにしなければなりません。そうすれば、地上の世界の渦から出て霊の世界に入った時、あなたたちは戦闘から勝利を収めて戻ってきた兵士のように、そこで喝采を受けることになるのです。

 あらゆる試練の中で最も厳しいのは、心に害を及ぼすものです。勇気を持って物質的な損失や貧困に耐える者も、家族の忘恩に傷つけられ、家庭内の苦しみに負けてしまいます。おお、それは何と痛々しい苦しみであることでしょうか。

しかし、そうした時、神の創造物が無期限に苦しむことは神の望むところではないのだから、魂の破壊が長引こうとも永遠の絶望は存在しないのだ、という確信と、悪の原因の認識以外に、なにが有効に道徳的な勇気を立て直してくれるでしょうか。

苦しみの短縮が、悪の原因そのものを破壊するための一つ一つの努力にかかっているのだという考え以上に、力を与え、励ましとなるものがあるでしょうか。

しかし、そのためには、人間はその視線を地球上だけにとどめたり、人生が一度きりだと考えたりしないようにする必要があります。視線を高く上げ、過去と未来の無限へと向けなければなりません。

そうして忍耐強く待てば、神の正義があなたたちに明らかにされます。なぜなら、地上では本当に恐ろしいものとして見えていたものが、解釈可能となるからです。

そこで開いた傷口も、単なるかすり傷であると考えることができるようになります。こうして全体に向けて投げかけられた視線によって、家族の絆の真の姿があなたたちに明らかにされます。

もはやメンバーが単なる壊れやすい物質的な絆で結びついているようには見えなくなり、再生によって破壊されるのではなく、浄化されて行くことによってより固く結びつき、永続していく霊の絆によって結びついているように見えるようになるのです。

 好みの類似性、道徳的進度、集まろうと導く愛情によって、霊たちは家族を形成します。その霊たちは、地上に住む間、グループを形成するために探し合いますが、それは宇宙においてもそうしているのであり、均質でまとまった家族というのはここに起因しているものなのです。

もし、その人生の巡歴の間に一時的には別々になっても、新しい進歩を成し遂げ、後に幸せな再会をすることになります。しかし、自分だけのために働くのではいけないために、進歩のためになる慰めとよき模範を受けることができるように、進歩の遅れた霊が彼らの間に生まれてくることを神は許されるのです。

そうした霊が、時として他の霊たちにとって混乱の種となることがありますが、これがそれらの霊たちにとって試練や遂行せねばならない義務となるのです。

 だから、進歩の遅れた霊たちを兄弟の様に迎え入れてください。助けてあげて下さい。そうすれば、あなたが何人かの遭遇者たちを救済したことを、後に霊界において家族が祝福してくれるでしょうし、また遭難者たちも、自分が救済する立場になった時には他の人を助けることができるでしょう。(聖アウグスティヌス パリ、1862年)
   

Tuesday, December 19, 2023

シアトルの冬 霊と物質の関係

relationship between spirit and matter

別の日の交霊会でシルバーバーチは、霊と物質の関係という基本的なテーマについて語った。その日のゲストはスピリチュアリズムに熱心な夫婦だった。その二人に向かってこう語った。


「あなた方は物質をまとった存在です。身を物質の世界に置いておられます。それはそれなりに果たすべき義務があります。衣服を着なければなりません。家がなくてはなりません。食べるものが要ります。身体の手入れをしなくてはなりません。身体は、要請される仕事を果たすために必要なものを、すべて確保しなければなりません。

物的身体の存在価値は、基本的には霊(自我)の道具であることです。霊なくしては身体の存在はありません。そのことを知っている人が実に少ないのです。身体が存在できるのは、それ以前に霊が存在するからです。霊が引っ込めば身体は崩壊し、分解し、そして死滅します。

こんなことを申し上げるのは、他の多くの人たちと同様に、あなた方もまだまだ、本来の正しい視野をお持ちでないからです。ご自身のことを、一時的に地上的生命をたずさえた霊的存在であるとは得心しておられません。身体にかかわること、世間的なことを必要以上に重要視なさる傾向がまだあります。

いかがですか、私の言っていることは間違っておりましょうか。間違っていれば遠慮なくそうおっしゃってください。わたしが気を悪くすることはありませんから……」

「いえ、おっしゃる通りだと思います。そのことを自覚し、かつ忘れずにいるということは大変むつかしいことです」と奥さんが言う。


「むつかしいことであることは、わたしもよく知っております。ですが、視野を一変させ、その身体だけでなく、住んでおられる地球、それからその地球上のすべてのものが存在できるのは、ほかならぬ霊のおかげであること、あなたも霊であり、霊であるがゆえに大霊の属性のすべてを宿していることに得心がいけば、前途に横たわる困難のすべてを克服していくだけの霊力をさずかっていることに理解がいくはずです。生命の根元、存在の根元、永遠性の根元は“霊”の中にあります。自分で自分をコントロールする要領(こつ)さえ身につければ、その無限の貯蔵庫からエネルギーを引き出すことができます。

霊は、物質の限界によって牛耳られてばかりいるのではありません。全生命の原動力であり、全存在の大始源である霊は、あなたの地上生活において必要なものを、すべて供給してくれます。その地上生活の目的はいたって簡単なことです。死後に待ちうける次の生活にそなえて、本来のあなたであるところの霊性を強固にすることです。身支度を整えるのです。開発するのです。となると、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることが、あなたの受け止め方一つで、あなたの霊性の成長の糧(かて)となることがお分かりでしょう。

その一つ一つが、大霊の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も――暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが――克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えきれないほどの試練や危機に直面させられることはありません。そうした真理を、何らかの形でこのわたしとご縁のできた人に知っていただくだけでなく、実感し、実践していただくことができれば、その人は大霊と一体となり、摂理と調和し、日々、時々刻々、要請されるものにきちんと対応できるはずなのです。

ところが、残念ながら敵がいます。取り越し苦労、心配、愚痴という大敵です。それが波長を乱し、せっかくの霊的援助を妨げるのです。霊は、平静さと自信と受容性の中ではじめて伸び伸びと成長します。日々の生活に必要なものすべてが供給されます。物的必需品のすべてが揃います」

ここでご主人が「この霊の道具(身体)にわれわれはどういう注意を払えばよいかを知りたいのですが……肝心なポイントはどこにあるのでしょうか」と尋ねる。


「別にむつかしいことではありません。大方の人間のしていることをご覧になれば、身体の必要性にばかりこだわって(※)、精神ならびに霊の必要性に無関心すぎるという、わたしの持論に賛成していただけると思います。身体へ向けている関心の何分の一かでも霊の方へ向けてくだされば、世の中は今よりずっと住みよくなるでしょう」


※――豪華なファッション、豪邸、美食、そしてそれを得る為の金儲けなどのこと。

「霊のことを放ったらかしにしているということでしょうか。身体にかかわることは、そうまで構わなくてもよいということでしょうか。それとも、もっと総体的な努力をすべきだとおっしゃりたいのでしょうか」


「それは人によって異なる問題ですが、一般的に言って人間は、肉体にかかわることはおろそかにはしておりません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。あなた方が文明と呼んでいるものが不必要な用事を増やし、それに対応するために、また新たな慣習的義務を背負(しょ)い込むという愚を重ねております。肉体にとってなくてはならぬものといえば、光と空気と食べものと運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにアレコレと必要なものではありません。慣習上、必要品となっているだけです

わたしは決して肉体ならびにその必要品をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するように、と勧めているのではありません。一人でも多くの人に、正しい視野をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい、霊をそなえた肉体だと思い込んでいる人が、まだまだ多すぎます。本当は肉体をそなえた霊的存在なのです。それとこれとでは、大違いです。

無駄な取り越し苦労に振り回されている人が多すぎます。わたしが何とかしてなくしてあげたいと思って努力しているのは、不必要な心配です。大霊は無限の叡智であり、無限の愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。

驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない摂理によって支配され、規制され、維持されているのです。その摂理の働きは、一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。いま存在する自然法則はかつても存在し、これからも未来永劫に存在し続けます。なぜなら、完璧な構想のもとに、全能の力によって生み出されたものだからです。

宇宙のどこでもよろしい、よく観察すれば、雄大なものから極小のものまでの、ありとあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥・樹木・花・海・山川・湖のどれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節のめぐりが生じているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。

種子を蒔けば芽が出る――この、いつの時代にも変わらない摂理こそ、大霊の働きの典型です。大霊は絶対にしくじったことはありません。あなた方が見放さないかぎり、大霊は決してあなた方を見放しません。

わたしは、大霊の子すべてに、そういう視野をもっていただきたいのです。そうすれば、取り越し苦労もしなくなり、恐れおののくこともなくなります。いかなる体験も魂の成長にとって何らかの役に立つことを知るようになります。その認識のもとに、一つ一つの困難に立ち向かうようになり、そして首尾よく克服していくことでしょう。その最中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。

あなた方もいつかはこちらの世界へ来られるわけですが、来てみれば、感謝なさるのはそういう辛い体験の方なのです。視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、その最中にある時は有り難く思えなかったけれども、霊の成長を一番促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明してさしあげることはできませんが、こちらへお出でになれば、みずから得心なさることでしょう。

こうしたことは、あなた方にとっては比較的新しい真理でしょうが、これは大変な真理であり、また多くの側面をもっております。まだまだ学ばねばならないことが沢山あるということです。探求の歩みを止めてはいけません。歩み続けるのです。ただし、霊媒の口をついて出るものをぜんぶ鵜呑(うの)みにしてはいけません。あなたの理性が反発するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶なさい。理に適っていると思えるもの、価値があると確信できるものだけを受け入れなさい。何でもすぐに信じる必要はありません。あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです。

わたしたちは誤りを犯す可能性のある道具を使用しているのです。交信状態が芳(かんば)しくない時があります。うっかりミスを犯すことがあります。伝えたいことのすべてが伝えられないことがあります。他にもいろいろと障害があります。霊媒の健康状態、潜在意識の中の思念、かたくなに執着している観念などが伝達を妨げることもあります。

その上、わたしたちスピリットも誤りを犯す存在であることを忘れてはなりません。死によって無限の知識のすべてを手にできるようになるわけではありません。地上時代より少しだけ先が見通せるようになるだけです。そこで、こうして、皆さんより多く知った分だけをお届けしているわけです。わたしたちも知らないことばかりです。が、少しでも多く知ろうと努力しているところです。

地上より開けたこちらの世界で知った価値ある知識を、わたしたちがこうして皆さんにお授けするわけは、代わってこんどは皆さんが、それを知らずにいる人たちへ伝えてあげていただきたいと思うからです。宇宙はそういう仕組みになっているのです。実に簡単なことなのです。

わたしたちは自分自身のことは何も求めません。お礼の言葉もお世辞もいりません。崇(あが)めてくださっても困ります。わたしたちはただの使節団、大霊の代理人にすぎません。自分ではその任務にふさわしいとは思えないのですが、その依頼を受けた以上こころよくお引き受けし、力のかぎりその遂行に努力しているところなのです」

その日は、二度も夫に先立たれるという悲劇を体験した婦人が招待されていた。その婦人にシルバーバーチがこう語りかけた。


「地上での人生体験の中には、生命の実在に直面させられる酷しい体験というものが、いくつかあるものです。大霊と真実の自我を内と外に求め、宇宙の存在の意図を探り、それがあくまでも謎のままなのか、それとも、れっきとした計画があるのかを知りたくて、なぜそうなのか、なぜこうなのか、なぜ、なぜ、なぜと問い続けます。そのいくつかは解決できても、どうしても分からないものもあります。が、そうして“問う”という事実そのものが、あなたの魂が自覚をもちはじめている証拠なのです。

地上世界は、そうやって魂が勉強する場所なのです。失敗もし、そして願わくば、それから何かを学んでいくのです。犯した間違いを正し、教訓を学び、より立派な行為を心がけ、二度と失敗しないようになっていくのです。そのうち、ある段階まで成長しますと、大切なのは目的の成就そのものよりも、その成就に向けて努力していく過程での体験によって、性格がどう形成されていくかであることに気づくようになります。過酷な体験の末に目からウロコが落ち、真実の価値の評価ができるようになり、最後は、物的なものにはそれなりの価値はあっても、絶対的価値のあるものではないことを悟ります。

暗く辛い人生の体験によって魂がそうした悟りの末に真実の自我に目覚め、大霊とのつながりを強めることになれば、その体験は大いなる価値があったことになります。これから訪れる未来のある時点で過去を振り返ってごらんになれば、辛く苦しくはあっても、霊的理解力の開発の節目となっていた体験を、有り難く感謝するようになることでしょう」

ここでシルバーバーチは、その交霊会の場に、その婦人が可愛がっていたアイリッシュセッター(猟犬の一種)が来ていると述べてから――


「あなたが飼っておられた素敵な犬がやってきましたよ。あなたが可愛がっていたと同じくらい、この犬もあなたに愛着をもっていたのですよ。お見せできるといいのですがね。年も取っていませんし、(死んだ時の)虚弱な様子も見えません――品もあり、格好もよく、気立ての優しい犬ですね。あなたの愛情がそのように進化させたのですよ。

あなたは幸せな方ですね。人間からも愛され、非人間――といってはおかしいですね――この美しい生きものからも愛されて……あなたの人生は人間以外の生きものからの愛によって囲まれております。その種の愛にはまったく反応しない人がいる中で、あなたはとてもよく反応していらっしゃいます」

シルバーバーチはさらに、かのイタリアの大聖人アッシジの聖フランチェスコもその場に来ていると述べてから――


「驚いたでしょ? この人はすべてのものに愛を抱いている方です。今も、物言わぬ生きものたちの救済のために、霊界で活躍しておられます。動物は、進化の途上における人間の仲間として地上へ送られているのです。それが今しばしば虐待され、苦役(くえき)に駆り立てられ、そして、人類にとって何の益にもならない知識を得るための実験に使用されております」

その日の交霊会の後半で、シルバーバーチはふたたび“無益な心配”のテーマを取り上げた。するとメンバーの一人がこんな意見を述べた。

「私は、あなたが説かれるような立派な生き方をしておりませんので、やはり心配が絶えません。人間が正しい心がけで生きていなければ、背後霊の方もしかるべき指導ができないので、それで心配の念が湧くのだと思います。いけないことだとは分かっているのですが……」


「あなたはご自分のことを実際よりよほど悪く評価なさってますね」

「いえ、私は妄想を抱くタイプではありません。間違っている時は間違っていると、はっきり認識しております。ですから、正しい生き方をしていなければ、当然、心配は絶えないものと覚悟しているわけです」


「わたしは、そうは思いませんね。さっきも言いましたように、あなたはご自分で思っておられるほど悪い生き方はしていらっしゃいません。もっとも、あなたにできるはずの立派な生き方もしていらっしゃいませんけどね。ですが、とかく光を見た人は暗闇の意識が強くなるものです」

「それにも代償を払わないといけません」


「いずれ払わないといけないでしょう。摂理には逃げ道はありませんから、犯した間違いに対して、すべての者が代償を払わないといけません」

「そちらの世界へ行けば、また別の形で裁かれるものと覚悟しております」


「お裁きというものはありません。魂がそれにふさわしいものを受ける――因果律です。蒔いたタネを刈り取るのです。地上での行為の結果が死後のあなたを決める――それだけのことです。それより良くもなれませんし、それより悪くもなれません。それより上にもあがれませんし、それより下にもさがれません。あなたの有るがままの姿――それがあなたです。それまでの行為がそういうものを生み出したのです。それだけのことです」