Saturday, August 1, 2026

ベールの彼方の生活(二)

第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。


六章 常夏の楽園 

1 霊界の高等学院 

一九一三年十二月九日  火曜日

 私の望み通り今宵も要請に応じてくれた。ささやかではあるが、これより貴殿を始めとして他の多くの者にとって有益と思えるものを述べる私の努力を、貴殿は十分に受け止め得るものと信ずる。たとえ貴殿は知らなくても、貴殿にそれを可能ならしめる霊力が吾々にあり、それを利用して思念を貴殿の前に順序よく披瀝して行く。

いたずらに自分の無力を意識して挫けることになってはならない。貴殿にとってこれ以上は無理と思える段階に至れば、私の方からそれを指摘しよう。そして吾々も暫時(ざんじ)ノートを閉じて他の仕事に関わるとしよう。

 では今夜も貴殿の精神をお借りして引き続き第十界の生活について今少し述べようと思う。ただ、いつものように吾々の界より下層の世界の事情によってある程度叙述の方法に束縛が加えられ、さらには折角の映像も所詮は地上の言語と比喩の範囲に狭(せば)められてしまうことを銘記されたい。

それは己むを得ないことなのである。それは恰も一リットルの器に一〇リットルの水は入らず、鉛の小箱に光を閉じ込めることが出来ぬのと同じ道理なのである。

 前回のべた大聖堂は礼拝のためのみではない。学習のためにも使用されることがある。ここはこの界の高等学院であり、下級クラスを全て終了した者のみが最後の仕上げの学習を行う。他にもこの界域の各所にさまざまな種類の学校や研究所があり、それぞれに独自の知識を教え、数こそ少ないがその幾つかを総合的に教える学校もある。

 この都市にはそれが三つある。そこへは〝地方校〟とでも呼ぶべき学校での教育を終えた者が入学し、各学校で学んだ知識の相対的価値を学び、それを総合的に理解していく。

この組織は全世界を通じて一貫しており、界を上がる毎に高等となって行く。つまり低級界より上級界へ向けて段階的に進級していく組織になっており、一つ進級することはそれだけ霊力が増し、且つその恩恵に浴することが出来るようになったことを意味する。

 教育を担当する者はその大部分が一つ上の界の霊格を具えた者で、目標を達成すれば本来の界へ戻り、教えを受けた者がそのあとを継ぐ。その間も何度となく本来の上級界へ戻っては霊力を補給する。

かくて彼らは霊格の低い者には耐え難い栄光に耐えるだけの霊力を備えるのである。

 それとは別に、旧交を温めるために高級界の霊が低級界へ訪れることもよくあることである。その際、低級界の環境条件に合わせて程度を下げなければならないが、それを不快に思う者はまずいない。そうしなければ折角の勇気づけの愛の言葉も伝えられないからである。

 そうした界より地上界へ降りて人間と交信する際にも、同じく人間界の条件に合わさねばならない。大なり小なりそうしなければならない。天界における上層界と下層界との関係にも同じ原理が支配しているのである。

 が同じ地上の人間でも、貴殿の如く交信の容易な者もあれば困難なるものもあり、それが霊性の発達程度に左右されているのであるが、その点も霊界においても同じことが言える。

例えば第三界の住民の中には自分の界の上に第四界、第五界、あるいはもっと上の界が存在することを自覚している者もおれば、自覚しない者もいる。それは霊覚の発達程度による。自覚しない者に上級界の者がその姿を見せ言葉を聞かせんとすれば、出来るだけ完璧にその界の環境に合わさねばならない。現に彼らはよくそれを行っている。


 もとより、以上は概略を述べたに過ぎない。がこれで、一見したところ複雑に思えるものも実際には秩序ある配慮が為されていることが判るであろう。

地上の聖者と他界した高級霊との交わりを支配する原理は霊界においても同じであり、さらに上級界へ行っても同じである。

故に第十界の吾々と、更に上層界の神霊との交わりの様子を想像したければ、その原理に基いて推理すればよいのであり、地上に置いて肉体をまとっている貴殿にもそれなりの正しい認識が得られるであろう。


──判りました。前回の話に出た第十界の都市と田園風景をもう少し説明していただけませんか。

 よかろう。だがその前に〝第十界〟という呼び方について一言述べておこう。吾々がそのように呼ぶのは便宜上のことであって、実際にはいずれの界も他の界と重なり合っている。

ただ第十界には自ずからその界だけの色濃い要素があり、それをもって〝第十界〟と呼んでいるまでで、他の界と判然と区切られているのではない。天界の全界層が一体となって融合しているのである。それ故にこそ上の界へ行きたいと切に望めば、いかなる霊にも叶えられるのである。

 同時に、例えば第七界まで進化した者は、それまで辿って来た六つの界層へは自由に行き来する要領を心得ている。かくて上層界から引きも切らず高級霊が降りてくる一方で、その界の者もまた下層界へいつでも降りて行くことが出来るのであり、その度に目標とする界層の条件に合わせることになる。

又その界におりながら自己の霊力を下層界へ向けて送り届けることも出来る。

これは吾々も間断なく行っていることであって、すでに連絡の取れた地上の人間へ向けて支配力と援助とを放射している。貴殿を援助するのに必ずしも第十界を離れるわけではない。もっとも、必要とあらば離れることもある。


──今はどこにいらっしゃいますか。第十界ですか、それともこの地上ですか。

 今は貴殿のすぐ近くから呼びかけている。私にとってはレンガやモルタルは意に介さないのであるが、貴殿の肉体的条件と、貴殿の方から私の方へ歩み寄る能力が欠けているために、どうしても私の方から近づくほかはないのである。

そこでこうして貴殿のすぐ側まで近づき、声の届く距離に立つことになる。こうでもしなければ私の思念を望みどおりには綴ってもらえないであろう。

 では、私の界の風景についての問いに答えるとしよう。最初に述べた事情を念頭に置いて聞いてもらいたい。では述べるとしよう。

 都市は山の麓に広がっている。城壁と湖の間には多くの豪邸が立ち並び、その敷地は左右に広がり、殆どが湖のすぐ近くまで広がっている。その湖を舟で一直線に進み対岸へ上がると、そこには樹木が生い繁り、その多くはこの界にしか見られないものである。

その森にも幾筋かの小道があり、すぐ目の前の山道を辿って奥へ入っていくと空地に出る。

 その空地に彫像が立っている。女性の像で天井を見上げて立っている。両手を両脇へ下げ、飾りのない長いロープを着流している。この像は古くからそこに建てられ、幾世期にも亘って上方を見上げてきた。

 が、どうやら貴殿は力を使い果たしたようだ。この話題は一応これにて打ち切り、機会があればまた改めて述べるとしよう。

 その像の如く常に上方へ目を向けるがよい。その目に光の洗礼が施され、その界の栄光の幾つかを垣間みることができるであろう。 ♰



 
  2 十界より十一界を眺める   

一九一三年十二月十一日 木曜日

 前回の続きである。

 彫像の立つ空地は実は吾々が上層界からの指示を仰ぐためにしばしば集合する場所である。これより推進すべき特別の研究の方向を指示するために無数の霊の群れを離れて吾々を呼び寄せるには、こうした場所が都合が良いのである。

そこへ高き神霊が姿をお見せになり、吾々との面会が行われるのであるが、その美しい森を背景として、天使の御姿は一段と美しく映えるのである。

 その空地から幾すじかの小道が伸びている。吾々は突き当りで右へ折れる道を取り、さらに歩み続ける。道の両側には花が咲き乱れている。キク科の花もあればサンシキスミレもあり、そうした素朴な花が恰もダリア、ボタン、バラ等の色鮮やかな花々の中に混って咲いていることを楽しんでいるかのように、一段と背高(せいだか)に咲いているのが目に止まる。

このほかにもまだまだ多くの種類の花が咲いている。と言うのは、この界では花に季節がなく、常夏の国の如く、飽きることなく常に咲き乱れているのである。

 そこここに更に別の種類の花が見える。直径が一段と大きく、それが光でできた楯の如く輝き、あたりはあたかも美の星雲の観を呈し、見る者によろこびを与える。

この界の花の美しさは到底言語では尽くせない。すでに述べたように、すべてが地上には見られぬ色彩をしているからである。それは地上のバイブレーションの鈍重さのせいであると同時に、人間の感覚がそれを感識するにはまだ十分に洗練されていないからでもある。

 このように──少し話がそれるが──貴殿の身のまわりには人間の五感に感応しない色彩と音とが存在しているのである。この界にはそうした人間の認識を超えた色彩と音とが満ち溢れ、それが絢爛(けんらん)豪華な天界の美を一段と増し、最高神の御胸において至聖なる霊のみが味わう至福の喜びに近づいた時の〝聖なる美〟を誇示している。

 やがて吾らは小川に出る。そこで道が左右に別れているが、吾々は左に折れる。その方角に貴殿が興味を抱きそうなコロニーがあり是非そこへ案内したく思うからである。

その川から外れると広い眺めが展開する。そこが森の縁(ふち)なのであるが、そこに一体何があると想像されるか。ほかでもない。そこは年中行事を司るところの言わば〝祝祭日の聖地〟なのである。

 地上の人間はとかく吾々を遠く離れた存在であるかに想像し、近接感を抱いていないようであるが、つばめ一羽落ちるのも神は見逃さないと言われるように、人間の為すことの全てが吾々に知れる。

そしてそれを大いなる関心と細心の注意をもって観察し、人間の祈りの中に一しずくの天界の露を投げ入れ、天界の思念によって祈りそのものと魂とに香ばしい風味を添えることまでする。

 このコロニーには地上の祝祭日に格別の関心を抱く天使が存在する。そうして毎年めぐり来る大きい祝祭日において、人間の思念と祈願を正しい方向へ導くべく参列する霊界の指導霊に特別の奉納を行う。

 私自身はその仕事には関わっていない。それ故あまり知ったかぶりの説明はできないが、クリスマス、エピファニー、イースター、ウィットサンデー(※)等々に寄せられる意念がこうした霊界のコロニーにおいて強化されることだけは間違いない事実である。

(※これらは全て霊界の祝祭日の反映であり従って地上の人間の解釈とは別の霊的意義がある。それについてはステイトン・モーゼスの霊界通信『霊訓』が最も詳しい。──訳者)

 また聞くところによれば〝父なる神〟をキリスト教とは別の形で信仰する民族の祝祭日にも、同じように霊界から派遣される特別の指導霊の働きかけがあるということであるが、確かにそういうことも有りえよう。

 かくて地上の各地の聖殿における礼拝の盛り上がりは、実はこうして霊界のコロニーから送られる霊力の流れが、神への讃仰と祈願で一体となった会衆の心に注がれる結果なのである。

 貴殿はそのコロニーの建物について知りたがっているようであるが、建物は数多く存在し、そのほとんどが聳えるように高いものばかりである。

その中でもとくに他を圧する威容を誇る建物がある。数々のアーチが下から上へ調和よく連なり、その頂上は天空高く聳え立つ。祝祭日に集まるのはその建物なのである。

その頂上はあたかも開きかけたユリの花弁がいつまでも完全に咲き切らぬ状態にも似ており、それに舌状の懸花装飾が垂れ下がっている。色彩は青と緑であるが、そのヒダは黄金色を濃縮したような茶色を呈している。

見るも鮮やかな美しさであり、天空へ向けて放射される讃仰の念そのものを象徴している。それは恰も芳香を放出する花にも似て、上層界の神霊ならびに、すべてを超越しつつしかも全ての存在を見届け知りつくしている創造の大霊へ向けて放たれてゆく。

 吾々はこの花にも似た美しい聖殿があたかも小鳥がヒナをその両翼に抱き、その庇護の中でヒナたちが互いに愛撫し合うかのような、美しくも温かき光景を後にする。そしてさらに歩を進める。

 さて、小川の上流へ向けて暫し歩き続けるうちに、道は上り坂となる。それを登り続けるとやがて山頂に至り、そこより遥か遠くへ視界が広がる。実はそこは吾々の界と次の界との境界である。どこまで見渡せるか、またどこまで細かく見極めうるかは、開発した能力の差によって異なるが、私に見えるままを述べよう。

 私は今、連なる山々の一つの頂上に立っている。すぐ目の前に小さな谷があり、その向こうに別の山があり、更にその向うに別の山が聳えている。焦点を遠くへやるほどその山を包む光輝が明るさを増す。が、その光はじっと静かに照っているのではない。

あたかも水晶の海か電気の海にでも浸っているかのように、ゆらめくかと思えば目を眩ませんばかりの閃光を発し、あるいは矢のような光線が走り抜ける。これは外から眺めた光景であり、今の私にはこれ以上のことは叙述できぬ。

 川もあれば建物もある。が、その位置は遥か彼方である。芝生もあれば花を咲かせている植物もある。樹木もある。草原が広がり、その界の住民の豪華な住居と庭が見える。が、私はその場へ赴いて調べることはできない。ただ、こうして外観を述べることしかできない。    

 それでも、その景色全体に神の愛と、えも言われぬ均整美が行きわたり、それが私の心を弾ませ足を急かせる。

なぜなら、その界へ進み行くことこそ第十界における私の生活の全てだからである。託された仕事を首尾よく果たした暁には、その素晴らしき界の、さる有難きお方(※)からの招きを受けるであろう。その時は喜び勇んで参ることであろう。  

(※ザブディエルの守護霊のこと。その守護霊にも守護霊がおり、そのまた守護霊がおり、連綿として最後は守護神に至る。──訳者)

 が、このことは貴殿も同じことではなかろうか。私とその遥か遠き第十一界との関係はまさに貴殿と他界後の境涯と同じであり、程度こそ違え素晴らしいものであることにおいては同じである。

 この界につきてはまだ僅かしか語っていないが、貴殿の心を弾ませ足を急かせるには十分であろう。

 ここで再び貴殿をさきの空地へ連れ戻し、あの彫像の如く常に目をしっかりと上方へ向けるよう改めて願いたい。案ずることは何一つない。足元へ目をやらずとも決して躓くことは無い。高きものを求める者こそ正しい道を歩む者であり、足元には吾々が気を配り事なきを期するであろう。

 万事は佳きに計らわれている。さよう、ひたすらに高きものを求める者は万事佳きに計らわれているものと思うがよい。なぜなら、それは主イエスに仕える吾らを信頼することであり、その心は常に主と共にあり、何人たりとも躓かせることはさせぬであろう。

 では、この度はここまでとしよう。地上生活はとかく鬱陶しく、うんざりさせられることの多いものである。が、同時に美しくもあり、愛もあり、聖なる向上心もある。それを少しでも多く自分のものとし、また少しでも多く同胞に与えるがよい。

そうすれば、それだけ鬱陶しさも減じ、天界の夜明けの光が一層くっきりと明るく照らし、より美わしき楽園へと導いてくれることであろう。



  3 守護霊との感激の対面     

  一九一三年十二月十二日  金曜日

 背後から第十界の光を受け、前方から上層界の光を浴びながら私は例の山頂に立って、その両界の住民と内的な交わりを得ていた。そしてその両界を超えた上下の幾層もの界とも交わることが出来た。

その時の無上の法悦は言語に絶し、絢爛(けんらん)にして豪華なもの、広大にして無辺のもの、そして全てを包む神的愛を理解する霊的な眼を開かせてくれたのである。

 あるとき私は同じ位置に立って自分の本来の国へ目をやっていた。眼前に展開する光の躍動を見続けることが出来ず、思わず目を閉じた。そして再び見開いた時のことである。その目にほかならぬ私の守護霊の姿が入った。私が守護霊を見、そして言葉を交わしたのは、その時が最初であった。

 守護霊は私と向かい合った山頂に立ち、その間には谷がある。目を開いた時、あたかも私に見え易くするために急きょ形体を整えたかのように、私の目に飛び込んできた。事実そのとおりであった。うろたえる私を笑顔で見つめていた。

 きらびやかに輝くシルクに似たチュニック(首からかぶる長い服)を膝までまとい、腰に銀色の帯を締めている。膝から下と腕には何もまとっていないが、魂の清らかさを示す光に輝いている。

そしてそのお顔は他の個所より一段と明るく輝いている。頭には青色の帽子をのせ、それが今にも黄金色へと変わろうとする銀色に輝いている。

その帽子にはさらに霊格の象徴である宝石が輝いている。私にとっては曽て見たこともない種類のものであった。石そのものが茶色であり、それが茶色の光を発し、まわりに瀰漫(びまん)する生命に燃えるような、実に美しいものであった。

 「さ、余のもとへ来るがよい」ついに守護霊はそう呼びかけられた。その言葉に私は一瞬たじろいだ。恐怖のためでは無い。畏れ多さを覚えたからである。

 そこで私はこう述べた。

 「守護霊様とお見受けいたします。その思いが自然に湧いてまいります。こうして拝見できますのは有難いかぎりです。言うに言われぬ心地よさを覚えます。私のこれまでの道中をずっと付き添って下さっていたことは承知しておりました。私の歩調に合わせてすぐ先を歩いて下さいました。

今こうしてお姿を拝見し、改めてこれまでのお心遣いに対して厚く御礼申し上げます。ですが、お近くまで参ることはできません。この谷を下ろうとすればそちらの界の光輝で目が眩み、足元を危うくします。これでは多分、その山頂まで登るとさらに強烈な光輝のために私は気絶するものと案じられます。これだけ離れたこの位置にいてさえ長くは耐えられません。」

 「その通りかもしれぬ。が、この度は余が力となろう。汝は必ずしも気付いておらぬが、これまでも何度か力を貸して参った。また幾度か余を身近に感じたこともあるようであるが、それも僅かに感じたに過ぎぬ。これまで汝と余とはよほど行動を共にして参った故に、この度はこれまで以上に力が貸せるであろう。

気を強く持ち、勇気を出すがよい。案ずるには及ばぬ。これまで度々汝を訪れたが、この度、汝をこの場に来させたそもそもの目的はこうして余の姿を見せることにあった。」

 そう述べたあと暫しあたかも彫像の如くじっと直立したままであった。が、やがて様子が一変しはじめた。腕と脚の筋肉を緊張させているように見えはじめたのである。

ゴース(クモの糸のような繊細な布地)のような薄い衣服に包まれた身体もまた全エネルギーを何かに集中しているように見える。両手は両脇に下げたまま手の平をやや外側へ向け、目を閉じておられる。その時不思議な現象が起きた。

 立っておられる足元から青とピンクの混じりあった薄い雲状のものが湧き出て私の方へ伸びはじめ、谷を超えて二つの山の頂上に橋のように懸かったのである。高さは人間の背丈とほぼ変わらず、幅は肩幅より少し広い。それが遂に私の身体まで包み込み、ふと守護霊を見るとその雲状のものを通して、すぐ近くに見えたのである。

その時守護霊の言葉が聞こえた。「参るがよい。しっかりと足を踏みしめて余の方へ向かって進むがよい。案ずるには及ばぬ」

 そこで私はその光り輝く雲状の柱の中を守護霊の方へと歩を進めた。足元は厚きビロードのようにふんわりとしていたが、突き抜けて谷へ落ちることもなく、一歩一歩近づいて行った。守護霊が笑顔で見つめておられるのを見て私の心は喜びに溢れていた。

 が、よほど近づいたはずなのに、なかなか守護霊まで手が届かない。相変らずじっと立っておられ決して後ずさりされたわけではなかったのであるが・・・・・・

 が、ついに守護霊が手を差し出された。そして、更に二歩三歩進んだところでその手を掴むことが出来た。するとすぐに、足元のしっかりした場所へと私を引き寄せて下さった。

 見ると、はや光の橋は薄れていき、私の身体はすでに谷の反対側に立っており、その谷の向こうに第十界が見える。私は天界の光とエネルギーで出来た橋を渡って来たのであった。

 それから二人は腰を下ろして語り合った。守護霊は私のそれまでの努力の数々に言及し、あの時はこうすればなお良かったかも知れぬなどと述べられた。褒めて下さったものもあるが、褒めずに優しく忠告と助言をして下さったこともある。決してお咎めにはならなかった。

又そのとき二人の位置していた境界についての話もされた。そこの栄華の幾つかを話して下さった。さらに、そのあと第十界へ戻って仕上げるべき私の仕事において常に自分が付き添って居ることを自覚することが如何に望ましいかを語られた。

 守護霊の話に耳を傾けているあいだ私は、心地よい力と喜びと仕事への大いなる勇気を感じていた。こうして守護霊から大いなる威力と高き聖純さを授かり、謙虚に主イエスに仕え、イエスを通じて神に仕える人間の偉大さについて、それまで以上に理解を深めたのであった。

 帰りは谷づたいに歩いたのであるが、守護霊は私の肩に手をまわして力をお貸し下さり、ずっと付き添って下さった。谷を下り川を横切り、そして再び山を登ったのであるが、第十界の山を登り始めた頃から言葉少なになっていかれた。

思念による交信は続いていたのであるが、ふと守護霊に目をやるとその姿が判然としなくなっているのに気づいた。とたんに心細さを感じたが、守護霊はそれを察して、

 「案ずるでない。汝と余の間は万事うまく行っている。そう心得るがよい」とおっしゃった。

 そのお姿は尚も薄れて行った。私は今一度先の場所に戻りたい衝動にかられた。が、守護霊は優しく私を促し、歩を進められた。が、そのお姿は谷を上がる途中で完全に見えなくなった。そしてそれっきりお姿を拝することはなかった。しかしその存在はそれまで以上に感じていた。

そして私がよろめきつつも漸く頂上に辿り着くまでずっと思念による交信を保ち続けた。そうして頂上から遠く谷越えに光輝溢れる十一界へと目をやった。しかし、そこには守護霊の姿はすでに無かった。

 が、その場を去って帰りかけながら今一度振り返った時、山脈伝いに疾走して行く一個の影が見えた。先程まで見ていた実質のある形体ではなく、ほぼ透明に近い影であった。

それが太陽の光線のように疾走するのが見えたのである。やっと見えたという程度であった。そしてそれも徐々に薄れて行った。が、その間も守護霊は常に私と共に存在し、私の思うこと為すことの全てに通暁しているのを感じ続けた。私は大いなる感激と仕事への一層大きな情熱を覚えつつ山を下り始めたのであった。

 あの光輝溢れる界から大いなる祝福を受けた私が、同じく祝福を必要とする人々に、ささやかながらも私の界の恵みを授けずにいられないのが道理であろう。

それを現に同志とともに下層界の全てに向けて行なっている。こうして貴殿のもとへも喜んで参じている。自分が受けた恩恵を惜しみなく同胞へ与えることは心地よいものである。

 もっとも、私の守護霊が行なったように貴殿との間に光の橋を架けることは私にはできない。地上界と私の界との懸隔が今のところあまりに大きすぎるためである。しかし、イエスも述べておられるように、両界を結ぶにも定められた方法と時がある。イエスの力はあの谷を渡らせてくれた守護霊よりはるかに大きい。

私はそのイエスに仕える者の中でも極めて霊格の低い部類に属する。が、私に欠ける聖純さと叡智は愛をもって補うべく努力している。貴殿と二人して力の限り主イエスに仕えていれば、主は常に安らぎを与えてくださり、天界の栄光から栄光へと深い谷間を越えて歩む吾々に常に付き添って下さることであろう。 ♰




    4 九界からの新参(しんざん)を迎える    

一九一三年十二月十五日  月曜日

 さて私は、いずれの日か召されるその日までに成就せねばならない仕事への情熱に燃えつつ、その界をあとにしたのであったが、ああ、その環境ならびに守護霊から発せられた、あの言うに言われぬ美しさと長閑(のど)けさ。仮にそこの住民がその守護霊の半分の美しさ、半分の麗しさしかないとしても、それでもなお、いかに祝福された住民であることか。私は今その界へ向けて鋭意邁進しているところである。

 しかし一方には貴殿を手引きすべき責務がある。もとよりそれを疎かにはしないつもりであるが、決して焦ることもしない。大いなる飛躍もあるであろうが、無為にうち過ごさざるを得ない時もあるであろう。

しかし私が曽て辿った道へ貴殿を、そして貴殿を通じて他の同胞を誘う上で少しでも足しになればと思うのである。願わくは貴殿の方から手を差しのべてもらいたい。私に為し得る限りのことをするつもりである。

 私は心躍る思いの内にその場を去った。そしてそれ以来、私を取り巻く事情についての理解が一段と深まった。それは私が重大な事柄について一段と高い視野から眺めることが出来るようになったということであり、今でもとくに理解に苦しむ複雑な事態に立ち至った折には、その高い視野から眺めるよう心掛けている。

つまりそれは第十一界に近い視野から眺めることであり、事態はたちどころに整然と片づけられ、因果関係が一層鮮明に理解できる。

 貴殿も私に倣(なら)うがよい。人生の縺(もつ)れがさほど大きく思えなくなり、基本的原理の働きを認識し、神の愛をより鮮明に自覚することであろう。そこで私は、今置かれている界について今少し叙述を続けてみようと思う。

 帰りの下り道で例の川のところで右へ折れ、森に沿って曲がりくねった道を辿り、右手に聳える山々も眺めつつ平野を横切った。その間ずっと冥想を続けた。

 そのうち、その位置からさらに先の領域に住む住民の一団に出会った。まずその一団の様子から説明しよう。彼らのある者は歩き、ある者は馬に跨(またが)り、ある者は四輪馬車ないしは二輪馬車に乗っている。

馬車には天蓋(てんがい)はなく木製で、留め具も縁飾りも全て黄金で出来ており、さらにその前面には乗り手の霊格と所属界を示す意匠が施されている。

身にまとえる衣装はさまざまな色彩をしている。が、全体を支配しているのは藤色で、もう少し濃さを増せば紫となる。総勢三百名もいたであろうか。挨拶を交わしたあと私は何用でいずこへ向かわれるのかと尋ねた。

 その中の一人が列から離れて語ってくれたところによれば、下の九界からかなりの数の一団がいよいよこの十界への資格を得て彼らの都市へ向かったとの連絡があり、それを迎えに赴くところであるという。

それを聞いて私はその者に、是非お供させていただいて出迎えの様子を拝見したく思うので、リーダーの方にその旨を伝えてほしいと頼んだ。

するとその者はにっこりと笑顔を見せ、「どうぞ付いて来なさるがよろしい。私がそれを保証しましょう。と申すのも、あなたは今そのリーダーと並んで歩いておられる」と言う。

 その言葉に私はハッとして改めてその方へ目をやった。実は、その方も他の者と同じく紫のチュニックに身を包んでおられたが何の飾りつけもなく、頭部の環帯も紫ではあるが宝石が一つ付いているのみで、他に何の飾りも見当たらなかったのである。

他の者たちが遥かに豪華に着飾り、そのリーダーよりも目立ち、威厳さえ感じられた。

その方と多くは語らなかったが、次第に私よりも霊格の高いお方で私の心の中を読み取っておられることが判って来た。

 その方は更にこうおっしゃった。「新参の者には私のこのままの姿をお見せしようと思います。と申すのは、彼らの中にはあまり強烈な光輝には耐えられぬ者がいると聞いております。そこで私が質素にしておれば彼らが目を眩ませることもないでしょう。

あなたはつい最近、身に余る光栄は益よりも害をもたらすものであることを体験されたばかりではなかったでしょうか。」

 その通りであることを申し上げると、さらにこう言われた。「お判りの通り私はあなたの守護霊が属しておられる界の者です。今はこの界での仕事を仰せつかり、こうして留まっているまでです。

そこで、これより訪れる新参者が〝拝謁〟の真の栄光に耐えうるようになるまでは気楽さを味わってもらおうとの配慮から、このような出で立ちになったわけです。さ、急ぎましょう。皆の者が川に到着しないうちに追い付きましょう。」

 一団にはわけなく追いつき、一緒に川を渡った。泳いで渡ったのである。人間も、馬車も、ワゴンもである。そして向う岸に辿り着いた。そこから私の住む都市を右手に見ながら、山あいの峠道にきた。そこの景色がこれ又一段と雄大であった。

左右に堂々たる岩がさながら大小の塔、尖塔、ドームの如く聳え立っている。そこここに植物が生い繁り、やがて二つの丘を両肩にして、そのあいだに遠く大地が広がっているのが見えて来た。そこにも一つの都市があり、そこに住む愉快な人々の群れが吾々の方を見下ろし、手を振って挨拶し、愛のしるしの花を投げてくれた。

 そこを通り過ぎると左右に広がる盆地に出た。実に美しい。周りに樹木が生い茂った華麗な豪邸もあれば、木材と石材でできた小じんまりとした家屋もある。湖もあり、そこから流れる滝が、吾々がたった今麓を通って来た山々から流れてくる川へ落ちて行く。

そこで盆地が終わり、自然の岩で出来た二本の巨大な門柱の間を一本の道が川と並んで通っている。

 その土地の人々が〝海の門〟と呼ぶこの門を通り抜けると、眼前に広々とした海が開ける。川がそのまま山腹を落ちてゆくさまは、あたかも色とりどりの無数のカワセミやハチドリが山腹を飛び交うのにも似て、様々な色彩と光輝を放ちつつ海へ落ちてゆく。吾々も道を通って下り、岸辺に立った。

一部の者は新参者の到着を見届けるために高台に残った。こうしたことは全て予定通りに運ばれた。

それと言うのも、リーダーはその界より一段上の霊力を身に付けておられ、それだけこの界の霊力を容易に操ることが出来るのである。そういう次第で、吾々が岸辺に下り立って程なくして、高台に残った者から、沖に一団の影が見えるとの報が大声で届けられた。その時である。

川を隔てた海岸づたいに近づいて来る別の女性の一団が見えた。尋ねてみるとその土地に住む人たちで、これから訪れる人々と合流することになっているとのことであった。

 迎えた吾々も、迎えられた女性たちも、ともに喜びにあふれていた。

 丸みを帯びた丘の頂上にその一団の長(おさ)が立っておられる。頭部より足まですっぽりと薄い布で包み、それを通してダイヤモンドか真珠のような生命力あふれる輝きを放散している。その方もじっと沖へ目をやっておられたが、やがて両手で物を編むような仕草を始めた。

 間もなくその両手の間に大きな花束が姿を現わした。そこで手の動きを変えると今度はその花束が宙に浮き、一つなぎの花となって空高く伸び、さらに遠く沖へ伸びて、ついに新参の一団の頭上まで届いた。

 それが今度は一点に集まって渦巻きの形を作り、ぐるぐると回転しながらゆっくりと一団の上に下りて行き、最後にぱっと散らばってバラ、ユリ、その他のさまざまな花の雨となって一団の頭上や身辺に落下した。

私はその様子をずっと見ていたが、新参の一団は初め何が起きるのであろうかという表情で見ていたのが、最後は大喜びの表情へと変わるのが判った。その花の意味が理解できたからである。すなわち、はるばると旅して辿り着いたその界では愛と善とが自分たちを待ち受けていることを理解したのであった。

 さて、彼らが乗って来た船の様子もその時点ではっきりして来た。実はそれはおよそ船とは呼べないもので筏のようなものに過ぎなかった。どう説明すればよかろうか。

確かに筏なのであるが、何の変哲もないただの筏でもない。寝椅子もあれば柔らかいベッドも置いてあり、楽器まで置いてある。その中で一番大きいものはオルガンである。

それを今三人の者が一斉に演奏しはじめた。その他にも楽しむためのものがいろいろと置いてある。その中で特に私の注意を引いたのは、縁(へり)の方にしつらえた 祭壇であった。詳しい説明はできない。それが何のために置いてあるのかが判らないからである。

 さてオルガンの演奏とともに船上の者が一斉に神を讃美する歌を唄い始めた。すべての者が跪づく神、生命の唯一の源である神。太陽はその生命を地上へ照らし給う。天界は太陽の奥の間──愛と光と温もりの泉なり。太陽神とその配下の神々に対し、吾々は聖なる心と忠誠心を捧げたてまつる。そう唱うのである。

 私の耳にはその讃美歌が妙な響きをもっているように思えた。そこで私はその答えはもしかしたら例の祭壇にあるかも知れないと思ってそこへ目をやってみた。が、手掛かりとなるものは何も見当たらなかった。私になるほどと得心がいったのは、すっと後のことであった。

 が、貴殿は今宵はもう力が尽きかけている。ここで一応打ち切り、あす又この続きを述べるとしよう。今夜も神の祝福を。では、失礼する。昼となく夜となく、ザブディエルは貴殿と共にあると思うがよい。

そのことを念頭に置けば、さまざまな思念や思いつきがいずこより来るか、得心がゆくことであろう。ではこれまでである。汝は疲れてきた。 ザブディエル  ♰



  5 宗派を超えて    

一九一三年十二月十七日  水曜日

 前回に引き続き、遠き国よりはるばる海を渡って来た一団についての話題を続けよう。はるばる長い道程を辿ったのは、新しい界に定住するに当たっての魂の準備が必要だったからである。

 さて、いよいよ一団は海岸へ降り立った。そして物見の塔の如くそそり立つ高い岬の下に集合した。それから一団の長(おさ)が吾々のリーダーを探し求め、やがて見つかってみると顔見知りであった。以前に会ったことのある間柄であった。二人は温かい愛の祝福の言葉で挨拶し合った。

 二人は暫し語り合っていたが、やがて吾々のリーダーが歩み出て新しく来た兄弟たちへおよそ次のような意味の挨拶を述べられた。

 「私の友であり、兄弟であり、唯一の父なる神のもとにおいては互いに子供であり、それぞれの魂の光によってその神を崇拝しておられる皆さんに、私より心からの歓迎の意を表したいと思います。

 この新たな国を求めて皆さんははるばるとお出でになられましたが、これからこの国の美しさを見出されれば、それも無駄でなかったことを確信されることでしょう。私は一介の神の僕に過ぎず、こうしてお出でになられた皆さんがこの国の生活環境に慣れられるようにとの配慮から、私どもがお出迎えに上がった次第です。

 これまでの永い修養の道ですでに悟られたことと思いますが、あなた方が曽て抱いておられた信仰は、神の偉大なる愛と祝福を太陽に譬えれば、その一条の光ほどのものに過ぎませんでした。

その後の教育と成長の過程の中でそのことを、あるいはそれ以上のことを理解されましたが、一つだけあなた方特有の信仰形体を残しておられる──あの船上の祭壇です。

ただ、今見ると、あの台座に取り付けられた独特の意匠が消えて失くなっており、また、いつも祈願の時に焚かれる香の煙が見えなかったところを見ますと、どうやら私には祭壇が象徴としての意義をほとんど、あるいは全く失ってしまったように思えます。

これからもあの祭壇を携えて行かれるか、それともそのまま船上に置いて元の国へ持って帰ってもらい、まだ理解力があなた方に及ばない他の信者に譲られるか、それはあなた方の選択にお任せします。では今すぐご相談なさって、どうされるかをお聞かせ頂きたい。」

 相談に対して時間は掛からなかった。そしてその中の一人が代表してこう述べた。

 「申し上げます。あなたのおっしゃる通りです。曽ては吾々の神を知り祈願する上で役に立ちましたが、今はもう私どもには意味を持ちません。いろいろと教えを受け、また自分自身の冥想によって、今では神は一つであり人間は生まれや民族の別なくその神の子であることを悟っております。

愛着もあり、所持しても邪魔になるものでもないとは言え、自と他を分け隔てることになる象徴を置いておくのはもはや意味のない段階に至ったと判断いたします。そこであの祭壇は送り返したいと思います。まだまだ曽ての自分の宗教を捨て切れずにいる者が居りますので。

 そこで皆さまのお許しをいただければ是非これよりお伴させて頂き、この一段と光輝溢れる世界および、これより更に上の界における同胞関係について学ばせて頂きたいものです。」

 「よくぞ申された。是非そうあって頂きたいものです。他にも選択の余地はあるのでしょうが、私も今おっしゃった方法が一番よろしいように思います。では皆さん、私についてお出でなさい。これよりあの門の向こうにある平野、そして更にその先にあるあなた方の新たなお国へご案内いたしましょう。」

 そうおっしゃってから一団の中へ入り、一人一人の額に口づけをされた。すると一人一人の表情と衣装が光輝を増し、吾々の程度に近づいたように私の目に映った。

そこへさらに例の女性ばかりの一団の長が降りて来て、吾々のリーダーと同じことをされた。女性の一団は吾々との邂逅(かいこう)を心から喜び、吾々もまた喜び、近づく別れを互いに惜しんだ。

吾々が門の方へ歩み始めると長が途中まで同行し、いよいよ吾々が門をくぐり抜けると、その女性の一団による讃美歌が聞こえて来た。それは吾々への別れの挨拶でもあった。吾々は一路内陸へ向けて盆地を進んだ。

 さて貴殿は例の祭壇とリーダーの話が気になることであろう。


──遮って申し訳ありませんが、あなたはなぜそのリーダーの名前をお出しにならないのですか。

 是非にというのであれば英語の文字で綴れる形でお教えしよう。が、その本来のお名前の通りにはいかない。実は、それを告げることを許されていないのである。取り敢えずハローレン Harolen とでも呼んでおこう。三つの音節から成っている。本当のお名前がそうなのである。これでよかろうと思う。では話を進めよう。

 一隊が盆地を過ぎ、川を渡り、その国の奥深く入り行くあいだ、ハローレン様はずっとその新参の一団のことに関わっておられた。その間の景色は私はまだ述べていないであろう。私がハローレン様と初めてお逢いしたのはそのずっと先だったからである。

その辺りまで来てハローレン様にゆとりと見られたので、私は近づいてその一団のこと、並びに海辺で話された信仰の話についてお尋ねした。

すると、一団は地上では古代ペルシァ人の崇拝した火と太陽の神を信仰した者たちであるとのことであった。

 ここで私自身の判断によって、そのことから当然帰結される教訓を付け加えておかねばならない。人間が地上生活を終えてこちらへ来た当初は、地上にいた時とそっくりそのままであることを知らねばならない。

いかなる宗教であれ、信仰厚き者はその宗教の教義に則った信仰と生活様式とをそのまま続けるのが常である。が、霊的成長と共に〝識別〟の意識が芽生え、一界また一界と向上するうちに籾殻が一握りずつ捨て去られて行く。

が、その中にあっても、いつまでも旧態依然として脱け切らない者もいれば、さっさと先へ進み行く者もある。そうして、その先へ進んだ者たちが後進の指導のために戻って来ることにもなる。

 こうして人間は旧い時代から新しい時代へ、暗い境涯から明るい境涯へ、低い界から高い界へと進みつつ、一歩一歩、普遍的宇宙神の観念へと近づいてゆく。

同じ宗教の仲間と生活を共にしてはいても、すでに他の宗派の思想・信仰への寛恕の精神に目覚め、自分もまた他の宗派から快く迎えられる。かくしてそこに様々な信仰形態の者の間での絶え間ない交流が生まれ、大きくふくらんで行くことになる。

 が、しかし、全ての宗派の者が完全に融合する日は遠い先のことであろう。あのペルシャ人たちも古いペルシャ信仰に由来する特殊な物の見方を留めていた。

今後もなお久しく留めていることであろう。が、それで良いのである。何となれば、各人には各人特有の個性があり、それが全体の公益を増すことにもなるからである。

 例の一行は海上での航海中にさらに一歩向上した。と言うよりは、すでにある段階を超えて進歩したことを自ら自覚するに至ったと言うべきであろう。私が彼らの船上での祈りの言葉とその流儀に何か妙な響きを感じ取りながらも、それが内的なものでなく形の上のものに過ぎなかったのはそのためである。

だからこそハローレン様から選択を迫られたとき潔く祭壇を棄て、普遍的な神の子として広い同胞精神へ向けて歩を進めたのであった。

 こうして人間は、死後、地上では何ものにも替え難い重要なものと思えた枝葉末節を一つ一つかなぐり棄ててゆく。裏返して言えば、愛と同胞精神の真奥に近づいて行くのである。

 どうやら貴殿は戸惑っているように見受けられる。精神と自我とがしっくりいっていないのが私に見て取れるし、肌で感じ取ることも出来る。そのようなことではいけない。

よく聞いてほしい。いかなるものにせよ、真なるもの、善なるもののみが残る。そして真ならざるもの、善ならざるもののみが棄て去られて行く。貴殿が仕える主イエスは〝真理〟そのものである。

が、その真理の全てが啓示されたわけではない。それは地上で肉体に宿り数々の束縛を余儀なくされている者には有り得ないことである。が、イエスも述べているように、いつの日か貴殿も真理の全てに誘(いざな)われることであろう。

それは地上を超えた天界に置いて一界又一界と昇って行く過程の中で成就される。そのうちの幾つかがこうして貴殿に語り伝えられているところである。それが果たしていかなる究極を迎えるか、崇高な叡智と愛と力がどこまで広がって行くかは、この私にも判らない。

 ただこの私──地上で貴殿と同じくキリスト神とナザレ人イエスを信じつつ忠実な僕としての生涯を送り、いま貴殿には叶えられない形での敬虔な崇拝を捧げる私には、次のことだけは断言できる。すなわち、そのイエスなる存在はこの私にとっても未だ、遥か遥か彼方の遠い存在であるということである。

今もしその聖なるイエスの真実の輝きを目のあたりにしたら、私は視力を奪われてしまうことであろうが、これまでに私が見ることができたのは黄昏時の薄明かりていどのものに過ぎない。その美しさは私も知らないではない。現実に拝しているからである。

が、私に叶えられる限りにおいて見たというに過ぎず、その全てではない。それでさえ、その美しさ、その美事さはとても言葉には尽くせない。その主イエスに、私は心から献身と喜びを持って仕え、そして崇敬する。

 故に貴殿はイエスへの忠誠心にいささかの危惧も無用である。吾々と異なる信仰を抱く者へ敬意を表わしたからといって、イエスの価値をいささかも減じることにはならない。

なぜなら、全ての人類はたとえキリスト教を信じないでも神の子羊であることにおいては同じだからである。イエスも人の子として生まれ、今なお人の子であり、故に吾ら全ての人間の兄弟でもあるのである。アーメン   ♰


  
  6 大天使の励まし   

一九一三年十二月十八日  木曜日


 吾々が通過した土地は丘陵地で、山と呼ぶほどのものは見当らなかった。いずこを見ても円い頂上をした丘が連なり、そこここに住居が見える。が、進み行くうちにハローレン様の様子が徐々に変化し始めた。表情が明るさを増し、衣装が光輝を発しはじめた。

左手にある森林地帯を通過した頃にはもう、その本来の美しさを取り戻しておられた。その様子を叙述してみよう。

まず頂上に光の表象が現れている。赤と茶の宝石を散りばめた王冠のようなもので、キラキラと光輝を発し、その光輝の中に更にエメラルドの光輝が漂っている。

チュニックは膝まである。腕も出ている。腰のあたりに黄金の帯を締め、それに真珠のような素材の宝石が付いている。色は緑と青である。帽子も同じく緑と青の二色から成り、露出している腕には黄金と銀の腕輪がはめられている。

 そうしたお姿でワゴンに立っておられる。そのワゴンは木と金属で出来た美しい二輪馬車でそれが白と栗毛の二頭の馬に引かれている。

私が受けた感じでは全体に茶の色彩が強い。際立つほどではないが、ワゴンの装飾も、見えることは見えるが派手に目立たぬようにと、茶色で抑えられている感じである。

 霊界では象徴性(しんぼりずむ)を重んじ、なにかにつけて活用される。そこで、そうした色彩の構成の様子から判断するに、ハローレン様は元来は茶色を主体とする上層界に属しておられ、この界での使命のためにその本来の茶を抑え、この界でより多く見られる他の色彩を目立たたせておられると観た。

使命成就のためにこの界に長期に滞在をするには、そうせざるを得ないのである。

 が、その質素にしてしかも全体として実に美しいお姿を拝して、私はその底知れぬ霊力を感じ取った。

その眼光には指揮命令を下す地位に相応しい威厳を具えた聖純さがあり、左右に分けこめかみの辺りでカールした茶色の頭髪の間からのぞく眉には、求愛する乙女の如き謙虚さと優しさが漂っている。

低い者には冒し難い威厳をもって威圧感を与え、それでいて心疚(やま)しからぬ者には親しさを覚えさせる。喜んでお慕い申し上げ、その保護とお導きに満腔の信頼の置ける方である。まさしく王者であり、王者としての力と、その力を愛の中に正しく行使する叡智を具えた方だからである。

 さて、吾々は尚も歩を進めた。大して語り合うこともなく、ただ景色の美しさと辺りに漂う安らぎと安息の雰囲気を満喫するばかりであった。

そしてついに新参の一団がそろそろ環境に慣れるために休息しなければならないところまで来た。休息したのちはさらに内陸へと進み、その性格に応じてあの仕事この仕事と、神の王国の仕事に勤しむべく、その地方のコロニーのいずれかに赴くことになる。

 そこでハローレン様から〝止まれ!〟のお声があった。そしてその先に見える丘の向こうに位置する未だ見ぬ都へ案内するに際し、ひとこと述べておきたいことがあるので暫し静かにするようにと述べられた。

 吾々は静寂を保った。すると前方の丘の向こうの或る地点から巨大な閃光が発せられ、天空を走って吾々まで届いた。吾々は光の洪水の中に浸った。が、一人として怖がる者はいない。何となればその光には喜びが溢れていたからである。

そしてその光輝に包まれたワゴンとそこに立っておられるハローレン様は、見るも燦爛(さんらん)たる光景であった。

 ハローレン様はじっと立ったままであった。が、辺りを包む光が次第にハローレン様を焦点として凝縮していった。そしてやがてお姿がそれまでとは様相を変え、言うなれば透明となり、全身が栄光で燃え立つようであった。

その様子を少しでもよい、どうすれば貴殿に伝えることが出来るであろうか。

純白の石膏でできた像に生命が宿り、燦爛たる輝きを放ちながら喜悦に浸り切っているお姿を想像してもらいたい。身に付けられた宝石と装飾の一つ一つが光輝を漲らせ、馬車までが炎で燃えあがっていた。

その辺り一面が生命とエネルギーの栄光と尊厳に溢れていた。二頭の馬はその光輝に浸り切ることなく、それを反射しているようであった。ハローレン様の頭部の冠帯はそれまでの幾層倍も光度を増していた。

 私の目にはハローレン様が今にも天に舞い上がるのではないかと思えるほど透明になり、気高さを増されたが、相変わらずじっと立ったまま、その光の来る丘の向こうに吾々には見えない何ものかを見届けておられるような表情で、真っ直ぐにその光の方へ目を向けられ、その光の中にメッセージを読み取っておられた。

 しかし、次にお見せになった所作に吾々は大いに驚ろかされた。別に目を見張るような不思議や奇跡を演じられたわけではない。逆である。静かにワゴンの上で跪かれ、両手で顔をおおい、じっと黙したままの姿勢を保たれたのである。

吾々にはハローレン様がその光を恐れられる方ではなく、むしろそれを、否、それ以上のものを思うがままに操られる方であることを知っている。

そこで吾々は悟った。ハローレン様はご自分より霊格と聖純さにおいて勝れる方に頭を垂れておられるのである。そう悟ると、吾々もそれに倣って跪き、頭を垂れた。が、そこに偉大なる力の存在は直感しても、いかなるお方であるかは吾々には判らなかった。

 そうしているうちに、やがて美しい旋律と合唱が聞こえてきた。が、その言葉も吾々には理解できない種類のものであった。なおも跪きつつ顔だけ上げて見ると、ハローレン様はワゴンから降りられ吾々一団の前に立っておられた。

そこへ白衣に身を包まれた男性の天使が近づいて来られた。額の辺りに光の飾り輪が見える。それが髪を後頭部で押さえている。

宝石はどこにも見当らないが、肩の辺りから伸びる二本の帯が胸の中央で交叉し、そこを紐で締めている。帯も紐も銀と赤の混じった色彩に輝いている。

お顔は愛と優しさに満ちた威厳をたたえ、いかにも落着いた表情をされている。ゆっくりと、あたかもどこかの宇宙の幸せと不幸の全てを一身に背負っておられるかのような、思いに耽った足取りで歩かれる。そこに悲しみは感じ取れない。

それに類似したものではあるが、私にはどう表現してよいか判らない。お姿に漂う、全てを包み込むような静寂に、それほど底知れぬ深さがあったのである。

 その方が近づかれた時もハローレン様はまだ跪かれたままであった。その方が何事か吾々に理解できない言葉で話しかけられた。その声は非常に低く、吾々には聞こえたというよりは感じ取ったというのが実感であった。

声を掛けられたハローレン様は、見上げてそのお方のお顔に目をやった。そしてにっこりとされた。その笑顔はお姿を包む雰囲気と同じく、うっとりとさせるものがあった。

やがてその天使は屈み込み、両手でハローレン様を抱き寄せ、側に立たせて左手でハローレン様の右手を握られた。それから右手を高々とお上げになり、吾々の方へ目を向けられ、祝福を与え、これから先に横たわる使命に鋭意邁進するようにとの激励の言葉を述べられた。

 力強く述べられたのではなかった。それは旅立つ吾が子を励ます母親の言葉にも似た優しいもので、それ以上のものではなかった。

静かに、そしてあっさりと述べられたのである。が、その響きは吾々に自信と喜びを与えるに十分なものがあり、全ての恐怖心が取り除かれた。実は初めのうちは、ハローレン様さえ跪くほどの方であることにいささか畏怖の念を抱いていたのである。

 そう述べられたままの姿で立っておられると、急に辺りの光が凝縮しはじめ、その方を包み込んだ。そしてハローレン様の手を握り締めたままそのお姿が次第に見えなくなり、やがて視界から消えて行った。光もなくなっていた。あたかもその方が吸収して持ち去ったかのように思えた。

 そこでハローレン様はもう一度跪かれ、暫し頭を垂れておられた。やがて立ち上がると黙って手で〝進め!〟の合図をされた。そして黙ってワゴンにお乗りになり、前進を始めた。吾々も黙ってそのあとに続き、丘をまわり、その新参の一行が住まうことになる土地に辿り着いたのであった。 ♰

シルバー・バーチ最後の啓示

スピリチュアルな言葉が教える最後の啓示
〝生きる〟ことの喜び
Lift Up Your Hearts Compiled
トニー オーツセン編 近藤千雄訳



八章 心霊治療家四〇名との質疑応答


 英国の心霊治療家連盟の会員は今や六千名を数えるに至っている(平成六年現在)。これから紹介するのは、その連盟の代表四〇名がシルバーバーチと交わした徹底した質疑応答の録音からの抜粋である。

 その規模の大きさもさることながら、心霊治療について出された事細かな質問に対して、例によってシルバーバーチが懇切ていねいに答えていて、しかもそれが地上の人間の生き方についての忠言ともなっていて、シルバーバーチの霊言集を締めくくるのに相応しい内容になっている。

 まず質疑応答に入るに先立ってシルバーバーチが心霊治療の原理について一般的な講話を行なっている。 (一部割愛。これまで繰り返し述べられていることであると同時に、そのあとの質疑応答の中で何度も出てくることだからである)

 「心霊治療の目的はきわめて単純です。魂を目覚めさせること、これに尽きます。身体の症状が消えても魂が霊的なものに目覚めなかったら、その治療は失敗したことになります。反対に病気そのものは治っていなくとも、魂が目覚めて霊的なものに関心を抱くようになれば、その治療は成功したことになります。

 私たちの側からすれば、霊の資質と霊力は、大霊の子が例外なく宿している神性を自覚させるために使用すべきものであり、その結果として地上降誕の目的の認識が芽生えるのです。それこそが霊媒現象と呼ばれているさまざまな現象の背後に託された目的なのです。

 ですから、病人が良くならなかったからといって残念がることはありません。残念に思うべきなのは、その病人があなた方との出会いによって霊的実在に目覚めるまでに至らなかった場合です。それが心霊治療の究極の目的なのですから。

 私たち霊団も、各国に築かれた橋頭堡を強化して、霊力が受け入れる用意のできた人々に順当に届けられるようにと、結束を固めております。

その目的は、今のべた究極の目的、すなわち地上の人間が自分とは本質的には何なのか、何をしにこの地上にいるかについての理解を植えつけ、それを地上で実践するにはどうあらねばならないかを自覚させることです。

 一言でいえば、物質界の人間も霊的宿命を背負った霊的存在だということを悟らせることです。

 心霊治療の能力も、霊体に潜在する無限の資質の一つです。霊眼で見るクレアボイアンス、霊耳で聞くクレアオーディエンスと同じです。心霊治療家になるためにはその霊力の始源とコンタクトしなくてはなりません」


───その霊力がそちら側で創造される過程を教えていただけませんか。つまり病人の特殊な条件に合わせて操作する、その方法です。

 「これは説明の難しい問題です。非物質的なエネルギーを表現する用語が見当たらないのです。霊力とは生命力であり、生命の素材そのものであることを理解して下さい。活力そのものです。無限に存在します。柔軟な性質をしており、どんな形態にも変化します。変換も組み替えも自由自在です。

 それを扱う、知識と経験と理解の豊富な者が、こちらで待機しております。そちらの化学者や科学者に相当します。その者たちが、この霊力を各種の病気に合わせて特性をもたせる技術の開発に、いつも取り組んでおります。

そのチャンネルとなる治療家を通して、病気のタイプに合わせて〝調剤〟する実験も行なっております。以上のような説明しか私にはできません。最終的には治療家のもとを訪れる患者によって一つひとつ異なるプロセスがあると思ってください。

その際、患者のオーラが診断の大きな参考になります。それが精神的状態と霊的状態を物語ってくれるので、それをもとにして、今のべた治癒エネルギーの調剤が行なわれます」


─── それには知的な努力が要求されるわけですね?

「〝知的〟と言う用語は適当でないでしょう。実体感を伴うものだからです。実際に〝調合〟が行なわれるのです。みなさんが化学物質と呼んでいるものに相当するものが用いられます。精神力は必要です。なぜなら、こちらでは、何をこしらえるにも精神が実体を伴った素材となるからです」


─── 遠隔治療のことはこちらへ置いといて、直接治療においては治療家の身体や霊体は、霊力の通路としてどの程度使用されるのでしょうか。

 「遠隔治療においても使用されるのですよ」


─── 私たちの身体や霊体が実際に使用されるとおっしゃるのですか、それとも霊波の調整のために患者との懸け橋として使用されるという意味ですか。

 「実際にあなた方の霊体を使用するのです」


─── そのプロセスをご説明ねがえますか。

 「治療家はテレビの受像機のようなものと想像してください。送られてくる霊波をあなた方の霊体で半物質的な治癒エネルギーに転換します。変圧器のようなものと思ってください」


─── 遠隔治療でも同じ役目をするわけですか。

 「そうです」


─── でも、転換されたものがどうやって患者に届けられるのでしょうか。

 「患者の側からそういう要請が出ているからです。患者の思念がバイブレーションをこしらえ、あなた方治療家のもとに届けられます。すでに懸け橋ができていますから、その波動にのっかって治癒エネルギーが送り届けられます」


─── 自分のために遠隔治療の依頼が出されていることを患者自身が知らない場合はどうなりますか。

 「誰かが知っているはずです。そうでなければ治療を施すことはないわけでしょ?」


─── 仮に私が一方的にその患者の様態を知って治療してあげようと思った場合はどうなりますか。

 「それで立派にリンクができているではありませんか」


─── でも、患者からの要請の思念は出されていません。

 「いえ、リンクはできています。あなたがこしらえています。いいですか、思念というのはこちらでは実体があるのです。私は今あなたという人物を見ておりますが、あなたの肉体は見えておりません。霊媒(バーバネル)の目で見れば見えるのでしょうけど(※)。

私たちにとっては思念こそ実体があるのです。あなたの肉体は薄ぼんやりとしか見えません。あなたから思念が発せられると、それが実体をもって見えます。それがバイブレーションをこしらえ、それが遠隔治療で使用されるのです」


 ※─── シルバーバーチはバーバネルの言語中枢しか使用していない。したがって入神中は目を閉じ、そして座ったままでしゃべり、立ち上がったり歩いたりすることはなかった。


─── 今ローマ法王がファティマの神殿を訪れています。うわさによると、その神殿で多くの病人が癒やされていて、それがマリヤの仲介によると言われているのですが、マリヤが直接治療に当たっているとは思えません。この神殿での癒やしの力は何なのでしょうか。

 「癒やされると信じる、その信心です」


─── でも、それはただの信仰ではないでしょうか。

 「そうです、信仰です。信仰ではいけないのですか。癒やしてもらえるという信心は、実際に癒やされるに至る第一歩です」


─── 私は、患者が治るための条件として信仰は無用であると理解しております。むしろ患者の心が邪念に満ちていると、それが治療の妨げになると考えておりますが、それは正しいでしょうか。

 「信仰心は、それが理性に根ざし、いわゆる盲目的信仰でないかぎりは、むしろ結構であると私は考えます。皆さんは霊的知識を手にしておられるとはいえ、それは全体からみればささやかなものでしかないことを知らないといけません。

物質に包まれて生きているこの地上では、全知識を得ることは絶対に不可能です。こちらへ来てからでもなお不可能です。

 そこで私は、知識の上に信仰を加えなさいと申し上げるのです。理性に裏うちされた信仰、知識を基盤とした信仰は立派です。それにケチをつけるつもりは毛頭ありません。むしろそれが、余裕ある雰囲気をこしらえ、治癒力の流入を容易にすることがあります。

 霊力は明るく楽しい、そして快活で受容性に富んだ性格の人ほど効果を発揮し、陰うつで猜疑心の強い、そして動揺の激しい性格の人には、よい効果は出ません」


─── オーラを霊視できない治療家の場合、治癒力がうまく働いていることを知るにはどうすればよいでしょうか。

 「オーラが見える見えないは治療そのものとは何の関係もありません。病気の原因の診断ができるか否かも関係ありません。治療家は施療すればそれでよいのです。そういった余計なことを気遣う必要はありません。霊医が扱いやすい状態になることが大事です。 

 要するに霊の道具として少しでも完ぺきに近づくことを心掛けることです。ご自分の人間性から人間的煩悩をすべてご法度にするくらいでないといけません。そう心掛けただけ、その治療家を通して、より多くの霊力が流入します。治療力の質や量を決定づけるのは、その治療家の生活そのものです」


─── 治療家の中でも優秀な人とそうでない人とがいるのはなぜですか。

 「演奏家にせよ、作家にせよ、上手な人とあまり上手でない人がいるのと同じです。他の治療家にくらべて能力がより多く顕現しているということです」


─── 治療家自身が病気になった場合、他の治療家に依頼しなければならないでしょうか、それとも自分で治せるものでしょうか。

 「他の治療家に依頼しなくても、自分で治癒エネルギーを引き寄せて治すことができるようでないといけません。大霊に祈るのに教会へ行く必要はないように、治療家が他の治療家のところへ行く必要はありません。直接エネルギーを引き寄せることができればの話ですが」


─── 医師の述べるところによりますと、最近の病気の主なものはプレッシャーと仕事上の悩みだそうです。これにはあなたのおっしゃる(三位一体の)不調和がどの程度まで介入しておりますでしょうか。

 「あなたが今おっしゃったことは、私が言っていることを別の言葉で表現したまでです。仕事上の悩みをおっしゃいますが、つまりは不調和のことです。霊と精神と肉体の三者が調和していれば、仕事にせよ何にせよ、悩みは生じません。悩むということは調和を欠いているということの証拠です。

 霊的知識を手にした者が悩むようではいけません。悩みや心配はマイナスのエネルギーです。霊的に啓発された魂は取り越し苦労とは無縁です。

私はそれを不調和と呼び、あなたは仕事上の悩みと呼んでいるまでのことで、自分が永遠の存在であることを知り、従って地上のいかなるものにも傷つけられることはないとの信念に燃える者に、悩みの入る余地はありません」


─── 治らない人がいるのはなぜでしょうか。

 「霊的にみて治るべき権利を得るにいたっていないということです」


─── 遠隔治療で一度リンクができたら、改めてこしらえる操作は不要でしょうか。

 「一度できたら不要です。霊界とのつながりはすべて磁性的(※)なものです。ですから、一度できたらリンクは切れることはありません」

  ※─── 磁気治療でいう磁気とは別。強烈に引き合う霊的性質を言っている。


─── すると、どこにいようと、たとえば教会にいようが駅にいようが、関係ないわけですね?

 「霊の世界には地理的な位置はありません。どこへ行こうと、皆さんの身のまわりに常に存在しております。教会の中にいるから、あるいは飛行機で高く上がったからといって、それだけ大霊に近づくわけではありません


─── 地上界で物的存在が顕現するに先立って必ず思念が存在すると言われます。言いかえると、人間はまず思念の母体をこしらえていることになります。それが事実だとすると、治療家が患者に接するに先立って心の中で完全に治った状態を描き、完全な健康体のイメージをこしらえることは、治癒を促進することになるのでしょうか。

 「大いに促進します。思念には実体があるからです。完全な健康体を強く念ずるほど、それを達成する可能性に近づくことになります。何事につけ、理想に向かって最善を尽くさないといけません。

常に最高のものを念ずることです。希望を失ってはなりません。いつも明るく楽天的な雰囲気をかもしなさい。そうした状態の中で霊力は最高の威力を発揮します」


─── さきほど、治らない人は霊的に治る権利を得るにいたっていないからだとおっしゃいましたが、私には少し割り切りすぎているように思えます。その論理でいくと善人は必ず治り、悪人は絶対に治らないということになりませんか。

 「事はそんな単純なものではないのです。霊的な目をもってこの問題をご覧になれば、そういう安直な考えは出ないはずです。たとえばあなた方人間にとって苦難はご免こうむりたいところでしょうけど、私たちから見ると、こんなに有り難いものはないのです。

大失敗をしでかすと皆さんは万事休すと思われるでしょうが、私たちから見ると、新しい人生の出発点とみて喜ぶことがあるのです。

 善とか悪とかを物的尺度で計るような調子で簡単に口にしてはいけません。善悪の判断基準は私たちとあなた方とでは必ずしも一致しません。

私は霊的にみて治るべき権利を得ていなければならないと申し上げているのであって、善人とか悪人とは言っておりません。自我がその霊性に目覚めた時にはじめて治る権利を得たことになるのです」


─── 純粋に物理的な理由で治らないということもあるのではないでしょうか。たとえば神経が完全に破壊されて視力を失った場合、新しく神経をこしらえるということは法則上不可能だと思うのです。

 「私たちは今、奇跡の話をしているのではありません」


─── おっしゃる通りですが、治らないケースについての一般論を語っておられると思ったものですから・・・・・・

 「私が申し上げているのは、治るはずの病気がどうしても治らず何の変化も見られない時は、その患者はまだ治るための霊的権利を得るにいたっていないことがあるということです」


─── 両脚が奇形の赤ちゃんがいます。片方の脚は変化が見られるのですが、もう一方は何の反応もありません。なぜでしょうか。

 「両脚が奇形というのを一つの病気としてではなく、右脚と左脚の二つの病気とみるべきで、同じ治療エネルギーでは両方は治せないということです。何もかも同じエネルギーで治っているのではありません。一つ一つ条件が異なり、一つ一つ特性があるのです。

地上の人間に分かりやすくということになると、そういう表現しかできません。ほかにもいろいろと事情があるのです。病気の原因にはいくつもの次元があり、それが入り組んでいて複雑なのです。

 治療というのは見かけはあっさりと治っているようで、実際はそう簡単なものではないのです。身体に表れた症状を取り除けばそれで済むというのではありません。

魂に関わる要素も考慮に入れなくてはいけません。こうすれば魂にどういう反応が出るか、病気の背後にひそむ意図は何なのか、なぜその患者が心霊治療家のところへ来たのか、その患者の魂が霊性に目覚める段階にまで進化しているかどうか、等々。

 こうしたことはあなた方には測りようがないでしょう? が、心霊治療はそういう要素まで考慮しなくてはならないのです。なぜかと言えば、少なくとも治療に当たっている間は宇宙の生命力そのものを扱っているからです。

ということは、あなた方も無限の創造活動に参加していることになるのです。だからこそ責任の重大性を声高に説くのです」


─── てんかんの原因は何でしょうか。

 「脳に障害があって、それが脳への印象を妨げ、精神からの正しい連絡を受けられなくしているということです」


─── でも、治るのでしょうね?

 「もちろんです。病気はすべて治ります。〝不治の病〟というものは存在しません。治してもらえない人が存在するだけです」


─── 遠隔治療を依頼されたことが三度ないし四度あるのですが、私の感じでは成功しなかったと思います。いずれの患者も死亡したのです。

 「もしかしたらそれは、あなたにとって最上の成功だったかも知れませんよ。魂が首尾よく肉体から離れるのを助けているのです。それも心霊治療の役目の一つなのです。治療するということは寿命を長びかせることではありません。

霊を目覚ませることです。それがいちばん大切なのです。優先させるべきものを優先させることです。霊に関わることこそ第一順位です。霊が正常であれば身体も正常です」


─── 治療家によっては二、三分で治す人もいれば、二時間も掛ける人、また何週間も何か月も、時には何年も掛けながら治らない人もいます。なぜでしょうか。

 「〝その実によって彼らを見分けよ〟とバイブルにあります。大切なのは結果です。治療家は霊団との最高の協調関係を作り出すように日常生活を規制すべきです。結果はおのずと出ます。まず家の中を整えて下さい。あとのことは霊団が面倒を見ます。

 必要な時は援助を求めて祈りなさい。決して放っておくようなことはいたしません。諦めて手を引くようなことも絶対にいたしません。いつも自分を役立てる用意をしてください。どんな患者でも拒みません。どんな患者でも歓迎します。

霊の力は万人が受ける権利をもっているのです。霊界側が欲しいのは、喜んで治癒力の流入の通路となってくれる人です」


─── ある人を治療したところ、良くはなったのですが、その後他界してしまいました。どう理解すべきでしょうか。

 「霊の世界へ戻っていくのがなぜ悲劇なのでしょうか。赤ちゃんが地上へ誕生した時、私たちの世界では泣いている者がいるのです。反対に、死んでこちらの世界へ戻ってくるのを大喜びして出迎えている者がいるのです。地上を去ることをなぜそんなにいけないことのように考えるのでしょうか」


─── サイキックとスピリチュアルを区別しておられるようですが、なぜでしょうか。

 「同じく治療といっても、物質次元の磁気的なものがあり、幽体を使用した心霊的なものがあるのです。さらにその上に、霊界の高い界層からのエネルギーによる治療があります。これをスピリチュアルと呼びます」


─── サイキックと呼ぶものの範囲は?

 「地球に近いレベルのものと思って下さい」


─── それは身体上の効果だけで、魂の琴線にふれるレベルのものでないことを意味するのでしょうか。

 「いえ、魂への影響もまったく無いわけではありません。が、きわめて限られており、受容性に乏しいと言えます。霊的意識としては低いレベルでの働きしかありません」


─── その背後にエネルギーの作用はないのでしょうか。

 「あることはありますが、質的には落ちます。エネルギーには無限の段階があります。その頂点には大霊がおわします。そして物質はその最下層に位置します。治療はその階梯のどの段階においても行えます。どの段階になるかは治療家の霊性の高さによって決まります」


─── 精神的な病に冒されている人には同情を禁じ得ないのですが、正直言って私たちの無力さを痛感させられております。

 「精神病も心霊治療で治せます。霊団にすべてをあずけて祈るのです。それだけでいいのです。そうすることで治癒エネルギーがあなた方を通して流れます。直接治療ができない場合は遠隔治療でエネルギーを送ってあげればよろしい。

 心霊治療の態勢は今や立派に確立されております。もう排斥されることはありません。あなた方一人ひとりに果たすべき役割があります。重大な役目です。皆さんは霊力のチャンネルとして大霊の無限の進化の計画の中に組み込まれていることを忘れてはなりません。素晴らしい仕事です。が、同時に、責任ある仕事でもあります。

 本日はこの私をご招待くださり、語り合いの時をもたせていただいたことを光栄に存じております。少しでもお役に立っていれば幸いです。少なくとも互いに勉強になったことは確かでしょう。

 お終いに大霊の祝福を祈念いたしましょう。初めも終わりもない大霊の援助を求めましょう。そしてその御心をわが心とすべく、日常の生活を規律正しいものにいたしましょう。

 大霊の道具として常に最善を尽くしましょう。その努力の中で、私たちの働きの場が常に大霊の愛のマントに包まれていること、そして私たち一人ひとりが温かき大霊の御胸に抱かれていることを実感いたしましょう。

 皆さまに大霊の祝福のあらんことを」   



   あとがきに代えて


                                                近藤千雄
 近代の歴史を振り返ってみると、二十世紀は近代的戦争の世紀だったと言っても過言ではないであろう。第一次および第二次世界大戦をはじめ、日清・日露・ベトナム戦争、最近では超近代兵器による中東の湾岸戦争が記憶に新しい。

 シルバーバーチの霊媒モーリス・バーバネルは一九〇二年の生まれで、第一次・第二次の世界大戦の中を生き抜いて、一九八一年に七十九歳で他界している。まさに戦乱の二十世紀を生き抜いてきたわけであるが、その大半の六十年間をシルバーバーチの霊媒として仕えたのみならず、〝ツーワールズ〟(※)と〝サイキック・ニューズ〟の二紙の主筆として健筆を揮った。

バーバネルがよく自慢したことの一つは、第二次世界大戦の最中も一週としてその二紙を休刊しなかったことであるが、それ以上に私が頭が下がる思いがするのは、シルバーバーチの交霊会(正式の名をハンネン・スワッファー・ホームサークルといった) も週一回のペースを崩さなかったことである。

 ※───当初は週刊紙として発刊し、のちに月刊誌になり、さらに数年前にヘッドクォーター出版社に買い取られた。が、最近その編集長にバーバネルの子分のトニー・オーツセンがおさまったのも奇縁である。

 これは、バーバネルの執念に頭が下がるという意味ばかりではない。支配霊のシルバーバーチが戦乱による波動の乱れで通信不能の寸前まで至りながら、ついに諦めなかったこともその背景にある。われわれ人間には想像できないことであるが、霊的通信網が一本また一本と切断され、霊団の者が 「もうダメです、引き上げましょう」 と進言しても、 「こういう時こそわれわれの援助が必要なのだから」 と、シルバーバーチは叱咤激励したと言う。



   大きかったスワッファーの存在

 さて、そのシルバーバーチとバーバネルのコンビによる仕事が一九二〇年のある日突如として始まったことは、大方のシルバーバーチファンはすでにご存知と思う。

最初のころはバーバネル自身もそれがどういうメカニズムになっていて何の目的で行なわれるかも分からず、嫌々ながら入神させられるまま行ない、聞く者も、奥さんのシルビアをはじめ三、四人の知人だけだった。もちろん記録など残してはいない。そこへ決定的な意味をもつハンネン・スワッファーの登場となる。

 スワッファーは当時すでに英国ジャーナリズム界に君臨する大物で、しかもバリアンティンと言う直接談話霊媒による交霊会(〝デニス・ブラッドレー・ホームサークル〟といった)に出席した時に大先輩のノースクリッフ卿の出現によって決定的な死後存続の証拠を手にし、 『ノースクリッフの帰還』 という著書でそれを公表して大センセーションを巻き起こしていた(一九二四年)。

 そのスワッファーがうわさを聞いてバーバネルの交霊会に出席し、シルバーバーチの霊言の質の高さに感嘆した。そして、それを是非とも〝サイキック・ニューズ〟か〝ツ―ワールズ〟に掲載するよう進言した。が、バーバネルは自分がその二紙の主筆であり社長でもあることを理由に、それを断った。

 が、出席するたびにシルバーバーチという霊の霊格の高さを感じ取る一方のスワッファーは、バーバネルにしつこく公表を迫った。二人は親しい友人でもあったので時には口論となることもあったらしいが、ついに (推定で一九三五年頃から) 霊媒がバーバネルであることを伏せるという条件のもとに連載がはじまり、それを、まとめた最初の霊言集が『シルバーバーチの教え』 のタイトルで一九三八年に出版された。

 が、その時点でも、序文を書いたスワッファーも〝霊媒がひやかし半分のつもりで交霊会に初めて出席した時は十八歳の無神論者だった〟と述べるにとどめ、バーバネルの名は公表されなかった。が、それがいつまでも隠し通せるわけはない。

 「いったい霊媒は誰なのか」 という問い合わせの多さに圧倒されて、ついに一九五九年になって〝シルバーバーチの霊媒は誰か───実はこの私である〟という見出しでバーバネル自身が公表したのだった。



  恩師・間部詮敦氏の先見の明

 以上がバーバネルとシルバーバーチおよびスワッファーの関係のあらましであるが、計らずも全十六冊の霊言集の訳者となってしまった私の人生も、今振り返ってみると、それと節目を合わせたような足跡をたどっていることが分かる。

 シルバーバーチの教説の中で特徴的なものの一つは、われわれは生まれる前から人生の設計を承知している、ということである。脳の意識層にのぼってこないだけで、霊的自我は知っているという。

確かに私の場合も、筆ではうまく表現できない、あるいは、うっかり口にすると誤解を招きかねない不思議な巡り合わせの中で、このシルバーバーチの霊言を中心としたスピリチュアリズム一般に関わる仕事をやらされている。まさに<強引にやらされた>としか思えない人生体験を経てきている。

 その中から一つだけ公表すれば、高校三年に上がった頃、師の間部先生が「これからは地上で哲学を勉強した人が勉強の面倒をみるそうですョ」とおっしゃった。確かに、その頃すでに「哲学入門」とか、「三太郎の日記」などを買って読んでいた。

先生からそう言われて、私は心の中で 「へえ、なるほど」 と思っただけだったが、今になって思うと、その指導霊はかつて地上時代にスピリチュアリズムに関わった複数の英国人の霊ではなかったろうか。

 というのは、その頃から英語の勉強に異常なほど熱が入ると同時に、月に一回の割で行なわれた精神統一の修行で、一時間近く対座してくださったあとで先生が 「相変らずあなたの背後霊は外国とよく連絡が取れてるなあ」 と独りごとのようにおっしゃったのである。

 その統一修行は私が大学へ進学して上京してからも続いた。それまで東京に縁のなかった先生が不思議に私が在京中の四年間だけ毎月一回上京して、そのつど私を呼び寄せられて、同じように一時間ばかり対座して下さった。そして終ると例のセリフである。

 間部先生という方は極端に口数の少ない方で、必要最小限のことしかおっしゃらなかった。物静かな方で、元子爵らしい侵し難い上品な雰囲気をお持ちだったので、孫ほどの年の差のある青二才の私からアレコレと尋ねる気になれなかった。先生からも、私の守護霊や指導霊についてそれ以上のことは何もおっしゃっていない。

 ただ、その後私が大学を出るのを待ちわびたように 『心霊時報』 という、英米の心霊紙からの記事ばかりで構成した月刊誌を出す話を持ち出され、私も喜んでお引き受けした。そうでなくても懐が不如意だった先生がご自分のポケットマネーで賄われたので、

ガリ版刷りの粗末な体裁だったが、そのための翻訳に仕事に必死になったことが、私の翻訳力を大幅に成長させてくれたことは間違いない事実で、しかも、その巻頭言にシルバーバーチの霊言を掲げたことが何度もあったことと考え合わせると、

本書をもって終りとなるシルバーバーチの霊言集全十六巻を訳す仕事は、背後霊団としては当初からの計画で、たぶん間部先生もご存知だったのではないかと思う。私の背後霊がいつも外国とよく連絡が取れていたというのは、その打ち合わせのためだったのであろう。

 その後のことは何度か書いたり講演で話したりしたのでご存知の方も多いであろう。一九七九年の夏に日本心霊科学協会から連載記事の依頼を受けた時、まっ先に脳裏に飛び込んだのが〝シルバーバーチ〟だった。

 これは間違いなく霊団からのインスピレーションだったのであろう。 『シルバーバーチは語る』 と題して書き始めた記事はとても好評で、翌年正月四日には念願のモ―リス・バーバネルとの面会も果たし、私の筆にいっそうの拍車がかかった。

 これはその後『古代霊は語る』 と改題して潮文社から出版されて大きな反響を呼び、それがきっかけで霊言集全巻の翻訳の要望が数多く寄せられるようになり、多少の紆余曲折はあったが、ついに最後の本書にまでたどり着いた。感慨もひとしおといったところである。

             

          平成十七年三月十九日  新装版第一刷発行  ハート出版