Tuesday, July 21, 2026

シルバーバーチの教え(下)

 Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)



18章 霊界側から見た戦争

〔シルバーバーチが戦争を非難する姿勢は一貫しており、常に霊的真理を普及することの必要性を強調している。ここでは、戦争に関するシルバーバーチの言葉を見ることにする。〕


私たちは霊界が、地上の戦争によって傷ついた魂のための野戦病院のようになっては困るのです。私たちのように地上圏に降りて仕事をしている者は、地上人が救われるためには、私たちがお届けしている霊的真理を受け入れる以外にはないことを痛感しています。それは地上人みずからがすべきことであって、私たちが代わってしてあげるわけにはいきません。摂理に反した行為がどのような結果を招くかを示し、地上で間違ったことをすると霊界でこういう事態になるということを、教えてあげるしかないのです。

霊的に何の準備もできていない魂が、霊界へ続々と送り込まれてきます。戦死者たちは、まるで熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。地上界で生活するための道具(肉体)を破壊されたことで傷ついた魂を、なぜ霊界で癒さなければならないのでしょうか。地上人がなすべきことを疎(おろそ)かにしたことで生じた面倒な事態に対処するために、なぜ私たちが進化の歩みを止めて地上圏へ戻って来なければならないのでしょうか。

もし私たちに、あなた方への愛、大霊の愛がなかったなら、こうして地上界のために働いてはいないでしょう。皆さんは、私たちが伝えようとしている霊的真理によって私たちを判断してください。もし皆さんが「あなたの教えは間違っている。これまでの地上の常識に反している」と言われるなら、私たちとしてはもはや為す術(すべ)がありません。

地上界に限って考えてみても、戦争を正当化することはできません。物質的にも、ただ破壊を引き起こすだけです。霊界側から見たとき戦争は、決して正当化することはできません。戦争は、人間は地上界を離れる時期がきたときに肉体から去るべきである、という摂理に反することになるからです。大霊の子が、よくぞ平気で神聖なる摂理を犯すものだと、私たちは呆れるばかりです。

実は地上界のそうした愚かな行為が、低級霊たちの働きかけを許すことになっているのです。彼らは進歩と平和と調和を憎み、組織的な態勢で邪魔立てしようと画策しています。そのことを、あなた方はご存じありません。これを阻止するためには民族や国家間の対立をなくし、地上人類のすべてが大霊の子供であるとの認識を持つことです。対立を生んでいるのは地上の人間であって、大霊ではありません。すべての人間に大霊の分霊が宿っており、それゆえに全人類は等しく大霊の子供なのです。

地上世界には建設しなければならない仕事がいくらでもあるというのに、指導的立場にいる人たちは、なぜ破壊という手段を選ぶのでしょうか。大霊は、すべてを支配する自然法則(摂理)を設けられました。地上の子供たちは、その法則に背くようなことをしてはなりません。もし摂理にそった生き方をしないなら、破壊と混乱を生むだけです。人類は、もう十分にその結果を見てきたのではないでしょうか。

皆さん方には、大霊の計画を地上界で実現するために全力を尽くしていただきたいのです。皆さんは、大霊が流血を望まれると思いますか。戦争によって悲劇や苦難、失業や飢餓や貧困が生み出されるのを望まれると思いますか。せっかくの賜物(たまもの)を無駄にし、小さな子供たちが両親から引き離されて無理やり霊界に追いやられてしまうのを見て、大霊が喜ばれると思いますか。

私たちがお届けしている教えに忠実でありさえすれば、大霊のために奉仕している私たちと同じように、あなた方もこの大事業において役に立つことができるのです。

他人の肉体生命に終止符を打つ行為は、大霊の摂理に背きます。殺意を抱くと、理性が去ります。人間には大霊の分霊が宿っていますが、同時に動物的進化の名残も留めています。人間の進化向上は、動物性を抑え、神性を発揮することによってなされるものなのです。動物性をむき出しにすると、戦争や紛争や殺し合いなどが起こります。反対に内面の神性を輝かせ互いに助け合うようになれば、平和と調和と豊かさがもたらされます。

国家とか民族とかで差別してはいけません。いずれの国家も民族も、大霊の一部なのです。大霊の目から見れば皆、大霊の子供であり、兄弟姉妹なのです。私たちの教えは単純ですが、真実です。それは大霊の摂理を基盤としているからです。摂理を無視して地上界を築こうとしても、混乱や騒動が起きるだけで、最後はすべてが破綻します。

よほどの犠牲的な努力が為されないかぎり、地上ではこれからも戦争が絶えないでしょう。人類はそうなる種を蒔いてきており、蒔いた種は人類みずからの手で刈り取らなければなりません。原因と結果の法則は絶対にごまかせないのです。流血の種を蒔いておいて、平和を刈り取ることはできません。物的欲望の種を蒔いておいて、その結果を免れることはできません。

愛が欲しければ愛の種を蒔くことです。平和が欲しければ平和の種を蒔くことです。至るところに奉仕の種を蒔けば、地上世界は奉仕の精神にあふれることでしょう。このように大霊の真理はきわめて単純なのです。あまりに単純すぎるために、地上で指導的立場にある人々には、その重大性が分からないのです。
質疑応答


――大戦で戦死した人々の「犠牲」は何の役にも立たなかったのでしょうか。


少なくとも私の目には何の意義も見いだせません。あなた方が言う「偉大なる戦い」が始まったときよりも今の方が混乱し、一段と破壊が進んでいます。


訳注――「偉大なる戦い」とは「戦争をやめさせるための戦争」を大義名分とした第一次世界大戦の別称であるが、シルバーバーチが敢えてこの呼び方をしたことには、「偉大」と呼べる戦争などあり得ないという皮肉が込められている。


――あれだけの英雄的行為が無駄に終わることがあってよいものでしょうか。霊的な影響はまったくないのでしょうか。


犠牲となった一人ひとりには報いがあります。動機が正しかったからです。しかし、忘れてはならないのは、地上世界は彼らを裏切っているということです。相変わらず物質中心の考え方をしているために、彼らの犠牲は無意味に終わっているのです。


――休戦記念行事が毎年のように催されていますが、意義があるのでしょうか。


たとえ二分間でも死者のことを思い出してあげることは、何もしないよりはましでしょう。ですが、ライフルや銃剣、軍隊、花火、その他、戦争に結びついたもので軍事力を誇示して祝ったところで、何の意義も見いだせません。なぜ、霊的な行事で祝えないのでしょうか。


――戦没者の記念をスピリチュアリズム的な催しとして行うことには賛成ですか。


真実が語られるところには、必ず善なるものが生まれます。もちろんその演説が奉仕的精神を鼓舞するものであれば、なおさらです。無意味な演説からは何も生まれません。演説をするだけでは十分ではありません。また、それを聴く側も、いかにも自分たちが平和の味方であるかのような気分に浸るだけではいけません。

私は「行為」を要求しているのです。人のために役立つことをしてほしいのです。弱者を元気づけるようなことをしてほしいのです。病気に苦しむ人々を癒し、喪の悲しみの中にいる人を慰め、住む家もない人に宿を貸してあげてほしいのです。地上世界の汚点とも言うべきすべての害悪に、終止符を打ってほしいのです。

平和は互助の精神からしか生まれません。すべての人が奉仕の精神を抱き、それを実行に移すようになるまでは地上に平和は訪れません。


――参戦を拒否する平和主義者の運動についてどう思われますか。


私はいかなる“派”にも属しません。私にはラベルというものがないのです。私は、人のために役立つ行為と動機にしか関心がありません。肩書きや名称に惑わされてはいけません。何を目的としているか、動機は何かを見極めないといけません。なぜなら、反目し合うどちらの側にも誠意と善意を持った人がいるものだからです。私たちが説いている教えは至ってシンプルなものですが、それを実行に移すには勇気が要ります。

霊的真理を知り、それを実行しようと決意したとき、そして日常生活においてあらゆる問題に奉仕と無私の精神で臨むようになったとき、地上界に平和と調和が訪れます。

それはいかなる党派の主義・主張からも生まれるものではありません。大霊の子供たちが霊的真理を理解し、それを日常生活に、そして政治や経済や国際問題に適用していくことから生まれるのです。

私たちは、これこそ真実であると確信した霊的真理を説いています。そしてそれを実行に移せば、きっと良い結果がもたらされるということを教えています。あなた方は物質の世界にいらっしゃいます。最終的には皆さん自身が責任を負うことになります。私たちはただ、愛と誠意を持って導き、あなた方が正道から外れないように力を貸してあげることしかできません。


――ヨーロッパの大国のすべてが完全武装して大戦に備えている中で、英国だけが武装化を抑制しているのは間違いではないでしょうか。


あなた方は国や民族の概念で考えますが、私は大霊とその子供という概念で考えていることを、これまで何度も申し上げてきました。破壊のための兵器をいくらつくっても、平和はもたらされません。平和を希求する声が高まり、人々が愛と奉仕の摂理にのっとって生きるようになったとき、平和が訪れるのです。私は、一つの国、一つの民族という概念はとりません。全人類が大霊の一部であり、大霊の子供であると考えているのです。大霊の摂理を適用するようになるまでは、地上界から戦争と破壊、混乱と破綻が尽きることはないでしょう。
イタリア軍によるアビシニア(現エチオピア)侵攻に関連して出された質疑応答――


――「制裁」という手段をどう思われますか。


私の意見はもうお分かりでしょう。生命は大霊のものであって、人間のものではありません。勝手に生命を奪うことは許されません。摂理に反します。摂理に反したことをすれば、その代償を払わなければなりません。


――しかしこの場合は、動機が正当化されるのではないでしょうか。戦争をやめさせるためという大義があるのですから……。


武力という種を蒔けば、その種はさらなる武力を生むことになります。「戦争をやめさせるための戦争」だと、当事者が言っているではありませんか。


――では、残虐な連中が無抵抗の人々を殺すのを手をこまねいて見ていろとおっしゃるのでしょうか。


あなた方はよく、そういう論理で私たちの意見を求めますが、私たちは永遠にして不変の摂理を説いているのです。最初の段階で摂理に適った手段を用いていれば、今日のような苦境を招くことはなかったはずです。あなた方は難問が生じてから、取り敢えず対策を講じて切り抜けようとしますが、それでは根本的な解決はできません。永遠の摂理に基づく手段だけが、永遠の平和・真の平和をもたらすことになるのです。


――私たちは国際連盟(現在の「国際連合」の前身)を支持すべきでしょうか。


加盟国の代表は本当に平和を希求しているでしょうか。心の底から、魂の奥底から平和を望んでいるでしょうか。大霊の摂理に素直に従うだけの覚悟ができているでしょうか。もしかして、自国への脅威となるものを阻止しようとしているだけではないでしょうか。大霊と人類全体の観点からではなく、自分たちの国、自分たちの民族、自分たちの富という観点からのみ考えているのではないでしょうか。

私たちは、親なる大霊と、その摂理について説いています。それ以外に平和をもたらす方法はないからです。その場しのぎの手段でも一時的には効果があるかもしれませんが、それでは邪悪なものしか生まれません。

そのうち地上人類も“愛”こそが邪悪に打ち勝つことを悟る日がまいります。なぜなら、愛は大霊の顕現だからです。すべての問題を愛の精神で解決しようとするなら、地上界に平和が訪れます。愛の摂理に反する欲望は、常に分裂と混沌(こんとん)と破綻を生み出します。根本から正す努力をしないかぎり、他のいかなる手段をもってしても永遠の平和は訪れません。


――宇宙には戦争を正当化する理由はないのでしょうか。


ありません。戦争は地上世界に存在するだけで、霊界にはありません。人間が殺意を抱くと、同じような欲望を持った地縛霊を惹きつけることになります。
一九三七年の「休戦記念日」におけるシルバーバーチからのメッセージ


訳注――かつては「休戦記念日」と呼ばれていたが、第二次世界大戦後は、英国では「英霊記念日」、米国では「復員軍人の日」と呼ばれている。


毎年この日がめぐってくるごとに、戦死者の犠牲が虚しいものであることを痛感させられます。たった二分間、あなた方は「栄誉ある戦没者」に無言の敬意(黙祷)を捧げ、それからの一年間は忘れ、この日が訪れると棚から下ろしてホコリをはたくように敬意を払います。

彼らの犠牲的行為はすべて無駄に終わっています。一九三七年の時点で、十九年間も十字架にかけられ続けてきたようなものです。あなた方は「偉大なる戦争」と呼びますが、その偉大さとは大量殺戮(さつりく)、無益な殺戮のことです。それは、すべての戦争をやめさせるための戦争だったとおっしゃいますが、その言葉の何と虚しいことでしょう。何という欺瞞(ぎまん)に満ちた言葉でしょう。

自分の生命まで犠牲にして祖国のために献身した若者たちが、霊界で辛い落胆の歳月を送っていることをご存じでしょうか。彼らは、青春の真っ只中で生命を奪われました。何の準備もなしに、霊界へ送られたのです。彼らは“国を守る”という理想のために喜んで死んでいきました。それ以来、彼らは裏切られ続けています。地球上から戦争はなくなっておりません。栄誉ある戦死者に二分間の黙祷を捧げている最中でも「休戦」はありません。殺戮は二分間の休みもなく続いています。

真の平和は霊的摂理を適用することによってしかもたらされないということを、地上人類はいつになったら悟るのでしょうか。戦争はもとより、それが生み出す流血、悲劇、混沌、破綻といったものの元凶は「利己主義」なのです。

奉仕精神が利己主義に取って代わることによってのみ、平和が訪れることを知らなければなりません。自国の物的威力を誇示しようとする古い唯物的思想を捨て、代わって互いが互いのために生き、強い者が弱い者を助け、持てる者が持たざる者を援助しようとすることによってのみ、平和が訪れるようになることを学ばなければなりません。

霊界へ送り込まれた人々を、心にもない口先だけの敬意で、侮辱(ぶじょく)してはなりません。和平へ向けていろいろと努力が為されながら、ことごとく失敗しています。が、唯一試みられていないのは「霊的真理」の適用という方法です。それが為されないかぎり戦争と流血が終わることはなく、ついには人類が誇りに思っている物質文明も破綻をきたすことになるでしょう。

シルバーバーチの教え(下)

 Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)



17章 霊界でも祝うクリスマスとイースター

〔シルバーバーチは、一年に二度、クリスマスとイースターの時期に他の大勢の指導霊とともに霊界の内奥(ないおう)で催される大審議会に出席する。この審議会では、それまでの計画の進捗(しんちょく)状況が報告され、それに基づいて次の計画が立てられる。そして新たな霊的エネルギーとインスピレーションを得て、これからの仕事のための準備をすることになる。その審議会の最高責任者が、地上で「ナザレのイエス」と呼ばれた人物である。シルバーバーチは次のように語る。〕


その大審議会でのイエスのお姿をあなた方に見せ、お言葉を聞かせてあげたいと思います。私たちを励ましてくださるイエスの深い愛情を、あなた方に感じていただきたいのです。イエスは、それまでに私たちが成し遂げた仕事についての評価を披露(ひろう)され、新たなる力、新たなる希望、新たなるビジョンのもとでさらなる目標に向かって邁進するようにと励ましてくださるのです。教会が説く神格化されたイエス・キリストではありません。多くの道具(同志)を通して人類に奉仕しようと勤(いそ)しんでおられる、一人の偉大なる霊です。

私は、長年生活してきた本来の界層に少しのあいだ留まり、そこで久しぶりに活気あふれる霊力に触れ、エネルギーを充電し、美を満喫し、高級霊界においてのみ可能となる生命の実感を味わいます。こんなことを申し上げる私に、自惚(うぬぼ)れの気持ちなど微塵(みじん)もありません。

たとえ世界中の名画や素晴らしい景色、物質界のありとあらゆる芸術品、さらには深遠な自然美を一つに集めても、高級霊界の美しさに比べれば、お粗末な模作程度のものでしかありません。

例えば地上の画家が、高級霊界からのインスピレーションに触れたとしましょう。彼はすぐに、手持ちの絵の具ではそれを表現できないことに気づきます。絵の具を混ぜ合わせて、魂でとらえた色彩を何とかつくり出そうとしますが、不可能であることを悟ります。霊的な存在物や霊界の美しさは、物的な手段では表現できないものだからです。

霊的な喜悦を、地上の言語で説明することができるでしょうか。大霊の光を放ち、叡智と理解力にあふれ、慈悲心と優しさに満ちた霊たちと会ったときの喜びを言い表すことができるでしょうか。語らずともすべてを理解し、互いの心の奥底まで見抜き、その思いを共有することができる霊たち、成功も失敗も知り尽くしている霊たちと一堂に会したときの喜びを、どのようにしたら説明できるでしょうか。地上には、そうした魂の体験を表現する言葉はありません。

大審議会では数ヵ月間の仕事を見直し、新たな計画を作成し、指導霊の一人ひとりに役割が与えられます。私たちは大きな励ましを得て心を鼓舞され、再び各自の使命を果たすために地上近くへ降りていきます。私は皆さん方の援助によって力を与えられ、地上人類が少しでも大霊に近づくことができるように努力しているのです。
質疑応答


――あなたは、その集会に出席するとき、地理的な意味で地球を「離れる」のでしょうか。それともバイブレーションを別の次元に切り換えるのでしょうか。


私が地球(地上圏霊界)を離れるときは、地球の引力やバイブレーションの影響は受けません。こうしてあなた方と話をしているときの私はアストラルボディー(幽体)を用いていますが、地球を離れるときはそれを脱いで霊体だけになります。その霊体が私自身なのです。

脱ぎ捨てたアストラルボディーが分解しないように、(次に使用するまで)私の意識の一部をそこに残しておきます。そして私は、より内奥にある高次の意識を高め、本来の霊的意識を取り戻していきます。それには時間がかかります。地球のバイブレーションから脱するのに時間をかければかけるほど、本来の界層でより高次の霊的意識を取り戻すことができるようになるのです。

しかし、この仕事のために地球へ降りてくる前の意識レベルまで到達することはできません。何年もかかったものを、数日で取り戻すことはできません。


――本来の意識レベルを意図的に下げるのは、たいへんな犠牲を強いられることではありませんか。


おっしゃる通りです。しかしそれは、物質界にいるあなた方のために喜んで払っている代償です。


――犠牲の中でも最大のものと言えるのではないでしょうか。


確かにそうですが、真理に飢えている人がこれほど多いのですから、私は喜んで持てるものを分け与えています。

地上の太陽が色あせて見えるほど眩(まぶ)しいばかりに光り輝く霊界の太陽、あらゆる絵画・建造物・詩・音楽で表現されている美の極致、最大限の調和状態の中で自然界が生み出す心を奪われるような美しい光景、しかも趣味も性分も相通じる気の合った仲間と交わる喜び――そうしたものに満たされている世界から、暗くて陰鬱(いんうつ)なこの地上界へと降りてくるのです。そのためにどれほどのものを私が犠牲にしているのか、およそお分かりいただけるでしょう。

私は自惚れてこんなことを言っているのではありません。わずかな人々であっても、安らぎと慰めと希望を与えてあげることができるなら、私は喜んで自分の持っているものをお分けしたいと思っています。


――地上のクリスマスとイースターの時期に、なぜ指導霊の集会を催すのでしょうか。ナザレのイエスと何か関係があるのでしょうか。


霊界では、イエスが地上へ降誕する以前からクリスマスとイースターを祝っていました。それらは、聖書に出てくる物語とは何の関係もありません。いずれお分かりになる日もくると思いますが、地球は「リズム」、つまり進化の法則の一環である「サイクル」によって支配されています。そのサイクルは機械的に運行しており、地上のあらゆる民族がそれを認識していました。

私が地上にいた頃、大切にされていた二つの祭日がありました。それをクリスチャンが取り入れ、クリスマスとイースターと呼んで祝っているのです。

この二つの祭日は、私たちインディアンにとって重要な意味を持っていました。インディアンはそれらの時期に、大霊との最高の交わりが得られることを知っていました。あなた方(西洋人)には理解できないことですが、私たちはその時期に太陽の影響力が最も盛んになると考えていました。そして何日にもわたってあなた方の言う「交霊会」を催し、大霊からのインスピレーションをふんだんに受けていました。

そのため私たちインディアンは、地上時代に大切にしていた時期がめぐってくると、霊界において仲間たちが集って祝うのです。もとは“太陽崇拝”から始まったものですが、太陽はシンボルにすぎません。生命あるものはすべて、互いに影響を及ぼし合っています。あらゆる物質も、あらゆる天体も、互いに影響を及ぼし合っています。

すべては自然法則に基づいており、クリスマスは「太陽の誕生」を意味しています。クリスマスは、自然法則を基にして築かれた宗教を持つすべての民族が一つにまとまる時であるため、それが霊界での大審議会の時期として選ばれたのです。私たちにとって太陽の誕生を祝うクリスマスは、すべての祭日の中で最大のものです。なぜならそれは新しい時代の始まりを象徴しているからです。それはサイクルの終わりであり、新しいサイクルの始まりでもあるのです。クリスマスの時期に霊界で集会が催されるのは、指導霊のすべてが、かつて地上で自然法則を基にした宗教を持つ民族に属していたからなのです。

地上でクリスマスとイースターを祝っていたことから、霊界でもこの時期に集会を開いていますが、新しい生命の誕生を祝うという目的は薄らぎ、今では物質界から一時的に引き揚げて次の仕事のための新たな霊力を授かるという目的のために開かれています。


――集会には、どのような霊たちが参加するのでしょうか。


主として、インディアンと古い民族に属していた(スピリチュアリズムの)指導霊たちです。今日の西洋人はすべて、指導霊たちに比べて新しい民族であり、彼らにとっては私たちの祝いは無意味です。

イースターは「全生命の復活」を祝う時です。地上の人間が悲嘆と苦悩、苦痛と困窮(こんきゅう)から脱して、より豊かな人生・本当の人生を歩めるようにと祈るすべての人々が一つに結ばれ、全世界が夜明けを迎えることの象徴なのです。それによって悲しみと涙が追放され、悲劇と飢えが消滅していくことになります。

地上世界は今こそ「復活」を必要としています。ゆっくりとではあっても、大霊の摂理が適用されるようになり、より多くの大霊の子らが自らを大霊の道具として提供するようになります。そして物質第一主義の勢力が撤退することになるのです。

私が本来の所属界へ戻るときは、他の多くの指導霊と一緒にまいります。そして短い期間ではありますが、あなた方地上人には想像もつかないような霊的生活の喜びを味わいます。愛の絆で結ばれた指導霊たち、私たちが師と仰ぐ霊たちと会い、その優れた叡智を学び取り、その霊力を取り入れ、深遠なる洞察力による助言を授かります。そしてこの仕事の進展状況を確認し、これからも果てしなく続く善と悪との戦いのために用意された計画を示されます。

こうして私たちは、上層界の指導霊から激励を賜り、奉仕の喜びに満たされて再びこの地上界へと戻ってきます。そしてまた、皆さん方と協力し合って、少しでも多くの霊力を地上界へもたらすために働くのです。

できることならその集会にあなた方をお連れして、地上界のために働いている指導霊たちに会わせてあげたいと思います。私は他の誰よりもこのサークルの皆さんを、イエスを中心として開かれるその集会にお連れしたいと思っています。光輝あふれるその姿を見せてあげたいのです。大霊によって選ばれた指導霊がどのような方々であるかを知ったなら、あなた方は、あまりの威厳にただ畏(おそ)れおののくばかりかもしれません。指導霊たちの地上時代の名前は、知らずにいた方がいいかもしれません。

あなた方には、こうして地上世界のために尽力している仕事の中身によって私たちを判断していただきたいのです。


――霊界での祭日として、なぜ地上のイースターを選んだのでしょうか。


私たちが地上のイースターを選んだのではありません。あなた方が私たちのイースターを選んだのです。


――イースターは昔、地上全体で同じ時期に祝われていたのでしょうか。


私たちインディアンは皆、同時に祝っていました。その後、あなた方の世界でキリスト教という宗教がつくられたとき、太古の自然宗教が用いていたシンボルを採り入れていったのです。すべての宗教の根幹に“太陽信仰”があることを知ったからです。


――現在でも霊界では、インディアン社会だけでなく他の宗教においてもイースターを祝うのでしょうか。


霊界の全界層においてイースターが催されています。地上でクリスチャンだった者は、イエスの蘇りを祝います。イエスよりもずっと前の時代に地上生活を送った者たちは、その時代の自分たちの宗教のシンボルとしてのイースターを大々的に祝います。私たちはそのとき、まだ明らかにされていない叡智を授かります。私たちよりも霊格の高い指導霊から教えを受けると同時に、その知識を他の仲間の霊たちと分け合います。

Monday, July 20, 2026

ベールの彼方の生活(二)



第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。


一章 序 説
守護霊ザブディエル   2善と悪   3神への反逆     
統一性と多様性



一章 序 説

1 守護霊ザブディエル 

  一九一三年十一月三日  月曜日

 守護霊のザブディエルと申す者です。語りたいことがあって参りました。


──御厚意ありがたく思います。

 ご母堂とその霊団によって綴られてきた通信(第一巻)にようやく私が参加する段取りとなりました。これまでに授けられた教訓を更に発展させるべき時期が到来したということです。貴殿にその意志があれば、ぜひともそのための協力を得たいと思います。


──恐縮に存じます。私にいかなる協力をお望みでしょうか。

 ここ数週間にわたってご母堂とその霊団のために行ってこられた如くに、私のメッセージを今この時点より綴ってほしく思います。


──ということは、母の通信が終わり、あなたがそれを引き継ぐということでしょうか。

 その通りです。ご母堂もそうお望みである。もっとも、時にはその後の消息をお伝えすることもあろうし、直接メッセージを届けさせようとは思っています。


──で、あなたが意図されている教訓はいかなる内容のものとなりましょうか。

 善と悪の問題、ならびにキリスト教界および人類全体の現在並びに将来に係わる神のご計画について述べたいと思う。もっとも、それを貴殿が引き受けるか、これにて終わりとするかは、貴殿の望むとおりにすればよい。

と申すのも、もとより私は、急激な啓示によっていたずらに動揺を来すことは避け徐々に啓発していくようにとの基本方針に沿うつもりではあるが、その内容の多くは、貴殿がそれを理解し、私の説かんとする教訓の論理的帰結を得心するに至れば、貴殿にとってはいささか不愉快な内容のものとなることが予想されるからです。



──私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょうか。あのままで終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。


 さよう、終わりである。あれはあれなりに結構である。もともと一つのまとまった物語、あるいは小説のごときものを意図したものでなかったことを承知されたい。断片的かも知れないが、正しい眼識を持って読む者には決して無益ではあるまいと思う。


──正直言って私はあの終わり方に失望しております。あまりに呆気(あっけ)なさすぎます。また最近になってあの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望はありのままを公表するということでしょうか。

 それは貴殿の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが・・・ただ一言申し添えるが、これまで貴殿が受け取ってきた通信と同様に、今回新たに開始された通信も、これより届けられる一段と高度な通信のための下準備である。それをこの私が行いたく思います。


──いつからお始めになられますか。

 今、ただちにである。これまでどおり、その日その日、可能なかぎり進めればよい。貴殿には貴殿の仕事があり職務があることは承知している。私を相手とする仕事はそれに順じて行うことにしよう。


──承知しました。出来るかぎりやってみます。しかし正直に申し上げて私はこの仕事に怖れを感じております。その意味は、それに耐えて行くだけの力量が私には不足しているのではないかということです。

と言いますのも、今のあなたの言い分から推察するに、これから授かるメッセージにはかなり厳しい精神的試練を要求されそうに思えるからです。


 これまで同様に吾らが主イエス・キリストのご加護を得て、私が貴殿の足らざるところを補うであろう。

──では、どうぞ、まずあなたご自身の紹介から始めていただけますか。

 私自身のことに貴殿の意を向けさせることは本意ではない。それよりも、私を通じて貴殿へ、そして貴殿を通じて今なお論争と疑念の渦中にあり、或いは誤れる熱意を持ってあたら無益な奮闘を続けているキリスト教徒へ向けた啓示に着目してもらいたい。

彼らに、そして貴殿に正しい真理を授けたい。それを更に他の者へと授けてもらいたいと思う。その仕事を引き受けるか否か、貴殿にはまだ選択の余地が残されております。


──私はすでにお受けしています。そう申し上げたはずです。私ごとき人間を使っていただくのは誠に忝(かたじけな)いことで、これは私の方の選択よりそちらの選択の問題です。私は最善を尽くします。誓って言えるのは、それだけです。では、あなたご自身について何か・・・


 重要なのは私の使命であり、私自身のことではない。それはこれより伝えていく思想の中に正直に表れることであろう。世間と言うものは自分に理解できないことを口にする者を疑いの目を持って見るものである。

かりに私が「大天使ガブリエルの顕現せる者なり」と言えばみな信ずるであろう。聖書にそう述べられているからである。が、もし「〝天界〟にて〝光と愛の聖霊〟と呼ばれる高き神霊からのメッセージを携えて参ったザブディエルと申す者なり」と申せば、彼らは果たして何と言うであろうか。

故に、ともかく私にそのメッセージを述べさせてもらいたい。私および私の率いる霊団についてはそのメッセージの中身、つまりは真実か否か、高尚か否かによって判断してもらいたい。貴殿にとっても私にとってもそれで十分であろう。

そのうち貴殿も私の有るがままの姿を見る日が来よう。その時は私についてより多くを知り、そしてきっと喜んでくれるものと信じる。


──結構です。お任せいたします。私の限界はあなたもご存知と思います。霊視力も無ければ霊聴力もなく、いかなる種類の霊能も持ち合わせていないと自分では思っております。しかし、少なくともこれまで綴られたものについては、それが私自身とは別個のものであることは認めます。

そこまでは確信しております。ですから、あなたにその意志がおありであれば私は従います。それ以上は何も言えません。私の方から提供するものは何も無いように思います。


 それでよい。貴殿の足らざるところはこちらで補うべく努力するであろう。
 今回はこれ以上は述べないことにしよう。そろそろ行かねばなるまい。用事があるであろう。
 主イエス・キリストのご加護のあらんことを。アーメン ♰ 

シルバーバーチの教え(下)

Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)




16章 交霊会についての誤解

〔交霊会を催しても何ひとつ現象が起きないことがある。すると出席者は時間を無駄に費やしたと、不満に思うものである。ここでのシルバーバーチの言葉は、心霊現象を待ち望む人々に励ましをもたらすことになるであろう。〕


交霊会のような場で、霊的な一体化を求めて過ごす時間が無駄に終わることは決してありません。あなた方が、何か現象が起きないかと辛抱強く待っていることは知っていますが、交霊会としては着々と進展していることを理解していただきたいのです。その間に私たち霊界の者との絆が強化され、出席者の霊的感受性は鋭くなっています。

高次の心霊現象は、出席者の内的な反応、つまり霊性の開発とそれを活用しようとしている力(霊団)によって発現するようになります。

ですから、どういう現象が見られたとか、どんな音が聞こえたのかということは大して重要ではありません。もっと大切なことは、サークルのメンバーの霊性の開発です。あなた方は毎週一回この交霊会に参加していますが、それによってより高度なバイブレーションに波長を合わせ、太古からの霊的叡智にいっそうなじむようになっています。霊的叡智は、地上という物質界に届けられることを待ち続けています。それが実際に地上に届けられるためには、そのバイブレーションに同調できる通路(チャンネル)が必要となります。

あなた方の魂が開発されてより高度なバイブレーションに反応するようになれば、それだけ高度で強力な霊的エネルギーと接触できるようになります。そのエネルギーは目にも見えず耳にも聞こえませんが、永遠の霊的実在の一部です。実はそれこそがあなた方の生命の真実在なのです。ところが、大半の人間は多くの時間を影を追い求めて過ごし、幻影を捕らえようとし、その場かぎりの満足を得ようとしています。

静寂と調和と愛の中で、皆さんの魂は一時(いっとき)も休むことなく開発されています。その速度は遅々としていますが、着実です。各自の内部に宿る大霊(神の分霊)が開発され、進化し、その分だけ神性を発現することが可能になっています。ナザレのイエスがその昔こう言いました――「二人ないし三人の者が集う所には大霊が祝福を授けてくださる」と。私たちも同じことを述べているのですが、誰も耳を貸そうとしません。


訳注――「耳を貸さない」とは、ここではキリスト教会のことを言っている。「大霊が祝福を授けてくださる」というのは霊媒能力によって霊界と地上界との交信が可能になるという意味で、それを実際にやって見せているのに認めようとしない教会を批判している。

真理が変わることはありません。変わるのは人間の心です。真理は不変です。なぜなら真理は正しい知識に基づくものだからです。その正しい知識は大霊から出ています。大霊こそ、すべてのインスピレーションの中心であり始原です。真理はとてもシンプルで、容易に理解できるものなのですが、地上人はそれをきわめて難しいものにしてしまっています。

このサークルの方たちとはすでに何度もお会いしていますので、私たち霊団との絆は強化されています。霊団の中には皆さんの知らない霊、名前を聞かされても分からない霊が大勢いますが、いずれもお役に立ちたいという一心で来ており、彼らは評価も報酬も一切求めてはいません。

そうした霊たちがこの場を訪れるのは、地上界へ霊的知識を届け、真理の普及を促進し、間違ったことを改め、悲しみと迷信を駆逐し、光明を広げ、痛みと苦しみの代わりに幸せと平和と繁栄をもたらす手段(霊媒と出席者)があるからです。

その仕事を推進するうえで、皆さんは大いに役に立っているのです。万一、何の役にも立っていないように思えたときには、どうか次のことを思い出してください。皆さんが人類に対する奉仕への熱い思いを抱いてこの部屋に来て、私たちと一時間ほど共に過ごすということが、ここに霊的神殿を築くための大きな力になっているということです。

この交霊会に出席して大霊と心を一つにしておられる時間は、一時として無駄に終わることはありません。調和と愛の心で集うときに蓄積されるエネルギーが、大いなる架け橋を築くうえで役に立っているのです。その架け橋を通って、新しい光、新しい力、新しい希望を地上界へ届けようとする霊が大挙して降りてきます。どうかそのことを忘れないでください。時には冗談を言って笑いの渦が巻き起こることがあっても、その背後には常に大きな目的が控えているのです。

その目的とは、大霊の摂理が皆さん方一人ひとりを通して地上界で十分に機能するようになることです。皆さんは、その目的のために今日まで献身してこられたのです。その目的を共有し、大霊を受け入れたいとの思いが強くなるほど、それだけ多くの大霊のエネルギーが地上界へもたらされるようになるのです。
質疑応答


――交霊会で笑い声があがるのは、良い影響をもたらすことになるのでしょうか。


心が楽しければ楽しいほど、それだけ大霊の心に近いということを意味します。忘れないでください。あなた方は大霊であり、地上のいかなるものも、あなた方を傷つけることはできません。それは、私がこれまでずっと言い続けてきたことです。この世的なことに煩(わずら)わされているかぎり、その真意は分かっていただけないかもしれません。

この世的なことを無視しなさいと言っているのではありません。なぜなら、あなた方は地上で生活しており、社会の一員としての責任もあります。しかし、次のことだけは決して忘れないでください。あなた方は大霊であり、大霊はあなた方であるということです。あなた方の内にある大霊の霊力は、あなた方があらゆる物的なものに勝利するように導きます。

こうしたことを正しく理解するなら、それはあらゆる邪悪に抵抗し、あらゆる病気を克服し、あらゆる障害に立ち向かう力となるのです。しかしその力を活用している人間は、ほとんどいません。イエスは二千年も前に「神の王国はあなた方の中にある」と教えているのですが……。


――自動書記は心霊現象の中でいちばん信頼性が乏しいようですが、なぜでしょうか。


それはその霊媒の能力の問題です。霊媒が未熟であれば、地上の人間の想念と霊界から送られてくるメッセージとの区別がつきません。能力の発達程度の問題で、ある一定のレベル以上に到達すれば地上界の想念を払いのけ、霊界からのメッセージを受け取りやすくなります。霊媒が未熟なのに、それを霊側の責任にしてはいけません。私たちとしては、そちらから提供してくれる道具で仕事をするしかないのです。


――幽界から霊界へと向上していった霊が地上と交信するときは、幽界まで降りてこなければならないのでしょうか。


いいえ、そんなことはありません。彼らは、メッセージを届けてくれる霊を見つけることができます。地上へ通信を送るための道具(霊界の霊媒)を、いつでも霊界サイドで調達できるのです。ただし、霊界の霊媒となる霊は、幽界を卒業しているだけでなく、そのレベルをはるかに超えていなければなりません。地上界の次の段階である幽界にいる者だけが地上界と交信できるというわけではありません。それより上の界層からでも、地上の霊媒がそのバイブレーションを受け取るだけの能力があれば、直接交信することができるのです。


――霊的な問題についての知識の限度は地上人の受容能力によって決まるそうですが、そうなると霊的知識の理解力に欠ける人間は、霊媒を通して証拠を求めるのが賢明ということになるのでしょうか。


証拠と魂の成長とは何の関係もありません。真理を受け入れる能力は、霊界のどの界層まで至ることが可能か、ということで決まります。魂が真理を理解できる段階まで進化しているかどうかということです。それを証拠の追求と混同してはいけません。証拠の追求と魂の成長は、必ずしも足並を揃えて進んでいくものではありません。生命が死後にも存続する証拠を手にしていながら、霊性に目覚めていない人がいるものです。

Sunday, July 19, 2026

シルバーバーチの教え(下)

 Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳)



 15章 交霊会の舞台裏


〔シルバーバーチは、物理的心霊現象を引き起こすには霊界サイドの組織体制が不可欠であると述べている。シルバーバーチの交霊会(ホームサークル)の最初の頃には直接談話現象や物質化現象が演出されたが、やがてサークルのメンバーが一新し、それにともないこうした物理的心霊現象は姿を消すことになった。〕


この交霊会には一団の霊が携わっています。それはあらゆる界層の霊たちで、地上近く(幽界下層)からやってきた霊もいます。彼らは物質的反応を演出したり、心霊現象の演出に必要となるもの(エクトプラズム)を供給したりします。

また一方には、光り輝く高級霊たちもいます。彼らは大霊のメッセンジャーです。彼らが活動しているのは、こうして交霊会を催しているときだけではありません。皆さんの睡眠中も活動しています。霊的真理を少しでも多く地上にもたらすために、いろいろと心を砕いているのですが、それでもまだ闇夜に輝くほのかな明かり程度でしかありません。

そうした大霊の使徒が足繁くこの小さな一室に通うのは、ここが荘厳な神殿だからです。それは建物が大きいとか、高くそびえているとか、広いということではありません。ここから地上界に光を注ぐことができるということです。そうして暗闇は真理の炎によって駆逐されるのです。こうしたサークルから、地上世界は新しいエネルギーを得ることになります。そして利己主義や不正・不寛容といった邪悪が一掃されていきます。なぜならそれらは、大霊の摂理に反するものだからです。

この仕事は、これからもずっと続きます。それは大霊の大事業の一環だからです。皆さんがこのサークルの一員として選ばれたのは、一人ひとりが特異な体験を持っており、その特質をうまく融和させると、愛と調和と善意による完全なサークルが形成されることになるからです。それが光の神殿を築くことを可能にするのです。

皆さんは、途方もなく大きな仕事をしています。大霊の神殿を建設しているのです。時として霊界で起きていることを垣間見ることがあるでしょう。そうかと思うと暗闇の中に取り残されて当惑し、疑問を抱くかもしれません。それは霊界からの働きかけに対して、皆さんの理解が及ばないからです。忘れないでいただきたいのは、私たち霊団の者は、暗闇に閉ざされた地上界へ光明をもたらすために片時も休むことなく全力を尽くしているということです。

直接談話現象(メガホンの中に発声器官をこしらえてスピリットがしゃべる現象で、霊言現象とは別。シルバーバーチの交霊会でも初期の頃はよく行われ、いろいろな霊がしゃべった――訳注)を上達させる(鮮明な声で長時間持続させる)には、繰り返し練習するしかありません。言いたいことをどれだけ伝えられるかは、実際にやってみないと分からないものです。ともあれ皆さんは当初からその上達ぶりを目の当たりにしてきた、本当に恵まれた方たちです。

交霊会ではバイブレーションが問題となります。交霊会の成否は、その問題をどの程度まで克服できるかにかかっています。皆さんの側としては語られたものしか聞こえないわけで、語られずに終わったものは、当然のことながらお分かりになりません。

霊界側にとって最も厄介なのは、話したがる者が多すぎるということです。彼らは「ほんの少しだけでいいからしゃべらせてください。一言だけでいいですから」と言って嘆願するのです。そこでやむをえず、彼らに話をさせることになります。

ここに神殿を築く仕事は休むことなく続けられています。エネルギーを蓄えること、いろいろと実験を試みること等々、くる日もくる日も、昼夜の別なく、この部屋での交霊会の準備のために大勢の霊が出入りしています。

あなた方が電話で話をしようとするとき、電話機を製造するために働いている人たちのことは念頭にありません。あなた方は電話口に向かってしゃべるだけで、先方もそれを聞いて受け答えをするだけです。が、実際は大勢の人たちの働きがあるからこそ両者は話が通じるわけです。私たちがやっている通信も、それと同じです。あなた方はこちらがしゃべったことを聞くだけですが、実際には両者の間で多くの仕事がなされているのです。

例えばこちらの化学者は一種の光線を使用します。それを用いて現象を発生させるのですが、その化学的成分は地上のいかなる分析器でも調べることはできません。こちらの化学者は常に忙しく動き回っています。その光線はとても強力なパワーを秘めていますが、このサークルの出席者に危害が及ぶようなことはありません。それは皆さん方の霊的身体がその光線に順応するようになっているからです。そのようにこちらで工夫しているのです。その光線を皆さんは見ることも感じることもできませんが、私たちにははっきりと見えています。

今夜、この部屋には五千人もの霊たちが集まっています。皆さんがよく知っている人で交霊会というものに関心のある霊もいれば、こんなことが本当にできるのだということを今まで知らなかったために、初めて見学に来たという霊もいます。

また、どのようにして霊界から地上界へ接触すべきかを学んだり、霊媒を他の分野でも使用できるかどうかを勉強するために、ここに集まってきている霊もいます。こうしたことは地上界ばかりでなく、霊界にとっても非常に重大な真理普及のための仕事なのです。私たちは、時間とエネルギーを無駄に用いることはしません。私たち霊界の者が学ばなければならない大切なことは、地上人の心に私たちからのメッセージを印象づけるためにはどのように霊力を使用したらよいのか、ということです。霊界サイドの者が霊力を用いるための法則を十分に理解するなら、あなた方の心に影響を及ぼしやすくなります。地上人は知らないうちに、霊界からのインスピレーションの受信者になっているのです。

あなた方の世界には、偉大な科学者、偉大な発明家、偉大な教育者と言われる人たちが数多くいます。実は彼らは、霊界からの知識を伝える道具にすぎません。私たち霊界の者にとって、真理や発見が地上にもたらされるかどうかだけが問題なのであって、地上の誰がインスピレーションを受けるかは、どうでもいいことなのです。

霊界では、一人で仕事をするということはありません。なぜなら、協調こそが大霊の摂理だからです。そのため霊界ではグループを組織します。そして可能なかぎり、全体としての完璧性を目指します。グループの仕事にとって最も必要とされるのは、メンバーのあらゆる特性・長所を一つにまとめ上げることです。それができると、その中の一人がグループ全体のマウスピースになって地上に働きかけます。私も、私が所属する霊団のマウスピースです。霊団の一人として働く方が、自分一人で仕事をするよりもはるかに楽に進みます。達成された仕事の成果は、グループ全体の知力・精神力を総合したものなのです。

仕事の成果が素晴らしければ素晴らしいほど、霊団のメンバーは完璧に一体化しているということです。同様に、霊媒が首尾よく役目を果たしていればいるほど、霊媒と支配霊との調和がとれているということです。そうでないなら、必ずどこかできしみが生じます。

これと同じようなことが、地上界のチームづくりにも言えます。組織者(リーダー)が優れていれば、メンバーの一人ひとりにふさわしい仕事を与え、最高の結果を生み出すことになります。オーケストラでは、楽団員が演奏する楽器は一人ひとり違っていても、ハーモニーがとれるならば一つの立派なシンフォニーができ上がります。しかし、もしそのうちの一人でも音程を間違えるなら、全体は台なしになってしまいます。まさに調和こそが「神の摂理」なのです。
質疑応答


――心霊現象を起こすためには出席者の霊的エネルギーを使うそうですが、部屋にある物体を利用することもあるのでしょうか。


はい、あります。状況によっては、カーペットやカーテン、書物や家具なども利用します。物質に宿っていない私たちは、身近にある物体からエネルギーを引き出して使わざるをえません。と言っても、少しずつです。一度にあまり多く取り過ぎると、物体はバラバラに分解してしまいます。


――物質化現象が起きる部屋のもの、例えばカーテンなどが異常に早く朽ちるのはそのためですか。


そうです、それが原因です。ですが、私たちはその点にずいぶん気を使っています。物質化現象では色彩を必要とするときがありますが、これもその場の物体から抜き取ります。あなた方が私たちの仕事についてもっと知ってくださるなら、私たちが何ひとつ無駄にしていないことが分かっていただけると思います。しかし何よりも大きな力となるのは、あなた方列席者の内部からのエネルギーです。これが最も大切な要素なのです。

霊媒は、霊媒としての能力を向上させるだけでなく、自分の霊力を強化することも心がけないといけません。霊媒自身の霊力が強化されると、その霊媒から出るエクトプラズムの質も向上するのです。私たちが扱っているのは、材木や粘土ではありません。霊媒の体内にある生命のエッセンスを扱っているのです。思想や人間性や精神など、その霊媒のすべてがエクトプラズムに反映します。


――物質化現象は霊媒現象の中で質的に高いものでしょうか、低いものでしょうか。あなたとしては奨励なさいますか。


何事であれ、一人の人間に幸せをもたらし霊的摂理についての知識を与えることになるならば、それはそれなりに目的を達成したことになります。高いとか低いとかの概念で考えてはいけません。それを必要としている人にとって役に立つか否かの観点から考えるべきです。

シルバーバーチの教え(下)

 Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳)




14章 霊界通信の難しさ


〔シルバーバーチの交霊会にたびたび出席しているメンバーは、霊界通信の問題点を知っているが、彼らは霊界側があらゆる障壁を打ち破って地上にメッセージを送ってきたという事実にしばしば驚かされる。シルバーバーチは霊媒をコントロールするシステムを見事に進化させてきたために、霊媒を通して彼の思想のすべてを地上に伝えることができると述べている。とは言うもののシルバーバーチは、時に霊媒の潜在意識が通信の妨げになることも認めている。この章では、霊界通信に関するさまざまな問題を取り上げている。〕


あなた方の住む物質界は活気がなく、どんよりとしています。あまりに重苦しくてうっとうしいために、私たちがそれに合わせようとバイブレーションを下げていくうちに高級界との連絡が途切れてしまうことがあります。私の住む光の世界とは対照的に、あなた方の世界は暗くて、冷たくて、じとじとした世界です。

あなた方は、目も眩(くら)まんばかりに神々しく光り輝く霊界の太陽を、まだご覧になったことがありません。あなた方はその色あせた模造を見ているにすぎません。ちょうど月が太陽の光を反射して輝いているように、あなた方の目に映っている太陽は、私たちの太陽のかすかな反射程度にすぎないのです。

こうして地上に降りてきた私は、カゴに入れられた小鳥のようなものです。用事を済ませて地上から去っていくときの私は、鳥カゴから放たれた小鳥のように、果てしない宇宙の彼方(かなた)へ喜び勇んで飛び去っていきます。あなた方の言う“死”とは、鳥カゴという牢獄から解放されることなのです。

あなた方から「知り合いの霊からのメッセージを教えてほしい」と頼まれたときには、私はその霊のレベルに合わせたバイブレーションに切り換えます。そのときの私は、単なるマウスピースにすぎません。状態がよいときは簡単に霊からのメッセージをキャッチできます。しかし、この交霊会が開かれている部屋の近所で何か事が起きると混乱が生じます。突然、通信ルートが途絶えてしまうことがあります。そうしたとき私は、急いで別の通信ルートに切り換えなければなりません。バイブレーションを新しいものに切り換えるということです。

個人的なメッセージを伝えるとき、相手の霊が言っていることが手に取るように聞こえることがあります。それはこうして私が今この霊媒を使って語っているときのように、同じレベルのバイブレーションで通じ合っていることを意味します。

しかし、これが高級界からの啓示を受け取るとなると、そう簡単にはいきません。私は別の意識に切り換えなくてはならないため、同じバイブレーションを使うわけにはいきません。シンボルとか映像、ビジョン、直観といった形で印象を受け取り、それを言語で表現することになります。それは地上の霊能者が啓示に接するのと非常によく似ています。そのときの私は、普段シルバーバーチとして親しんでくださっている意識よりも、一段と高い次元の意識を表現しています。

画家がインスピレーションを受けるときは、いつも使用しているものとは異なるバイブレーションに反応しています。その状態の中で画家は霊力の受け手となり、それを映像に転換してキャンバスの上に描きます。インスピレーションが去ると、それができなくなります。

これと同じで、私が皆さんに霊的真理を伝えようとするときは、高度なバイブレーションに反応できる意識の回路を開き、霊界からのメッセージを表現しなければなりません。そうすることで高級霊は、私を道具として用いることができるのです。

その際、私はこの霊媒の語彙(ごい)(記憶している言葉)の制約を受けるだけでなく、霊媒の魂の進化の程度による制約も受けます。霊媒が霊的に成長すればその分だけ、それまで表現できなかったことが表現できるようになるのです。

今ではこの霊媒の脳のどこにどんな単語があるのかが分かっていますから、それらを何とか駆使して、私の思ったことやここへ来るまでに用意した思想を百パーセント表現することができます。

この霊媒を通じて語り始めた頃は、霊媒の脳の中にある一つの単語を使おうとすると、それとつながった不要な単語まで出てきて困りました。神経、特に脳の中枢全体をコントロールする術(すべ)を身につけなければなりませんでした。それによって必要な単語だけを用いることができるようになりました。現在でも霊媒の影響をまったく受けていないとは言えません。時々、霊媒の言葉が私のメッセージをわずかに着色することがあります。しかし、私の言おうとする内容が変えられることはありません。

あなた方西洋人の精神構造は、私たちとはかなり違います。私たちインディアンの霊が(西洋人の)霊媒をうまく使いこなせるようになるには、相当の年数を要します。霊媒的素質を持った者の睡眠中に、その霊的身体を使って実験を繰り返します。そうした訓練の末に、ようやくこうして霊媒を入神させてその口を使って語ることができるようになるのです。

他人の身体を使ってみると、人間の身体がいかに複雑にできているかがよく分かります。霊媒の心臓をいつものように鼓動させ、血液を循環させ、肺を伸縮させ、適度な刺激によって脳の機能を正常に保つ一方で、彼の潜在意識の流れを止めて、その間に私たちの考えを送り込みます。それは容易なことではありません。

初めのうちは、そうした操作を意識的にやらなければなりません。それが上達の常道というものです。赤ん坊が歩けるようになるには、最初は一歩一歩、足を運ぶことをマスターしなければなりません。そのうち意識しなくても自然に足が出るようになります。私がこの霊媒をコントロールできるようになるまでには、やはり同じような経過をたどりました。しかし、今では自動的にできるようになっています。

他界したばかりの霊が霊媒を通してしゃべるときは、そこまでする必要はありません。霊媒の潜在意識に霊の思念を印象づけるだけでよいのです。それでもかなりの練習が要ります。その練習をこちらの世界の者同士で行いますが、それほど簡単なものではありません。こうして霊媒の口を使って語るよりは、メガホンを使ってしゃべる方がずっと楽です。


訳注――物理的心霊実験で、霊界の技術者がメガホンの中にエクトプラズムで発声器官をつくり、通信霊がそれを口にあててしゃべる。この種の心霊現象は、初期のスピリチュアリズムにおいて盛んに演出された。

人間の潜在意識には、それまでの長年の生活によって決まったパターンが形成されています。考え方や表現方法や用いる概念に、一定の傾向ができ上がっています。その潜在意識を使ってこちらの思想やアイデアや単語を伝えるためには、潜在意識の流れ(回路)をいったん止めて、新しい回路をつくらなくてはなりません。もしも同じような考えが潜在意識にあれば、その回路に切り換えます。それはレコードプレーヤーのようなものです。レコード板のトラック(溝)の上に針を置けば、自動的に曲が出てくるのと同じです。

私がこの部屋に入ってくるのに壁は障害にはなりません。私のバイブレーションにとって壁は硬い物質ではないのです。むしろ霊媒のオーラの方が硬い壁のように感じられます。霊媒のオーラが私のバイブレーションに影響を及ぼすからです。霊媒のオーラは私にとっては牢獄のようなもので、私は霊媒の肉体によって制約を受けます。そのため私はバイブレーションを下げ、霊媒の方はバイブレーションを高めなければなりません。それがうまくいくようになるのに十五年もかかりました。

霊媒のオーラの中にいる間は暗くて何も見えません。霊媒の肉体によって私の能力は制約を受けます。この霊媒は、子供のときから霊媒として必要なすべてのことを身につけなければなりませんでした。そして私は、この霊媒をどのように使用するかを学ばなければなりませんでした。もっとも、足の使い方は知る必要がありませんでした。私には足は用がないからです。必要なのは脳と手だけです。

この霊媒を支配しているときに別の霊からのメッセージが届き、それをそのまま伝えることがありますが、その際は霊媒の耳を使うのではなく私自身の霊耳(れいじ)を使います。これも霊媒のオーラと私のオーラの問題です。私のオーラは霊媒のオーラほど鈍重ではなく、霊媒のオーラの中にいるときでも、他の霊が私のオーラに思念を印象づけることができるのです。

それは譬えてみるなら、皆さんが誰かと電話で話をしながら、同じ部屋にいる別の人の話を聞くのと同じことです。それは二つの異なるバイブレーションを利用しているわけです。二つの行為を同時にすることはできませんが、バイブレーションを切り換えることはできます。
質疑応答


――霊言現象は、霊が霊媒の身体の中に入ってしゃべるのですか。


必ずしもそうではありません。大抵の場合、霊媒のオーラを通じて操作します。


――霊は、霊媒の発声器官を使いますか。


使うこともあります。現に私は今、この霊媒の発声器官を使っています。もし私がそうしようと思えば(エクトプラズムで)私自身の発声器官をつくることも可能ですが、エネルギーの無駄づかいになります。私の場合はこの霊媒の潜在意識を完全に支配していますから、霊媒のすべての肉体器官をコントロールすることができます。言わば霊媒の意志まで私が代行し――本人の同意を得ての話ですが――その間だけ身体を預かるわけです。通信が終わると私はオーラから退き、霊媒は意識が戻って、いつもの状態になります。


――霊媒の霊的身体を使うこともありますか。


ありますが、その霊的身体は常に肉体とつながっています。


――交霊会を邪魔しようとする低級霊集団を排除するためには、参加者にも心の準備が要りますか。


当然、要ります。何よりも大切なことは、あなた方の心と魂を「愛」で満たすことです。そうすれば同じように愛にあふれた霊以外は近づきません。


――交霊会を開くときには、霊界側でもそのための配慮をするのですか。


もちろんです。常に妨げるものがない状態にしておかなければなりません。あなた方との調和もはからなければなりません。最高の成果をあげるためには、あらゆる要素を考慮しなければならないのです。その目的のために私たちは、高度に組織された体制で臨んでいます。


――霊媒は本をよく読んで勉強し、少しでも多くの知識を得た方がよいでしょうか。それとも自分の霊媒能力に自信を持って、それ一つで勝負した方がよいでしょうか。


心霊能力の種類にもよるでしょうが、霊媒は何も知らない方がいいという意見には賛成できません。知識は、ないよりはあった方がいいと思います。知識というのは先人たちの経験の蓄積ですから、勉強してそれを身につけるように努力するのが賢明でしょう。私はそう考えます。


――立派な霊能者になるためには、霊的な生活を送る必要がありますか。


あなたがより良い生活を送れば、それだけ大霊の道具として立派になります。生活態度が高尚であればあるほど、それだけ内部に宿された神性が多く発揮されることになります。日常生活で発揮されているあなた自身の霊性が、あなたをより優れた道具にしていくのです。


――ということは、霊的に向上すればするほど霊能者としても向上すると言ってよいでしょうか。


その通りです。生活面が立派であればあるほど、霊能力も立派になります。自分を犠牲にする覚悟のできていない人間は、価値ある仕事を達成することはできません。これは、こうして霊界での生活を犠牲にして地上へ戻ってきた私たちが身をもって学んできた教訓そのものなのです。


――他界した霊からの援助を受けるにはどうすればよいでしょうか。


かつてあなたが愛し、またあなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てるようなことはありません。あなたは常に彼らの愛に包まれています。彼らにはあなたに対する愛があるため、あなたの傍(そば)を離れることはありません。

時に彼らは、誰よりも身近にいることがあります。彼らは、あなたに対して、自分たちの影響力を及ぼすこともできるのです。あなたは、そうした霊界からの働きかけを受け入れやすいときもあれば、恐怖感・悩み・心配等の念に心がとらわれて壁をつくり、彼らが近づくことを困難にするときもあります。悲しみの涙に暮れていると、その涙であなたを愛する霊たちを遠くへ押しやってしまいます。穏やかな心・安らかな気持ち・希望と信念と自信に満ちた明るい雰囲気に包まれているときには、大勢の霊が寄ってくることを実感するようになります。

私たち霊界の者は、地上の人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どの程度まで接近できるかは、その人の雰囲気、人間的成長の度合、霊的進化の程度によります。霊的なものに一切反応しない人間とは、接触できません。霊的自覚・悟り、ないしは霊的活気のある人間とはすぐに接触が可能となり、一体関係をつくることができます。

それは必ずしもスピリチュアリストとは限りません。知識としてスピリチュアリズムのことは知らなくても、霊的なことが理解できればそれでよいのです。とにかく冷静で受容的な心を保つことです。そうすれば私たち霊界の者は、あなた方に近づくことができるのです。恐れや悩みや心配の念を心に宿してはいけません。それらは心にモヤを生み出し、私たちが近づくことを困難にしてしまいます。


――愛していた人間が他界した場合、こちらから送った愛念はその霊に通じますか。


一概に「イエス」とも「ノー」とも言いかねます。魂の進化のレベルが問題となるからです。双方が精神的ならびに霊的に同じレベルであるならば通じるでしょう。が、あまりにも離れ過ぎていれば、地上からの思いは通じないことになります。


――他界した人のことをあまり心配すると、彼らの向上の妨げになるのでしょうか。


地上の人間に霊界の人間の進歩を妨げる力はありません。霊界の人間は霊界での行為によって進歩するのであって、地上の人間の行為とは関係ありません。


訳注――例によってシルバーバーチは大所高所から、つまり永遠の生命の観点から述べている。が、実際には病的なほど死者を嘆き悲しむ人間がいるのも事実で、その念が死者をいつまでも地上圏に引き留めている例は少なくない。


――どうすれば霊媒や霊視能力者になれるのでしょうか。


大霊のために自分を役立てようとする人間は皆、大霊の霊媒です。いかにして魂を向上させるか――これはもう改めて説くまでもないでしょう。これまで何回となく繰り返し説いてきたことではないでしょうか。

自分を愛するように隣人を愛することです。人のために役立つことをすることです。自我を高めるように努力することです。何でもよろしい、内部に宿る神性を発揮させることです。それが最高の霊媒現象なのです。こうすれば霊視能力者になれるという方法はありません。が、大霊の光が見えるように魂の目を開く方法なら教えられます。それは今述べた通りです。


――世俗から隔絶した場所で瞑想の生活を送っている人がいますが、あれでよいのでしょうか。


「よい」という言葉の意味しだいです。世俗から離れた生活は心霊能力の開発には好都合で、その意味ではよいことと言えるでしょう。が、私の考えでは、世俗の中で生活しつつしかも世俗から超然とした生き方をする方がはるかに上です。つまり努力と忍耐と向上を通して自己を確立したのちに、大霊から授かった霊力を同胞のために役立てるのが、より良い生き方なのです。


――世俗から離れた生活は自分のためでしかないということでしょうか。


いちばん大切なことは、他人のために己(おのれ)を捨てるということです。自分の能力を発達させようとすること自体は間違ってはいませんが、開発した才能を他人のために活用するのは、はるかに大切なことです。


――これからホームサークルをつくりたいと思っている人たちへのアドバイスをいただけますか。


ホームサークルをつくってそこに霊力を顕現させるためには、たいへんな忍耐と交霊会を継続していくための準備が必要となります。

イヤな思いをすることのない、本当に心が通い合う人々が同じ目的を持って一つのグループをつくります。そして週に一回、同じ時刻に集まり、一時間ばかり、あるいはもう少し長くてもよいのですが、祈りから始めて受動的な状態をつくります。各自が前もって、本当に自分たちは目的を達成したいと願っているか、心の内を厳しく見つめ、動機や意欲を問いたださなければなりません。

人のために役立ちたいとの動機から出発しているなら、粘り強くホームサークルを続けていくことです。もし動機が面白半分から出ているとすれば、良い結果は得られません。サークルのメンバーが一つの場所に集い、心を一つにし、霊力を顕現させようと願っているなら、そのとき霊力との触れ合いが始まり、徐々にそれが顕現するようになっていきます。

私たちの目的は、人目を引くことばかりしたがる見栄っ張りを喜ばせることではありません。人類の霊性を引き上げ、使わずに忘れ去られてきた大霊から授かった霊力をもう一度、見いださせてあげることなのです。

Saturday, July 18, 2026

シルバーバーチの教え(上)

Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳)


 


13章 再生(生まれ変わり)


〔再生は、スピリチュアリズムにおいても異論の多いテーマで、通信を送ってくる霊の間でも意見の食い違いがある。シルバーバーチは再生を全面的に肯定する一人であるが、従来の輪廻転生説のような機械的な生の繰り返しではなく、大きな意識体の別の部分が異なる時に肉体を持って誕生することであると言う。ここでは再生に関する質問にシルバーバーチが答える。〕


――一つの意識が部分に分かれて機能することが可能なのでしょうか。


今の“あなた”という意識とは別に、同じく“あなた”と言える大きな意識体(類魂)があります。そのほんの小さな一部が地球という物質界で発現しているのが、今のあなたなのです。そして、今のあなたの他にも同じ意識体を構成する他の部分が、それぞれの意識層で発現しています。


――個々の部分(霊)は独立しているのでしょうか。


独立はしていません。あなたも他の霊も、一個の「内奥(ないおう)の霊的実在(類魂)」の側面なのです。つまり全体を構成する一部であり、それぞれがさまざまな表現媒体を通して自我を発現しており、時にその霊同士が一体化することもあります。彼らは自我を発現し始めて間もない頃にはお互いの存在に気がつきませんが、そのうちすべての霊が共通の合流点を見いだして、再び統一されます。


訳注――フレデリック・マイヤースはこの時から十数年前に送ってきた最初の通信『永遠の大道』の中で同じ説を「グループ・ソウル」という呼び方で紹介し、スピリチュアリズム思想に飛躍的発展をもたらした。それからさらに十年後、ちょうど本書(原書)が出た頃に二つ目の通信『個人的存在の彼方』でさらに詳しい解説を施してくれた。シルバーバーチは、別のところで「それはマイヤースの言うグループ・ソウルと同じですか」と問われて、「まったく同じものです」と答えている。なお、このグループ・ソウルを浅野氏は「類魂」と訳した。本書も、この訳語に倣っている。


――こうした霊同士が出会っていながら、それに気づかないことがあるでしょうか。


大きな意識体(類魂)を、一つの大きな円として想像してください。大きな円(類魂)を構成する個々の霊は、その円に対して同心円を描いて回転しています。時おりその霊同士が出会い、お互いが共通の大きな円の中にいることを認識します。最後には個々の霊は回転することをやめ、それぞれの場を得て一体化し、元の円(類魂)が完成します。


――二つの霊が連絡し合うことはできますか。


その必要があればできます。


――二つの霊が同時に地上に誕生することがありますか。


ありません。それは全体の目的に反することだからです。個々の霊の再生の目的は、あらゆる界層での体験を得るということです。同じ界層へもう一度戻るのは、それなりの成就すべき(埋め合わせをすべき)ことが残っている場合に限られます。


――類魂では、個々の霊はその進化に自らが責任を負い、他の霊が学んだ教訓による恩恵は受けないというのは本当でしょうか。


その通りです。個々の霊は一つの大きな意識体(類魂)の構成分子であり、さまざまな形態で自我を発現しているわけです。進化するにつれて個々の霊は大きな意識体を自覚するようになります。


訳注――マイヤースは「類魂」の説明の中で他の仲間の体験を自分のものにすることができると述べている。ここでシルバーバーチはそれを否定するかのようなことを述べているが、マイヤースが言及しているのは、地上体験の共有化による霊的成長についてである。それに対し、シルバーバーチがここで述べているのは、個人が犯した罪の償いと霊的成長についての関係である。たとえ同じ類魂の仲間とはいえ、他の霊が地上で犯した罪を代わって償い、霊的成長を促すことはできないという意味に解釈すべきである。


――そして、進化のある一点において、それらの霊が一体となるわけですね?


そうです。無限の時を経てのことですが……。


――個々の霊の地上への誕生は一回きり、つまり大きな意識体(類魂)としては再生の概念が当てはまっても、個々の霊には再生はないという考えは正しいでしょうか。


再生は個々の霊の成就すべき目的に関わる問題です。特殊な使命がある場合など、同じ霊が二度も三度も再生することがあります。


――一つの意識体の異なる部分とは、どういうものでしょうか。


これは説明の難しい問題です。あなた方には「生きている」ということの本当の意味が理解できないからです。あなた方にとっての生命とは、実は最も進化の低い形態で顕現しているものなのです。あなた方の考えが及ぶすべてのものを超越している生命の実相を思い描くことはできません。

宗教家が高次の神秘体験をしたと言い、芸術家が最高のインスピレーションに触れたと言い、詩人が恍惚(こうこつ)たる喜悦に浸ったと言っても、私たち霊界の者からすれば、それは実在のかすかな影を見たにすぎません。あなた方は、物質世界の鈍重さによって自己を表現することを制限されているため、生命の実相を理解することができません。それなのにどうして、「意識とは何か、どのようにしたら自分を意識できるようになるのか」といった問いに答えられるでしょうか。

私の苦労を察してください。譬えるものがあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれがなく、あなた方にはせいぜい、光と影、日向(ひなた)と日陰の比較くらいしかできません。地上界の虹の色は確かに美しいですが、それとて地上人の理解を超えている霊界の色彩と比べることはできません。


――個々の霊の一つひとつを、大きな意識体のさまざまな特性・人間性の側面と考えてもよいでしょうか。


いいえ、それはまったく違います。大きな意識体の別々の側面ではありません。どうもこうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の青く澄み切った空の美しさを説明するようなもので、譬えることができません。


――あなたの言う大きな意識体は、マイヤースの言う「類魂(グループ・ソウル)」と同じものですか。


まったく同じものです。ただし、単なる個々の霊の集まりとは違い、異なる意識から形成された統一体(大きな意識体)で、その全体の進化のために各自が体験を求めて物質界にやって来るのです。


――それぞれの霊は類魂に戻って一体化すると、個性を失ってしまうのでしょうか。


川の水が大海へ流れ込んだとき、その水の存在は失われてしまうでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏しているとき、バイオリンの音は消えてしまうでしょうか。


――なぜ、霊界サイドから再生の証拠を提供してくれないのでしょうか。


こうした「霊言」という手段では説明のしようがない「再生の問題」についての証拠など、示すことができるでしょうか。あなた方の意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になって初めて、それを認めることができるのです。こちらの世界にも“再生はない”と言う者が大勢いますが、それは彼らが、まだ再生の事実を受け入れることができる意識段階に達していないからです。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに説明することができるでしょうか。芸術家がそのインスピレーションの体験をまったく芸術的センスのない人に説明できるでしょうか。意識の段階が違うのです。


――再生するときは、魂(霊)はそれを知っているのでしょうか。


魂自身は直感的に知っていますが、知的にそれを知っているわけではありません。魂(大霊の分霊)は、永遠の時の流れの中で一歩一歩、徐々に自らを発現させていきます。しかしどの段階であっても、発現されていない部分が大半を占めています。


――では、魂は無意識のまま再生するのでしょうか。


それは、魂の進化の程度によります。多くの魂は再生する前にそれを知っていますが、知らない魂もあります。魂は知っていても知的には意識しないまま再生することもあります。これは生命の神秘中の神秘に触れる問題であり、とうてい地上の言語で説明できるものではありません。


――生命がそのように絶え間なく変化し進歩するものであるなら、生まれ変わりが事実だとしても、どのようにしたら霊界へ行ったとき地上で愛し合っていた人々と会い、地上で約束した再会の喜びを味わうことができるのでしょうか。


愛は必ず成就します。なぜなら愛こそが宇宙最大の力だからです。愛する者同士は常に、愛の絆によって引き寄せられます。愛で結ばれた者たちを引き裂くことは、絶対にできません。


――でも、再生を繰り返せば、互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが……。


一致しないのは、あなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念でしょう。宇宙とその法則は大霊によって造られたものであり、大霊の子供であるあなた方がつくったものではありません。賢明な人間は新しい事実を前にすると自分の考えを改めます。自分の思い通りにしようとしても、その事実を変えることはできないことを知っているからです。


――これまで何度も地上生活を体験していることが事実だとすると、もっと進化し、理想的な人間になっているはずだと思うのですが……。


物質界にあっても聖人は聖人であり、最下等の人間は最下等の人間なのです。地上だから、霊界だからということで違いが生じるのではありません。要は魂の進化の問題です。


――これからも、これまでのように苦難の道が無限に続くのでしょうか。


そうです。無限に続きます。苦しみや困難という試練を通して内部の大霊(神性)が開発されます。苦難によって神性は試されるのです。金塊がハンマーで砕かれ精錬されて初めてあの輝きを見せるように、内なる神性も苦難の試練を受けて純化され、強化され、洗練されることになります。


――そうなると、死後に天国があるという考えは意味がないのでしょうか。


今日のあなたには天国のように思えることが、明日は天国とは思えなくなるものです。というのは、真の幸福は今より少しでも高いものを目指して不断の努力をするところにあるからです。


――再生するときは前世と同じ国(民族)に生まれるのでしょうか。例えばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に……。


そうとは限りません。さらなる進化のために最適と思われる国や民族を選びます。


――男性か女性かの選択も同じですか。


はい、同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。


――死後、霊界で地上生活の償いをさせられるだけでなく、地上に再生してからも同じ罪を償わなければならないというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのでしょうか。


それは償うとか罰するとかの問題ではなくて、進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているかどうか、魂の教育と向上という一連の鎖を強化する必要があるかどうかということです。必ずしも罪の償いのためではなく、欠けている部分を埋める目的で再生する場合がよくあります。魂を鍛えるためであったり、前世で学べなかった教訓を学ぶために再生する場合もあります。再生は罪の償いのためだけとは限りません。二度も三度も罰せられるというようなことは決してありません。大霊の摂理を知れば、その完璧さに驚かれるはずです。なぜなら摂理を造られた大霊そのものが、完全な存在だからです。


――自分はこれまでに地上生活を何回経験しているかということが、明確に分かる霊がいますか。


います。それを知ることが必要な段階にまで成長すれば、分かるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることができないのと同じです。名前をいくつか挙げてもけっこうですが、それでは何の証拠にもなりません。何度も言ってきましたが、再生の事実は「説く」だけで十分です。

私は大霊の摂理について私なりに理解したことを述べているのです。知り得たかぎりの真理を述べているにすぎません。私の語ることに得心がいかない人がいても、それはいっこうにかまいません。ありのままの事実を述べているだけですから、受け入れてもらえなくてもかまいません。私と同じだけの年数を生きたなら、その人もきっと考えが変わることでしょう。


――異論の多い再生の問題を避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼることはいかがでしょうか。


闇の中にいるよりは、光の中にいる方がよいでしょう。無知のままでいるよりは、知識を得た方がよいでしょう。大霊の摂理について知らないよりは、知った方がよいでしょう。何もしないでじっとしているよりは、真実を求めて忍耐強く努力する方がよいでしょう。進歩のために努力し続けることが大切なのです。死後にも生命が存続することを知ったからといって、真理探求の道が終わったわけではありません。自分が大霊の分霊であり、それゆえに何の支障もなく死の関門を通過し、すべてが続いていくことを理解したとき、さらなる探求の歩みが始まります。それが本当の意味での出発なのです。

Friday, July 17, 2026

シルバーバーチの教え(上)

Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳)


 

12章 睡眠中は何をしているのか


〔睡眠中に体験したことを翌朝になって思い出せる人が何人いるであろうか。もし睡眠中に霊界で活動しているのなら、肉体に戻ったときにその間のことを少しは思い出してもよさそうなものである。シルバーバーチはここで、なぜ睡眠中の体験が脳に記憶されないのか、その理由を述べている。〕


実は、すべての人間が睡眠中に霊界を訪れています。これは霊的身体を死後の環境に適応しやすくするための大霊の配慮の一つなのです。その体験は、いよいよ肉体との縁が切れたときにショックを和らげてくれます。そして地上時代に霊界を訪れたときの記憶が徐々に蘇り、新しい環境への適応が促進されるようになるのです。それはちょうど地上生活の中で、子供の頃の体験を思い出すようなものです。

物質界では(脳を中枢とする)小さな意識しか持てないため、より大きな霊的意識の中で生じたことを思い出すのは困難です。あなた方は死ぬまで、本当の意味で生きているとは言えないのです。しかし時に地上界でも、覚醒中に背後霊との一体化がなされ、一瞬の間ではあっても物質界では味わえない天上的な至福感に浸ることがあります。

霊性のレベル、いわゆる霊格は、魂の進化の程度によって決まります。霊界では誰もが行きたい所へ行けますが、それには霊性のレベルによる制約があります。ある者は睡眠中に暗い界層へ行きます。この場合、二つのケースが考えられます。一つは、その人の霊性のレベルが低いために、親和力によってそれに見合った環境へ惹きつけられるケースです。もう一つは、霊性の高い人が(低い界層の霊たちを)救済するために、自ら願って出向くケースです。

死後の世界では、肉体に宿った(睡眠中の)地上人の霊が、低級霊の救済に役立つことが多いのです。バイブルにもイエスがいわゆる“地獄”へ降りていった話があります。この場合は睡眠中ではありませんが、原理的には同じことです。

訓練によって睡眠中のことを思い出せるようにすることは、不可能ではありません。しかしそれには、霊的意識を脳の細胞に印象づける訓練をしなければならないため、かなりの努力が要求されます。睡眠中の体験を思い出すことは物的身体と霊的身体との連携がどれほど緊密かによって決まるため、人によって難しさの程度が異なります。睡眠中の体験を容易に思い出せるようになる人は、優れた精神的霊媒(主観的心霊現象に関わる霊媒)になれる素質を持った人と言えます。
質疑応答


――死んでから低い界層に行った人はどんな状態なのでしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたときのこと――多分低い界層だろうと思いますが――を思い出すのでしょうか。そしてそれがその人の死後の世界への適応に役に立つのでしょうか。


低い界層へ惹きつけられていく人は、睡眠中にその界層を訪れているのですが、そのときの記憶は死を自覚するうえでは役に立ちません。なぜならそうした人が目覚める界層は、地上ときわめて似ているからです。死後の世界は低い界層ほど地上によく似ています。バイブレーションが粗いからです。高い界層ほどバイブレーションが精妙になります。


――朝、目覚めて、睡眠中の霊界での体験を思い出すことがあるのでしょうか。


睡眠中、あなた方の霊は肉体から抜け出ていますから、当然、脳から解放されています。脳はあなた方を物質界につなぎ止める肉体器官です。睡眠中、あなた方は魂の発達程度に応じたバイブレーションの世界での体験をします。その時点ではあなた方はそこでの体験を意識しているのですが、肉体に戻って睡眠中の体験を思い出そうとしても思い出すことはできません。それは、霊界での体験の方が地上よりも大きいからです。小さなものは、大きなものを包むことはできません。そのために歪(ゆが)みが生じるのです。

譬えて言うならそれは、小さな袋の中に無理やり多くのモノを詰め込むようなものです。袋には容量があり、無理やり詰め込むと、モノの形は歪んでしまいます。それと同じことが、あなた方が霊的世界から肉体に戻るときに生じるのです。ただし魂がすでに進化しており、意識がある段階に到達している場合には、霊界での体験を思い出せるようになります。脳を訓練することができるからです。

実を言いますと、私はここにおられる皆さんとは、睡眠中によく会っているのです。その際、私は「地上に戻ったら、今体験していることを思い出してください」と言うのですが、どうも思い出してくださらないようです。皆さん方、一人ひとりに会って、あちらこちらを案内しているのです。でも、今は思い出してくださらなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから……。


――こうした霊的体験の記憶は、私たちが死んでそちらへ行ったときに役に立つということでしょうか。


そうです。何ひとつ無駄にはなりません。摂理は完璧です。長年、霊界で生活を送ってきた私たちは、神の摂理の完璧さにただただ驚くばかりです。大霊を非難する地上の人間のお粗末なセリフを聞いていると、まったく情けなくなります。知らない者ほど己の無知をさらけ出すものです。


――睡眠中に仕事で霊界へ行く人もいるのでしょうか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的でしょうか。


仕事をしに来る人は確かにいます。霊界には、地上人が睡眠中に貢献できる仕事があるからです。しかし、大抵は死後の準備のためです。地上界を去った後、霊界ですることになっている仕事の準備のために、睡眠中にしかるべき所へ連れていかれます。そうした準備をしないでいきなり霊界へ来ると、ショックが大きくて回復に時間がかかってしまいます。

地上時代から霊的知識を知っておくと霊界への適応が容易になる、と言われるのはそのためです。霊的知識を知らなかった人は、霊界に適応できるようになるまで長い期間、眠った状態に置かれます。あらかじめ知識があれば地上から霊界への移行がスムーズになされ、新しい自覚が早く得られるようになります。

それはちょうど、ドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光のまぶしさに慣れなければなりません。闇の中にいた人が光に慣れるには時間がかかります。地上の赤ん坊のよちよち歩きと同じです。彼らには地上時代の体験の記憶はあっても、夢を思い出しているような状態なのです。

いずれにしても体験というものは、地上であれ霊界であれ、何ひとつ無駄なものはありません。そのことをよく胸に刻み込んでおいてください。


――夢について説明していただけませんか。どう考えても霊界での体験の記憶とは思えないものがありますが……。


夢には数えきれないほどの種類があります。(幽体離脱中の)脳の残像の反映にすぎないものとか、食べたものの影響など、物理的に説明のつく夢もありますが、そうしたものの他に、霊界での体験が断片的な形として記憶され、それが夢になっているものがあります。

夢が支離滅裂になりがちなのは、肉体の制約から離れて霊界へ行っていた人間が、再び肉体に戻ってその体験を思い出そうとすると、物質的制約の中でそれが歪んでしまうからです。


――睡眠中の人間に働きかける霊は、自分の働きかけがきちんとその人間の意識に印象づけられたかどうか分かるものでしょうか。


いいえ、必ずしも分かってはいません。それはこうした交霊会(入神談話)も同様で、どの程度まで伝わっているかは、その時点で判断がつくとは限りません。睡眠中の体験の印象づけも同じことです。


――もし私たちが、睡眠中に指導霊としばしば会っているとするなら、交霊会での話の中でそれについて言及することが少ないのはなぜでしょうか。


言及しているのです。皆さんはいつか、睡眠中の体験が自分の魂の中に記憶されていることを知るでしょう。たとえ今は脳を介して睡眠中の記憶を思い出せなくても、いずれそのことを知るようになるでしょう。そのうちその記憶が蘇ってくる日がきます。今は分かっていなくても、霊界での体験は事実だからです。


――睡眠中は、私たちの霊は肉体を離れていて、その間の肉体は言わば“空き家”になっているわけですが、そのようなときに地縛霊に侵入されたり憑依されたりしないための仕組みがあるのでしょうか。担当の背後霊が憑依されないように監視してくれているのでしょうか。


当人に憑依される原因がある場合は別として、睡眠中に低級霊に憑依されることがないのは、そのようにならない法則があるからです。

自我の本体である霊は、肉体の中に存在しているのではありません。霊は肉体とはバイブレーションが違っており、内側にあるとか外側にあるというようなものではありませんし、心臓と肺の間に挟まれて小さくなっているというようなものでもありません。本来のあなたは、地上で肉体器官を通して自我を表現している「意識体」なのです。

睡眠中の体験のすべては、その「意識体」が肉体ではなく霊体を通して自我を表現しているのであって、その間は霊界にいるわけです。その間に、その肉体に他の霊が入り込むようなことはありません。肉体のドアを開けて外出している間に別の者が入り込んでドアを閉めてしまうようなことはありません。「意識体」は睡眠中に肉体から霊体へと移行しますが、その際も相変わらず肉体を管理しており、肉体に戻る時間がくれば再び脳とつながった意識をすぐに取り戻します。


――ということは、憑依する霊は憑依される人間の霊の許しを得て侵入するということでしょうか。


そうではありません。憑依されるのはその人間の内部に憑依を引き起こす原因があってのことで、それぞれの人間の問題なのです。

あなた方の心が愛と奉仕の精神に満たされているときは、あなた方を道具として用いようとする高級霊が引き寄せられます。憑依もそれと同じ法則によって発生します。法則は善の方向だけに働くのではなく、悪の方向にも働きます。最高の奉仕のために働く法則は、悪なる行為にも働くのです。あなた方は高く上がることができますが、低く堕ちることもできるのです。どちらも同じ法則(親和性の法則)の働きです。その法則は、あなた方の選択に応じて働きます。


――予知的な夢は、そちら側から伝達されるのでしょうか。


そういうこともあります。愛の絆で結ばれた霊からの警告であることもあります。他に、物的束縛から放たれた霊的身体が未来の出来事を感知して、それを夢の形で持ち帰ることもあります。


――睡眠中は霊が肉体から離れているのに、肉体はどのようにして生気を保ち、死なないようになっているのでしょうか。


霊はシルバーコードで肉体とつながっているため、霊の意識は肉体に反映されるようになっています。シルバーコードが切れて霊と肉体とのつながりがなくなれば、霊は肉体を生かすことはできなくなってしまいます。


――麻酔をかけられている間、霊はどこにいるのでしょうか。


それは分かりません。どこかにいるのでしょう。どれくらい遠くへ行けるか、どんな所へ行くかは、その人の魂の進化の程度によって違ってきます。


――脳の障害によって生じた無意識状態と睡眠中の無意識状態とでは、何か違いがあるのでしょうか。


もちろんです。障害による無意識状態は、霊と肉体との正常な関係が妨げられることによって発生します。一方、睡眠は自然な生理現象で、霊は夜になると肉体のバイブレーションが下がることを知っていて、霊界へ行く準備をします。前者は物的身体に障害を与える異常現象であり、後者は正常な人間の営みの一部です。睡眠の場合は霊は自発的に肉体を離れますが、障害による場合は肉体が正常に機能しないため、霊は無理やり肉体から追い出される状態になります。

Thursday, July 16, 2026

シルバーバーチの教え(上)

Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳)


 

11章 死後の世界


〔シルバーバーチはよく、死後の世界の素晴らしさを語る。さらに、我々地上人が睡眠中にしばしばそこを訪れている事実を明らかにしている。残念なことに大半の人間は目覚めたとき、睡眠中の体験を思い出すことができないと言う。〕


私たちがお届けする霊の世界からの贈り物の意味を正しく理解すれば、私たちが地上界へ降りて仕事をするのは、あなた方に対する愛の思い以外の何ものでもないことがお分かりになるはずです。

あなた方はまだ、霊の世界の本当の素晴らしさを知りません。肉体の牢獄から解放され、望む所へは自由に行け、心で考えたことが形を取って眼前に現れ、好きなことにいくらでも専念でき、お金の心配がない……こうした霊界の生活と比べることができるものは、地上には存在しません。あなた方はまだ霊的世界の喜びを味わったことがないのです。

地上の人間は、美しさの本当の姿を理解することはできません。霊の世界の光、色彩、景色、樹木、小鳥、川、渓流、山、花、こうしたものがどれほど美しいか、あなた方はご存じありません。

地上の人間にとって「死」は、恐怖の最たるもののようです。が、人間は死んで初めて生きることになるのです。あなた方は自分では立派に生きているつもりでしょうが、実際にはほとんど死んでいるも同然です。霊的なことに対しては死人のごとく反応を示しません。小さな生命の灯火(ともしび)が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことにはいっこうに反応を示しません。ただ、徐々にではあっても進歩しています。私たちの働きかけによって、霊的な勢力が物質界に増えつつあります。霊的真理の光が広まることによって、暗闇は後退しつつあります。

霊の世界は地上の言語では表現できません。譬えるものが地上界には見いだせないのです。あなた方が“死人”と言っている霊界の者たちの方が、あなた方よりも生命の実相について、はるかに多くのことを知っています。

こちらの世界に来て、芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることができるようになります。画家も詩人も大きな夢を達成することができます。与えられた才能を思う存分発揮することができるようになるのです。こちらの世界では、あらゆる才能や素質は、お互いに奉仕するために用いられます。霊界における以心伝心の素晴らしさは、ぎこちない地上の言語ではとても表現できません。心に思うことが霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。

こちらには、金銭の心配がありません。生存競争というものがありません。弱者がいじめられることもありません。霊界での強者とは、弱者に手を差し伸べる力があるという意味だからです。失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。教典もありません。あるのは大霊の摂理だけです。

物質圏へ近づくにつれて、霊は思うことが表現できなくなります。正直に言って私も、地上界へ戻るのは気が進みませんでした。それなのにこうして戻ってくるのは、地上界のために役立ちたいとの約束をしたからであり、あなた方地上人に対する愛があるからです。あなた方への奉仕が、私に喜びを与えてくれるのです。

死ぬということは決して悲劇ではありません。むしろ地上で生きている方が悲劇です。大霊の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もない状態になっていることこそ悲劇なのです。

死は、肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由の喜びを満喫するようになることです。苦しみから解放されて霊本来の姿に戻ることが、本当に悲劇でしょうか。天上的色彩を眺め、物質的表現を超越した天上の音楽を聴けるようになることが悲劇でしょうか。痛みのない身体で自己を表現し、一瞬のうちに世界中を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなた方は悲劇と呼ぶのでしょうか。

地上のいかなる天才的画家も、霊の世界の壮大で美しい眺めを絵の具で描き出すことはできません。いかなる天才的音楽家も、その音楽の素晴らしさを音符で表現することはできません。いかなる名文家も、霊界の美の一端さえ地上の言語で書き表すことはできないのです。そのうちあなた方も、こちらの世界へ来られます。そしてそのすべてに驚嘆なさることでしょう。そのときあなた方は、真の意味で霊界を知ることになるのです。

地上は今まさに五月、辺りは美に包まれています。皆さんは大霊の顕現を至るところで目にしています。生命の息吹が辺り一面に広がっています。そして皆さんは花の美しさや芳香に触れて、神の御業(みわざ)は何と偉大なことかと感嘆しています。

しかし、その美しさも霊の世界の美しさと比べるならば色あせて見えます。霊の世界には、地上の誰ひとり見たことがない花があり、色彩があります。地上にはない風景や森があり、小鳥もいれば植物もあります。小川もあれば山もありますが、どれ一つ取っても、地上のそれとは比較にならないほど美しいのです。

そのうち皆さんも、その美しさを味わえる日がきます。そのときは、いわゆる「幽霊」になっています。
質疑応答


――霊的知識がないまま他界した者でも、こちらからの思いやりや祈りの念は届くのでしょうか。


死後の目覚めは理解力が芽生えたときに起こります。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でも私たちは、無知と誤解と迷信、間違った教義と神学をなくすために戦わなければなりません。それらは、死後の目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれるまでは、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかはありません。そのための長い長い休息が必要となります。

また、地上に病院があるように、こちらでも魂に深い傷を負った人たちを看護する施設があります。一方、地上時代に他者への奉仕に励み、他界に際して多くの人々から愛情と祈りを受けるほどの人物は、そうした人々の善意の波動によって目覚めが促進されるようになります。


――死後の生命を信じず、死ねば終わりだと思っている人はどうなりますか。


死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてから死後の世界の事実に直面することになります。目覚めるまでにどのくらい時間がかかるかは、魂の進化の程度によって違います。すなわち霊性がどれだけ発達しているか、新しい環境にどこまで順応できるかにかかっています。


――死ねばすべて終わりだと思っている人の死のプロセスには、困難がともないますか。


それも魂の進化の程度によります。一般的には、地上から霊界への移行に困難はともないません。大抵の人間は、死の瞬間を無意識状態で迎えるからです。死ぬときの様子を自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます。


――善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎(とが)めを受けるでしょうか。


私にはその「善人」とか「悪人」とかの意味が分かりませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、どれだけ内部の神性を発揮したかにかかっています。大切なことはそれだけです。知識はないよりはあるに越したことはありません。が、その人間の真価は、毎日をどう生きたかによって決まるのです。


――霊界では、愛する人と再会したり若返ったりするのでしょうか。イエスは「天国では娶(めと)ったり嫁いだりすることはない」と言っていますが……。


地上で愛し合った男女の間に真実の愛があり、その愛が二人を霊的に一つにし、霊的進化のレベルが同じである場合には、死が二人を引き離すことはありません。死は、魂にとってより自由な世界への入り口のようなものですから、二人の結びつきは地上にいたときよりも、いっそう強くなります。

しかし、二人の結婚が魂の結びつきではなく肉体の結びつきにすぎず、しかも両者の魂の進化のレベルが異なる場合には、死は両者を引き離すことになります。二人はそれぞれの進化のレベルに合った界層へ惹かれていくことになるからです。

もし二人に真実の愛があれば、霊界では若返ったり年を取ったりしないことが分かり、成長・進化・発達という体験をすることになるでしょう。こうしたことは魂の問題であって、肉体の問題ではありません。

イエスが「娶ったり嫁いだりすることはない」と言ったのは、地上のような肉体上の結婚(結びつき)のことを言ったのであって、魂の結婚についてではありません。男女といっても、あくまでも男性に対する女性、女性に対する男性のことです。物質の世界ではこの二元の原理が完璧に貫かれていますが、霊の世界では界層が上がるにつれて男女の差は薄れていきます。


――死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪がいちばん多いですか。


もちろん霊界でも罪を犯すことがあります。霊界における罪とは「利己主義の罪」です。こちらの世界では、それがすぐに表面に出ます。心で思ったことがすぐさま人に知られてしまうのです。原因に対する結果が、地上よりはるかに速く出ます。したがって醜い心(利己的思い)を抱くと、それが瞬時に容貌全体に表れて、霊的に低くなってしまいます。霊界での罪とは何かを地上の言語で説明するのは難しく、「利己主義の罪」と呼ぶ以外によい表現が見当たりません。


――死後の世界は地上界に比べて実感があり、立派な支配者、君主、または神の支配する世界であることは分かりましたが、こうした天界の王国についての歴史は昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか。


霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。しかし、こちらの世界には地上で言うような支配者はいません。霊界の支配者とは唯一、自然法則すなわち「大霊の摂理」だけです。また霊の世界は、境界線によってどこかで区切られているわけではありません。進化のレベルの低い界層から高いレベルの界層へとつながっていて、その間に境界はなく、すべての界層が一つに融合しています。霊格が向上するにつれて、高い界層へと上昇していきます。


――地上で孤独な人生を余儀なくされた者は、死後も同じような人生を送るのでしょうか。


いいえ、そんなことはありません。大霊の摂理は常に完璧です。人間は自分で種を蒔き、その結果を収穫します。摂理に反した種を蒔けば、自ら罰をつくり出すことになるのです。霊界では愛がお互いを引き寄せることになるため、愛によって結ばれた人間同士は、こちらで再会を果たすことになります。


――霊界では、シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロなどの歴史上の天才的人物に会うことができるでしょうか。


特に愛着を感じ慕っている人物には、大抵の場合、会うことができるでしょう。生前、世の中のために役立つことをしたことで人々から愛されてきた人間は、その愛が共感の絆をつくり出し、それが霊界で両者を引き寄せることになります。


――肉体を脱ぎ捨ててそちらへ行っても、霊界には地上世界のようなしっかりとした実感があるのでしょうか。


地上よりはるかに実感があり、しっかりとしています。本当は地上の方が実感がないのです。地上界は霊界の影にすぎません。霊界こそが実在の世界であり、こちらへ来るまでは本当の実在感を理解することはできないのです。


――ということは、地上の環境が地上人の五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊にとっては自然で現実的なものに感じられるということですか。


地上よりもはるかに実感があります。こちらの方が実在なのですから。現在のあなた方は、いわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられ、四方を囲まれています。地上では、本当の自分のほんの一部分しか表現できません。


――霊界では意念で通じ合うのですか、それとも地上の言語のようなものがあるのでしょうか。


意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます。


――急死した場合、新しい環境にすぐに慣れるでしょうか。


魂の進化の程度によります。


――呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのでしょうか。


魂に意識がある場合(霊性が発達している人の場合)は、霊的身体が徐々に肉体から抜け出るのが分かります。すると霊的な目が開き、自分を迎えに来てくれた人たちの姿が見えます。そしてすぐに新しい生活が始まります。

魂に意識がない場合は、看護に来てくれた霊の援助によって適当な場所、例えば病院とか休息所に連れていかれ、そこで新しい環境に慣れるまで手当てを受けます。


――地上で愛し合いながら社会的因習などで一緒になれなかった者も、死後は一緒になれますか。


愛し合う者たちから愛を取り上げることはできません。


――すでに他界している肉親や親戚の者とも会えますか。


彼らとの間に愛があれば会えます。愛がなければ会えません。


――死後の生命は永遠ですか。


生命はすべて永遠です。なぜなら生命とはすなわち大霊のことであり、大霊は永遠の存在だからです。


――あなたが住んでおられる界層は、地球とか太陽とか惑星とかを取り巻くように存在しているのでしょうか。


そのいずれも取り巻いてはいません。霊界の各界層は地理的に区切られているわけではありません。天体とか惑星のような形をしているわけではありません。霊界の界層は、無限の霊界の一部分なのです。それぞれの界層は融合していて、すべての界層でさまざまな形態の生活が営まれています。あなた方は(スピリチュアリズムのお蔭で)そのうちのいくつかを知ったわけですが、まだあなた方には知らされていない生命活動が営まれている界層がたくさんあります。


――霊の世界にも、地球と同じようにマテリアルな中心部というものがあるのでしょうか。


私という存在はマテリアルなものでしょうか。男女の愛はマテリアルなものでしょうか。芸術家のインスピレーションはマテリアルなものでしょうか。音楽の鑑賞力はマテリアルなものでしょうか。こうした問いに対する答えは、あなたのおっしゃる「マテリアル」という用語の意味によって違ってきます。実感のあるもの、実在性を有するものという意味でしたら、霊の世界はマテリアルなものという答えになります。霊とは生命の最奥(さいおう)の実在だからです。あなたがおっしゃるのは「物質的なもの」という意味だと思いますが、それはその実在を包んでいる「殻」のようなものにすぎません。


――霊の世界も中心部は地球と同じ電磁場ないしは重力場の中に存在していて、地球と太陽の動きとともに宇宙空間を運行しながらヘラクレス座の方向へ向かっているのでしょうか。


霊の世界は地球の回転による影響は受けません。したがって霊の世界には、昼と夜の区別はありません。太陽のエネルギーは地球が受けているだけで、私たちには関係ありません。重力(引力)の作用も地上界の物質が受けるだけで、霊の世界とは無縁です。霊的法則とは別のものです。


――霊界での移動のスピードには限界がありますか。


霊界での移動には時間と空間の制約はありません。霊界の生活に慣れた者には、時間と空間の制約はないのです。各自の思念と同じ速さで、どこへでも行くことができます。霊界では、思念は実在性を持っているのです。霊界に住む者にとっての移動のスピードは、各自の霊性の高さによって制約され、自分の霊的レベルを超えることはできません。また、各自は自分が到達した界層よりも高い界層へ行くこともできません。それが霊にとっての限界です。霊的世界における限界なのです。


――人間的存在が居住するすべての天体には、それぞれ別々の霊界があるのでしょうか。


あなた方の言う「霊界」というのは宇宙の霊的側面のことで、それはあらゆる界層において顕現しているすべての生命を包含しています。


――霊界はたった一つだけですか。


霊の世界は一つです。しかし、その表現形態は無限です。地球以外の天体にも、それぞれ霊の世界があります。いずれの天体も物的領域だけでなく、霊的領域を持っているのです。


――その分布状態は地理的なものですか。


地理的なものではありません。精神的段階によるものです。もっとも、ある程度は物的なものによっても影響を受けています。


――霊界での分布とは、霊界の界層と同じ意味でしょうか。


その通りです。霊界では、物的条件によって影響を受けないような進化の段階に至るまでは、皆さんが考えるようなさまざまな「界層」が存在します。


――霊界では、幼くして他界した我が子がすぐに分かるものでしょうか。


分かります。親が我が子だと分かるように、子供の姿を装って見せてくれるからです。子供の方はずっと両親の地上生活を見ていますから様子がよく分かっており、親が他界したときには真っ先に迎えに来てくれます。


――例えば死刑執行人のような罪深い仕事に携わっている人は、霊界でどのような裁きを受けるのでしょうか。


もしもその人が、いけないことだ、罪深いことだと知っていたなら、それなりの報いを受けるでしょう。しかし、悪いことだと思わずにそれをしていたのであれば、別に咎めは受けません。


――動物を殺して食べるということについてはどうでしょうか。


動物を殺して食べるということに罪の意識を覚える段階まで魂が進化した人間であれば、悪いと知りつつやることは、何事であれ許されません。やはりそれなりの報いを受けます。その段階まで進化しておらず、悪いとも何とも感じない人は、別に罰は受けません。知識には必ず代償がともないます。責任という代償です。

Wednesday, July 15, 2026

シルバーバーチの教え(上)

Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳)



10章 霊的進化の道を歩む神の子供たち

〔キリスト教の神学者たちは「原罪(人間の堕落)」を説く。しかしシルバーバーチはそれを否定し、人類は誕生以来、ずっと進化の道をたどっており、その歩みに終着点はないと明言する。(原罪とは、最初の人類であるアダムとイブが神の掟を破ったところから発生し、人間は皆、その子孫として生まれながらに罪を負うようになったとする説――訳注)〕


種子が暗い土の中に埋められるのは、養分を摂取して発芽後の成長に備えるためです。それと同じく、人間の生命の種子が物質界という暗黒の世界に生まれてくるのは、霊界へ戻ってからの進化に備えて地上生活での体験を積むためです。

地上人生のあらゆる体験は、大きな計画の中の一つです。落胆・挫折・悲しみ・痛み……これらは人間的心情からすればあって欲しくないものかもしれませんが、魂の進化にとっては、とても貴重な体験なのです。

しかしあなた方は、その体験の最中(さなか)にあってはそうは思えないでしょう。人生体験の価値を明確に認識できるようになるのは、こちらへ来て地上人生の一部ではなく、全体を振り返ることができるようになったときです。さまざまな逆境を通して人間性が試され、悲哀を通して魂が強化されたことを知るようになるのです。

私たちは地上人生を、地上的視点ではなく霊的視点から眺めます。賢明な人間とは、すべての体験を魂の養分として摂取しようとする人のことです。辛いことや煩悩(ぼんのう)の誘惑に流されず、心の奥深くにある霊的な力を活用して困難に立ち向かおうとする人のことです。そうした精神で臨んでこそ、人間性が磨かれ強化されるのです。

摂理は完璧であり、自動的に働きます。誰ひとり摂理から逃れることはできません。自由意志そのものでさえ摂理の一つであり、その摂理の働きは一定の進化の段階に至っている者には明瞭に見て取ることができます。

自由意志を行使できるといっても、あくまでもあなた方が到達した進化の段階の範囲内でのことです。何でも思うようにできるというものではなく、各自が到達した進化のレベルによって制約を受けるのです。

あなた方は大霊の一部であり、発現すべき無限の神性を秘めています。その神性が発現した分だけ、より高い次元の摂理との関わり合いが生じます。その摂理は、それまでの低次元の摂理と矛盾するものではありません。霊性が進化したために関わり合うことになった摂理です。

無限とは、文字どおり“限りがない”ということです。美の完全性にも音楽の壮麗さにも限りというものはありません。霊性が進化するにつれて、より高度な美と調和の世界を自分のものにすることができるようになります。魂が向上するにともない、もっと素晴らしい調和の世界が待ち受けているのです。

低い次元にいる者が高い次元の世界を理解することはできません。が、高い次元にいる者は低い次元の世界を理解することができます。宇宙の全側面をつかさどっている摂理は自動的に働きますが、それぞれの次元で作動している摂理との関わりは、その次元まで霊性を高めないかぎり生じません。

あなた方はこれまでの霊的成長によって、今後の成長の道を選択することになります。しかしあなた方は、霊的成長を遅らせるような選択をすることもできるのです。その時点における方向性は、さまざまな摂理の相互作用によって自動的に決定します。あなた方の意識は進化のレベルに応じて変化し、それによって選択がなされます。魂が目覚めていれば進化を促す方向を選ぼうとしますが、肉体の脳を通して顕現している意識(顕在意識)は、それに歩調を合わせることができません。

あなた方は、霊性の進化を通して自然の法則(摂理)を学んでいきます。何よりもまず、事実に反するもの、理性が反発するもの、大霊の愛と叡智に一致しないものを、すべて捨て去ることを学ばなければなりません。新たな知識を取り入れるに先立って、それまでの間違った知識を捨て去らなければなりません。正しい思考を妨げるものを、すべて取り除かなければなりません。そうしてようやく魂が成長し、より高次の知識を取り入れる用意ができることになるのです。

このサークル(交霊会)に出席している皆さんは、魂が成長し、大霊の無限の叡智に接する機会が多くなっています。霊的現象を演出するための法則や、日常生活に関連する法則についても学んでいます。あなた方は進歩するにつれて、より多くの知識を手にすることができるようになるのです。

皆さんからシルバーバーチと呼ばれているこの私がお届けしている知識は、無限の界層に存在する知識のうちのごく一部にすぎません。皆さんがさらに成長すれば、私よりも一段と高い指導霊が、私を使ってより高度な知識と叡智をお届けすることになるでしょう。

霊的進化には、これで終わりという段階は存在しません。また、完全というものも存在しません。あなた方も、そしてこの私も、刻一刻と進化向上しています。そして私よりも進化している霊から聞いたところによれば、彼らの背後にはさらに高級な霊たちが控えているとのことです。とにかく霊的進化には終着点というものはありません。もしあるとしたら、大霊による創造の営みはそこで停止してしまうことになります。

何百万年もの間、人間の肉体は進化してきました。それにともなって人間の魂も、大地から空に向かって上昇するように、ゆっくりと少しずつ低い段階からより高い段階へと進化してきました。獣性が徐々に拭われ、神性が現れるようになってきました。

人間の肉体が現在の進化のレベルに至るまでには、何百万年もの永い時がかかりました。そしてその進化は、まだ終わったわけではありません。今後もそうした肉体の進化とともにあなた方の魂は、永い永い時をかけてどこまでも進化していくことになります。

それほど遠くない昔、人間はサルでした。実際にサルであったということではなく、サルに似た肉体を通して働いていた「霊」であったという意味です。その霊は、大霊の分霊にほかなりません。生命のあるところならどこでも、大霊の息吹が存在します。大霊の息吹がなければ、生命は存在しません。大霊の息吹にはランク(段階)があり、その息吹によって人間は進歩し、低い段階から高い段階へと進化することになったのです。

生命を持っているもののすべてに大霊の息吹があればこそ、物質界の最下等の生命体から聖人君子に至るまで、大霊につながっていると言えるのです。いかなる極悪人も、限りなく美しい心の持ち主も、内部に大霊の息吹を宿しているという意味で兄弟姉妹なのです。摂理から逃れられる者は一人もいません。全人類がお互いに責任を持っているということです。
質疑応答


――本人には何の罪もないのに、身体的欠陥や盲目といった障害を持って生まれてくる子供がいるのはなぜでしょうか。


肉体という外形だけで魂を判断してはいけません。魂の進化と、魂が地上生活で使用する身体の進化とを混同してはいけません。父親または母親、あるいは双方から受け継いだ遣伝的法則の結果として障害を持って生まれてくる子供がいるのは事実ですが、それが魂の進化を阻害することはありません。

肉体に障害を持って地上に生まれてくる子供には、その魂に埋め合わせの摂理が働いています。そうした子供たちは、優しさや忍耐力や他人への思いやりを持っています。永遠の埋め合わせの摂理があり、それによって誰もが公平に扱われているのです。

次代の子孫に物的身体を提供する責任を担っている両親は、可能なかぎり完全な身体を提供すべきです。もし親がその責任を怠るなら、大霊の摂理が肉体の不完全さを補うことはできません。


――精神障害者として自らの行為に責任を持てない人は、死後どうなるのでしょうか。私たちは地上生活で形成された人間性によって裁かれると聞いておりますが……。


あなたは、物的なことと霊的なことを混同しています。地上では、脳に障害があると混乱が生じます。宿っている霊は脳に欠陥があることで自我を正常に表現できなくなりますが、自分自身の責任は自覚しています。

大霊の摂理は、あくまでも魂の進化を大前提として機能します。魂は、地上的な尺度ではなく永遠の叡智を尺度として評価されます。したがって地上的な善悪の基準では“悪”とされる行為であっても、魂そのものに責任がなければ、霊的には“悪”とは見なされません。

例えば、発狂状態で他人または自分自身の生命を奪った場合などです。それは知的判断力をつかさどる器官が正常に機能しなかった結果ですから、その霊が責任を問われることはありません。私の世界(霊界)では魂の動機を最優先して判断します。動機を基準とするかぎり、判断を誤ることはありません。


――肉体器官の欠陥によって地上生活で教訓を学べなかった霊は、霊界でどうなりますか。


肉体器官の欠陥のために霊が必要な地上体験を学ぶことができなかった、つまり地上人生の価値が失われたということです。しかし、埋め合わせの摂理は常に働いています。


――私たちは、地上生活でのさまざまな試練をくぐり抜けながら形成した人間性を携えて霊界へ行くわけですが、精神障害者の場合も同じように、地上で形成された人間性によって裁かれるのでしょうか。


魂の進化の程度と動機だけを基準として裁かれます。


――飲んだくれや精神異常、道徳的腐敗や心身の堕落が蔓延するスラムの中に生を享けて、過酷な人生を歩まされる子供がいる一方で、美しいものに囲まれた環境に生を享けて、何の不自由もない人生を送る子供もいます。この不公平はどう理解したらよいのでしょうか。


魂の進化は、魂そのものに刻み込まれていきます。ところが地上の人間はとかく、霊的なものではなく物的なもので判断しがちです。高い身分に生まれようと低い身分に生まれようと、人のために役立つことをするチャンスは必ず与えられます。魂が内部の神性に目覚め、それを発揮するチャンスはすべての人に訪れるのです。それこそが唯一の判断基準です。物的基準で計るかぎり、地上界は不公平だらけに思えるかもしれません。しかし、真の埋め合わせとは魂の次元におけるものであり、魂は自らを顕現させるために、あらゆる苦難を通して学ぶのです。


――でも、なぜ悪人が栄えるのでしょうか。


それもまた、地上的尺度による見方です。どうしてあなた方は、恵まれた生活をしている人の魂は不幸も悩みも苦痛も知らないと思うのでしょうか。いつも笑顔を絶やさないからでしょうか。豪華なものに囲まれているからでしょうか。紫の衣と亜麻糸の布が、そのまま満ち足りた魂を表すのでしょうか。永遠の基準は霊を基準としたものであり、物質を基準としたものではありません。そうでないなら神の公正が存在しないことになります。


訳注――「紫の衣と亜麻糸の布」は聖書のルカ伝十六章のイエスの説話に出てくる語句で、恵まれた環境と高い地位を象徴する言葉としてよく用いられる。


――しかし、飢えに苦しみ、悪徳や低俗なものばかりがはびこる環境よりは、恵まれた環境の方が明らかに善なる動機を発揮しやすいと思うのですが……。


私はそうは思いません。その証拠に、私が知るかぎりでは、地上の偉人はほぼ間違いなく低い身分の出身です。偉大な精神的指導者に至っては、まず間違いなく低い階層から出ています。葛藤を余儀なくさせられる困難が多いほど、それだけ魂が成長するものです。霊的自我に目覚めるのは、厳しい環境を克服しようとする闘いの中においてこそです。人生を外面からではなく、内部から見るようにしてください。


――人間の霊は、肉体的生命と同時に進化してきたのでしょうか。


たしかに霊は進化してきましたが、肉体と同じ進化の道をたどってきたのではありません。というのは、霊が肉体を通して自我を表現するためには、ある一定の段階までの肉体機能の進化が必要だったからです。


――死後にも進化向上することができるということは、霊界において邪悪な動機から罪を犯し、より低いレベルの界層に堕ちることもあり得るのでしょうか。


もちろんです。すでに霊の世界に来ていながら、何百年、時には何千年ものあいだ進化することなく、地上時代と同じ煩悩を抱き続けている者が少なくありません。彼らは貪欲で本能的欲望に満ちており、霊的摂理を理解しようとしません。霊的なことに対する感性が芽生えないのです。身は霊界にありながら、意識としては完全に地上で生活しており、しかも下降の一途をたどっています。


――人間の魂はあまりにも下降し過ぎると、最後には消滅してしまうのでしょうか。


いいえ、内在する大霊の炎が今にも消えそうに点滅することはあっても、消滅してしまうことはありません。大霊との霊的な絆は永遠であり、決して切れることはないからです。いくら下降しても、二度と向上できなくなるということはありません。また、いくら向上しても、最も低い界層の魂に救いの手を差し伸べるために下降できなくなるということはありません。


――個的生命は死後、ありとあらゆる界層を通過して個性を失い、最終的に大霊と融合し、その後さまざまな要素に振り分けられるのでしょうか。


私は、完全なる大霊と融合するほど完成の域に到達した霊を知りません。完全性を高めれば高めるほど、さらに高い領域があることを知るようになります。言い換えれば、意識にはどこまでも開発する余地があるということです。あなた方の意識は大霊の一部ですから、無限の奥行きがあります。私たちは究極の完全性というものを知りません。


――複数の個霊が進化して、どこかで一個のグループとして融合し、その中で個性を失うというようなことはないのでしょうか。


私の知るかぎりでは、ありません。ただ、次のようなことは確かにあります。ある重大な仕事が生じ、その達成のために一丸となった霊の集団が各自の知識と情報を持ち寄り、そのうちの一人が全体を代表して行動するというケースです。その仕事の進行中は、残りの者のアイデンティティーは薄れて一つになっています。しかし、それはその仕事の期間中だけのことです。


――ペットは死後も存続するそうですが、他にも存続する動物がいるのでしょうか。


はい、います。私たちが地上にいたとき友人のようにしていた多くの動物たちや、(あなた方がかわいがっていた)犬や猫などのペットは、死後も人間の中に混じって生きています。これらの動物たちは、人間の愛情を受けて一種の個性(パーソナリティー)を発現するようになり、そのパーソナリティーを携えて死後も人間の霊に混じって生きているのです。しかし、長続きはしません。ほんの一時期のことで、やがてそれぞれの「種」の母体であるグループ・スピリットの中に融合していきます。

大霊の子供である人間は、大霊の力を有しているお蔭で、まだ発現していない意識を持った動物に、死後に存続する力を与える能力が備わっていることを知ってください。本来の進化の過程においてその意識が発現する時期を一歩早め、進化を促すことができるのです。それが「愛の力」なのです。


――ペットは別として一般の動物も死後、個別に存続するのでしょうか。


いいえ、個別には存続しません。


――もしペットではない動物が死後、個として存在しないなら、まったく世話をされていない動物や虐待されている動物と大霊との関係はどうなっているのでしょうか。「創造した者」と「創造された者」という関係から見て、そうした動物の生命に大霊の愛ないしは公正がどういう形で現れているのでしょうか。


地上の人間の理解力が及ばないテーマを説明するのは、とても難しいことです。私は、動物が死んだときグループ・スピリットに融合していくことについて説明しました。そこには埋め合わせの摂理が働いています。その埋め合わせの摂理は、神の公正さの中で正しく機能します。とは言っても、それはあくまでも動物の進化の話であって、人間の進化とは次元が異なります。

あなた方は、大切に育てられて(自然に)枯れていく花と、放っておかれて枯れていく花を見て、その違いを説明しようとするかもしれませんが、あなた方にはそれぞれの花の背後にある摂理について理解することはできません。しかし、そこには同じ(埋め合わせの)摂理が働いているのです。


――動物には一匹ごとに埋め合わせの摂理が働いているのでしょうか。


いいえ、種のグループ全体に働いています。埋め合わせの摂理によって、地上で受けた苦痛がグループ・スピリット全体の進化を促します。


――グループ全体として扱われるとなると、そのグループの中に虐待された動物とそうでない動物とがいれば摂理の働きに偏りが生じるはずで、その点が理解できません。


それぞれのグループは似たような体験をした動物で構成されています。


――ということは、虐待されたグループとそうでないグループがあるということでしょうか。


さまざまな部分からグループ全体が構成されています。それはちょうど、あなた方の身体がさまざまな形態の細胞が集まって全体を構成しているのと同じことです。


――下等動物がなぜ存在するのか、またそれが創造されながら自然淘汰されていくという現実は、宇宙が神の愛によって経綸されているという事実と、どう辻褄(つじつま)を合わせたらよいのでしょうか。


人間には自由意志が与えられています。大霊から授かった力を駆使し、正しいことと間違ったことを判断する叡智を働かせるなら、地上界を“エデンの園”にすることができるのです。それを怠り、地上界をゴミやホコリで汚しておいて、人間が招いた悪い結果をどうして大霊に押しつけることができるのでしょうか。


――創造進化の大業が殺戮(さつりく)の血に染められてきたという事実のどこに、神の善意と愛のしるしが見いだせるのでしょうか。


なぜそのように小さな一部分を見るだけで、全体を見ようとしないのでしょうか。創造進化があるという事実そのものが、神の愛のしるしと言えるのではないでしょうか。あなたは、そういう考えに思い至ったことはありませんか。低い次元から高い次元へと進化するという事実は、摂理の背後に「愛の力」があるということの証拠ではないでしょうか。


――なぜ神は、地震や火山の噴火などの発生を許すのでしょうか。


そのように「なぜ神は……」という問いを発するとき、あなた方は大自然の法則の働きに疑念を抱いているのだということを忘れないでください。私は、法則というものが存在すること、そしてその法則に関わる私の体験をお教えしようとしているだけです。地震というのは物質界の進化における浄化作用の一つです。物質界はまだ進化の完成段階にまで達していないのです。


――その場合、地震によって亡くなった何の罪もない多くの人々は、地球の進化の犠牲者ということになります。それで公正と言えるでしょうか。


死者になることが悲劇であるかのようなご意見ですが、私はそのようには考えません。私に言わせれば、死は魂が自由を獲得するための素晴らしい時なのです。


――地震で亡くなった人々はすべて、それが他界する時期だったということでしょうか。


はい、そうです。ただ、そうした形で死を迎えたことについては、前世での所業(カルマ)が絡んでいます。


――我々より霊的に進化している、あるいは劣っている人間的存在が住んでいる天体がありますか。


ありますとも! あなた方より進化している人間的存在の住む天体はたくさんあります。地球と呼ばれている惑星は、この大宇宙に存在する無数の惑星の一つにすぎません。しかも、地球より劣っている天体は一つあるだけです。


――よくあることですが、重要だと思う一連の仕事を進めようとすると、しつこく邪魔が入ることがあります。それはなぜでしょうか。


価値のあること、成し遂げるに値することほど大きな困難がともなうものです。それを達成する道は楽ではありません。困難があり、妨害があり、邪魔が入るものです。

そうしたことは人間形成の一環なのです。困難や障害にどう対処するかによって、あなた方の魂の成長が決まります。何の困難もなしに、魂に内在する最高のものを顕現させられるとしたら、それは価値あるものとは言えません。

ですから、とにかく挫(くじ)けないことです。潜在する力を活用しても克服できないほどの大きな困難や障害は絶対に生じません。他人が故意に与える困難も、内在する力を発揮して立ち向かえば必ず消滅します。あなた方は地上生活において、自分の力のほんの一部しか発揮していないことがお分かりになっていません。


――今なお数えきれないほど多くの新生児が生まれてすぐに、あるいはその後に、間引きの慣習とか、その他もろもろの原因によって死んでいます。そうした子供たちが生まれてくることには、いったいどういう意味があるのでしょうか。


物的なものさしで判断するかぎり、永遠の摂理は理解できないでしょう。地上のいかなる賢者といえども、地上的知識を超えたことは分かりません。霊的叡智の光が見える段階まで進化すれば大霊の計画に納得がいくでしょうが、現段階では地上のいかなる覚者もガラス越しにぼんやりと見ているだけで、まだ理解してはいません。

皆さんがある人の人生を評価するのに、その人の学生時代だけを見て、卒業後のもっと長い人生を無視して判断するようなことはないでしょう。あなた方には、今生きている地上よりもはるかに素晴らしい生活が待ち受けているのです。美と色彩にあふれた世界です。愛の世界、真摯(しんし)な願いが成就される世界、地上では叶えられなかったことが実現する世界です。そうした世界をご覧になるまでは、大霊を批判するようなことを言ってはなりません。


――あなたが指導を仰いでおられる高級霊たちは、時にはこの交霊会を訪れることがあるのでしょうか。


いいえ、そうしたことはありません。高級霊たちは皆、強い絆で結ばれています。この霊媒(バーバネル)は私とあなた方とをつなぎ、私はあなた方と私よりも高い霊たちとをつないでいます。彼らはこの私と、さらなる高級霊たちとをつないでいるのです。それが霊の世界の深奥(しんおう)へ向かって、私の目の届かないところまで延々とつながっているのです。


――私たちは、いつかその最高の次元まで到達するようになるのでしょうか。


最高の次元まで到達するということはありません。こうしたことは、あなた方にはまだ理解できません。あなた方は地上では、魂のほんの一部分を顕現させることしかできません。魂の全部を顕現させようとしても、まだその準備ができていないのです。

私は霊界の奥深くへ戻るほど、本来の私をより多く発揮するようになります。それで私は年に二回、クリスマスとイースターに本来の所属界へ帰り、真の自我を取り戻すのです。


訳注――スピリチュアリズムまたはスピリティズムの名のもとに霊的真理の普及に携わっている霊団の連絡網は地球規模で構成されていて、その指導霊たちがクリスマスとイースターに一堂に会し、計画の進捗状況の報告と次の計画の指示を仰ぐ。その最高責任者が地上で「ナザレのイエス」と呼ばれた霊で、モーゼスの『霊訓』のインペレーター霊も同じことを述べている。


あなた方は皆、霊的進化の道を歩んでいる大霊の子供です。あなた方は愛する人との死別を悲しみますが、他界した人たちはこちらの世界で、地上時代よりもいっそう自我を発現するようになっていることを忘れてはいけません。


――それにしても、なぜ早いうちに死んでしまう子供たちがいるのでしょうか。地上で学ぶべきものを学べないように思えるのですが……。


早死にする子供たちは、(前世で)何か摂理に反したことをしているのです。それを償うには、そうした厳しい体験を通して大霊の戒めを学ぶしかないのです。

もしもその戒めが簡単に学べるとしたら、人類は自分自身を必死になって救おうとはしなくなるでしょう。そうしたら何世代も経ないうちに、大霊の意思はこの地上に顕現しなくなってしまいます。

苦悶(くもん)と病苦と悲哀を体験した人間は、他人の苦しみに心を配る、大きな魂へと成長するようになります。やりたい放題の人生を送り、はかない幻(まぼろし)を追い求めている魂は、いつかは真実に直面しなければならなくなります。安楽な日々を送っている人を見て羨(うらや)ましがることはありません。その行く先には過酷な人生が待ち受けているのです。

地上界にあっても霊界にあっても人間は、ありとあらゆる体験を積まなければならないようになっています。いかなる体験にも必ず学ぶべき教訓があります。あらゆる体験を乗り越えて初めて本当の自我を確立し、魂の内奥(ないおう)の完全性に至ることが許されるようになるのです。

それは確かに難しいことです。難しくないはずがありません。簡単に聖人や殉教者になれるでしょうか。簡単に宗教指導者や社会革命家になれるでしょうか。簡単になれるはずがありません。自己の責任から逃れようとするような人間に、人を導く資格はありません。

Tuesday, July 14, 2026

シルバーバーチの教え(上)

Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳)


9章 キリスト教の人工的教義の間違い


〔英国国教会内部にも教義の解釈についての意見の衝突がある。そこで二十五人の神学者が十五年の歳月を費やして、国教会としての統一見解をまとめる作業を続け、一九三八年一月にようやく「英国国教会の教義」と題する大部の報告書を発行した。その中のいくつかの項目が読み上げられるのを聞いてから、シルバーバーチがその一つひとつにコメントを加えた。〕(太文字が引用文)


■「イエス・キリストの復活」は、人類史上におけるきわめて特殊な神の御業(みわざ)である。


そんな結論に達するのに十五年もかかったのですか。ナザレのイエスを裏切っているのは自ら“クリスチャン”を名乗っている人たちであるとは、まさにその通りです。

「復活」は生命の法則の一環です。肉体の死とともに、すべての魂は復活するのです。復活はイエス一人だけのものではなく、大霊の子のすべてに生じるものです。いずれすべての人間が死の関門を通過し、物的身体を捨て去り、霊的身体で新しい生活を始めるようになります。地上人は、すべての時を霊界での生活に備えて過ごしているのです。

イエスは自然法則に反するようなことは一度もしていません。そもそもイエスが地上界へ降りてきたのは、大霊の摂理を実行するためでした。イエスのすべての行為、すべての教えは、大霊の摂理の一部でした。イエス自身こう述べているではありませんか――「こうしたことのすべては、あなた方にもできるし、あなた方はもっと大きなこともできるようになる」と。

イエスを、大霊の子供たちが近づけない天界のはるか高い位置に持ち上げるなら、せっかく彼が地上へ降誕した使命は台なしになってしまいます。なぜならイエスの地上人生の究極の目的は、「地上の人間も内在する大霊を人生の中で顕現させるなら、これほどのことが可能なのだ」ということを証明するところにあったからです。

そしてイエスは霊界へ戻った後、再び同じ姿を取って地上で縁のあった人々の前に現れました。これをキリスト教では「復活」と呼んでいます。イエス以前にも死者が生前の姿で現れた例はたくさんありますし、イエス以後にも数えきれないほどあります。

この宇宙に“特別”というものは存在しません。すべてが大霊の摂理(法則)によって統制されており、常に何かが起きているという事実そのものが、法則が実在することを証明しているのです。


■洗礼は、幼児洗礼であっても、罪を犯させようとする影響力の支配から逃れる手段である。聖人とされる人物でも、もし洗礼を受けていなければ、その意味で欠陥があることになる。


いかなる聖職者(司祭)も魔法の力は持ち合わせていません。水を水以外のものに変える力はありません。赤子の額に水を二、三滴振りかけたからといって、それでその子の人生――地上だけでなく死後も含めて――に何も変化が生じるわけではありません。振りかける前も振りかけた後も、ただの水です。司祭にはその成分を変える力はありませんし、法則と違った結果を生み出す力もありません。

魂は洗礼によって何の影響も受けません。あなたの魂を進化させる力を持った人間はいません。魂の進化は、地上での生活を通して、あなた方自身が達成していくものなのです。自分の行為が生み出す結果を、他人が取り除くことはできません。自分で償い、自分で報いを受けることによって成就していくものなのです。

“聖人”と洗礼とは何の関係もありません。日常生活の中で、可能なかぎり完全に近い行いをすることによって大霊を顕現させ、少しでも多く神性を発揮しようとする人が“聖人”なのです。


■当委員会は、神がその気になれば奇跡を生じさせることができるという点では一致をみたが、果たして奇跡的現象というものが起きるものであるか否かについては意見が分かれた。


さらに十五年も討議すれば、委員会は結論を出せたのでしょうか。何という情けない話でしょう! (聖書にある)盲人が盲人を手引きしているとは、まさにこのことです。その程度の者たちが人類を導いているのです。そして奇跡的な現象が起きるか否かは分からないと、まるで他人事(ひとごと)のように言っています。(原因がないという意味での)奇跡は存在しません。これまで一度も起きておりませんし、これからも絶対に発生しません。

大霊はあくまでも大霊です。大霊の法則の働きは完璧です。それは大霊の完全無欠性によって生み出されたものだからです。その法則が万一機能しなくなったとしたら、宇宙は大混乱をきたします。大霊が予測しなかった事態が生じて創造機構の手直しをしなければならなくなるとしたら、大霊は完全無欠ではなくなります。

(キリスト教で言うように)もしも選ばれた少数の者を寵愛するために奇跡を生じさせるとしたら、大霊は分け隔てをする不公平な神であることになり、全生命の源である無限の存在ではないことになります。委員会のメンバーは、そのお粗末な概念によって、大霊を何とちっぽけな存在に貶(おとし)めていることでしょう。

彼らは高次元の摂理について無知であり、霊力の存在についても知らず、霊界の上層からもたらされる霊力に触れたことがないために、霊媒を通して演出される現象が理解できないのです。

委員会のメンバーは、イエスにまつわる現象(しるしと不思議)が今日の物理法則に矛盾すると思い、“奇跡”というものを考え出さなければならなかったのです。彼らが霊的法則の働きを知れば、大霊は昔も今も未来永劫、不変であることを理解するようになります。地上人生において大霊から授かった霊的資質を発揮するならば、誰もが大霊の力を活用することができるようになるのです。


■もし奇跡が生じるなら、それは秩序の破壊ではなく神の意思の表現であり、それが自然界の新たな秩序を決定づけることになる。それゆえ決して不合理なものでも気まぐれなものでもないのである。


委員会のメンバーは、大霊の法則は無窮(むきゅう)の過去から存在し、無窮の未来まで存在し続けるということを理解していません。地上人類が新しい法則を発見したといっても、それは性能のよい器機の発明によって、それまで知らなかった宇宙の生命活動の一端を知ったというだけで、人間が新しいものを創造したというわけではありません。もともと存在していたものを見つけ出したにすぎません。

あなた方が何かを創造するということは不可能です。すでに存在している被造物の一部を発見することしかできません。また、大霊の法則に反して何かが発生することもあり得ません。人間がその存在を知ると知らないとに関係なく、大霊の法則のすべては、ずっと存在しているのです。

したがって大霊が新たに法則を考案する必要はありません。宇宙の経綸に必要な法則は残らず用意されており、それは未来にわたっても働き続けます。大霊は完全無欠であるがゆえに、あらゆる状況に適応する法則を準備しておられるのです。


■クリスチャンの立場からすれば、聖書は神の特殊な啓示を記録したもので、唯一無二のものである。


何という精神の暗さでしょう! いったいどこまで盲信の暗闇に閉ざされているのでしょう! 彼らを取り囲む壁は何と厚く、盲信の砦(とりで)を守る暫壕(ざんごう)の何と深いことでしょう!

物質界というものが出現して以来、多くの大霊の使徒が地上界へ降誕して啓示をもたらしてきました。それは当然、その時代の言葉で語られました。啓示の内容はその時代の必要性や、その国の事情に応じたものであり、人々の精神的・霊的な発達程度に合わせたものでした。要するにその啓示の意味が理解されやすい形で――レベルが高すぎて手が届かないことにならないようにとの配慮のもとに――与えられました。

一方、進化のプロセスはどこまでも続いていきます。地上人類が成長し進化すれば、それに相応しい新たな指導者、新たな預言者、新たな霊能者が派遣され、その時代が必要とするビジョン、理想、預言、メッセージ、インスピレーション、真理等が授けられます。啓示には終わりというものがありません。なぜなら大霊は完全無欠の存在だからです。

新たな啓示は古い啓示と一貫しており、矛盾していません。今私たちが説いている真理は、ナザレのイエスによって説かれた真理を否定するものではありません。イエスも、モーセの説いた真理を否定してはいません。そして私たちのあとに現れるであろう次代の指導者も、今私たちが説いている真理を否定することはありません。

しかし明日の大霊の子らは、今日の子らよりも一段と高い進化の段階にいますから、彼らに明かされる真理は、今あなた方に説かれている真理よりも一段と進歩的なものになります。


■クリスチャンにとってキリストは、唯一の、そして不可欠の(神との)仲介者である。父(神)とキリストとのつながりは直接的であったが、我々クリスチャンとのつながりはキリストを介して行われる。


これは間違いです。大霊は、あなた方一人ひとりの内に存在しています。同時にあなた方一人ひとりは、大霊の内に存在しているのです。イエスも「神の王国はあなた方の中にある」と述べているではありませんか。クリスチャンはなぜ、こんなにもイエスの教えを理解していないのでしょう!

(クリスチャンだけでなく)いかなる人間も大霊から切り離されることはありませんし、大霊が人間から切り離されることもありません。いかに重い罪を犯した人間であっても、それによって大霊から切り離されることは絶対にありません。人間と大霊とを結んでいる絆は永遠に断ち切ることができないものであり、大霊との関係が失われてしまうようなことは決してないのです。

人間は、内在する神性を日常生活の中で顕現させるにつれて大霊に直接的に接近していくことになります。あなた方一人ひとりに大霊の分霊が宿されているのであり、大霊とあなた方との間に仲介者を立てる必要などありません。

ナザレのイエスは、そんな目的のために降誕したのではありません。人間はいかに生きるべきか、いかにすれば内部の神性を顕現させられるかを教えるために地上界へ降りてきたのです。

キリスト教の神学は、地上世界にとってまさしく“災いのもと”です。人類にとって大きな手かせ・足かせとなっています。人々の魂を牢獄に閉じ込めています。それから逃れるためには、自らを縛っている人工的教義と間違った信条を断ち切り、霊的インスピレーションによって示される本物の真理に目覚めることです。人間の知性は大霊のインスピレーションに優るものではありません。


■「キリストの復活」は、永遠の生命という希望を裏付けるものである。


またしても何というお粗末な認識でしょう! 人間は内部に大霊の分霊を宿しているからこそ存在しているのです。物質は霊によって存在しているのです。霊は永遠の実在であり、破壊できないものです。霊は不滅にして無限なる存在です。

あなた方は霊であるからこそ、墓場を越えて火葬の炎の向こうまで生き続けるのです。物質界にも霊界にも、内部に秘められた神性を破滅させることができるものはありません。人間の内部の神性は、誕生とともに大霊から授かった最も重要な贈り物なのです。

あなた方が今生きているのは霊だからこそです。墓場を越えて生き続けるのも霊だからこそです。霊であればこそどこまでも永遠に生き続けるのです。霊はいかなる指導者とも無関係です。霊は、あなた方が生まれつき持っている権利であり、大霊からの賜物(たまもの)なのです。

なぜかクリスチャンは、宇宙の創造主であり、千変万化の大宇宙の営みを経綸する大霊(神)を限定して考えようとします。彼らのしていることがお分かりでしょうか。物質界でわずか三十三年を生きた人物(イエス)と大霊を同列に扱っているのです。しかも大霊の恩寵(おんちょう)は、イエスを信じた者だけに与えられると説いています。何と情けないことでしょう! 「宗教」という言葉をこれほど辱(はずかし)める教義はありません。イエスご自身がどれほど悲しみと嘆きの涙を流しておられるか、知っているのでしょうか。いまだにクリスチャンは、イエスを磔(はりつけ)に処し続けているのです。

自らを“クリスチャン”と名乗ったからといって、また、教会に所属したからといって、それで「地の塩(模範的人間)」になれるわけではありません。地上で身につけたラベル(名誉ある地位や肩書き)は霊界では通用しません。教義を厳格に守ったからといって大したことではありません。あなた方にとって大切なことはただ一つ――地上にいる間にどれだけ内在する大霊を顕現させたか、それだけなのです。


■キリスト教の「贖罪(しょくざい)」の教義の根本にあるのは、それが本質的に神の御業であり、神がキリストの調停によって人類と和解したとの確信である。


これは、嫉妬と怒りに燃えた神をなだめすかすために、最愛の子を血の犠牲にしなければならなかったという、あの古くからの贖罪説の焼き直しでしょうか。大霊は怒りっぽい人間より、もっと残酷で無慈悲だとでも言うのでしょうか。我が子と和解するのに血の犠牲を要求するとでも言うのでしょうか。大霊とイエスをこれほど哀れな存在に貶める説はありません。

イエスみずからが愛と慈悲と優しさに満ちた“父”のごとき存在と説いた大霊のご機嫌を取るために、なぜ血を流さなくてはならないのでしょうか。地上の人間は一人の例外もなく、自分の努力で人格を形成し、自分の努力で霊的進化を達成するために地上界へ来ているのです。

もし、あなた方が利己的な生き方を選ぶなら、それなりの代償を払わなくてはなりません。人のために役立つ道を選ぶなら、人間性の発達という形で報われます。摂理の働きによってそのようになっているのであり、いかに偉大な指導者といえども、その働きを変えることはできません。

もしも間違いを犯したら、潔くその代価を支払えばいいのです。屁理屈をこねて、他人に責任を転嫁するようなことをしてはいけません。

私たちの世界では利他的で霊性が優れた者は、利己的な者よりも高いレベルの界層にいます。それ以外にありようがないのです。もしも、利己的な生活を送った人が死後、生涯を他人のために捧げた人と同じように高い界層に行けるとしたら、それは大霊と大霊の完全な正義を愚弄(ぐろう)することになります。

もちろん、そんなことはありません。人生は、あなた方自身が形成していくものです。どのような地位にあろうと、職業が何であろうと、家柄が高かろうと低かろうと、問題ではありません。肩書きや階級、人種や民族や国家といったものとは関わりなく、すべての人間に奉仕(サービス)のチャンスは等しく与えられているのです。もし、あなた方がそのチャンスを無視するなら、それ相当の代償を払うことになります。その摂理の働きを妨げられる者はいません。

イエスの言葉を引用して終わります――「自分が蒔いた種は自分で刈り取らなければならない。」


〔当日の交霊会を総括してシルバーバーチが次のように述べた。〕


私は皆さん方に、イエスが説き、私たちが語っているシンプルな真理と、今地上において宗教界のリーダーと目されている人たちが説いている教説とを比較していただきたいのです。

私たちはあなた方に、メッセージをお届けしています。それはあなた方の理性に反することのない、知性を侮辱(ぶじょく)することのないメッセージです。それはシンプルな霊的真理をもたらします。

私たちはまず、あなた方地上人がいちばん求めていること、すなわち他界した愛する人々は今も生き続けており、「死」は永遠の別れではないという証拠を示します。

次に私たちは、霊界からもたらされる霊力は、人類を向上させるために献身している人々を鼓舞しているという事実を明かします。霊力は、人生を生き甲斐のあるものに、そして調和のとれたものにするための“豊かさ”をもたらしてくれるのです。

さらに私たちは、病んでいる人々の苦痛を和らげるために霊的治療エネルギーをもたらします。私たちは、地上の人々に互いに助け合って生きる方法を教えるという神聖な使命を果たすために、力を結集して努力しているのです。

私たちは、これまでの人類の歴史の中で大霊のインスピレーションに触れた者たちが説いたのと同じ真理を繰り返し述べています。神の摂理の存在を強調し、それらがどのような形で働いているかを明らかにしています。そして私たちは同じ法則を使用して、過去に起きた現象を今、再現させているのです。

しかし実際には、本来なら霊力の働きを認めるべき人々(聖職者たち)から拒絶されています。彼らは“神学”という名の隔離された世界に身を隠しています。“教条主義”という名の修道院に閉じこもっています。

彼らは、内心では怖いのです。霊的真理が地上人類の間に広まれば、司祭も牧師も主教も大主教も要らなくなってしまうことを知っているからです。

本日、国教会の「報告書」の一部を聞かせていただき、教条主義が徐々に勢力を失い、代わって私たちの使命が成功しつつあることを改めて確信いたしました。

Monday, July 13, 2026

シルバーバーチの教え(上)

 Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳)



8章 地上の宗教の間違い


〔これから紹介するシルバーバーチのキリスト教批判に対して多くの人は、いささか酷(こく)なのではないかと思われることであろう。が、シルバーバーチをよく知る人なら、よほどの根拠がないかぎり批判は口にしないことをご存じであろう。シルバーバーチは常に理性に訴え、理性が納得できない宗教の教えに鋭い批判を向けている。〕


宗教の教義(信条)による束縛は、地上界の悲劇の一つです。それは重い疫病よりも悪質で、肉体の病気の苦しみよりも、はるかに酷(ひど)い苦痛をもたらします。なぜならそれは「魂の病(やまい)」を生み出し、霊に目隠しをしてしまうからです。

地上人類は、大霊の無限の叡智が存在するにもかかわらず、いまだに教義にしがみついています。なかには教義に縛られている方が気楽だと考える人もいます。「自由」とは、自由であることのありがたさを知った人のためのものです。ここに集っている皆さんは、教義の牢獄から脱したことを喜んでください。そして喜ぶだけでなく、今なお隷属状態にある人々を解放してあげるために努力してください。

私たちはあなた方に、いかなる教義も儀式も作法も要求しません。ただひたすら、大霊の愛がその子供たちを通して顕現するように努力しているだけなのです。そのためには、いかなる書物にも、いかなるドグマ(教義)にも縛られてはいけません。いかなるリーダーにも、いかなる権威にも、いかなる学識にも、また崇敬の対象とされるいかなる聖遺物にも縛られてはいけません。あなた方はひたすら、大霊の摂理に従うようにしてください。大霊の摂理こそが宇宙で最も偉大なものであり、唯一最高の権威あるものなのです。

教会と呼ばれているものの多くは、中世の暗黒時代の遺物です。大霊は、どのような建物の中にも閉じ込められることはありません。大霊はあらゆる所に存在しています。人間は石を積み重ね、その上に尖塔(せんとう)をそびえ立たせ、ステンドグラスで窓を飾って大霊を喜ばせようとしてきました。しかし、そんなもので大霊が喜ばれるわけはありません。

大霊は、自らが用意した太陽の光が地上の子供たちの心を明るく照らし、降り注ぐ雨が子供たちのための作物を実らせることを喜ばれます。ところが残念なことに、その大霊の恩寵(おんちょう)と子供たちとの間に、とかく教会が、政治家が、そして金持ちが介入します。こうしたものを何としても取り除かなければなりませんし、今まさに取り除かれつつあります。

霊力を過去の時代のものとして考えるのはやめにしなければいけません。ナザレのイエスを通して働いた霊力は、今も働いているのです。あの時代のユダヤの聖職者たちは、イエスを通して働いている霊力を悪魔のものであるとして認めませんでしたが、今日の聖職者たちも同じ霊力を同様の理由で拒絶します。しかし、地上界も進歩しました。その霊力を駆使する者を十字架にかけることはしなくなりました。

イエスが放った光輝は、あの時代だけのものではなく、今も輝き続けています。イエスは今、どこにいると思いますか。イエスの人生はエルサレムで終わったと思っているのでしょうか。それともイエスの偉大なる霊は、苦悩と混乱と敵意に満ちた地上世界にいるとお考えでしょうか。

私たち霊界の者からの働きかけを信じず、悪魔のささやきであると決めつけているキリスト教の聖職者たちは、その昔、ナザレのイエスに非難のつぶてを浴びせたユダヤ教の聖職者たちと同じです。私たちは、イエスと同じ大霊の霊力を携えて地上界へ降り、奇跡(心霊現象)を起こし、大霊のメッセージを届けています。それは「喪の悲しみに暮れる人を慰め、病める人を癒し、暗闇に閉ざされた人に光をもたらし、疲れ果てた人には生きる勇気を与え、真理を知らずにいる人には霊的知識を教えよ」とのメッセージです。

私たちもあなた方も、等しく大霊の僕(しもべ)です。ただ私たちは進化の道程において、あなた方よりも少しだけ先を歩んでいます。そこで私たちは、あなた方に奉仕するために地上世界に戻ってきました。奉仕(サービス)こそ大霊の摂理だからです。奉仕精神のないところには荒廃が生まれます。奉仕精神のあるところには平和と幸せが生まれます。地上世界は「互いに奉仕し合う」という新しい生活形態を築かなければなりません。それは本当は至って簡単なことなのですが、なぜか現実には、とても難しいことになっています。

誠に残念なことですが、“神の使徒”をもって任ずるキリスト教の聖職者たちには、一から学び直してもらわなければならないことがたくさんあります。彼らは不安定な砂の上に自分たちの宗教を築き上げました。その“砂上の楼閣”は、スピリチュアリズムの霊的真理の猛攻撃を受けて崩れかけようとしています。彼らは、それを必死に支えようとしているのです。

そもそも土台が間違っているのです。彼らは、イエスを作り話で塗り固めてきました。そうすることでイエスを神と同じ位(くらい)に祭り上げたのですが、その根拠には何の正当性もないため、徐々にそれを撤回せざるをえなくなっています。ところが撤回しようとすると、彼らの心に恐怖が湧いてくるのです。「それを失ってしまったら、あとには何も残らない」との危惧(きぐ)を抱くのです。キリスト教が真実を土台としていたなら、すなわち自然の摂理の上に築き上げられた宗教であったなら、撤回しなければならないものは何ひとつなかったはずなのです。

そこに、私たちが地上界へ舞い戻ってきた理由があるのです。いかなる人物であろうと、一人の人間に服従してはいけません。いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、それを盲信してはいけません。地上界の人間であれ霊界の存在であれ、どのような指導者にも盲目的に服従してはいけません。絶対的忠誠を捧げるべきは「大霊の摂理(法則)」だけです。それだけが誤ることもなければ裏切ることもないからです。

だからこそ私たちは、大霊の摂理を説いているのです。それを“スピリチュアリズム”と呼ぼうと何と呼ぼうとかまいません。大霊の摂理があらゆる世界――目に見える物質界であろうと目に見えない霊界であろうと、そのすみずみまで支配していることを理解していただけばよいのです。

地上界では指導者たちが重んじられてきました。そして過大評価され、“神学”という厄介なものをつくり出すことになりました。その神学が、科学者や思想家、そして精神だけは自由でありたい、理性が反発するものは受け入れたくないと思っている真っ正直な人々を困惑させることになりました。

そこで私たちは大霊の摂理を強調するのです。摂理に対する正しい理解こそが、すべての知識を調和させるからです。摂理は、科学者や哲学者や自由思想家、その他いかなる分野の人々にも反発を覚えさせることはありません。それは永遠にして不変の大霊の働きを土台としているからです。

あなた方は、私たちが説いている叡智の背後に、高級霊団の存在があることを知ってください。地上人類は叡智と理解力が増すにつれて、大霊の摂理に従って生活を規制していくようになります。摂理に従って生きることの大切さを自覚するようになります。地上界の悲惨さや窮乏(きゅうぼう)、苦難や悲嘆はすべて、大霊の摂理が守られていないところから引き起こされていることを悟るようになるのです。

そうした理解が行きわたったときには、大霊の庭にはびこっている醜悪な雑草は取り除かれることになります。私たちは、人類の魂を解放し、精神を自由にしてあげるだけでなく、身体的にも大霊の摂理と調和して生きていけるようにしてあげるという目的を持って、大霊の摂理の存在を説いているのです。

私は、真理を説くチャンスがいくらでもあるのに、それをしようとしないキリスト教会を認めることはできません。忠実に仕えなければならないイエスを裏切るようなことばかりしていること、イエスを人間の生き方の模範としてではなく神の座に祭り上げ、物質界の子らの手が届かない存在にしてしまったことに我慢がなりません。

本当なら教会の入り口には「我らが忠誠を捧げるのは真理、ただ真理のみ」とあるべきところを、実際には「我らは信条を説き、教義を旨とし、儀式を重んじ、祭礼を絶対視する」と書かれています。教会は真理に敵対する手段となっているのです。

私は、聖職者として神に仕えたいと真摯(しんし)に望んでいる人を非難しているのではありません。そういう人が少なからずいることを、私はよく知っています。私が非難しているのは“組織”です。組織が真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、精気みなぎる霊力が顕現するための場所を奪い去っているからです。そんな教会に、どうして霊力が顕現することができるでしょうか。教会は自分たちの説教に対して“立入禁止区域”を設けているのです。

私たちは、大霊と自然法則の存在を説きます。私たちは大霊の法則の働きを示す道具です。イエスもやはり大霊の道具であり、地上の人間にとっての良き手本です。あなた方も大霊から授かった霊力を発揮しさえすれば、イエスと同じ生き方ができるようになるのです。

信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣――こうしたものがいったい宗教と何の関係があると言うのでしょうか。宗教は霊と一体関係にあります。霊はすべての創造物に宿り、生命のあらゆるリズムと生命現象の中で自らを現し、大自然のあらゆる側面に顕現し、人類の進歩のために寄与している理想主義者や改革者を鼓舞しています。その霊が一つの教義と何の関わりがあると言うのでしょうか。

「自由」とはどういうものであるかを学ばなければなりません。魂を牢獄に閉じ込めておいてはなりません。自分のまわりに障壁を築いて、新しいインスピレーションを拒絶するようなことをしてはなりません。真理探求の道は無限に続きます。

知識にも真理にも、叡智にも成長にも、これで終わりという限界がないことを悟ったとき、あなたは自由になるのです。心の中で間違っていると感じていること、理性が得心していないことを潔く捨て去ったとき、その時こそあなたは自由になるのです。あなたの知性が反乱の雄叫(おたけ)びを上げたのです。新しい真理の光によって自分の間違いに気づき、ひるむことなくそれを捨て去ったとき、あなたは本当の意味で「自由」を手にすることができるのです。

知識は、それを求める用意の整ったすべての魂に分け与えられるものです。が、そのためには大いなる冒険の旅に出る覚悟が要求されます。未知の領域を探求する準備、障害と危険に対する準備も必要です。誰も足を踏み入れたことがない土地を歩まなければならないかもしれません。しかし、真理の指し示すところならどこへでも突き進み、間違いと分かったものは、いかに長いあいだ“金科玉条”とされてきたものであっても捨て去る勇気がなくてはなりません。

地上人類は古い神話や伝説を、ただ古くからあるものというだけの理由で大切にし過ぎています。真理と時間(とき)とは必ずしも手を携えて進むものではありません。幼少時代に教え込まれ大切にしてきた信仰を捨て去るのが容易でないことは、私もよく承知しています。しかし、魂が真に自由になるためには、理性が納得しないものは潔く捨て去ることができるようでなくてはなりません。

(教義や儀式などの形骸にとらわれて)霊の力を活用しなかったために、地上は何とみすぼらしい世界になってしまったことでしょう。迷信や無知の壁を取り壊そうとする努力を、私たちはこれから先、いつまで続けなければならないのでしょうか。

とは言え、あなた方が想像するほど長くはかからないでしょう。まわりを見回してご覧なさい。崩壊の兆しが至るところに見られます。堅牢を誇っていた砦(とりで)が、今まさに崩れ落ちつつあります。そのうち真理を求めるあなた方の叫び声が高まり、その壁を完全に突き崩してしまうことでしょう。
質疑応答


――キリスト教でもそうですが、古い時代の偉大な宗教家の人生や死が、自然現象や天体や季節などに関連する神話上の神々と似ているのはなぜでしょうか。


それは地上の人間が、自分たちのリーダーを超自然的な能力を持った存在とするために、太古の神話や伝説を借用したからです。自然法則の働きについて知らなかったのです。彼らは、自分たちが最も偉大だと信じた人物を人々の手の届かない位地に祭り上げようとして、神話や伝説を利用したのです。


――そうした人物の人生には、自然法則を連想させるような多くの出来事が記録されています。例えば、冬のあとに春がめぐってくるように、死のあとに復活が起きたことが記録されています。これは偶然でしょうか。


あなたがおっしゃるのが、ナザレのイエスが処刑されたとき雷鳴が轟(とどろ)き稲妻が走ったという聖書の中の話でしたら、それは事実ではありません。ですが、死んだ人間が地上に戻ってきたという話であれば、それは事実です。歴史的な使命を担った大霊の使者が死後、再び地上に戻ってくることはあります。


――聖霊に対する罪というのは何でしょうか。


聖霊の存在を否定することです。


――聖霊とはそもそも何なのでしょうか。


物質界へ注がれる“霊力”のことです。キリスト教では漠然と聖霊を崇拝していますが、それが人類の誰にでも与えられるものであることは否定します。こうして皆さんと語り合うことを可能にしているのも霊力が働いているからです。その大霊の力が、ほんのわずかな時間ではあっても、霊界と地上界とが一つの目的のために一体となることを可能にしてくれているのです。


――聞くところによると、洗礼を受けることによって死後、その宗派の霊の一団が迎えてくれ、新しい環境を整えてくれるということです。もしそうだとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか。


この大宇宙を動かし、物的身体に生命の息吹を吹き込んだのは大霊です。すべての世界と宇宙を支配する全法則を創造し、ありとあらゆる次元の生命として顕現しているのも大霊です。太古から予言者や霊能者を通して顕現し、すべてのものの内部と背後に存在するのが大霊なのです。その大霊が、一人の人間に水滴が垂らされているか否かでお困りになるようなことはありません。

大切なことは、自分自身の最高の理想に従って地上生活を送ったかどうかです。赤子に二、三滴の水を垂らしたからといって、それで摂理が変えられるわけではありません。摂理は絶対に変えられません。原因には必ずそれ相当の結果がともなうのです。


――キリスト教は多くの優れた人物を生み出しているのではないでしょうか。


そうした人物は、クリスチャンであろうとなかろうと立派な人間だったはずです。


――でも、イエスの教えに従おうと心がけることで立派になった人もいるのではないでしょうか。


地上人がナザレのイエスを本当に見習うようになったとき、新たな人類の歴史が始まることになります。現在は、まだそこまでには至っておりません。私にはその兆しが見えないのです。“イエスの僕”と公言しているにもかかわらず、実際にはイエスを裏切るような生活を送っている人たちのことを、私の前で“クリスチャン”と呼ばないでください。イエス自身、「私に向かって、主よ、主よ、と呼びかける者のすべてが天国に召されるわけではない。天にまします父の意思を実践した者だけが召されるのである」と言っているではありませんか。


――教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリスチャンも大勢いると思うのですが……。


そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。言わばダメなクリスチャンですが、人間としては立派です。教義は必ず魂の足かせになるということを忘れないでください。教義を重んじることで立派になれるのではありません。教義を無視しても立派になれるのです。キリスト教では教義の名のもとに、殺し合いと火刑(かけい)を行ってきました。魂を縛るもの、魂を閉じ込めるもの、魂の自由な顕現を妨げるものは排除しなくてはなりません。


――ハンセン病患者の居住地へ支援のために赴く聖職者たちについて、どう理解したらよいのでしょうか。


彼らは教義に動かされて赴くのではありません。魂が「患者を助けたい」と望んでいるからです。宗教は教義を超えたものです。教義は宗教ではありません。


――イエス・キリストは、教会が言っている通り「神の唯一の御子」なのでしょうか。それとも我々と同じ人間であって、ただ並外れた霊的能力を持っていたということなのでしょうか。


ナザレのイエスは、大霊から託された使命を達成するために物質界へ降誕した大霊の使者の一人でした。イエスは地上でなすべき使命は果たしましたが、それで使命のすべてが終わったわけではなく、今なお霊の世界から働きかけています。そのイエスを崇拝の対象とするのは間違いです。崇拝の念は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません。

イエスは、大霊が定めた“自然法則”――すべての人間がこの地上界へ誕生するに際して支配を受ける法則に従って誕生しています。いかなる人間も、大霊の自然法則の関与なしに地上界へ生まれ、そこで生活し、霊界へと旅立つことはできません。


――そのことを立証する言葉が聖書の中にあるでしょうか。


私が訴えるのは大霊の摂理だけです。いまだに聖書の一言一句にこだわる人間は、大霊が今なお活動し、霊の息吹を注ぎ、自らを顕現させていることを理解するようになるまで放っておくしかありません。

大霊の摂理は今も働いており、ふさわしい道具が用意されたなら、霊力はいつでも流入することができるのです。あなた方が“バイブル”と呼ぶ書物は立派なものかもしれませんが、もっと素晴らしい“バイブル”があるのです。それが大霊の法則によって維持されている“宇宙”なのです。あなた方は、そこから地上界のいかなる書物よりも多くのことを学ぶことができます。地上でどれほど偉大なものとされ、尊重され、崇(あが)められている書物(聖書)であっても、宇宙とは比べものになりません。


――イエスは今どこにいるのでしょうか。また何をしているのでしょうか。


“ナザレのイエス”と呼ばれた人物を通して顕現した霊は、二千年前に開始した使命を成就すべく今なお地上界へ働きかけています。その間、数え切れないほど十字架にかけられ、今も毎日のように十字架にかけられています(本当の教えが踏みにじられているということ――訳注)。しかし、地上でイエスと呼ばれた霊も大霊の一部ですから、大霊のために地上界へ平和と幸せをもたらすことができる道具さえあれば、どこであってもその影響力を拡大し続けます。


――あなたが“ナザレのイエス”とおっしゃるとき、それはあのイエスと呼ばれた人物のことですか、それとも彼を通して働いている霊力のことですか。


イエスと呼ばれた人物のことです。ただしその後、イエスは進化し、彼を通して現れる霊的意識は、地上時代とは比較にならないほど次元が高くなっています。当時、地上で現れていた意識は、必然的に時代的な制約を受けざるをえませんでした。とは言え人類史上、イエスほどその霊を顕現させた人物はいません。彼ほど大霊の摂理をはっきりと体現してみせた人物はいないのです。


――この二千年の間にですか。


はい、後にも先にもいません。大霊の顕現としては地上界が受けた最大級のものです。しかし、私たちは、地上に降誕したナザレのイエスという人物を崇拝するようなことはしません。私たちは、イエスを通して働いた霊力に賛辞を捧げます。私たちは、イエスは霊力の道具としてのみ尊敬されるべきであると考えているのです。


――霊界では、さらなる啓示をもたらすためにイエスのような指導者を地上へ派遣する計画があるのでしょうか。


時代が異なれば、その必要性に応じて別の手段を講じることになります。忘れてはならないのは、現代の地上界は(イエスの時代に比べて)はるかに複雑化しており、いろいろな面で相互の結びつきが強くなっているために、さらに多くの交信チャンネルを開かなければならなくなっているということです。人々のさまざまな性格や習慣、思想、行動様式、生き方の違いを考慮しなくてはなりません。(別のところでシルバーバーチは、もうイエスのような霊的巨人が出現することはないし、その必要もないと述べている――訳注)

霊界からのメッセージは、それぞれの国の環境や特性、民族的習慣に適応するものでなければなりません。多様な民族の言語による制約も受けます。しかしその背後には、イエスの時代と同じ霊力の働きがあるのです。

キリスト教では、“死者”から蘇り、“死後”に姿を現し、“死の彼方(かなた)”まで生命が続くことを証明してみせたイエスを崇拝の対象としてきました。イエスは死後に姿を現したのが自分であることを証明するために、十字架にかけられたときの傷跡まで見せています。その後も、弟子たちの前に姿を現しています。

イエスの復活は証明できないにもかかわらず、キリスト教会はそのすべてを事実として信じています。(イエスが神の御子であるからこそ)奇跡が起きたのだと言います。私たちは、死後にも生命が続くことを証明するために、イエスに働いたのと同じ摂理を通して地上界へ戻ってまいりました。大霊は永遠に存在し、その摂理は不変であることを示すために戻ってきたのです。イエスの復活は今、私たちに働きかけているのと同じ摂理の働きによるものであり、その摂理を通してすべての人間が蘇ることになるのです。

シルバーバーチの教え(上)

Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳) 



7章 正しい祈りとは


〔祈りは、スピリチュアリズムに限らず、あらゆる宗教においてよく論じられるテーマである。「祈れば神が聞き届けてくださるか」ということであるが、祈りは摂理の支配を受けており、摂理に適えば効果を生み、摂理に適わなければ何も生じないということを知っている人は少ないようである。シルバーバーチは祈りについての質問に対して、次のような見解を示している。〕
質疑応答


――祈るということは大切でしょうか。


その祈りがどういうものであるかによって答えが異なります。目的のないきまり文句のただの繰り返しでは、空気に振動を起こすだけです。が、魂の奥底からの誠心誠意の祈り、大霊との一体化を深め、大霊の道具として有用な存在になりたいとの願望から出た祈りは、祈る者の霊性を強化し、大霊の道具としてより相応しい存在にします。そうした祈りは自我を顕現しようとする行為であり、心を開く行為であり、私たち霊界の者との結束を固めることになります。


――それは、祈りが生み出す結果は主観的なものだけで客観的なものは生み出さないということでしょうか。人間性を高めることはあっても、具体的なものは生み出さないのでしょうか。


真実の祈りは、あなた方にとって奉仕(サービス)の準備を整えるためのものです。あなた方を、より高度なエネルギーと調和させるための手段です。本当の祈りとは、誰かがつくった祈りの文句を意味も分からずに繰り返すことではなく、全身全霊を込めて到達できる最も高い次元にまで魂を引き上げようとする行為のことです。そのとき、祈りの結果としてもたらされるインスピレーションによって魂が満たされ、霊性が強化されるのです。


――他人のために祈ることにも何か効用があるのでしょうか。


あります。真摯(しんし)な祈りは決して無駄にはなりません。そうした祈りの意念には効力があります。


――治療家による遠隔治療の祈りには現実的な効果があるのでしょうか。


あります。これまでの質問には個人的な祈りを念頭にお答えしてきましたが、同じことがどの祈りにも当てはまります。祈りによって心霊的(サイキック)エネルギーが放出され、それが霊的治療家の背後霊団によって活用されることになります。


――祈りによって霊界の人々の援助を得ることは可能でしょうか。


もしあなたが、真心を込めて祈るなら、それによってより高度なエネルギーを受け入れやすくなります。祈るという行為そのものが魂を開かせるのです。もちろん全身全霊を傾けた祈りのことです。単なる願い事は祈りではありません。真実の祈りは重要な霊的修練なのです。「祈りは、あくまでも目的に至るための手段であって目的そのものではない」――これが最も正しい祈りの定義です。

私が勧める祈りの言葉は、たった一言しかありません。「何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え」――これです。大霊のため、そして大霊の子供たちのために一身を捧げたいとの祈りほど、崇高なもの、偉大な愛、これに優る宗教、これより深い哲学はありません。どのような奉仕でもかまいません。大霊の摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、飢えに苦しむ人に食べ物を与えてあげることでも、あるいは暗い心を明るくしてあげることでもよいのです。人々のために役に立ちさえすれば、どのような方法であってもかまいません。

自分のことを忘れて他人への奉仕を優先すればするほど、それだけ霊性が発達します。それは、あなた方一人ひとりの内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら奇妙な説教をします。彼らは私にも理解できない長たらしい言葉を用いて、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。

そんなことよりも、生きる意欲を失くしている人のところへ出かけていって元気づけ、疲れた人に眠る場所を与え、飢えに苦しむ人の空腹を満たし、渇いた人の喉を潤し、暗闇に閉ざされた人の心に明るい真理の光を灯してあげることです。そうしたことを実行しているとき、あなた方を通して大霊の摂理が働いていることになるのです。


――しばしば、祈りが聞き届けられないように思えることがあるのですが、なぜでしょうか。


すべての人間の内面では、常に“人間臭いもの”と“神性を帯びたもの”との間で葛藤があります。後者が勝てば大霊と一体となった喜びを味わいますが、前者が勝ったときには霊性が低下します。私たち霊界の者は、皆さん方が望む方向ではなく、最高の奉仕に役立つ方向に導こうとしております。

地上の人間はとかく、魂の成長にとって良くないもの、進歩を遅らせることになるものを要求しがちです。これは叶えてあげるわけにはいきません。また、手にする資格のないものを要求することもあります。これも叶えられません。さらに、こちら側ですでに授ける準備をしていて、そのタイミングをはかっているものを要求することもあります。大霊はすべての人間の祈りを、たとえ口には出さなくても先刻ご承知であることを知ってください。

身を横たえる家もなく、風雨にさらされ、夜空の下で寝なければならない者、また肉体を養うだけの食べ物にありつけない者がいるというのに、あなた方の取るに足りない心配事が大霊の目から見て大事だと思われますか。

この(サークルが開かれている)家には、絶えず一団の霊が訪れています。その一人ひとりが高い世界へ向上する権利を一時的に放棄して、地上の暗闇に光明をもたらすための環境づくり(光のサークルづくり)に携わっているのです。そうした使命に比べれば、地上の些細なトラブルなど物の数ではありません。

忘れないでいただきたいのは、皆さん方一人ひとりが大霊の素晴らしい計画に参加し、わずかではあってもその目的達成のために貢献しているということです。いつの日か計画のすべてが達成され、地上のあらゆる人種・民族が、それぞれの役割を担うことになります。その時、完全な地上世界が実現することになります。

交霊会で何の動きも生じていないと思われるようなときでも、実は静寂の中で霊的な反応が起きています。それが刺しゅうの中に織り込まれることになるのです。昼も夜も、巨大な織物は休むことなく織り続けられ、ついには地上全体を被うことになります。皆さんは、その仕事の一端を担っているのです。


――各地の教会で日々繰り返されている祈りには、何か効果があるのでしょうか。


祈る人によります。口先だけの祈りは、虚しい音声の羅列にすぎません。魂からの祈り、大霊に近づきたいと切望する本心からの祈りであれば、その熱誠が祈りに翼を与え、霊界の深奥(しんおう)へと運ばれていくことになります。


――酒浸りの親を更生させたいという幼い子供による祈りは効果を発揮するでしょうか。


真摯な祈りには必ず霊力がともなうものです。が、その霊力がどこまで物的次元に転換されるかとなると、いろいろな条件を考慮しなければなりません。今おっしゃった例で言えば、子供の父親の霊性レベルが問題となります。祈りが父親の魂に届くか、あるいはあまりにも霊性が低いために霊的なことに何の反応も示さないかのどちらかが考えられます。したがってご質問に対しては、イエスともノーとも言えません。


――でも、何らかの影響はあるのではないでしょうか。


すべての祈りは自らを高めようとするところから発するものです。人の役に立つことを願う祈り、知識や光明、叡智や導きを求める祈り、こうした祈りはすべて魂の進化の現れです。あなたの精神は肉体の一部ではなく、霊の一部、大霊の一部なのです。そしてそれは大霊に由来する力を秘めています。しかし、あなたがその力を使用できるようになるには魂の進化が先決です。それなくして内在する大霊を顕現させることはできません。


――祈りの言葉は霊に聞こえるのでしょうか。それともある種のバイブレーションに調和し反応するような力が必要なのでしょうか。


祈りは魂の表現です。そのことを分かりやすく説明しましょう。祈りは光明と導きを願い求める魂の叫びです。祈るという行為そのものが回答をもたらすのです。なぜなら、その行為が思念の力を生み出すからです。

その力が原因となって回答を生み出します。その回答が結果です。霊は、あなたの祈りの言葉を待っているわけではありません。祈りに込められたあなたの思念が、ただちにそれにふさわしい界層の霊に届くのです。あなたの魂の進化の程度に応じた界層です。

その霊たちは地上世界のために役に立ちたいと切望していますから、あなたの思念の力に、その霊たちの力が加わるのです。大霊の一部である思念のバイブレーションが、新たな活動を呼ぶことになります。それは、あなたの霊性のレベルに応じた宇宙のエネルギーを動かすことが可能になったということです。宇宙のエネルギーを、あなたも活用することができるようになったということを意味しています。

祈る人の進化の程度によっては、ある理想に向けて意念を集中しなければならないことがあるかもしれません。その方が有効だという人に、私は異論は唱えません。ただ私が申し上げたいのは、祈りをするうえで常に意識しなければならない対象とは、大霊、生命の摂理、宇宙の自然法則であるということです。

大霊は完全なる存在ですから、大霊の摂理も完全です。その完全なる大霊の一部があなたの内部に潜在していて、発現を求めているのです。祈りや奉仕によってそれを発現させるなら、大霊があなたを通して顕現することになります。祈りや奉仕といった魂の向上のために為すすべての実践は、あなたの霊性の進化を促すことになるのです。


――すべてのものが不変の法則によって支配されているのであれば、大霊に祈っても意味がないのではないでしょうか。というのは、祈りとは大霊に法則を変えてくれるように依頼することではないかと思うからです。


それは私が理解している祈りとは違います。祈りとは、大霊に近づこうとする魂の願望です。自己の内部の大霊を顕現しようとする行為であり、その行為が魂を開かせ、それまで届かなかった段階に至ることを可能にするのです。

そこには不公平もえこひいきもありません。祈りは内部の大霊をより多く顕現させ、より多くの恩寵(おんちょう)を引き寄せるための魂の活動です。大霊の恩寵は無限であり、あなたの魂は、その無限性を顕現させようと学んでいるのです。


――人間はなぜ、神に罪の許しを乞うのでしょうか。摂理を犯せば必然的に罰が与えられると思うのですが……。


許されたからといって、それで償いが済むわけではありません。代償は必ず払わなければなりません。しかし祈りによって許しを乞うということは、大霊の摂理に調和しようとする行為であり、償いの始まりです。これまでの歩みを見直し、自己を省みるところから本当の償いと霊的進化が始まるのです。


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8章 地上の宗教の間違い