Wednesday, September 30, 2026

霊訓〈完訳・上〉 

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





3節

本節の内容 
*筆記の激しさによる著者の頭痛その説明
*現行法律の欠陥 *霊的知識の欠如 *地縛霊
*早世した霊の得失 *体験と試練の必要性 
*“動”の世界と“静”の世界
*宇宙の内的世界の分類と地上生活の位置
*悪の世界への堕落 *極悪霊のたどる運命
*イエスの述べた“赦し難き罪”とは


〔前節の通信が書かれた時の勢いはこれまでになく激しいものだった。一ページ一ページきちんと余白を取り、段落をつけ、実に細かい文字で書き、God(神)の文字だけは必ず大文字で書いた。書き上がったものを見るとまさに書き方の手本のようだった。が、書き綴っている時は手がヒリヒリし、腕ががくがくして、強烈なエネルギーが身体を流れるのを感じた。書き終わった時はぐったりとして横になるほど疲れ果て、頭の奥に激しい痛みを覚えた。そこで翌日さっそくその頭痛の原因を尋ねた。すると非常に穏やかな筆致でこう綴られた――〕


あの時の頭痛はエネルギーの強さと、それをそなたより引き出す時の速さが度を越したからである。あのような重大なる問題については熱烈さを伴わずしては書けぬ。われらが地上へ派遣されたそもそもの目的が、その種の問題にそなたの関心を向けさせることにあるからである。われらは神の定めたる不変の法則に従うことの重大性を何としても強く印象づけておきたく思う。それを犯すことは己を危うくすることでしかないからである。

戦争は人間の欲望と野心、怒りと驕(おご)りと復讐心の産物にほかならぬ。然して戦争のあとに残されるものは一体何か。神の美(うる)わしき自然が破壊され踏みにじられる。人間のすばらしき平和な勤勉の産物が無残にも破壊される。到るところが血の海となる。そうして未熟で無知で未浄化の霊魂が肉体から引き離されて洪水の如く霊界へと送られてくる。ああ、何たる愚行! 何たる蛮行! 地上自ら悪を生み、そして常に悲劇に終わる。その愚かさに目覚めぬかぎり人類の進歩は遅々として進まぬであろう。然るに人間はひきも切らず悪のタネを蒔き続け、それがわれらの仕事の障害ともなっている。

人間の社会制度と国家機構には改めねばならぬことが数多くある。取り入れねばならぬものが数多く存在する。

例えば人間の社会は大衆のための法律と言いつつその実、犯罪人を懲(こ)らしめるための法律でしかない。もとより法律には懲罰的要素もなくてはならぬ。が、同時に更生的要素も持たねばならぬ。然るに異常者とみた者をすぐに逮捕し、他の者へ危害を及ぼさぬようにと隔離する。数年前に大規模にそれを行ない、拷問にかけ、精神病棟をぎゅうぎゅう詰めにした。彼らのどこに罪があると言うのか。何のことはない。その口にすることが普通一般の常識と異なるというに過ぎぬ。あるいは――古(いにしえ)より狂人とされた者の多くがそうであり、今なおよくあることであるが――単に未熟霊にそそのかされたに過ぎぬのである。いつの日かその真相を知って後悔することであろうが、常識の道からはずれることが必ずしも狂える証拠とはかぎらぬ。霊の訓えの道具となることが精神に異常を来したことにはならぬのである。人間の愚行によりて多くの神の使徒が公然とその使命を遂行する自由を奪われ、さらに、われらが精神病棟を溢れさせ、霊媒を発狂させた元凶であるという誤れる認識が行なわれている。盲目にして無知なる為政者がわれら霊とその訓えと関わりをもつ者すべてを精神病者と決めつけたからに他ならぬ。愚かにも人間は霊の世界と関わりをもつことそれ自体を狂気の証と決めつけ、従って霊的真理を口にする者は悉(ことごと)く狂人であり、故に精神病院に隔離せねばならぬと決定した。そして偽りの供述書を作成することによって霊媒に狂人の汚名を着せ、幽閉することに成功すると、今度は、霊媒を狂わせたのは霊であるとの口実のもとに、その罪をわれらに押しつけたのである。

もしこれを無知の産物と言うのでなければ、神への冒涜と言わねばなるまい。われらは神の恵み以外の何ものももたらさぬ。地上の同胞にとって、われらは神の真理の担い手にほかならぬ。人間がその罪深き心と卑しき生活によりて同類の邪霊を引き寄せその邪性を倍加すれば、その罪は人間自らが背負わねばならぬ。邪霊たちは人間の蒔いたタネを刈り取っているに過ぎぬ。邪霊を咎める前にまず人間自らがその過ちを知らねばならぬ。魂と身体(からだ)の管理をおろそかにしたために道を間違えたのである。これを言い換えれば、神聖なる霊の影響力から遠ざかったという意味において迷っているのである。が、われらはその種の人間には取り合わぬ。彼らはまだしも良い。彼らより遥かに道を踏み外せるのは、道を踏み外せる者と思わずにいる飲んだくれの肉欲集団である。彼らは快感に浸りて己を忘れ、汚れたる肉体の官能を飽くことなく刺戟し、堕落者、不道徳者と交わり、挙句には、いま一度肉体的快楽を求めてうろつきまわる邪霊・悪霊の餌食となって行く。われらの目にとりて、こうした邪心と不純の巣窟ほど恐ろしきものはない。この上なく卑しく、この上なく恐ろしき堕落の巣窟である。言うなれば、人類の文明の汚点であり、知性の恥辱である。


――いま一度肉体的快楽を求めるとはどういう意味ですか。


こうした地縛の霊たちは、地上時代の肉体的欲望と性向とを多分に残している。それを直接感識する器官はすでにないが、欲求だけは消えぬ。飲んだくれは相変わらず酒と性の味が忘れられぬ。否、むしろ一段と強く求める。いくら耽っても満足を得ることができぬためである。魂の中に欲望の炎が燃えさかる。その欲望に駆られて、かつての通いつめた悪徳の巣窟へと引きつけられ、そこで快楽に耽る人間に取り憑き、その者の堕落を一層深めていく。かくして再び地上生活を味わい、同時にその人間が深みにはまり行くのを見て、悪魔の如く、してやったりと、ほくそえむ。悪徳が引きつがれ、罪悪と悲しみを産み続ける。魂を奪われたその哀れなる者は目に見えぬ悪の使者に駆りたてられ、泥沼に深く深く沈んで行く。家では妻と子が飢えと悲しみに言葉もなく打ち暮れている。そのまわりを、打つべき手を全て失いたる守護霊(1)が、為すすべもなく徘徊する。

こうした例を持ち出すのは、地縛霊が酒色に耽る人間を虜(とりこ)にして、今一度地上的快楽を味わっている現実を知らしめんがためである。一度酒色に溺れし者の更生が困難であるのは、かくの如くに悪徳の悪循環が行われているためである。その悪循環を断ち切る方法は人類全体の道徳的意識の高揚と物的生活の向上に俟(ま)つほかはない。それにはまず、より垢(あか)抜けした真実の霊的知識の普及が必要である。つまり幅広き真の意味での高等教育が要請されるのである。


――そうすることによって、いま例を挙げられたような憑依が防げるということですか。


さよう。最後には防げる。人間の側より餌を撒くが如き愚を続ける現状が維持されるかぎりは、それ以外には方法はあるまい。


――幼くして死んだ子供は一気に高い世界へ行くのでしょうか。


そういうことは有り得ぬ。地上生活ならではの体験は決して免除されることはない。確かに、汚れを知らぬという利点のおかげで“浄化のための境涯”は速やかに通過できよう。が、体験と知識の不足は、それを補い鍛練することを仕事とする霊による指導を仰がねばならぬ。故に、地上生活を中途で打ち切られることは、このままでは魂の成長を遅らせ損失を招くのみと見なされた場合を唯一の例外として、決して得にはならぬ。与えられし宿命に甘んじ、己の成長と同胞の福祉のために精を出し、神を崇め、神に奉仕し、背後霊の指導に素直に従う者こそ、地上生活を最大限に活用した者と言えよう。そうした地上生活を送れる人間たちは改めて学び直すものはなく、従って霊界での向上も速やかである。魂の向上を妨げるのは、あらゆる種類の自惚(うぬぼ)れと利己心、無精と怠慢、そしてわがままである。公然たる罪悪と悪徳、それに偏見から真理の受け入れを拒否する頑迷固陋(ころう)の態度――こうしたものは言うに及ばぬ。魂の肥やしは愛と知識である。子供には愛はあるかも知れぬ。が、知識は教育されぬかぎり身につくものではない。これは、霊媒の背後霊の一人となりて生活を共にすることによりて獲得されることがよくある。が、夭折する子の中には、もしもそのまま地上生活を続けていれば、徒に悪徳と苦しみにさらされたであろうと見なされた子が少なくない。そうした子は知識の上での損失を純粋性で補ったと言える。が、不利な環境の中で闘い、そして克服した者の方が遥かに気高い。試練によって一段と清められたるが故に、そうした魂のために用意された境涯へと進むことを得る。地上的体験は貴重なのである。その体験を得んとして大勢の霊が地上に戻り、霊媒の背後霊となりて己に必要な体験を積まんとしている。それは、ある者にとりては情愛の開発であり、ある者にとりては苦しみと悲しみの体験であり、またある者にとりては知性の開発であり、感情の抑制つまり心の平静の涵養であったりする。かくの如く、地上に戻り来る霊には、われらの如き特殊な使命を帯びたる者を除いては、それ自身にとりて必要な何らかの目的がある。つまり、われら並びにそなたたちとの接触を通じて向上進化を遂げんとしているのである。それは魂の自然の欲求なのである。より高き向上! より多くの知識! より深き愛! かくして不純物が一掃され、神に向いて高く、より高く向上して行くのである。


――地上に戻ることだけが進歩のための唯一の手段ではないでしょう。


無論である。しかもそれが普通一般のことでもない。われらの世界には数多くの教育施設が用意されている。また、一度失敗した方法は二度と採用せぬ。


〔このあと霊の住居と仕事について通信が続いたが、私には今一つ理解がいかないので、筆記者は自分の境涯以外のこと、というよりもむしろ、その上の界の事情にも通じているのかどうか、また、地上よりもっと低い境涯への誕生もあるのかどうかを尋ねてみた。すると、霊にも霊界の全てに通暁する能力はないこと、また魂が向上発達し完成されていく、いわゆる“試練”もしくは“浄化”の環境と、そのあとに来るいわゆる超越界――いったん突入したら(よくよく特殊な場合を除いて)二度と戻ることのない“無”の世界――との間には大きな懸隔があるということだった。そしてこう綴られた。〕


七つの試練界の最高界から超越界の最低界への突入は人間の死にも似ていよう。が、その超越界につきてはわれらも殆ど聞かされていない。ただ、われらがこうしてそなたを見守っている如く、その世界の至聖なる霊もわれらを援助し導いて下さっていることは承知している。が、それ以外の客観的な事実については何も知らぬ。判っているのはその世界の霊はいよいよ神的属性が完成に近づき、宇宙の根源に通じ、神を身近に拝むことを得るらしいということのみである。われらとてまだまだその至福の境涯からは程遠い。まだまだ為さねばならぬことがある。その遂行の中に喜びを見出しているところである。霊といえども己の得た経験と知識に基いて語っていることを承知しておく必要があろう。奥深き問題についても、それまで知り得たかぎりの知識の範囲で解答を出す。故に真実から外れたことを述べることも有り得るわけであるから、そうした霊を咎めてはならぬ。霊の世界についてわれらが間違いなく言えることは、そなたらの住む地球が七つの下層界のうちの最高界であり、その上に七つの活動の世界があり、さらにそのあとに七つの超越的瞑想界が存在するということである。(2)但しその七つの各界には数多くの“境涯”が存在する。自ら堕落の道を選べる者が遂に後戻りの出来ぬ境涯まで落ち込んで行く理由については、すでに少しばかり述べた。絶え間なく悪を求め、善を拒絶していくことは必然的に純粋なるもの善なるものへの嫌悪感を育(はぐく)み、邪悪なるものを求めさせることになる。こうした性癖の霊は、普通、獣欲に支配された肉体に宿ることが多い。成長とともに獣欲の誘惑に負け、挙句の果てにその奴隷となる。高尚なるものへの憧憬も、神への崇拝心も、聖なるものへの望みもすべて消え失せ、霊に代わりて肉体が完全に支配し、己の思うがままに行動し、道徳的規範も知的判断力も持ち合わせぬ。かくして魂は邪臭ふんぷんたる雰囲気に包まれていく。ここに至る者は危険この上なき状態にあると言わねばならぬ。もはや背後霊は恐怖におののきてその場を逃れる。その雰囲気に息が詰まるのである。すると代わって別の霊たちが群がり寄る。かつて地上で同じ悪癖に身を亡ぼした者たちである。彼らは今一度官能の快楽を味わい、その人間を罪深き生活へと追い込んでは快哉を叫ぶ。こうした肉体的罪悪を再び繰り返さんとする性向は自然の法則(おきて)を意識的に犯せる報いの中でも取りわけ恐ろしきものの一つである。彼は遂に肉体的快楽の味の虜になり果ててしまった。そして見よ! その肉体が滅んでも彼は相変わらずかつての快楽を求めて、行きつけの店をうろつきまわる。そうして、そこに屯(たむろ)する同類の飲んだくれに憑依して再び酒色に耽る。都会に軒を連ねる酒場、哀れなる道楽者の屯する悪徳の巣窟にはかつて地上で同じように酒色と悪徳に耽りたる霊がうろつきまわる。彼らは地上で飲んだくれの生活を送った。それを今また繰り返し、あまつさえ、そこに通いつめる人間を深みに引きずり込んでは、してやったりとほくそえむ。そなたがもしその邪霊の群がる場を一目見れば、悪のはびこる謎の一端を知ることが出来るであろう。悪の道にはまりし人間の再起を困難にし、地獄への堕落を容易にし、光明への帰還を妨げるのは、実にこれら邪霊なのである。地獄への坂道には狂えるが如き勢いで破滅への道を急ぐ邪霊がそこかしこに屯する。その一人一人が邪霊集団の拠点であり、人間を次々に破滅へ追いやっては、彼らと同じ惨めな境遇にまで引きずり下ろすことに快感を味わっているのである。引きずり下ろされた者は肉体から離れるとすぐさま地上よりさらに下層の同種の境涯に引き寄せられて行く。そして誘惑者と暮らしつつ、肉体を失いし後もなお消えやらぬ激しき情念と酒色に耽るのである。

こうした境涯の霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより、魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求の芽生えた時が更生への第一歩である。その時より神聖にして気高き波長に感応するようになり、救済団による手厚き看護を受けることになる。地上にも自らを犠牲にして悪徳の世界に飛び込み、数多くの堕落者を見事に更生せしめている気高き人物がいる如く、われらの世界にもそうした奈落の底に沈める霊の救済に身を投じる霊がいる。そうした霊の努力によりて善に目覚め、堕落の生活より救済され、浄化の境涯における長く辛き試練を経てついに悪の影響と断絶し、清らかにして善なる霊の保護のもとに置かれた霊は決して少なくない。かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。それより更に深く沈みたる境涯についてはわれらも多くを知らぬ。漠然と知りたるところによれば、悪徳の種類と程度によって、さまざまな区別がなされている。中には善なるものへの欲求を全て失い、不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く深く沈んで行く者がいる。そして遂には意識的自我を失い、事実上、個的存在が消滅していく。少なくともわれらはそう信ずる。

ああ、なんと悲しきことであることか! が、有難きことに、こうした霊は稀にしか存在せず、よくよくの事情にて善と聖へ背を向けた者に限られる。これがイエスが弟子たちに語れる“死に到る罪”である。聖書に言う“聖霊に対する罪”(3)である。すなわち聖なる神の使徒の声に背を向け、聖と純と愛の生活を棄てて悪徳と不純の生活を選びし罪である。動物性が霊性を駆逐し、身体までも蝕(むしば)み、情欲を刺激し、最も下賤なる感情をさらに汚し、人間性を最下等の獣性にまで引き降ろしてしまう罪である。そこまで至れる者はもはや神性は消え失せ、野獣性が異常に助長され、強化され、発達し、すべてを支配し、霊の光を消してしまい、向上心の息の根を止める。悪徳の念のみが燃えさかり、魂を向上の道から遠くへ遠くへと引きずり下ろし、ついに動物性を病的なものにする。もはや霊の声も届かぬ。魂は一路奈落の底へ深く深く沈み行き、ついに底知れぬ暗闇の中へ消滅する。

これぞ聖書に言うところの、聖霊を汚す“赦し難き罪”(4)である。赦し難きとは神が赦さぬというのではない。自らその道を選びたるが故である。その道が性分に合い、いささかの悔い改めの念も感じぬためである。

罰は常に罪そのものが生み出す。それが罰の本質であり、決して第三者によりて割り当てられるものではない。法を犯したことによる不可避の結果なのである。その罰より完全に免れることは絶対に出来ぬ。もっとも、悔い改めによりてその苦しみが和らぐことは有り、その結果として罪悪への嫌悪感と善への志向を培(つちか)うことにもなる。これが、誤れる方向より戻し、過ちを償わせ、その結果として魂に新たなる希望を育んで行く、その第一歩と言えよう。彼を包む霊的雰囲気はすっかり変わり、天使も気持よく近づき、援助の手を差し伸べることも出来る。悪の影響より完全に隔離される。やがて悔恨と無念の情が湧いてくる。性格は優しく温順となり、善の影響に感じ易くなる。かつての頑(かたくな)で冷酷で反発的態度は消え失せ、魂が進化しはじめる。過去の罪の償いも終わり、良心の苛責もすっかり和らいでいる。こうした過程はいつの時代にも同じである。

さきに地上の法の違反者の取り扱いの愚かさを指摘したのは、こうした観点に基づいてのことであった。万一われらが同じ要領で過ちを犯せる霊を扱ったならば、真の救済は有り得ず、堕落霊の境涯はすっかり身を滅ぼせる霊でひしめき合うことであろう。が、神はそうはさせぬ。そうしてわれらはその神の命を受けし者なのである。


〔注〕

(1)


GuardianまたはGuardian angel地上に生をうけた霊(人間)と同じ霊系に属する類魂の一人で、誕生時あるいはそれ以前から付き添い、他界したのちも、事実上永遠に、切っても切れない絆で結ばれている。

英語と同様、守護霊(ガーディアン)という文字に“守る”という意味があるために、とかく守護霊とは何ごとにつけて守ってくれる霊とばかり想像されがちであるが、本来の使命は本人の地上での使命の達成と罪障消滅すなわち因果律を成就させることであって、それを挫折させまたは阻止せんとする勢力から守ってくれることはあっても、ぜひとも体験せざるを得ない不幸や病気等の“魂の試練”まで免除してくれることはしない。

ただ、各家庭によって躾の仕方が異なるように、守護霊によって考え方や方針が異なる。従って守護霊とはこういう働きかけをするもの、と一概に論ずることはできない。


(2)


死後の世界の分類の仕方は、視点の置きどころによって諸説がある。したがって他の説と数字だけで比較するのは適当でない。


(3)


マタイ 12-31~32


(4)


同右

シルバーバーチの霊訓(二)

Guidance from Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell



十二章 病気とカルマ(宿業) 
    エドワーズ夫妻を迎えて

 心霊治療家として世界的に知られているハリー・エドワーズ氏が夫人とともに招かれた。まずエドワーズ氏が次のような謙虚な質問をした。

 「私がいつも関心を抱いているのは私たち治療家に何が治せるかではなくて、どうしても治せずにいる病気のことです。どうすればより多くの病を治し、どうすればそちらの世界の人との協力関係を深めることができるでしょうか」

 「私たちは偉大にして遠大な目的に向かって協力し合っております。その目的とは薄幸の人々、虚弱な人々、苦痛にあえぐ人々、寄るべなき人々、悲嘆に首をうなだれ胸を塞がれる思いをしている人々に少しでも援助の手を差しのべてあげることです。霊の力は人間を媒体として注ぎこむ機を窺っております。

その機を見つけると、病気の場合であれば治癒力を見せつけることによって、人間の協力さえ得られれば見えざる世界の威力と光明とをもたらすことができることを示します。

 霊の力はすなわち生命力です。生命があるのは霊があるからこそです。霊は生命であり、生命は霊です。この荘厳にして途徹もなく広大な宇宙を創造した力も、あなた方を生かしめ、これから後もずっと生かしめていく力と同じものです。

又、あなた方が愛し合い、物を思い、心を遣い、判断し、反省し、決断し、勘案し、熟考し、霊感を受け、人間的情感の絶頂からドン底までの全てを体験させる力、それは霊の力なのです。

 あなた方の一人一人が神であり、神はあなた方一人一人であると言えます。程度の差があるだけで、その本質、実質においては同じです。人間は言わばミクロの神です。

その神の力が病人を癒すのです。その力を分析してお見せすることはできません。何で出来ているかを説明することもできません。私に言えることは、それが無限の形態をとって顕現している───なぜなら生命は無限だから、ということだけです。

 霊媒現象の全てに共通した問題は、その霊的エネルギーのコントロールです。どのエネルギーがどれだけ発現できるかはその時の条件一つに掛かっています。言いかえれば、その霊媒の有する資質と、それをより大きく効果的にするための修行をどこまで心掛けるかに掛っています。

私たちの側においても常に新しいエネルギー、新しい放射線、新しい可能性を徐々に導入しては実験(ため)しております。

 ですが、そうしたものも霊媒の身体的、精神的、霊的適性によって規制を受けます。受容力が大きければ、それだけ多くのものが導入されます。小さければ、それだけ制限されることになります。

 霊力そのものは自然法則によるもの以外には何一つ制約はありません。自然法則の枠組みから離れて働くことだけはできないのです。が、その枠組みというのが途方もなく広範囲に亘っており、これまで地上の霊媒を通じて顕現されてきたものよりはるかに多くのものが、いまだに顕現されずに残されております。

 私が指摘しておきたいのは、多くの真面目で信心深い人々が神の力がバイブルに記録されている古い時代にその全てが顕現され尽くしたと思い込んでいるのは間違いだということです。

啓示もそれ以来ずっと進歩し続けております。現代の霊媒を通して顕現されている霊力の方が過去の時代のものに較べてはるかに偉大です。

 さてあなた(エドワーズ氏)は豊かな恩恵に浴しておられるお一人です。あなたのすぐ身の回りで働いている霊の姿をご覧になる視力があればよいのにと思われてなりません。

背後霊の存在に確信を抱き、あなたを導く霊力に不動の信頼を置いておられますが、その背後霊が誰でありどんな人物であるかをご覧になれたら、もっともっと自信を持たれることでしょう。

(エドワーズ氏の背後霊団の中心的指導霊は十九世紀の英国の外科医で消毒殺菌法の完成者J・リスターとフランスの化学者で狂犬病予防接種法の発見者L・パスツールであると言われる。なおエドワーズは一九七六年に他界している───訳者)

 私のような古い霊が確信をもって言えるのは、あなたの地上生活は今日の絶頂期を迎えるべく、ずっと導かれてきているということです。意図された通りのものを今まさに成就されつつあります。今まさにその目的に辿り着かれました。背後霊団があなたの協力を得て初めて成就できる仕事に携わっていることを喜ぶべきです。

 以上の私の話に納得がいかれましたか」

 「よくわかります。ただ、そうなると二つの疑問が生じます。一つは、背後霊団はもう少し私たち治療家を効果的に改良できないものかということです。例えば両足とも不自由な子供がいるとします。

一方の足は良くなったのに、もう一方の足は良くならないことがあります。どこに問題があるのでしょうか。私は治療家の側に問題があるに違いないと思うのです。なぜなら、一方の足が治せれば当然もう一方も治せなければならないからです」

 「治療家が望む通りの結果、あるいは治療霊団がその時に目標としたとおりの成果が得られるとは限りません。霊媒(治療家)を通して得られる限られた治療エネルギーでもって最大限の治療効果をあげなければなりません。一つの治療に全部のエネルギーを集中すれば一気に効果を上げられるかも知れません。が、次の治療のためのエネルギーを溜めるのに長い時間を要することになります。

 一つ一つが実験だと私は言っているのです。治療霊団も前もってこれはこうなるという保証はできません。効果が出ることはわかっても、どこまで治るかはわかりません。

前もって知ることのできない要素がいくつもあるからです。それは治療活動を制約することになるかも知れません。ですが、それまで少しも治らなかったものに治る兆しが見えるだけでも喜ぶべきことです。

 それは立派な貢献と言えます。それだけでもあなたは堂々と背後霊団に向かって〝さあ、この私を使って下さい。みなさんを信じています。あなた方の言う通りに致します〟と公言する資格があります。もちろんあなたのもとに連れて来られた患者が魔法のように即座に治ればこんなにうれしいことはありません。が、それは有り得ないことです。

 問題がいろいろとあるのです。この仕事も言わば開拓者的(パイオニア)な分野に属します。あなたに協力している霊団は一つ一つの症状の変化を知った上で、さらにテクニックを改良し効果を上げるために他の要素を導入しようと急がしく立ち働いております。治療に当たるたびに症状が改善されているのを観察されているはずです」

 「おっしゃる通りです」

 「協力関係が密接であるほど、多くの霊力が伝達されるのが道理なのですが、それを制約する要素としてもう一つの問題が絡んできます。

論議の多い問題に踏み込むことになるのは百も承知ですが、それが事実であるからには黙って見過ごすわけには行きませんので敢えて申し上げますが、どうしても避けられない要素の一つに患者のカルマ(宿業)の問題があります。当人の霊的成長の度合いによって決められる精神と身体の関係です。お分かりでしょうか」

 「どうぞその先をお話し下さい」

 「そうおっしゃると思っていました。これは実に重大な問題であり、あなたにとっても意外に思われることも含まれております。心霊治療の仕事の大切な要素は身体を治すことではなくて魂の琴線に触れさせることです。魂を目覚めさせ、身体への支配力を大きくさせ、生きる目的を自覚させ、霊的存在としての本来の自我を表現させることに成功すれば、これは治療家として最大の貢献をしたことになります。

 そのことの方が身体を治すことより大切です。それが治療家としてのあなたの努力として、永遠に残る要素です。人間は精神と肉体と魂とが一体となったものです。これに、その三者が互いに絡み合って生じる要素もあります。その影響を無視してはいけません。

 病気というのはその大半は主として精神と肉体と魂との間の連絡が正しく行われていないことに起因しています。正しく行われていれば、つまり完全な一体関係にあれば完全な健康と安定性と落ち着きと機敏性を具えています。もっとも、そういう人物は地上では滅多にお目にかかれません。

 さて、あなたのもとを訪れる患者はその人なりの霊的成長段階にあります。人生という梯子の一つの段の上に立っているわけです。それがどの段であるかが、その人に注がれる治癒力の分量を決します。それが私のいうカルマ的負債です。

 (その負債が余りに大きくて)あなたにも手の施しようのない人がいます。肉体を犠牲にする、つまり死ぬこと以外に返済の方法がない人もいます。もう一度チャンスが与えられる人もいます。そんな人があなたとの縁で完治するということになる場合もあります。精神的要素のために治らない人もいます。そんな場合は一時的に快方に向かっても、また別な症状となってぶり返すでしょう」

 「ということは、カルマ的負債の方がその人に注がれる治癒力より大きいのだと思います」

 「おっしゃる通りです。私はぜひその点を強調したいのです。それが当人に賦課された税金であり、自分で綴っている物語(ストーリー)であり、その筋書きは他の何ものによっても書き変えることはできないということです。初めに私は全ては法則のワクの中に存在すると申し上げました。

何ごともそれを前提として働きます。人間のいう奇跡は生じません。自然法則の停止も変更も廃止もありません。全てが原因と結果から成り立っております。そこに自由への制約があります。

もしも因果関係がキャンセルできるとしたら、神の公正が崩れます。治療家にできることは魂を解放し、精神に自由を与えてあげることです。その結果が自然に身体に現われます」
                   
 「それがカルマ的負債を返済する手助けをしてあげることになるのでしょうか」

 「そのとおりです。私が心霊治療家はその患者の魂の琴線に触れ、自我に目覚めさせ、生きる目的を自覚させることが一ばん重要な役目であると申し上げる理由はそこにあります」

 「私たち治療家が例外なく体験することですが、心の奥底からのよろこび、高揚、崇高な情感、崇高な理念が湧き出るのを感じることがあります。あなたがおっしゃるのはその時のことだと思います」

 「天と地とが融合した極限の瞬間───あっという間の一瞬でありながら全ての障壁が取り除かれたとき、人間は自分本来の霊性を自覚します。全ての束縛を押し破り、霊の本来の感覚であるところの法悦(エクスタシー)の状態に達するのです」


 ここでエドワーズ氏が再びカルマ的負債の問題を持ち出すと、シルバーバーチはスピリチュアリズムの本来の大きな使命にまで敷衍してこう述べた。

 「あなたも私も、そしてこれに携わる人のすべてがそれぞれに役割分担を担っているスピリチュアリズムの全目的は、人類の魂を呼び醒まして一人でも多くの人間に本当の自分に気づかせること、自分とは一体なにか、誰なのかを知ることによって、ふだんの日常生活の中において霊の本性と属性を発揮することができるように導いてあげることです。

 それによって地上生活のすべてが姿を一変し、利己主義という名の雑草の生い繁る荒野から理想の花咲くパラダイスへと変わることでしょう。

われわれは今それを目標として努力しているのであり、まずまずの成功を収めつつあります。光明を見出す人、真の自我に目覚める人、物的な居眠りの生活から目覚める人───こうした人は人間本来の道を見出し、確信と知識とを携えて巡礼の旅に出る魂であると言えましょう」

 この言葉に感動したエドワーズ氏が「これだけお教えいただけば十分です。治るということ自体は重要ではないということですね」と述べると、

 「私たちスピリットが人間の苦しみに無関心であるという意味ではありません。病を抱えた人々の悲劇や苦痛や侘しさに無頓着でいるわけではありません。が、そうした問題の究極の原因に手をつければ、精神と身体と霊との間の不調和に終止符を打つことができ、そうなれば地上生活が必要としている光輝がふんだんに注がれるのです。

神の子が享受すべく意図されている本来のもの───気高かさ、崇高さ、威厳、豊かさ、光輝、美しさを見出すことでしょう。

 こうした生活の末に死を迎えれば、来世に備えるための地上生活の大役を果たした肉体を何の苦痛もなく脱ぎ捨てて、らくに霊界への門を潜り抜けることができます」


 このあとエドワーズ氏の奥さんの方を向いてこう述べた。

 「これまでに成就されたことを奥さんも大いによろこんでください。今この場に集まっている霊界の(エドワーズ氏の)治療霊団の方が、奥さんの果たされた犠牲的な役割に対して抱いている感謝の気持ちをぜひ私の口から伝えて欲しいと頼んでおられますよ」

 これを聞いて奥さんが「自分はこんなことでよいのだろうかと時に迷ったこともありました」と述べると、シルバーバーチはさらにこう述べた。

 「私は、私よりはるかに奥さんを知り尽くしているスピリットから頼まれて申し上げているだけです。霊団の人たちはあなたの心、あなたの精神、あなたの魂を知りつくし、さらにあなたが捧げられた忠誠心と愛の強さもよく知っております。

 その人たちが言っているのです───ご主人の使命達成を可能にした蔭からのあなたの助力に対する感謝の気持ちをぜひ伝えてほしいと。一方が脚光を浴びる立場にあれば他方はその蔭にいなければなりません。蔭の存在なくしては脚光を浴びる人もいないでしょう。

 私たちの目から見れば、人のために為された貢献は、黙って人知れず為されたものであろうと大勢の観衆を前にして華々しく為されたものであろうと、その評価にはいささかの違いもありません」

霊訓〈完訳・上〉 

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





2節

本節の内容
*真の博愛主義者    *真の哲学者 *永遠の生命
*神 *善と悪との葛戦死霊、自殺霊、死刑霊の影響
*犯罪人の扱い方の問題 *集団収容と絞首刑の弊害
*更生を目的とした処罰 *死刑は復讐心を増幅させる
*神の認識の誤り *慈悲と愛 *新しい霊的福音の必要性



〔本章の通信も前章と同様インペレーターからのものである。地上という人格養成学校における最も望ましい生活はいかなる生活かという質問から始まった。インペレーターは頭脳と同様に心の大切さを強調し、身体と知性と愛情の調和の取れた発育が望ましいことを説いた。要するにバランスの欠如が進歩を妨げる大きな要因であると言う。そこで私は博愛主義者が理想的人間像なのかと尋ねた。すると――〕


真実の博愛主義者、全てに先んじて同胞の利益と進歩を慮(おもんぱか)る人こそ真実の人間、真の神の子である。なぜなら神こそ真の博愛主義者だからである。真の博愛主義者とは時々刻々と神に近づきつゝある者のことである。絶え間なき努力によりて永遠にして不滅の同情心を広げつつ、その不断の同情心の行使の中に、汲めども尽きぬ幸福感を味わう。博愛主義者と哲学者、すなわち人類愛に燃える人間と偏見なき道理探求者こそ神の宝――比類なき価値と将来性に満ちた珠玉である。前者は民族の違い、土地の違い、教義の違い、名称の違い等の制約に捉われることなく、一視同仁、全人類を同胞としてその温かき心の中に抱き込む。全ての人間を、友としてまた兄弟として愛するのである。思想の如何を問わず、ひたすらにその者の必要とするものを洞察し、それに相応(ふさわ)しい進歩的知識を授けることに無上の喜びを覚える。これぞ真の博愛主義者である。もっとも、しばしば似て非なる博愛主義者がいる。己の名声を広めんがために己に同調する者、それに媚(こ)びへつらい施しをする者のみを愛する。かくの如き似非(えせ)博愛主義者はその真実の印である“博愛”を傷つける者である。

一方哲学者は一切の宗教、いかなる教派のドグマにも媚びず、一切の偏見を捨て、いかなる真理でも、いやしくも証明されたものは潔(いさぎよ)く受け入れる。即ち、かくあるべき――従ってかくあらねばならぬという固定観念に捉われることなく、神的叡智の探求に邁進し、そこに幸せを見出す。彼には宝庫の尽きることを懸念する必要はない。何となれば神の真理は無限だからである。生命の旅を通じてひたすらに、より豊かな知識の宝の蒐集に喜びを見出す。言い換えれば神についてのより正しき知識の蒐集である。

この二者の結合、すなわち博愛主義者的要素と哲学者的要素とが一体となりし時、そこに完璧なる理想像ができあがる。両者を兼ね備えし魂は片方のみを有する魂より大いなる進歩を遂げる。


――“生命の旅”と言われましたが、これは永遠ですか。


然り。生命は永遠である。そう信ずるに足る十分なる証(あかし)がある。生命の旅には二つの段階がある。即ち進歩的“動”の世界と超越的“静”の世界である。今なお“動”の世界にあり(そなたらの用語で言えば)幾十億年――限りある知性の範囲を超えて事実上無限の彼方までも進化の道程を歩まんとするわれらとて、超越界については何一つ知らぬ。が、われらは信ずる――その果てしなき未来永劫の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。過去の全てを捨て去り、神の光を浴びつつ宇宙の一切の秘密の中に寂滅(じゃくめつ)する、と。が、それ以上は何一つ語れぬ。あまりに高く、あまりに遠すぎるのである。そなたたちはそこまで背伸びすることはない。生命には事実上終末はなきものと心得るがよい。そしてその無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院に通じる遥か手前の門に近づくことを心がけておればよい。


――無論そうであろうと思います。あなたご自身は地上に居られた時より神について多くを知ることを得ましたか。


神の愛の働き、無限なる宇宙を支配し導く暖かきエネルギーの作用についてはより多くを知ることを得た。つまり神については知ることを得た。が、神そのものを直接には知り得ぬ。これより後も、かの超越界に入るまでは知り得ぬであろう。われらにとっても神はその働きにより知り得るのみである。


〔ひき続いての対話の中で私は再び善と悪との闘いに言及した。それに対して、と言うよりは、その時の私の脳裏にわだかまっていた疑問に対して、長々と返答が書かれた。そして、これから地上に霊的な嵐が吹きすさび、それが十年ないし十二年続いて再び一時的な凪(なぎ)が訪れると語った。予言めいたことを述べたのはこれが最初である。次に掲げるのは、内容的にはその後も繰り返し語られたことであるが、その時に綴られたまゝを紹介しておく。〕


そなたが耳にせるものは、これよりのちも続く永くかつ厳しい闘いのささやき程度に過ぎぬ。善と悪との闘いは時を隔てて繰り返し起きるものである。霊眼をもって世界の歴史を読めば、善と悪、正と邪の闘いが常に繰り返されて来たことを知るであろう。時には未熟なる霊が圧倒的支配を勝ち得た時期があった。ことに大戦のあとにそれがよく見られる。機の熟せざるうちに肉体より離れた戦死者の霊が大挙して霊界へ送り込まれるためである。彼らは未だ霊界への備えができておらぬ。しかも戦いの中で死せる霊の常として、その最期の瞬間の心は憤怒に燃え、血に飢え、邪念に包まれている。死せるのちもなお、その雰囲気の中にて悪のかぎりを尽くす。

霊にとりて、その宿れる肉体より無理やりに離され、怒りと復讐心に燃えたまま霊界へ送られることほど危険なるものはない。いかなる霊にとりても、急激にそして不自然に肉体より切り離されることは感心せぬ。われらが死刑を愚かにして野蛮なる行為であるとする理由もそこにある。死後の存続と進化についての無知が未開人のそれに等しいが故に野蛮であり、未熟なる霊を怨念に燃えさせたまま肉体より離れさせさらに大きな悪行に駆り立てる結果となっているが故に愚かと言うのである。そなたらはみずから定めた道徳的並びに社会的法律に違反せる者の取り扱いにおいてあまりに盲目的であり無知である。幼稚にして低俗なる魂が道徳を犯す。あるいは律法を犯す。するとそなたらはすぐにその悪行の道を封じる手段に出る。本来ならばその者を悪の力の影響から切り離し、罪悪との交わりを断ち切らせ、聖純なる霊力の影響下に置くことによって徐々に徳育を施すべきところを、人間はすぐに彼らを牢獄に閉じ込める。そこには彼と同じ違反者が群がり、陰湿なる邪念に燃えている。それのみか、霊界の未熟なる邪霊までもそこにたむろし、双方の邪念と怨恨とによって、まさに巣窟と化している。

何たる無分別! 何たる近視眼! 何たる愚行! その巣窟にわれらが入ろうにも到底入ることを得ぬ。神の使者はただ茫然として立ちすくむのみである。そうして、人間の無知と愚行の産物たる悪の集団(人間と霊の)を目(ま)のあたりにして悲しみの涙を流す。そなたらが犯す罪の心は所詮癒せぬものと諦めるのも不思議ではない。何となればそなたら自らが罪の道に堕ちる者を手ぐすね引いて待ちうける悪霊にまざまざと利用されているからである。いかに多くの人間が自ら求めて、あるいは無知から、悪霊の虜(とりこ)にされ、冷酷なる心のまま牢獄より霊界へ送り込まれているか、そなたらは知らぬし、知り得ぬことでもあろう。が、もしも人間が右の如き事実を考慮して事に臨めば、必ずや功を奏し、道を踏みはずせる霊、悪徳の世界に身を沈めし霊に計り知れぬ救いを授けることになろう。

罪人は訓え導いてやらねばならぬ。罰するのはよい。われらの世界でも処罰はする。が、それは犯せる罪がいかに己自身を汚し、いかに進歩を遅らせているかを悟らせるための一種の見せしめであらねばならぬ。神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らを置き、罪を償い、真理の泉にて魂を潤すことを体験させてやらねばならぬ。そこには神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、暖かき霊波を注ぎ込んでくれることであろう。然るにそなたらは罪人を寄せ集め、手を施す術(すべ)なき者として牢に閉じ込めてしまう。その後、さらに意地悪く、残酷に、そして愚か極まる方法にて処罰する。かくの如き扱いを受けし者は、刑期を終えて社会に復したのちも繰り返し罪を犯す。そしてついに最後の、そして最も愚かなる手段に訴えるべき罪人の名簿に書き加えられる。即ち死刑囚とされ、やがて斬首される。心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界へ来る。それまでは肉体という足枷(あしかせ)があった。が、今その足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔の如き邪念に駆られて暴れまわるのである。

人間は何も知らぬ! 何も知らぬ! 己の為すことがいかに愚かであるか一向に知らぬ。己こそ最大の敵であることを知らぬ。神とわれらと、そしてわれらに協力せる人間を邪魔せんとする敵を利することになっていることを知らぬ。

知らぬと同様に、愚かさの極みである。邪霊がほくそえむようなことに、あたら努力を傾けている。凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したに過ぎぬ者に復讐的刑罰を与える。厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化している。断じて間違いである。しかも、かくして傷つけられし霊が霊界より復讐に出ることをそなたらは知らぬ。神の優しさと慈悲――堕落せる霊を罪悪と憤怒の谷間より救い出し、聖純と善性の進歩の道へ導かんとして、われら使者を通じて発揮される神の根本的原理の働きを知らねばならぬ。右の如き行為を続けるのは神の存在を皆目知らぬが故である。そなたらは己の本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら判らぬ高き所より人間を座視し、己の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、己の創造物については、己に媚び己への信仰を告白せる者のみを天国へ召して、その他に対しては容赦も寛恕もなき永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔の如き神をでっち上げた。そうした神を勝手に想像しながら、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えもなき言葉を吐かせ、暖かき神の御心には到底そぐわぬ律法を定めた。

何たる見下げ果てたる神! 一時の出来心から罪を犯せる無知なるわが子に無慈悲なる刑を科して喜ぶとは! 作り話にしてもあまりにお粗末。お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟なる心の産物に過ぎぬ。そのような神は存在せぬ! 絶対に存在せぬ! われらには到底想像の及ばぬ神であり、人間の愚劣なる心の中以外のいずこにも存在せぬ。

父なる神よ! 願わくは無明(むみょう)の迷える子らに御身を啓示し、御身を知らしめ給え。子らが御身につきて悪夢を見ているに過ぎぬこと、御身につきて何一つ知らぬこと、御身につきてのこれまでの愚かなる概念を拭い去らぬかぎり真の御姿を知り得ぬことを悟らしめ給え。

然り。友よ、そなたらが設けたる牢獄、法的殺人、その他、罪人の扱い方の全てにおいて、その趣旨がことごとく誤りと無知の上に成り立っている。

戦争および大量虐殺に至っては尚のこと恐ろしきことである。本来同胞として手を繋ぎ合うべき霊たち――われらは身体にはかまわぬ。一時的に物的原子をまとえる“霊”こそわれらの関心事である――その霊たちの利害の対立をそなたらは戦闘的手段によりて処理せんとする。血に飢えし霊たちは怨念と憤怒を抱きつつ肉体より引き裂かれ、霊界へと送り込まれる。肉体なき霊たちは燃えさかる激情にさらに油を注がれたる如き激しさをもって地上界を席巻し、残虐と肉欲と罪悪に狂う人間の心を一層駆り立てる。然るにその拠(よ)って来るそもそもの原因は単なる野心の満足、一時のきまぐれ、あるいは王たる資格に欠ける王子の愚かなる野望に類するものであったりする。

ああ、友よ、人間は何も知らぬ。まだまだ知らねばならぬことばかりである。しかもそれを、これまで犯せる過ちを償うため、苦くかつ辛き体験を通じて知らねばならぬ。人間は何よりもまず、愛と慈悲こそ報復的処罰に勝(まさ)る叡智なることを知らねばならぬ。かりにもし神がそなたたちが想像せる如く、人間が同胞を処罰する如くに人間を扱うとすれば、そなたたち自らも間違いなくそなたらの想像せる地獄へ堕ちねばならぬ。神につきて、われら神の使者につきて、そして自身(みずから)につきて、そなたたちはまだまだ知らねばならぬ。それを知った時はじめて真の進歩が始まり、邪霊を利する行為でなく、われら神の使者の使命達成のために協力することになろう。

友よ、もしもわれのメッセージの有用性と利益につきて問う者があれば、それは無慈悲と残虐と怨念の産物に代わりて、優しさと慈悲と愛の神を啓示する福音であると告げよ。神ヘの崇敬の念と共に、愛と慈悲と憐憫(れんびん)の情をもって全生命を人間のために尽くさんとする霊的存在につきて知らしめんがためであると告げよ。人間が己の過ちを悟り、神学的教義の他愛なさに目覚め、知性を如何にして己の進歩のために使用するかを学び、与えられたる好機を己の霊性の向上のために活用し、死してのち同胞と再会せる時に、地上での言動を非難されることのなきよう、常に同胞のために生きることを教えるものであることを告げよ。これこそがわれらの使命であることをその者たちに告げるがよい。これを聞いてもし彼らが嘲笑し、己のお気に入りの説にて事足れりと自負するならば、その者たちには構わず、真理を求めてやまぬ進取的霊に目を向けるがよい。そして彼らに地上生活の改革と向上を意図せる神のメッセージを告げるがよい。そして彼ら真理に目覚めぬ者のために祈れ。死して目を覚ませる時、己の惨憺(さんたん)たる光景に絶望することのなきよう祈ってあげるがよい。
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霊訓〈完訳・上〉序論 1節

The Spirit Teachings
ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。


序論


内容自動書記について 文体の特徴 通信霊について 通信が来る時の状況
霊媒による脚色の問題 霊媒が意志を行使できる限界
インペレーター霊の使命 著者モーゼスの意図



本書の大半を構成している通信は、自動書記(1)ないし受動書記(2)と呼ばれる方法によって得られたものである。これは直接書記(3)と区別されねばならない。前者においては霊能者がペンまたは鉛筆を手に握るか、あるいは、プランセントに手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれる。一方後者においては霊能者の手を使わず、時にはペンも鉛筆も使わずに、直接的にメッセージが書き記される。

自動書記というのは、われわれが漠然と“霊(スピリット)”と呼んでいる知的存在の住む目に見えない世界からの通信を受け取る手段として、広く知られている。読者の中には、そんな得体の知れない目に見えぬ存在――人類の遺物、かつての人間の殻のような存在――を霊と呼ぶのは勿体ないとおっしゃる方がいるであろうことはよく承知している。が、私は霊という用語が一番読者に馴染みやすいと思うからそう呼ぶまでで、今その用語の是非について深く立ち入るつもりはない。とにかく、私に通信を送って来た知的存在はみな自分たちのことを霊と呼んでいる。多分それは私のほうが彼らのことを霊と呼んでいるからであろう。そして少なくとも差し当たっての私の目的にとっては、彼らは“霊(スピリット)”でいいのである。

その霊たちからのメッセージが私の手によって書かれ始めたのはちょうど十年前の一八七三年三月三十日のことで、スピリチュアリズムとの出会いからほぼ一年後のことであった。もっとも、それ以前にも霊界からの通信は(ラップ(4)や霊言(5)によって)数多く受け取っていた。私がこの自動書記による受信方法を採用したのは、このほうが便利ということと同時に、霊訓の中心となるべく意図されているものを保存しておくためでもあった。ラップによる方法はいかにもまどろこしくて、本書のような内容の通信にはまったく不適当だった。一方、入神した霊媒の口を使ってしゃべると部分的に聞き落とすことがあり、さらに当初のころはまだ霊媒自身の考えが混じらないほど完全な受容性を当てにすることは不可能でもあった。

そこで私はポケットブックを一冊用意し、それをいつも持ち歩くことにした。すると私の霊的オーラがそのノートに染み込んで、筆記がより滑らかに出てくることが判った。それは、使い慣れたテーブルのほうがラップが出やすく、霊媒自身の部屋のほうが新しい部屋より現象が起きやすいのと同じ理屈である。スレートを使った通信(6)の専門霊媒であるヘンリー・スレードも、新しいスレートを使ってうまく行かない時は、使い古したものを使うとまず失敗がなかった。今このことにこれ以上言及しない。その必要がないほど理屈は明瞭だからである。

最初の頃は文字が小さく、しかも不規則だったので、ゆっくりと丁寧に書き、手の動きに注意しながら、書かれていく文章をあとから追いかけねばならなかった。そうしないとすぐに文意が通じなくなり、結局はただの落書きのようなものになってしまうのだった。

しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきた。文字はますます小さくなったが、同時に非常に規則的で字体もきれいになってきた。あたかも書き方の手本のような観のするページもあった。(各ページの最初に書いた)私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていた。神 God の文字はかならず大文字で、ゆっくりと、恭(うやうや)しげに綴られた。

通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図した私的(プライベート)な色彩を帯びていた。一八七三年に始まって八〇年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言説、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類いは、私の知るかぎり一片も見当たらなかった。知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわないものはおよそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つが誠実さと実直さと真剣さに満ちあふれていた。

初期の通信はさきに説明した通りの、きちんとした文字で書かれ、文体も一貫しており、署名(サイン)はいつもドクター・ザ・ティーチャー(7)だった。通信の内容も、それが書かれ続けた何年かの間ずっと変わらなかった。いつ書いても、どこで書いても筆跡に変化がなく、最後の十年間も、私自身のふだんの筆跡が変わっても、自動書記の筆跡はほとんど変わることがなかった。文章上のクセもずっと同じで、それは要するに通信全体を通じて一つの個性があったということである。その存在は私にとって立派な実在であり、一人の人物であり、大ざっぱな言い方をさせていただければ、私がふだんつき合っている普通の人間とまったく同じように、独自の特徴と個性を具えた存在であった。

そのうち別の通信が幾つか出はじめた。筆跡によっても、文体および表現の特徴によっても、それぞれの区別がついた。その特徴は、いったん定着すると等しく変わることがなかった。私はその筆跡をひと目見て誰からの通信であるかがすぐに判断できた。

そうしているうちに徐々に判ってきたことは、私の手を自分で操作できない霊が大勢いて、それらがレクター(8)と名のる霊に書いて貰っているということだった。レクターは確かに私の手を自在に使いこなし、私の身体への負担も少なかった。不慣れな霊が書くと、一貫性がない上に、私の体力の消耗が激しかった。そういう霊は自分が私のエネルギーを簡単に浪費していることに気づかず、それだけ私の疲労も大きかったわけである。

さらに、そうやって代書のような役になってしまったレクターが書いたものは流暢で読み易かったが、不慣れな霊が書いたものは読みづらい上に書体が古めかしく、しばしばいかにも書きづらそうに書くことがあり、ほとんど読めないことがあった。そういうことから、当然の結果としてレクターが代書することになった。しかし、新しい霊が現れたり、あるいは、特殊なメッセージを伝える必要が生じた時は本人が書いた。

断っておきたいのは、私を通じて得られた通信の全てが一つの源から出たものではないということである。本書に紹介した通信にかぎって言えば、同じ源から出たものばかりである。すなわち、本書はインペレーター(9)と名のる霊が私と係わり合った期間中の通信の記録である。もっともインペレーター自身は直接書くことをせず、レクターが代書している。その他の期間、とくにインペレーターとの関係が終わったあとは明らかに別の霊団から通信があり、彼らは彼らなりの書記を用意した。その通信は、その霊団との係わりが終わる最後の五年間はとくに多くなっていった。

通信の書かれた環境はそのときどきでみな異なる。原則としては、私は一人きりになる必要があり、心が受身的になるほど通信も出やすかったが、結果的にはいかなる条件下でも受け取ることができた。最初の頃は努力を要したが、そのうち霊側が機械的に操作する要領を身につけたようで、そうなってからは本書に紹介するような内容の通信が次から次へと書かれていった。本書はその見本のようなものである。

本書に紹介したものは、初めて雑誌に発表した時と同じ方法で校正が施してある。最初は心霊誌『Spiritualist』に連載され、その時は筆記した霊側が校正した。もっとも内容の本質が変えられたところはない。その連載が始まった時の私の頭には、今こうして行なっている書物としての発行のことはまったく無かった。が、多くの友人からサンプルの出版をせがまれて、私はその選択に取りかかった。が、脈絡のことは考えなかった。その時の私を支配していた考えは、私個人の私的(パーソナル)な興味しかないものだけは絶対に避けようということだけで、それは当然まだ在世中の人物に言及したものも避けることにもつながった。私個人に係わることを避けたのは、ただそうしたいという気持からで、一方、他人に言及したものを避けたのは、私にそのような権利はないと考えたからである。結果的には私にとって或る意味で最も衝撃的で感動的な通信を割愛することになってしまった。本書に発表されたものは、そうした、今は陽(ひ)の目を見ることができないが、いずれ遠い将来、その公表によって私を含めて誰一人迷惑をこうむる人のいなくなった時に公表を再考すべき厖大な量の通信の、ほんの見本にすぎないと考えていただきたい。

通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なほどの配慮をしたつもりである。最初の頃は筆致がゆるやかで、書かれて行く文をあとから確かめるように読んでいかねばならなかったほどであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも、間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていった。

こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体で綴られているのである。

だからといって、私は決して私自身の精神が使用されていないと言うつもりはないし、得られた通信が、それが通過した私という霊媒の知的資質によって形体上の影響を受けていないと言うつもりもない。私の知るかぎり、こうした通信にはどこか霊媒の特徴が見られるのが常である。影響がまったく無いということはまず考えられない。しかし、確実に言えることは、私に送られて来た通信の大部分は私の頭の中にあることとはおよそ縁のないものばかりであり、私の宗教上の信念ともその概念上において対立しており、さらに私のまったく知らないことで、明確で確実で証明可能な、しかもキメの細かい情報がもたらされたことも幾度かあったということである。テーブルラップによって多くの霊が自分の身許についての通信を送ってきて、それを後にわれわれが確認したりしたのと同じ要領で、私の自動書記によってそうした情報が繰り返し送られて来たのである。

私はその通信の一つ一つについて議論の形式で対処している。そうすることで、ある通信は私に縁もゆかりもない内容であることが明確に証明され、またある通信では私の考えとまったく異なる考えを述べる別個の知的存在と交信していることを確信することができるわけである。実際、本書に集録した通信の多くはその本質をつきつめれば、多分、まったく同じ結論に帰するであろう。

通信はいつも不意に来た。私の方から通信を要求して始まったことは一度もない。要求して得られることはまずなかった。突如として一種の衝動を覚える。どういう具合にかは私自身にも判らない。とにかくその衝動で私は机に向かって書く用意をする。一連の通信が規則正しく続いている時は一日の最初の時間をそれに当てた。私は起きるのが早い。そして起きるとまず私なりの朝の礼拝をする。衝動はしばしばその時に来た。といってそれを当てにしていても来ないことがあった。自動書記以外の現象もよく起きた。健康を損ねた時(後半よく損ねたが)を除き、いよいよ通信が完全に途絶えるまで、何の現象も起きないということは滅多になかった。

さて、厖大な量の通信の中でもインペレーターと名のる霊からの通信が私の人生における特殊な一時期を画している。本書の解説の中で私は、そのインペレーターの通信を受け取った時の魂の高揚、激しい葛藤、求めても滅多に得られなかった心の安らぎに包まれた時期について言及しておいた。それは私が体験した霊的発達のための教育期間だったわけで、結果的には私にとって一種の霊的新生となった。その期間に体験したことは他人には伝えようにも伝えられる性質のものではない。また伝えたいとも思わない。しかし内的自我における聖霊の働きかけを体験したことのある方々には、インペレーターという独立した霊が私を霊的に再教育しようとしたその厚意ある働きかけの問題は、それでもう十分解決されたと信じていただけると思う。表面的にはあれこれと突拍子もないことを考えながらも、また現に問い質すべきいわれは幾らでもあるにもかかわらず、私はそれ以来インペレーターという霊の存在を真剣に疑ったことはただの一度もない。

この序論は、私としてはまったく不本意な自伝風のものとなってしまった。私に許される唯一の弁明は、一人の人間の霊体験の物語は他の人々にとっても有益なものであることを確信でき序論る根拠が私にある、ということだけである。これから披露することを理解していただくためには、不本意ながら、私自身について語る必要があったのである。私は、その必要性を残念に思いながらも、せめて本書に記載したことが霊的体験の一つの典型として心の琴線に触れる人には有益であると確信した上で、その必要性におとなしく従うことにした。真理の光を求めて二人の人間がまったく同じ方法で努力することはまずないであろう。しかし、私は人間各自の必要性や困難には家族的とも言うべき類似性があると信じている。ある人にとっては私のとった方法によって学ぶことが役に立つ日が来るかも知れない。現にこれまでもそうした方がおられたのである。私はそれを有難いと思っている。

こうしたこと、つまり通信の内容と私自身にとっての意義の問題以外にも、自動書記による通信の形式上の問題もあるが、これは極めて些細な問題である。通信の価値を決定づけるのはその通信が主張する内容そのもの、通信の目的、それ本来の本質的真理である。その真理が真理として受け入れられない人は多いであろう。そういう人にとっては本書は無意味ということになる。また単なる好奇心の対象でしかない人もいるであろう。愚か者のたわごととしか思えぬ人もいるであろう。私は決して万人に受け入れて貰えることを期待して公表するのではない。その人なりの意義を見出される人のために本書が少しでも役立てば、それで私は満足である。

ステイントン・モーゼス

一八八三年三月

1節

本節の内容新しい霊的真理普及の時代
これを阻止せんとする勢力の存在
神の啓示
その進歩的連続性
人間による歪曲
破邪と顕正
背後霊とは
地上に戻ってくる霊
邪霊集団とその働き
悪とは
地上時代の性格の存続
個性の発達
死後その霊性に相応しい境涯に落着く
悪魔


〔世界の歴史においても特異な意味をもつこの時期とその特徴について述べたあと、さらにこう綴った――〕


今まさに新しき真理の普及のために特別の努力が為されつつある。神の使徒による働きかけである。それが敵対者の大軍による曾てなき抵抗に遭遇している。世界の歴史は常に善と悪との闘争の物語であった。片や神と善、片や無知と悪徳と邪悪――霊的邪悪、精神的邪悪、そして物的邪悪である。そこで、時として――今がまさにその時期の一つであるが――尋常ならぬ努力が払われることがある。神の使徒が一段と勢力を強めて集結し、人間を動かし、知識を広める。目的達成の時も間近い。恐るべきは真理からの逃亡者であり生半可者であり、日和見(ひよりみ)主義者である。かくの如き人種に惑わされてはならぬ。が、神の真理ゆえに迷うことがあってもならぬ。


――解ります。しかし何をもって神の真理とするか、その判断に迷う者はどうすればよいのでしょう。真剣に求めながらなお見出せぬ者が多いのです。


切に求める者にして最後に見出せぬ者はおらぬ。その道のりの長く久しき者もあろう。さよう、地上を去り、高き界へ到りてようやく見出す者もあるやも知れぬ。神は全ての者を試される。そして相応(ふさわ)しき者にのみ真理を授けられる。一歩進むにもそれ相当の備えが為されねばならぬ。それが進歩の鉄則である。適性ありての前進である。忍耐の必要なる所以である。


――それは解るのですが、内部の意見の衝突、証拠を納得して貰えないこと、偏見、その他もろもろの要因から来る障害はどうしようもないように思えます。


そなたにそう思えるというにすぎぬ。一体何故に神の仕事に抵抗せんとするのか。もろもろの障害!? われらが過去において遭遇せる障害に比べれば、そなたたちの障害など物の数でないことをそなたは知らぬ。かのローマ帝政の末期――放蕩と肉欲と卑俗と悪徳とに浸り切った地域から聖なるものすべてが恐れをなして逃げ去った、あの暗黒の時代にもしそなたが生を享けておれば、悪が結束した時の恐ろしさを思い知らされたことであろう。その非情さは絶望のそれであり、その陰気さは墓場のそれであった。肉欲、ただ肉欲のみであった。天使はその光景を正視できずに逃げ去り、その喘ぎを和らげてやることなど到底及びもつかなかった。実に、あるのはただ不信のみ。否、それよりさらに悪かった。世をあげてわれらを侮蔑し、われらの行為を貶(さげす)み、すべての徳をあざ笑い、神を愚弄し、永遠の生命をののしり、ただ食べて飲んだりの放蕩三昧の日を送るのみであった。まさしく堕落しきった動物同然の生活であった。さほどの悪の巣窟さえ神とその使者は見事に掃き清められしものを、ああ、そなたはわずかな障害を前にして、これを“どうしようもない”と嘆くとは!


〔このあとも、地上人類のための計画が人間みずからの無知と強情ゆえに何度も挫折してきた経緯が述べられた。そこで私はこのたびも失敗に終わりそうなのかと尋ねた。〕


神はそなたの想像以上に働きかけを強めておられる。地上の各地に神の真理普及のための拠点ができ、魂の渇きを潤し知性を納得せしめる真理がふんだんに地上に注がれている。むろん中には古き訓えのみにて足れりとし、新たなる真理を受け入れようとせぬ者もあろう。われらはそうした人種を構うつもりはない。それはそれでよい。が、古き啓示を十分に学び尽くし、さらに深き真理を渇望している者が大勢いる。そうした者に神はそれなりの手段をもって啓示を授けられる。それが彼らを通じて縁ある人々へと波及し、やがて山上の垂訓の如く、われらが公然と全人類へ向けての啓示を垂れる日も到来しよう。見よ! 神の隠密は地上の低き階層にて研鑽を重ね、その知識と体験をもって真理を唱道する。その隠れたる小さき泉がやがて多くの流れを集めて大河を成す。測り知れぬエネルギーを宿すその真理の大河は激流となって地上に溢れ、その時は、今そなたを悩ませる無知も不信も、愚かなる思想も罪も一気に押し流してしまうことであろう。


――その“新しき啓示”ですが、それは“古き啓示”と矛盾していませんか。その点で二の足を踏む者が多いのですが。


啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾するということは有り得ぬ。ただし、その真理は常に時代の要請と、その時代の人間の受け入れ能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに映ずるのは真理そのものではなく、人間の心に原因がある。人間は単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。時の経過と共にいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなってしまう。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなり果てる。やがてまた新しき啓示が与えられる。が、その時はもはやそれをそのまま当てはめる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り崩さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾はない。が、矛盾する如く思わせる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を顕さねばならぬ。人間は己に宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達した人間は無知なる者や、偏見に固められた人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。神は決して真理の押し売りはせぬ。この度のわれらによる啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊なる啓示と思えばよい。これまでも常にそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者を見るがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押しつけはせぬ。用意のある者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者は拒絶する。それでよいのである。そなたの嘆く意見の衝突も相違も単なる正邪の選り分けの現れにすぎぬ。しかも取るに足らぬ原因から起こり、邪霊によって煽られている。結束せる悪の勢力の働きかけも予期せねばならぬ。が、足もとにのみ捉われてはならぬ。常に未来に目を向け、勇気を失わぬことである。


――背後霊(1)のことですが、どういう具合にして選ばれるのでしょうか。


背後霊は必ずしも指導する目的のみで付くのではない。そういう場合が一番多いのではあるが、時には背後霊自身にとっての必要性から付くこともある。が、その場合でも人間を教え導くという傾向は自然に出てくる。また時には特殊な使命を帯びた霊が付くこともある。性格に欠けたものがあって、それを補ってやるために、その欠けたものを豊富に有する霊が選ばれることもある。反対に霊の側に欠けたものがあり、それを身につけるために適当なる人間を選ぶという場合もある。これは高級なる霊が好む手段である。己の霊的向上のために、敢えて指導が困難で不愉快な思いをさせられる人間に付くことを自ら希望する霊もいる。その人間と苦労を共にしつつ向上していくのである。中には霊的親和力によって結ばれる場合もある。地上的縁の名残りで結ばれることもある。何ら特殊な使命を帯びていない人間の背後霊は、魂が向上するに従い背後霊が入れ替わることがしばしばある。


――そうやって地上に戻ってくる霊はどの程度の霊ですか。


主として地球に最も近き下層の三界(2)の者たちである。地上の人間との連絡が取り易いからである。高級霊の場合はそなたたちの言う霊媒的素質に似たものをもつ者に限られる。このことについては余り多くは語れぬ。われらの通信を正しく伝え得る霊媒を見出すことは至難のわざであるということ以上は今は語れぬ。通信を望む霊は実に多い。が、適切な霊媒が見当たらぬことと、それを求めてあたら無駄な時を費すのを嫌う故に、彼らは地上との接触を断念する。ここにも霊界通信の内容に矛盾の生じる要因がある。そなたたちが時おり発見する間違いは必ずしもわれらの側の落度とは限らぬ。そのうち、通信に影響を及ぼす事情につきてさらに多くを語る時期も来よう。


――神に敵対する霊のことを述べられましたが、それはどういう霊ですか。


われらの使命を阻止せんとする邪霊のことである。彼らはいかにもわれらと同じ勢力、同じ仕事仲間であるかに装いつつわざとしくじり、人間及び霊にわれらへの反抗心を煽るのである。悲しい哉、彼らは善性を求める心を魂の奥へ押し込め、邪悪の道に快感を求め、一段と悪の要素の強烈なる霊を首領として集結し、われらに憎悪を抱き、仕事を邪魔せんとする。彼らは悪戯(いたずら)に長(た)け、ある時は人間の悪感情を煽り、ある時はわれらと同じ仕事仲間であるかの如く装いつつわざとヘマをやっては、半信半疑の真面目の徒を迷わせ、就中(なかんずく)、崇高にして高雅なるものを授けんとするわれらの努力の裏をかき、真摯なる学徒に下劣にして卑俗なるものを与えんと企(たくら)む。神の敵であり、人間の敵と言うべきである。善の敵であり悪の使者である。彼らに対してわれらは飽くなき闘いを挑むものである。


――そうした悪の組織の存在は聞くだに恐ろしいことですが、一方には悪の存在を否定し、全ては善であり、悪に見えるものも善が悪を装っているに過ぎないと説く人がいますが。


ああ、哀れなる哉! 哀れなる哉! 善に背を向け、悪への道を選びし霊たちほど哀れなるものはない。そなたはその邪霊たちが群れをなしてわれらの使命を阻止せんとすることが驚異だと言うが、それなどまだまだ驚くには当たらぬ。実状はそれどころではない。人間は霊界へ来たからとて、地上時代といささかも変わるものではない。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪をそのまま携えて来るのである。変わるのは肉体を棄てたということのみである。低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたとてその本性が変わるものではない。それは、誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死と共に俗悪なる魂に一変することが有り得ぬのと同じである。そなたたちがその事実を知らぬことこそ、われらにとって驚異と言うべきである。考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂がそなたたちの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。然るにそなたたちは、神を憎み善に背を向け肉欲に溺れし罪深き魂も、懴悔一つにて清められ天国に召されると説く。前者が有り得ぬ如く後者も絶対に有り得ぬ。魂の成長は一日一日、一刻一刻の歩みによって築かれるのである。すぐに剥(は)げ落ちる上塗りではない。魂の本性に織り込まれ、切り離そうにも切り離せぬ一部となりきること――それが向上であり成長である。そうして築かれたる本性がもしも崩れるとすれば、それは長き年月にわたる誤れる生活によりて徐々に朽ちるのであり、織物を乱暴に切り裂くが如くに一夜にして崩れることはない。ない、ない、断じてない! 習い性となり、魂に深く染み込みて個性の一部となりきるのである。肉体の煩悩に負け続けた魂はやがてその奴隷となる。そうなったが最期、純なるもの聖なるものを嫌い、死後もかつての地上の遊び場に赴いて肉の快楽に耽る。魂の本性となり切っているが故である。これでそなたも納得がいくであろう。悪の軍団とはかくの如き未発達、未熟なる霊のことであり、それが聖なるもの善なるものへの反抗心によって結束する。彼らに残されたる更生の道はただ一つ。高級なる霊の教唆によりて道義心に目覚め、懴悔のうちに一つ一つ過去の罪を償いつつ、歪める心を正し、苦しみの中に一歩一歩向上することのみである。かくの如き低級霊は実に多い。それらが全てわれらの敵なのである。善に対抗し真理の普及を妨げんとする悪の組織の存在を否定する言説こそ、そなたらを迷わせんとする彼らの策謀であることを心すべきである。


――その首謀者と言うべきいわゆる“悪魔”がいるのでしょうか。


彼らを煽動する首領は多い。が、キリスト教神学の説くが如き“悪魔”は存在せぬ。善良なる霊も、邪悪なる霊も、全て善悪を超越せる宇宙神の支配下にある。


〔注〕

(1)


地上に生をうけた霊(人間)の使命達成と罪障消滅を目的として陰から守護・指導・援助する霊を指す総合的な用語。本人の魂の親である守護霊(ガーディアン)(類魂の一人)を中心として複数の指導霊(ガイド)と支配霊(コントロール)が含まれる。その意図は本文の説明どおり各自まちまちであるが、守護霊の許しを得て、その監督のもとに働いている点においては同じである。


(2)


インペレーターによると、宇宙は大きく三階層に分かれており、各階層が更に七界ずつに分かれている。地球は最下層の階層の最上界に属するという。三節参照。

シルバーバーチの霊訓(二)

Guidance from Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell




十一章 新しい世界

 「私がしつこいほどみなさんに申し上げていることは、われわれは一人でも多くの人に手を差しのべなければならないということです」───こう述べてシルバーバーチは霊界の計画が世界的規模で推進されていることを指摘する。

 「私たちが携えてきたお土産をよくご覧になって下さい。いつまでも色褪せることのない、目も眩まんばかりの宝ものばかりです。その光輝はいつまでも輝き続けます。われわれのしていることに目を向けはじめる人の数がますます増えつつあります。莫大な規模の計画が用意され、われわれもその一部が割り当てられております。

克服しなければならない困難があることでしょう。取り除くべき障害物もあることでしょう。が、われわれ戦勝軍はひたすらに前進し続けております。

 長いあいだ圧制し続けた勢力も今となってはもうわれわれを圧制できなくなっております。過去幾世紀にもわたってわれわれに抵抗してきた勢力───正直に言わせていただけば唯物主義者と神学に凝り固まった宗教家たちは、全て退却の一途を辿りつつあります。

彼らの内部において混乱が生じ、時代とともに信じる者の数が減少の一途を辿っております。それにひきかえ、われわれはますます勢力を強めていきつつあります。真理、神の真理、永遠の真理が味方だからです。それを武器とした戦いに敗戦は決してありません。

 時に後退のやむなきに至ることがあるかも知れません。が、それも一時のことです。そのうちきっと失地を取り返し、結局は前進の一途を辿ります。この仕事に携わる人に私が決して絶望しないように、決して懐疑の念を抱かぬように、決して恐れないようにと申しあげるのはそのためです。

あなた方の背後に控える霊の力は、あなた方の想像も及ばないほど強力にして威厳に満ちているのです。前途に立ちはだかるものが何であろうと、困難が如何なるものであろうと、いつかは必ず取り除かれ、計画の推進とともに真理普及に必要なものは必ず授かります」



 ここで古くからのメンバーで第二次大戦に出征して無事生還した人がシルバーバーチに礼を述べた。実はこの人が出征する前───Dデー(※)の前から───シルバーバーチはこの方は真理普及のために必ず生きて帰りますと語っていたのである。(※連合軍による北フランス攻略開始日すなわち一九四四年六月六日のこと──訳者)礼を言われたシルバーバーチはこう語った。
 

 「そのことに関連して、私がなぜあなたのように私のもとに導かれてきた方に特別の関心をもつかを説明いたしましょう。(たとえ戦争の最中といえども)ものごとには偶然というものはないということです。特に私たちが携わっているこの仕事に関しては明確にそれが言えます。

途轍もなく大きな仕事がわれわれの双肩にかかっているのです。われわれの一人一人が地上世界の新生のための役割を授かっているのです。

 いつの時代にも地上に霊的真理が途絶えることのないように遠大な計画が推進されております。その計画の基礎はすでに確固たるものが出来あがっております。烈しい抵抗にあっても、悪口雑言の中にあっても、誤解されても、新しい真理の広がることを快く思わぬ者による敵意を受けながらも、霊の力は着々と地上に注がれつつあります」

 「決して新しい真理ではないでしょう」 と兵役から戻ってきたメンバーが言うと、
 「全ての真理と同じく、これも新しく且つ古いものです。まったくオリジナルなものという意味での新しい真理は存在しません。表現の仕方において新しいということはできます。つまり一点の疑問の余地もないまでに立証する証拠を伴っているという意味では新しいと言えます。

 霊的真理に実証的事実を添えたということです。かつては霊的真理は霊的手段によって理解するのみでした。それが今あなた方の時代においては物質の世界に身を置く者による挑戦に同じレベルで対処できるようになった───つまり霊的真理が五感によってその真実性を立証されることになったわけです。その意味で新しいわけです」

 「それもそうですが、イエスは二千年前に今日の霊媒が見せている実際の証拠を数多く見せています」 

「それは二千年前の話です。あなたはそうした現象に対して異常なほど懐疑的な人間の多い時代に生きておられます。その懐疑的な人間の中にはキリスト教界でもきわめて名の知られた方もいます。彼らはひそかに、ときには公然と、バイブルの中の霊的事象を必ずしも信じていないことを認めております」


 「懐疑的になるのも已むを得ないとは思われませんか」

 「思います。私は決して正直に疑う人を非難しているのではありません。もともと神は人間に理性的判断を賦与しております。それは日常生活において行使すべく意図された神からの授かりものです。理性を抑圧して理不尽なものを信じさせようとする者は光明へ逆らって生きていることになります。

理性に従う人間はその過程がいかに苦痛でいかに困難であろうと、そして又その結果、神聖にして侵すべからざるものと教え込まれた聖典に記されているものを放棄せざるを得なくなったとしても、少なくとも自分には正直であると言えます。

 (バイブルの時代においても) 霊的真理を現象によって実証し、見る目を持つ者、聞く耳を持つ者、触れる手を持つ者に一点の疑いもなく霊的真理の実在性を納得させようとの計画があったのです。

現に、交霊会での現象はバイブルの中の現象の多くを確認させております。もっとも全てが一致することは望めません。なぜなら、よくご存知の通り、バイブルは真理に身を捧げるのとは別の魂胆を持つ者の手によって骨抜きにされ、改ざんされてしまっているからです。

 われわれの目的は言わば宗教のリハビリテーションです。宗教を無味乾燥で不毛の神学論争から救い出すことです。

宗派間のいがみ合いから救い出し、教理上の論争を超越して、実証的事実の基盤の上に真の宗教を確立し、霊界からの啓示を今ますます増えつつある霊媒を通して地上に普及させ、あらゆる地域の人類に神が今なお働いていること、その恩寵は決して過去の時代にかぎられたものでなく、今日でも、どこにいようと、誰であろうと、同じ恩寵に浴することができることを知らしめる───そういう計画があるのです」

 「その霊的知識が地上に普及されたあともなお、地上と霊界とのつながりは続くのでしょうか」
 「続きます。水門が開かれればどっと水が流れ込みます。そして同時に、その水門が閉じられないようにしなければなりません。霊媒というチャンネルが増えれば増えるほど霊的真理という活力あふれる水が地上へ流れ込みます。霊力にはかぎりがありません。

霊は無限の可能性を秘めているからです。霊的真理を渇望する者が増え、必死に近づかんとすれば、それに呼応してより多くの霊力が注がれ、それまで恩恵に与(あずか)っていない知識と叡知とが視界に入るようになることでしょう。

 その霊的知識────目新しいものもあり革命的といえるものもありますが───人生をその霊的知識に忠実に送れば、世の中は次第に改善されてまいります。無用の長物や目ざわりなものが取り除かれ、精神と霊と身体とがより大きな自由を享受できる世の中となります。

不平等が減り、生活に豊かさが増し、人間の存在に尊厳と威信と気高さが増します。自己の霊性を自覚したことによる結果にほかなりません。

 これが未来像なのです。その目的に向かって、人間の難問を解決し悪の要素を取り除くために援助せんとする崇高なる霊が大ぜい待機しているのです」


 このあと出された質問に答えて、右と同じ主題をさらに敷衍してこう述べた。
 「人間にとって最も大切なことに関して革命的要素をもつ知識が次第に受け入れられ、欠乏、飢餓といった問題の解決に大きな援助を与え、より多くの人々により多くの恩恵がもたらされるようになることでしょう。
   
 私たちが施すものには二重の目的があります。基本的にはその中身は霊的であるということです。それが最も大切だからです。人生において各自の霊に関わることが他の全てのものに優先します。霊こそが永遠の実在だからです。ですが一方、地上の物的生活において生じることが霊性に深刻な影響を及ぼすこともあります。

それゆえ私たちの努力は、地上的環境を改善し改革し修正し、ありとあらゆる不公平を是正し、不公正を取り除き、病気を駆逐し、害悪を及ぼす汚点を払拭することにも向けなくてはならないのです。

私ども霊界の者は地上の落伍者、備えなき者、未熟者が次から次へと送り込まれて来るのをいつまでも許しておくわけにはいかないのです。魂の準備は本来そちらですべきものであり、こちらではないのです。地上は霊が修行のために送り込まれるところです。

霊界の生活への適応性を身につけないまま霊界入りする者が多すぎます。こちらへ来てからでは教育がしにくくなります。地上の方がやり易いのです。
 
 そういう次第ですから、霊的に、精神的に、あるいは物質的に人間の運命の改善という重大な仕事に身を捧げるわれわれは意志を強く持ち、努力は決して無駄に終わらないことを確信いたしましょう。

古い秩序が崩れ、新しい秩序が取って代りつつあります。遠い過去の時代に灯された思想が今や大きな炎となって燃えさかっております。それは決して消されることはありません」


 これまでもシルバーバーチはたびたびメンバーに向かって、混乱の世界から新しい世界が生まれつつあることを述べて来た。悲劇の数々も新しい知識の時代、霊的知識の時代の〝産みの痛み〟であると述べている。そして最近の交霊会でも次のように述べている。

 「夜明けの光が見えつつあります。あなた方が物的状況から予想するよりはるかに急速な足取りで近づきつつあります。今まさに地上世界は運命の岐路に立っております。私が心を込め最大級の確信をもって申し上げたいことは、その新しい世界はすでに根付いているということです。

これからの問題ではなく、すでに誕生しております。産みの痛みとうめきの中から生まれて、すでに地上各地に広がりつつあります。世界中に一様にというわけにはいきません。

それは有り得ないことです。が、確かに根づいております。これから建設に取りかからねばならないとか、創造していかねばならないとかの問題ではありません。

すでに新しい世界となっております。無秩序、暗黒、混乱がいかに支配しても、あるいは真面目な学徒による思想上の対立がいかに喧(かまびす)しくても、あるいは圧力と権力と豪華さを振りかざして既得権を死守せんとしても、すでに大勢は決しております。新しい世界は始まっているのです」 

 

Tuesday, September 29, 2026

シルバーバーチの霊訓(二)

Guidance from Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell




十章 霊訓を必要とする時代
 
 「大きな変動期にあっては霊媒を通じそのメッセージ、霊的知識を広めることを目的とした霊力の演出がよりいっそう要請されます。

 地上の至るところに悩みを抱えた人々が無数にいます。従来の信仰は瓦解(がかい)してしまいました。が、その人たちの心の奥に、自分にも気付かずにいるある種の願望があります。それは永遠の実在の証を求める心です。

 人間は本来が霊的な魂を宿した存在です。そして魂はその存在を支えてくれるところのものを求めて、じっとしておれないものです。魂も養育してやらねばなりません。

扶助してやる必要があります。活動の場を与えてやらねばなりません。魂は表現を求めてやまないのです。たとえ意識的には自分を理解していなくても、つまりそうした霊性を自覚していなくても、内部の霊的部分、真の個性の欲求を無視することは出来ません。

 教会による月並みなお説教では、特殊な一部の人を除いて、満足を与えることはできなくなりました。絶え間なく進歩する世界、常に変化し生長していく世界にあっては、何世紀もの昔のおきまりの宗教的教説を今日に当てはめることは不可能なのです。

となれば当然、人間が勝手にこしらえた神学をもとに同じことを繰り返し訴えても、耳を傾ける人が次第に少なくなっていくに決まっています。
  
 この点に関する限り、歴史は繰り返しません。なぜなら、キリスト教の信条と教義に背を向ける者が次第に増えていっても、ではその人たちの考えが唯物的になっていくかというと、そうではないのです。というのは、確かに無味乾燥な福音が魅力を失いつつありますが、この度はその原因に別の要素があるのです。

それは、宇宙の謎と取り組んでいる科学者によって、唯物主義の思想が不毛で無意味で到底受け入れられないものであることが明らかにされてしまったことです。

(訳者注──物理学の進歩によって物質の究極の姿が従来の〝もの〟の観念を超えてバイブレーションの状態であるということが明らかになったが、それでもなおそのバイブレーションを構成する究極の要素は突きとめられていない。

かつては〝これが一ばんの素〟という意味で素粒子論が行われたが、今ではそれも途中の段階であって、その奥にまだ何かがあるらしいことが理論物理学で言われており、その確認が実験物理学で行われつつある。ともかくも物質の本性は人間が五感で感じ取っているものとは全く異なることが明らかとなった。シルバーバーチはその点を指摘している)

 こうした時期、すなわち多くの者が視野の変化に気づき、何もかもが改造のためにるつぼの中へ放り込まれている時こそ、霊的真理を普及すべき絶好機なのです。

 かつて私は、人間が絶体絶命の窮地にある時こそ神を知る絶好機であると述べたことがあります。
 
今、再びその必要性が大なる時となり、霊力が奔流となって流れ込んでおります。愛は死の淵を超えて届けられます。愛するものを導き、悲しみに暮れる心に慰めの芳香をもたらし、病に苦しむ人には治癒力を注ぎ、道に迷える人には手引きを与え、霊力の実在の証の全てを提供せんとして心を砕いております。

 そうした証を伴った真理こそ永遠なるものです。不変なのです。地上で何が起きようと霊界でどういう異変があろうと、そのために取り消されたり書き変えられたりすることは決してありません。永遠の実在なのです。

一度それを把握したら、一度自分のものにしたら、一度理解してその有難さを知ったら、その時からその人の生活に光沢と美しさと豊かさと輝きと自信と確信が具わり、二度と寂しい心を抱いて歩むようなことはなくなります。

 かくして真理を広めるということは大切な仕事であり、大勢の人に与えられる絶好機、人のために自分を役立てる貴重な手段であることが分かります。

煩悶の叫び声をあげている数知れぬ人々は、私たちが奮闘すべき場を提供してくれているのであり、一人が光を見出すごとに、一人が無知の闇から抜け出て知識を手にするごとに、一人が悲しみの涙をよろこびの笑みに変えるごとに、魂の勝利、永遠の闘いの中における勝利を克ち得たことになります。

 ですから、どこでもよろしい、誰でもよろしい、力を引き締め、鎧でしっかりと身を固め、神の大軍が背後に控えてくれているとの信念のもとに、この人類にとって掛けがいのない重大な闘いを引き続き闘い抜こうではありませんか」

 
 このあと質疑応答となった。最初は読者からの手紙による質問で〝百人の霊媒のうち九十九人まではデタラメをしゃべっている〟というショー・デスモンド(※) の言い分を引用してシルバーバーチの意見を求めた。

(※Shaw Desmond 英国の著名な作家でスピリチュアリズムに理解があり、その作品に心霊的要素が多く取り入れられている── 訳者)

 「本物の支配霊───支配霊としての仕事を完う出来る才能を具えた霊にはその批判は当てはまりません。霊媒の背後霊は慎重な検討をへて選ばれ、またその適性は実際に霊媒との仕事を始める前に実証済みだからです。

 そうした本物の支配霊に関する限り今の批判は当たりませんが、残念なことに、本物の霊力を発揮するには今一つの修行を要する未熟な霊媒が多いことは事実です。

 そういう霊媒つまり開発途上にある霊媒による交霊会では、何とか良からぬ評判がささやかれ、それがみな支配霊のせいにされてしまいます。

実際には支配霊がいけないのではなく、その支配霊を補佐する指導霊や通信霊が未熟なためであることがあり、時には霊媒そのものが未熟であるために、その霊媒自身の潜在意識の中の考えだけが出ているにすぎないことがあります。

 ですから支配霊はデタラメばかりと言うというのは言い過ぎです。少なくとも私が連絡を取り合っている幾つかの霊団の支配霊に関する限り、そういう言いがかりは不当であると思います。最も、デスモンドは一般論として言っているのでしょう。どこのどの霊媒というふうに特定しているわけではありませんから」


 次に読み上げられた質問は、祈りや願いごとは誰に向けて発すべきかという、とかく意見の衝突する問題で、こう述べてあった。

 「情愛によって結ばれている人の精神的健康、肉体的健康、及び物的事情の問題でお役に立ってあげたいと思う時、私たちはどういう心掛けが大切かについてお教えねがえませんか。つまりその人へ私たちの思念を直接送ってあげればよいのでしょうか。それとも祈りの形で神へ向けて送るべきでしょうか」


 「とても良い質問です。人のために何とかしてあげたいと思われるのは真摯な魂の表われです。全ての祈り、全ての憧憬は神へ向けるべきです。ということは、いつも嘆願を並べ立てなさいという意味ではありません。

 たびたび申し上げているように、祈りとは波長を合わせることです。すなわち私たちの意志を神の意志と調和させることであり、神との繋がりをより緊密にすることです。

そうすることが結果的に私たちの生活を高めることになるとの認識に基づいてのことです。意識を高めるということは、それだけ価値判断の水準を高めることになり、かくして自動的にその結果があなた方の生活に表われます。

 何とかして宇宙の心、宇宙の大中心、宇宙をこしらえた神にまず自分が一歩でも近づくように、真剣に祈ることです。それから、何とかしてあげたいと思っている人がいれば、その方を善意と、ぜひ自分をお役立て下さいという祈りの気持ちで包んであげることです。

 ですが、それを自分が愛着を覚える人のみに限ることは感心しません。たとえ崇高な動機に発するものであっても、一種の利己主義の色あいを帯びているものだからです。それよりはむしろ全人類のためになる方法で自分の精神が活用されることを求めることです。ということは、日常生活において自分と交わる人に分け隔てなく何らかの役に立つということです」


 この後シルバーバーチは霊的真理の普及という一般的な問題に移り、こう述べた。

 「皆さんに自覚していただきたいことは、前途にはまだまだ問題が山積していること、取り除かねばならない問題があるということです。それを取り除くには図太い神経、断固とした精神、堅固さ、不動の忠誠心、証を見せつけられた霊的真実への節操が要請されます。

 さきほど霊媒の言うことの信頼性が問題となりましたが、皆さんにすでにそうした場合に私が要求している判断の基準をご存知です。すなわち自分の理性に照らし、自分の判断力と常識とで決断なさることです。私はかつて一度たりともあなた方を盲目的信仰へ誘導したことはありませんし、知性が反撥するような行為を要求したことはありません。

 自慢することはおよそ私には縁のないことです。宇宙を知れば知るほど謙虚な気持ちで満たされるものです。ですが、それでもなお私はあなた方を導く霊の力の偉大さを公言して憚りません。それが私のような者にも与えられているのです。

私が偉いからではありません。私が為さんとするその意欲に免じて授けられているのです。これまでの私と皆さんとの交わりの長い年月を通じて、その霊力は存分に与えられ、それ以後も皆さんが望まれる限り続くことでしょう。

 私はもし皆さんが日常生活の自然な成り行きの中において霊的にそして身体的にみずからを御して行くことができるのであれば、敢えてこうした交霊会の継続を望むものではありません。

霊的な知識を獲得しながら身体に関わる面をおろそかにするのは感心しません。それは、身体ばかりを構って霊的側面をおろそかにするのと同じように愚かしいことです。

 神の顕現であるところの大自然が与えてくれる活力と能力を存分に活用して人生を謳歌なさるがよろしい。ふんだんに与えられる大自然の恵みを遠慮なく享受し、完成へ向けて進化し続ける永遠の壮観(ページェント)の中にその造化の神が顕し給う美を満喫なさるがよろしい。

 と同時に、その背後にあって私たちを道具として使用せんとする崇高なる霊の働きに常に思いを馳せましょう。その神の恩寵を存分に享受するために心を広く持ちましょう。なるほど私たちが神のメッセンジャーであることを認めてもらえるように、日々の生活における言動に愛と善意を反映させるように心がけましょう」


 別の日の交霊界で現在のスピリチュアリズムの進展ぶりを尋ねられてこう答えた。

 「地上はまだまだ混乱が続いております。喧騒と怒号の鳴りやむ時がありません。霊的真理の普及はまだまだ必要です。

それに対する手段が十分に整ったことは一度もありませんが、常に何らかの試みが為され、幾ばくかの成功が収められていることは事実です。地球全土に手を伸ばすことは出来ません。届く範囲で努力いたしましょう。

 今なお世界大戦の余波が残っております。(※)全ての価値観がひっくり返され、混乱が支配し、無秩序がはびこり、道徳的価値観が定まらず、未来像と洞察力の透徹度が消え失せ、かつての美徳が後退し、基本的には正しいものまでが混乱の渦中で完全に姿を失ってしまいました。

その変転きわまりない地上世界にあって常に変わることのない霊的真理を私たちの手で広げようではありませんか。決して色あせることも曇ることも朽ちることもない、永遠の霊的実在 ─── 一度理解したら人生の全図式を一望のもとに見渡すことを可能にしてくれる真理に目を向けましょう。

(※この日の交霊会が何年何月に開かれたかは不明であるが、この原書が発行されたのが一九四九年、つまり終戦から五年後のことであることを思えば、戦後間もない頃であったことは察しがつく──訳者)

 皆さんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは自然法則の一部にすぎません。宇宙の大霊すなわち神は宇宙を法則によって経綸し法則に則って顕現していくように定めたのです。その法則が宇宙の全活動を統御しております。

宇宙のいずこにも ───人間の知り得た範囲に留まらず人間の能力をはるかに超えた範囲においても───法則の行き届かないところはありません。

 その法則の中に神の意志が託されているのです。およそ人間のこしらえる法律というものには変化と改訂が付きものです。完全でなく、すべての条件を満たすものではないからです。

 が、神の摂理は考え得るかぎりのあらゆる事態に備えてあります。宇宙間に発生するもので不測の事態、偶然の出来ごとというものは一つもありません。全てが規制され、全てが統御され、全てに神の配慮が行き届いているのです。

 科学者の手によって物質界の原理の多くが発見されました。が、その探究の手はまだまだ霊的な分野にまでは及んでおりません。人生を物的尺度でもって判断し理解し考察しようとするのは愚かです。小さな一部分にのみ関心を集中し、肝心な大きなものを見落しているからです。

 私たちの仕事は、その大きな世界、霊の宝庫へ目を向けさせ、暗闇と無知の中で道を見失っている数知れない人々に、霊的真理を知ることによって得られる導きと慰めと確信をもたらしてあげることです。

それとても実は私の望んでいるところの一部に過ぎません。肉親を失った人を慰めてあげること、悲しみに暮れる人の涙を拭ってあげること、こうしたことは実に大切なことです。確かにこれも私たちの使命の一部ではあります。

しかしもっと大切なことは、そうした体験を通じて自分とは何か、本当の自分とは何なのか、何のためにこの地球という惑星に生を享けたのか、より一層の向上のためには何を為すべきか───こうしたことについての正しい認識を得させてあげることです。それが一番大切なことです。

 これから先にも大きな仕事が私たちを待ちうけております。再構築の仕事です。心に傷を負い、精神的に打ちのめされた人、人生に疲れ果てた人、生きる意欲を失った人、不幸のために心を取り乱している人、暗闇の中に光を求めている人─── 私たちはこうした人々を快く歓迎してあげなくてはいけません。

 今や大勢の人が、これが本当に人類にとっての鎮痛剤なのかと、期待の目をもってわれわれの方へ関心を向けつつあります。この真理、そしてそれに伴って得られる霊的な力は、たとえその数が何千何万となろうと援助し、導き、慰めてあげることができます。霊力の貯蔵庫は無限です。いかなる問題、いかなる必要性、いかなる悩み、いかなる心配事にも対処できます。

 世界は今まさに全面的な再構築を迫られています。全ての価値観が再検討を迫られております。その大渦巻きの中にあって〝これこそ基盤とすべき原理である〟と自信を持って断言できる人はきわめて稀れです。

 再構築にはそれに先だっての破壊が必要です。基盤は何度も言ってきたとおりすでに敷かれております。計画(プラン)はできあがっているのです。今ゆっくりと、そして苦痛を伴いながらそれが姿を現わし、やがて、人間の運命がいかにして改善され神から授かった能力がいかにしてその発達のチャンスを与えられていくかが、徐々に明確になることでしょう。

そこには不安や失望のタネは何一つありません。為すべき仕事があります。手を取り合えばきっと成就し、他の人にも参加させてあげることができます。
 
 私たちに与えられた光栄あるその奉仕の仕事のチャンスを楽しみに待ちましょう。そしてあなた方自身に精神的改革をもたらした同じ知識を同胞に授けてあげることができることの特権に感謝し、それがその人たちにも革命をもたらし、自分が愛と叡知にあふれた神の一部であること、その神は人間が人生から美とよろこびと輝きとを引き出すことをひたすらに望んでおられることを悟ってくれるよう祈ろうではありませんか」       
 

シルバーバーチの霊訓(二)

Guidance from Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell





九章 この世、そしてあの世

 「死んであの世へ行った人はどうやって時を過ごすのですか」───ある日の交霊会でこんな質問が出た。

「この世と同じように明るさと暗さを伴った時間があるのでしょうか。それとも、まったく別の時の流れがあるのでしょうか。何をして過ごすのでしょうか。やはり働くのですか。勉強もするのですか。楽しみがあるのでしょうか」

 こうした質問にシルバーバーチが次のように答えた。

 「それについては何度も何度もお答えしてまいりました。時間の問題は地上の時間とは関係がありませんので、むしろその意味で興味ある課題です。

 地上の時間は便利さを目的として刻んであります。つまり地球の自転と太陽との関係に基づいて、秒、分、時間、日を刻んであるわけです。私どもの世界には夜と昼の区別がありません。光の源が地上とは違うのです。

従って地上と同じ意味での時間はないことになります。こちらでは霊的状態で時間の流れを計ります。言いかえれば、経験していく過程の中で時の流れを感じ取ります。一種の精神的体験です。


 霊界の下層界では生活に面白味が乏しいですから、時間が永く感じられます。上層界では───むろん比較上の問題ですが───快い活動が多くなりますから短く感じられます。次々と新しい体験があるという意味です。別に時間とか月とか年とかの分け方はありません。仕事への携わり方はその人次第です。精神と霊に関連した活動はいくらでもあります。
 
 ご質問者は霊的な体験を物的尺度で理解しようとなさっている点に問題があります。霊界へ来てからの精神と霊のすることは範囲が広く際限がありません。教養(文化)的なものもあれば教育的なこともあり、一つ一つにれっきとした目的があり、物質界への働きかけもあり、やりたいだけ存分にそれに携わることができます」

 「でも、こういう問題が生じませんか───もしも地上のような時間がないとすると、これから先の予定はどうやって立てるかということです」

 「私が誰れかと会う約束をしたい時などのことでしょうか。そんな時は思念を送って都合が良ければ会うということになります。手紙での連絡はありません」

 「誰れかと特定の時刻に会いたい時はどうされますか」


 「そういうことにはならないのです。唯一それに似たものとしては、地上の祝祭日にこちらが合わせる場合です。たとえばイースターとかクリスマスには私は自分の界へ戻ります。地球圏から脱け出るのですが、それは習慣に合わせているだけの話です。

必要とあれば、本日の予定が終わり次第引き上げることも出来ます。どこかの霊の集まりに参加するようにとの私への要請があるとすれば、その要請は思念で届けられます。それを私が受信して、そして参加するということになります。もっとも、今すぐそんな要請は来ないでしょう。

私がこうして地上の方々と話をしていることが判っておりますから。日ごよみなどはありません。あくまで精神と霊の世界なのです」
 

 「霊界にも電車はありますか」

 「ありません。但し電車に乗りたいと思えば電車が目の前に現われます。理解できないでしょうね。でも夢と同じようなものです。電車で行きたいと思えば電車が現われるのです。

 皆さんだって、夢の中で船に乗ろうと思うことがあるでしょう。すると船が現われます。自分がこしらえるのです。そして少なくとも自分にとっては本物の船です。それに乗ると動き出します。必要な船員もちゃんと揃ってるでしょ?その時の意識の場においては現実なのです。現実というのは相対語であることを忘れないでください」
 「そのことは何度も聞かされ書物でも読んでおりますが、正直言って私には理解できません」

 「そうでしょうとも。ですが、あなた方の世界でも時間の錯覚があります。一時間はいつも一時間とは限りません。たった五分が一時間のように感じられることもあります。それが時間の精神的要素です。

地上においてもその精神的要素が現実に存在することを理解して下されば、私ども霊界の者が地上の時間の純粋に機械的要素とは無縁であることがお判りいただけるでしょう。こういう説明よりほかに良い説明方法がないように思います」

 「みんな自分の家を持っているのでしょうか」

 「はい、持ちたいと思っている者は持っております。そう望んでそれなりの努力を致します。が、持とうと思わない者もいます。同じく家を持つにしても自分の建築の好みに合わせて工夫する者もあります。例えばあなた方のご存知ない照明方法を組み込んだりします。こうしたことはその霊の創造的才能に関わる個人的な好みの問題です」

 「霊界の家はそれまでの生活の中身によって左右されるとおっしゃったことがありますが・・・・・・」  
   
 「持ちたいと望み、それなりの努力をしたら、と言ったつもりです。が、いったん家をこしらえたら、その建築様式は純粋にその人の好みの問題となります。青空天井にしたければそうなります。好みというものは長い間の習慣によって形作られていることを忘れてはいけません。習慣は精神的な属性であり、死後も存続します。

 生涯を英国だけで送った人は当然英国風の住居の様式に慣れ親しんでおり、したがって同じような様式の家に住むことになります。そういう習性が残っているからです。

やがてその習性から脱け出せば、また別の種類の住居を持つことになります。こうしたことも生活の連続性を維持するための神の賢明なる配慮なのです。ショックを防ぎ、生活をスムーズに、そして調和のあるものにしてくれています」

(訳者注──この質問と回答には少しズレが見られる。質問者は霊格の低い霊の家はみすぼらしく、高い霊は見るも麗しい、神々しい家に住むという事実を踏まえて質問している。確かにシルバーバーチも別のところでそう言っており、他の霊界通信でも同じことを言っている。もっとも、みすぼらしいと言っても相対上の問題で、住まってる本人は少しもみすぼらしいとは思っていない)

 別の日の交霊界ではこう述べている。

 「霊界には〝国会〟はありません。住民の生活を規制するための法律をこしらえる必要がないからです。霊界では自然法則が全てを律するのです。逃れようにも逃れられない形でその法則が付いてまわります。物的身体はもうありません。

物的生活にかかわる諸問題も関係がなくなります。今や霊的な形態で自分を表現しており、霊的自然法則が直接に作用することになります。その仲立ちをするものは何も要りません」


 「コンサートとか演劇とか博物館のようなものもありますか」

 「博物館は大きな建物───学問の殿堂(ホール) の中に設けてあり、そこにありとあらゆる種類のコレクション───地上の全歴史にわたる資料から霊界の興味深い生活形態を示すものまでが展示されております。例えば地上に存在しない花の種類があります。そのほか人間の知らない自然の様相(すがた) が沢山あります。そのサンプルがホールに陳列してあるのです。

 コンサートはしょっちゅう開かれております。音楽家には事欠きません。大音楽家と言われる人も大勢いて、自分の才能を出来るだけ多くの人を楽しませるために役立てたいと願っております」劇場───これも数多くの種類があります。純粋に芸術としてのドラマを目的としたものもあれば、教養を目的としたものもあり、教育を目的としたものもあります。


 地上で持っていた天賦の才、素質、能力は死と共に消えてしまうのではありません。逆に、死がより大きな自由をもたらし、それを発揮する機会を広げてくれます。

 「新聞やラジオもあるのでしょうか」

 「ラジオはありません。通信様式が違うからです。いちばん一般的な方法はテレパシーですが、要領さえ呑み込めば、目の前にいなくても莫大な数の人に向けて呼びかけることができます。それは地上のラジオとは原理が異なります。

また、いわゆる新聞はありません。地上のようにその日その日の出来ごとを書いて知らせる必要がないからです。必要な情報はそれを専門としている者が然るべき方面へちゃんと送り届けてくれます。その要領はあなた方には理解しがたいものです。

 例えば私が知らずにいることでぜひ知る必要のある事柄があるとしましょう。そんな時、知らせるべきだと思った人が思念で私に知らせてくれます。そういう仕事を担当している霊団があるのです。そしてそのための特殊な訓練をしております」

 「私たちがインスピレーションを受ける時も同じ過程によるのでしょうか」

 「それはまた次元が異なります。人間がインスピレーションを受け取る時は、意識的にせよ無意識的にせよ、霊界のある知的存在(霊)と交信状態にあります。そして、その状態にある間はその霊の力なりインスピレーションなりメッセージなりを受け取ることができます。

意識できる場合もあれば無意識の内に受けている場合もあります。それはその時の環境条件によります。

 その点、私どもの世界では絶え間なく思念を出したり受けたりしております。霊的波長が同じ者どうし、つまり霊的知性が同質である者どうしで送信と受信を行っております。その波長は霊的発達程度によって定まります」
 「名前は霊界へ行っても地上時代のままでしょうか。例えばリンカーンは今でも Abraham Lincoln という氏名で知られているのでしょうか」

 「そうです。身元の確認の上でそうしておく必要がある人は地上時代の氏名のままです。ただ、氏名がすなわちその人物では無いことを忘れてはなりません。その人を認知するための手段の一つに過ぎません」

 「たとえば地上で有名だった人は死後もその名前を使うのが便利ですね」

 「そういうことです。身元の確認の上でそうしておく必要がある場合です。その状態が人によって何百年も何千年も続くことがあります。しかし、いつかは地球の磁場から超脱します。そうなると、もうその名前は意味がなくなります。その人の本来の霊格によって存在が確認されるようになります」


 「ひと目見てそれが確認できるのでしょうか」

 「できます。地球の引力圏から脱すると、つまり地球とのつながりで暮らしている段階を超えて純粋に霊的といえる段階まで到達すると、ある種の光輝を発するようになり、それを見ればそれが誰それで、どの程度の霊格を具えているかが一目瞭然となります。理解しにくいですか」

 「いえ、そんなことはありません。地上でも、人に会った時などにその人がどんな人物であるかが、話を交わす前から分かることがあります」

 「そうでしょう。オーラに刻まれているのです。こちらでも同じです。ただ、はるかに強烈になるということです」

 「地上で有名人だった人とは別に、そちらへ行ってから有名になった人がいるものでしょうか」

 「もちろんですとも。地上での名声は単なる〝生まれ〟に由来し、他に何の原因も無い場合が多いものです。生きざま、努力、苦労によって克ち得たものでない場合が多いのです。そうした中で全く名を知られず偉大さを認められなかった人物が、こちらへ来てそれに相応しい評価を受けている人が大勢、実に大勢いるものです。魂こそ消そうにも消せないパスポートなのです」


 「書物あるいはそれに類するものがありますか」

 「あります。書物なら実にたくさんあります。地上にある本の全ての複製もあります。地上にない本もたくさんあります。こちらには芸術の全分野の資料を集めてある巨大な建造物(ホール)がいくつもあり、その中に印刷物も含まれております。あなた方が興味を抱くものならどんなものでも用意してあります」

 「誰れが用意するのですか」
 「著述の専門家、書物を用意することを専門にしている人たちです」
 「霊が手に取って読めるようにエーテル質で出来ているのですか」
 「もちろんですとも!」


 シルバーバーチは質問者が相変わらず死後の世界を夢まぼろしのように想像していることにいささか呆れ気味であるが、このあとさらに「同じ本が他の人には違ったものになったりすることはありませんか」と聞かれて、その〝夢まぼろし観〟の誤りを次のように直していく。

 「そんなことはありません。ところであなたは夢の中で本を読んだことはありませんか」
 「ありませんけど、どんなものであるかは想像できます」
 「その場合それは本物の書物でしょうか」
 「いいえ」

 「ではもしあなたが永遠に目覚めないと仮定したら、その夢はあなたにとっていつまでも現実であり、その夢の中の生活と比較すべき覚醒時の生活がない以上は夢の中で起きたことはことごとく現実であり、逆にそれまでの覚醒時に起きたことは全て夢まぼろしであったことになりませんか。

 死後の世界ではそうした夢の中での精神的過程が何倍もの強烈さをもって働くと思っていただけば良いのです。そうした精神状態はこちらの世界の者にとっては実在であり、あなた方が物質に実感を覚えると同じように、霊にとっては実感があるのです」


 「何だか怖いような気がします」
 「なぜですか」
 「どうも私にはその生活が現在の地上の生活のような実在感を伴った、しっくりとしたものではないように思えるのです」

 「それは全く相対上の問題にすぎません。実際は地上生活は霊界という名の太陽によって出来た影にすぎません。地上生活は殻であり実質がないのです。物質が霊によって存在が与えられている以上、物質界には真に実在と言えるものは何一つ存在しません。物質というのは霊的実在の波長によって形を与えられた表現の一つに過ぎません」

 「私があのように申し上げたのは、私には、同じく美しいものでも主観的なものは客観的なものほど楽しくないからです」

 「いま主観的と思っておられることが客観的となり、客観的と思っておられことが主観的となります」

 「そう理解するには個人的な実体験が無くてはならないでしょう」
 「そのとおりです。でも今あなたはその実体験が無いわけではないと思いますが・・・・」
 「夢の中でのことでしょうか」

 「いえ、あなたご自身の精神の中でのことです。たとえば、あなたは奥さんをとても愛しておられる。その愛は主観的でしょうか客観的でしょうか」
 「両方が一緒になってると思います」

 「でも愛というのは霊と精神の属性です。そうでなかったら永続性はありません。実在はかならず内部から発するものです。あなた方は物的身体を持った霊的実在です。永遠の実在は霊であり、肉体ではありません。肉体が朽ちて元の原素に戻っても霊は存在し続けます」


 ある時シルバーバーチは、今霊界の奥から帰ってきたばかりだと述べ、その目的はこれまでの仕事の進展ぶりを総点検し、これから先の仕事のための新たなエネルギーを摂取するためであると説明してから、さらにこう述べた。
 
 「こうして再び地上へ戻って来る時の私の気持ちは何時も〝味気なさ〟です。この表現でもまだ十分に意を尽くしていません。地上には光と生命が欠けています。うっとうしくて単調で、活力に欠けております。まるで弾力性を失ったクッションのようで、何もかもがだらしなく感じられます。いきいきとした魂、愉快な精神の持ち主はきわめて稀れです。

全体を無気力の雰囲気が支配しています。生命のよろこびに満ち溢れた人は少なく、絶望と無関心がはびこっております。多分あなた方自身はそれに慣れっこになっているためにお気づきにならないのでしょう」
 
 「私たちにもそれは感じられるように思います。世を拗ねた心がはびこっているようです」

 「それは取りもなおさず戦争に対して払わされている代償です。あれだけの激しさをもって一気にエネルギーを使い果たせば、その結果として衰弱を来すのは当然のことではないでしょうか。かくて熱気、情熱、熱心さが見られないわけです。

私は全てが光り輝く色彩豊かな境涯からやってまいります。そこでは心は真の生きるよろこびにあふれ、各自が自分に合った仕事に忙しく携わり、芸術の花が咲き乱れ、全ての者が奉仕の精神にみなぎり、自分が持っているものを持たざる人に分け与え、知らざる人を教え導くことを喜びとし、情熱と迫力とよろこびをもって善行に励んでおります。

 その点この地上は全てが今述べたような陰気さに包まれております。しかし、ここが私どもの奮闘しなければならない土地なのです。ここが私たちが奉仕しなければならない領域なのです。ここが全力を投入すべき場なのです。

一人一人が神の無限の可能性を秘めた統一体としての一部なのです。自分という存在の内部に日常生活のあらゆる問題を克服していくためのインスピレーションとエネルギーを摂取する手段を宿しているのです。その永遠の実在に気づいている人、あるいは奥に秘められた能力を引き出す方法を心得ている人は極めて稀れのようです。

そうなると当然、物質的生活と同じく実感のある霊的生活───本当はより実感があるのですが───の豊かさとよろこびを味わえるはずなのに、物的生活の味気ない単調さの方を好む者が多いことになります。私がなぜこんなことを言うのかお判りですか」


 「判ります。でも、死後の世界にも地上よりはるかに面白くない境涯があるのではありませんか」

 「それは事実です。測り知れない程の絶望の淵から天上的喜悦の境涯まであります」

 「そうした奈落の底にいる者にとっては地上は天国のように思えることでしょう」
 「何ごとにつけ、比較の仕方によって良くも悪くもなることは事実ですが、私が較べたのは、これまで地上で見てきたものと、先ほど行ってきた天上の境涯です。

ですが、地上の人々もここに集える私どもと同じ知識を身につければ、少しもみじめに思う必要はなく首をうなだれることもないでしょう。元気づけてあげることが出来るということです。全ての力の根源は霊にあり、永遠の富を獲得することは人生の悩みのタネとなる物的なものよりも大切であることを悟ることでしょう。

 私の目には、あまりに多くの人間がその貴重なエネルギーを浪費させることにしかならない事で悩み、怖れ、取越苦労している姿が見えるのです。重点の置きどころが間違っているのです。視点を間違えているのです」


 さらに質問者が霊界での睡眠や休息について尋ねると、シルバーバーチは少し調子を変えてその質問者にこう述べた。

 「どうやらあなたは死後の世界についての疑問でいつも頭が一杯のようですね」
 「正直言ってそうなんです。もちろん聞かされた通りを盲目的にそうなのだと思い込めばよいのでしょうけど、どうも私の本性がこうして問い質させるようです」
 
 「私が盲目的な受け入れをよろこばないことはご存知でしょう。霊界ではベッドが欲しいと思う人は用意していますが、寝る必要はありません。夜が無いのですから」

 「寝る人もいることはいるのでしょう?」 
 「もちろんいます。寝なくては、と思うからです。実相に目覚めた霊は寝ません。土手に腰を下ろして休みたいと思えば休みます。が、疲れたからではありません」

 「座って冥想するのが気持ちが良いからでしょう」
 「それもありますが、自然の美しい景観を眺めながら誰かと交信するということもあります。ただし〝済みません、少し疲れましたので、一服しようと思います〟とか、〝急いで食事をとってきますので・・・〟といったようなことにはなりません。食事を取る必要はないのです。

もっとも、食べたいという気持ちが残っていれば別ですが・・・肉体のように栄養を補給しなくてはならない器官がないのです。バイブレーションが物的ではありませんから・・・・・・」 

Monday, September 28, 2026

シルバーバーチの霊訓(二)

Guidance from Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell




八章 背後霊の仕事

 
 ある日の交霊会で、霊媒の背後霊の中にはわれわれ人間でも知っているようなことを知らない霊がいるのはなぜか、と言う質問が出された。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「背後霊にもいろんな種類があります。目的がいろいろとあるからですが、その霊がすべて同じレベルにあるわけではありません。交霊会において各々に割り当てられる仕事は成長と発達の度合いによって異なります。

宇宙の機構について詳しい霊がいても、あくまでその時点までのその霊の経験の結果としての知識を述べるのであって、まるで知らないことについては答えられません。知らないことは何一つないような霊は決していません。

 たとえば物理実験会で門番のような役をしている霊は高等な思想上の問題はよく知りませんし、高等な思想・哲学を説くことを使命としている霊は物質化現象をどうやって起こすかといったことは、まるで知りません。霊をぜんぶ同一水準に置いて考えることは禁物です」

 「どんな霊が背後霊となるのでしょうか」

 「血縁関係のある霊もいれば、地上的な縁故関係はまったくなくて、果たさんとする目的において志を同じくする者、言ってみれば霊的親近感によって結ばれる場合もあります。そこには民族や国家の違いはありません。地上を去り、地上的習性が消えていくと、民族性や国民性も消えていきます。魂には民族も国家もありません。あるのは肉体上の差異だけです」

 「背後霊として選ばれる基準は何でしょうか」

 「地上世界の為に為すべき仕事があることを自覚して、みずから買って出る霊もいますし、ある霊的な発達段階まで来ている霊が、人類啓発の使命を帯びた霊団から誘いをかけられる場合もあります。

 私はその誘いを受けた一人です。自分から買って出たのではありません。が、やってみる気はないかと言われた時、私はすぐに引き受けました。正直言ってその仕事の前途は、克服しなければならない困難によって〝お先まっ暗〟の状態でした。しかし、その困難は大体において克服され、まだ残されている困難も、取り除かれたものに比べれば、きわめて小さいものばかりです」

 「誘われた場合は別として、自分から申し出た場合、その適性をテストする試験官のような人がいて合否を決めるのでしょうか」

 「ズバリそうだとは言えませんが、それに似たことは行われます。こちらの世界は実にうまく組織された世界です。人間には想像できないほど高度に組織化されております。それでいて、その仕事を運用するには、こうした小さな組織が必要なのです。私たちの霊団の中にはあなた方も名前をよくご存知の方が何人かいます。

ところが、どういうわけか、揃って遠慮がちな性格の人ばかりで、私が出なさいとけしかけても、何時も〝あなたからお先に〟と言って後ろへ引っ込むのです。

 さて、たとえばあなたが自分の霊団を組織したいと思われても、霊の方があなたの仕事に共鳴して集まってくれなくてはだめですし、また呼び寄せるだけの霊力を発揮できる段階まであなたが進化していなくてはなりません。こちらの世界ではその人の人間性が全てを決します。絶対的実在は霊なのです。

それには仮面も変装も口実もごまかしもききません。何一つ隠せないのです。全てが知れてしまうのです」


 「その人の適性が霊性にはっきり出ているということでしょうか」
 「そのとおりです。なぜかと言えば、その人のオーラ、色彩、光輝がその人の本性を示しているからです。教える資格もない者が先生ヅラをしてもすぐにバレます。

その人には教えられないことが明らかなのですから。ですから、あなたが人類のための仕事に志を抱く霊を呼び寄せようとしても、あなたご自身が霊的成長によって霊を引きつける力を具えていなければ、それは叶えられないということです。お判りになりますか」

 「私が知りたいのは、そういった十分に成長していない霊が霊団の一員として働かせてもらえないのは、どういう経緯でそうなるのかということです」

 「働けないから、というに過ぎません。資格のない者にはやりたくても出来ないのが道理でしょう。その霊には霊力もエネルギーも放射線も人間も引き寄せることは出来ません。それを手にするに値するだけの鍛錬がまだ足らないということです。霊媒をコントロールするには人間側の協力も必要なのです。

実に入り組んだ過程を経なければなりません。うまく行っている時は簡単そうに見えますが、うまく行かなくなった時に、その一見単純そうな過程のウラ側の複雑な組織がちょっぴり分かります」

 質問者はさらに突っ込んで、通信霊が他人の名を騙ることがある事実を上げて、なぜそれが霊団の方で阻止できなかったのか、本物かどうかを見分ける方法はないかと尋ねた。すると───
 「実によりて木を知るべし(マタイ7・20)と言います。もし仮にこの家のドアを開けっ放しにして門番も置かなかったらどうなります?誰彼なしに入り込んできて好き勝手な文句を言うことでしょう。そこで時刻を決めてドアを開け、門番を置いて一人一人チェックすることにしたらどうなります?まったく話は違ってくるでしょう」

 「おっしゃる通りです。ということはレギラーメンバーで定期的に開くのが安全ということでしょうか」

 「そうです。むろんです。ぜひそうあらねばなりませんし、それに、身元のはっきりした専属の支配霊がいて、その霊の存在を確認しない限り通信は許さないということにすることです。私どもの世界も至って人間的な世界です。最低から最高までのありとあらゆる程度の人間がいて、その中にはしきりに地上に戻りたがっている者が大勢います。

その全てが指導する資格を持っているわけではなく、教える立場にあるわけでもなく、聖人君子でもありません。至って人間くさい者がいて、人間界への働きかけの動機にも霊的なところがない場合があります」


 「きちんとした組織をもった交霊会では通信霊のチェックが行われるのでしょうか。他人の名を騙ってしゃべることは不可能でしょうか」

 「きちんとした交霊会では不可能です。この交霊会は始まってずいぶん長くなりますが、その間ただの一度もそういうことは起きておりません」

 「霊界に組織があって、通信霊本人が述べる証拠とは別に、その組織が身元を保証してくれるようなことがあるのだろうかと思っておりましたが・・・」
 「保証には二つあります。一つは通信霊が出す証拠に自然に具わっているものです。いつかは必ず正体を見せます。もう一つは、これはとくに初めてしゃべる霊あるいは、せいぜい二度目の霊に言えることですが、その会を指揮している支配霊による身元の保証です。

私のみる限り、何年も続いている有名な交霊会の支配霊は信頼できます。もっとも、だからと言って───私の話しはいつもこのことに帰着するのですが───そうした交霊会に出席している人が一瞬たりとも理性的判断をおろそかにしてよいと言っているのではありません。これは神からの贈物です。

支配霊が誰であろうと、通信霊が誰であろうと、もし言っていることが自分の理性に反発を感じさせたら、それはきっぱりと拒絶するのが絶対的義務です。

 私たちの仕事の基本は〝協調性〟にあります。あくまでも人間側の自由意志と腹蔵の無い同意のもとに手をつなぎ合って進まないと成功は得られません。しばしば言ってきたことですが、私の言うことがどうも変だと思われたら、どうぞ受け入れないでください。拒絶してください。

私は絶対に誤りを犯さないとか叡知の全てを所有しているなどとは思っておりませんから、同意が得られない時はいっしょに考え合って、お互いに勉強していきましょう。

 そういう方法で行けばきっと成功します。威圧したり強制したりして仕事を進めるやり方は私たちは取りません。神から授かった理性の光で導き、一歩一歩みずからの意志で踏み出すように仕向けます。

 私たちが絶対に誤りを犯さないとは申しません。もっとも、故意の偽りを述べることとは全く別問題です。実によりて木を知るべし───これは実に良い判断方法です。

もし利己主義や欲得を煽るような、あるいは世間への義務を疎かにさせたり、汚ない考えや隣人への思いやりに欠ける言葉を吐くようなことがあったら───もしも慈悲の心を忘れさせ自己本位の生き方を勧めるようなことがあったら、それが立派な罪悪性の証拠と言えます。

 が、私たちの訓え、私たちの説く思想は、こちらの世界から発せられる全てのものの底流にある唯一の動機、すなわち〝人のために自分を役立てる〟ということを第一に強調するものです。皆さんも互いに扶け合い、自分が得たものを他人に分け与え、かくして神の恩寵が世界中に広がるように努力していただきたいのです。

実によりて人を知るべし───これが最後に勝利を収める方法です。なぜなら、それが神の御心であり、その神は愛と叡知によって動かされて、大自然の法則を通じて働いているからです」


 実はその日の交霊会の初めに、交霊会で使用されるエネルギーについての質疑応答があった。その中でシルバーバーチは、前回の交霊会はあまりうまく行ったとは言えませんと述べ、その理由をこう説明した。

 「私がエネルギーを使い果たし、保存してあるものの一部まで使ってしまったからです。でも今夜はその心配はありません。私は全身に力が漲り、いただいた分量を全部たくわえております」

 「貯蔵庫が満タンということですね」

 「はい、満タンです。溢れ出ているほどです。私どもにそのエネルギーに浸らせて下さい。そしてその一部を頂戴させて下さい」

 「どこから摂取するのですか」

 「あなた方からです」

 「私たちだけではないでしょう」

 「いえ、皆さん全員からです。皆さんが仕入れ先です。私と貯蔵庫とをつなぐエネルギーを提供してくれるのが皆さん方ということです」

 「むろん霊媒からも得ているわけですね」

 「もちろん。霊媒の持つ力によって私があなた方と話し、いろいろと無理難題を申し上げているわけです」

 「摂取するのは私たちがここに集まってからですか、それともそれぞれ別のところにいる時ですか」
  
 「ここに居られる間に摂取いたします。ここが一ばんやり易いのです。お一人から少しずつ摂取するのですが、少しずつを沢山集めれば分量も多くなります。それを混ぜ合わせ、それに別の要素を加えることによって必要とするものが出来上がります。簡単です。もう皆さんはお分かりでしょう」

 「エクトプラズムと同じものですか」

 「同じです。ただし、質をずっと精妙化して使用します」

 「でも本質的には同じものでしょう」

 「皆さんから摂取するのは同じ物質です。エネルギーという謎めいた用語がよく使用されますが、これは要するに宇宙の生命力の一部であり、あなた方の言うエクトプラズムもその一つの変形にすぎません」

 「でもエクトプラズムは後で全部本人に戻されると思っていましたが・・・」

 「そうなのですが、必ずそのごく一部分だけが戻されずに残ります」

 「貯蔵庫が空になった時は戻さずに取っておくわけですか」

 「そうです。それに霊界で調合したもの───その調合にも同質の物質、全く同じものではありませんが、ほぼ同質のものを列席者から抽出しますが───を混ぜ合わせて、一回の交霊会に必要な分量をこしらえて、いざという時のためにその一部を取っておきます。生命力の一部です。大体こんな説明しかできませんが・・・」

 「余分を取っておかないと仕事ができないのでしょうか」

 「できないことはありませんが、霊媒に大きな負担を掛けることになります。もしかしたら話す力まで奪われてしまうかも知れません。そうなると何もできないことになります」

 「別に私は余分に取っておくのがけしからんと言っているのではありません。なぜかを知りたかっただけです」

 「私の方には、お答えする場合に余り多くを語りすぎないようにとの配慮があるのです」

 「なぜでしょう。なぜ全てを教えてくれないのですか」

 「一つには、お教えしたくても出来ないということ、もう一つは、語ることを許されていないこともあるということです。それを知ることを許されるには、ある一定の霊的成長が指標となります。そこまで進化しないと、その知識をもつことを許されないのです」

 「たとえ理解できても、身体に宿っているとその知識を間違ったことに使用する可能性があるということでしょうか」

 「そういうことです。もっとも、私どもの世界からのちゃんとした協力が得られれば別です。が実際にはいったん高度な知識を手にすれば、それを間違って使用することはないでしょう。と言うのは、その知識を得たということは、その正しい使用法を心得る段階まで向上していることを意味するからです。

 全ては摂理によって規制されているのです。入れ替わり立ち替わりしゃべりたがる低級霊の場合は別として、名の知れた支配霊が道徳的に首をかしげたくなるようなことを言った例は決してないはずです。非難したり中傷したり陰口を言ったり、つまり低俗な人間のするようなことを支配霊がしたためしはないはずです。

人類を導く者としての資格があるか否かを見極める仕事をしている霊を得心させるだけの器量が無くてはならないからです。自分がコントロールできない者がどうして他人を正しい道へ導くことができましょう。でも、最後はあなた方自身が判断なさることです。

 私たちに設けられた基準は実に高度なものです。何しろ混迷する人類を導くという使命に携わっているのです。指導者として十分な器量を具えていなければなりません。そこでこの仕事に携わる者は厳重な監視下に置かれます。また成果を報告し、細かい吟味を受け、仕事を更に進展させるための再調整が為されます。

私がいつもあなた方に、全てを安心して霊の世界の者にお任せしなさい、と申し上げるのはそのためです。あなた方に敬愛をもち、あなた方のために働き、さらにあなた方を通じて他の人々へ援助の手を差しのべたいと願っているスピリット、それだけを唯一の願いとしているスピリットであることは十分に証明済みのはずです」


 さて、支配霊は優れた霊媒をもつ交霊会を何年催していても、常に新しい体験をさせられるものである。その一端を見せたのが、霊媒に憑っている間は物が見えてないのか、耳は聞こえてないのかという質問が出された時だった。

そんな質問が出たのは、ある日の交霊会の進行中にスワッハーが遅れて入って来て、列席者の一人がスワッハーのために席を移動したことにシルバーバーチが気がつかなかったからである。その質問に対してシルバーバーチはこう答えた。

 「幾分そういう傾向があります。それは私が霊媒の器官をどの程度までコントロールし、一方、霊界との連絡網が何本使用できるかに掛かっています。全部が使える時、つまり一、二本で四苦八苦するような状態でなければ、コントロールが完全ですから、その間は私は霊媒になり切っており、霊媒の体験することはみな私も体験します。

 ですが連絡網が制限され、わずかに残ったもので何とか交霊を維持しなければならない時は、必然的に霊媒との接触の仕方が弱くなり、必要最少限の中枢網しか使っていませんから、その分だけふだんよりはコントロールできていないことになります」

 「となりますと、交霊会の始まる前に霊媒がどこの席に誰が座っているということを知っていても、入神した霊媒を完全にコントロール出来ない時は、あなたには誰がどこにいるということは判らないということになりませんか」

 「細かく説明しましょう。何であれ物事の事情というものは、うまく説明できると面白いものです。私があなた方に話をしていると〝回線良好〟との信号が出ます。そこでこの回線に繋ぐと情報が入ります。その情報を私が皆さんに伝えるわけです。その操作にはかなりの集中力を要しますが、それは、重大なことほど余分に注意力が要ることを意味しています。

 さて、あの時スワッハーが入ってきたので私は〝ああ、スワッハーですね〟と言いましたが、どこに座るかは注意していませんでした。それで、誰かが私のすぐ近くに来る音がした時てっきりスワッハーだと思い、その方向を向いて〝ようこそ〟と言ったわけです」

 ここでその席に移った本人が〝そうでしたね〟と相づちを打つと、シルバーバーチはさらにこう続けた。

 「するとあなた(相づちを打った人)が挨拶をされたその声で、あなたがスワッハーに席を譲られたことを知ったわけです。聞く能力は完全でしたが、見る能力はあの時は十分ではありませんでした。それで私は音のする方向を向いて〝ようこそ〟とは言いましたが、せっかくの良好な回線を乱したくないので、それ以上は言葉を交わさなかったわけです。これで謎は解けたと思いますが・・・・」

 「もし誰かがこっそりと部屋を出て行ったら分かりますか」

 「それはいつ出るかによります。今でしたら分かります。集中力を要する回線に合わせている時、中枢網だけでやっと霊媒との関係を維持している時は、他のことには構っておれません。私はその時その時の大事なこと、基本的なことに目を向けておりますので・・・」

 「誰かが途中で入って来たら交霊の状態が乱れますか」

 「常連(レギュラー)であればそういうことはありません。ふだんからその人のオーラを通じて霊力を供給してきており、その融合が交霊に必要なエネルギーとなっているからです。初めての人がいきなり入って来ると話は別です。まったく新しい要素ですから。

 出席者が常連であれば、入神状態に関するかぎり、明りがついていようが消えていようが、皆さんが脚を組まれてようが開かれようが、関係ありません。霊的エネルギーがコントロールされ安定しているからです。が、初めての人ばかりの集まりだとすると、入神談話のための条件を改めて整える必要が生じるでしょう」

シルバーバーチの霊訓(二)

Guidance from Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell




七章 霊媒が入神している時


 入神中の霊媒をコントロールしているとき支配霊はどんな苦労をしているのだろうか。これから紹介するのは時おり催される〝質疑応答だけの交霊会〟の席でシルバーバーチが語ったことである。

 最初の質問は、出席者からの質問を聞いてそれに答えるときは霊媒の耳と口を使用しているのかということだった。


 「そうです。この霊媒に憑っているときは全ての点でこの霊媒自身になり切っております。潜在意識を活用して必要な部分を全部コントロールしております」


 「ということは、この霊媒に憑っている間は霊界との連絡は絶たれているということでしょうか」

 「そうではありません。うまくコントロールするコツ───やはりコツがあるのです───は霊媒を操りながら同時に霊界との連絡をいかにして維持するかという点にあります。一方で通信網を保ちながら、他方で情報の供給源との接触を維持しなければなりません。

 戦時中はその通信線が一、二本に制限されてしまったという話をしたことがあります。その意味は、この霊媒のコントロールに関する限り状態が非常に良くなかったので、通信網を一本また一本と断念しなければならなかったのです」

 「時おり〝また一本切れました〟とおっしゃってましたね」 

 「そうなのです。コントロールしている最中に邪魔が入ったのです。故意にやられる場合もあれば意図的でない場合もありますが、とにかく私は生命線の一本を失ったようなもので、修理班を派遣しておいてコントロールだけは維持しなければなりませんでした。

実に入り組んだ原理で行われており、電話で話をするのとは比べものにならないほど複雑です。電話の場合は少なくとも対話する人は同じ次元におります。私たちはまったく異なる次元で通信しなければならないのです。

 そういうわけで霊格の高い支配霊はある程度その本来の個性を犠牲にすることになります。と言いますのは、その本来の質の高い個性のままでは鈍重な地上界とは感応しませんので、調整のために波長を下げなければならないのです」


 次の質問は「入神中の霊媒は何か特殊な感じを覚えているのでしょうか」ということだった。
 「入神中は何の感覚もありません。入神の前と後にはありますが、入神中はありません。そのわけは、そもそも入神するということは周囲の出来ごとに無感覚になることを意味するからです。もちろん入神にも浅いもの、意識がぼんやりとする程度のものから完全に無意識になってしまうものまであります。

その完全な状態まで入神したら、まったく感覚が無くなります。そこまで至る初期の段階では住々にして何らかの感覚を覚えます。それは霊媒の意識が身体と連動して機能していないことによります。

 その時の感覚もさまざまです。外界の明るさを感じる人がいます。遠くまで行く、というよりは、行ったような気がする人もいます。自分の口で語られていることを遠くで聞いているような感じがする人もいます。実にいろいろです」


 別の交霊会ではこうも語っている。

 「私たちの仕事には二つの段階があります。第一は、これは非常に難しいことですが、私たちの仕事を地上に根づかせることです。これがいかに難しいか、皆さんにはお判りいただけないと思います。

物質の世界との直接の接触なしに影響力を行使する───純粋に精神のみの働きかけ、意念の集中、思念の投射を地上の一人の人間に向けて行います。本人はそれを無意識で受け、自分の考えのつもりで交霊会の行われている場所へ足を運びます。

 これは実に難しく、何年も何年も要します。私の場合はこの霊媒が生まれる前から準備を開始したほどです。その段階が終わると、第二の段階はさほど困難は伴いません。

すでに道具、霊媒、チャンネルが出来ているのですから、あとはそれを通じて言いたいことを述べるだけです。伝わり具合の問題がありますが、少なくとも磁気的なつながりができたわけで、それは容易に切れるものではありません。

 それをきっかけに霊的影響力をいくらでも増すことができます。言わば霊力の通風孔をどんどん大きくしていくことが出来るわけですが、唯一の限界は霊媒の受容力にあります。それが私たちの協力関係における制約となっております。とかく問題が生じても、全てその要因は私たちの方にあるのでなく、私たちが使用する道具にあります。

なぜ霊はこうしてくれないのか、ああしてくれないのか、とよく言われますが、それに対する答えは、霊媒という道具がそれを可能にしたり不可能にしたりしているということです。

 それはともかくとして、磁気的なつながりが出来あがってしまってからは、事がずっと簡単になります。私たちの世界を通して高い界からの霊力が地上へ届くようになるからです。人間の方から進んで内的自我を開発する意識に目覚めてくれれば、死の関門を通過するまで待たなくても、今すぐからその真の自我を発揮することになります。

 そうなると、時の経過とともに霊的な交わりがいっそう緊密に、豊かに、そして効果的になってまいります。そうなってからは、前もって計画されているさまざまな人たちを一堂に呼び集めることは、さほど難しくはありません。

こう申し上げるのは、今日ここにお集まりの方々が、一人の例外もなく、霊力を受けやすいこの場に導かれて来ていることを知っていただきたいからです。それを受けられたあなた方は、自分がそうしてもらったように他の人々へそれを伝達する手段となることができます。

 こうして、結局は最初に申し上げた話に戻ってきました───私に礼を述べないで下さいということです。皆さんが明日を思い煩うことなく人生を歩めるのは、皆さん自身がみずからの自由意志で、霊力の働きの範囲内に連れて来られる段階を踏んできたからこそなのです。

 皆さんの生活の中に霊的知識がもたらされたことを常によろこばなくてはいけません。それがさらに、地上世界の恩恵だけでなく、その背後にある、より大きな恩恵まで思いのままに受けさせてくれる霊的知覚の存在を認識させてくれます。

 あなた方は地上だけでなく私たちの世界からも愛を受けていること、血縁とは別の縁で結ばれている霊がいて、血縁同様にあなた方を愛し、能力の限り指導に当たってくれていることを喜ばなくてはいけません」

 そう述べてもなお古くからのメンバーが繰り返し感謝の言葉をシルバーバーチに向けると───

 「いえ、私への礼は無用です。このことは極力みなさまに判っていただきたいと願っていることです。私がそう申し上げるとき、決して口先だけの挨拶として言っているのではありません。皆さんは私を実際に見たことがありません。

この霊媒の身体を通して語る声としてしかご存知ないわけです。ですが私も実在の人間です。感じる能力、知る能力、愛する能力をもった実在の人間です。

 この仕事に携わる者の特権として私には幾つもの段階をへて送られてくる莫大な霊力を使用する手段が授けられております。必要とする人々へ分け与えるために使用することが私に許されているのです。私たちの世界こそ実在であり、あなた方の世界は実在ではありません。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことでしょう。

 あなた方は幻影の中で生きておられます。全て〝影〟なのです。光源はこちらの世界にあります。実質の世界です。こちらへ来て始めて生命とは何かということがお分かりになります。その真実味があまりに強烈であるために、かえってお伝えすることができないのです。

どうか、私のことをあなた方の兄貴だと思ってください。あなたを愛し、いつも側にいて、精一杯あなたを守り導きたいという願望をもって腐心している兄貴と思ってください。

 私はあなた方が気づいておられる以上にしばしばそれぞれのお家を訪れております。私に敬愛を覚えてくださっている家庭を私の地上での家庭であると思っているのです。状態がどうも良くないとき───地上での仕事にはよくそういう時があるのです───そんな時に敬愛に満ちたあなた方の光輝で温めてもらいに来ることができるということは大いなる慰安の源泉です。

 私たちは、やっていただいたことに対しては必ずそれなりの支払いを致します。いつもこう申し上げているのです───施しをする人は必ずそれ以上の施しをしてもらっており、差引勘定をすればいつも戴いたものの方が多くなっていると。施す者が施しを受けるというのが摂理なのです。

なぜなら、施しをしようとすることは魂の窓を開き、精神を広げ、心を大きくすることであり、その広くなったチャンネルを通して愛と導きと保護の力が流れ込むことになるからです。ですから、私に礼をおっしゃることはないのです。私がしていることは実に些細なことに過ぎないのですから」


 ここでメンバーの一人が第二次世界大戦中にシルバーバーチへの信頼心が大きな支えになったことを告げると、シルバーバーチは、

 「私のことを私の背後に控える大きな存在の表象、代弁者、代理人と思って下さい。その大きな力があなた方を包み、支え、その力があなた方を導いているのです。どこにいてもその知識を携え霊の世界との協力関係を確立した人は、イザという時にその豊かな力を呼び寄せることができます。

 皆さんのような方が怖れたり、取越苦労をしたり心配したり狼狽したりする必要はまったくありません。完璧な信仰は完璧な愛と同じく全ての恐怖心を追い払うものだからです。人間が恐れを抱くとまわりの大気を乱す波長を出し、それが援助しようとする霊を近づき難くします。

霊的な力が地上において本来の働きをするためには、静かで穏やかな確信───全ての恐怖心が消え、より大きな生命力と調和した光輝が漂い、何が起きようと必ず切り抜けられることを信じ切った、そういう確信が無ければなりません」

 「ですから、これまで成就出来たことは全てあなたのお蔭だと申し上げているのです」とメンバーの一人が言うと、心霊治療で救われた別の一人が、

 「ほんとに大きなお蔭をいただいたと感謝しております」と述べた。するとシルバーバーチが述べた。

 「確かにあなたの場合は格別に霊力の見事さを見せつけられた生き証人ということが出来るでしょう。といって私たちは盲目的な信仰、理性が同意できない信仰、不可能なことを要求し奇跡を期待するような信仰をお持ちなさいと言うつもりはありません。

現段階での人類は全ての知識を手に入れることは期待できません。一人一人の受容力と、能力と、霊的発達程度に応じただけの知識が授けられております。

 さて、その知識を人生哲学の基礎とすれば、これまでに受けた恩恵の大きさに艦みて、これからも背後に控える力があなた方を見離すはずはないとの〝信仰〟をもつことができます。

 ある程度は〝信じる〟ということがどうしても必要です。なぜなら全てを物的な言葉や尺度で表現することは出来ないからです。霊の世界の真相の全てを次元の異なる物質界に還元することは出来ないのです。

しかし、ある程度は出来ます。それを表現する能力を具えた道具(霊媒・霊覚者)が揃った分だけは出来ます。それを基礎として、他の部分は自分で合理的と判断したものを受け入れて行けばよいわけです。

 いつも申し上げているように、もしも私の言っていることが変だと思われたら、もしもそれがあなたの常識に反発を覚えさせたり、あなたの知性を侮辱するものであれば、どうか信じないでいただきたい。私がいかなる存在であるかについては、これまでにも必要なときに、そしてそれを可能にする条件が許す範囲で、明らかにしてきたつもりです。

それ以上のことは、あなたの得心がいくかぎりにおいて、あなたの私への信任にお任せします。ですが、これだけはぜひ申し上げておかなければなりません。

これまでを振り返ってご覧になれば、あなた方の生活の中に単なる偶然では説明のつかないものが数々あること、私ども霊団とのつながりができてからというものは、援助の確証が次々と得られていることを示す具体的例証を発見されるはずだということです。

 私は本日ここに集まっておられる方々の背後で活躍しているスピリットのあなた方への心遣いについて、いちいち申し上げようとは思いません。とても短い時間ではお話しできないでしょう。ですから、せめて次のことを素直に受け入れていただきたい。

すなわち背後霊はみなこうした機会を通じて皆さん方が愛の不滅性───こうして志を同じくする者が集まった時に心に湧き出る大いなる愛の情感は、墓場を最後に消えてしまうものではないということを改めて認識してほしいということです」

 そして最後に出席者全員にこう挨拶を述べた───「本日こうして皆さんとの交わりを通じて、私がいつも皆さんの身近にいることを改めて認識していただくことができたことを深く感謝いたします」

 すると一番古くからのメンバーが「私たち一同、とても大きな慰めをいただきました」と言うと、すかさずシルバーバーチは次のように述べて会を閉じた。

 「あなた方こそ私たち霊団にとって大いなる慰めです。どうかこれまでと変わらぬ堅固な意志をもって歩んでください。皆さんはすでに数々の困難を切り抜けて来られました。試練の炎が猛り狂ったこともありました。しかし一つの傷を負うこともなく、その中をくぐり抜けて来られました。

恐怖心を抱いてはいけません。これは私が繰り返し繰り返し述べているメッセージです。あなた方を支援する力はこれから先も決して見棄てることはありません。

無限の力が何時もご自分の身のまわりにあり、愛によって導かれ、必要な時はいつでも無限の叡知に与(あずか)ることができるとの認識をもって、恐れることなく、不安に思うことなく、まっすぐに突き進んでください。

皆さんも私たちも、世界を愛と美と寛容心と同情心と正義と慈悲の心で満たしたいとの願いの元に手をつなぎ合っている神の僕です。その神の御力を少しでも遠く広く及ぼすことができるよう、心を大きく開こうではありませんか。その御力の感動、その確証、その温かさを自覚できる人は大勢いるのです。

 こうして神の使者として、みずからの生きざまを通して、私たちこそ神の御心に適った存在であり、その御心が私たちの行為の全てに反映していることを示す機会を与えていただいたことを素直によろこぼうではありませんか」