Tuesday, June 30, 2026

シルバー・バーチの霊訓(十二)

 煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編




五章 向上進化の原理       

(1)人生の難問の一つ一つを、あなたが解決を迫られている課題として受け止めなさい。それに挑戦していく過程の中で霊性が磨かれ、発達し、潜在的神性が表面に出てくるのです。順風満帆に事が運んでいる時に感謝する必要はありません。

難問が生じた時こそ感謝すべきです。あなたにとっての挑戦課題が突きつけられたのであり、それを真正面から受け止めることによってあなたの霊性が一段と磨かれる。その絶好のチャンスだからです。


(2)あなたが人生の嵐に遭遇するのを私たちが阻止してあげるわけにはいきません。又その嵐の中で悪戦苦闘するのを私たちが防いであげることもできません。そうした試練にあなたがどう対処し、そこから教訓を学ぶために持てる才能をどう働かせるかを、側からじっと見守らねばならないこともあるのです。


(3)実在に目覚めるためには晴天と嵐というような対照的な体験が必要です。憎しみも所詮は愛が正しい目的からそれて歪められたものに過ぎません。要は魂の成長に関わる問題です。


(4)光を見出せるのは闇の中においてこそです。嵐の中にあってはじめて平穏無事の有難さが分かります。悲しみを味わってはじめて喜びを知るのです。人生は一見すると矛盾しているかに思える両極性で成り立っているのです。


(5)健康を損うまでは健康のありがたさは分かりません。雨の日の鬱陶しさを耐え忍んではじめて晴天の有難さが分かります。それと同じく、苦難は肉体が自分ではなくそれを操っている霊こそ自分であることを悟るために神が用意した、一種の触媒です。


(6)地上生活の問題は人間みずからの努力で解決していかねばなりません。問題が生じないように私が処置を施してあげるわけにはいきません。地上生活の本質そのものが絶えず問題と取り組むようにできているのです。それと正面から取り組むのです。

内部に潜む霊力を引き出して精いっぱい頑張るのです。そして、それでもなお十分でない時にはじめて、もう一度踏み込んで、無限の宝庫からの援助を求めて祈るのです。


(7)何の問題も生じないようでは、それは哀れなロボットと同じです。血の通わない操り人形です。あなたの内部には地上で開発すべき可能性が無限に秘められているのです。それは日向ぼっこをしているような呑気な生活、何一つ不自由のない生活の中では開発されません。

嵐の中で必死に舵取りをしている中においてこそ内部の霊力が呼び覚まされ発達するのです。私にはこんな厳しい説教しかできなくて申し訳ありません。


(8)私はその場かぎりの、ただ有難がられるだけの説教はしたくありません。人間はかくあらねばならないという、あるがままの真実をお教えする絶好のチャンスだと思って説いているのです。困難こそ有難いのです。真実の自我を見出す最良の手段なのです。

ですから、言いにくいことを申すようですが、困難に遭遇したら、よくぞお出で下さいましたと歓迎することです。それは困難のマスクをかぶった〝友〟なのです。


(9)霊の褒章がもし簡単に手にできるものであれば、それは手にするほどの価値はないことになります。成就、達成、こうしたものには犠牲がつきものです。ですが、その犠牲には必ず償いがあります。物的に失ったものは、それよりはるかに価値のあるものによって埋め合わせがあります。


(10)大半の人間の魂は居眠りをしております。小さな神性の火花が休眠状態にあります。それを煽って大きく燃え上がらせる必要があります。その触媒となるのが困難であり危機であり悲しみであり別れであり病気です。


(11)神は地上の人生を、人間であるがゆえの弱さの限界に到達したかに思う段階で強さを見出すように配剤しております。もはや地上のどこにも頼るべきものが見出せず万事休すと思えた時こそ、魂が霊的真理の光に照らし出される用意が整ったのです。


(12)地上生活の悩みごとから逃れることはできません。必ず生じるものです。それなしには目的地にたどり着けない、踏み石のようなものです。人生の嵐を一つ一つ切り抜けていくうちに霊性が強化され、性格が高尚さを増してまいります。困難こそ霊的な力と成長を身につけさせてくれるのです。

ですから、困難に尻込みしてはなりません。内部から引き出す力と、外部から引き寄せる力とによって克服していくべき挑戦課題として、堂々と受け入れていくことです。


(13)これからも地上には幾つのも大変動が生じます。崩壊もあれば隆盛もあります。皆さんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかもしれません。〝大変な時代になった・・・・・〟そうおっしゃるかもしれません。しかし、そうした変動の背後には地上世界の進化へ向けての大きなエネルギーの働きがあるのです。


(14)宇宙には進化という目的があります。常に進化しつつあるのです。完成されたものというのはどこにも存在しません。完成は無限の営みです。

不純なところを一つ無くしていくごとに、その奥にさらに不純なものを見出します。あなたは永遠に達成されることのない完全性へ向けての無限の進化の道を歩みつつあるのです。従って当然、その時点においては何らかの不公平というものが存在することは避けられません。

どこかに荒削りのところがあり、問題があり、困難が伴います。が、それもすべて進化の法則が運用されていくその副産物として生じていることです。


(15)まじめに、あなたなりの最善を尽くすことです。そして他人に対して寛容と慈悲の心を向けてあげることです。それができるということが進化しつつある霊の証しです。

人間は誰一人として完全な者はいません。煩悩を具えた存在であり未熟であるが故に、時には的外れのことを考えて間違いを犯すものです。だからこそお互いに寛容と慈悲と受容性と愛が大切となるわけです。


(16)面倒なことが生じないでほしいという願望は人間的煩悩の一つであり、それ自体を非難するつもりはありませんが、面倒なことを毛嫌いし逃避していては、霊的な成長は望めません。成長は困難に堂々と対処し,挑戦を正面から受け止め、そして克服していく中で得られるのです。


(17)担わされた使命が大きければ大きいほど、遭遇する試練も又大きくなります。そうならざるを得ないのです。人生の上っ面だけを生きている人よりも、霊的な資質に目覚めその意味を理解した人の方が、より大きな貢献を求められるのです。


(18)真理を知った者は物事が楽に運ぶことを期待してはなりません。霊の威力について何も知らない者よりも大きなことを要求されるのです。


(19)地上生活のどこかの段階でその人なりの真理の受け入れ態勢が整う時期が来ます。それは神が一人一人に用意して下さる絶好機です。それが時として病気、死別、危機という過酷な体験を通して届けられることがあります。しかしそれは魂を目覚めさせるために必要な触媒なのです。



(20)魂が完全に打ちのめされるほどの出来事は決して生じません。一つ一つの出来事は、いかに困難を極めるものであっても、魂を一層成長させるための手段と心得て下さい。

現実に数多くの問題と困難に取り囲まれているあなたにとっては、そういう受け止め方は決して容易なことではないでしょう。が、その場限りの捉え方ではなく、永遠の価値を持つ尺度があることを忘れてはいけません。それが霊的真理です。

疑念に襲われた時はその真理にしがみつくことです。人間である以上は煩悩を完全に閉め出すことはできません。が、だからと言ってその煩悩を怠慢の言い訳にしてはなりません。心構え一つで煩悩を力に変えることができるのです。


(21)光と闇、日向と日蔭は一つのものの二つの側面です。闇がなくては光の存在が分からず、日陰がなくては日向のありがたさもわかりません。人生の苦難も魂の成長を促すための手段なのです。

困難・障害・不利な条件、こうしたものはみな魂の試練です。それを一つ一つ克服するごとに魂は一段と強さを増し、一段と清さを増し、一段と深みを増し、一段と霊格を高めるのです。


(22)地上生活での体験を素直に受け止め素直に理解すれば、どれ一つとして魂を向上させないものはありません。いったい困難のない世界、試練も痛みも苦しみもない生活が想像できるでしょうか。そこには克服すべきものが一つもなく、したがって進歩もなく、ただ堕落あるのみです。


(23)物的身体に宿っているあなたは地上生活を尺度として物事を受けとめます。地上を去った私たちは地上生活を無限の生命の中のホンの一瞬として位置づけます。みなさんは何事につけ焦点を間違えております。

苦しんでいる人を見て同情し、その痛みを一刻も早く取り除いてあげたいと思う気持ちはごく自然な情として私も咎める気持ちは毛頭ありません。

しかし、その時のあなたは〝苦しみ〟という観点からのみその人のことを考え、苦しみの中で過ごす時間は、その苦しみの償いとして得られる霊的な喜びに比べれば、実に些細なものに過ぎないことにお気づきになりません。


(24)もしも借金(カルマ)の全てを返済してしまえば、もはや苦しむということのない段階に到達したことになるでしょう。身体が完全無欠になるからです。しかし人間は、地上にいても、あるいはこちらへ来てからも、次々と借金をこしらえております。


(25)一つのものに拘泥(コウデイ)しないということが大切です。周りに垣根をめぐらして新しいインスピレーションが入らないようにしてしまったらおしまいです。求道とは絶え間ない探求です。境界が絶え間なく広がっていくものです。なぜなら魂の進化に伴って精神がそれに反応して行くからです。


(26)知識にも真理にも叡智にも成長にも限界というものがないと悟った時、あなたは真に自由の身になります。心の奥では間違いであることに気づいていること、理性が拒否していることを思い切ってかなぐり棄てることができた時、あなたは真の自由を獲得します。

新たな真理の光に照らして誤りであることに気づいたものを恐れずに棄て去ることができた時、あなたは自由の身となるのです。


(27)地上の人間は、古くから伝えられたものだからという、ただそれだけのことで、古い教えにこだわりすぎます。真理と時代とは必ずしも手を取り合って進行するものではありません。子供の時に教え込まれた大切な信仰を棄てるのが難しいものであることは私もよく知っております。

しかし、理性が拒否するものは、いかにいわれのあるものであっても棄て去ることができて初めて魂は自由になれるのです。


(28)永遠の生命の営みには限界というものがありません。美しさにも限りがありません。音楽の壮麗さにも限りがありません。魂が進化の階梯を登れば登るほど、美と調和の世界が自分のものとなって参ります。より進化せる霊にはより大きな調和の世界が待ち受けております。


(29)低い階梯にいる間は高い階梯のことは意識できません。より大きな調和の世界の摂理も自動的に作動するものであり、その働きかけを受けるようになるには、魂の成長によってその次元まで到達するほかはありません。


(30)あなたのこれまでの成長の度合いによってこれから先の成長の度合いが決まります。もっともその成長を遅らせることはできますが、いずれにせよあなたがこれから選択する行為は、さまざまな次元の摂理の絡み合いによって自動的に決まってきます。

その一つ一つが自動的に働くからです。自由意志によって選択しているようで、実はそれまでに到達した進化の段階におけるあなたの意識の反応の仕方によって決定づけられているのです。霊性を自覚するようになった魂は(目先の損得・気楽さを超えて)いっそうの進化を促す道を選択するものです。



(31)霊性の進化に伴って自然の摂理を悟ってまいります。その第一の反応として、誤った知識、理性が納得できないもの、全知全能なる神の愛と叡智にそぐわないと直感したものは、恐れることなく捨てさることができるようになります。

容器に新しいものを入れるには、その前に古いものを取り出さないといけないのが道理です。自然な物の考え方を妨げるものは容赦なく捨て去らないといけません。かくしてあなたの霊性、あなたの魂が進化し、より高い叡智を受け入れる用意が整います。


(32)人生が両面性から成るということは挑戦の機会があるということであり、障害や不利な条件に立ち向かうことになるということです。そうでなかったら素晴らしい内部の神性は永遠に発現する機会がないことになります。


(33)価値あるものは苦しみと悲しみなしには手にすることはできません。地上ならではの教訓を学ぶには、それなりの避けがたい条件というものがあります。


(34)賢い人間とは体験のすべてを魂にとって益になる方向へ転換しようとする人、試練や誘惑から逃げようとせず、内部の力の限りを尽くして困難の克服に当たる人です。その意気込みの中でこそ霊性が進化し強化されるのです。


(35)あなたも大霊の一部であり、無限の神性を宿しております。その神性を発揮するにつれて、より次元の高い摂理との係わり合いが生じてまいります。それは決して低い次元の摂理と矛盾するものではありません。ただ魂がある一定の段階まで進化するまでは無縁というに過ぎません。


(36)幾百万年とも知れない歳月をかけて、あなたは下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥の中から天空へ向けて一段一段、ゆっくりと進化してきたのです。その間、少しずつ動物性を棄てては霊性を発揮するという過程を続けてきました。今あなたが宿っている身体がそこまで達するのに果たして何百万年かかったことでしょう。

しかもまだ進化は終わっていないのです。そして他方において魂の方も進化させなければならないのですが、あなたはそれにこれから何百万年かけることになるでしょうか。かつてあなたは猿でした。猿そのものだったという意味ではありません。猿という種を通して顕現した時代もあったという意味です。それも大霊の機構の一部なのです。

生命のあるところには大霊の息吹があります。それなくしては生命活動は存在しません。ただその息吹に段階的な差があるということです。発達と開発があり、下等な段階から高等な段階への変移があるということです。


(37)人間のすべてに大霊が宿っております。確かに人間はありとあらゆる形態を通して進化して来て動物時代の名残りも宿しておりますが、それよりも遥かに高尚な神性が宿されており、それを機能させ発揮させることができれば、あたかも神々が地上を闊歩するかのごとくになります。


(38)進化の頂点を極め〝完全〟と融合してしまったという霊を私はまだ一人も知りません。霊性というのは磨けば磨くほど、まだまだ磨くべきものが残っていることに気づくものです。それは意識の領域がますます広がっていくことを意味します。あなたの意識も大霊の一部なのですから、無限の奥行きがあります。



     シルバーバーチの祈り

 ああ、真白き大霊よ。あなたは全生命の始原にあらせられ、その中心におわします。あなたは全生命の支配者にあらせられます。なんとなれば、あなたは全生命の内部に存在したまい、あなたの法則が、無限に展開する驚異的宇宙の生きとし生けるもの全てを維持し経綸しているからでございます。

 あなたの摂理は絶対にして、壮大なる現象の中のもっとも壮大なるものであろうと、些細なる出来事の中の最も些細なものであろうと、宇宙間に生ずるもの全てをご存知であらせられます。なぜなら全てがあなたの摂理によって管理され、その摂理の働きでないものはないからでございます。

 ああ、神よ。あなたは物質の子等にご自身の神性の一部を賦与し給い、子等が常にあなたと結ばれ、かつ、進化と開発によりて次第にあなたに似た存在となることを可能ならしめられました。あなたは子等を物質の世界へ送られるに当たり、子等があなたと同じ神性を表現し、あなたの摂理を体現することによってあなたに奉仕する機会を用意なさいました。

 また、あなたは子等に自由意志を授け給い、かつまた、正しいことと間違ったこととを判断するための能力をお授けになりました。さらに子等がみずからの力で地上を天国となすための資質をお授けになっておられます。

 ああ、無窮の時を通じて全生命の王として君臨なされる大霊よ。あなたは無限なる叡智と公正と哀れみを持って、そして、そのいずれにもまして、無限なる愛を持って支配なされます。

 その実行のためにあなたは使者を遣わされ、地上の有志との協調体制のもとに、無用の苦しみと悩み、病と不調、罪悪と戦争、つまりは光明のあるべき所に暗黒をもたらし、安らぎのあるべきところに苦しみを生じさせ、豊かな恵みに浴すべき所に飢餓を招いている諸悪を一掃せしめんと意図されておられます。

 大いなる神よ。私どもは地上にあなたの王国を築かんと願う者との協力のもとに、みずからこしらえた魂の牢獄の中にいる人間が、みずから背負える重荷に屈することなく、首尾よくそこから脱し、暗闇の中ではなく光明の中で生きられるよう、あなたという太陽へ目を向けさせんと努力しているところで御座います。

 その目的のために私たちはあなたに祈り、子等のために献身することによってあなたに献身せんとするものです。

Monday, June 29, 2026

シルバー・バーチの霊訓(十二)

 煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編




 四章 宇宙の根本摂理
    因果律    

(1)あなたの霊性の高さは人生をいかに生きてきたかによって決まります。この摂理はすべての人間に例外なく当てはまることであり、どう繕ってみてもごまかしは効きません。私が〝摂理〟という時それは大自然の法則のことを意味し、根本的には原因と結果の法則、すなわち因果律のことです。

自己中心の生活を送れば、その結果としていじけた性格ができ上がります。なぜなら、利己的になることは霊性がいじけていることを意味するからです。他人を思いやる生活を送れば、それはあなた自身のことも思いやることになります。霊性が高まるからです。この法則に例外はありません。


(2)摂理は完全です。ひたすら人のためを心掛けた生活を送っていれば、その人を通して大霊が働きます。あなたにもその可能性があり、すべての人に例外なく言えることです。〝それは無理です〟とあなたがおっしゃっても私は〝可能です〟と申し上げます。摂理は完全であり、ごまかすことはできません。その点をよく理解して実行に移さないといけません。


(3)幸運(ツキ)というようなものは存在しません。法則の働きがあるのみです。たまたまそうなったというようなことは一つもありません。法則によって規制されている宇宙においては、すべての出来事は原因と結果の関係で生じているのです。


(4)個人であろうと集団であろうと、民族であろうと国家であろうと、摂理に反したことをすればそれ相当の代償を支払わねばなりません。私はつねづね摂理の働きは完璧ですと申し上げております。その結果が人間の目には見届けられないことがあります。

が私は、原因と結果とが前になり後になりしながら機能していることを確信しております。それが法則だからです。このことは何度も申し上げてきました。が、ここで改めて申し上げます───すべては法則であり、神の摂理の働きでしかないのです、と。


(5)神の摂理に逆らった生き方をする人は、みずから酷しい収穫を刈り取らねばなりません。摂理に素直に従って生きる人は、物的な面においても霊的な面においても、幸せと豊かさを手にすることになります。


(6)流血の悲劇を何度繰り返してもなお懲りない為政者が牛耳る地上では、それが生み出す苦難や悲哀の中で摂理を学ぶしか方法がありません。本当は愛と互助の精神を発揮する行為の中で学んでほしいのですが、それが出来ない以上、摂理に逆らったことをして痛い思いをするほかはありません。

地上で〝偉い人〟が必ずしも霊界でも偉いとは限りません。こちらでは魂の偉大さ、霊性の高さ、奉仕的精神の強さが重んじられます。こうしたものは物的な金ピカの輝きが消えたあとも末永く残ります。


(7)霊的な目が開かれ、霊力によってもたらされる愛を受け、霊的真理の啓示を手にした者がそのあとで人のために役立つことを何一つしないようでは、神から大きなお咎めを受けます。

なぜなら、知らずに怠けたのではなく、知っていながら怠けたからです。霊能者の中には折角の霊的能力を銀貨三十枚で売っている人が大勢おります。(マタイ26・14~16参照)


(8)既成宗教に籍を置く者はいずれ、これまでに犯した過ちのすべてに責任を取らねばならない日がやってまいります。摂理を免れる方法はありません。神の目はごまかせないのです。特に霊の声を聞いた者(心の奥では気づいている人)はその反動は大きくなります。その声に素直に従えない者は、何も知らずに信じている者より大きな報いを受けます。

  
(9)クリスチャンになったからといって、それで〝地の塩〟(地上の人間としての理想像)になったわけではありません。どこかの教会に所属したからと言って〝地の塩〟になるわけではありません。こちらの世界へ来ると、地上でどういう肩書きをしていたかは問題にされません。

特定の教義を擁護しても何にもなりません。評価されるのはただ一つ───地上生活において内部の霊性をどれだけ発揮したかです。


(10)この大宇宙を開闢(カイビャク)させた力、物的身体に生命の息吹を与えた神、全天体、全法則の統治者である大霊、千変万化の生命活動となって顕現している霊、人類の全歴史を通じて各時代ごとにさまざまな予言者や霊媒を通して真理を啓示してきた父なる神、すべての生命に宿り、すべての生命の背後に存在する大エネルギー、

それほどの偉大な存在が、牧師が数滴の水を新生児に垂らしたからといって喜び、垂らしていないからといって困った思いをなさることはありません。


(11)大切なのは各自の良心に恥じない生き方をするかどうかということです。赤ん坊のからだに水を二、三滴振りかけたからといって摂理がごまかされるものではありません。原因があって結果が生じる───この法則は変えられないのです。



(12)洗礼によって魂は少しも影響を受けません。他人が代わって魂を成長させることはできないのです。地上生活を生きていく、その生き方によって自分で成長させなくてはいけません。

間違った行為による報いは他人によって取り払ってもらうわけにはまいりません。それを償うに足る行為と、その過ちがもたらす苦しみに耐えることによって、自ら処理していくほかはありません。


(13)新たに法則をこしらえる必要が生じることは決してありません。全法則が用意されているからです。宇宙の経綸にとって必要なものは今も全て存在しますし、これまでも存在しましたし、これから先も間違いなく存在し続けます。大霊は全知全能ですから、あらゆる存在の相に必要なものは全て予期しておられます。


(14)摂理は完全であり、自動的に作動します。誰一人それから逃れられる人はいません。自由意志も摂理の中に組み込まれております。その働きは一定の進化の段階まで到達すると分かるようになります。


(15)あなたは個性を築き魂の進化を促進するためにこの物質界へ来ているのです。利己主義の道を選べば、それなりの代償を払わないといけません。

人道主義の道を選べば、人間的成長という形での報いがあります。そうしたことはすべて摂理のもとに規制されており、いかに立派な教祖様でもその働きを変えることはできません。


(16)身分、職業、血筋、地位や肩書、肌の色や国家の別、こうしたものには一切かかわりなく、人間のすべてに〝人のために役立つことをするチャンス〟が用意されています。それを怠ると、それだけの代償を払わされます。その摂理には誰ひとり干渉することはできません。イエスも言っております───〝蒔いた種は自分で刈り取らねばならない〟と。


(17)当然のことながら過去は今体験している結果の原因をこしらえたわけですが、その結果に対する現在の対処の仕方が、代わって将来の結果を生み出す原因となるわけです。ですから、今こそ良いタネを蒔くように努力するのです。幼児に説教するようなことを言うようですが、しかし、それが真実なのです。



  シルバーバーチの祈り
 
 ああ、真白き大霊よ。あなたの法則が全宇宙を支えております。あなたは全生命の責任者におわします。あなたの創造なされたものだからでございます。物質の世界の子等にもあなたの神性をお授けになられました。

 あなたは子等をご自身に似せてお造りになられました、その魂にあなたの霊力を植え付けられ、それが子等を永遠にあなたと結び付けております。それは、子等も進化するにつれて、より一層あなたに似た存在となりうることを意味します。

 ああ、神よ。あなたは無窮の過去より全大宇宙を治め、無窮の未来にわたって絶対的な支配者におわします。何となれば、あなたは全生命の始原たる大霊にあらせられるからでございます。

 あなたは全存在を支え、生命の全側面に顕現しておられます。それは物質の世界であろうと、はるか高き次元の霊の世界であろうと、意識ある存在に例外はございません。

 このたび私たちはあなたのお召しにあずかり、あなたの使者として、地上へご意志をもたらし、ご計画を啓示し、それを実らせるべく派遣されました。

 私たちは物質の子等と協調活動の中において彼らがあなたを理解し、彼らみずからを理解し、憎み合いから生まれた組織を愛の組織に置き換え、自己中心主義を互助の精神に置きかえ、戦争を止めさせて平和をもたらし、飢餓に終止符を打たせて、あなたがふんだんに用意されている恵みが平等に行きわたるようにと願っております。

 大いなる神よ。私たちは、片時とはいえ、こうして低き界層にて生活するあなたの子等と交わる時を得て、彼らとの協調的活動によってより大きな仕事を成し遂げ、悩める者を救い、暗闇の中にいる者に光明をもたらし、弱き者に力を与え、病める者を癒やし、人生の嵐の真っ只中にいる者に心の平静をもたらしてあげる仕事に勤しむことができることに深く感謝申し上げます。

 ここはまさに魂の安息所であり光明の聖殿にございます。かくのごとき場を得さしめたまいしことに、われわれは深く感謝し、この場を通じてご意志の一層の支配を行きわたらせるために、それを妨げる障害を取り除かんと努力いたす所存でございます。

 その目的のために私どもは祈り、刻苦し、地上の民に奉仕することによりあなたに奉仕せんと願うものです。
 ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Sunday, June 28, 2026

シルバー・バーチの霊訓(十二)

 煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編


三章 この世とあの世の係りあい
 
(1)無数の生命の相が互いに融合しあっております。境界線のようなものは存在しません。一方の側に物的なものが存在し、他方の側に霊的なものがあって、それが混ざり合っているのです。原理は無線電信と同じです。無数の波長、無数の振動があるのですが、同じ空間を飛び交っております。

そのうちのどれに反応するかは器機の感度によります。地上の人間は物質の波動の世界に閉じ込められております。物的な波長しか感知できません。霊視能力者はふつうの波長より一段と精妙な波長を感知できる人であり、霊聴能力者は普通の音の波長より一段と精妙な波長を感知できる人です。これも霊媒という器機の感度の問題です。


(2)地上世界は永い間の物質中心の感覚によって粗悪な生活の場となってしまいました。もともと人類は数多くの霊的感覚を使用することができたのです。

内部の霊妙な能力に気づいていたのです。古い記録をご覧になれば、太古にさかのぼるほど超能力が使用されていたことがお分かりになるはずです。それが物質文明の発達とともに次第に委縮し、今日では霊的バイブレーションがキャッチ出来る人はきわめて少数となりました。


(3)死後にも生命は存在します。いわゆる〝故人〟も今なお生き続けております。地上圏へ戻ろうと思えば戻れますし、現に戻っております。しかし、ただそれだけの表面上のことだけでこの問題を片づけてはなりません。

なぜ生き続けることができるのか、どういう過程で甦るのか、新しい生活にとってそれまでの生活はどういう影響を及ぼすのか、地上と霊界とはどういうつながりになっているのか、死の門をくぐったあとにどういう体験をしているか───

地上での言動や思想が向上を促しているか足を引っ張っているか、地上の人間に伝えるべき教訓として何を学んでいるか・・・・・・こうしたことが宗教にも科学にも政治にも経済にも芸術にも国際関係にも影響を及ぼすのです。永い間人類を苦しめてきた問題に新たな光を当てることになるからです。


(4)人間は本質的には地上にいる時からすでに霊的資質や属性のすべてを所有しております。時たまチラリと発現することはあっても、大半は居眠りの状態で潜在しております。ですから、いかなる形式にせよ霊が地上と交信する時は、必然的に霊側が犠牲を強いられてることになります。霊的波動を下げて人間の物的波動に近づけざるを得ないからです。


(5)人類の大半は霊的に高度なものを自らの力で手にすることは不可能です。バイブレーションが余りにもデリケートであり、あまりにも鋭敏であり、余りにも洗練されているために、よくよく鍛錬されたごく少数の霊覚者によってしか捉えられません。

そこで地上との交信には私たちの方から言わば階段を下りなくてはならないわけですが、そうすると当然、霊的な美しさが大きく殺がれてしまいます。


(6)死ぬ時は決して一人で旅立つのではありません。愛でつながった人々が付き添って、何かと面倒を見てくれます。これには例外はありません。影の世界から首尾よく脱け出て新しい素敵な生活に入れるように手引きをする態勢ができております。


(7)向上進化の道は孤独なものです。が、背後にはあなたを絶対に見捨てることのない霊団が付き添っております。魂を鼓舞する力は霊界から送られているのです。すべてのインスピレーションの始源はこちらにあるのです。


(8)肉眼で見ることも肉耳で聞くことも肌で触れてみることもできませんが、背後にはあなたとの地上的縁のある霊、血縁はなくても無私の愛に動かされた霊が控え、援助し、鼓舞し、もっとも生き甲斐のある生き方へと導いてくれております。

 
(9)背後霊にはあなたの困難、問題、願望のすべてが分かっております。又、ここが物質の世界であり、それなりの物的必需品というものがあることも承知しております。あなたが真理に忠実に生きておれば、飢えや渇きに苦しむことはありません。絶対に必要なものは必ず用意されます。


(10)〝聖霊に対する罪〟とは霊力の存在を否定することです。霊力はいつの時代にも地上へもたらされているのです。キリスト教は抽象的には霊力の存在を認めていながら、それが世界中の誰にでも届けられるものであるという話になると否定します。

こうして皆さんとの交わりができるのも霊力のお蔭なのです。ホンのわずかの間とはいえ、物質の世界と霊の世界とが目的において一つに調和することを可能にしてくれる、大霊の力なのです。


(11)〝復活〟は生命の法則の一つです。死の訪れとともに物的身体から離れた魂はすべて復活したことになるのです。キリスト一人の話ではありません。大霊の子のすべてに復活があるのです。

死の関門を通過すると、物的身体を後にして今度は霊的身体に宿って霊の世界で新しい生活を始めるのです。地上生活はすべてそのための準備なのです。


(12)地球が物的世界の一つとして存在を始めた当初から、神の教えを説くための霊が派遣されてきました。そして各民族、各時代の言語でしゃべりました。

その内容の程度もその国、その時代の要請、その民族の成長と発達の程度に即応したものでした。その方法・手段も理解力に応じたもの、高踏的になり過ぎないものが用意されました。


(13)人間は墓場を乗り越えて生き続けます。人間も本来は霊だからです。火葬の炎さえその霊を滅ぼすことはできません。物質の世界はもとより、いえ、霊の世界の何を持ってしても、内部に宿る神性、この世に生を受けることによって賦与された生命の炎を消すことはできません。


(14)いかなる極悪人といえども〝存在〟そのものを失ってしまうことはありません。神性の火花が衰えて微かに明滅する程度になることはあっても、完全に消滅してしまうことはありません。

なぜなら、大霊と結びつけている神性の絆は永遠不滅のものだからです。いかなる霊も二度と甦れないほど堕落することはありません。又いかに高級な霊といえども、その堕落した霊に救いの手を差し伸べるために身を低くすることはできるものです。


(15)魂が開発され霊的波長が高度なものになるにつれて、それだけ高度なエネルギー、大きなエネルギーと接触できるようになります。それは見えるものでもなく聞こえるものでもなく、永遠の霊的実在そのものです。それが生命の実在なのです。

人間は生涯の大部分を影を追い求め、幻を捕えようとし、儚いものを後生大事にしながら生きております。本当は静寂の中において、調和の中において、愛の中においてこそ、あなたの魂は着実に開発するのです。ゆっくりではあっても確実であり、間違いがありません。


(16)物質界の条件が、大きい方の意識で行われていることを小さい方の意識で思い出せなくしているのです。人間は死ぬまでは本当の意味で生きているとは言えないほどです。が、時として霊が物質の次元から離れて霊界からのインスピレーションに触れることがあります。その時、ホンの一瞬ですが言語を絶した無上の法悦に浸ることになります。


(17)睡眠中に暗黒の世界を訪れる人がいることは事実です。それは魂の本性がそこの波長に合っていて自然に引き付けられる場合と、一種の犠牲的奉仕精神から自発的にそういう環境に身を置く場合とがあります。

地上に籍を置く人間の霊的身体を利用することによって暗黒界の霊を救う方法があるのです。聖書にはイエスがいわゆる地獄界へ降りて行く話があります。睡眠中の話ではありませんが、原理は同じです。


(18)邪霊に憑依される人は、みずからそういう条件を内部でこしらえています。あくまでもその人個人の問題です。愛と奉仕の精神に燃えた人に高級霊が引き寄せられるのと原理は同じです。

法則は良いことばかりに働くのではありません。崇高な目的に作用する法則が悪い方向に作用することもあります。問題はあなたがどういう心掛けでいるかに掛かっております。


(19)地上の人間は現実界と霊界とのつながりについての理解ができておりません。光り輝く高級霊からのインスピレーションに触れることができると同時に、ふとしたことから無知な低級霊のなすがままになっていることもあります。いずれの場合も同じ摂理の働きなのです。


(20)皆さんは過去の偉人のことを過ぎ去ったこととしか考えませんが、その人たちはその後も同じ情熱を地上の同胞に対して抱き続け、今なお活躍しているのです。




  シルバーバーチの祈り

 ああ、大いなる神よ。あなたは生命の息吹におわします、全生命の背後の摂理におわします。森羅万象の大中心におわします。万事を賢明(ヨキ)に計らわれる大霊におわします。

 あなたは完全なる愛にあらせられ、完全なる叡智にあらせられ、完全なる公正にあらせられます。この全大宇宙として顕現なされた完全なる摂理にあらせられます。

 過去においてもあなたは、物質の靄にさえぎられることなく霊的波長を捉えることのできた者に、御身についての啓示を与え給いました。物質の次元を突き抜けて霊の次元へと高揚できる者に、あなたはその大いなる愛を顕現なさっておられます。

 あなたは今の時代に霊の道具を絶えず感化なさっておられるごとくに、太古においてもその時代にふさわしい賢者を感化なされました。あなたはいつの時代にもふんだんにインスピレーションを啓示され、人間の心を通してあなたの愛を顕現なさらんとしておられます。

それは、ひとえに、子等にとってあなたがいかに身近な存在であるかを理解せしめんとする配慮にほかなりませぬ。

 ああ、神よ。あなたはこの全大宇宙を造られた大霊におわします。極大なるものの中の極大、極小なるものの中の極小を創造なされました。そして物質の世界に人類なる存在を生みつけられ、その一人ひとりにあなたの霊性の一部を賦与されました。それはあなたとの不変・絶対の絆であり、人間が地上生活のいかなる困難をも克服する力を有することを意味します。

 またあなたは、内在するその霊性を顕現させ、地上におけるあなたの計画を促進する手助けをさせるために、人間にもあなたの創造活動に参加する能力をお授けになりました。

 さらにあなたは、地上の道具としての人間があなたの愛、あなたの叡智、あなたの力、あなたの意図を受けとめんと努力する時は、いずこであろうとあなたの使者をつかわして守護と指導に当たらしめ、鼓舞し高揚して、あなたの摂理をいっそう正しく地上に行きわたらしめんとなさいます。

 ここに集える私どもは、ここを拠点として絶望の淵にいる人、悲しみに暮れる人には新たなる希望と慰めを見出させ、人生に疲れた人には新たな力を見出させ、生きる意欲を失った人には新たな憧れを抱かせ、涙を浮かべている人には、生命に死はなく死後も永遠に生き続けるとの知識に喜びを見出させてあげることにより、あなたのお役に立ちたいと願う者たちでございます。

 願わくは、ああ神よ、地上の子等を少しでもあなたに近づけるためにみずから物質界へ降りて活躍する者と、霊の世界より働きかけている者との協力によって、あなたの愛が地上に根づくのを妨げんとする諸悪の全てを取り除かしめたまわんことを。

 ここに、他の同志とともに、あなたの子等に奉仕することによってあなたに奉仕せんとするインディアンの祈りを捧げます。
        

シルバー・バーチの霊訓(十二)

 煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編


 
二章 人間・死・死後の世界 

(1)人間は身体と精神と霊の三つの要素が一体となったものです。一個の自我に三つの側面があるということです。その三者が調和よく機能している状態が健康です。


(2)人間が〝死〟と呼んでいるのは物的身体が物を言わなくなる現象です。用事が終わって霊との縁が切れ、元の大地へ戻っていくのですが、往々にしてそれが、霊に十分な準備が整っていないうちに起きるのです。

それはともかくとして、霊は肉体という牢から解放されて、それよりはるかに精妙な構造をした霊的身体で自我を表現することになります。地上では眠っていた霊的感覚が発揮されはじめると、その活動範囲も飛躍的に広がります。


(3)宇宙はたった一つで、その中に無数の生活の場があります。生命は一つです。ただそれには無数の進化の段階があるということです。そうした霊的事実を説明しようとすると言語の不自由さが立ちはだかります。

とは言え、このぎこちない不適切な記号を使用せざるを得ず、結果的には真相がうまく伝えられないということになります。生命は一つです。宇宙は一つです。境界線というものは存在しません。国境というものはありません。死んで行った人も相変わらず同じこの宇宙で生き続けているのです。

ただ地上とは異なるバイブレーションの世界、異なる意識の段階で生活しているというだけです。霊も、あなたの目には見えなくても同じ地上にいると考えてもよいのです。それはちょうど、あなたもご自分では気づかなくても、私と同じ霊界にいると考えてもよいのと同じです。


(4)あなたは物質の世界に生きているために、とかく生命活動を物的なものとして考えがちです。しかし生命の本質は物的なものではありません。生命の基盤は非物質的なものです。物質をいくら分析しても生命の起源は見つかりません。

あなたという存在は物質ではありません。身体は物質でできています。しかし本当のあなたは、触れることも見ることも感知することも聴くこともできません。真実のあなたは〝霊〟なのです。


(5)あなたの行為、あなたの活動、あなたの思念、要するにあなたの生活そのものがあなたという実在を形成していくのです。その実在は肉眼では見えませんが、〝死〟の過程をへて肉体と永遠に訣別した瞬間から、それがまる裸にされます。それ以上に立派に見せることもできませんし、それ以下に惨めに見られることもありません。

地上生活によって形成された性格をそっくり携えて行くのです。平凡な日常生活の中で培われた霊的資質こそあなたの永遠の財産となるのです。


(6)死後あなたが赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしいところです。使命を帯びて一時的に低い界層に降りることはあっても、降りてみたいという気にはなりません。と言ってそれより高い界層へは行こうにも行けません。

感応する波長が地上で培われた霊性によって一定しており、それ以上のものは感知できないからです。結局あなたが接触するのは同じレベルの霊性、同じ精神構造の者にかぎられるわけです。


(7)霊界へ来て何年になるとか、地上で何歳の時に死んだといったことは何の関係もありません。すべては霊性の発達程度によって決まることです。そこが地上世界と霊界との大きな違いです。

地上ではみんなが同じ平面上で生活し、精神的にもまったく異なる人々と交りますが、こちらへ来ると、あなたが交わる相手は霊的に同質・同等の人ばかりです。立派な音楽家の曲が聞けないという意味ではなく、生活の範囲がほぼ同等の霊格の者に限られるということです。そこには親和力の法則という絶対に狂うことのない法則が働いております。


(8)人間は物的身体という牢の中で生活しています。その牢には小さな隙き間が五つあるだけです。それが五感です。皆さんはその身体のまわりで無数の現象が起きていても、その目に見え、その耳に聞こえ、その肌に触れ、その舌で味わい、その鼻で嗅いだもの以外の存在は確認できません。

ですが実際にはその身体のまわりで無数の生命活動が営まれているのです。見えないから存在しないと思ってはいけません。人間の五感では感知できないというに過ぎません。


(9)こちらへ来た当初は霊的環境に戸惑いを感じます。十分な用意ができていなかったからです。そこで当然の成り行きとして地上的な引力に引きずられて戻ってきます。しばらくは懐かしい環境───我が家・仕事場など───をうろつきます。

そして大ていは自分がいわゆる〝死者〟であることを自覚していないために、そこにいる人たちが自分の存在に気付いてくれないこと、物体に触っても何の感触もないことに戸惑い、わけが分からなくなります。しかしそれも当分の間の話です。やがて自覚の芽生えとともに別の意識の世界にいるのだということを理解します。


(10)死んで間もない段階では地上にいた時と少しも変わりません。肉体を捨てたというだけのことです。個性は同じです。性格も変わっておりません。習性も特徴も性癖もそっくりそのままです。利己的な人は相変わらず利己的です。欲深い人間は相変わらず欲深です。

無知な人は相変わらず無知のままです。落ち込んでいた人は相変わらず落ち込んだままです。しかし、その内霊的覚醒の過程が始まります。いわゆる〝復活〟です。


(11)死後の環境は地上時代の魂の成長度によって決まります。たとえば霊の世界では行きたいと思うだけでその場へ行けますが、その行動範囲にはおのずと霊格による限界があります。


(12)あなたは今その地上にある時から立派に霊的存在です。死んでから霊的存在になるのではありません。霊的身体は死んでから与えられるものではありません。死は肉体の牢獄からあなたを解放するだけです。それはあたかもカゴの中の鳥が放たれるのと同じです。


(13)人間は肉体をたずさえた霊であって、霊をたずさえた肉体ではありません。肉体は霊が宿っているからこそ存在し得ているのです。それは神の火花であり、すべての存在に内在しており、全ての生命を通して顕現しているのです。


(14)地上というところは内部の魂が芽を出し開眼し発達して、肉体の死後に始まる次の段階の生活に耐えられるだけの霊力をつける、その為の体験を得る場所です。


(15)地上は幼児の学校であり、こちらは大人の学校です。地上では神から授かっている霊的資質を少しでも多く発揮するように、精神を修養し霊性を鍛錬して他人のために役立つことをする、その練習をしているのです。


(16)人間は例外なく心霊的能力をそなえております。これは大へん大きな意味を持っております。歴史を勉強なされば、この事実は世界のすべての宗教の起源に結びついている基本的真理であることを理解なさるはずです。偉大な宗教家の教えの中には必ずそのことが述べられています。みな同じ始原からのインスピレーションを受けているのですから当然のことです。

人間は成就すべき霊的宿命を持った霊的存在であること、死後に待ちうけるより大きな生命活動にそなえるためにこの地上に来ていること、そして死ぬ時には地上でみずからの力で身に付けた愛、自ら築いた性格、自ら開発した霊的才覚をたずさえて行くということを異口同音に説いております。これこそがすべての宗教の中心的教えではないでしょうか。

しかもそれがすべての宗教において、一つの例外もなく忘れ去られていることも事実ではないでしょうか。膨大な量の教義、神学、教条主義、宗教とは何の関係もない、あるいは宗教として何の価値もない、人間的思考の産物によって置き代えられているのです。


(17)厳密に言えば霊は身体に宿る という言い方は適切ではありません。霊と身体とは波長の異なる存在だからです。本当のあなたは体内にいるのではありません。心臓と肺の間に小さく縮こまっているのではありません。地上で生活するためにこしらえられた物的装置を通して自我を表現している〝意識〟です。


(18)実際には人間のすべてが睡眠中にこちらの世界へ来ております。それは神の配慮の一つで、いよいよこちらへ来た時に環境の違いによってショックを受けないように、未来の環境に慣れさせておくのです。ちょうど子供時代を過ごした土地へ来るとその頃の思い出が甦ってくるように、睡眠中に訪れていた環境の記憶が甦ってきます。


(19)睡眠というのは物的身体の操作から霊的身体の操作へとスイッチが切り替わることであり、その意味で、その間は霊の世界にいるわけです。その睡眠中の身体に別の霊が入ってくる心配はありません。あなたがドアを開けっ放しにして出て行ったあと、誰かがノコノコと入ってきてドアを閉めてしまうというような図を想像してはいけません。

そういうものではありません。物的身体は相変わらずあなたの管理下にあります。ただ意識の焦点が別の次元に移っているというだけであって、やがて朝になれば意識が戻ります。


(20)衝撃などで昏睡状態に陥った場合は、霊と身体との正常な関係が破られているわけです。睡眠の場合は朝になれば霊がそういうものと自覚してバイブレーションを落として身体に戻る用意をします。それが正常な関係ですが、昏睡状態の場合は無理やりに身体機能から離され、しかもその機能が破壊されているために、戻ろうにも戻れないのです。


(21)オーラは身体から出るさまざまな放射物によって構成されています。実際には無数のオーラがあるのですが、地上界でオーラと言う時は肉体と霊体を包んでいるオーラのことです。あらゆる存在物にオーラがあります。意識を持たない物にもオーラはあります。

  
(22)人間のオーラには身体の状態と精神の状態が反映しますので複雑な波動を出しております。オーラを霊視しその意味が読み取れる人には、その人物の秘密がすべて分かります。

言ってみれば一冊の書物のページが開かれているようなものです。思ったこと、行ったことのすべてが記録されています。外見をどう繕っても、オーラには本当のあなたがありのままに表れています。


(23)パーソナリティとインディビジュアリティは違います。マスクを意味する〝パーソナ〟を語源とするパーソナリティは物的身体との関係で派生する地上だけの人物像です。

つまり本来の自我であるインディビジュアリティが五感を通して地上で自我を表現しようとしている側面であり、自我の全体を氷山にたとえれば、海面上に出ているホンの一部にすぎません。


(24)インディビジュアリティはパーソナリティよりはるかに大きな存在です。肉体の死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。インディビジュアリティを太陽にたとえれば、パーソナリティはその太陽が作り出した影ほどの存在です。死後、インディビジュアリティは地上では表現できなかった潜在的資質を徐々に発揮していきます。


(25)発達にも二種類あることを知らないといけません。精神に係わるものと霊に係わるものです。前者は心霊的能力の発達に過ぎませんが、後者は魂の成長そのものです。

心霊能力が発揮されても魂の成長が伴わなければ、低いバイブレーションの仕事しかできません。両者がうまく組み合わさった時は、優れた霊能者であると同時に偉大な人格を具えた人物となります。



  シルバーバーチの祈り

 大いなる神よ。無限なるあなたの奇しき摂理が私たちすべての存在を維持せしめております。あなたの愛が私たちのすべてを包摂しております。あなたの叡智が私たちのすべてを導いております。あなたの霊力が私たちのすべてを支えております。あなたの知識がよろめきがちな私たちの足元を照らしてくださっております。
 
 あなたについて、また霊の世界と、それよりさらに小さき物質の世界に顕現されているあなたの御姿についてこれまで啓示して下さった知識に対して、私たちは深く感謝申し上げます。

あなたの完璧なる摂理、すべてを支え、すべてを包摂し、何一つ落度もなく、片時も休むこともなく、全大宇宙とその中での生命活動の一つ一つに配剤されている完璧な律動(リズム)に感謝の念を捧げます。

 ああ、神よ。忝(カタジケナ)くもあなたは、いつの時代にも御身について時代相応の啓示をお授け下さっております。そのための使者として、あなたによって物質圏の世界へ派遣され、子等の霊性を鼓舞し、霊的真理へ目を開かしめんと努力してきた有志の僕に対して、深甚なる感謝を捧げます。

あなたの意図されている生命の豊かさを存分に発揮した生活を送るには、霊的真理の理解をおいて他に道はございません。

 ああ、神よ。あなたの叡智の無限性、あなたの知識の崇高性、あなたの真理の永遠性を理解できる者はおりません。地球の全時代の叡智を集めても、あなたには敵いません。

いかなる人物にもあなたの威力は理解できません。私たちを生かしめ機能せしめている内部の霊性は人間の知性を超えたものであり、その大きさも、その深さも計ることはできません。

 あなたから授かった霊的生命に感謝いたします。それが私たち子等を互いに結び付け、一個の霊的家族としております。霊と霊、心と心、精神と精神、愛と愛のつながりにおいて、死の淵さえ超えて一体ならしめているのでございます。

 また私たちは、有難くもかつて地上を旅した霊たちと幾重にもつながっており、さらにその奥にはあなたを中心とする、物質の束縛から完全に解放された神庁の大組織が存在しているのでございます。

 大いなる神よ。私たちはあなたの霊力の恩寵の豊かさを身を持って感じ、あなたとのつながりが永遠であるからには、あなたの叡智、あなたの霊力を少しでも多くいただくために、みずからの霊性を少しでも高めんとして祈るものです。

この祈りが霊的なものへの意識を維持せしめ、永遠の霊的真理の理解を助け、より一層あなたの御心に適った生き方を可能にするのでございます。

シルバー・バーチの霊訓(十二)

煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編




巻頭言・・・・・・・シルバーバーチ
祈 り・・・・・・・・シルバーバーチ
序 文・・・・・・・ ハンネン・スワッハー
シルバーバーチに最敬礼する
モーリス・バーバネル
一章 霊団の使



巻頭言

 本書は霊の世界の祝福を受けて物質の世界へ届けられるものです。願わくば今これを手にされたあなたが、本書を読まれることによって心の目を開き魂に感動を覚えられんことを祈ります。生命の物的諸相の背後にあるより高い、より深い、より尊い、そしてより雄大な側面に気づくまでは、その人は暗い霧の中で生きていることになるのです。

シルバーバーチ


祈り

 神よ。あなたは全生命の背後の法則におわします。太陽の輝きはあなたの微笑です。天より降り注ぐ雨滴(シズク)はあなたの涙です。夜空に煌めく星はあなたの眼差しです。夜の帷(トバリ)はあなたのマントです。そして人のためを思いやる心はあなたの愛にほかなりません。

 あなたの霊は全存在に内在しております。森羅万象はあなたの霊の顕現にほかなりません。美しく咲き乱れる花となり、さえずる小鳥の声となって顕現しておられます。あなたへの思いを抱く者ならば、あなたは誰にでも理解できるのでございます。

 ああ、神よ。全宇宙を法則によって知ろしめされるあなたは、無窮の過去より存在し、無窮の未来にわたって存在いたします。これまでにあなたは霊の目を持って見る者に真実の姿を顕示され、愛を教え叡智を説き、理解しうる範囲においてご計画を披露してまいられました。地上天国を築かんと願う者たちの魂を鼓舞し、霊力が生み出す勇気を持ってあなたの進化の仕事に協力するよう導かれました。

 また、あなたの使者として私たちを地上へ遣わされ、地上の子等の魂を解放し、あなたがいかに身近な存在であるかを認識させるために、新たな光明、新たな知識、新たな真理、新たな叡智をもたらすべく、高揚と慰安と教化と啓示の仕事を託されました。

 願わくはこのサークルをあなたの霊力によって満たし、ここを聖殿としてあなたの真理の輝きを流入せしめ、地上の暗き場所を明るく照らし、平和と幸せと知識と叡智をもたらすことができますように。        

 シルバーバーチ



序 文             
ハンネン・スワッハー

われわれがシルバーバーチと呼んでいる霊は実はレッド・インディアンではない。いったい誰なのか、今もって分からない。分かっているのは、その霊は大へんな高級界に所属していて、その次元からは直接地上界と接触できないために、かつて地上でレッド・インディアンだった霊の霊的身体を中継してわれわれに語りかけている、ということだけである。

 いずれにせよ、その霊が〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟と呼称している交霊会の指導霊である。その霊が最近こんなことを言った。

 ≪いつの日か私の(地上時代の)本名を明かす日も来ることでしょうが、私は仰々しい名前などを使用せずに皆さん方の地上の人間の愛と献身とを獲得し、私の説く中身の真実性によってなるほど神の使徒であることを立証すべく、こうしてインディアンに身をやつさねばならなかったのです。それが神の御心なのです≫

 ところで、私とシルバーバーチとの出会いは一九二四年スピリチュアリズムの真実性を確信して間もない頃のことだった(※)。以来私は毎回一時間余り、シルバーバーチの教えに耳を傾け、導きを受け、助言を頂き、いつしかその霊を地上のいかなる人物よりも敬愛するようになった。

(※スワッハーは招かれたある交霊会に大先輩のノースクリッフ卿が出現して、どうしようもない証拠を見せ付けられたことがきっかけで死後の存在を信じるようになった。折しも友人のバーバネルが霊能を発揮し始め、スワッハーの自宅で交霊会を催すようになった。それが〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟と呼ばれるようになったゆえんである───訳者)

 シルバーバーチの地上への最初の働きかけは普通より少し変わっていた。スピリチュアリズムを勉強中の十八歳の無神論者が、ある時ロンドンの貧民街で行われていた交霊会にひややかし半分の気持ちで出席した。そして霊媒が次々といろんな言葉でしゃべるのを聞いて、思わず吹き出してしまった。

ところがその中の一人が「そのうちあなたも同じことをするようになりますよ」と諌(イサ)めるように言った。

 その時はバカバカしいという気持ちで帰ったが、翌週再び同じ交霊会に出席したら、途中でうっかり居眠りをしてしまった。目覚めると慌てて非礼を詫びたが、すぐ隣に座っていた人が 「あなたは今入神しておられたのですよ」 と言ってから、続けてこう言った。

 「入神中にあなたの指導霊が名前をおっしゃってから、今日までずっとあなたを指導してきて、間もなくスピリチュアリストの集会で講演をするようになると言っておられました」

 これを聞いて若者はまた笑い飛ばした。が、それが現実となってしまった。

 当時はシルバーバーチは多くを語ることができず、それもひどいアクセントだった。それが年をへるにつれて、入神させて語る回数が増えたことも手伝って英語がめきめき上達し、今日ではその素朴で流麗な英語は、私がこれまでに聞いたいかなる演説家もその右に出る者はいないほどである。

 ところで〝霊媒のバーバネルが本当に入神していることをどうやって確認するのか〟という質問をよく受けるが、実はシルバーバーチがわれわれ列席者に霊媒の手にピンを差してみるように言ったことが一度ならずあった。

恐る恐るそっと差すと、思い切って深く差せと言う。すると当然、血が流れる。が、入神から覚めたバーバネルに聞いてもまるで記憶がないし、その跡形も見当たらなかった。

 もう一つよく受ける質問は、霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのかということであるが、実はシルバーバーチとバーバネルとの間には思想的に完全に対立するものが幾つかあることが、そのよい証拠といえよう。

たとえばシルバーバーチは再生説を説くが、バーバネルは通常意識の時は再生は絶対にないと主張する。そのくせ入神すると再生説を説く。(晩年は信じるようになった──訳者)

 ささいなことだが、もう一つ興味深い事実を紹介すると、シルバーバーチの霊言を〝サイキックニューズ〟紙に掲載することになって速記録が取られるようになるまでのことであるが、バーバネルがベッドに入ると、その日の交霊会で自分が入神中にしゃべったことが霊耳に聞こえてくるのだった。

これには訳がある。バーバネルはもともと入神霊媒となるのが嫌だったのであるが、自分がしゃべったことを後で全部聞かせてくれるのならという約束をシルバーバーチとの間で取り付けていたのである。速記録が取られるようになると、それきりそういう現象は止まった。

 翌日その速記録が記事となったのを読んで、バーバネルは毎度の如くその文章の美しさに驚く───自分の口から出た言葉なのに。(この後の <シルバーバーチに最敬礼する> 参照)

 シルバーバーチは教えを説くことに専念しており、病気治療などは行わない。また心霊研究家が求めるような、証拠を意図したメッセージもあまり持ち出すことをしない。

誠に申し訳無いが自分の使命は霊的教訓を説くことに限られているので・・・・・・と言って、われわれ人間側の要求のすべてに応えられない理由を説明する。

 私は最近、各界の人物を交霊会に招いている。牧師、ジャーナリスト、その他あらゆる分野から招待しているが、シルバーバーチという人物にケチをつける者は一人としていない。

 そのうちの一人で若い牧師を招いた時に私は前もって〝あなたの考える得る限りの難解な質問を用意していらっしゃい〟と言っておいた。日ごろ仲間の牧師からさんざん悪口を聞かされている〝交霊会〟というものに出席するというので、この機会に思い切ってその〝霊〟とやらをやり込めてやろうと意気込んできたらしいが、

シルバーバーチが例によって〝摂理〟というものを易しい言葉で説明すると、若者はそれきり黙り込んでしまった。難解きわまる神学がいとも簡単に解きほぐされてしまったからである。

 さて、そのシルバーバーチを支配霊とする私のホームサークルは、毎週金曜日の夜に開かれる。(当初は週一回、中年からは月一回となり、晩年は不定期となった───訳者)その霊言は定期的にサイキックニューズ紙に掲載される。

その版権が私のホームサークルに所属するのは、サークルとしての私用を目的としてのことではなく、これを世界中に広めるためである。今ではシルバーバーチは地上のいかなる説教者よりも多くのフアンを持つに至っている。あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる肌色の人種の人々に敬愛されている。

 しかし実を言うと、いったん活字になってしまうと、シルバーバーチの言葉もその崇高さ、その温かさ、その威厳に満ちた雰囲気の片鱗しか伝えることができない。

交霊会の出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバーバーチがどんなに謙虚にしゃべっても、高貴にして偉大なる霊の前にいることをひしひしと感じる。決して人を諌めない。そして絶対に人の悪口を言わない。

 キリスト教では〝ナザレのイエス〟 という人物についてよく語るが、実際には本当のことはほとんど知らずに語っているし、イエスという人物が存在した証拠は何一つ持ち合わせない。シルバーバーチはそのイエスを、彼が連絡を取り合っている霊団の中でも最高の霊格を持つ存在に位置づけている。

永年にわたってシルバーバーチと親しく交わってきて私はその誠実な人柄に全幅の信頼を置いているので、われわれはシルバーバーチの言う通り、新約聖書の主役であるイエス・キリストは地上で開始した霊的革新の使命に今なお携わっていると確信する。

そう信じで初めて〝見よ!私はこの世の終わりまで常にあなた達とともにいる〟(マタイ28・20)というイエスの言葉の真実の意味が理解できる。今の教会ではこの説明はできない。

 シルバーバーチの哲学の基本的概念はいわゆる汎神論である。すなわち神は大自然そのものに内在し、不変の法則としてすべてを支配している。要するに神とはその法則(摂理)なのである。

それをシルバーバーチは〝あなたがたは大霊の中に存在し、また大霊はあなたがたの中に存在します〟と表現する。ということは、われわれ人間もみな潜在的にはミニチュアの神であり、絶対的創造原理の一部としての存在を有しているということである。

 もっともシルバーバーチは理屈をこね回すだけの議論には耳を貸さない。人間は何らかの仕事をするたためにこの地上へ来ているのだということを繰り返し説き、宗教とは〝人の為に自分を役立てること〟と単純明快に定義する。

そして、お粗末とはいえわれわれは、今この地上にあって戦争に終止符を打ち飢餓を食い止め、神の恩寵が世界中にふんだんに行きわたる時代を招来するための、霊の道具であることを力説する。

 〝われわれが忠誠を捧げるのは一つの教義でもなく、一冊の書物でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の摂理である〟───これがシルバーバーチの終始一貫して変わらぬ基本姿勢である。





シルバーバーチに最敬礼する                         モーリス・バーバネル

 シルバーバーチの教えは言わば言葉の錬金術、つまりアルファベットの二十六文字を操って輝くばかりの美しい言葉を生み出す能力の典型である。年がら年中物を書く仕事をしている人間から見れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さで説き続けることそれ自体が、すでに超人的であることを示している。

 ペンに生きる他のジャーナリストと同様、私も平易な文章ほど難しいものはないことを熟知している。誰しも単語を置き換えたり削ったり、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っ引きでやっと満足のいく記事ができ上がる。

ところがこの〝死者〟は一度も言葉に窮することなく、スラスラと完ぺきな文章を述べていく。その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を高揚し、気高さを感じさせる。

 シルバーバーチは宗教とは互いに扶助し合うことに尽きると言う。神とは自然法則であり、腹を立てたり復讐心をむき出しにする人間的な神ではないと説く。その言葉の一つ一つがダイヤモンドの輝きに似たものがある。

その人物像もまさしく〝進化せる存在〟であり、全人類への愛に満ち、世故たけた人間の目には分からなくても、童子の如き心の持ち主には得心のいく真理を説き聞かそうとする。

迷える人類のために携えてきたメッセージは〝人のために自分を役立てなさい〟ということしかないと言いつつも、そのたった一つの福音の表現法はキリがないかに思えるほど多彩である。

 永年にわたってその霊言に親しんできた者として、ますます敬意を覚えるようになったこの名文家、文章の達人に私は最敬礼する。


一章 霊団の使命  
    
(1)私たち霊団の者も皆さんも、ともに大霊への奉仕者です。ただ私たちは皆さんよりホンの少しばかり先を歩んでいるというに過ぎません。そこでこうして引き返してきて、これまでに学んだものの中から皆さんのお役に立つものをお分けしようというわけです。

お互いに扶助し合うということが生命の根本原理だからです。互助の精神のないところには荒廃があるのみです。互助の精神のあるところには平和と幸せが生まれます。地上世界はその互助の精神によって新しい社会を築かないといけません。原理はいたって簡単なのです。人間がそれをややこしくしているのです。


(2)そもそも私たちが地上へ戻ってくる目的はそこにあるのです。すなわち、たった一冊の書物、たった一つの宗教、たった一人の指導者───それが地上の人間であっても霊界の存在であっても───そういう限られたものに自分のすべてを託してはいけない、それよりも神の摂理に従順であるように心掛けなさいと申し上げるためです。それだけは絶対に裏切らない、絶対に間違うということがないからです。


(3)地上世界にもこれまでに何度となく霊的啓示がもたらされ、そして失われていくということが繰り返されてまいりましたが、今度こそは前面に押し出して二度と失われることのないようにしようとの決意のもとに、大々的な努力がなされております。

私はそのための一個の道具に過ぎません。今度こそは物質万能主義と利己主義の勢力の跋扈を抑制し、人間がややもすると囚になってしまいがちな煩悩に負けないようにするための努力がなされております。そのためには日常生活の中にそうした霊的真理を生かしていくしかないのです。


(4)私たちがこうした真理の普及に努力するのは、それが霊的摂理のみならず物的法則とも密接に係わりあっているからです。私たちの目から見れば物質界も大霊の支配下の全大宇宙の一部であり、絶望の淵にあえぐ地上人類の苦悩に無関心でいては、宗教心を説く資格はありません。


(5)私は私をこの地上へ派遣した霊団の代弁者(マウスピース)に過ぎません。私自身の栄誉とか報賞とかを求める気持ちはみじんもございません。誇大に宣伝したり地上時代の偉そうな人物名を名乗ったりする趣味も持ち合わせません。

私はただこれまで申し上げたような霊的真理、永い間忘れ去られていた真理に改めて〝神の真理〟のシールをはって、こうして地上へお届けするための道具であることに喜びを感じているのです。


(6)私の役目は私の所属する霊団からのメッセージをお届けすることです。手塩にかけて養成したこの霊媒と私自身の霊力の力量の範囲内で受け取ったものを忠実に伝達する努力を続けてまいりました。私はただお役に立てばそれで良いのです。

もしも私がお伝えするささやかな教えが、人生の嵐の中にあるたった一個の魂の一服の憩いとなり、疑念の嵐をくぐり抜けた後の確信の港となれば、あるいは又、こうした一見何でもなさそうな素朴な霊的真理の聖域の中に幸せを見出し生き甲斐を覚えさせてあげることになれば、父なる神から仰せつかった仕事のいくばくかを成就したことになります。


(7)こうして私たちが霊的真理の普及に努力している一方には、この真理そのものよりもそれを伝える道具つまり通信霊の身元の詮索の方が大事だと思っている人が大勢いるようです。

その霊が地上で白人であろうが黒人であろうが黄色人種であろうがレッド・インディアンであろうが、それでどう違ってくるというのでしょう。

神の真理が教養豊かな人によって届けられようと無学な人によって届けられようと、それが真理に間違いなければ、純粋の真理でありさえすれば、そんなことはどうでもよいことではないでしょうか。


(8)私たちは物質の世界の子等がいかにすれば伸び伸びと生きることができるか、いかにすれば霊的真理の光に浴することができるか、いかにすれば人間的産物である教義への隷属状態から脱け出せるかをお教えしようと努力しているところです。

もとよりそれは容易な仕事ではありません。なぜなら、いったん宗教的束縛を受けるようになると、その迷信の厚い壁を真理の光が突きぬけるには永い時間を要するからです。


(9)強大な霊の勢力があなた方の物質の世界へ差し向けられております。すべての国において霊力の強い働きかけが感じ取れるようになるでしょう。地上世界にはびこる利己主義と無知に対抗して、なすべき大切な仕事があるからです。いずれはそれも征服されることでしょうが、それまでの過程において大変な苦悩があることでしょう。


(10)皆さんの味方として差し向けられる霊はいろいろです。地上で顔見知りだった人、血縁のあった人、さらにはそうした地上的縁とは無関係に、ただ地上人類への愛に動かされてやってくる高級霊もいます。

背後霊というと人間はとかく名前を知っている人たちのことを頭に浮かべがちですが、その他に、自分の存在を知ってもらいたいとも功績を認めてもらいたいとも思わず、ただ持てる霊力を役立てたい一心から働きかける霊が無数にいることを忘れないでください。


(11)霊にかかわることは慎重な配慮による養成と進歩を要します。急激な変心は永続きしません。私たちの仕事は永続性を目標にしているのです。一人また一人と、暗闇から光明へ、無知から知識へ、迷信から真理へと這い出るごとに地上世界が進歩するのです。その一人ひとりが物質第一主義の棺(ヒツギ)に打ち込む一本のクギなのです。


(12)私たちが行っている仕事が今後もますます要請されてまいります。地上世界は流血と悲劇と苦悩に溢れております。無明ゆえに神の摂理に沿った生き方をせずに、暗黒と絶望へ向かう道を選択してしまいました。

そこで私たちは希望と光明と安らぎと調和へ導く叡智をお教えしようとしているのです。それを地上の人間は無明ゆえに軽蔑しようとします。お届けするメッセージを拒絶します。霊力の働きかけを否定します。しかしそうした態度にはお構いなく真理は地上へ広がっていくことは間違いありません。大霊を始源としているからです。


(13)私が使用するこの霊媒の口からもしも皆さんの理性を反発させるもの、神の愛と矛盾すること、愚かしいこと、知性を侮辱するものが聞かれるようになったら、その時はもはや私の時代は終わったこと、私の仕事が挫折したことを意味します。


(14)スピリチュアリズムの活動は、放棄された信仰の瓦礫(ガレキ)の中にあって人類が懐疑と猜疑のために全てを拒絶してしまうことなく、実と殻、事実と神話とを選り分けて、どの宗教にも包蔵されていながら幼稚な人間的想像の産物の下に埋もれてきた霊的真理に目を向けるように導くという、大きな使命の一環なのです。


(15)こうして地上世界のための仕事に従事している私たちの多くは、これから先の地上はこうなるという未来像を見せていただいております。それを受け入れ能力のある地上の同志に伝え、挫けがちな心を鼓舞しております。

私が見せていただいた未来図に比べると現在の地上世界が非常に醜く見えます。が私には地上世界はこれほどまで立派になりうるのだ、こうならねばならないのだということが分かっております。あとは〝時間〟の問題です。それを早めるも遅らせるも人類の自覚一つに掛っております。

   
(16)人間はやはり神の摂理にのっとった生き方をしなければならないのだと思い知るまでは、混沌と破綻と悲劇と崩壊の止む時はないでしょう。私たちは人間も本来は〝霊〟であることを原理とした摂理を説くほかはありません。

なぜなら、物的なものが朽ち果ててチリとなった後になお残るのは霊的なものだからです。物的なものだけに目を向けている人間は大きな過ちを犯します。なぜなら、その生き方は幻影を追い求めて永遠なるものを忘れているからです。いたって簡単なことなのですが、そのことがいまだに理解されておりません。


(17)人間の心の中には常に〝人間的なもの〟と〝霊的なもの〟との葛藤があります。霊的なものが勝てば神との一体感を自覚します。人間的なものが勝った時は空しさを覚えます。

そこで私たちは人間を、本人がこれが一ばん良いと思っている道ではなく、この道の方がより大きな存在価値を発揮するという方向へ導いてあげる必要があるのです。


(18)身体の健康状態とは別に、皆さんを取り巻いている雰囲気と地上全体を取り巻いている大気が憎悪と凶暴性に満ちていて、私たちが突き抜けるのに苦心惨澹することがあります。霊の目には見るも恐ろしい様相を呈しております。

私たち霊団はそうした病める地上世界───貪欲をむき出しにし、利己主義が支配し、本来の霊的属性を発揮している人がホンの一握りしかいない世界を何とかして改めたいと望んでいるのです。


(19)全生命の基盤となっている永遠の実在に関する知識を広めることは、もとより私たちの仕事の一環です。生命は霊であり霊は生命だからです。

しかし同時に人間は肉体を携えた〝霊〟であり、霊を宿した肉体ではないということ、肉体はその所有者(オーナー)が自我を発揮するための仮の宿にすぎないという事実を、受け入れる用意のできた人たちに教えてあげることも大切な仕事です。


(20)困ったことに人間は自分に都合のよいことが都合のよいタイミングで生じてくれることを望みます。しかし私たちはそういう期待にはお応えしかねます。私たちには私たちなりのタイミングがあります。

皆さんよりは先見の明が開けておりますから、皆さんにとってその時点でどうなるのが一ばん良いかの判断は、皆さん自身よりは私たちの方が上です。地上の人間の祈りを聞いていると、もしもその通りに叶えさせてあげたら大変なことになりかねないことがたくさんあります。


(21)神も、しょせんは人間という物的な道具を使用するしかないのです。あなた方は霊力が地上へ働きかけるための道具です。ですから心を開き、受身的になり、先入観を取り除くことが大切です。人のために役立ちたいという願望を抱くことが大切です。その願望に感応して、そのために必要な援助が届けられます。


(22)改めて申し上げるまでもないことですが、私たちは皆さん方の献身的奉仕精神に呼応して献身するということに徹しており、その精神が無視されることは絶対にありません。と言って私たちによる援助は必ずしも皆さんが望んでおられる通りのものとはかぎりません。

結果的に皆さんにとって好ましい形になるように、まず霊的理解力を培うことに努力します。皆さんの我がままに負けて程度を下げた形で妥協するよりも、高度なレベルまで皆さんに向上していただく方が良いにきまっています。

ここにお集まりの方だけでなく、世界各地の受け入れる用意のできた人々に、真の自我に目覚めていただこうと私たちが努力しているそもそもの目的は結局はそこにあるのであり、それが私たちが皆さんに求める理想なのです。

   
(23)私たちは命令はしません。皆さん方をロボットや操り人形のように扱うことはしません。協力者であってほしいのです。インスピレーション、コミュニケーション、ヒーリング、その他いかなる形にせよ、霊力を地上へ届ける道具としての受容性を伸ばしていただきたいのです。


(24)皆さんがシルバーバーチとお呼びくださっている私は、霊界の無限の知識のホンの一部を託されているだけです。ですが、皆さんがさらに進化すれば、私よりもっと立派な指導霊が、私を利用して一段と高い次元の知識と叡智を授ける手筈を整えております。


(25)もうこれでおしまいという段階は来ません。完全というものは存在しないのです。皆さんも私も進化の途上にあります。そして私より進化した霊の話によりますと、その上にも更に進化した神霊が働いているということです。


(26)正しい知識を地上に普及させる───これが私たち霊団の使命の一環です。一環とはいえ大変な仕事です。霊的実在に関する地上世界の余りの無知に、このまま放置していては大変なことになるとの認識がこちらの世界で広まりました。その無知による弊害があらゆる面で顕著になってきたからです。地上世界だけではありません。

 霊界側にもそれが反映されはじめたのです。どの宗教も自分のところの教義を信じた者は死後たちまち光輝あふれる霊となって、悩みや労苦から解放されるかに説いておりますが、事実はそうではありません。これほど真実からかけ離れた教えはありません。


(27)地上世界の無知による弊害を見るに忍びず、これは何としても思い切った手段を講じて霊的実在に関する正しい知識を普及させなければとの決断がなされました。私がこうして何十年にもわたってこのサークルで語り続けているのもその一環です。

〝霊的〟というと何か摑みどころのない神秘的なものを想像なさりがちですが、そうではなくて実在そのものなのです。何代にもわたって引き継がれてきた誤解・無知・偏見・虚言・虚偽・迷信───要するに無数の人類を暗黒の抑圧の中に閉じ込めてきた勢力を取り除かねばなりませんでしたし、今なおそれを続けております。



 シルバーバーチの祈り

 ああ、神よ。あなたは無限なる摂理におわします。無限なる叡智におわします。無限なる愛におわします。無限なる知識におわします。無限なるインスピレーションにおわします。

 私たちがあなたへの讃仰の祈りを捧げるのは、あなたが全世界の中心にあらせられるからにほかなりませぬ。生命はあなたと共にあり、あなた無くして何一つ存在できませぬ。なぜなら、あなたは全生命にみなぎり、すべてを支え、すべてを包摂しておられるからでございます。

あなたは私たち人間的生命のすべてに神性の一部を賦与され、それが地上の民族のすべてをあなたと一体ならしめていると理解いたしております。

 大いなる神よ、それ故に私たちはあなたへの祈りにおいて決して原罪を恥じて恐れおののきつつ膝を屈することなどはいたしませぬ。これまでに授かった知識に照らし、私たちもあなたの一部であり、私たちの存在なくしてあなたも存しえぬとの理解のもとに祈ります。

あなたの子たる私たちすべてにあなたの霊性が宿り、それが常により高い顕現を求め、私たちを通して御心の成就を求めているとの理解のもとに、浩然の気概をもってあなたの御前に立ちます。

 ああ、神よ、地上の子等に霊的摂理を教える機会をお与え下さったことに、私たちは深甚なる感謝を捧げます。その摂理を手にした子等の援助を得て私どもは、あなたの壮大な計画を啓示することによってあなたと物質の世界に貢献し、その知識が地上の全民族に地上生活の目的を理解せしめ、すべての無知を駆逐することになるのでございます。

 あなたの力がすべての弱みを補強します。あなたの光がすべての暗闇を照らします。そしてすべての不幸と悲劇が、喜びと幸せによって置き代えられることになるのでございます。

Saturday, June 27, 2026

最後の晩餐シルバーバーチの霊訓(十一)

 More Philosophy of Silver BirchEdited 

by Tony Ortzen


八章 最後の晩餐

 訳者前置き───本章はシルバーバーチの交霊会を録音したカセットテープ Silver Birch Speaks<シルバ-バーチは語る>の全訳である。原書では部分的に1/3程度が紹介されているが、本書では全部を紹介することにした。シルバーバーチの交霊会は初期の頃は速記のみで、その後は速記と録音とによってすべて保存されているが、市販用にカセットテープに収められたのは、これまでのところこれが唯一である。

〝最後の晩餐〟という見出しは、たまたま出席者の数がキリストの最後の晩餐の時と同じ十三人だったので、リーバ女史がそう呼んだのであるが、シルバーバーチの霊訓の最後を飾るものとしてもふさわしいので、そのまま用いた。

訳文の中で(後注1、2、3、4)として章末にまとめたものは原書をお持ちの方への配慮である。

 なおカセットテープと原書をご希望の方は巻末の〝訳者あとがき〟を参照されたい。入神したバーバネルに乗り移っていよいよ話せる用意の整ったシルバーバーチが冒頭に呼びかけているサム・デニス Sam Dennis は司会者で、他のカセットでも司会やインタビュアーの役をしている人である。(この八章の会話行頭の───はすべてサム・デニス氏)

 最初に女性の声でこのカセットの内容についても解説があり、最後に〝それではシルバーバーチ霊に語っていただきましょう〟と結んだあと、シルバーバーチの次のような言葉で会が始まる。(カッコ内はすべて訳者による)


 サム・デニスさん、始めることにいたしましょう。

───よろしくお願いします。(後注1)

 皆様に大霊の祝福のあらんことを。
 本日もいつもの順序で会を進めることとし、悩みごとや厄介なこと、心配ごとや不安はとりあえず脇へ置いていただきましょう。そしてお互いが可能な限り和気あいあいのうちに最高のものを求めんとする願望において一つとなるよう努力いたしましょう。(次第に開会の祈り(インボケーション)にはいる)

 無限なる愛と叡智の根源である大霊を超えるものは誰一人、何一つ存在し得ません。その大霊こそが、私たちの住まうこの果てしなき宇宙の責任者であらせられ、その無限なる知性が、巨大と微細とを問わず、また複雑と単純とを問わず、ありとあらゆる存在を支配し規制する摂理の全てを創案し維持しておられます。

それが、およそ例外というものを知らない不変不動の法則に従って一糸乱れることなく働いているのでございます。

 私たちはその崇高なる力に深甚なる敬意を表するものでございます。その力が驚異的真理を啓示し、それが私たちの精神の領域を広げ、自分とは一体誰なのか、また何者なのかについてのより大きな理解を与え、さらには、われわれのすべてをその懐に抱きかつ支配する崇高なる力について一層明瞭なる心象を抱かせてくれるところとなりました。

その驚異的機構の中にあっては、誰一人、何一つ、見落とされることも忘れ去られることも、あるいは無視されることもございません。いずこにあろうと、ありとあらゆる存在が扶養と供給を受けるよう配慮されているのでございます。

 同時に私どもは、いついかなる時も私たちの背後には強大なる高級霊団が控えていることも認識いたしております。その望むところはただ一つ、私たちのために力を貸し、代わって私たちが恵まれぬ人たちのために力を貸すようになる、ということでございます。

私たちはこれまで多大の援助を受け、慰めを与えられ、導きを得てきたからには、こんどは代わって私たちが、授かった才能のすべてを駆使して、死別の悲しみの中にある人には慰めを、病の苦しみの中にある人には癒しを、悩める人には導きを、人生に疲れた人には力を、

道を見失える人には道しるべを与え、彼らを取り巻く暗闇に光輝溢れる真理の光明をもたらしてあげる心の用意を常に整えさせ給わんことを。

 ここに、常に己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。


 本日こうして皆さんのもとへ参り、霊の世界からの愛とメッセージをお届けできることを嬉しく思います。今夜の集りの特別な目的(市販の為の録音をすること)はよく存じております。

そこで私は、私の言葉をお聞き下さる方々のために、私の使命ならびに私と同じ願いに動かされている霊団の使命の背後に託された目的をまずご説明するのが適切と考えた次第です。 (それを冒頭の祈りの中で簡単に述べたということ)

 霊的なことはこれが初めてという方々に申し上げたいのは、私は皆さんと同じ一個の人間的存在であるということです。ただ私は、私の言葉をお聞きくださっている方のどなたよりも永い人生を生きてまいりました。

そしてこの地上より遥か彼方の世界における経験のたまものとして私は、あなた方が神と呼んでおられる大霊、ならびにその大霊の意志を究極において是非とも行きわたらせるために案出された大自然の摂理について、いくばくかの知識を手にいたしました。

 その経験の結果学んだものを、私は受け入れて下さる方に喜んでお分けしたいと思います。何かのお役に立つものと考えるからです。私はいかなる意味においても神さまのような存在ではございません。

私はまだまだ人間的要素を残しており、誤りも犯せば弱点もあり、不完全です。皆さん方のどなたとも同じように、まだまだ完全へ向けての長い長い道のりがあります。それは無限に続く道です。

 しかし私は、他の同僚と同じように、これまでに辿ってきた道を後戻りして、その間に得た真理と叡智と知識のいくばくかを披露して、それを皆さん方にもお分けするようにとの要請を受けたのです。

と同時に、私たちに協力してくださる方々の援助を得て、千変万化の生命形態のすべてを支配する崇高なる霊力を利用して、霊媒的能力を持つ人々を通じて恵み深い目的を果たすように手筈を整えることもできます。

 過去においても同じ霊力が流入して、今日の人が奇跡とみなしているところの驚異的な現象を演出いたしました。が、ここで申し上げておきたいのは、いかなる現象にも自然法則というものが働いており、それはいかなる力によっても停止されたり廃止されたりすることはあり得ず、原因に従って結果が生じるという整然たる因果律にのっとって働くほかはないということです。

  
 過去において発生したものも、それがいかに目を見張らせるものであろうと、いかに度肝を抜くようなものであろうと、いかに途方もないものであろうと、いかに驚異的なものであろうと、かならず自然法則の働きによって生じていたのです。

その法則は物質の領域においてだけでなく、霊的領域においても絶え間なく働いており、条件さえ整えば、霊的法則(スピリチュアル)・心霊的法則(サイキック)・半物質的法則(アストラル) (※)・エーテル的法則を総動員して、かつては奇跡と呼ばれ、今日では交霊会において霊媒的能力によって演出される、いわゆる心霊的現象を起こすことができます。

(※ 物的身体と霊的身体とをつなぐ媒体を複体(ダブル)と呼んでいるが、これがエーテル的な半物質体でできている。ここではその生理的法則のことを言っている)

さて、霊媒というのは霊的能力を授けられている人間のことで、それをバイブルの中で使徒パウロがうまく説明しております(コリント①12)。こうした能力は神から授かるものであり、授かった者は、それを開発することによって神の恵みが届けられる通路として使用されることが可能となるわけです。

 霊媒による現象は全て霊力の作用によります。したがってそれを今ご覧になっている皆さんは、かつて〝聖なる地〟と呼ばれた地方において起きていたのとまったく同じ現象を見ていることになるのです。大霊は不変です。自然の摂理も不変です。

それが今も昔と同じく作用していることは、かつて(三千年前に)この地上で生活したことのあるこの私が今こうして霊力を利用することによって霊媒を通じて皆さんに語りかけることができるという事実が証明しております。

 もう一つご説明したいことがあります。それは、私たちは途方もなく大きい霊的組織の一翼を担っており、総合的な基本計画とでも申し上げたいものを推進しているということです。

その基本計画は、霊力が引き続き地上へ流入してますます多くの人々の元に行きわたり、無知と過りと迷信を駆逐して正しい真理と知識の光明のもとへ誘い、かくして地上へ生を受けたその目的に沿って各自が神の意図された通りに生き天命を全うするようにもくろまれているのです。

 霊力は人間の記憶を絶した遠い過去の時代から間断なく地上へ流入しております。ただ、これまではそれが一時的で散発的なものに過ぎませんでした。

驚異的な出来事も、神わざのような現象も、啓示された教えも、その時代その民族に似合ったものが授けられたのでした。が、やがてそれが朽ち始めます。せっかく啓示されたものに政治的、神学的、時には国家的利害のからんだ、意図的な作為がなされたのです。

 しかし今は違います。先ほど申し上げた総合的計画というものがありますから、霊力はすでに地上に立派に根づいております。なぜか。どうしてもそうしなければならない必要性が生じているからです。

 組織的宗教は数多く存在しますが、地上の人間に真の自我を見出させ、生命の根源である神性を発現させるような理想に沿って生きる、その指針を提供することはできませんでした。何よりもまず〝霊性〟が日常生活の中で顕著とならないといけません。

皆さんの住んでおられる地上というところは、とても暗い世界です。騒乱と暴力沙汰が絶えず、貪欲と妬みに満ちております。大霊の代わりに富の神が崇められております。今なお間違った偶像が崇拝の対象とされています。

 すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはあり得ないことを得心なさるはずです。

物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦壊してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはあり得ないのです。

 死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生を受けて肉体を通して表現し始めた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へ赴き、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。

 あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。不滅の個霊としてのあなたはその肉体の死後も生き続け、あなたという個的存在を構成しているものはすべて存続するという事実を立証するだけの証拠は、すでに揃っております。

死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせ愛を表現する力が具わっています。愛は神性の一つなのです。愛はその最高の形においては神々しさを帯びたものとなります。そして、生命と同じく、不滅です。

 私たち霊団はなぜこの地上へ戻ってくるのか?数々の心痛と難題と苦悶と災難と逆境の渦巻く地上世界へ永遠に別れを告げることは、いとも簡単なことです。しかし、私たちには地上人類への愛があります。そして又、それに劣らない愛の絆によってあなた方と結ばれている霊(地上的血縁で繋がっている霊や類魂)も存在します。

 教会で行われる婚礼では 〝死が二人を別つまで〟という言い方をしますが、もしも二人が霊的に結ばれていなければ、死が訪れる前から二人は別れております。そこに愛があれば二人を別れさせるものは何もありません。

愛は宇宙における強力なエネルギーの一つです。ひたすら人類のためと思って働いている霊界の高級霊を動かしているのも愛なのです。

 私たちは自分自身のことは何一つ求めません。崇拝していただこうとは思いません。敬っていただこうとも思いません。もしも私たちが何かのお役に立てば、そのことを神に感謝していただき、ご自身が恩恵を受けたそのお返しに同胞へ恩恵を施してあげて下されば、それでいいのです。

 今地上にはびこっている欲望は是非とも愛と置き代えないといけません。なぜならば愛は霊性の表現の一つだからです。愛はいろいろな形をとります。哀れみ、奉仕、友情、協力などです。人間は、誰であろうと、いずこにいようと、お互いがお互いに無くてはならない存在です。肌の色、階級、国家、言語───こうしたものは物質的な相違に過ぎません。

 霊的に言えば皆さんはお互いにつながり合った関係にあります。人類は一大霊的家族を構成しているのです。なぜなら、霊性という共通の要素が、神とのつながりと同じように、切っても切れない絆によってしっかりとお互いを結びつけているからです。

 その力は、とかく離反させるそうした物的相違のいずれよりも強力です。皆さんはその霊力を最大限に発揮させなければいけません。真の自己革新とは何かを知らなくてはいけません。

物的欲望に拘らないという意味で〝我を捨てる〟ことが必要です。(後注2)それは〝霊の宮〟である身体を養うための物的必需品まで捨てなさいという意味ではありません。

  しかし、それと同等に〝永遠のあなた〟である霊の属性も大切にしなくてはいけません。あなたに潜在する神性を最大限に発揮し、あなたの存在の本来のあり方である同胞関係を実践しなくてはいけません。魂は白色でも黄色でも黒色でも赤色でもありません。魂には特殊な色も人種上の差別もありません。

 この事実をよく理解し実践しなくてはなりません。人類の優越性はその内部の神性を開発し、それを愛と哀れみと思いやりの形で他の同胞のみならず、同じ地球上に住む動物に対しても発揮するようになって初めて得られるのです。

地上の至る所で行われている無益な残虐行為と乱獲は止めないといけません。真の平和は人類がその霊的起源と天命に恥じない行為を実践できるようになった時に訪れます。

 私が申し上げることはすべて、皆さんの日常生活に少しでも理解と知識と真理と叡智をもたらしてあげたいという一念から出ているのです。が、それの基本となっている原理の中には、皆さんが子供の時から教えられてきた神学的な教義やドグマや信条と対立するものがあることは十分に考えられます。

 私たちは皆さんの理性に訴えているのです。もしも私たちの言うことと態度にあなた方の知性を侮辱し理性を反発させるようなものがあれば、それはどうぞ受け入れないでください。私たちはあなた方の理性、あなた方の知性による納得を得たいのです。

その上でなら、私たちの仕事の協力者として、神の意志を地上に行きわたらせるための道具となっていただけるでしょう。そしてそれが地上平和の到来を促進することになりましょう。

 かくして霊的資質を十分に発揮するようになれば、その当然の結果として、豊かさと光輝と落着きと決意と自覚と内的安らぎが得られます。なぜならば、それは神が生み出した摂理と調和していることを意味し、さらには、各自がその一部を宿している神性の大源である神そのものと一体となっていることになるからです。
 神の祝福のあらんことを。


 サム、以上で私が用意してきたものは終わりました。聞こえますでしょうか。

───ええ、よく聞こえております。


 それでは、もし何かご質問があれば・・・・・・皆さんご用意はよろしいでしょうか。

───結構です。用意はできております。結構です。


 もしご質問なさりたいことがあれば、精いっぱいお答えいたしましょう。

───これは多くの知人からよく聞かれることで、とても厄介なことになっている問題ですが、つまり人間はいつ死んだと言えるかという問題です。最近の新聞やテレビでも、いつ本当に死んだことになるかについて医師や法律家の間で随分議論されております。

心臓が停止したら死んだことになると言う人もいれば、脳死を持って本当に死だと主張する人もいます。あなたは何を持って〝死んだ〟と判断すべきだとお考えですか───この地球という惑星へ別れを告げる時、つまり物的身体と別れるのは・・・・・。

 分かりました。ご承知の通り人間には霊が宿っています。その身体を生かしめている、神性を帯びた存在です。そして、その霊によって活力を与えられて初めて存在を得ている物的身体を具えています。

 すでに述べましたように、霊が最終的に引っ込んだ時───この〝最終的に〟というところをここで特に強調しておきます。なぜなら一時的ならば毎晩寝入るごとに引っ込み、朝目が覚めると戻っているからです───霊が最終的に引っ込んでしまえば、物的身体は活力源を失うので、死が訪れます。

 さて、いわゆる〝霊視能力〟を持った人が見ると分かりますが、霊体と肉とをつないでいるコード(玉の緒)が霊体から次第に離れるにつれて伸びていき、それがついに切れた時、両者の分離が最終的に完了します。その分離の瞬間が死であり、そうなったら最後、地上のいかなる手段を持ってしても、肉体を生き返らせることはできません。


───そもそもこの問題が生じたのは臓器を摘出する技術が新たに開発されたからです。今日では医師は生きた心臓とか腎臓を頂戴するために人が死ぬのを待っているという状態です。そこで問題となるのが〝この人は本当に死んでいるか〟〝もう臓器を摘出することが許されるか〟ということで、それが医師を悩ませる深刻な問題となっているわけです。

 臓器移植については私もよく存じております。そして又、その動機が立派である場合が多いことも知っております。ですが私は、人間のいかなる臓器も他人に移植することには反対であると申し上げざるを得ません。

 そもそも死というのは少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。(このあたりから〝大勢いるのです〟というところまで、おかしさを噛み殺した言い方でしゃべっている)

 死は自由をもたらしてくれます。皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私たちの世界ではこれから地上へ生まれていく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私たちの世界ではその霊を喜んで迎えているのです。

なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。


───もう一つ、多くの人を悩ませているのは、死後の死体の取り扱いの問題です。人によっては、死体をいじくり回す前は一定の時間そっとしておいてあげる必要があると信じており、そういう人たちは、今日の医学界では人が死ぬとさっさと実験室へ運び込んで医学実験ないしは教材として使用する傾向があるので心配しているわけす。死後すぐに死体をいじくり回すと魂または霊に何らかの害があるでしょうか。

 それはその霊が霊的なことについての知識があるか否かによって違います。何も知らない場合は一時的に障害が及ぶことがあります。なぜかと言えば、例え肉体と霊体とをつないでいるコードが切れても、それまでの永年にわたる一体関係の名残りで、ある程度の相互作用が続いていることがあるからです。

 一般的に言えば、霊的なことにまったく無知だった人の場合は、埋葬ないし火葬を行う前に三日間は合間を置くことをすすめます。それから後はどうなさろうと構いません。死体を何かの役に立てるために提供したいのであれば、それは当事者がそう決断なさればよろしい。

 ただ、次のことも申し添えておきます。人間には生まれるべき時があり、死すべき時があります。もしその死すべき時が来ておれば、たとえ臓器移植をしても、肉体をそれ以上地上に永らえさせることはできません。


───それと関連した問題として〝突発事故〟による死の問題があります。たとえば百二十人の乗客を乗せた飛行機が離陸して十五分後に爆発して全員が即死したとします。この場合は乗客の魂または霊にどういう影響があるでしょうか。

 今申し上げたのとまったく同じことです。霊的実在についての知識がある場合は何の影響もありません。知識のない人はショックによる影響があります。しかし、いずれ時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。

───天命を全うしないうちに突発事故で他界した場合、次の再生が早まることになるのでしょうか。

 私はその〝突発事故〟という用語が気に入りません。原因と結果の要素以外には何も働いていないからです。〝たまたま〟と思われるものも因果律の作用に過ぎないものです。再生の問題についてですが、これは大変複雑な問題で、もっと時間を頂かないと十分なお答えが出来ません。


───最後に・・・・・最近私はルドルフ・シュタイナーの本を読んだのですが、その中で彼は 〝死者へ向かって読んで聞かせる〟 という供養の仕方を説いております。この 〝読んで聞かせる〟 ことの効用についてご教示を仰ぎたいのですが。

 〝死者〟というのは何のことでしょうか。


───ですから、物的身体から離れて霊界へ行った人たちです。

 ああ、なるほど ! 私はまた、目の前に横たわっている死体に向かって読んで聞かせるのかと思いました。 (ここでシルバーバーチは独特の含み笑いをする)


───違いますよ!

 そうすることで一体どうなると言っているのでしょうか。(後注3)


───何人かの弟子達が他界した親類縁者へ向けて毎日かなりの時間、ある教えを読んで聞かせるというのです。それを聞くことで、その親類縁者の霊がよい影響を受けると考えているわけです。

 別に害はないでしょうが、たいして益になるとも思えません。こちらの世界には受け入れる用意のできた人なら誰でも知識が得られるように、たくさんの施設が用意してあります。受け入れる素地ができていなければ受け入れることはできません。それをそちらでしようと、こちらでしようと、それは同じことです。

そうでしょう、サム、師は弟子に応じて法を説くほかはないわけでしょう。(訳者注──原則的にはシルバーバーチの言っている通りかもしれないし、事実、霊界ではわれわれの想像を超えた規模で地縛霊の救済が行われているのであるが、それとは別に、愛着を覚える人間に意識的にあるいは無意識のうちに寄り添ってくる霊がいて、

その人間が考えていることや読んでいるものによって感化されるということは実際にあるようである。背後霊がそう仕向けるのである。

その意味からも私は、読経のように形式化するのは感心しないにしても、例えばシルバーバーチの名言を繰り返し読んだり祈りの言葉を声に出して唱えることは、自分の魂の高揚になるだけでなく、聞いてくれているかもしれない霊にとっても勉強になると考えている。

シルバーバーチは〝よくあなた方はご自分で想像しておられる以上に役に立っておられますよ〟と言っているが、それはそういう意味も含まれているのではないかと考えている)


───まったくおっしゃる通りです。では最後に、霊体への心霊治療についてお伺いします。医学では物的身体しか治しませんが、最近エーテル体(※)の治療を熱心に行っているところがあります。それは可能なこと、実際にありうることでしょうか。

(※ 霊的身体にも幾つかあるが、セオソフィ―などではその一つをエーテル体と呼んでいる。一方、英米の心霊家には肉体以外の身体を総合してエーテル体と呼んでいる人が多い。が、ここでは〝複体〟(ダブル)という肉体と幽体との接着剤にあたる半物質体のことを言っている。チャップマン氏の〝霊体手術〟も実際にはこの複体を手術している)

 本当の霊的治療の仕組みは至って単純です。人間は肉体をたずさえた霊であり、霊をたずさえた肉体ではありません。その肉体が健康を損ねる、つまり病的状態となって、その結果苦痛を覚えるようになったら、それは健康を保たせている調和あるいは円満性が崩れているという単純な事実の表われです。

また人間には霊と肉体だけでなく精神もあります。霊が自我を表現し肉体を機能させるための機関です。(別のところでは〝コントロールルーム〟のようなものと言っている)

 さて霊的治療においては大始源から発せられる霊的エネルギーが霊的な治癒能力を持つ治療家に送られ、それが治療家を通して今度は患者の霊へ向けて発射されます。

その仕組みは〝霊から霊を通して霊へ〟というふうに、至って単純に表現することができます。すべての操作が霊的なものなのです。

 霊は生命力ですから、不調和状態───調和を阻害している何か、障害となっている何かがあって精神と霊と肉体という三つの側面が有効に機能していない状態───を改善して調和状態を取り戻させようとします。それが効を奏すると、一体性つまり健康が患者に戻ります。

 それをエーテル体(複体)を通して行うか霊体を通して行うか幽体を通して行うかは、単なる技術上(テクニック)の問題に過ぎません。肝心なことは霊力が患者の霊を再充電して、本来の能力を取り戻させ調和を回復させることです。


───どうも有難うございました。

 ほかに質問はありませんね?(少し間を置いて)よろしい。それでは、これからサークルの皆さんにお一人ずつお話することに致しましょう(これがいつものしきたりで、個人的な相談を受ける。それは当然カセットでは省略されている)
 

───有難うございます。

 いえ、お礼はよろしい。私はお礼は頂戴しません。

 (個人相談が終わって閉会の祈り(ベネディクション)で締めくくる)

 私のすべての同志に対して、私からの愛の気持ちをお届したいと思います。その方たちの多くはまだ一度もお会いしたことがございません。しかし皆さんからお寄せくださる愛と好意の念を私はいつも有難く思い、それがあればこそこうして地上での仕事ができているという事実を知っていただきたく思います。

 これは容易ならざる仕事です。私はこれを一つの素晴らしい挑戦としてお引き受けしたのです。地上は冷ややかな世界です。荒涼として陰うつで暗い世界です。しかし、その中にあって私たちはそこここに愛と好意と友情の炉辺(ロバタ)を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことができております。

 また新参の方々には〝導きを祈り求めなさい。知識を祈り求めなさい。真理を祈り求めなさい。必ずや授かります〟と申し上げたいと思います。昔から〝求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん〟と言われておりますが、これはまさしく至言です。

 それではこれを(カセットで)お聞き下さる方々、ならびに本日ここにおいでの皆様にも、常に大霊の祝福のあらんことを(後注4)。


注1、直訳すれば「私に声をお掛けくださってありがとう」 となるが、ここはデニス氏個人ではなく交霊会の司会者としての挨拶と取るべきところ。

注2、直訳すれば 「欲望が物的であるという意味においての〝我〟を忘れないといけない」 となるが、裏返せば本文のようになる。

注3、この言葉には〝さっきの話ではその点が分からなかった〟というニュアンスが含まれている。

注4、原文では同じ文句のくり返しになっているが、すぐ前の言葉から、訳文のような気持ちで述べていることが推察される。                     



 訳者あとがき

 本書はトニー・オーツセン編の第八巻とパム・リーバ編の第十巻の双方からカットしておいたもので構成した。と言って、残りものの寄せ集めというわけでは決してない。第十二巻の〝名言集〟を除けばこれが実質的に最後となるので、〝最後を飾るにふさわしいもの〟を取っておいたというのが本当のところである。

 シルバーバーチの霊言はどの巻のどの説を読んでも、そこに必ず〝やっぱりシルバーバーチだ〟と思わせる雰囲気が漂っているが、これまで私は日本人としての訳者の立場から、日本人の読者感覚を念頭に置いて、一冊一冊に特徴を持たせるように編集の仕方に工夫を凝らしたつもりである。

 そのために本書のように複数の編者によるものがないまぜになったものが何冊かあるが、元はと言えばすべてハンネン・スワッハー・ホームサークルによって保管されている速記録とテープ録音から各編者が思い通りに抜き出して編纂したものであり、それを私がさらに日本語シリーズ用に再編集したわけで、問題はないであろう。

そうした編集方針については現在のサイキックニューズ社の代表であるトニー・オーツセンと会った時に口頭で諒解を得てある。

 さて、八章の〝最後の晩餐〟は奇しくもキリストの最後の晩餐の時と同じく13人で行われた交霊会のもので、これが Silver Birch Speaks <シルバーバーチは語る>と題するカセットとなって発売されている。

意外なことに、シルバーバーチのカセットはこれまでのところこれ一巻しか出ていない。〝SB1〟という記号が入っているところを見ると〝SB2〟〝SB3〟をこれから出す予定であることが推察される。そう望みたいものである。

 それはともかくとして、リーバ女史は原典でその三分の一程度を、内容に応じて各章に分散して紹介している。が、私はその全部を私自身が筆録して翻訳し、本章で一挙に紹介した。

シルバーバーチの霊訓(十一)

 More Philosophy of Silver Birch

Edited by Tony Ortzen


七章 人類の宿題  ───地上天国の建設     

 科学技術の急速な発達は目を見張るものがあるが、最近の情勢を見ていると、それがうっかりすると今よりさらに恐ろしい戦争と破壊の凶器をこしらえることになりかねない気がする。人間の人間に対する非人間的行為が相変らず後を絶たない。

果たして完全に終止符が打たれる日が来るのだろうか。お互いが霊的に兄弟であり姉妹であるという認識のもとに暮らせる真に平和な時代が本当に来るのだろうか。殺し合いは避けがたい人間の宿命なのだろうか。戦争は正当化されうるものだろうか。霊界はこうした地上世界をどう見ているのだろうか。  

 本章はこうした問題についてのシルバーバーチの知恵に耳を傾けることにしよう。


───今日の世界の風潮、物的利益優先の考え、暴力、そのほか〝文明国〟と呼ばれる国においてますます増加しつつある恐ろしいことを憂慮する人たちへ何かメッセージをいただけないでしょうか。果たして希望はあるのでしょうか。

 大霊の御心は必ずや行きわたります、と申し上げます。人類の霊的革新及び動物問題の改善に関わる仕事にたずさわる者、無駄な苦しみから救い、残虐行為を止めさせ、いつどこにいても人の力になってあげる仕事に献身する者は、絶対に弱気になってはいけません、と申し上げます。


 地上天国はいつの日かきっと成就されますが、それはゆっくりとした段階をへながら、そして時には苦痛を伴いながら成就されてまいります。おっしゃるような暴力・混乱・衝突・戦争・残虐行為が増えつつあるのは、今地上世界がオーバーホール(修理・点検の為の全面的解体作業)の過程にあるからです。

 すでに多くの伝統的思想が葬り去られました。若者は自由を求めて騒ぎたてております。又、あまりに永いあいだ手枷足枷となってきた制度、しかも何の努力もしない一部の階層の特権をこしらえている制度に対する不満がもはや抑制できなくなっております。

 そうしたるつぼの真っ只中にいる人間にとっては、その背後の神の意図を読み取ることは難しいことです、しかし歴史を振り返ってごらんになれば、そこには段階的な進化の跡があることに気づかれるはずです。

 総体的にみて人類はかつてより親切心と寛容心が増え、その一方において偏見と残虐行為と抑圧政策がのさばっております。これは物的宇宙の進化の仕組みの一環なのです。つまり対立する勢力が激突して、そこからより良いものが生まれ、全体として進化していくということです。


 気を落としてはなりません。大切なのは霊的真理と霊力とが世界の多くの土地にしっかりとした足場をつくり、退却させられることがないようにすることです。それが至るところに恵み多い影響力を及ぼし、全体としてパン種の働きをしつづけます。

その影響力が浸透するにつれて暗闇と無知と愚行と蛮行を追い払い、地上世界を汚している醜悪と邪悪を駆逐していくことでしょう。

 明るい希望と楽観の根拠がいつでも十分に揃っているのです。なぜなら大霊の働きの休む時はないからです。


───われわれがスピリチュアリズムと呼んでいる神のメッセージが届けられたのも、その働きの現れだと私は思います。

 それでこのたびの大事業を敢行する決断が下されたのです。それも、これまでに幾度かあったような一時的暴発に終わらせてはならないということになっているのです。ですから、いったん根づいたものは徹底的に地固めが行われ、地上の永続的な要素となっていくことでしょう。


───地上世界は渦巻き状(スパイラル)に進化しているように思います。

 おっしゃる通りです。その渦巻の一ばん底は恐ろしい様相を呈していても上層部は実に明るい展望が開けております。落胆してはいけません。霊的知識を携えた者が絶望感を抱くようなことがあってはなりません。このことはすでに何度も申し上げてまいりました。大霊は宇宙創造の当初からずっと地球を管理しておりますから、次になすべきこともちゃんとご存知です。

 もう一つ別の側面もあります。人間社会のあらゆる分野で古い概念が覆され廃棄されていきつつあります。その多くはあまりに永いあいだ人間を迷わせてきた間違った概念です。これから徐々に愛と善の勢力が欲得づくの勢力と取って代わり、生活状態が改善されていくことでしょう。

 大切なのは取り越し苦労をしないということです。心配の念は私たち霊界から援助する者にとって非常に厄介な障害です。拒否的性質があります。腐食性があります。恐れ・心配・不安、こうしたものはその人を包む物的・精神的・霊的雰囲気を乱し、私たちが近づくのを一段と困難にします。

  真理を知った者は、それがわずかであっても───たとえ多くを知ったとて、無限の真理からすれば多寡が知れています───いついかなる事態に直面しても、穏やかで平静で受容的態度を維持すべきですし、又そう努力すべきです。

全生命に存在を与えている霊力より強力なものはないとの断固たる自信に満ちていなければなりません。

 何度でも繰り返し申し上げられる私からのメッセージがあるとすれば、それは〝心配の念を棄てなさい。そうすれば内部に静穏が得られます。内部が静穏になれば外部も静穏になります〟ということです。


───暴漢やチンピラによる被害が多くて、散歩に出るのにも防具を用意しなければならないのかと本気で考えている始末です。ぶん殴られて金を巻き上げられるのを許すわけにはいきません。そういう時はやり返すべきでしょうか。

 悪を大目に見たり暴力を助長することになってもよいということは絶対にありません。剣を取るものは剣にて滅ぶと申します。あなたの身体は霊が地上で自我を表現する唯一の手段ですから、それを守るのはあなたの義務です。が、そのことに限らず、地上生活に関わることはすべて自分の理性によって判断しなくてはなりません。

 ですから、ご自分で正当だと思う手段によって身を守ってよいことは言うまでもありませんが、同時にそうした愚かな若者、自分のしていることの理非曲直も弁えないほど道を間違えている若者のことを可哀そうに思う心も忘れてはなりません。

それは一種の群集心理、劣等感から生まれるヒステリー症状です。つまり自分たちの存在を認めさせる唯一の手段としてそういう態度に出て関心を引こうとする、幼稚な自己憐憫の情です。

 もとより私たちには暴力への同情心はひとかけらもありません。霊力は暴力という形では表現されません。霊力も常に冷静・平穏・安らぎ・落ち着いた自信の中で表現されるものです。そうした心理状態が調和を醸し出し、物質の世界と霊の世界との間の障害を取り除くのです。

 それとは反対に暴力は調和を乱します。激情を噴出させます。挙げ句にその反動が自分に戻ってきます。本人にとって何一つ良いことはありません。これも物質偏重思想の副産物です。

 暴力的になっているのは若者だけではありません。若者はその元気さゆえに衆目にさらされやすくて非難の的とされているだけです。暴力的傾向は私利私欲の追及に目がくらんで人間としての道を見失っている、病める地上社会の一症状です。

無明の中で、他人の幸福にまったく無とん着に、ますます暴力的になってまいります。しかもそれは人間どうしだけでなくて、可哀そうにも、何の罪のない動物にも向けられています。

それは若者が見せているような破壊的エネルギーがたまたまその方向へ切り換えられているにすぎないという考えは、大変な見当違いです。全体としての調和ということを考えないといけません。

他の存在への慈善(チャリテイ)の心を発揮するには貧乏人の存在が必要だという意見がありますが、そういうものではありません。仁愛の心があってはじめて慈善が施せるのです。哀れな人の姿を見ないと慈悲の心が生まれないというものではありません。

 若者がその持てる強烈なエネルギーを社会のために活用する分野はたくさんあります。不幸なことに、正しい指導を受けていない若者が多すぎるのです。が、正しい指導を受けた場合、そして又、霊的な動機づけから行動した場合は、大人が心を洗われる思いをさせられるようなことをやってのけます。

 若者が若者としてのベストを見せた時は、敬服に値するものを発揮します。道を誤ると手の施しようのないほど惨めなことになります。

 皆さんは暴力やテロ行為の生み出す陰惨さに巻き込まれないようにしないといけません。超然とした態度、俗世にあって俗世に染まらない生き方を心掛け、自分の霊的本性、神から授かった潜在的可能性を自覚して、せめて皆さんだけでも、小さいながらも霊の灯台となって、導きの光を放ってあげて下さい。


─── 戦争はどう理解したらよいのでしょうか。

 無限なる叡智と愛を具えた大霊は地球人類を創造するとともに、ある範囲内での自由意志を授けられました。同時に大霊は、人間が個的存在としていかに生きるべきかについての誤りない指標としての神性が開発されるように、人類全体の霊と精神と身体とに配剤なさっております。

 大霊は人間をただの操り人形───選択する自由も力も持たない、機械仕掛けのような存在にすることもできたのです。が大霊は自由意志を与えて下さいました。しかし自由意志があるということは、同時に自分の行為への責任もあるということになります。

 あなたは〝善いこと〟をしてもいいし〝悪いこと〟をしてもいいのです。善と悪とは一つのコインの表と裏のようなものです。愛と憎しみ、光と闇、嵐と静けさもそうです。これを両極性といいます。そのどちらを選ぶかにあなたの選択権があるということです。

 そこで戦争のことですが、あなたはその動機に立ち帰って、こう自問するのです───〝なぜ戦争をしなくてはならないのか〟〝両者が共通して求めているものはいったい何なのか〟 〝それは互いに相手を支配することなのか〟  

 そうした問いにあなた自身が考えて答えを出さないといけません。所詮はあなた方の世界です。パラダイスとするも地獄とするもあなた方人間次第です。どちらかを選ぶ自由と、どちらにもできる手段を具えているからです。

───私個人にはできません。一人の人間ではどうしようもありません。

 〝個〟が集まって地上人類全体ができ上がっているのです。一人でも多くの〝個〟が貪欲と強欲と残虐と横暴を止めれば、その数だけ平和に貢献するのです。あなたはあなたの生活、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念に責任を負うのです。

他人のしたことで償いをさせられたり報酬を受けたりすることはありません。それが摂理なのです。

 平和を求めて祈り、霊界の高級霊の道具として協力しようとなさる努力は必ず報われます。人間の協力を得てはじめて霊力を地上へ届け、戦争や暴力行為、その他、地上の文明を混乱させ存在を脅かすものすべてに終止符を打たせることができるのです。


しかし、これより先もまだまだ地上から戦火の消えることはないでしょう。なぜなら、人類全体が一つの巨大な霊的家族であるという、この単純な真理が未だに理解されていないからです。

肉体は撃ち殺せても霊は死ないのです。この事実が世界各国の国政をあずかる人たちによって理解され、その関連分野を通じて実行に移されるようにならないかぎり、戦争の勃発は避けられないでしょう。

 人間が人間に対して行う非人間的行為に対して、私たちは何の責任もありません。これは因果律の働きが片付ける問題です。もちろん人類にとって〝より良き時代〟は到来します。

是非ともそうあらねばなりません。が、失望のドン底から一気に幸福の絶頂へと一夜の内に転換するようなわけにはまいりません。一歩一歩の段階的過程をへるほかはありません。

 霊的真理を理解する人が増えるにつれて、その知識にのっとった生き方をする人が増え、その人たちの生活が依存している各種の制度も、霊と精神と身体がその幸福と成長と成熟にとって必要な体験が得られるように改善されていくことでしょう。

 あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられる霊的思想が前世紀(一八四八年)に勃興したのもそこに目的があります。それはかつてのように突発的ですぐに立ち消えになるようなものではなく、総合的な計画のもとに行われて、すでに霊力は完全に地上に根づいております。
 
これからもその前線基地は誇張しつづけ、ますます多くの人間がその恩恵に浴することになるでしょう。

 ある人は〝黄金時代〟と呼び、ある人は〝地上天国〟と呼んでいるものは、いつかは成就されます。それまでにどれほどの時が掛かるかは、私の口からはあえて予言しないでおきましょう。ただ、物的進化が絶え間なくその目的を果たしつつあるように、それと併行して霊的進化もそれなりの役割も果たしつつあることを申し上げておきます。


───人間はどの程度まで殺すことが許されているのでしょうか。

 〝許されている〟という言い方は感心しません。確かに人類には自由意志が与えられておりますが、それは条件つきであり制約があります。やりたいことは何をやってもよいという意味での、無制約の自由ではありません。

 そもそも自由意志の授与は、人間が大自然の創造の過程に参加し、大自然の摂理と調和して生き、健康と理解と悟りを得て天命を全うするための神の計画の一環なのです。そうでなかったら進化も発展もありません。

 自由意志がなかったら皆さんは成長と進化のチャンスのない、ただの操り人形となってしまいます。せいぜいロボットのような行動しかできません。が、自由意志があるということは、その行使の仕方に責任を持たねばならないということになります。

 殺すという行為は、たとえやむを得ない事情はあるにしても、いけないことであることは明らかです。生命を与える力はないのですから、奪う権利もないはずです。が、酌量すべき情状というものがあることも事実です。

 霊的に進化するにつれて人間は、霊的実在についての知識を基盤とした明確な原理にのっとって生きなければならないことを自覚するようになります。所詮完璧な生き方は望むべくもありませんが、改善の余地は大いにあります。

 地球は生命活動の場の一つに過ぎません。これからもっともっと多くの生活の場を体験することになっております。

それが永遠に続くのです。地上生活なんかいい加減に送ればよいと言っているのではありません。あなたが送るべき全生活のほんのひとかけらに過ぎないことを申し上げているのです。

 その地球をよりよい生活の場とするために努力なさってください。地球は宇宙の惑星の中で最も進化の程度の低い部類に属します。が、それなりの進化の目標があります。

同時に、進化とは永遠の過程でもあります。完全ということは永遠に達成できないのです。なぜなら、完全に近づけば近づくほど、その先にまだ達成すべきものがあることを知るからです。


───(ゲストの一人)われわれスピリチュアリストは形骸化しつつある古い宗教と対決し反抗することに多大な時間とエネルギーを注ぎ込んでいるようですが、もう一つの宗教である───信奉者は宗教と呼ばれることを拒否なさるかも知れませんが───マルキシズムないしはコミュニズム(共産主義)についてはまったく言及しておりません。

今では少なくとも思想上の共鳴者は人類の三分の一にも達しています。既成宗教のいずれよりも遥かに頑強で、その影響力は強烈です。これこそ純粋な唯物観を説いている点で、われわれの本当の敵ではないかと思うのですが・・・・・


 コミュニズムというのは何のことでしょうか。

───マルクスとレーニンとエンゲルスの著作をもとにした政治的、経済的、ならびに社会的思想と言ってよいかと思います。

 もしもコミュニズムが真の協調性を意味し、階級上の差別もなく、住民がお互いに助け合う心をもった社会のことであるとすれば、現在の地上世界で思想的にコミュニズムを標榜している国家には、そういうものは存在しておりません。私の言わんとするところを明確に述べてみましょう。 

 地上社会の問題のそもそもの根源はマテリアリズム(物質偏重・唯物思想)にあります。皆さんはそれと真っ向から対立するスピリチュアリズムを提唱し唱道なさっているわけです。そして霊が実在であることが単なる理論ではなくて事実であることの証拠を提供しております。

私と同じく皆さんは、ナザレのイエスをリーダーとする神庁の霊団によって考案された霊的大計画の一環として、霊力を地上へ送り届けるだけでなく、そこにしっかりと根付かせ、いかなる地上の勢力がたとえ束になってかかっても、それを駆逐できないようにするために、本日もこうして集まっているわけです。

 今まさに世界中にそのための霊的橋頭保が設営され地固めされつつあります。それはさらに多くの橋頭保を築くためです。霊力はすでに地上にしっかりと根付き、その恵み深い影響力を発揮しております。公的には禁じられている国々においてすら働いており、これからも働き続けます。
                       
 皆さんは明日のことを思い煩う必要はどこにもありません。最善を尽くして私たちに協力してくださればよいのです。そのうち徐々にではありますが、地上のガンである物欲が除去されていきつつあることに気づかれるでしょう。


───(もう一人のゲストが息子から依頼された質問として)〝共産主義者(コミュニスト)の指導霊〟というのも存在するのでしょうか。

 そういう質問をされて私がどういう受け取り方をするかを説明しますので、しっかりと理解してください。

 私はラベルというものにはまったく関心がありません。私にとっては何の意味もありません。地上世界ではラベルが大切にされます───共産主義者、社会主義者、保守党、労働党、スピリチュアリスト、セオソフィスト、オカリスト、等々、挙げていったらキリがありません。

しかし、大切なのはラベルではなく、その中身です。コミュニストという用語の起源は、物的財産は共有するのが正しいと信じた遠い昔にさかのぼります。それ自体はとても結構なことです。

 いかがでしょう。有り余るほど持っている人が足りない人に分けてあげるというのは公正なことではないでしょうか。教師というのは持てる知識を持たざる生徒に譲ってあげようとする人のことではないでしょうか。

 分かち合うというのは立派な原理です。私たち霊がこうして地上へ戻ってくるそもそもの目的も、やはりそこにあります。皆さんは私たちから学び、私たちは皆さんから学ぶということです。

 聖書にも〝地球とそこにあるものすべては主のものなり〟(コリント①10・26)とあります。これは人間は地上のものは何一つとして所有できない───自分のものとはなり得ないことを意味します。地上にいる間だけリースで所有しているようなものです。永遠に自分のものではありません。

地上のゴタゴタは皆が自分がいちばんいいと思うものを少しでも多く自分のものとしようとする───いちばん悪いものを欲しがる者はいません───そこから生じております。その結果として強欲、貪欲、私利私欲が王座に祭り上げられ、物欲第一主義が新しい神として崇拝されることになります。

 地上には物欲優先の副産物が、見るも痛ましいほどはびこっております。悲劇・卑劣行為・飢餓・栄養失調・残虐行為・動物実験、こうしたものはすべて物欲を優先させることから生じる恐ろしい産物です。

 みんなで分け合うという理念は結構なことです。共産主義者(コミュニズム)という用語そのものに怯えてはいけません。初期のクリスチャンには全財産を共有し合った時期が、少しの間でしたがありました。ということは彼らのことをコミュニストと呼んでもよいことになります。

 一つの理念をもつことと、それを実現するために拷問や抑圧や迫害や専制的手段を用いることとは別問題です。そこに大事な違いがあります。

 ですから、ご質問に対するお答えは、大霊の恩恵を惜しみなく分かち合うべきであると信じて働いているコミュニストの指導霊はいます、ということになります。そこに何ら問題とすべきものはないと思います。
   
           ※ ※

 別の日の交霊会で戦争がもたらす地上と霊界双方の弊害について語る───

 私たちは霊界が再び傷ついた魂の病院となるのは御免こうむります。こうして地上の皆さんとともに仕事をしている私たちから申し上げたいことは、皆さんは私たちがお教えしていることのすべてを地上生活に摂り入れていくだけの用意ができていなければならないということです。

 私たちが代わりにやってあげるわけにはいかないのです。私たちには人間のしている間違ったことがもたらす結果が分かります。地上でそういうことをしていたら霊界へ来てからこうなりますよ、ということをお教えすることしかできません。

 そのことをわざわざこうして地上へ戻ってきて教えねばならないのは、戦争のもたらす結果が破綻と害悪でしかないからです。霊界へ送り込まれてくるのは霊的に未熟な魂ばかりです。

言ってみれば、熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。地上で使用していた肉体という表現機関を破壊されて分別を失った魂を一体なぜ私たちが癒やしてあげねばならないのでしょうか。

人間が人間としての義務を果たさないがために霊界へ送られてくる未熟な魂の世話をしに、一体なぜ私たちが巡礼の旅先からこの地上へ後戻りしなければならないのでしょうか。

 もしも私たちに愛の心がなければ、つまりもしも大霊の愛が私たちを通して表現されなかったら、こうして同じ大霊の子である地上の皆さんと交わるようなことはしていないでしょう。

どうか私たちの説く真理を唯一の判断の基準として私たちを裁いて下さい。〝あなたの教えは間違っている───われわれの常識に反するから〟などという幼稚なことを言ってはなりません。 

霊界にとっての迷惑はさておいても、地上での戦争を正当化することが許されるわけがありません。物質的な面にかぎってみても、ただ破壊するのみです。

霊界にとっても正当化の根拠はありません。なぜならば、神の摂理への干渉にほかならないからです。霊はその機が熟した時に肉体から離れるべきであるとの摂理に、よくも平気で逆らえるものだと呆れます。

 皆さんもかくあるべきという原理を何としても擁護しなくてはなりません。分別のない人たちに霊の仕事の邪魔を許してはなりません。ご存知でしょうが、進歩と平和と調和を求めて戦う私たち霊団の向こうを張って、それを阻止せんとする組織的な活動をしている邪霊集団もいるのです。(章末注参照)

 地上世界は人類というものを民族別に考えず、すべてが大霊の子であるという観点から考えないといけません。障壁をこしらえているのは人間自身なのです。大霊ではありません。大霊は人間の一人ひとりに神性を賦与しているのです。したがって人類の全てが大霊の一部なのです。

 地上は建設すべきものが山ほどあるというのに、上に立つ〝お偉方〟はなぜ破壊することばかりしたがるのでしょう。大霊はそうした人間の行為のすべてを規律的に治めるための摂理を用意しております。

それに干渉するようなことをしてはなりません。逆らったことをすれば、その結果は破壊と混乱でしかありません。そのことは(世界大戦で)目のあたりにしたばかりではないでしょうか。

 ここにお集まりの皆さん方の一人ひとりが積極的にその影響力を行使して、大霊の計画の推進のために尽力する人たちを先導していただきたいのです。大霊が流血を望まれると思いますか。

戦争による悲劇、苦痛、失業、飢餓、貧民窟を大霊が望まれると思いますか。子等が味わえるはずの恵みを奪われて喜ばれると思いますか。戦争で親を奪われて、幼な子が路頭に迷う姿を見て大霊が喜ばれると思いますか。

 殺意が芽生えた時、理性が去ります。人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残りとしての獣性もあります。人間としての向上進化というのは、その獣性を抑制し神性をより多く発揮できるようになることです。獣性が優勢になれば戦争と衝突と殺人が横行します。

神性が発揮され、お互いに援助し合うようになれば、平和と調和と豊かさが得られます。

 地上世界を国別、民族別に考えてはなりません。すべてが大霊の一部であることを教えないといけません。みんな大霊の子なのです。海で隔てられていても大霊の前では兄弟であり姉妹なのです。私たちの教えは単純です。しかし真実です。自然の摂理に基づいているからです。
  
摂理を無視した方法で地上世界を築こうとすると混乱と無秩序が生じます。必ず破綻をきたします。

 忍耐強い努力と犠牲を払わないことには、これからも数々の戦争が起きることでしょう。タネを蒔いてしまった以上は、その産物を刈り取らねばなりません。因果律はごまかせないのです。

流血の争いというタネを蒔いておいて平和という収穫は刈り取れません。他国を物理的に支配せんとする欲望の張り合いをしながら、その必然の苦い結果を逃れるわけにはまいりません。

 愛のタネを蒔けば愛が実ります。平和のタネを蒔けば平和が実ります、互助のタネを地上の至る所に蒔いておけば、やがて互助の花が咲き乱れます。

 単純な真理なのです。あまりに単純すぎるために、かえって地上の“〝お偉方〟を当惑させるのです。


───〝大戦〟(※) で戦死した人たちの犠牲は何一つ良い結果を生み出さなかったのでしょうか。(※英語で〝大戦〟Great War という時は第一次世界大戦のことをさすが、ここでは第二次大戦も含む戦争一般のこととして訳したー訳者)

 何一つありません。今の世界の方が〝偉大なる戦争〟勃発以前よりさらに混とん状態に近づき、破壊が増しております。


───数多く見られた英雄的行為が無駄に終わってしまうこともありうるのでしょうか。霊的に何の報いもないのでしょうか。

 その犠牲的行為をした当事者個人にはあります。動機が正しかったからです。ただ忘れないでいただきたいのは、そうした英雄を後世の人間が裏切っていることです。犠牲を無駄に終わらせています。その原因は相変わらず物的欲望を優先しているからです。


───毎年のように〝終戦記念日〟の催しがありますが、少しは役に立っているのでしょうか。

 たとえわずか二分間であっても、まったく思い出さないよりはましでしょう。が、その日をライフル銃と銃剣と花火という、戦争で使用する軍事力の誇示で祝って、いったいどうなるというのでしょう。何か霊的な行事で祝えないものでしょうか。


───同じ日にスピリチュアリストの集会で行っている記念行事を続けることには賛成なさいますか。

 真実が表現されているところには必ず価値あるものが生まれます。説教も奉仕的精神を生むものであれば結構です。ただ聴くだけで終わる説教では無意味です。聴衆をいかにも平和の味方であるかの気分に浸らせるだけのキザな説教ではいけません。

 私が望むのは実際の活動を生み出すような説教、人のために役立つことをしたいと思わせるような説教、弱者に勇気を与えるような説教、喪の悲しみに暮れる人を慰めてあげるような説教、住む家さえない人たちの心の支えとなるような説教、物質界の汚点である虐待行為のすべてに終止符を打たせるような説教です。

 お互いがお互いのためになることをする以外に平和の道はありません。すべての人間が互助の精神に満たされ、人のためになる行為を実践するようになるまでは、平和は到来しません。これまで続けられてきた終戦記念日も、今日では次の戦争の準備のための小休止でしかありません。


───不戦主義(兵役拒否)の運動に賛成なさいますか。
 
 私はどの〝主義〟にも属しません。私にはラベルはありません。名目に惑わされはいけません。その目的としているものは何か、何を望んでいるのか、そこが大切です。なぜなら、敵と味方の双方に誠実で善意の人がいるからです。

 私たちの教えは至って単純ですが、それを実行に移すには勇気がいります。一つの糸口をつかんだら、つまり霊的真理を知ることによって覚悟を決め、物的生活のあらゆる事柄に奉仕と無私の精神で臨めるようになれば、地上に平和と和合が招来されます。

 それは主義・主張からは生まれません。神の子がそうした精神の真実性を悟り、それを日常生活において、政治活動において、工場において、政府機関において、あるいは国際政策において応用していくことによって初めて実現されるのです。

 私たちにできるのは、これこそ真実に基づいていると確信した原理を説き、それを応用すれば、必ずや地上世界に良い結果がもたらされることを自信をもって申し上げるのみです。

 その地上世界にいるのはあなた方です。最後の責任はあなた方にあります。しかし皆さんが人の道を誤ることさえなければ、私たちも精一杯の愛と厚意をもって導き、万全の協力を惜しまないことだけはお約束します。

訳者注───私が〝英国の三代霊訓〟と呼んでいる 『シルバーバーチの霊訓』 と 『ベールの彼方の生活』 と 『霊訓』のうち、邪霊集団の存在についていちばん強く説き警告しているのは 『霊訓』 である。その中から参考とすべき箇所を部分的に紹介しておきたい。通信は自動書記によるインペレーターからのもの。

≪すでに聞き及んでいようが、今汝を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われわれ霊団と邪霊集団との反目であり、言い替えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせんとする働きとの闘いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。

 逆行派の軍団には悪意と邪心と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによって煽られる者もいれば、真の悪意というよりは悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。

要するに程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われわれをはじめとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。

 汝にそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状が汝の肉眼に映らぬからのようである。となれば汝の霊眼が開くまでは、その大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。

 その集団に集まるのは必然的に地爆霊、未発達霊の類である。彼らにとって地上生活は何の益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとっては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的な喜びには何の反応も示さぬ。

かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつき回り、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。(中略)

 一方、人間の無知の産物たる死刑の手段によって肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつき回り、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ───その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼らはその哀れなる犠牲者なのである───を抱き、

その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪をそそのかし、自分が犠牲となったその環境の永続を図る。(中略)

 かくの如く地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上へ舞い戻るこうした邪霊は、当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。

 久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖純にして善良なる霊に変わりうるであろうか。肉欲の塊りが至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるであろうか。それがあり得ぬことぐらいは汝にも分かるであろう。

 彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍とともに、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗にあうのは彼らの存在のせいであり、汝にそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し、彼らに攻撃のスキを見せることがあってはならぬ≫
                                                   

 

シルバーバーチの霊訓(十一)

 More Philosophy of Silver Birch

Edited by Tony Ortzen



六章 霊界でも祝うクリスマスとイースター     
   その本来の意味
 
 クリスマスもイースターも本来は宗教的祭礼であるが、今では物質的観念に汚染されてその基本的な光彩をすっかり失っている。

 本書で紹介する講演でシルバーバーチはその本来の意義を説明し、それが霊界においてどのように祝われているかを語っている。シルバーバーチらしく最後は、狼と小羊とが一緒に寝そべるような平和、つまり地上天国という理想を説き、そのためには人類が愛と哀れみと慈悲と責任意識を持たねばならないことを力説している───


 私たち地上の霊的啓蒙活動に従事している霊団の指導的立場にある者は、キリスト教でいうクリスマスとイースターに相当する時期に霊界の奥深く帰還する習わしになっております。

 ご承知の通りその二つの祝祭はキリスト教よりさかのぼる太古において、一年を通じての太陽の勢いの変化を神の働きかけの象徴と受け止めたことがその起源です。

 太古において太陽がその輝きを最高度に発揮する時期(夏至、6月下旬、旧暦5月中旬)が〝復活〟(ヨミガエリ)の時、つまり大自然が讃歌を奏で、見事な美しさを披露する時とみなされました。言いかえれば、蒔かれたタネがその頃に華麗なる成長を遂げると考えたのです。

 それに呼応して冬至(12月下旬、旧暦1月中旬)があります。最高の輝きを見せた太陽が衰え始めると、大自然はエネルギーを蓄え、根を肥やしながら季節の一巡の終わりを迎えると考えたのです。来るべき夏至にその成長ぶりを披露するのに備えるというわけです。

 そういうわけでクリスマスは永い一年の巡りの終わりであると同時に、太陽の誕生、新たなる生命が地上へ誕生する、その最初の兆しを見せる時期だと、太古の人は考えました。

 この二つの時期は太古において大切な意味をもっておりました。と申しますのは、〝神のお告げ〟はその二つの時期に授けられると信じられたからです。あなた方現代人は太陽の持つ神秘的な影響力をご存知ありません。

太古の人はその時期に今でいう交霊会を何日にもわたって大々的に催したものでした。その時期にたっぷりと啓示を頂いたのです。

 そこで私たち霊団の指導的役割を担う者は、誕生に相当する人生で最も大切なこの時期(クリスマス)に一堂に会して祝い合うのです。その始まりは太陽の影響力への讃美ということでしたが、それは一種の象徴(シンボル)であり、実質的には生命が他の生命へ及ぼす影響力、物質が他の物質へ及ぼす影響力、惑星が他の惑星へ及ぼす影響力、などが含まれております。

 とくに一年のこの時期が選ばれたのは、私たちに協力してくれている霊たちの地上時代に属していた民族が大自然の摂理を基盤とした宗教をもっていたからです。古い時代の私たちにとっては太陽の誕生の祝いが最大の祝いでした。

それは新しい年の始まりに他ならないからです。四季のめぐりの終わりであると同時に新しいめぐりの始まりでもあるわけです。

 そうした祝いがかつて地上で催されていたことから、これを霊界でも祝うことになりました。もとより、今では霊的な意味をもつようになっております。つまり新しい生命の誕生を祝うのではなく、地上からいったん引き上げて、新しい光を地上へもたらすために霊力の回復を図ることを目的としております。

今この仕事に従事している霊団の者は、地上時代は西洋文明を知らない古い民族に属していましたから、(キリスト教的な祝い方と違ってこの時期を地上から引きげて私たちの本来の所属界へ帰還する機会としております。

 帰還すると評議会のようなものを開き、互いに自分たちの霊団の経過報告をし、どこまで計画通りに行き、どこが計画通りに行っていないかを検討し合います。それとともに新たな計画を討議し合います。私達を地上へ派遣した神庁の方々とお会いするのもその時です。

 その中にかのナザレのイエスの雄姿があるのです。イエスは今なお人類に古来の大真理すなわち〝愛は摂理の成就なり〟を教える大事業に携わっておられます。そのイエスが私たちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励まして下さる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し聞きそして感じ取らせてあげられればと思うのですが・・・・・

 もとよりそれはキリスト教によって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない道具を通して人類に働きかけておられる、一個の偉大なる霊なのです。

 その本来の界に留まっているのは短い期間ですが、私はその間に改めて生命力溢れる霊力、力強さと美しさに溢れるエネルギーに浸ります。

それに浸ると、生命とは何かがしみじみと感じ取れるのです。私はそのことをあくまで謙虚な気持ちであるがままに申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなどひとかけらもございません。

 仮に世界最高の絵画のすべて、物質界最高のインスピレーションと芸術的手腕、それに大自然の深くかつ壮大な美を全部集めて一つにまとめてみても、私の本来の所属界の荘厳美麗な実在に比べれば、至ってお粗末な反映程度のものでしかありません。


 芸術家がインスピレーションに浸ると、手持ちの絵具ではとても表現できそうにないことを痛感して、魂で感じ取ったその豊かな美しさを表現するための色彩を求めます。が、それは地上のどこにも存在しません。霊的な真理と美しさは物的なものでは表現できないのです。

 そうした界層での私の霊的な高揚状態がどうして言語などで表現できましょう。大霊の光輝を全身から放っている存在となっているのです。(章末注参照)

 叡智と理解力と慈悲と優しさに満ち、人間の側から訴えられる前にすべてを察知し、心の中を読み取り、心の動きに通じ、成功も失敗も知り尽くしております。

 全ての宗教の根幹でありイエスの教えの集約でもある、かの愛の名言(愛とは摂理の成就なり)は、全生命の主、無限の創造者たる大霊の名において私たちもその真実性を宣言するものです。

 かくして私たちは本来の霊的状態へ戻り、本来の環境である光彩と喜びと光輝と笑いと豊かさと崇高さと荘厳さを味わいます。その中に浸り、その喜びを味わい、私たちにとってはごく当たり前の状態である壮観を取り戻します。それが私たちのお祝いです。

 助言を頂き、感激を味わい、気分を一新し、元気百倍し、心身ともにすっかり生き返った私たちは、やおらこの冷ややかで陰うつでじめじめとして味気ない、暗い地上世界へと赴き、厚く包み込むそのモヤと霧を払い、真理の光を輝かせるための仕事を再開します。

 地上のクリスマスシーズンにも愛の精神の発露が見られないわけではありません。それが親切と寛容の形をとり、また施しの精神となって表現されております。旧交を温め、縁を確認し合い、離ればなれになった者が一堂に会するということの中にもそれが見られ、又、かつての恨みはもう忘れようという決意をさせることにもなります。

 しかし残念でならないのは、それに先立って大量の動物が殺害されることです。物言わぬ神の子が無益な犠牲とされていることです。〝平和の君〟キリストの誕生がそうした恐ろしい虐殺によって祝われるということは何と悲しいことでしょう。

なぜ平和を祝うために罪もない動物の血が流されねばならないのでしょう。これはまさに地上世界の磔刑(ハリツケ)です。罪なき動物に流血の犠牲を強いて平和を祝うとは・・・・・・

 いつの日か愛と哀れみと慈悲と責任感とが人間を動かし、助けを求める動物たちへの態度を改めることになるでしょう。そうした資質が発揮されるようになってはじめて、罪もない動物への容赦ない流血と残酷と無益な実験も行われなくなることでしょう。地上に真実の平和が訪れ、狼が小羊と並んで寝そべることになりましょう。

訳者注──シルバーバーチはよく〝光り輝く存在〟shining ones という言い方をする。日本でいう〝八百万の神々〟西洋でいう〝天使〟で、『ベールの彼方の生活』第三巻<天界の政庁>篇ではその存在の様子がアニメ風に語られている。

 ただ注意しなければならないのは、その通信霊のアーネルやシルバーバーチが述べているのはあくまでも地球神界つまり地球の創造界のことで、その上には太陽神界があり、さらにその上には太陽系が属する銀河系神界があり、さらには星雲が幾つか集まった規模の神界があり、最後は(少なくとも理屈の上では)宇宙全体の神界があることになる。

 シルバーバーチはその内奥界を含めた宇宙を Cosmos (コズモス)と呼び、物的宇宙を Universe (ユニバース)と呼んで使い分けている。が、そのコズモスは無限・無辺であるとも言っている。

こうなると人間の粗末な脳味噌などではもはや付いて行けない。アーネル霊でさえ〝茫然自失してしまいそうだから、これ以上想像力を広げるのは止めましょう〟と言っているほどである。

 先ほどシルバーバーチが〝私はあくまで謙虚な気持ちであるがままを申し上げているつもりです。見栄を張る気持などひとかけらもございません〟と述べたことにはそうした背景がある。もはや〝謙虚〟などということを超越した次元の話である。

Friday, June 26, 2026

霊界から見たシルバーバーチの霊訓(十一)

More Philosophy of Silver BirchEdited 
by Tony Ortzen



 
五章 霊界から見た地上の科学  

 ウィリアム・クルックス、オリバー・ロッジ、その他の世界的科学者が心霊現象を調査研究したビクトリア時代(ビクトリア女王が王位にあったのは一八三七~一九〇一年であるからスピリチュアリズム勃興からほぼ半世紀と重なるー訳者)と違って今日では心霊的能力が言わば顕微鏡的精密さをもって厳しく観察されているが、霊界では地上の科学をどう見ているであろうか。まず科学者の質問から始めよう。


───私は人のために役立つことをすることが大切であることはあなたの霊言で読み、かつそう信じておりますが、それと同時に大切なのは知識を集積すること、つまり学問だと思います。

霊界では学問はどういう具合に行われるのでしょうか。この物質界を科学的に研究するには実験ということをしますが、霊界でも実験を行うのでしょうか、それともやはり純粋に精神的なプロセスで行われるのでしょうか。

 知識は大霊と同じく無限に存在します。それには終止符(ピリオド)を打つところがありません。進歩すれば、さらに多くの知識を手にする資格ができます。

頂上を求めて永遠に登り続けるようなもので、ここが頂上だと思ったら、その上に別の頂上が見えるということの連続です。知識・進化・発達・開発・発展───こうしたものはすべて永遠のプロセスです。

 この物質界ではAをBでやってみたらどういう結果が出るかということを知るために実験を行います。霊界でも実験を行いますが、物質界のやり方とはまったく異なります。なぜかと言いますと、私たちの関心は〝霊〟が見せる千変万化の顕現の仕方に向けられているからです。ある意味ではいつも実験をしていると言えます。

 簡単な例をあげてみましょう。霊界には死後もなお、地上の病気で苦しんでいる人を救うことに専心している医師がおります。その医師たちは地上で身に付けた技術があります。人体のメカニズム、その働き具合をさまざまな反応の仕方についての知識も具えております。

 さて一方、こちらの世界には地上にない種類のエネルギー、程度を異にする霊力、つまり生命力があり、それに地上で得た知識を組み合わせて地上の患者を治すことを研究しております。それは患者に応じてさまざまなエネルギーを組み合わせる、絶え間ない実験であるといえます。

 強すぎてもいけないのです。強すぎると、それが通過する治療家に障害が起きます。治療家の受容力が発達し、より高い運動速度、威力、どう呼ばれても結構ですが、それに耐えられるようになると、治療エネルギーの強度を増すことができます。

 ここでもまた言語を超越したものを表現するための用語を見つけるのに苦労しますが、要するにこちらの世界でも常に実験し、休みなく知識を増やす努力をしております。

                ※          ※

 別の日の交霊会でシルバーバーチが〝一世紀前の科学的宇宙像は今日とは雲泥の差があります〟と述べたのに対して───

───それは、これからは科学者も物的次元の研究から高度な次元へと進歩していくことを意味しているのでしょうか。

 (原子の様な)目に見えない世界とその未開発の潜在的エネルギーの研究が進むにつれて、自らの論理でそうならざるを得なくなるでしょう。科学者が霊的に成長すれば、その途方もないエネルギーを善の方向へ使用する方法も分かってくることでしょう。

 そうするうちに自分自身にもそうした無尽蔵の見えざる能力が潜在していることを知って、次第にその開発へ目を向けるようになるでしょう。外部にあるものは内部にあるものが顕現したに過ぎません。

 (驚異としか言いようのない人体も内部にある霊すなわち生命力が顕現したものであることを言っている―訳者)
 その生命力は物質のように切り刻むことはできません。

分割して別々の容器に入れておけるような性質のものではありません。原子の生命も本質的には人間や動物や花や樹木の生命と同じものです。全体が一つの生命体であり、それが無限の形態で顕現しているのです。


───地上の科学者はもうそのレベルまで理解が達しているでしょうか。

 いえ、まだまだですが、理解している人もいます。オリバー・ロッジなどは現象の裏側の実在についての霊的な理解ができた科学者のよい例です。


───今後その理解が科学者一般に行きわたるまでには多くの人間と多くの物を犠牲にすることになるのでしょうか。

 いえ、科学者のすることにも限界があります。どんなに間違ったことをしても地球全体を破壊してしまうまでには至りません。自然の摂理によって、地上でなされる被害は一部の人間が考えているほど恐ろしいものとはならないようになっているのです。

しかも究極的には大霊の意志が地上に行きわたることになっているのです。その計画を挫けさせるほどの力を持った人間は地上にはいません。遅らせることはできます。邪魔することもできます。しかし大霊を支配することはできません。

 大自然の摂理の仕組みと働きについて幾ばくかの見識を得たわれわれは、いかなる事態が起きようと、あるいは人間がいかに愚かしいことをしでかそうと、大霊の意志は必ず行きわたるとの確信をもつことができます。そしてその摂理によってますます多くの愛と哀れみと慈悲と互助とが地上で行使されるようになります。

 科学も絶対に誤りを犯さないわけではありません。科学者とて間違いを犯す可能性をもった、ただの人間にすぎません。私は科学を神のごとく絶対視してはいません。地球には科学者が言っているような終末はありません。永遠に存在し続けます。

 いかがです、あなたも科学者の見解が間違っていた例をいくつかご存知でしょう?


───私は科学者ではないのですが、正直言ってその点を真剣に考えさせられることがありました。

 科学者の見解が間違っていた例をいくつかご存知なのでしょう?


───実にたくさんあります。

 ですから地球の未来について科学者が述べたからといって、それが必ず正しいという保証はどこにもないのです。(訳者注───部分的にしか紹介されていないので、この前にどういう対話があったのかは憶測の域を出ないが、

私の推測では、例えば最近さかんに警告されている、スプレーなどに使用されているフロンガスによる成層圏の破壊の問題が出て、このまま破壊が進めば紫外線が大量に地球に届いて、地球の生命が死滅するという説が出されたのであろう)

                     ※                ※

 ローデシアから訪れた科学者に向かって───

 これまでたどられたあなたの足跡も、背後霊によって暗闇から光明へと導かれてまいりました。これは、低く下がれるだけ高く上がれるという償いの法則によって本当の意味での人間的向上が得られる過程の一環なのです。

光を見出すのは闇の中においてこそです。喜びを見出すのは悲しみの中においてこそです。真実の自我を見出し始めるのは、地上にはもはや頼りになるものは何もないと思えた時です。

 これは人生の両極性という、魂が真の自我を見出すための原理の一つです。果てしない宇宙に展開する生命活動の一つ一つが、規律づけられた何らかの役割をもっております。嵐も、青天と同じく、無くてはならないものなのです。

闇も、光と同じく、無くてはならないものです。人間性が鍛えられるのは苦しい試練の中においてこそです。その両極性を体験してはじめて成長しはじめるのです。

 私は屁理屈を言っているのではありません。大霊がその無限の叡智によって地上の人類のために案出した進化の法則がそうなっているということを申し上げているのです。言い替えれば、必要なものは時が熟せば与えられるということです。

困難・試練・試金石・障害、こうしたものは魂がその潜在的資質を発揮するために欠かせない体験です。一種の触媒を提供してくれるのです。 

 これまでを振り返ってごらんになれば、最大の窮地と思えた時に道が開かれ、真実の自我を発揮する方向へと導かれていることに気づかれるはずです。同じ道をたどった人からあなたがそうして援助していただいたように、今度はあなたが人に手を差し伸べてあげるチャンスが与えられることになるでしょう。

 それが神が意図されている仕組みなのです。すなわち集団ではなく一人ひとりが自我の開発を促す永遠の真理を手にし、さらにそれを縁ある人に授けていくという仕組みなのです。

援助を求める人を絶対に拒否してはなりません。同時に、たとえ援助の手を拒否されても、それは、折角の自己革新のチャンスを目の前にしながら、その人がまだ受け入れる用意ができていなかったためにそれを生かし切れなかったのですから、気の毒に思ってあげることです。

 あなたはそれだけのものを授かることができたことを喜ばないといけません。同時に、それとて、これから先あなたを待ち受けている無限の真理のほんの一かけらに過ぎないことを知ってください。まだまだ掘り起こすべき霊的財産が山ほどあるのです。人のために尽くすチャンスも数多く与えられてまいります。

             ※      ※

 別の日の交霊会で───

 私たちは片時も休むことなく研究に勤しんでおります。特に病気治癒、霊視能力、入神現象(トランス)の質を高めるための新しい方法、アイディアを実験しております。しかし所詮は、そちらから提供してくれる材料次第です。そこには自由意志と個人的義務の問題がからんでおります。

 私たちはそちらから提供していただくものより多くのものをお返ししております。それが私たちの義務なのです。扶助し支援すると同時に、人間としての基本的な必要品に事欠くことのないように計らうことになっております。それから先のことは本人が決めることです。


(あくまで謙虚に神の道具として辛抱するか、金銭欲や虚栄心といった煩悩に負けて堕落していくかは、自由意志と個人的義務の問題であって、そこまで立ち入ることは許されないということ──訳者)

 私たちはあくまでも謙虚に献身してくれる道具が欲しいのです。何度も申し上げていることをここで改めて申し上げますが、献身こそ霊の正貨です。大義のために献身することこそ気高いのです。なぜならその時あなたは内部の神性を発揮していることになるからです。

 私たちからお願いしたいのは、倫理的意識をできるだけ高く持っていただきたいということです。私は常に皆さんを成就というゴールへ向けて、ゆっくりではありますが確実に進歩するように援助しています。申し上げていることは至って単純なことです。

人間として最善を尽くしていて下さればよいのです。そうすれば私たちの協力のもとに、縁あって訪れてくる人の力になってあげることができるのです。

Wednesday, June 24, 2026

シルバーバーチの霊訓(十一)

 More Philosophy of Silver Birch

Edited by Tony Ortzen


 四章 既成宗教のどこが間違っているか      
    キリスト教を中心に

〝今もしナザレのイエスが地上へ戻ってきて自分の名のもとに説かれている教えを聞いたら、いったい何のことだか理解できないでしょう。その多くはイエスが説いたものではないからです。後世の聖職者たちがでっち上げたものだからです〟

 これは聖公会(アングリカン)の牧師が初めて交霊会へ出席した時にシルバーバーチが語った言葉である。以下その二人の問答を皮切りに、既成宗教のそもそもの間違いはどこにあるのかを総合的に検証してみよう。まず牧師から質問する───


───あなたの霊訓によってずいぶん教えられております。私は牧師ですが、ドグマと組織化された宗教というものに幻滅を感じております。でも私はキリスト教にもある種の良さを見出しております。そこで、果たして教会内に留まって改革の仕事をすべきか、それとも教会を脱退して外部から仕事をすべきかで迷っております。

 話を教会そのものの起源から始めましょう。他の宗教の教会に相当するもの、つまり寺院、教会堂、礼拝堂と同じく、キリスト教の教会も、その昔、霊力が地上に降りたということがその起源となっております。

それには聖書にいう〝しるしと驚異〟もしくは〝奇跡〟と呼ばれるものが伴っております。霊力というものはその時代の古びた信仰、間違った教義やドグマへの挑戦という形で届けられました。

それが霊的起源であるとの証拠は、病人を癒やすこと、迷える者に導きの光を授けること、物質は殻であり霊こそ実在であるという基本的原理を教えるということで示されたのでした。しかし残念ながら歴史をご覧になれば分かるように、そうした霊力のほとばしりも、ほんの短い期間しか続きませんでした。

 そうした中で神学者というのが次第に勢力を持ち始め、勝手な教義をでっち上げ、それが純粋な霊性を具えていた啓示と置き代えられていきました。不毛の人間的産物が神の声を押しのけてしまったのです。

その後も〝しるしと驚異〟あるいは〝奇跡〟と信じられるものを伴った霊力のほとばしりがあり、それがまたもや人間的産物によって置き代えられるということが何度となく繰り返されました。

 そうしたことばかりしている教会をイエスは〝白塗りの墓〟と表現しました。霊力がすっかり抜き取られているからです。繰り返される作業によって築きあげられた壁の余りの頑強さに、崇高なる霊の力も突き通すことが出来ないのです。そのことをまず率直に申し上げねばなりません。

 さて、あなたがいちばん良い例ですが、それまで信じてきた伝統的な信仰と真っ向から対立する霊的真理に真実性を自覚し始めた時に問題が生じます。

板ばさみの状態の中でどう身を処すべきかということになるのですが、あなたに限って言えば、現在の立場に留まって、その世界の中であなたに耳を傾ける人を啓発していきなさいと申し上げます。スピリチュアリズムという用語を用いる必要はありません。

これは単なるラベルにすぎません。私たちはラベルには拘りません。私たちの関心は魂を解放すること、大霊の意図される生き方を可能にしてくれる自由を与えてあげることです。

 地上世界の問題の大半が物質中心の考え方に起因しております。物的欲望は地上界を毒する悪性のガンです。これは是非とも人生の基盤が霊であり物質ではないという知識、理解、悟りによって駆逐しないといけません。

 それなら教会内でもできるはずです。導きを求めてあなたのもとを訪れる人に教えてあげることができます。あなたの今の実力をもってすれば、真の自我を見出す手引きをしてあげられる立場にいらっしゃいます。人間はいつかは必ず自己革新の過程を経なければならないものです。

自分を救うのは自分でしかないのです。誰も救ってはくれないのです。その手引きをしてあげる方法は教会においても見出せることにお気づきになられます。

 教会を去ってしまえば霊媒その他、スピリチュアリズム関係の人たちとの接触に限られてしまいます。ということは、スピリチュアリズムの啓蒙活動の側からいえば、同志が一人増えただけということになります。

その点キリスト教界に留まっていれば、伝導の使命を帯びた正式の牧師として、あなたの教会に精神的指導を求めてくる人々に手を差し伸べてあげることができます。

 ナザレのイエスは今なおわれわれのこうした仕事の背後の中心的指導者として活躍しておられます。その他にもかつて地上であなたと同じように牧師の聖衣をまとっていた人が大勢参加しております。

他界後に身に付けた知識と霊力とをたずさえて、地上の人類に幅広く援助の手を差し伸べるための道具を求めております。使命感は死とともに終わるものではないのです。

 神は人間に〝疑う心〟を植えつけております。真実性を確かめるための批判的精神です。正直な批判は少しも悪いものではありません。真実を知りたいがために疑ってかかる人を私たちは大いに歓迎します。ですが、口先だけの議論や用語の詮索ばかりする人はご免こうむります。

 私はいつでもどこでも援助します。悲しみや苦しみが触媒となって霊性が目覚め始めた魂を見つけ次第援助します。受け入れる用意ができたからです。


 その牧師には夫人の他にもう一人、学校で宗教教育を担当している女性が同伴していた。その女性が尋ねる───

───私はあなたの霊言集を読み続けております。その中のどこかであなたは、人格神は人間が発明したもの以外には存在しないとおっしゃっています。〝大霊とは法則です〟と述べておられるのですが、別のところでは〝未来永劫にわたって神の愛と愛の神が存在します。

皆さんが愛念を表現するごとに神がみずからを顕現なさるお手伝いをしているのです〟とも述べておられます。これらの表現や他のもろもろの言い回しを拝見しておりますと、私にはあなたは神を人格を具えた存在であるかに表現しておられる印象を受けるのですが、その辺を明確にしていただけないでしょうか。


 分かりました。でも、これはとても難しい問題です。なぜならば、無限なる存在を有限なる言語で定義することは事実上不可能なことだからです。大霊は人間が考えるような意味での人物的存在ではありません。人間を大きく拡大したような存在ではありません。男性でもなく女性でもありません。

 大霊は宇宙最高の力、無限の知性、愛、慈悲、叡智、要するにありとあらゆる霊的資質の原理の総合的化身です。が、その概念をお伝えしようとすれば、どうしても人間の言語を使用せざるを得ません。もしも私が大霊のことを中性名詞で〝それ〟と呼んだら、男性名詞で〝彼〟と呼ぶよりもさらに厄介な問題が生じます。

 物的世界は、他のすべての世界と同じく、絶対不変の摂理によって支配されております。その摂理は無限の過去から存在していましたし、これからも無窮の未来まで存在し続けます。予期しなかった事情が生じて改めざるを得なくなることはありません。

これまでの摂理では間に合わない新たな事態が生じるということも絶対にありません。その作用は完ぺきであり、停止することも、無効になることもありません。無限の知性によって考案されたものだからです。

 生命の存在するところには必ず摂理が働いております。原因には必ず結果が生じます。タネ蒔きには刈り取りが付随します。その因果関係に干渉して、生じるべき結果を変えてしまうような力をもつ存在はありません。

地上世界のどこで何が起きようと、それも摂理のもとに生じています。突発事故も偶然の出来事もありません。大自然の摂理はありとあらゆるものを包摂しております。

 こうした事実は、その背後に崇高なる知性が存在してそれが摂理を生み出し、万物の全側面と全活動を維持・管理していることの証ではないでしょうか。同時に又、その全摂理を通じて愛が支配し、従って完全なる公正が行きわたっているに違いないことを暗示してはいないでしょうか。

悪いことをすればそれ相当の罰が与えられるように、善いことをすればそれ相当の報いがもたらされます。

 死の床での牧師による最後の儀式も、自然の摂理の働きを変えることはできません。いくら誠心誠意の祈りであっても、それだけで摂理が変えられるものではありません。いかなる教義を忠実に受け入れても、摂理を変えることはできません。

なぜならば摂理は完全な公正が行きわたるように働かねばならないからです。あなたの行為が招いた結果を代わりに背負ってあげられる人はいません。

あなたのすること考えることの一つ一つにあなた自身が責任を取らねばなりません。聖人と罪人とが同じ霊格を具えるようなことはあり得ません。霊格をごまかしたり偽ったりすることはできません。そこに神の意志があり、神とはそういうものなのです。

 あなたは〝人間性〟を問題にされましたが、神はあらゆる人間に内在しているという意味では人間性があると言えます。が、神は摂理であるという意味においては非人間的存在です。ましてや、自分を信じる者は可愛がり、信じない者には意地悪くするような、そんな恨み深い神さまではありません。

 摂理によって原因と結果とがきちんと定められております。神はあなたの中に存在するのです。受胎の瞬間から神性の種子が植え付けられているのです。それに芽を出させ、花を開かせ、豊かな実りをもたらすためのチャンスは、日常生活の中でいくらでも用意されております。


───すべてが神がふところの中で行われている、という言い方は正しいでしょうか。

 結構です。神はあらゆる場所に存在します。神のいない場所というものは存在しません。


───新約聖書の中(マタイ9・17)でイエスは、古い皮袋に新しいぶどう酒は入れられないと述べております。これとあなたが説いておられることとはどう結びつけたらよろしいでしょうか。

 古い皮袋に新しいぶどう酒を入れることは出来ません。古いぶどう酒を新しい皮袋に入れるのです。霊力というものを人間が勝手にこしらえた信仰に合わせて働かせることはできません。霊的真理を自分の信仰の型にはめ込むことはできません。

いかなる信仰も、いかなる教義も、いかなる名句も、自分がこれは真実ではあり得ないと確信したものは、いかに古くから伝えられているものであっても、即座に拒絶なさらないといけません。

 イエスはよく寓話を用いました。が、言わんとしていることはきわめて明瞭です。もしもあなたが霊力の存在を自覚していらっしゃるのなら、もしも霊的真理を確信していらっしゃるのなら、それと食い違う教説は一切説いてはなりません。ただそれだけのことです。

 例えば、先ほど大霊についての質問がありましたが、大霊とは、どこかで説かれているような三位一体などというものではありません。大霊はすべてであり、いずこにでも存在します。宇宙の全生命を包摂しております。

もしも神とは三つの部分に分けられるものと信じているとしたら、その信仰は間違いです。それに、そう信じたからといって一体どうなるというのでしょう。神とは一にして三、三にして一であると信じたら、何か霊的に救われることでもあるのでしょうか。


───(最初に質問した牧師) 私には何のことだか、わけが分かりませんでした。

 私にも分かりません。あなたはあなたに啓示された真理に忠誠を尽くすことです。信じられる筈もないものを信じようとするのは、あなたの知性の信用に関かわります。また、あなたの魂の成長にとってもプラスになりません。

        ※          ※

 別の日の交霊会に同じく〝国教会の不満分子〟の一人が夫人とともに招待され〝妻とともに生涯忘れ難い夕べ〟を体験した。まずシルバーバーチが歓迎の言葉を述べる───

 あなたが私の説く真理のいくつかをご存知であることはよく承知しております。あなたなりの厳しい自己批判と精神的苦悶の末に、過去の教条と教説に背を向けられ、これこそ人生に光明をもたらしてくれると信じる霊的真理を手にされました。

 本当を言えばあなたと同じ立場にある他の聖職者たちも、あなたと同じように霊の力とその崇高な真理を手にしてほしいのですが、それが思うに任せないのが残念です。本来ならばその霊力の守衛であり、大霊の大使であり特使であるべき人たちが石の壁を張り巡らして、霊力も真理も突き通せなくしてしまっている光景は、見るも悲しいことです。

 当然の結果として教会は冷たく荒涼として、生命力に欠けた不毛の場と化しております。生気あふれる霊力の顕現がそこにないからです。その点あなたは、悲痛な思いを経た上でのことではありましたが、真理の道を見出されたことを喜ぶべきです。

自分をそこまで導いてくれた光明の存在を知ることになりました。それはこれからも引き続き光輝溢れる光を放ち、あなたの辿るべき道を照らしてくれることでしょう。


───私どもは大霊があなたのような高級界の霊を通して語りかけてくださっていると理解しておりますが、人間の歴史を通じて、かつて大霊が霊を経ないで直接語りかけたことがあるのでしょうか。

 大霊は個的存在ではありません。大霊は個性が神格化されたものではありません。大霊は個性を超越した存在です。摂理・愛・叡智・真理の粋(エッセンス)です。巨大な宇宙で休みなく作用している無限の知性です。

 それは数かぎりない自然現象の中に見ることができます。その子等が英雄的行為、滅私の行為、滅私の行為、慈悲の行為を通じて、自分より恵まれない人のために尽くす時の、その愛の表現の中にも見ることが出来ます。

 又、病の人を癒し、喪中の人を慰め、意気消沈した人を元気づけてあげる時の霊力の流れの中にも見ることができます。
 一個の男性あるいは女性として出現することはできません。個々の人間に宿る神性の発現という形で、部分的に顕現されることはありうるわけです。


───私たちから大霊に直接語りかけることはできるのでしょうか。もしできるとしたら、それは私達自身に内在する神性のことでしょうか。

 あなたは大霊であり、大霊はあなたなのです。その違いは種類でも本質でもなく顕現の度合いに過ぎません。大霊は完全の極致です。あなたはそれに向っての努力を限りなく続けるわけです。したがって大霊は内部と外部の双方に存在するわけです。

あなたが愛・寛容心・慈悲・哀れみ・仁といった神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。なぜなら、あなたを通じて大霊が表現されているからです。

 一方、大霊には無数のメッセンジャー、無数のチャンネルがあります。神意を行きわたらせることを任務とした高級神霊の一大組織が張りめぐらされております。ですから、もしもあなたが大霊に向かって語りかければ、黙って念じるだけでも、精神統一でも、あるいは声に出して祈ることによってでも、

あなたの意志が大霊に届けられます。声に出すということは良いことです。念じるだけではとかく乱れやすい思念を明確にまとめ、具象化することになるからです。

 しかし声に出す出さないに関係なく、衷心からの切望は大霊に知られると同時に、神意の行政を司る任にある高級霊に届きます。


───あなたは霊界でイエスにお会いになったことがありますか。

 あります。何度もお会いしております。このことはこのサークルの皆さんにはすでにお話してあります。定期的にクリスマス(冬至)とイースター(夏至)の二度、この地上から引き上げて、そのイエスが主催される大集会に参列する際に拝謁しております。

今イエスは二千年前にご自身が身をもって示しながら、その信奉者をもって任ずる人々によって台無しにされてしまった霊的真理の普及に携わっておられます。

 その働きによって、二千年前にイエスを通じて顕現したのと同じ霊力による現象(心霊現象及び病気治療)を伴って、その霊的真理が地上に蘇りつつあります。

イエスにとって、又その輩下の神霊にとって、地上の宗教界の指導的立場にある者が基本的な真理について救いようのないほど無知である様子を見ることほど嘆かわしい思いをさせられるものはありません。

 あなたは光明を見出されました。そのことを大いに喜ぶべきです。そして、ここまであなたを導き、間違いない道標を提供してくれた霊力と同じものが、これからも引き続き導いてくれることを信じて下さい。これまでも決してラクな道ではありませんでしたが、使命を担った者にラクな道はないのです。

 もしも使命を担った者が降りかかる困難を克服できないとしたら、地上の寄生虫的営利第一主義に対抗して霊界から挑んでいるこの霊的大戦の将校としては失格であることになります。

 皆さんの心に温もりと愛とをもたらしてくれた真理、そして又、失ったと思っていたのが再び見つかり、さらにここまで導いてくれた愛を、神に感謝しなくてはなりません。

 喜んでください。皆さんはバイブル(マタイ6・19)に言う 〝虫が食いサビがつく〟 ことのない宝を手にされたのです。清澄で光輝に溢れ、永遠に曇ることがなく、決してあなた方の手から離れることはありません。なぜなら、苦難の末に手にされたものだからです。

        ※            ※

             
 米国から訪れた二人の聖職者───うち一人はキャノン(功績のあった牧師に贈られる名誉称号)───に対してシルバーバーチが次の様な歓迎の言葉を述べた───

 お二人は立派なお仕事をなさっておられます。容易なことではありませんが、今日の米国を広く支配している暗黒を霊の光によって駆逐し、黄金の仔牛(富の象徴)に代わって霊的真理を崇拝の対象とするように導くことが是非とも必要です。

 なぜ必要か。それは、無数の魂がいずこへ向かうべきかも分からずに絶望の淵をさ迷っているからです。
 言いにくいことを敢えて言わせていただきますが、残念ながら今の米国には、そうした危機的状態にある人たちの力となり霊的・精神的・物的自由をもたらしてあげられる牧師は何百人、たぶん何千人もいないのではないでしょうか。

 お二人は今その仕事にたずさわっておられるわけです。もともと霊的真理の啓示の場として建立された教会が、人間のこしらえた障害物(教義・教典)のために霊力の働かない場所となってしまっているのは悲しいことです。

 又、もともと霊的問題の指導者、教師、人間の模範であるべき牧師が肝心の霊的基本真理について何一つ知らず、あまつさえ今の時代でも手にすることのできる神のインスピレーションよりも人間の勝手な産物である教義の方を後生大事にしているのも情けないことです。

 こんな手厳しいことを私は決して非難するつもりで申し上げているのではありません。あるがままの事実を申し上げ、それが残念なことであることを指摘しているまでです。

 しかし、霊的光明はそうした障害を突破して、今や地上に根づいております。これ以後もますます増えていく人間的チャンネル(霊媒・霊能者・心霊治療家)を通じて霊力が流入し続けることでしょう。神の証人は今の時代にも大勢いること、全ての人間が神の恩恵に浴することが出来ることを立証していくことでしょう。

 そのためには先ず日常生活を、それを受けるにふさわしいものに整えなければならないことも思い知らされていくことでしょう。困難、死別、病苦を体験して初めて、魂にその素地ができあがるのです。

 神学上の教義やドグマの解釈について討論し合うことに生き甲斐を覚える様な人種を相手に、あなたの貴重な時間を浪費してはいけません。何の価値もないことですし、霊性をひとかけらたりとも伸ばすことには成りません。不毛で無意味です。

 そういう人たちよりも、すでに受ける用意のできた人との出会いを待つことです。そして、そういう人をいつでも受け入れてあげられる準備をしておくことです。いつでもどこでも、真理を説く用意をしておくことが大切です。

その上で、もしも拒絶されたら、せっかくのチャンスを目の前にしながらそれを手にすることの出来なかった人を気の毒に思ってあげるがよろしい。

 神の摂理は完ぺきですから、地上の人間が一人の例外もなく、生涯に一度は必ず真の自分を見出すチャンスに巡り会えるように配慮されております。魂が揺さぶられて神性の火花が炎と燃え上がり、内在する霊の豊かさ、威厳、美しさ、壮大さ、高貴さ、崇高さをいくらでも発揮することができます。

そのチャンスはすべての人に訪れます。そういう人のうちのたった一人でもあなたが手助けをしてあげることになれば、それは掛けがえのない価値をもつことになります。

 霊界には地上の様々な状態───動乱・混とん・暴力・破壊・強欲・大欲・嫉妬、要するに人類全体にはびこっている物的優先の産物の処理に深く関わっている高級霊団が存在します。宇宙の大経綸組織の一部を担っている霊団です。

 人間が真の自我に目覚め、自分とは何なのか、なぜこの地上に存在しているのか、この地上を天国のような住処にする上で人間は何をなしうるのかを自覚するには、先ずそうした物欲優先の産物を根絶しなければなりません。

全ての人間が霊的光明のもとで生きるようになれば、必ずや地上天国が実現するように意図されているのです。

 お二人はそれを実現するという壮大な目的のために貢献する、測り知れない光栄に浴しておられます。そこまで導かれてきたわけです。どんなに辛い思いをしている時でも、どんなにうんざりする思いをさせられている時でも、決して孤独ではないということを忘れてはなりません。

霊の光が常にあなた方の足元を照らし、霊の愛がいついかなる時もあなた方を包み込んでおります。

 何度も申し上げていることですが、人のために役立つことをすることは気高いことです。同胞のために尽くすことによって、共通の親である大霊の役に立つということほど気高い貢献はありません。これに勝る宗教はありません。

 形式を守り教義に盲従するというだけの宗教では何の価値もありません。真の宗教とはみずから世に出て、少しでも住み良い環境にするような行為を心掛けることです。

 自分を取り囲む事情が険しくなってきた時───暗黒が低く垂れこめ、稲光が走り、雷鳴が轟きはじめた時は、心を静かにして、これまで自分を導いてきた力はきっとこれからも導き続けて、次に進むべき道を示してくれるはずだという確信をもつことです。

 力強く前進なさい。最善を尽くすことです。それ以上のものは人間に求められていません。しくじった時は立ち直ればよろしい。しくじるということは立ち直れることを意味します。皆さんは不完全な世の中の不完全な存在である以上、必ず失敗を犯します。完全へ向けての巡礼の旅は永遠に続くのです。これまでに啓示された真理に感謝しなくてはいけません。

                     ※           ※

  別の日の交霊会でサークルのメンバーが質問した───

───こうした霊的真理に目覚めた宗教界の指導者は、それまでに抱いてきた宗教観を棄てるべきでしょうか。

 各人各個の責任ということが絶対的原理の一つです。各自が自分の行為に責任を持つということです。真理をごまかすことはできません。理解の芽生えとともに良心の声が次にとるべき行為を指示します。

その指示を素直に受け止め、なるほどと納得がいったら、何をおいてもその指示に従わなければなりません。それが原理です。その原理を無視している人たちを個人的に私が非難することは控えたいと思います。私がそのようなことをするのは適当ではないからです。


───非難するのは間違いですが、とるべき態度を説くのは許されるのでないでしょうか。

 あなた方のなすべきことは、いつどこにおいても真理を説くということです。人との出会いがそれを目的としている(背後霊によって導かれている)場合があります。

あなたも、あなたにとって最も必要な時にそうした出会いによって救われたのです。そこに摂理の働きがあり、真理はそういう形で広められていくものなのです。

 それからあとのことは、もうあなたの責任ではありません。地上の人間は一人一人がみな異なった進化と発達の段階を歩んでいるのです。すべての者にアピールするたった一つの真理というものは無いのです。したがって、こと霊的な問題に関するかぎり〝集団回心〟ということは有り得ないのです。

 〝風は思いのままに吹く〟(ヨハネ3・8)と申します。霊力はそれを受け入れてくれるところへ浸透していきます。パン種が絶え間なく働いているのです。各自が各自の成長と進化の段階に応じてその真理の意味するところを理解し、そしてそこから次の段階へと進むほかありません。

 大切なのは真理がその人の自我に居場所を見出すということです。前にも申した通り、霊的なつながりは、いったん出来あがったら二度と切れることはありません。それをこしらえることが、霊力が地上へ顕現していくためのチャンネル、つまり通路をこしらえることになるのです。

 自分が理解した限りの真理───あなた方はもとより私自身もまだそのすべてを理解したわけではありません───に照らして行動する以外に生きる道はありません。それ以上のこともそれ以下のことも求められることはありません。何度も申しておりますように、自分としてのベストを尽くすことです。

それ以上のことができるわけがありませんし、又それ以下のことをすべきではありません。

 あなた方が真理を広め、間違いと迷信と無知とを駆逐するために行う努力の一つ一つに、霊界からの祝福と援助があります。私たちがこうして地上世界へ戻ってきた目的もそこにあります。

 それにつけても情けなく思うのは、本来ならば霊的な問題について最も多く知っていなければならないはずの聖職者が、一番無知であることです。

現在の地上世界の既成宗教のすべてが委縮し、霊的啓示の根源からあまりに遠ざかりすぎて、それを最初に受け止めた霊覚者の教えと、その後継者たちによって歪められた教説との間の見分けがほとんどつけられなくなっている現実は、大いに反省すべきであると思います。

 私のような者がこうして地上へ戻ってきて、霊的な教訓、霊的な哲理、霊的な倫理を説き、宗教がその基盤とすべき真実の原理を述べるよう要請されることになったのも、地上の既成宗教がその本来の機能を失い、道を求めて訪れる人に真の導きを与えることができなくなってしまったことが大きな理由の一つなのです。

 そもそもそうした宗教の誕生の基盤となったのが霊力であったのに、選りによってその宗教が作り上げた建造物の中がいちばん霊力がお留守になっているというのは、何とも皮肉なことです。

しかも、その組織のリーダーたちは、他の面(社会奉仕等のこと。第三巻六章参照───訳者)では殊勝な心掛けの人たちかも知れませんが、肝心の霊力に対する受容力に欠け、それを見る目も聞く耳も語る口も持ち合わせなくなっております。

その無知ゆえに今の時代でも聖霊の働きかけがあることを認めようとしません。歴史に語られている大きな事象を起こしたのと同じ霊力が今日でも働きかけているのです。

 その点あなた方は光栄にもその強大な霊力の保管者であり頒布者でいらっしゃいます。為政者の無知と盲目ゆえに危機に陥り、今なおその危機から脱しきれずにいる地上世界のために大切な貢献をしていらっしゃいます。

 あなた方のように真理に目覚めた方は世界中に大勢いますが、そういう人のなすべきことは、自分が受けた影響力をさらに他の人々へ広げていくことです。それによってさらに大勢の人が自分とはいったい誰なのか、何者なのか、なぜこの地上に存在しているのかを知り、その目的を成就するには何をなすべきかを理解していくことでしょう。

 悲しいことですが今の地上世界には、まるで暗い土中に住むモグラのように、人生について、生きる力の始原について、その目的について何一つ理解せず、生命の持つ物的・精神的・霊的な喜びを味わうすべを知らない人が無数に存在します。


───(招待された科学者) 科学者としてのこれまでの人生は悩みの連続でした。その第一は神の概念で、スピリチュアリズムを知ってからは、あなたが 〝大霊〟 と呼んでおられるものを信じておりますが、それまではキリスト教の神の概念が受け入れられなくて私なりの概念を抱いておりました。

それは、神とは広い意味での大自然の法則と同一視できる存在であり、キリスト教で説かれているような個体性をもつ存在ではないということです。いかがでしょうか。


 まず、真実からほど遠いキリスト教の概念から始めてみましょう。ここですぐ問題となるのは、有限の言語では無限なるものは表現できないということです。ゴット、神、あるいは私のいう大霊は永遠の存在であり、初めもなく終わりもなく、無窮の過去から存在し、これからも永遠に存在し続けます。

霊ないし生命力も同じように永遠の存在であり、初めもなく終わりもありません。かくして神、生命、霊、こうしたものは常時存在しているもので、時間的にいつから発生したという性質のものではないということです。

 限りある存在であるあなた方人間には全体を把握するということは不可能ですから、宇宙の背後の壮大な力は、限られた形でしか想像できないことになります。

 今あなたは神を大自然の法則と同一視しているとおっしゃいました。しかし神は大自然の法則よりもっと大きい存在です。なぜなら、その法則を支配しているのが神だからです。神とはその自然法則と同時にそれが作動する仕組みをもこしらえた無限なる知性です。

 残念ながら地上の大部分の人間にとって、神はどうしても人間に似た存在とならざるを得ません。個的形態を具えていない存在というものが想像できないのです。しかし神は、あなた方が想像するような個的存在ではありません。あなた方が存在するような人物的存在ではありません。

 神とは非人間的存在でありながら同時に人間性のすべてを表現する存在です。これはあなた方には理解できないでしょう。神はすべての生命の中に宿っています。その生命が人間という形で個別性をもつことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性をもつ存在として顕現したことになります。

 ですから、神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を具えた実在そのもの、人間に想像しうるかぎりの神性の総合的統一体と考えて下さい。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性でもあり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。

 神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰一人存在出来ません。神から切り離されるということがありえないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在を有するかぎりはすべてのものに宿っているのです。

 私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難のわざです。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。


───(もう一人のゲスト)神が完全な叡智と知性と愛を具えた普遍的な霊であり、全生命を支配し、しかも人間を自分に似せて創造したのであれば、なぜ人間は不完全なのでしょうか。

 それはミクロとマクロの問題です。人間は神の完全性の要素をミクロの状態で内臓しております。人間はそれを発現させ完成させなくてはならないのです。それは無限の時間を要する過程です。

 別に難しい問題ではありません。人間的精神と霊と身体とが完成された状態で創造されたわけではありません。が、内部に神性という完全性の火花が宿されております。その火花を大きな炎と燃え上がらせるために、人生を自然の摂理に順応させるのが人間の務めなのです。

 地上の人間が厄介なのは、自分で勝手な神を想像することです。人間的存在として想像する場合でも、女性ではなく男性として想像します。男性である方が女性であるより勝れているかに信じているわけです。

 神は人間を霊的にご自分に似せて創造されたのです。生命は霊であり霊は生命です。霊的に似せて創造された以上、あなたは永遠に神とつながっており、神性を共有しているのです。

ということは必然的に人間は霊的大家族の一員であることになります。同じ神性が宿っているからです。ですから人間は霊的に神に似ているのであり、姿が似ているというのではありません。

 地上世界を一気に変革することはできません。人々を変えるのも容易ではありません。が、自分を変えることは今すぐからでも始められます。いつどこにいても人のためを心掛けるのです。

力になってあげるのです。自分が教わったものを分けてあげるのです。もしもそれが受け入れられれば喜び、拒否されればその人の思う道を行かせてあげればよろしい。あなたが導いてあげるべき人が次々とあなたのもとに案内してこられるのです。

 神は、愛と知性をもってこしらえその霊力によって活力を与えている地上世界から分離して存在することはできません。


───神は地上世界の人間にはほとほと手を焼いておられることでしょう。

 それは今に始まった話ではありません。太古からずっとそうです。しかし、我慢の大切さを説いている私たちは、それをみずから実行しなければなりません。もしも皆さんに対する愛がなければ、わざわざこれほど暗い世界へ戻ってくるようなことはいたしません。

 同時に又、地上に救いの手を差し伸べるべき時期が到来したからこそでもあります。つまり私たちの援助を受け入れる準備ができた人がいるということです。ただ悲しいかな、魂が目を覚まし真の活動を開始するようになるまでには、霊的な絶望の淵を体験しなければならないことがよくあるものです。

 霊の光は、これからも媒体のあるところならどこでも照らし続けます。場所によってはほのかな明かり程度に過ぎないこともあります。が、神性を帯びたものであるからには完全に消えてしまうようなことは絶対にありません。

自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、あるいは銀河系宇宙だけでなく、全大宇宙を支配し経綸しております。神はその無限の叡智をもって全大宇宙のすみずみまで配剤してくださっています。心配してはいけません。心配は何の役にも立ちません。そして、少しも事態を改善することにはなりません。


───イエスは何回も再生を繰り返しながら進化した一個の人間だったのでしょうか、それとも地球の創造以前から存在していたのでしょうか。

 私に言えることは、イエスを通して発現した霊力は、今日の地上のすべての人間を通して発現している霊力と本質的においてまったく同じものだということだけです。程度の差、霊的進化の違いはあっても、霊の本質において何の違いもありません。

霊はすべて同じです。それが永い年月に多くの個的存在を通してさまざまな形で再生を繰り返すことは有りうることです。


───祈りの効用について説明してください。

 知識の領域を少しでも広めようとする努力、病める人を一人でも多く治してあげたいと思う心、死別の悲しみに暮れる人をもっと慰めてあげたいと思う気持ち、人生に疲れた人があなたという灯台を見つけられるように一層の輝きを増したいという願い───いずれも私たちがたずさわっている仕事なのですが───こうした真摯な祈りが何の反応もなく見過ごされることは絶対にありません。

 あなたは一人ぼっちではないのです。大軍の一員なのです。われわれの背後、見えざる次元には、多分あなたには想像もできないほど進化した霊の大集団が控えているのです。あなたも、私も、そして私達と志を同じくする者は、いつでもその援助を授かることができるのです。

 唯一の制約条件は、それを受け入れ吸収する能力です。霊的資質を培うほど、それだけ多くの美しさと輝きと壮大さと高潔さと光沢を身につけることになります。それが魂を刺戟して、地上への誕生とともに賜わった遺産である内部の神性をますます発現したいと願う気持ちにさせるのです。

 うなだれてはいけません。教会や礼拝堂や寺院よりも、あなたの方がはるかに大きな仕事ができるのです。皆さんは霊力を発揮することができます。そういう建造物にはそれができません。逆に霊の出口を閉じ、外へ出られなくしている不毛の神学の方を後生大事にしております。


───(サークルのメンバー)祈りの対象は自然の摂理であるべきでしょうか。

 いえ、対象は内にも外にも存在する大霊であるべきです。その大いなる霊力とのより緊密な関係を築くべく、先ほど述べたような真摯な願望と精神統一を通して努力すべきです。より多くの啓示、より多くの知識、より多くの叡智、より深い理解を求めての祈りであるべきです。

そうした祈りは必ずや聞き届けられます。なぜなら、それを祈願するというその事実が、内部の神性の発現を促しているからです。

───あることで霊界からの働きかけがあったことを確信することがあるのですが、こちらから別に祈ったわけではありません。どうやってわれわれの必要性に気づいてくれるのでしょうか。

 真摯な祈りは必ずその標的を見出します。皆さんが心から祈る時───〝祈る〟 のであって何かを〝欲しがる〟 のではありません───その祈りの念は必ず聞き届けられます。霊視能力をお持ちの方であれば、皆さんの周囲に何らかの絆、親近感、及び特殊な分野での共通の奉仕的精神をもつ霊がいつも待機しているのが分かります。祈りの念がその霊をいっそう身近なものにするのです。

 磁気力にも似た吸引力の法則が働くのです。祈ることによって霊がそれに応えて働きかける懸け橋ができあがるのです。私がいつも取り越し苦労はお止めなさいと申し上げるのはそのためです。心配の念はその人の周囲の物的ならびに霊的雰囲気を乱し、私たちによる援助が届けにくくなるのです。


───霊の方では人間が神のお助けを祈るまで待つのでしょうか。それとも祈る祈らないに関係なく、放っておくべき時は放っておき、援助すべき時は援助するのでしょうか。

 大自然の摂理の働きは完ぺきですから、その機構の中にあって誰一人、何一つ忘れ去られることは有りえないのです。すべての存在を包摂するように完全な摂理が行きわたっているのです。何一つ、誰一人その外にはみ出ているものはありません。

あなたが神に見落とされるということは有りえないのです。どこにいても神の管理下にあり、すべてを包摂する自然の摂理の活動範囲の中にあります。

 ということは、あなたに必要なものはすべて知れているということです。祈ることによって受ける援助は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的発達段階に応じたものとなります。

 ただ祈り方についてこちらから注文させていただくとすれば、黙禱よりも声に出した方が、その人が本当に目指しているものは何かが明確になるという利点があります。


───祈るどころではなくて絶望のドン底に沈んでいるような人はどうなるのでしょうか。神なんかいるものかと思っている場合は援助は届けられないのでしょうか。

 人間が神なんかいるものかと思ったからとて、別にどうということはありません。それが神を困らせることはありません。


───そういう人にも救いの手は差しのべられるのでしょうか。いろいろな事情から祈ることができない人、あるいは神が信じられない人がいるとします。そしてその人が今苦しい境遇にあり、救いの手を必要としています。こういう場合はどうなりますか。

 援助を受ける能力は神の存在を信じる信じないには関係ありません。その段階での精神的ならびに霊的発達程度によります。それが受け入れるものの中味を決定します。それが最もふさわしいということです。それも原因と結果の関係であり、自然のきまりです。


───聖書には多くの真理が語られているのでしょうか。

 神の真理と人間の作り話の混ぜ物です。


───宗教心をもった人に死後の生命の話を持ち出すと、すぐに聖書から〝死者と語ってはならない〟という文章を引用します。このことをどう思われますか。

 二つの要素が重なっております。聖書は永い間に随分いじくりまわされてきました。誤訳があり、脱落があり、それに元来がコピーのコピーのその又コピーであるということです。誰一人として、原典を持ち出して 〝これが聖書の始まりです〟 と言える人はいません。(第五巻一八四頁参照)

 聖書の中には〝この言葉は本物です〟 といえるものは一つもありません。聖書に述べられていることが神の許可を得たものであるという証拠はどこにもないのです。

身の毛もよだつような話があります。特に旧約聖書がそうです。ペテン、極悪非道、殺人、暴力等、誰が考えてもおよそ神の啓示とは思えない話がたくさんあります。

 旧約聖書がもし本当のことを述べているとすると、神(ゴット)、私のいう大霊は、地上の悪の権化のような暴君でもしそうにない振舞いをすることがあることになります。ですから、聖書に述べられているからといって、それだけで正しいということにはならないのです。

もしも正しいと主張するなら、一点の疑問の余地もないまでそれを証明しないといけません。

 聖書を絶対とする信仰家に申し上げたいのは、もしも本当に死者と語ってはならないというのであれば、ではなぜイエスと三人の弟子が山頂で行った交霊の場に、モーゼとエリヤが出現して語りかけたかということです。モーゼとエリヤはとっくの昔に死んでいるのです。

そのうちのモーゼが 〝死者と語るべからず〟 と述べたというのですが、そのモーゼ自身が死者であり、それが地上に戻ってきて語っているではありませんか。これは信仰厚き方には困ったことであるに相違ありません。


───(質問者が変わる)妻と私の間に子供ができた場合、宗教問題についてその子にどう教えたらよろしいでしょうか。特に私の場合はキリスト教信仰に全面的には納得していませんし、スピリチュアリズムの真実性を理解しております。

 思っていらっしゃるほど難しい問題ではありません。親としてのあなたの責任は、その子が自然な成長をとげるようにしてあげることです。幼少期は精神が柔軟なために、教え込まれたものは思慮分別なしに吸収してしまいます。そういう時期に間違ったことを教えないように、正しい宗教的知識の中で個性を発揮させることが大切です。

 ご承知のように、幼少期に受け入れたものは潜在意識の中に固着し蓄積して、その後の真理の受け入れの障害となります。私たちが人間に真理を教え込もうとする際に一ばん困るのは、幼少期に受けた間違った教育が無意識のうちに抵抗させる働きをすることです。すっかり根づいてしまっているために、それを排除するのに大変な時間が掛かります。

 また時折あるのが一種のカタルシス的反応です。つまり、成人してから、それまでに蓄積したものを良いものも悪いものも一切投げ棄てて、世の中の全てのものへの反抗することに快感を覚えるようになります。

 親としてのあなたの責任は、子供の心に間違った教えを植え付けないようにすることです。どうか子供にはすべての宗教の基本となっている真理、共通した真理を教え、大きくなって神学的教義を教えられても魅力を感じず、単純・素朴な真理を求めるようになる、そういう素地をこしらえてあげて下さい。


───すでに何らかの宗教を教え込まれて育っている人がいます。その教えがもし新しいものの理解を妨げている時は、それをぶち壊すべきでしょうか。

 それは難しいでしょう。不幸なことに、そういう人はすでに子供時代にいわゆる洗脳をされています。これこそ宗教的であると信じられている概念を───実はそうではなく、ただの神学上の概念にすぎないのですが───疑うことを知らない、従って全く無抵抗の柔軟な精神に植えつけられております。

その柔軟な精神が、成人していくにつれて固くなっていきます。やがてその概念はただの概念として所有されている状態から、逆にその人間をがんじがらめに縛り付けるようになります。

 だから厄介なのです。といって、その人が後生大事にしているものをいきなりぶち壊すようなことはしてはなりません。それ以外にもいろんな宗教的概念があることを教えてあげることです。

宗教の起源について読むべき本が沢山あります。キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、仏教徒も、あるいはイスラム教徒も、生まれる国が違っていたら別の宗教の信徒になっていた可能性があることを教えてあげることです。

 地上には数えきれないほどの宗教があります。しかし神は一つ、大霊は一つなのです。その神はクリスチャンでもなければユダヤ教徒でもありません。スピリチュアリストでもありません。

 真の意味で宗教的であるということは、同胞に対してだけでなく動物に対しても思いやりの心を持つことです。他の存在を思いやる心が無いようでは霊性を欠くことになります。

 霊能者や心霊治療家が人生の辛酸をなめさせられることが多いその理由の一つは、自ら苦しんで初めて他人への思いやりの心が芽生えるからです。神の道具としての道が常に酷しく、ラクをさせてもらえないのは、そこに理由があります。


───政治をあずかる人も同じですね。

 でも神の道具の方が酷しいでしょう。為政者というのは、たとえば他国へ戦争を仕掛けておいて、実際に前線で戦うのは一等兵、二等兵ばかりです。物質偏重思想との戦いにおいても、その最前線で酷しい目にあっているのは為政者ではなくて神の道具なのです。

 他人へは哀れみをもって接し、信仰が間違っているからといってそれをぶち壊すのではなく、ほかにもいろいろな信仰があることを教えてあげることです。ハンマーを振り回すのではなく、ほかにも素晴らしい教えがあることをそれとなく気付かせる手段を考えて下さい。

 魂に受け入れる用意ができていれば、それが効を奏するでしょう。用意ができていなければ、残念ながらその人は霊的にも精神的にも地上では暗闇の中を歩む運命であり、霊界へ来てからも当分は同じ状態が続くことになります。


───世界の宗教を統一しようとする運動をどう思われますか。

 そうやってまた混乱に混乱を重ねていくのです。一体それがそんなに大事なことなのでしょうか。当事者は自分たちのことを大そう重要な人物であると考えているのかも知れませんが、霊の力も光も発揮されないただの建造物では、イエスの言った通り、それは〝白塗りの墓〟でしかありません。

 私は、儀式や教義が違うからというだけで共通の場が持てずにいる人たちのことは、あまり構う必要はないと思います。霊は常に一体化の方向へ働きます。仲違いをさせているのは人間の勝手な思想です。霊は、チャンスさえ与えられれば、その統合的意志を働かせるものです。

 本来ならば一つの大きな流れであるべきはずのそうした宗教を誕生させた、そもそもの起源が霊力であったことは歴史的事実です。が、それが何世紀も前から支流に分かれてしまいました。もう、そのまま好きな方向へ進むに任せておけばよろしい。

 私たちは霊力そのものに全幅の信頼を置き、それを唯一の拠り所としております。それが善意の人々を鼓舞し、授かっている才能を駆使して同胞の為に役立たせるように導きます。又、人類に自己革新の道を教えることによって、各自が自分のみならず地上世界そのものを救っていくことになるでしょう。

 霊力は建造物を通して流れるのではありません。一般の大衆が、無限の叡智を具えた神から授かった才能を発揮することによって流入するのです。真の魂の自由をもたらし、本当の生き方を教えてくれるのは、その才能の活用以外にはありません。


──(質問者代わる)あなたのおっしゃる 〝宗教的寛容〟 とはどういうものでしょうか。と申しますのは、私は 〝シルバーバーチの訓え〟 といっても基本的には他の宗教で説かれているものと同じだと信じます。が、それすら独断的で非寛容的であると見なされる可能性があるのではないかと思うのです。たとえば宇宙は自然法則によって支配されていて、それは完全であり、不可変である、といったことです。


 私はそれまで一度たりとも不可謬性(絶対に間違ったことを言わないこと)を主張したことはございません。私もあなた方と同じく一個の人間的存在です。ただ、あなた方の理性に訴えるべき真理を説いているだけです。私はこうだと申し上げても、その裏にはそれを拒否したら罰が当たりますという含みはみじんもありません。

 これが私が真理だと信じているものです。ということしか言えません。それを皆さんに検討していただくために提供しているだけです。仮にそれを押し付けて何が何でも受け入れさせようとしても、私たちにはその手立てがないのです。

 いかなる霊媒であろうと、その霊媒を通して語られたことにあなたの理性が反感を覚えたら、それには構わぬがよろしい。神はあなた方に理性と良識というものを与えておられます。それを使用すべきです。ドグマというのは理性的判断なしに受け入れるべきもののことです。

 私は、霊的な教えは知性でもって厳しく是非を判断すべきであると申し上げております。その厳しい詮索に耐えられるものは受け入れられるがよろしい。耐えられなければ拒否なさるがよろしい。それ以外に何か良い方法があるでしょうか。ご利益でしょうか、それとも罰でしょうか。

 それはいけません。私たちは愛と良識によって共通の場で交われることを確認することによって、皆さんの協力を得なければなりません。


                 ※           ※

 同じ問題について別の交霊会で───

 皆さんとともにたずさわっている仕事の大変な重大性を見過ごさないようにしてください。永年にわたって幾億と知れぬ人々の心を束縛と隷属の状態に置いてきた迷信を駆逐しなければなりません。

人間は本来ならば肉体と精神と霊の調和がもたらす、のびのびとした喜びの中で生活すべきなのです。霊的真理を知ることによって本当に自分とは誰なのか、何なのか、いずこへ向かいつつあるのかを理解し、心の豊かさを味わうことができるはずなのです。それが、その迷信のためにほとんど不可能な状態になっているのです。

 その仕事は、当然、皆さんに辛酸をなめさせることになります。しかし困難はクスリなのです。私たち霊団の者も、こうして地上との接触が得られるようになるまでには大変な苦労がありました。

 世界各地でそうした努力が為され、そして成功しております。今では世界中に霊の光が灯されております。霊力が届けられていない国はもはや一国もありません。

霊力の道具は往々にして隠密裏に仕事をしなければならないことがあります。が、仕事は着実に運ばれてまいります。その真実性に否定の余地がないからです。

 そういう次第で、困難というのは霊の真の資質、神から授かった才能を発揮させるための挑戦として歓迎なさることです。皆さんの内部には地上最大の力が潜在的に宿っているのです。

いかなるハンディキャップも、いかなる障害も、いかなる困難も、その潜在力で克服できないものはありません。

もしもそれまでに開発したものでは敵わないほどのものであれば、祈ることによって、さらに強力な援助を要請することができます。

             ※           ※

 宗教の教義の問題が取りあげられ、それがただの人間的産物であり人間性の霊的向上にとって何の益もないのに、そのツケは結局霊界へ回されてくる事実を指摘して───

 地上の大半の人間が生命とは目に見え手に触れるものにあると考えております。その当然の結果として、人生には深い目的などはないと信じています。

 それに加えて不幸なことに、肝心の霊的・精神的指導者たるべき人たちが、これ又、霊的実在について無知なのです。その証しを見たことも聞いたこともなく、したがって人に説くこともできないのです。今日では宗教とは教義のことであると思われており、それが後生大事にされているために、肝心の霊力の働く余地がないのです。

 教義というのは人間の考えによって作りあげられたものです。霊力は大霊から発せられますから、神性を帯びております。ですから本来は霊力による啓示の方が教義に優先されるべきなのです。

 現代の地上世界には義務教育を行う国が沢山あります。子供たちは一つの目的つまり学校を出たあとの社会生活に適応できるような教育を実施するためのカリキュラムの中で学習するために学校へ通います。

それを首尾よく学んだ子は、大人になって必ず直面する問題を、ある程度の理解をもって迎えることができます。きちんと学ばなかった子は卒業後の人生に備えができていません。

 あなたの地上生活は霊の幼稚園のようなものと思えばよろしい、真の自我である霊が私たちの世界つまり霊界での生活に備えるために、この地上で学習をするのです。

 しかし現実には、あまりに多くの人間が何の備えもなくやってまいります。そのため、こちらで改めて教育しなければなりません。地上でも、学校へ行かなかった大人に基本から教え直すのは難しいものですが、こちらへ来た人間に基本的な霊的教育をするのは、それよりはるかに困難となります。

 死後にも生活があり、そこでは地上生活の言動の一つ一つについて責任を問われるということを知れば、それからの人生観は一変するに違いありません。いえ、一変すべきなのです。

 聖書には〝大地とそこに満つるものは主のものなり〟(コリント①10・26)という言葉があります。一度手にしたら、霊的知識はいくら人にあげても減ることはありませんが、地上の富は、人にあげればそれだけ減ります。そこに霊的財産と物的財産の違いがあります。

 物的財産はいくら貯めても、それを永久に所持することはできません。地上に生きている間だけの管理人であり預かり人であるに過ぎません。失うことがあります。盗まれることがあります。価値が下がることがあります。色褪せてきます。美しさを失います。いずれにしても、何時までも自分のものではあり得ないのです。

 それに引き換え霊的財産は、いったん手にしたら永遠に失うことはありません。

             ※   ※

  〝真理〟は必ずしもすべての人に受け入れられるものではないことを説いて───

 真理は魂の方にそれを受け入れる用意ができるまでは真理として受け入れられることができません。これは真理のあらゆる側面について言えることです。真理とは無限性をもつものですから、その全体を理解するには永遠の時を要します。それがまた無限の過程なのです。

 受け入れる用意のできていない人に真理を押しつけることはできません。そこには必ず混乱・論争・討論・議論といったものが生じます。が、それにもそれなりの意義があります。

その混乱の中から、受け入れる用意のある人にとっての真理が出てきます。その用意というのは霊的進化の程度、発達段階によって決まります。それは各自が自分で決めていくというのが宿命です。

 もしも私がある人たちにとっての真理を説き、それを聞いてあなたが 〝私には信じられません〟 と正直におっしゃっても、私は少しも不愉快には思いません。あなたへの愛の気持ちはそれによっていささかも減りません。

なぜなら、あなたはこの地上においてあなたなりの理性、あなたなりの良識を使い、納得しないものは拒絶することで自己開発するようになっているという理解が私にあるからです。

 その最終的な裁定者として私が敬意を表しているところの理性によってあなたの賛同を得ることができなければ、それは私が役に立たなかったことを意味します。


───私もこうした霊的真理を説きたいと思いながら、今、同じ問題に逢着しているように思います。難しさを痛感しております。教会で説くにしてもサークルで説くにしても、これが真理なのだ、これ以外にはないのだと信じて話します。その際、これが自分の信じていることであると述べて、後は(押しつけがましいことは)何も言わない方がよろしいのでしょうか。

 そうです。後は各自の判断に任せることです。


───拒絶されても構わずにおくということですね。

 真理というものは拒絶されたからといって少しも損なわれるものではありません。そういう人は受け入れる用意ができていないのです。ですから、待ってあげるのです。そして霊性の火花を煽ってみる程度に留めるのです。それ以上のことはできないのです。それで何の反応もなければ、その人のことを気の毒に思ってあげないといけません。


───スピリチュアリズムの組織には事務的なことや物的な問題が多すぎるのはなぜでしょうか。その種のことは(霊的知識のない)事務員を雇うことで処理できることなのですが、肝心の霊的指導者はどうやって探せばよいのでしょうか。霊的な飢餓というものもあることを痛感しております。

 聖書の言葉をご存知ですか。よくご存知のはずの言葉を引用してみましょう。〝まず神の国とその義を求めよ。しからば他のものもすべて添えて与えられん〟(マタイ6・33)これはどういう意味だと思われますか。


───まず第一に霊的なものを求めなければいけないことだと思います。たぶん私たちは方向を間違えているのだと思います。

 霊が王様で物質は従者です。霊は物質に先んじるものです。霊的に正しければ物的な面もおのずと整います。要はどちらを優先させるかの問題です。お金が不足したからといって大義が台無しになることはありません。霊性が発揮されるにはまずお金がなくてはいけない、という発想から金儲けを優先させても、事はそうは運びません。

 私たちは物的エネルギーを操りながら皆さんのもとへやってまいります。私たちのバイブレーションは速くてデリケートなので、この遅鈍で緩慢なエネルギーを操る要領を会得しなければなりません。このサークルの方なら、必要とあらば私たちが物質を操ることができることをご存知です。

(訳者注──シルバーバーチの交霊会でも初期の頃は〝霊の威力〟を見せるために物理的心霊現象を演出していた。とくにテーブルを動かす程度のことは末期に至るまでひんぱんに行っていた。)

 もう一つ聖書の言葉を引用しましょう。〝大地とそこに満つるものは主のものなり〟───物的なものは一つとしてあなたのものではないということです。本当の意味で自分のものとすることはできないのです。

たとえ手に入れてもあなたのものではありません。あなたは地上生活中はただの財産管理人に過ぎません。すべては大霊のものなのです。

 心から人のためという気持ちになれば、必要なものはそのうち必ず揃うものです。霊的なものを優先した仕事をする人は必ず私たちが援助の手を差し伸べていることを知ってくださるはずです。

自然の摂理として、誰一人見落とされるようなことも忘れ去られることもないようになっているのです。その神の力を信じて、その意志が働く通路を神に提供してあげて下さい。


───随分簡単なことのようにおっしゃいますが・・・・・・

 事実、簡単なのです。地上にはややこしく考えるのがお上手で、分かったような分からないような結論を出されるご仁が多すぎます。そこで、幼な子のごとき素直さで持って問題の核心に一直線に突き進む態度が要請されることになるのです。〝幼な子のごとくあらずんば・・・・〟(マタイ18・3)というわけです。

 私たち霊界の者は人のために役立つことをしている人の努力を無駄に終わらせたことは一度もありません。必要なものは必ず手に入ります。それは私たちがこれまでに数知れず試されてきていることです。霊的なものも物的な物も、必要なものは必ず手に入れてさしあげます。

あなた方はあなた方の役割を果たしておればよろしい。私たちは私たちの役割を果たします。

(訳者注───ここでいう〝私たち霊界の者〟とは各自の背後霊のことと考えればよい。つまり守護霊を中心として、同じ霊系や地上的縁でつながった霊の集まりがあって、その霊たちが本人の地上での天命を全うさせるために、いろいろと世話を焼いてくれている。

そのことだけを考えると万事がうまく行ってもよさそうに思えるが、地上界と霊界との関係には二つの絶対条件があり、それが事を厄介にしている。一つは自由意志の要素であり、もう一つは波長の原理である。

 守護霊といえども本人がどうしてもやりたいと思うことを止めさせることはできないし、やりたくないと思うことを無理やりやらせることもできない。守護霊も摂理を無視したことは許されないのである。

 もう一つのは波長の原理というのは、先ほどのシルバーバーチの〝心から人のためにという気持ちになれば必要なものはそのうち必ず揃うものです〟という言葉に暗示されている。そこには〝正しい心掛け〟というものが要請されているわけである。それが波長を整える作用をするのである。

シルバーバーチが〝心配の念を抱いてはいけません〟と口を酸っぱくして言っているのも同じ原理を言っている。

 そのこととは別に、シルバーバーチが言及していないことで私から注意を促しておきたいことがある。それは、金銭上の問題は高級霊ほどニガ手なので、守護霊は直接には関与せずに配下の霊、それもどちらかというと地上臭の抜け切っていない霊に任せるということで、その意味でもわれわれは霊のことを高級・低級のみで安直に区別してはならない。それぞれに得手不得手があり、それぞれに〝役に立つこと〟をしているのであるから。

 もとよりこうしたことは原則として守護霊の管理下で行われていることであるから、その通りに行っていれば問題はないが、本人の方が欲の皮が突っ張り見栄や慢心が出はじめたら、波長の原理でもはや守護霊の管理下から離れ、同じ波長をもつ低級霊、それも邪心をもった悪霊に操られることになる。

 必要以上の金が儲かったり、思わぬ大金が転がり込んだり、預金が面白いほど増え始めたら危険と思わねばならない。それは言わば欲望の肥満体になることであり、魂は活力を失い、霊的病いが出始める。悪霊の思うツボにはまったのである。

 シルバーバーチが〝人のために役立つ〟という心掛けを説く裏にはそういう意味合いも含まれていると理解されたい)


───たしかに私はあなたから大きな援助と叡智のお言葉をいただいて感謝いたしております。

 あなたには霊視能力があります。願わくはその能力がもう少し広がって、神の計画の推進に当たっている神庁の組織、高級神霊の働きの一端をかい間見ることがお出来になればよろしいのですが・・・そうすれば一瞬たりともうろたえたり、ひとかけらの心配の念を宿すことがなくなるはずです。

それを私はこの目で見ているのです。そして、これまでの実際の成果を逐一知っているのです。

 私はここで満身の力を込めて断言いたします。真理普及という大義に身を捧げておられる皆さん方は、宇宙最大の力、生命力そのものの援助にあずかることができるのです。それはもはや義務ともいうべきものと心得るべきです。

 すなわち、それを賢明に、有意義に使うのです。あなたの生活の範囲内で触れ合う人たちの全てに導きの手を差しのべるのです。もしもその手が拒絶されれば、それはそれでよろしい。その人の思う道を進ませてあげればよろしい。

その辺の判断はあなた方自身の叡智の光と良識に照らしてなさるがよろしい。動機がすべてを決します。動機が正しければ、いかなる事態が生じようと最後は必ず勝利します。

 人生には二つの大切な要素があります。一つは知識であり、もう一つは信仰(信念)です。知識の裏付けのない信仰は〝折れた葦〟(マタイ12・20その他)のようなもので、いざという時に頼りになりません。が、知識に信仰を上のせする───これが最高の組み合わせです。
 
 あなたは人生とその意義についての理解をもたらしてくれた知識はすでにお持ちです。が、それとて、これから先あなたが入手していくべき知識に比べれば、ほんのひとかけらに過ぎません。そこでその不足を補うための信仰というものが必要となります。

 しかしそれも、あくまで事実に即した知識を根拠とした信仰です。軽々しい信仰、理不尽な信仰、知性を侮辱する様な信仰ではなく、事実を根拠とした信仰、つまり、かくかくしかじかの事実がある以上はそう信じてもよいはずだという論拠をもった信仰です。それはあなたにとって大切なものです。

 本日お集まりの方の中には、このことを耳にタコが出来るほど聞いておられる方がいらっしゃいます。さぞかしうんざりされることでしょうが、でもやはり真実です。平凡な真理は、たとえ何度繰り返しても真理です。くり返すことによって真実性が減じることはありません。

 私から申し上げたいのは、皆さんは有限の世界で生活する有限の存在だということです。無限の知識から手にすることのできる分量は、皆さんが霊的・精神的に到達した発達段階によって制限されます。

これまでに受け入れられた知識はしっかりと吟味したうえで真実であると確信されたものです。その知識の上に、まだ掲示されずにいるものに対する信仰心(信念)を築くのです。それは理不尽なものではありません。立証可能な事実を土台としています。

 地上の人間の態度をみていてどうも理屈に合わないと思うことの一つは、物的な惰眠から目覚めるまでにはさんざん時間が掛かっているのに、いったん目覚めると、今度は急にせっかちになることです。どんどん事が運ぶことを期待するのですが、そうはまいりません。

霊的な進歩は着実でないといけません。近道というものはないのです。一歩一歩をしっかりと足固めしながら進まないといけません。一歩進むごとに次に進むべき方角が開けます。

 これまでに啓示していただいたものを基盤にして,ひとまずそれに甘んじるのです。そしてもしも疑問が生じたら───きっと生じるものです、あるいはもしも疑念が湧いたら───必ず湧くものです、

そしてもしも困難が厄介な頭をもたげはじめたら、慌てず我慢するのです。霊の力は物質に勝ることを忘れないことです。霊界から働きかけやすい条件さえ提供してくれれば、いかなる障害も、いかなる困難も、いかなるハンディキャップも、霊の力で克服できないものはありません。

 そもそも教会というものが存在するようになったのは、霊力がさまざまな形で顕現したからです。奇跡と思われた現象も、霊力によって演出されていたのです。が、今日の教会にはそれが見られません。かつて〝聖地〟と呼ばれたところも、今は霊的砂漠となり、オアシス一つ見当たらない不毛の土地となっております。

 しかし神の摂理は少しも変わっておりません。そこが 〝聖い処〟 とされたのは霊力が崇高な形で顕現したことによって神聖視されたからです。それと同じ霊力が今あなたを通して顕現し、大きな恩恵をもたらしつつあるのです。

 私はそれぞれの宗教界において真面目に勤しんでいる人たちを非難しようとは思いません。が、その人たちは、苦しんでいる世の中の人のために役立つことは何もしておりません。教義は無味乾燥です。ドグマは不毛です。視野は旧態依然としており、新しい流れがどんどん通り過ぎていきつつあることに気づきません。

 われわれは地上の多くの場所で悪性のガンを生み出している貪欲、強欲、私利私欲が一掃された新しい世界の到来を告げる使者なのです。

あらゆる宗教的行為の中の最高の行為として〝人のために自分を役立てること〟 を掲げ、互いに扶助し合い、寛容(ユル)し合い、人間と動物の区別なしにすべてに哀れみの心をもつべきであると説きます。本当にその気になれば地上天国は叶えられるのです。

 それが今私達が皆さんに協力のもとにたずさわっている仕事です。俗世の悩みに襲われ、暗闇に閉ざされて気が滅入り、疲れ果てあるいは塞ぎ込みそうになった時は、霊的知識を手にした皆さんは、このまま野放しにしたら地上を破滅状態に陥れかねない物質第一主義の風潮に挑む、戦いの中の戦いに選ばれた霊の大軍の一員であることを思い出して、奮い立たないといけません。

 いつまでも絶望感に浸っていてはいけません。私たちは決して見殺しにはしません。援助を届ける通路さえあれば、奇特な心掛けを無為に終わせることは致しません。必要とあらば、いかなる援助でも致します。このインフレの時代にも皆さんに不足の思いをさせないように配慮しております。

 われわれは大事な仕事に携わっているのです。すでに何度も申し上げていることですが、大義に身を捧げることは気高いことであることを今こそ肝に銘ずべきです。人間の気高さは人の為に役立つことをすることから生まれるのです。

 地上の人間は自己改善によってみずからを救済するようにならないといけません。また地上生活ならではの恩恵のすべてが味わえるようになるのは、協調と互助という霊的原理を実行するしかないことを理解しなければなりません。物的恩恵だけのことを言っているのではありません。精神的ならびに霊的恩恵も味わえます。

 人間は精神的にも身体的にも霊的にも自由であらねばなりません。私たちはいかなる形であっても〝隷属〟というものを許しません。人間はみずからの束縛状態をみずからの力で解かないといけません。

そのためには先ず自分を生かしめている力が地上世界の他のすべての存在、生きとし生けるものすべてを生かしめている霊力と同じであることを、しっかりと認識しないといけません。霊力がそれらすべてを取り巻き、すべてを一体とさせ、その存在の究極の責任者である宇宙の大霊すなわち神の前において一つにしているのです。

 私たちが生命の実在について霊的な実感をもたらしてあげるために行っている仕事の背景には、そうした事実があるのです。その目的はそうたやすくは達成されません。

なぜなら、こうした教訓は困難・危機・病気・死別等を体験して初めて学べるものだからです。絶望の底に叩き落とすような苦悩でありながら、実は真実の自我を見出すための手段なのです。

 ですから、皆さんには是非ともやっていただかねばならない役目があります。が、それにはたっぷりと時間を掛けないといけません。われわれの背後には宇宙最大の力、大霊の霊力が控えております。後退させられることはあります。潮は満ちるだけではありません。

必ず引きます。それと同じです。が、霊力の働きが止まってしまうことはありません。常に働きかけております。

 生命のあるものには霊があります。停滞と不活発はわれわれの敵です。なぜなら、そういう条件下では霊力は流入しないからです。あなた方は私たちに通路を提供し、その通路を通って霊力が流入するのです。私たちが欲しいのは献身的な協力者です。操り人形ではなく、私たちが協力するように私たちに協力してくれる、自発的参加者です。

 奉仕は霊の通貨です。宗教とは自分を役立てる行為であり、またそうであるべきです。そうでなかったら宗教は何の意義もありません。


 ───(若い女性のゲスト)あなたのおっしゃる通り私たちは生命を唯一の生命力すなわち神から受けていますから、みんなして愛と奉仕を目的とすれば、すべてがうまく収まると思うのです。そこでお聞きするのですが、平均的な一般人もこうした深い霊的な教えを理解する必要があると思われますか。

一般の人には私たちが同じ神から生命力を受けているという一つの事実を理解させ、それを生活の基盤として、さらに大霊についてより多く知るように持って行けば、スピリチュアリズムだのキリスト教だのという形で理解するよりも、非常に多くの人が理解できるのではないかと思うのです。

 おっしゃることは本質的には結構な事ですし、異議を唱える人は誰一人いないでしょう。ですが、人間は一人ひとり成長と開発と発達と進化の程度が異なるものです。ある人にとってすぐに受け入れられることが、別の人からは拒絶されることもあります。もしも全員が画一的なレベルにあるのであれば画一的なメッセージで済むでしょうけど・・・・・・

 たとえば、ある人に大霊とは愛と叡智の極致であると説いて、それがすんなりと受け入れられても、神の存在を頭から信じない人は即座に否定するでしょう。ですから、メッセージを与える場合は、内容をその人の受容力に応じたものにしないといけません。

 あなたが説くことの単純な素朴さがアピールする人もいるでしょうし、しない人もいるでしょう。人によっては世の中の不公平、さまざまな矛盾、一見無実と思える人の受難、利己的な人間がうまく罰を免れている現実を指摘して、それは一体どうなるのだと言うかもしれません。そこであなたは、延々と骨の折れる議論に巻き込まれてしまいます。

 そういうタイプの人には霊的実在の動かし難い証拠、たとえば〝不治〟の宣告を受けた病気が治った人の例を持ち出すにかぎります。そうすれば常識的な言葉では説明できなくても、実際に慈悲または愛の働きを見せた非物質的エネルギーの存在だけは認めざるを得ないでしょう。

 もう一つ大切なことがあります。知識と叡智と真理は無限に存在しますから、人間が手にすることのできる分量にも限界はないということです。

うわべだけを見るかぎりでは普遍的な愛のテーマは単純に思えるかも知れませんが、その内側はとても複雑です。その複雑な裏側の理解の必要性を痛感するようになるのは、それだけの理解力が具わってからのことです。


───言い替えれば、あらゆる学派や宗派はそれなりの存在価値があるということですね。それぞれが、ある一定水準(レベル)に達した者に何かを与えるようになっている───他の者には満足できない宗教でもその人には満足できるということなのでしょう。

 無限なる霊は無限の表現形態を取ります。生命全体が段階的になっているのです。あなたは休みなく進化しつつあります。一段上がるごとに、その上にもう一段あることを知ります。山頂を一つ克服してみたら、その向こうにもっと高い山頂が見えてくる、と言ってもよいでしょう。

 人類は異なる成長段階にある者で構成されています。したがって、すべての者にアピールする一つの教えというものは提供できないのです。相手がどの程度のものを受け入れる用意ができているかを見きわめる必要があります。あなたの説く思想がそれである人もいるでしょう。

別の論拠を持ち出してそれを論ぱくする人がいるかもしれません。そういう人には五感に訴えるもの───何か常識を超えたもので、根源は霊的でも顕現の仕方が物質的なものを持ち出さないといけません(奇跡的な病気治療などー訳者)

 しかし、いかなる能力を駆使するにせよ、要はその人に成長の機会を与えることになれば、それが一ばん大切なことです。