Friday, May 1, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

 The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論




10章 自動書記現象の種々相

数ある霊とのコミュニケーションの手段の中でも“書く”ということが最も単純で、最も手軽で、何かと都合がいい。

と言うのは、きちんと時刻を定めて連続して交信することができ、その間の通信の内容や筆跡や態度を見て、通信霊の性格や霊格の程度や思想をじっくりと分析し、その価値判断を下すことができるからである。

体験を重ねるごとに霊的通信の純度が高まるという点でも、自動書記は好ましい手段である。

ここでいう自動書記というのは、その霊能つまり通信霊からのメッセージを受け止めて用紙に書き記すという能力を持った霊媒を中継して得られるものを言うのであって、霊媒を仲介せず、書くための道具もなしに記される直接書記とはメカニズムが異なる。(第八章参照)

自動書記には大別して三つのタイプがあり、霊媒によっては二つのタイプが交じり合っている場合もある。
①受動書記(器械書記)

本書の初めに紹介したテーブルラップやプランセットによる通信、および霊媒が筆記用具を握って書く通信は、このあと紹介する直覚書記や霊感書記と違って、テーブルやプランセットや霊媒の腕または手に霊が直接働きかけて通信を送るもので、例えば霊媒が手で書く場合でも霊媒自身は何が書かれるのか全く関知しないという点で受動的であり、その意味からこれを受動書記または器械書記と呼んでいる。霊媒の手もただの器械にすぎないと見なすわけである。(テーブルラップは物理現象の部類に入れられるのが普通であるが、符丁による通信が文字に置き替えられて綴られるという点では、確かに自動書記現象でもある――訳注)

この受動書記では手が激しく動いて、握っている鉛筆が手から離れて飛んでいったり、鉛筆を握ったまま苛立(いらだ)ったようにテーブルを叩き、鉛筆の芯が折れたりすることがある。霊媒はいっさい関係なく、そうした動きを呆れ顔で見つめている。

こうした現象が生じる時は決まって低級霊の仕業とみてよい。高級霊はあくまでも冷静で威厳が漂い、態度が穏やかである。会場の雰囲気が乱れていると高級霊は直ぐに引き上げる。そして代わって低級霊が出てくる。
②直覚書記(直感書記)

霊は霊媒の精神機能に働きかけることによって思想を伝達する。手や腕に直接働きかけるのではない。その身体に宿っている魂――霊媒が“自分”として活動するための顕在意識と潜在意識の総体――に働きかけ、その間は霊媒と一体となっている。ただし、霊媒と入れ替わっているのではないことに注意しなければならない。

霊の働きかけを受けて霊媒の精神が反応し手を動かして書く。あくまでも霊媒が書いているのであるが、伝達される思想は霊からのもので、霊媒はそれを意識的に綴っている。これを直覚書記または直感書記と呼ぶ。
③半受動書記

①の受動書記と②の直覚書記とが並行して行われる場合があり、頻度としてはこのケースがいちばん多い。

受動書記では“書く”という動作が先行し、その後から思想が付いてくる。直覚書記では思想が先行し、その後書くという動作が伴う。その両者が同時に起こる、あるいは前になったり後になったりするのを半受動書記と呼ぶ。
④霊感書記

通常意識の状態ないしはトランス状態で自分の精神の作用以外の始源から思想の流入を受け取ってそれを書き記すもので、②の直覚書記ときわめてよく似ている。唯一異なる点は、その思想が霊的始源からのものであるとの判断が明確にできないことで、霊感書記の最大の特徴はその自然発生性、つまり霊媒自身はそれをインスピレーションであるとの認識が定かでない点にある。

そもそもインスピレーションというのは、良きにつけ悪しきにつけ、霊界から我々人間に影響を及ぼす霊から送られてくるもので、日常生活のあらゆる側面、あらゆる事態における決断において関与していると思ってよい。

その意味においては我々は一人の例外もなく霊感者であると言える。事実、我々の周りには常に幾人かの霊がいて、良きにつけ悪しきにつけ、リモート・コントロール式に我々を操っている。

その事実から、守護霊を中心とする背後霊団の存在意義を理解しなければならない。人生には右か左かの選択を迫られる時機、何を言うべきかで迷う時があるものだが、そのような時に守護霊からのインスピレーションを求めることができる。自分と最も親和性の強い類魂であるとの知識に基づいた信念をもって祈り、あるいは瞑想によって指示を仰ぐ。

それに対する霊団側の反応は、最高責任者である守護霊の叡智によって一人一人異なる。まるで魔法のごとく名案を授かるかと思えば、何の反応も得られないこともある。そのような時は「待て」の指示であると受け止めるべきである。

よく耳にする話として、格別の霊的能力があるわけでもなく、また通常意識に何の変化があるわけでもないのに、一瞬の間に思想の奔流を受け、時には未来の出来事の予言まで見せられ、本人はただ唖然としてそれを受け止めるといった現象がある。そして終わってみると、それまでの悩みも苦しみも、跡形もなく消えている。

さらに天才と言われる人たち――芸術家、発明家、科学的発明者、大文学者等々――も高級霊の道具として偉大なるインスピレーションを授かるだけの器であったということであり、その意味では霊媒と同じだったわけである。


訳注――私の母は若い頃から火の玉を見たり神棚の御鏡に神々しい姿が映っているのが見えたりしたというから霊能がかなりあったようであるが、その人生は戦前と戦後とで天国と地獄を味わった、波乱に富んだ人生だった。のちに私の師となる間部詮敦氏と初めてお会いして挨拶をした時は「荒れ狂う激流を必死に泳いで、やっと向こう岸にたどり着いた感じがした」と言っていた。

その母が私にぽっつり語ったところによると、苦悶の極みに達すると必ず白い光の玉がぽっかりと浮かんで見え、それが消えると同時に一切の悩みも苦しみも消えていたという。ところが晩年にある人からしつこく意地悪をされたことがあり、私もそれを知っていたが、母が平然としているので、さすがに母だと思っていた。

ところがある日ついに堪忍袋の緒が切れて激怒に及んだ。それきり意地悪もされなくなったが、同時に「あの白い光の玉が見えなくなった」と寂しそうに言っていた。その後また見えるようになって喜んでいたが、この話から私は、いくら正義の憤怒とはいえ波動が乱れては高級な背後霊との連絡も途絶えることを教えられた。

以下は、自動書記の原理に関する霊団との一問一答である。


――インスピレーションとは何でしょうか。


「霊による思念の伝達です。」


――インスピレーションは重大なことに限られているのでしょうか。


「そんなことはありません。日常生活のいたって些細なことについてもあります。例えば、どこかへ行こうと思った時、その方角に危険が予想される場合には行かないようにさせます。あるいは思ってもみなかったことを、ひょっこり思いついてやり始める場合もそうです。一日のうちのどこかで大なり小なりそうした指示を霊感によって受けていない人はほとんどいないと考えてよろしい。」


――作家とか画家、音楽家などがインスピレーションを受ける時は、一種の霊媒と同じ状態にあると考えてよろしいでしょうか。


「その通りです。肉体による束縛が弱まって魂の活動が自由になり、霊的資質の一部が発現します。そんな時に霊団からの思念や着想がふんだんに流入します。」

次の問題として、霊媒の能力が一時的に中断したり急に失われたりすることがある。自動書記現象だけでなく物理現象その他の霊媒でも同じことがある。その問題について一問一答は次の通りである。


――霊媒能力が失われることがあり得ますか。


「よくあります。どんな能力でもあります。が、割合としては、完全に失われてしまうよりも、一時的な中断の方が多く、それも短期間です。再開されるのは中断された時の原因と同じことから発します。」


――それは霊媒の流動体の問題ですか。


「霊的現象というのは、いかなる種類のものであれ、親和性のある霊団の働きなしには生じません。現象が生じなくなった時は、霊媒自身に問題があるのではなく、霊団側が働きを止めたか、あるいは働きかけができなくなった事情がある場合がほとんどです。」


――どんな事情でしょうか。


「高級霊になると、霊媒に関して言えば、その能力の使用法によって大きな影響を受けるものです。具体的に言えば、ふざけ半分にやり始めたり野心が度を超しはじめたら、すぐに見放します。また、その能力を霊的真理の普及のために使用するという奉仕の精神を忘れ、指導を求めて来る人や研究・調査という学術的な目的で現象を求めに来る人を拒絶するようになった時も、高級霊は手を引きます。

大霊は霊媒自身の娯楽的趣味のために能力を授けるのではありません。ましてや低俗な野心を満足させるためではさらさらありません。あくまでも本人および同胞の霊性の発達を促進するために授けているのです。その意図に反した方向へ進みはじめ、教訓も忠告も聞き入れなくなった時に、霊団側はその霊媒に見切りをつけ、別の霊媒を求めます。」


――霊が去った後は別の霊が付くのではありませんか。もしそうであれば、霊媒の能力そのものが一時的に休止してしまうという現象はどう理解すべきでしょうか。


「面白半分に通信を送るだけの霊ならいくらでもいますから、高級霊が去ってしまった後に付く霊には事欠きません。が、優れた霊が霊媒への戒めのために、つまりその霊的能力の行使は霊媒とは別の次元の者(霊)によるものであって霊媒自身が自慢すべきものではないことを悟らせるために、一時的に休止状態にすることはあります。一時的に何もできなくなることによって霊媒は、自分が書いているのではないことを身に沁みて悟ります。もしそうでなかったら書けなくなるはずはないからです。

もっとも、必ずしも戒めのためばかりとも言えません。霊媒の健康への配慮から休息させる目的で中断することもあります。そういう場合には他の霊による侵入の懸念はありません。」


――しかし、徳性の高い人物で健康面でも別に休息の必要もないはずの霊媒が、通信がぷっつりと切れてしまって、その原因が分からずに悩んでいるケースはどう理解すればよいのでしょうか。


「そういうケースは忍耐力と意志の堅固さを試す試練です。その期間がいつまで続くかを知らされないのも同じく試練のためです。

一方、その期間はそれまでに届けられた通信を反芻(はんすう)させるためでもあります。それをどう理解しどう役立てるかによって、その霊媒が我々の道具として本当の価値があるかどうかの判断を下します。興味本位で立ち会う出席者についても同じような判断を下します。」


――何も出ない場合でも霊媒は机に向かうべきでしょうか。


「そうです、そういう指示があるかぎりは何も書かれなくても机に向かうべきです。が、机に向かうのも控えるようにとの指示があれば、止めるべきです。そのうち再開を告げる何らかの兆候が出ます。」


――試練の期間を短縮してもらう方法があるのでしょうか。


「忍従と祈り――そういう事態での取るべき態度はこれしかありません。毎日机に向かってみることです。が、ホンの数分でよろしい。余計な時間とエネルギーの消耗は賢明ではありません。能力が戻ったかどうかを確認することだけが目的です。」


――ということは、能力が中断したからといって必ずしもそれまでに通信を送ってくれた霊団が手を引いたとは限らないということですね?


「もちろんです。そういう時の霊媒は言わば“盲目という名の発作”で倒れているようなものです。が、たとえ見えなくても、実際は多くの霊によって取り囲まれております。ですから、そういう霊との間で思念による交信はできますし、また、それを求めるべきです。思念が通じていることを確認できることがあるでしょう。自動書記という現象は途絶えても、思念による交信まで奪われることはありません。」


――そうすると、霊媒現象の中断は必ずしも霊団側の不快を意味するものではないということでしょうか。


「まさにその通りです。それどころか、霊媒に対する優しい思いやりの証拠ですらあります。」


――霊団側の不快の結果である場合はどうやって知れますか。


「霊媒自身がおのれの良心に聞いてみるがよろしい。その能力をいかなる目的に使用しているか、どれだけ他人に役立てたか、霊団の助言・忠告によってどれだけ学んだか――そう自分に問いかけてみることです。その辺の回答を見出すのはそう難しくはないでしょう。」


――霊媒が自分が書けなくなったので他の霊媒に依頼するということは許されるでしょうか。


「それは、書けなくなったその原因によりけりです。通信霊はひと通りの通信を届けた後は、あまりしつこく質問するクセ、とくに日常生活のこまごまとしたことで相談する傾向を反省させる目的で、しばらく通信を休止することがあります。そういう場合は他の霊媒に代わってもらっても、満足のいくものは得られません。

通信の中断にはもう一つ別の目的があります。霊にも自由意志がありますから、呼べば必ず出てくれるとは限らないことを知らしめるためです。同じく交霊会に出席する人たちにも、知りたいことは何でも教えてもらえるとは限らないことを知らしめるためでもあります。」


――神はなぜ特殊な人だけに特殊な能力を授けるのでしょうか。


「霊媒能力には特殊な使命があり、そういう認識のもとに使用しなくてはなりません。霊媒は人間と霊との仲介役です。」


――霊媒の中には霊媒の仕事にあまり乗り気でない人がいますが……。


「それは、その人間が未熟な霊媒であることの証拠です。授かった恩恵の価値が理解できていないのです。」


――霊媒能力に使命があるのであれば、立派な人間にのみ特権として与えればよさそうに思えますが、現実にはおよそ感心できない人間が持っていて、それを悪用しているのはなぜでしょうか。


「もともとその人間自身にとって必要な修行として、その通信の教訓によって目を開かされることを目的として与えられています。もしもくろみ通りにいかなかった場合には、その不誠実さの結果について責任を問われることになります。イエスがとくに罪深き者を相手に教えを説いたことを思い起こすがよろしい。」


――自動書記霊媒になりたいという誠実な願望を抱いている者がどうしても叶えられない時は、霊団側がその者に対して親愛感が抱けないからと結論づけてよろしいでしょうか。


「そうとは限りません。体質的に自動書記霊媒として欠けたものがあることも考えられます。詩人や音楽家に誰でもなれるとは限らないのと同じです。が、その欠けた能力は、他の、同じ程度の価値のある能力で埋め合わせられていることでしょう。」


――霊の教えを直接耳にする機会のない人は、どうやってその恩恵に浴することができるのでしょうか。


「書物があるではありませんか。クリスチャンには福音書があるのと同じです。イエスの教えを実践するのにイエスが実際に説くのを聞く必要があるでしょうか。」

シルバーバーチの霊訓(四)

Silver Birch Anthology 

 Edited by William Naylor




八章  質問に答える

 再生の問題、動物実験の是非、犯罪、自殺等々についての質問がシルバーバーチのもとに数多く寄せられる。その中から幾つかを紹介しよう。
質問(一)─── 動物実験は正しいことでしょうか間違ったことでしょうか。
 これによって人類の益になるものが得られるのでしょうか。

「私はかねがね動物を使っての実験のすべてに反対しております。そこに何一つ正当化すべきものは見出せません。動物はあなた方人間が保護し世話すべきものとして地上に存在しているのです。

その成長と進化を促進する責任が、全面的とは言えませんが、人間に託されております。その無力な動物に苦痛を与えることは、動物が人間に示す情愛と献身と忠誠に対するあまりに酷い報復です。

 治癒力は自然界にさまざまな形で存在し、使用されるのを待っております。動物界の創造と進化をそんな形で邪魔しなくてもよいように、必要なものは創造主がちゃんと用意してくださっております。私たちの世界から援助するスピリットは苦痛を軽減したり不治と宣告された病すら治してしまう技術を身につけておりますが、決して生体実験は致しません。

 薬草を使うことがあります。霊波を使うことがあります。いずれも動物に対する残酷な行為は伴いません。宇宙には道義的な意図が行きわたっております。非道義的なものは摂理に反します」

質問(二)───スピリチュアリストの中にはスピリチュアリズムを占星術と同類とみている人がいます。そういう人たちは地上の出来ごとは星によって宿命づけられ操られていると考えています。

 「生命現象は一連のバイブレーション、放射性物質、放散物から成っており、したがって人間も自然界のあらゆる存在ないしは生命体によって影響されていることは確かです。そういったものが影響を及ぼしていることは事実ですが、どれ一つとして、どうしようもない宿命的な力を持ってはおりません。

あなたの誕生日にある星が地平線上にあったからといって、その星によってあなたの生涯が運命づけられていると考えるのは間違いです。

すべての惑星、すべての自然、宇宙間のあらゆる存在、あらゆる生命体が何らかの影響を及ぼします。しかしあなたはあなたの魂の支配者です。あなたには自分で背負わねばならない責任があり、あなたの霊的進歩に応じて自分が運命を定めていくのです。

 占星術でいう惑星には確かに人体に影響を及ぼす放射性物質がありますし、人体に影響を及ぼせば霊も影響を及ぼすことになります。しかし霊は絶対です。全てに優るものです。ですから、いかなる恒星も惑星も星座も星雲も、人体に及ぶ影響を克服するその霊の威力を妨げる力はありません。

 私が言いたいのは、要するにあなた方は神の一部であること、そして神性を宿すがゆえに、創造力を宿すがゆえに、この宇宙を創造した力の一部であるがゆえに、あなた方はその身体を牛耳ろうとする力に打ち克つことができるということです。

 分かりやすく言えば私も影響力の一つです。あなた方が付き合う人たちも何らかの影響を与えます。お読みになる本も影響力を持っております。しかしあくまで影響力にすぎません。それによってあなたが圧倒されることもないし、絶対的に支配されることもないでしょう」


質問(三)───再生は本当にあるのでしょうか。

 「再生は事実です。私はかつて地上へ再生したことのある霊に何人か会っております。 特殊な使命を託された人、預けた質を取り戻したい人がみずからの意志で行うものです。

 ただし再生するのは個的存在の別の側面です。同じ人格がそっくり再生するのではありません。ここに一個の意識的存在があって、そのごく小さな一部がちょうど氷山のように地上に顔を出します。それが誕生です。残りの大きい部分は顕現しておりません。

 次の誕生つまり再生の時にはその水面下の別の一部分が顔を出します。二つの部分に分かれても個的存在全体としては一つです。これが霊界において進化を重ねて行くと、その潜在している部分全体が顕現した状態となります」(表現する身体が精妙となっていき、それだけ神性が発揮しやすくなっていくー訳者)


質問(四)───私は最近、一方において若者による犯罪が激増し、他方においては体罰が禁じられていることについて大いに考えさせられております。暴力以外に青春のはけ口を知らず、けだもの同然となってしまっている若者をどう扱ったらよいのでしょうか。何かよい処罰の方法はないものでしょうか。(第二次大戦後のこと。本書は一九五五年の出版──訳者)

 「戦争が起きると気高い人間的精神(愛国心)が昂揚される半面、敵を殺そうとする、人類の最も残忍な性質が発揮されます。人間精神の極致ともいうべき英雄的行為を生むと同時に、むごたらしい野蛮性も生みます」


───両極端が発揮されるわけですね。

 「そういうことです。しかも、暴力の方は戦争の必然性として大いに奨励されることになります。では戦争が終われば暴力と残忍性がすぐに引っ込むかといえば、そう簡単にはまいりません。

すでに無数の人間が獣性をむき出しにした状態になっております。そうした事態にどう対処すべきかをお尋ねですが、それには二つの方法があります。

 いずれも地上で敬々しく読まれている本(新旧聖書)にはっきりと述べられているものです。古い方は〝目には目を、歯には歯を〟(出エジプト記)と説き、新しい方は〝己を愛するごとく隣人を愛せよ〟(マタイ)と説きます。どちらが良いかは分かり切ったことです。

 前者の方法を取れば解決は得られません。緩和剤、一時しのぎの荒治療にはなっても、罪悪ないし蛮行を根本から無くしたことにはなりません。

後者の方法を取り、そうした邪悪が精神と肉体と霊との不調和から生まれていることを認識し、それを矯正するための適切な手段を講ずれば、彼らもまともな市民となっていくでしょう。私はこの方法をお勧めします」


───それは解るのですが、問題はそうした暴徒にどう近づくか、つまり彼らの従順な側面をどう捉えるかです。

 「従順な側面をとらえるかどうかの問題ではありません。彼らの野獣性を鎮め、本来の姿である霊性を発揮させるような精神的治療を、さらに必要であれば霊的治療をいかに施すかの問題です。言ってみれば彼らは一種の病人であり、肉体と魂とが本来のつながりを失っているのです。

病気を治すにはいろんな方法がありますが、いちばん望ましい方法は身体と精神と霊の狂った関係に終止符を打ち、協調関係を取り戻させることです。すると自動的に健康状態になります。

それと同じで、秀れた心理学の専門家の協力、さらには心霊治療家の参加を得ることが出来れば、きっとうまく行くでしょう。しかし、残念ながら、地上はまだその段階まで来ておりません」


───(別のメンバーが)これは非常に考えさせられる問題です。そういう若者はしっかりと体罰を課せば一応おとなしくなると思うのですが・・・。

 「恐怖心を吹き込むばかりで、病弊の治療にはなりません」

───でも、おとなしくさせることは出来るでしょう。

 「できます。ですが、一個の人間としての問題の解決にはなりません。あなた方は極めて限られた視野で見ておられます。それはちょうど死刑にするのと同じです。

その人間をこの世から抹殺すれば問題は片づくじゃないかとおっしゃるようなものです。たしかに一面から見れば片づいたと言えるでしょう。しかし本人はちゃんと(死後の世界で)生き続けているのです」

(モーゼスの『霊訓』でイムペレーターが死刑にされた人間の霊や戦死者の霊の怨念と激情が地上の犯罪や暴力沙汰に拍車を掛けている事実を生々しく伝えているー訳者)

───一人の堕落者の更生の方が社会全体より大切なのでしょうか。

 「社会は個人が集まって出来あがっているのです。すべての者に注意を向けてやらねばなりません。私が指摘しているのはより良い方法です。つまり暴力に暴力を持って対処するのでなく、理解を持って臨み、凶暴性を鎮めて市民的意識を芽生えさせるということです」

───(さらに別のメンバーが)若者が暴徒と化してしまったことには我々にも責任があります。我々みんなの責任です。

 「私たちみんなに責任があります。なぜなら人類は一つであり、同胞へ及ぼす影響はこの私にも及びます。私たちが生活している宇宙は全生命があらゆる面において互いに依存し合っており、いかなる側面も他と隔絶することは出来ません」


───(最初の質問者)ムチを使うことは一時しのぎであり、単に恐怖心で持っておとなしくさせるに過ぎません。

 「現段階での地上人類はまだ社会悪に対する適切な矯正措置を生み出すところまで至っておりません。これは進化の問題です。かつては羊を一頭盗んだ者でも絞死刑にした時代がありました。死刑にしなかったら残りの羊はどうなるんだという理屈が大真面目でまかり通ったものです」


───未熟な社会では未熟な処罰が許されるのだと思います。

 「より良い方法に目覚めた人が一人でもいる限りは許されません。たとえば恐怖の監獄に放り込むのと、真面目な市民に更生させる目的をもった監獄の改善のために働かせるのと、どちらがより良いでしょうか。たった一人だけ更生に成功して九九人が失敗に終わったとしても、何の更生手段も講じないでいるよりはましです」

───死刑制度は正しいとお考えですか。

 「いえ、私は正しいと思いません。これは〝二つの悪のうちの酷くない方〟とは言えないからです。死刑制度は合法的殺人を許していることにしかなりません。個人が人を殺せば罪になり、国が人を殺すのは正当という理屈になりますが、これは不合理です」


───反対なさる主たる理由は、生命を奪うことは許されないことだからでしょうか。それとも国が死刑執行人を雇うことになり、それはその人にとって気の毒なことだからでしょうか。

 「両方とも強調したいことですが、それにもう一つ強調したいのは、いつまでも死刑制度を続けているということは、その社会がまだまだ進歩した社会とは言えないということです。

なぜなら、死刑では問題の解決になっていないことを悟る段階に至っていないからです。それはもう一つの殺人を犯していることに他ならないのであり、これは社会全体の責任です。それは処罰にはなっておりません。ただ単に、別の世界へ突き落しただけです」


質問(五)───余暇の正しい使い方について教えてください。

 「余暇は精神と霊の開発・陶冶(とうや) に当てるべきです。これはぜひとも必要なことです。なぜかと言えば、身体に関係したことはすでに十分な時間が費やされているからです。

人間は誰しも健康を維持し増進するための食生活には大変な関心を示します。もっとも必ずしも健康の法則に適っておりませんが・・・・・・しかし、精神と霊も発育が必要であることをご存じの方はほとんどいません。

そういう人たちは霊的にみると一生を耳を塞ぎ口をつぐみ目を閉じたまま生きているようなものです。自分の奥に汲めども尽きぬ霊的な宝の泉があることを知りません。

精神と霊が満喫できるはずの美しさを垣間見たことすらありません。誰にも霊的才覚が宿されていることを知らずにおります。それの開発は内的安らぎを生み、人生のより大きい側面の素晴らしさを知らしめます。

 となれば霊性そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中において為されるものです。

その静寂の中で、周りに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することが出来ます。その宝は使われるのを待ち受けているのです」


質問(六)───直感について説明してください。

 「よろしい。ひとことで説明できます。〝霊の即発〟です。直感とは霊が自己を認識する手段です。ふだんの地上的推理の過程を飛躍します。考えに考えた末に到達するような結論でも、電光石火の速さで到達します。

同じ問題について多くの時間と思索ののちにやっと到達することを〝霊の即発〟によって一気に我がものとしてしまう、一種の 〝一体化〟の過程です」


質問(七)───有色人種と白人が結婚して子孫をこしらえることは好ましくないことでしょうか。

 「私も有色人種です。これ以上申し上げる必要があるでしょうか。地上では〝色素〟つまり肌の色で優劣が決まるかのように考えがちですが、これは断じて間違いです。優劣の差はどれだけ自分を役立てるかによって決まることです。ほかに基準はありません。

肌の色が白いから、黄色いから、赤いから、あるいは黒いからといって、霊的に上でもなければ下でもありません。肌の色は魂の程度を反映するものではありません。地上世界ではとかく永遠なるものを物的基準で判断しようとしがちですが、永遠不変の基準は一つしかありません。すなわち〝霊〟です。

 すべての民族、あらゆる肌色の人間が神の子であり、全体として完全な調和を構成するようになっております。大自然の見事なわざをご覧なさい。広大な花園で無数の色彩をした花が咲き乱れていても、そこには、ひとかけらの不調和も不自然さも見られません。すべての肌色の人間が融合し合った時、そこに完璧な人種が生まれます」


質問(八)───現段階の人間社会において、いわゆるハーフカースト(※)の子孫も社会に受け入れられるべきでしょうか。(※宗教または階級を異にする者同士の間の子孫、とくにヨーロッパのキリスト教徒とヒンズー教徒またはイスラム教徒との間の混血児のことー訳者)    

 「偏見を打ち崩し、誤った考えと闘わなければなりません。真理は、いかにその歩みはのろく苦痛を伴っても、真理であるがゆえに、必ず前進するものです。価値あるものほど手に入れるのに困難が伴うものです。成就は奮闘努力の末に得られるものです。

勇気を持って挑戦してそして征服した者こそ称賛に値します。恐怖心から尻込みし困難を避けようとする者に用はありません。人生とは学校です。刻苦と闘争、努力と困難、逆境と嵐の中をくぐってこそ魂は真の自我に目覚めるのです」