Tuesday, September 26, 2023

シアトルの秋 完全なる人格

 complete personality

The Spirits' Book (New English Edition) By Translated by E G Dutra

 〈美徳と悪徳〉


――美徳とされているものの中で最も徳性が高いのは何でしょうか。


「美徳はすべて価値があります。霊性の向上の証だからです。邪悪性を帯びた影響力の誘惑に自ら抵抗する行為も全て徳行と言えます。が、その徳行の崇高さは、他人への善行のために私利私欲を滅却するところにあります。最も崇高なる徳は、できるだけ多くの人への無私の善行という形を取った時です」


――誰の目にも明らかな欠点と悪徳は別として、一見するとそうは見えない不完全さの表れの中で最も特徴的なものは何でしょうか。


「利己主義です。一見すると徳の高そうな風貌をしていても、実はきらびやかなメッキにすぎず、試金石にはとても耐え切れないことがあります。世間的には“立派な方”で通っていて、確かにそこそこの人格をそなえていても、厳しい試練には耐え切れず、すぐに利己心をのぞかせます。それだけでどの程度の霊格をそなえているかが知れます。もっとも、絶対的な無欲というのは地上界では滅多にお目にかかれるものではなく、もしあれば驚嘆に値するでしょう」


――人のためになることを計画して、その実行のための資金を稼ぐということは間違っているでしょうか。


「純粋にそう思ってやっているのであれば結構でしょう。ですが、果たして心底から人のためと思っているでしょうか。利己心は一切無いと断言できるでしょうか。人のためと言いながら、その実、第一に考えているのは自分のことではないでしょうか」
〈感情〉



――感情というのは、本来、悪なのでしょうか。


「悪ではありません。悪となるのは度が過ぎた時だけです。度を越すということは意念の悪用の結果だからです。基本的には感情は人間の性格の形成に益するもので、偉大な仕事の成就に強烈な拍車をかけてくれることがあります。感情が害を及ぼすのは、その使い道を誤った時です」


――その善用と悪用の境界はどうやって認識するのでしょうか。


「感情は馬と同じです。手綱をうまく操っている間は役に立ちますが、いったんコントロールを失うと危険が生じます。抑えることができなくなると自分だけでなく他人をも傷つけるようになります」


――それは意志の力で克服できるのでしょうか。


「できます。ホンのちょっとした意志の働かせ方で抑えられるものです。その意志、抑えようとする意志の欠如が感情を暴走させてしまうのです。残念ながら、そういう努力をする人が少なすぎます」
〈利己主義〉



――悪徳の中でもその根源にあるものは何でしょうか。


「利己心です。このことはすでに何度も説いてきました。およそ悪と呼ばれているものは全てこの利己心から生じているからです。悪いこと、いけないこととされているものをよく分析してご覧なさい。その底には必ず自分中心の欲が巣食っています。それと闘い、克服して、悪を根絶やしにしないといけません。

利己主義こそ社会的腐敗の根源です。この地上生活(だけとは限りませんが)において幾らかでも道徳的に向上したいと願う者は、まず自分の心の奥から利己心を根こそぎ取り払わないといけません。利己心があるかぎり公正も愛も寛容心も生まれません。あらゆる善性を無力化してしまいます」


――利己心を撲滅するにはどうすればよいでしょうか。


「人間的欠点の中でも最も取り除き難いのがこの利己心です。その原因は物質の影響力と結びついているからです。人類はまだまだ物質性を多分に残していますから、それから解放されるのは容易ではありません。人間界の法律、社会的組織、そして教育までもが唯物主義の上に成り立っています。物的生活が精神的生活によって支配されるようになるにつれて、利己主義も薄められて行くでしょう。それにはスピリチュアリズムの普及によって死後の生命の実在についての認識が浸透することが大前提です。スピリチュアリズムの教義が正しく理解され、それまでの人類の信仰や慣習が見直されれば、習慣やしきたり、社会的関係の全てが改められるでしょう。

利己主義は自分という個的存在にこだわりすぎ、平たく言えば自分が偉いと思っているところから生じています。スピリチュアリズムを正しく理解すれば、それとは逆に、全てを大いなる生命の観点から見つめるようになって、己の小ささに気づきます。全体の中のささやかな存在にすぎないという認識によって自尊心が消え、必然的に利己心も消えてしまいます」

(署名)フェヌロン


訳注――フランソワ・フェヌロン(一六五一~一七一五)はフランスの聖職者・教育論者・著述家。ルイ十四世から孫(王子)の教育を託され、その功によって大主教に任ぜられるが、前任の教育係との間の神学論争に敗れて主教に降格される。その後王子の教育論を述べた大著を発表するが、ルイ王はそれを自分への風刺と受け取って発禁処分にし、対立する教育論者たちからも非難を浴びる。が、「王は臣民のためにあるのであり臣民が王のためにあるのではない」との説は最後まで歪げなかったという。
〈人格者〉



――高等な霊性をそなえていると判断できる人はどういう人格をしているでしょうか。


「肉体に宿っている霊の霊格の判断は、その人の日常生活での言動が神の摂理に適っているかどうか、そして霊的生命についてどの程度まで理解しているかによって決まります」


――地上生活によって徳性を高め、悪の誘いに抵抗していくには、どのような生き方が最も有効でしょうか。


「古賢の言葉に“汝自らを知れ”とあります」


訳注――ギリシャのデルファイの神殿に刻まれている言葉で、誰の言葉であるかは不明。


――その言葉の意味はよく分かるのですが、自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。


「私(聖アウグスティヌス)が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。

霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことのできない場にさらされたとしても、青天白日の気持ちで誰にでも顔向けができるか、と。まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。

人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つの秤(はか)り、二種類のモノサシを用いるはずはありません。

さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。

我々への質問は明確に、そして有りのままを述べ、幾つでもなさるがよろしい。そこに遠慮は無用です。人間は老後に備えてあくせくと働きます。老後の安楽が人生最大の目的――現在の疲労と窮乏生活をも厭わないほどの目的になっているではありませんか。疲労こんぱいの身体で人生最後の、ホンのわずかな時を経済的に安楽に過ごすことと、徳積みの生活に勤しんで死後の永遠の安らぎを得るのと、どちらが崇高でしょうか。

そう言うと人間は言うでしょう――現世のことは明確に分かるが死後のことは当てにならない、と。実はその考えこそ、我々霊団が人間の思念の中から取り除いて死後の実在に疑念を持たせないようにせよと命じられている、大きな課題なのです。だからこそ我々は心霊現象を発生させてあなた方の注意を喚起し、そして今こうして霊的思想を説いているのです。

本書を編纂するよう働きかけたのもその目的のためです。今度はあなた方がそれを広める番です」

(署名)アウグスティヌス


訳注――聖アウグスティヌス(三五四~四三〇・聖オーガスチンとも)は言わずと知れた初期キリスト教時代の最大の指導者・神学者・哲学者で、遺産を全て売り払って貧者に恵み、自らは清貧に甘んじ、とくに後半生は病弱と貧困に苦しめられたが、その中にあっても強靭な精神力、底知れぬ知性、深遠な霊性、崇高な高潔さは、キリスト教最高・最大の聖人と呼ばれるに相応しいものだったと言われる。

なお、これまでの通信でも“私”という言い方をしながら、それが誰であるかが記されていないものがある。それにも署名はあったであろうから、それを敢えて記さなかったのは、まったく無名の人物か、カルデックが本人であることに疑念を抱いたかの、どちらかであろう。フェヌロンとオーガスチンに関してはよほど確信を持ったということになる。



Thursday, September 21, 2023

シアトルの秋 自由の法則 law of freedom

霊の書 - Wikipedia
カデラック 霊の書


〈自由と束縛〉

――人間が完全な自由を得るのはどういう条件下においてでしょうか。
 

「砂漠の中の世捨て人くらいのものでしょう。二人の人間が存在すれば、互いの権利と義務が生じ、完全に自由ではなくなります」


――と言うことは、他人の権利を尊重するということは、自分の権利を奪われることを意味するのでしょうか。


「それは違います。権利は生得のものです」


――奴隷制度が既成の慣習となっている国家において、使用人の家に生まれた者はそれを当たり前のことと思うに違いありませんが、その場合でも罪でしょうか。


「いけないことはいけないこと、いくら詭弁を弄しても悪い慣習が良い慣習になるわけではありません。が、責任の重さとなると、当人がその善悪についてどの程度まで理解していたかによって違ってきます。

奴隷制度で甘い汁を吸っている者は神の摂理に違反していることは明白です。が、その場合の罪の重さは、他の全ての場合と同じく、相対的なものです。長年にわたって奴隷制度が根付いている国においては使用人は少しも悪いこととは思わず、むしろ当たり前のことと思っているでしょう。しかし例えばイエスの教えなどに接して道義心が目覚め、理性が啓発されて、奴隷も神の前には自分と同等なのだと悟ったあとは、どう弁解しても罪は罪です」


――使用人の中には心の優しい人もいて、扱い方が人道的で、何一つ不自由をさせないように心を配っていながら、解放してやると却って生活が苦しくなるという理由から奴隷を雇い続けている人がいますが、これはどう理解すべきでしょうか。


「奴隷を残酷に扱っている使用人に較べれば自分のしていることについての理解が立派であると言えるでしょう。が、私に言わせれば、それは牛や馬を飼育しているのと同じで、マーケットで高く売るために大切にしているだけです。残酷に扱っている人と同列には問えませんが、人間を商品として扱い、生来の独立した人格としての権利を奪っている点において罪に問われます」
〈良心の自由〉



――他人の良心の自由に柵を設ける権利はあるでしょうか。


「思想の自由に柵を設ける権利がないのと同じく、そういう権利は許されません。良心を判断する権利は神のみが所有しておられます。人間が法律によって人間と人間との関係を規制していますが、神は自然の摂理によって人間と神との関係を規律づけています」


――ある宗教で説かれている教義が有害であることが明らかな時、良心の自由を尊重する立場からこれをそのまま許すべきでしょうか、それとも、良心の自由を侵さない範囲で、その誤った教義によって道に迷っている人を正しい道に導いてもよろしいでしょうか。


「もちろんよろしいし、また、そう努力すべきです。ただし、その時の態度はイエスの範にならって、優しさと説得力をもって臨むべきで、強引な態度は慎まないといけません。強引な態度は、その相手の間違った信仰よりも有害です。確信は威嚇によって押しつけられるものではありません」
〈自由意志〉



――人間には行為の自由がありますか。


「思想の自由がある以上、行為の自由もあります。自由意志がなかったら人間はロボットと同じです」


――その自由意志は誕生の時から所有しているのでしょうか。


「自らの意志で行為に出るような段階から自由意志を所有したことになります。誕生後しばらくは自由意志は無いに等しく、機能の発達と共に発達しはじめ、目的意識を持つようになります。幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています」


――未開の段階では人間は本能と自由意志のどちらが支配的なのでしょうか。


「本能です。と言っても、完全な自由意志による行動を妨げない面もいくつかあります。幼児と同じで、自分の必要性を満たすために自由意志を行使していて、その自由意志は知性の発達を通してのみ発達します。と言うことは、あなた方のように知性の発達した人類は、自由意志の行使による過ちに対しては未開人よりも責任が重いということになります」


――社会的地位が自由行動の妨げになることはありませんか。


「社会に属している以上、当然、それなりの制約はあるでしょう。神は公正であり、そうした条件も全て考慮に入れて裁かれますが、そうした制約に負けないだけの努力をしているか否かも神は見ておられます」


――人生での出来事にはいわゆる運命、つまりあらかじめ決められているものもあるのでしょうか。もしあるとすれば自由意志はどうなるのでしょうか。


「再生する際に自ら選択した試練以外には必然的な宿命(さだめ)というものはありません。試練を選択することによって、そのようになる環境へ誕生しますから、自然にそうなるのです。

もっとも私が言っているのは物的な出来事(事故など)のことです。精神的な試練や道徳的誘惑に関しては、霊は常に善悪の選択を迫られており、それに抵抗するか負けるかのどちらかです。その際、当人が躊躇しているのを見て背後霊がアドバイスをしてくれますが、当人の意志の強さの程度を超えて影響を及ぼすことはできません。

一方、低級なイタズラ霊が大げさな取り越し苦労の念を吹き込んで悩ませたり怖がらせたりすることもします。が、最後の選択権は当人にあります」


――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……


「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」


――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。


「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」


――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。


「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」


――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。


「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」


――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。


「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。

例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。

神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」


――例えば殺人を犯した場合、再生する時から殺人者になることを知っているのでしょうか。


「そうではありません。自分が選択した人生において殺人を犯しかねない事態が予想されていたかも知れません。が、その時点では殺人を犯すか犯さないかは分かっておりません。殺人を犯した者でも、その直前までは理性を働かせる余裕があったはずです。もしも殺人を犯すことに決まっているとしたら、自由意志による判断力を働かせることができないことになります。罪悪も、他のあらゆる行為と同じく、自由意志による判断力と決断力の結果です。

あなた方はとかく二種類のまったく異なるものを混同しがちです。すなわち物的生活での出来事と精神的生活での行為です。もし宿命性というものがあるとすれば、それは物的生活において、原因が本人の手の届かない、そして本人の意志と無関係の出来事にかぎられています。それとは対照的に、精神生活における行為は必ず本人から出ており、従って本人の自由意志による選択の余地があります。その種の行為に宿命性は絶対にありません」


――では“幸運の星の下に生まれる”とか“星回りの悪い時に生まれる”という表現はどこから生まれたのでしょうか。


「星と人間とを結びつける古い迷信から生まれたもので、愚かな人間が比喩的表現を文字通りに受け取っただけです」



Wednesday, September 20, 2023

シアトルの秋 人類が階段の一つに足を置きます。すると私たちは次の段でお待ちしています。

 Humanity puts its foot on one of the stairs. Then we will be waiting on the next step.

白樺の木にとまるアカゲラのイラスト素材 [69489449] - PIXTA さん

 

  私たちは施設はどうでもよいのです。関心の的は人間そのものです。魂と精神、そして両者を宿す殿堂としての身体───これが私たちの関心事です。人間も神の一部であるが故に永遠の霊的存在である───この単純にして深遠な真理に耳を傾ける人すべてに分け隔てなく手を差しのべんとしているのです。


実に単純な真理です。が、その意味するところはきわめて深長です。いったんこの真理の種子が心に宿れば、大いなる精神的革命をその人にもたらします。

 皆さんはよく、かつての偉大な革命家を鼓舞したのはいったい何であったかが分からないことが多いとおっしゃいます。しかし人間の思想を一変させるのは、何気なく耳にする言葉であることもあります。ほんのささやき程度のものであることもあります。

一冊の書物の中の一文であることもあります。新聞で読んだたった一行の記事である場合だってあります。私たちが求めているのも同じです。単純素朴なメッセージによって、教義でがんじがらめとなった精神を解放してあげ、自らの知性で物ごとを考え、人生のあらゆる側面に理性の光を当てるようになっていただくことです。

古くからの教えだから、伝来の慣習だからということだけで古いものを大切にしてはいけません。真理の宝石、いかなる詮索にも、いかなるテストにも、いかにしつこい調査にも耐えうる真理を求めなくてはなりません。

 私の説く真理を極めて当たり前のことと受け取る方がいらっしゃるでしょう。すでにたびたびお聞きになっておられるからです。が、驚天動地のこととして受け止める方もいらっしゃるでしょう。所詮さまざまな発達段階にある人類を相手にしていることですから当然のことです。

私の述べることがどうしても納得できない方がいらっしゃるでしょう。頭から否定する方もいらっしゃるでしょう。あなた方西洋人から野蛮人とみなされている人種の言っていることだということで一蹴される方もいらっしゃるでしょう。しかし真理は真理であるが故に真理であり続けます。

 あなた方にとって当り前となってしまったことが人類史上最大の革命的事実に思える人がいることを忘れてはなりません。人間は霊的な存在であり、神の分霊であり、永遠に神と繋がっている───私たち霊団が携えてくるメッセージはいつもこれだけの単純な事実です。

神とのつながりは絶対に切れることはありません。時には弱められ、時には強められたりすることはあっても、決して断絶することはありません。人間は向上もすれば堕落もします。神の如き人間になることもできれば動物的人間になることもできます。

自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし、何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っております。

 こうした真理は教会で朗唱するためにあるのではありません。日常生活において体現して行かなくてはなりません。飢餓、失業、病気、スラム等々、内に宿す神性を侮辱するような文明の恥辱を無くすことにつながらなくてはいけません。

 私たちのメッセージは全人類を念頭においております。いかなる進化の階梯にあっても、そのメッセージには人類が手に取り理解しそして吸収すべきものを十分に用意してあります。人類が階段の一つに足を置きます。すると私たちは次の段でお待ちしています。

人類がその段まで上がってくると、また次の段でお待ちします。こうして一段また一段と宿命の成就へ向けて登って行くのです」

 

シルバーバーチ

Tuesday, September 19, 2023

シアトルの初秋 再生の必要性

The need for regeneration
The Spirits' Book (New English Edition) (Translation Classical Spiritist Works)


――物質界での生活で完全性を達成できなかった魂は、その後、浄化のための試練をどのような方法で行うのでしょうか。


「新たな生活での試練を体験することによって行います」


――その新たな生活をどう生かすのでしょうか。霊として何らかの変身を遂げるのでしょうか。


「浄化するにはもちろん変身が伴います。しかしそれには物的生活での試練が必要です」


――となると魂は多くの物的生活を体験するということでしょうか。


「その通りです。あなた方も私も皆、それぞれに何回かの物的生活の経験があります」


――その説から推理しますと、魂は一つの身体を離れたあと別の身体をまとう――つまり新しい身体で再生するということになりますが、そう理解してよろしいでしょうか。


「まさにその通りです」


――再生の目的は何でしょうか。


「罪障消滅、人類の進歩・向上です。これなくしてどこに神の公正がありましょう」


――再生の回数には限りがあるのでしょうか、それとも永遠に再生を繰り返すのでしょうか。


「一回の再生ごとに霊は一歩向上します。それを重ねて不純なものを浄化しきれば、もう物的生活による試練は必要でなくなります」


――再生の回数はどの霊も同じなのでしょうか。


「一人一人違います。進歩の速い者は試練は少なくて済みます。とは言え、再生の回数は多いのが常です。進化の道は無限といっても良いほどですから」


――最後の物的生活を終えたあと、霊はどうなるのでしょうか。


「浄化され尽くした霊として、至福の境涯へと入ります」


――再生説の哲学的根拠は何でしょうか。


「神の公正、そして新たな真理の啓示です。前にも述べたことですが、我が子がいかなる過ちを犯そうと、愛情ある父親は、いつでも帰ってくるのを扉を開けて待つものです。そういう我が子に過ちの償いをする機会を与えずに、永遠に悦びを奪い続けることが公正でないことくらい、少し理性を働かせれば分かることではないでしょうか。人間は全て神の子ではなかったでしょうか。不公正、容赦ない憎悪、無慈悲な刑罰が横行しているのは、利己主義のはびこる人間界だけです」
〈地球外天体への生まれ変わり〉



――物的生活の体験は全てこの地球上で行うのでしょうか。


「全てというわけではありません。他の天体で行うことも少なくありません。今のあなたの地上生活は最初でもなく最後でもなく、最も物質的で、完全性から最も遠くかけ離れた世界での体験の一つです」


――魂は物的生活を、毎回、新しい天体で行うのでしょうか、それとも同じ天体で何回か体験するのでしょうか。


「十分な進歩が得られない場合は何度でも同じ天体で生活することになります」


――では、私たちは何度かこの地上へ生まれてくるかも知れないわけですか。


「もちろんです」


――その前に他の天体で生活して、それから再びこの地球へやってくることもできるのでしょうか。


「もちろんできます。あなたはすでに地球以外の天体で生活していらっしゃいます」


――再びこの地上へ戻ってくる必要があるでしょうか。


「ありません。ですが、もしも進歩がなければ、この地球と同等か、もっと低い天体へ行くことになるかも知れません」


――地上生活は(私にとって)もう一度戻ってくるほどのメリットがあるでしょうか。


「とくにメリットというほどのものはありません。もっとも、使命が十分に果たせていない場合に、その仕上げに戻ってくることはあるかも知れません。その場合は霊的な向上も得られます。それは地球だけに限りません。他のどの天体でも同じことです」


――いっそのこと再生せずに霊のままでいた方が良いのではないでしょうか。


「とんでもない! そんなことでは進歩が止まってしまいます。霊はひたすら進化向上を求めるのです」


――他の天体をいくつか体験したあと初めてこの地球へやってくることもあるのでしょうか。


「あります。今地上で生活している人でも次は別の天体へ行くかも知れません。宇宙の全ての天体は連帯関係によって結ばれています。一つの天体で成就できなかったことを他の天体で成就することができるようになっています」


――では今地上にいる人間の中には今回初めて地球へやってきた人もいるわけですね?


「大勢います。しかも、霊性の進化の程度もまちまちです」


――この人は今回が初めてだと分かる特徴がありますか。


「そんなことを知っても何の役にも立ちません」


――人類の究極の目的である完全性と至福の境涯に到達するためには宇宙に存在する天体の全ての生活を体験しなくてはならないのでしょうか。


「そんなことはありません。その天体の中には発達程度の同じものが沢山あって、そこでは新しい体験が得られないからです」


――ではなぜ同じ天体に何度も再生しなくてはならないのでしょうか。


「訪れる度に新たな環境に置かれ、新しい経験を見出すことになります」


――前回よりも発達程度の低い天体へ再生することもありますか。


「あります。進化を促進する意味も含めて一つの使命を持たされる場合があります。そういう場合は使命に伴う酷しい苦難を喜んで受け止めるものです。霊性の進化を促進してくれることを理解しているからです」


――それが罪滅ぼしの場合もあるのではないのでしょうか。また、言うことを聞かない霊が程度の低い天体へ送られることもあるのではないのでしょうか。


「霊は進化が止まることはあっても決して退化することはありません。言うことを聞かない霊は進化を止められるという形で罰を受けることがあり、また無駄に終わらせた物的生活を、その本性に合った条件のもとで、もう一度やり直しをさせられることがあります」


――もう一度やり直しをさせられるのはどういう霊の場合ですか。


「与えられた使命を怠った者、あるいは用意された試練に耐え切れずに安易な道を選んだ者などです」


訳注――ここでカルデックは何のコメントもしていないが、世間を見ても自分の心の中をのぞいてみても、こういうことは思い当たることが多いのではなかろうか。単純な例では自殺や一家心中が挙げられるが、宗教家や霊能者の中には功名心や金銭欲から良心がマヒし、取り巻き連中に担がれてとんでもない方向へ歩んでいる者が多いことは、ご存じであろう。要するに霊的真理、峻厳な摂理の理解が本物でないことに帰するようである。


――この地球から別の天体へ再生する場合、地上時代と同じ知性を携えて行くのでしょうか。


「当然です。知性は決して失われません。ただ問題は、別の天体へ再生した時のその知性の表現手段が同じでないかも知れないことです。それはその霊の進歩の程度と身にまとう身体の性質によって違ってきます」


――地球外の天体に住む者も我々と同じ身体を持っているのでしょうか。


「身体はあります。物質に働きかけるためには物質で身をくるまないといけないからです。しかし、その外衣は霊が成就した純粋さに応じて物質性の度合いが異なります。その度合いが再生していく天体の程度を決定づける要素となるのです。“我が父の家には住処(すみか)多し”とイエスが述べておりますが、それだけ霊格の差があるということでもあります。そのことを地上生活中から直観している人がいますが、まったく感じていない人もいます」


――地球外の天体の地質的および精神状態(霊性の程度)について細かい知識を得ることは許されるでしょうか。


「我々霊団としては人類の到達したレベルに応じた対応をするしかありません。言い変えれば、そうした知識をむやみに啓示することは許されていないということです。それが理解できるレベルに達していない者がいて、そういう者にとってはただ混乱させるだけだからです」


――一つの天体から別の天体へ再生するに際しては、霊はやはり幼児期を通過しなくてはならないのでしょうか。


「いかなる天体にあっても、幼児期は必然の通過過程です。ただし、同じ幼児期でも分別の程度にそれぞれの差があります。地球での幼児期ほど分別心の芽生えの遅い天体はそう多くはありません」


――再生する新しい天体は自分で選べるのでしょうか。


「必ずしも選べるとは限りません。要望を出すことはできますし、それが叶えられることもありますが、それはその霊にとって相応しい場合に限られます。その霊の霊性の発達の程度によっては相応しくない天体がいろいろとあるからです」


――本人から要望を出さない場合は、どの天体にするかを決める基準は何なのでしょうか。


「霊性の発達程度です」


――各天体上の生活者はいつの時代にも、身体的にも霊的にも一定のレベルの者ばかりなのでしょうか。


「そうではありません。そこに居住する者と同じく天体そのものも進化の法則に従っております。どの天体も最初は地球と同じ粗悪な状態から始まりました。地球もこれから先輩の天体と同じ変質を遂げることになっています。そしていつの日か居住者の全てが善性の強い霊性を身につけるようになれば、いわゆる地上天国が出現します」


――物的身体が浄化しきってペリスピリットだけになっている天体があるのでしょうか。


「あります。しかもそのペリスピリットもさらに精妙となって、人間の目には映じない、つまり存在しないかに思えるほどになります。完全に浄化しきった霊の状態です」


――今のお説から判断しますと、その程度の霊になると物的天体に降誕している霊と霊界の純粋霊との間に明確な境界線はないように思えますが……


「そういう境界線は存在しません。その差異は徐々に無くなっていき、ちょうど夜が次第に明けて昼になるように、一つにつながってしまいます」


――ペリスピリットの成分は全ての天体において同じでしょうか。


「同じではありません。精妙化の度合いが異なります。一つの天体から別の天体へと移動する時、霊は電光の速さで外衣(ペリスピリット)を更え、その天体に相応しい成分で身をくるみます」


――純粋霊は特別の天体に集まっているのでしょうか、それとも、どの天体ということなく、普遍的宇宙空間に存在するのでしょうか。


「純粋霊にも所属する天体はありますが、人間が地球にしばりつけられているような意味でその天体に所属しているのではありません。神速自在の動きを身につけていますから、事実上は遍在と同じです」
〈創造的輪廻転生〉



――霊は個的存在として創造された当初から霊的属性を存分に発揮できるのでしょうか。


「そういうものではありません。霊も人間と同じく幼児期というものがあります。その期間は本能による存在だけで、ほとんど自我意識も意識的行為もありません。知性の発達は実にわずかずつです」


――初めて物質界へ誕生した時の魂はどんな状態でしょうか。


「人間の人生でいう幼児期と同じです。知性はやっと目覚めはじめたばかりで、言うなれば“生活しようとし始めた”ばかりです」


――地上の未開人の魂はその幼児期の状態にあるのでしょうか。


「相対的な意味で幼児期にあると言えるでしょう。が、彼らはすでにある程度の発達を遂げております。その証拠に、彼らには感情があります」


――すると感情は発達のしるしなのでしょうか。


「発達のしるしです。ただし完成のしるしではありません。活動をしていることのしるしであり、“自分”というものを意識しているしるしです。ただ、他面においては原始的な魂です。知性と霊力は萌芽の状態で存在しているのみです」


――現在の地上生活を完ぺきに送ることによって途中の階梯を飛び越えて純粋霊の境涯に到達することは可能でしょうか。


「それはとても不可能なことです。あなた方が“完ぺき”という用語から想像しておられる概念は、真実の完ぺき性からは程遠いものだからです。人間には全く知られていない要素があるのです」


――少なくとも来世(次の地上生活)を現世よりは苦難の少ないものにすることは可能でしょうか。


「それは可能です。苦難の道を短くそして軽くすることはできます。いつまでも苦難から逃れられないのは向上の意志のない者に限られます」


――現世で到達した位置から低い位置に下がるということはありますか。


「社会的地位ならあるでしょう。霊としての進化の程度のことであれば、そういうことはありません」


――善性の高かった魂が悪党になって再生するということはありますか。


「ありません。善性は決して退化しません」


――逆に悪人が善人に生まれ変わることはありますか。


「それはあります。ただし、死後によほど改心した場合のことです。その悔恨の報いとして新しい再生生活が与えられます」


――いけないことと知りつつ悪の道を歩んでいる者が再生の事実を知って、どうせいつかは真っ当な人間になってみせるさと自己弁解することも有り得るのではないでしょうか。


「そんな狡(ずる)い計算のできるほどの人間になると、もはや何事も信じるということができなくなっています。かりに永遠の刑罰の話を聞かされても悪事は止めないでしょう。

確かに地上にはその種の人間がいます。が、そういう人間もイザ死んでみると考えが変わるものです。自分の計算の狡さに気づき、その反省が次の再生生活に反映して真っ当な人生を送ろうと心掛けるものです。こうして進歩が得られるのです。またこうして地上には進歩的な人とそうでない人とが出てくるのです。その原因は前世での体験にあります。が、誰しもいつかは体験します。進歩を促進するのも阻害するのも、みな“自分”です」


――物的生活の苦難を体験することによってのみ進化向上が得られるとなると、物的生活というのは一種の篩(ふるい)ないしは濾過器のようなもので、霊界の存在が完全の域に到達するためには必ず通過しなければならないものということになりますが……


「その通りです。物的生活の試練の中にありながら悪を忌(い)み善を志向することによって向上して行きます。しかし、それも一度や二度ではなく、幾回もの再生を繰り返すことによって可能なことであり、それに要する時の長さは、完全のゴールへ向けての努力の量によって長くもなれば短くもなります」
〈幼児の死後の運命〉



――幼くして他界した子供の霊でも大人の霊と同じくらい進化していることがあるのでしょうか。


「時には大人よりずっと進化していることがあります。前世が多く、それだけ経験も豊富な場合で、その間の進歩が著しい場合は特にそうです」


――すると父親よりも霊性の高い子供もいるわけですね?


「しばしばそういうケースがあります。世間を見ていてそういうケースをよく見かけませんか」


――幼くして他界して悪事を働くこともなかった霊は霊界の高い界層に所属するのでしょうか。


「悪事を働かなかったということは善行もしていないということです。神が、経験すべき試練を免除することは決してありません。霊が高い界層に所属するのは純真無垢な子供のまま霊界へ来たからではありません。幾つもの前世の体験でそれ相当の進化を遂げたからです」


――なぜ幼児の段階で人生に終止符を打たれることが多いのでしょうか。


「子供の観点からすれば、前世で中途で終わった人生をその短い期間で補完をするためである場合があります。親の観点からすれば我が子を失うことによる試練または罪滅ぼしである場合がよくあります」


――幼児期に他界した霊はどうなるのでしょうか。


「新しい生活を始めます」
〈霊の性別〉



――霊にも性別があるのでしょうか。


「人間の概念でいう性別はありません。人間の場合は肉体器官の違いを言います。霊の場合は愛と親和性で引かれ合いますが、その基盤として高尚な情緒が存在します」


――今生(こんじょう)では男性の身体に宿っていた霊が来世は女性として再生するということはありますか。


「あります。同じ霊が男性にもなり女性にもなります」


――これから再生していく霊としては男性と女性のどちらに生まれたいと思うのでしょうか。


「そういう選り好みは霊は無関心です。どちらになるかは、これから始まる新しい物的生活での試練に視点を置いて決められることです」
〈家族関係〉



――親は子に魂の一部を分け与えるのでしょうか、それとも動物的生命を与えるのみで、それに別の霊が宿るのでしょうか。


「両親から貰うのは動物的生命だけです。魂は分割できません。愚かな父親に賢い子が生まれ、その逆もあるのではありませんか」


――お互いに幾つかの前世があるとなると、家族関係は今生を超えたものも存在するわけですね?


「当然そうなります。物的生活が繰り返されていくうちに霊と霊との関係が複雑になり、初めて会った間柄のはずなのに、それが仲の良い関係や仲の悪い関係を生むことにもなります」


――再生説は霊どうしの関係を今生以前にまでさかのぼらせるから、折角の家族の絆をぶち壊すことになると受け取る人がいますが……。


「家族の絆をさかのぼらせることはあっても、ぶち壊すことにはなりません。むしろ今生の家族の家族関係は前世での縁の上に成り立っているのだという自覚が危機を救うことにすらなるのではないでしょうか。互いに愛し合うべきとの義務感を強くさせるはずです。なぜかと言えば、前世で愛し合った間柄、あるいは親子の間柄だった者が、今生では隣の家族の一人になっているかも知れない、あるいは自分の家のお手伝いさんとして働いているかも知れないからです」


――そうはおっしゃっても、やはり多くの人間が抱いている自分の先祖への誇りを減じることは否めないのではないでしょうか。純粋と思っていた血統の中に、かつては全く別の人種に属していた者や、あまり誇れない社会的地位にあった者がいたことになるからです。


「おっしゃることはよく分かります。ですが、今“誇り”とおっしゃったものは大体において“高慢”に根ざしているものです。その証拠に、誇りに思っているのは爵位であったり、身分階級であったり、財産であったりします。父親が謹厳篤実な靴職人であることを口にするのを憚る人が、得てして、放蕩者の貴族の末裔(まつえい)であることを自慢にするものです。しかし人間が何と言おうと、また何をしようと、全ては神の摂理にのっとって進行しているのです。人間の見栄から出た欲求に従って神が摂理を変えるわけにはいかないのです」


――同じ家系の子孫に次々と生まれてくる霊どうしの間に必ずしも家族関係はないとなると、立派な先祖がいたことを誇りに思うのは愚かということになるのでしょうか。


「とんでもない。高級霊が降誕したことのある家系に属することになったことを誇りに思うべきです。もちろん霊は順序よく再生してくるわけではありませんが、家族の絆で結ばれた霊どうしの愛は、離れていても同じです。そしてそうした愛の親和力によって、あるいは幾つかの前世で培われた人間関係による親和力によって、どこそこの家族に、と申し合わせて再生してくることもあります。

念のために申し添えますが、先祖の霊たちは、自分たちのことを自慢のタネにして誇ってくれても少しも嬉しくは思いません。かつて彼らがいかに立派な功績を残したとしても、その功績自体は子孫にとっては徳行への励みとなる以上の意義はないのです。と言うよりは、それを見習うことによってこそ先祖の霊を喜ばせ、徳行に意義を持たせることになるのです」
〈容貌と性格の類似〉



――子供が親にそっくりということがよくありますが、性格上でも似るということがあるのでしょうか。


「そういうことはありません。それぞれに魂ないし霊が異なるからです。身体は親の身体から受けますが、霊は他のいかなる霊からも受けません。一つの人種の子孫のつながりは血縁関係しかありません」


――性格的にもそっくりという親子を時おり見かけますが、その原因は何でしょうか。


「霊的親和力の影響で似たような情緒や性向をもった者が同じ家族として一緒になることがあります」


――では、誕生後の親の霊的影響はないということでしょうか。


「大いにあります。すでに申し上げた通り霊は互いの進化向上のために影響し合うようになっています。その目的で親の霊に子の霊の成長を委託することがあります。この場合はそれが親としての使命であり、それが達成されないと罪悪となることさえあります」


――善良で徳の高い親に歪んだ性格の子供ができることがありますが、さきほどおっしゃったように親和力で善良な霊が引き寄せられそうなものですが、なぜそうならないのでしょうか。


「邪悪な霊が、徳の高い親のもとで更生したいという希望が受け入れられて誕生してくることがあります。その親の愛と心遣いによって良い影響を受けさせるために、神が徳の高い親にあずけることがよくあります」


――親は、心掛けと祈願によって、善良な子を授かることができるでしょうか。


「それはできません。しかし、授かった子の霊性を高めることはできます。それが親としての義務なのです。が、同時に親自身の試練のために霊性の低い子を授かることもあります」


――子供どうし、とくに双子の性格がそっくりの場合があるのは何が原因でしょうか。


「性格の類似性から生まれる親和力によって同じ家に生まれ合わせたのです。そういう場合はいっしょに再生できてうれしいはずです」


――身体の一部がつながっている双子、しかも器官のどれかを共有し合っている双子の場合でも二人の霊なのでしょうか。


「そうです。あまりによく似ているので一人の霊しか宿っていないように思えるでしょうけど……」


――親和力で引かれ合って生まれてくるのであれば、双子の中には憎み合いをするほどのものがあるのはなぜでしょうか。


「双子として生まれてくるのは親和力の強い者だけという法則があるわけではありません。邪悪な霊どうしが物質界を舞台として争いをしたいという欲求から生まれてくる者もいます」


――母胎の子宮の中にいる時からケンカをしているという話は本当でしょうか。


「憎しみの深さ、しつこさを象徴的に表現しているまでです。あなた方は象徴的ないし詩的な表現の理解が少し足りませんね」


――一つの民族に見られる明確な特徴はどこから出るのでしょうか。


「霊には、性向の類似性によって形成された霊的家族(類魂)があります。それにも霊性の浄化の程度によって上下の差がありますが、民族というのはそうした親和力で結ばれた家族の集合体であると思えばよろしい。それらの家族が一体となろうとする傾向が、各民族の明確な特徴を生み出すのです。善良で慈悲に富んだ霊が粗野で野蛮な民族に再生したいと思うでしょうか。思わないはずです。個人どうしで働く親和力は民族という集合体でも働きます。霊も、地上の人類の中でも最も霊的に調和する地域へ赴くものです」


――再生してくる霊は前世での性格の面影を残しているものでしょうか。


「残していることがあるかも知れませんが、成長するにつれて変化します。幾つも再生すれば社会的地位もいろいろと体験していることでしょう。たとえば大邸宅の主人だったこともあれば召し使いだったこともあるでしょう。するとその好みも大いに異なっていて、かりに両者を一度に見たら同一人物とは思えないほどでしょう。もちろん霊そのものは同一人物ですから、何度再生してもどこかに類似点は残っているかも知れません。しかしそれも、再生した国や家柄その他の諸条件の影響を受けてどんどん変わっていきます。そして遂には性格的にすっかり別人になっていきます。たとえば高慢で残忍だった者が悔恨と努力によって謙虚で人間味のある性格の持ち主になっていきます」


――前世での身体上の特徴の痕跡はどうでしょうか。


「身体は滅びます。従って新しい身体は前世での身体とは何の関係もないはずです。ところが霊性がその身体に反映します。そして身体は物質にすぎないとはいえ、霊性の特徴が身体に反映し、それが顔、とくに目に出ます。目は心の窓とは至言です。つまり目を中心とした人相が、身体の他のどの部分よりも霊性を強烈に反映します。形の上のハンサムとか美形とかの意味ではありません。かりに形は悪くても、それに善良で賢明で人間味のある霊が宿れば、見る人に好感を与えます。逆にいくら美形でも宿っている霊しだいでは不快感、時には反発心すら起こさせる人もいます。

一見すると五体満足の身体には円満な霊が宿っているかに思われがちですが、障害のある身体をした人で高潔で徳の高い人なら毎日のように見かけるはずです。そんなわけですから、かりに形の上では前世と今生とでは少しも似たところはなくても、同じ霊が何回も再生するうちに俗に言う“親族間の似寄り”を身体に与えるものです」
〈生得観念〉



――再生した霊は前世で知覚したことや入手した知識の記憶を留めているものでしょうか。


「うっすらとした記憶の形で残っています。それが俗にいう“生得観念”です」


――すると生得観念と呼ばれているものは実際にあるもので、幻想ではないのですね?


「幻想ではありません。物的生活で獲得した知識は決して失われません。物的生活を終えて物質から解放されると、それまでの何回かの生活の記憶が蘇ります。物的身体に宿っている間は具体的には回想されませんが、潜在的な直観力がそのエキスを感識して、霊的進歩を促進します。もしその直観力が無ければ、物質界へ誕生するたびに一から教育をやり直さなくてはなりません。その直観力のお蔭で霊は、次の物的生活を、前世が終わった時点で到達していた発達段階から開始するのです」


――そうなると、前世と現世との間には密接な関係があることになりますね?


「あなたが想像しているような意味での密接な関係はありません。というのは、二つの物的生活の間には生活環境の条件に大きな違いがあり、さらに忘れてならないのは、再生するまでの霊界での期間で大きく進歩することがあるからでもあります」


――予備的な学習もしないのに、たとえば言語とか数学、音楽などで驚異的な才能を見せる人がいますが、何が原因でしょうか。


「今言った過去世の記憶です。かつてそういう才能を磨いていたもので、現在は意識的な記憶がないだけです。もしそうでなかったら一体どこからそういう才覚が出ますか。身体は代わっても霊は同一人物ということです。衣服を着更えただけです」


――その衣替えの時に知的才能、たとえば芸術的センスなどを失うことがありますか。


「あります。その才能に泥を塗るようなことをする――つまり邪(よこしま)なことに使ってしまったりした場合です。これは罰ですが、それとは別に、才能を失うのではなく、今生では別の才能を伸ばすためにそれをしばらく潜在的に眠らせておく場合があります。この場合はまたいつか使用することができます」


――人類に共通して見られるもので原始的生活を送っている者にも見られる、神への信仰心と死後の存続の直観も、やはり遡及的回想の反応でしょうか。


「そうです。再生する前の霊としての知識の回想です。ですが、人間は往々にして自惚れによってその直観をもみ消しております」


――スピリチュアリズムで説かれている霊的真理と同じものが、いずこの民族にも見られますが、これも前世の回想でしょうか。


「こうした霊的真理は地球の歴史と同じくらい古くからあったもので、それが世界中のいたるところで発見されるのは当然のことです。いわゆる遍在で、真理であることの証拠です。再生してきた霊は、霊としての存在の時の直観力を保持していて、見えざる世界の存在を直観的に意識しているのです。ただその直観力が往々にして偏見によって歪められ、無知から生じた迷信とごっちゃになって質を落として行くのです」

Sunday, September 17, 2023

シアトルの初秋 霊界への帰還

 Return to the spirit world

The Spirits' Book (New English Edition) (Translation Classical Spiritist Works)



〈死後の魂〉



――死の瞬間、魂はどうなるのでしょうか。


「再び霊に戻ります。つまり霊の世界へ帰るわけです。ホンの少しの間だけ留守にしていたのです」


――その魂は死後も個性をそなえているのでしょうか。


「もちろんです。個性は決して失われません。もし個性を失ったら魂はどうなりますか」


――物的身体がないのに、なぜ個的存在としての意識が残っているのでしょうか。


「その霊特有の流動体(※霊体)が残っています。その天体の大気中から摂取したものです。それに、それまでの物的生活での魂の特徴が全て刻み込まれています。あなたのおっしゃるペリスピリットです」


――魂はそれ以外には地上生活から何も持っていかないのですか。


「地上生活の記憶と、より良い世界への憧れのみです。その記憶には地上生活をどう生きたかによって、楽しさか辛さのどちらかがいっぱい詰まっています」


――魂は、死後、普遍的な魂の集合体の中に戻っていくという説はどう理解すればよいでしょうか。


「個々の霊が集まって全体を構成するわけですから、集合体に戻ると表現してもよいのではないでしょうか。あなたも集合体に戻ればその不可欠の一部となるわけです。ただ、個性は維持しています」


――死後の個性存続の証拠はどうすれば得られるのでしょうか。


「今こうして交信している事実が何よりの証拠ではないでしょうか。あなたにもし霊視力があれば霊の姿が見えるはずです。霊聴力があれば霊の声が聞こえるはずです。一日のうち何度もあなたと別個の人格があなたに話しかけているのですよ」


――永遠の生命というものをどう理解すべきでしょうか。


「永遠なるものは霊の生命だけです。肉体は束の間の儚(はかない)い存在です。肉体が死滅することによって魂は再び永遠の生命に戻るわけです」


――私が思うに、永遠の生命という用語は浄化しきった霊、つまり相対的な意味での完全の段階にまで到達して、もはや苦難による試練を必要としなくなった霊に当てはめるべきではないでしょうか。


「その段階の生命はむしろ“永遠の至福”の境涯と呼ぶ方が良いでしょう。ですがそれはあくまでも用語の問題です。あなた方の間で意味の解釈で合意ができていれば、何と呼ばれても結構です」
〈魂と肉体の分離〉



――魂が肉体から分離する時は苦痛を伴いますか。


「苦痛はありません。死の瞬間よりも、むしろ死に至るまでの人生の方が遥かに苦痛を伴います。死に際して魂自身は肉体に生じている変化を意識しないものです。それどころか、言うなれば“国外追放の刑期”を終える時がいよいよ近づいたことを自覚して、魂自身は嬉しさでわくわくしていることがよくあります」


――分離の現象はどのようにして行われるのでしょうか。


「魂をつなぎ止めていた絆(玉の緒(シルバーコード))が切れ、肉体から離れて行きます」


訳注――ここに掲げた写真はカルデックが一八五〇年に創刊した『心霊評論』La Review Spirite紙上で紹介されたもので、それが訳者が購読中だった米国の心霊月刊誌CHIMES(チャイムズ)に掲載された(現在は廃刊)。解説文によるとフランス北東部のアルザスに住む老婦人が他界して納棺される直前に、娘が写真を撮りたいと言うので、弔問に訪れていた高等学校の校長が代わりに撮ってあげた。十二枚のフィルムのうち四枚だけ残っていたので四枚撮った。最初の一枚は露光は一秒だったが、部屋の明かりが弱すぎるので、二枚目は十二秒、三枚目は十五秒、四枚目は二十秒にした。焼き付けてみると一枚目は老婦人の普通の写真が写っていたが、残り三枚には見事なシルバーコードの映像が写っていた。 玉の緒(通夜における写真)
(露光12秒) (露光15秒) (露光20秒)


――それは突然、そして一瞬の間に行われるのでしょうか。生と死とを分ける明確な線があるのでしょうか。


「いえ、魂は少しずつ分離します。カゴが開けられて小鳥がぱっと飛んで出て行くような調子で、霊が肉体から急に去って行くのではありません。生と死との境を行ったり来たりしながら、霊は少しずつ肉体との絆を緩めていきます。一気に切断するのではありません」


――有機体としての生命が停止するより先に霊と肉体とが完全に分離することも有り得ますか。


「肉体の断末魔が始まる前に霊が去っているということが時おりあります。断末魔は有機体としての生命の終末の反応にすぎません。本人にはもはや意識はないのですが、わずかながら生命力が残っています。しょせん肉体は心臓の働きによって動く機械です。血液が巡っているから生き続けているだけで、魂はもう存在する必要はありません」


――死の現象の最中に霊がこれから帰って行く霊の世界を垣間見ることはありますか。


「霊は、肉体につなぎ止められてきた絆が緩んでいくのを感じると、その分離現象を促進して一刻も早く完了させようとするものです。その際、すでに物的束縛から幾分か脱していますから、これから入って行く霊的世界が眼前に広がり、それを楽しく眺めていることがあります」


――いよいよ分離して霊界での意識を取り戻した時の感じはどんなものでしょうか。


「各自の事情によって異なります。悪いことばかりしてきた者は、その悪事の場面を見せつけられて恥じ入るでしょうし、善行に励んできた者は肩の荷を下ろしたような、晴れやかな気分がすることでしょう。どんなに厳しい目で見られても恥じ入るところは何一つ無いのですから」


――地上時代の知り合いで先に他界した人たちと再会できるでしょうか。


「できます。ただ、愛情関係の度合いによって直ぐに会える人と、なかなか会えない人とがいます。霊界への帰還を察知して出迎えてくれ、物質との絆を解くのを手伝ってくれる人もいます。前世で知り合いだったのに、あなたが地上へ行ってしまったのでその間会えなかった人が出迎えてくれることもあります。霊界に帰りながら今なお迷っている者にも会えますし、地上に残した者のところへ行ってみることもあります」
〈死後の意識の混乱〉



――事故死のように、老齢や病気による衰弱が伴わない死の場合、魂の分離は肉体的生命の死と同時に発生するのでしょうか。


「大体においてそうです。そうでないケースも無きにしもあらずですが、いずれにしても肉体の死から魂の分離までの時間はそう長くはありません」


――例えば斬首された場合、意識はそのまま残っているのでしょうか。


「少しの間残っているケースがしばしばあります。が、それよりも、死の恐怖のために刑の執行直前に意識を失っているケースがよくあります」


編者注――ここでいう“意識”は肉体器官を通じての意識のことである。その意識の途絶えは必ずしも肉体からの魂の分離を意味しない。肉体が元気なうちの突然の死においてはペリスピリットがしっかりしているために、魂の分離に時間が掛かるようである。


――肉体から分離した魂は直ちに霊としての自我意識を持つのでしょうか。


「直ちにではありません。しばらくの間意識が混乱し、感覚が鈍い状態が続きます」


――それはどんな霊でも同じですか。


「いえ、霊性の発達程度によって違います。霊的浄化がある一定レベルまで達している霊は、すでに地上生活中に物的束縛から脱していますから、直ちに意識を取り戻します。一方、物的波動にどっぷりと浸っていた者や道義心が鈍い者は、いつまでも物的波動から抜け出られません」


――霊的真理を知っているということは死後の目覚めに影響がありますか。


「大いにあります。これから置かれる自分の新しい環境についてあらかじめ理解ができていることになるからです。しかし、やはり何よりも大切なのは実直な日常生活と道義への忠実さです」



Saturday, September 16, 2023

シアトルの初秋 そのすべてがあなたの無限なる根源的摂理によって規制され支配されていると説きます。

  I preach that all of this is regulated and controlled by your infinite fundamental providence.

シルバー・バーチの霊訓 新装版 10の通販/パム・リーバ/近藤 千雄 - 紙の本:honto本の通販ストア
 

神とは  

 ある日、交霊会が始まる前に、メンバーの間でキリスト教についての議論があり、その中でキリスト教の牧師には神とは何かの説明が出来る人がいないことが指摘された。やがて出現したシルバーバーチは冒頭の祈りの中で神の説明をした。それは明らかにメンバーの議論を踏まえたものだった。

(訳者注ーシルバーバーチは冒頭の祈り Invocation と終結の祈り Benediction とがある。前者は会の成功のための神の御加護を求めるものであり、後者は感謝と讃仰の祈りである)

 「神よ、あなたは一体どなたに御(おわ)し、いかなるお方に御すのでしょうか。いかなる属性をお具えなのでしょうか。
 
 私たち(霊界の者)はあなたを完璧なる摂理の働きであると説いております。たとえば宇宙に目を向けさせ、その構想の完璧さ、その組織の完璧さ、その経綸の完璧さを指摘いたします。そしてその完璧な宇宙の姿こそあなたの御業の鑑であり、あなたこそ宇宙の全生命を創造し給いし無限の心であると説いております。
 
 私たちには自然界の一つ一つの相、一つ一つの生命、一つ一つの草花、一つ一つのせせらぎ、小川、海、大洋、一つ一つの丘そして山、一つ一つの恒星と惑星、一つ一つの動物、一人一人の人間の目に向けさせ、そのすべてがあなたの無限なる根源的摂理によって規制され支配されていると説きます。

 私たちは宇宙間のすべての現象がその根源的摂理から派生したさまざまな次元での一連の法則によって支配され、かくしてその働きの完璧性が保たれているのであると認識している者でございます。

そのあなたには特別の寵愛者など一人もいないことを信じます。不偏不党であられると信じます。あなたのことを独裁者的で嫉妬心を持つ残忍なる暴君のごとく画いてきたこれまでの概念は誤りであると信じます。なぜなら、そのような人間的属性は無限なる神の概念にそぐわぬからでございます。

 これまで私たちは地上とは別個の世界においても同じあなたの摂理の働きを見出し、そしてそれがいついかなる時も寸分の狂いもないことを確認したが故にこそ、その摂理とそれを生み出された心に満腔の敬意を捧げ、その働きのすべて───物的、精神的、そして霊的な働きのすべてを説き明かさんと努めております。

なかんずく霊的なものを最も重要なものとして説くものです。なぜなら、すべての実在、すべての生命の根源は霊的世界にあるからでございます。

 あなたの子等のすべてかあなたの摂理を理解し、その摂理に従って生活を営むようになれば、すべての悲劇、すべての暗黒、すべての苦悩、すべての残虐行為、すべての憎悪、すべての戦争、すべての流血行為が地上から駆逐され、人間は平和と親善と愛の中で暮らすことになるものと信じます。

 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを──無意味な文句の繰り返しでなく、真理と叡知と光と理解力と寛容の心を広げる手段(人間)を一人でも多く見出したいとの願いとして──捧げ奉ります」 


 この祈りの後、シルバーバーチみずからその内容について次のように説明した。

 「この祈りには宇宙についての、地上の人間に理解できるかぎりの理性的かつ合理的説明が含まれております。人類が暗闇の生活を余儀なくさせられているのは、一方にはみずから真理に対して目を閉じたがる者が多く、また一方には既得の特権を死守せんとする者が多いからです。

すべての戦争は人間が摂理に背いた生き方をすること──一個の人間、一つの団体、一つの国家が誤った思想から、貪欲から、あるいは権勢欲から、支配欲から、神の摂理を無視した行為に出ることから生じるのです。直接の原因が何であれ、全ては宇宙の霊的法則についての無知に帰着します。

すべての者が霊的知識を具えた世界に独裁的支配はあり得ません。一人の人間が一国を支配することが不可能な組織となるからです。すべての者が霊的知識を具えた世界に流血はあり得ません。争いの起こり得ない体制となるからです。

 われわれの仕事はその霊的知識を広めることです。真実の意味での伝道者なのです。伝道の意味が今日の世の中では歪められてしまいましたが、真実の意味は真理または知識を広めることです。私たち霊団は今あなた方の世界で仕事をしておりますが、本来は別の世界の者です。

あなた方よりは一歩、二歩、もしかしたら、三歩ほど先を歩んでいるかも知れません。これまで幾つかの大自然の摂理を学んできました。そうして知ったことは、この世に奇跡は無く、神の特別の寵愛者もなく、選ばれし民もなく、唯一の神の子もいないということです。あるのはただ法則のみだということです。

 宇宙がいかに巨大にして荘厳であるとは言え、全てが絶対的法則によって支配されていることを知ったからこそ、こうしてその法則をお教えしようと努力しているわけです。

その法則とは、原因には必ずそれ相当の結果が伴うということです。自分が蒔いたタネは自分で刈り取るということです。所詮はごまかすことができない──なぜなら自分の言動がその性格と成長具合に消そうにも消せない印象を刻み込むからです。こうした真理を土台として真の宗教を築かねばなりません。

大主教の宮殿で何を説こうと、大聖堂で何を説こうと、寺院、教会堂、礼拝堂、その他、世界中いかなるところで何を説こうと、それが今述べた単純な基本的真理と矛盾したものであれば、それは誤りです。極めて簡単な真理なのです。

人生を霊的摂理が支配していること、お互いが扶けあうことが一ばん大切であること、それが霊を成長させ、性格を形成し、死後に待ち受ける新しい生活に霊的な備えを与えることになる───ただそれだけなのです。

Wednesday, September 13, 2023

シアトルの初秋 霊の力とはどんなものでしょうか。

What is spiritual power?

シラカンバ - 都道府県の木、花、鳥。

 
 ───霊の力とはどんなものでしょうか。
 

 「人間によって認識されている如何なるものさしにもかからないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色も容積も味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば霊力というものは存在しないことになります。

つまり実在とは人間のお粗末な五つの感覚で捉えられるものと決めてかかっている唯物的自然科学者にとっては、霊力は存在しないことになります。しかし愛は目に見えず耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。

それは深い愛の感動を体験した者が証言してくれます。確かに愛の力は強烈です。しかし霊の力はそれよりも無限大に強烈です。

 あなたが生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いめぐらすのも霊の力があればこそです。

物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも霊の力があればこそです。あなた方の行動の全て、あなた方の存在の全ては霊の力のおかげです。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって存在と目的と指針と生活を与えられているのです。物質界のどこを探しても意識の秘密は見つかりません。

科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質その物の中には存在しないからです。物質はそれが一時的に借りている宿に過ぎません。

 霊の力はあなた方が神と呼んでいるものそのものなのです。最も〝神〟というものを正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊力が曽て火の固まりであったものに今日見るがごとき生命を吹き込んだのです。その霊が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。魂がまとう衣服です。

地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の生長まで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが霊の力です。

 それが強大であるゆえんは、物質界に限られていないことにあります。すなわち無数の物的現象を通じて絶え間なく働いているだけでなく、見えざる世界の霊的活動のすべて、今のあなた方には到底その存在を知ることのできない幾重にもつながった高い界層、そしてそこで展開するこれ又あなた方の想像を絶した光輝あふれる生命現象までも、その霊力が支配しているのです。

しかし、いかに強大であっても、あるいは又いかにその活動が驚異的であるといっても、それにも制約があります。すなわち、それが顕現するにはそれに適した器、道具、媒体、通路、霊媒───どうお呼びになっても構いません───そうしたものが無ければならないということです。

壮大な霊の流れも、そうしたものによる制約を受けるのです。地上にどの程度のものが流れ込むかは人間側が決定づけるということです。

 私がいつも、心配の念を追い払いなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい、神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。

地上的な力はいつかは衰え、朽ちます。人間が築く王国は儚いものです。今日は高い地位にいても明日は転落するかも知れません。しかし霊の王国はけっして滅びることはありません。霊の尊厳は不変です。神の力はけっして衰えません。しかしその働きの程度を決定づけるのはあなた方であり、現に決定づけております。

 スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界の方からこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際にはそう言う人ほど、霊界からそうしてあげるための条件を整えてくれないものです。

この苦境に満ちた世界、暗闇と不安におおわれた世界にあって、どうか皆さんは灯台の光となっていただきたい。

あなた方の自信に満ちた生きざまを見て人々が近づき、苦悩のさなかにおける憩いの場、聖域、波静かな港を発見することができるようにしてあげていただきたい。皆さんはそういう人たちの心の嵐を鎮め、魂に静寂を取り戻してあげる霊力をお持ちになっています」

シルバーバーチ


Tuesday, September 12, 2023

シアトルの初秋 霊の起源と本性

 Origin and nature of spirits

The Spirits' Book (New English Edition) (Translation Classical Spiritist Works)

 ――霊とは何でしょうか。


「霊とは“創造物の中の知的存在”と定義できます。宇宙の顕幽両界に生息する知的存在で、物質界の物的諸形態と対照をなしています」


編者注――ここに言う霊とは個性をそなえた個的存在としての霊のことで、普遍的要素としての霊ではない。


――霊は神とは別個の存在でしょうか、それとも神の一部ないしは放射物で、その意味で“神の子”なのでしょうか。


「霊は神の作品です。機械が製作者の作品であるのと同じです。その機械は製作者のものですが、製作者そのものではありません。あなた方が素敵な物をこしらえた時、“これは我が子のようなものです”という表現をします。神との関係も同じです。その意味において我々は全て神の子です。神の造り給うたものだからです」


――霊には始まりがあるのでしょうか、それとも神と同じく永遠の過去から存在し続けているのでしょうか。


「もしも始まりが無いとしたら、霊は神と同等ということになります。が、霊は今も述べた通り神の創造物であり、神の意思(摂理)の支配下にあります。神が無始無終の存在であることに議論の余地はありません。が、その神がいつ我々を造り給うたかについては、我々も知りません。

神は無始無終の存在であるがゆえに絶え間なく創造し続けているに相違ないという意味においては、我々にも始まりはないと言えるかも知れません。しかし、繰り返しますが、我々一人一人がいつ創造されたかは誰にも分かりません。大いなる謎です」


――宇宙には知的要素と物的要素の二種がある以上、霊は物体が物的要素からこしらえられたように、知的要素からこしらえられたと考えてよろしいでしょうか。


「そういう理屈になることは明らかです。物体が物的要素の個別化によって生じたように、霊は霊的要素の個別化によって生じています。ただ、それがいつどのようにして為されたかは、我々にも不明だと申し上げているのです」


――霊の創造は常に行われているのでしょうか、それとも時間の始まりと同時に行われ、それきり行われていないのでしょうか。


「常に行われています。言い変えれば、神は創造活動をお止めになったことはありません」


――霊は非物質的存在であるという表現は正しいでしょうか。


「地上に比較すべきものもなく、言語で表現することもできないものを、どうして定義づけられましょう? 見たこともないものが定義できますか。“非物質的”というのは適切ではありません。“固定的形態がない”という表現の方がまだ少しは真実に近いでしょう。霊も創造されたものである以上は実体のある何ものかであるはずです。言わば生命のエキスです。が、それは人間の理解力の範囲内では表現できない状態で存在しており、あまりの霊妙さゆえに、人間の五感では感得できません」


――霊の存在にも終わりがあるのでしょうか。その始源である普遍的要素は永遠であっても、そこから出た個々の霊は、肉体が大自然に還るように、遅かれ早かれ、いつかは普遍的要素へ還っていくのではないでしょうか。始まりがあるものに終わりがないというのは理解し難いのです。


「人間に理解できないことは沢山あります。知性に限りがあるからです。しかし、だからといって“おかしい”と決めつける理由にはなりません。父親が知っていることの全てが子供に理解できるでしょうか。霊の存在に終わりはない――その問題について申し上げられるのは、現段階ではそれだけです」
〈根源界〉



――霊の世界は我々人間の目に映じている世界とは別個の存在なのでしょうか。


「そうです。霊の世界、ないしは固定的形態のない世界を構成しています」


――宇宙の秩序の点からみて、そちらとこちらの、どっちが主要なのでしょうか。


「霊の世界です。他の何よりも先に存在しており、物的なものが全て消滅した後にも存在し続けます」


――霊の世界は、物的世界が存在しようが消滅しようが、その本質には変わりないのでしょうか。


「変わりません。二つの世界はそれぞれに独立した存在です。それでいて、なおかつ、互いに絶え間なく関係し合っております。反応し合うのです」


――霊は宇宙空間にあって一定の枠に囲まれた範囲を占めているのでしょうか。


「霊はどこにでも存在します。無辺の宇宙に無数の霊が充満しております。気がつかないでしょうが、あなた方の周りに絶え間なく存在して、あなた方の行動を観察し、また働きかけております。霊は大自然のエネルギーの一種であり、神が定めた計画の推進のための道具なのです。しかし、霊だからといってどこへでも行けるわけではありません。霊性の低い者には“禁制”となっている地域があります」
〈霊の形態と動きと遍在〉



――霊にははっきりとした、縁(ふち)のある、一定の形があるのでしょうか。


「人間の肉眼で見るかぎり、そういうものはありません。が、我々にとってはちゃんとした形態があります。もっとも、人間の目には炎とか輝きとか微妙な火花にしか見えないでしょう」


――それには色彩がありますか。


「もし霊視力があれば、ぼんやりとしたグレーからきらびやかなルビー色まで、いろいろに見えるでしょう。その人の霊性の程度によって違います」


――霊が移動するのに時間を要しますか。


「時間を要するかと言われれば要しますが、その速さは思念と同じです」


――思念は霊そのものの動きでしょうか。つまり霊がその場所まで運ばれるのでしょうか、それとも霊によって思考された想念体でしょうか。


「思念のあるところには霊が存在します。思念を発するのは霊だからです。思念は霊の属性です」


――霊が一つの場所から別の場所へ移動する時、通過する途中の距離と空間を意識しますか、それとも行きたいと思った瞬間に着いているのでしょうか。


「どちらのケースもあります。じっくりと途中の距離を意識したいと思えば意識できますし、距離の意識を完全に消すこともできます。霊の意志と霊格の程度によります」


――物質は霊の動きの障害になりませんか。


「なりません。霊はあらゆるものを貫通します。空気・地面・水・火、何でも貫きます」


――霊は遍在することが可能でしょうか。つまり、自分自身を分割したり、一度に複数の場所に姿を見せることができるでしょうか。


「霊そのものを分割することはできません。が、霊は思念を発する中枢で、全方位に自我を放射することができますから、同時に数か所に姿を見せることはできます。太陽は一つですが、全方位に光を放射し、大変な距離にまで及びます。が、太陽そのものが分割されるわけではありません」


――その放射の能力はどの霊も同じですか。


「大変な違いがあります。霊性の発達程度によって違います」
〈ペリスピリット〉



――霊には外部を被うものはないのでしょうか。何らかの“もの”で包まれているのでしょうか。


「強いて地上の譬えで言えば水蒸気のようなもので包まれていますが、我々自身にとってはしっかりとした外被です。しっかりとしていても大気中を何の抵抗もなく動けますし、宇宙空間を神速自在に移動できます」


訳注――植物の胚を包む外胚乳をペリスパームperispermということからカルデックは、スピリットを包むものという意味でperispirit(periは周囲を意味する接頭語)という用語をこしらえている。

この後の通信内容から察するに、霊界の各界層ごとにその波動に似合ったペリスピリットがあって、界層が高くなるほどその質が精妙化していくという。


――そのペリスピリットはどこから摂取するのでしょうか。


「所属する天体の普遍的流動体から取り寄せます。各天体によってペリスピリットの質が異なります。それゆえ天体を移動する時は、衣服を着更えるようにペリスピリットを取り替えます」


――すると地球圏より波動の高い世界から下降して地球圏内で仕事をする場合は、鈍重なペリスピリットをまとうわけですか。


「その通りです。地球圏へ入るには地上的波動の物質で身をくるむ必要があります」


――それは形を装うことができるのでしょうか。また人間の五感に感応するようにもなりますか。


「それは可能です。霊の思いどおりに形を装うことができます。夢の中、あるいは覚醒中でも、霊姿を見せることができるのはそのためです。手で触れることができるほどにもなります」
〈霊の格付け〉



――霊は全て平等なのでしょうか、それとも霊格の差による階級があるのでしょうか。


「その時までに到達した霊性の進化の程度に従って階級ができています」


――その階級には決まった数があるのでしょうか。


「数は無限です。霊性の進化の程度に境界や区分けは存在しません。ということは霊には一定の、あるいは恣意的な区分け法は通用しないということですから、どこに視点を置くかによって、さまざまな分け方もできる理屈になります。しかしながら、霊の性格を総合的に観察すると、大きく三つの基本的な階級ないし段階に集約できるようです。

まず最高級界が“純粋霊”とでも呼ぶべき、完成の域――といっても相対的な意味においてのことですが――に到達した霊です。

二番目の階級が進化の階梯の中間に位置する霊で、霊性の浄化が唯一の願望となり、一途に進化向上を目標としている霊です。

そして三番目つまり最低界層には向上の観念の乏しい霊、および完全からは程遠い霊がいます。その特徴を挙げれば、無知で、邪悪性を好み、向上を妨げる低級感情の全てを秘めております」


――二番目のランクの霊は完全への願望を抱いているだけで、それを達成する力量はそなわっていないのでしょうか。


「それぞれに達成した純粋性の度合いに応じてその力量をそなえております。ある者は科学的知識に優れ、ある者は叡知に優れ、またある者は憐憫(れんびん)の情に長けています。しかし、一様に言えることは、まだまだ誘惑と苦難による試練を必要とするということです」


――最下層の霊は全て邪悪なのでしょうか。


「そういうわけではありません。善いこともしなければ悪いこともしない、無気力で、どっちつかずの生き方をしている者もいれば、邪悪性を好み、悪事を働く機会を見つけると喜ぶという者もいます。さらには軽薄で、愚かで、気まぐれで、邪悪というよりはイタズラ好きで、積極的な敵意に満ちているわけではないが、狡猾で油断がならないといった者、働きかけやすい人間に付きまとって誇大妄想を抱かせては愉快がっている者、気晴らしに下らぬ取り越し苦労のタネを蒔いて喜んでいる者など、いろいろです」
〈霊の進化〉



――霊にはもともと善なる者と悪なる者とがいるのでしょうか、それとも本来はまったく同じもので、それが各自の努力で善性を増して行くのでしょうか。


「本来は同じであるものが努力によって善性を増して行きます。その善性の成長の過程が低い界層から高い界層への向上となって表れるのです」


――善性の高い霊として創造される者と邪悪性の強い霊として創造される者とがいるのでしょうか。


「神は全ての霊を無垢と無知の状態で創造されています。言い変えれば、何も知らないということです。その一人一人に神は使命を持たせてあります。その達成のための努力の中で啓発され、真理を知ることによって徐々に完全に近づき、つまりは神ご自身に近づくように配剤されています。

霊にとって完全とは永遠不変の無垢の喜悦の状態です。神によって課せられた試練をくぐり抜けることによって叡知を身につけていくのですが、問題はその試練への対処の仕方です。素直に受け入れ、そこに目論(もくろ)まれたものを速やかに理解していく者がいる一方、不平だらだらで対処し、その意義を悟らず、いつまでも完全と至福の境涯から遠く離れたままの者もいます。自業自得です」


――今のお説ですと、霊はその起源においては幼い童子のごとく無知で経験に欠けるが、さまざまな人生体験を経て少しずつ叡知を身につけていくということのようですが……


「おっしゃる通りです。その譬えで結構です。子供は反抗ばかりしているといつになっても無知で欠点だらけです。従順さに応じてその成長度も決まってきます。ただ、地上の人生には限りがあります。一方、霊の旅は永遠の彼方へと延びているのです」


――永遠に低界層に留まる霊もいるのでしょうか。


「いません。全てが完成へと向かいます。懲罰の期間がいくら長かろうと、いつかは変化するものです。人間の親でも、出来の悪い我が子を生涯勘当するでしょうか」


――進化向上を速めるのも遅らせるのも本人の自覚しだいということでしょうか。


「その通りです。向上心の強さと神の摂理に従順たらんとする願望の程度によって、ゴールに速く着く者もいれば遅い者もいるということになります。ひねくれ者で怠け者よりも素直な子の方が学ぶのは速いのではありませんか」


――霊が退化することは有り得ますか。


「有り得ません。進化するにつれて、それまで進化を阻害していたものを理解します。そうやって一つの試練を克服するごとに霊はその試練のもつ教訓を学び取り、二度と忘れることはありません。静止することはあっても退化することは決してありません」


――ある霊を最高の界層へ到達させるために、神が、その霊が受けるべきだった試練を免除してやるということは有り得ますか。


「もしも全ての霊が初めから完全無欠なものとして創造されていたら、完全性を成就することから生じる喜悦を味わう資格があるでしょうか。奮闘努力をしないところに一体いかなる価値が生まれるのでしょうか。申し上げますが、そもそも霊が上下善悪さまざまで、言わば“不平等”であるという事実は、互いの霊性の進化にとって有意義なことなのです。さらに言えば、各霊が進化の途上において一つ一つ成就していく使命は、宇宙全体の調和を確信する上において、それなりの意義を持つように配剤されているのです」


――全ての霊は悪の道を通って善へ到達するのでしょうか。


「悪の道ではありません、無知の道です」


――ある者は善の道をたどり、ある者は悪の道をたどるのはなぜでしょうか。


「自由意志というものがあるのをお忘れですか。初めから邪悪な霊として創造された者はいません。みな無垢と無知の状態で創造されているのです。ということは善にも悪にも向かう可能性があるということです。邪悪になったのは、自らの自由意志でそうなったまでのことです」


――まだ自我意識が芽生えていない原初において、どうやって善と悪とを選択する自由が得られるのでしょうか。


「自由意志というのは自我意識の発達にともなって獲得されていくものです。もしも自分の意志とは別個の原因にそそのかされて善悪の選択が為されるとしたら、その霊には自由意志はないことになります。その選択を決定づける要因はその霊の内部にあるのではなくて外部にある――つまり自由意志で選んで従った外部の影響力にあります。人類の堕落と原罪という有名な比喩に秘められているのは、この自由意志のことです。誘惑に負ける者もいれば、屈せずに耐え抜く者もいます」


――外部の影響というのはどこから来るのでしょうか。


「未浄化霊です。とりこにして支配しようとする者たちで、自分たちの誘惑に負けていくのを見るのが愉快なのです。比喩で“サタン”として描かれているのは、その誘惑のことです」


――そういう誘惑は創造された当初からあるのでしょうか。


「霊としての存在のあらゆる側面において付きまとい、自制心がついて完全に抵抗できるようになり、邪霊があきらめるまで続きます」


――神はなぜ霊が間違った道へ迷い込むのを許すのでしょうか。


「各自に選択の自由を与えているところにこそ神の叡知があるのです。成就した時の功績もその霊自身のものとなるからです」


――当初から迷うことなく正しい道を歩む者と、悪の道のドン底まで迷い込む者とがいるからには、その中間には大なり小なりの無数の逸脱があるわけですね?


「まさにおっしゃる通りです。その段階の数だけ、霊の歩んでいる道があるということです」


――極悪非道の道を歩んでいる霊でも、いつかは正しい道を歩むようになるものでしょうか。


「なります。ただし“永遠の苦悶”の期間は他の霊よりも長いでしょう」


編者注――ここでいう“永遠の苦悶”というのは、低界層の霊が先が予見できないために現在の苦悶が永遠に続くと信じている状態のことと解釈すべきであろう。新たな誘惑が次から次へと訪れ、なかなか自制心がつかないのである。


――そういう長い迷いの末にようやく最高界へたどりついた霊は、神の目から見て、順調にたどりついた霊よりも功績の点で劣るのでしょうか。


「神は両者を同じ目、同じ愛で受け入れます。一時は邪霊の部類に入れられたことがあったとは言え、そうなる前は他の全ての霊と同じく、善と悪に対しては完全に無色だったのですから」


――知的能力においても霊は平等に創造されているのでしょうか。


「全ての霊が知的にも平等に創造されています。ただし、自分がいずこより来たのかということだけは誰も知りません。その謎の解明に向かって各自が自由意志で存分に知性を働かせないといけません。その度合いによって、霊性の面と同じく知性の面においても、進歩の速い者と遅い者とが出てくるわけです」


――天使とか大天使とか呼ばれている存在は普通の霊とは別の、特殊な存在の範疇に属するのでしょうか。


「特殊なものではありません。あらゆる不完全性から浄化されつくした霊は進化の最高の段階に到達し、あらゆる側面での完全性を具現しております」


――その天使たちもやはりあらゆる進化の段階をへて向上して行ったのでしょうか。


「あらゆる段階を一歩一歩向上して行ったのです。ただし、前にも述べたとおり、与えられた使命を不平も言わずに受け入れた者は速やかにゴールに到達し、道草を食った者は同じゴールへの到達が遅くなります」


――創造された時から特別に完全性を身につけている霊はいないとおっしゃいましたが、そういう特殊な霊がいることを物語る伝承説話がほとんどの国に見られるのはなぜでしょうか。


「地球という天体は永遠の過去から存在しているのではありません。地球が存在するようになる遥か以前から、無数の霊がすでに最高界にまで到達していました。地上の人間がそういう霊は永遠の過去からずっと完全な状態でいるのだと想像したのも無理はありません」


訳注――信頼のおける霊界通信では、当初から高級界に所属しているいわゆる“神霊(※天使)”の存在を指摘するもの、あるいはそれを暗示するものが少なくない。多分カルデックの時代にはあまり深入りしないことになっていたのであろう。半世紀後のシルバーバーチの霊言に次のような問答がある。

――物質界に誕生する霊としない霊とがいるのはなぜですか。

「霊界の上層部つまり神庁には、一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物的器官を通しての表現を体験しなくても進化を遂げることができるのです。当初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を 帯びて地上に降りてくることがあります。歴史上の偉大なる霊的指導者の中にはそうした高級神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります。」


――いわゆる“悪魔”というのは存在するのでしょうか。


「もしも悪魔が存在するとすれば、それも神が創造したものということになります。ですが、邪悪と残忍の中に永遠に生きるものを神が創造するなどということが考えられますか。もしも悪魔と呼ぶに相応しいものが存在するとすれば、それは地球および地球程度の低級界にのみ存在する偽善者のことです。正義の神の代理人のごとき口を利きつつ、その本性は残忍で執念深く、神の名において忌まわしい行為を犯しつつ、それが神へのお追従のつもりでいるのです」

Monday, September 11, 2023

シアトルの初秋 あなたの愛が地上に根づくのを妨げんとする諸悪のすべてを取り除かしめたまわんことを。

May you remove all the evils that prevent your love from taking root on earth.

山キノコロリ on Instagram: “『白樺の森』 #きのこえ🍄 描いた またこんな子たちに 出会えますように . . . . . .  #ベニテングタケ #白樺 #キノコ #きのこ #キノコの絵 #キノコ柄 #きのこかぞく #イラスト #イラストレーション #イラストレータ… |  キノコの絵, イラスト, 森

 

 ああ、大いなる神よ。

あなたは生命の息吹におわします、全生命の摂理の背後におわします。

森羅万象の大中心におわします。

万事を賢明(よき)に計らわれる大霊におわします。

 あなたは完全なる愛にあらせられ、完全なる叡知にあらせられ、完全なる公正にあらせられます。

この全大宇宙として顕現された完全なる摂理にあらせられます。

 過去においてもあなたは物質の靄(もや)にさえぎられることなく霊的波長を捉えることのできる者に、御身についての啓示を与え給いました。

物質の次元を突き抜けて霊の次元へと高揚できる者に、あなたはその大いなる愛を顕現なさっておられます。

 あなたは今の時代に霊の道具を絶えず感化なさっておられるごとくに、太古においてもその時代にふさわしい賢者を感化なされました。あなたはいつの時代にもふんだんにインスピレーションを啓示され、人間の心を通してあなたの愛を顕現なさらんとしておられます。

それは、ひとえに、子等にとってあなたがいかに身近な存在であるかを理解せしめんとする配慮にほかなりませぬ。

 ああ、神よ。

あなたはこの全大宇宙を造られた大霊におわします。

極大なるものの中の極大、極小なるものの中の極小を創造なされました。

そして物質の世界に人類なる存在を生みつけられ、その一人ひとりにあなたの霊性の一部を賦与されました。

それはあなたとの不変・絶対の絆であり、人間が地上生活にいかなる困難をも克服する力を有することを意味します。

 またあなたは、内在するその霊性を顕現させ、地上におけるあなたの計画を促進する手助けをさせるために、人間にもあなたの創造活動に参加する能力をお授けになりました。

 さらにあなたは、地上の道具としての人間があなたの愛、あなたの叡智、あなたの力、あなたの意図を受けとめんと努力する時は、いずこであろうとあなたの使者を遣わして守護と指導に当たらしめ、鼓舞し高揚して、あなたの摂理をいっそう正しく地上にわたらしめんとなさいます。

 ここに集える私どもは、ここを拠点として絶望の淵にいる人、悲しみに暮れる人には新たなる希望と慰めを見出させ、人生に疲れた人には新たな力を見出させ、生きる意欲を失った人には新たな憧れを抱かせ、涙を浮かべている人には、生命に死はなく死後も永遠に生き続けるとの知識に喜びを見出させてあげることにより、あなたのお役に立ちたいと願う者たちでございます。 

 願わくは、ああ神よ、地上の子等を少しでもあなたに近づけるためにみずから物質界へ降りて活躍する者と、霊の世界より働きかけている者との協力によって、あなたの愛が地上に根づくのを妨げんとする諸悪のすべてを取り除かしめたまわんことを。

シルバーバーチ

Sunday, September 10, 2023

シアトルの初秋 神と無限

 god and infinity

The Spirits' Book (New English Edition)


――神とは何でしょうか。


「神とは至高の知性――全存在の第一原理です」


――無限というものをどう理解すればよいでしょうか。


「始まりも終わりもないもの、計り知れないもの、知り尽くし得ないもの、それが無限です」


――神は無限なる存在であるという言い方は正しいでしょうか。


「完全な定義とは言えません。人間の言語の貧困さゆえに、人間的知性を超越したものは定義できません」
〈神の実在の証拠〉



――神が存在することの証拠として、どういうものが挙げられるでしょうか。


「地上の科学的研究の全分野における大原則、すなわち“原因のない結果は存在しない”、これです。何でもよろしい、人間の手になるもの以外のものについて、その原因を探ってみられることです。理性がその問いに答えてくれるでしょう」


――神の実在を人類共通の資質である直観力で信じるという事実は何を物語っているのでしょうか。


「まさに神が実在するということ、そのことです。なんとなれば、もしも実在の基盤がないとしたら、人間の精神はその直観力をどこから得るのでしょうか。その直観力の存在という事実から引き出される結論が“原因のない結果は存在しない”という大原則です」


――神の実在を直観する能力は教育と学識から生まれるのでしょうか。


「もしそうだとしたら原始人がそなえている直観力はどうなりますか」


――物体の形成の第一原因は物質の本質的特性にあるのでしょうか。


「仮にそうだとしたら、その特性を生み出した原因はどうなりますか。いかなる物にもそれに先立つ第一原因がなくてはなりません」


――造化の始源を気まぐれな物質の結合、つまりは偶然の産物であるとする説はいかがでしょうか。


「これまた愚かな説です。良識をそなえた者で偶然を知的動因とする者が果たしているでしょうか。その上、そもそも偶然とは何なのでしょう? そういうものは存在しません」


――万物の第一原因が至高の知性、つまり他のいかなる知性をも超越した無限の知性であるとする根拠は何でしょうか。


「地上には“職人の腕はその業を見れば分かる”という諺があります。辺りをごらんになり、その業から至高の知性を推察なさることです」
〈神の属性〉



――神の根源的本質は人間に理解できるでしょうか。


「できません。それを理解するための感性が人間にはそなわっていません」


――その神の神秘はいずれは人間にも理解できるようになるのでしょうか。


「物質によって精神が曇らされることがなくなり、霊性の発達によって神に近づくにつれて、少しずつ理解できるようになります」


――たとえ根源的本質は理解できなくても、神の完全性のいくばくかを垣間(かいま)見ることはできるでしょうか。


「できます。いくばくかは。人間は物質による束縛を克服するにつれて、神性を理解するようになります。知性を行使することによってそれを垣間見るようになります」


――神とは永遠にして無限、不変、唯一絶対、全知全能、至上の善と公正である、と述べても、属性の全てを表現したことにはならないでしょうか。


「人間の観点からすればそれで結構です。そうした用語の中に人間として考え得るかぎりのものが総括されているからです。

ですが、忘れてならないのは、神の属性は地上のいかなる知性をも超越したものであり、人間的概念と感覚を表現するだけの地上の言語をもってしては、絶対に表現できないということです。

神が今述べられたような属性を至高の形で所有しているに相違ないことは、人間の理性でも理解できるはずです。そのうちの一つでも欠けたら、あるいは無限の形で所有していないとしたら、神は全てのものを超越することはできず、従って神ではないことになります。全存在を超越するためには神は森羅万象のあらゆる変化変動に超然とし、想像力が及ぶかぎりの不完全さの一つたりとも所有していてはなりません」
〈汎神論〉



――神は物的宇宙とは別個の存在でしょうか、それとも、ある一派が主張するように、宇宙の全エネルギーと知性の総合体でしょうか。


「もしも後者だとすると、神が神でなくなります。なぜなら、それは結果であって原因ではないことになるからです。神は究極の原因であって、原因と結果の双方ではあり得ません。

神は実在します。そのことに疑いの余地はありません。そこが究極の最重要ポイントです。そこから先へ理屈を進めてはいけません。出口のない迷路へと入り込んでしまいます。そういう論理の遊戯は何の益にもなりません。さも偉くなったような自己満足を増幅するのみで、その実、何も知らないままです。

組織的教義というものをかなぐり捨てることです。考えるべきことなら身の回りにいくらでもあるはずです。まず自分自身のことから始めることです。自分の不完全なところを反省し、それを是正することです。その方が、知り得ようはずもないことを知ろうとするよりも、遥かに賢明です」


――自然界の全ての物体、全ての存在、天体の全てが神の一部であり、その総合体が神であるとする、いわゆる汎神論はどう理解すべきでしょうか。


「人間は、所詮は神になり得ないので、せめてその一部ででもありたいと思うのでしょう」


――その説を唱える者は、そこに神の属性のいくつかの実証を見出すことができると公言します。例えば天体の数は無限であるから神は無限であることが分かる。真空ないしは虚無というものが存在しないということは、神が遍在していることの表れである。神が遍在するがゆえに万物は神の不可欠の一部である。かくして神は宇宙の全ての現象の知的原因である、と。これには何をもって反論すべきでしょうか。


「理性です。前提をよく検討してみられるがよろしい。その不合理性を見出すのに手間は掛かりません」


訳注――カルデックが“かくかくしかじかの説を唱える者がいるが……”と述べる時、それはキリスト教系の説と思ってまず間違いない。同じ時代に米国の次期大統領の有力候補だったニューヨーク州最高裁判事のジョン・エドマンズがカルデックと同じような実験会に参加してその真実性を確信し、その信ずるところを新聞に掲載したことで轟きたる非難を浴び、ついに判事職を辞任するに至った原因も、その信念がキリスト教の教義と相容れないという、ただそれだけのことだった。カルデックも似たような非難を浴びていたであろうことは容易に想像できる。だからこそ〝序〟にあるような激励の文を霊団が寄せたのである。



Saturday, September 9, 2023

シアトルの初秋 過ぎ去ったことは、

 what has passed

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シルバーバーチの霊訓

 

過ぎ去ったことは、

そこから教訓を学ぶためでなければ、

つまり失敗をどう正すか、

二度と過ちを犯さない為には

どうすべきかを反省するためでなければ、

 むやみに振り返るべきものではありません。

Friday, September 8, 2023

シアトルの初秋 霊の書 アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book

The Spirits' Book

 

 編者まえがき
 

これまでに明かされたいかなる法則によっても説明のつかない現象が、今、世界各地で発生している。そしてその原因として、自由意志をそなえた見えざる知的存在の働きかけがクローズアップされてきている。

理性的に考えれば、知的結果には知的原因があるはずである。事実、さまざまな事象から、その知的存在は物的符丁を使用することによって人間と交信することが可能であることが証明されている。

その知的存在の本性を追求してみると、かつては我々と同じく地上で生活したことがあり、肉体を捨てたあと霊的存在として別の次元の世界で存在し続けていることが分かってきた。かくして霊の実在ということが厳然たる事実となってきたのである。

その霊の世界と地上世界との間の交信も自然現象の範疇に属し、そこには何一つ摩訶不思議はないことが分かっている。その交霊の事実は世界のいずれの民族にも、そしてまたいつの時代にもあったことが史実として残っているだけでなく、今日では一般的でごく当たり前のこととなりつつある。

その霊たちが断言するところによると、大霊が定めた死後存続の事実の世界的規模での顕現の時節が今まさに到来し、大霊の使徒でありその意志の道具である彼らの使命は、新しい啓示を通して、人類の霊的革新の新時代を切り開くことにあるという。

本書は、その新しい啓示の集大成である。これまでの一宗一派の偏見と先入観を排除した理性的哲学の基盤を確立することを目的として、高級な霊格をそなえた霊団による指導と指令によって書き上げられたものである。その中には霊団の意図の発現でないものは一切ない。また、項目の配列とそれに付したコメント、さらには、ところどころで採用した表現形式は、本書の刊行を委任されたこの私の責任において工夫したものであるが、いずれに関しても霊団側の是認を受けている。

本書上梓に参画してくれた霊団のメンバーの多くは、時代こそ違え、かつてこの地球上に生をうけ、教訓を説き、徳と叡知を実践した人たちであることを自ら認めている。その名を歴史に留めていない人物も少なくないが、その霊格の高さは、教説の純粋さと、そうした高名な歴史上の人物との一致団結ぶりによって、十分に立証されている。

では本書の編纂開始に際してその霊団の総意として寄せられた、私への激励を込めたメッセージを披露させていただく。

アラン・カルデック 

          **
 

  カルデックへの、霊団からの激励のメッセージ

我々との協調関係のもとに行うこの仕事に着手するに当たって、そなたに対して熱誠と忍耐とを要請したい。これは実質的には我々の仕事だからである。これから編纂される書物の中に、全人類を愛と慈悲の精神において一体たらしめる新しい殿堂の基盤を構築したいと思う。完成後それを世に出す前に我々がその全編に目を通し、誤りなきを期したい。

質(ただ)したいことがあれば遠慮なく呼び出すがよい。いついかなる時でも力になるであろう。すでに明かしたごとく、我々には大霊から割り当てられた使命があり、本書の編纂はその使命の一端にすぎない。

これまでに明かした教説の中には、当分はそなたの内に秘しておくべきものもある。公表すべき時期が到来すれば、さよう告げるであろう。それまではそなた自身の思考の糧として、じっくり温めておくがよい。課題として取り扱うべき時期が到来した折に理解を容易にするためである。

巻頭に我々の描いたブドウの蔓(つる)の絵を掲げてほしい。これは、創造主による造化の仕事の象徴である。身体と霊を象徴する要素が合体している図である。蔓が身体を表し、樹液が霊を表し、ブドウの実が両者の合体を表す。人間の努力は樹液という潜在的資質を呼び覚ます。すなわち、努力によって獲得される知識を通して、身体が魂に潜在する霊的資質を発達させるのである。

これより先そなたは、敵意に満ちた非難に遭遇することであろうが、それによって怯(ひる)むようなことがあってはならぬ。とくに既存の悪弊に甘んじて私利私欲を貪(むさぼ)る者から、悪意に満ちた攻撃を受けることであろう。

人間界にかぎらぬ。同じことを霊界から受けることもあろう。彼らは物的波動から抜け切らずに、憎しみと無知から、スピリチュアリズムへの疑念のタネを蒔き散らそうと画策する。

神を信じ、勇猛果断に突き進むがよい。背後より我々が支援するであろう。スピリチュアリズムの真理の光が四方に放たれるようになる時節も間近い。

全てを知り尽くしたかに自惚れ、全てを既存の誤れる教説で片付けることで満足している者たちが真っ向から抵抗するであろう。しかし、イエスの偉大なる愛の原理のもとに集(つど)える我々は、あくまでも善を志向し全人類を包摂する同胞愛の絆のもとに結ばれている。用語の差異についての下らぬ議論をかなぐり捨てて、真に価値ある問題へ向けて全エネルギーを注いでいる。地上時代の宗派の別を超えて、高き界層の霊からの通信から得られる確信にはいささかの相違もないのである。

そなたの仕事を実りあるものにするのは、一(いつ)に掛かって忍耐である。我々が授けた教説が本書を通して普及し、正しく理解されることによってそなたが味わう喜びは、また格別なるものがあろう。もっとも、それは今すぐではなく遠い未来のことかも知れぬが……。

疑り深き人間、悪意に満ちた者たちがバラ撒くトゲや石ころに惑わされてはならぬ。確信にしがみつくことである。その確信こそが我々の援助を確かなものにし、その援助を得てはじめて目的が達成されるのである。

忘れてはならぬ。善霊は謙虚さと無私無欲の態度で神に奉仕する者にのみ援助の手を差し延べる。霊的なことを世俗的栄達の足掛かりにせんとする者は無視し、高慢と野心に燃える者からは手を引く。高慢と野心は人間と神との間に張りめぐらされる障壁である。それは天界の光線を見えなくする。光の見えぬ者に神は仕事を授けぬということである。

Thursday, September 7, 2023

シアトルの初秋 この宇宙が霊的法則によって支配された広大な世界であること、

 that this universe is a vast world governed by spiritual laws,

白樺林の赤狐。森の野生動物。ヨーロッパとアメリカの動物 | プレミアムベクター
シルバーバーチの霊訓


私どもが教えんとしていること、駆使しうる限りの力を駆使して示さんとしていることは、この宇宙が霊的法則によって支配された広大な世界であること、そしてその法則は、人間みずから見えることより見えないことを望み、聞こえることより聞こえないことを望み、物が言えることよりも言えないことを望み、常識より愚昧(ぐまい)を好み、知識より無知を好むことさえなければ、決して恩恵をもたらさずにはおかないということです。

 知っているということと、それを応用することとは別問題です。知識は実生活に活用しなくてはなりません。死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上生活だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。

つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来ごとがあり、他方にはそれとまったく異質の、霊的な世界だけの出来ごとがあって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習性から卒業しなくてはいけません。

あなた方は今そのままの状態ですでに立派に霊的な存在です。死んでから霊的になるのではありません。違うのは、より霊的になるという程度の差だけであって、本質的に少しも変わりません。あなた方にも霊の財産であるところの各種の才能とエネルギーが宿されているのです。

今からあなたのものなのです。肉体に別れを告げたあとで配給をうけて、それを霊体で発揮し始めるというのではありません。

今日、いまこうしている時からすでにそれを宿しておられるのです。言わば居睡りをしながら時おり目を覚ます程度でしかありませんが、ちゃんと宿していることには違いありません。

霊的知識を手にしたあなた方は人生のあらゆる問題をその知識の光に照らして考察し、そうした中で霊の所有物、才能の全てを発揮できるようにならなければなりません。


 悪いと知りつつ罪を犯す人は───〝罪を犯す〟という言い方は私は好きではありませんが(他のところで〝摂理に背く〟と言いたいと述べている。訳者)───知らずに犯す人よりはるかに悪質です。盗むことは悪いことですが、霊的知識を手にした人がもし盗みを働いたら、それは千倍も悪質な罪となります。

恨みを抱くことは悪いことですが、霊的知識を知った人がもし誰かに恨みを抱くようなことがあったら、それは千倍も悪質な罪となります。知識はすべてのことに厳しさを要求するようになります。

私がいつも〝知識は責任を伴う〟と申し上げているのはそういう意味です。霊的なことを知っていながらそれが実生活における行為にまるで反映していない人が多すぎます。難しいことかもしれませんが、人間は一人の例外も無く今この時点において霊の世界に住んでいること、決して死んでから霊になるのではないということをしっかりと認識して下さい。

死ぬということはバイブレーションの問題、つまり波長が変わるということにすぎないことを認識して下さい。知覚の仕方が変わるだけのことと言ってもよろしい。日常生活で固くてしっかりしていると思っているものとまったく同じ、いえ、もっともっと実感のあるものが、たとえあなた方の目に見えなくても、立派に存在しております」

Wednesday, September 6, 2023

シアトルの初秋 真理の啓発者

Informer of Truth

インペレーターの霊訓 霊訓 続 新装版の通販/W.S.モーゼス/近藤 千雄 - 紙の本:honto本の通販ストア

 「キリストが所有していた強大な霊力はとうてい皆さんには理解し得ません。完全な自己滅却が人間の中にあって神のごとき生活を可能ならしめました。その奇跡は天使の背後霊団によって演出されました。そしてその思想は一つの気高い目的に集中しておりました。すなわち人類の福祉への献身です。

 キリストは悠久の前生(後注)を有する高級霊の一柱が宿ったものであり、その高い界層においてもなお高い位にありました。人類更生のための大事業はすべてそのキリストを淵源としております。その聖なる影響力は地上のいかなる暗き場所をも数多く啓発しております。これ以降も人類の霊的受容能力が開発されるに従ってその影響力がますます広がって行くことでしょう。

 われわれはそのキリストの名のもとに参ります。そのキリストの霊力のお蔭をもって語ります。そしてそのキリストの祝福を皆さんにおあずけしてまいります。その上に安らぎを、安らぎを、安らぎを・・・・・・」

 (注)──ここでいう〝前生〟とは誕生前の霊界における生活であって、地上での生活ではない。これは神々の誕生に関わる大問題で、日本の神話では寓話風に語られているが、シルバーバーチは〝物資界に誕生する霊としない霊とが居るのはなぜですか〟という質問に答えて次のように述べている。《霊界の上層部つまり神庁には、一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験しなくとも成長進化を遂げることが出来るのです。当初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上へ降りてくることがあります。歴史上の偉大な霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合が幾つかあります》
これは次のインペレーターの霊言とも一致している。☆

 「キリストの場合はかつて一度も物質界へ降りたことのない高級神霊が人類の向上と物的体験の獲得のために一時的に肉体に宿ったものです。そうした神霊は高い界層に所属し、人類の啓発のために特殊な任務を帯びて派遣されます。肉体に宿らずに、霊媒を見出して働きかける場合もあります(後注①)。その霊媒に対して、いまだかつて物質界に降りたことのない〝真理の啓発者〟から深遠な真理の幾つかが注ぎ込まれ、それについて霊媒は睡眠中に教えを受けることがあります(後注②)。本人はそれと気づいていなくても吸収することは出来ております。

 この種の神霊は俗世的問題を問われる気遣いのない時を見て働きかけようとするのです。なぜかと言えば、彼らは俗世の問題については全く無知であり、霊的知識以外は伝授し得ないのです。そうした神霊が時として自らの意志によって地上へ降誕してくることもあります。慈悲に発する使命感から率先して志願するのです。そして肉体に宿っている間は自己のアイデンティティ(本来の身元)の記憶を喪失します。こうした行為に出る神霊は数多く存在します。そして、地上生活を終えた後、特殊な存在の側面についての体験と知識とをたずさえて、本来の界層へと帰還していきます」

(注)①──『ベールの彼方の生活』第四巻で、ある〝双子霊〟が各種の天体を遍歴しながら向上していく話のあと、霊媒のオーエンとアーネル霊との間で次のような問答がある。

Tuesday, September 5, 2023

シアトルの初秋 無知という名の暗闇から生まれる人間の恐怖心を追い払い、

Drive away human fears born from the darkness of ignorance,

秋の白樺の木の森日当たりの良い北欧の自然 - アウトフォーカスのストックフォトや画像を多数ご用意 - アウトフォーカス, カバノキ, カラー画像 -  iStock

 
 ああ神よ、あなたは大宇宙を創造し給いし無限の知性に御(おわ)します。間断なき日々の出来ごとの全パノラマを統御し規制し給う摂理に御します。全存在を支える力に御します。物質的形態に生命を賦与し、人間を動物界より引き上げて、いま所有せるところの意識を持つに至らせ給いました。

 私たち(霊団の者は)はあなたという存在を絶対的法則───不変にして不可変、そして全能なる摂理として説いております。あなたの摂理の枠を超えて何事も起こり得ないからでございます。宇宙の全存在はその摂理の絶対的不易性に静かなる敬意を表しております。あなたの霊的領域においてより大きな体験を積ませていただいた私たちは、あなたの御力によって支配されている全生命活動の完璧さに対する賞賛の念を倍加することになりました。



 私たちは今、そのあなたの仔細をきわめた摂理の一端でも知らしめんとしている者でございます。それを理解することによって、あなたの子等があなたがふんだんに用意されている生命の喜びを味わうことが出来るようにと願うゆえに他なりませぬ。

 私たちは又、無知という名の暗闇から生まれる人間の恐怖心を追い払い、生命の大機構における〝死〟の占める位置を理解せしめ、自分の可能性を自覚させることによって、霊的本性の根源である無限の霊としての自我に目覚めさせんものと願っております。それは同時に彼らとあなたとのつながり、そして彼ら同志のつながりの霊的同質性を理解させることでもございます。

 あなたの霊が地球全体をくるんでおります。あなたの神性という糸が全存在を結びつけております。地上に生きている者はすべて、誰であろうと、いかなる人間であろうと、どこに居ようと、絶対に朽ちることのない霊的なつながりによってあなたと結ばれております。故に、あなたと子等との間を取りもつべき人物などは必要でないのでございます。生まれながらにして、あなたからの遺産を受け継いでいるが故に、あなたの用意された無限の叡知と愛と知識と真理の宝庫に、誰でも自由に出入りすることが許されるのでございます。

 私たちの仕事は人間の内奥に宿された霊を賦活し、その霊性を存分に発揮せしめることによって、あなたが意図された通りの人生を生きられるように導くことでございます。かくして人間はいま置かれている地上での宿命を完うすることでしょう。かくして人間は霊的存在としての義務を果たすことになることでしょう。

かくして人間は戦いに傷ついた世の中を癒し、愛と善意を行きわたらせる仕事に勤しむことでしょう。かくして人間はあなたの真の姿を遮ってきた暗闇に永遠に訣別し、理解力の光の中で生きることになることでしょう。

ここに、あなたの僕の祈りを捧げ奉ります。

 

シルバーバーチ

Monday, September 4, 2023

シアトルの初秋 真理とは 一般向けの真理と魂の“秘宝”としての真理

 Truth is the truth for the general public and the truth as the "hidden treasure" of the soul

モーゼスの「霊訓」〈上〉 (TEN BOOKS) | W.S. モーゼス, 千雄, 近藤 |本 | 通販 | Amazon


〔その後のインペレーターからの通信の一例として、次のメッセージを紹介しておく。内容的には一層崇高さを増した霊訓の典型を見る思いがする。驚異的なスピードで書かれたもので、書かれたままを紹介するが、一語の訂正の必要もなかった。綴られている間の私は、強力にして崇高な影響力が全身に染みわたるのを感じていた。〕

『真 理』 
 

イエス・キリストの祝福を。この度は二度と訪れぬかも知れぬこの機に、そなたの疑問に答え必須の真理を授けたく思う。このところそなたのもとに届けられた何通かの手紙によりて、われらが警告しておいた艱難辛苦の時代の到来がわれらのみならず、他の霊団によりても予期されていることが判るであろう(1)。備えを怠るでない。間違いなく到来する。苦悩は必要だからこそ訪れるのである。イエスもそう悟り、そう説いているであろう。魂には鍛錬が必要なのである。それなくして深き真理は理解できぬ。何人(なんぴと)といえども、悲しみの試練を経ずして栄光ある頂上へ登ることは許されぬ。真理へのカギは霊界にある。試練によりて鍛えられた真摯なる魂にあらずんば、何人といえども勝手に真理をもぎ取ることは許されぬ。

安逸と放縦の道は夏の日を夢見心地で過ごす者には楽しいかも知れぬ。それに引きかえ、克己と自己犠牲と自己修養の道はトゲと岩だらけの上り道である。が、それが悟りと力の頂上へ辿り着く道なのである。イエスの生涯をよく吟味し教訓を学び取るがよい。

さらに、今こそわれらと邪霊との烈しき闘争の時期でもある。その煽(あお)りがそなたにも感じられるであろうことを述べたことがあるが、神の摂理の大いなる発展の時期には付きものなのである。言わば夜明け前の暗黒であり、成長の前提条件として憂鬱の体験であり、真摯なる魂が浄化される試練の時期なのである。イエスはそれを、かのゲッセマネにおける苦悩の時に“今やお前たちの時、そして暗黒の時(2)”と述べた。今こそその時である。しかも容易には過ぎ去らぬであろう。辛酸をなめ尽くさねばならぬのである。

それぞれの時代に授けられた啓示は、時の流れと共に人間的誤謬が上乗せされ、勝手な空想的産物が付加される。次第に生気を失い訴える力を失う。批判の声に抗し切れず、誤謬が一つまた一つと剥ぎ取られていき、信仰の基盤が揺さぶられ、ついに大声をあげて叫ぶ――真理とは何ぞや! と。それに答えて新たな、より高き真理の誕生となる。産みの苦しみが世界を揺るがせ、その揺り籠のまわりに霊界の力が結集してこれを守る。その闘争の噴煙と轟音はまさに熾烈である。

その新たな真理の光に空が白み、雲が晴れると、高き塔より眺める霊的洞察力に富める者はいち早く新時代の到来を察知し、その夜明けを歓迎する。“喜びは暁と共に来らん(3)”“悲しみと歎きは消え行かん(4)”かくして夜の恐怖――“暗黒の力”が過ぎ去る。が、全ての者にとりてのことではない。相も変わらず光を見る目を持たず、真理の太陽が煌々と頭上に輝くまで気づかぬ者が圧倒的多数を占める。彼らは新たな真理の夜明けに気づくことなく、ただ眠り続ける。

故に、全ての人間が等しく真理を理解する時代は決して訪れぬであろう。いつの時代にも真理に対して何の魅力も感じぬ者、なまじ上り坂をいくことが危険を伴う者、古き時代より多くの者によりて踏みならされた道を好む者が数多くいるものである。暁の到来を告げる空の白みをいち早く察知する者がいる如く、そうした人種もいつの時代にもいるものである。故に、全ての者に同じ視野が開かれることを期待してはならぬ。そのような夢の如き平等性は不可能である。不可能である以上に、望ましくもない。

神秘の奥義を詮索するに足る力を授かれる者がいる一方、極力それを避けねばならぬ者もいるのである。そこで大衆を導く指導者と先達が必要となる。その任に当たる者はそれなりの準備と生涯にわたる克己の修養が要請される。それを理性によりて律し、我欲を抑え、魂が一切の捉われを棄てて自由に振舞えるようであらねばならぬ。そのことについては、とうに述べてある。心するがよい。

大方の者が真理なりと信ずることが、そなたには空(うつ)ろに、かつ気まぐれに見えるからとて、少しも案ずるに及ばぬ。そういうものなのである。真理にもさまざまな段階がある。多くの側面をもつ水晶から無数の光が発せられる。その光の一条たりとも全ての魂によって曇りなき目で受け止められるとは限らぬ。僅かな者、ごく僅かな数の者に、その無数の光の中よりはぐれた一条――もしかしてそれ以上――の光が届くに過ぎぬ。それも多くの媒介者を通して届けられる故に、ようやく届いた時はすでにその透明度が曇らされている。それは如何ともし難きことである。それ故にこそさまざまな真理の観方が生ずるのである。それ故にこそさまざまな見解、誤謬、誤解、錯誤が罷り通ることにもなるのである。真理を見たと言うも、その多くは束の間の真理を見ているに過ぎぬ。それに己の見解を付加し、敷衍(ふえん)し、発展させ、そうするうちに折角の光を消し、一条の貴重なる真理の光が歪められ破壊される。かくして真理が台無しにされて行く。咎めらるベきは真理の中継者の不完全さである。

或いはこうも観ることが出来る。一人の向上心に燃える魂の熱望に応えて授けられたものを当人は万人に等しく分け与えらるべきものと思い込む。独り占めにするには余りに美しく、余りに崇高であり、余りに聖純なるが故に、全ての人に授けるべきであると思い込む。そこで宝石が小箱より取り出され、一般に披露される。ユリの花が切り取られて人前に飾られる。とたんに純粋さが失われ、生気が半減し、萎縮し、そして枯死する。彼にとりてあれほど美しく愛らしく思えた真理が忙(せわ)しき生存競争の熱気と埃(ほこり)の中で敢えなく新鮮味を失いゆくのを見て驚く。己の隠れ処(が)においてはあれほど純にして真なるものが、世に喧伝されると見る間に精彩を失い、場違いの感じを受けることに驚異を覚える。彼がもし賢明であればこう悟る――へルモン(5)の露は魂の静寂と孤独の中でこそ純化されるものであること、花は夜の暗闇の中でこそ花弁を開き、真昼の光の中では萎(しぼ)むものであること、即ち至聖にして至純なる真理は霊感によりて魂より魂へと密かに伝達されるものであり、声高らかに世に喧伝さるべきものではない、と。

むろん真理には、あたかも切り出したばかりの磊々(らいらい)たる岩石の如き粗野なるものもある。これは言わば全ての建築者が等しく使用すべき土台石なのである。が、至純なる宝石は魂の神殿に仕舞い置き、独り静かに眺むるべきものである。故にヨハネが天界の都市の宝石を散りばめた壁と門の話(6)をした時、彼は全ての者の目に映ずるはずの真理の外形を物語ったのだった。但し、彼がこの奥の院に置いたのは至純なる真理の光ではなく、主イエス・キリストの存在と栄光のみであった。

そなたがこうした事実を悟れぬことこそ驚異と言わねばならぬ。そなたにとりて絶対的真理と思えるものも実は、そなたの求めに応じて、完全なる真理の輪を構成する粒子の一つ、ほんの一かけらが授けられたに過ぎぬ、そなたがそれを必要としたからこそ授けられたのである。そなたにとりては完璧であり、それが“神”であろう。が、別の者にとりては不可解なるものであり、魂の欲求を満たしてくれる声は聞けず、求める美を見出すことは出来ぬ。衆目に曝したければそれもよかろう。が、すぐに生気を失い、その隠された魅力も人の心を改めさせるだけの力は持たぬであろう。それはあくまでもそなたのものであり、そなた一人のものなのである。そなたの魂の希求に応じて神より授けられたる、特殊な需要に対する特殊な施しなのである。

真理なるものは常に秘宝的要素をもつ。必然的にそうなるのである。何となれば真理はそれを受け入れる用意のある魂にのみ受け入れられるものだからである。日用品として使用するにはその香気が余りに儚(はか)なすぎる。その霊妙なる芳香は魂の奥の院においてのみ発せられるものである。このことを篤と心に留めておかれたい。さらにまた、受け入れる用意の出来ておらぬ者に押しつけることは真理を粗暴に扱うことになり、そなたにとりては天啓ではあっても、そうとは思えぬ者には取り返しのつかぬ害すら及ぼしかねぬことも心されたい。

さらに忘れてならぬことは、真理のための真理探求を、人生の至上目的として生きることこそ、地上にありての最高の目標であり、いかなる地上的大望よりも尊く、人間の為し得るいかなる仕事にもまして気高きものであるということである。人間生活に充満する俗悪な野心は今は取り合わぬ。虚栄より生まれ、嫉妬の中に育まれ、ついには失望に終る人類の闘争と野心――これらは紛(まご)うかたなきソドムの林檎(7)である。然るに一方には目覚めし魂への密かなる誘惑――同胞のために善行を施し、先駆者の積み上げたケルン(8)にもう一つの石を積み上げんとする心である。彼らは己の生活を大きく変革する真理を熱誠を込めて広めんと勇み立つ。すでにその真理に夢中である。胸に炎が燃え上がり、その訓えを同胞へ説く。その説くところは気高きものかも知れぬ。そして、もし聞く者の欲求に叶えば同類の心にこだまして魂を揺るがせ、何らかの益をもたらすかも知れぬ。が、その逆となるかも知れぬ。ある者にとりて真理と思えることはその者にとりて真実であるに過ぎず、その声は荒野に呼ばわる声に過ぎず、聞く者の耳には戯言(たわごと)にしか響かぬ。彼の殊勝なる行為が無駄に終わる。それだけのエネルギーを一層の真理の探求のために温存し、人に説く前により多くを学ぶべきであった。

教えることは結構である。しかし学ぶことはさらに望ましい。また両者を両立させることも不可能ではない。ただ、学ぶことが教えることに先立つものであることを忘れてはならぬ。そして真理こそ魂が何よりも必要とするものであることを、しかと心得よ。真理を宿す神秘の園に奥深く分け入る求道者は、その真理が静かに憩う聖域を無謀に荒らすことがあってはならぬ。その美しさはつい語りたくなるであろう。己が得た心の慰安を聞く耳を持つ者に喧伝したく思うかも知れぬ。が、己の魂の深奥に神聖なる控えの間、清き静寂、人に語るには余りに純粋にして、余りに貴重なる秘密の啓示を確保しておかねばならぬ。


〔ここで大して重要ではない質問をしたのに対してこう綴られた――〕


違う。それについてはいずれ教えることになろう。われらはそなた自身の試練の一つであるものを肩代わりすることは出来ぬ。迷わずに、今歩める道を突き進むがよい。それが真理へ直接続く道である。しかし不安と苦痛の中を歩まねばならぬ。これまで導いた道は、過去の叡智を摂り入れ先駆者に学ぶ必要があると観たからである。地上とわれらの世界との交霊関係の正道を歩まんとする者は、その最も通俗的な現象面にまとわりつく愚行と欺瞞によりて痛撃を食らうであろうことは、早くより予期していた。愚行と欺瞞が横行するであろう時を覚悟して待ち、これに備えてきた。その学問には過去の神秘学と同じく二つの側面があり、またそうあらねばならぬことを教えたく思う。一つの側面を卒業した今、そなたはもう一つの側面を理解せねばならぬ。

そのためには、人間と交信せんとする霊が如何なる素性の者であるかを知らねばならぬ。それを措(お)いて今そなたを悩ませる謎を正しく読み取ることは出来ぬ。一体真理なるものが如何なる方法により如何なる条件のもとに得られるものであるか、また如何にすれば誤謬と策謀と軽薄なる行為と愚行とを避け得るかを知らねばならぬ。人間が安全な態勢でわれらの世界との関わりを持つには予(あらかじ)めこうしたことを全て理解せねばならぬ。しかも、それを学び終えた暁、あるいは学びつつある時も、その成功如何はほとんど、あるいは全て人間側に掛かっていることを忘れてはならぬ。我欲を抑え、最奥の魂を清め、不純なる心を悪疫として追い払い、目指す目的を出来得るかぎり崇高なるものとせよ。真理を万人が頭(こうべ)を垂れるべき神そのものとして崇敬せよ。いずこへ到るかを案ずることなく、ひたすらに真理の探求を人生の目標とせよ。そうすれば神の使徒が見守り、そなたは魂の奥に真理の光を見出すことであろう。

(†インペレーター)