Q1 祈るということは大切でしょうか?
それは、その祈りがどういうものであるかによって違ってくることです。祈りの文句を目的もなしに繰り返すだけでは、ただ大気中に波動を起こすだけです。
が、誠心誠意、魂の底からの祈り、大霊 (第10章参照) の心と一体となり、大霊の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものが、その人を大霊の僕として、よりふさわしく、よりたくましくします。祈るということ、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。
【Q2】
祈りは主観的なもので、客観的な結果は生み出さないとおっしゃるのでしょうか?人間的に立派になるだけで、具体的には何も生み出さないのでしょうか?
真実の祈りは、人のために役立つ行為への心の準備であらねばなりません。より高い波長に適合させるための手段です。
私のいう祈りは、他人の書いた意味のわからない文句を繰り返すことではありません。誠心誠意の祈り、魂の波長を最高度に高めようとする真摯な願いです。その結果として、感応するインスピレーションに満たされて一段とたくましい存在となります。
【Q3】
他人のために祈ることにも、何か効用がありますか?
あります。真摯な祈りは決して無駄になりません。思念は生きものだからです。
【Q4】
遠隔治療にたずさわる治療家による祈りにも、実質的な効果があるのでしょうか?
あります。先ほどの質問に対しては個人としての祈り (注) を念頭においてお答えしましたが、あらゆるかたちの祈りについてもいえることです。祈っているときは、サイキックな (心霊的) エネルギーを出しており、これを治療専門の霊が利用するのです。
訳注──「個人としての祈り」 と断ったときのシルバーバーチの念頭には、グループで行なう遠隔治療のことがあったことが前後の文脈からうかがえる。グループで円座をつくり、中心に特定の患者がいるとの想定のもとに祈る方法である。
【Q5】
他に援助が得られないとき、祈りを通じて霊界からの援助を要請してもよいものでしょうか?
誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長に感応させます。祈るということ自体が心を開かせるのです。ただし、その祈りは、心と魂と精神を込めたものであらねばなりません。こうしてほしい、ああしてほしといった、ただの要求は祈りではありません。真実の意味での祈りは大きな霊的活動です。
それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならない、というのがいちばん的確な表現かと思います。
「何とぞ私を役立たせ給え」───これ以上の祈りの言葉はありません。「大霊とその子らのために、自分を役立たせたい」 と祈ることよりも偉大なる仕事、大いなる愛、崇高なる宗教、高邁なる哲学はありません。
どういうかたちでもよろしい。摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、お腹をすかしている人に食べるものを与えてあげることでも、あるいは暗い思いに沈んでいる人を明るい気持ちにしてあげることでもよろしい。つまりは、その人のためになることであれば、どんなことでもよいのです。
自分のことをあとまわしにしてでも、他人のために役立つことをする術を身につければ、それだけ内部の霊性、すなわち大霊が発現することになるのです。ことは、簡単なのです。
くじけそうになっている人のところへ行って元気づけてあげ、疲れた人に休息の場を与えてあげ、空腹の人に食べ物を施してあげ、のどの渇いた人に飲み物を与えてあげ、暗闇のなかに沈んでいる人に新しい光明を見出させてあげるのです。そのとき、あなたを通して大霊の摂理が働いています。
【Q6】
祈りに何の回答もないように思えることがありますが、そんなとき、霊的にはどうなっているのでしょうか?
人生には、しばしば本人がこうあってほしいと思っている道ではなく、当人の存在意義が最大限に発揮される道へ、いやおうなしに導かれることがあります。たとえば、この部屋には、毎日毎晩、霊の一団が訪れています。
その霊団の一人ひとりが、本来なら一直線に向上の道を歩みたいところを、それをしばらくおあずけにして、この部屋に光の環(サークル)を構築するための環境条件を整えるために参加しているのです。いずれここが、暗い地上の片隅まで照らす灯りの始原の一つとなります。そういう仕事に比べれば、地上の人間的な悩みごとなど、ものの数ではありません。
表向きは何事も生じていないかに思えるときでも、霊的刺繍は着々として織り込まれているのです。昼となく夜となく、大霊の計画は休むことなく続けられており、最終的には人間の一人ひとりがいくばくかの貢献をしています。
人間から、ときおり自分の魂の成長にとってためにならないもの、かえって進化を遅らせることになるものを要求されます。それは、かなえてあげるわけにはいきません。またときおり、それを手にするに値するだけの努力をしていないものを要求されます。それも与えられません。
そしてときとして、(要求を)受け入れるだけの十分な準備をなさっているものを要求されます。それは、ここという好機を見はからって与えられます。みなさんの祈りは、口に出す前から、大霊は、先刻ご承知なのです。
【Q7】
教会で毎日のように唱えられている祈りに、効用があるのでしょうか?
【Q8】
たとえば、幼な子が飲んだくれの親に更生してもらいたいと思って祈る祈りに、効用はあるのでしょうか?
誠意ある祈りには、それなりのパワーがあります。そのパワーがどこまで物的次元に転換されるかは、さまざまな条件によって違ってきます。今あげられた例の場合ですと、飲んだくれの父親の魂が問題となります。つまり、その祈りのパワーがその琴線にふれるか、それとも霊的なものから遠ざかり過ぎて何の反応も示さないかによって違ってきます。この質問には 「イエス」 「ノー」 では答えられません。
【Q9】
でも、何らかの影響はあるでしょう?
人のために役立ちたいという祈り、真理、光明、導きを求めての祈り、これはすべてその人の魂の進化の指標です。その心は物的身体から出たものではなく、霊そのもの、すなわち大霊の一部であり、したがって大霊のパワーを秘めているのです。しかし、それを発揮するためには艱難辛苦の体験を通じて、霊性が進化しなければなりなせん。それまでは、パワーは発揮できません。
【Q10】
祈りは霊界のだれかが聞き届けてくれるのでしょうか?それとも、その祈りと調和するバイブレーションに反応するパワーを、人間のほうで想定する必要があるのでしょうか?
そもそも祈りとは魂の発現です。そこのところをまず明確にしておきたいと思います。光明すなわち導きを求めて叫ぶ魂の渇望です。その熱誠そのものが回答をもたらすのです。それが思念のパワーを起動させるのです。それが回答を引き寄せる原因であり、回答が結果です。霊界のだれかが、人間が祈るのを待っている必要はありません。
なぜなら、人間の祈りの性質によって、それが届く範囲というものが自動的に決まり、その人間の霊性の進化の度合いに応じて、引き寄せられるべき霊が自然に引き寄せられるのです。その霊たちは、地上人類のために働く決意ができていますから、そのパワーが人間の祈りが生み出したパワーを増幅させます。それは思念の波動であり、霊性の一部です。
祈る人の霊性の進化の程度によっては、何らかの理想の観念を思い浮かべて、それに意念を集中するほうがいい場合があるでしょう。そのほうがやりやすいというのであれば、私はあえて否定はしません。
【Q11】
あらゆることが変えようにも変えられない法則によって支配されている以上は、大霊に祈っても何にもならないのではないでしょうか?祈りとは、大霊に法則を変更してくれるように頼むことではないかと思うのです。
私は、祈りをそのようには理解していません。祈りとは、大霊に近づかんとする魂の切実な願いです。その行為そのものが内部に宿る大霊を発現させ、未踏の階層まで至らしめてくれるのです。そこに不公平も特別の配慮もありません。祈りという行為によって魂が身を引き締め、大霊をより多く発現し、それだけ多くの恵みをわがものとすることができるということです。大霊の恵みは無限です。そして、あなたの魂も無限に開発されていきます。
【Q12】
なぜ人間は、神に罪の赦しを乞うのでしょうか?摂理を犯せば自動的に罰が下されるのではないでしょうか?
【Q13】
われわれは、摂理に向かって祈るべきなのでしょうか?
それは違います。自分の内部と外部に存在する大霊に向かって祈るのです。波動の調整とひたむきな向上心によって、大霊という無限のパワーとの一体化を少しでも促進しようとする営みです。より多くの光明、より多くの知識、より多くの英知と理解力を求める切実なものであらねばなりません。そういう祈りならば、必ず報われます。なぜならば、誠心誠意の訴えそのものが、内部の神性を発現させるからです。
【Q14】
ときおり、こちらが祈り求めないうちに霊界からの援助をいただくことがありますが、われわれの必要性をどうやってお知りになるのでしょうか?
切実な祈りは、然るべき目標に届くものです。必死に祈れば (私の言う 「祈り」 は 「要求」 ではありません)、その祈りは必ず目標に届きます。磁気的引力の法則が働くのです。祈りがかけ橋となって回答が届けられるのです。
【Q15】
大霊に直接語りかけることができますか?
あなたは大霊であり、大霊はあなたです。あなたと大霊との違いは、「性質」 ないしは 「本質」 にあるのではなく 「程度」 にあります。大霊は完全の極致であり、あなたはそれに向かって、はてしない努力を続けるのです。
したがって、大霊は内部にも外部にもあることになります。あなたが神性を発現したとき、すなわち愛、寛容、慈悲、哀れみ、慈善などの行為を実行に移したとき、あなたは大霊と通じあっていることになります。なぜならそれは、大霊があなたを通して働きかけていることにほかならないからです。
【Q16】
悲しみのどん底にありながら、祈るということをしない人がいますが、どうなのでしょう?神の存在を信じない以上、救いようがないのでしょうか?
大霊の存在を信じる信じないは問題ではありません。そのことで、大霊がお困りになることはありません。
【Q17】
ですが、そういう人でも救いがあるのでしょうか?さまざまな理由から神に祈ることも信じることもできないでいながら、大変な悩みを抱え、救いが必要な人がいます。
救いをいただく資格は、大霊の存在を信じるか信じないかで決まるのではありません。その時点までに到達した精神的、ならびに霊的進化の程度によって決まることです。手助けをいただく資格があるからいただくのです。これも原因と結果の自然法則です。
【Q18】
霊側では、人間側が祈るまで待っているのでしょうか? それとも、人間側が要求するしないにかかわらず、聞き届けたり無視したりするのでしょうか?
地上の人間が、大霊の目からもれるということはあり得ません。人間の一人ひとりがおかれている情況は、すべて把握されています。祈りがかなえられた場合は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的進化の段階で、当人にとってふさわしいものがかなえられたのです。
【Q19】
宗教集団で行なう日課の祈祷は、霊界に何か影響を及ぼすのでしょうか?
【Q20】
スピリチュアリストの集会のなかには、祈りの日を設けているところがありますが・・・・・・。
日常生活において霊的真理の意義を生かした生き方をしていなければ、自分たちを 「スピリチュアリスト」 と呼んでみても何の意味もありません。大切なのは、自分たちはこういう者ですと名のることではなく、実生活において何をしているかです。
【Q21】
祈れば、聞き届けてもらえるのでしょうか?
聞き届けてもらえることもありますが、それは祈りの中身と動機によります。人間はよく、中身の性質上、聞いてあげるわけにはいかないものを要求します。要求通りにしてあげたら霊性の進化を妨げ、あるいは人生観を狂わせてしまうからです。
祈りというものを、人間の側からの要求を聞いて霊界で審議会を開き、「よかろう」とか「それはならぬ」といった返事をするような図を想像してはいけません。祈ることによって波動を高め、より次元の高い階層と通じることによって、然るべき回答が届けられる条件を整えるのです。
【Q22】
祈りの機能は何でしょうか?
本当の祈りとご利益信仰との違いを述べれば、祈りが、本来、どうあるべきかがおわかりいただけると思います。ご利益信仰は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい、お金がほしい、家がほしいといった物的欲望には、霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな欲求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。
一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、万物の背後にひかえる霊力との融合を求める祈りといった、真実の祈りがあります。こうした祈りには魂の内省があります。つまり、自己の不完全さと欠点を自覚するがゆえに、真摯に祈ります。それが内在する霊的エネルギーを発現することになり、その姿勢そのものが祈りの回答を受け入れる態勢となるのです。
これまで何度か述べたように、人間の祈りのなかには、それを完全に無視することが最高の回答であるものがたくさんあります。言うとおりにしてあげることが、かえって当人にとってプラスにならないとの判断があるのです。
しかし、魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める願望は、自動的に成就されます。つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを巻き起こし、そのバイブレーションによって、当人の霊的成長に応じた分だけの援助が、次のステップのために引き寄せられます。
危険のなかにあっての祈りであれば、保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。そのなかには血縁関係によってつながっている霊もいれば、愛の絆によって結ばれている類魂もいます。そうした霊たちはみな、かつて地上時代に、自分も同じようにして救われた体験があるので、その要領を心得ています。
【Q23】
霊界側は、祈りをどう見ているのでしょう。
祈りは、人間としての義務を逃れるための臆病者の〝避難所〟ではありません。祈りは、実際の行為で果たさねばならないことの代用となるものではありません。祈りは、義務を免除してもらうための手段ではありません。祈りは、大霊の摂理を出し抜くための手段ではありません。
それはいかなるかたちの祈りによっても不可能ですし、途切れることのない原因と結果のつながりを寸毫(スンゴウ)も変えることはできません。
自分を役立てたいという願い、義務と責任を自覚した心から発していない祈りを、すべて無視してください。そしてその後に、サイキックないしはスピリチュアルなものとして、ある種のバイブレーションを生み出す祈りが残ります。そのバイブレーションが回答を呼び寄せるのです。それは必ずしも、当人が期待したとおりのものではありません。当人が発したバイブレーションが生み出した自然な結果です。
【Q24】
本当の祈りは、自分の意志を大霊の意志と調和させることだとおっしゃいましたが、どうやって調和させるかについては述べておられませんが・・・・・・。
祈り方がわからないという方は、無理して祈るべきではありません。祈りとは、精神と霊の行為、自分の意志を大霊の意志と調和させるための手段です。いくらやっても調和させることができないときは、それはあなたの祈りが効果を生み出さなかったということを意味します。真実の祈りには、その後に行為が伴わなければなりません。
つまり、祈りの行為によって、自分を大いなる生命の力と荘厳さと支配力に調和させることで、それを満身に受け、宇宙的意識と一体となり、精神・霊的に一段と強くなって、より大きな貢献ができるようにならねばなりません。これが、私が理解している祈りです。
【Q25】
公式の祈りの日に、どういう意義があるのでしょうか?
祈りに公式も非公式もありません。昼と夜の区別もありません。祈りを発する当人以外の何者によっても影響を受けることはありません。当番の者が先導して述べる機械的な祈りには、何の価値もありません。
そういう規約になっているため、あるいはそういう習慣になっているために顔をあわせて行なう祈祷───すっかり慣れっこになっているために、何の感慨もわいてこないような祈祷では、大霊に一歩たりとも近づけてくれません。人間にとって必要なものは、大霊は先刻ご承知です。人数を多くして嘆願する必要はありません。
No comments:
Post a Comment