Searching for the eternally unchanging truth
世界にはさまざまな宗教が存在しますが、説かれる霊的真理は同じであるべきはずなのに、それぞれに違っています。なぜでしょうか? 組織体制を運営する者たちが摂理をねじ曲げてでも営業活動に精を出してきたからです。その違いが国と国とを離反させ、国民までもが敵視し合うようになっていったのです。
キリスト教がそのよい例です。コンスタンチヌス帝の時代に宗教が国政と一体化してしまったために(補注1)、聖職者たちが為政者の我儘と悪だくみに加担して、教義を次々と書き換えていきました。
かくして〝宗教〟なるものが国家と人民、さらには家族間にも、なかたがいのタネを蒔くことになったのです。一言で言えば空前絶後の霊覚者イエスが説いた素朴な教えを人間が都合よく書き換えたということです。
〈訳者補注1〉
「世界史では西暦三二五年にローマがキリスト教を国教としたしたことになっている。D・ダドレー著 『第一回ニケーヤ会議の真相』 によると、表面の事実はその通りで、コンスタンチヌス帝の命令で、ローマの支配下の国々からキリスト教の司教二千人前後が出席して、第一回キリスト教総会が小アジ゛アのニケーアで開かれた。
五月末から九月までの足掛け五カ月にも及んだと言われる。表向きの表題は〝三位一体説〟の是非を論ずることにあったが、実質的には、その説を否定するアレクサンドリア教会の司教アルウスを弾劾することにあったことは明白である。その証拠に、結果的にはアリウスを支持する一派がローマ兵によって連れ出され、国外追放になり、その後アリウスは暗殺されている。
見落としてはならないのは、そうした議論の進行中にそれまでのイエスの素朴な言行録が大幅に書き変えられ、さらに勝手にこしらえた教義、例えば、〝贖罪説〟等がキリスト教の絶対的な教義として確立されていったことである。
それはその後も続けられ、西洋史に暗い影を落とす〝暗黒時代〟を生みだしていく。英国の知性を代表するジョン・スチワート・ミルは、名著 『自由論』 の中でこう嘆いている。
キリスト教を容認した最初のローマ皇帝がマルクス・アウレリュウスでなくコンスタンチヌスだったことは、世界のあらゆる歴史の中でも最大の悲劇の一つであろう。もしもそれがコンスタンチヌスの治世下でなくマルクス・アウレリュウスの治世下であったなら、世界のキリスト教はどれほど違うものになっていたであろうと思うと、胸の痛む思いがする」
過去一世紀余りの教育水準の向上で目を覚まされ、それまでの 「ただ信ぜよ」 式の説教ではごまかされなくなった民衆は、いわゆる宗教的教義についてさまざまな疑問を抱くようになりました。
それは必ずしも社会の道徳水準の向上にはつながっていませんが、十数世紀も前に勝手にこしらえながら一度も疑念を挟まなかった教会の上層部の責任は大いに問われねばならないでしょう。
これは他のあらゆる宗教についても言えることで、最初は庶民の道徳的ならびに霊的向上のために霊覚者を通して届けられたものが、時代とともに夾雑物が混ざって玉石混交のまま語り継がれ、教え継がれ、正しいのか間違っているのかにお構いなく〝そういうもの〟と信じられてきました。
が、幸いなことに、近代の飛躍的な科学の発達によってその間違いが誰の目にも明らかになってきました。今の時代に地動説が神を冒涜するものであると教会の言葉を信じる者はいません。
(『はじめに』の〈補注2〉参照)
そして一九二〇年に至って、ある霊覚者によって地上界に向けて空前絶後ともいうべきメッセージが届けられるようになりました。その霊覚者は地上の人間ではありません。
三千年前に地上生活を送り、今では別の次元で生活をしている霊的存在(スピリット)です。それがモーリス・バーバネルという地上の人間をアンテナとしてメッセージを送ってきたのです。
同じ地球上でも、アンテナさえあれば、ちょうど裏側に当たる場所とでも交信することができることは、すでに常識となっています。衛星放送がそれを如実に示しています。
それと同じことが次元の異なる階層とでも可能なのです。つまり霊的アンテナさえあれば交信が可能なのです。そうした仕事を言い渡されたスピリットは、バーバネルが母胎に宿った瞬間から、霊的アンテナとして使用するために準備を始めたと言っています。
そのスピリットは 「シルバーバーチ」 と名のりました。むろん仮の名です。肉体の死後、我々は段階的に次元の高い階層へと進化していきますが(『はじめに』 の〈補注3〉 参照)、次元が高まるにつれて地上時代の民族や国籍、身分や地位、姓名等の価値も必要性も薄れていき、真理の理解度、霊的覚醒の度合いだけが問われるようになります。
そこでシルバーバーチという仮名を使い、地上の人間が関心を持ちそうな事柄は一切打ち明けず、聞かれても答えず 〈補注2〉、 ただひたすら、人類が長い歴史の中で台なしにしてしまった霊的摂理を改めて説きなおすことに専念しました。
〈訳者補注2〉
人間らしい欲求として、出現した霊が地上時代にどういう人物であったか、姓名を何といったかを知りたいと思うのは自然であるが、これはいろんな意味で危険をはらんでいることを知っておくべきである。そのためには次の二つの事実を念頭においておく必要がある。
一つは、人間は死後も、個性も本性も容易には変わらないこと。もう一つは、低階層つまり地上界に近い階層で暇を持て余している低級霊ほど交霊会に出たがるし、また出やすいということ。
ここで忘れてならないのは、霊の側からは出席者の姿が見えても、出席者の目には霊の姿は見えないことで、そうなるとたとえ歴史上の著名人の姓名を名のっても、本当かどうか証明することは不可能ということになる。
人間的煩悩の一つとして、いかにもそれらしい態度で語られると、何となくそう思えてくるもので、それが他界した親族、特に父親や母親、早世した我が子であると言われれば、人間的な情に流されて抱き合って喜んだり感動したりするものである。悪いこととは言わないが、愚かしいことをしているのだということを知るべきである。
スピリチュアリズムの本来の目的はそんなところにあるのではない。それを、これから著者ニューマン氏がシルバーバーチの言葉を引用しながら、懇切丁寧に説いてくれる。
モーリス・バーバネル氏が霊的アンテナとして使用されるようになったのは弱冠十八歳の時で、霊的体験もなく、宗教にも関心が無く、どちらかというと無神論者だったといいます。
その頃バーバネルはロンドンの文士仲間が集まる社交クラブで無報酬の司会役をしていました。毎回だれかが話題を提供し、それについて会員たちが討論する。その司会をすると同時に、
疑問点を指摘して議論の輪を広げる役でしたが、ある日スピリチュアリズムが話題となり、何か反論する段階となったのに、全く予備知識のなかったバーバネルは 「こうした問題は体験がなくては質問もできない」 という理由で、議論の発展がないまま散会させてしまったそうです。
それから間もなく、そのスピリチュアリズムの話題を提供した青年が改めて訪ねて来て、ぜひ交霊会というものに招待したいと言う。誘われるままに出席してみたものの、中年の女性が霊媒となってさまざまなスピリットがしゃべったのに、別に興味は湧かなかったそうです。
が、二度目に出席した時にうっかり居眠りをしてしまい、目を覚まして慌てて失礼を詫びると、「あなたは居眠りをしていたのではありません。あなたの口を使ってシルバーバーチと名のる霊がしゃべりましたよ」 といわれました。
これがシルバーバーチと名のるスピリットがバーバネルの口を使ってしゃべった最初で、それからは自宅でもいきなり無意識状態にさせられて、同じシルバーバーチと名のるスピリットがしゃべるようになりました。
その後、金曜日の夜七時からと決めてレギラーメンバーを相手に語るようになり、バーバネルが一九八一年の七月に他界するまで、実に六十年間も続きました。
℘42
シルバーバーチの最大の特徴は、成熟した大人の精神を持つ人間の理性的判断力に訴える態度に終始したことです。つまり自分が説くことで理性が反発を覚えることがあれば遠慮なく拒否してほしいと明言し、常に人類への慈しみの心で臨み、愚かしい質問にも決して腹を立てず、
失礼な態度を咎めることもなく、その態度と教説の内容は、みずから広言して憚らなかった 「宇宙の大霊から遣わされたメッセンジャー」 に恥じないものでした。
もう一つの特徴は、自分の教えにハクをつけるために地上時代の高貴な身分や仰々しい肩書き、歴史上の大物の姓名を名のるようなことはしないという、厳しい掟を自ら自分に課したことです。 〈補注3〉
〈訳者補注3〉
この一節はシルバーバーチ自身語った言葉を著者が平たく述べたもので、これに類することは、その後もシルバーバーチは、表現を変えながら何度も述べている。
例えば 「私が地上でファラオ (エジプトの王) だったと言えば尊敬し、奴隷だったと言えばサヨナラをなさるおつもりですか」 と皮肉っぽく述べたり、 「人間は肩書きや身分や知名度などに拘るからいけないのです。
私がいかなる程度の存在であるかは、私が述べていることで判断していただきたい」、さらには 「私が述べていることが皆さんに訴えなくなったら、その時は存在価値はなくなったということでしょう」 とまで述べている。
こうした一連の発現を裏返せば、そこにスピリチュアリズムと言う 〝地球人類の霊的浄化活動〟 が人類史でも空前絶後の、神界までも総動員した途方途轍もない大事業である事を、改めて実感させられる。〈補注2〉 で述べた、人間的煩悩から出る好奇心に超然とした態度がそこにあり 「謙虚」 などという言葉で表せる次元の話ではないのである。
さらにもう一つシルバーバーチは、私の専門であるバイブレーションの変換によって、自分よりさらに高い次元から送られてきたものを、地上で北米インデアンに所属していた霊を地上界(バーバネル) との直接アンテナとして送り届けているのであって、その教えは自分が考えたものではないと率直に述べている点でも、極めて特異です。
上には上があり、そのまた上にも上があり、宇宙は事実上無限の彼方までつながっていると言うのです。
それは言い換えれば叡知(さとり)にも際限がないということになります。理解度が到達した次元までの知識を授かるのであって、それは一人ひとり違うことになります。スピリチュアリズムの発達の跡をたどってみても、心霊科学の発達も一進一退で、常に疑惑の目で見られてきました。
それは、人類の科学的知性がまだ霊的なものを証明する段階まで発達していなかったことを意味します。
同じことがシルバーバーチの教えの理解についてもいえます。シルバーバーチが言わんとする核心まで理解が及ばず、結果的には、地上生活を送っている人間にとって都合のよいように解釈されていることがあります。
新しいタイプの小説でも読むような感覚でシルバーバーチの説く宇宙観を読む人もいるようです。その核心に触れて目を覚まされ、本格的に人生を見つめ直すところまで行く人は、残念ながら少ないようです。あちらこちらで盛んに行われている超能力のデモンストレーションの話題を面白おかしく読むだけで満足している人もいます。
また、信仰さえあれば知識はどうでも良いのではないかと思っている人も多いようです。そういう人は次のシルバーバーチの言葉をよく噛みしめてください。
「知識は常に必要です。また常に求め続けるべきものです。もうこれで十分だと思って求めることをやめる人は、事実上、己の無能を宣言し、堕落し、錆びついていくことを求めているようなものです。魂は向上するか堕落するかのどちらかであり、同じ位置に留っていることは出来ません。人間は永遠に休むことのない旅人なのです」
℘45
さらに信仰について意見を求められてシルバーバーチはこう述べています。
「人生には二つの大切な要素があります。一つは知識、もう一つは信仰です。知識の裏づけのない信仰は弱くて頼りになりませんが、知識に信仰を加えると素晴らしい組み合わせとなります」
「このサークルの皆さんは、人生とその意義についての理解をもたらしてくれた知識をお持ちです。が、その知識も大海の一滴に過ぎないこともご存知です。そこに信仰という要素の必要性が生じます。しかし、あくまでも知識に裏打ちされた信仰であり、盲目の信仰ではありません。
知性を侮辱するような信仰ではなく、知識を基盤とした信仰、信じるに足る知識に裏打ちされた信仰です」
知識と信仰、この二つの関係は五感で認識する世界と心で認識する世界の関係にすぎません。従って、限られた五感の世界を超越した知識を得ようとすれば、より高い次元で機能している意識に波長を合わせれば良いのです。
その時に直感される知識を〝悟り〟というのであり、それが人間の道徳的・霊的本性の向上を促すことになるのです。それをシルバーバーチはこう説いています。
「あえて申し上げますが、地上界にもたらされる恩恵は、発明も発見もことごとく霊界にその根源があります。あなた方の精神は地上界へ新たな恩恵が霊界から届けられる、その受信装置のようなものです」
℘46
こう述べてから、その知識を受け取った者には必然的に義務が生じることを指摘して、次のように述べます。
「真理というものは、求める人には分け隔てなく与えられるようになっています。しかし、それを求める道は大いなる冒険の旅になることを覚悟しなければなりません。
境界線の見えない、果てしない探究の旅に出かけることを覚悟しなければなりません。時には障害が立ちはだかり危険にさらされることも覚悟しなければなりません。地図のない未知の領域を歩まざるを得ないことも覚悟しなければなりません。
しかし、そうした時でも、あくまでも真理の指し示す道に従い、誤りと思うことは、いかに古くからの教えであっても潔く拒絶する勇気がなくてはなりません」
「新しい真理というものはありません。真理は真理です。それを受け入れる用意ができているか否かによって、そのレベルが決ります。皆さんも子供の時は能力に似合ったものを教えられます。アルファベットから教わって、知識の成長に従って単語を覚え文章が読めるようになります」
「その単語に含まれている意味も、一度に分かるわけではありません。少しづつ分かっていきます。どれだけ理解できるかは、一(イツ)にかかって当人の理解力によります。
叡智には無限の奥行きがあります。精神的に、そして霊的に受け入れる用意が出来たものだけのものを手にすることができるのです」
「みずから思いたって真理探究を志し、行為と想念でもって意思表示をすれば、その人物がそれまでに到達したレベルに相応した知識と教えを授かるように法則がはたらいて、その波動と調和し始めます。そのレベルには限界というものはありません。
ここで生き止まりと言う境界もありません。なぜなら人間みずからが無限の霊性を宿しており、真理も無限に存在するからです」
「学ぶ前に、それまでの知識を洗い直さないといけません。正しい思考を妨げてきた夾雑物をすべて捨て去らないといけません。それができて初めて霊的成長の準備が整ったことになり、より高い真理を授かる用意ができたことになります。間違った知識、理性が反発するようなこと、宇宙の大霊の愛と叡智と相容れないものを捨て去ることがまず先決です」
「伸び伸びとした思考が出来るようにならなければいけません。みずからを束縛してはいけません。自分の世界に垣根をこしらえて、新しいインスピレーションを入れなくしてはいけません。
真理探究の道はこつこつと絶え間なく続きます。魂が進化し、それに精神が反応して広がれば広がるほど、境界線はますます広がっていきます」
「知識、真理、叡智、成長に限界がないことに気付いた時、あなたは真の意味で自由になるのです。心の奥で間違いに気付いたもの、理性が反発するものを即座に捨て去ることが出来るようになった時、あなたは自由になるのです。新しい光に照らして間違いであることが分ったものを、恐れることなく捨て去った時に始めて自由になるのです」
「第三者の指導によってそういう状態に導くというのも一つの方法であることは違いありませんが、興味を見せているだけでまだ真理に目覚めていない人に、それがどういうものであるかを説明する時は注意が必要です。
当人はそれだけで悟ったように錯覚し、貴重な人間的努力や体験を低次元の霊力で代用して、それでよしという安直な満足感を抱かせる結果になりかねません」 〈補注4〉
〈訳者注4〉
これは一口で言えば、霊的真理を丸暗記しても悟ったことにはならないということを述べたものであるが、もっと大切なことも暗示している。シルバーバーチは 「サイキック」 と 「スピリチュアル」 とを区別している。
前者は肉体と幽体のレベルの法則が絡み合って生じる現象のことで、これは自我の霊性は関与しない。これが後者となると自我が覚醒し高級なスピリット、特に守護霊の働きかけが加わる。
前者にもスピリットの働きかけがあるが、まだ地上界の波動から抜けきっていない者、いわゆる 「自縛霊」 の集団であるから、浅はかな知恵で本来は人間が努力して行うべきこと、時には失敗や病気や災難を通して悟るべきチャンスを、あたら奪ってしまうことになる。
「あたら」 というのは高級霊の立場にたってそう述べたもので、彼らは親切のつもりでいても、それは喩えで言えば、学校の宿題を親がやっているようなものであり、あとで困るのは本人自身で、霊的進化が遅れることになる。
誰でも参加してよいような、安直に催される交霊会に出現するスピリットに 「人生相談」 を持ちかけるのは危険である。
「要するにスピリチュアリズムの基本理念は、地上人類を物質的に豊かにすることではなく、霊的に豊かにすることです。いったい自分とは何なのか、宇宙とは何なのか、そして全てを創造した大霊とは何なのかについての理解に必要な摂理と実在についての知識をもたらすことです」
℘50
「地上界がそれを必要とするのは、それを知ることこそが人生の全体像をつかみ不可解なことを理解しやすくするからです。その理解さ得られれば、あまりにも長いあいだ進歩のブレーキとなってきた、誤った教えが生み出す幼稚で悪逆な行為に苦しめられることがなくなるでしょう」
「それが理解できない人はいるでしょう。そんなものは必要ないと考える人もいるでしょう。子供と同じで、まだオモチャが手放せない人もいますから、そういう人にはそういう人なりの教え方が必要です。
霊的真理の普及を目指すこのスピリチュアリズム計画の背後の全体像を、ぜひ理解してください」
「スピリチュアリズムは、地上界を長いあいだ取り巻いてきた暗闇、今の時代になって、つらい思いとともに次第に分かってきた悪逆非道の原因を根絶することが目的なのです。
そうした邪悪の根源には霊的摂理への無知があります。唯物主義とそれが生み出す私利私欲の悪弊を吹き飛ばしさえすれば、地上界を最大の呪いから救うことができるということを、もうお分かりいただけると思います」
「皆さんが偶然の産物ではないこと、気まぐれの遊び道具ではないこと、無限のエネルギーを秘めた無限なる霊すなわち神の一部であることは、すでにご存知です。
この真理が世界的規模で受け入れられれば、またこの物質界の彼方にも別の世界が存在すること、地上界で送る自分の生活には自分が責任を取らされ、それが次の世界に反映されること、そこには完全な公正を持ってはたらく永遠に不変の摂理が存在すること、こうしたことを単なる知識としてではなく実感をもって認識できるようになれば、人生の新しい基盤ができたことになります」
「私たちがこうして地上へ戻ってきた理由はそこにあります。すなわち、たった一人の人物、たった一冊の書物、たった一つの教会、物質界であろうと霊界であろうと、たった一個の存在に忠誠を尽くすのはおやめなさい───ひたすらに大霊の摂理にのみ忠誠をつくしなさい。
と説くためです。誤ることも間違うこともないのは大霊の摂理だけだからです」
「大霊の摂理の大切さを強調するのはそのためです。それを理解することによって全知識が調和するのです。科学者も哲学者も自由思想家も、その他いかなる種類の人間も、これだけは理性が反発を覚えることはないはずです。
なぜならそれは、永遠に不変・不易の大霊のはたらきの上に成り立っているからです」
「進化のいかなる段階においても。、暗闇の中を歩むよりは光の中を歩む方が良いに決まっています。無知でいるよりは知識を身につけている方が良いに決まっています。ですから、いやしくも知性を授かった人間ならば、知識の探求は人生の基本的な目的であらねばなりません。
それを怠ると、迷信と偏見と不寛容と頑迷さがのさばるようになり、それを抑えきれなくなります」
℘52
「ここまで来ればもう十分だという段階は決して来ません。学ぶこと、成長すること、進歩すること、向上すること、より高いものを求め低いものを捨て去ること───これはどこまで行ってもやむことがあってはなりません」
「しかし、知識には責任が伴います。これも埋め合わせの原理の一環です。かつて所有していなかったものを手にした時、天秤のもう一方には、その知識をいかなることに用いるかという責任が生じます」
「霊の力の働きかけを人類の歴史の特殊な時期だけに限られた、神の啓示の最後のものと受け止めてはなりません。啓示はその時代、その民族の理解力の進歩に応じて絶え間なく、そして発展的なものが授けられるのです」
「必然的にそれは理解力の範囲内のものだけということになります。ほんの一歩だけ進んだものが授けられ、それが終了すればさらに次の段階のものが授けられます。その叡智の階段は無限の彼方まで続いているのです」
℘53
「知識は喜びや幸せ、心の平静をもたらしてくれますが、同時に、その知識をどう生かすかという責任をもたらします。無知が生み出す愚かしい取越苦労を追い出してくれますが、その知識を手にした人間としてやらねばならないことにも気付くはずです。
知らなかったが故に犯す罪にもそれなりの代償は免れませんが、知っていながら犯す罪には、知らずに犯す罪より重い代償を支払わねばなりません」
「時として、脳だけが発達して、精神と霊の発達が伴っていないことがあります。いわゆる〝知的人間〟ということになりますが、知的だから偉大であるとか立派であるということにはなりません」
「それは物的側面、つまり脳に限られた発達です。そういうタイプの人間の中には、込み入ったこと、難解なことほど価値があるかに思っている人がいることは事実ですが、精神と霊性が正しく発達していれば、霊的真理の理解もそれだけ深くなります。
結果的には古い誤った概念を捨て去ることになり、それだけ真実に近づくことになります」
「サークルの皆さんには、普段の物的生活の裏側で人知れず行われていること、地上界に打ち寄せている莫大な霊的エネルギー、皆さんを価値あることに使用せんとして苦心している大勢のスピリットの存在についての知識を得ていただきたいと思います」
「また、あなた方自身に秘められた霊的本性の強力さと豊かさを我がものとしていただくために、その潜在力について理解していただきたいと思います。大霊の叡知、霊的叡智は無尽蔵であること、大霊の財産は無限であることを理解していただきたいのです」
「断言しますが、真剣な気持ちで自分を役立てたいと願う人は、宇宙最大のパワー、生命力そのものを引き寄せることになります。それが義務の一つだからです。熱意を込め、そして賢明に活用することです」
「ご自分の手の届く範囲の人に手を差し伸べなさい。この霊的真理の話をして聞き入れてくれない人は、その人の思う道をいかせればよろしい。
ご自分の光と良心に照らして、これで良いと思う通りにおやりになることです。何ごとも動機が大切です。動機さえ正しければ、いかなる事態になっても、最後は必ずうまくいきます」
「いつどこで、と迷わずに、いつでもどこでも霊的真理を説くことです。時には拒絶されたり、小バカにされたり、物笑いのタネにされたり、嘲笑の的にされたりすることもあるでしょう。そんなことに構うことはありません。そんなことで怯むようではいけません。
受け入れる用意のできていない人は拒絶して当たり前です。あなたはなすべきことをなさったのです。それよりも魂に渇きを覚え、一滴の水を欲しがっている人が大勢います。
℘55
そういう人にとっては何にも替えがたい貴重な施しであり、そういうチャンスに恵まれたあなたは、たったそれだけで地上に存在した意義があったことになるのです」
「真理は閉ざされた心には入ることが出来ません。受け入れる用意のできた人の心にだけ居場所を見つけることが出来ます。真理は、大霊と同じく無限に存在します。
このうちのどれだけを手にするかは、各自の受容能力によって決ります。受容能力が増せば、それだけ多くの真理を悟ることになります。が、いくら努力しても、宇宙の真理の全てを手にする段階には到達できません」
以上は何冊かの霊言集から、霊的真理を知るということはどういうことなのか、また、霊的に向上するためには現在よりも次元の高い意識階層からの教えを吸収しなければならないことを説いた言葉を引用したものです。
それにお金はいりません。必要なのは時間と忍耐力、そして、いかにして高次元の世界の波動に合わせるかの問題だということです。
波動が合わせられるレベルは、人間性を形成する上で大きく関わる広範囲のテーマや興味にいかなる態度で臨むかによって違ってきます。
それ次第で見えざる世界のどのレベルのスピリットと波動が合うか───呪術師ていどか、それとも煩悩の束縛から解放された高次元のスピリットなのかが決ります。私を指導してくれているスピリットがどの程度のレベルのものか知りませんが、漠然とした集団でないことだけは確かでしょう。
私が判断している限りで言えば、シルバーバーチの教えは 「いったい自分とは何なのか、宇宙とは何なのか、そして全てを創造した大霊とは何なのかについての理解に必要な摂理と実在について」 現段階の人類に理解できるレベルのカギを与えてくれているものと思っています。
そして 「それが人類の全体像を明るく照らし出し、不可解に思えていたことを理解しやすくしてくれます」
さらにシルバーバーチは、「学ぶ前に、それまでの知識を洗い直さないといけません」 と述べておりますが、これは 「余りに長い間進歩のブレーキとなってきた、誤った教え」 が幅を利かしてきた科学界にこそ、当てはまります。
この一節に象徴されるシルバーバーチの摂理に関する論説は、キリスト教会のドグマ主義の批判に偏っている嫌いがあるように私には思えるのです。
大自然の摂理は、天地創造以来ずっと存在していたはずです。いったい人類は、シルバーバーチの言うように、どれほど 「間違った教え」 の重荷によって苦しめられてきたかを、じっくりと考えてみる必要があります。
科学の世界でも確かに 「時として脳だけが発達して精神と脳の発達が伴っていないことがあります。いわゆる〝知的人間〟ということになりますが、知的だから偉大であるとか立派であるということにはならない」 ことは事実です。
℘57
従ってその狭い分野にのみ携わってきた少数の学者は、彼等なりにそれが全てだと思うわけですから、それを聞かされた者はシルバーバーチの言うように 「不可解なことを理解しやすくする」 カギだと信じがちです。 〈補注5〉
〈訳者補注5〉
米国の医師リチャード・ゲアバー博士は一九八八年発行の Vibrational Medicine の中で、本書の 『はじめに』で紹介した 《人体を構成す磁場》 (十八ページ) と原理的に同じイラストを公表して大きな反響を巻き起こした。
スピリチュアリズムに馴染んでいる者は 「ついに医学もここまで来たか」 といった感慨で受け止めたが、オーソドックスな医学にとっては青天の霹靂だった。
案の定、そのうち影が薄れ忘れられかけたが、一九九五年ころから息を吹き返し、意を強くしたゲアバー博士は、それをさらに進めて A Practical Guide to Vibrational Medicine と題した続編を二〇〇〇年に出している。
その中で博士は従来の宇宙観を 「ニュートン力学的機械論」 と呼び、宇宙を巨大な時計のようなものと考えることの間違いを指摘している。オーソドックスな医学によれば人体もうまくできた生物機械に過ぎず、心臓は血液を送り出すポンプ、腎臓はフィルタ―、筋肉と骨格は滑車で動く枠組みと見るので、極めて 「理解しやすい」 わけである。
著者は同じシルバーバーチの言葉でも、このように都合よく解釈することの危険を戒めている。
シルバーバーチの言う 「いったい自分とは何なのか、宇宙とは何なのか、そして全てを創造した大霊とは何なのかについての理解に必要な摂理と実在についての知識」 を与えてくれるのは、スピリットからのインスピレーションと一体となった科学なのです。
つまり科学というのは、新たに発見される法則にインスピレーションによるお墨付きを与えねばならない立場にあるのです。
しかし、いったんそのインスピレーションを信じ込んでしまうと、それが絶対的な真理として固定観念化されてしまい、いつしか永遠の遺産として精神の一部となっていく危険性があります。
ここでシルバーバーチの次の言葉を読み返してみる必要ががありそうです。
「真理は閉ざされた心には入ることは出来ません。受け入れる用意のできた人の心にだけ居場所を見つけることが出来ます。真理は、大霊と同じく、無限に存在します。
このうちのどれだけを手にするかは、各自の受容能力によって決まります。受容能力が増せば、それだけ多くの真理を悟ることになります」
真理の探究にあたっては次のシルバーバーチの言葉に改めて耳を傾けたいものです。
「知識、真理、叡智、成長に限界がないことに気付いた時、あなたは真の意味で自由になるのです。
心の奥で間違いであることに気付いたもの、理性が反発するものを即座に捨て去ることができるようになった時、あなたは自由になるのです。新しい光に照らして間違いであることが分ったものを、恐れることなく捨て去った時に初めて自由になるのです」
そんな次第で、これからシルバーバーチの教えを引用して私なりの解釈を施していくわけですが、それは科学者として私がこれまでにスピリットの世界から受けたインスピレーションによる解釈であり、それを出来るだけ平易な用語で述べますので、
読者のみなさんも実在について私がどう理解しているかを〝直観〟してくださることを希望します。それがシルバーバーチが説いていることの真髄であると確信しています。
つまりそれを完全に理解してくださる方は、全体としては極めて少数であろうことは覚悟の上で、ともかくも読者のみなさんに披歴して、お一人お一人のレベルで理解していただけば良いのではないかということです。
℘60
スピリチュアリズムが勃発して以来、ほぼ一世紀半にわたって多くの研究がなされ、確固たる証拠は歴然と存在するのですが、物的身体に宿った人間は物的必要性の追求に明け暮れているうちに、それを置き忘れてきました。宇宙の〝霊性〟などはどうでもよいのでしょう。
しかし私は、そうしたものの重要性に目覚めた読者のために、本書で自分自身について、そして自分が存在しているこの宇宙についての認識を提供したいと思います。
シルバーバーチは 「どこでも霊的真理を説くことです。時には拒絶されたり、小バカにされたり、物笑いのタネにされたり、嘲笑の的にされたりすることもあるでしょう」 と述べていますが、これまでの求道の旅の体験から私は、自分こそそうした逆境のなかで霊的真理を説くべき立場にあることを自覚するようになりました。
もしも自分だけの持ち物として所有しているだけでいたら、シルバーバーチの言う 「せっかく授かった霊的知識が意図している生き方を実践していない」 ことになると気づいたのです。
ですから、こうして私を霊的摂理を説かねばならないと駆り立てるのは、シルババーチの言葉を用いれば 「地上の至るところで人生の嵐のさなかにいる大霊の子らに、その嵐に耐え抜くための基盤、単なる気休めでない真実の心の支えを築かせてあげたい」 という願いなのです。
この霊的真理こそが喜びと幸せと落ち着きをもたらしてくれるからですが、同時に忘れてならないのは、霊的真理を知ったということは、それをどうするかという義務を伴う、ということだからでもあります。
シルバーバーチは、それを〝埋め合わせの法則〟の一環と呼んでいますが、それは同時に 「無知が生み出す愚かな恐怖を追い出してくれます」 とも述べています。
そうした言葉の意味を次章からなるべく平易に説いてみたいと思います。それは、シルバーバーチのいう 「その人の手が届かないほど高度なものとなってはいけません。理解力が及ぶ範囲の一歩先を行く程度のものであらねばなりません。
その一歩一歩が人生の目的について、その実在性について、その基盤である永遠不変の原理について、その永遠の実相についてのより深い直感的な悟りを意味する」 からです。
「全ての邪悪の根源にはその霊的摂理への無知が存在します」 とシルバーバーチは述べておりますが、一九二〇年頃から半世紀余りにわたってシルバーバーチが説いてくれた霊的摂理がほとんど理解されていないことは、世界全体のモラルの低下がそれを物語っております。
その摂理の意味の重大性を本当に理解するまでは、人間はせっかくシルバーバーチが地球という故郷への通信回路を開いてくれた意義を理解したことにはなりません。
シルバーバーチは言います───「そこに私が大霊の摂理の重要性を強調する理由があります。
というのは、こうした摂理を理解することによって、あらゆる知識が調和するのです。これだけは科学者も哲学者も自由思想家も、その他いかなる分野の人間も反芻することは出来ないからです。
なぜならそれが大霊の永遠にして不変不易の働きの上に成り立っているからです」 そして 「それを吸収し全体像をつかむことが出来て初めて、人生の意義が理解できるのです」 と説いています。
私が見たところでは、死後の存続という事実そのものは別として、半世紀余りにわたって説かれたシルバーバーチの霊言にちりばめられた叡知の多次元にわたる意味は、まだまだ咀嚼されていません。
それは 「あなた方自身、あなた方が存在している宇宙、そしてその想像主である大霊についての理解」 のレベルを一段高くしてくれる駆動力となるべき性質のものなのです。
つまりシルバーバーチは人類全体の霊性の進化を視野に置いて、宇宙における人類の位地についての理解のレベルを一段高めることを意図しているのであって、多くの人が陥りがちな幻想の世界の話をしているのではありません。
理性をそなえた人類が、今自分が置かれている宇宙についての正しい認識なしに、どうして〝より高度な教え〟という漠然とした呼ばれ方をしているメッセージが理解できましょう? それが理解できたら、さらに一段高い意識レベルでの理解へ挑戦しましょう。
『はじめに』 で述べましたが、私は人間と人生の謎の解明を求めて、読書と瞑想に耽った時期がありました。シルバーバーチの霊言集を始めとして哲学や科学の書を読みあさり、またそれらの関連性について瞑想し、理性的理解とインスピレーションに接しました。それらをこれから披露したいと思います。
シルバーバーチは 「私たち霊団の者は霊的生命についての実相を語る使命を託されているのです。〝霊的〟 という用語にはどこか神秘的な意味合いが漂いますが、そういうものではなく実在そのものなのです」 と述べています。さらに───
「あなた方は永遠に続く霊的巡礼の旅人です。その道案内としてたずさえていくのは理性であり、常識的分別であり、明晰な知性です。その一部が書物であり、多くの先人たちの生きざまです」
「それゆえ皆さんは自分にいちばん訴えるもの───誰かがいいことが書いてあると言ったとか、神聖であるからとか、尊いものであるからとかではなく───自分の旅にとっていちばん役に立つと思うものを選ぶべきです」 とも述べています。
僭越ながら私も、シルバーバーチにならって同じことを述べさせていただきます。
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