Sunday, March 23, 2025

シアトルの春  イエス・キリストとキリスト教

Jesus Christ and Christianity

Wisdom of Silver Birch 


近代スピリチュアリズム史上でも特異な意義をもつ英国国教会スピリチュアリズム調査委員会の〝多数意見報告書〟(※)が話題にのぼったことがある。

 (※ 一九三七年に国教会の諮問機関として設立されたスピリチュアリズム調査委員会が二年後にその調査結果を公表すると約束したにもかかわらず、その二年を過ぎても公表されないことから、バーバネルを中心とするサイキック・ニューズ社のスタッフが隠密裏に追跡したところ、時の大主教ウィリアム・ラングによって〝多数意見報告書〟が発禁処分にされていることが判明。

それがスタッフの画策でようやく入手されサイキック・ニューズ紙上に公表されて大反響を巻き起こした。詳しい経緯については『古代霊は語る』 ── 潮文社── を、〝多数意見報告書〟の全文訳は 『ジャック・ウェーバーの霊現象』──国書刊行会──の巻末付録を参照されたい──訳者)

 意見を求められたシルバーバーチは、問題を巾広い視野で捉え、キリスト教の本質の問題として次のように語った。


 「当事者がたとえ国教会の大物であっても、生身の一個の人物を絶対服従の対象としてはいけません。宇宙の法則──絶対に裏切られることのない神の摂理を相手になさることです。真理は真理です。何人(ぴと)もこれを絶滅させることはできません。

 その昔、一人の予言者、真理の象徴ともいうべき人物、霊性を最高に顕現した神の使者がこの物質界にやってまいりました。その彼も、当時の宗教界の大御所から好ましく思われず、その言葉によろこんで耳を傾けたのは平凡な民衆だけでした。

教えを説く時の彼の態度には冒し難い威厳がありました。が、その威厳は高い地位や身分から出ていたのではありません。生まれは当時の貧民階級の中でも最も貧しい家柄───名もない大工とその妻との間に生まれたのでした。

しかしその肉体に宿った霊(※)は人類のすべてが模範とすべき人生を率先垂範すべく彼を鼓舞したのです。(※モーゼスの『続霊訓』によるとイエスの本来の所属界は地球神界で、その背後霊団はその神界におけるイエスの配下の天使団、日本でいう自然霊だったという──訳者)

 彼を通じて霊力がほとばしり出ました。病の人を癒し、悲しみの人を慰め、愛と寛容と慈悲の心を説きました。が、当時の宗教界からは歓迎されませんでした。そして最後にどうなったかは皆さんもよくご存知の通りです。

いつの時代にも既成宗教や国家権力から〝反逆者〟と睨まれた者がたどる道は同じです。イエスも同じ名目のもとに苦しい死を遂げさせられました。しかしイエスの説いた真理は死にませんでした。真理に死はあり得ないのです。無限であり、神から与えられるものであり、それ故に不滅なのです。

その霊力───病を癒し、慰めを説き、当時の民衆からぬきんでた存在たらしめた力そのものが、死後すぐさまその姿を弟子たちに見せ、教えが間違っていないこと、霊は物質に優ること、死に生命を終わらせる力はないことの証を与えさせたのです。その復活がいわゆるキリスト教を生む端緒となったのです。

 あと二、三日もすれば(この日は復活祭〈イースター〉 の直前だった)、キリスト教界あげてその復活をイエスが神の御子であったことの最高の証として祝います。〝もしキリストが復活しなければわれわれの教えは無益となり、諸君の信仰もまた無益に終わる〟とパウロは言いました。

イエスの説いたのと同じ真理、イエスが見せたのと同じ霊的能力があなた方の時代に再び説かれ顕現されているのです。そして、またもや宗教界とそのお偉方、あるいは宮殿のごとき豪邸に住み高き地位に安住している特権階級の人々の怒りを買っております。

 〝真理を説きにいく者は財布を携える勿れ〟と説いたイエスの信奉者でいるつもりの現今のキリスト教徒は、実はイエスを十字架にかけた当時の迫害者たちの直系とも言うべき人種であり、その彼らが今イエスと同じ真理を説いているスピリチュアリストたちを迫害しようとしております。

しかし霊の力は彼らより偉大です。今となっては時すでに遅しです。真理は必ず広まり、何も知らぬ大衆をいかに煽動しても真理の道を歩もうとする者を引き返させることはできません。

私は反駁(はんぱく)を覚悟の上で断言しますが、こうした形での今日の霊の働きかけの背後には、二千年前に地上に生をうけた、あのイエスその人が控え、同じように地上の病の人を癒し、悲しみの人を慰め、霊的な基本的真理を地上に確立せんと奮闘しております。その真理には教会も大主教も牧師も聖典もいりません。愛に満ちた心と善意と素朴な心さえあれば良いのです。

 真理を抑圧することは出来ません。鐘や文句やローソクで真理を破門にすることはできません。(カトリック教で信者を破門にする時まず鐘を鳴らし破門文を読み上げローソクを消すという儀式になぞらえて述べている──訳者) 

キリスト教の名のもとに維持されてきた誤りが瓦壊しすっかり忘れ去られた時には、霊の力に裏打ちされた真理が優位に立ち、世界中いたるところの人間の心の中に王座を占めることになりましょう。

たとえば復活の現象は決して奇跡では無く、自然の法則の一つに過ぎません。一個の人間が〝死〟と呼ばれる変化を通過するごとに復活が行われているのです。あなた方も死を通過してより充実した生命の世界へ復活するのです。二千年前のたった一人の人間のみに起きた特殊な出来ごとではないのです。

そういう法則になっているのです。いつの時代にも変わることのない摂理なのです。不変の自然法則であり、大主教も職工も、王様も平民も、聖人も罪人も、哲学者も愚鈍者もありません。すべての人間、神の子すべてに等しく起きるのです。

キリストの復活は霊的自然法則に従って生じたのです。奇跡ではありません。数多くの死者が実験会で姿を見せているのとまったく同じ心霊法則によってその姿を見せたのです」


 続いて、聖書の物語にはどの程度まで古い神話が混入しているかという質問に答えて────

 「神話の中に出てくる奇跡を起こす者がことごとく神か神人であることから、イエスなる人物もさまざまな超自然的な説話と結びつけられていきました。しかし死後その姿を弟子たちに見せたのは聖書にある通りであり、実際の事実です」

───(聖書以外の)歴史書にその記述がないところをみますと、センセーションを巻き起こすほどのものでは無かったわけですね。

 「今の世と似たりよったりの物質に毒されていた世の中で、どうしてそんなことがセンセーションを巻き起こし得たでしょう。私たちがこうして霊界から戻ってきていることがセンセーションを巻き起こしておりましょうか。でも、いずれ真実の地上の歴史が書き記される時代がくれば、現今の歴史書が関心を寄せている事柄よりもはるかに重要性をもつ現象として記述されることになりましょう」


 ここで再び国教会の話題となり、カンタベリ大主教のテンプル(最初に紹介したラングの後任)が開始した社会改革運動について意見を求められてシルバーバーチは───

 「英国民の社会的公正と平等のために国教会が開始した改革運動について意見を述べよとのことですが、まず私は、その運動が誠心誠意の動機から発していることは認めます。

つねづね説いてきましたように、個人にせよ団体にせよ、何らかの形で人類のために役立つこと─── 人間の資質を高め魂のもつ高貴さと崇高性を顕現させ、誤りを正して不正を終わらせ、不幸や悲しみや苦難を和らげることに専心していれば、こちらから同じ目的意識をもつ霊が自動的に引き寄せられます。

かつて地上で先駆者と呼ばれた人、殉教者と呼ばれた人、その他、思想・哲学や一般世論の指導・教化に情熱を燃やす者が大勢います。そして常にこちらへ来てから身につけた叡知を地上へ届けるための道具、自分が地上で手掛けた仕事を完成させるための道具を求めております。

 挫折した人を立ち上がらせ、苦しむ人を扶け、重荷に耐えかねている人の痛みを和らげてあげるために自分を役立てたいと希望する人を私どもは大いに歓迎いたします。それが本当の宗教だからです。人のために自分を役立てることです。宗教は倫理・道徳と呼ばれているものを実践することから切り離しては存在し得ません。

しかし過去を忘れてはなりません。歴史を繙いてみることを忘れてはなりません。一個の組織が、それみずからを束縛する無用の絆からどこまで開放し得るものであるかを読み取らなくてはなりません。残念ながら国教会の歴史は数多くの黒い汚点によって汚されております。

そのうちの幾つかは血生臭い色さえ呈しております。貧しき者、困窮せる者、見捨てられし者、抑圧されし者の味方を標榜(ひょうぼう)する国教会にどこまでその資格があるでしょうか。その手は清らかであると言えるでしょうか。

その動機に汚れがないと断言できるでしょうか。残念ながらその歴史は反証に満ちております。この度の運動においてその動機づけとしている〝目的〟そのものを何世紀にもわたって阻止してきたそもそもの張本人が国教会自体だったではありませんか。

 〝家の中〟を清掃する用意はどこまで出来ているでしょうか。みずから組織内の不平等と不公正を廃止する用意がどこまで出来ているでしょうか。みずからの努力でかち得たものでないものを含めて、その特権のすべてをかなぐり捨ててでも、いま高らかに宣言した改革運動を成就する用意がどこまで出来ているでしょうか。

文字通り国の教会として内部の対立と制約、魂を拘束し足枷となるものを全て排除する勇気があるでしょうか。今のお偉方にはたしてその新しい社会での存在価値があるのでしょうか。

無意味な儀式と祭礼、仰々しい礼服、ストラ(袈裟に似た掛けもの)にミトラ(主教の冠)、その他、幾世紀にもわたって宗教の真髄をぼかし続けてきた飾り物が何の役に立つのでしょうか。

まずみずからの信条を再検討し、その中から公正の成就を妨げるものを排除する勇気がどの程度まであるのでしょうか。まずみずからが真の平等と正義の妨げとなるものを排除しなければなりますまい。

動機が誠意から出ていることは私も認めます。しかしどこまで、一体どこまで達成できるでしょうか。いずれは〝時〟がそれを証明してくれるでしょう。

 どこの誰であろうと、人類の福祉に貢献する人に対して私たちは祝福と援助を授けます。しかし国教会のこれまでの陰湿な歴史に目をやる時、今のところは誠意ある目的と動機から情熱に燃える男(テンプル大主教)によって先導されているから良いものの、このあと果たしてどこまで続くか疑問に思わざるを得ません。

もし能書きどおりに達成する自信があるなら、その自信の証を内外に示していただきたい────信条を異にする者に対する迫害と抑圧をやめ、真の協力精神を明確に表明して、その改革に携る者が〝われわれは正真正銘、最善を尽くしている。これでもし失敗したらそれは名誉ある挫折である。

われわれは英国社会からあらゆる罪悪を除去するのみならず、国教会みずからの組織についても、それが今日まで堕落の一途をたどり、かつてその功によって勝ち得た尊敬まで失わせるに至ったすべての悪弊をも排除する覚悟である〟と断言できるところまで行かなければウソです。

以上が私のありのままの意見です。私が、そして他の多くの者が見ている実情です。現在の国教会は数々の堆積物と旧弊を抱えた船のようなもので、それが正しい航路への進行を妨げます。その一つひとつが障害となり、その一つひとつがテンプルの足を引っぱります」

 ここでスワッハーが「かつてその功によって勝ち得た尊敬とおっしゃいましたが、それはいつのことですか」と聞くと。

 「かつてはそういう時代がありました」と答える。
 「その〝尊敬〟は恐怖から生れていたのではないでしょうか。私の見るかぎりでは、今日の国教会は確かに欠点もありますが、かつてよりは良くなっていると思います。英国民が進歩しただけ教会も進歩しています」

 「なるほど。でもそれはかなり苦しい評価ですね。というのは、今日の国教会は、私から見れば、現在抱えているような悪弊の多くとは無縁だった初期の教会の後継者たるべきものです。はるか遠く遡ってイエスの時代のすぐ後に設立された教会を見倣う必要があります。

当時は、わずかな期間だけではありましたが、真の意味で民衆を我が子のように世話せんとする気概がありました。それが霊の道具である霊媒を追い出した時から道を誤りはじめました」
  
 「三二五年のことですか」(この年に有名な二ケーヤ会議が三カ月にわたって開かれている。歴史の記述ではエジプトの神学者でキリストの神性を否定する説を主張したアリウスの弾劾が主な議題とされているが、シルバーバーチによると、この間に聖書にいろいろと”人間的産物”が書き加えられたという──訳者)

 「もっと前です。三二五年に(霊媒と聖職者との)分離が決定的なものとなったということです。霊媒を追い出そうとする動きはそれ以前からありました。が、霊力の最良の道具である霊媒を追い出すことによって霊力を失い、聖職者が運営するだけとなった教会は次第に尊敬を失い始めます。

もともと聖職者は神の道具である霊媒とともに仕事をする者として尊敬されていたのです。自分でも霊媒と同等の価値を自覚していました。

その仕事は俗世の悩み事の相談にのり、霊媒が天界からのお告げを述べ伝えるというふうに、民衆が二種類の導き、すなわち地上的問題について霊と聖職者の双方からの導きが得られるようにしてあげることでした。

 ところが優越感への欲望が霊媒を追い出し、それといっしょに教会に帰属されていた権威までも全て追い出すことになりました。そのとき以来ずっと衰退の一途をたどることになったのです。私が指摘したいのは、大主教のテンプルは真摯な気持ちでいる───そのことに疑問の余地はない。

しかし、側近の中にはリーダーへの忠誠を尽くしておくに限るといった考えから口先だけの忠誠を示しているに過ぎない者がいることです。そういう連中は改革事業などには情熱を持ち合わせません。改革者などと呼ぶべき人種ではないのです。己れの小さな安全さえ確保しておけばそれでいいのです。

事を荒立てたくないのです。何であろうと命令にだけは従っておくにかぎると心得ている連中です。また一方には教会が俗事に関ることを好ましく思わぬ連中もいます。さらには戒律(おきて)に背きたくない者、教わったことを忠実に守ることが何より安全と考える連中がいます。

こうしたさまざまな考えをもつ者が内部抗争のタネとなります。一人の人間の〝それ行け〟の掛け声で全員が一斉に立ち上がるという具合にはまいりません。何らかの進展はあるかも知れません。しかし意見の衝突が激しいことでしょう。

 実は、このことで私はウィリー氏とシェパード氏の二人と長々と語り合いました。(確かなことは不明であるが多分二人ともかつて国教会の高い地位にあり今はシルバーバーチ霊団に属している人物であろう──訳者)

お二人とも国教会の新しい動きをよろこんでおられます。シェパード氏は彼の言う〝化石となった慣習〟に新たな生命を吹き込むことになるかどうか疑問に思っておられますし、ウィリー氏は多分何らかの進展はあるだろうと観ておられます。

が両者とも、教会の体質からして、民衆の胸の中、心の中、精神の中に動めいている新しい世界の理想像に向かって一致団結する可能性があるとは見ておられません。

しかし援助はすべきでしょう。たとえ結局はお粗末な企てに終わっても、それがこれまで長い年月にわたって振り回してきた権威を打ち崩すという正しい方向への一歩であることには違いないからです」

 ここでサークルのメンバーの一人が意見を述べた。「今回の社会改革運動は国教会にとっても良い結果をもたらすと思うのです。この正義と公正の激発が、ある程度、国教会そのものまで改めることになるのではないでしょうか」

 「私も、ぜひあってほしいと思っています。ただ忘れないでいただきたいのは、私は組織というものには一切関心は無いということです。私の関心は行為であり、善行であり、生きざまです。国教会は今や分裂と衰退の一途をたどっております。

豪華な建造物もそこを訪れる人に本当の宗教としての機能を果たせなくなっております。中をのぞけば慣習という名の太古の埃(ほこ)りと偏見と、時代遅れもはなはだしい教説がぎっしりと詰まった、まるでオバケ屋敷のようです。 

無意味な教条主義が今なお支配し、それが永い間人類を抑えつけてきております。私は何はおいてもまず魂を解放しなければならないと信じます。それは国教会がどこまで自分に正直になれるかに掛かっています。

つまり(社会よりも)まず教会自身の体質を診断する勇気があるかどうか、真理のサーチライトを自己の信仰内容にまで向ける勇気があるかどうかです。それが社会正義の妨げとなっている面もあるからです。

 例を挙げてみましょうか。たとえば教会は信者に対して信仰の告白さえすれば、それだけで正義の問題が片づくと教えます。が、これが社会正義を妨げることになるのです。なぜなら、その教えによって信者の精神が煙に巻かれ、せっかく目覚めかかった魂をまた眠らせてしまいます。

このように、真理の普及を妨げる間違った考えは、地上に真の正義が行きわたるのを妨げることになります。それは、ひいては霊界の正義を妨げることにもつながってきます。

自己の救済の道は日々の生活、行い、言動の中にしかないのに、身代わりの流血(キリストのはりつけ──贖罪)によってキリストへの信仰を告白した者だけが救われるということを、一般社会に一体どう説明できるというのでしょう。

正義は両刃の剣です。それを振りかざす者は、他人に対して求める前にまず自分に正義を求めなくてはなりません。こう言いますと人種的偏見をもつ者は反論します───〝黒人が肌の色を変え、ひょうがその縞を変えられようか〟(エレミヤ書13・23)と。

私は今回の運動に政治的意図はないこと、テンプルは真摯な気持ちで社会の抑圧された人たちを救おうとしていることは十分に理解しております。ですから、それに水を差すようなことは本当は言いたくないのです。しかし、いつもと同じく、真実は真実として強調されねばならないという気持ちは変わりません。

それはともかくとしても、一個の人間が霊に鼓舞されて何か良いことをしようとしている時は、たとえその人物がわれわれを軽蔑している者であっても、われわれとしてはその努力を拍手をもって賞賛しなくてはなりますまい。
 
 テンプル氏は神学者です。人間が勝手に考え出した教理や学説のすべてに通暁しております。神学の中で教育を受け修行してきた人物であり、リベラル派的なところもありましたが、その忠誠心を捧げるのはやはり神学です。もっとも、その中の幾つかを徐々に捨て去ってはおります。

彼には聖霊の力はいかなる教会、いかなる組織の独占物でもなく、通路(霊能者)のあるところなら世界中どこにでも働きかけるものであることが理解できません。

君主だの教会だのからの許可があろうと無かろうと、そんなことには一切お構いなく、老若男女に働きかけているのです。太古からずっとそうでしたし、これからも変わらぬ真実です」

 ここで曽てメソジスト派(国教会から分立した一派)の牧師だった人で今はサークルのメンバーになっている人がこう尋ねた。


───(この運動のために)多くの人、一般の人々が社会正義と国教会の教えとを混同し区別がつかなくなる危険性はないでしょうか。つまり国教会の社会的教義を受け入れるときにドグマもいっしょに呑み込んでしまうということです。

 「私はそうは思いません。知識の潮流を止めることは出来ません。進歩の時計の針を逆回りさせることは出来ません。

今回の運動でメリットがあるとすれば、今まで知らずに見過ごしていた不正や不平等に対して宗教心のある人───倫理的な意味での話ですが───が関心を向けるようになってくれることです。これまでは自分たちの知ったことではないと思っていたことなのですから・・・・・・」


───スピリチュアリズムではイエス・キリストをどう位置付けたらよいのでしょうか。

 「この問題の取り扱いには私もいささか慎重にならざるを得ません。なるべくなら人の心を傷つけたり気を悪くさせたくはないからです。が、私の知る限りを、そして又、私が代表している霊団が理解しているかぎりの真実を有りのままを述べましょう。

それにはまずイエスにまつわる数多くの間違った伝説を排除しなければなりません。それがあまりに永いあいだ事実とごたまぜにされてきたために、真実と虚偽の見分けがつかなくなっているのです。

 まず歴史的事実から申しましょう。インスピレーションというものはいつの時代にも変わらぬ顕と幽をつなぐ通路です。人類の自我意識が芽生え成長し始めた頭初から、人類の宿命の成就へ向けて大衆を指導する者へインスピレーションの形で指導と援助が届けられてきました。

地上の歴史には予言者、聖人、指導者、先駆者、改革者、夢想家、賢者等々と呼ばれる大人物が数多く存在しますが、そのすべてが、内在する霊的な天賦の才能を活用していたのです。

それによってそれぞれの時代に不滅の光輝を付加してきました。霊の威力に反応して精神的高揚を体験し、その人を通じて無限の宝庫から叡知が地上へ注がれたのです。
 
 その一連の系譜の中の最後を飾ったのがイエスと呼ばれた人物です。(第一巻の解説〝霊的啓示の系譜〟参照)ユダヤ人を両親として生れ、天賦の霊能に素朴な弁舌を兼ね備え、ユダヤの大衆の中で使命を成就することによって人類の永い歴史に不滅の金字塔を残しました。地上の人間はイエスの真実の使命についてはほとんど知りません。

わずかながら伝えられている記録も汚染されています。数々の出来ごとも、ありのままに記述されておりません。増え続けるイエスの信奉者を権力者の都合のよい方へ誘導するために、教会や国家の政策上の必要性に合わせた捏造と改ざんが施され、神話と民話を適当に取り入れることをしました。

イエスは(神ではなく)人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した大霊能者でした。今日でいう精神的心霊現象にも精通していました。イエスには使命がありました。

それは当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせることでした。


 では〝バイブルの記録はどの程度まで真実なのか〟とお聞きになることでしょう。福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四書)の中には真実の記述もあるにはあります。

たとえばイエスがパレスチナで生活したのは本当です。低い階級の家に生まれた名もなき青年が聖霊の力ゆえに威厳をもって訓えを説いたことも事実です。病人を霊的に治癒したことも事実です。

心の邪な人間に取りついていた憑依霊を追い出した話も本当です。しかし同時に、そうしたことがすべて霊的自然法則に従って行われたものであることも事実です。自然法則を無視して発生したものは一つもありません。なん人(ぴと)と言えども自然法則から逸脱することは絶対にできないからです。

イエスは当時の聖職者階級から自分たちと取って代ることを企(たくら)む者、職権を犯す者、社会の権威をないがしろにし、悪魔の声としか思えない教説を説く者として敵視される身となりました。

そして彼らの奸計(カンケイ)によってご存じの通りの最期を遂げ、天界へ帰った後すぐに物質化して姿を現わし、伝道中から見せていたのと同じ霊的法則を証明してみせました。

臆病にして小胆な弟子達は、ついに死んでしまったと思っていた師の蘇りを見て勇気を新たにしました。そのあとはご承知の通りです。一時はイエスの説いた真理が広がり始めますが、またぞろ聖職権を振り回す者たちによってその真理が虚偽の下敷きとなって埋もれてしまいました。

 その後、霊の威力は散発的に顕現するだけとなりました。イエスの説いた真理はほぼ完全に埋もれてしまい、古い神話と民話が混入し、その中から、のちに二千年近くにわたって説かれる新しいキリスト教が生まれました。それはもはやイエスの教えではありません。その背後にはイエスが伝道中に見せた霊の威力はありません。

主教たちは病気治療をしません。肉親を失った者を慰める言葉を知りません。憑依霊を除霊する霊能を持ち合わせません。彼らはもはや霊の道具ではないのです。

 さて、以上、いたって大ざっぱながら、キリスト教誕生の経緯を述べたのは、イエス・キリストを私がどう位置付けるかというご質問にお答えする上で必要だったからです。ある人は神と同じ位に置き、神とはすなわちイエス・キリストであると主張します。

それは宇宙の創造主、大自然を生んだ人間の想像を絶するエネルギーと、二千年前にパレスチナで三十年ばかりの短い生涯を送った一人の人間とを区別しないことになり、これは明らかに間違いです。相も変わらず古い民話や太古からの神話を御生大事にしている人の考えです。

 ではイエスをどう評価すべきか。人間としての生き方の偉大な模範、偉大な師、人間でありながら神の如き存在、ということです。霊の威力を見せつけると同時に人生の大原則───愛と親切と奉仕という基本原則を強調しました。それはいつの時代にも神の使徒によって強調されてきていることです。

もしもイエスを神に祭り上げ、近づき難き存在とし、イエスの為せる業は実は人間ではなく神がやったのだということにしてしまえば、それはイエスの使命そのものを全面的に否定することであり、結局はイエス自身への不忠を働くことになります。イエスの遺した偉大な徳、偉大な教訓は、人間としての模範的な生きざまです。

 私たち霊界の者から見ればイエスは、地上人類の指導者のながい霊的系譜の最後を飾る人物───それまでのどの霊覚者にもまして大きな霊の威力を顕現させた人物です。だからと言って私どもはイエスという人物を崇拝の対象とするつもりはありません。イエスが地上に遺した功績を誇りに思うだけです。

イエスはその後も私たちの世界に存在し続けております。イエス直じきの激励にあずかることもあります。ナザレのイエスが手掛けた仕事の延長ともいうべきこの(スピリチュアリズムの名のもとの)大事業の総指揮に当っておられるのが他ならぬイエスであることも知っております。

そして当時のイエスと同じように、同種の精神構造の人間からの敵対行為に遭遇しております。しかしスピリチュアリズムは証明可能な真理に立脚している以上、きっと成功するでしょうし、また是非とも成功させなければなりません。イエス・キリストを真実の視点で捉えなくてはいけません。

すなわちイエスも一人間であり、霊の道具であり、神の僕であったということです。あなた方もイエスの為せる業のすべてを、あるいはそれ以上のことを、為そうと思えば為せるのです。そうすることによって真理の光と悟りの道へ人類を導いて来た幾多の霊格者と同じ霊力を発揮することになるのです」


───バイブルの中であなたから見て明らかに間違っている事例をあげていただけませんか。

 「よろしい。たとえばイエスが処刑された時に起きたと言われる超自然的な出来ごとがそれです。大変動が起き、墓地という墓地の死体がことごとく消えたという話───あれは事実ではありません」

───イエスの誕生にまつわる話、つまり星と三人の賢者の話(マタイ2)はどこまで真実でしょうか。

 「どれ一つ真実ではありません。イエスは普通の子と同じように誕生しました。その話はすべて作り話です」


───三人の賢者はそれきり聖書の中に出てこないのでどうなったのだろうと思っておりました。

 「カルデア、アッシリヤ、バビロニア、インド等の伝説からその話を借用したまでのことで、それだけで用事は終わったのです。そのあと続けて出てくる必要がなかったということです。

よく銘記しておかねばならないことは、イエスを神の座に祭り上げるためには、まわりを畏れ多い話や超自然的な出来事で固めねばならなかったということです。

当時の民衆はふつうの平凡な話では感動しなかったのです。神も(普遍的なものでなく)一個の特別な神であらねばならず、その神に相応しいセット(舞台装置)をしつらえるために、世界のあらゆる神話や伝説の類が掻き集められたのです」

 別の質問に応えて───

 「イエスは決して自分の霊能を辱めるような行為はしませんでした。いかなる時も自分の利益のために使用することをしませんでした。霊的法則を完璧に理解しておりました。そこが単に偉大な霊能者であったこと以上に強調されるべき点です。

歴史上には数多くの優れた霊能者が輩出しております。しかし完璧な理解と知識とをもって霊的法則をマスターするということは、これはまったく別の次元の問題です」

 さらに幾つかの質疑応答のあと、こう述べた。

 「人間が地上生活を生き抜き成長していくために必要な真理は、これ以上つけ加えるべきものは何もありません。あとは真理をより深く理解すること、その目的をより深く認識すること、神とのつながり、および同胞とのつながりに関してより一層理解を深めることだけです。新たに申し上げることは何もありません。

私にできることは、霊的に受け入れ態勢の整った人々の魂に訴えるように、私のこれまでの経験の成果をやさしく説くことだけです。叡知というものは体験から生まれます。十分な体験を経て魂が要求するようになった時に初めて真理が受け入れられます。それから、今度はその知識をどうするかの段階となります。その知識を他人のために活用する義務の問題です。

そうした過程は実に遅々としたものですが、人類の進化はそういう過程を経るしかないのです。啓蒙の領域を絶え間なく広げていく過程であり、退嬰的(たいえい)な暗黒の勢力との絶え間ない闘いです。一人ずつ、あるいは一家族ずつ、悲しみや苦しみ、辛い体験を通じて少しずつ魂が培われ、準備が整い、強烈な感動を覚えて、ようやく悟りを開くのです。

 もう、イエスのような人物が出現する必要はありません。たとえあのナザレのイエスが今この地上に戻って来たとしても、多分地上で最も評判の悪い人間となるでしょう。とくにイエスを信奉し師と崇めるキリスト教徒から一番嫌われることでしょう」


───十四歳から三十歳までの間イエスは何をしていたのでしょうか。

 「その間の年月は勉学に費されました。イエスの教育に当たった人たちによって、真の賢者のみが理解する霊の法則を学ばさせるために各地の学問の施設へ連れて行かれました。心霊的能力の養成を受けると同時に、その背後の意味の理解を得ました。要するにその時期は知識の収得と才能の開発に費されたわけです」


───その教育施設はどこにありましたか。

 「幾つかはインドに、幾つかはエジプトにありました。最も重要な教育を受けた学校はアレクサンドリアにありました」


 訳者注───モーゼスの『霊訓』によるとインドは世界の宗教思想の淵源で、エジプトの霊的思想の根幹もみなインドから摂り入れたものだという。イエスの幼少時に両親がエジプトへ連れて行ったのも、直接の目的は迫害を逃れるためだったが、その裏にはインドから輸入された霊的真理を学ばせるという背後霊団の意図があった。

長じては直接インドへ行って修行しており、今日でいうヨガにも通暁し、水と少しの果実だけで一カ月くらい平気で過ごしたという。

No comments:

Post a Comment