Wisdom of Silver Birch
〝もしスピリチュアリズムについてテレビで講演することになったらどういうことを話されますか〟───ある日の交霊会でこんな質問が出された。シルバーバーチはすかさず次のように答えた。
「私はまず私が地上の人たちから〝死者〟と呼ばれている者の一人であることを述べてから、しかし地上の数々の信仰がことごとく誤りの上に築かれていることを説明致します。生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅であることを説きます。
私は視聴者に、これまで受け継いできた偏見に基づく概念のすべてをひとまず脇へ置いて、死後存続の問題と虚心坦懐に取り組んで真実のみを求める態度を要請致します。寛容的精神と厚意をもって臨み、一方、他人(ひと)がどう述べているからということで迷わされることなく、自分みずからの判断で真理を求めるよう訴えます。
そして世界中の識者の中から、いわゆる死者と話を交わした実際の体験によって死後の生命を信じるに至った人の名前を幾つか紹介します。
そして私自身に関しては、私もかつて遠い昔に地上生活の寿命を割り当てられ、それを完うして、一たんベールの彼方へ去ったのち、この暗い地上へ一条の光をもたらし久しく埋もれたままの霊的真理を説くために、再び地上に戻る決心をしたことを述べます。
私はその霊的真理を平易な言葉で概説し、視聴者に対して果たして私の述べたことが理性を反撥させ、あるいは知性を侮辱するものであるか否かを聞いてみます。
私には何一つ既得の権利を持ち合わせないことを表明します。こんなことを説いてお金をいただかねばならないわけでもなく、仕事を確保しなければならないわけでもありません。私には何一つ得るものはありません。霊界での永い永い生活を体験した末に私が知り得たことを教えに来ているだけです。聞くも聞かぬもあなた方の自由です。
人間は不滅なのです。死は無いのです。あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている───黙って、というのは、あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。
本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。あなた方こそ死者です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。神の宇宙の美が見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。
愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡知を役立てたいと望んでいるのです。
見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。あなた方は神の子なのです。
その愛と叡知をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。その大霊との繋がりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。
そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。一切の世間的喧騒を忘れ去ることです。そして身のまわりに澎湃(ほうはい)として存在する霊的生命の幽(かす)かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。
そうすれば人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。知識に目覚めることです。理解力を開くことです。いつまでも囚人であってはなりません。無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。
以上の如く私は述べるつもりです」
次に、教会中心の信仰者に対して講演するとしたらどう説かれるかと聞かれて───
「まず私は教会というところが本来宗教についての真実を学ぶために存在するものであること説きます。目に見えない高い世界の影響力に集団で波長を合わせるための場です。しばしのあいだ俗世的心配ごとやストレスから離れ、雑念や悩みごとを忘れて霊的実在に目を向ける場です。
私はまた人のために自分を役立てることこそ真の宗教であると説きます。礼拝に出席したら、欠席した人より立派になるというわけではありません。肌の色が白いから、茶色や黒い肌の人より優れているわけではありません。大切なのは霊の進化、魂の成長です。
教会はそのための永遠の旅に備える場であるべきです。いかにして霊を修練するかを教える場であるべきです。聖典の言葉や説教、儀式、信条のことで惑わされてはいけません。建物を必要以上に有難がってはいけません。
宇宙の大霊は無限の存在です。いかに神聖に思える建物でも、その大霊を閉じ込めることはできません。四つの壁では〝永遠なるもの〟は包めません。書物も、その言葉がいかに美しくても、いかに内容が立派でも、いかに霊的でも、それ一冊に無限なる霊すなわち神に関する真理のすべてが記されるわけがありません。
いかなる人間でも、たとえ地上で最高の聖職にある人でも、あなたと神との関係に干渉することは許されません。あなた方の存在にとって必要なものは、あなた方自身が無限の啓示の宝庫から引き出すことができるのです。
あなた方が神と呼ぶところのもの、私が大霊と呼ぶところのもの、すなわち全生命の背後の普遍的摂理は、永遠にあなた方と切っても切れない絆で結ばれております。
内部に宿された神性を発揮しさえすれば───高級界から受ける霊力とインスピレーションを活用する霊的法則さえ身につければ、神が意図された通りの生き方ができるようになります。
自己を棄て、世間に目を向け、からだの不自由な人を癒し、苦しむ人に手を差しのべ、飢えた人に食を与え、渇いた人に水を与え、道を見失える人に勇気と指示を与え、優しさと思いやりと愛情を、それを必要とする人の全てに与えてあげるようになるでしょう。
そうなった時こそ自分を役立てていることになります。それが唯一の宗教なのです。それ以外の宗教を私は知りません」
───スピリチュアリズムが世界的宗教となる日が来るのでしょうか。
「あなた方がスピリチュアリズムと呼んでいるものは大自然の一部───その作用、その意義に対してつけられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは自分なりの人生を生きることであり、特定の宗派の信仰を受け入れることではありません。
人生を支配している摂理は普遍的なものです。ということは、普遍的な理解力が世界中に行きわたれば、お互いが扶け合うことが普遍的な宗教ということになります。それをスピリチュアリズムと呼ぶかどうかはどうでもよいことです。大切なのは真理が普及し、無知の壁が崩れ、迷信が人間の精神から一掃されて、霊的叡知が花開くことです。
ラベルには用心しなければなりません。なぜかと言えば、そのうちそのラベルに象徴されていた中身に代わってそのラベルそのものが大切にされるようになり、ついにはラベルだけを崇拝して真理を忘れてしまうからです。大切なのは真理です。ラベルはどうでもよろしい。
皆さんはある現象が話題になるとそれをスピリチュアリズムだと言います。が、すべては自然法則の働きで起きているのであって、それをどう呼ぶかは重要ではありません。同じ意味で〝宗教〟という用語もその本来の意義を失ってしまいました。
今では宗教といえば〝神聖〟のラベルをはられた特殊の行事や慣習、儀式、祭礼等のことを連想します。しかし教会や礼拝堂が普通の建物に較べていささかも神聖であるわけではありません。石はあくまでも石です。普通の家の一部となろうと大聖堂の一部となろうと石は石でしかありません。
神を崇拝する場として作られた建物は確かに美しいかも知れませんが、その美しさが神聖さを生むわけではありません。美しいと思うのは美意識の反応にすぎません。
宗教そのものは教会とは何の関係もありません。霊感のある人───本当の意味での聖職者、つまり霊的能力を具えた人が民衆の要請に応えて神との取り次ぎをしてあげることと言ってもよいでしょう。勿体ぶった神学的言説に基づく行事をしたり信仰を告白したりすることではありません。
教会でワインを飲んだからといって、他の場所でワインを飲むよりも〝宗教的〟であるわけではありません。宗教的であることは宇宙の大霊の一部である自分を少しでもその大霊の御心に近づけることです。
内部の神性を発揮する上でプラスになることをすることが宗教です。その神性は人のために役立つ行為、愛他心、親切心、日々新たになろうとする心がけ───どこにいても倒れている人を起こしてあげ、弱った人を元気づけ、無力な人の力になってあげ、病の人を癒し、真理と叡知を広め、不正を無くする行為となって表われます。それが宗教です。
人間にはその人なりの宗教を実践する上で必要なものはすべて授かっております。そのためにはまず、宗教とは名僧知識が説くことを体系的にまとめることであるかのように考える、その誤った概念を捨て去ることです。
私どもは、どこかの礼拝のための建造物に出席することが神への義務を果たすことになるとは決して申しません。出席される方は真面目な気持ちでそうされているかも知れませんが、真の宗教心はその人の生きざまの中でしか発揮されないのです。各自の魂に内在する崇高なる霊性の働きと切り離されたところに宗教は存在しません」
───おっしゃるような生き方ができなければ、スピリチュアリズムも既成宗教と同じように失敗に終わることになるわけですね。
「その通りです。必ず同じ運命を辿ります。私たちが地上へ戻ってきたのは一時のセンセーションを巻き起こすためでもなく、一部の人たちだけに喜びをもたらすためでもありません。肉親を失った人を慰めるのも大切です。悲しみの涙にくれる人の涙を拭ってあげるのも大切です。
が、それよりもっともっと大切なことは、霊的真理を日常生活の全てに生かすことです。〝無知〟から生じる世の中の害毒を無くさなくてはなりません。すべての不公正を改め、すべての偏狭と横暴を駆逐しなければなりません。私たちの仕事は人間に内在する霊性をあらゆる面で発揮させ、物質文明から排泄されるもの───汚れ、病気、暗黒街、スラム街、その他、神聖なる霊が閉じ込められている全ての邪悪な環境を清めることに向けられております。
要するに私たちの説く宗教は実践の宗教です。一日一日の宗教─── 一日二十四時間、一時間六十分、一分六十秒、その全てを実践の時とする宗教です。
それが私たちの評価の基準です。それが私たちの目標とする理想です。それが知識を手にした者の本当の仕事───自分だけが喜びと慰めを得るに止まらず、全ての人に隔てなく分け与えてあげる義務なのです。
スピリチュアリズムも他のすべてのことと同じく〝結果〟によって評価されます。あなたが存在することによって世の中の誰一人として益を受けることがなければ、この世に生れてきた甲斐がなかったことになります。
もしスピリチュアリズムを信奉する人がいま深刻に要請されている精神的革命に何の役割も果たせないとしたら、それは自分に対する欺瞞であると同時に、その目的の為にその人を使用した霊の力に対する欺瞞にもなります。人間を通して地上へ注がれる莫大な霊力には成就すべき巨大な宿命があります。それは人類の霊的革新です」
「私はまず私が地上の人たちから〝死者〟と呼ばれている者の一人であることを述べてから、しかし地上の数々の信仰がことごとく誤りの上に築かれていることを説明致します。生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅であることを説きます。
私は視聴者に、これまで受け継いできた偏見に基づく概念のすべてをひとまず脇へ置いて、死後存続の問題と虚心坦懐に取り組んで真実のみを求める態度を要請致します。寛容的精神と厚意をもって臨み、一方、他人(ひと)がどう述べているからということで迷わされることなく、自分みずからの判断で真理を求めるよう訴えます。
そして世界中の識者の中から、いわゆる死者と話を交わした実際の体験によって死後の生命を信じるに至った人の名前を幾つか紹介します。
そして私自身に関しては、私もかつて遠い昔に地上生活の寿命を割り当てられ、それを完うして、一たんベールの彼方へ去ったのち、この暗い地上へ一条の光をもたらし久しく埋もれたままの霊的真理を説くために、再び地上に戻る決心をしたことを述べます。
私はその霊的真理を平易な言葉で概説し、視聴者に対して果たして私の述べたことが理性を反撥させ、あるいは知性を侮辱するものであるか否かを聞いてみます。
私には何一つ既得の権利を持ち合わせないことを表明します。こんなことを説いてお金をいただかねばならないわけでもなく、仕事を確保しなければならないわけでもありません。私には何一つ得るものはありません。霊界での永い永い生活を体験した末に私が知り得たことを教えに来ているだけです。聞くも聞かぬもあなた方の自由です。
人間は不滅なのです。死は無いのです。あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている───黙って、というのは、あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。
本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。あなた方こそ死者です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。神の宇宙の美が見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。
愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡知を役立てたいと望んでいるのです。
見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。あなた方は神の子なのです。
その愛と叡知をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。その大霊との繋がりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。
そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。一切の世間的喧騒を忘れ去ることです。そして身のまわりに澎湃(ほうはい)として存在する霊的生命の幽(かす)かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。
そうすれば人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。知識に目覚めることです。理解力を開くことです。いつまでも囚人であってはなりません。無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。
以上の如く私は述べるつもりです」
次に、教会中心の信仰者に対して講演するとしたらどう説かれるかと聞かれて───
「まず私は教会というところが本来宗教についての真実を学ぶために存在するものであること説きます。目に見えない高い世界の影響力に集団で波長を合わせるための場です。しばしのあいだ俗世的心配ごとやストレスから離れ、雑念や悩みごとを忘れて霊的実在に目を向ける場です。
私はまた人のために自分を役立てることこそ真の宗教であると説きます。礼拝に出席したら、欠席した人より立派になるというわけではありません。肌の色が白いから、茶色や黒い肌の人より優れているわけではありません。大切なのは霊の進化、魂の成長です。
教会はそのための永遠の旅に備える場であるべきです。いかにして霊を修練するかを教える場であるべきです。聖典の言葉や説教、儀式、信条のことで惑わされてはいけません。建物を必要以上に有難がってはいけません。
宇宙の大霊は無限の存在です。いかに神聖に思える建物でも、その大霊を閉じ込めることはできません。四つの壁では〝永遠なるもの〟は包めません。書物も、その言葉がいかに美しくても、いかに内容が立派でも、いかに霊的でも、それ一冊に無限なる霊すなわち神に関する真理のすべてが記されるわけがありません。
いかなる人間でも、たとえ地上で最高の聖職にある人でも、あなたと神との関係に干渉することは許されません。あなた方の存在にとって必要なものは、あなた方自身が無限の啓示の宝庫から引き出すことができるのです。
あなた方が神と呼ぶところのもの、私が大霊と呼ぶところのもの、すなわち全生命の背後の普遍的摂理は、永遠にあなた方と切っても切れない絆で結ばれております。
内部に宿された神性を発揮しさえすれば───高級界から受ける霊力とインスピレーションを活用する霊的法則さえ身につければ、神が意図された通りの生き方ができるようになります。
自己を棄て、世間に目を向け、からだの不自由な人を癒し、苦しむ人に手を差しのべ、飢えた人に食を与え、渇いた人に水を与え、道を見失える人に勇気と指示を与え、優しさと思いやりと愛情を、それを必要とする人の全てに与えてあげるようになるでしょう。
そうなった時こそ自分を役立てていることになります。それが唯一の宗教なのです。それ以外の宗教を私は知りません」
───スピリチュアリズムが世界的宗教となる日が来るのでしょうか。
「あなた方がスピリチュアリズムと呼んでいるものは大自然の一部───その作用、その意義に対してつけられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは自分なりの人生を生きることであり、特定の宗派の信仰を受け入れることではありません。
人生を支配している摂理は普遍的なものです。ということは、普遍的な理解力が世界中に行きわたれば、お互いが扶け合うことが普遍的な宗教ということになります。それをスピリチュアリズムと呼ぶかどうかはどうでもよいことです。大切なのは真理が普及し、無知の壁が崩れ、迷信が人間の精神から一掃されて、霊的叡知が花開くことです。
ラベルには用心しなければなりません。なぜかと言えば、そのうちそのラベルに象徴されていた中身に代わってそのラベルそのものが大切にされるようになり、ついにはラベルだけを崇拝して真理を忘れてしまうからです。大切なのは真理です。ラベルはどうでもよろしい。
皆さんはある現象が話題になるとそれをスピリチュアリズムだと言います。が、すべては自然法則の働きで起きているのであって、それをどう呼ぶかは重要ではありません。同じ意味で〝宗教〟という用語もその本来の意義を失ってしまいました。
今では宗教といえば〝神聖〟のラベルをはられた特殊の行事や慣習、儀式、祭礼等のことを連想します。しかし教会や礼拝堂が普通の建物に較べていささかも神聖であるわけではありません。石はあくまでも石です。普通の家の一部となろうと大聖堂の一部となろうと石は石でしかありません。
神を崇拝する場として作られた建物は確かに美しいかも知れませんが、その美しさが神聖さを生むわけではありません。美しいと思うのは美意識の反応にすぎません。
宗教そのものは教会とは何の関係もありません。霊感のある人───本当の意味での聖職者、つまり霊的能力を具えた人が民衆の要請に応えて神との取り次ぎをしてあげることと言ってもよいでしょう。勿体ぶった神学的言説に基づく行事をしたり信仰を告白したりすることではありません。
教会でワインを飲んだからといって、他の場所でワインを飲むよりも〝宗教的〟であるわけではありません。宗教的であることは宇宙の大霊の一部である自分を少しでもその大霊の御心に近づけることです。
内部の神性を発揮する上でプラスになることをすることが宗教です。その神性は人のために役立つ行為、愛他心、親切心、日々新たになろうとする心がけ───どこにいても倒れている人を起こしてあげ、弱った人を元気づけ、無力な人の力になってあげ、病の人を癒し、真理と叡知を広め、不正を無くする行為となって表われます。それが宗教です。
人間にはその人なりの宗教を実践する上で必要なものはすべて授かっております。そのためにはまず、宗教とは名僧知識が説くことを体系的にまとめることであるかのように考える、その誤った概念を捨て去ることです。
私どもは、どこかの礼拝のための建造物に出席することが神への義務を果たすことになるとは決して申しません。出席される方は真面目な気持ちでそうされているかも知れませんが、真の宗教心はその人の生きざまの中でしか発揮されないのです。各自の魂に内在する崇高なる霊性の働きと切り離されたところに宗教は存在しません」
───おっしゃるような生き方ができなければ、スピリチュアリズムも既成宗教と同じように失敗に終わることになるわけですね。
「その通りです。必ず同じ運命を辿ります。私たちが地上へ戻ってきたのは一時のセンセーションを巻き起こすためでもなく、一部の人たちだけに喜びをもたらすためでもありません。肉親を失った人を慰めるのも大切です。悲しみの涙にくれる人の涙を拭ってあげるのも大切です。
が、それよりもっともっと大切なことは、霊的真理を日常生活の全てに生かすことです。〝無知〟から生じる世の中の害毒を無くさなくてはなりません。すべての不公正を改め、すべての偏狭と横暴を駆逐しなければなりません。私たちの仕事は人間に内在する霊性をあらゆる面で発揮させ、物質文明から排泄されるもの───汚れ、病気、暗黒街、スラム街、その他、神聖なる霊が閉じ込められている全ての邪悪な環境を清めることに向けられております。
要するに私たちの説く宗教は実践の宗教です。一日一日の宗教─── 一日二十四時間、一時間六十分、一分六十秒、その全てを実践の時とする宗教です。
それが私たちの評価の基準です。それが私たちの目標とする理想です。それが知識を手にした者の本当の仕事───自分だけが喜びと慰めを得るに止まらず、全ての人に隔てなく分け与えてあげる義務なのです。
スピリチュアリズムも他のすべてのことと同じく〝結果〟によって評価されます。あなたが存在することによって世の中の誰一人として益を受けることがなければ、この世に生れてきた甲斐がなかったことになります。
もしスピリチュアリズムを信奉する人がいま深刻に要請されている精神的革命に何の役割も果たせないとしたら、それは自分に対する欺瞞であると同時に、その目的の為にその人を使用した霊の力に対する欺瞞にもなります。人間を通して地上へ注がれる莫大な霊力には成就すべき巨大な宿命があります。それは人類の霊的革新です」
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