Wednesday, March 19, 2025

シアトルの弥生 憐れみ深い者は幸いです

Blessed are the merciful.



 

神があなたを赦してくれるよう、あなたは人を赦しなさい

一、 憐れみ深い者は幸いです 、その人は憐れみを受けるからです。(マタイ 第五章 7)


二、もし人の罪を赦すなら、あなたたちの天の父もあなたたちを赦して下さいます。しかし、人を赦さないなら、あなたたちの父もあなたたちの罪をお赦しになりません。(マタイ 第六章 14,15)


三、もしあなたたちの兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのところで忠告しなさい。もし聞きいれたら、あなたは兄弟を得たことになります。(マタイ 第十八章 ⒖)

 その時、ペテロがみもとに来て言った、「主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」。イエスは言われた、「七度までなどと私は言いません。七度を七十倍するまでと言います」。(マタイ 第十八章 21,22)


四、憐れみ深くない者は、温和で平和を愛することが出来ないことから、憐れみとは温和さを補足するものであると言えます。憐れみは他人の過ちを赦し、忘れることによって成り立ちます。憎しみと怒りは、その魂が小さく、気高くないことの表れです。

攻撃を忘れることは高貴な魂だけに属するもので、そのような魂は、人がその魂に対して行おうとした悪を高所から眺めることが出来るのです。一方は常に落ち着くことが無く、悲しく苦しい感覚です。他方は落ち着いた、慈善と温和さに満ちた感覚です。

 「断じて許すことは出来ない」という人は不幸です。なぜなら、その人は人間によって非難されないとしても、必ず神に非難されることになるからです。

自分自身が他人を赦すことができないのに、自分の過ちを赦してもらう権利があるでしょうか。兄弟を赦す時、七度までではなく、七度を七十倍するまで赦しなさいと言うことによって、イエスは、憐れみは限りないものでなければならないと教えています。
℘181       
しかし、赦し方には違った二つの方法があります。一方は偉大で高尚な、真なる寛大さによって、いかなる下心を持つことなく、その責任の全てが相手に在ったとしても、その人の自己感情と感受性を傷つけないように優しく扱います。

もう一方の方法は、攻撃されたり、攻撃されたと判断すると、相手に屈辱的な条件を強要し、赦したことの重圧を感じさせ、それによって安心を与えるのではなく、苛立ちを与えることになります。

手を差し伸べるのは善意からでは無く、見栄によってであり、そうすることにより皆にたいし、「私が何と寛大であるか見るがよい」と言います。このような場合、何れの側にとっても誠実な和解をすることは不可能です。

それは全くの寛大さではなく、自尊心を満足させる為の手段でしかありません。どのような争いに置いても、和解を求めて、自分自身の利害にかまわずに、慈善と真なる魂の偉大さを見せるものが、必ず公平な人々の同情を得ることが出来るのです。


 敵対者と和解すること
五、あなたの敵対者と道をともにしている時は、直ちに和解しなさい。さもなければ、敵対者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は役人にわたし、あなたは牢屋へ送りこまれてしまうでしょう。誠に言います。最後の一銭を払い終わるまで、そこからでることはできません。(マタイ 第五章25、26)


六、善の行いと同様に、一般に赦しの行いには道徳的な影響ばかりでなく、物質的な影響もあります。私たちの知る通り、死は私たちを敵から解放してはくれません。反逆的な霊はいつも憎しみとともに、その怒りの対象となる者を死後の世界を超えて追いかけていきます。

そのことから、「犬を殺してしまえばその犬の怒りも消える」と言ったことわざを、人間に当てはめるのは間違いであるということになります。悪霊は、悪を働きたい相手に対して、その相手が肉体に収まり続け、それによって自由が余り与えられないままであり続けることを望みます。
℘181   
そうあることでその相手は苦しめ易くなり、その利益や最愛の者を攻撃することが可能となるからです。大多数の憑依、特にかなり重傷な服従的憑依や支配的憑依の原因を、こうした事実の中に見出すことが必要です。憑依された者と支配する者は、殆どの場合、過去の復讐心の犠牲となっており、それがほぼ間違いなくそうした行動の動機となっています。

神は、彼らの行った悪を罰するためか、あるいは悪を行っていないのであれば、寛大さや慈善に欠けたことによって他人を赦すことができなかったことを罰するために、そうした憑依が起こることを許します。

ですから、未来の平安に目を向け、出来るだけ早く隣人に対して行ってきた悪を改め、敵を赦すことによって、死を迎える前に、あらゆる不和の原因、あらゆる過去の恨みの深い動機をも消滅させることが重要なのです。

こうすることにより、一方の世界における敵をもう一方の世界における友とすることが出来たり、少なくとも、赦すことを知る者が復讐を味わうことが無いように神がしてくれるための良い機会となります。

イエスが私たちにできるだけはやく敵と和解するように勧めた時、単に現世での不和を避けるように望んだのではなく、不和が未来の人生においてまでも続くことが無いことを望んだのです。イエスは、「最後の一銭を払い終わるまで」、つまり神の正義が完全に満たされるまで、「そこから出ることはできません」と言ったのです。



神にとって最も喜ばしい犠牲
七、だから、もしあなたが祭壇の前で供え物を捧げようとしたとき、そこで兄弟があなたに対して反感を抱いていることを思いだしたのであれば、その供え物を祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げに来なさい。(マタイ 第五章 23,24)


八、「まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げにきなさい」ということにより、イエスは、神にとって最も喜ばれる犠牲とは一人一人の悪い感情であるということを教えたのです。

神に赦しを求める前に他人を赦すことが必要であり、兄弟に対し何らかの悪を働いているのであれば、それを改めることが必要なのです。そうすることによってのみ、供え物は喜ばれることになります。

なぜなら、供え物はいかなる悪い考えにも汚されていない、純粋な心から送られたことになるからです。ユダヤ人には物質的な供え物を捧げる習慣があり、イエスは人々の習慣に自分の言葉を合わせる必要があったため、この教訓を具現化したのです。

キリスト教徒は供え物を精神化するため、物質的な供え物を捧げたりはしませんが、キリスト教徒に対してこの教訓がなんの力も持たないわけではありません。魂を神に捧げる時には、清らかな形で捧げなければならないのです。神の宮に入るなら、あらゆる憎しみや反感、兄弟に対する悪い考えをも宮の外にやらなければなりません。

そうすることによってのみ、その人の祈りは永遠に神の足元に届くことが出来るのです。もし神に喜ばれたいのであれば「祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行きなさい」と言う言葉を、イエスは教えてくれるのです。


  目の中のおが屑と杭
九、なぜあなたは、あなたの隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の中にある杭が見えないのですか。また、自分の目の中に杭があるというのに、あなたの隣人に対し、「あなたの目の中のおが屑を取り除かせてください」と、どうしていうことが出来るでしょうか。

偽善者よ、まず自分の目の中の杭を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、あなたの隣人の目の中のおが屑を取り除くことが出来るでしょう。(マタイ第7章3-5)


十、人間の悪癖の一つに、自分自身の悪を見つける前に他人の悪を見つけるということがあります。自分自身を判断するには、自分を鏡で見るように、とにかく自分の外へ出て、自分を他人だと思って問うてみなければなりません。「自分が行っていることを他人が行っていたら、それを見て私はどう思うだろうか」。

間違いなく自尊心というものが、肉体的であれ道徳的であれ、人間に自分の欠点を見ぬふりをさせているのです。このような特徴は根本的に慈善に反しています。なぜなら、真なる慈善とは慎ましく、簡素で寛容だからです。誇らしげな慈善など非常識なものです。

なぜならこの二つはお互いに打ち消し合うからです。実際に、自分の人間としての重要性とその性格の優越を信じている自惚(うぬぼ)れの強い人が、同時に、他人の持つ悪によって自分を引き立てる代わりに他人の持つ善を目立たせ、自分を目立たなくさせるだけの自己放棄の気持ちを持つことが出来るでしょうか。

だからこそ、自尊心は多くの悪癖を生みだし、また、多くの美徳を否定するものでもあるのです。自尊心は人間の行動のほとんどにおいて、その根拠もしくは原動力となっています。進歩の一番の障害となる自尊心を、イエスがあれほど打ち消そうとした理由はそこにあるのです。

℘184
 人に裁かれないよう、人を裁いてはいけません。
 罪を負わないものが最初の石を投じなさい
十一、人に裁かれないよう、人を裁いてはなりません。なぜなら、あなたが他人を裁いたのと同じようにあなたが裁かれることになるからです。他人に対して用いる秤と同じ秤で、あなたも量られることになるでしょう。(マタイ 第七章 1,2)


十二、すると、ファリサイ人や書記官たちが、姦通の罪によって捕らわれた女をイエスのところへ連れてきて、人々の前に立たせ、イエスに向かって言った、「先生、この女は姦通によって捕えられたところです。モーゼはその法によって、姦淫する者は石で撃ち殺せと命じています。それについてあなたはどのようにお考えですか」。

イエスを訴える口実を作るため、イエスを試そうとこのように言ったのである。イエスは身をかがめると、地面に指で何かを書かれていた。しかし、人々がしつこく問い続けるのでイエスは立ち上がっていわれた、「あなたたちの中で、罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」。

そして再び身をかがめて地面に物を書き続けられた。イエスに質問をした人々は、イエスの言った言葉を聞くと、年老いた者たちから順番に、次から次へとその場を去って行った。やがてイエスと女だけが広場に残された。

 イエスは立ち上がり、女にお尋ねになった、「女よ、あなたを責めた人たちはどこへ行ったのでしょう。誰もあなたのことを責めなかったのですか」。女「いいえ、誰も」と答えると、イエスは女に言われた、「私もあなたを責めません。さあ行きなさい。今後、再び罪を犯してはいけません」(ヨハネ 第8章 3‐11)


℘185        
十三、「罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」とイエスは言いました。この一言によってイエスは私たちが他人に対して寛容であることを義務としています。

なぜなら、自分自身に対して寛容を必要としない人間は誰一人いないからです。この言葉は、私たちが自分自身を判断する基準以上の厳しさによって他人を判断してはならず、また、自分自身も赦してもらいたいと思うようなことで他人を責めてはならないのだということを私たちに教えてくれています。

誰かをある失敗によって非難する前に、自分について同じような非難が当てはまらないかどうか、見てみなければなりません。

 他人の行動に向けられる非難は、二種類の力によって引き起こされます。悪を抑圧しようという力と、行動が非難されている者に対する不信を強めようという力です。後者であれば、そこに悪意や中傷しか存在せず、弁解の余地はありません。

前者であれば賞賛されるべきものともなり得、特定の場合には、人にやるべきことを指示することができます。なぜなら、そこから結果的に善が生まれる筈だからであり、又そうでなければ社会と言うものは決して悪を排除することが出来ないからです。

人間にとってその同胞の進歩を助けることは必要ないのでしょうか。必要であるがゆえに、「人に裁かれないよう、人を裁いてはなりません」という考えを、全く文字通りに受け取らないことが大切なのです。

 イエス自身が悪と戦い、力のこもった言葉によって私たちに模範を見せてくれたことからも、イエスが悪を非難することを禁止したとは考えられません。しかし、人を非難するだけの権威は、非難する者の道徳的権威にもとづいて存在するのだということを教えたかったのです。

他人を非難したことで自分自身も同じく罪を犯すということは、この権威を放棄することであり、抑制する権利を失うことなのです。ある権威を与えられた者が、その権威によって他人に適用しようとする法や規則を自ら破るのであれば、私たちの内なる本心はそのような者に対する敬意を失い、どのような自発的な服従をも拒むことになります。

善にもとづく規範によって支えられた権威以外に、正当な権威というものは神の目には映りません。このことが同様にイエスの言葉にも強調されているのです。





    霊たちからの指導

  攻撃を赦すということ 
十四、 私の兄弟を何度赦せばよいのでしょうか。七回ではなく、七回の七十倍赦さねばなりません。この言葉はイエスの伝えた言葉の中でも、より強く知性に響き、心の中では最も強く唱えられるべき言葉です。

イエスが使徒たちに教えた簡潔に要約されながらも熱望に満ちた祈りの言葉と、これらの慈悲深い言葉とを比べてみると、いつも同じ考えに辿り着くでしょう。

完全なる正義であるイエスはペテロに答えます。「限りなく人を赦さねばなりません。その攻撃がしばしば行われるものであっても、一つ一つの攻撃を赦さねばなりません。他人からの攻撃、悪行、屈辱によって傷つかずに済むように、あなたの兄弟たちに自分を忘れることを教えなければなりません。

それにより心は優しく、慎ましくなり、自分の温和さを量ろうなどとは決してしなくなります。結局、あなたが天の父にしてほしいと望むことを、あなた自身がしなければならないのです。

天の父はあなたを繰り返し赦してくれているではありませんか。あなたは、何度神の赦しが下り、あなたの過ちが消されたかを数えたことがあるでしょうか」。

 だから、このイエスの答えを聞き入れ、ペテロのように、自分自身に当てはめてください。人を赦し、寛大さをもって、慈悲深く、心を広く、あなたたち自身の愛に気前よくあってください。主が補充してくれるのですから与えて下さい。主が赦してくれるのですから、他人を赦してください。

主があなたを引き上げてくれるのですから、自分を下げてください。主があなたを主の右側に座らせてくれるのですから、自分自身を下げてください。

 愛する者たちよ、天高く輝く主のもとよりあなたたちに送るこの言葉を学び、伝えてください。主は常にあなたたちの方を向き、十八世紀前に開始された骨の折れる仕事を愛を込めて行い続けているのです。あなたもあなたの兄弟たちに赦してもらう必要があるのですから、あなたの兄弟たちを赦してください。

その赦されるべき行いがあなたに個人的な損害を与えたのだとしても、それはあなたが寛大になるためのもう一つの契機であると考えなければなりません。なぜなら、他人を赦すことの真価は赦す悪の重さに比例するからです。あなたの兄弟たちが軽い攻撃しかしていなかったのだとすれば、彼らの過ちを赦すことに何の価値もないことになります。

 スピリティストたちよ、言葉においても、行動においても、他人の侮辱を赦すことが虚空なものとなってはならないことを決して忘れてはなりません。


もしあなたが自分たちのことをスピリティストと呼ぶのであれば、あなたたちが行うことのできる悪を忘れ、実現することのできる善以外のことは考えず、真なるスピリティストとならなければなりません。

その道を歩みだした者は、思考の上でもその道から遠ざかろうとしてはなりません。なぜなら、あなたたちは思考に関して責任を持たねばならず、神はそのことを知っているからです。

思考の中からすべての怒りを奪い去ってください。神は一人一人の心の底にどのような感情があるのかを知っています。私は隣人に対して何の反感もない、と毎晩のように言いながら就寝できる者は幸いです。(シモン ボルドー、1862年)


十五、敵を赦すということは、自分自身の赦しを求めることです。友人を赦すことは友情の証を示すことです。他人の攻撃を赦すことは自分が向上することを示すことです。

友よ、だから神に赦してもらえるよう、他人を赦してください。なぜなら、あなたが強情で、しつこく、頑固であり、軽い攻撃に対しても厳しいのであれば、日ごとにあなたがより多くの赦しを必要としているのだということを、どうして神に忘れてもらおうと望めるでしょうか。

おお、「断じて赦さない」と言う者は、自分自身を咎めていることになるのですから不幸な者です。自分自身の内面を見つめてみれば、あなた自身が攻撃者であったことが判るかもしれません。

軽い失望にはじまり不和に終わるその戦いの、最初の一撃を加えたのはあなたであったのかもしれません。あなたが他人を傷つける言葉を与えたのかもしれません。あなたは必要なだけの温和さを用いましたか。相手が余りにも気性が激しくて、間違いなくその相手に過ちがあるかもしれません。しかし、そうであるからこそ、あなたは寛大でなければならず、相手をあなたの非難の的から外さねばならないのです。

ある場合においては、本当にあなたが他人の攻撃の犠牲者であったと仮定しましょう。しかしその一件の仕返しをしようと考えることによって、本来であれば簡単に忘れ去られて居たかも知れないことを、激しい議論にまで発展させていないでしょうか。

その一件の悪い結末を食い止めることがあなたにできたのであったとすれば、あなたにも責任があったことになります。あなたの行動にまったく非のうちどころがなかったと仮定しましょう。その場合、あなたが寛容であればあるほど、あなたの功労は大きいのです。

 しかし、赦し方には全く違った二つの方法があります。口先だけの赦しと心からの赦しです。多くの人は、その対立した相手に対し、「私はあなたを赦します」といいますが、心の中ではその人に起こる悪を喜び、それをその人が受けるべき報いであると言います。

どれだけの人が「赦す」と言いながら、「しかし、決して仲直りはしない。一生相手の顔も見たくない」と付け加えることでしょうか。このような「赦し」は福音に則った赦しでしょうか。

いいえ。真の赦し、キリストの教える赦しとは、過去をベールで覆う赦しです。神は見せかけだけでは満足しないため、そのような真の赦しだけがあなたたちの功労として数えられるのです。神は心の奥深くや、心に秘めた考えをも調べます。無駄な言葉や見せかけによって神を騙すことは誰にもできません。

完全かつ絶対的に他人の攻撃を忘れることは、偉大な魂だけにできることです。恨みは常に魂の劣等、不完全のしるしです。真の赦しとは言葉よりも行動によって知ることが出来るのだということを忘れないでください。 (使徒パウロ リヨン、1861年)
 
   
  寛大さ
十六、スピリティストたちよ、全ての人間がその兄弟のために持つべき、甘く、兄弟愛に満ちた感情でありながら、ほんの僅かな人たちだけがその使い方を知っている寛大さについて、私たちは今日あなたたちにお話します。

 寛大さというものは、他人の短所を見つけ出すことをせず、また、見つけたとしても、そのことを口に出したり、他人に言いふらしたりしません。反対にその短所を隠し、そのことが自分以外の誰にも知られることがないように努め、もし悪意を持った人たちがそのことを知ったとしても、彼らに対して、いつでも過ちを犯した者をかばうための弁解を用意しています。

その弁解とは、称賛に値すべき本心からのものです。人の過ちについて、表向きには寛大に受け止めるふりをしながら裏で不誠実な証言をするような弁解ではありません。

 寛大さは相手を助けるため以外には、決して他人の悪い行いを気に掛けることはありません。しかし、相手を助ける場合でも、出来る限りその悪い行いを軽くしようとします。衝撃的な注意をしたり、口で相手をとがめたりはしません。忠告だけを、それもそれとないやり方で相手に示します。

もし、相手を非難するのであれば、あなたの言葉はどのような意味を持つことになるでしょうか。あなたは非難しているのですから、同じ過ちを犯すことはなく、つまりあなたは非難した相手よりも価値のある人間であるという結論になります。

おお、人類よ、いつになったらあなたたちは自分の兄弟の過ちを気に掛けることなく、自分自身の心、自分自身の考え、自分自身の行動を咎めることができるようになるのでしょうか。いつになれば自分自身だけに対する厳しい目を持つことが出来るのでしょうか。

 自分自身に対して厳しく、他人に対して寛大でありなさい。一人一人の心に秘められた部分の動きを見ることができ、全ての行動の動機を知っているがために、あなたが見つけたり、非難したり、批判したりする過ちを、何度も赦してくれる、最後の審判を下す者のことを覚えていてください。

大きな声を上げ、「破門だ」と叫ぶあなたたちこそが、より重大な過ちを犯しているのかも知れないのだということを覚えておいてください。

 友よ、寛大であってください。寛大さは人々を引きつけ、穏やかにし、元気づけますが、厳しくすることは、元気を失わせ、人々を遠ざけ、苛立たせます。(守護霊ヨセフ ボルドー、1863年)
   
   
十七、その過ちがどんなものであったとしても、他人の過ちに対して寛大であってください。自分の行動以外を厳しく非難してはなりません。神はあなたたちに対して寛大であり、あなたたちも他人に対してそうであるべきなのです。

 強い者たちは耐えなければなりません。彼らが忍耐強くあるように励ましてあげてください。弱い者たちには、どんな小さな後悔さえも考慮してくれる神の善意を示してあげることによって、彼らを強くしてあげてください。

白い羽を人間の過ちの上に差し延べてくれることによって、何が不純であるのかを見ることができない者たちの目からその過ちを隠してくれる、後悔の天使がいることをすべての人に教えてあげてください。

あなたたちの父の無限の慈悲を理解し、あなたたちの思考や、特にあなたたちの行動において、「私たちを攻撃した人たちのことを赦しますので、私たちの過ちもお赦しください」ということを決して忘れてはなりません。

この言葉のもつ崇高な価値を理解してください。言葉自体が素晴らしいだけでなく、その中に込められた約束も素晴らしいものだからです。


 主にあなたたちの赦しをお願いする時、あなたたちは何を求めていますか。あなたたちの罪を忘れてほしいと思うだけですか。忘れることはあなたたちに何も残してくれません。なぜなら、もし神があなたたちの過ちを忘れることで満足するのであったとしたら、神は罰することもしなければ償ってくれることもしないからです。

行ってもいない善に対して報酬を受けることはできず、悪を行ってしまったのであれば、たとえそのことを忘れてもらうことが出来たとしても、尚更報酬を受けることはできません。

あなたたちの過ちに対して赦しを求め、神の恵みによって再び同じ過ちを繰り返さないように願い、新しい道を進み出すのに必要な力を求めてください。その新しい道とは服従と愛の道であり、その中であなたは、後悔を改善に結びつけることができるようになるでしょう。

 あなたの兄弟を赦す時、単に過ちを忘却のベールで覆うだけで満足してはなりません。このベールはほとんどいつも、あなたたちの目には透明に映ります。あなたたちの赦しに愛を加え、あなたたちが天の父にして欲しいと望むようなことをあなたたちの兄弟にしてあげてください。汚点を残す怒りを愛によって清めてください。

イエスがあなたたちに教えてくれた、疲れを知らない生きた慈善を、模範を示すことによって他人に伝えてください。イエスが地上で生活した間、ずっと行ったように、生きた慈善を肉体の目に見えるように伝え、またそれが霊の目にしか見えなくなってしまった後にも、休むことなく伝えてください。

この神聖なる模範に則って、その足跡に沿って歩んでください。その模範は、あなたたちを戦いの後に、休息を取ることのできる避難所へと導いてくれます。イエスのように十字架を担ぎ、痛々しくとも勇気をもってカルバリオへと登っていってください。その頂上には栄光が待っているのです。 (ボルドーの司教ヨハネ、1862年)


十八、親愛なる友よ、自分たちに対して厳しく、他人の弱みに対して寛大であってください。ほんの少しの人たちしか気づいていませんが、これも聖なる慈善を実践する方法の一つなのです。

あなたたちはみな、克服しなければならない悪癖や、改めなければならない短所、変えなければならない習慣を持っています。あなたたちすべてが重い負担を抱えていますが、進歩の山を登るためにはそれを軽くしなければなりません。それなのになぜ、他人のこととなると頭がはっきりし、自分自身のことになるとそれほどまで盲目になってしまうのですか。

あなたたちは、自分たちを盲目にし、下落の方向へと歩ませている自分の目の中の杭にも気が付かず、いつになればあなたを傷つける兄弟の目の中の些細なものを気にすることをやめるのでしょうか。あなたたちの兄弟である霊たちのことを信じてください。

自分を他の兄弟たちに比べ、その美徳や長所においてより優秀であると考える自尊心の強い人はみな、愚かで罪深いのであり、神の審判が下る時、神に罰せられることになります。

慈善の真なる性格は、慎ましさと謙遜であり、他人の表面的な欠点を探すようなことなく、隣人に、その人の善いところ、徳の高いところを目立たせようとすることから成るのです。なぜなら、例え人間の心が堕落の深淵のようであったとしても、その心の隠れた奥底には、必ず霊の本質の輝く火花の様な善なる感情の種子が存在するからです。


 慰安をもたらす祝福された教義であるスピリティズムを知り、主が送られた霊たちの健全な教えを有効に利用する者は幸いです。こうした者たちにとって教えは明確であり、的を射た方法を教えてくれる次の言葉を、長い道のりの間いつも読むことが出来るのです。

「慈善の実践、自分に対して行うように、隣人に対して慈善を行う」を簡潔に表すならば、すべての人に対して慈善を行い、あらゆるものの上に神に対する愛を抱いてください。

なぜなら、神に対する愛はあらゆる義務を要約しているからです。慈善を行うことなしに神を愛することは不可能であり、神はそのことを全ての創造物のための法としているのです。(ヌウ“ェールの司教デュフェートル ボルドー)
  
℘193          
  他人を叱ることは許されますか。
  他人の不完全性を指摘し、他人の悪を広めることは許されていますか  
十九、
 誰も完全ではないのですから、誰にも隣人を叱る権利はないのだということが出来るのではないでしょうか。


 もちろんそうではありません。なぜならあなたたちは、一人一人が全ての人の進歩のために働かなければならず、また、あなたたちが面倒を見る人のためには特に働かなければならないからです。

しかし、そうであるからこそ、有益な意図によって慎重に人を叱らなければならないのであって、通常ありがちなように、相手を痛めつけることの喜びのためであってはなりません。相手を痛めつけるために叱るのであれば、その人の検閲は悪意でしかなくなります。

有益な意図によって叱るのであれば、それは慈善によって要求された任務として、出来る限りの注意が払われなければなりません。さらに、他人に向けた批判は私たち自身にも向けられることになるので、自分も叱られるべき立場にないかどうかを見なければなりません。
  
    
二十、その人に取って何の益ももたらさない他人の不完全性に気づくことは、そのことを人に広めなかったとしても咎められるべきことなのでしょうか。



 そこにある意図によります。確かに悪が存在するのであれば、その悪を見つけることは禁じられてはいません。全ての場所に善だけしか見ることがなかったとしたら不都合です。それは進歩を妨げることになります。

人の悪に気づき、世間に不必要にその人の悪評を立てることによって、隣人に損害を与えるところに過ちが生じるのです。それに悪意が伴い、他人の欠点を見つけたことに満足しながら行うのであれば、なおさらとがめられるべきことです。

しかし、悪の上をベールで覆い、それを公に知らせまいとし、その悪を研究し、他人の中に非難したことを自ら避けようと、個人的な利益に結び付けるためにのみそれを観察するのであれば、事はまったく逆になります。このような観察は、道徳を学ぼうとする者にとっては有益ではないでしょうか。実例を学ばなければ、どうやって人間の不完全性を表すことが出来るでしょうか。 (聖王ルイ パリ、1860年)



二十一、他人の悪を見つけることが役に立つことがありますか。

 この問題は非常にデリケートでありそれに答えるには、よく理解された慈善に訴える必要があります。もしある人の不完全性がその人にしか損害を与えないのであれば、その不完全性を他人に広めることに何の意味もありません。

しかし、もしその不完全性が他人にも損害を与えるのであれば、一人よりも複数の利益を重視する必要があります。状況に応じて偽善と虚偽の仮面を剥ぐことも一つの任務です。

なぜなら、多くの人が騙され、犠牲者となるよりも、一人だけが罠にはまった方がましであるからです。そのような場合には、利点と不都合をよく秤にかけて見極める必要があります。 (聖王ルイ パリ、1860年)

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