Monday, March 24, 2025

シアトルの春  慈善なしには救われません。

You cannot be saved without charity.



霊が救われるために必要なこと 

一、 人の子がその尊厳によって、全ての天使たちに伴われて来る時、彼はその栄光の座につくでしょう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らをより分け、羊は右側に、山羊は左側に置くでしょう。その時王は、右側にいる者たちに向かって言うでしょう、


「私の父に祝福された者たちよ、世のはじめからあなたたちの為に準備された王国を手に入れなさい。

なぜならば、私が飢えていた時には食料をくれ、喉が渇いていた時には飲み物をくれ、宿を失った時には宿を貸してくれ、裸でいた時には衣服を着せてくれ、病んでいた時には訪ねてくれ、投獄されていた時には私に会いに来てくれたからです」。すると、正しい者たちは言うでしょう、「主よ、いつ私たちが、あなたが飢えていた時に食料を与え、喉が渇いている時に飲み物を与えたというのでしょうか。

いつ私たちが、あなたが宿を失ったのを見て宿を貸し、裸の時に衣服を与えたというのでしょうか。そしていつ、あなたが病んでいたり投獄されていることを知り、訪ねて行ったというのでしょうか」。

すると王は答えるでしょう、「誠に言います。私の最も小さい兄弟に対してそれらのことを行った時、それはいつも私に対して行ったのと同じです」。続いて左側にいる者たちに言うでしょう。

「邪悪な者たちよ、私の側から離れなさい。悪魔とその使いのために準備された永遠の炎の中に入ってしまいなさい。なぜなら、私が飢えていた時、食べる物をくれず、喉が渇いた時、飲み物をくれず、宿が必要であった時、宿を貸さず、服をまとっていなかったとき、衣服を着せず、病み、投獄された時、私を訪れてくれなかったからです」。

すると彼らは答えるでしょう、「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えているのを見て食料を与えず、喉が渇いているのを見て飲み物を与えず、衣服もなく、宿もなく、病み、投獄されているのを見てそれを助けなかったというのでしょうか」。

すると彼は答えて言うでしょう、「誠に言います。これらの最も小さい者たちに対する救済を行わなかったのは、すなわち、私自身に対して救済を行わなかったのです」。そしてそれらの者は永遠の苦悩へと行き、正しい者たちは永遠の命へと行くのです。(マタイ 第二十五章 31-46)

℘271     
二、するとそこへ、ある律法学者が現れ、彼を試そうとして言った。「先生、永遠の命を得るためにはなにをすればよいのでしょうか」。

イエスは彼に答えて言われた、「律法にはなんと書いてありますか。どのように読むことができますか」。

彼は答えて言った、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。また、自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」。

するとイエスは言われた、「大変よく答えました。そのように行えば、永遠の命を得ることが出来るでしょう」。

すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った。「隣人とは誰のことですか」。

イエスはその言葉を聞いて、彼に言われた、「エレサレムからエリコへ向かっていたある男が泥棒に捕まってしまい、泥棒はその男から盗み、男を傷だらけにし、瀕死の状態にしたまま去って行った。

すると、そこへ司祭が同じ道を通ってやって来たのだが、その男を見ると、向こう側を通って行った。次にレビ人がやはりその場所を通ったが、その男を見ると、やはり向こう側を通って行った。

しかし、旅をしていたサマリア人が、その男が横たわっているのを見て憐れに思い、その男に近づくと、油とワインを傷口に塗って手当てをし、その後自分の馬に乗せて宿に連れて行き、その男の看病をした。

翌日「この男の面倒をよく見てください。お金が足りなかったら私が戻った時に支払います」と言って、二デナリの金を宿主に渡した。この三人のうち、誰が泥棒に捕まった男の隣人でしょうか」。

律法学者は答えた、「彼に対して慈悲を掛けた者です」。するとイエスは言われた、「それならば行って、同じことを行いなさい」。(ルカ 第十章 25-37)


三、イエスの道徳のすべては慈善と謙虚さに要約されています。すなわち、エゴイズムと自尊心に相反する二つの美徳です。イエスのすべての教えの中には、永遠の幸福に導くこれら二つの美徳が示されています。

「魂の貧しい者、すなわち謙虚な者は幸いです、なぜなら天の国は彼らのものだからです」と言いました。

「心の清い者は幸いです」「柔和で平和をつくる者は幸いです」「慈悲深い者は幸いです」「あなたたちと同じようにあなたたちの隣人を愛しなさい」「自分にして欲しいと思うことを他人にしてあげなさい」「あなたたちの敵を愛しなさい」「赦されたいのであれば、あなたに対する攻撃を赦しなさい」

「見せびらかすことなく善を行いなさい」「他人を評価する前に自分自身を評価しなさい」。謙虚さと慈善こそ、イエスが私たちに勧め、また、彼自身が模範を示したものです。

自尊心とエゴイズムこそ、戦い続けなければならないものです。また、慈善は勧められるだけではありません。明白に、はっきりとした言葉を用いて、未来における幸福の絶対的な条件として示されております。

 最後の審判を描いた場面の中でも、その他の多くの場面でそうであるように、単なるたとえ話として表された部分を区別しなければなりません。イエスが話をした人たちのような、いまだに純粋で霊的な問題を理解することのできない人たちに、イエスは印象的で衝撃的な具体的イメージを与えなければなりませんでした。

イエスの言うことを彼らがよりよく学ぶためには、形の上で当時の考え方からあまり遠ざからないものとしなければならず、イエスの言葉や、明白に説明することができなかった部分の真なる解釈については、後世に残す必要があったのです。

しかし、その説明の象徴的なたとえや装飾的な部分に沿ってある考えが支配しています。すなわち、正しい者に用意された幸福と悪い者に用意された不幸の考えです。

 その最高の審判における判決の理由はなんなのでしょうか。訴訟書はなににもとづいているでしょうか。審判者は果たして、取り調べられる者があれこれのしきたりを重んじたかとか、あれこれの行いを守ったかなどと尋ねているでしょうか。いいえ、そのようなことは尋ねていません。

たった一つのことしか尋ねていないのです。それは慈善を行ったかどうか、と言うことだけであり、次のように判定されたのです。「あなたたちの兄弟たちを助けた者は右へ行きなさい。彼らに対して冷たく対応した者は左に行きなさい」。

ところで、ここで信仰の正統性について述べているでしょうか。ある方法で信じる者と、別の方法で信じる者との区別を付けているでしょうか。

いいえ。イエスはサマリア人を、異教徒と考えられていたにもかかわらず隣人愛を実践する者として、慈善の欠ける正統派よりも上位に位置づけています。すなわち、慈善を単に救いの条件のうちの一つとしているのではなく、唯一の条件であるとしているのです。

もしその他の条件があったのであれば、イエスはそれについて述べていたはずです。慈善を第一に置くのは、それが暗黙のうちにその他のすべてのことを含んでいるからです。すなわち、謙虚さ、優しさ、善意、寛大さ、正義などです。なぜなら、それは自尊心とエゴイズムの絶対的な否定であるからです。
     

 最大の戒め
四、さて、イエスがサドカイ人たちを黙らせられたことを聞いたファリサイ人たちは、一団となって集まった。そのうちの一人は律法学者であったが、イエスを試そうとして尋ねた、「先生、律法のうちで最大の戒めとは何ですか」。イエスは答えられた、

「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。これがもっとも大切な第一の戒めです。同様に第二の戒めは、自分を愛するように隣人を愛しなさい。すべての律法がこれら二つの戒めにかかっており、また、預言者も同様です」。(マタイ 第二十二章 34-40)


五、慈善と謙虚さ、それらが救済の唯一の道です。エゴイズムと自尊心、それらは破滅の道です。この原則は次の簡潔な言葉の中に明確にされています。「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。自分を愛するように隣人を愛しなさい。

あらゆる法も預言者たちもこれらの二つの戒めを守らなければならないとしています」。
そして、神への愛と隣人への愛の解釈に間違いがないようにするため、次のように付け加えています。「ここに第一の戒めと同等の第二の戒めがあります」。

つまり、隣人を愛することなく神を本当に愛することも出来なければ、神を愛することなく隣人を愛することも出来ないのです。隣人に対する慈善を行うことなく神を愛することはできないのですから、人間のあらゆる義務は次の金言に要約されることになります。「慈善なしには救われません」


 聖パウロによる慈善の必要性
六、たとえ私が、人類の持つすべての言語を話せたとしても、天使の言葉を話そうとも、私に慈善がないのであれば、音を立てる銅鑼(ドラ)かシンバルと同じです。

たとえ私に、あらゆる神秘を解き明かすことのできる預言の才があったとしても、またあらゆる物事に対する知識を持っていたとしても、また、山をも動かすほどの信心を持っていたとしても、私に慈善がないのであれば、私は何者でもありません。

また、貧しい者に食べ物を与える為に私の財産を施し、私の身体を焼かれるために捧げようとも、慈善がないのであれば、それらすべては私にとって何の役にも立ちません。

 慈善は寛容であり、情け深い。慈善は嫉妬深くありません。高ぶったりはしません。自尊心に満ちることもありません。不作法をしません。自分の利益に囚われません。腹を立てることもなければ、何に対しても怒ることがありません。

悪いことかと疑わせることはありません。真実に喜ぶことはあっても、不正に喜ぶことはありません。すべてに耐え、すべてを信じ、すべてを待ち、すべてを受け入れます。

 さて、信心、希望、慈善という、いつまでも存続する三つの美徳があります。しかし、その中で最もすばらしいものが慈善です。(パウロ 第一コリント 第十三章 1‐7,13)


七、この様に聖パウロはこの偉大なる真理を理解したのです。「天使の言葉を話そうとも、あらゆる神秘を説き明かすことのできる預言の才があったとしても、山をも動かすほどの信心を持っていたとしても、私に慈善がないのであれば、私は何者でもありません。
℘275   
信心、希望、慈善と言う三つの美徳のうち最もすばらしいのが慈善です」。間違いなくこの様に、慈善を信心にも勝って位置づけています。慈善はあらゆる人の手の届くところにあるからです。

 つまり、無知な者から、賢者、裕福な者、貧しい者まで、特別な信仰とは全く関係なく、誰の手にも届くのです。さらに、真なる慈善を定義し、善行の中ばかりではなく、隣人に対する善意と慈悲心、心のあらゆる特性の中でそれを示しています。     


 教会なしには救われません。
 真実なしには救われません

八、「慈善なしには救われません」という金言が、全世界的な原則として、神の子すべてに至上の幸福への扉を開いている一方で、「教会なしには救われません」という教理は、根本的な神に対する信仰と魂の不滅に基づいているのではなく、すべての宗教に共通な、ある特定の教理に対する特別な信仰にもとづいています。

それは絶対的で排他的なものです。神の子を一つに統合するどころか、分裂させてしまいます。兄弟たちに対する愛を刺激する代わりに、家族や仲間同士であるにもかかわらず、お互いを永久に極悪と考え、それぞれの異なる宗派に苛立ちを植えつけ、けん制させ合います。

墓を前にすべてが平等であるという偉大なる法を無視し、これらの教理はお互いを、休息の場所においてさえも反発させます。

「慈善なしには救われません」という金言は、神の前の平等という原則と良心の自由を神聖化しています。それを規則とすることにより、人類はみな兄弟であり、創造主を崇拝する方法がどうであろうとも、手を差し出し合い、お互いに祈り合うことが出来るのです。

「教会なしには救われません」という教理によれば、お互いがののしり迫害し合い、敵同士として生きることになってしまいます。

お互いが容赦することなく非難し合っているために、父親が息子のために願ったり、息子が父親の為に願ったり、友人が友人のために願ったりすることができません。つまり福音の法とキリストの教えとに根本的に対立する教理なのです。

℘276    
九、「真実なしには救われません」も、「教会なしには救われません」と同じで、真実という特権を主張しない宗派が存在しないことから、やはり排他的であると言えます。

毎日知識の領域は絶え間なく広がり、考えは改まっていくというのに、どんな人間に、すべてを所有していると自慢することが出来るというのでしょうか。絶対の真実はより高い分類の霊たちだけに所属し、地上に生きる人類にはその所有を主張することはできません。

なぜなら、人類はすべてを知るようにはできていないからです。人類は単に、相対的でその進度相応の真実を熱望することしかできません。

もし神が、絶対的な真実を得ることを、未来における幸福の条件と明示していたならば、その一般的な規則を唱えていたはずであって、一方で、慈善はその最も広い意味においては誰にでも実践することができるものなのです。

スピリティズムは福音に従って、どんな信仰とも無関係に、神の法が守られる限り誰に対する救済も認め、「スピリティズムなしには救われません」と言うことはありません。

また、いまだに真実の全てを教えると主張するようなことはできないため、「真実なしには救われません」と言うこともありません。なぜなら、これらの教えは敵対する者たちを、統合し永続させる代わりに分裂させてしまうからです。





    霊たちからの指導

  慈善なしには救われません
十、 親愛なる子供たちよ、「慈善なしには救われません」という金言の中には、人類の地上での、そして天における目的地が述べられています。なぜ地上での目的地なのかと言えば、この旗のもとに人類は平和に生きることが出来るからです。

なぜ天における目的地かと言えば、慈善を実践した者は神の前に恵みを受けることになるからです。この金言は天に灯るたいまつであり、人生の砂漠にある人類を案内する輝く支柱であり、人類を約束された土地へと導いてくれます。

その金言は、選ばれた者たちの頭上にある聖なる後光のように天に輝き、地上では、イエスが「私の父に祝福された者たちよ、私の右側に行きなさい」

と伝える者たちの心の中に刻まれています。彼らがその周りに放つ慈善の香りによって、あなたたちは彼らを知ることが出来るでしょう。

この天からの金言よりも正確に、人類の義務を要約したものはありません。その金言を規則として掲げること以上に、うまくスピリティズムの性格を証明する方法はなく、したがってスピリティズムは最も純粋にキリストの教えを映し出しています。

その金言を案内とすれば、人類は決して道を誤ることはありません。だから、親愛なる仲間たちよ、その深い意味とその重要性を検討し、自分たち自身でその応用を見つけることに身を捧げてください。

あなたたちのすべての行動を慈善の支配下に置けば、良心は応えてくれます。それはあなたが悪を働くことから遠ざけてくれるばかりではなく、善を行わせてくれます。それは消極的な美徳だけでは不十分であるからです。能動的な美徳が必要です。

善を行うには、意志を行動に移すことがいつも必要です。悪を働かずにいるだけなら、怠慢と無関心でいるだけで事足りる場合がほとんどなのです。

友よ、スピリティズムの光を享受することが許されたことを神に感謝してください。それを享受しただけで救われるわけではありませんが、キリストの教えをあなたたちが理解するのを助けることにより、あなたたちをより良いキリスト教徒にしてくれるのです。

だから、あなたたちの兄弟があなたたちを見て、真なるスピリティストとは真なるキリスト教徒と同じであり、慈善を行う者は所属する宗派に関わらず、すべてがイエスの使徒なのだということを知ることができるように努力をしてください。(使徒パウロ パリ、1860年)

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