Monday, March 17, 2025

シアトルの弥生 柔和で平和をつくる者は幸いです

Blessed are the meek and peacemakers!





  侮辱と暴力

一、柔和な者は幸いです、その人は地を相続するからです。(マタイ 第五章 5)

二、平和をつくる者は幸いです、その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ 第五章 9)

三、昔の人々に「人を殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、誰でも裁きを受けなければなりません。兄弟に向かって「ラッカ(愚か者)というような者は、審判所に被告人として送られるでしょう。また、「気が狂っている」というような者は、地獄の火へ投げ込まれるでしょう。(マタイ 第五章 21,22)
    
     
四、これらの金言によって、イエスは柔和、温和、親切、忍耐を規律としています。それにより暴力、怒り、同胞に対するいかなる無作法な表現をも非難しています。「ラッカ」とはヘブライ人の間で使われた侮辱の表現で、価値のない人を意味し、頭を横にそらし、唾を吐きながら発音した言葉です。

兄弟に対して「気が狂っている」などという者は、さらにひどく責められることが、地獄の火によって脅かされています。

 いかなる状況でも、同じように、意志が過ちの重大さを増したり、軽減したりするということはここでも明らかです。ではなぜ、たった一言の表現がそれほど重大にとられ、それほどまでに厳しい非難を受けなければならないのでしょうか。

それは、いかなる攻撃的な言葉も、人間同士に和解と協調をもたらすために支配する愛と慈善の法に背いた感情を表現するからなのです。

そうした表現は、人間相互の慈悲心や同胞愛に対して振り下ろされる一撃となります。それは憎しみと恨みをもたらします。いかなるキリスト教徒にとっても、神に対する謙遜の気持ちの次には、隣人への慈善こそが最も重要な規律なのです。
   
℘173            
五、では、人間に対し、この世の富を放棄することによって天の富を約束したイエスが、「柔和な者は幸いです、その人は地を相続するからです」という言葉によって、何を教えようとしたのでしょうか。

 天の富を待つ間、人間は生きるために地上の富を必要とします。イエスは単に、後者を、前者よりも重要視することがあってはならないと教えたのです。

 その言葉により、今のところはまだ地上の富が、柔和で平和をつくる者を犠牲にして、暴力的な者によって独占されていることを示そうとしました。必要なものを過剰に所有している者がいる一方で、柔和で平和をつくる者には多くの場合、必要なものさえも欠けています。

彼らに対して、イエスは、地上においても、天と同じように正義がなされることを約束しています。なぜなら、そうした柔和で平和をつくる者は、神の子と呼ばれるようになるからです。

人類が愛と慈善の法に従うようになれば、誰もわがままを言うことはなくなります。弱くおとなしい者は、もはや搾取されたり、強く、暴力的な者に押しつぶされることはありありません。進歩の法とイエスの約束に従い、悪を遠ざけることによって世界が幸せになった時、地球はそのようになるのです。






   霊たちからの指導
  
  愛想の良さと温和さ
六、隣人への愛がもたらす同胞への好意は、その気持ちを表現しようとする時、愛想の良さと温和さを生みます。しかし、必ずしも見かけだけを信じてはなりません。教育を受けたり、世間慣れすることは、人間にこうした見かけ上の性格を与えます。

善良さが表向きの仮面であったり、内面的な奇形を目立たなくさせる立派な衣装のようなものでしかない人がどれだけいるでしょうか。世の中には、口元には笑みを浮かべ、心には毒を持った人々があふれています。
℘174   
腹立たしいことが無い限りは優しく、しかしどんな小さな矛盾にも噛みついてきます。その言葉は前を向いている間は金色に輝き、後ろを向くと毒の塗られた槍となります。

 外見的には親切でありながら、家庭内では暴君で、家の外で自分自身が押し込められている窮屈な思いに対してうさを晴らすように、家族や彼に従う者を傲慢と独裁の重荷で苦しめる人も、そうした人々と同じ部類に属します。

他人を命令に従わせるだけの権威を持っていないため、少なくとも自分に反抗することのできない者には自分に対して気遣わせようとします。その様な者はうぬぼれて言います。

「ここでは私が命令し、私にみなが従うのだ」。しかしその時、「そして、私はみなに嫌われているのだ」と付け加える必要があるとは思いつかないのです。

 口元からのみ甘い言葉があふれていてもことは足りません。そこに心が伴っていないのであれば、それは偽善でしかありません。見せかけではない愛想の良さと温厚さの持ち主は、矛盾することはありません。社会的にも個人的にも同じです。

そうした者は、それ以上に、見せかけによって人間を騙すことはできても、神を騙すことはできないということを知っているのです。(ラザロ パリ、1861年)


 忍耐
七、痛みは、神によって選ばれた者に贈られる神からの恵みです。だから苦しむとき、不安を感じたらいけません。まず、この世において苦しみを与えることによって天におけるあなたたちの栄光を示してくれた、全能なる神を崇めることです。

 忍耐強くあってください。耐えることも慈善の一つであり、あなたは、神より送られたキリストによって教えられた慈善の法を実践しなければなりません。中でも貧しい人に小銭を与えることは、最も容易な慈善です。しかし、他にも、より苦しく、より賞賛に値する別の慈善があります。

それは、神が私たちの忍耐を試そうと、私たちの歩む道の途中においた人々を赦す、という慈善です。人生が困難であることを、私はよく知っています。
℘175
人生はたくさんの取るに足らないことばかりで満ちており、それらが針でつつくように、私たちを痛めつけるのです。

しかし、私たちに課された義務を行うならば、それが一方ではその代償や忠告を受け取ることになって、痛みに比べれば遥かに多数の恵みとなるのだ、ということを改めて知る必要があります。頭をうなだれた時よりも、頭を上げて上を見上げた時の方が、背負って居る荷は軽く感じられるものです。

 友よ、勇気を出してください。あなたの模範をキリストに求めてください。あなたたちの誰よりもキリストは苦しみましたが、それを悔いることはありませんでした。あなたたちはあなたたちの過去を償い、未来へ向けて強くならなければいけないのです。ですから、忍耐強く、キリストの教えを守る者であってください。それがすべてです。(ある友人の霊 ルアーウ“ル、1862年)


  服従と甘受
八、イエスの教義はすべての箇所において、温和さと切り離すことのできない服従と甘受の気持ちという、とても能動的な二つの美徳を教えていますが、人々は誤って、それを感情と意志の否定と取り違えてしまいます。服従とは理性が同意することです。甘受とは心が同意することです。

どちらも能動的な力であり、反逆的な愚かな者であれば落してしまう、試練の重荷を持ち上げることのできる力なのです。臆病な者は甘受することが出来ず。同様に傲慢な者や利己的な者は服従することができません。イエスはこれらの美徳そのものとして生まれましたが、当時の人々は彼を軽んじました。

イエスはローマの社会が堕落と衰退によって滅びようとしていた頃に生まれました。抑圧された人類の中に、献身と欲情の放棄がもたらす勝利を輝かせるために来たのです。

 どの時代にも、残すか失うかしなければならない、美徳や悪徳のしるしが残されています。あなたの時代の美徳は知性的な活動です。悪徳は道徳的無関心です。

単に「活動」と表現しているのは、天才が自分一人だけで、他の大勢はもっと後になってからしか見ることのできない地平線を見つけることが出来る一方で、「活動」はそれほど輝かしくなくとも、全ての者の努力を集結し、その時代の知性的な向上の証となるような、ある目的を達成することを指すからです。

私たちがあなたたちの霊に与える刺激に従って下さい。偉大なる進歩の法に服従してください。それがあなたたちの時代の言葉です。

怠惰な霊や理解の扉を閉じてしまう霊の可哀想なことよ。ああ、前進する人類の導き役である私たちは、あなたたちに鞭撻(べんたつ)し、また反抗的な心には、二重の作用によって、歯止めをかけたり、拍車をかけたりします。

どんな傲慢な抵抗も遅かれ早かれ負かされてしまいます。しかし、温和な者は幸いです。なぜなら、教えに従順に耳を傾けることができるからです。(ラザロ パリ、1863年)
  
℘176        
 怒り
九、自尊心は、あなたたちを実際以上に偉大であると思い込ませます。あなたが卑しめられるような比較には耐えられなくさせます。

反対に、霊的にも社会的にも、また、個人的な長所においても、あなたは自分の兄弟よりもずっと上にいるのだと考え、下級の者があなたを苛立たせ、がっかりさせるのだと考えるようにさせます。すると何か生まれるでしょうか。そう、あなたは怒りに身を任せることになるのです。

 あなたを凶暴な者と同じくし、冷静さと理性を失わせる、この一時的な狂気に駆られる原因を調べてみて下さい。調べてみればほとんどいつも、傷つけられた自尊心をそこに見つけることが出来るでしょう。

もっともよく熟考された忠告に対して、あなたが苛立ち、拒絶するのは、あなたの自尊心が否認されたこと以外にどんな理由があるというのでしょうか。各々が自分自身を他人より重要であると考えていることが取るに足りない不満の原因となっている辛抱のなさをも生んでいるのです。

 かんしゃくを起すと、怒りっぽい人間はすべてに対して当り散らします。自分の粗暴な性格や、動かぬ物体にあたり、自分の言うことに従わないとそれらを破壊します。ああ、その時、冷静に自分を見つめることが出来たなら、自分自身を恐れるか、あるいは自分自身の愚かさを知ることが出来るでしょう。

その時他人に対してどんな印象を与えたかを想像して見てください。それがたとえ、単なる自分への尊敬の気持ちからくるものでなかったとしても、私たちは自分を憐れみの対象としてしまう傾向には打ち勝つ努力をするべきです。

 怒りはどんな薬でも抑えることが出来ず、健康を害し、命までも危うくするということを考えれば、自分自身が自分の怒りの第一の犠牲者となっていることが認識できるでしょう。しかし何よりも、頭に入れておかなければならないもう一つの考えは、怒ることによって周りにいる人たちを不幸にしてしまうということです。

心を持っているのなら、最も愛する相手を苦しめることは、後悔に値することではないでしょうか。怒りの発作の時、その人を一生嘆き悲しませるような行動を取ってしまったら、私たちの良心はその責任をひどく重く感じることになるでしょう。

 つまり、怒りは、心から良心を奪いはしませんが、私たちにどんな善行をも行うことを妨げ、私たちを悪行に導くのです。そうした理由だけで、人類は怒りというこの悪い特徴を克服する努力をするに十分に値します。

ましてスピリティストであるならば、もう一つの理由によって努力しなければなりません。それは、怒りがキリスト教徒の慎ましさと慈善に反する、という理由です。(ある守護霊 ポルドー、1863年)


十、自分自身の性格は変えることができないという大きく誤った考えは、人をわがままにさせ、多くの忍耐によってのみ根絶することのできる自分の欠点を改める努力は免除されているのだと判断させてしまいます。例えば、怒りっぽい傾向にある人は、大抵それを自分の気質のせいにします。

自分自身の責任であることを認める代わりに、肉体組織のせい、神のせいにし、自分の犯した失敗に対しても同様の態度をとります。これもあらゆる不完全性の一つとして残る自尊心がある結果です。

 気質がより暴力的な行動に結びつくことは疑いようもなく、それは柔らかな筋肉の方が力を出す時によく働くのと同じです。しかし、そこに怒りの本質的な原因が存在するのだと信じてはならず、平和を好む霊は、胆汁質の肉体を持っていても常に平静を保ち、暴力的な霊は粘液質の肉体を持っていても温和ではないということを理解する必要があります。

穏和な時にのみ、暴力は別の性格に変わり、怒りは収縮され、他の場合には怒りは活発になります。肉体は、怒りを持たぬ者には怒りを生まず、同様に他の悪癖も生みません。

いかなる美徳も、いかなる悪癖も、霊に帰するものです。そうでなければ、長所や責任感と言うのはどこに在ると言えるのでしょうか。身体が不自由な者は、それが霊と係わっていないために、元の形に戻ることはできません。

しかし、揺るがぬ意志さえあれば、霊に係ることは変化させることができます。目の前で行われるほんとうに奇跡的な変化を経験したあなたたちスピリティストに、意志の力でどこまで行くことが出来るのかが教えられていないでしょうか。

人間は自分が悪癖を保ちたいと思わなければ、悪癖を保ち続けることはないということを納得してください。自分を改めたいと望む者は必ず改めることが出来るのです。でなければ、進歩の法は人類のために存在しないことになります。(ハンネマン パリ、1863年)



 

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