Tuesday, March 11, 2025

シアトルの弥生 生まれ変わらなければ誰にも神の国をみることはできません

No one can see the Kingdom of God unless they are born again!




一、ピリボのカイザリア地方へ行ったとき、イエスは使徒たちに尋ねて言われた。「人々は人の子についてどう言っていますか。私が誰だと言っていますか」。彼らは答えた、「ある人たちはあなたがパブテスマのヨハネだと言っています。

他の者はエリアだと言い、他の者はエレミアか、その他の預言者の一人であると言っています」。

イエスは彼らに言われた、「あなたたちは私が誰だと言いますか」。シモンペテロは答えて言った、「あなたはキリスト、生きる神の子です」。するとイエスは彼に向かって言われた、「ヨナの子、シモンよ、あなたは幸いです。なぜならそのことをあなたに顕わしたのは血でも肉でもなく、天にいる私の父だからです」。 (マタイ 第十六章、13-17 マルコ 第八章   27ー30)


二、さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳に入った。ある人々は「パブテスマのヨハネが、死人の中からよみがえったのだ、それであのような力が彼の内に働いているのだ」といい、他の人々は「彼はエリアだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だと」と言った。

ところがヘロデはこれを聞いて、「私が首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。(マルコ 第六章 14-16、ルカ 第九章 7-9)


三、(変容した後に)使徒たちはイエスにお尋ねして言った。「いったい、律法学者たちは、なぜエリアが先に来るはずだと言っているのですか」。答えて言われた、「確かに、エリアが来て、万事をもとどおりに改めるであろう。しかし、あなたたちに言っておく。エリアはすでに来たのだ。

しかし、人々は彼を認めず、自分勝手に彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。その時、使徒たちは、イエスがパブテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。 (マタイ第十七章 10‐13、 マルコ 第九章 11‐13)


 復活と再生(リインカーネイション)

四、再生は、復活という名によってユダヤ人の教義の一部として存在していました。死とともにすべてが終わると信じていたサドカイ人だけが復活を信じていませんでした。

この点に関するユダヤ人の考えは、その他の事柄に対する考えと同様にあまりはっきりと定まっておらず、なぜならそれは、魂や魂と肉体との結びつきについて、ぼんやりとした不完全な認識しか持っていなかったからです。

正確にどのような方法で、どのようになるのかは知らぬまま、かつて生きていた人が再び生きることが出来ると信じていました。彼らはそれを「復活」と呼んでいましたが、それをスピリティズムではより正確に「再生(リインカーネイション)」と呼んでいます。

「復活」と言う言葉は、すでに死亡した肉体がよみがえるという考えをもたらします。しかし、朽ちた肉体がすでに散乱してしまったり、他の物質に吸収されてしまった後、同じ肉体が再びよみがえるということは物理的に不可能であることを科学では証明しています。

再生とは霊魂が物質的な生活に戻ることですが、過去において用いた肉体とは全く関係のない、その霊のために特別に準備された別の肉体に戻ることです。故に復活という言葉はラザロには適用できますが、エリアやその他の預言者たちには適用できないのです。

ですから、もし使徒たちが信じていたようにパブテスマのヨハネがエリアであったのであれば、ヨハネの肉体はエリアの肉体であったはずはなく、また、ヨハネには子どもの時代があり、その両親も知られていたのです。つまりヨハネは再生したエリアであり得ますが、復活したエリアではないのです。


五、ファリサイ人たちの中に、ユダヤ人の指導者である二コデモという名の者がいた。彼はある夜、イエスのもとへ来て言った、「先生、あなたが神のもとから送られ、師として私たちを指導に来られたことを知っています。なぜならあなたが行うような奇蹟は、神がともにある者でなければ起こすことが出来ないからです」。

イエスは答えて言われた、「誠に言います。生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることはできません」。すると二コデモは言った、「すでに年老いた者がどうすれば生まれ変われるのですか。再び生まれるために母親の胎内に入ることができますか」。

イエスは答えて言われた、「誠に言います。人は水と霊から生まれなければ神の国へ入ることはできません。肉体から生まれるものは肉体であり、霊から生まれるものは霊である。

再び生まれ変わらなければならないとあなたに言ったことに驚いてはなりません。霊は好きなところに息を吹き、あなたたちはその声を聞きますが、あなたはそれをどこから来るのかを知らなければ、それがどこへ行くのかも知りません。

霊から生まれる人にはみな同じことがあてはまります」。二コデモは答えて言った、「そんなことがどうしてあり得ましょうか」。

イエスは彼を見て言われた、「あなたはイスラエルの指導者でありながら、こんなことも分からないのですか。誠に言います。私たちは知ることしか述べず、見たことに対してしか証しません。

それなのにあなたは私の証を受け入れません。私があなたたちに地上のことを言っている時にそれを受け入れないのであれば、私が天のことを言っている時、どうしてそのことを受け入れることが出来るでしょうか」(ヨハネ第三章 1-12)

℘84
六、ヨハネがエリアであったという考えや、預言者たちが再び地球上に生きることが出来るという信仰は、福音の多くの場所に、特に先に引用した部分に見ることができます。もしこの信仰が誤っていたのであれば、イエスは、その他多くの信仰を否定していたようにこの信仰を否定したに違いありません。

しかしそれとは反対に、イエスはその信仰をその権威において全面的に認め、次のように言うことによって必要条件として位置づけました。「生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることはできません」。そして、「再び生まれ変わらなければならないとあなたに言ったことに驚いてはなりません」と付け加えることにより、繰り返しています。


七、「人は水と霊から生まれなければ」と言う言葉は、洗礼の水による精神的生まれ変わりと解釈されてきました。しかし、原文には単純に「水と霊から生まれなければ」と書いてあるだけです。

更には「霊から」と言う言葉は幾つかの翻訳において「聖なる霊において」と言う言葉と置き換えられてしまい、もはや同じことを意味しなくなっています。この重大な点は、福音に対する最初の解釈に端を発していますが、いつかは誤解がなくなり明らかになることでしょう。→FEB版注1


八、この「人は水と霊から生まれなければ」という言葉の真なる意味を理解するには「水」と言う語句の意味に注意しなければなりません。なぜなら、その言葉は本来の意味において用いられていないからです。

 昔の人々が持つ自然科学の知識は非常に不完全なものでした。彼らは地球が水から生まれたと思い、水を絶対的な発生源となる要素であると考えていました。そのことは「創世記」にも「神の霊は水の上に持ち上げられた。水の上に浮いた」と記されています。

「水の中で空が創られ、天の下にある水は一ヵ所に集まり不毛なものが現れる」「水は生きた動物や水の中を泳ぐ動物、地上や空を飛ぶ鳥を生む」。

 この考え方に従えば、水は物質性のシンボルとなり、それは霊が知性のシンボルであると同じです。

「もし人が水と霊から再び生まれなければ」もしくは「水と霊によって再び生まれなければ」と言う言葉は、ゆえに次のような意味を持つことになります。「もし人は肉体と魂によって再び生まれなければ」。元来こうした意味でこれらの言葉は理解されていたのでした。

 こうした解釈は、次の言葉からも正しいことが判ります。「肉体から生まれるものは肉体であり、霊から生まれるものは霊である」。イエスはここに、肉体と霊とをはっきり区別しています。「肉体から生まれるものは肉体」という言葉は、明らかに肉体が肉体のみから発して、霊はそれとは独立しているということを示しています。


九、「霊は好きなところに息を吹き、あなたたちはその声を聞きますが、あなたはそれがどこから来るのか知らなければ、それがどこへ行くのかも知りません」。このことは、望む者に対して命を与える、つまり人間に魂を与える神の霊について述べているのだということを理解することができます。

この最後の「どこから来て、どこへ行くのか」というのは、誰も霊の声を聞くということが何であったか、また霊が何であったかも知らなかったことを意味します。もし、霊もしくは魂が、肉体が創られたのと同じ時にできたのだとすれば、その始まりを知ることを意味するので、それがどこから来たのかが分かることになります。

いずれにしろ、このくだりは魂が以前から存在していたという考え方を神聖化しているのであって、それはつまり存在の複数性を示しているのです。


十、パブステマのヨハネの時代からいままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています。ヨハネまでの預言者たちと律法学者たちはこの様に預言しました。もし私の述べることを理解しようと望むのであれば、彼はまさに来たるべきエリアなのです。聞く耳を持つ者は聞きなさい。(マタイ 第十一章 12-15)


十一、再生の原理は、ヨハネの書に表現されているものに従えば、全く神秘的な意味に解釈されたかも知れませんが、このマタイの一節に同じことはあてはまらず、意味の捉え方を間違えようがありません。「彼はまさに来たるべきエリアなのです」。ここにはたとえも、装飾もありません。

断定の表現です。「パブテスマのヨハネの時代からいままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています」。その時代にはまだパブテスマのヨハネが生きていたのに、この言葉は何を意味しているのでしょうか。

イエスはそれを、「もし私の述べることを理解しようと望むのであれば、彼はまさに来たるべきエリアなのです」と説明しています。つまり、ヨハネがエリア当人であるので、イエスはヨハネがエリアという名で生きていた時代のことを暗示しています。

「いままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています」。これは、従う者に約束された土地、ヘブライ人の楽園を手に入れるために、従わぬ者の根絶を命じたモーゼの律法の暴力性を示しており、一方、新しい律法においては、天の国は慈善と穏和さによって得られることを示しているのです。

そして、「聞く耳を持つ者は聞きなさい」と付け加えました。イエスが何度も繰り返した言葉には、必ずしもすべての人がある種の真実を理解する条件を満たしていたのではなかったことがはっきりと示されています。


十二、あなたたちの民で死を宣告された者は、再び生きることになるでしょう。私の中で死んでいた者は、私を通じて生き返るでしょう。粉塵の中に住む者よ、眠りからさめ、神への賛美を歌いなさい。なぜならあなたたちの上に落ちる露は光の露であるからで、それは亡霊の国の上に降らされるからです。(イザヤ 第二十六章 19)


十三、このイザヤの一節にも大変はっきりと書かれています。「あなたたちの民で死を宣告されたものは、再び生きることになるでしょう」。預言者イザヤがもし霊界における命について、処刑された人々が霊として死んだのではないということを述べたかったのであったなら、「再び生きる」ではなく「まだ生きている」と言ったはずです。

霊的な意味においてこの言葉は理に反します。なぜなら、魂の命の中断の意味を含むことになるからです。道徳的更生という意味においては、死んだ者全てが再び生きるのですから、永遠の罰の否定を意味することになります。


十四、しかし人が一度死に、肉体がその霊から切り離され、消耗してしまうと彼はどうなるのか。一度死んだ人は再び生きることが出来るだろうか。私の人生の上で毎日起こるこの戦いの中で、私が変わることを望む。(ヨブ 第十四章 ⒑、14-Le Maistre ds Sacy の翻訳)

人は死ぬとすべての力を失い、消滅する。その後どこに在るか。人は死ぬと再び生きるのか。何かの変化が訪れるまで、私は毎日の戦いの中で待ち続けるのだろうか。(同前 プロテスタントーOsterwaldの翻訳)

人間は死ぬと、永遠に生きる。地上における私の日々が終わったら、そこへ再び戻るまで、私は待つ。(同前-ギリシャ教会の翻訳)


十五、これら三つの翻訳の中には、存在の複数性が明確に表現されています。ヨブが、全く知る筈もない水の洗礼によって更生することについて言いたかったのだとは誰にも想像できないでしょう。

「人は死ぬと再び生きるのか」。一度死ぬという考えや再び生きるという考えは、何回も生まれたり死んだりするという考えを含んでいます。ギリシャ教会の翻訳にはこの考えがより具体的に表されており、実際にそれが可能であることを示唆しているかのようです。

「地上における私の日々が終わったら、そこへ再び戻るまで、私は待つ」。つまり、地上における生活へ戻るということです。ここで意味することは明白であり、あたかも「私は家を出て行きますが、やがて戻ってきます」と言っているかのようです。

「私の人生の上で毎日起こるこの戦いの中で、私が変わることを望む」。ヨブは明らかに、人生の謎に対する戦いについて触れたかったに違いありません。

「私が変わることを望む」というのは、甘受することです。ギリシャ語の翻訳においては、「私は待つ」とありますが、そのことは、新たな人生があることをより望んでいるかのようです。「地上における私の日々が終わったなら、そこへ再び戻るまで、私は待つ」。それは死の後、一つの人生と次の人生を分けるインターバルの間で、再び戻る時を待つ、とヨブが述べているようです。
                
        
十六、ゆえに復活という名の再生の原理がユダヤ人たちの基本的な信仰の一端であったことは疑いようもありません。イエスや預言者たちが正式な形で確認した事項です。したがって、再生を否定することはキリストの言葉を否定することになります。

しかし、他の多くの事柄に関してもそうであるように、いつかこの言葉が先入観なしで熟考された時には、このことの持つ権威を確認することになるでしょう。
         
      
十七、この宗教的観点から見た権威には、事実の観察から導き出された証拠により、哲学的な権威を加えることができます。結果から原因へと遡る上で、再生は絶対的な必要性として、人類についてまわる条件として現れます。一言で言えば、それは自然の法として現れるのです。

動きが隠された動力の存在を証すように、いわば物質的に、結果によって再生の存在が明らかになります。再生のみが人類に対して「どこから来たのか」「どこへ行くのか」「なぜ地球上に居るのか」を説明し、人生に見られるあらゆる変則や、見かけ上の不公平を正当化することが出来るのです。(→FEB版注2)

 魂の前存在や存在の複数性なくしては、多くの場合福音の教えは理解しがたいものとなってしまい、そのためにこれほどに矛盾した解釈がなされているのです。真なる意味がよみがえるための鍵はこの原理の中にあるのです。



再生が家族の絆を強める一方で、人生が一度限りであれば絆は断たれることになる

十八、再生によって家族の絆はどんな破壊をも被ることはなく、一部の人たちが懸念するようなことはありません。それどころかいっそう絆は強まり固く結ばれることになります。逆に再生しないという考え方においては、絆を破壊してしまうことになります。

 宇宙において霊たちは愛情や好意、意向が似かよっていることによって結びついたグループ、もしくは家族を形成します。ともに出会うことは幸せなことで、こうした霊たちはお互いに相手を探し求めます。肉体を持って生まれることは、一時的に彼らを引き離しますが、霊界に戻ると、旅から戻ってきた友だち同士のように集まります。

お互いに進歩するため努力し合おうと、しばしば肉体を持って生きる世界まで他方を追っていくことがあるため、地上で同じ家族に生まれたり、同じグループに生まれることもあります。

一方が地上に生まれ、他方が生まれて来ないからといって、思考の上での結びつきまでも失うことにはなりません。自由である側は、束縛されたもう一方を守ります。より進歩した側は、遅れた側の進歩のために努力します。

一回毎の人生の後には、みなが完成へ向かう道のりの上で一歩進んでいることになります。物質への執着が少なくなればなるほど、相互の愛情はより生き生きとしたものとなり、それは、愛がより浄化されれば、エゴイズムや情熱の陰に脅かされることが無くなると同じことです。

したがって、この様に、互いに愛情によって結ばれた者同士は、お互いを結びつけるそれぞれの気持ちにいかなる打撃をも受けることなしに、制限されることのない回数の物質界における人生を過ごすことができるのです。


 ここで述べているのが魂と魂を結びつける真なる愛情のことであり、肉体の破壊をも超えて生き続けるものである一方で、この世の人々は霊の世界において、求め合う動機となることのない感情のみによって結びついています。永続し得るのは霊的な愛情だけなのです。

肉体的な愛情は、その愛情の源となった要因がなくなると消滅します。しかし、魂は永遠に存在するのですから、霊の世界においてはこのように消滅してしまうことはありません。お互いの関心事を満たすためだけに結ばれた関係において、一方は他方にたいして、さほど重要ではないため、死はそうした人たちを天と地に分けることになります。


十九、親族の間に存在する絆と愛情は、彼らを近づけた、以前から存在するお互いの思いやりのしるしです。そうしたことから、ある人の人格や趣味、趣向が、肉親や親族に全く似かよっていない時、その人はその家族の人間ではないといわれることがよくあるのです。

そのような言葉は、想像する以上に深い真実を言い表していることになります。家族の中に、このような敵意のある者や見知らぬ者の霊が肉体を持って生まれてくることにより、そのことがある者には試練となり、また他の者にとっては進歩の手段となることを神は許すのです。

そのようにして、悪しき者は善い者たちと接触し、善い者たちが払ってくれる注意によって少しずつ改善されていきます。

悪しき者たちの性格はより穏和になり、その習慣は洗練され、敵意は消えていきます。このように地上において異なった人種や民族が混ざり合うのと同じように、違った分類の霊たちが家族の中に混ざり合うのです。


二十、親族が再生の結果無限に増えて行くのではないかという恐れは、利己的な考えの上に立ったものです。このように考えることは、そうした者に、多くの人たちを迎えるだけの広い愛が欠けていることを証明することになります。

多くの子どもを持つ父親が、その子供たちのうちの一人を愛すとき、例えば一人っ子であった場合に愛する時よりも少ない愛情を持って愛するということがあるでしょうか。

利己的な者たちよ、心を落ち着けてください。そうした恐れに根拠はありません。ある人が十回再生したということは、霊界において十人の父親と母親、十人の妻とその時にできた子どもたちや新しく出来た親族に出会うということではありません。

霊界ではその愛情の対象となった人々に必ず出会いますが、そうした人たちとは地上においてさまざまな続柄で、あるいは、同じ続柄によって結ばれていたに違いないのです。
       
            
二十一、今度は再生を否定する教義がどういう結果をもたらすかを見てみましょう。その教義は必然的に魂の既存性を否定します。魂は肉体と同時に創造されることになり、魂同士の間にはいかなる既存の関係もなく、従って、魂同士は全く見知らぬ者同士ということになります。

子どもにとって父親は親しみのない存在となります。親子関係は、いかなる霊的な関係でもなく、ただの肉体的な親子関係だけに限られてしまいます。そして先祖がどうであったとか、どんなに素晴らしい人であったからといって光栄に思うことは全くなくなってしまいます。

再生の考えにおいては、先祖も子孫も、すでに知り合った者同士で、以前ともに生活し、愛し合った可能性があり、また、その先に置いてもお互いの好感の絆をより強めるために集まることができるのです。
     
     
二十二、以上のことは過去についてのことです。再生のない考え方から生まれた基本的な教義によれば、未来については、魂はたった一度の人生の後、全く悔い改めようのない運命を定められてしまうことになっています。決定的な運命の定めはあらゆる進歩を止めることになります。

なぜなら、幾らかでも進歩があるならば、決定的な運命ではないことになるからです。善く生きたか悪く生きたかによって、魂たちは直ちに至福のすみかか、永遠の地獄へ行くことになります。

直ちに、そして永遠にそうなることによって、霊たちは離れ離れとなり、再び出合う希望も奪われ、父母と子、夫婦、兄弟や友人同士であっても、決して再会を確信することはできなくなります。そこには家族の絆の絶対的な切断が起こります。

再生とそこに見られる進歩によってこそ、愛し合うものはみな地球上でも宇宙においても出会うようになり、ともに神に向かって引かれて行くことになるのです。誰かが途上で衰えてしまえば、その人は進歩と幸福を遅らせることになりますが、すべての希望を失うことではないのです。

その人を愛する者たちによって助けられ、勇気づけられ、守られることによって、いつの日か埋もれたぬかるみから抜け出すことになります。再生によってのみ、永遠の連帯が生者と死者の間に存在することになり、そのことから愛情の絆が強まることになるのです。


二十三、要約すれば、墓石の向こう側の未来について、人間には四つの選択肢が用意されていることになります。

一、唯物主義者の考える無、 二、汎神論者の考える宇宙への合一、 三、教会の教える運命の定められたアイデンティティーの存続、 四、スピリティズムの考える無限の進歩を可能にするアイデンティティーの存続、 最初の二つの考え方においては、家族の絆は死と同時に断ち切られ、未来において魂たちが再会できる希望は残されていません。

三番目の考え方は、魂同士が、天国であれ、地獄であれ、同じ場所へ行く限りは再会する可能性があります。斬新的な進歩と切り離すことが出来ない人生の複数性の考え方においては、愛し合った者同士の関係の継続は確実であり、そうした関係が真なる家族を形成することになるのです。


  



   霊たちからの指導

  受肉(インカーネイション)の限界

二十四、受肉の限界はどこにありますか。

 正しく言うならば、受肉(インカーネイション)に正確な限界はありません。霊の体を構成する被いだけを考慮に入れる場合、その被いの物質性は霊の浄化に従って薄れていくのです。

地球よりも進歩した幾つかの世界においては、その被いの密度は薄れ軽量化し、より希薄であり、結果的には変化を受けにくくなります。より進んだレベルにおいて、その被いは透き通り、ほぼフルイド化した状態になります。徐々に非物質化し、最後にはペリスピリト(→第三章 和訳注1)と間違えるほどになります。

生きるために連れて行かれる世界に応じて、霊はその世界の性質に適当な被いをまとうことになるのです。

 ペリスピリト自体も連続的な変化を遂げていきます。純粋な霊たちの条件となる完全な浄化まで、徐々に純粋化していきます。大きく進歩した霊たちのために特別な世界が存在するのであれば、劣った世界でのように束縛されることはありません。

彼らのある種解放された状態は、彼らがあらゆる場所に行くことを可能にし、必要に応じて各々に託された役割を果たしていくことができるようになるのです。

 物質的な視点のみから受肉を考えるのであれば、地上においてそうであるように、劣った世界にのみ限られるものです。したがって、そこから早く解放されるかどうかは、霊たちの自己の浄化のための努力にかかっているのです。

 また肉体を失っている間、つまり、肉体を持った存在と存在の合間において、霊の状態は、その霊の進度に応じた世界との関係を保っている、ということを考慮に入れなければなりません。したがって、死後の霊界において、霊は多かれ少なかれ幸福で、脱物質化の程度によって、自由となり高尚になるのです。(聖王ルイ パリ、 一八五九年)


 受肉の必要性
二十五、受肉は罰であり、罪を負う霊たちだけがその苦しみを被ることになるのですか。

 霊が肉体の世界で過ごすことは、物質的な行動を通じて神が彼らに託したその意志の実行を遂げるために必要なことなのです。それらは彼らのために必要なことであり、彼らに強いられた活動は彼らの知性の発展を助けることになります。卓越した正義である神は、その子たちにすべてを平等に分配しなければなりません。

そのためすべての子たちのために同一の出発点、同一の能力、遂行すべき同一の義務、進む上での同一の自由を設けたのです。いかなる特権も、これを与えることはひいきとなり、不公平となります。

しかし、受肉は全ての霊にとって一過性の状態に過ぎません。それは人生を開始するうえで神が彼らに強いる任務であり、同時に彼らがその自由意思を行使するための最初の経験なのです。

この任務を熱意を持って遂行する者は速いスピードで、苦しみもより少なく最初の段階を通り過ぎ、自分の苦労のもたらす結果をより早期に味わうことができるようになります。反対に、神が与えてくれた自由を悪用する者はその進歩を遅らせ、そのことは頑固さとなって現れ、受肉の必要性を無制限に引き延ばすことになり、そうなると受肉が罰と化すことになるのです。(聖王ルイ パリ、一八五九年)


二十六、<備考>一般的に知られた次のようなたとえがこの違いを理解しやすくしてくれます。学生は、高等な科学を学ぶようになるには、そこまで導いてくれる一通りの講義を受けなければなりません。こうした講義は、学生がその目的を達成するための手段であり、それがいかなる努力を強いることになろうとも、学生に強要された罰ではありません。

もしその学生が努力家であれば、道を短縮し、それにより、その道のりで出遭う茨も少なくなります。一方で怠惰と無精のために同じ講義を繰り返し受けさせられる人たちの場合、同じようにはいきません。講義における努力が罰となるのではありません。同じ努力を再び開始しなければならないことが罰となるのです。


 同じことが地上の人間にもおこります。霊としての生活を始めたばかりの原始的な霊にとって、受肉は知性を発展させるための手段です。

しかしながら、道徳的な感覚が広く発展した明晰な人にとって、すでに終わりに到達していたであろう時に、苦しみに満ちた肉体生活のステップを踏むことを再び強いられることは、不幸でより劣った世界での滞在を延長しなければならないという意味で、罰となります。

反対に、道徳的進歩のために積極的に努力する者は、物質的な受肉の時間を短縮することができるばかりでなく、より優れた世界と自分を隔てている途中のステップを一度に進んでいくことが出来るのです。

 では、霊たちはある天体に一度だけ生まれ、次の人生は他の天体において過ごすということはないのでしょうか。もし地球上においてすべての人間が知性的にも道徳的にもまったく同じレベルにあったとしたら、同様の見方を認めることが出来るでしょう。

しかし未開人から文明人に至るまでの人々の間に存在する相違は、彼らがどのような段階を登らなければならないかを示しています。ところで、受肉は有益な目的をもっている筈です。では、幼少で亡くなる子供たちのはかない受肉の目的はなんでしょうか。自分にとっても他人にとっても、利益なく苦しんだのでしょうか。

神の法はすべてが卓越した英知に満ちており、なにも無益に行うことはありません。同じ地球上における再生によって、同じ霊たちが、再び接触し、お互いに被った損失を取り戻す機会が与えられることを神は望んだのです。

また、そればかりでなく、以前に会った関係を通じて、自然な法である連帯、兄弟愛、平等により沿い、家族の絆が霊的な土台のもとに確立することを望んだのです。


●FEB版注1
Osterwald の翻訳は原文の通りとなっており、「水と霊から生まれ変わらなければ」となっています。Sacyの翻訳には「聖なる霊」、Lamennaisの翻訳には「聖霊」となっています。

アランカルデックの注釈に、今日ある近代的な翻訳が原文を取り戻しているということをつけ加えておきます。ゆえに、「聖なる霊」ではなく、「霊」と記されています。Ferreirade Almeida のポルトガル語、英語、エスペラントの翻訳を調べると、どれにおいても「霊」とだけ書かれています。

こうした近代的な翻訳に加え、「・・・genitus ex aqua et Spiritu・・・」「・・・et quod genitum est ex Spiritu, Spiritu est 」と書かれた1642年の Theodor de Beza のラテン語の翻訳にもそれを確かめることができます。

アランカルデックが述べるように「聖なる」という言葉が書き加えられたものであるということは疑う余地もありません。──FEB 1947

●FEB版注2
 再生の教義に関する記載、『霊の書』第四章(アランカルデック著)及び Pezzani氏による『存在の複合性について』、『スピリティズムとは何か』第二章(アランカルデック著)参照。

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