Friday, March 21, 2025

シアトルの春 あなたたちの敵を愛しなさい

Love your enemies.
Le Spiritism Allen Kardec


スピリティズムによる福音

  

悪を善によって報いる

一、「あなたたちの隣人を愛し、あなたたちの敵を憎みなさい」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。

「あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを迫害し、中傷する者たちのために祈りなさい。そうすることによって、あなたたちは、善人の上にも、悪人の上にも太陽を昇らせ、聖なる者にも、不正なる者にも雨を降らす、天におられるあなたたちの父の子となることが出来るのです。

なぜなら、あなたたちを愛してくれる者たちだけを愛するのであれば、いったい何を報酬として受けることが出来るでしょうか。徴税官でさえそのようにしているではありませんか。

あなたたちの兄弟だけに挨拶をするのであれば、他人に比べて何を多く行っているということになるでしょうか。異教徒たちも同じことをしているではありませんか」。(マタイ 第五章 43-47)

「あなたたちの正義が、書記官やファリサイ人たちの正義よりもまさっていなければ天の国に入ることはできません」。 (マタイ 第五章 20)


二、「罪人でさえ、愛してくれる人を愛することが出来るのですから、もしあなたたちが、あなたたちを愛してくれる人だけしか愛さないのであれば、あなたたちにはどんな功労があることになるのでしょうか。

罪人でさえも同じことが出来るというのに、もしあなたたちが、あなたたちに善を行ってくれる人だけにしか善を行わないのであれば、あなたたちにはどんな功労があることになるのでしょうか。

罪人でさえお互いに貸し借りし合い、同じ便宜を受けているのに、もし、あなたたちが同じ頼みを聞いてくれる相手にしか貸さないのであれば、あなたたちにはどんな功労があることになるでしょうか。

しかし、あなたたちは敵を愛し、すべての人に対して善を行い、そのことによって何も期待することなく貸せば、あなたの受ける報酬は大変大きなものとなり、恩知らずな者にも、悪人にもよくして下さる神の子に、あなたたちはなることが出来るでしょう。

ですから、あなたたちの神が慈悲に満ち溢れているように、あなたたちも慈悲に満ち溢れるようになりなさい」。(ルカ 第六章 32-36)

℘213      
三、隣人への愛が慈善の原則であるならば、敵を愛することは慈善の崇高な適用です。なぜなら、その美徳はエゴイズムと自尊心に対して収められた大勝利のうちの一つであるからです。

 しかし、一般に人々はこの場合における愛という言葉の持つ意味を間違えるものです。イエスはこれらの言葉によって、普段兄弟や友人に対して持つ親和さと同じものを、敵に対して持たなければならないと言いたかったのではありません。

親和さは信用を前提としています。しかし、私たちに悪を望んでいるということを私たちが知っている者に対して信用を持つことはできません。彼がそのような態度を悪用することを知りながら、彼に対して友情を広げることはできません。

お互いに疑い合っている人たち同士には、同じ考えを共有する人たちの間にあるような共感の表現は存在しません。結局、誰にも、友だちといる時に感じる喜びと同じ喜びを、敵といる時に感じることはできないのです。

 これら二つの違った状況における感じ方の違いは、物理的法則の結果です。悪意のある思考は、痛々しい印象のあるフルイドの連鎖となります。善意に満ちた思考は私たちを心地良いフルイドの広がりによって包んでくれます。

そのことによって、敵が近づいてきた時と友だちが近づいてきた時の感じ方の違いを経験することが出来るのです。ですから、敵を愛するということは、彼らと友だちとの間にまったく区別を付けてはならないという意味にはなりません。

この考え方を実践するのが難しく見えたり、あるいは不可能であると考えるのは、私たちの心の中に、友だちのためにも敵のためにも同じ場所を設けなさいと、イエスが私たちに示したことを誤って理解しているからなのです。

人類の言語は語彙(ごい)に乏しいので、さまざまな微妙な違いや感じを表現するために同じ語彙を用いなければならないとすれば、場合に応じてその説明を変えなければならないのです。
℘214
 ですから、敵を愛するということは、自然の中に存在しない愛情を持ちなさいということではありません。なぜなら、敵と接する時、心臓は友だちと接する時とは全く違った様子で鼓動するからです。

敵を愛するということは、彼らに対して憎しみも、怒りも、復讐の欲望も持たないことです。何かのたくらみによってではなく、無条件に彼らの行う悪を赦すことです。彼らとの和解の障害となるものを置かないことです。彼らに対して悪を望むのではなく、善を望むことです。

彼らが達成する善に対して苦しむのではなく、喜ぶことです。彼らが必要とする時には、確かな救いの手を差し伸べてあげることです。言葉と行動によって、彼らにとって害となるものを回避してあげることです。

彼らをはずかしめることなく、あらゆる悪を善によって報いることです。これらのことを行おうとする者は、あなたたちの敵を愛しなさいという掟を守ることになるのです。


四、敵を愛するということは、不信人な者にとってはまったくばかげたことです。現世だけがすべてであると考える人は、敵を見る時、自分の平静を乱す有害な存在としか捉えることが出来ず、死のみによってその敵から解放されることができるのだと信じています。

そこから復讐の気持ちが生まれます。世間の目に対して、自尊心を満足させるため以外には敵を赦そうとはしません。場合によっては、本当に赦すことは自分に取って恥ずべき弱さであると感じます。

復讐をしなかったにしても同じだけの怒りを保ち続け、悪の望みを心に秘めることになります。

 神を信じる者、とりわけスピリティストの見方は違っています。なぜなら、過去と未来を考慮し、それらに挟まれた現世は一時的なものでしかないことを知っているからです。そこで悪人や不道徳な人たちに出会うことを覚悟しなければならないのは、地球という場所がそうした宿命にあるからです。

彼らの悪意は耐え抜くべき試練の標的であり、高く引き上げられた場所に視点を置くことによって物質的であろうと人為的であろうと苦しみの辛さは減ることになります。

試練に対して不平を言わないのであれば、その試練の役割を担ってくれている人たちに対しても不満を述べるべきではありません。
℘215         
試練の経験を悲しむ代わりに、神に感謝するのであれば、甘受と忍耐を示すための機会を与えてくれているその手に感謝するべきなのです。

このように考えると、自然に赦す心が生まれます。それに加え、寛大であればあるほど、自分の目にも自分の存在の高さが高く映るようになり、敵の悪意のこもった攻撃が届かなくなるように感じることが出来るでしょう。

 世の中で高い身分にある人たちは、自分よりも劣っていると感じる人々に侮辱されても、それを攻撃とは受け取りません。人類の住む物質世界よりも上の、道徳の世界で高い位置へ昇った人も同じです。

そのような人は、憎しみや怒りを抱くことは自分を卑しめ、下劣にすることを理解しています。自分の敵を上回るには、より高貴に、より寛大になり、大きな魂を持つ必要があるです。 


 他界した敵
五、スピリティストには、まだ他にも敵に対して寛大でなければならない理由があります。第一に、スピリティストは、人間にとって、悪意を持った状態が永遠に続くものではないことを知っています。

悪意を持った状態というのは、一時的に不完全な状態にあるということであり、子どもがその欠点を直して行くように、悪人もいつの日かその過ちを認識し、善くなるのだということを知っているのです。

 さらに、死は敵を物質的な存在から解放してくれるだけであり、敵は地上を後にしてからも憎しみをもって追いかけてくることが出来るのだということを知っています。そして、このように目的を達成することができなかった復讐心は、より大きな苛立ちを生み、一つの存在から次の存在へと続いていくのだということも、スピリティストは知っています。

スピリティズムは、経験と、見えない世界と見える世界の間を支配する法によって、「憎しみを血とともに消す」という表現が根本的に間違っていること、そして、本当は死後も血が憎しみを増幅させるのだということを証明することが出来るのです。

そうしたことにより、赦すこと「敵を愛しなさい」と言うキリストの崇高な教えの実際の有効性をスピリティズムは示しているのです。たとえ無意識のうちにであっても、善なる行いに感動しないほど非常な心は存在しません。善なる行いによって、少なくとも全ての報復の口実を奪うことができます。

生前であろうが死後であろうが、敵を友達に変えることができます。悪の行いによって敵が苛立てば、彼自身が神の正義の道具となり、赦さぬ者を罰することになるのです。

℘216      
六、したがって、敵は生きている人たちの中にも、また他界した人たちの中にもいます。見えない世界に存在する敵たちは、多くの人たちに見られるように、憑依や支配によってその悪意を示しますが、それらは試練の一種であり、他の試練がそうであるように、それらについても人間の進歩に寄与するためには甘受し、地球の劣った性格から来る結果であると受け止めなければなりません。

地上に悪い人間が存在していなかったとすれば、その周囲に悪い霊も存在していなかったでしょう。生きている敵に対して好意を用いなければならないのであれば、他界した敵にも同じ方法を用いなければならないということができます。

 昔、残酷な生贄によって地獄の神々を鎮めることをしましたが、これらの神々とは悪い霊たちのことであったのです。地獄の神々は悪魔たちに引き継がれて行きましたが、それらはどちらも同じことです。

スピリティズムはこの悪魔と言うものが、いまだに物質的な本能を棄てきっていない不道徳な人間の魂に他ならず、彼らの抱く憎しみを慈善によって葬らなければ、誰にも彼らを静めることはできないことを示しています。単に悪を働くことを止めるだけでは効き目は無く、それに加えて、彼らが自ら救うように善の道に導くことによってこそ効果があります。

「あなたたちの敵を愛しなさい」という教えは、現世と地球上についてだけに限って説かれたものではなく、それ以前に、宇宙の同胞愛と連帯の大きな法の一部として存在するものなのです。

℘217       
 あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい
七、 「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。悪いものに手向かってはなりません。彼が一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。

あなたに一㍄歩けと強いるような者とは、一緒に二㍄行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断ってはいけません。(マタイ 第五章 38‐42)


八、一般に「面目」と呼ぶものに関する世界中の偏った見方は、自尊心や自己の性格を賛美する気持ちによって生まれる不快で敏感な状態を生み、その気持ちは人間に、侮辱を侮辱によって報いたり、ののしりをののしり返したり、地上の感情の範囲を超えることが出来ない道徳観で正義と思われることによって仕返しをさせます。

だからモーゼの法には、「目には目を、歯には歯を」と、モーゼの時代にあった形で表されているのです。

キリストが来ると、「悪は善によって報いなさい」「悪い者に手向かってはなりません。彼が、一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい」と言いました。誇りの高い人にとって、この金言は臆病さを表しているように見えます。

なぜなら、侮辱を仕返しすることなく耐える方が勇気が必要であるということを知らないからです。これは、彼らの視界には現世を超えた未来が入らないからです。

 しかし、この金言を文字通り守らなければならないのでしょうか。そうではありません。目を攻撃されたなら相手の目をつぶしなさい、というもう一つの金言と同じように、文字通りに受け取るものではありません。

これらの教えをすべての価値において理解するのであれば、たとえ合法的であってもいかなる制裁も非難し、悪を行う者には脅かすことなく自由な機会を与えよ、と理解するべきです。もし、悪に対して攻撃の歯止めをかけないのであれば、すべての善がその犠牲になってしまいます。

自己防衛の法は自然の法であり、誰も殺人者の前に首を出そうとはしません。ですから、この金言の意味をはっきりさせるのであれば、イエスはすべての自己防衛を禁止したのではなく、報復を非難したのです。

一方の頬をたたいた者にもう一方の頬を出しなさいということによって、悪を悪によって仕返ししてはいけないということを別の言葉で表したのです。人間はへりくだることによってその自尊心を打ち消すのに都合の良いものはすべて受け入れなければなりません。

最大の栄光は、人を傷つけるよりも、攻撃をせずに攻撃を受け、人の不正に耐えることです。人を騙すよりも騙される方が、他人を損なうよりは自分を損なう方が善いのです。

それは同時に、自尊心の見せ合いでしかない果し合いを否定するものです。悪を罰しないことは神の正義と、未来における人生を信じることによってのみ、私たちの自己への愛情と自分の利益に対して放たれる攻撃に辛抱強く耐えることが出来るのです。

ですから、何時もあなたたちに申し上げています。「あなたたちの目を未来に向けてください。物質の世界よりも高い世界に自分を引き上げることができたなら、この地上のできごとで苦しむことはなくなるでしょう」


   


   霊たちからの指導

  復讐
九、 復讐とは、人間の間から姿を消しつつある野蛮な習慣のうちで、最後まで残存したものの一つです。復讐は果たし合いのように、キリスト時代の初期の頃から人類が戦ってきた、野蛮な習慣の最後に残った痕跡の一つであり、したがって、復讐が存在するということは、それを行おうとする霊の遅れを示していることになります。

友よ、だから、自らをスピリティストであることを宣言し、述べる者の心を、この感情が動かすようなことが決してあってはなりません。復讐することは、よく知っている通り、
キリストの「あなたたちの敵を赦しなさい」と言った教えにあまりにも反することであり、赦しを拒む者はスピリティストでないばかりでなく、キリスト教徒でもありません。

復讐を思いつく時、心が偽りや低俗さに根ざしているのであればさらに致命的です。実際に、この致命的で盲目の感情に身を任せてしまう人は、人目につくところで復讐することはありません。

それらの感情の方が強い時、敵がいるだけで情熱、怒り、憎しみが燃え上がり、その残忍な者は、敵と呼ぶ相手に相手の上に襲い掛かります。しかし、多くの場合、偽善的なみせかけを装い、その人を活気づける心の底にある悪い感情を見えなくしています。隠れた道を通り、敵の陰を追い、身の危険なしに敵を傷つけるのに適当な時を待ちます。

相手から隠れ、いつもこっそりと観察しながら憎しみのこもった罠を準備し、都合の良い時がやってくると、相手のコップに毒を注ぐのです。憎しみがそれほどまでには至らない場合には、相手の名誉や愛情を傷つけます。

中傷を退けることなく、裏切りのあてつけを風に乗せてあらゆる方向へ上手に広め、行く道に積もらせていきます。結果的に迫害者の一陣が通った後に現れた追われる者は、以前その人を迎えてくれていた友好的で善意に溢れた顔の代わりに、冷たい顔つきに出合って驚くことになります。

差し出していた手を、今度は握ることさえも拒否され、びっくりしてしまいます。最後には、最も親しかった友だちや家族さえもがその人を避けるようになり、打ちのめされてしまいます。ああ、そのように復讐する者は、自分の敵の目の前で相手をののしる者よりも百倍罪深いのです。

 ですから、こうした野蛮な習慣は棄てなければなりません。こうした過去のやりかたは捨て去らなければなりません。今日、いまだに復讐する権利があると思っているスピリティストは、「慈善なしには救われない」という標語を掲げる集団にはふさわしくありません。

そうです、大いなるスピリティストの家族の一員が未来において、人を赦す代わりに復讐の衝動に身を任せてしまうなどと私は考え続けることはできません。(ジュール・オリブィエ パリ、1862年)
   
℘220
  憎しみ
十、お互いに愛し合えば、あなたたちは幸せになります。あなたを無関心にさせてしまう人、憎しみ、落胆を与える人を特に愛さなければいけないということを、心に深く刻んでください。あなたたちの模範とするべきキリストは、この献身の模範をあなたたちに見せてくれました。愛の使者であるキリストは、愛のために生命と血液をも捧げるまで愛しました。

あなたたちを侮辱し、迫害する者たちを愛することの犠牲は、あなたたちにとって悲痛なものです。しかし、まさにその犠牲が、あなたたちを彼らよりも優位に置くのです。

彼らがあなたたちのことを憎むのと同じように、もし彼らを憎むのであれば、あなたたちは彼ら以上の価値はありません。彼らを愛することは、あなたたちの心の祭壇で神に捧げる汚れのない供え物であり、その供え物の心地よい香りは高く神のもとまで届くことになります。

愛の法は一人一人に差別なく、すべての兄弟を愛することを強いるのですから、悪い振る舞いに対して心を堅くしてしまってはいけません。反対にそれは最も厳しい試練なのです。

私は、その苦しみを地上に生きていた間経験しているので、そのことがよくわかります。しかし、神はそこに在り、愛の法を破る者を現世、または来世において罰するのです。親愛なる子供たちよ、愛が人を神に近づけ、憎しみは人を神から遠ざけるのだということを忘れないでください。(フェヌロン ボルドー、1861年)


  果たし合い
十一、 人生を旅に見立てて、ある決められた場所へ向かっていかなければならないのだと考え、日毎の困難も苦にせず、まっすぐ伸びた道からその足取りを踏み外さない人だけがまさに偉大であるといえます。

その目をいつも到達しようとする目的地に向け、道行く彼を傷つける障害物や茨をも気にかけません。それらは彼を傷つけるのではなく、かすめるだけで、彼の進歩を妨げるものではないことを知っています。

ある不正に対して復讐をするために人生の日々を費やすことは、人生の試練にひるんでしまうことであり、神の目には罪として映ります。人は受けた損害に目を奪われ復讐してしまうのですが、それを防ぐことができれば、復讐はばかげたもので、正気の沙汰ではないように映るはずです。
℘221
 果たし合いによる殺人は、あなたたちの法に定められているとおり罪深いことです。いかなる場合においても、誰も自分の同胞の命を奪う権利はもっていません。それは神の目に罪と映るのであり、神はあなたたちの従うべき行動に線を引いてくれているのです。

ここでは、他のいかなる場合にもましてあなたたちは自分自身の判事となっています。あなたたちは自分たちが赦した分だけ赦されるのだということを覚えておかなければなりません。赦すことによって、あなたたちは神に近づきます。

なぜなら、力の強さは温厚さと同族であるからです。地球上で、人類の手によって人類の血が一滴でも流される間は、平和と愛の君臨する真なる神の国がそこに根付いていないのであり、あなたたちの惑星からは恨みや、不和、戦争が永遠に排斥されなければならないのです。

そのような時が来れば、果たし合いと言う言葉は、既に過ぎ去った遠く漠然とした過去の記憶の中にのみ存在することになります。(アルジェルの司教アドルフ マルマンド、1861年)
    
                 
十二、ある場合には、果たし合いは疑いもなく、命を軽んじた肉体的な勇気の証明でありますが、それは確実に、自殺と同様に道徳的な臆病さの証明でもあります。自殺する人は人生の苦しみに立ち向かう勇気を持ってません。果たし合いをする人は他人の攻撃に耐える勇気を持っていないのです。

キリストはあなたたちに、右の頬を打った者には左の頬も差し出す方が、不正によって仕返しをするよりも価値があり、より尊いことだと教えてくれませんでしたか。

イエスはオリーブの園でペテロに、「あなたの剣をしまいなさい。剣によって人を殺した者は剣によって殺されます」と言いませんでしたか。このように言うことによって、イエスはいつも果し合いを非難しませんでしたか。

子どもたちよ、実際にこの暴力的な気質、血が多く、怒りに満ちた性質から生まれたこの勇気が、最初の攻撃に対して唸(うな)り声を上げているのではないでしょうか。
℘222             
「最も軽い不正も、血によってのみ洗い流すことが出来ると考えている人がどこに魂の偉大さが見られるというのでしょうか。ああ、そのような人はおののかなければなりません。

その人の良心の奥底では、いつも次のような言葉が叫びます。「カインよ、カインよ。あなたは弟に何をしたのか」。この声にその人は、「私の名誉を守るために血を流すことが必要だった」と答えます。しかし、その人の良心は響き返します。

「残り少ない地上での生活のほんのわずかな時間の間、人間の前にのみあなたの名誉を守ろうとし、神の前に守ろうとしなかった」と。可哀想な愚かな者よ。キリストはあなたたちから受けた侮辱に対して、少しでも血が流されることを強いるでしょうか。

あなたたちはキリストを茨と槍によって傷つけただけでなく、恥辱の十字架にかけ、更にキリストに残酷な苦しみの中で罵声を浴びせたのです。それほどの屈辱に対して、キリストはあなたたちに少しでも謝罪を求めたでしょうか。

羊飼いイエスの最後の叫びとは、自分を処刑する者たちに対する赦しの願いではありませんでしたか。おお、イエスのようにあなたたちを攻撃する者のために祈り、赦してください。

 友よ、「お互いに愛し合いなさい」という教えを覚えていてください。そうすれば、憎しみで鳴り響く一撃に対し微笑みで答え、侮辱に対し赦しで答えることが出来るでしょう。世間はきっと怒りに満ちて立ちあがり、あなたたちを臆病者として扱うでしょう。

額を高く上げ、キリストの模範のように、その額を茨によって締め付けられることを恐れないことを見せ、あなたたちの手を、自愛と自尊心にしか過ぎない偽りの名誉の、見かけを守るために認められた殺人の共犯者にはしたくないのだということを示さなければなりません。

神はあなたたちを創造した時、他人の生死を決める権利をあなたたちに預けたでしょうか。いいえ、この権利は再建と改正のため、神によって自然だけに与えられました。

あなたたちに対して神は、自分自身を棄てることさえも許しません。自殺者と同じように、果たし合いをした者は、神の前に姿を現す時血によって印がつけられており、どちらに対しても、最高の判事である神は、厳しく長い罰を用意するのです。

自分の兄弟に対して「ラッカ(愚か者)」と言った者が正義によって裁かれることを神が定めたのであれば、自分の兄弟の血で手を染めて神の前に現れる者に対する罰はどれだけ厳しいものとなることでしょうか。(聖アウグスティヌス パリ、1862年)

℘223    
十三、果たし合いは、昔は神の審判とも呼ばれてましたが、いまだに社会を支配する野蛮な制度の一つです。では、もし二人の敵対者が、争いの決着をつけるために煮え立つ湯につけられたり、赤く燃える鉄をあてられたりして、その苦しみによく耐えた方が正しいのだとされるのを見たら、あなたたちは何と言うでしょうか。

全くばかげた習慣であると考えないでしょうか。果たし合いとは、このようなことすべてよりもさらに悪いものです。果たし合いの上手な者にとってそれは、あらゆる計画のもとに彼の放つ一撃が有効であることを確信した上で行われる冷血の殺人です。

能力のなさと弱さのために、打ち負かされることがほぼ決められてしまった相手にとっては、冷めた考えで行われる自殺であると考えることができます。多くの場合、問題を偶然に委ねることで、このような犯罪的な選択を避けようとしていることも知っています。

しかし、それでは中世の時代の神の審判に、別の方法で遡(さかのぼ)っていることになりませんか。その時代、罪に対する責任は現在よりも遥かに小さかったのです。

神の審判という呼び名自体が信心の存在を示していますが、それは、無実の者が死んでしまうことを神が赦すはずがないという、神の正義に対する素直な信仰でした。しかし、結局、果たし合いにおいては、全てを野蛮な力に任せてしまうため、責められた者が死んでしまうことも珍しくなかったのです。

 ばからしい自己中心的な愛、つまらぬ虚栄心、気の狂った自尊心は、いつになればキリストの慈善、隣人愛、キリストが教え、模範となった謙虚さにとって代わられるのでしょうか。

それが実現した時にはじめて、いまだに人類を支配するこの恐ろしい定めが消滅するのであって、法律によってそれを抑制することはできないのです。なぜなら、悪を禁止するだけでは事足りないからです。善の原理と悪への恐れが人類の心の中に宿らなければならないのです。(ある守護霊 ボルドー、1861年)

℘224      
十四、自分が求めるべき賠償の要求を拒んだり、自分を攻撃した者に対する謝罪を求めなかったら、自分は人からどのように見られるだろうか、とあなたたちはいつも言います。

あなたたちのように、愚かで遅れた人間はあなたを非難するでしょう。しかし、知性的で道徳的な進歩の光に明るく照らされている者は、あなたが真なる知性に従って進んでいると言うでしょう。

 少し考えてみて下さい。あなたたちの自尊心は、何の意図もなく、攻撃する意志もなく、あなたたちの兄弟たちによって述べられたたった一つの言葉によって傷つけられたと感じ、辛辣な態度で返答することで口論を引きおこします。

決定的な時がやってくる前に、自分自身にキリスト教徒としての行いをしているかどうか問い直しているでしょうか。なにかをあなたの同胞から奪うことによって、社会に対してどれだけの責任を負うことになるでしょうか。

夫から妻を奪ったり、子供から母親を奪ったり、保護してくれていた父親から息子を奪ったりした後に、あなたたちを襲うことになる後悔について、考えてみたことがあるでしょうか。攻撃をした者は、確かに謝罪する責任を負います。

しかし、攻撃をした者が自分の欠点を認識し自ら自然に謝罪をする方が、攻撃されて不平を言う権利を持つ者の命を危険にさらすよりも貴いことではないでしょうか。

自分自身がひどく傷つけられたと感じたり、愛しい人が傷つけられたと、攻撃された者が感じるのは、場合によっては、自己愛だけが原因となっているのではないかと私は思います。傷つけられた心は苦しみます。

しかし、不名誉な行為を行う可能性のある惨めな者に対して、私たちの身を投じ、命を危険にさらすことはばかげているばかりか、そこに存在していた何かしらの感情は、その者が死んだとしても消えないのではないでしょうか。

 実際に血が流されると、事実は誇張されて轟くことになります。
℘225
それが偽りであるなら、自分自身に降りかかってくることになり、もし、真実であったとすれば、沈黙の中で埋葬されなければなりません。したがって復讐への渇きを癒すことしか残りません。

ああ、この悲しい満足は、ほとんどいつも、この人生の間でも、苦しい後悔に場所を譲ることになります。攻撃する者が死んでしまうとすれば、どこで改善することが出来るでしょうか。

慈善が人類の行動を規制するようになった時、人類の行動と言葉はこの金言に一致するようになります。「あなたたちにして欲しくないことを他人にしてはなりません」。この言葉を実現させることにより、あらゆる不和の原因は消滅し、果たし合いや、民族対民族の果たし合いである戦争の原因も、ともに消えていくことになるでしょう。 (フランシスコ・ザビエル ボルドー、1861年)


十五、世慣れた人、運の強い人々はたった一言の衝撃的な言葉や、とるに足らぬことのために、神から授かった命を投げ捨てたり、神にのみ属する同胞の命を投げ捨てますが、そのような人たちは、愚かさや乏しさのために他人の家に入って盗みを働き、それを阻もうとする者を殺してしまう者より百倍も罪深いのです。

そのような場合は、たいてい無教育な者が関わっているのであり、善と悪の認識が不完全なのです。それに対して、果たし合いを行う者はより教育を受けた階級に属しています。一方は野蛮に殺人を行いますが、他方は社会が赦してくれるよう、順序を踏んで周到に殺人を行います。

まったく、果たし合いを行う者は、復讐の気持ちによって激怒したはずみで相手を殺してしまった不幸な者よりも、無限に罪深いのだということを私は付け加えておきます。

果たし合いを行う者には、感情の激化という言い訳はできません。なぜなら、侮辱を受けてから復讐するまでの間、そこには必ず考え直す時間が存在しているからです。ゆえに、果たし合いを行う者は、冷静に前もって計画を考えているのです。その敵をもっとも安全に殺すために、全てを研究し、計算します。

自分自身も命を危険にさらすことは事実ですが、そのことは世間の目には、果たし合いを行う者の、命をも惜しまぬ勇気ある行動として映り、名誉を回復させることになるのです。

しかし、自分自身は安全だと考える側に勇気が存在するのでしょうか。強者の権利が法を構成していた野蛮な時代の遺産である果し合いは、真の意味での名誉の尊重と、人類が本来の人生に対してより鮮明な信仰を抱くようになるにつれ、消滅していくことでしょう。 (聖アウグスティヌス ボルドー、1861年)

℘226
<備考>果たし合いはだんだんめずらしいものになりつつあり、いくつか非常に痛々しい例もありますが、時代の流れとともに、その数は遠い昔に行われていたのとは比較にならないほど少なくなりました。

昔、人は誰かに会う予定なしに家を出ることはなく、でる時には必要な準備をしていました。その時代の特徴的な習慣として、人々は、目に見えるように、あるいは隠して、攻撃や防御をするための武器をいつも携帯していたことがあげられます。そうした武器の使用が廃止になったことは、その習慣がすたれたことを示しています。

紳士たちが鉄の鎧を持ち、槍で武装して馬を乗りまわした時代から、やがて簡易な剣が名誉のしるしや装飾品として腰に付けられるようになった変化を見ることは、とても興味深いことです。習慣に見られるもう一つの変化に、一対一の戦いが、昔は道のまっただ中、人々の目の前で戦うのに必要な広さだけを残し群集に取り巻かれて行われていたのが、今日ではそんな光景を見ることはできなくなったということがあります。

現在では、人の死とは心の動揺を伴うものですが、過去の時代においては、死に対して誰も注意を払う者はいなかったのです。スピリティズムはこれらの野蛮な時代の最後の痕跡を消し、人類に慈善と兄弟愛の精神を吹き込むのです。

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