Sunday, March 16, 2025

シアトルの弥生  心の清い者は幸いです

Blessed Are the Pure in Heart




℘156  素朴さと心の清さ

一、心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ 第五章 8)


二、さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちをみもとに連れてきた。ところが、使徒たちは彼らを叱った。イエスはそれをご覧になって憤り、彼らに言われた、「子どもたちを私のもとへ来させなさい。止めてはいけません。

神の国は、このような者たちのものです。誠に言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」。そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(マルコ 第十章 13-16)


三、素朴さや慎ましさと心の清さは切り離すことができません。いかなる利己的な考えや自尊心をも取り除かねばなりません。だからイエスは、慎ましさと同じように、心の清さの象徴として子どもを例に取り上げるのです。

しかし、子どもの霊であっても、その霊が歳を取っており、肉体を持った生活に生まれ変わった時点で、その前世において脱することのできなかった不完全性を持ち合わせていると考えた場合、心の清さと子どものたとえは矛盾するように見えます。

完全性を達成した霊だけが本当の心の清さと言うものを私たちに教えてくれることが出来るのだと言えます。それはまったく正しい考え方です。しかし、現在の人生の視点から見た場合、子供のうちと言うのはまだ非道徳的な意図を示すことも出来ず、私たちの目には無邪気で純粋な姿に映ります。

そのことからも明らかなように、イエスは天の国が子どもたちのためにあると言ったのではなく、子どもたちのように心の清い者のためにあると言ったのです。


四、子どもの霊が、すでに過去において地上に生きたことがあるのであれば、なぜ生まれたその時から、その霊がどのような霊であるかを示さないのでしょうか。神のなされる業は常に最高の英知であることを忘れてはなりません。
℘157           
子どもには、母親の優しさだけが与えることが出来る特別な心遣いが必要です。同時に、その母親の優しさは、子どもの無邪気さと弱さのためにさらに増すものです。母親に取ってその子どもは常に天使であり、また、そうあるべきなのです。

それにより子どもは母親の配慮を引きつけることが出来るのです。もし母親がその子どもの飾り気のない恵みを受ける代わりに、その子どもの幼稚な振る舞いの中に大人のような性格や考えを感じ取り、ましてやその子どもの過去を知ってしまったら、その母親は同じように献身的に子どもを世話することはできないでしょう。

 一方で、極端に早熟な子どもの肉体はその霊の大きな活動に耐えられないことから、知性の活動は肉体の弱さと釣り合っていなければなりません。再生が近づくに従って霊は変化し、少しずつ自分自身の認識を失っていき、ある一定の期間一種の眠りの様な状態になり、あらゆる能力が潜在的なものとだけなってしまうのはそのためです。

この変化する状態は、霊が新たな出発点に立ち、その新しい人生において妨げとなるものは忘れてしまうために必要なのです。しかし、その者の過去はその者の上に働きます。そのため、獲得された経験から得た直感によって支えられ、助けられ、道徳的にも知性的にもより大きく、より強く、生まれ変わるのです。

 生まれたときから霊の思考は、その器官が発達するに従って徐々に刺激を受けていくのですが、最初の何年間かは、その霊の性格の基盤を築く考えがまだ眠っている状態にあり、その霊は本当に子どもの状態にあるということができます。

子どもの本能が無意識の間、その霊は従順な状態に在り、その霊を進歩させる本質を変化させる印象を受け易く、その間、親にとってはその課された任務を行い易くなっているのです。
 このように、霊は一時的に無垢の衣をまとうことになります。それ故イエスは、魂のもつ過去に関わらず、子どもを清さと素朴さの象徴とし、真実を示したのです。

℘158      
  思考による罪。姦淫
五、「姦淫してはならない」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。ある女を見つめ、その女に対し情欲を抱くのであれば、心の中ではその女と姦淫を犯したことになるのです。(マタイ 第五章 27,28)


六、ここで使われている「姦淫」と言う言葉は、決してその言葉が持つ通常の意味だけによって理解されてはならず、もっと広義に捉える必要があります。イエスは幾度もこの言葉の意味を広げ、悪、罪、すべての悪い考えを示すために使いました。

たとえば、「誰でも、この罪深い邪悪な世代にあって、私と私の言葉を恥じるものに対しては、人の子もまた、聖なる使いたちと共に父の栄光のうちに到来する時、その者を恥じるでしょう」(マルコ 第八章 38)

真の清さは行動の中だけにあるのではありません。それは思考の中にも存在し、心の清い者は悪いことを考えることさえもないのです。イエスが言いたかったのはそのことです。イエスは思考による罪をも非難するのです。なぜならそれは不純のしるしだからです。


七、この考え方から、自然と次の疑問が出てきます。「どんな行動も伴わない悪い思考の影響を、私たちは受けているのでしょうか」。

 ここで重要な区別をする必要があります。霊の世界において、魂がその進歩の過程を進んでいくと、悪の道に導かれていた魂も、向上しようとする意欲を示すに従って、その自由意思によって少しずつその不完全性を失っていきます。

どんな悪い考えも魂の不完全性がもたらします。しかし、浄化しようとして抱く欲求の強さによっては悪い考えさえもその魂の進歩のための機会となります。

なぜなら、その魂はその悪い考え方を精力的に拒絶しようとするからです。悪い考えを拒絶することは、汚点を消そうとする努力のしるしです。その場合、悪い欲望を満たす機会が現れても、それに負けまいとします。それに耐えることが出来ると、その勝利によってより強く、より満足を得ることができるでしょう。

 反対に、悪い考えを拒絶しようという正しい決心をすることができない者は、悪い行動を実現させる機会を求めます。たとえ実現しなかったとしても、その者の意志によってではなく、実現の機会が不足したからなのです。したがって、彼は、実現していた時と同等に罪深いことになるのです。

 要約するならば、悪い考えを心に抱くことさえも望まない者は、すでにある程度の進歩が実現していると言えます。また、悪い考えが浮かびながらも、それを追い払おうとする者にとっては、進歩は実現しつつあります。

そして、悪い思考を抱き、それに喜びを感じるものにとっては、悪がその完全な形のまま、いまだに存在しているということができます。

一方の者たちにおいては、なされるべきことはすでに行われていますが、もう一方の者たちにおいてまだこれから始めなければなりません。正義である神は、人間の思考や行動に対する責任を問う時、こうしたすべての段階的な変化を考慮するのです。
      
 
   真なる清さ。洗っていない手
八、その頃、ファリサイ人たちと律法学者たちが、エルサレムからイエスの許に来て言った、「なぜあなたの使徒たちは昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」。

 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために神の戒めを破っているのですか。神は『父母を敬いなさい』また、『父母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言われています。しかし、あなたたちはこう言います。

『父または母に向かって、あなたたちに差し上げるべきものは、神への供え物にします、と言えば、父または母を敬わなくてもよい』。こうして、あなたたちは自分たちの言い伝えによって、神の言葉を無にしています。

偽善者たちよ、イザヤはあなたたちのことをうまく預言したものです。『この民は私を口先で敬うが、その心は私から遠く離れています。人間の戒めを教えながら私を無駄に崇めています』」。
℘160     
 それからイエスは群集を呼び寄せて言われた。「このことを聞き、よく理解してください。人間を汚すものは口から入るものではありません。人間の口からでるものが人を汚すのです」

 すると使徒たちがイエスに近づいて言った、「いま言われたことをファリサイ人たちが聞いて、つまずいたことをご存知ですか」。イエスは答えて言われた、「天の父が植えられなかった木はすべて引き抜かれます。盲人を案内する盲人はそのままにしておきなさい。盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちてしまうでしょう」(マタイ 第十五章 1-14)

 しかし、口からでるものは心の中より出ており、それが人間を不純にするのです。悪い考え、すなわち、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、冒涜、悪口は心の中から出ているのです。これらのことが人間を不純にするのです。手を洗わないで食事をしたからと言ってその者が不純になるわけではありません。(マタイ 第十五章 18-20)


九、イエスが話をされていた時、あるファリサイ人が食事に招待した。イエスはその家に行き、食卓につかれた。ファリサイ人も家に入ると、イエスを見て不審に思った、「イエスは食事をする前になぜ手を洗わなかったのだろうか」。

するとイエスは言われた、「あなたたちファリサイ人たちは、杯や皿の外側をきれいにすることには大変気を遣います。しかし、あなたたちの心の内側は強欲と悪意に満ち溢れています。あなたたちは愚かな者たちです。外側を造った神は内側も造られたのではありませんか」。(ルカ 第十一章 37-40)


十、ユダヤ人たちにとって、人間の定めた規則を実践し、その規則を厳重に守ることが重要であったため、彼らは神の本当の戒めを破ったのです。単純な物体は形が崩れると消滅してしまいます。

道徳的に改善するよりも表面的に行動する方がより簡単であるように、心を清めるよりも手を洗う方が易しいのです。人間は人間の決めた規則を、何をどうするべきか教えられた通りに実践すれば、それ以上神に求められることはなく、神との約束を果たしていると自分で錯覚してしまうのです。

それを指して預言者は言いました。「この民が人間の戒めを教えながら、口先で私を崇めても無駄です」。
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 キリストの道徳的教義の中にも、同じことを確かめることができます。しかし、それは置き去りにされ、その結果、多くのキリスト教徒が、昔のユダヤ人たちのように、神の救いは道徳的な実践よりも外見的な実践によって保証されると思っているのです。

こうした神の法に人間が付け加えたことに対して、「天の父が植えられなかった木はすべて引き抜かれます」とイエスは言ったのです。

 宗教の目的は人間を神のもとへ導くことです。それは、人は完成しなければ神のもとへ届くことはできないからです。一方、人間を善に向かって向上させない宗教は、どんな宗教であれ、その目的を果たすことが出来ないことになります。人間が悪を働く為の拠り所とするものは、偽りか、あるいはその根本から歪んでいることになります。

外見上の行いが信念よりも先行してしまっている宗教がそれにあたります。外見的な偶像を信じても、それが殺人、姦淫、強奪、中傷、隣人に対して損害を与えることなどの妨げとならないのであればその効力は皆無です。そのような宗教は迷信、偽善者、狂信者を生み、善なる人を生みません。

 見かけだけが清いだけでは足りません。なによりも心の清さを持たなければならないのです。
            
      
 恥。もしあなたの手が恥の原因となっているのであれば、切り落としてしまいなさい
十一、もし誰かが、私を信じるこの小さい者を恥じるのであれば、ロバがまわしている臼を一つ首にかけられて、海の底深く沈められる方が、その者にとって益となります。恥じることばかりの世の中は不幸です。なぜなら、恥じるべきことは行われなければならないからです。

しかし、恥ずべき行動をとってしまう者たちのかわいそうなことよ。この小さい者たちの誰をも見くびることが無いように充分に気をつけなさい。誠に言います。彼らの天使たちは天にいる私の父と、いつも顔を向い合せているのです。
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もしあなたの片手か片足が恥の原因となっているのであれば、それを切り落として、あなたから遠く離れたところへ投げ捨ててしまいなさい。あなたたちにとって、片手あるいは片足だけで生きる方が、両手両足を持ちながら永遠の炎の中に投げ込まれるよりもいいのです。

そしてもし、あなたの片方の目が恥の原因となっているのであれば、その目をえぐり取ってあなたから遠く離れたところへ投げ捨てなさい。あなたたちにとって片方の目だけで生きる方が、両眼が揃ったままで地獄の火に投げ入れられるよりも良いのです。(マタイ 第十八章 6-10 第五章 29,30)

℘162
十二、一般的な意味において、恥とはある表面的な方法で道徳や品行に反するすべての行動を指します。

恥とはその行動そのものの中にではなく、その行動がもたらす反響の中にあるのです。恥と言う言葉はいつも、多くの非難を浴びるものであるという意味を含んでいます。多くの人は恥をかくことから免れたことに満足します。

なぜなら恥をかくことによって自尊心は傷つき、その者に対する人からの敬意が低下してしまうからです。もし、自分の恥が見逃されたならば、それだけで良心は落ち着くのです。イエスの言葉によれば、こうした人たちは「外見的には真っ白だが中身は腐敗に満ちた墓、外側は綺麗だが内側は汚れた壷」なのです。

 福音の中で数多く用いられている恥という言葉の意義はより広く、したがって、場合によってはその意味が理解しがたいことがあります。他人の良心を咎めるものという意味として、悪癖や不完全性がもたらすすべてのことを指し、反響の有無を問わず、ある個人から個人への悪い作用を意味します。恥とはこの場合、悪徳のもたらす結果のことなのです。


十三、この世では「恥じるべきことは行われなければならない」とイエスは言いました。なぜなら、地上の人間は不完全であり、悪い木が悪い実を結ぶように、悪を働く傾向にあるからです。したがって、このイエスの言葉から、悪とは人間の不完全性の結果であり、人間にとって行わなければならないものではないということを理解しなければなりません。


十四、「恥じるべきことは行われなければならない」。なぜなら人間は、地上で自分の罪を償おうとする中で、自分自身の悪癖に接し、その悪癖の第一の犠牲者となることによって、自らに罰を与え、その悪さを理解するようになるからです。

悪の中で苦しむことに疲れた時、善の中にその薬を求めることになるのです。こうした悪癖に対する反応は、ある者には罰となり、ある者には試練となります。この様にして、神は悪の中から善を浮かび上がらせ、人間に自らの悪や値打ちの無いことをも利用させるのです。


十五、そうであるならば、悪は必要であり、永久に続くのだということができるかもしれません。なぜなら、もし悪が消滅してしまったら、神は罪ある者たちを罰する強力な手段を奪われてしまい、よって、人間が向上することは無意味なのだと言われるかもしれません。しかし、その時、すでに罪ある者がいなくなっていたとしたら、罰することさえも必要なくなるのです。

仮に、人類がみな、善なる人間に変わったとしてみましょう。皆が善人なのですから、誰も隣人に悪を働こうとはせず、みなが幸せになることができます。悪の追放されたより進歩した世界とはそのような状態なのです。

そして、地球もさらに十分に進歩すればそのようになるのです。しかし、幾つかの世界が前へ進んでいく間、一方ではより原始的な霊によって他の世界が形成されていきます。

そして、そうした世界は、幸せになった世界から拒絶され、悪に固まった反抗的な不完全な霊たちを追放する世界、または、不完全な霊たちが報いを受けるための世界となるのです。


十六、「しかし恥ずべき行動をとってしまう者たちの可哀想なことよ」とはつまり、いつまでたっても悪であり続け、その悪い本能を利用されて無意識のうちに神の正義の道具となったとしても、そのことによって悪が軽く見られることは無く、彼らは罰せられなければならないのだということです。

たとえば、ある恩知らずな息子は、その子を育てなければならない父親にとっては罰、あるいは試練です。なぜなら、その父親は多分、過去において彼の父親を苦しませた悪い息子であったからで、だから報復の罰を与えられているのです。

しかし、その息子は許される訳ではなく、彼の順番が来た時には、自分自身の息子によって、あるいは別の方法によって罰せられなければなりません。


十七、「もし、あなたの手が恥の原因となっているのであれば、切り落としてしまいなさい」。この激しい表現を文字通り理解してしまっては馬鹿げており、これは、自分のうちにある恥の原因、つまり悪を破壊してしまうことが必要なのだということを意味しているのです。

あなたの心から、全ての不純な気持ちや悪癖の源を根絶することです。さらには、人間にとって手を切り落とす方が、その手が悪い行動のための道具として使われるより、そして盲目である方が、ある物を見た時に悪い考えを与える目を持つことよりも、ましなのだということを意味しています。

イエスは、その言葉の持つ深い例えの意味を理解する者に対しては、何もばかげたことなど言っていません。しかし多くの事柄は、スピリティズムが与えてくれる鍵なしには理解することができないのです。





 霊たちからの指導
 
  子供たちを私のもとへ来させなさい
十八、キリストは、「子どもたちを私のもとへ来させなさい」と言いました。簡単でありながら深い意味を持つこの言葉は、単に子供たちへ向けられた呼びかけなのではなく、希望のない不幸が支配する、より劣った世界にいる魂たちへ向けられた呼びかけなのです。

イエスは人類のうちの弱者、奴隷、悪徳な者たちのように、知性的に幼少なものを自分のもとへ呼んだのです。物質的な制約を受け、本能のくびきにつながれ、まだ、自分の中や周りに働く理性と意志の秩序を守ることが出来ない肉体的に幼少な者たちには、イエスは何も教えることはできませんでした。

 イエスは、愛嬌のある姿によって、母親である女性すべての心を征服してしまうよちよち歩きの子どもが、母親を信頼し母親の方へ向かっていくように、人類に、イエスのことを信じて寄ってきてほしかったのです。そのような魂たちはイエスの優しく神秘的な権威に従うことが出来たのです。

イエスは暗闇を照らすたいまつであり、人々の目を覚ます夜明けの光であったのです。彼はスピリティズムの開始者であり、その周りには子供たちではなく、やる気を持った大人たちが集まるのです。雄々しい行動は始まりました。もはや本能的に信じたり、機械的に従うのではないのです。人類は、普遍性を示す英知の法に則ることが必要なのです。

 愛する者たちよ、説明されることによって偽りが真実となる時はすでに到来したのです。あなたたちにイエスのたとえ話の本当の意味とその教え、過去のものと現在のものとの間に存在する強い相互関係を示しましょう。私は真実を伝えます。

霊たちの出現は地平線を広げ、それは人類へ送られた使者として、山頂の太陽のように輝くのです。(伝道者ヨハネ パリ、1863年)


十九、子供たちを私のもとへ来させてください。私のもとには弱い者を強くする母乳があります。いたわりと慰めを必要としている臆病で弱い者をみな、私のもとへ来させてください。無知な者を、光を与えるために私のもとへ来させてください。

不幸な者たち、苦悩する者たちの群れ、苦しむ者をみな、私のもとへ来させてください。
人生の悪を和らげる偉大なる薬を私が教えてあげましょう。そして、あなたたちの傷を治す秘密を明らかにしましょう。

あらゆる心の病を治し傷口をきれいにする、それほど多くの美徳を持ったその崇高なる香油とは、なんなのでしょうか。それは愛であり、慈善であるのです。
℘166             
あなたがこれらの神聖なる火を手にしているのであれば、何を恐れる必要があるのでしょうか。生きている間、絶え間なく、次のように言いましょう。

「父よ、私の意志ではなく、あなたの意志の通りに行われますように。あなたを喜ばすことであるならば、痛みと苦しみによって私をお試しください。そのことが祝福されますように。それが私のためになるのであれば、私の上にかざされたあなたの手は、振り下ろされるのだということを私は知っています。

主よ、あなたを喜ばすことであるならば、弱い者に慈悲を与え、その者の心に健全な喜びをお与えください。それにより、更に祝福されますように。しかし、神の愛が魂の中に眠ってしまわないようにしてください。感謝の気持ちの証として、その愛が絶え間なく魂をあなたの足元まで引き上げてくれますように。

 あなたに愛があるなら、地上に望まれる全てのものを有していることになります。あなたを憎み、迫害するためにあなたを取り囲む者たちの悪意や、どんな事件さえも奪い去ることが出来ない、貴重な真珠を手にしていることになるのです。

 あなたに愛があるならば、あなたの宝を蝕まれることの無い場所にしまえることになり、あなたの魂からはあなたの魂を不純にするあらゆるものを消すことができるようになるのです。愛があれば日々、物質の重みは軽減していくのを感じ、それは空を舞う鳥たちが地上のことを忘れてしまったように、そのまま天に昇っていき、やがてあなたの魂は主の胸元で生命力に満たされ、陶酔することになるでしょう。(ある守護霊 ボルドー、1861年)


  目が閉じている者は幸いです
二十、良き友よ、なぜ私を呼んだのですか。ここにいるかわいそうな苦しむ者の上に手をかざし、病を治すためですか。ああ、善き神よ、何と言う苦しみでしょう。彼女は視力を失い、暗闇に包まれてしまいした。可哀想な子よ、祈り、待つのです。

私はよき神の意志なしに、奇跡を起こすことはできません。私が行うことが可能であった、あなたたちの知っているすべての治療は、私たちみなの父である神によるものです。
℘167            
あなたたちが苦しむ時には、いつも目を天に向け、心の底からこう言いなさい。「父よ、私の病を治してください。しかし、私の魂の病が、肉体の病よりも先に治されるようにしてください。必要であるならば、私の肉体が罰せられ、それによって私の病んだ魂が、創造されたときと同じように純白になってあなたのもとへ引き上げられますように」。

良き友よ、善なる神は何時も聞いてくださり、この祈りの後、力と勇気があなたたちに与えられ、また恐る恐る願った治療も、あなたたちの献身への代償として与えられるかもしれません。

 しかし何よりも、今ここに学ぶことを目的とした集会に参加して、視力を奪われた者は、幸いにも報いの機会が与えられたと考えるべきなのだと私は申し上げます。目が邪魔になっているのであれば、目をえぐり取ってしまいなさい、それがあなたの堕落の原因になっているのであれば、火の中に投じた方が良い、とキリストが言ったのを思いだしてください。

ああ、地上に生きる者のうちで、いつか暗闇の中で、光を見てしまったことを苦しむ者がどれだけいるでしょうか。おお、そうです、報いとして、目を罰せられた者は何と幸いなことでしょうか。

もうその目は恥や堕落の原因となることは無く、その者は完全に魂の世界に生きることができ、視力の良い者よりも良く見ることができるのです。私がこうしたかわいそうな苦しむ者の瞼を開き、再び光のもとへ戻すことを神が許されるときには、この様に申し上げます。

「愛しき魂よ、なぜ思慮と愛に生きる霊としてのすべての喜びを知ろうとしないのですか。それを知ることが出来れば、盲目のあなたを暗闇に包む、不純で、重たい像を見ようと頼んだりはしないでしょう」。

 おお、神と共に生きようとする盲目の者は幸いです。ここにいるあなたたちよりも、彼は幸せを感じ、それに触れることが出来るのです。魂に会い、地上での運命を定められた者たちには見ることができない霊の世界へ、共に飛び立っていくことが出来るのです。

開かれた目は何時も魂を堕落させる原因となります。閉じられた目は、反対に、いつも魂を神のもとへ引き上げることができます。
℘168        
親愛なる友よ、私を信じてください。盲目は、ほとんどいつも心の真なる光をもたらしてくれます。一方で視力はほとんどいつも、魂を死に追いやる恐ろしい使いなのです。

 今度は、かわいそうな、苦しむあなたのために言葉を送ります。勇気を持って待つのです。「娘よ、あなたの目は開かれるのです」と、もし私が言えば、あなたはどんなに喜ぶことでしょう。しかしその喜びがあなたの大きな損失となるということを誰が知っているでしょうか。

幸福を作りながら、苦しみと言うものを認めた、善なる神を信じてください。あなたのためになることはすべて致します。しかし、あなた自身も祈らなければいけません。そして、何よりも私が来て申し上げることすべてについて考えてみて下さい。

 ここを去る前に、ここにいるあなたたちすべてに、私からの祝福がもたらされますように。(聖ウ“ィアンネー パリ、1863年)



<備考>ある苦しみが現世の行いの結果でないのであれば、その原因は前世に求めなければなりません。運命のいたずらと私たちが呼ぶものは、神の正義の行いに過ぎないのです。神は仲裁的な罰は与えません。なぜなら、過ちと罰との間には、必ず相互関係が存在しなければならないからです。

神がその善意によって、私たちの過去の行いをベールで覆い隠したとしても、次のような言葉によって私たちの道を指してくれるのです。

「剣によって人を殺したものは、剣によって殺される」。この言葉は、「私たちはつねに犯した過ちと同じ方法によって罰せられるのだ」と、解釈することができます。ですから、もし、誰かが視力を失うことによって苦しんでいるならば、その者にとって視力は堕落の原因であったからなのです。

他人の視力を失ったことが原因であったのかもしれません。重すぎる仕事を強制したことで誰かを失明させたのかもしれません。あるいは、他人を悪く扱ったり、注意不足によって失明させたのかもしれません。だから今、報復の罰に苦しんでいるのです。

盲目な者自身が、自分を省みた時、この報いを選んだのかもしれません。その時その者は、「もし、あなたの目が恥の原因であるならば、えぐり取ってしまいなさい」というイエスの言葉を自分自身に当てはめていることになるのです。
(この通信はある盲目の人のために呼び起こされたアルスの司祭聖ウ“ィアンネーの霊Curê d',Arsによって伝えられた)
   

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