一、悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満たされるからです。義のために迫害されてきた者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ第5章 4、6、10)
二、貧しい者は幸いです。神の国はその人のものとなるからです。いま飢えている者は幸いです。その人たちは、やがて飽き足りるようになるからです。(ルカ 第6章 20、21)
しかし、富んでいるあなたたちは、憐れな者です。慰めをすでに受けてしまっているからです。いま食べ飽きているあなたたちは、憐れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたたちは、憐れな者です。やがて嘆き悲しむようになるからです。(ルカ 第6章 24、25)
苦しみの正当性
三、地上で苦しむ者にイエスが約束してくれる償いは、未来の生活でしか受け取ることが出来ません。未来への確信を持たねば、これらの金言は意味を持たなくなってしまうか、あるいは人をだます偽りの言葉となってしまいます。
未来への確信を持っていたとしても、苦しむことによって幸せを得るということを理解するのは大変難しいことです。苦しむことにより、より価値のある幸せを得ることができるようになるのだという人がいます。しかし、それならばなぜ、ある人は別の人より多く苦しまなければならないでしょうか。
なぜ理由を明らかにされることなく、一部の人々は貧しい生活を強いられ、他の人々は贅沢な暮しをすることが出来るのでしょうか。なぜ、すべてがうまくいかない人々がいる一方で、すべてがうまくいき、笑って過ごせる人々がいるのでしょうか。
さらに理解できないのは、なぜ幸と不幸が、美徳と悪徳の両側に不均等に散らばっているかということです。徳の高い人たちが、はびこる悪者たちの間で苦しんでいるのを見ることができるのはなぜでしょうか。未来を信じることにより、慰めを得たり、辛抱を得ることが出来ます。
しかしながら、こうした普通とは違った考え方も、その理由を教えてもらえないのであれば、それは、神の不公平さを認めているようなものです。しかし、神の存在を認めるのであれば、その永遠の完全性を考慮に入れずに考えることは不可能です。
神は万能、完全なる正義、善良であり、そうでなければ神とはなり得ません。そして、もし神が至上の善と正義を持つのであれば、気まぐれやエコひいきによって行動するわけはありません。
人生の苦しみには理由があり、神が公平である以上、その理由も正当である筈です。このことをすべての人々が納得できるように、人類がこの原因を理解できるよう、神はイエスの教えに託して人類を導いてくれました。
そして今日、人類はその教えを理解するのに十分成熟したため、神はスピリティズムを通じ、霊たちの声に託し、この原因を完全な形で示してくれたのです。
現世に存在する苦しみの原因
四、人生の苦しみには二通りあります。言い換えるならば、二つの全く違った種類の原因があります。一種類目の原因とは現世の中にあり、もう一種類は現世以外のところに存在します。
地球上で私たちが体験する苦しみを遡れば、その原因の多くは苦しんでいる人自身の性格、あるいはその人自身の行いの中にあることが分ります。
しかしそれでは、どのくらいの人が自分自身に原因があるということを認めることが出来るのでしょうか。どのくらいの人が自分自身のプライド、野心、不注意の犠牲となっているのでしょうか。
どのくらいの人がその規律のなさ、根気のなさ、不適切な行動、きりのない欲求によって惨めな思いを強いられているのでしょうか。
本心を無視し、私欲、虚栄心の計算のもとに結ばれ、不幸を迎える夫婦が何組あるでしょうか。もう少し慎重に行動し、怒りをこらえることを知っていれば、何組もの不和、口論、致命的な言い争い、離別を防ぐことが出来たのではないでしょうか。
不節制や、すべてにおける行きすぎた行いがどれだけの身体が不自由な状態や病気をもたらしているでしょうか。幼い時からのしつけを怠った為に、子供との関係がうまくいかなくなってしまった親が何人いるでしょうか。
子どもに対する弱さと無関心が子供の中に自惚れやエゴ、虚栄心の種を植えつけ、渇いた心を作ってしまうのです。しばらくして、その植え付けた種を収穫する時、親に対し尊敬を欠いた恩知らずな子どもを見て驚き悲しむのです。
人生の変遷による失望によって心を傷つけられた者は、自分自身の良心に問うて見て下さい。あなたの苦しみの原因を一歩一歩辿ってゆけば、殆どの場合、それがあなた自身の中に存在することを知り、「これをやっていなければ」とか「あれをやっていればこんなことにはならなかった」等と言うことが出来なくなるでしょう。
自分自身のせいでないとすれば、一体誰のせいで苦しまねばならないというのでしょうか。人間はこのように、ほとんどの場合、自ら自分の不幸の主要原因を作っているのです。
しかしながら実際はその人自身の怠惰であるのにもかかわらず、自分の自尊心が傷つかないように、そのことを認めずに、運命や神、チャンスの不足のせいにしたり、あるいは星とは自分の不注意であるにも関わらず、星などのせいにしてしまった方がより容易なのです。
こうした態度は、必ず人生の中に無数の苦しみを生みだすことになります。人間は、その道徳的、知性的な自己の改善によってのみ、これらの苦しみからのがれることができるでしょう。
五、人間の法律は悪に応じて罰を与えるようになっています。悪を働き処罰される者は自らの行った悪行の報いを受けることになります。しかし、法律はすべての悪や罪を扱えるわけではありません。法律は社会的な損害を与える罪を処罰するようにできており、過ちを犯す者個人に損害をもたらす罪を処罰するようにはなっていません。
しかし、神はすべての人間の進歩を見守ってくれています。ですから、正しい道から逸れると、どんな小さな過ちであっても神は罰するのです。如何に小さな過ちであっても、神の法に反していれば、多かれ少なかれ、避けることのできない悲しい結果を必ず得ることになります。
小さな罪であれ、大きな罪であれ、人間はその犯した罪に応じて罰せられます。だから罪を犯した結果として現れる苦しみは、罪を犯したのだという警告なのです。苦しみはその人に善悪の区別を体験として教え、将来の不幸の源となり得るものを改める必要性を教えてくれるのです。
そうした動機がなければ、人間は自分を改めようとはしません。罰は与えられないのだと信じていれば、その人の向上は遅れ、更に幸福な人生への到達も遅れてしまいます。
そうした改善の必要性を認識させてくれるような経験は、時には少し遅れてくることもあります。生命がすでに消耗され、混乱に陥り、苦しみがもはやその人を向上させるために効力を持たなくなった時、人は概してこう言います。
「もし、人生のスタートからこうなることを知っていたら、どれだけの過ちを未然に防ぐことができただろう。もし、やり直すことができたら、私は全く別の生き方をしていただろうに。でも、もう時間はない!」。その人は、怠惰な労働者が、「今日は何もせずに一日が終わってしまった」と言うように、「人生を無駄にしてしまった」ということになるでしょう。
しかし、その翌日、労働者の頭上にはまた太陽が輝き、新しい日が始まり、失った時間を取り戻すことができるように、人生においても、墓の中で過ごす夜が過ぎると、新しい太陽が輝くのです。その、新しい人生の中で、過去の経験や、未来へ向けて固めた決意を生かすことが出来るのです。
℘101 前世に存在する苦しみの原因
六、しかし、その人自身が原因となっている苦しみが現世に存在する一方で、他にも少なくとも見かけはその人の意思とは全く関係なく、宿命のように訪れる苦しみもあります。
例えば、親愛なる人や、家庭を支える者の死のように。誰にも防ぐことのできない事故、まったく手の打ちようのない富の没落、自然の災害、生まれつきの病気、特に、その不幸な者から働いて生計を立てる手段を得る可能性をも剥奪してしまうような病気、身体の障害、知的障害。
こうした状態で生まれる者は、現世においては、そのような悲しい運命に遭わねばならないようなことはなにもしていないし、その償いを受けることも出来ません。
またそれを避けることは出来ず、それを変えることも出来ず、社会の慈悲の恩恵を受けることになります。なぜ、同じ屋根の下の同じ家族だというのに、この哀れな者の横には、すべての知覚においてその者より優れている人々が居るのでしょうか。
早く死んで行った子供は、結局、苦しみしか味わうことができなかったのでしょうか。こうした問題のいずれに対しても、どの哲学も未だに答えを出していません。どんな宗教も正しい明解な理由を説明することが出来ていません。
肉体と魂が同時に生まれ、地球上で少しの時間を過ごした後、取り消すことのできない決められた運命をたどるということであれば、こうした不幸や異常は神の良心、正義、意志を否定するものなのでしょうか。
神の手元から離れて行ったこのような不幸な人たちは一体なにをしたのでしょうか。現世においてこれほど惨めな思いを強いられ、良い道も悪い道も選択することが出来ないのであれば、すでに決められた償いか罰をまた将来にも受けなければならないのでしょうか。
すべての結果には原因が存在するという公理から、これらの苦しみにもなにか原因があっての結果であると言えるはずです。正義に溢れる神の存在を信じるのであれば、この原因も正当であると考えられるに違いありません。
いつでも原因は結果の先に立つものですが、原因が現世に見当たらないのであれば、その原因は現世以前、すなわち、前世に存在すると考えねばなりません。一方で、神は善行や、行ってもいない悪行を罰する筈がありません。もし私たちが罰せられるのであれば、私たちが悪行を働いたからであるはずです。
とすれば、もし、現世で悪行を行っていないのであれば、前世においてそれを行っているということになります。現世か前世のいずれかにおいて苦しみの原因が存在するということは、免れることのできない事実なのです。このように、私たちの道理は、そうした事実の中に働く神の正義というものがいかなるものかを教えてくれるのです。
℘103
つまり人間は現世の間に犯した過ちだけ罰せられているわけでも、また現世のうちに完全に罰せられて終わるわけでもありません。過去における原因が生んだ結果から逃げることなく最後まで従う必要があるのです。悪人の繁栄は一時的なものでしかありません。
もしその人が今日償うことが出来なければ、明日償わねばならないのです。すなわち今日苦しむ者は、過去における過ちに対する償いを行っているのです。
一見その人にとってふさわしくない苦しみも、その存在理由があるのです。苦しむ者はいつもこのように言うべきです。「神よ、過ちを犯した私をお許しください」と。
七、前世に存在する原因から来る苦しみや、または現世に始まった原因による苦しみは、常に人生におけるその人自身の過ちから来るものです。厳しく、公平に行き亘る正義によって、人は他人を苦しめた方法と同じ方法で苦しむのです。
冷たく非人間的な人は、冷たく非人間的に扱われることになります。自尊心の高すぎる者は屈辱的な経験をさせられるでしょう。
ケチで利己的な人、物質的な富を悪用する人は、その有り難さや必要性を感じさせられることになるでしょう。悪い息子であれば、自分の子どもに苦しめられる、というようにさまざまです。
このように、人生の多様性や、償いの世界としての地球上での運命が、地上の善人と悪人の間に不均一に分配された人間の幸、不幸の理由を説明してくれます。この不均等性は単なる見掛け上のものでしかありません。なぜなら私たちは現世においてしか各々の問題を見ることが出来ないからです。
しかし、思考によって心を持ちあげ、連続性のある人生を考えてみれば、霊の世界において決められているとおりに、各々にはその人にふさわしい人生が与えられているということを理解することができ、そこに神の正義が欠けることはないということが分ります。
人間は低級な世界に生きているということを忘れてはなりません。人間がそこに存在するのは、人間の不完全性のためなのです。苦しみに出遭うたびに、そのような苦しみも、より高級な世界へ行くことが出来れば味わうことがないのだということを思いだし、また、地上へ再び戻ってくるかどうかということは、各々の努力とその向上にかかっているのだということを認識しなくてはなりません。
八、人生における苦労は、強情な霊や無知な霊に与えられます。それにより、そうした霊は自分が何をしているのかを自覚した上で正しい選択をすることができるようになります。
本当の苦しみを心から体験することによって欠点を改め、向上しようという意志を持った霊によって、自発的に選択され、受けとめられる苦労があるのです。課された任務をうまく成し遂げることができなかった霊は、その任務に付くことによって得ることが出来た筈のメリットを逃さないよう、改めて最初からその任務が課されることを望みます。
こうした任務としての苦しみは、過去の過ちへの償いであると同時に将来へ向けての試練なのです。だからこそ、人間に改善の可能性を与え、最初の過ちを永久に非難することなく、人間を絶対に見放すことの無い神の好意に感謝しようではありませんか。
九、しかし、人生の苦しみの全てがある特定の過ちの証であると信じてはなりません。多くの場合、苦しみとは、自分の浄化と進歩の速度を早めるために、霊自身が選らんだ道であることがあります。そのような場合、苦しみとは償いとしてだけではなく、試練としての意味を持つのです。しかし、試練は必ずしも償いであるとは限らないのです。
完全性を得ることのできた者は試される必要はないのですから、試練に立たされたり、償いの場が与えられるということは、その霊がまだ劣等であることの証明にかわりはありません。
しかし、ある段階への進歩を成し得た霊が、さらに上の段階へ進歩を望むことによって、苦しみに打ち勝った分の報酬として向上しようと、その向上に値するだけの苦境での任務を神に求めることがあります。
善行を、生まれた時からすでに身につけ、高揚した魂を持ち、高潔な感覚を持ち、過去からの悪をどこにも引きずっていないような人で、キリストのように苦しい境遇に対し忍従し、不満をこぼすこともなく、神の加護を求める人がいるならば、その人はこのような場合にあてはまるということができるでしょう。
反対に、その人にとって不満の原因となったり、その人の神への反感の原因となるような苦しみとは、過去の過ちへの償いであるということができます。
ある苦しみがその人に不満をもたらさなかったのであれば、その苦しみは間違いなく試練であると考えられます。そうした苦しみは、霊自身が自発的に求めたものであり、過ちへの償いとして強要されたものではありません。すなわちそうした苦しみは、その霊の強い決意の証しであり、進歩のしるしなのです。
℘105
十、霊は、完成することなく完全なる幸福を求めることはできません。どんな小さな汚点があっても、その霊が不完全であれば至福の世界へ入ることはできません。ある伝染病が広まった船に閉じこめられた乗組員たちが、どの港に到着しても、伝染病に感染していないことが証明されるまでは上陸の許可が下りないのと同じことです。
霊は幾度にも亘る再生によって、不完全性から少しずつ脱却していくのです。人生における試練は、うまく乗り越えることが出来れば、霊を進化させます。償うことにより、過去の罪を清算し、霊は浄化されます。
それらは傷を癒し、病人を治すための薬であり、重症であればあるほど、薬も強いものである必要があります。つまり多く苦しむ者は多くの罪を償う必要があるのであり、早く治してくれる薬が与えられたことを喜ぶべきでしょう。
その苦しみに忍従することによってそれを有益なもとし、その苦しみがその人にもたらしてくれたものを、不満をこぼすことによって失ってしまうことがないように出来るかどうかは、その人自身にかかっているのです。
そうすることが出来ないのであれば、再び同じような苦しみを繰り返さねばならないでしょう。
℘106 過去の忘却
十一、過去の人生のことを覚えていないから、過去の経験を生かすことが出来ないと考えることはつまらぬことです。神が過去をベールで覆うことにしたのは、その方が有益と考えられたからに違いありません。過去を覚えていたとしたら、実際に多くの不都合を生じるでしょう。
過去の事実によってひどく恥ずかしめられることもあるでしょうし、また、過大な自尊心をもつようになってしまうこともあるでしょう。私たちの過去は、私たちの自由意志を束縛することになるでしょう。いずれの場合であれ、過去を覚えていたとしたら、社会関係おいて必ず大きな混乱を招くことになります。
霊はよく過去に過ちを犯した相手に償うために、過去に生活した時と同じ環境、同じ人間関係の中に生まれ変わります。もし、こうした関係の中で、過去に憎んでいた人が再び存在しているとわかってしまったら、また憎しみが湧いてくるでしょう。もし過去に攻撃した相手を前にしたらいたたまれない気持ちになることでしょう。
神は私たちの向上のために、私たちが必要とするものを、ちょうど足りるだけ与えてくれているのです。すなわち神は私たちに良心の声と本能的な習性を与えてくれました。私たちに不利益になるものを私たちから取り除いてくれたのです。
人間は生まれた時から、それまでに獲得したものを持って生まれます。生まれるものは、過去に生きていた通りに生まれ変わるのです。一回一回の人生のすべてが新たな出発点です。過去がどうであったかというのは、重要なことではありません。もし罰せられているのであれば、過去に過ちを犯したからです。
その人の現在の悪い習性は、その人自身がまだどこを正さねばならないかを示しているのです。そうであるからこそ、そうした自分自身の悪い性癖を見逃さないよう、その人は注意しなければなりません。
なぜなら、すでに完全に正された悪は表に出てこないからです。良心の声が善と悪との区別を警告し、悪の誘惑に乗らないようにする力を与えてくれる時、人は善なる決断を下すことができるのです。
過去の忘却は、地上で生活している間だけのものです。霊の世界へ戻れば、自分の過去を思いだすことになります。したがって、過去の忘却とは、一時的な記憶の中断に過ぎません。それは私たちが寝ている間、地上での生活の記憶に一時的な中断があるにもかかわらず、次の日、寝た前日やそれ以前の記憶を失っていないのと同じことです。
過去の記憶を取り戻すのは、死後だけのことではありません。霊は過去の記憶を失うことはなく、人間は睡眠中、身体の寝ている間、霊はある種の自由を得ることが出来、また、過去の人生の記憶を持っているということを経験は証明しています。
従って霊はなぜ苦しむのかを知っており、またその苦しみが正当なものであるということも知っています。過去の記憶は、霊が地上で寝ずに活動している間だけ消えています。
その霊にとっては苦しく、社会的に生活する上で不利益ともなり得る過去の細かな記憶を消されているということが、その解放の時間をうまく利用することができる霊にとっては、新しい力を得ることが可能になるのです。
甘受しなければいけない理由
十二、「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」という言葉で、イエスは、苦しむ者が受けるべき代償と、苦しみと言うものが病める私たちの回復の始まりであって、私たちは苦しみを有難く受け止めなければならないことを同時にのべています。
これらの言葉は次のように言い換えることができます。苦しむことを幸せに感じなければいけません。何故なら、この世におけるあなたたちの苦しみは、あなたたちの過去の過ちに負うものであるからです。
これらの痛みは、地上で辛抱強く耐えられるのであれば、未来の何世紀にも及ぶ生活への蓄えとなるのです。したがって、神が、現生においてあなたたちに義務を果たす機会を与えてくれ、未来での平和を約束し、義務を軽減してくれているのだと言うことを感謝しなければなりません。
苦しむ者とは、多大な借金を抱えたような者です。その者に対して、借金を取りたてる者が、「今日中に百分の一でも払ってくれるのなら、残りは全て水に流してあげましょう。もし、払わないのであれば、最後の一円まで、取りたてようと追い回すことになります」と言ったとします。
借金を負う者は、全てを掛けて百分の一だけを支払って負債から逃れた方が幸せでしょう。このように言ってくれる取立人には文句を言うどころか、感謝をするのではないでしょうか。
これが「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」と言う言葉の意味するところです。苦しむ者はその借金を返済することが出来るのですから幸いなのです。
なぜなら、支払いを終えれば自由になるからです。しかし、その借金を払いながらも、また別の方から借金をするならば、永久に負債から逃れることはできません。新しい過ちを犯す度に負債は増えるのです。
なぜならいかなる過ちであれ、避けることのできない罰が与えられないものは何一つないからです。もし今日支払うのでなければ、明日は支払わねばなりません。現世で支払うのでなければ、来世において支払うことになるでしょう。神の意志に対する甘受の気持ちの欠如も、まず一番目にこうした過ちの内に含めなければなりません。
なぜなら、もし、私たちが苦労や苦しみに対し不満を持ち、私たちに相応しいものを受け入れず、神を不公平であると非難するのであれば、苦労が与えてくれる利益を失い、新たな債務を負うことになるからです。
それは私たちを追い立て苦しめる債権者に少しずつ支払いながら、同時に又新たな債務を負い、また、新しい支払いを始めなければならないのと同じことです。
霊の世界へ入った人間とは、報酬を受け取りに現れた労働者のようなものです。そのうちの何人かに雇い主は言います。「あなたの働いた分の報酬です」。
しかし、地上で満たされた者、怠惰な生活をし、幸せを自分勝手な私欲や自尊心のために、また世俗的な快楽に求めてきた者に対して雇い主は言います。「なにも支払うものはありません。何故なら、あなたたちは地上ですでに報酬を受け取っているからです。行きなさい、あなたたちの仕事をやり直しなさい」。
十三、人は人生のとらえ方次第で、与えられた試練を軽く感じたり、重く感じたりします。試練の期間が長いと感じれば感じるほど、そこから来る苦しみも増します。霊の世界に視点をおいて、地上での物質的な人生というものが、永遠の生命の中のある一瞬でしかないと見ることのできる者には、その人生の短さを理解することができ、苦しみもすぐに過ぎ去ってしまうのだということが分かるでしょう。
近い将来に必ず幸せがやってくるであろうと言う確信は、苦しむ者に勇気を与え、苦しむ者の支えとなります。苦しむのではなく、彼を進歩させてくれる痛みを、天に向かって感謝することになります。
物質的な人生しか目に入らない者には、それがいつまで立っても終わらないものであるかのように思え、苦しみは重くのしかかってきます。霊の世界から人生を見れば、この世のあらゆるものの重要性は薄れてしまいます。人間的な欲望を和らげることによっておかれた立場への満足を得ることができます。
人の身分を羨むことがなくなれば、悲運や失望もあまり感じなくなるでしょう。そうした人は、心の平静と甘受の気持ちを持つことができるようになり、その気持ちは身体の健康にとっても、また、魂にとっても大変良い影響を及ぼします。
一方羨みや野心は、短い人生の惨めさや苦しみを増大させ、そのものを苦境に導きます。
自殺と狂気
十四、地上での人生に対する視点を変えることによって得られる心の平静、甘受の気持ち、将来への信念は、霊に心の落ち着きを与えるのですが、そうした心の落ち着きとは、自殺や狂気への最良の予防薬となります。
狂気のほとんどは、人間が耐えることのできない苦しみが原因となっています。スピリティズムが教えているように、高い視点からこの世を見ることができるようになると、普通であれば、大きな落胆の原因となるような悲運や失敗を前にしても、それらを冷静に、時には喜びさえ感じて受け止めることができるようになります。
同時に、こうした苦しみを乗り越えさせてくれる力が、人間を精神的な動揺から守ってくれるのです。
℘110
十五、自殺に関しても同じことが言えます。無意識の自殺と考えられる、泥酔や狂気によって起きる自殺を除けば、各々の直接の動機が何であれ、殆どの自殺の原因は人生に対する不満であるということができます。苦しみがたった一日だけのものであり、次の日には必ず幸せが来るのだと確信できる人は、容易に耐えることが出来ます。
そうした人は、この世の苦しみに終わりがないと思わない限り、絶望することはありません。永遠の生命の中で、人間の一生とはどのようなものなのでしょうか。
それは、ほんの一日よりもさらに短いものなのです。それにもかかわらず、自分の生命とともにこの世の中の全てのことが終わると考えて、いやなことや失敗を悲観し、永遠の生命を信じない者は、死ぬことのみによって苦しみから救われると考えるのです。
そして、この世におけるどんな解決も期待できないまま、苦しみを自殺によって短縮することが自然で論理的であると考えるのです。
十六、神を信じなかったり、将来への単純な疑問や唯物主義的な考えを持つことは、人を自殺に導く大きな動機となり得ます。なぜなら、そうした考えは、道徳の弱体化をもたらすからです。
自分の知識の権威に支えられたある有能な人が、人間の死後にはなにも存在しないということを、彼の聴衆や読者たちに対して納得させようとしているとしたら、それは、「不幸であるのなら自殺してしまいなさい」と言っているのと同じことではないでしょうか。
この有能な人は、彼の聴衆や読者たちが自殺しないために何と言ってあげることが出来るでしょうか。自殺しないことによって、何を得ることができると教えてあげることが出来るでしょうか。どんな希望を与えることが出来るのでしょうか。
「無」以外何もありません。不幸な者に与えられる英雄的な唯一の救いであり希望が「無」なのであれば、苦しみが増す前に、すぐにでも「無」の中に身を投じた方が利口であると、必然的に結論が出てしまいます。
℘111
したがって、唯物主義的な考えは、自殺の肯定を多くの人に伝えることになる毒なのです。そして唯物主義者たちは重大な責任を負うことになるのです。スピリティズムの考えでは、生命に謎を抱くことができなくなるために、人生の様相は変わります。
スピリティズムを信じる者は、生命は死を超え、まったく新しい形で、無限に続くということを知っています。このように理解することが、私たちに忍耐と甘受の気持ちを与えてくれ、私たちを自然に自殺から遠ざけてくれます。また、そこから私たちの中に道徳的な勇気が生まれるのです。
十七、スピリティズムは、自殺の問題に関して、もう一つの有益で、より決定的な結論をもたらします。スピリティズムは、自殺した人の死後の不幸な状態を見せることで、誰も罰せられることなく神の法則を破ることはできないのだということを証明してくれます。
神は、人間が自分に与えられた人生を短縮することを禁じています。自殺した者の味わう苦しみは永遠ではなく、一時的なものですが、だからと言って、それが恐ろしいものではないということではありません。
神の命令が下る前にこの世を去ろうとする者がその実態を知ることが出来れば、誰もがもう一度考え直したくなるような恐ろしいものなのです。スピリティズムを信じる者は、この様に自殺に反対する多くの理由を持っています。地球上に生きる間に甘受し、耐え忍んだ苦しみが大きければ大きいほど、幸せにすることのできる未来の生命への確信。
人生を短縮することが、期待する結果とは全く反対の結果を生むという確信。苦しみから逃れても、更に恐ろしく、長引くことになる苦境へ追いやられるだけであるという確信。
自分を死に追いやれば、より早く天国へ行けると考えることが誤っているという確信。自殺は霊の世界で愛する者と再会する上で障害となるという確信。これらすべてのことが、自殺は失望しかもたらさず、自分たちの関心とは相反しているものであると結論付けてくれるのです。
スピリティズムが改心させる自殺願望者の数は非常に大きなものです。もし、すべての人がスピリティズムの考えを信じるようになれば、意識的な自殺者はいなくなるでしょう。
自殺に関して、唯物主義とスピリティズムの教義のそれぞれがもたらす結果を比べるならば、一方の理論は自殺を促し、一方の理論は自殺を防ぐのだということが判り、そのことは経験からも証明されています。
霊たちからの指導
℘112
善い苦しみ、悪い苦しみ
十八、キリストは「苦しむ者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と言いましたが、それは苦しむ者すべてについて触れたものではありません。なぜなら、地球上に生きる者は、ワラの上に寝ようと、王位につこうと、その度合いは違っていても、みな苦しむからです。
しかし苦しむべきことに、善い苦しみを知る者はあまりにも少なすぎます。試練をよく耐え抜いて初めて天の御国に導かれるのだということを、ほんの一握りの人たちしか理解していません。苦しみの前に落胆してしまうことは誤りであり、神は勇気に欠けるものを慰めてはくれません。
祈りは魂を支えてくれますが、それだけでは十分ではありません。厚い信仰の基礎には神の優しさによせる固い信頼がなければなりません。神は弱い肩の上に重荷を置くことはない、ということを何度も聞かされたことがあるでしょう。重荷は常にそれに耐える力に応じて置かれるのです。
それは甘受と勇気に応じて報いが得られるのと同じです。苦しみが多ければ多いほど、得ることのできる報いも大きくなります。しかし、その報いを受けるには、私たち自身がそれに値しなければなりません。だからこそ、人生には試練が溢れているのです。
戦線に送りこまれない兵士は、基地に待機し、休憩をしていては昇進できないという不満を持ちます。そのような兵士たちのようになりなさい。身体を衰弱させ、魂を麻痺させてしまうだけの休息を望んではなりません。神があなたを戦いへ送りこんだのであれば、満足しなければなりません。
なぜなら、その戦いとは、戦場での戦いではなく、人生の苦しさとの戦いのことだからです。そこでは、流血の戦いよりも勇気が必要となる場合があります。
なぜなら、そこでは、戦場でしっかりと敵の前に立てる者でさえ、道徳的な痛みに苦しめられると、屈してしまうからです。こうした勇気に対して、人間は地上で報酬を受けることはできません。しかし神は勲章や栄光のある場所を用意し、待っていてくれるのです。
心配や不満のきっかけとなる苦しみに捕まってしまったら、それを乗り越えようと努力してください。耐え切れないほどの激しい苦しみである怒りや落胆を克服した時には、自信を持って、「私の方が強かったのだ」と言い聞かせましょう。
「苦しむ者は幸いです」は、次のように理解することができます。「その信仰の強さ、決心の固さ、辛抱強さ、そして神の意志に従うことを試された時に、それを証明できた者は幸いです。なぜなら、そうした者は地上で逃すことになる喜びを百倍にして与えられるからです。そして、働いたのちには、休憩できる時があたえられるでしょう」(ラコルデール ルアーブル,1863年)
悪とその薬
十九、地球は、喜びと楽しみに溢れる楽園なのでしょうか。預言者たちの声はもうあなたの耳には残っていないのでしょうか。イエスはこの苦しみの谷に生まれる者には、涙を流し、歯ぎしりをしなければならない時が来るということを宣告しませんでしたか。
そうなのであれば、ここに住む者は誰もが苦い涙と苦しみを覚悟しなければなりません。
その苦しみがどんなに深く鋭くとも、天を見上げ私たちに試練を与えることを望んでいる神に感謝しようではありませんか。人類よ、神があなたの身体の傷を癒し、あなたの送る日々を美と富とで飾ってくれた時以外に、神の偉大なる力を認めることができますか。
あなたを栄光で飾り、輝きと潔白を与えてくれた時以外に、神の愛を感じることができますか。あなたは模範として与えられた者の真似をするべきでしょう。イエスは、惨めさと悲しみのどん底にあった時、肥しの山の上に身体を横たえて神に言いました。
「主よ、私は富むことの全ての喜びを知りました。そして、全くの貪窮に私を送ってくださいました。ありがとうございます。あなたの僕を試そうとしていただき、ありがとうございます」。
死によって限りある地平線ばかりをいつまであなたは見つめているのですか。あなたの魂はいつになれば棺の向こう側に向かっていくのですか。一方、もしこの生涯を、苦しみ、泣き続けたとしても、甘受、信仰、愛を持って苦しむ者に与えられる永遠の栄光に比べれば、それが一体何になるというのでしょうか。
神が準備してくれる未来への慰めを求めましょう。また、あなたの苦悩の原因を過去に求めましょう。そして、最も苦しんだと感じる者は、祝福された者であると感じましょう。
死者として、宇宙をさ迷っていた時、あなたは自分が耐え切れるであろう試練を選択したのです。なぜ今になって不満を言わなければならないのですか。あなたは誘惑と戦い、克服しようと望み、富と栄光を求めたのです。
精神的、肉体的な悪に対し、全身全霊で戦いたいと望み、その試練が大きければ大きいほど、勝利を得た時の栄光は偉大であることを知っていた筈です。
たとえ身体は肥しの山の上に終わり、死を迎えたとしても、勝利を収めることができたならば、苦悩と悲しみによる洗礼を受けた潔白に輝く魂を放つことになるのです。
残酷な憑依、死に追い詰めるような悪に攻撃された者にどんな薬を与えてあげることが出来るのでしょうか。間違いなく効く薬は、たった一つしかありません。それは天に通じる信仰を持つことです。
もっとも激しく痛ましい苦しみの真っただ中で神への賛美の歌を口ずさんでください。そうすれば、あなたの横にいる天の使いが、救いの道とあなたがいずれたどり着くことになる場所を示してくれます。
信仰こそが苦しみの唯一の薬です。信仰は常に永遠なる地平線の方向を示してくれ、現在の日々を幾日も覆っていた雲を追い払ってくれます。病気、傷、試練、苦労の薬を求めてはなりません。信じる者は信仰という薬によって力づけられ、その薬の効力を信じない者は、例え一瞬であっても、直ちに苦痛や悲しみを味わい、罰を受けることになるのです。
神は神を信じる者には目印を付けています。キリストは、信仰だけで山をも動かすことが出来ると言いました。私は言います。苦しんでいようと、自分自身を支えるだけの信仰がある者は神の加護を受け、苦しみを感じなくなります。最大の痛みの時間が、永遠の喜びの前奏のように聞こえてきます。
魂はそうやって身体から離れていき、後からくる者がまだ地上でもがき苦しんでいる時、天の国に滑り込み、天の使いたちと、一緒に神の栄光と神への感謝を賛美して歌うのです。
苦しみ、涙を流す者は幸いです。神が祝福を積んでくれるので彼らの魂は幸せです。(聖アゴスティーヌ パリ、1863年)
℘115
幸せはこの世のものではありません
二十、私は幸せではない、幸せとは私のためにあるものではない、と一般に人はどんな社会的階層に属していても訴えます。親愛なる子どもたちよ、このことは、「コへレトの言葉」の金言「幸せはこの世のものではありません」が真実であることを、どんな推論よりもはっきりと示しています。
誠に、どんな財産も、どんな権力も、青春の盛りも、幸せの本質的な条件ではありません。多くの人が切望するように、たとえこれらを三つとも持っていたとしても幸せにはなれないでしょう。
というのも、特権階級の中でさえも、いろいろな年齢の人がその置かれた生活環境を嘆いているからです。
こうした事実があるにもかかわらず、労働者階級の人々が、富に恵まれた階級に非常に強く憧れ羨むのは何とも理解しがたいものです。この世においては、どんな人にもそれぞれに与えられた労苦と貧困があり、苦しみと誤りが分配されるのです。
そのことから、地球とは試練と償いの場所であるという結論に辿り着くのは容易なことです。
そうであるならば、地球が人類にとって唯一のすみかであり、そこでの一回の人生において、自分の持ち合わせた可能性の中での最大限の幸せを得ることが許されているのだと信じる者は、騙されているのであり、その者に耳を傾ける者をも騙すことになるのです。
何世紀にもわたる経験からも、この地球上で人間の完全なる幸せを得るための必要条件が揃うことは異例である、ということを思いだしてください。
一般的に、幸せとは理想郷(ユートピア)を意味し、何世代にもわたって探し続けたところで決して辿り着けないところであると考えられます。この世で思慮深い人を探すのは難しいことですが、本当に幸せな人を見つけるのは更に大変なことです。
地上で、分別を持って生きて行かない者にとって、幸せとは非常にはかないものです。一年、一ヶ月、一週間の完全な満足を感じたとしても、残りの人生は苦しみや落胆の連続となるでしょう。
親愛なる子供たちよ、私は、一般の人が羨む地上での幸福について述べているのだということを覚えておいてください。
したがって、地上でのすみかが試練と償いの場であるならば、この世の他にも、人間の霊が依然として物質的な身体の拘束を受けながらも、人間の生活に固有の喜びを完全な状態で味わうことが出来るような、より素晴らしいすみかが存在することを認めなければなりません。
だからこそ、神は星雲の彼方に、より高等で美しい惑星を作ったのです。そこへ行くにふさわしくなるまで浄化され、完成されたとき、あなたたちはその努力とその性向によってその星にひきつけられていくことになるのです。
しかし、私の言葉から地球は悔悟だけのために存在するのだと結論づけないでください。決してそうではないのです。将来、地球がどれほど進歩し得るのか、やがて訪れることになる、新しく豊かに改められた社会とはどのようなものなのか、地球が過去においてすでに成し遂げた進歩や、社会的な向上からそれらを想像することは容易なことです。
地球を進歩させること、これが、霊たちによって明らかにされた新しい教義であるスピリティズムの持つ大きな役割なのです。
親愛なる子どもたちよ、聖なる競争心に刺激され、あなたたち一人一人が精力的に自己の改革に取り組めますように。すでにあなた自身を更生しつつあるスピリティズムを広めることに全身を捧げなさい。
この神聖なる光の中にあなたの兄弟たちを招き入れることがあなたに課された任務です。親愛なる子どもたちよ、仕事に取り掛かりましょう。この厳粛な集まりにおいて、あなたたちの心を一つにし、将来を担う未来の世代のために、幸せという言葉が無駄にならないような世の中を築きあげるという大きな目標を掲げるのです。(モロー枢機卿フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ 1863年)
愛する人の死、早すぎた死
二十一、死があなたたちの家族を襲い、年齢の区別なしに若い者を年老いた者より先に連れて行った時、あなたたちはよく次のように言います。
「神は不公平だ。まだ先の長い、強いものを連れて行き、もう長い年月を生き、落胆ばかりしてきた者が置いていかれてしまった。役に立つものが連れて行かれ、もう役に立たなくなってしまった者が取り残されてしまった。喜びのすべてであった罪のない子どもを奪い、母親の心を傷つけた」と。
人類よ、このようなことに対してこそ、あなたたちはその考えを引き上げ、最善なことというものが多くの場合あなたたちの見逃している、死すべき運命の中に存在しているのだということを理解する必要があります。
なぜあなたたちの基準で神の正義を計ろうとするのですか。宇宙の神がその気まぐれで、あなたたちに残酷な苦しみを与えるなどと考えられますか。何事も知的な目的なくして行われることはなく、すべてのできごとにはその理由があるのです。
あなたに降りかかるすべての困難をよりよく調べてみることが出来れば、そこには必ず神の決めた理由、あなたに改心を促す理由があることがわかります。
それを理解することができれば、あなたたちの惨めな関心ごとというものが、比して二次的な物であることが分かり、あなたはその優先順位を下げることが出来るでしょう。
私が述べることを信じてください。二十歳の者であっても、尊敬すべき家系の面目をつぶしたり、母親を悲しませ、父親の頭髪を早く白くさせてしまうような不品行を働くようであれば、死が選択されてしかるべきものなのです。早すぎる死はほとんどの場合、神によって与えられる恩恵であり、それによってその者を人生の惨めさや、破滅に導くような誘惑から遠ざけてくれるのです。人生のまっ盛りにある者の死は、運命の犠牲者ではなく、神がこれ以上地上にいるべきでないと判断したことによるものなのです。
希望に満ちあふれる者の命が余りにも早く断ち切られてしまうことは悲劇である、とあなたたちはいうでしょう。しかし、その希望とは、どんな希望のことを言っているのですか。地上の希望、その経歴と富を築くことによって輝く希望のことですか。
常に物質的な世界から脱却することの出来ない狭い視界でものごとをとらえているのではありませんか。希望に溢れていたとあなた方がいうその人の運命が実際にどうであったのか、あなた方は知っているのですか。
それが苦しみに溢れたものではなかったと、どうして言いきることが出来るでしょうか。未来における生活への希望を見ずに、後に残した地上での束の間の人生の方に希望を託すのですか。
至福の霊達が住む世界で獲得することになる地位よりも、人間の世界で獲得する地位の方が大切だと考えるのですか。
この惨めな谷底から、神があなたの子供を連れて行っても、泣くのではなく、喜ぼうではありませんか。その子供に、私たちと一緒に苦しむために残れと言うのは、自分勝手ではないでしょうか。
ああ、信心を持たぬ者の抱く苦しみ、死を永遠の別れだと考える者の苦しみ。しかし、あなたたちスピリティズムを学ぶ者は、魂は肉体という被いから解放された時の方が、より生き生きすることを知っています。母親たちよ、あなたの愛する子は、あなたのすぐ近くにいるのです。
すぐ近くにいて、そのフルイドの体があなたを取り巻き、その子の思考はあなたを守ってくれているのです。
あなたが抱くその子の良い思い出は、その子を満足させます。しかし同時にあなたの持つ苦しみは、その子を悲しませる原因となるのです。何故なら、それはあなたが信心に欠けていることの証拠であり、神意に反することであるからです。
霊界での生活を理解するあなたたちは、愛する者たちを呼ぶとき、あなたの心臓の鼓動に耳を傾けてみて下さい。あなたが彼らに対する神の祝福を願う時、あなたの涙を乾かしてくれる心強い慰めをあなたの中に感じることができるでしょう。そして、その偉大なる熱望は神に約束された未来を見せてくれるでしょう。(元パリ・スピリティスト教会のメンバー、サンソン 1863年)
℘119
善人であれば死んでいた
二十二、ある危険から逃れた悪者を見て、善人であれば死んでいた、などとよく言います。これは確かに真実だということが出来るでしょう。
なぜなら、神は多くの場合、善い霊にはその功労の代償として、出来るだけ短い試練を与えるのに対し、若い進歩しつつある霊には、より長い試練を与えるからです。しかし、だからといってこのようにいうことは神に対する冒涜です。
悪者の隣りに住むある善人が死んだとします。あなたたちは「あっちが死んでいればよかったのに」等とすぐ言います。その時あなたは大きな間違いを犯しているのです。
死んでいく者はその任務を終えたのであり、残った者はおそらく、その任務を開始してさえもいないのです。それなのになぜ悪者にその任務を終わらせるための時間が与えられないことを望み、善人がこの地上にとどまることを望むのですか。
刑期を終えたのに刑務所に残らなければならない囚人と、一方で権利を持たないのに自由を与えられた囚人を見て何を考えますか。本当の自由とは肉体からの解放であり、地上にいる間は、収容所にいるのだということを覚えておかなければなりません。
理解できないことについてとやかく言うのは止めましょう。すべてにおいて公平である神を信じましょう。あなたたちに悪く見えることが、しばしば善いことであり得ます。
しかし、あなたたちの能力はあまりにも制限されているため、あなたたちの鈍い感覚ではおおきな全体像をすべて捉えることが出来ないのです。あなたたちの考えによって、この小さな地球を乗り越えられるように努力しましよう。
考えを高く持ち上げるにつれて、地上の重要性というものがだんだん小さくなっていきます。なぜなら、この地上における人生とは、霊としての真なる唯一の永続的な命の前には、単なる小さな一つの出来事でしかないからです。(フエヌロン サンス 1861年)
℘120
志願して受ける苦痛
二十三、人間は絶え間なく幸せを求めていますが、その幸せはいつも逃げて行ってしまいます。それは、地上において純粋な幸せが存在しないからです。しかし、生きている間にも、避けて通ることのできないさまざまな出来事をもたらす人生の浮き沈みはあるものの、相対的な幸せというものは得ることができます。
ところが、そうした幸せも、最高の幸せをもたらす不滅の魂の喜びの中に求めずに、消滅し得るものや物質的な満足の中に求めるのであれば、それもまた、人生の浮き沈みの犠牲となってしまいます。
この世の真なる幸せである心の平静を求めずに、動揺と負担をもたらすものに幸せを求めていることになるのです。そう考えると、興味深いことに、人間は自分だけの力で避けることができたはずの苦痛を、自ら招いているのだということが判ります。
羨みや妬みによって生まれる苦痛ほど苦しいものがあるでしょうか。羨ましがる者、嫉妬深い者は、苦痛から休まる暇はありません。どちらも絶え間なく引くことの無い熱に悩まされます。
他人のものを欲しがることは不眠の原因となります。ライバルの成功には気を惑わされます。他人を上回ることにしか関心が無く、同じように妬み深い他人に、自分に対する嫉妬を抱かせることによってその人は喜びを得ているのです。可哀想な、愚かな者たちよ。
その者の人生を毒する嫉妬の対象となっている無益なものを、もしかしたら明日、すべて失わなければならなくなるかもしれないということを忘れてしまっているのです。
「苦しむ者は幸いです。なぜなら、慰められるからです」という言葉は彼らには当てはまりません。なぜなら、彼らの関心事は天に置いて報われるものではないからです。
反対に、すでに得た物によって満足することを知っている者は、何と多くの苦悩を避けることが出来ることでしょうか。自分の所有しないものを羨むことなしに見ることが出来、実際の自分以上に自分を見せようとはしません。
自分の上を見るのではなく、常に自分より少なく所有している者、つまり自分より下を見るので、いつも豊かであると感じることが出来るのです。馬鹿げた欲求を生み出したりはせず、いつも平静を保つことができるのです。
人生の苦悩の合間に感じることのできるそうした心の平静は、ある種の幸せだと言うことができるのではないでしょうか。(フェヌロン リヨン、1860年)
℘121
本当の不幸
二十四、すべての人が不幸について語ります。すべての者がそれを経験したことがあり、そのさまざまな様相を知っていると思っています。しかし、あなたたちに申し上げます。
ほとんどすべての人が誤解をしているのです。なぜなら、本当の不幸とは、人間が考えるもの、つまり、不幸と感じている人々が考えるものと、まったく違っているからです。
貧しく惨めな生活、火のともらぬ暖炉、せきたてる債権者、明るく微笑んでいた赤ん坊のいなくなったゆりかご、涙や、悲しむ心に見送られる棺、裏切られた苦しみ、高貴な衣装に身を包みたくとも貧しさに妨げられ、その貧しい身体に見栄を纏うプライドの高い者、これらすべてを、また、これら以外にも多くのことを、人間の言葉では、不幸と呼びます。
まったく、現在しか見ることのできない者にとっては、それは不幸であることに違いはありません。しかし、本当の不幸とはそのこと自体ではなく、それがもたらす結果の中に存在するのです。
今の瞬間には最も幸せな出来事が、後になって不幸な結果をもたらすのだとすると、見かけは不幸でも後に善いことをもたらすことに比べ、実際にはより不幸であるということが出来るのではないでしょうか。
木々をなぎ倒しながら、死を招くような不健康な有毒ガスを散らし、その環境を清める嵐は、不幸と言うよりは幸いであるということが出来るのではないでしょうか。
ある出来事を判断する時には、その出来事のもたらす結果についてみることが必要です。人間にとってなにが本当に幸せで、なにが本当に不幸であるのかを知るには、この世の向こう側まで行ってみなければなりません。
なぜなら、地上での出来事の結果と言うものは、そこへ行ってから現れることになるからです。つまり、あなたの狭い視野に不幸として映るものは、人生の終わりとともに消滅し、その償いを未来の人生において受けることが出来るのです。
新しい形の不幸、つまり、あなたの錯覚した魂がそのすべての力を使って求める、美しく、華々しい出来事に隠された不幸と言うものを示しましょう。
不幸とは、喜び、満足、名声、不毛な心配、良心を窒息させ、考えを圧迫し、人の未来と言うものに疑問を持たせるような、虚栄心を満たす大胆な満足のことです。不幸とは、人間が最も強烈に求める、忘却のアヘンのことなのです。
泣く者よ希望を持ちなさい。笑うものは、震えなさい。なぜなら、肉体で満足を得ているからです。神を欺くことはできません。誰もその行き先から逃れることは出来ません。
試練は、貧困に耐えられずに後を追いかけてくる浮浪者よりも非情な取立人のように、あなたたちの後を追ってきます。
あなたたちが休息時間と錯覚している間にも、攻撃してくる時を狙っており、突然あなたたちを本当の不幸に陥れ、エゴと無関心によって弱められたあなたたちの魂を驚かすのです。
スピリティズムの真なる光が、あなたたちの無知によってひどく変形されてしまった真実と偽りを、はっきりと元どおりに示してくれますように。
そうすればあなたたちは、栄光も進歩ももたらすことのない平和よりも、危険な戦いを望む勇敢な兵士のように行動することができるようになるのです。
栄光の勝利を得ることが出来るのであれば、戦闘中に武器、装備、衣類を失ったとしても、その兵士にとって何だというのでしょうか。
未来を信じる者にとって、その魂が天の国へ入り、輝くことが出来るのであれば、戦場に命を落とし、財産、肉体を失うことがなんだというのでしょうか。(デルフィ-ヌ・デュ・ジラルダン パリ 1861年)
憂鬱
二十五、あなたたちは、なぜ時々、心の中に苦しみが押し寄せてきて、人生がとても苦いものに感じられるのかを知っていますか。それはあなたたちの霊が幸福と自由を熱心に求めようとしても、牢屋のような肉体に閉じ込められているため、そこから解放されたくとも解放されず、無駄な努力を繰り返すことにくたびれてしまうからなのです。
そうした努力をすることが無意味であることを知ると、やる気を失い、すると、その影響は肉体にもおよび、虚脱感、意気消沈、無気力に占拠され、あなたたちは不幸に陥ってしまうのです。
私が言うことを信じ、あなたの意欲を弱体化させるこうした気持ちに、精力的に抵抗してください。よりよい人生を熱望する気持ちは、すべての人間の霊に生まれつき備わっているものですが、それをこの世に求めてはなりません。
今日、神はあなたたちのために善霊たちを送り、あなたたちのために用意された幸せを教えてくれるようにしてくれたのです。自由の天使を辛抱強く待つのです。
彼らはあなたたちの霊を拘束し続けるものから解放してくれるのです。あなたたちが地球上にいる間は、家族のために身を捧げたり、神によって与えられたさまざまな義務を行うといった、もはや疑ってはならない、あなたに任された使命を果たさねばならないのだと考えなければならないのです。
そしてもしこの試練の間、あなたたちの役割を遂行する途中に、心配、不安、苦悩が降りかかってくるのであれば、強く勇気を持ってそれに耐えなければなりません。
決断を固め、立ち向かっていきなさい。きっとそれは短期間に終わり、その結果、あなたたちの到着を喜んで迎え、ともに泣いてくれる友たちのところへあなたたちを導いてくれるでしょう。そして彼らはあなたたちの前に腕を広げ、地上の苦しみが届かないところまで、あなたたちを連れて行ってくれるでしょう。(フランソワ・デュ・ジュネーブ ポルドー)
志願した試練、本当の苦行
二十六、試練を優しくすることは許されているのですか、とあなたたちは尋ねます。この質問は次のような質問を思いださせます。
「溺れる者が助かろうとすることが許されていますか」
「棘に刺された者はその棘を抜こうとすることが許されていますか」
「病気にかかった者が医者を呼ぶことが許されていますか」。
降りかかる試練はあなたたちにその忍耐、甘受の気持ちだけでなく、知性をも働かせることを目的としているのです。ある人は悲痛で困難な状況に生まれてきますが、そのことはまさにその人に困難に打ち勝つ方法を考えさせることになります。
避けることの出来ない困難がもたらした結果に不満をこぼすことなく耐え、戦い続け、それがうまくいかなかったとしても挫折してしまわないところに、試練を受けることのメリットがあるのです。
いかなることにも手を施すことなく、そのままにするのでは、それは美徳と言うよりは怠慢でしかありません。
同じ質問は、さらにもう一つの質問を思い起こさせます。すなわち、「イエスが『苦しむ者は幸いです』といったのであれば、自ら志願し、さらに苦しみを強めることにメリットはありますか」。この質問に対し、私ははっきりと答えます。
「ハイ、そうした苦しみというものが隣人のためのものなのであれば、それは大きなメリットです。なぜなら、それは自分を犠牲にした慈善の行いであるからです。しかし、そうした苦しみというものが、自分だけのためであるならば、メリットはありません。
なぜなら、そうした苦しみとは、熱狂することによって生まれる、単なるエゴイズムの結果でしかないからです」。こうした無益な苦しみと受け入れるべき苦しみとを大きく区別する必要があります。あなたたち自身は、神によって与えられた試練を有難く受け入れねばならないのですが、すでに重く感じているものをさらに重くする必要はありません。
不平ではなく、信心をもってそれらを受け入れてください。神があなたたちに望んでいることは、すでにあなたたちが受けているものだけなのです。無駄な喪失や目的のない苦行によってあなたたちの身体を痛めつけてはなりません。
なぜなら、あなたたちは地上における任務を遂行するために、全身の力を必要としているからです。あなたたちを支え、強めてくれるあなたたちの身体を痛めつけ、自発的に自分を苦しめることは、神の法を犯すことです。
何事も濫用することなく使わねばなりません。それが神の法なのです。優れたものを濫用することは罰に値し、避けることのできない結果を生みます。
一方で、隣人の苦しみを軽減してあげるために受ける苦しみがあります。自分は寒さと飢えに耐え、必要としている者に衣服を与え、飢えを癒してあげることが出来るのであれば、あなたの身体はそのことによって苦しみますが、その犠牲は神によって祝福されます。居心地の良いあなたたちの家を出て、汚れ、荒れ果てた小屋まで慰めを運んで行ってください。
あなたたちの繊細な手を、病む者を治すことによって汚してください。眠気をこらえ、病気の兄弟の枕元で夜通し看病をしてあげてください。あなたたちは、その健康な身体を善行に捧げることになり、そのことによって本当の苦行を行ったことになるのです。
その苦行は、神の祝福を得ることが出来る本当の苦行です。なぜなら、あなたたちの心の涙は、この世の喜びによって乾かされることは無いからです。
あなたたちは魂を弱める富がもたらす大きな喜びに溺れるのではなく、貧しい者に慰安を与える天使となったのです。
では誘惑を避けるために孤独に生きようとこの世を逃れた者にとって、その者の地球上での役目は何なのでしょうか。
試練に立ち向かう勇気はどこにあるのですか。戦いから避け、葛藤から逃れているのではありませんか。苦行を行いたいのであれば、あなたの肉体でではなく、魂で行わなければなりません。あなたたちの身体ではなく、魂を制してください。
あなたたちのプライドに鞭を打ち、不平をいわずに辱しめを受けてください。自分への愛を痛めつけてください。肉体の痛みよりきつい、侮辱や中傷の痛みに耐え、無感覚となってください。それが本当の苦行です。
そこで負う傷は神によって数えられています。なぜなら、それは神の意志に従おうとするあなたの意欲と勇気を証明するものだからです。(ある守護霊 パリ 1863年)
℘126
二十七、隣人の試練は、可能であれば終わりにしてあげるのが良いでしょうか。それとも、神の意志を重んじ、その隣人にその試練を受けさせてあげるのがよいのでしょうか。
すでにあなたたちには申し上げ、幾度も繰り返しました。あなたたちは償いの世界において受けるべき試練を遂行しようとしているのです。そこで起きるすべてのことがあなたたちの過去の人生がもたらした結果であり、払い残した債務なのです。
しかし、このことからある一部の人たちは、不幸な結果をもたらすことになる、避けるべきつまらぬ考えを持ちます。
ある一部の人たちは、地球上に償いのために生きている以上、さまざまな試練が計画されたとおりに実行されることが必要なのだと考えています。また、一方で、それらの試練を軽減させるどころか、より有益となるように、それらよりきついものにするべきだと考えるのです。しかし、それは大きな間違いです。
確かにあなたたちの試練は神の計画されたとおりに実行されるべきものです。しかし、あなたたちは神がどのような計画を立てたのか知っているのですか。それらの試練がどこまで続くものなのか知っているのですか。
あなたたちの慈悲深い父は、あなたの兄弟が苦しむのを見て、「それ以上苦しむ必要はありません」と言ってくれるのだとしたらどうでしょうか。
虐待の手段として、罪を負う者をさらに苦しめるためではなく、苦しむ者のために慰安の薬となり、あなたたちの正義によって開いた傷口を塞いで上げるために、神はあなたたちを選んだのだということを知っていますか。だから傷ついた兄弟を見て、「神の正義によって苦しんでいるのだ。それに従いなさい」などと言うことがあってはなりません。
そうではなく、反対に、「慈悲深い父は、兄弟を助けるためにどのような方法を私に与えてくれたのだろう。私の道徳的な慰め、物質的な援助、忠告によって、力、忍耐、甘受の気持ちを与え、その試練に打ち勝てるようにしてあげることはできないだろうか。
神はその苦しみに終わりをもたらすものとして、私をここに遣わしたのではないだろうか」と言わなければなりません。「私にとっても試練や償いとして、その苦しみを葬り、平和の祝福と置き換える力を与えてくれたのではないだろうか」と。
お互いの試練において、お互い助け合って下さい。決して拷問の手段となってはなりません。心の優しい者はみな、特にスピリティズムを学ぶ者であるならばこのように考えなければなりません。
なぜなら、スピリティズムを学ぶ者は、他の者に増して、神の無限なる善意の広がりを理解しなければならないからです。スピリティズムを学ぶ者は、その人生は愛と献身の実践でなければならず、神の決意に反する時には、神の正義によって処されるのだと考えなければなりません。
スピリティズムを学ぶ者は、恐れることなく全力で試練の苦しみを軽減するように努めなければなりません。なぜなら、神だけが試練を終わりとするべきか延長すべきか判断することのできる存在であるからです。
傷口にさえも銃を突きつける権利があると考えるのは、人間の高過ぎる自尊心の表れであると言えるのではないでしょうか。試練であるという口実のもとに、苦しむ者にさらに多くの毒を盛ってはいませんか。
ああ、あなたたちは苦しみを和らげる手段として選ばれたのだと思って下さい。次のようにまとめることができます。「すべての人が償うためにこの地球にいるのです。しかし、
あなたたちの兄弟の受ける苦しみは、愛と慈善の法に沿って、いかなる苦しみをも例外なく和らげてあげることができるよう全力を尽くしてください」(守護霊 ベルナルダンボルドー、1863年)
℘127
治癒する望みのない病人の命を短縮することは合法でしょうか
二十八、ある人が苦悶し、残酷な苦しみの餌食となっています。その人はすでに絶望的な状況に追い込まれていることがわかります。苦悶の時間から少しでも逃れることができるように、その人の最期を短縮してあげることが許されていますか。
神の計画を予知する権利を、だれがあなたに与えてくれるとお思いですか。ある人を墓の一歩手前まで歩ませ、その後すぐにそこから引き戻すことによって、その人が自ら考えを改めるようにさせることが、神にできることではないでしょうか。
瀕死の人が、死のどれだけ手前に行っていようと、誰にもはっきりとその人の最期の到来を断言することはできません。これまでに科学が、その予知を間違えたことがありませんでしたか。
理性によって、絶望的と考えられるケースが存在することはよく知っています。しかし、命や健康を完全に取り戻さなかったとしても、息を引きとる直前に突然回復し、少しの間、活力と感覚を取り戻すことが良くありませんか。そうです。その病人に与えられるその貴重な一瞬は、彼にとって最も重要な時間となり得るのです。
苦痛に痙攣する間、その人の霊が省みるものが何であるのか、また、そうした間の一瞬の反省が、その人をどれだけの苦しみから解放してくれるのか、あなたたちは知ろうとしないのです。
肉体のことしか考えない唯物主義者には、魂の存在など考慮に入れることはできず、以上のようなことを理解することが出来ません。しかし、スピリティズムを学ぶ者は、墓の向こうに何があるのかを知っており、最期の思いの重要性というものを知っています。
最期の苦痛を出来る限り和らげてあげてください。しかし、たとえ一分であったとしても、命を短縮させてあげようなどという考えは遠ざけてください。なぜなら、その最期の一分によって、その人は将来多くの涙を流さずに済むことになるかもしれないからです。(聖王ルイ パリ 1860年)
℘128
自らの命を犠牲にすること
二十九、生きることが嫌になってしまった者が、自殺はしないまでも、自分の死を何かの役に立てようと、死を求めて戦場へ出かけて行くことに罪はありますか。
ある人が自殺しようと、自分を人に殺させようと、何れにしてもその目的は人生を短縮することにあります。それゆえ、実際に自殺しなくとも、意図的な自殺をしたことになり得るのです。自分の死がなにかの役に立つだろうなどという考えは錯覚でしかありません。
それは単なる言い訳であって、罪深い行動であることを隠し、自分自身の目をごまかして責任逃れをしているに過ぎないのです。もしその人が真剣に母国のために身を捧げたいのであれば、母国を守るために生き延びようとする筈であり、死のうとはしません。
なぜなら、一度死んでしまえば、もう何の役にも立たないからです。本当の献身とは、役に立とうとするときに死を恐れずに危険に立ち向かい、必要であれば、命を捨てることに前もってこだわることもなく、その犠牲をも捧げることです。
しかし、最初から死を求め、危険な場所、危険な任務に自分を置くのであれば、その行動に真なる功労はないことになります。(聖王ルイ パリ、1860年)
三十、ある人の命を救おうとし、死ぬことを覚悟で切迫した危険に身を投じることは、自殺と考えることはできますか。
そうした時、そこに死を求める意思がないのですから、自殺とは考えられません。死ぬ確信があったとしても、そうさせるものは献身と無我の気持ちです。しかし、この死ぬ確信と言うものも、誰が持つことができるでしょうか。危篤の状態となった時、神の意が予期せぬ救いの方法を与えてくれないとも限りません。
その神意は大砲の砲口に立たされた者さえも救うことが出来るのではないでしょうか。また、多くの場合、神意は忍従の気持ちを試すために人を最期の限界まで追い詰め、予測していなかった状況において、致命的な一撃を遠ざけてくれるのです。(聖王ルイ パリ 1860年)
他人のために感じる苦しみの利益
三十一、自分の苦しみを甘受し、自分の未来の幸福のために神の意志に服従する者が、自分だけのために働いても、他人のためにはならないのではありませんか。自分の苦しみを他人のために有益なものとすることができますか。
そうした苦しみは、物質的にも道徳的にも他人のために有益なものとなり得ます。働くことによって、その人の喪失や犠牲が他人に安楽を与えるのであれば、物質的に有益となることができます。
神の意志に服従する態度は、他人への模範となり、道徳的に有益となることができます。スピリティズムを学ぶ者が模範となって示す信仰の力は、不幸な者に甘受の気持ちを持つことを教え、彼らを未来における絶望的な状況や不幸な結果から救うことになるのです。(聖王ルイ パリ 1860年)
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