Thursday, December 12, 2024

シアトルの冬 続『霊訓』インペレーターの霊訓 霊言による霊訓    

More Spirit Teachings by W. S. Moses




第一部 霊言による霊訓
    はじめに


 この第一部に収録した霊訓は、医師スピーア博士の私宅で催された交霊会での霊言を博士夫人が筆録して保存しておられたものである。

 ステイントン・モーゼス氏の死後、夫人はそれを心霊誌ライトに寄稿された。その記事の中からさらに厳選して、ここに出版することにした。貴重な価値と興味あふれる資料が紛失することを惜しむがゆえである。

 収録されたものは断片的に抄出したものであって、内容に連続性はない。同時に、原文では連続していないものでも内容に一貫性があれば並置したところもある。

 カッコ「 」の部分が通信霊の述べた言葉で、その他はスピーア夫人の説明である。通信霊はほとんどの場合が最高指導霊のインぺレーターで、特に指摘されていない場合は、インペレーターと思っていただきたい。

 ライト誌での連載を終えるに当たってスピーア夫人はこう述べている。
「交霊会における現象の見事さと品の良さ、またインペレーター霊の強烈にして威厳に満ちた雰囲気はとても言葉で尽くせるものではありませんでした」
                                      ──構成者 


(註)──この前書きは本書の構成者のものであるが、氏名は記されていない。なおスピーア夫人の文章は現在形と過去形とが入り乱れていて一貫性がない。実際にはモーゼスの死後のことであるから過去形である方が自然なので、私はすべてを過去形に統一した。☆


 「私こと Imperator Servus Dei (神の僕インペレーター)は四十九名から成る霊団の頭であり、監督と統率の任にあり、他のすべての霊は私の指導と指令によって仕事に当たります。

 私は全知全能の神の意志を成就せんがために第七界(55頁参照)より参りました。使命達成の暁には二度と地上には戻れない至福の境涯へと向上して行くことでしょう。しかしそれはこの霊媒が地上での用を終えた後となるでしょう。そしてこの霊媒は死後において地上よりさらに大きな使命を与えられることでしょう。

 私の下に私の代理であり副官であるレクター Rector がいます。彼は私の不在の折に私に代わって指揮し、とりわけ物理的心霊現象に携わる霊団の統率に当たります。

 レクターを補佐する三番目に高い霊がドクター Doctor, the Teacher です。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、後で紹介する知恵と知識を担当する一団が控えています。

 次に控えるのが、地上の悪影響を避けあるいは和らげ、危険なものを追い払い、苦痛を軽減し、よい雰囲気を醸し出すことを任務とする二人の霊です。この二人にとって抗しきれないものはありません。が、内向的罪悪への堕落はどうしようもありません。そこで霊界の悪の勢力──霊媒の心変わりを画策し、聖なる使命を忘れさせようとする低級霊の誘惑から保護することを役目とする二人の霊が付いております。じきじきに霊媒に付き添うこの四人を入れた七人で第一の小霊団(サークル)を構成しています。われわれの霊団は七人ずつのサークルで構成されており、それぞれに一人の指揮官がいて六人を統率しております。

 第一のサークルは守護と啓発を担当する霊──霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊から成ります。

 次のサークルは愛の霊のサークルです。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、その他に優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類のものすべてを配慮します。

 次のサークル──これも同じく一人が六人を主宰しています──は叡智を司る霊の集団です。直感、感識、反省、印象、推理、といったものを担当します。直感的判断力と、観察事実からの論理的判断力とを指導します叡智を吹き込み、且つ判断を誤らせんとする邪霊からの影響力を排除します。

 次のサークルは知識──人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当します。また霊媒の辿る困難きわまる地上生活を指導し、有益な実際的知識を身に付けさせ、直観的知恵を完成させます。これはドクターの指揮のもとに行われます。

 その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループです。彼等は崇高で知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さにあふれる言葉に触れさせます。美しいもの、芸術的なもの、洗練された教養あふれるものへ心を向けさせ、性格に詩的な潤いを与え、気品あるものにします。

 次の七人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を受け持ちます。これがこの霊媒の性格に軽快なタッチを添えます。つまり社交上大切な生気あふれる明るさであり、これが日々の重々しい苦労から気分を解放します。愛想がよく心優しい、魅力あふれる霊たちです。

 最後のサークルは物理的心霊現象を担当する霊たちです。高等な霊的真理を広める上でぜひ必要とみた現象を演出します。指揮官代理であるレクターの保護・監督のもとに、彼ら自身の更生を兼ねて、この仕事に携わっております。この霊媒及びわれわれ背後霊団との接触を通じて、更生への道を歩むのです。それぞれに原因は異なりますが、いずれも地縛霊の類に属し、心霊現象の演出の仕事を通じて浄化と向上の道を歩みつつある者たちです。

 このように、私の霊団は七つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るく愛想のいい霊たち、この低い地上界の単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界と皆さんとの交わりを通じて低い界から高い界への進化という恩恵に浴さんとして働く霊たち──その霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。

 いずれのグループの霊たちも、みずからも進歩を求めている霊たちです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒と共に進歩せんと志す者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによってみずからも向上せんとしているのです。

 われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。
 全能の父なる神の祝福のあらんことを」 


 「私がこの地上を去ったのは遥か遠い昔のことになりますが、このたび戻って参りましたのは、この霊媒を通じて霊的啓示を届けんがためです。それが私の使命なのです。私の属する界層からこの地上へ戻って来る霊はきわめて稀です。が、大神が特殊な使命のためにこの私を遣わされたのです」

 「天界と地上との間の階梯(はしご)はつねに掛けられております。が、人間の側の不信心が天使の働きかけを遮断してまいりました」

──あなたは神の僕ですか。
 「いかにも。神の僕として選ばれ使命を仰せつかることは、われわれ仲間の間にあってはただならぬことです。私はこの霊媒を通じての使命を終えた後には二度と個的身体をまとって戻ることの出来ない境涯へと赴きます。他の霊を通じて影響力を行使するのみとなるでしょう。

 皆さんはすべからく大神の導きを求めねばなりません。おのれを恃(たの)む者は滅びる、滅びる、滅びる・・・・・・(特に厳粛な調子で述べた)。神は光明と導きを求める者を決してお見捨てにはなりません。決して、決して、決して・・・・・・」

 霊言が始まった当初、インペレーターはモーゼスのほぼ全生涯を共にしてきたと述べた。そのころは第六界に所属していたが、のちに第七界へと向上しているという。

 そのインペレーターがモーゼスを入神させて語る時、モーゼスの頭部の後方に大きな光の十字架と、それを取り巻く光線が列席者の目に映った。やがてそれが数フィートにも及ぶ高さの、強烈な光輝を発する美しい〝光の柱〟となり、それが右に左にと動いていた。その光柱の背後に沢山の光が楕円形に群がっていた。その状態が三十分以上も続いた。そのことについて尋ねるとインペレーターが、光の柱はインペレーター自身で、それを取り囲んでいる光線は側近の者で、光の群れは霊団の他の者たちであると説明してくれた。また霊媒の頭部のまわりの光輝は霊媒の霊的威力を示しているとのことだった。

 インペレーターが出現している時は必ずサークル全体に厳かな雰囲気がみなぎり、われわれは偉大にして善良な霊の前に居ることを感じるのだった。

 インペレーター霊団の背後にはもう一人、強烈な影響力を持つ霊が控えていて(巻末〝解説〟参照)、霊団全体の指導と霊媒の守護の任に当たっていた。その霊団の中でも高級な部類に属する霊たちは霊媒を教化する立場にあり、代わって霊媒が霊団の中でも未発達な霊を教化するという関係にあった。その大半が地上生活での成長が乏しかった者で、再教育の為に、いうなれば地上という学校へもう一度戻ってきたのである。この仕事を通じて成長したものはやがて霊団を離れて上層界へと進み、代わって、同じ仕事を必要とする霊がその役目についた。

 インペレーターの語り口と祈りは実に厳かで、聞く者の心に、ぜひともこの聖なる仕事を完遂したいとの真摯な願望を抱かずにはおかなかった。われわれの祈りに対してもインペレーターは(自分みずからではなく)自分を通じて神の意志が直接伝えられるように嘆願してくれるのだった。そして交霊会のしめくくりとしていつも、われわれが、神の御国がわが心の中にあることをこの地上にあって悟り、慈悲と穏やかさと優しさと哀れみの心を身につけるようにその祈りの言葉を述べた。その一つを紹介すると──

 「願わくば全能なる大神の祝福と保護のもとに真理と安らぎへ導かれんことを。地上を去りてのち、苦しむことなく中間の界層を首尾よく通り抜け、喜びの境涯へと進むことが出来るよう、この今を生きられんことを」

 「地上へ降りてくる高級な霊は一種の影響力であり、言わば放射性エネルギーです。人間が想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物のようなものです。高等な霊的通信の非個人性に注目していただきたい。この霊媒との関わりを持った当初、彼はしつこくわれわれの身元の証明を求めました。が、実はわれわれを通して数多くの影響力が届けられているのです。死後、首尾よく二段階三段階と上って行った霊は人間的意味での個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私はいま地上へ戻れるぎりぎりの境涯まで辿り着きました。が、距離には関係なく影響力を行使することが出来ます。今私は皆さんからはるか彼方に居ます」

 エリオトソン Elliotson と名のる霊に代わる。
 「(入神状態において宇宙の記憶層から)無意識のうちに回想するなどということは不可能なことです。無意識的回想説は笑止千万というべきです。すべてのカギは背後霊の働きにあります。またアイデンティティ(地上時代と同じ人物像)が不変であるかに考えるのも間違いです。私の知る限り高級霊ほどアイデンティティをほとんど失っております。進化していくうちに個性が拡張し放散して、一種の影響力の中枢のような存在となるのです。この霊媒の守護に当たっておられるインペレーター霊はこの上なく高貴なお方で、私をその影響下に包み込んでおられます。が、私にはそのお姿は見えないのです。しかも私が存在する空間に充満しておられます。命令と指示を受けておりますが、一度もお姿を拝したことがないのです。この霊媒には顕現の形で見えることがあります。その必要性があってのことで、私にはその必要性はありません。

 私にとっては、こうして地上に戻ってくることは一種の試練です。たとえてみれば、清らかで陽光あふれる大気の世界からも濃霧の立ちこめる谷底へ下りて行くにも似ていましょう。地上の雰囲気の中に入ると私はすっかり変わってしまうようです。かつての地上時代の思考の習性がよみがえってきますし、当時より鈍重な空気を呼吸するような感じがします」

 「私たちはあなた方人間に神そのものが影響力の大中心であること、その影響力は中間的存在である霊を通じて人類へいきわたることをお教えしたいのです。その霊的存在──あなた方が天使と呼んでおられる存在です──が人類に影響を行使しているのです。光の大中心を取り巻いて存在する大天使が、それをさらに取り巻いて存在する天使に影響力を放散する──つまりそうした天使的存在を通路として最高神の霊力が、受け入れる能力のある者すべてに届けられるという仕組みをお教えしたいのです。

 人間は無意識のうちに知識を受け取りそれを広める通路となっているのです。与えられた才能を開発し、与えられた仕事を助成することによって、人間界における神の霊の住処を開発していくことができるのです。神のお力は高き界層に発し、天使を通して降下し、選ばれた使者にしみ通り、いかにすれば人間が神の協力者たりうるかを示します」


 インペレーターに代わる。
 「かつては〝天使〟と呼ばれ今日では〝霊〟と呼ばれている存在が人間と神との間をとりもち、神の恩恵を地上へ送り届けると同時に、人間の祈りを神の玉座へ送り届けることも致します。それが神と人間とを取り持つ手段であり、影響力の通路なのです。物質に宿る霊(人間)のまわりには常に天使の支配があると思われるがよろしい」


(註──ここでエリオトソンとインペレーターが述べていることは、私が〝まえがき〟で述べたこととも関連して、霊能者をもって任じている人達に猛省を促したいところである。
 宇宙意識とか記憶の層から望み通りの知識や情報が得られることは理屈の上でのみ言えることであって、実際にそれができる人は地上の人間にまずいない。シルバーバーチは自分の過去世を知ることすら地上の人間には困難だと言っている。

 この種の問題ではエドガー・ケーシーの名を思い浮かべる方が多いことであろう。この人は宇宙意識が語るのを入神状態で取り次ぐそうであるが、実際はエリオトソンが言っている通り、それもすべて背後霊団がやっていることである。
 ラジオのダイヤルを回すと次から次にいろんな放送が入って来るが、宇宙にはそれとは比較にならない、無数といってよいほどの意識や観念が飛び交っている。高級霊からのものもあるが、それを妨害したり、それらしく装って実はニセの情報を流している低級霊の集団からのものもある。困ったことには、そうした低級霊の波長の方が人間には感応しやすいのである。そこに予言のハズレや霊言のいい加減さが生じる原因がある。

 心霊治療の場合は治る治らないの形で結果が明確に出るから良いが、霊言、霊示、お告げの類は、本当か否かを判断する手掛かりは何一つない。たとえ間違いなく〝霊〟からのものであっても、今度はこの霊の程度と質が問題となる。それを試す方法は二つある。

 一つは徹底的に疑ってかかることである。唯々諾々として何でも有難がるのが一番危険である。疑われて機嫌を損ねるような霊は相手にしない方がよい。

 もう一つは、その内容から判断して、それが〝霊〟から承(うけたまわ)らねばならないほどのものかどうか、あるいは、そんなことを知ってどうするのかということを常識的に検討してみることである。その尺度でいけば、最近マスコミを通じて霊言だ、予言だと言って宣伝されているものに、どうでもいい、好い加減なものがいかに多いかがお分かりいただけるであろう。☆


 スピーア博士がキリスト教の教義について質したのに対してインペレーターが──


 「キリスト教の説く教義には多くの誤りが見受けられます。神についての見解はそれを受け取った霊媒の先入観念によってとかく着色されているものです。人間の勝手な考えによって教説をこしらえ、それがドグマとして定着し、絶対的教義として教え込まれています。創造神と人間とのつながり、及び罪についてのキリスト教の説は間違っております。

 罪とは、本質的には、霊性を高めるべく意図された永遠不変の摂理に意識的に違反することです。神が人間の罪をご自身への侮辱と受け止めるような事はあり得ません。われわれが幼児の無礼を受けとめるのと同じように(寛容的に)受けとめられます。自然の摂理によっていずれは悲しみと罰とがもたらせるようになっているのです。罪それ自体は創造神への侮辱などではありません。従って無力な人間に報復という形で罰が加えられるなどということはあり得ません。罪はそれ自体が不変の摂理の審判としての罰を含んでいるのです。

 人間イエス・キリストの地上生活は、地上の人間が見習うべき一つの模範を垂れたものでした。が、それをもって人間の罪を贖ってくれるものと見なすことは赦し難い欺瞞であり、それこそ神を侮辱し、その汚れなき霊性を侮辱し、盲目的信仰に安住している者を堕落させ、おのれの軽信をもって美徳と思わせることになりかねません。

 そのうち、これほど好い加減な寓話が、よくも大まじめに信じられてきたものと呆れる日も来ることでしょう。われわれにその普及の権限が託されている真理は、いずれそうした人間的創作を全て無用のものとすることでしょう。人間は神を自分に似せて想像したのです。その神はきわめて人間的です。人間らしさを幾つも備えております。もう少し崇高な概念が抱ける者ならばおよそ受け入れ難い性質を、人間は〝神〟の名のもとに説いてきました。

 地上人類はようやく今、全知全能の父なる神の概念へ向けて近づきつつあります。やがて新たな啓示を得て、すべての古い誤謬を排除し、新しい神の概念を理解することになるでしょう。全能の神からわれわれが頂いてきた啓示は、これまでの古い教義と思索の産物を排除し、それに代わって、作り話ではなく、あるがままの真理を授けることになるでしょう。

 霊的啓示はすべて神から届けられます。がしかし、それまで人間が信じ希望を託してきたものの多くを除去しなければならないために、必然的にそれは人間が〝信仰〟と呼んでいる者を覆すことになります。神は人間の理解力に応じたものを啓示されます。ゆえに、神の啓示は段階的進歩を辿ることになります。それを授けようとするわれわれの仕事を阻止せんとする邪霊が組織的策謀を弄していますが、こうした反抗は真理が完全に普及しつくすまでは途絶えることはないでしょう。それは信念の弱い者にとっては容易ならざる試金石となるでしょうし、信念強固なものにとっては油断ならない大敵となるでしょう。が、そこにこそ邪霊の存在意義もあるのです。

 見えざる通信霊の指導を仰ぐ時は、果たしてその霊がみずから公言するとおりの存在であるか否かを見極めないで唯々諾々として承ることのないよう心していただきたい。われわれの立場から言わせていただけば、真摯にして純粋な探求心から発する調査には何ら恐れは覚えません。この交霊会において皆さんが目の当たりにされている現象は、キリストが行った奇跡と本質に置いて同じものです。その耳でお聞きになる言葉はヘブライの予言者たちの言葉と少しも変るところはありません。

 スピリチュアリズムの知識はいずれ普及します。が、何所かの宗派の教義としてではありません。われわれの啓示には主教も司祭も執事も必要としません。必要なのは守護・指導に当たる霊と、それを受ける人間の霊との交わりのみです。キリストも述べております──いずこの土地、いずこかの人間が特に他より神聖であるかに説かれることのない時代が訪れるであろう。と」


(注──英国国教会のかつての大主教ウィリアム・テンプルの言葉にこうある──〝わが国教会の最大の誤りは、神は紀元六六年まで世界の一地域すなわちパレスチナにのみ働きかけ、それ以後は他のいかなる土地にいかなる働きかけもしていないという信仰を作り上げてしまったことである〟と。いつから何を根拠にこうした説が出来上がったのかは知らないが、もしその通りだとすると、交霊会というものはあり得ないことになる。キリスト教徒が交霊会を毛嫌いする理由はそこにあるが、ここでインペレーターが言っているのは、交霊会を通じてのみならず日常生活においても霊は人間に働きかけており、それが一番大切だということである。☆

 「われわれは人間に対して、自分をおいて他にいかなる救い主も説きません。胸をえぐられる思いの後悔の念と深甚なる償い──罪の結果はそれしかありません。悪いと知りつつ犯した罪が生み出すその結果から逃れられる者はいません。誰一人いません。お慈悲を求めていかに大げさに泣き叫んでみても、それだけで即座に神の御前に侍らせていただけるようなことは断じてありません。叉底なしの地獄絵図など、われわれは説きません。肉体的に、精神的に、そして霊的に、地上の人間としても義務を果たすことによって徐々に幸せに、少しずつ神らしく成長していきます。人間の勝手なドグマなどは肉体の死と共に死滅し、昇りゆく太陽によって雲散霧消します」


 スピーア博士「十字架上での盗人の懺悔の教訓は人を誤らせるものということになるわけですね」
 「そうです。涙も絶叫も魂を清めることにはなりません。矯正のための永い過程をへなければなりません」

 スピーア博士「御子イエスの血がすべての血を清める、という聖書の文句を解説してください」

 「その中身を汲み取ることです。人間はこれを神がその御子を地上へと身を落とさせ、その御子の血のほとばしりが、それによる贖いへの信仰を告白した者のみを永遠の火焔地獄から救い出すと解釈しています。一体その御子が何者であるかについて知らないままそう解釈しておりますが、そのような冷酷にして無情、邪険きわまる言説は打ち棄て、キリストの生涯と教えの底流にある霊的な意義を読み取ることです。

その人生は人間にとって模範とすべきものであり、至純にして至聖、苦難によって崇高さを増し、慈悲によよって高揚された生涯でした。みなさんもぜひその生活を見習っていただきたい。そうした生活こそ罪より救い、気高いものへと導いてくれることでしょう。誤ることを免れない人間の言葉を字句通りに受け取り、さらにその誤った土台の上に教理の体系という上部構造を築くという間違いを犯しております」

 「ここで、神についての真実の概念を申し述べたいと思います。人間的属性をそなえた人格神としてではありません。神々しい人間神としてでもありません。全宇宙に瀰漫し、普及する普遍的大霊としてです。今や人類は神についてより大きな概念を受け入れる用意が出来ました。われわれは〝愛〟として顕現している神を説きます。愛──いかなる限界内にも閉じ込められない愛としてです。

人間神の概念はかつての人類全体に行きわたっていた偶像崇拝の産物です。これを改めることもわれわれも使命の一つです。神は一個の人格を具えた存在などではありません。どこかの一地点に鎮座ましますのではありません。すべてに浸透し、無始無終に存在し、すべてを導き、すべてを愛されるのです。

 肉体に宿る人間はどうしても限りある形体を具えた神を想像します。われわれが知り得た限りでは、神は限りある人格者ではなく、ましてや一個の人間となって誕生したこともなく、人間的影響力によって動かされることなど断じてありません。神は普遍的法則として働いています。祈ることは結構です。祈りは波動の原理で天上界へと送られ、神が直接働きかけられる天使のもとに届けられます。人間はすべからく祈ることです。祈ることを知らない頑なな魂は天使も近づくことができません。祈る魂には、いついかなる時でも、天上界の使者が惹きつけられます。

 一方においてわれわれは神を一種のエネルギーとして片付けんとする致命的な誤りを避けねばなりませんが、他方、神を人間的煩悩と必需品と権力欲とを具えた人間的存在とする擬人説の迷妄にも陥らぬように注意しなければなりません。原書、人間は自分で勝手な神を作り上げました。暴君の如き神、いえ、人間にも真似のできないほど極悪非道の神でした。本当の神とは生命の本質として、全存在に活力を与える〝霊〟です。全存在を美化する光と愛とを供給する資源です。その神の御心にかなった生活はキリストの生涯の中に体現されています。神は単なるエネルギーではありません。さりとて人間が大自然と呼んでいる非人格的存在でもありません。

 神のことを宇宙に瀰漫する根源的大霊と心得るがよろしい。〝父なる存在〟という言葉がその正しい概念を伝えております。大自然そのものは神ではありません。その大霊が顕現した相(すがた)にすぎません。手がすなわち身体とは言えません。身体を構成するものの一顕現にすぎないのと同様です。

 これまで〝父なる神〟についてあまりに誤った概念がはびこっていました。遠い昔にあっては、それは怒れる神であり、、人間はお慈悲を求めて泣き叫ぶことによってその怒りを鎮めることを要しました。わが子を永遠の地獄へほうり込むことを愉快に思う神でした。

 われわれが認識している神(想像する神ではありません)は、完全にして永遠なる愛の神、過ちを犯した人間も善良な人間もともにその御胸に抱かれる神──わが子すべてを等しく哀れみをもって見つめ、民族や土地によって区別することなく、神の御名を唱えるものすべてに等しく優しさと愛の念をもって応えてくださいます。

 もしも人間が、いかに身分の低い者をも、世間でいかに軽蔑されている者をも慈しみ慰め給う間断なき愛の証──天使の軍勢が神の子等を取り囲んでいる姿をわれわれと同じようにご覧になることが出来れば──たとえ一瞬でもその目で光り輝く存在の大軍勢を垣間見ることが出来れば、誰しもきっと感動を覚え、鑽仰(さんぎょう)の声を発するに違いないのですが・・・・・・。願わくば石のごとく冷ややかな人間の心、高級界からの働きかけに何の反応も示さない心が神の御光に感動し、全てを与えたもう神、普遍的愛の神へ向けて讃仰の声を発することになってくれればと祈らずにはいられません。

 われわれはその天界の政庁の代表として参っている者です。父なる大神は、子等の望みに応えるべく、慰安と導きと愛をたずさえた天使団を送られます。輝ける永遠の光明界よりわれわれは人類の経綸のために参っているのです。天使の群れ、霊の群れ、他界せる知友の群れが、後に残れる者の経綸に当たっているのです。

  
「各時代の人間の中から啓示の受信者が選ばれます。その者はいうなれば霊的影響力の預かり人であり、現在と未来とをつなぐ連結の輪の一つです。後続の者に引き継ぐべき真理がその者に預けられます。そして、その者には大神の特命を受けた高級霊が指導に当たります。大神がその万能の叡智をもって立てた計画の遂行に当たるべく、厳粛な意図をもって抜擢された霊たちです。

 やがてその受信者たちが使命に目覚めます。神の使者が天と地とを忙しく往き来します。閉ざされていた扉が再び開かれる時が到来したのです。エゼキエル(紀元前六世紀のヘブライの予言者)、パブステマの・ヨハネ(イエスの洗礼者)、そして霊覚者ヨハネ(イエスの使徒)の耳に響いた声が再び開かれる時が到来したのです。
では、人間は素直にその声に耳を傾けてくれるか──否❕ かつてと同じく今日の時代においてもそれは同じことです。このたびもまた人間側の不信が、神の愛の意図を踏みにじっているのです。人間の頑迷さが神の計画の妨げとなっているのです」

 (注)──五十年にわたってモーリス・バーバネルの口を使って語り続けたシルバーバーチの霊言の中には、ここでインペレーターが述べているのと同じことに言及しているものが何度も出て来るが、その中の一つに次のような箇所がある。

質問「今はスピリチュアリズムという形で霊界と地上界との間にコミュニケーションが開かれていますがそれ以前にも立派なコミュニケーションの時代があったのでしょうか」

シルバー・バーチ「一時的にインスピレーションがあふれ出たことはありますが、長続きしていません。このたびのコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理、監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一環として行われており、その計画の推進は皆さんがたの想像も及ばないほどの協調体制で行われております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮がなされております。すべてに計画性があるのです。そうした計画のもとに(十九世紀半ばに)霊界の扉が開かれたのです。このたび開かれた扉は二度と閉ざされることはありません」

 訳者は『霊訓』と『シルバーバーチの霊訓』と、もう一つオーエンの『ベールの彼方の生活』を英国の三大霊訓と呼んでいるが、このオーエンの霊訓全四巻の最終巻では通信霊のアーネルが右のインペレーターとシルバーバーチが指摘している〝神の計画〟について、その発端から推進の過程までの全貌を雄大なタッチで描写している。

 そのリーダーをキリストと言う名で表現している。その点はインペレーターもシルバーバーチも同じであるが、これは霊媒のモーゼスとオーエンがともにキリスト教の牧師であったこと、それからバーバネルの場合は本人は無宗教であっても交霊会のメンバーがかつてのクリスチャン、あるいは牧師だった人たちで構成されていたことから当然そうならざるを得なかったまでのことで、要するに地球神界の政庁から派遣された最高級の霊と考えればよい。アーネルが〝各天体にキリストがいる〟と言っていることからも、そう理解してよいであろう。

 地球神界の上には太陽神界があり、さらにその上に銀河系神界があり、その銀河系が幾つか集まった規模の神界が又存在し、多分中間にいくつかの段階、現在の天文学では知られていない規模の組織があって、最後にようやく〝造化の神界〟がある。そこを始源として全宇宙にシルバーバーチのいう〝大霊〟が瀰漫している、ということなのであろう。もっともシルバーバーチはその〝最後〟というのはないということであるが、ここまでくるともう人間の脳を通しての知性では理解できなくなる。

 それは別の問題として、こう観て来ると地球などは宇宙のチリほどの存在にすぎないが、もったいないことに、その地球の浄化のために、地上の全人口をはるかに超えた数の霊の大軍が組織され、本格的な活動を行っていることは、以上の三大霊訓の支配霊が異口同音に語っていることで、どうやら間違いない事実のようである。☆


 「人間とは何か? 人間とはいかにもインスピレーションの媒体にすぎません。地上で崇められるいかに立派な人物も、神がその叡智のうち、人間にとって適切とみたごくわずかな一部を伝達するための手段にすぎません。その為すところの者は、偉大なるもの、気高きものもすべて、守護霊の影響でないものはありません。

 霊媒が特別の能力ゆえに選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示の為に適当な道具として選ばれ、その啓示が託されたというに過ぎません。霊媒の功績とすべきものではないのです。また真に忠実な僕としての心得のある者なら、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具にすぎません。その栄誉も、霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕──神のメッセージの受け皿として特に選ばれたという点に於いて、われわれの側にとって有難い存在という意味です。

 その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去ってのち、今度は自分が神のメッセンジャーとして、地上の霊媒にメッセージを届ける役目にふさわしい人物として成長していきます。その受け皿はおのずと気高い芳香に満ちております。そして神の僕として仕えれば仕えるほど、その気高さを増していきます。神の真理と言う名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けに足る存在となって行きます。
  
 しかし、万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし神のみに帰すべき栄光を私せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、さらには又、世俗への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害を被ることになります。

 それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任が伴うということです。善行の絶好機を手にしつつ無為に過ごした者、あるいはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りつつその実行を怠った僕としての禍が降りかかります。前者が向上するところを彼は下降します。霊的能力は没収され、道徳的にもまた知的にも堕落していきます。栄誉を投げ捨て、そして、見よ、恩恵に代わって禍が彼に降りかかります。

 それ故、そうした経歴の持ち主が他界したのちに万が一にも通信を送ってくるとすれば、その通信の内容は、その人物の地上での評判から想像されるものよりは必然的に低いものとなりましょう。地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる言葉でした。が今や神より授かった霊力は没収されています。彼の語る言葉は(親和力によって)ひかれて行く低次元の社会に似つかわしいものとなっています」


(注)──正篇の『霊訓』で同じテーマを同じくインペレーターが別の角度から説いている箇所があるので、長文をいとわず引用しておく。自動書記によるものなので文体がやや異なる。

《われわれにとっての最大の難事は、進化した高級霊からの通信を受け取るにふさわしい霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならない。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ないのが道理だからです。次に、愚かな地上的偏見にとらわれぬものでなければならない。若い時代の誤った思想を潔く捨て去り、例え世間に受け入れられないものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主でなけばならない。

 まだある。独断主義から解放されねばならない。この世的思想から抜け出せないようではいけません。神学的独断と派閥と偏狭な教義から解放されなければなりません。己の無知に気づかない、一知半解の塀に陥ってはなりません。常にとらわれのない探求心に燃えた魂であらねばなりません。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富む者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。要するに真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならないのである。

 またわれわれの仕事は、頑固な敵対心からの自己主張、または高慢なでしゃばり根性と利己心によって阻害されることがあってはなりません。そのような霊媒では仕事らしい仕事は為し得ないし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を排除するのが精一杯ということになる。われわれが求めるのは有能にして真摯、そして飽くなき探求心に燃えた無欲の心の持ち主でなければならないのです。

 そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解していただけるであろう。まさに至難の業であり、まず不可能に近い。さればわれわれは、見出し得る限りの最高の人材を着実に鍛錬した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、おのれの知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。そうすることで独断的偏見から抜け出させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物でないとの悟りへの地ならしを行う。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と積み重ね、基礎さえでき上れば、安心して上部構造を築き上げていくことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われわれの初期の目標に調和させていく。

 ここに至って多くの者が脱落して行く、そしてわれわれも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能であること、また古来の地上的偏見と頑固な独断的信仰が容易に拭えないものであること、それゆえ時の流れに任せるほかなく、われわれにとって用のない存在となったことを知って諦めるのです。

 また真理への完全な忠誠心と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われわれによる教化によって着実に培われていくものである。われわれは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。そしてわれわれが神より許された範囲での行為と霊的教訓を忍耐強くまつ心構えを培う。こうした心構えは、多くの霊媒に見受けられる苛立った、落ち着きのない不満と正反対である。

 この段階でまた多くの者が脱落して行く。恐怖と不安に駆られ、疑念に襲われる。古くからの神学を説く神は、自分のような人間の破滅を今か今かと見守っていると思い、悪魔が罠にかけんとして油断なく見張っていると思い込む。確かに、古い信仰の基盤が揺さぶられてはいても、まだ新しい信仰基盤は敷かれていない。その間隙(すき)に邪霊が付け入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖にたまりかねた者が脱落し、われわれにとって用のない存在となって行く。

 それでもなおわれわれは、人間のあらゆる利己心を払拭しなければなりません。われわれの仕事には私心の出しゃばりは許されないのです。さもないと、われわれは何もなし得ません。霊界からの指導にとって人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なものはありません。小知を働かせてはなりません。われわれからの知的働きかけの妨げとなるからです。独断主義に陥った知性は使用しようにも使い物になりません。ましてそれが高慢と自惚れに満ちていれば、われわれには近づくことすらできません。

 いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にした預言者たちはみな、我欲を滅却して使命に生きた人たちでした。聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送りました。とくにイエスはその地上生活を通して、使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した、偉大にして崇高なる模範であった。イエスという人物の中に、人類の全歴史を通して最大限の人間の可能性の証を見ることが出来るのです。

 この世から誤りを駆逐し真理の光をもたらした人々はみな、おのれに課せられた使命のために無私と献身の生涯を送った者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物──我を張らず、尊大ぶらず、自惚れを知らぬ人たちであった。いちずな誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人たちです。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲にとらわれていたならば、その成功の核心が蝕まれていたことであろう。謙虚さと誠実さといちずさとがあったればこそ成就し得たのです。

 われわれが求める人材とはそのような資質の持ち主です。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。いちずに神の仕事に目を据え、一切の地上的打算を忘れた性格。こうした麗しい魂の持ち主が稀であることは確かです。


 が、友よ、平静にしてしかも誠実かついちずな哲学者の心を心とされよ。情愛にあふれ、寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とされよ。さらに報酬を求めぬ神の僕としての無欲の心を心とされよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主をおいて他に成就し得る者はいない。われわれもそうした人材を油断なく見守り、警戒を怠らぬであろう。神より遣わされた天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれることであろう》☆


 「皆さんは次のような間違った事実に気づいておられるでしょうか。すなわち大半のキリスト教徒は自分たちこそイエスが保証した天国の継承者であると思い込み、神は自分たちのために死すべく唯一の息子を送ってくださったと信じていること。また自分たちは神の直属の僕によって授けられたメッセージの啓示を受け、かつてそれ以外のメッセージが人類に授けられたためしはないと信じていること、さらに又、その自分たちにのみ明かされた教義をインド、中国人、その他の異教徒すべてに説くことが自分たちの絶対的義務であると思い込んでいること。そして、その啓示は完全にして、神の最後のお言葉であるとまで信じていることです。

 そのような、間違っていると同時に独善的な言説は即刻捨て去られるがよろしい。最高神がそのような偏ったえこひいきをなさることはあり得ぬことです。すべてを統率される永遠の存在が、地上の一地域の子等の陳腐な願い事だけに耳を傾けるようなことはなさりません。いつの時代にも、それぞれの時代の特殊な事情に応じて神の啓示が授けられているのです。

 そのいずれの啓示にも、中核をなす重大な思想が盛られております。スピリチュアリズムと呼ばれているものは、それらを一つにまとめた総合的思想なのです。これまで断片的に啓示されてきたものが集められ、スピリチュアリズムの名のもとに、偏りのない一個の集合体としたのです。純粋性および真実性において優るものもあれば劣るものもあります。が、イエス・キリストの説いた真理が最も真実味にあふれ、多分インドの古代宗教がそれに続くでしょう。真理の受け入れの最大の障害となるのは偏見です。

 私が地上で生活した頃はそうした古い宗教については何の知識も存在しませんでした。そもそもユダヤ人の間には霊魂不滅の信仰と呼べるものは何一つ存在せず、単に憧れる程度にすぎませんでした。そこへイエス・キリストが出現して、真実の信仰として霊の不滅性を説いたのです。使命の一環がその真理を広めることにあったのです。

 当時のユダヤ人は今日のクリスチャンとよく似た傾向にありました。いつしか来世についてあまり多くを考えないようになって行きました。そこへイエスが出現して霊の不滅性と永遠性を説いたのです。それは、こうしてわれわれが他界した霊との交信の可能性を説きに来たのと同じです」


 「皆さんが異教徒と呼んでいる者の運命について大部分のクリスチャンが、彼らは死後哀れな道を辿り、お慈悲を要求することを許されぬまま神の裁きに任される、と断じております。不思議でならないのは、イエス自身は同じオリに種類の異なる羊もいると述べ、彼らも同じ仲間として、その行いによって裁かれると教えている事実を忘れていることです。またパウロが神について語った時も、神は地上のすべての民族を同じ血によってこしらえられたと言い、したがって人類は同じ家系から生じ、神を慕い求める者は誰にでもその願いが叶えられることを説いております」

 「キリストが所有していた強大な霊力はとうてい皆さんには理解し得ません。完全な自己滅却が人間の中にあって神のごとき生活を可能ならしめました。その奇跡は天使の背後霊団によって演出されました。そしてその思想は一つの気高い目的に集中しておりました。すなわち人類の福祉への献身です。

 キリストは悠久の前生(後注)を有する高級霊の一柱が宿ったものであり、その高い界層においてもなお高い位にありました。人類更生のための大事業はすべてそのキリストを淵源としております。その聖なる影響力は地上のいかなる暗き場所をも数多く啓発しております。これ以降も人類の霊的受容能力が開発されるに従ってその影響力がますます広がって行くことでしょう。

 われわれはそのキリストの名のもとに参ります。そのキリストの霊力のお蔭をもって語ります。そしてそのキリストの祝福を皆さんにおあずけしてまいります。その上に安らぎを、安らぎを、安らぎを・・・・・・」

 (注)──ここでいう〝前生〟とは誕生前の霊界における生活であって、地上での生活ではない。これは神々の誕生に関わる大問題で、日本の神話では寓話風に語られているが、シルバーバーチは〝物資界に誕生する霊としない霊とが居るのはなぜですか〟という質問に答えて次のように述べている。《霊界の上層部つまり神庁には、一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験しなくとも成長進化を遂げることが出来るのです。当初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上へ降りてくることがあります。歴史上の偉大な霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合が幾つかあります》
これは次のインペレーターの霊言とも一致している。☆

 「キリストの場合はかつて一度も物質界へ降りたことのない高級神霊が人類の向上と物的体験の獲得のために一時的に肉体に宿ったものです。そうした神霊は高い界層に所属し、人類の啓発のために特殊な任務を帯びて派遣されます。肉体に宿らずに、霊媒を見出して働きかける場合もあります(後注①)。その霊媒に対して、いまだかつて物質界に降りたことのない〝真理の啓発者〟から深遠な真理の幾つかが注ぎ込まれ、それについて霊媒は睡眠中に教えを受けることがあります(後注②)。本人はそれと気づいていなくても吸収することは出来ております。

 この種の神霊は俗世的問題を問われる気遣いのない時を見て働きかけようとするのです。なぜかと言えば、彼らは俗世の問題については全く無知であり、霊的知識以外は伝授し得ないのです。そうした神霊が時として自らの意志によって地上へ降誕してくることもあります。慈悲に発する使命感から率先して志願するのです。そして肉体に宿っている間は自己のアイデンティティ(本来の身元)の記憶を喪失します。こうした行為に出る神霊は数多く存在します。そして、地上生活を終えた後、特殊な存在の側面についての体験と知識とをたずさえて、本来の界層へと帰還していきます」


(注)①──『ベールの彼方の生活』第四巻で、ある〝双子霊〟が各種の天体を遍歴しながら向上していく話のあと、霊媒のオーエンとアーネル霊との間で次のような問答がある。

──地球以外の惑星との接触はどういう形で行ったのでしょうか。再生したのでしょうか。

 「再生という用語は前生と同じ性質の身体にもう一度宿るということを意味するものと思われます。そうだとすれば、そして貴殿もそう了解して下さるならば、地球以外の天体上の身体や物質に順応させていく操作を〝再生〟と呼ぶのは適切ではありません。というのは身体を構成する物質が地上の人間のそれと非常に似通った天体もあるにはありますが、まったく同じ素材で出来ている天体は二つとなく、まったく異なるものもあります。

 それゆえ貴殿が今お考えになっているような操作を再生と呼ぶのは適切でないばかりか、よしんば惑星間宇宙を支配する法則と真っ向から対立するものではないにしても、物的界層の進化の促進のためにこの種の問題を担当している神霊から見れば、そう一概に片付けられる性質のものでないとして否定されることでしょう。そうではなくて、お二人はこの太陽系だけでなく他の恒星へも、地上の場合と同じく、今私が行っている方法で訪れたのです。

 私はこの地上へ私の霊力の強化のために戻ってまいります。そして時には天体の創造と進化についての、より一層の叡智を求めて、同じ方法で他の天体を訪れます。が、物的身体をまとうことはいたしません。そういうことをしたら、かえって障害となるでしょう。私が求めているのは内的生活、その世界の実相であり、それは内部から、つまり霊界からの方がよく分かります。物的世界のことは、そこの物質を身にまとって生まれるよりも、今の霊としての立場から眺めた方がより多く学べるのです。魂をそっとくるんでくれる霊的身体よりも遥かに鈍重な器官を操作しなければならないという制約によって、霊的感覚がマヒしてしまうのです」

(注)②──これはわれわれ平凡人においても同じことで、肉体から抜け出て脳を通しての意識から解放されている間に、背後霊によっていろいろと指導を受けている。それが肉体に戻ってからどこまで脳の意識に反映されるかは霊的意識の発達程度(霊格)によるので、一人ひとり異なる。『シルバーバーチの霊訓』第七集のなかで、ルースとポールという二人の子供(姉と弟)を相手にしてシルバーバーチが次のような話をしている。


ルース「私たちは眠っている間はどんなことをしているのでしょうか」

シルバーバーチ「みなさんは毎晩その身体を後にして別の世界へ行きます。訪れた世界での体験は二種類に分けることが出来ます。一つは教育を目的としたもので、もう一つは純粋に娯楽を目的としたものです。教育的体験では、いずれ訪れる霊界生活で使用する霊的身体について教わります。娯楽を目的とした体験の場合は、たとえば霊界で催されているいろいろな会場を訪れます。
 いいですか、ルースちゃん、あなたは昨晩私の世界の庭園へ連れて行ってもらったのですよ。それからポール君は音楽を聞きに行ったのですよ」


ポール「二人ともそのことを覚えていないなんて、つまんないですね」

シルバーバーチ「たしかに、そう思うのも無理ないかも知れませんね。でも、それは肉体から離れている間の(異次元の)体験を肉体の脳で理解しようとするからなのです。ポットの水ぜんぶをグラスに入れようとしても入りませんね。それと同じです。でも夢を注意してみているとよいヒントになるものが見つかるはずですよ」

ルース「わけの分からない夢はどう理解したらいいのですか」

シルバーバーチ「変な夢のことですか。あれは異次元での体験を脳で思い出そうとするからそうなるのです。脳は小さな袋のようなものです。霊体が肉体に戻って来て、その間の体験を脳に詰め込もうとするのですが、小さな袋には全部が入りきれないのです。それを無理して押し込もうとすために、あのような変てこな形になるのです。夢というのは別世界での体験がそのまま現れるのではなく、その断片的な思い出にすぎません」☆


 「われわれはキリストの降誕に関して新しい視点を披露しました。これからそれを敷衍したいと思います。
 キリストの霊は地上へ降りることの可能な霊の中でも最高次元の霊です。そのキリストが地上人類の霊的更生のために自ら降誕したのです。

 霊が降誕するのは地球ばかりとは限りません。ただ、地球には地球ならではの特殊な体験が幾つかあります。いずれの天体にも霊的発達のための利用価値があり、すべての天体で生活が営まれております。そこへ時として高級霊が降誕して、教化と高揚に当たります。

 キリストは新しい時代を切り開かんとして、単純素朴さと誠実さとを教えるために地上に参りました。いま皆さんが見とどけておられるのは、さらに一段と高等な真理、より神性に富んだ真理を霊界から届ける新世紀の夜明けです。決して一過性の現象ではありません。人類を霊的方向へ導き啓発せんがための首尾一貫した大計画の一端なのです。現世紀は主として霊団の活躍による影響を受けていますが、少ないながらも、身をもって降誕している〝進化せる霊〟が地上にも存在しています。

 キリストの霊がそれ以前に地上へ降りたことは一度もありません。高級霊といえども肉体に宿ることによって前生の記憶を失うものです(後注①)。この種の降誕は一種の自己滅却です。もしくは〝国籍離脱〟にも似た行為です。皆さんが今生活しておられる地球は、ほぼ最低に近い次元の存在の場です。地球よりはるかに発達した天体が数多く存在します。形成の段階ある天体もあります。(太陽系では)水星がもっとも低く、木星がもっとも進化しています。

 キリストは〝無〟の境涯(超越界)へと入って行かれました(後注②)。が、われわれの仕事の完遂の暁にはみずからお出ましになられることでしょう。その刈り入れ時の到来までには幾多の為さねばならぬことがあります。種子まきと成育には長い期間(とき)を要するものです。今遂行されつつある仕事の大きさ、開かれつつある眺望の広さは皆さんには理解できません。神の愛がかくも強烈にほとばしり出たことはかつて一度もありません。地上人の心に静かな影響力が働きかけております。今こうしてお持ちしている教えの受け入れ態勢が地球上至る所で準備されつつあります。さらに多くの援助が必要となれば、新たに偉大なる天使の軍勢が差し向けられ、その霊力が地球へ届けられることでしょう。今はまだその必要はありません。計画通りに順調に進捗(しんちょく)しているからです。

 皆さんは今、地球の歴史上有数の画期的世紀一つに生きておられます。新たな教説が受け入れられるに先立って古い教説を一掃しなければなりません。が、そう易々と一掃されることはないでしょう。何となれば、その教説のまわりを、幾世紀にもわたる付着物が取り巻いているからです。しかし今や、それも急速に取り払われつつあります。そして二度と生き返ることはないでしょう。この時代に生をうけ、こうした新しい真理を学ぶことの出来たみなさんは幸せ者です。もっともその恩恵を正しく理解し活用すればのことですが・・・・・・

 私の教えは(同じく超越界に入っている)私の大先輩(紀元前九世紀ごろのヘブライの予言者だったエリヤの霊)から授けられます。私はその方と直接お会いすることが出来ます。その方もまたその大先輩(紀元前十二世紀ごろのヘブライの予言者モーセの霊)から教えを受けておられます(後注③)。

 私はまだ冥想界へ入ることはできません。が、その方が私のもとに降りて来られて、このたびの使命を私に授けられたのです。われわれの一人ひとりが大いなる系譜の一単位であり、その先を辿れば最高神にまで行きつきます。

 私の指揮のもとにある霊団は私の命令を受け、時おり私との交わりを求めて会合を持ちます。われわれの仕事にとって秩序がすべてであり、身勝手は許されません。人間が思うままに振舞えるのは、行為の及ぼす結果について人間が鈍感で、われわれと違って知らないでも平気でいられるからです。

 もっとも人間は気づいていないようですが、人間も真の意味では自由ではありません。人間の意志は、良きにつけ悪しきにつけ、かならず何らかの霊的影響力によって導かれております。ひと口に霊といっても、その進化の程度によってさまざまな種類が存在します。他の天体に所属する霊がこの地球を訪れることは、あることはありますが、滅多にはありません。地球所属の霊にしても、地上より他界した人間の霊の外に数々の種類が存在します。その中には自然界のエネルギーを支配する霊もいます(後注④)。


(注)①──『霊訓』に次のような箇所がある。


《地上の救済のために遣わされる霊はそのほとんどが肉体をまとうことによって霊的感覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常です。が、イエスは例外であった。その肉体の純粋さゆえに霊的感覚
を鈍らせることがほとんどなく、同等の霊格の天使達と連絡を取ることが出来ました。天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における地位まで記憶して居ました。天使としての生活の記憶はいささかも鈍らず、一人の時は殆ど常時、肉体を離れて天使と交わっていました。長時間にわたる入神も苦にならなかったのです》


(注)②──同じく『霊訓』の中で、魂が向上発達していく〝試練〟もしくは〝浄化〟の境涯と、そのあとに来るいわゆる超越界、いったん突入したらよくよくの場合を除いて二度と戻ることのない〝無〟の世界との間に、大きな懸隔があると述べてから、さらに次のように綴られた。

《七つの試練界の最高界から超越界の最低界への突入は人間の死にも似ている。が、その超越界についてはわれわれもほとんど聞かされていません。ただ、われわれがこうして人間を見守っている如く、その世界の至聖なる霊もわれわれを援助し導いてくださっていることは承知している。が、それ以外の具体的事実については何も知りません。分っているのは、その世界の霊はいよいよ神性が完成に近づき、宇宙の根源に通じ、大神を身近に拝むことを得るらしいということのみである。

 われわれとてその至福の境涯からは程遠い。まだまだ為さねばならぬことがあります。その遂行の中に喜びを見出しているところです。霊といえども自分が得た経験と知識に従って語っていることを承知する必要があろう。奥深い問題についても、それまで知り得た限りの範囲で解答を出します。ゆえに、真実から外れたことを述べることもあり得るわけであるから、そうした霊を咎めてはなりません。が、霊の世界について間違いなく言えることは、地上界が七つの下層界のうちの最高界であり、その上に七つの〝動〟の世界があり、さらにその上に七つの超越的〝無〟の世界が存在するということである。但しその七つの各界には無数の〝境涯〟が存在する》


(注)③──古来〝啓示〟にも霊的系譜があることを、同じく『霊訓』の中でインペレーターが次のように述べている。


《古き時代においてわれわれと同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた道程についてこれより述べようと思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。彼らは地上にあっては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきました。その一人──神が人間に直接的に話しかけるとの信仰が今より強く支配していた時代の一人に、メルキゼデクの名で知られた人物がいた。(中略)

 そのメルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時最大の改革者──イスラエルの民をエジプトから救い出し、独自の律法と政体とを確立した指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強大な人物でした。すでに当時としては最高の学派において、すぐれた知的叡知、エジプト秘伝の叡智が発達していました。人を引き付ける彼の強烈な意思が、支配者としての地位にふさわしい人物としたのです。彼を通じて強力な霊団がユダヤの民に働きかけ、それがさらに世界へと広がって行きました。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定しました。その時代はユダヤ民族にとっては、他の民族も同様に体験している段階、そして現代も重大な類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的想像力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのです。(中略)

 メルキゼデクがモーセの指導霊となったごとく、そのモーセも死後エリヤの指導霊として永く後世に影響を及ぼしました。断っておくが、今われわれはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示すために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。又その巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最小限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去った後も引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を指摘せんとしているところです。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。が、今の貴殿には関わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大な流れこそ最大の関心事であろう。もっとも、それをもって真理の独占的所有権を主張するような、愚かにして狭隘な宗閥心だけは捨て去って貰わなければなりません。

 偉大なる指導者エリヤ──イスラエル民族が授かった最高の霊は、かつての指導者モーセの霊的指揮下にありました。(中略)そのエリヤもまた後の世に地上へ戻り、指導に当たった。貴殿も知るごとく、かの〝変容〟の山上にてモーセと共にキリストの側にその姿を見せました。二人はその後ヨハネにも姿を見せ、それよりのちにも再び地上を訪れることを告げたとあります》


《注》④──いわゆる〝精霊〟のことで、『ベールの彼方の生活』ではそれを〝半理知的原始霊〟という呼び方で次のように説明している。

《これは個性をもたない自然界の霊で、鉱物の凝縮力として働くもの、植物の新陳代謝を促進するもの、動物の種族ごとの類魂として働いているものとがあります。鉱物の霊はこの分野を担当する〝造化の天使〟によって磁力を与えられて活動する以外には、それ本来の知覚らしい知覚はもっておりません。が、植物の霊になるとその分野の〝造化の天使〟から注がれるエネルギーに反応するだけの、それ本来の確立された能力を具えております。鉱物にくらべて新陳代謝が早く、目に見えて生育していくのはそのためです。

 同じ理由で、人間の働きかけによる影響が通常の発育状態にすぐ現れます。例えば性質の相反する二種の鉱物、あるいは共通した性質を持つ二種の鉱物を科学実験のように溶解状態で混ぜ合わせると、融和反応も拒否反応も、ともに即座にそして明瞭な形で出ます。感覚性が皆無に近いからです。

 ところが植物の世界に人間という栽培者が入ると、いかにも渋々とした故意的な反応を示します。ふだんの発育状態を乱されることに対して潜在的な知覚が不満を持つからです。しかし、これが動物界になると、その類魂も十分な知覚を有し、かつ叉、少量ながら個性も備えています。また〝造化の天使〟も整然とした態勢で臨んでおります》☆


 「他の天体に降誕した霊が、のちに地球へ降誕することもあります。地球上の生命の創造は霊力によって行われました。高級霊になれば、地球の大気から摂取した成分を加工し生命の要素を吹き込むことによって、新しい創造物を形成することが出来ます。霊の創造は今なお、地上においても霊界においても、絶え間なく続けられております。生殖本能は地球のみに限られているのではありません。

 新しい生命、言うなれば魂を宿した動物的生命は、途切れることなく地上へ誕生しております。精神は物質の附属物ではなく、別個の誕生と創造の起源を有します。新しい霊の創造は大気中の成分を凝縮することによって行われます。その凝縮した成分がわれわれ霊的存在と人間的存在との連結の媒体となります。いずれ、その成分に宿った魂が人間として地上へ誕生するのに要する条件、及び地上期間中にいかなる陶冶を受けるかが人類に語り明かされる日も到来しましょう。それは今みなさんが迎えつつある時代に属する課題です。その為には多くの古い偏見が淘汰されねばなりません。が、人間の頑迷さが取り除かれ、敵対者の軍団(後注)を追い散らすことさえできれば、その後に訪れる光明は真昼の太陽のごとく浩々たる輝きに満ちていることでしょう」

  
(注)──『霊訓』から邪霊集団の影響についての通信の一部を紹介する。

《すでに聞き及んでいようが、今貴殿を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈な反目がある。われわれの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば、人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの戦いです。

 それは何時の時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟な霊の抱く憎しみに煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに、程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれます。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われわれを始めとする他の多くの霊団の仕事に対して、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中です。(中略)

 そうした霊団に集まるのは必然的に地縛霊・未発達霊の類である。彼らにとって地上生活は何の利益ももたらさず、その意念のおもむくところは、彼らにとって愉しみの宝庫ともいうべき地上でしかなく、霊界の高尚な喜びには何の反応も示さない。かつて地上で通いなれた悪徳の巣窟をうろつき回り、同類の地上の人間に憑依し、哀れな汚らわしい地上生活に浸ることによって淫乱と情欲の満足を間接的に得んとするのです。(中略)

 こうした現実が身のまわりに実在するのです。それに人間は一向に気づかない。そうした悪疫の巣がある──あるどころか、ますます繫栄し、のさばる一方でありながら、それを非難する叫び声がいったい地上のいずこより聞こえるであろうか。なぜどこからも非難の声が上がらぬのであろうか。

 なぜか。それも邪霊の働きに他なりません。その陰湿な影響力によって人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならないのです》☆

 「皆さんは霊力のひとかたならぬ恩恵に浴しておられます。人類全体においても霊的感覚が増大しつつあり、一歩一歩、霊的影響力の存在が顕現されつつあります。今地上に行きわたりつつある霊力の波はキリストの時代のそれに類似しています。今明かされつつある教えがこれよりのち、キリストがもたらした教えのごとく(人間的夾雑物によって)汚されることがなければ幸いです。

 今日キリストの御名のもとに教えを説いている者の多くが、キリストが実際に説いたものとは似ても似つかぬものを説いております。われわれが今あらたに神の始源からお持ちしている真理も、全ての真理が当初において必ず遭遇する運命に遭遇することでしょう。が、人間がそれを受け入れる時代も間近に迫っております。われわれが恐れるのはわれわれの使命への反抗よりも、むしろ無関心の方です。問い質すことをせず、疑念を抱くほどの関心すら持たない感覚のマヒした、冷ややかな、生命のない無関心です」

このあとインペレーターは、この民主主義の時代においてはキリストのような巨大な予言者が一人だけ出現しても効果はないこと、これからの時代は真理がさまざまな手段でさまざまな人間に届けられること、精神構造が異なれば真理もまた異なった種類のものが必要であること、これからスピリチュアリズムに対する大きな反抗が予想されるので、それに対する備えがなければならぬこと、新しい真理の啓示に抵抗はつきものであることを語った。

℘62 
 セオフィラス Theophilus と名乗る霊が語る。
 「神はさまざまな表現形式をとり、さまざまな媒介者を通して顕現しておられます。そしてその顕現にあずかった者は、たいていその媒介者と啓示とを自分だけのものと思い込む間違いを犯します。時代ごとにそれ相応のメッセージが授けられているのですが、いずれの時代においてもそれを最終的な神のメッセージと受け止める間違いを犯します。神は何度も語りかけて来られました。が、最後の語りかけというものはなさっておりません。すでに知っての通り、現人類のための啓示はメルキゼデクに始まり、今なお連綿として続いているのです。

 またキリスト教会のみが神の啓示の唯一の受託者ではなく、他にも別の真理の受託者がいて諸国へ伝道していることも皆さんはご存知でしょう。いずれの宗教にも神の全真理のほんの一かけらのみが授けられたのです。現代の学識ある者の中には、あたかもサドカイ派(ユダヤ教の一派で霊魂の実在を信じず律法を字句どおりに解釈した者たち)とよく似た者、キリスト教徒の中にはあたかもパリサイ派(サドカイ派と対立し儀式を重んじた者たち)とよく似た者が見受けられます。一方神学者の中には、結局は何の価値もない文献を仰々しくいじくり回している者が大勢いるようです。

 今日のキリスト教の聖職者の宗教概念は、規範と教義とによって埋め尽くされて、その底流にある霊的概念をなおざりにしています。信仰心が薄れて行く第一の徴候はその霊的概念が忘れ去られることで、それが霊界などは存在しないと思わせ、まったく無意味な形式ばかりをいじくり回すようになります。かくして人間的発明品であるドグマや教説によって四方を囲まれ、肝心な霊的真理を度外視するようになり始めたら最後、信仰は衰微し始めることは確実です。

 今人間が決断を迫られているのは、霊的啓示を受け入れるか拒否するかです。受け入れる者もいれば拒絶する者もいるでしょう。

 これまでは真理が傑出した一人の人物に集中的に啓示されてきましたが、これからはそういうことはありません。一つの流れに偏り、こじつけられ、そして窮屈なものになるということはなくなり、大勢の霊媒を通じて与えられ、それだけ私的な偏りから免れ、世界中へ行きわたり、受け入れる魂を鼓舞するようになります。排他性の時代は過ぎ去りました。開かれたビジョンの時代──特権階級による一方的支配の時代から民主主義が主導的原理となる時代が到来したのです。神の真理はその流入の場を常に特権意識を持たない人達に求めます。そこには自尊心が少なく、見栄と高慢に振り回される可能性が少ないからです。

 ペテロが〝私には金銀はない〟(使徒行伝3・3)と述べた時、彼は失われてしまった高等な真理を指摘したのです。当時の聖職者たちが金銭的に恵まれた地位を得ようと躍起になっている様を見て、ペテロが強く戒めたのです。霊的影響力は当時の教会からはすでに消え失せ、物的影響力が支配していました」


 一八七五年のキリスト昇天祭におけるインペレーターの霊言。
 「以前この席でも何度か語ったことのある祝祭日(後注①)の一つであるこの日に、われわれ霊団の者も集会を催すことを、よもやお忘れではありますまい。この祝祭日は〝人の子〟イエスの昇天を象徴するものです。宗教問題を考究している学者の大多数がキリストがこの日に肉体を携えたまま天国へ移り住んだとの信仰に同意しております。しかるに皆さんの先達の一人は、血と肉では神の御国を継ぐことはできないと説いております。

 全世界各地において行われつつある物理的心霊現象がこの問題に大きな光を投げかけております。すなわちイエス・キリストほどの霊力を具えた霊が一時的に物質をまとって姿を見せることが何の不思議もないということです。キリストの生涯は尋常なものではありませんでした。霊の世界と交わる者の生涯は得てしてそうなるものです。ただキリストにくらべて他の霊覚者の生涯はさほど知られておりません。そして華々しい脚光を浴びることもありません。しかし、だからといって、いつの時代にも霊の世界と交信できる者がそこここに存在している事実を疑ってはなりません。

 キリスト教では主イエスは神人であり、人類とは異質のものであり、奇跡的な死を遂げ、死後さらに奇跡的な生命を得たと説いておりますが、真実の主はそのようなものではありません。死して後に弟子たちに姿を見せたことは事実です。が、弟子たちと共に過ごした時のあの生身の肉体のまま現れたのではありません。また同じ日、弟子たちにやさしく別れを告げたあと一瞬にして姿を消し本来の天界へと帰って行ったことも事実です。

 人間はイエスが物的身体をもって現れたことに困惑し、その解釈に頭を痛めていますが、その例証となるものを皆さんは(この交霊会で)すでに見ておられます。残酷な死を遂げたのちに見せたキリストの身体は物質化した霊体だったわけです。物質化に必要な条件が整った時に弟子たちに見せたのでした。

 大気中には地上の物的存在物を形成する基本的成分が存在します。そして又、霊体にはその被いとなる原子を吸着する性質が具わっています。かくして生成された物質に霊力が形体を与え、人間の目に、あるいは感光板にも、印象を与えることが可能となります。磁気的な作用によって霊体のまわりにその霊的生成物がが保持されるのです。

 以上の説明に科学的用語は用いておりませんが、その意味するところをよく理解してほしく思います。一つのエネルギー(生命エネルギーと呼んでもよいでしょう)がその瞬間に出席者を一つに融合させ、連結し、そして調和状態を作り出します。そのエネルギーの源は皆さんの上方に位置し、そこから生み出されます。

 かくして調和よく形成されたサークルにおいていわゆる心霊現象が発生します。それなくしては何一つ現象は起きません。そのエネルギーの発生には人間もさまざまな方法で援助することが出来ます。たとえば手と手をすり合わせるのもよいし、歌をうたうのも宜しい。霊の側においても、楽音やそよ風を発生させたり芳香を漂わせたりして、心地よい雰囲気をかもし出し、そのエネルギーの活動を助けます。それなくしては物体を操ることは出来ないのです。

 イエスの十二人の弟子はみな霊媒的素質を具えており、何よりもその資質ゆえに選ばれたのであり、イエスとの交わりの中でそれがますます発達して行きました。中でもペテロとヤコブとヨハネがとくにイエスとの共鳴度において高いものを有しておりました。同じ意味においてモーセは霊媒的素質をもった七〇人の長老を選ぶようにとの霊示を受けておりました。(後注②)

 イエスは画期的な霊的新時代の端緒を開くために地上へ派遣され、一度も地上へ生を受けたことのない高級霊団によってその生涯を指導されておりました。神が直接霊媒に働きかけることは絶対にありません。いかなる人間といえども神と直接交信することはできません。それは人間が足元の草の葉と交信できないのと同じ程度のおいて不可能なことです。

 イエスの任務と使命について地上の人間がこれほどまでに誤解するに至ったことは、われわれにとって驚くべき事実です。もっとも、その事実から幾つかの学ぶべきことも見出すことはできます。たとえば同じく真理にも深遠な霊的真理と、人間の精神に受け入れられる範囲での真理とがあり、その間に大きな隔たりがあることが人間には洞察できないことです。真理とは霊的栄養であり、精神の体質とその時々の状態に合わせて摂取されるべきものです。それはちょうど肉体の体質その時々の状態に合わせて食事を取らねばならないのと同じです。忘れてならないことは、人間の精神は地上への誕生時の条件によって支配され、霊覚が開かれるまでは、その受け入れる真理はごく限られていることです。

 イエスの再臨とは霊的な意味での再臨のことです。しかし物的偏重の時代はそれを物的再臨と考え、イエスは肉体のままいったん天国と呼ばれる所へ運ばれたあと、同じ肉体をまとって地上へ戻り、生者と死者ともどもに最後の審判をくだすものと想像しました。

 今日われわれが人間に祝ってほしく思うのは、イエスの純真な霊的身体の荘厳な昇天です。これは今人間を取り囲み神の真理の光が魂を照らすことを妨げている物的環境からの、人間の霊の絶縁の模範なのです」


 (注)①──キリスト教で祝う祭日の霊的な意味について『霊訓』に次のような説明がある。通信霊はインペレーターではない。

〇クリスマス(キリスト降臨祭)──これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿として、人類愛から己を犠牲にする。われわれにとってクリスマスは無私の祭日である。

〇エビファニー(救世主顕現祭)──これはその新しい光の地上への顕現を祝う祭日であり、われわれにとって霊的啓発の祭日である。すなわち地上へ生まれて来るすべての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人ひとりに持ち運んで与えるのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めに訪れるように、高揚するのである。

〇レント(受難節)──これはわれわれにとっては、真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの次節は、絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日である。

〇グッドフライデー(聖金曜日)──これはわれわれにとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤に訪れる目的成就、すなわち〝死〟を象徴する。ただし新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生命の認識と達成の祝日である。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。

〇イースター(復活祭)──これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克った霊、そして又、打ち克つべき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた、蘇れる生命の祭りである。

〇ペンテコステ(聖霊降臨祭)──キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけているが、われわれにとっては実に重大な意義を持つ日である。それはキリストの生命の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさゆえに自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を受ける。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理のいっそうの豊かさを祝う日である。

〇アセンション(昇天祭)──これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的決別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生命の終焉である。使命の完遂の祭りである。


(注)②──同じ『霊訓』でインペレーターがこう述べている。
《今日なお存続している「十戒」は変転きわまりない時代のために説かれた真理の一端にすぎない。もとよりそこに説かれている人間の行為の規範は、その精神においては真理である。が、すでにその段階を通り過ぎた者に字句どおりに適用すべきものではない。「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ地上的煩悩の影響に超然としたシナイ山の山頂においてモーセの背後霊団によって授けられた。背後霊団は今日の人間が忘却しているもの、つまり完全な交霊のためには完全な隔離が必要であること、純粋無垢な霊訓を授かるためには低次元の煩雑な外敵影響、懸念、取越苦労、嫉妬、論争等から隔絶した人物を必要とすることを認識していたのである。これだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることが出来るのである。

 モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として七十人もの長老──高き霊性を具えた者──を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高いものが役職を与えられたのである。モーセはそのための律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となったのちも、人類の恩人として末永くその名を地上に留めているのである》☆

℘70 
イエスの生涯のうち記録にない青年時代について──

「イエスの若き時代は一貫して準備期でした。聖書にある悪魔による誘惑の話は、他の多くに記録と同じく、ただの作り話にすぎません。〝神の声〟として受け取られている出所不明の記録の中の出来ごとをたどって行けば、そこに幾つかの矛盾撞着が見られます。その一つが荒野の誘惑の話(マタイ4)です。悪魔がイエスを荒野へおびき出し、断食によって体力を衰えさせておいて、自分の前にひれ伏せば天国を与えその主としてやると申し出たというのですが、実はこうした作り話が、向上しようとする魂の足枷となって人類を永い間拘束して来ました。すべて作り話であり、ただの想像の産物であり、光明へ向かわんとする魂を引き止めております。真の向上を得るためには、啓発の拠り所としているバイブルの中からそうした夾雑物を抹消しなければなりません。バイブルにも多くの真理の宝物が蔵されております。が、それを啓発の拠り所とする者は、真偽を見分ける判断力を身につけなければいけません。

 主イエスは、かつて一度も地上へ生を受けたことのない霊によって指導され鼓舞されておりました(後注①)。霊の影響力が今地上界へ浸透しております。その霊力はすべて主に発し、一大連動装置を形成する無数の霊を通じて地上へと届けられております。

 高級霊が今われわれがこの霊媒を支配している如くに直接的に支配することはきわめて稀なことです。もしあるとすれば、霊媒はよほど発達した者でなければならず、そのような霊媒は稀にしか存在しません。もっとも、直接的には支配せずとも、幾つかの連鎖関係を通じて支配することはできます。しかし、霊媒が(たとえ霊媒能力はあっても)精神的に未熟である場合は、高級霊はあえて努力して使用してみることはしません。

 イエスほどの進化せる霊となれば、直接的に地上の霊媒を支配することは不可能です。イエスは神の意志の直接的表現が肉体をまとったのです。後継者は残しませんでした。これから以後も出現しないでしょう。今その全霊力がこの地球の啓蒙のために向けられております。天体の一つひとつにそれぞれの霊的光明の淵源が割り当てられているのです(後注②)」


(注)①──本来の所属界においてはイエスが〝主〟でその霊団が〝従〟の関係にあり、イエス自身もそのことを知っていたという。

(注)②──各天体の守護神のことで、イエスは地球の守護神の直属の大天使の一人と考えられる。☆


 「イエス・キリストのことを一般には全能なる神の命令を受けて、その神の化身として人類救済の為に降誕し、かの磔刑(はりつけ)をもってその人類救済が成就されたと考えられておりますが、何というお粗末な思想でしょう。

 しかし実はこの身代わりの贖罪の概念は大切な真実に基づいているのです。と申しますのは、キリスト教原理と称しているものはすべての人間の霊的救済にあるのであり、各自の霊性が呼び覚まされるほどに霊界からの導きを受け向上していくものだからです。人間キリストにおいてその霊的原理が最高に発揮され、まさしく〝神の子〟と呼ばれるにふさわしい人物でした。すなわち地上に生を受けた人間の中でもっとも神のごとき人間という意味において〝神の子〟でした。

 仏佗の場合と同じように(後注①)イエスが神であるとの概念が生まれたのは死後かなりの年数が経ってからのことでした。そしてそのことはイエス自身にとっては迷惑千万なことでした。イエスを慕う者たちが祭り上げてしまった神の座を、本人は一度も口にしたことはなかったのです。イエスは真の意味での神と人間との間の仲立ちでした。神の真理をその時代に、さらにその時代を通して後世にまで啓示したのです。

 その生涯を通じてイエスは当時支配的だった思想と真っ向から対立する教えを説き、そうした者が必ず遭遇する運命をたどりました。まず貶(けな)され、つづいて見当違いの告発を受け、有罪を宣告され、そして最後に死刑を執行されました。(後注②)

 伝説は排除してもよろしいが、イエスの徳に満ちた生活、ならびにイエスが説いた福音は排除してはなりません。イエスの訓えの根底にある原理は神の父性とそれへの讃仰、全人類の同胞性と共同社会を構成する霊的な絆、祈願の法則と自己犠牲の法則、すなわち他人からしてもらいたいと思うことを他人にしてあげなさいということ(黄金律)です」


(注)①──『ベールの彼方の生活』から。
《ガリラヤのイエスとして顕現したキリストが仏陀を通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。またキリストが数多く存在する(何度も生まれ変わった)というのも真実ではありません。イエス・キリストは父なる神の一つの側面の顕現であり、仏陀・キリストは又別の側面の顕現です。

 人間も一人ひとりが造物主(父なる神)の異なれる側面の顕現です。が、すべての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストと仏陀・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。しかし顕現の大きさから言うとイエス・キリストの方が優ります。が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この二つの名前を持ち出したのはたまたまそうしたまでのことで、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、そのすべてに右に述べたことが当てはまります》


(注)②──『霊訓』から。
《イエスに向けられた非難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解きわまる神学を打ち立てた者たち──(中略)彼らは後生大事にその古い訓えを微に入り細を穿って分析し、ついに単なる儀式の寄せ集めとしてしまった。魂なき身体、さよう、生命なき死体同然のものにしてしまったのです。そしてそれを盾に彼等の神の冒瀆者(イエス)はモーセの律法を破壊し神の名誉を奪うものであると絶叫しました。律法学者とパリサイ人、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを非難しました。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号を真っ先に浴びせたのが彼らだったのです》☆


 イエス・キリストを祈願の対象としてよいかとの問いに──

 「父なる神、純粋無垢の光の中におわす永遠なる大霊の概念が理解できないうちは、イエスに祈るのも何ら差しつかえはありません。その神の概念が理解できた者なら直接神に祈ることです。が、それが出来ないのであれば、自分にとって最も身近な信仰の対象を仲立ちとして祈るがよろしい。その仲立ちによって祈りが大神へ届けられます」


(注)──シルバーバーチは〝霊界側は祈りをどう見ておられるのでしょうか〟との問いにこう答えている。
《祈りとは何かを理解するためには、その目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願い事を口にしたり決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける者はいませんし、訴える力を持った波動をおこすこともできません。私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意がこもっておらず、それを口にする人みずから、内容に無頓着であるのが普通です。永い間それをロボットのように繰り返して来ているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。しかし如何なる精神的行為にも、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなりません。

 祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責任を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果関係をみじんも変えることはできません。人のためという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りをすべて無視されるがよろしい。そのあとに残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)な行為であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。

 あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取り組んだ時──解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る、完全な権利があると言えましょう。そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたのまわりにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態をありのままに見抜く力があるからです。たとえば、あなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。

 さてその種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求める為の祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜなら、その魂の行為そのものがそれにふさわしい当然の結果を招来するからです》☆


 「ぜひとも理解していただきたいのは、スピリチュアリズムの本質は宗教性にあるということです。このことに異議を唱える者がいることは、われわれには何とも不思議に思えてなりません。ある者はスピリチュアリズムといえば他界した親戚・縁者との交信にすぎないと思い込んでおります。そういうところに、往々にして邪霊につけ込まれ、もっともらしく装った通信によって迷わされるスキがあることになります。

 地上生活の根底にある一番大切な要素の一つは宗教性です。われわれのいう宗教性とは人間の霊と父なる神との交わりのことであり、それは無数の階梯をなして存在する天使的存在によって執りなされます。すなわち人間が祈りを発すると、それを中継する霊が受け取りその霊自身の判断による回答を届けます。

 本当の霊的交わりは、宗教心に発した祈りの行為がその端緒となります。この事実が理解されない限り、スピリチュアリズムと関わりを持つことが必ずしも安全とは言えず、又有益とも言えません。その点を誤解している者が多く、そのために、あれこれとやっては見たが結局は真の満足が得られないということになります。

 人間にはその人なりの何らかの宗教的形式が必要です。それなのにただ心霊現象をあれこれといじくってばかりいて、その宗教的側面を理解できずに居れば、好奇心が駆られるばかりで、何か物足りないというグチをこぼすことになります。

 こうして、本来なら最大の魂の充足感が得られるはずのところを、彼らは何時しかわれわれに背を向けて、スピリチュアリズムは人を迷わすものだ、騙された、スピリチュアリストが関わっている霊は低級霊で悪魔の手先だ、と言い出す始末です。こうしてわれわれのもとを去り、せっかくの神の真理を拒絶し、またぞろ人間的産物を信仰の対象とします。
  
 神はつねに人間に語りかけております。そして人間と神との間には無数の中間的存在がいます。これまで二千年近くにもわたって人間を満足させてきた霊的食事が今日ではもはや満足できなくなり、そこで(スピリチュアリズムという名のもとに)新たな霊的流入が行われているところです。スピリチュアリズムは、それを最も必要とする時代への神のメッセージに他なりません。本質において人生全般に関わる宗教性を帯びたメッセージです。

 それは、人間がただ食べて飲んで寝てそして死んでいくというだけの存在ではなく、その内部に永遠に死滅することのない霊性を具えていること、そして又、この世で蒔いたタネは死後に必ず自分で刈り取らねばならないことを教えるメッセージです。われわれがスピリチュアリズムのことを、地上を再生せしめる唯一の力であると申し上げる所以はそこにあります。

 今はまさに地上再生の大事業の開始時期なのです。その進行は地上で言う共和的なものとなるでしょうが、それを主導するのは霊的なものです。人間は常に霊的な光を受け入れられるよう魂を準備していなくてはいけません。神はみずから暗闇を好む魂は決して照らさないからです。

 われわれは霊的真理を広めるための組織的な使命を帯びております。その霊的真理なくしては地上の霊的生命は死滅します。今日の地上には宗教といえるものは殆ど存在しません。わずかながら存在するものも、その大半がすでに影響力を失っております。生命力が抜け、形骸のみが残っております。イエスの時代がそうであったごとくに、今の時代もまさにその通りです。地上人類は次にもたらされるものをしきりに求めております。

 腐敗が社会の全組織に行きわたっております。そして地雷がいつ爆発するかも知れない状態にあります。共産主義と社会主義は悪の勢力です。その潜在的魔力の恐ろしさを政治家は誰一人と気づいておりません。この都市(ロンドン)においても、それがいつ爆発し、社会組織を全滅させるかもしれません。近い将来において不満分子が英国の国政を預かる者を悩ませることになることが予想されますが、それも皆そうした勢力の影響です。

 地上は社会的側面においても宗教的側面においても、まさにいまわの際に立っており、生命力を与えてくれる新しい力を必要としております。スピリチュアリズムと呼んでいるものがその腐敗への唯一の矯正手段であり、解毒剤です。あからさまに言って今の時代は、空虚で見掛け倒しで真実味に乏しい時代です。何らかの宗教が必要です。

 われわれとともに皆さんが関わっておられる大事業は大いなる進展を見せております。純粋な霊的真理の発展、寛容的精神の成長、頑固な障壁の崩壊、神学でなくキリスト精神の普及──進歩はこうしたものによってのみ達成されるものなのです。

 心霊現象についてとかく噂されるニセモノや詐欺行為に皆さんは困惑し迷惑に思われることでしょうが、スピリチュアリズムの基盤はいささかも揺らいでおりません。不快な空気はいずれ一掃され、清潔にして純粋な霊的雰囲気が残ります。現代は物事をしつこく穿(せん)さくする時代です。と同時に、神の真理の種まきの時期でもあります。

 かつてわれわれは、各国において既存の秩序が攻撃の的とされる時期が到来すると申し上げたことがあります。スペイン、ドイツ、イタリヤにおいてもそうであり、ロシヤにおいてはなおのことです。それが今現実となってきており、もっと恐ろしい混乱が生じることでしょう。社会主義、共産主義、無神論、ニヒリズム──これらはみな同じ陰湿な病弊を別な呼び方をしているに過ぎません。それが今地上に蔓延しつつあります。こうした勢力も、秘められた力を出し尽くせば善の方向へ利用することも可能でしょうが、現在のところは混乱の原理を操る邪霊集団に振り回されております。われわれの大事業を阻止せんとしているのです。

 偉大な指導者をご覧になれば、みな何らかの社会悪に対する憤りに燃えていることがお分かりでしょう。何らかの改革を真剣に求め、それに一身をなげうち、覚悟をもって臨んだのです。たしかに〝悪〟に対抗し〝善〟のために闘う上において強固にして真摯であるためには、何らかの目的意識を持たねばならないことは事実です。しかし断固たる信念と強烈な個性をもつ人間にとかくありがちな危険性は、何時しか自分の一個の目的意識に偏り、利己的になって行くことです。利己主義は霊的病弊の一大根源です。己自身のために闘う者は利己的となります。一方、真理のために闘う者は気宇壮大な同胞精神を持つに至ります」


 エジプト人の霊に代わる。
「霊界においては地上の近い将来を恐怖の念をもって眺めております。戦争の可能性が見えます。すべてがヨーロッパの大混乱へ向けて進行しております。人間が完全になれば戦争はしなくなるでしょうが、それは肉体に宿っている限りあり得ないことです」


 インペレーターに代わる。
 「苦難の時代が近づいております。いつの時代にも真理が顔を出せば必ずそれを目の敵にする反抗勢力が結集するものです。平和が乱されることを嘆く者がいるのも無理からぬことですが、真実と虚偽との闘いの中に神の真理の火花を打ち出す好機を見出す才覚のある者には、混乱もまた喜ぶべき理由がなきにしもあらずなのです。

 戦争と激動を覚悟しなければなりません。苦難と混乱を覚悟しなければなりません。そして又、キリストの再臨を地上への再生と信じる者が惹き起こすであろう抵抗も大いに覚悟しなければなりません。今、〝キリスト的〟と呼ばれる時代が終焉を迎えております。キリストは霊としてまた霊力として地上へ戻り、人類の魂を解放するための新しい啓示をもたらしつつあります。

 それを受ける霊媒が背信あるいは不信心ではなかろうかと恐れている者は、実はこれより良き種子が蒔かれていく休閑地のようなものです。迷信的教義によってがんじがらめにされた精神の方が、何の先入観もない精神よりはるかに有害です。いわゆる信仰をもたぬ者が多いことを恐れることはありません。新しい真理が注ぎ込まれるためには、まず無垢な受容性がなければなりません」


 「キリストの生涯には当時のエルサレム、キリストが涙を流して嘆かれた都市だけではなく、皆さんの住んでおられる都市(ロンドン)にも当てはまる予言めいた言葉があることに気づかれるでしょう。ご自身が生きられた時代だけでなく皆さんの時代も見通しておられたのです。エルサレムへの嘆きはそのまま皆さんが運命をともにされている人たちにも向けられてよいものです。今や金銭が神の座を占めております。蔓延する贅沢と怠惰の中に堕落の要因があります。今まさに英国の顔に〝滅亡〟の文字が記されております。

 どうか、これからの最後の闘争に備えてください。それは善と悪との闘い、信仰心と猜疑心との闘い、〝法と秩序〟対〝無法と放縦(ほうしょう)〟の闘いです。キリストが予言した嘆かわしい不幸の時代となるでしょう。それが暗黒の勢力、つまり悪魔のしわざとされるでしょう。〝聖書を汚す罪〟が横行することでしょう。

 そうした中にあって確固たる信念を失わずにいる者は幸いです。煩悩に負けて堕落していく者が多いのです。なかんずく、いったん霊的光明を見ながらそれを拒絶した者は、この地上においても、来るべき霊の世界においても、救いはありません」


 「今まさにキリストの再臨の予言が現実となりつつあります。キリストは〝助け主が訪れるであろう〟と述べておりますが(ヨハネ)、〝助け主〟とはキリストの霊による影響力のことです。それが今、現実に成就されつつあります。地上を去って至福の境涯へとたどり着いた霊が、今ふたたび地上圏へと戻って活躍しております。その最初の余波は不協和音の増幅、邪霊集団による活発な反抗活動、既成権力の狼狽という形で現れます。霊力の流入は反抗勢力を活気づけ、又新しい真理の到来に必ず伴う所の頑迷と偏狭が、なりふりかまわずムキ出しにされます。

 われわれは今二つの敵対勢力の真っ只中におります。片や光明より暗黒を好む悪霊集団であり、片や進歩的なものをすべて毛嫌いする地上の退嬰的人間です。人間界の日常の出来事がどのようにして霊によって支配されているかについての知識を世間一般に得心させることに、われわれはほぼ絶望的となっております。その作用が五感に感応せず、また霊の動きが眼に映じないために、そうした概念を捉えることが出来ないのです」

 われわれはこれまで、皆さんの注意を単なる一身上の興味の問題ではなく、神の真理と、霊界と物質界との内的交信の実在に向けさせようと努力してまいりました。身内の者からの私的なメッセージによって強い確信が得られる事実を決して過小評価するわけでありません。ただ、その種の通信はとかく情愛による先入観によって歪められ、情緒的になって正確さを欠き、真実味よりも感情の吐露に終わる傾向があります。

 そこでわれわれは、一身上のことよりも普遍的なことを基盤として証拠を披露するよう努めて参りました。一個人の体験はささいで重要性がないかに思われますが、そうした一人ひとりの説得によって得られる霊的真理の進歩は実は絶大なのです。物的宗教から抜け出て霊的知識を受け入れるに至った者が大勢います。新しい、真実味のある宗教を見出したのです。

 それは、言い変えれば、最高神からのインスピレーションを受取り、その神の懐に抱かれている宗教です。これからの宗教はそういう宗教となるでしょう。神の経綸とインスピレーションが受け入れられる宗教です。

 来るべき時代を担う世代は、皆さんには理解できない方法でその働きかけを受けつつあります。地上各地に霊的影響力の中枢が形成されつつあります。他方、人間の霊性の衰退と邪霊集団の跋扈が、われわれにとっての悩みの種を次々ともたらしております。人間界において善なるものが進歩することに反抗的態度をつのらせている霊たちです。

 しかし、いずれは神霊のほとばしりが地上の隅々にまで浸透して、そうした勢力を内紛状態へと追いやり、受け入れ準備の整っている魂が渇望している真理のメッセージを届けることになるでしょう。

 真摯な魂による祈願は、神の霊力の豊かなほとばしりを求め、信仰厚き魂が真理のために結束してくれることを求めるものであらねばなりません。

 常に未来へ目をやり、けっして絶望してはなりません。敵対する勢力のすべてが結束しても、味方となってくれる神の勢力の方がはるかに大きいのです」


 主イエスを信じるか否かによって霊の識別をしてよいかとの質問に──
 「いかなる信仰の告白も、その真実性を保証することにはなりません。霊が地上を離れれば、地上時代の教義など雲散霧消してしまいます。ただ、中には地上時代からまとわりついている神学的モヤの中から脱し切れず、それを真実と思い込んで、とんでもない間違った教説を大真面目に通信する霊がよくいます。

 また一方には、自分ではそうと気づかずに邪霊集団の手先となって通信している霊もいます。彼らは、われわれが全勢力を結集してその誤りを指摘せんとしている教義をわざと存続させようと企みます。われわれがこうして地上に降りて来たそもそもの目的は、真実の霊的真理を人間に啓示することにあります」


 「もし通信霊の述べることに気高さを感じ、知的に、道徳的に、あるいは霊的に高い次元へと昂揚してくれるものを感じ、意気盛んにしてくれるものがあれば、それを受け入れるがよろしい。反対に、低俗なものを感じ俗悪なものを指向していると思った時は、それは無視なさることです。その種のものは邪霊集団からのものだからです。交霊会をもっともらしく演出しながら、適当に茶化しては軽蔑と嘲笑の的とするのです」


(注)──『霊訓』の中で同じインペレーターが次のように述べている。
《邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、(59頁参照)それとは別に、悪意からではないが、やはり我々にとって面倒を及ぼす存在がいます。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えない。肉体から離れていく人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもないものです。そして、地上に近い界層を一気に突き抜けて行くほど進化せる霊は、特別の使命でもない限り地上へは戻って来ないものです。地縛霊の存在についてはすでに述べたとおりである。

 言い残したもう一種類の霊団があります。それは悪ふざけ、茶目っけ、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて、いかにも勿体ぶった雰囲気の中で通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっている所を読み取って面白がっているに過ぎません。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると貴殿に言わしめる要因がそこにあります。

 茶目っけやイタズラ半分の気持ちから、いかにも真面目くさった演出をしては、それを信じる人間の気持ちをもてあそぶ霊の仕業がその原因となっています。列席者が望む肉親を装っていかにもそれらしく対応するのも彼らである。誰にでも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在が原因である。(中略)彼らは真の道徳的意識は持ち合わせません。求められれば、いつでも、いかなることでも、ふざけ半分、イタズラ半分にやってみせます。その時々の面白さ以上のものは何も求めません。人間を傷つける意図はもちません。ただ面白がるのみです。

 人も道を誤らせ、邪な欲望や想念を抱かせるのも彼らである。ひそかに霊媒を操り、高尚な目的を阻止せんとする。高尚にして高貴な目的が彼らには我慢ならず、俗悪な目的を示唆する。要するにその障害物、妨害となろうとするのです。関わるのは主として物理現象です。通例その種の現象が得意であり、列席者を惑わせる魂胆をもって混乱を引き起こす現象を演出する。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによって引き起こされる当惑の様子を見て、ほくそ笑むのです。

 憑依現象を始めとする数々の心霊的障害は彼らの仕業に起因する。いったん付け入れば、いかようにでも心理操作ができるのです。個人的に霊を呼び出して慰安を求める者たちを愚弄するのも彼らです。いかにもそれらしく応対し、うれしがらせるような言葉を述べて欺く。

 間違いなく本人が出て、しっかりとした意思の疎通が行われることはあります。が、次の会では巧みに本人を出し抜いてイタズラ霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながら、その中に辻褄の合わない話を織り混ぜたり、まったくの作り話を語ったりする。そうした霊に付け入られないためにも、一身上の話題はんなるべく避けるが懸命である》☆


 〝永遠の刑罰〟について問われて──
 「永遠の刑罰の教義を立論の典拠とすることは神を冒涜するものであると同時に、恐ろしい思想と言わねばなりません。ほんの僅かばかりの真理は含んでいても、それが大きく曲解され歪められております。地上には善良な人間もいれば邪悪な人間もいますが、身代わりの贖罪を信じた者、あるいは洗礼を受けた者は善悪の区別なく祝福されて神のもとに侍(はべ)り、それ以外の者は呪われたものとして悪魔のもとに侍らされるというのは、人間の創作にすぎません。魂は常に進化の状態にあり、善でも悪でもないのですから、そのような尺度で人間を善と悪とに分けることはできません。

 宇宙の大神がこの地上という低き界層から御子イエスの血によって贖われた霊だけを救いだして側に侍らせるわけはありませんし、また、(宗教の違い等の)不可抗力の巡り合わせから生じたに過ぎないことを最大のいいがかりにして地獄へ蹴落とすようなこともなさるわけありません。地上を去る者は、それぞれ誰も知らない条件のもとで地上へ誕生しております。不可抗力だった悪徳の犠牲となっている場合もあります。

 地上を去った後一気に向上して行く優秀な霊がいると申し上げましたが、そうした霊も、すぐに最高神のもとに侍るようになるなどと言うことは人間的精神の空想にすぎないということでしょう。地獄はあります。が、それは、為すべきことを為さなかった悔恨の念に苦しめられる状態のことです。火焔地獄など、肉体をもたない霊の世界では何の効力もありません」


 「霊そのものは無始無終の存在です。その霊が地上に生を受ける前のことからお話ししましょう。霊そのものは、この地上世界の基盤として、これを取り巻くように存在し支配している霊的界層に前もって存在しております。いかなる霊も、肉体を身につけるまでは空間を宿として存在しています。そして肉体に宿って誕生する時期に至るまでは、さまざまな過程を経ながら成長してまいります。その段階でミクロコズム、すなわち火花の形で宿した神性の具現体となり、かくして物質を支配する力を獲得します。物質の特質の一つは不活性です。自らは何もできません。霊によって支配され活性を与えられ、一方、霊の方は人体をまとった段階で個別性を持つことになります。

 このように、地球を包み込むように霊的界層があって、すべての霊はそこからやって来ては、またそこへ帰っていくわけです。それとは別に仕事の界層(動の世界)と瞑想の界層(静の世界)が地球を取り巻いており、個霊はすべてその一つ一つを通過しながら向上してまいります。地球全体を霊の大気が包み込んでおり、それが霊界です。皆さんは、その存在に気づいて居なくてもその中で生きておられるわけです。地球とよく似た(主観と客観の)世界です。ただ、はるかに美しく、そして純化されているというだけのちがいです。

 霊界においても、自己を表現するためには何らかの媒体が必要であり、形体が必要です。ただし、霊質のものです。霊界にも地上と同じように植物、鉱物、動物、といった種別があります。ですから、そちらの世界からこちらの世界へ来ることは〝環境条件〟が変わるに過ぎません。

 生まれつき目の不自由な人には光とは何かが分かりません。その人が仮に視力を得て光が見えるようになったとすれば、それは〝状態〟が変わったのであって〝場所〟が変わったのではありません。それと同じで、その肉体を脱ぎ捨てて霊界入りしても、それは場所が変わったのではありません。状態が変わったに過ぎません」


 インペレーターによれば瞑想的〝静〟の世界は七つあり、その下に七つの進歩的〝動〟の世界があり、さらに下に七つの〝試練〟の世界があり、地球はその最上階に属するという。

(注)──ここでいう界層とは霊的進化がほぼ同程度の者が集まって生じる〝状態〟のことであって、各界がどこかで仕切れらていて、それに通路や階段がついているわけではない。強いて言えば小学校や中学校を知能の発達程度に応じて大ざっぱに六学年とか三学年に分けているのと同じで、学年が上がれば教室は変わるが、さらに上がるとまた同じ教室を使用することもある。要は〝知能〟の問題であって、霊的界層の問題もそれを〝霊格〟に置き変えて考えればよい。インペレーターが〝上〟とか〝下〟とかの用語を用いているのは、地上の言語で表現すればそうせざるを得ないからであって、現実には同じ一点に全界層が存在していると考えるべきである。☆


 「人心を教化するにはゆっくりとした段階を経なくてはなりません。たとえば、もしも最初から低級霊の話を持ち出していたら、皆さんはこぞってわれわれを相手にするのを拒絶したことでしょう。またもし、本物の霊的交信がそう易々と得られるものでないことを口にしたり、キリストについての信仰が全く見当違いであることをいきなり切り出していたら、皆さんはきっと〝この教えは聖書の福音に背反している。これこそ聖書が出現を警告している悪霊集団の仕業である。こんなのとお付き合いをするのはご免こうむる〟と仰ったことでしょう。そこでわれわれは徐々に明るい見解、より高いレベルへと手引きしてまいりました。皆さんもそれに首尾よく付いて来られました。が、まだまだお教えするわけにはいかない真理がたくさん残っております。お教えしても皆さんには理解できないからです」


 「最近この霊媒が、低級霊の影響──邪霊の誘いにすぐに乗ってしまう幼稚な霊、われわれは未発達霊と呼ぶ方を好むのですが──そうした霊の影響を受け易くなってきました。そのために、進歩の途絶えた邪霊集団によるまやかし行為が見抜けなくなっております。今その類の霊がばっこしております。遠くない将来、そうした霊による敵対行為が盛んになることを厳粛な気持ちで警告しておきます。

 その原因は地上に霊的知識が行きわたり、霊的交信の思想が進歩してきたことに邪霊集団がいらだちを覚えはじめたことにあります。とかく衝突が生じやすいのも、こちらでのそうした事情の反映にすぎません。彼らは霊的交信の事実を何とかして抑止しようとし、そこにわれわれとの衝突が生じているのです。彼らにとっては地上に暗闇が広がるほど都合がよいのです。がしかし、意念の力を行使することによって、守護霊団との霊的交信の障害は克服されることでしょう」


 「(地球を取り巻く)霊的大気が今ひじょうに乱れており、暗雲は容易に晴れそうにありません。暗雲の出どころは主として地上世界です。いよいよ困った事態が到来しそうです。が、人類は大きい、そして強烈な苦しみ──産みの苦しみ──を体験せずして低い次元から高い次元へと向上することは絶対に不可能です」


 「今はまさしく大混乱の時代です。未来には希望があります。が、その未来と現在との間には死にも似た暗い影があります。遠い将来には、聞く耳を持つ者は天使の声を聞くことが出来るでしょう。そしてその賛歌は平和の大合唱となることでしょう」

 「まさに現代は、かつて主イエスが地上の人間と生活を共にした時代と同じく、霊力が奔流となって注ぎ込まれている時代です。(イエスの時代の後に霊的衰退の時代が訪れたように)この霊的潮流が衰退することも絶対にないとは断言できませんが、実際問題として、そういうことにはならないとわれわれは考えております。それは、霊界が総力をあげて、かつてなかった規模で霊力を行使する時期がいよいよ間近に迫っているからです。それを契機として疑念と混乱とが生じることでしょう。地上は今(一八七五年五月)混乱の極にあります。それは、実はわれわれが代表している霊的勢力による影響の表れなのです。残念ながら低級霊でもわれわれが披露するのとそっくりのものを演出して見せることが出来るので厄介です。地球人類は道徳的に、精神的に、そして物質的に病的状態にあります。そして、これにはみな長期間にわたる治療を要します」


 「キリストは今〝静〟の世界から再び〝動〟の世界へ戻られ、特に地球のために活発に働いておられます。前回皆さんと語り合ったのちにこちらで大きな動きが生じており、われわれは油断なく交信を取り合っております。(地球圏の)最高級の霊団が地球人類のために大事業を再開しました。みなさんは忍耐強く、真摯に、祈りに満ちた心を堅持し、真理を求め、そうした霊の大軍を神の使徒と仰ぐことです。その大軍が今、地球のまわりに待機しております。

 願わくは全知全能の愛の神が我々を通じて皆さんにその恩寵をふんだんに垂れ給い、われわれともども、今たずさわっている仕事によって高揚され向上されんことを。そして又、これよりのち神の玉座の坐(ましま)す境涯へ首尾よく辿り着くことが出来ます様に。
 ではごきげんよう」


(注)──『ベールの彼方の生活』第四巻に次のような問答がある。答えているのはルネッサンス時代に地上生活を体験したアーネルと名のる霊。


──その〝尊き大事業〟というのは何でしょうか。

「それについてこれから述べようと思っていたところです。(中略)

 いつの世紀においても、その当初に神界において審議会が催されると聞いております。まず過去が生み出す結果が計算されて披露されます。遠い過去のことは簡潔な図表の形で改めて披露され、比較的新しい世紀のことは詳しく披露されます。前世紀までのニ、三年のことは全項目が披露されます。それらがその時点で地上で進行中の出来事との関連性において検討されます。それから同族惑星の聴聞会を催し、さらに地球と同族惑星とをいっしょにした聴聞会を催します。それから審議会が開かれ、来るべき世紀に適用された場合に他の天体の経綸に当たっている天使群の行動と調和するような行動計画に関する結論が下されます。悠揚迫らぬ雰囲気のうちに行われるとのことです」
    (中略)
──それらの審議会においてキリストはいかなる位置を占めておられるのでしょうか。
 「それらではなくそのと単数形で書いてください。審議会はたった一つだけです。が、会合は世紀ごとに催されます。出席者は絶対不同というわけではありませんが、変わるとしても二、三エオンの間にわずかに変動があるだけです。創造界の神格の高い天使ばかりです。その主催霊がキリストというわけです」(エオンは地質学的時代区分の最大の期間で、億単位で数える──訳者)
    (中略)
──どうもありがとうございました。私なりに分かったように思います。
 「それは結構なことです。そう聞いてうれしく思います。それというのも、私はもとより、私より幾らか上の界層の者でも、その審議会の実際の様子は象徴的にしか理解されていないのです。私も同じ手法でそれを貴殿に伝え、貴殿はそれに満足しておられる。結構に思います。

 以上でお分かりの通り、審議会の主催霊たるキリストみずからその大事業を引き受けられたのです。(中略)今日キリストはその任務を帯びて地上人類の真っ只中におられ、地球へ降下されたあと、すでにその半ばを成就されて、方向を上に転じて父の古里へと向かっておられます。(後略)」☆


 フィロファス Philosophus と名のる霊が語る。
 「地上世界の思想的指導者たちは祈りというものについての信仰を完全に失っております。今こそ祈りを必要としております。単に決まり文句を繰り返すことではありません。意念の傾注であり、高級霊の援助を求めるための祈りです。祈りとはきっと救いに来てくれることを信じた魂の真剣な叫びであり、型にはまった言葉の繰り返しではありません」


 インペレーターに代わる。
 「現代の危機は真剣な祈りを必要としております。祈りと言ってもクリスチャンの間で神への挨拶として当然のごとく使用されている古臭い決まり文句(主の祈り)の繰り返しのことではありません。そうした外部へ向けての行為は必要ではないのです。悩める魂の内なる叫び──それだけで、ここぞという時の援助と慰めを呼び寄せるのです。祈りとは要するに〝切望〟であればよいのです。背後霊による霊的援助のもとに高き思想を求める魂の努力です。ただし、祈りは瞑想界の内部までは届きません」


 思念が客観性を持つことがあり得るかとの質問に対して──

 「われわれにとっては思念こそが実体であり、考えたことがそのままあなた方にとっての形体と実質と同じものを形成します。崇高な魂を具えた人の中には、精神的には、地上にありながらみずからこしらえた観念の世界で暮らしている人が少なくありません。詩人、劇作家、小説家などは自分自身の世界を現実にこしらえます。みなさんも思念を投射していることは、ご自分で想像しておられる程珍しいことではありません。

 われわれの世界では思念の波長の合わない性質の霊とは生活を共にすることが出来ません。交わる相手の霊的本性と個性とがすぐに知れます。〝場所〟は関係ありません。〝状態〟がすべてです。個性がそれ相応の環境をこしらえます。そして(瞑想界に至るまでの)試練の境涯において、霊としての個性が形成されていきます。行為の一つ一つが永続性のある個性と、それ以後の生活の場をこしらえる働きをします。鍛錬のどの段階においても、それ相応の義務というものが割り当てられ、それを正しく遂行して行くことが、霊性を発達させ進化させます。かくして霊が鍛えられていく過程は地上においても霊界においても、形式こそ違っても実質的には類似しております」


 「霊体にも肉体と同じ機能が具わっており、さらに地上とは縁のない別の能力も備わっております。霊体には神性が内在しており、祈りと内省の時を多く持ち、実生活における義務を誠心誠意はたすことによって、その神性が発達します。ものは使用するほど強化されるという原理によってそうなるのです。それが普遍的な摂理なのです。

 一段と高級な霊になると、地上の大気の中ではほんの短い時間しか滞在できません。時にはこの交霊会の場にも近づけないことがあります。私も今はこの霊媒から遠く離れた位置にいます。精神的並びに肉体的条件のせいで、これ以上近づくことが出来ません。体調を崩している時は近づけません。最近他界したばかりの霊の方が容易に近づけます。しかし、われわれは遠い距離からでも影響力を行使することが出来ます。われわれ(高級なスピリット)にとっては時間も空間もありません」


 死刑制度に関して──
 「いかなる事情のもとでも許されるべきではありません。突如として肉体から切り離された魂は、やがて地上へ戻って来て人間に恐ろしい仕打ちをはじめます。守護霊も近づくことが出来ず、魂の進歩に重大な障害をもたらすことになります。残酷にして野蛮な処刑によっていかなる悪が生じているかは、霊界へ来て見て初めて分かることです。

 地上でいうところの生命を奪う形での処罰は、無分別きわまる行為です。それは目には目を歯には歯をの発想の時代の名残です。罪人は矯正するか隔離するかの、いずれかにすべきであって、身体を奪ってはなりません。それは、せっかくの地上という存在の場での寿命を全うしないまま霊を身体から引き裂くことになります」


(注)──その死刑制度を激しい語気で非難した部分が『霊訓』の中に見える。その激烈さのためにモーゼスは〝手がヒリヒリし腕がガクガクして、強烈なエネルギーが身体を流れるのを感じた。書き終わった時はぐったりして横になるほど疲れ果て、頭の奥に激しい痛みを覚えた〟という。その一部を紹介すると──

《罪人は教え導いてやらねばなりません。罰するのはよい。われわれの世界でも処罰はする。が、それは犯した罪がいかに自分を汚し、いかに進歩を遅らせているかを悟らせるための、一種の見せしめであらねばなりません。神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らをおき、罪を償い、真理の泉によって魂を潤すことを体験させてやらねばなりません。そこに神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、暖かい霊波を注ぎ込んでくれることでしょう。しかるに人間は罪人を寄せ集めて、手を施す術のない者として牢に閉じ込めてしまう。

その後さらに、意地悪く、残酷に、そして愚かきわまる方法で処罰する。そうした扱いを受けた者は、刑期を終えて社会に復したのちも繰り返し罪を犯す。そしてついに最後の、そして最も愚かな手段に訴えられるべき罪人の名簿に書き加えられる。すなわち死刑囚とされ、やがて斬首される。心は汚れ果て、堕落しきり、肉慾のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界へ来る。それまではまだ肉体という足枷があった。が、今はその足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔のごとき邪念に駆られて暴れまわるのである。

 人間は何も知らない! 何も知らない! 自分たちのしていることがいかに愚かであるかを一向に知らない。自分こそ最大の敵であることを知らない。神とわれわれと、そしてわれわれに協力する人間を邪魔しようとする敵を利用することになっていることを知らない。

 知らないと同時に愚かさの極みである。邪霊がほくそ笑むようなことに、あたら努力を傾けている。凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したに過ぎない者に報復的刑罰を与える。厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化している。断じて間違いである。しかも、こうして傷つけられた霊が霊界から復讐に出ることを人間は知らない。

 神の優しさと慈悲──堕落した霊を罪悪と憤怒の谷間より救い出し、聖純と善性の進歩の道へ導かんとして、われわれ使者を通じて発揮される神の根本的原理の働きを知らねばなりません。右のごとき行為を続けるのは、神の存在を認識していないからです。

 人間は自分の本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら分からぬ高所より人間を座視し、自分の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、自分の創造物については、自分に媚び自分への信仰を告白した者のみを天国へ召し入れ、その他に対しては容赦も寛恕もない永遠の刑罰を科してほくそ笑む、悪魔のごとき神をでっちあげた。そうした神を勝手に想像する一方、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えのない言葉を吐かせ、暖かい神の御心には到底そぐわない律法を定めた。

 何たる見下げ果てた神! 一時の出来心から罪を犯した無知なわが子に無慈悲な刑を科して喜ぶとは! 作り話にしても余りにお粗末! お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟な心の産物にすぎない。そのような神は存在しません! 絶対に存在しません! われわれには到底想像の及ばぬ神であり、人間の愚劣な心の中以外のいずこに存在しません。

 父なる神よ! 願わくば無明の迷える子らに御身を啓示し、御身を知らしめ給え。子らが御身につきて悪夢を見ているに過ぎぬこと、御身について何一つ知らぬこと、これまでの愚かなる概念を拭い去らぬ限り、真のお姿は知り得ぬことを悟らしめ給え》☆


 国家が退廃して行く主な原因は不道徳(悪徳)にあるのではないかとの質問に対して──

 「その通りです。不道徳こそ、人間を動物以下にまで堕落させ、悪魔と同類にしてしまう、罪の中の罪です。他のいかなる罪にもまして人間を天使の支配より遮断し、神より遠ざけるものです。ローマもそれにて滅び、スペインもしかりです。フランスも堕落しています。イギリスも同じ道を急速に辿りつつあります。

 ああ、人間はなぜ気づいてくれないのでしょう。たとえ一瞬の間でも霊眼を開いて、不道徳から救い出さんとして待機する天使の集団の存在を垣間見てくれればと思うのですが、人間は一向に気づかず、気づいた時は時すでに遅しです」


 再生の問題についてインペレーターは、一般に信じられている形での再生説は間違っていると述べ、偉大なる霊が人類の啓発のためにみずから志望して地上へ降誕することは、これまでの地上の歴史に幾つかの例があること、また、霊性の穢れが極端な場合は最低界へ沈んでいき、いったん〝霊の海〟へ埋没してから改めて生まれて来ることもあるという。ただし、その場合は多分この地上ではなく別の天体になる──一度落第した学校は二度と通わないものです、という。
℘105
(注)──『霊訓』の中で同じインペレーターが地上の悪徳を増幅させている邪霊集団の存在について述べた後、その救済についてこう述べている。

《こうした霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求が芽生えた時こそ更生への第一歩である。その時より神性にして気高い波長に感応するようになり、救済団により手厚い看護を受けることになる。

 地上にもみずからを犠牲にして悪徳の世界へ飛び込み、数多くの堕落者を見事に更生させている気高い人物がいるように、われわれの世界にもそうした奈落の底に沈んだ霊の救済に身を投じる霊がいる。そうした霊の努力によって善に目覚め、堕落の生活から救い出され、浄化の境涯における辛い試練を経て、ついに悪の影響と断絶し清らかにして善なる霊の保護のもとに置かれた霊は決して少なくありません。

 かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。それよりさらに深く沈んだ境涯については、われわれも多くは知りません。漠然と知り得たところによれば、悪徳の種類と程度によってさまざまな区別がなされている。中には善なるものへの欲求をすべて失い。不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く深く沈んでいく者がいます。そしてついには意識的自我を失い、事実上、個的存在が消滅して行く。少なくともわれわれはそう信じている》☆

℘106
「地上で極貧と悪徳の環境に生を受け、善性を指向する機会が乏しかった者は、他界後に霊界にてその埋め合わせの教育が施されます」

「生命に終わりはなく、永遠に進化し続けます。魂は一瞬たりとも静止することはありません。進化するか、さもなくば退化します」

 霊による人間への働きかけは人間自身が想像する以上に多く、いかなる霊が働きかけているかによって、その人間の程度が知れるという。また物的存在物はみなオーラを発しており、その内部に霊が潜在しているという。

 人間は死後もほとんど本性は変わっていない。また動物もそのまま生き続けている。一度創造された生命は決して死滅しないという。
℘107
 「地上近くをうろつき回っている低級霊は交霊会にしばしば出現し、さまざまな人物の名を騙ってしゃべります」

「悪条件のもとで交霊会を催して万が一そうした低級霊とのつながりが生じると、数々の危険を覚悟しなくてはなりません。邪悪な影響力の侵入を許し、危険が生じます。交霊会のメンバーは純粋な心の持ち主──真理の探求者によって構成すべきです」

「霊が人間に影響力を行使する場合、人間の身体が見えているわけではありません。人間は視力というものを肉眼と結びつけて考える習性がありますが、われわれは、映像として見えなくても存在を認識することが出来ます。霊と霊との関係は磁気的なものです(22頁参照)」

 「霊界における霊の誕生は地上における赤子の誕生とよく似て居ります。誕生したばかりの霊はやはり育児と看護が必要です」

 「霊界から人間に協力しているわれわれは、きわめてデリケートで不安定な条件のもとで働きかけていることを銘記して頂かねばなりません。その際、物質はわれわれの視界から消えており、物質界にありながら物質はまったく映じません。見えるのは霊のみです。したがって写真に写ることはできません。が、他の(低級な)霊にわれわれの肖像を真似させることは、しようと思えばできます」


 背後霊団の一人でメンターMentor と名のる霊についてインペレーターは、この霊は霊界ではとても霊格の高い霊で、第四界に所属し、教育と自然界のエネルギーの支配を担当しており、教育の仕事はすでに完了していると語ってから、
 「霊界での生活はそのように学ぶことと教えることの連続で、つねに前進であり、常に向上なのです」


 「われわれにとって神を崇めるということは、神の仕事と意志を実践することであり、人類を霊的に高揚させることにほかなりません」


 「人間は常に霊的生命に取り囲まれており、片時も孤独でいることはありません。絶対にありません」


 ムーディとサンキー(後注)の教えとその影響について問われて──

 「岩だらけの道を切り開くだけの道具を高等な物差しで採点しては、良識を欠くことになるでしょう。霊的なものが人間界に注入されていくに際して波風が立つのは、やむを得ないことです。冷たく陰鬱な惰眠をむさぼらせるよりも、揺り起こして目を覚まさせる方がましです。今の人類に蔓延している自己満足の中の平穏無事に騒ぎを起こさせる働きに対して、われわれは否定的態度はとりたくありません。現代は霊的な影響力がさまざまな形で顕現しつつある過渡期なのです。

 ムーディとサンキーの教えは知的レベルの低い階層に向けられたもので、それはそれなりに、その階層の者には適切だったことを知らなくてはいけません。霊的興奮の時期においては、波風の立つのは天使の到来の前兆と見るべきです。冷ややかさと無関心の状態から人類を目覚めさせるものであれば、われわれは何でも歓迎します。そうした問題についてわれわれが皆さんと違って高い観点から眺めることになるのも、立場上やむを得ないことでしょう」


(注)──D. L. Moody(一八三七~九九)、I. D. Sankey(一八四〇~一九〇八)。ムーディは靴のセールスマンから牧師となった人物で、歌手のサンキーと組んで米国に三回目のリバイバルを起こした。☆

 「人間が霊に出現してもらいたがるのはよいとしても、出現する霊にとっては、地上圏へ舞い戻ることが再び煩悩を呼び覚ますことになりかねないことを知るべきです。地上へ戻ることが退歩となることがあり、進化の法則に逆行することになります。人間の情的な念によって引き戻されるケースが多いのですが、その霊にとっては大変まずいことがあります。人間の情念の方が強烈であるために、地上へ引き戻されることによって進歩の歩調が乱されるのです。それほど人間の念が一個の霊の道を制約するものなのです。

 地上圏を去った者は二度と地上へ戻れなくなるケースが多いのですが、かりに何とか戻ることができても、人間も霊もともに意識過剰になり、一種の反発作用が生じ、交信を台無しにしてしまいます」


 入神中のモーゼスについて──
 「彼は今、教育担当の指導霊とともに天上界へ赴いております。彼のもつ霊力によって恩恵を受ける霊もいます。ただし、そのためには霊性が高尚で誠実で非利己的でなければなりません。何よりもまず〝小我〟を滅却することです。そうすれば思いもよらないほどの霊力を授かります」

 「地上でダニエルの名で知られた霊は大変な高級霊が降誕したもので、強力な霊媒的素質を具えておりました。時として偉大なる霊が地上へ降誕、ないしは再生することがあります。が、これは例外に属することで、一般的によくあることではありません」


(注)──ダニエルは紀元前六世紀のヘブライの霊覚者で、旧約聖書にそのダニエルについての書がある。彼もメルキゼデクに始まってイエスに至る系譜の中の一人で、多分インペレーター霊団の一人であろう。☆


 一八四八年に勃興した近代スピリチュアリズムの満百年を記念して──

 「今夜は大勢の霊が活発に動いております。本日が記念すべき日であるからにほかなりません。皆さんが近代スピリチュアリズムと呼んでいるものが勃興した当初、高級界より強力な影響力が地上へ差し向けられ、霊媒現象が開発されました。かくして自縛的状態にあった霊を解放し、新たな生活へ甦らせるための掛け橋が設けられました。そのことを記念してわれわれはこの日を祝うのです。

 スピリチュアリズム──われわれとしては〝神の声〟と呼びたいところですが──これは真理に飢えた魂の叫びに応じて授けられるものです。

 しかし、このスピリチュアリズムにも次第に致命的な悪弊が生じつつあります。すなわち現象のみをいじくり回すことから生じる、言わば心霊的唯物主義です。現象を生ぜしめるエネルギーにのみ関心を向け、その背後で働く各種の知的存在を認識しようとしません。物質はあくまでも付帯的なものであり、実在は霊なのです。

 地上のすべての宗教がその基盤を来世への信仰に於いております。にもかかわらず、地球を取り巻く唯物的雰囲気のために、せっかくの神の真理を心霊現象で埋め尽くして窒息死させかねない状態となって居ります。もしもそれのみにて満足するのであれば、むしろ始めから一切の関わりを持たなかった方がよかったかもしれません。

 われわれは、しかし、首尾よくそうした現象的段階を超えて、かつての真理より一段と高等な霊的真理を求めようとする者が多く輩出してくれることを期待しております。心霊現象はそのための手引としての価値しかありません」


 「スピリチュアリズムは今まさに最後の試練の時期(後注)を迎えております。そして多分それを首尾よく通り抜けて、さらに新たな局面を迎えることになるでしょう。その時は、これまでより一段と内面的なスピリチュアリズムが前面に出てくることでしょう。が、今はまだその時期ではありません」

 (注)──これはあくまでも訳者個人としての見解であるが、このインペレーター霊団とちょうど入れ替わるようにシルバーバーチ霊団その他、目的は同じでも手段を異にする霊団、たとえばハリー・エドワーズに代表される心霊治療団が地上への働きかけを開始している所をみると、インペレーターのいう〝最後の試練の時期〟とは第二次世界大戦に象徴される混乱の時期で、〝一段と内面的なスピリチュアリズム〟というのは、〝再生〟を因果律の重大な要素として前面に押し出した思想と心霊治療活動をさすものと考えられる。

 が、モーリス・バーバネルをして〝イエス・キリストに優る〟といわしめた心霊治療家のハリー・エドワーズもすでに亡く、その後を追うようにバーバネルも他界し、そして昨年(一九八六年)の十二月にはやはり心霊治療家のテスターと、その恩人ともいうべきフリッカーの二人が申し合わせたように相次いで他界し、シルバーバーチがたびたび交霊会に招待していた治療家や霊媒もほとんどが姿を消してしまったことを思うと、実はこれまでがその〝最後の試練の時期〟で、これから〝さらに新たな局面〟を迎え、そして〝一段と内面的なスピリチュアリズム〟が啓示されるかもしれないと思ったりもしている。
 願わくばそうあってほしいものである。☆

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