Saturday, December 7, 2024

シアトルの冬 男性支配型から女性主導型へ

From male-dominated to female-dominated

  

男性支配型から女性主導型へ

一九一九年三月二十四日  月曜日

 吾々から送られるものをそのまま書き記し、疑問に思えることがあってもいちいち質問しないでいただきたい。全部を書き終わってから読み直し、全体として判断し、部分的な詮索はしないでいただきたい。

このようなことを今になって改めて申し上げるのも、吾々が用意している通信は多くの人々にとって承服しかねるものであろうと思われるからです。ですが、とにかく書き留めていただきたい。

吾々も語るべきことは語らねばなりません。それをこれより簡略に述べてみましょう。

 キリストがガリラヤのイエスとして地上に降誕するまでの人類の進化は、知性においても力においても、男性の〝右腕〟による支配の線をたどっておりました。

それが人類進化における男性的要素でした。他にもさまざまな要素があったにしても、それは本流に対する支流のようなもので、進化の一般的潮流にとっては大して意味はありません。私はこれよりそうした細かいことは脇へ置いて、本流について語ります。

 イエスは地上に降り、人間社会の大混乱を鎮静させるためのオイルを注がれました。聞く耳をもつ者に、最後の勝利は腕力にせよ知力にせよ強き者の頭上に輝くのではなく、〝柔和(ニュウワ)なる者が大地を受け継ぐ〟(詩篇37・11)と説きました。

受け継ぐのです。奪うのではありません。お分かりでしょう。イエスは人類の未来のことを語っていたのです。

 この言葉を耳にした者は実際的であると同時に美しくかく真実であることを認めました。そして以来二千年近くにわたって両者を融合させようと努力してまいりました。


すなわち支配力に柔和さを継ぎ木しようとし、国内問題、国際問題、社会問題その他あらゆる面で両者をミックスさせようとしたのです。が両者は今なお融合するに至っておりません。そこである者はキリスト教は公共問題においては無能であると言います。


その結論は間違っております。キリストの教えは地上の人生において唯一永続性のある不変の真理です。

 人間は暴力と威圧による支配が誤りであったことを認識しました。が、それを改めるためにこれまでに行ってきたことは、その誤った要素はそのまま留めておいて、それを柔和さという穏やかな要素によって柔らげることでした。

つまり一方では男性が相変わらずその支配的立場を維持しつつ、他方では女性的要素である柔和さによってその支配に柔らかさを加味しようと努力したのです。

結果は失敗でした。あとは貴殿にも推察がつくでしょう。唯一残されたコースはその誤った要素を棄て、女性的要素である柔和さを地上生活における第一位の要素としていくことです。
 地球の過去は男性の過去でした。地球の未来は女性の未来です。

 女性は今、自分たちの性の保護のための何か新しいものの出現を期待する概念が体内から突き上げてくるのを感じております。それは感心しません。

ひとりよがりの考えであり、従ってそうあってはならないことだからです。かの昔、一人の女性が救世主を生みましたが、それは女性の救世主としてではなく全人類の救世主として誕生しました。現在の女性の陣痛から生まれるものも同じものとなるでしょう。

 何か新しいものを求める気持の突き上げを感じて女性は子孫への準備に取りかかりました。男児のための衣服を作りはじめております。私は今〝男児〟と言いました。

女性が作りつつある衣服はやはり男性のためのものなのです。そのための布を求めに女性は、男性だけが売買をしている市場へ行って物々交換を申し出ました。

〝私たち女性にだって男性の仕事はできます〟と言います。そのとき女性は自分が新しいブドウ酒を古い皮袋に入れているにすぎないことに気づいていません。いけません。女性が男性の立場に立つことをしては両者とも滅びます。

女性は男性がこれまでに学ばされてきた苦い体験から女性としての教訓を学び取らなくてはいけません。男性はどこに挫折の原因があったかを学びました。

ではどうすべきかが分からぬまま迷っております。片方の手で過去をしっかりと握り、もう一方の手を未来に向けて差し出しています。が、その手にはいまだに何も握られていません。過去を握りしめている手を放さないかぎり空をつかむばかりでしょう。

  女性は今、かつての男性がたどったのと同じ道をたどろうとしています。男性と対等に事を牛耳ろうとしています。しかし女性の未来はその方向にあるのではありません。

女性が人類を支配することにはなりません。単独ではもとより、男性と対等の立場でも支配することにもなりません。これからは女性が主導(リード)する時代です。支配するのではありません。

 前にも述べた通り、これまでの地球の進化は物的なものへ向けての下降線をたどって来ました。そこでは男性が先頭に立ち、荒々しい闘争のために必要な甲冑がよく似合いました。が、


その下降線も折り返し点に到達し、今まさにそこを後にして霊的発達へ向けて上昇を開始したところです。霊の世界には人間が考え出した(神学の)ような、ややこしい戒律(キマリ)による規制はありません。あるのはただ愛による導きのみです。

地上にも、優位の立場からの支配は女性の性(さが)に不向きであることを悟った暁に女性が誘導(ガイダンス)によってリードしていく場があります。

 しかし、その女性主導の未来がどういうものであるかは、いかなる形にせよ説明するのはとても困難です。と言うのも、これまでのそうした主導権の概念は支配する者と支配される者、抑える者と従わされる者、といった二者の対立関係を含んでおりますが、これからの主導権にはそうした対立関係は含まれていないからです。

この〝主導〟という用語からしてすでに一方が先を行き他方がその後に付いていくという感じ、一種の強制観念をもっています。これからの人類を待ちうけていると私が言っている主導はそれとは異なるものです。

 次のように説明すればどうでしょうか。それはイエス・キリストにおいて明白に体現されております。男性としての美質が一かけらの不快さも醜さも伴わずに体現されていると同時に、女性としての優しさが一かけらの弱々しさも伴わずに融合されております。

未来は両者が、すなわち男性と女性とが、いかに完璧に一方が他方を吸収した形であっても、二つの性としてではなく、一つの性の二つの側面という形をとることになります。

 力の支配するところでは〝オレが先だ。お前はあとに付いてこい〟ということになります。愛の支配するところでは言葉は不要です。以心伝心で〝最愛なる者よ、ともに歩もう〟ということになります。


 私の言わんとすることがこれでお分かりと思います。


──分かります。ただ、今日までの慣習に親しんできている者にとっては、一方が(優しく)手引きし他方が(素直に)付いて行くようでなければ進歩が得られないというのは、いささか理解が困難です。

 おっしゃる通りです。今の言いまわしにも苦心のあとがうかがえます。いま貴殿は地上でいう組織や整然とした規制、軍隊や大企業における上下の関係を思わせる語句を使用しておられます。

 もちろん天界においても整然たる序列が存在します。しかしそれは権力の大小ではなく、あらゆる力の背後に控えるもの──愛がそうあらしめるのです。

 実際においてそれが何を意味するかを次の事実から微(カス)かにでも心に描いてみてください。比喩的な意味ではなく実際の事実として、地上でいうところの高い者と低い者、偉大な者と劣等なる者は存在しません。

地上から来たばかりの霊と天使との間にもかならず共通した潜在的要素が存在します。

その意味で、若い霊も潜在的には天使と同じであるのみならず、さらに上の大天使、力天使、能天使とも同じであると言えるのです。

(訳者注──ここではオーエンがキリスト教の牧師であることから神学における天使の分類用語を使用しているまでのことで、実際にそういう名称で呼ばれているわけではない。要するに造化の仕事に直接たずさわっている高級霊と考えればよい)

 さらに、たとえば天使と父との関係について言えば、地上的な観点からすれば当然天使の方が小さい存在ですが、天界全体として考えた時、両者の関係は一つの荘厳なる実在すなわち絶対神の中に吸収されてしまいます。

そこにおいては天使も絶対神と一体となります。〝より大きい〟も〝より小さい〟もありません。それは外部にまとう衣服については言えましょう。

宝石のわく飾りのようなものです。が、内奥の至聖所ではその差別はありません。

 そのことはキリストの顕現の度に思い知らされることです。すなわちキリストはたしかに王であり吾々はその従臣です。しかしキリストはその王国全体と一体であり、その意味において従臣もその王の座を共有していることになるのです。

キリストが命を下し、指揮し、吾々はその命に服し、指揮に従います。が、命じられたからそうするのではなく、キリストを敬慕するからであり、キリストもまた吾々を敬愛なさるからです。お分かりでしょうか。

ともかく、こうした天上的な洞察力の光をいくばくかでも人類の未来へ向けて照射していただきたい。きっとそこに、こうして貴殿に語りかけている吾々に啓示されているものを垣間みることができるでしょう。

 また次のことも銘記してください。理性というものは男性的資質に属し、したがって私のいう未来を垣間みる手段としては不適当であることです。

直感は女性的資質に属し、人間の携帯用望遠鏡のレンズとしては理性より上質です。

思うに女性がその直感力をもって未来をどう読まれるにしても、理性的に得心がいかないと満足しない男性よりは、私が言わんとすることを素直に理解してくださるでしょう。女性は知的理解をしつこく求めようとしません。理屈にこだわらないのです。

あまりその必要性がないとも言えます。直感力が具わっているからです。それで十分間に合いますし、これより先は女性と男性の双方にとってそれがさらに有益となっていくことでしょう。


──例によって寓話をお願いしたいですね。

 ある金細工人が王妃の腕輪(ブレスレット)に付ける宝石としてルビーとエメラルドのどちらにしようかと思案しました。彼は迷いました。ルビーは王様がお好みであり、エメラルドは王妃がお好みだったからです。

思案にあまった彼は妻を呼んで、どう思うかと聞いてみました。すると妻は〝あたしだったらダイヤにする〟と答えました。

〝なぜだ。ダイヤはどっちの色でもないぞ〟と聞くと、〝お持ちになってみられてはいかが?〟と答えます。彼は言われた通りに持参してみることにしました。

 恐るおそる宮殿を訪れてまず王様にお見せしたところ、〝でかしたぞ。このダイヤはなかなかの透明度をしている。ルビーの輝きがあふれんばかりじゃ。さっそく妃(キサキ)のところへ持っていって見せてやってくれ〟と言います。

そこで王妃のところへ持っていくと王妃もことのほか喜ばれ、〝なかなか宝石に目が高いのお。このダイヤはエメラルドの輝きをしている。さっそくそれでブレスレットを仕上げておくれでないか〟とおっしゃいます。

 わけが分からないまま帰ってきた金細工人は妻になぜ王妃はこのダイヤが気に入られたのだろうかと聞いてみました。

すると妻は〝お二人はどんなご様子だったのですか〟と尋ねます。〝お二人とも大そうお気に召されたんだ。王様はなかなか上質でルビー色をしているとおっしゃり、王妃もなかなか上質でエメラルド色をしているとおっしゃった〟と彼は言いました。

 すると妻は答えました。〝でもお二人のおっしゃる通りですよ。ルビー色もエメラルド色も、砕いてみれば何もない無色の中から出ているのであり、ほかにも数多くの色が混ざり合っているのです。

愛はその底にすべての徳を融合させて含んでおり、一つ一つの徳が愛の光線の一条(ヒトスジ)なのです。王様も王妃もその透明な輝きの中にお好みの色をごらんになられたのです。


お二人が違う色をごらんになったからといって別に不思議に思われることはありません。お互いの好みの色はその結晶体の中で融合し、自他の区別をなくして本来の輝きの中に埋没してしまっているのです。それはお二人が深く愛し合う仲だからですよ〟
                            アーネル ± 

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