A feast of light and melody
一九一三年十二月四日 木曜日
いささか簡略に過ぎた嫌いはあるが、天界においてより精妙な形で働いている原理が地上においても見られることを、ひと通り説明した。そこで次は少しばかり趣きを変えて話を進めようと思う。
本格的な形では吾々の世界にしか存在しない事柄を幾ら語ったところで、貴殿には理解できないであろうし、役にも立たないであろうが、旅する人間は常に先へ目をやらねばならない。これより訪れる国についての理解が深ければ深いほど足どりも着実となるであろうし、到着した時の迷いも少ないことであろう。
然らばここを出発点として──物質のベールを超えて全てが一段と明るい霊的界層に至り、まず吾々自らがこの世界の真相を学ぶべく努力し、そしてそれを成就した以上──その知識をこののちの者に語り継ぐことが吾々の第一の責務の一つなのである。
他界後、多くの人間を当惑させ不審に思わせることの一つは、そこに見るもの全てが実在であることである。そのことについては貴殿はすでに聞かされているが、それが余りにも不思議に思え予期に反するものである様子なので、今少し説明を加えたいと思う。
と申すのも、そこに現実に見るものが決して人間がよく言うところの〝夢まぼろし〟ではなく、より充実した生活の場であり、地上生活はそのための準備であり出発点に過ぎないことを理解することが何よりも大切だからである。
何故に人間は生長しきった樫の木より苗木を本物と思いたがり、小さな湧き水を本流より真実で強力と思いたがるのであろうか。地上生活は苗木であり湧き水に過ぎない。死後の世界こそ樫の木であり本流なのである。
実は人間が今まとっている肉体、これこそ実在と思い込んでいる樹木や川、その他の物的存在は霊界にあるものに比して耐久性がなく実在性に乏しい。なぜなら、人間界を構成するエネルギーの源はすべて吾々の世界にあるのであり、その量と強烈さの差は、譬えてみれば発電機と一個の電灯ほどにも相当しよう。
それ故人間が吾々のことを漂う煙の如く想像し、環境をその影の如く想像するのであれば、一体そう思う根拠はどこにあるのかを胸に手を当てて反省してみよと言いたい。否、根拠などあろうはずがないのである。あるのは幼稚なる愚かさであり、他愛なき想像のみなのである。
ここで私はこちらの世界における一光景、ある出来ごとを叙述し、遠からぬ将来にいずれ貴殿も仲間入りする生活の場を紹介することによって、それをより自然に感じ取るようになって貰いたいと思う。
この光あふれる世界へ来て地上を振り返れば、地上の出来ごとの一つ一つが明快にそして生々しく観察でき、部分的にしか理解し得なかったことにもそれなりの因果関係があり、それでよかったことに気づくことであろう。
が、それ以上に、こうして次から次へと無限なるものを見せつけられ、一日一日を生きている生活も永遠の一部であることを悟れば、地上生活が如何に短いものであるかが判るであろう。
さて、スミレ色を帯びたベールの如き光が遠く地平線の彼方に見え、それが前方の視界をさえぎるように上昇しつつある。その地平線と今私が立っている高い岩場との間には広い平野がある。その平野の私のすぐ足もとの遥か下手(しもて)に大聖堂が見える。これが又、山の麓に広がる都の中でも際立って高く聳えている。
ドームあり、ホールあり、大邸宅あり、ことごとくまわりがエメラルドの芝生と宝石のように輝く色とりどりの花に囲まれている。広場あり、彫像あり、噴水あり、そこを、花壇を欺(あざむ)くほどの美しさに輝き、色彩の数も花の色を凌ぐほどの人の群れが行き交っている。
その中に、他を圧するようにひときわ強く輝く色彩が見える。黄金色である。それがこの都の領主なのである。
その都の外郭に高い城壁が三か月状に伸び、あたかも二本の角(つの)で都を抱きかかえるような観を呈している。その城壁の上に見張りの姿が見える。敵を見張っているのではない。広い平地の出来ごとをいち速く捉え、あるいは遠い地域から訪れる者を歓迎するためである。
その城壁には地上ならば海か大洋にも相当する広大な湖の波が打ち寄せている。が、見張りの者にはその広大な湖の対岸まで見届ける能力がある。そう訓練されているのである。その対岸に先に述べたベールのような光が輝いており、穏やかなうねりを見せる湖の表面を水しぶきを上げて往き交う舟を照らし出している。
さて私もその城壁に降り立ち、これより繰り広げられる光景を見ることにした。やがて私の耳に遠雷のような響きがそのスミレ色の光の方角から聞こえてきた。音とリズムが次第に大きくなり、音色に快さが増し、ついに持続的な一大和音(コード)となった。
すると高く聳える大聖堂から一群の天使が出て来るのが見えた。全員が白く輝く長服をまとい、腰を黄金色の帯で締め、額に黄金の環帯を付けている。やがて聖堂の前の岩の平台に集結すると、全員が手を取り合い、上方を向いて祈願しているかに見える。
実は今まさにこの都へ近づきつつある地平線上の一団を迎えるため、エネルギーを集結しているのであった。
そこへもう一人の天使が現われ、その一団の前に立ち、スミレ色の光の方へ目をやっている。他に較べて身体の造りが一回り大きく、身につけているものは同じく白と黄金色であるが、他に比して一段と美しく、顔から放たれる光輝も一段と強く、その目は揺らぐ炎のようであった。
そう見ていた時のことである。その一団の周りに黄金色の雲が湧き出て、次第に密度を増し、やがて回転し始め一個の球体となった。全体は黄金色に輝いていたが、それが無数の色彩の光から成っていた。それが徐々に大きくなり、ついには大聖堂をも見えなくした。それから吾々の目を見張らせる光景が展開したのである。
その球体が回転しつつ黄金、深紅、紫、青、緑、等々の閃光を次々と発しながら上昇し、ついには背後の山の頂上の高さ、大聖堂の上にまで至り、更に上昇を続けて都の位置する平野を明るく照らし出した。気がついてみると、さきほど一団が集合した平台には誰れ一人姿が見当たらない。
その光と炎の球体に包まれて上昇したのである。これはエネルギーを創造するほどの霊力の強烈さに耐えうるまでに進化した者にしかできぬ業(わざ)である。球体はなおも上昇してから中空の一点に静止し、そこで閃光が一段と輝きを増した。
それから球体の中から影のようなものが抜け出てきて、その球面の半分を被うのが見えた。が、地平線上の例のスミレ色の光の方を向いた半球はそのままの位置にあり、それが私に正視できぬほどに光輝を増した。見ることを得たのは、スミレ色の光から送られるメッセージに応答して発せられ平地の上空へ放たれたものだけであった。
そのとき蜜蜂の羽音のようなハミングが聞こえてきた。そしてスミレ色の光の方角から届く大オーケストラの和音(コード)と同じように次第に響きを増し、ついに天空も平野も湖も、光と旋律とで溢れた。天界では、しばしば、光と旋律とは状況に応じてさまざまな形で融合して効果をあげてゆくのである。
すでにこの時点において、出迎えの一団と訪問の一団とは互いに目と耳とで認識し合っている。二つの光の集団は次第に近づき、二つの旋律も相接近して美事な美しさの中に融合している。両者の界は決して近くはない。天界での距離を地上に当てはめれば莫大なものになる。
両者は何十億マイル、あるいは何百億マイルも遠く離れた二つの恒星ほども離れており、それが今その係留(けいりゅう)を解(ほど)いて猛烈なスピードで相接近しつつ、光と旋律とによって挨拶を交わしているのに似ている。
これと同じことが霊的宇宙の二つの界層の間で行われていると想像されたい。そうすれば、その美しさと途方もなく大きな活動は貴殿の想像を絶することが判るであろう。
そこまで見て私はいつもの仕事に携わった。が、光はその後もいやが上にも増し、都の住民はその話でもちきりであった。この度はどこのどなたが来られたのであろうか。前回は誰それが見えられ、かくかくしかじかの栄光を授けて下さった。等々と語り合うのであった。
かくて住民はこうした機会にもたらされる栄光を期待しつつ各々の仕事に勤しむ。天界では他界からの訪問者は必ずや何かをもたらし、また彼らも何かを戴いて帰り住民に分け与えるのである。
それにしても、その二つの光の集団の面会の様子を何とかうまく説明したく思うのであるが、それはとても不可能である。地上の言語では到底表現できない性質のものだからである。実はこれまでの叙述とて、私にはおよそ満足できるものではない。
壮麗な光景のここを切り取りあそこを間引きし、言わば骨と皮ばかりにして何とか伝えることを得たにすぎない。かりにその断片の寄せ集めを十倍壮麗にしたところで、なお二つの光の集団が相接近して会合した時の壮観には、とても及びもつかぬであろう。
天空は赫々(カクカク)たる光の海と化し、炎の中を各種の動物に引かれたさまざまな形態の馬車に乗った無数の霊(スピリット)が、旗をなびかせつつ光と色のさまざまな閃光を放ちつつ往き交い、その発する声はあたかも楽器の奏でる如き音色となり、それが更にスミレ色の花とダイヤモンドの入り混じった黄金の雨となって吾々の上に降りそそぐ。
なに、狂想詩? そうかも知れない。単調きわまる地上の行列──けばけばしい安ピカの装飾を施され、それが又、吾々の陽光に比すればモヤの如き大気の中にて取り行われる地上の世界から見れば、なるほどそう思われても致し方あるまい。
が、心するがよい。そうした地球及び地上生活の生ぬるい鬱陶(ウットウ)しさのさ中においてすら、貴殿は実質的には本来の霊性ゆえに地上の者にはあらずして、吾々と同じ天界に所属する者であることを。故に永続性の無い地上的栄光を嗅ぎ求めて這いずり回るような、浅ましい真似だけは慎んでほしい。
授かったものだけで満足し、世の中は万事うまく取り計らわれ、今あるがままにて素晴らしいものであることを喜ぶがよい。ただ私が言っているのは、この低い地上に置いて正常と思うことを規準にして霊界を推し量ってはならないということである。
常に上方を見よ。そこが貴殿の本来の世界だからである。その美しさ、その喜びは全て貴殿のために取ってある。信じて手を差しのべるがよい。私がその天界の宝の中から一つずつ授けて参ろう。心を開くがよい。来たるべき住処の音楽と愛の一部を吾々が吹き込んでさしあげよう。
差し当たっては有るがままにて満足し、すぐ目の前の仕事に勤しむがよい。授かるべきものは貴殿の到来に備えて確実に、そして安全に保持してある。故にこの仕事を忠実にそして精一杯尽くすがよい。
それを全うした暁には、貴殿ならびに貴殿と同じく真理のために献身する者は、イエスのおん血(ヘブル書9)を受け継ぐ王として或いは王子として天界に迎えられるであろう。
聖なるものと愛する者にとってはイエスのおん血はすなわちイエスの生命なのである。なぜならイエスは聖なるものの美を愛され〝父〟の聖なる意志の成就へ向けて怯(ひる)むことなく邁進されたからである。人間がそれを侮辱し、それ故に十字架にかけたのであった。
主の道を歩むがよい。その道こそ主を玉座につかしめたのである。貴殿もそこへ誘(いざな)われるであろう──貴殿と共に堂々と、そして愛をもって邁進する者もろともに。
主イエスはその者たちの王なのである。 ♰
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