罰は常に罪そのものが生み出す。
それが罰の本質であり、決して第三者によりて割り当てられるものではない。
法を犯したことによる不可避の結果なのである。
その罰より完全に免れることは絶対に出来ぬ。
もっとも、悔い改めによりてその苦しみが和らぐことは有り、その結果として罪悪への嫌悪感と善への志向を培(つちか)うことにもなる。
これが、誤れる方向より戻し、過ちを償わせ、その結果として魂に新たなる希望を育んで行く、その第一歩と言えよう。
彼を包む霊的雰囲気はすっかり変わり、天使も気持よく近づき、援助の手を差し伸べることも出来る。
悪の影響より完全に隔離される。
やがて悔恨と無念の情が湧いてくる。
性格は優しく温順となり、善の影響に感じ易くなる。
かつての頑(かたくな)で冷酷で反発的態度は消え失せ、魂が進化しはじめる。
過去の罪の償いも終わり、良心の苛責もすっかり和らいでいる。
こうした過程はいつの時代にも同じである。
さきに地上の法の違反者の取り扱いの愚かさを指摘したのは、こうした観点に基づいてのことであった。
万一われらが同じ要領で過ちを犯せる霊を扱ったならば、真の救済は有り得ず、堕落霊の境涯はすっかり身を滅ぼせる霊でひしめき合うことであろう。
が、神はそうはさせぬ。
そうしてわれらはその神の命を受けし者なのである。
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