But no mental act can substitute for the earthly toil that must be done in person.
───霊界側は祈りをどうみておられるのでしょうか。
「祈りとは何かを理解するにはその目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願いごとを口にしたり、決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける人はいませんし、訴える力を持った波動を起こすことも出来ません。
私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意が込もっておらず、それを口にする人みずから、内容には無頓着であるのが普通です。永いあいだそれをロボットのように繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。
しかしいかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなり得ません。
祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難場所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責務を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果的連鎖関係を寸毫(すんごう)も変えることはできません。
人のためにという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りをすべて無視されるがよろしい。その後に残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的行為(スピリチュアル)であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。
その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。
あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取りくんだ時───解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。
そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたの周りにいる者、霊的な目を持って洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです。たとえばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。
さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならその魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです。
このように、一口に祈りといっても、その内容を見分けた上で語る必要があります。
ところで、いわゆる〝主の祈り〟(天にまします我らが父よ、で始まる祈禱文。マタイ6・9~13、ルカ11・2~4-訳者)のことですが、あのような型にはまった祈りは人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。単なる形式的行為は、その起源においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまいます。
儀式の一環としては便利かも知れません。しかし人間にとっては何の益もありません。そもそも神とは法則なのです。自分で解決できる程度の要求で神の御手を煩わすことはありません。それに、ナザレのイエスがそれを口にした(とされる)」時代から二千年近くも過ぎました。
その間に人類も成長し進化し、人生について多くのことを悟っております。イエスは決してあの文句の通りを述べたわけではありませんが、いずれにしても当時のユダヤ人に分かりやすい言葉で述べたことは事実です。
今のあなた方には父なる神が天にましますものでないことくらいはお判りになるでしょう。完璧な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているものだからです。
この宇宙のどこを探しても完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。神は地獄のドン底だけにいるものではないように、天国の一ばん高い所にだけ鎮座ましますものでもありません。
大霊として宇宙全体に普遍的に存在し、宇宙の生命活動の一つひとつとなって顕現しております。〝御国の来まさんことを〟などと祈る必要はありません。地上天国の時代はいつかは来ます。
必ず来るのです。しかしそれがいつ来るかは霊の世界と協力して働いている人たち、一日も早く招来したいと願っている人たちの努力いかんに掛っております。そういう時代が来ることは間違いないのです。
しかしそれを速めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛っているということです。
シルバーバーチ
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