Monday, December 12, 2022

 シアトルの冬 不滅への道───永遠の大道      THE ROAD TO IMMORTALITY         



 不滅への道───永遠の大道
ジェラルディーン・カミンズ著  
E・ギブズ編 梅原伸太郎訳
 Geraldine Cummins / E・B・Gibbes


幻想界(第三界)

  簡潔は理解の要諦であるが、同時に誤謬の元でもある。もし私が永遠の生活ということの興味ある題目について手短に論述しようとするなら、予め小辞典を作っておく必要があるであろう。

 私はまず最初に、あの騒々しい生の波が砕け散って、日ごと夜ごと岸辺を洗う潮のようにわれわれの世界に流し寄せられる新帰幽者の群れのことを明確にしておこう。


誕生と死は同じ意味を含む二つの言葉である。今の私にとってこの言葉はなんと奇妙に響くことか。


というのも、私はもう長らく、この二つの言葉が無用になってしまった世界に住まっているからである。

 大雑把にいって、この新米の死者たちは次の三種類に分類できる。

 霊的な人
 魂的な人
 動物的な人  

 これらの三者は、その各々を更にいくつかの段階に分けて高低を付けることができる。しかしまずこの三者を心に銘記せよ。


なんとなれば、これらのうちのどれに属するかによって、あなたの未来の状態も決まってくるわけであるから。

 以下に、各界の状態ないし環境を分類してみよう。

 第一に、地上生活がある。

 第二に、冥府として知られる端境期(はざかいき)がある。

 第三に、地上生活の思い出と反省に過ごす生活で、「常夏の国」として知られている状態があるが、私としてはこれを「幻想界」と呼びたい。

 第四に、地上生活に似てあくまでも形態を纏う生活であるが、この世界の者は物質宇宙に繋がれた肉体よりずっと精妙な身体の中で生きる。

 第五に、類魂内での精神的知的経験をする時期であり、それと共に類魂内において同じ本霊に養われる様々な魂たちのこれまでのあらゆる段階の経験を知り尽くす。

(ただし、これは感情的な思考作用の上で知るのみである。)私は他のところで類魂についてあなた方に説明しておいた。


 第六に、「時」の内と外における意識存在としての生活がある。この場合、形態のうちで過ごした生涯はすべて時を計る尺度となっている。それは最も微妙な形態における生活であると同時に、その色合いと程度に未だ幾分か物質的なところを残している。最後に

 第七番目の状態、すなわち、遍歴する魂がその本霊のもとに融合するときがやってくる。あなた方が彼岸に入ってこの至福の状態に到達するとき、初めてそこで不滅という言葉の真の意味が理解されるのである。

物質は超越され、投げ捨てられる。無時間の中に入って行き、あらゆる生命の背後にあるイデア、つまりは神と一体になる。もっと具体的に言えば、あなた方があらゆる階層の世界でいつも結びついていた神の霊のある部分と一体になるのである。

記憶の世界

 あなた方のいうこの地球は鏡に映る映像のようなものである。それは、鏡面に投写される映像を通してのみの真実性しかない。


それ故、地球とは何かと言えば、それは個人の持つ知覚や心に描く像の性質をどのように認識するかにかかっている。

土で捏ねられた人間は、あるやり方で真実のものとは異なる奇妙な幻想、つまりは迅速に回転する球体を見るだけなのである。

 人がその重たい肉体を脱ぎ捨てて、もっと精妙な体の中に飛び込んで行くときは、地上生活の持つ基本的な非現実性に気づいていないことが多い。そうした人々は自分の慣れ親しんだ夢を必死で追い求める。


そうしたとき魂が戸を叩くとその戸は開かれ、彼はその主たる特質が地上生活にそっくりな夢の中に入ってゆく。

 といってもその時の夢は記憶から来るもので、彼はその記憶の中に暫く住まう。そこではもし望むならば地上生活を作り上げていた諸活動がすべて引っ張り出されて来る。

しかし決心さえすれば、私が死後の世界の「産着」(うぶぎ)と名付けているこの地上の記憶の渦巻きから逃れることもできるのである。


何故ならここでの魂たちは、赤子のようなもので、自分たちの住まう真の世界に気づいておらず、彼らを取り巻く巨大な生命の渦巻きや驚嘆すべき知的活動、およびその成果についても幼稚で何も知らない状態なのである。

 このような幼児期の魂は、しばしば地上における睡眠と似た状態で地上の人々と交信する。そのとき彼らは自分の記憶の世界について説明しようとする。

それはその時点におけるあなた方の世界と殆ど正確に一致する。ある者はこの状態を「常夏の国」と呼んでいるが、まさに適切な呼び名である。


というのも、肉体の制約から自由になった魂は今までよりも大きな精神力を持つようになり、自分の好みにあった記憶世界を選べるからである。

そこで無意識的にも本能的にも自分の好みの世界に住み、古傷には触れないようにするものである。そのため暫くの間は、この美しく幼い夢の世界に浸っている。

 彼は赤子のように夢見、自分が今や移し植えられた偉大な世界の生活については何も知らず、何も関知しない。

むろん時と共に霊的知覚が目覚め、この記憶の夢幻境から逃れようとするとき、すなわち、自分の知的能力の高まりや、なかんずくより精妙な世界に居住する適応力を自覚するときがやってくる。

そのとき彼は、この幻想状態を離れ、これまで通信してくる霊たちが殆ど触れることのなかった世界に入るのである。


 記憶の世界を越えて旅をして来たわれわれからみれば、こうした帰幽後間もない者たちの言う天国だとかその他の世界だとかは虚構のものである。

なんとなればそれらは現実のものではなく、反映の世界であり、霊的な知識の前には消えゆく一場の夢だからである。

死の関門を越えたとき多くの人はこの状態のお蔭で幸福な気分でいられる。

しかしそれは植物的な幸福であり、自分の住んでいる世界について殆ど何も知らない幼児の無知の満足に等しいものなのである。


冥府

 冥府は、人によってはこれを*幽界と呼ぶこともある一時期のことである。肉体の崩壊が始まるとすぐに、短い間だが、人間を一つにまとめ上げていた諸部分の外見上の解体と一時的な混乱の時期がある。

この冥府の時期と結びついた不愉快なことどもをどうか思い出さないようにしたいものである。

 私の場合は、我が愛する国イタリアで生を終えた。死去の際、私は非常に疲れていた。それ故私にとって冥府は休息の時であり、薄明のまどろみの時でもあった。

長く深い夢から覚めた後では力が湧き上がってくるものであるが、ちょうどそんな風にして、私は冥府にいる間に私に必要な霊力と知力を掻き集めた。

地上からやって来た人々はそれぞれの性質と成り立ちに従って、様々に違った影響をこの二つの人生の最前線、二つの世界の境界にあるこの場所から受け取るのである。

※幽界(astral plane)普通スピリチュアリズムの分類法では、現界、幽界、霊界、神界のそれぞれにあてて、肉体、幽体、霊体、本体(または神体)と言う四分法を(神智学の分類法とは異なる)をとっている。

マイヤーズの分類はそれと異なる独自もので、冥府のことを指している。通常幽界と言えば、冥府と幻想界のことをいう。


幻想

 幽界を通り抜ける間に魂は幽体を脱ぎ捨て、エーテル体の中に入り込む。その中にあって彼は好きなだけ反映の反映たる幻想世界、つまり地上的性質を帯びた夢の世界に住んでる。

平和と満足がこの境界の内に満ちわたっている。しかしこうした平和の中にいることも、やがて退屈になってくる。

何故なら夢の陶酔境においては、何らの現実的進歩も変化もないからである。一寸この界のことを想い描いてみてほしい。

環境はあなた方が地上生活で知っているのとほとんど変わりがない。実際のところ、金銭の煩いは何もなく、日々の糧をうるために稼ぐ必要もない。

エーテル体は太陽の光とは別の光によって養われていて、エネルギーと生命力を賦与されている。苦痛に悩むことも闘争に巻き込まれることもない。

まるで池の中にいるようなもので、波立たない静かな水面にかえって退屈してしまう。そこで闘争や努力や陶酔が欲しくなる。

広い天地が恋しくなる。先に進みたいという欲求が再び湧いてくる。つまるところ、上へなり下へなり進みたいと思うようになるのである。


動物的な人

 もしここに私のいう動物的な人、つまり原始的なタイプに属する人がいたとすると、その人は死後においてそれに相応しい選択をするものである。

下方へ降りたいという望みを抱き、冥府に入るときに脱ぎ捨ててきた肉体と同じくらい濃密な物質界の住人となることを選ぶことになる。

一般的にいえば、地上に戻るということである。しかし、動物的な人はしばしば、地上よりももっと濃密な物質から成る他の天体に生まれたがるものだと私は聞いている。

 人類は地球以外の天体にも存在している。しかしその物質的な体は地上の時間とは異なった時間に支配されており、それ故その天体固有の時のリズムのもとに生命の旅を続けているのである。

そのために彼らの物理的身体は、あなた方のそれより速く、あるいは緩やかに振動しているので、あなた方人間の感覚を通してはその体の諸部分を見ることができないかもしれない。

しかし私は、彼らの生命の条件や身体の構造が人間のそれと似ていることをもって彼らを人類と呼ぶことにしている。



旅の休憩所

 私は既に幻想の国においてはいかなる進歩もないことを述べた。これはある意味では間違いである。

目に見えるような進歩はないという意味である。幻想の国は地上的性質を持った人の見る夢である。というのも、ここへ入って暫くすると、魂は平和となり、闘争心は鎮まる。しかしその闘争心は夢が壊れ始めると再び目覚める。実際、激情が掻き立てられると、彼らは自分で夢を打ち砕く。

何故なら、幻想界においては、動物的な人は困難も闘争もなしに享楽に対する欲を充足することができ、無価値な食欲が完全に満たされる時期がくると、すぐに渇きがやってくるからである。不満が頭をもたげ、新生活を求めるようになる。

路上での休息にすっかり飽きてしまうのである。地上夢の限界に気づいたところから進歩が始まる。

 動物的な人は魂の喜びを感ずることが殆どない。そこで通常、新生活を心から希求するようになる時、彼の望みは、肉体の中に入り、鈍重な身体という形態の中で過ごしたかつての経験をもう一度したいということである。

そこで彼は下降する。といっても上昇するための下降ではあるが。

地上的性質の夢における経験の結果、彼の自我の高い部分が頭をもたげ始めている。次の再生の期間を通して、彼はおそらく魂の人間の次元まで上昇するであろう。

少なくとも動物性を減じて、彼が前生の肉体の中で味わったよりは高い生活をしたいと思うことであろう。

 「常夏の国」は地上的人格の見る夢であるから、それがすなわち天国だとか冥府だとか地獄だとかと考えられてはならないのである。

「常夏の国」は旅中の単なる休憩所にあたるもので、魂はそこで地上生活を夢の中で追懐し、その情的な無意識生活を総括する。しかしあくまでも彼らは、その旅程を先に進めるために夢を見るのである。


感覚の人

 あなた方の現在の環境はある意味で自分の想像したものである。あなた方の心はその中に閉じ込められていて、神経と感覚が伝えるものを持って生の事実であると認識している。

もしあなた方が精神の奥所にある自我や意識に焦点をあて、訓練の結果、感覚が伝える形の世界から離れた思念の中に参入できるようになれば、物質界は消え失せてしまうであろう。そしてもはやそれを知覚することもないであろう。

ひとが霊的に充分発達した段階では、全く形の世界から離れることになるが、それまでにはむろん数知れぬ経験を積まなければならないのである。

 しかしながら、より高次な段階では知力が増大するので形態を制御することができ、またそれに生命を吹き込むことができる。彫刻家が形のない土くれを取ってきてそれに形態を与えるように、あなた方の心が形態に生命と光を引き寄せ、想像のままに環境を形造る。

最初、想像は地上の経験と記憶に制約されるので、見たもののうちから翻案してつくりだす。だが、幻想界の段階ではまだ、思考作用によって意識的に環境を創造することはない。感情的欲望や深層の心が、あなた方の自ら意識せざる間にこれを造りだすのである。

何故なら、ここでのあなた方は、未だ地上的自我に縛られ、精妙にはなったが依然として物質臭の濃いエーテル体のうちに閉じ込められた個別な魂だからである。


平凡な人

 肉体をもって人生の梯子を登りつつある人々は、いわば天と地の間に吊るされているようなものだ。彼らは二つの神秘、すなわち誕生と死とを経験する。

上を見ても恐ろしく、下を見ても恐ろしいから、バランスをとるために梯子の一段ごとに全注意を集中する。

そこで、いかに登るのに巧みな者でも、梯子の上にいながら、一生と言う短い年月の前後にいったい何があるのかをゆっくり考える余裕はない。

 同じことが死の関門を越えてきた無数の魂についても言える。たしかに、彼らにとり、生命の意味するところは深まり、その大きさも増してはいるが、依然として神秘のままであることには変わりはない。

彼らはいわば神と、彼らの見る現われの世界の丁度中間におかれている。

死者たちの多くは自分たちのいる環境や生活状態についての通信を生者に送ってこようと努力するが、それらは大抵彼らの目に映る身のまわりのことどもか、地上から持ってきた狭い個性に縛られた範囲のものである。

 ここにトム・ジョーンズなる一人物がいる。彼は生前、ロンドンに住み、法律事務所の一事務員として生涯を終えた。彼の心と霊は法律の仕事とちっぽけな個性の範囲に縛られていた。

今私がこのトム・ジョーンズの目から見た死後の世界を描こうとすると、陳腐で物質的なあの世の様を書き送ることとなるだろう。彼は精神的にも霊的にも極めて粗雑な状態にある期間しか地上の人に通信できないのである。彼は生れたばかりの目の見えない赤子のようなものであるから、自分の目に見えないものについて書き送っているのと同じである。

魂の目に光が与えられ、目が見えるようになると、私の知る限りでは、もはや地上を顧みないようになるのである。

彼は次第に自分の精神の貧しさを痛感するようになる。死後の世界の驚くべき性格を地上の霊媒たちのことばを借りて表現する力は彼にはない。

彼が黙り込むと、生と死とを隔てる暗幕の彼方からは、かすかな他界の音楽ももはや聞こえてはこない。宇宙の内なる宇宙、生命の内なる生命、そして神の無限の想像力の中で港に憩う舟のように安らうすべてのものの奇(くし)びな響きも、絶えて伝わってはこないのである。

 トム・ジョーンズは多くの人を代表する例である。彼は自分の仕事に関してはあらゆる事柄に精通したよき働き手であるが、彼の生活はそれのみに限定されていて、楽しみも少なく余暇もないところから、人生の究極の目的などということを考える暇はない。

馬具をつけ目隠し皮をかけられた馬が駆り立てられるように、揺り籠から墓場まで引っ張りまわされる。その一生は波乱に富んだものではないが、多少の喜びと悲しみがある。

 それではこの大衆のシンボルのような人トム・ジョーンズやジョーンズ夫人、更にはまたジョーンズ嬢の死後の運命はいったいどうなるのであろうか。

死後の「たくさんの家々」を調べるためには、まず、世間一般の平凡な男女の例をみたほうがよいだろう。

彼らは死後瞬時に変えられて、霊的にも精神的にも高く進歩した賢者になるのであろうか。それともあくまで所謂(いわゆる)進歩の法則に従うのであろうか。

 右の二つの質問にまず答えなくてはならない。トム・ジョーンズが死によって急に賢者や霊的天才に変わるものならば、それはもはやトム・ジョーンズであるとは言えないことになる。

それ故死後に生き続けているとも言えないのである。しかしながら私は、彼が進化の緩やかな道程を歩むであろうことを保証する。

彼は生前の醜さ、狭隘(きょうあい)な人生感、好悪の感情等を持ったまま次の世界に誕生するのである。

つまり全くもとの人間のままで。このような人間が高尚で霊的な生活を営むなどとは土台無理な話である。彼は精神的には未だ産着を付けたままの男である。

それ故地上で赤子が取り扱われるように扱わなければならないのである。世話をやかれ保護されなくてはならず、急な変化や乱暴な取り扱いは禁物である。それに耐えられる霊的精神的成熱が十分ではないからである。

 平凡な大衆の一人である彼が、地上時代の夢の中へと戻って行くのは、あとにも述べるように、やがて彼が未来に向かって前進し、究極のゴール、つまり霊的な想像の世界へと進んでいくときのためである。

そこで彼は無時間の世界に入り、偉大な宇宙絵巻から出て、創造者の精神のなかに入っていく時、その至福の状態は訪れる。

しかしそこへ到達する前にしなければならないことが山ほどもある。今は彼はまだ玩具を欲しがる子供の段階にあり、外観の世界を必要としているのである。

 もっと進歩した魂たち───それを教会では天使と呼ぶようだが、私は「賢者の霊魂」としておく───が広大無辺の宇宙の中に、希薄微妙な形態で存在し、想像もできないほど生き生きとした生命活動を営んでいるのである。

トム・ジョーンズがこのような尋常ならざる猛烈な生命の状態を目にすることなどは全く不可能なことである。

 われわれのように、ほんの少しばかり先に進んだ者は死の門のすぐ傍らに控えていて、彼のような新来の人々を、ある準備期間をおいた上で、地上生活そのまま、彼らの信じるそのままに展開する夢の世界へと案内する。

彼らは自己のうちに地上時代の全生活を思い出すだけの力を秘めている。

慣れ親しんだ環境こそが何にも増して彼らには必要なのだ。彼らの求めるものは、宝玉の街でもなく、また無限についての奇怪な夢でもない。

彼はただ自分のよく知った故郷の景色を切望する。彼らはそれを現実に見るのではなく、自己の欲するものを幻想として見るのである。

 「賢者の霊魂」と私が呼ぶ方々は、自分たちの記憶や地球の持つ大超越意識の記憶の中から、地上からやってきたばかりの人のために、彼らはおなじみの家や、街路や、田園の風景などを引き出して与えることができる。

賢者の霊魂が思念を送ると、トム・ジョーンズの目には一つの映像が生み出される。

そのお蔭で彼は、死後の最初の時期に空白や虚無の感じを味わわなくてもすむのである。彼が薄明の中で眠り、さなぎの中で憩う間にエーテル体が形造られる。やがてそれは蝶となって偉大な霊智の魂たちが思念集中によって生み出す世界のうちに出現する。

このような想念力を持った方々を私は賢者の霊魂と呼び、創り出されたものを「創造的生命」と呼ぶのであるが、それ以外に適当な表現がみあたらないのである。

 一つの情景が、未発達な魂の記憶から引き出される。それはトム・ジョーンズやその仲間たちの知っていた田園風景と似ていなくもないが、それよりずっと美しい。この田園風景は現実のものではなく、夢である。しかしトム・ジョーンズにとってそれは彼の事務所の机や、毎朝彼を起こしてくれた目覚まし時計と同じように、現実的に見える。

それは疑いもなく彼の知っているあのロンドンという灰色の小さな世界よりも魅惑的ではあるが、しかし本質において英国を形づくるあの懐かしい要素から成り立っているのである。

 夢の中では、ずっと以前に亡くなった友人や、何人かの自国の人々の姿を見る。それらの人々は生前彼が本当に愛した人達である。

 トム・ジョーンズが死後の環境にいる様を想い描いてみよう。彼はそれを生前と同じ物質界だと思っているから、彼の生来の内気さを刺激しないように配慮しなくてはならぬ。彼は素朴な魂で、清い尊敬すべき一生を送り、欲望は適度に自制した。

彼は七十年の生涯を地上のある環境の中で過ごしたのであるが、肉体を去った後も、生前に慣れ親しんだ環境の中におかれるのは何故なのだろうか。なぜ地上生活に酷似した生活の中に入って行かなくてはならないのであろうか。

 実際をいえば、両者は同じものではない。それはトム・ジョーンズにとっての緩やかな変化期なのである。彼の地上生活における一八五〇年から一九二〇年までの生活は、地に蒔かれた一粒の種の発芽期にあたるものなのである。

その新しい緑の新芽が、光を求めて上に伸び、やがて時が満ちたとき次の生活へと移行する。彼を含めた幾つかの小さな植物の栽培を任せられた庭師は、それを適切な促成栽培の温室へと移し植えるのである。前にも述べたように、これまで慣れ親しんだのとよく似た世界に案内するわけである。

 この旅人たちはやがて、同じ性質を持った者同士が一つの環境に親しく集まっていることに気づく。しかしひとりひとりの実際的な要求は殆どの場合おなじでないことも知る。



彼らのエーテル体は食物を必要としないので、その生活の大部分を機械的な仕事に費やさなければならないということもない。彼らはあまねく充満する目には見えない実体から自分の幸福に必要なものを引き出す。

地上生活においては人間は物理的肉体の奴隷であり、それ故にまた暗黒の勢力の奴隷でもある。死後の生活においては、ある条件さえ満たされれば、人々は光明の奉仕者となるといってもよかろう。

食物ないしそれにみあう金銭はもはや彼らの主要な目的とはならず、ついに彼らは光明に奉仕する時間を手にするわけである。すなわち、彼は余暇のうちに反省し、霊妙至福の精神生活を送れる地位をえるのである。

 今や身体の崩壊と共に、かまびすしくも激越なあの肉体の欲求は消え去る。かつては不可欠のものであった日に三度四度の食事をとる必要はもはやない。

飢えという地上生活最大の要件は消滅したのである。しかしまだ多大の考慮を払うべき他の要因がある。飢えの後にはセックスの問題がある。この要求は身体の崩壊と共になくなるのであろうか。

 私の答は、大部分の場合には「否」である。それは消えずに変化する。ここにおいてわれわれはこの推移期間における大問題に直面するのである。

 まず性欲というものを定義する必要があるだろう。そのうちのいくつかは歪んだものになっている。ここではそのうちの歪んだ部分を取り上げることにするが、そうすることによって人が罪と呼んでいるものにも触れなくてはならぬ。残酷さは他の性的歪み以上に人間の性格に食い入った感情である。

それは人の魂に刻印し、他のどのような悪徳よりも深く傷つける。愛情への渇仰を他人を傷つけるという激しい望みに変えてしまった残酷な人間は、当然のことながら現世ではその欲望を充分に果たすことができない。

彼は地上生活のすべてをそこに傾注する結果それが彼の魂の一部となってしまったのである。 

 しかし新しい生活の中では、ある期間、生きているものに苦痛を与える力のない時期がある。このことは次第に精神力を増大しつつある彼にとっては大変な悲嘆の種である。彼は自己の欲望を貪る相手を求め続けるが、誰も見付からない。

この求めて満たされざる欠乏状態は殆ど精神的な性格のものであると言ってよかろう。この馬鹿げた地上の欲求が満たされないでいる魂にとって、光や美の世界などというものが何の役に立つであろうか。

彼にとってはこの精神的地獄から逃れるすべはただ一つあるだけである。そこから逃れる道を自ら発見し、その冷酷な魂に現実の変化が訪れるまでは、彼は彼を取り巻く暗黒の中に留まり続けなくてはならないであろう。

 キリストはすべての罪びとたちのいる暗黒の世界について言及した。キリストの言ったのは、われわれが知っている感覚的な暗闇のことではない。彼が言ったのは魂の暗闇、精神の苦悩、満たされることのない歪んだ欲望のことである。

 ついにこの罪びとが自分の惨めさや悪徳と立ち向かう時がやってくる。その時偉大な変化が起こるのである。聖ヨハネが「生命の書」と呼んだ大記憶の一部に触れることになる。

それによって彼は、これまで彼の行為がその犠牲者たちに与えてきたありとあらゆる苦痛の感情に気づかされる。

彼は地球のまわりに付き従っている大超越意識記憶のうちの一部分である彼の時代の記憶の中に入って行く。彼が他人に与えたいかなる苦痛も、煩悩も消え去ってはいない。

その全ては記憶されていて、かつての自分や交渉のあった人たちに関する記憶の網に触れると、すぐにそれと分かるようになっているのである。

 残酷者の死後における物語は一冊の本にもなりえようが、今の私にそれを語ることは許されていない。私はただ、彼の魂と心は、その犠牲者たちの苦悩との一体化を通して浄められてゆくものであろう付け加えうるのみである。

 私は、キリストが罪びとは外なる暗闇の中に投げ込まれて泣き叫び、歯を食いしばって耐えるほどの苦しみを受けると言ったことの意味を説明しようとして、トム・ジョーンズの問題から離れてしまった。罪人が飛び込むのは心の闇の中のことである。

その歪んだ性格が苦悩を自分自身に呼び引き寄せるのである。彼は自由意志と選択する力とを持っていたのであり、かりそめのものといいながら、死後の心の闇を選び取ったのである。

 さてもう少し説明を付け加えるために、地上生活において淫奔な生活を送った女の例をあげよう。

ヨハネに現れた天使のことばに、「汚れた者はさらに汚れたことを行なう」というのがある。

よからぬ性生活を送ってこちらの世界へ来たものは、心の王国に入ると同時に、心の知覚力が研ぎ澄まされ、精神の力も増すので、地上時代に支配的であった欲望が強められる。

彼は意志の力で、増大した性情を満足させてくれる人間を自分に呼び寄せる。つまり同類の者たちを引き寄せるのである。暫しの間彼らは揃って性の快楽境に住まう。

 しかしこれらはあくまでも、自己の精神の創出になるものであり、記憶と想像力の産物であることを銘記せよ。

彼らは、細やかな感情で友愛を築きあげるという高尚な生活───それこそすべての性愛の精華であるが───を求めず、粗野な感覚の満足を追い続ける。

 彼らは容易にそれを手にして、やがて恐るべき渇きにおそわれる。過度に又たやすく得られたものを嫌悪する時が来る。

その時になって、彼らが快楽を共にした人から逃れることがいかに困難かを痛感するのである。

 殺人者もまさしくこの種のともがらである。突然の邪悪な欲望や残酷へと駆り立てる欲情が彼に多くの殺人を犯させたのである。

 幻想の国の最終状態は、浄化の状態と名付けられる。いうまでもなく、渇きの惨めさに気づき、欲望の満足に終止符を打つことはこの上ない苦痛である。

欲望の達せられないことよりも更に甚だしい不幸とは、欲望の達成されてしまうことである。

ひとはいつも偽りの夢、惑わしの鬼火を求め続けるものであるから、一時の望みが満たされても、究極の満足は得られないのである。

 無論何事にも例外はある。冥府や幻想の国においても個々人は互いに異なった経験を持つものである。ある場合には欲望を満足させる力を与えられないこともある。

実のところそうすることは出来るのだが自分自身の自我がそうした満足を遂げることを許さないのである。

例えば、幻想の国では、冷たく利己的な人は自我を外へ投げ出して欲望遂行のうちに自己表現する力もないために、暗黒の世界に住まうことになろう。

 彼は死の衝撃によって今まで以上に内側に閉じ込められる。自分はすべてを失ったと思う。そして自分自身の思考する対象を実体として感ずる以外はすべてのものとの接触を失う。

鈍い喪失の感覚と他人に対する一切の顧慮なしに自己満足を求める欲望のうちに住まう限り、暗黒の夢魔は続き広がる。

極度に利己的なひとにとって幻想の国は夜だけの世界であろう。

 殆どすべての魂は暫くのあいだ幻想の国に住む。人間の大部分は死ぬときは物こそが現実の全てであるという観念に支配されており、また物に関する個々の経験のみが唯一の現実であると思い込んでいる。

彼らは未だ世界観をすっかりと変えてしまう準備ができていない。

そのため、自分の慣れ親しんだ環境を理想化した状態を求め続け、幻想の国と私が名付ける夢の中へと入って行く。それ故、彼らの生きようとする意志は過去に生きんとする意志なのである。

 例えば平凡な市民の代表例としてのトム・ジョーンズは、ブリングトンにある光まばゆいレンガ造りの別荘を持ちたいと願う。そこで彼はこの二十世紀極めつけの罪物を手に入れて得々とする。

当然の結果として彼の知人たちで似たような性質の心を持った人々のもとへと引き寄せられることになる。

彼は地上生活では極上の葉巻に憧れたものであった。そこで反吐が出るほどこれをくゆらすことになる。ゴルフをしたいと思えばゴルフをする。こうしていつも夢見て過ごす。

というよりも、地上での最大の欲望によって生み出された幻想のうちに生きるのである。

 暫くすると、こうした快楽の生活は彼を楽しませもしなければ満足も与えなくなる。そこで彼は考えることを始め、未知の新生活に憧れをもつ。

遂に進歩に向けて準備が整い、重く垂れこめた夢の世界は消えてゆく。
 

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