マイヤースの通信
不滅への道───永遠の大道
THE ROAD TO IMMORTALITY
ジェラルディーン・カミンズ著 E・ギブズ編 梅原伸太郎訳
Geraldine Cummins / E・B・Gibbes
類魂は一にして多である。
一つに霊が全体に生命を吹き込んで多数の魂を一つにまとめている。
前にも述べたと思うが、脳髄に中枢があるように、心霊的生命にあっては多くの魂が一つの霊によって結びつけられ、その霊によって養われているのである。
地上生活にあった時も私は類魂の一分枝に属していた。その場合本霊は目に見えない根のようなものである。
地上生活にあった時も私は類魂の一分枝に属していた。その場合本霊は目に見えない根のようなものである。
霊的進化というものが分かるようになると、類魂についても学ぶ必要がでてくる。たとえば類魂の説が分かると、多くの難問が再生の原理によって解決する。
馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないが、われわれが前生で犯した罪の償いのために地上に再生するというのは、ある意味では本当なのである。
馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないが、われわれが前生で犯した罪の償いのために地上に再生するというのは、ある意味では本当なのである。
前生は自分の一生であってまた自分の一生ではない。
いいかえれば、私と同じ類魂に属するある魂が私がこの世に生を受ける以前に前生生活を送り、私の地上生活のための枠組みを造ったのである。
この不可視の世界には無限に多様な生活状態がある。私が絶対に誤謬を犯さないというつもりはないが、以下に述べることは一つの公理であると考えていただきたい。
魂的な次元の人の多くは再び地上に再生しようとは思わないものである。しかし彼の本霊は何度も地上に姿を現わす。
いいかえれば、私と同じ類魂に属するある魂が私がこの世に生を受ける以前に前生生活を送り、私の地上生活のための枠組みを造ったのである。
この不可視の世界には無限に多様な生活状態がある。私が絶対に誤謬を犯さないというつもりはないが、以下に述べることは一つの公理であると考えていただきたい。
魂的な次元の人の多くは再び地上に再生しようとは思わないものである。しかし彼の本霊は何度も地上に姿を現わす。
本霊は、霊的進化の途上にあって互いに作用しあう類魂を束ねているのである。私が霊的先祖というときは、たんなる肉体上の先祖のことをいうのではなく、一つの霊に束ねられている多くの魂の先祖のことをいっているのである。
その本霊の中には二十とか百とか、千とかの魂が含まれている。
その数はいろいろであり、また人それぞれによって違いがある。
その数はいろいろであり、また人それぞれによって違いがある。
しかし、仏教徒のいう前生からのカルマというのは、実は私のものではなく、私の遥か以前に地上に出て私の人生の型をつくって残したある魂のものである。
私もまたその生涯を通して同じ類魂の他の魂のためにある型の模様を織りなすのである。われわれは種々異なる界にいる仲間の魂たちの影響を受けはするが、しかし互いに独立した存在なのである。
仏教徒が輪廻転生について語るとき、それは半分の真実を語っているのである。そして半分の真実とはしばしば、全面的誤謬よりも不正確であることが多いものだ。私という存在は二度とこの世には再生しないのである。
私もまたその生涯を通して同じ類魂の他の魂のためにある型の模様を織りなすのである。われわれは種々異なる界にいる仲間の魂たちの影響を受けはするが、しかし互いに独立した存在なのである。
仏教徒が輪廻転生について語るとき、それは半分の真実を語っているのである。そして半分の真実とはしばしば、全面的誤謬よりも不正確であることが多いものだ。私という存在は二度とこの世には再生しないのである。
がしかし、わが類魂の中に加わろうとする新しい魂が、私が織り込んでおいた模様ないしカルマの中に暫しの間入り込む。私はここで「カルマ」という語を甚だ漠然と用いている。
というのも新しい魂が受け継ぐのはカルマ以上のものであり、また以下のものである。つまり、私とは一個の王国のようなもので、更に言えば王国の一構成員のようなものなのである.
魂的次元の人にとってはただ一回の地上生活では不足だという人がいるかもしれない。
というのも新しい魂が受け継ぐのはカルマ以上のものであり、また以下のものである。つまり、私とは一個の王国のようなもので、更に言えば王国の一構成員のようなものなのである.
魂的次元の人にとってはただ一回の地上生活では不足だという人がいるかもしれない。
しかし魂がこちらで進歩すると、自分に先立つ類魂の魂が地上で過ごした生活の記憶や経験の中に入っていくのである。
私はここで述べた理論が普遍法則として通用するものかどうかを確言することはしない。しかし疑いもなく、これは私の学び経験しえた範囲内での真実である。
こうした思弁───とあなた方は言うであろう───を天才の問題にあてはめてみると興味深い。地上でわれわれに先立つ一生を過ごした魂は当然のことながら精神的、道徳的影響をわれわれに刻印する。
今ここに或る霊魂の特性が一つの類魂団の中で開発され続けているとして、その特性が仮に音楽であるとすると、あなた方は地上におけるその類魂の代表者として音楽の天才を見出すことになるのである。
その魂は過去の類魂のあらゆる生涯の傾向をみごとに収穫し、天才の特質たる驚嘆すべき無意識的知識を所有することになるであろう。
死後のこちらの世界で、われわれは進歩の度合いに応じて類魂というものに気づかされていく。結局われわれはその中に入っていき、わが仲間たちの経験を自分のものとする。
私はここで述べた理論が普遍法則として通用するものかどうかを確言することはしない。しかし疑いもなく、これは私の学び経験しえた範囲内での真実である。
こうした思弁───とあなた方は言うであろう───を天才の問題にあてはめてみると興味深い。地上でわれわれに先立つ一生を過ごした魂は当然のことながら精神的、道徳的影響をわれわれに刻印する。
今ここに或る霊魂の特性が一つの類魂団の中で開発され続けているとして、その特性が仮に音楽であるとすると、あなた方は地上におけるその類魂の代表者として音楽の天才を見出すことになるのである。
その魂は過去の類魂のあらゆる生涯の傾向をみごとに収穫し、天才の特質たる驚嘆すべき無意識的知識を所有することになるであろう。
死後のこちらの世界で、われわれは進歩の度合いに応じて類魂というものに気づかされていく。結局われわれはその中に入っていき、わが仲間たちの経験を自分のものとする。
それ故魂としてのわれわれの生活は───自分の個人的自我は別として───二重世活なのだということを理解する必要がある。
私は同時に二つの生を生きる。つまり、一つは形態の中での生活、また他の一つはわが属する共同体の意識のなかでの心的な生活である。
地上の人々は、ここに私の述べたことを理解しようとしないかもしれない。
私は同時に二つの生を生きる。つまり、一つは形態の中での生活、また他の一つはわが属する共同体の意識のなかでの心的な生活である。
地上の人々は、ここに私の述べたことを理解しようとしないかもしれない。
彼らは死後の世界における不壊(ふえ)の固体性とか、神の生命の中への霊的融合とかに憧れを持っているのである。あなた方は私の類魂分析によって、われわれは個人であるとともに全体の一員であることを理解されたであろう。
そして第四界から特に第五界まで上ると、仲間たちが一つのものの中で結ばれていることの素晴らしさを知り、それが如何に全体の生活を深め、高め、かつ地上にあっては不可避のものたる冷淡な利己心を破壊していくかということに気がつくことであろう。
そして第四界から特に第五界まで上ると、仲間たちが一つのものの中で結ばれていることの素晴らしさを知り、それが如何に全体の生活を深め、高め、かつ地上にあっては不可避のものたる冷淡な利己心を破壊していくかということに気がつくことであろう。
地上においては御承知のように、一つの生物はその物質的生命の維持のために他の生命を絶えず破壊し続けなければならないのである。
第四界においては、魂は類魂の生活に気づくようになり、それによって偉大な進歩を遂げる。彼は経験というものの性格、つまり心の可能性を一気に知るようになるのだが、第四界においては魂的次元の人であれば、未だまだ過ちに陥りやすい。
というのも、類魂について知り、他の類魂の仲間たちの感情的、知的経験を共有してゆく途中で、ある鋳型にはまった類魂の一局面に捉えられてしまうと、その魂は永くその鋳型から脱け出られなくなるからである。
そうした例としてある特殊な世界にはまり込む場合をあげたい。例えば狂信的な仏教徒やキリスト教徒たちはこうした地上時代の信念の溝の中に落ち込んでいる。
それというのも、そのグループの他の類魂たちも同じような観念の鎖に縛られてしまっているからである。
第四界においては、魂は類魂の生活に気づくようになり、それによって偉大な進歩を遂げる。彼は経験というものの性格、つまり心の可能性を一気に知るようになるのだが、第四界においては魂的次元の人であれば、未だまだ過ちに陥りやすい。
というのも、類魂について知り、他の類魂の仲間たちの感情的、知的経験を共有してゆく途中で、ある鋳型にはまった類魂の一局面に捉えられてしまうと、その魂は永くその鋳型から脱け出られなくなるからである。
そうした例としてある特殊な世界にはまり込む場合をあげたい。例えば狂信的な仏教徒やキリスト教徒たちはこうした地上時代の信念の溝の中に落ち込んでいる。
それというのも、そのグループの他の類魂たちも同じような観念の鎖に縛られてしまっているからである。
そのためにその魂たちは進歩せず、キリスト教徒や仏教徒をつくりあげている一思想ないし一記憶の世界に留まり続ける。まるでタコの足にしっかり捕えられてしまったようである。
タコとは即ち、死後の世界について彼らの持つ地上的観念、つまり地上でつくりあげた世界観にほかならないのである。
こうした状態が進歩を妨げることはお分かりであろう。それは他の比喩をもって言えば、知的なさなぎの中に住んで過去の地上的観念に生きることになるからである。
タコとは即ち、死後の世界について彼らの持つ地上的観念、つまり地上でつくりあげた世界観にほかならないのである。
こうした状態が進歩を妨げることはお分かりであろう。それは他の比喩をもって言えば、知的なさなぎの中に住んで過去の地上的観念に生きることになるからである。
旅する魂がそれらの観念を自分の意志で検討できるようになることは必要なことであるが、それに捕らわれたり閉じ込められたりしないことが大切である。
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