Thursday, December 8, 2022
シアトルの冬 心霊治療 psychic treatment
「心霊治療によって奇蹟的に病気が治る───それはそれなりにすばらしいことですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終ったことになります」
シルバー・バーチの心霊治療観を煎じつめるとこの言葉に尽きるようです。つまり心霊治療も魂の開発のための一つの手段であって、単なる病気治療だけに止まるものではないというのです。
数ある驚異的心霊現象の中でもとくに心霊治療、つまり奇蹟的治癒の現象は、歴史の中に多くの例を見ることができます。
聖書に出てくるイエスの話などは、聖書という世界的超ベストセラーのおかげで余りにも有名ですが、実際には洋の東西を問わず、世界のどこでも起き、今なお毎日のように起きていると言っても言い過ぎではありません。
しかし、一人の患者を見事に治療した心霊治療家が次の患者も同じように奇蹟的に治せるかというと、かならずしもそうではありません。そこに〝なぜか〟という疑問が生じます。
そして、その因果関係を辿ってみると、シルバー・バーチが一ばん強く説いている因果律の問題に逢着します。因果律は当然、これ又シルバー・バーチが強調する〝苦難の意義〟と密接につながっており、それは結局人生そのものということになります。
シルバー・バーチが心霊治療を他の現象以上に重要視するのは、それが人生そのものの意義と共通した要素をもっているからにほかなりません。
ではシルバー・バーチに語ってもらいましょう。
「人間には、ただ単に病気を治すだけでなく魂の琴線に触れて霊的真理に目覚めさせる偉大な霊力が宿されております。私はこれからこの霊力について語り、あなた方にぜひ理解していただきたいと思います。というのは、心霊治療もそこに本来の存在理由があるからです。
心霊治療によって奇蹟的に病気が治る───それはそれなりにすばらしいことですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終ったことになります。
魂の琴線に触れた時こそ本当に成功したといえます。なぜなら、その体験によって魂の奥にある神の火花が鼓舞され、輝きと威力を増すことになるからです。
心霊治療の背後にはかならずそうした目的があるのです。治療家はそうした神の計画の一部を担ってこの世に生まれて来ているのです。
すなわち、この世に在りながら自分で自分が何者であるかを知らず、何のために生まれてきたかを悟れず、従って死ぬまでに何を為すべきかが分らぬまま右往左往する神の子等に、霊的真理と永遠の実在を悟らせるためにその治癒力を与えられて生まれて来たのです。これほど大切な仕事はありません。
その治癒力でたった一人でも魂を目覚めさせることが出来れば、それだけでも、この世に生まれて来たことが無駄でなかったことになります。たった一人でもいいのです。それだけでこの世における存在価値があったと言えるのです。
最近、この道での仕事が盛んになり、霊力に対する一般の関心がますます大きくなって来つつあることを私は非常にうれしく思っております。地上の同志が困難に直面すれば、われわれは出来るかぎりの援助を惜しみません。病気治療には一層多くのエネルギーをつぎ込みます。
しかし忘れてならないのは、あらゆる出来ごとにはかならずそれ相当の原因があるということです。霊界からいかなる援助を差しのべても、この原因と結果の相関関係にまで干渉することだけは絶対にできないのです。援助はします。がすでに発生したある原因から生じる結果を消してあげることは出来ません。
私たちには〝奇蹟〟を起こす力はないのです。自然法則の連続性を人為的に変えることは絶対にできないのです。神の法則は一瞬の断絶もなく働いております。
瞬時たりとも法則が休止することはありません。宇宙間何一つとして神の法則の働きなしに発生することはありえないのです。もしも、ありとあらゆる手段を尽くしても治らなかった病いが心霊治療によって治ったとすれば、それは宇宙に霊的エネルギーが存在することの生きた証拠と受け取るべきです。
すなわち、それまで試したいかなるエネルギーにも勝る強力なエネルギーが存在することを如実に思い知らされる絶好のチャンスなのです。
数ある心霊現象にはそれぞれに大切な意義がもたらされています。が、それが何であれ、霊的な真理へ導くためのオモチャにすぎません。いつまでもオモチャで遊んでいてはおかしいでしょう。いつかは大人へ成長しなくてはいけないでしょう。大人になれば、もはや子供だましのオモチャはいらなくなるはずです。
心霊治療(ヒーリング)にもいろいろあります。一ばん基本的なものは磁気治療(マグネティックヒーリング)で、治療家の身体から出る豊富な磁気の一部を患者に分けてあげるもので、一種の物理療法と考えてもよろしい。これには霊界の治療家は関与しません。
次の段階はその磁気的治療法とこのあとに述べる純粋の心霊治療の中間に位置するサイキックヒーリングというもので、遠隔治療は主にこの療法で行われております。
そして最後に今のべた純粋のスピリチュアルヒーリングで、治療家が精神統一によって波長を高め、同時に患者がそれを受ける態勢が整った時に一瞬のうちに行われます。人間の側から見れば奇蹟的に思えるかも知れませんが、因果律の働きによって、そういう現象が起きる機が熟していたのです。
人間は一人の例外もなく神の分霊を宿しております。要はその神的エネルギーを如何にして発揮するかです。
肉体にも自然治癒力というのがあり、その治癒力が働きやすい条件さえ揃えば自然に治るように、霊的存在であるあなたがたには霊的治癒力も具わっており、その法則を理解しそれに従順に生きておれば、病気は自然に治るはずのものなのです。
健康とは肉体(ボディ)と精神(マインド)と霊(スピリット)が三位一体となった時の状態です。三者が調和した状態が健康なのです。そのうちの一つでも調和を乱せば、そこに病いという結果が生じます。調和を保つにはその三者がそれぞれの機能を法則に忠実に果たすことです。
霊はすばらしい威力を秘めております。その存在を無視し、あるいはその働きを妨げれば、天罰はてきめんに表われます。
それと同じエネルギーの見本がいたるところに存在します。そもそもこの物的大宇宙を創造したエネルギーがそうですし、大海原を支えるエネルギー、万有引力のエネルギー、惑星を動かすエネルギー、そのほか地上の人間、動物、植物、昆虫、等々、ありとあらゆる生命を生育せしめるエネルギーがそれと同じものなのです。
要するに治癒エネルギーも生命力の働きの一部なのです。身体に生命を与えているものは霊です。物質そのものには生命はないのです。霊が宿っているからこそ意識があるのであって、身体そのものには意識はないのです。
あなた方を今そうして生かしめている生命原理と同じものが、悩める者、病める者、苦しむ者を救うのです。
しかし痛みや苦しみを取り除いてあげることが心霊治療の目的ではありません。あくまで手段なのです。つまり眠れる魂を目覚めさせ、真の自分を悟らせるための手段にすぎないのです。
病気で苦しみ続けた人が心霊治療によって霊的真理に目覚め地上生活の意義を悟れば、その治療家は遠大な地上救済計画における自分の責務を見事に果たしたことになり、そうあってこそ私たちスピリットが援助した甲斐があったことになるのです。
身体の病気が治癒することよりも、その治癒がキッカケとなって真の自我に目覚めることの方が、はるかに大切なのです。それが真の目的なのです。そこまで行かない心霊治療は、たとえ病気は治せても、成功したとは言えません。
こうした心霊治療の真の意義が理解されるには長い長い年月を要します。心霊治療に限らず、霊界の力を地上に根づかせるには、大勢の人間を一気に動かそうとしてはダメです。一人の人間、一人の子供という具合に、一度に一人ずつ根気よく目覚めさせ、それを霊的橋頭堡として、しっかり固めていくほかはありません。
なぜなら、真理に目覚めるということは、そのキッカケが心霊治療であれ、交霊会であれ、あるいは物理実験会であれ、本人の霊的成長度がその真理を受け入れる段階まで進化していることが大前提だからです。
魂にその準備ができていない時は心霊治療も効を奏しません。いかにすぐれた心霊治療でも治せない病気があるのはそのためです。従って失敗したからといって心霊治療を批判するのは的はずれなのです。
患者の魂がまだまだ苦しみによる浄化を十分受けていないということです。すべて自然法則が支配しています。トリックなどありません。いかなる心霊治療もその法則の働きを勝手に変えたり曲げたりする力はありません。
もちろん苦難が人生のすべてではありません。ホンの一部にすぎません。が苦難のない人生もまた考えられません。それが進化の絶対条件だからです。
地上は完成された世界ではありません。あなた方の身体も完璧ではありません。が完璧になる可能性を宿しております。人生の目的はその可能性を引き出して一歩一歩と魂の親である神に向かって進歩していくことです。
その進化の大機構の中で程度と質を異にする無数のエネルギーが働いており、複雑にからみ合っております、決して一本調子の単純なものではありません。
が生命は常に動いております。渦巻状を画きながら刻一刻と進化しております。その大機構の働きのホンの一端でも知るためには、人生の真の目的を悟らなくてはなりません。
苦しみには苦しみの意味があり、悲しみには悲しみの意味があります。暗闇があるからこそ光の存在があるのと同じです。その苦しみや悲しみを体験することによって真の自我が目覚めるのです。その時こそ神の意図された素晴らしい霊的冒険の始まりでもあるのです。
魂の奥に宿れる叡智と美と尊厳と崇高さと無限の宝を引き出すための果てしない旅への出発なのです。
地上生活はその人生の旅の一つの宿場としての意味があるのです。ところが現実はどうでしょうか。唯物主義がはびこり、利己主義が支配し、どん欲がわがもの顔に横行し、他人への思いやりや協調心や向上心は見当りません。
医学の世界もご多分にもれません。人間が自分たちの健康のために他の生命を犠牲にするということは、神の計画の中に組み込まれていません。
すべての病気にはそれなりの自然な治療法がちゃんと用意されております。それを求めようとせずに、いたずらに動物実験によって治療法を探っても、決して健康も幸福も見出せません。
真の健康とは精神と肉体と霊とが三位一体となって調和よく働いている状態のことです。それを、かよわい動物を苦しめたり、その体内から或る種の物質を抽出することによって獲得しようとするのは間違いです。神はそのような計画はされておりません。
神は、人間が宇宙の自然法則と調和して生きていくことによって健康が保たれるよう意図されているのです。もしも人間が本当に自然に生きることが出来れば、みんな老衰による死を遂げ、病気で死ぬようなことはありません。
肉体に何らかの異常が生じるということは、まだ精神も霊も本来の姿になっていないということです。もし霊が健全で精神も健全であれば、肉体も健全であるはずです。精神と霊に生じたことがみな肉体に反映するのです。
それを医学では心身相関医学などと呼ぶのだそうですが、名称などどうでもよろしい。大切なのは永遠の真理です。魂が健全であれば、身体も健全であり、魂が病めば身体も病みます。心霊治療は肉体そのものでなく病める魂を癒すことが最大の目的なのです。』
以上が心霊治療に関するシルバー・バーチの基本的概念です。心霊治療の価値と必要性をこれほど強調するスピリットを私は他に知らないのですが、その考えの厳しさもまた格別です。
しかし基本概念としてはそれが真実であり理想であろうと考えます。その理想に一歩でも近づこうとするところに治療家としての努力の余地があると言えるのではないでしょうか。
あとで世界的心霊治療家のハリー・エドワーズ氏及びその助手たちとの一問一答を紹介しますが、その前に、心霊治療に関してかならず出される疑問、すなわち日本の治療家はまず第一に除霊とか供養といったことから始めるのに西洋では皆無といっていいほどそれが聞かれないのはどういうことか、という点について私見を述べてみたいと思います。
それには私の師である間部詮敦氏の治療法を紹介するのが一ばん都合がよいようです。間部氏は本来は心霊治療家で、私は側近の一人としてその治療の様子をつぶさに観察してまいりましたが、やはり除霊と供養を重点に置いておりました。
具体的に説明すると、まず患者をうつぶせに寝かせました。そしてその背に手を置くと、その手が身体の悪いところに自然に動いていきます。その要領で三十分ほど施療したあと、患者を正座させ、背後から霊視します。すると病気にまつわる霊、いわゆる因縁霊が出て来ます。
これは多分間部氏の背後霊が連れてくるのだろうと思われますが、霊視が終ると、患者にその霊の容姿を説明して、その名前または戒名をたずねます。
それを二枚の短冊に書き、うち一枚を患者に手渡して、仏壇に供えて三日間お水を上げ、その水を清浄なところに捨てるようにと言います。霊が古くて名前が分からない時は、およその年齢の見当を付けて、たとえば 「五〇代の霊」 という風に書きます。
主として関西地方と中国地方を回られたので、自宅(三重県)に戻られた時は短冊もかなりの枚数になっていたと思われますが、それを神前に供えて祈念し、霊を一人一人呼び出して(多分背後霊が連れて来て)、死後の世界の存在を教え、向上進化の必要性を説き、指導霊の言うことに従うよう諭します。
もちろん背後霊の働きかけも盛んに行われたことであろうことが推察されます。
さて、これで万事うまく行ったかというと、必ずしもそうではありません。たとえば私の家族の場合はよく父方のおじいさんが出ました。そのたびに話を聞いて、その時は一応得心するのですが、またぞろ出て来ていろいろと災いをもたらしました。
別に何の遺恨があってのことでもないのですが、晩年に精神に異常を来たし、不幸な最期を遂げた人でしたから、その人がうろうろするだけで非常に良くない影響を与えたわけです。
バーバネル氏の This is Spiritualism (拙訳 『これが心霊の世界だ』 潮文社刊) に霊の肖像画を専門にしているフランク・リーアという人の話が詳しく出ていますが、その中でバーバネル氏は
「死者を描く時はなぜかその人間の死際の、いわば地上最後の雰囲気が再現され、リーア氏も否応なしにその中に巻き込まれる。その意味でリーア氏自身、自分が画いた肖像画の枚数分だけ死を体験したことになる」 と述べ、さらに別のところでは
「この種の仕事で困ることは、そのスピリットの死の床の痛みや苦しみといった、地上生活最後の状態を霊能者自身も体験させられるということである。
なぜかは十分に解明されていないが、多分ある磁力の作用によると思われるが、スピリットが初めて地上に戻って来た時は地上を去った時の最後の状態が再現されるのである」 と述べています。
間部氏もそのたびに 「またおじいさんですなあ」 と言って首をかしげておられましたが、考えてみると酒やタバコ (それにもう一つありそうですが・・・) がなかなか止められないのと同じで、どうしても霊的自我が目覚めず、地上への妄執が断ち切れなかったのでしょう。
これに類することで興味ぶかいことがいろいろあって、私には勉強になりました。
さて問題は除霊すれば因縁が切れるかということですが、今の例でもわかる通り、霊というのは波長の原理でひっついたり離れたりするもので、人間の方はむろんのこと、霊の方でも自分が人間に憑依していることに気づいていないことすらあります。
因縁という用語はもとは因縁果という言葉から来たもので、因がもろもろの縁を経て果を生むという意味だそうです(高神覚昇『般若心経講義』)。私は心霊的にもその通りだと考えます。
つまりシルバー・バーチのいう因果律は絶対的に本人自身のもので、それを他人が背負ったり断ち切ったりすることは出来ません。それはシルバー・バーチが繰り返し強調しているところですが、その因と果の間にいろんな縁が入り込んで複雑にしていきます。
病気の場合の因縁がそのよい例で、病気になるのは本人に原因があるわけですが、その病気が縁となって波長の合った霊が憑依し、痛みや苦しみを一段と強くしているのだと私は解釈しています。
従ってその霊を取り除けばラクにはなりますが、それで業を消滅したことにはならない。もちろん霊が取り除かれた時が業の消える時と一致することもあり得ます。いわゆる奇蹟的治癒というのはそんな時に起きるのだと思われますが、除霊さえすれば事が済むというものではないようです。
次に、西洋では病気にまつわる因縁霊の観念はないのか、除霊の必要性はないのか、ということですが、数こそ少ないのですが、それを実際にやっている人がいます。米国のカール・ウィックランドという人が最も有名です。
この人は職業は精神科医ですが、奥さんが霊能者であるところから、主として精神異常者に憑依している霊を奥さんに憑依させて、間部氏と同じように、こんこんと霊的真理を説いて霊的自我に目覚めさせるやり方で大変な数の患者、と同時に霊をも、救っております。
それをまとめたのが Thirty Years Among the Dead で、 田中武氏が訳しておられますので一読をおすすめします。 (『医師の心霊研究三十年』日本心霊科学協会発行)
ウィックランド氏の場合は主として精神異常者を扱っておりますが、当然身体的病気の場合にも似たような霊的関係があるはずであり、本来なら日本式の供養のようなものがあってもいいはずなのですが、それが皆無とは言わないまでも、非常に少ないという事実は、私は民族的習慣の相違に起因していると考えております。
たとえば浅野和三郎氏が 「幽魂問答」 と題して紹介している福岡における有名なたたりの話は、数百年前に自殺した武士が自分の墓を建立してもらいたい一心から起こした事件であり、西洋では絶対と言ってよいくらい起こり得ない話です。
日本人は古来、死ねば墓に祀られるもの、供養してもらえるもの、戒名が付くものという先入観念があるからこそ、そうしてもらえない霊が無念残念に思うわけで、本来は真理を悟ればそんなものはすべて無用なはずです。いわゆる煩悩にすぎません。
シルバー・バーチはある交霊会で供養の是非を問われて、「それはやって害はなかろうけど、大して効果があるとも思われません」 と述べておりますが、シルバー・バーチの話は常に煩悩の世界を超越した絶対の世界から観た説であることを認識する必要があります。
つまり永遠の生命を達観した立場からの説であって、私は、洋の東西を問わず、供養してやった方がいい霊は必ずいる、ということを体験によって認識しております。煩悩の世界には煩悩の世界なりの方法手段があると思っております。
また、民族によって治療法が異るように、個々の治療家によっても治療法や霊の処理方法が異ってくるはずであり、供養しなくても済む方法があるかも知れない、という認識も必要かと思われます。この辺が心霊的なものが一筋縄ではいかないところです。
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