Sunday, December 11, 2022

シアトルの冬 平凡な人 ordinary people



 不滅への道───永遠の大道
  THE ROAD TO IMMORTALITY
   ジェラルディーン・カミンズ著  E・ギブズ編 梅原伸太郎訳
  Geraldine Cummins / E・B・Gibbes

 肉体をもって人生の梯子を登りつつある人々は、いわば天と地の間に吊るされているようなものだ。彼らは二つの神秘、すなわち誕生と死とを経験する。上を見ても恐ろしく、下を見ても恐ろしいから、バランスをとるために梯子の一段ごとに全注意を集中する。

そこで、いかに登るのに巧みな者でも、梯子の上にいながら、一生と言う短い年月の前後にいったい何があるのかをゆっくり考える余裕はない。

 同じことが死の関門を越えてきた無数の魂についても言える。たしかに、彼らにとり、生命の意味するところは深まり、その大きさも増してはいるが、依然として神秘のままであることには変わりはない。彼らはいわば神と、彼らの見る現われの世界の丁度中間におかれている。

死者たちの多くは自分たちのいる環境や生活状態についての通信を生者に送ってこようと努力するが、それらは大抵彼らの目に映る身のまわりのことどもか、地上から持ってきた狭い個性に縛られた範囲のものである。

 ここにトム・ジョーンズなる一人物がいる。彼は生前、ロンドンに住み、法律事務所の一事務員として生涯を終えた。彼の心と霊は法律の仕事とちっぽけな個性の範囲に縛られていた。

今私がこのトム・ジョーンズの目から見た死後の世界を描こうとすると、陳腐で物質的なあの世の様を書き送ることとなるだろう。彼は精神的にも霊的にも極めて粗雑な状態にある期間しか地上の人に通信できないのである。彼は生れたばかりの目の見えない赤子のようなものであるから、自分の目に見えないものについて書き送っているのと同じである。

魂の目に光が与えられ、目が見えるようになると、私の知る限りでは、もはや地上を顧みないようになるのである。彼は次第に自分の精神の貧しさを痛感するようになる。死後の世界の驚くべき性格を地上の霊媒たちのことばを借りて表現する力は彼にはない。

彼が黙り込むと、生と死とを隔てる暗幕の彼方からは、かすかな他界の音楽ももはや聞こえてはこない。宇宙の内なる宇宙、生命の内なる生命、そして神の無限の想像力の中で港に憩う舟のように安らうすべてのものの奇(くし)びな響きも、絶えて伝わってはこないのである。

 トム・ジョーンズは多くの人を代表する例である。彼は自分の仕事に関してはあらゆる事柄に精通したよき働き手であるが、彼の生活はそれのみに限定されていて、楽しみも少なく余暇もないところから、人生の究極の目的などということを考える暇はない。

馬具をつけ目隠し皮をかけられた馬が駆り立てられるように、揺り籠から墓場まで引っ張りまわされる。その一生は波乱に富んだものではないが、多少の喜びと悲しみがある。

 それではこの大衆のシンボルのような人トム・ジョーンズやジョーンズ夫人、更にはまたジョーンズ嬢の死後の運命はいったいどうなるのであろうか。死後の「たくさんの家々」を調べるためには、まず、世間一般の平凡な男女の例をみたほうがよいだろう。

彼らは死後瞬時に変えられて、霊的にも精神的にも高く進歩した賢者になるのであろうか。それともあくまで所謂(いわゆる)進歩の法則に従うのであろうか。

 右の二つの質問にまず答えなくてはならない。トム・ジョーンズが死によって急に賢者や霊的天才に変わるものならば、それはもはやトム・ジョーンズであるとは言えないことになる。それ故死後に生き続けているとも言えないのである。しかしながら私は、彼が進化の緩やかな道程を歩むであろうことを保証する。

彼は生前の醜さ、狭隘(きょうあい)な人生感、好悪の感情等を持ったまま次の世界に誕生するのである。つまり全くもとの人間のままで。このような人間が高尚で霊的な生活を営むなどとは土台無理な話である。彼は精神的には未だ産着を付けたままの男である。

それ故地上で赤子が取り扱われるように扱わなければならないのである。世話をやかれ保護されなくてはならず、急な変化や乱暴な取り扱いは禁物である。それに耐えられる霊的精神的成熱が十分ではないからである。

 平凡な大衆の一人である彼が、地上時代の夢の中へと戻って行くのは、あとにも述べるように、やがて彼が未来に向かって前進し、究極のゴール、つまり霊的な想像の世界へと進んでいくときのためである。そこで彼は無時間の世界に入り、偉大な宇宙絵巻から出て、創造者の精神のなかに入っていく時、その至福の状態は訪れる。

しかしそこへ到達する前にしなければならないことが山ほどもある。今は彼はまだ玩具を欲しがる子供の段階にあり、外観の世界を必要としているのである。

 もっと進歩した魂たち───それを教会では天使と呼ぶようだが、私は「賢者の霊魂」としておく───が広大無辺の宇宙の中に、希薄微妙な形態で存在し、想像もできないほど生き生きとした生命活動を営んでいるのである。

トム・ジョーンズがこのような尋常ならざる猛烈な生命の状態を目にすることなどは全く不可能なことである。

 われわれのように、ほんの少しばかり先に進んだ者は死の門のすぐ傍らに控えていて、彼のような新来の人々を、ある準備期間をおいた上で、地上生活そのまま、彼らの信じるそのままに展開する夢の世界へと案内する。彼らは自己のうちに地上時代の全生活を思い出すだけの力を秘めている。

慣れ親しんだ環境こそが何にも増して彼らには必要なのだ。彼らの求めるものは、宝玉の街でもなく、また無限についての奇怪な夢でもない。

彼はただ自分のよく知った故郷の景色を切望する。彼らはそれを現実に見るのではなく、自己の欲するものを幻想として見るのである。

 「賢者の霊魂」と私が呼ぶ方々は、自分たちの記憶や地球の持つ大超越意識の記憶の中から、地上からやってきたばかりの人のために、彼らはおなじみの家や、街路や、田園の風景などを引き出して与えることができる。賢者の霊魂が思念を送ると、トム・ジョーンズの目には一つの映像が生み出される。

そのお蔭で彼は、死後の最初の時期に空白や虚無の感じを味わわなくてもすむのである。彼が薄明の中で眠り、さなぎの中で憩う間にエーテル体が形造られる。やがてそれは蝶となって偉大な霊智の魂たちが思念集中によって生み出す世界のうちに出現する。

このような想念力を持った方々を私は賢者の霊魂と呼び、創り出されたものを「創造的生命」と呼ぶのであるが、それ以外に適当な表現がみあたらないのである。

 一つの情景が、未発達な魂の記憶から引き出される。それはトム・ジョーンズやその仲間たちの知っていた田園風景と似ていなくもないが、それよりずっと美しい。この田園風景は現実のものではなく、夢である。しかしトム・ジョーンズにとってそれは彼の事務所の机や、毎朝彼を起こしてくれた目覚まし時計と同じように、現実的に見える。

それは疑いもなく彼の知っているあのロンドンという灰色の小さな世界よりも魅惑的ではあるが、しかし本質において英国を形づくるあの懐かしい要素から成り立っているのである。

 夢の中では、ずっと以前に亡くなった友人や、何人かの自国の人々の姿を見る。それらの人々は生前彼が本当に愛した人達である。

 トム・ジョーンズが死後の環境にいる様を想い描いてみよう。彼はそれを生前と同じ物質界だと思っているから、彼の生来の内気さを刺激しないように配慮しなくてはならぬ。彼は素朴な魂で、清い尊敬すべき一生を送り、欲望は適度に自制した。

彼は七十年の生涯を地上のある環境の中で過ごしたのであるが、肉体を去った後も、生前に慣れ親しんだ環境の中におかれるのは何故なのだろうか。なぜ地上生活に酷似した生活の中に入って行かなくてはならないのであろうか。

 実際をいえば、両者は同じものではない。それはトム・ジョーンズにとっての緩やかな変化期なのである。彼の地上生活における一八五〇年から一九二〇年までの生活は、地に蒔かれた一粒の種の発芽期にあたるものなのである。

その新しい緑の新芽が、光を求めて上に伸び、やがて時が満ちたとき次の生活へと移行する。彼を含めた幾つかの小さな植物の栽培を任せられた庭師は、それを適切な促成栽培の温室へと移し植えるのである。前にも述べたように、これまで慣れ親しんだのとよく似た世界に案内するわけである。

 この旅人たちはやがて、同じ性質を持った者同士が一つの環境に親しく集まっていることに気づく。しかしひとりひとりの実際的な要求は殆どの場合おなじでないことも知る。

彼らのエーテル体は食物を必要としないので、その生活の大部分を機械的な仕事に費やさなければならないということもない。彼らはあまねく充満する目には見えない実体から自分の幸福に必要なものを引き出す。

地上生活においては人間は物理的肉体の奴隷であり、それ故にまた暗黒の勢力の奴隷でもある。死後の生活においては、ある条件さえ満たされれば、人々は光明の奉仕者となるといってもよかろう。食物ないしそれにみあう金銭はもはや彼らの主要な目的とはならず、ついに彼らは光明に奉仕する時間を手にするわけである。すなわち、彼は余暇のうちに反省し、霊妙至福の精神生活を送れる地位をえるのである。

 今や身体の崩壊と共に、かまびすしくも激越なあの肉体の欲求は消え去る。かつては不可欠のものであった日に三度四度の食事をとる必要はもはやない。飢えという地上生活最大の要件は消滅したのである。しかしまだ多大の考慮を払うべき他の要因がある。飢えの後にはセックスの問題がある。この要求は身体の崩壊と共になくなるのであろうか。

 私の答は、大部分の場合には「否」である。それは消えずに変化する。ここにおいてわれわれはこの推移期間における大問題に直面するのである。

 まず性欲というものを定義する必要があるだろう。そのうちのいくつかは歪んだものになっている。ここではそのうちの歪んだ部分を取り上げることにするが、そうすることによって人が罪と呼んでいるものにも触れなくてはならぬ。残酷さは他の性的歪み以上に人間の性格に食い入った感情である。

それは人の魂に刻印し、他のどのような悪徳よりも深く傷つける。愛情への渇仰を他人を傷つけるという激しい望みに変えてしまった残酷な人間は、当然のことながら現世ではその欲望を充分に果たすことができない。彼は地上生活のすべてをそこに傾注する結果それが彼の魂の一部となってしまったのである。 

 しかし新しい生活の中では、ある期間、生きているものに苦痛を与える力のない時期がある。このことは次第に精神力を増大しつつある彼にとっては大変な悲嘆の種である。彼は自己の欲望を貪る相手を求め続けるが、誰も見付からない。

この求めて満たされざる欠乏状態は殆ど精神的な性格のものであると言ってよかろう。この馬鹿げた地上の欲求が満たされないでいる魂にとって、光や美の世界などというものが何の役に立つであろうか。

彼にとってはこの精神的地獄から逃れるすべはただ一つあるだけである。そこから逃れる道を自ら発見し、その冷酷な魂に現実の変化が訪れるまでは、彼は彼を取り巻く暗黒の中に留まり続けなくてはならないであろう。

 キリストはすべての罪びとたちのいる暗黒の世界について言及した。キリストの言ったのは、われわれが知っている感覚的な暗闇のことではない。彼が言ったのは魂の暗闇、精神の苦悩、満たされることのない歪んだ欲望のことである。

 ついにこの罪びとが自分の惨めさや悪徳と立ち向かう時がやってくる。その時偉大な変化が起こるのである。聖ヨハネが「生命の書」と呼んだ大記憶の一部に触れることになる。それによって彼は、これまで彼の行為がその犠牲者たちに与えてきたありとあらゆる苦痛の感情に気づかされる。

彼は地球のまわりに付き従っている大超越意識記憶のうちの一部分である彼の時代の記憶の中に入って行く。彼が他人に与えたいかなる苦痛も、煩悩も消え去ってはいない。

その全ては記憶されていて、かつての自分や交渉のあった人たちに関する記憶の網に触れると、すぐにそれと分かるようになっているのである。

 残酷者の死後における物語は一冊の本にもなりえようが、今の私にそれを語ることは許されていない。私はただ、彼の魂と心は、その犠牲者たちの苦悩との一体化を通して浄められてゆくものであろう付け加えうるのみである。

 私は、キリストが罪びとは外なる暗闇の中に投げ込まれて泣き叫び、歯を食いしばって耐えるほどの苦しみを受けると言ったことの意味を説明しようとして、トム・ジョーンズの問題から離れてしまった。罪人が飛び込むのは心の闇の中のことである。

その歪んだ性格が苦悩を自分自身に呼び引き寄せるのである。彼は自由意志と選択する力とを持っていたのであり、かりそめのものといいながら、死後の心の闇を選び取ったのである。

 さてもう少し説明を付け加えるために、地上生活において淫奔な生活を送った女の例をあげよう。

ヨハネに現れた天使のことばに、「汚れた者はさらに汚れたことを行なう」というのがある。よからぬ性生活を送ってこちらの世界へ来たものは、心の王国に入ると同時に、心の知覚力が研ぎ澄まされ、精神の力も増すので、地上時代に支配的であった欲望が強められる。

彼は意志の力で、増大した性情を満足させてくれる人間を自分に呼び寄せる。つまり同類の者たちを引き寄せるのである。暫しの間彼らは揃って性の快楽境に住まう。

 しかしこれらはあくまでも、自己の精神の創出になるものであり、記憶と想像力の産物であることを銘記せよ。彼らは、細やかな感情で友愛を築きあげるという高尚な生活───それこそすべての性愛の精華であるが───を求めず、粗野な感覚の満足を追い続ける。

 彼らは容易にそれを手にして、やがて恐るべき渇きにおそわれる。過度に又たやすく得られたものを嫌悪する時が来る。その時になって、彼らが快楽を共にした人から逃れることがいかに困難かを痛感するのである。

 殺人者もまさしくこの種のともがらである。突然の邪悪な欲望や残酷へと駆り立てる欲情が彼に多くの殺人を犯させたのである。

 幻想の国の最終状態は、浄化の状態と名付けられる。いうまでもなく、渇きの惨めさに気づき、欲望の満足に終止符を打つことはこの上ない苦痛である。欲望の達せられないことよりも更に甚だしい不幸とは、欲望の達成されてしまうことである。

ひとはいつも偽りの夢、惑わしの鬼火を求め続けるものであるから、一時の望みが満たされても、究極の満足は得られないのである。

 無論何事にも例外はある。冥府や幻想の国においても個々人は互いに異なった経験を持つものである。ある場合には欲望を満足させる力を与えられないこともある。実のところそうすることは出来るのだが自分自身の自我がそうした満足を遂げることを許さないのである。

例えば、幻想の国では、冷たく利己的な人は自我を外へ投げ出して欲望遂行のうちに自己表現する力もないために、暗黒の世界に住まうことになろう。

 彼は死の衝撃によって今まで以上に内側に閉じ込められる。自分はすべてを失ったと思う。そして自分自身の思考する対象を実体として感ずる以外はすべてのものとの接触を失う。鈍い喪失の感覚と他人に対する一切の顧慮なしに自己満足を求める欲望のうちに住まう限り、暗黒の夢魔は続き広がる。

極度に利己的なひとにとって幻想の国は夜だけの世界であろう。

 殆どすべての魂は暫くのあいだ幻想の国に住む。人間の大部分は死ぬときは物こそが現実の全てであるという観念に支配されており、また物に関する個々の経験のみが唯一の現実であると思い込んでいる。彼らは未だ世界観をすっかりと変えてしまう準備ができていない。

そのため、自分の慣れ親しんだ環境を理想化した状態を求め続け、幻想の国と私が名付ける夢の中へと入って行く。それ故、彼らの生きようとする意志は過去に生きんとする意志なのである。

 例えば平凡な市民の代表例としてのトム・ジョーンズは、ブリングトンにある光まばゆいレンガ造りの別荘を持ちたいと願う。そこで彼はこの二十世紀極めつけの罪物を手に入れて得々とする。当然の結果として彼の知人たちで似たような性質の心を持った人々のもとへと引き寄せられることになる。

彼は地上生活では極上の葉巻に憧れたものであった。そこで反吐が出るほどこれをくゆらすことになる。ゴルフをしたいと思えばゴルフをする。こうしていつも夢見て過ごす。というよりも、地上での最大の欲望によって生み出された幻想のうちに生きるのである。

 暫くすると、こうした快楽の生活は彼を楽しませもしなければ満足も与えなくなる。そこで彼は考えることを始め、未知の新生活に憧れをもつ。遂に進歩に向けて準備が整い、重く垂れこめた夢の世界は消えてゆく。

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