数十年にわたる交霊会でシルバーバーチに出された質問は、ありとあらゆる分野にわたっていて、文字どおり数え切れないほどであるが、本章が証明するように、シルバーバーチはそれらに対して実に当意即妙に応答している。念のために付け加えておくが、霊媒のバーバネルはその質問について前もって知らされたことは一度もない。
さて、シルバーバーチの霊言はすでに何冊か読んでいるというその日のゲストが、睡眠中にどんなことが起きているのかを尋ねた。するとシルバーバーチが間髪を入れずこう答えた。
「睡眠中の皆さんは、ただの生理的反応から霊的な活動にいたるまで、さまざまな体験をしておられます。あまりにも多種多様であるために、その中から特定して、これは生理的なもの、これは霊的なもの、といったはっきりした判断ができないだけのことです。
睡眠の目的そのものは単純です。身体は一種の機械です。実にすばらしい機械で、地上のいかなる技術者にもこれほど見事な機械はつくれませんが、機械である以上は休ませることが必要です。そうしないと機能を維持することができません。
大切なのはその身体の休息中に、霊がその身体から脱け出て活動しているということです。まさに、人間は毎晩死んでいるといってもいいのです。わずかに銀色の紐(シルバーコード)(魂の緒)によってつながってはいても、霊は完全に身体から脱け出ています。そのコードは実に柔軟な性質をしていて、霊はその束縛なしに完全に肉体から解放されています(※)。
その間におもむく先は、それぞれの霊的成長と進化の程度に似合った環境です。が、それがどこであれ、そこでの体験は地上世界の時間と五感の範囲からはみ出たものばかりですから、脳という物的器官では認識できないのです。
シルバーコードが完全に切れて霊界の住民になってしまえば、そうした睡眠中の体験のすべてを思い出すことができるようになりますが、今は断片的にしか思い出せません。霊界ではそれが通常となるわけです」
※――ここで言っているのは心身ともに健全な状態での話であって、病気だったり心配事が根強いと魂の緒が硬直して伸びきらないために、霊体が脱け切れずにウトウトとした状態が続いたり、完全な不眠症になったりする。
「霊界ではお互いをどう呼びかけ合うのでしょうか」
「こちらへ来て、完全に地上圏から脱すると、それまでの霊的成熟度に似合った名称が与えられます(※)。したがって、その名称で霊的成長と進化の程度が知れるわけです。が、名前そのものにこだわることはありません。お互いに有るがままに認識し合っています」
※――シルバーバーチがこんなことを言うのは初めてであるが、名前といっても音声と文字で表現されている地上の姓名とは本質的に異なる。それと同じ意味でのことばも、実は、ある。シルバーバーチが霊界ではことばはいりませんと言っているのは、誤解を避けるためである。『ベールの彼方の生活』の中で通信霊が霊界での名前が地上のことば(この場合は英語のアルファベット)でうまく表現できなくて困る場合がよくあり、各界層に特有のことば、つまり観念や意志の伝達手段があることを明確に述べている。
「人間は現在の人種と異なる人種に生まれ変わることがあるというのは本当でしょうか。もしも本当だとすると、愛する者とも別れ別れになることになり、大変な悲劇に思えるのですが……」
「そういう考え方は、再生というものの真相を正しく理解していないところから生じるのです。決して悲劇的なことは生じません。そもそも地上的な姻戚関係というのは、必ずしも死後にも続くとはかぎらないのです。イエスが地上にいた時、まわりの者が「お母さんがお見えになってますよ」と言ったのに対して、「いったい本当の母とは誰なのでしょう? 本当の父とは誰なのでしょう?」と問うたのをご存知でしょう。
自我のすべてが一度に物質界へ生まれ出てくることは絶対にありません。地上で“自分”として意識しているのは、本来の自我のほんの一かけらにすぎません。全部ではないのです。その小さなかけらの幾つかが別々の時代に別々の民族に生まれ出るということは有り得ることです。すると、それぞれに地上的血縁関係をこしらえることになり、中には幽体の次元での縁戚すらできることもありますが、それでも、霊的な親和関係は必ずしも存在しないことがあるのです。
永続性があるのは、唯一“愛の絆”だけです。血のつながりではありません。愛があり、血のつながりもある場合は、そこには魂が求め合う絆がありますので、両者の関係は死後も続きます。が、血のつながりはあっても愛の絆がない場合は、すでに地上にある時から霊的には断絶しており、こちらへ来ても断絶のままとなります」
「支配霊や指導霊は生涯を通して同じなのでしょうか、それとも霊的成長にともなって入れ替わるのでしょうか」
「それは仕事の内容によって異なります。たとえば支配霊――わたしたちはグループないしは霊団を組織していますから、その中心になる支配霊がいます――は言わば代弁者(スポークスマン)として選ばれた霊で、ある特定の霊媒現象を担当して、当人の寿命のあるかぎりその任に当たります(※)。成長過程の一時期だけを指導する霊は、その段階が終わって次の段階に入ると、入れ替わって別の指導霊が担当します」
※――ここは自分のケースを念頭において述べている。シルバーバーチはバーバネルの守護霊ではない。このあとの守護霊に関する注釈を参照。
「あなたは大霊は“摂理”であるとおっしゃりながら、祈りの中では“あなた”と呼びかけておられます。これは人間的存在を意味する用語ですから“矛盾”と受け取る人も多いのではないでしょうか」
「その辺がことばの難しさです。無限で、言語を超越しているものを、限りある言語で表現しようとするのですから……。そもそも霊とは物質を超越したものですから、物質界の言語では表現できないのです。小は大を兼ねることができません。
わたしたちにとって大霊とは、この全大宇宙とそこに存在するもの全てに責任を担う摂理であり、知性であり、力です。男性でも女性でもありません。皆さんが想像するような人格性はありませんが、かといって人間と無縁の存在という意味での非人格的存在でもありません。
あなた方もお一人お一人が大霊の不可欠の要素であり、大霊もあなた方の不可欠の要素なのです。その辺を理解していただこうとすれば、どうしても地上的な表現を用いざるを得ないわけですが、用いているわたしの方では、ことばを超えたものを表現することの限界を、いつも痛感させられております」
「創造主である大霊は、自分が創造したものの総計よりも大きいのでしょうか」
「そうです。ただし、創造は今なお続いており、これからも限りなく続きます。完結したものではありません。これからも永遠に続く営みです」
「ということは、大霊も完成へ向けて進化しているということでしょうか」
「進化という過程で顕現している部分はその過程を経なくてはなりません。なぜなら、宇宙は無限性を秘めているからです。その宇宙のいかなる部分も大霊と離れては存在できません。それも大霊の不可欠の要素だからです。とてもややこしいのです」
「死んで霊界入りする日(寿命)は何によって決まるのでしょうか。定められた日よりも長生きできないとしたら、心霊治療でも治らないことがあるのも、その辺に理由があるのでしょうか」
「おっしゃる通り、それも理由の一つです。霊がいつ物質に宿り、いつ物質から離れるかは、自然の摂理によって決まることです。とくに死期は故意に早めることが可能ですが、それは自然の摂理に反します。
人間は、脳の意識ではわからなくても、いつ生まれいつ死ぬかは、霊の意識ではわかっております。肉体から離れるべき時――これは生命の法則の一環として避けることはできません――が訪れたら、いかなる治療も効果はありません。一般論としての話ですが。
忘れないでいただきたいのは、心霊治療というのはきわめて複雑な問題でして、根本的には身体の病気を癒やすのが目的ではなく、魂の成長を促すためのものだということです。魂の体験としては病気も健康も必要です。物議をかもしかねない問題ですね、これは」
「病気も必要というところが引っ掛かります。病気を知らない生活が送れるほど完成された時代も到来すると私は信じます。あなたのおっしゃる病気とは、摂理を犯すこと、と受け止めてよろしいでしょうか」
「人間はいつになっても摂理に違反した行為をいたします。もしも完全に摂理と調和した地上生活を送ることができれば、それは地上で完全性を成就したことになりましょうが、完全性の成就は地上では有り得ないのです。なぜなら地球そのものが不完全だからです。
地球は学習のために通う“学校”です。その学習は、比較対象の体験による以外には有り得ません。日向(ひなた)と陰、嵐と凪(なぎ)、愛と憎しみ、善と悪、健康と病気、楽しみと苦しみといった相反する体験を通して学習していくのです。相対的体験と、その中での試行錯誤の努力を通して、魂が磨かれていくのです」
「そちらから人間をご覧になると、われわれが肉眼で見ているのと同じように見えるのでしょうか、それとも、肉体は見えずに霊体だけが見えるのでしょうか」
「有り難いことに、肉眼で見るようには見えません。わたしたちの目には皆さんは霊的存在として映じております。肉体は薄ぼんやりとしています。こうして霊媒の身体に宿って、その肉眼を通して見る場合は別です。その間は物質の次元にいるわけですから」
「ある人は霊界には無数の“界層”があると言い、ある人は七つしかないと言うのですが、どちらが本当でしょうか」
「霊的なものを物的な用語で定義することはもともと不可能なのですが、この“界層”という用語も誤解を招きます。霊界には地理的な仕切りはありません。“意識の状態”があって、魂が進化するにつれて意識が高まる、ないしは深まっていくことの連続です。一つの意識状態と次の意識状態とは自然に融合しております。そこに仕切り線のようなものはありません。進歩とか開発とか進化というのは、一足跳びにではなく、粗野な面が少しずつ取り除かれて、霊的な側面が表に出てくるということの連続なのです。
むろん未開な時代には、死後の世界は地上と同じように平面的な場所で、地上より高い界層と低い界層があるといった説き方をしたのはやむを得なかったことです。が、死後の世界は宇宙空間のどこかの一定の場所に存在するのではありません」
「病苦がカルマのせいだとすると、それが心霊治療によって治った場合、そのカルマはどうなるのでしょうか」
「そのご質問は論点がズレております。病苦がカルマのせいであれば、そのカルマが消滅するまでは病苦は除かれません。それ以外には考えようがありません」
「ある敬虔(けいけん)なクリスチャンで、とても立派だった女性が、死後、ある霊媒のところへ戻ってきて、ずっと薄闇の中にいて堪(たま)らないと、救いを求めておりました。あれほどの立派な方がなぜ薄闇の中にいるのか不思議でならないのですが、死後の存続の事実を知るチャンスがなかったからなのでしょうか」
「もしもその霊の出現が本もので、ほんとに暗闇ないしは薄闇の中に閉じ込められているとしたら、それは自分の魂の進化の程度の反映です。摂理はごまかせません。そして、“永遠不変の善”の規準は必ずしも“地上の善”とは一致しません。地上には、人間が“悪”だと決めつけているものでも、霊的観点からすれば“善”に思えるものが沢山ありますし、逆に、人間は“善”だと思っているものでも、わたしたちから見れば“悪”だと言いたいものが沢山あります。
たとえばキリスト教では、自分たちで勝手にこしらえた教義を盲目的に受け入れた人のことを善人のような言い方をします。が、実は、それは人間の宗教性の本質を窒息死させる行為にも等しいものです。なぜかと言えば、それではその後の人生は何をやっても“善人”であることを保障することになるからです。自分では正しいと信じていても間違っております。
そういう人工的な規準とはまったく関係のない“基本的善性”というものが存在します。あとに残るのはその基本的善性の方です。倫理・道徳には二種類あります。政治的道徳、経済的道徳、伝統的道徳といった類が一つ。もう一つは霊的要素によって決まる道徳です。あとに残るのは霊的要素のみです」
「“聖痕(スティグマ)”などの現象をスピリチュアリズム的にどう解釈したらよいのでしょうか」
「これは、大体においてその人のサイキ(※)の領域に属する現象です。熱烈な信仰心が精神に宿る心霊的要素を動かして、キリストのはりつけの時の傷跡などが斑点となって、その人の肉体に現れることがあります。物質的なものでないという意味では超常現象といえますが、霊の世界とは何の関係もありません」
※――Psyche元来は精神ないしは心の意味であるが、精神のもつ不思議な力をさすことが多い。これからサイキック(心霊的)という用語ができたのであるが、シルバーバーチはそれをスピリチュアル(霊的)と区別し、どちらかというとサイキックなものへの過度の関心を戒めている。スプーン曲げとか硬貨の溶解現象といった、最近、日本ではやっている超能力現象は純然たるサイキの領域に属するもので、未開人によるまじないや雨乞いに作用するエネルギーと同次元のものである。スピリチュアルなものと違って霊格や人格とは何の関係もなく起きるものであるから、そういう能力をもつ人を尊敬したり、自分にそういう能力があることを知って偉くなったような気持ちになるのは危険である。
「霊界通信には、内容的に正反対のことを言っているのがありますが、なぜそうなるのでしょうか」
「霊とはいえ人間的存在です。叡智の頂上をきわめた大天使と交信しているのではないことを知ってください。霊界にはさまざまな発達段階の存在がいて、それぞれに体験が異なりますから、当然、伝える情報も異なってきます。同一の霊からの通信でも、その後の体験によって違ったことを言うことも有り得ます。
他界する際に霊界についてある種の固定概念をもってくる人がいます。そういう人は、その固定観念を抱いているかぎり、そういう環境の中にいますから、交霊会などで意見を述べる機会があれば、その段階での見解を述べることになります。しかし、基本的なことに関するかぎり、矛盾はないはずです」
「スピリチュアリストの中にも相変わらずイエスは神の代理人で救世主であると信じている人がいます。これはスピリチュアリズムの七大綱領(※)と矛盾しませんか」
※――英国の女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンの霊言で述べられたもので、(一)神は全人類の父である。(二)人類はみな同胞である。(三)霊界と地上との間に霊交がある。(四)人間の霊は死後も存続する。(五)人間は自分の行為に自分が責任を取らねばならない。(六)地上での行為には、死後、善悪それぞれに報賞と罰が与えられる。(七)いかなる霊も永遠に進化する。以上の七つのうちの(二)と(五)に矛盾すると言っているのであろう。
「わたしは、何事にも寛容的で自主性を重んじるべきであるとの考えから、いかなる信条であれ、そう信じるのだという人にはその道を歩ませ、そうでないという人には、その人の信じる道へ行かせてあげればよいと考えています。信条はどうでもいいのです。教義は大切なものではありません。大切なのは“真実”です。が、地上であれ、霊界であれ、無限の真理のすべてを知り尽すことはできません。ほんの一部しか見えないのです。そして、知れば知るほど、まだまだ知らねばならないことが沢山あることを自覚します。そこで、ますます寛容的になっていくのです」
「バイブルには“神を恐れよ”とありますが、なぜ恐れねばならないのでしょうか」
「“おそれる”という用語の解釈の問題でしょう。神を怖がりなさいという意味ではないと思います。“畏(おそ)れ敬(うやま)う”という意味もあります」
「同じくバイブルの〈主の祈り〉に“悪魔の誘惑に負けませんように”とありますが、これをどう思われますか」
「これは間違いです。悪魔が誘惑するのではありません。自分にそういう要素があるから悪の道にはまるのです。
ここで一言、わたしが感じていることを述べさせていただきますが、こうした質問をお聞きしていると、まだまだ霊的真理がわかっていらっしゃらないようです。いまだに用語や書物や教会に縛られています。わたしたちはそういうものには一切こだわりません。本来が霊的存在である皆さんは、大霊と同じく無限の存在であり、そういう子供っぽい概念から早く脱け出ないといけないと申し上げているのです。
永遠に変わることのない真理を理解しないといけません。それは、古い言い伝えにこだわり、教義や用語や書物を手放すのを恐れているかぎり、できません。そこで、オモチャは幼児の段階では役に立っても、大人になったら、いち早く片付けないといけません」
「霊能開発の修行中の者が霊の救済活動に手をかけることについてはいかがでしょうか」
「未熟な霊媒がそういう重大な仕事に手をつけるのは実に危険で、感心できません。暗闇の中で迷っている霊を救うには、高度な霊能を身につけた霊媒を必要とします。未熟な霊媒だと、その霊媒自身が憑依されて、いろいろと厄介なことになりかねません」
「守護霊についてお話し願えませんか」
「霊が地上へ誕生してくるに際しては、一人の守護天使(※)がつけられます。それは地上でいう“家系”を同じくする者である場合もあれば、“霊的親和性”(霊系)によって選ばれる場合もあります。いずれにしても、両者を結びつける何らかの共通の利益というものに基づいております。
しかし、両者の関係がどこまで親密となるかは、地上の人間の霊的成長しだいで決まることです。守護霊の働きかけをまったく感受できない場合は、霊力を使用して外部環境から操作せざるを得ません。意識的協力が不可能な場合は、無意識のうちにでも協力関係をもたねばなりません。霊界からの働きかけは霊的にしかできませんから、いつどこであろうと、条件が揃った時にその影響力が届けられるように配慮するわけです」
※――Guardian Angel 日本では守護霊と呼び、その守護霊の守護霊、そのまた守護霊とたどっていくと、そうした“類魂”の大もとに行き着く。これを守護神と呼ぶことがある。
いずれにせよ、英語でも日本語でも“守護”という用語が使われているために、何でもかでも“守ってくれる”と誤解されがちであるが、地上にいる当人の成長と進化が絶対的な目標であるから、そのために最も効果的な手段を取ろうとする。それが当人にとっては辛く苦しい体験に思えることもある。
もう一つの誤解は、じっと付き添って見つめてくれているかに想像することである。実際は高級霊ほど仕事が多くて一刻の休みもなく活動している。その中で守護霊としての仕事を引き受けるのであるから、それは兼務の形になり、直接的な仕事は指導霊にまかせることが多い。それでいて当人の心の動きの一つ一つに通じている。
シルバーバーチは霊言現象のための指導霊であり支配霊であって、バーバネルの守護霊ではない。守護霊は別にいたはずで、“わたしよりはるかに霊格の高い方たちの指示により……”といったセリフが見えるので、たぶんその中の一人であろうと私は見ているが、六十年間、一度も表に出なかった。ここにも、シルバーバーチ霊団の次元の高さがうかがえる。
「霊界でも子供の出産があるのでしょうか」
「わたしは一度も見たことがありません。誕生といえるものならあります。しかし、それは霊的復活のことです。出産は地上だけの出来事です。地上は学校だからです」
「ホメオパシー(※)の謎について教えてくださいませんか」
※――Homeopathy 同種療法・同毒療法と訳されている医学用語で、病気の原因物質と同じものを少量だけ使う治療法。
「“謎”というべきものではありません。よくわからないだけのことです。生命の営みについて、われわれもあまり多くを知りません。造化の秘密もまだわかっておりません。何事も、究極のところまでくると“なぜか”はわからないのです。
ホメオパシーも究極的には一種の霊的エネルギーに基づいております。すべてがそうだとは言い切れませんが、突きつめていくと、無限小の世界へ入って行きます。そして、行きつくところまで行きつくと、やはり全生命の根源にたどりつきます。結局それが根源です。
別の側面からみると、この問題も、作用と反作用とは同じであると同時に正反対である、という科学的原則に基づいております。同種と異種とは作用と反作用であり、同じであると同時に正反対、つまり同じ棒(ポール)の両端ということです。“ゲッセマネの園”(※1)は同じポールの一方の端であり、もう一方の端が“変容の丘”(※2)というわけです。両者とも同じ一本のポールなのです」
※1――イエスが苦悩と裏切りにあったオリーブ山のふもとの丘で、人生における最大の苦難の象徴。
※2――イエスがモーセとエリヤの霊と交霊した丘のことで、その時イエスはこの世の人間とも思えない神々しい姿になったという。物的なもの、世俗的なものを克服した霊的勝利の象徴。
「人を殺(あや)めた人が、その後バチが当って殺されたとします。この場合、その人は死んでから改めて殺人行為の償いをさせられるのでしょうか」
「残念ながらご質問者は、霊的生命についてよくご存知ないようです。宇宙は、変えようにも変えられない絶対的な自然法則によって支配されております。その中でも原因と結果の法則(因果律)が基本となっております。つまり結果にはそれ相当の原因があり、原因のない結果というものは有り得ない――言いかえれば、原因はそれに先立つ原因の結果であり、その結果が原因となって新たな結果を生んでいくということです。
このように、各自の運命は自然法則によって決められていくのです。その法則の働きは当人の魂に刻み込まれた霊的成長度に反応します。あなたは今あるがままのあなたです。こうありたいと装ってみてもダメです。地上生活中に行ったことが、すべて、真の自我に刻み込まれています。その行為の価値が魂を豊かにもし、貧しくもします。あなたみずから行ったことが、そういう結果を生んでいくのです。
死によって物的身体から離れると、魂はそれまでに到達した進化の程度をスタートラインとして、新しい生活に入ります。それより高くもなっていませんし、それより低くもなっていません。自然の摂理があらゆる要素を認知しているからです。公正が行きわたるように摂理が自動的に働くのです。
罰せられるのも報われるのも、すべてあなたの行為一つ一つが生み出す結果の表れです。自分の行為によって成長する場合と、成長を阻害される場合とがあるということです。以上がわたしたちの説く教えの核心です」
「天体が人間の宿命や日常生活に影響を及ぼすという占星術の考えを肯定なさいますか、否定なさいますか。もともと占星術は運命判断を目的としたものではないという認識の上での話ですが……」
「わたしは、地球上の天体も、地球上の人間の生命に影響を及ぼしている事実は認めますが、それは、あくまでも物的影響力をもつ放射物に限られています。
その放射物が何であれ、それが霊力をしのぐほど強烈であったり強大であったりすることは有り得ないと信じます。あくまでも霊は物質より上である――霊が王様で物質は従僕である、というのがわたしの考えです。
宿命とおっしゃいましたが、何もかもあらかじめ定められているという意味での宿命はないと考えています。これも用語の問題――宿命という用語をどう定義するかの問題です。宇宙はあくまでも秩序によって支配されていて、人間生活の重大な出来事もその計画の一部であるという意味では、あらかじめ定められていると言えると思います。
そうした宿命的な出来事を生み出す波動や放射物、そしてそれらが人間各自に及ぼす影響を正確に計算しようと思えばできないことはないはずですが、最終的にはやはり霊が絶対優位にあり、物的なものは霊的なものに従属したものであると主張いたします」
「よく問題となる霊と物質との結合の時期を一応受胎の瞬間であるとした場合、その受胎までは霊ないし意識体はどこで何をしていたのでしょうか。そもそも意識体というのは何なのでしょうか」
「生まれ変わり(再生)のケースは別として、霊は、物質と結合する以前から存在していても、その時はまだ個体性はそなえていないということです。物質と結合してはじめて人間的個性(パーソナリティティー)が発生するのです。そして、そのパーソナリティーの発達とともに内部の個的大我(インディビジュアリティー)が顕現されてまいります。
したがって、ご質問に対する答えは、霊は無始無終に存在していますが、物的身体と結合してはじめて個別性というものを持つことになるということです。ただし、最初に断りましたように、例外として、物的身体との結合が初めてでないケースがあります」
「もしそれが事実で、物質の結合以前には個性がないとなると、霊としてのそうした新しい現象をどうやって意識できるのでしょうか」
「パーソナリティーとインディビジュアリティーとを区別して理解しないといけません。パーソナリティーというのは、永遠の実在であるインディビジュアリティーが地上生活中に見せる特殊な側面にすぎません。インディビジュアリティーとしては霊的意識体は無始無終に存在しております。が、それが地上に顕現するためにはパーソナリティーという地上的形態を持たねばなりません。つまりパーソナリティーというのはインディビジュアリティーが物的身体を通して顕現している部分で、いわばマスクであって、本当の顔ではありません。あくまでも地上だけの人物像であり、内的実在の物的表現にすぎません」
「となると、再生する目的は、そのパーソナリティーを大きくするためでしょうか、インディビジュアリティーの方ではなくて……」
「必ずしもそうとは言えません。再生するのはインディビジュアリティーの別の部分であることがあるからです。その新しい部分による地上体験によって、全体のインディビジュアリティーの開発が促進されるわけです。インディビジュアリティーはパーソナリティーよりはるかに大きいのですが、この“大きい”というのは霊的な意味でのことでして、その意味はどう説明したところで、地上の人間には理解していただけません」
「では、あなたの知っている方で、この地上へ再生して行った人がいますか」
「います、沢山います。ですが、(上の説明でもわかる通り)それを証明してあげるわけにはいきません。わたしの言葉を信じていただくほかはありません。もちろん、否定なさってもかまいません。真理は、否定されたからといって、いささかも影響はうけません」
「キリスト教的伝統の中で生まれ育ちながら、なお真実を求めている人は、キリストをどう理解したらよいのでしょうか」
「ここでもまた用語が問題となります。どの宗教にせよ、一つの宗教的伝統の中で生まれ育った人は、すでに無意識のうちに偏見というものを持ち合わせていますから、そうした問題を不偏不党の立場で論じるのは至難のことです。
“キリスト”という用語はもともとは“油を注がれた人”という意味であって、これまでに油を注がれた人を数え上げれば大変な数にのぼります。が、ご質問者が“ナザレのイエス”のことをおっしゃっているのであれば、あの二千年前の時代と地域環境の中で、人間としての正しい生き方を霊的に、心霊的に、そして物質的に範(はん)を垂(た)れた、すぐれた人物として敬意を表すべきです。
しかし、イエスなる人物は大霊だったわけではありません。大霊がイエスとなって出て来たのではありません。もしも神学で説かれているように、イエスは大霊が物的身体をまとって出現したのだと信じたら、せっかくのイエスの存在価値はなくなり、無意味となります。
かりに完全無欠の大霊がそっくり人間の形態をとって出現したとすれば、その人物が完全無欠の人生を送ったとしても当たり前の話であって、尊敬には値しません。が、皆さんと同じ一個の人物が皆さんと同じように自然の摂理にしたがって生まれ、しかも人間として最高の人生を送ったとなれば、それは人間の模範として、すべての人間の敬意を表するに値する人物であることになります。
啓示というものは、一つの時代、一つの言語に限られたものではありません。あらゆる啓示の始源は一つあるだけです。無限の叡智の宝庫があるのです。太古から現代に至るまでのあらゆる時代に、その国、その民族の条件に合わせて、必要なだけの叡智と知識を啓示する努力が、絶えずなされてきております。その意味でも、過去の啓示にばかり目を向けるのは間違っていることになります。
今この時点で、今いるその場で、永遠の泉からの啓示に浴することができるという事実をよく理解しないといけません」
「今あなたは、大霊だったら完全無欠の人生を送るのは簡単であるとおっしゃいましたが、その言い分だと、神も一個の人間的存在であるという理屈になりませんか」
「ご質問の意味が、神ご自身が人間的形体をまとって出現した――それが、第一だか第二だか第三だか知りませんが、とにかく“三位一体”のいずれかの“位(くらい)”を占めているという神学上の説のことをおっしゃっているのであれば、それは完全無欠の神の化身なのでしょうから、完全無欠の人生を送るのは容易かも知れないが、そんな人生には価値はないと申し上げているのです。ナザレ人イエスの使命の肝心なものが消滅してしまいます。
大霊は人間的な姿格好をしているのではありません。大霊はあらゆる人間的人物像を超越した存在です。ですが、それを人間に説明するためには、わたしは、限りある人間に理解していただける範囲でのことばを使用する以外に方法がないのです」
「“ナザレ人イエス”というのは、結局、何だったのでしょうか。並はずれた霊的才能を持ち、言うこと為すことすべてが背後霊に導かれていた、一個の人間だったのでしょうか。それとも、きわめて霊格の高い高級霊が降臨したのでしょうか」
「どちらも真実です。問題は、イエスの生涯に関する記録はきわめて乏しく、断片的で、その上ずいぶん書き換えられているということです。
イエスの生涯の最大の価値は、心霊的能力と霊的能力(P29参照)を見事に使いこなしてみせたことにあります。心霊的法則と霊的法則を私利私欲や邪(よこしま)なことに使用したことは一度もありませんでした。時には人間性をむき出しにしたこともありましたが(※)、霊的摂理というものを完全に理解しておりました。
歴史的に見れば、彼のような生身の人物による啓示を必要とする時代だったから出現した、と理解すべきです。が、彼がその啓蒙のために使用した霊力は、今あなた方の時代に顕現している霊力とまったく同じものだったのです」
※――不正や邪悪なものを前にした時に見せた激しい怒りのことを言っている。いわゆる義憤であるが、シルバーバーチに言わせれば、動機が何であれ、憤(いきどお)るということは人間的感情であって、その意味でイエスは完全無欠の人生を送ったとは言えないと、別のところで述べている。常識的に考えれば当たり前のことであるが、キリスト教ではイエスを無理やり完全無欠な人物にしようとするからそういう言い方をすることにもなったわけである。
「霊能開発に際して、真面目な霊を引き寄せ、邪霊を追い払うにはどうしたらよいでしょうか」
「類は類を呼ぶといいます。あなたの動機が真面目なものであれば、つまり常に最高のものを求め、邪心をもたず、利己的な下心がなければ、親和力の作用そのものが同じような霊を引き寄せます。また、そこには危険性もないことになります。
要するにあなたから出ている雰囲気が、異質なものを近づけなくするわけです。もしも聖人君子に愚かしい霊がつくとしたら、宇宙には摂理がないことになります」
「あなたは、愛する者がいつも私たちといっしょにいてくれているとおっしゃいましたが、その時、彼らは本来の自我の一部ではないかと思いますが……」
「そうです。愛する霊は地上の者を見守りつつ、同時に霊界での生活を営むことができるのです。皆さんのように一個の身体に縛られていないからです。こちらの世界では、意識というものに地上のような制約がありません。皆さんは英国と南アフリカに同時にいることはできませんが、わたしたちにはそれが可能なのです。距離とか行程とかの問題がないからです。
愛する者にとっては、皆さんのもとに来るのは決して辛いことではありません。愛がなければいっしょにいる気にはなれません。愛があればこそ、歩調を合わせて見守る気にもなるわけです」
「霊的な援助は必ず背後霊を通して届けられるのでしょうか――大霊が直接関与するのではなくて」
「大霊による直接の関与などというものは絶対にありません。あなた方が想像なさるような意味での人間的存在ではないのです。
そうではなくて“ヤコブのはしご”(旧約聖書)の話に象徴されているように、最低のものから最高のものへと至る霊的階梯があって、そこに無数の中間的存在がいるのです。上へあがるほど、より神性を帯びた意志と叡智を表現しております。
ですから、人間が心を開き、霊性を開発し、向上するにつれて、より大きな霊力、より大きな知識、より大きな理解力をそなえた高級な存在と連絡が取れるようになるわけです。みな大霊の僕(しもべ)として、この全大宇宙の人間的存在の向上を援助する仕事に、自発的にたずさわっているのです。こちらの世界では、進化向上が進むほど、自分が得たものを他に施すべきであるとの自覚が強くなるのです。
以上がご質問に対するわたしの答えです」
「霊界にも学問のための建造物があるのでしょうか」
「もちろん、ありますとも。こちらの教育システムはいたって単純です。ありとあらゆる分野の知識が得られるように、各種のホール、専門学校、総合大学等が用意されています。そこで教える資格をもつ者は、教育者としての才覚をそなえた人にきまっています。
この無限の宇宙の中のありとあらゆるテーマについての知識が得られるようになっていて、教師も、それぞれの分野にふさわしい資格をもっている者が揃っており、受け入れる用意のある人に分け隔てなく与えられます。どの分野だけ、といった制約はありません。受け入れる用意のある人には何でも与えられます。つまり、唯一の条件は魂の受け入れ態勢です。
地上の皆さんでもその知識に与(あずか)ることができます。皆さんにとって興味のあること、成長と開発と進歩にとって必要な情報と知識を得るのは至って簡単なのです」
「“愛”に発した貢献(サービス)と“責務への忠誠心”に発した貢献とでは、どちらが上でしょうか」
「それは、その“貢献”がどういう性質のものであるかによって違ってきます。その動機を探らなくてはなりませんし、それに、あなたのおっしゃる“愛”とは何かが問題です。愛の最高の形での表現は神性を帯びたものとなりますが、最低の形での表現は利己主義の極致となります。
どんなものであっても、サービスはサービスです。その価値の尺度は、そのサービスを受けた人への作用と、施した人への反作用です。責務への忠誠心に発したものであれば、それはそれなりに立派ですし、愛に発したものも、その愛の対象のみに偏らない、無私・無欲の愛によるものであれば、これまた、動機は立派です」
「心霊治療は別として、スピリチュアリズムの活動は物理的現象を必要としない段階に入ったと言えるでしょうか」
「いえ、いつの時代にも、自分の目で確かめ、手で触れないと気が済まない人、つまり物的次元での証拠を必要とする人のための物的現象が必要です。それは物質以外のものの存在が信じられない人だけに限ったことではなく、五感の領域を超えたものの実在が理解できないように洗脳された科学者についても言えることです。
むろん同じく物的現象でも、時代によって形式の変化はあるかも知れません。が、物的な側面での何らかの形での演出は、いつの時代にも必要です。寄せては返す波のように、歴史はくり返します」
「公開交霊会(※)などで壇上の霊視家が霊からのメッセージを伝える時に“この列の何番目の席の方”といった指摘の仕方でなしに、その方の名前が言えるようになれば、なお証拠性が高まると思うのですが……」
※――シルバーバーチの交霊会のように限定された少人数で行うのを“家庭交霊会(ホームサークル)”といい、広いホールなどで大勢の会衆を前に行うのを“公開交霊会(デモンストレーション)”という。
「もちろん、それに越したことはありません。ですが、バイブルにもありますように、見えるといい聞こえるといっても、人間の能力には限度があります。ご質問者は、霊媒現象というものがその時その場での条件次第で良かったり悪かったりするものであることをご存知ないようです。まず第一に、それまでの霊媒自身の霊格の発達程度がありますし、霊的能力の開発程度がありますし、通信霊が霊媒のオーラとどこまで感応できるかの問題もありますし、支配霊と霊媒との一体関係の程度にもよります。
一つの霊視現象には以上のような要素が絡んでいるのです。問題は、どうすべきかではなくて、その時の条件下でいかにして最高のことを行うかです」
「あなたは、われわれ人間は大霊のミニチュアないしは縮図、未開発の大霊である、といった意味のことをおっしゃったことがあります」こう述べて、続けて質問に入ろうとするとシルバーバーチが――
「あなたは神、わたしのいう大霊であり、大霊はあなたです。発達程度の違いがあるだけです。大霊が所有しているものはすべて、本性(エッセンス)の形であなたにも宿されています。大霊は神性の極致であり、あなたにも同じ神性が宿されています。神性の本質の違いではなく、その神性の発達程度の違いがあるだけです」
「で、その人間がひどい苦痛をともなう精神的障害によって表現機能を奪われているケースがありますが、そんな時は、むしろ早く死なせてあげた方がよいのではないでしょうか」
「その人がいつ死ぬべきであるということを、一体どなたがお決めになるのでしょうか。その責任はだれが取るのでしょうか。この人は二度と正常に戻れませんという判断は、一体だれに下せるのでしょうか。精神と霊とが正常な連絡関係を取り戻して精神的障害が治ってしまう――そういう霊的革新が起きないとは、だれに断言できるのでしょう。
わたしはそういう考えには賛同しかねます。人間が生命をこしらえるのではない以上、その生命を勝手に終わらせる権利は、人間にはありません。次の進化の過程にそなえた体験を積むために割り当てられた期間は、最後まできちんと生きるべきです。ほんのわずかな地上生活でもって永遠の時を査定なさろうとすると、この無限の宇宙について、至ってお粗末でひがんだ観方(みかた)しか生まれてきません」
「そういう行為は、魂に霊的資質を失わせることも有り得るのでしょうか」
「いえ、失うということは有り得ません。表現の器官を失うことによって開発のチャンスを失うことにはなっても、本来の霊的資質を失うことは有り得ません。その分、つまり失われた開発のチャンスは、埋め合わせの原理によって、他の何らかの手段によって与えられることになるでしょう」
「“単純”ということが神の属性であると信じているわたしたちからすれば、霊界の通信者はなぜもっと単純な表現をしてくれないのだろうかと、疑問に思うのです。高級界の神霊のことになると、なぜか直接的な表現を避けるところが見受けられます。たとえば“神”のことを私たちはGod(ゴッド)という用語を用いますが、あなた方はそれを使用せずにGreat White Spirit(グレイト ホワイト スピリット)などと、ややこしい言い方をなさいます」
「複雑で深遠な問題を扱うには、そう単純に片づけられないことがあるのです。たとえば“神”のことをあなた方はゴッドと呼び、わたしたちはグレイト・ホワイト・スピリットと呼びますが、どこがどう違うのか。
わたしにとっては、宇宙の背後に控える無限の力は、“ゴッド”のように、世界中の億単位の人間がそれぞれにまったく異なる概念で使用している用語を用いるよりは、グレイト・ホワイト・スピリット(真白き大霊、ないし無色の大霊、の意)の方が、より正確にその本性を伝えていると考えるのです。単純ということは、それで済まされる場合には大切な要素となりますが、この問題に関するかぎり、わたしはゴッドという単純な用語を避けても非難されるいわれはないと信じます。
高級神霊のことですが、これもなかなかうまい表現が見当たらないのです。わたしが知るかぎり、地上には譬えられるものが存在しません。あなたはご自分と似たような容姿の人間ばかりを見慣れていらっしゃいますが、わたしが光栄にも時おり連絡を取り合うことを許されている高級霊になると、その容姿をどう表現したところで、あなたには理解していただけないでしょう。
“存在”というと、人間的容姿をそなえたものしか想像できない人間に、全身これ光、ないしは炎のかたまり、といった存在をどう表現したらよいのでしょう。伝えようにも、それをうまく表現する用語が見当たらないのです。秘密にしておこうという魂胆があるわけではありません。現在の地上人類の進化の段階では、それとは途方もなく隔たりのある段階の存在は、とても理解できないからにすぎません」
「私の家でサークルをこしらえて、そこへあなたがお出になって人生相談に乗っていただくというのは可能でしょうか」
「それをこの家で行いましょうということで、これまで努力してきたわけです。このわたしを頼りにしてくださるのは有り難いのですが、こうしてしゃべるための霊媒を養成するのに、ずいぶん永い年月が掛かったのです。それがこうして成就されたというのに、また新たな霊媒のために永い年月を掛けるということは、計画の中に組み込まれてはいないようですよ」
「私は霊視能力が欲しいのですが、これまでのところ、うまくいっておりません。熱意が不足しているのでしょうか」
「熱意というのは、あまり強すぎると、えてしてバイブレーションを乱すことがあるものです。健全な能力の開発は、サイキックなものであれスピリチュアルなものであれ、完全な受容性と安らぎと静寂の中で行われるものです」
「献血という行為には何か霊的な意味があるのでしょうか。また、肉体以外にも何か影響はないものでしょうか」
「わたしは、ここで改めて輸血という医療行為に不賛成を表明せざるを得ません。そのわけは、輸血に際して注入されるのは血液だけではなくて、それに付随した幽質の要素も含まれているからです。それは献血者の人間性の一部です。つまり輸血によってその献血者の存在の本性にかかわるさまざまな要素までもが他人に移されることになり、これは、場合によっては好ましくないケースも有り得ます。
人間というのは実に複雑な要素が一個の統一体となった存在でして、入り組んだメカニズムの中で、全体ががっちりとうまく組み合わさっているのです。その大切な要素の一部を他の人間に譲るということは、自然の摂理に反します。なぜなら、肉体と精神と霊の三つの要素の正しい関係の最大の条件である“調和”を乱すことになるからです」
「でも、それによって生命が救われたケースがあるようですが……」
「わたしの気持ちとしては、いかなる方法にせよ、患者を救うという行為の尊さを割り引くようなことは言いたくないのですが、それでも一言だけ言わせていただけば、現在の医学で行われている治療法を絶対と思うのは間違っております。
どうも、医学の世界に不謬(ふびゅう)性のようなものがあるかに考える傾向があるようですね。病気を治す、あるいは生命(いのち)を永らえさせるにはこうするしかないと医者が言えば、それで最終的な断が下されたことになるかに思われているようですが、わたしはそうは思いません。
わたしに言わせれば、人間は本来が霊的存在であり、すべての治療法はその霊性の優位性を考慮すべきであるという原則に立てば、無数といってよいほどの治療法が用意されているのです。肉体というのは霊が使用する機械としての存在しかないのです。
とにかく生命さえ取り止めればいいのだ、という考えに立てば、今の医療行為も正当化されるかも知れませんが、では、そのために行われている身の毛もよだつような恐ろしい、そして人間の霊性にもとる行為は許されるのか、という疑問が生じます」
「生体実験のことでしょうか」
「そうです。目的は必ずしも手段を正当化しません」
「移植手術については、いかがでしょうか」
「患者自身の身体の一部を他の部分に移植するのであれば、結構なことです。生理的要素も幽質的要素もまったく同一のものだからです。ですが、それを他人に移植するとなると、必ずしも感心しません。(人道上はともかくとして)その移植片そのものが問題を生み出すからです。肉体そのものには生命はなく、霊と呼ばれている目に見えない実在の殻または衣服にすぎないことを理解することが、この問題を解決するカギです」
「眼の移植手術をすれば見えるようになるという場合でも、それをしないで、見えないままでいるのが望ましいということになるのでしょうか」
「個々の問題にはそれなりの事情がありますから、それを無視して一般論で片づけるわけにはまいりませんが、わたしたちからすれば、目が見えないというのは、あくまでも相対的な問題としてしか考えておりません。霊的な盲目という問題をどうお考えになりますか。
地上人類の霊的覚醒を使命としているわたしたちの立場からすれば、無数にいる霊的に盲目の人の方をむしろ見下したくなります。そこでわたしは、この問題も当人の魂の進化の程度による、とお答えします。霊的覚醒の段階まで到達している人にとっては、目が見えないということは、別に障害とはならないでしょう。ただ物が見えるというだけの視力よりもはるかに素敵な視野を得ていることでしょう。
皆さんはこうした問題をとかく物的身体の観点からのみ捉えて、永遠という概念を忘れがちです。といって、そのことを非難するつもりはありません。無理もないことだからです。たしかに、目が見えなければ春の華やかさと美しさはわかりません。が、そんなものは、霊の華やかさと輝きに較べれば、物の数ではありません」
「でも、私たちは、今なおこの世界にいるのです」
「その通りですね。ですが、俗世にありながら俗世に染まらない生き方もできることを知ってください」
祈り
愛の絆は死によって切断されることはなく……
ああ、大霊よ。あなたの限りなき愛の深さを誰が測り得ましょう。あなたの奇しき恩恵を誰が説き明かせましょう。あなたの神々しき尊厳を誰が正しく描写し得ましょう。
あなたは限りある理解力を超えた存在にあらせられます。あらゆる限界と束縛とを超越した存在にあらせられます。あなたは無限なる霊――かつて存在したものと、これから存在するであろうもののすべての根源にあらせられるのでございます。
あなたの霊性が“愛”に存在を与え、あらゆる意識的存在にあなたの神性の属性を賦与なされました。人間を理想主義と自己犠牲と奉仕の精神に燃え立たしめるのも、内部に湧き立つあなたの霊性にほかなりません。
このことは、あなたが人間の内部に顕現しておられるということであり、その意味において人間は極微の形態をとった大霊と言えるのでございます。
わたしたちはあなたの子等に、その霊性に秘められた資質と属性と才能のすべてを自覚させてあげたいと望んでおります。その認識なくしては、人間は無知の中に生きていることになるのでございます。武器を持たずに戦場へおもむくのにも似ておりましょう。
それに引きかえ、自己の存在の実相に目覚めた者は、万全の装備を整えたことになり、生きるということの中に美しさと愉(たの)しさと充実感と輝きとを見出すことができるのでございます。
さんさんと輝く陽光のもとに生きられるものを、実在によって映し出される影の中で生きている者が多すぎます。安定性と落ち着きと自信をもたらしてくれるはずの知識を欠くがゆえに煩悶の絶えない人、内なる嵐にさいなまれ続けている人が多すぎます。
わたしどもがこの地上という物質の世界にもたらしたいのは、その霊的実在についての“知識”でございます。それによって地上の子等が真実の自我を理解し、あなたとのつながり、および同胞とのつながりについて理解し、愛の絆は死によって切断されることはなく、情愛によるつながりも血縁によるつながりも、死後もなお存続するものであることを知ることになりましょう。
それもわたしたちの使命の一環なのでございます。その目的のために、これまで一身を捧げてまいりました。少しでも広く真理を普及させることでございます。子等が知識によって武装し、理性によって導かれ、永遠なる霊力の理解のもとに生きることができますように……そう祈るからでございます。
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