Thursday, June 13, 2024

シアトルの初夏 苦しみの要素も摂理の一環です。

The element of suffering is also part of providence.




「苦しみの要素も摂理の一環です。いわれのない苦しみを被っていると思っている人も、やはり過去において何らかの形で摂理に反したことをしているからこそ、今のその苦しみがあるのです。それが因果律というものです。苦しみを味わってこそ摂理がわかるのです」
「でも、苦しむことだけが向上の唯一の道ではないと思いますが……」とメンバーの一人が言う。


「もちろんそうです。ですが、大切な道の一つであることは間違いありません。苦難や危険や困難から逃避しようとする人が、わたしには理解できません。目的を達成しようとすれば、あるいは、持てる資質を磨き上げようとすれば、試練の炎をくぐり抜けなければなりません。鍛えられ、しごかれないといけません。それ以外に一体どうすれば本当の性根が確かめられるのでしょうか」

すると別の出席者が――

「“慈悲深き神”という概念を説く人がおり、そういう人にとっては、苦難を通しての人格の陶冶(とうや)などということは無縁のようです」


「神が慈悲深いということを、どこのどなたが説いておられるのか知りませんが、神とは摂理のことです。究極においては慈悲深い配慮が行きわたっておりますが、そこに至る過程においては日照りの日もあれば雨の日もあり、雪の日もあれば嵐の日もあり、穏やかな日もあれば雷鳴の轟(とどろ)く日もあり、酷暑の日もあれば酷寒の日もあり、それがすべて法則によって支配されているのです。

わたしは、それと同じことが愛と憎しみ、怒りと純情についても言えることを説いたことがあります。そこにも大霊の摂理の働きがあるからです。が、それが理解できない人が大勢いらしたようです。大霊が憎しみの中にも宿るということが理解できないのです。しかし大霊は、大霊であるがゆえにこそ、必然的にすべてに宿るのです。摂理なのです。完全なる法則なのです」

「では、その摂理に完全にのっとった生き方をすれば、神の慈悲がわかるのでしょうか」と別のメンバーが述べる。


「もちろん、そういうことになります。ですが、そこまでに至る過程は永遠なのです。そのうちあなたも、地上人生を明確な視野のもとに見つめ直す時がまいります。その時、苦難こそ最も大切な教訓を教えてくれていること、もしもあの時あれだけ苦しまなかったら、悟りは得られなかったであろうことを、しみじみと実感なさいます。辛い教訓ではあります。が、教訓とはそういうものなのです。もしも教訓がラクに学べるものだとしたら、もしも人生に苦労も誘惑も困難もなく、気楽な漫遊の旅だったら、それは頽廃ヘの道を進んでいることになります」

その後の交霊会でも同じテーマが持ち出されて、シルバーバーチはこう語った。


「痛みも苦しみもない人生、辛苦も悲哀もない人生、常に日向を歩き、日陰というものがない人生を送る人は、地上には一人もいません。少なくともわたしは、そういう人を知りません」

すると、こういう質問が出された。

「もしも人格の陶冶にとって苦難が不可欠のものであるとしたら、苦しむことを知らない人たちがいるのは一種の不公平であるように思えますが……」


「苦しむことを知らない人がいる――それはどなたがおっしゃったのでしょうか。苦しみというものは必ずしも第三者の目に見える外面的なものばかりとはかぎりません。心が、精神が、魂が、その内奥で感じるのが本当の苦しみです。人間生活を日常のうわべの現象だけで判断してはなりません。それをどう受け止めていくかは、魂の問題です」

「苦難がそれほど大切なものであり、霊的進化にとって不可欠のものならば、なぜあなたは人の苦しみを和らげてあげる行為を奨励なさるのでしょうか」


「おっしゃる通り、わたしはそのことを大いに奨励いたします。ですが、よろしいですか、わたしは、いつの日かこの地上から全ての苦の要素が取り除かれて完璧な世界となると想像するほど愚かではありません。生命の進化は限りなく続くのです。わたしは三千年を生きてきた今、そう悟っているのです。その無限の階梯を登り続けるには、刻一刻と絶え間なく進化していかねばなりません。そして、その進化とは、不完全なものが少しずつ完全になっていくということを意味するのですから、それは当然、苦を伴う過程であるはずです。

そのこととは別に、同じく苦しむのでも、地上には無用の苦しみが多すぎるという事実を指摘したいのです。みずから背負(しょ)い込んでいる苦しみ、みずから好んで無知と愚かさの道を選んだために引き起こしている苦しみ、偏見が生み出している苦しみ、迷信に捉われているために生じている苦しみ――わたしが取り除きたいのは、そうした無くもがなの苦しみです。しかし人間は、本来が進化の要素を秘めた存在ですから、光明へ向けての葛藤の絶えることはありません。何事につけ、創造の過程には苦しみはつきものなのです。

問題は、人間の多くが、自分が今置かれている境遇に不満をかこつばかりで、過去の生活を冷静に振り返り、不満に思える現在の境遇から一歩離れて冷静に反省すれば、この世はすべて闇だ、イヤなことばかりだと思えたその時期こそ、霊的に最も大きく成長していたことが分かるということを、なかなか悟ってくれないことです」

「しかし、場合によっては、苦しみの体験が性格をいじけさせることもあります」


「それは、その体験が魂の本性を引き出すまでに至らなかったということです。それまでに顕現していた側面が、苦難の体験後もまだ真実の自我とはなっていないということです。実在がまだ顔を出していないのです」

別のメンバーが尋ねる――

「霊的な能力のある人とない人とがいるのはなぜでしょうか」


「潜在的にはすべての人間が霊的能力を所有しております。人間も本来は霊的存在である以上、それは当然のことです。ただ、人によってその能力が顕在意識の近くまで発達しているためにすぐに発揮される場合があるということです。

ですから今のご質問は“スタイルのいい人と悪い人がいるのはなぜですか”“絵の上手な人と下手な人とがいるのはなぜですか”というのと同じです。その拠(よ)ってきたる原因はちゃんとあるわけですが、それを全部説明するのは大変です」

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