今世紀最大の劇作家の一人としてジョージ・バーナード・ショウ(※1)を挙げることに異論を唱える人はいないであろう。この辛辣(しんらつ)な風刺家が“フリート街の法王”(※2)の異名をもつ、同じく劇作家のハンネン・スワッファーのインタビューを受けた――これだけでも大変なニュースだった。
※1――George Bernard Shaw(1856~1950)アイルランド生まれの英国の劇作家・評論家。一九二五年にノーベル文学賞を受賞。辛辣な批評と風刺で知られた。一度来日したことがあり、その時に日本の印象を聞かれて「ああ、日本にも家があるなと思いました」と答えたという。禁煙運動について意見を求められて「タバコを止めるのは簡単だよ。私なんか何度も止めたよ」と答えている。
※2――フリート街というのは英国の新聞社が軒をつらねている所で、つまりは英国ジャーナリズム界の御意見番的存在の意味。ショウとの年齢差は二十五歳で、スワッファーにとっては大先輩だった。
そのインタビューは、ショウが《タイム》誌上で、奥さんの死に際して寄せられた多くの悔やみ状に対する感謝の意を表明したあとに準備されたものだった。
当時すでに八十七歳だったショウは、スワッファーに「こんどは自分の番だ。もう悟り切った心境で待ってるよ」と言い、続けて、
「わたしなんか、もうどうでもいいという気分だ。あんたもわたしも似たような仕事をしてる。人さんにいろいろと物語ってあげてるわけだ。それはそれで結構なことだが、それで世の中がどうなるというものでもないよ」と付け加えた。
スワッファーが「あなたもいずれ死なれるわけですが、死んだらどうなると思っていらっしゃいますか」と尋ねると――
「死ねばこの世からいなくなっちまうということだ。わたしは死後の存続は信じたことはないし、今も信じていない。死後も生きてると信じている人間で、それがどういうことを意味するかが本当にわかっている人間がいるなんて、わたしには考えられないね」
ここではスピリチュアリズムに関係したものだけを紹介したが、ショウ対スワッファーの対談は大変なセンセーションを巻き起こした。同じ頃に催されたシルバーバーチの交霊会でも当然その話題が持ち出され、興味ある質問が出された。それを紹介しよう。
まず最初の質問は「ショウのようなタイプの人物を待ちうける環境はどんなものでしょうか」というものだった。シルバーバーチは例によって個人の問題にしぼらずに、普遍的なものに広げて、こう語った。
「洞察力に富む人間は、無意識のうちに、さまざまな形で実在に触れておりますから、待ちうける新しい体験を喜びの中に迎えることになります。死んだつもりがまだ生きていることに、最初はショックを受けますが、新しい環境での体験を重ねるうちに、精神的能力と霊的能力とが目覚めて、その素晴らしさを知るようになります。
叡智・知識・教養・真理、それに芸術的作品の数々が、ふんだんに、それも地上よりはるかに高度のものが入手できることを知って喜びを覚えます。肉体の束縛から解放されて今やっと本来の自我が目を覚まし、自分とは何かを自覚しはじめ、肉体の制約なしにより大きな生活の舞台での霊妙な愉しみが味わえる――それがいかなるものであるかは、とうてい地上の言語で説明できる性質のものではありません。
とにかく、どの分野に心を向けても――科学であろうと哲学であろうと、芸術であろうと道徳であろうと、その他いかなる知識の分野であろうと、そこには過去の全時代のインスピレーションが蓄積されているばかりでなく、それを受け入れる用意のある者にはいつでも授けるべく、無数の高級霊が待ちうけているのです。
飽きることのない楽しい冒険の世界が待ちうけております。他界して間もないころは、個人的な縁による結びつき、たとえば先に他界している家族や知人、地上に残した者との関係が優先しますが、そのうち、地上界のごとき物的制約を受けることなく広がる自然の驚異に触発されて、目覚めた霊性が急速に発達してまいります」
ショウ対スワッファーという劇的な対面がさまざまな話題を生み、それに関連したさまざまな質問に答えたあと、シルバーバーチはこうしめくくった。
「真理がすべてに優先します。真理が普及すれば虚偽が退散し、無知と迷信が生み出した霧と陰が消えてまいります。現在の地上にもまだ、生活全体をすっぽり包み込む、無知という名の闇の中で暮らしている人が無数におります。
いつの時代にも、霊の力が何らかの形で、その時代の前衛たる者――パイオニア、改革者、殉教者、教育家等々、輝ける真理の旗を高々と掲げた人々の心を鼓舞してまいりました。地上に存在するあらゆる力を超越した霊妙な何かを感じ、人類の未来像を垣間(かいま)見て、彼らはその時代に新たな輝きを添えたのでした。彼らのお蔭で多くの人々が暗闇のべールを突き通して、光明を見出すことができたのでした。彼らのお蔭で、用意のできていた者が、みずからの力で足枷を解きほどく方法(すべ)を知ったのでした。暗い牢獄からみずからの魂を解き放す方法を知ったのです。生活全体に行きわたっていた、うっとうしい空気が消えました。
地上世界の全域に、啓発の勢力が徐々に、実に牛の歩みではありますが、行きわたりつつあります。それにつれて無知の勢力が退却の一途をたどっております。今や地上人類は進軍の一途をたどっております。さまざまな形での自由を獲得しました――身体の自由、精神の自由、霊の自由です。偏見と迷信と無知の勢力から人類を解き放す上での一助となった人はみな、人類の永い歴史の行進を導いてきた、輝ける照明です。
魂の挫折感を誘発するのは、精神上の倦怠感と絶望感です。精神が明るく高揚している時こそ、魂は真の自我を発揮し、他の魂を永遠の光明へ向けて手引きするほどの光輝を発するのです」
さらに“生命力”の問題にふれて――
「生命力が存在することに疑問の余地はありません。生命は、それにエネルギーを与える力があるからこそ存在します。それが動力源です。その本質が何であるかは、地上の人間には理解できません。いかなる科学上の器具をもってしても検査することはできません。化学的分析もできません。物的手段による研究は不可能なのです。
人間にとっては“死”があり、そして“生命”がありますが、わたしたちから見れば“霊”こそ生命であり、生命はすなわち“霊”であるというふうに、きわめて単純に理解できます。物質界というのは永遠の霊の光によって生じた影にすぎません。物質はただの“殻”であり、実在は霊なのです。
意識のなかったところに生命を与えたのが霊です。その霊があなたに自分を意識させているのです。霊こそ大霊によって人間に吹き込まれた息吹、神の息吹であり、その時点から自我意識をもつ生きた存在となったのです。
人間に神性を与えているのは、その霊なのです。その霊が人間を原始的生命形態から今日の段階へと引き上げてくれたのです。ただの禽獣(きんじゅう)と異なるのは、その霊性です。同胞に有徳の行為をしたいと思わせるのも、その霊性です。自分を忘れ、人のためを思う心を抱かせるのも、その霊性です。少しでも立派になろうと心がけるようになるのも、その霊性のお蔭です。良心の声が聞こえるのも霊性があるからこそです。あなたはただの物質ではありません。霊なのです。この全大宇宙の運行と、そこに生活する全生命を経綸している力と同じものなのです。
人間は、その宇宙霊、その大生命力が個別性をそなえて顕現したものです。人間は個的存在です。神性を帯びた炎の小さな火花です。みなさんのいう神、わたしのいう大霊の、不可欠の一部分を占めているのです。その霊性は死によっていささかも失われません。火葬の炎によっても消すことはできません。その霊性を消す力をもったものは、この全大宇宙の中に何一つ存在しません」
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