Monday, September 30, 2024

シアトルの秋 良心の声

voice of conscience

   Silver Birch Speaks Again

Edited by S. Phillips


More Wisdom of Silver Birch (次の第七巻として翻訳の予定───訳者) を読んだ読者からサークル宛に長文の手紙が寄せられた。その大要を紹介すると───

 〝私の知っている人の中には神を畏(おそ)れ教会を第一主義とする信心深い人が大勢います。その人たちは確かに親切心に富み喜んで人助けをする人たちで、教会が善いこと正しいこととして教えるものを忠実に守っております。

ところが何でもないはずの霊的事実を耳にすると、それを悪魔のしわざであるとか罪深きこととか邪悪なことと言って恐れます。その無知は情けなくなるほどです。

 ところで、こうした人たち及びこれに類する、言わば堅実に生きる善人は、私の考えでは、偏見のない良心と、何世代にもわたって教え込まれてきた幼稚な教説によって汚染された良心との区別がつかなくなっているのだと思います。

たとえば日曜日に教会へ出席しなかっただけで悩んだりします。彼らにとっては礼拝に出席することが神の御心に適ったことであり、善であり、正しいことであり、したがって欠席することは間違ったことであり、罪深いことであるかに思えるのです。

 そうした思考形式が魂に深く植えつけられた場合、いったいどうすれば正常に戻すことが出来るでしょうか。彼らが呵責(かしゃく)を覚えているのは本当はシルバーバーチ霊がおっしゃる偏りのない良心ではありません。
℘161
一種の偏見によって本当の良心が上塗りをされております。そこでシルバーバーチ霊にお願いしたいのは、本当の良心とは何か、それと見せかけの良心とを見分けるにはどうしたらよいかを教えていただきたいのです〟云々・・・


 この手紙の主旨を聞かされたシルバーバーチは次のように答えた。

 「地上においても霊界においても、道徳的、精神的ないし霊的問題に関連してある決断を迫られる事態に直面した時、正常な人間であれば〝良心〟が進むべき道について適確な指示を与える、というのが私の考えです。神によって植えつけられた霊性の一部である良心が瞬間的に前面に出て、進むべきコースを指示します。

 問題は、その指示が出たあとから、それとは別の側面がでしゃばりはじめることです。偏見がそれであり、欲望がそれです。良心の命令を気に食わなく思う人間性があれこれと理屈を言い始め、何かほかに良い解決方法があるはずだと言い訳を始め、しばしばそれを〝正当化〟してしまいます。しかし、いかに弁明し、いかに知らぬふりをしてみても、良心の声がすでに最も正しい道を指示しております」
℘162
 サークルの一人 「この手紙にはスピリチュアリズムは間違いであると思いこんでいる実直で真面目な教会第一主義の信心家のことが述べられておりますが・・・」


 「それはもはや良心の問題ではなく、精神的発達の問題です。問題が全く別です。それは間違った前提に立った推理に過ぎません。私のいう良心は内的な霊性に関わる問題において指示を必要とする時に呼び出されるものです」


───でも、良心は精神的発達と密接につながっていませんか。

 「つながっている場合とつながっていない場合とがあります。私は良心とは神が与えた霊的監視装置で、各自が進むべき道を的確に指示するものであると主張します」


─── 一人の人間は正しいと言い、別の人間は間違いだと言う場合もあるでしょう?

 「あります。が、そのいずれの場合においても、自動的に送られてくる良心による最初の指示が本人の魂にとってもっとも正しい判断であると申し上げているのです。
℘163
問題はその指示を受けたあとで、それに不満を覚え、ほかにもっとラクで都合のいい方法はないものかと、屁理屈と正当化と弁解を始めることです。

しかしモニターによってすでに最初の正しい指示が出されているのです。この説はあまり一般受けしないかも知れませんが、私の知る限り、これが真実です」


───東洋の宗教は古くから人間の内部に宿る神を強調していますね。

 「私なら神の内部に宿る人間を強調したいところです。私に言わせれば〝人間の中の大霊〟といっても〝大霊の中の人間〟と言ってもまったく同じことです。神と人間とは永遠の繋がりがあります。神は絶対に切れることのない愛の絆によって創造物と繋がっております。

進化の程度において最下等のものから最高の天使的存在にいたるまでの全存在が神の愛と生命の活動範囲の中におさまっています。程度が低すぎて神から見放されることもなければ、高すぎて神を超えてしまうこともあり得ません」
℘164
───すべてが大霊の一部だからですね。


 「そうです。〝一部〟といっても説明が困難ですが、人類のすべてが神性の一部を有しております。これは大切な真理で、これさえ理解され生活の規範とされるようになれば、世界のすべての人間が霊的な威力を呼び覚まし、日々生じる問題について新しい視野で対処できるようになることでしょう」


───神はすべての界層において平等に顕現しているのでしょうか。それとも地上の人間だけがそれを悟れないでいる、あるいは捉らえ損ねているのでしょうか。それとも人間が死後の界層を進化していくにつれて神の顕現の分量が増していくのでしょうか。

 「それは要するに受容力の問題です。神は無限です。無限なるものには際限がありません。制限がありません。神の恵みは果てしなく広がっています。知りつくすということは絶対にできません。人間はいつまでも進化し続ける存在です。進化するにつれて受容力が増します。受容力が増すにつれて理解力が増し、かくしてその分だけ神を理解できることになります」
℘165      
───ここに二人の人間がいて、一人は元気盛りでもう一人は死期を迎えて肉体との関係が稀薄になっているとします。この場合、後者の方が霊的な影響を受けやすいのでしょうか。


 「必ずしもそうとは言い切れません。肉体から離れるということは必ずしも進化を決定づけるものではありません。私の世界にも地上の人間より進化の程度の低い霊がそれはそれは大勢います。たしかに肉体はその本性そのもののために人間の精神の表現を制約しておりますが、人類全体として言えば、地上のいずれにおいても霊性の発達のための余地がふんだんに存在します」


───その発達の為に努力することが霊のためになるのだと思います。そうでなかったら地上に存在する意味が無いことになるからです。肉体というハンディを背負いながら成長しようと刻苦することが魂にとって薬になるのだと思います。

 「もちろんですとも。困難を克服しようと努力するとき、次々と振りかかる障害に必死に抵抗していくとき、不完全さを補い完全へ向けて努力するとき、そのときこそ神性が発揮されるのです。それが進化の諸相なのです」

℘166
───地上というとこは魂の修行場としていろんな面で有利であるといった趣旨の話をよく耳にします。地上的闘争をくぐり抜けねばならないということそれ自体が地上の良さでもあると言えると思うのです。

 「おっしゃる通りです。当然そうあらねばなりません。もしそうでなかったら地上へ生れてくることもないでしょう。宇宙の生命の大機構の中にあって、この地上もそれなりの役割があります。地上は保育所です。訓練所です。いろんなことを学ぶ学校です。身支度をする場です。

潜在している才能が最初に目を出す場であり、それを人生の荒波の中で試してみる所です。そうした奮闘の中ではじめて真の個性が形成されるのです。闘争もなく、反抗もなく、困難もなく、難問もないようでは、霊は成長しません。進化しません。奮闘努力が最高の資質、最良の資質、最大の資質、最も深層にある資質を掘り起こすのです」


───若くして他界した場合はどうなるでしょうか。
℘167
 「そうくると思ってました」


───これには二つのケースがあると思うのです。一つは、もしそれがその人の寿命であれば、それまでに霊的にはすでに他界する準備が出来ていた場合。もう一つは死後その埋め合わせのために物質界との接触を通じて進化を得る場合です。

 「あなたは親切な方ですね。質問なさると同時に二つも答えを用意して下さいました。ご質問に対する答えは、古くからある恐怖の輪廻転生思想と、私の説く再生説即ち前回の地上生活での不足分を補う為に地上のどこかに誕生するという、この二つの説のうちのどちらかをお選びください。

あなたの気に入られた方をお取りになればよろしい。私の説はすでによくご存じでしょう。しかし、ここで強調しておきたいのは次の点です。

 よく分らないことが沢山あります。私たちも所詮すべての知識は持ち合わせておりません。しかし同時に、矛盾を恐れずに申し上げれば、神は完全であるゆえに摂理も完全です。

(訳者注───すべての知識は持ち合せないといいながら神は完全であると断定するのは明らかに矛盾しているが、第十章の後半で、過去三千年の体験からそう信じるに足るだけの証を手にしているのだと述べている)
℘168
いかなる困難が生じても、そして、たとえそれに対して私たちがあなたに満足のいく回答をお授けすることができなくても、それは神の計画に欠陥があるということではありません。絶対にそういうことはありません。〝愛〟が宇宙を支配しているのです。無限の範囲と適用性を持つ愛です。

いったんその愛があなたを通じて働くようになれば、あなたは一変し、あなたに生を与えた霊力と一体になります」(先に述べた矛盾を超越してなるほどと実感を持って得心できるということ───訳者)


───こうした問題は限られた人間的理解力を超えているというのは本当でしょうか。私たちは宿命的に理解不可能なのでしょうか。

 「無限の顕現を持つ宇宙を理解しようとするとき人間の肉体的構造が一つの限界となることは、一般的に言って事実です(霊覚者は別ということ───訳者)。決して知識欲に水を差すつもりで申し上げるのではありません。が、

私たちはあくまでも現実を見失ってはなりません。幾十億と知れぬ人間が生活する地上に目を向けてみましょう。その大半がここにいらっしゃる方が当たり前と思っている霊的真理にまったく無知なのです。その知識からあなた方が得ている喜びが彼らには保証されていないのです。
℘169
その生活は悲劇と哀しみに満ちております。しかも、いずこに救いを求めるべきかも知らずにおります。ならば、私たちこそ、これまでに得た知識を少しでもそういう人たちに分けてあげることでお役に立つことができるのではないでしょうか。そうすることが知識を獲得した者が担う責任、つまりそれをさらに他の人々にも分けてあげるという責任を遂行することになるのではないでしょうか」


───それこそが、こうして私たちがこの部屋に集まっているそもそもの目的だと思います。

 「そうです。それが目的でここに集まっているのです。それこそが私たちの双肩に掛かっている仕事です。あらんかぎりの力を尽くしてその遂行に当たらなければなりません。われわれにとって可能な限りの人数を達成するまでは気を抜いて安心してはなりません」


 ここで話題が変わって、もう一人の招待客が 「夜空に見える星はただの物体でしょうか。それとも生命が存在するのでしょうか」と尋ねた。
℘170
 「どうやら少し深みに入ってきたようですね。地上世界の知識もまだまだ限界に到達しておりませんが、私たちの世界にいたっては遥かに限界からほど遠い状態です。宇宙には最高界の天使的存在から、意識がようやく明滅する程度の最低の魂に至るまでの、さまざまな意識的段階にある生命が無数に存在します。

意識的生命が地球だけに限られていると思ってはなりません。地球は数限りなく存在する天体のうちの、たった一つに過ぎません。無限なる叡知を持つ宇宙の大霊が、無限なる宇宙において無限なる意識的段階にある無数の生命に無限の生活の場を与えることができないはずがありません。

有機的生命の存在する天体は無数にあります。ただし、その生命は必ずしもあなた方が見慣れている形態をとるわけではありません。以上の説明が私としては精一杯です」


───それもやはり人間的存在なのでしょうか。

 「今私は、少し深みに入ってきたと申し上げました。ある種の形態、すなわち形と大きさと運動を持ち、環境に働きかけることができる意識的存在という意味では人間と同じ組織的存在ですが、例外はあるにしても、そのほとんどはあなた方が親しんでおられる形態の組織体と同じではありません。どうやらこれ以上の説明は無理のようです」

℘171
───あなたはそうした存在を御覧になったり話を交わしたことがおありですか。

 「私の方からその天体にまで赴いて話をしたことはありませんが、あなた方の死に相当する過程を経たあと霊的形態に宿って話を交わしたことはあります。ですが、忘れないでいただきたいのは、あなた方が地上の生命とまったく類似性のない生命に言及されると、それをなぞらえるべき手段を見出すのが困難なのです」

訳者注───地球人類が他の天体上の意識的生命をうんぬんするとき、とかく人間的身体と同じ形態を具えたものを想像しがちであるが、各種の霊界通信から推察すると、むしろ地球人類の方が特殊な部類に属し、幾千億と知れぬ天体上には人間の想像を超える形態を具えた存在が躍如たる生命活動を営んでいるようである。

シルバーバーチが説明困難といったのは、なぞらえるべきものが見当たらないのも一つの理由であるが、うっかり説明し始めるとつい〝深み〟にはまり込んでしまって、にっちもさっちもいかなくなるという危惧があるようである。むろんそれ以前に、今の人類にそんなものは必要ないという配慮もあることであろう。
                

Sunday, September 29, 2024

シアトルの秋 光と旋律による饗宴

A feast of light and melody



一九一三年十二月四日  木曜日


 いささか簡略に過ぎた嫌いはあるが、天界においてより精妙な形で働いている原理が地上においても見られることを、ひと通り説明した。そこで次は少しばかり趣きを変えて話を進めようと思う。

本格的な形では吾々の世界にしか存在しない事柄を幾ら語ったところで、貴殿には理解できないであろうし、役にも立たないであろうが、旅する人間は常に先へ目をやらねばならない。これより訪れる国についての理解が深ければ深いほど足どりも着実となるであろうし、到着した時の迷いも少ないことであろう。

 然らばここを出発点として──物質のベールを超えて全てが一段と明るい霊的界層に至り、まず吾々自らがこの世界の真相を学ぶべく努力し、そしてそれを成就した以上──その知識をこののちの者に語り継ぐことが吾々の第一の責務の一つなのである。

 他界後、多くの人間を当惑させ不審に思わせることの一つは、そこに見るもの全てが実在であることである。そのことについては貴殿はすでに聞かされているが、それが余りにも不思議に思え予期に反するものである様子なので、今少し説明を加えたいと思う。

と申すのも、そこに現実に見るものが決して人間がよく言うところの〝夢まぼろし〟ではなく、より充実した生活の場であり、地上生活はそのための準備であり出発点に過ぎないことを理解することが何よりも大切だからである。

何故に人間は生長しきった樫の木より苗木を本物と思いたがり、小さな湧き水を本流より真実で強力と思いたがるのであろうか。地上生活は苗木であり湧き水に過ぎない。死後の世界こそ樫の木であり本流なのである。

 実は人間が今まとっている肉体、これこそ実在と思い込んでいる樹木や川、その他の物的存在は霊界にあるものに比して耐久性がなく実在性に乏しい。なぜなら、人間界を構成するエネルギーの源はすべて吾々の世界にあるのであり、その量と強烈さの差は、譬えてみれば発電機と一個の電灯ほどにも相当しよう。

 それ故人間が吾々のことを漂う煙の如く想像し、環境をその影の如く想像するのであれば、一体そう思う根拠はどこにあるのかを胸に手を当てて反省してみよと言いたい。否、根拠などあろうはずがないのである。あるのは幼稚なる愚かさであり、他愛なき想像のみなのである。

 ここで私はこちらの世界における一光景、ある出来ごとを叙述し、遠からぬ将来にいずれ貴殿も仲間入りする生活の場を紹介することによって、それをより自然に感じ取るようになって貰いたいと思う。

この光あふれる世界へ来て地上を振り返れば、地上の出来ごとの一つ一つが明快にそして生々しく観察でき、部分的にしか理解し得なかったことにもそれなりの因果関係があり、それでよかったことに気づくことであろう。

が、それ以上に、こうして次から次へと無限なるものを見せつけられ、一日一日を生きている生活も永遠の一部であることを悟れば、地上生活が如何に短いものであるかが判るであろう。

 さて、スミレ色を帯びたベールの如き光が遠く地平線の彼方に見え、それが前方の視界をさえぎるように上昇しつつある。その地平線と今私が立っている高い岩場との間には広い平野がある。その平野の私のすぐ足もとの遥か下手(しもて)に大聖堂が見える。これが又、山の麓に広がる都の中でも際立って高く聳えている。 

 ドームあり、ホールあり、大邸宅あり、ことごとくまわりがエメラルドの芝生と宝石のように輝く色とりどりの花に囲まれている。広場あり、彫像あり、噴水あり、そこを、花壇を欺(あざむ)くほどの美しさに輝き、色彩の数も花の色を凌ぐほどの人の群れが行き交っている。

その中に、他を圧するようにひときわ強く輝く色彩が見える。黄金色である。それがこの都の領主なのである。

 その都の外郭に高い城壁が三か月状に伸び、あたかも二本の角(つの)で都を抱きかかえるような観を呈している。その城壁の上に見張りの姿が見える。敵を見張っているのではない。広い平地の出来ごとをいち速く捉え、あるいは遠い地域から訪れる者を歓迎するためである。

 その城壁には地上ならば海か大洋にも相当する広大な湖の波が打ち寄せている。が、見張りの者にはその広大な湖の対岸まで見届ける能力がある。そう訓練されているのである。その対岸に先に述べたベールのような光が輝いており、穏やかなうねりを見せる湖の表面を水しぶきを上げて往き交う舟を照らし出している。

 さて私もその城壁に降り立ち、これより繰り広げられる光景を見ることにした。やがて私の耳に遠雷のような響きがそのスミレ色の光の方角から聞こえてきた。音とリズムが次第に大きくなり、音色に快さが増し、ついに持続的な一大和音(コード)となった。

 すると高く聳える大聖堂から一群の天使が出て来るのが見えた。全員が白く輝く長服をまとい、腰を黄金色の帯で締め、額に黄金の環帯を付けている。やがて聖堂の前の岩の平台に集結すると、全員が手を取り合い、上方を向いて祈願しているかに見える。

実は今まさにこの都へ近づきつつある地平線上の一団を迎えるため、エネルギーを集結しているのであった。

 そこへもう一人の天使が現われ、その一団の前に立ち、スミレ色の光の方へ目をやっている。他に較べて身体の造りが一回り大きく、身につけているものは同じく白と黄金色であるが、他に比して一段と美しく、顔から放たれる光輝も一段と強く、その目は揺らぐ炎のようであった。

 そう見ていた時のことである。その一団の周りに黄金色の雲が湧き出て、次第に密度を増し、やがて回転し始め一個の球体となった。全体は黄金色に輝いていたが、それが無数の色彩の光から成っていた。それが徐々に大きくなり、ついには大聖堂をも見えなくした。それから吾々の目を見張らせる光景が展開したのである。

 その球体が回転しつつ黄金、深紅、紫、青、緑、等々の閃光を次々と発しながら上昇し、ついには背後の山の頂上の高さ、大聖堂の上にまで至り、更に上昇を続けて都の位置する平野を明るく照らし出した。気がついてみると、さきほど一団が集合した平台には誰れ一人姿が見当たらない。

その光と炎の球体に包まれて上昇したのである。これはエネルギーを創造するほどの霊力の強烈さに耐えうるまでに進化した者にしかできぬ業(わざ)である。球体はなおも上昇してから中空の一点に静止し、そこで閃光が一段と輝きを増した。

 それから球体の中から影のようなものが抜け出てきて、その球面の半分を被うのが見えた。が、地平線上の例のスミレ色の光の方を向いた半球はそのままの位置にあり、それが私に正視できぬほどに光輝を増した。見ることを得たのは、スミレ色の光から送られるメッセージに応答して発せられ平地の上空へ放たれたものだけであった。

 そのとき蜜蜂の羽音のようなハミングが聞こえてきた。そしてスミレ色の光の方角から届く大オーケストラの和音(コード)と同じように次第に響きを増し、ついに天空も平野も湖も、光と旋律とで溢れた。天界では、しばしば、光と旋律とは状況に応じてさまざまな形で融合して効果をあげてゆくのである。

 すでにこの時点において、出迎えの一団と訪問の一団とは互いに目と耳とで認識し合っている。二つの光の集団は次第に近づき、二つの旋律も相接近して美事な美しさの中に融合している。両者の界は決して近くはない。天界での距離を地上に当てはめれば莫大なものになる。

両者は何十億マイル、あるいは何百億マイルも遠く離れた二つの恒星ほども離れており、それが今その係留(けいりゅう)を解(ほど)いて猛烈なスピードで相接近しつつ、光と旋律とによって挨拶を交わしているのに似ている。

これと同じことが霊的宇宙の二つの界層の間で行われていると想像されたい。そうすれば、その美しさと途方もなく大きな活動は貴殿の想像を絶することが判るであろう。

 そこまで見て私はいつもの仕事に携わった。が、光はその後もいやが上にも増し、都の住民はその話でもちきりであった。この度はどこのどなたが来られたのであろうか。前回は誰それが見えられ、かくかくしかじかの栄光を授けて下さった。等々と語り合うのであった。

 かくて住民はこうした機会にもたらされる栄光を期待しつつ各々の仕事に勤しむ。天界では他界からの訪問者は必ずや何かをもたらし、また彼らも何かを戴いて帰り住民に分け与えるのである。

 それにしても、その二つの光の集団の面会の様子を何とかうまく説明したく思うのであるが、それはとても不可能である。地上の言語では到底表現できない性質のものだからである。実はこれまでの叙述とて、私にはおよそ満足できるものではない。

壮麗な光景のここを切り取りあそこを間引きし、言わば骨と皮ばかりにして何とか伝えることを得たにすぎない。かりにその断片の寄せ集めを十倍壮麗にしたところで、なお二つの光の集団が相接近して会合した時の壮観には、とても及びもつかぬであろう。

天空は赫々(カクカク)たる光の海と化し、炎の中を各種の動物に引かれたさまざまな形態の馬車に乗った無数の霊(スピリット)が、旗をなびかせつつ光と色のさまざまな閃光を放ちつつ往き交い、その発する声はあたかも楽器の奏でる如き音色となり、それが更にスミレ色の花とダイヤモンドの入り混じった黄金の雨となって吾々の上に降りそそぐ。

 なに、狂想詩? そうかも知れない。単調きわまる地上の行列──けばけばしい安ピカの装飾を施され、それが又、吾々の陽光に比すればモヤの如き大気の中にて取り行われる地上の世界から見れば、なるほどそう思われても致し方あるまい。

が、心するがよい。そうした地球及び地上生活の生ぬるい鬱陶(ウットウ)しさのさ中においてすら、貴殿は実質的には本来の霊性ゆえに地上の者にはあらずして、吾々と同じ天界に所属する者であることを。故に永続性の無い地上的栄光を嗅ぎ求めて這いずり回るような、浅ましい真似だけは慎んでほしい。

授かったものだけで満足し、世の中は万事うまく取り計らわれ、今あるがままにて素晴らしいものであることを喜ぶがよい。ただ私が言っているのは、この低い地上に置いて正常と思うことを規準にして霊界を推し量ってはならないということである。

 常に上方を見よ。そこが貴殿の本来の世界だからである。その美しさ、その喜びは全て貴殿のために取ってある。信じて手を差しのべるがよい。私がその天界の宝の中から一つずつ授けて参ろう。心を開くがよい。来たるべき住処の音楽と愛の一部を吾々が吹き込んでさしあげよう。

 差し当たっては有るがままにて満足し、すぐ目の前の仕事に勤しむがよい。授かるべきものは貴殿の到来に備えて確実に、そして安全に保持してある。故にこの仕事を忠実にそして精一杯尽くすがよい。

それを全うした暁には、貴殿ならびに貴殿と同じく真理のために献身する者は、イエスのおん血(ヘブル書9)を受け継ぐ王として或いは王子として天界に迎えられるであろう。

聖なるものと愛する者にとってはイエスのおん血はすなわちイエスの生命なのである。なぜならイエスは聖なるものの美を愛され〝父〟の聖なる意志の成就へ向けて怯(ひる)むことなく邁進されたからである。人間がそれを侮辱し、それ故に十字架にかけたのであった。

主の道を歩むがよい。その道こそ主を玉座につかしめたのである。貴殿もそこへ誘(いざな)われるであろう──貴殿と共に堂々と、そして愛をもって邁進する者もろともに。

 主イエスはその者たちの王なのである。 ♰

シアトルの秋 あらためて基本的真理を

Once again, a basic truth.



十章 あらためて基本的真理を
 シルバーバーチが霊媒を招待した時はいつも温かい歓迎の言葉で迎えるが、古くからの馴染の霊媒であればその態度はいっそう顕著となる。これから紹介する女性霊媒とご主人はハンネン・スワッハー・ホームサークルの結成当初からのメンバーで、最近は永らく自宅で独自の交霊会を催しておられ、今回は久しぶりの出席である。

 夏休みあとの最初の交霊会となったこの日もシルバーバーチによる神への祈願によって開始され、続いて全員にいつもと同じ挨拶の言葉を述べた。

 「本日もまた皆さんの集まりに参加し、霊界からの私のメッセージをお届けすることができることをうれしく思います。

 僅の間とはいえ、こうして私たちが好意を抱きかつ私たちに好意を寄せてくださる方々との交わりを持つことは、私たちにとって大きな喜びの源泉です。こうした機会に自然の法則にしたがってお互いが通じ合い、お互いの道において必要なものを、よろこびと感謝のうちに学び合いましょう。

 もとより私は交霊会という地上世界と霊界との磁気的接触の場のもつ希少価値はよく理解しており、私が主宰するこの会の連絡網の一本たりとも失いたくない気持ちですが、次のことは一般論としてもまた私個人にとっても真実ですので、明確に述べておきます。
℘175
それは、私はしつこい説教によって説き伏せる立場にはないと考えていることです。面白味のない霊的内容の教えを長い説教調で述べることは私の望むところではありません。

 そのやり方ではいかなる目的も成就されません。私が望むやり方、この交霊会で私がせめてものお役に立つことができるのは、ここに集われたすべての方に───例外的な人は一人もいません───ともすると俗世的な煩わしさの中で見失いがちな基本的真理を改めて思い起こさせてあげることです。

物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ、その解決に迫られたとき、言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばならないときに、本来の自分とは何か、自分はいったい何者なのか、なぜ地上に生活しているかといったことを忘れずにいることは困難なことです。


 そこで私のような古い先輩───すでに地上生活を体験し、俗世的な有為転変に通じ、しかもあなた方一人一人の前途に例外なく待ち受けている別の次元の生活にも通じている者が、その物的身体が朽ち果てたのちにも存在し続ける霊的本性へ関心を向けさせていただいているのです。それが基本だからです。

あなた方は霊的な目的のためにこの地上に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫(うたかた)のようなものに過ぎません。
℘176
 といって、地上の人間としての責務を疎かにしてよろしいと言っているのではありません。その物的身体が要求するものを無視しなさいと言っているのではありません。大切なのは正しい平衝感覚、正しい視点を持つこと、そして俗世的な悩みや心配ごとや煩わしさに呑み込まれてしまって自分が神の一部であること、ミニチュアの形ながら神の属性の全てを内蔵している事実を忘れないようにすることです。

そのことを忘れず、その考えを日常生活に生かすことさえできれば、あなた方を悩ませていることがそれなりに意義を持ち、物的、精神的、霊的に必要なものをそこから摂取していくコツを身につけ、一方に気を取られて他方を忘れるということはなくなるはずです。

 こう言うと多分〝あなたにとってはそれで結構でしょう。所詮あなたは霊の世界の人間です。家賃を払う必要もない、食料の買い出しに行く必要もない、衣服を買いに行かなくてもよい。そういうことに心を煩わせることがないのですから〟とおっしゃる方がいるかもしれません。たしかにおっしゃる通りです。

しかし同時に私は、もしもあなた方がそうしたことに気を取られて霊的なことを忘れ、霊の世界への備えをするチャンスを無駄にして、身につけるべきものも身につけずにこちらへ来られた時に果たしてどういう思いをなさるか、それも分かっているのです。こんな話はもう沢山ですか?」

℘177
 「とんでもございません。いちいちおっしゃる通りです」とその女性霊媒が答えると、

 「私の言っていることが間違いでないことは私自身にも確信があります。地上の全ての人にそれを確信させてあげれば視野が広がり、あらゆる困難に打ち克つだけの力が自分の内部に存在することを悟って取越苦労をしなくなり、価値ある住民となることでしょうが、なかなかその辺が分かって頂けないのです。

霊の宝は神の子一人一人の意識の内部に隠されているのです。しかし、そうした貴重な宝の存在に気づく人が何と少ないことでしょう。あなたはどう思われますか」と言って、今度はご主人の方へ顔を向けた。


 「まったく同感です。ただ、そのことをいつも忘れないでいることが出来ない自分を情けなく思っています」と御主人が答えると、
 
 「それが容易でないことは私も認めます。しかし、もしも人生に理想とすべきもの、気持ちを駆り立てるもの、
℘178
魂を鼓舞するものがなかったら、もしも目指すべき頂上が無かったら、もしも自分の最善のものを注ぎ込みたくなるものが前途に無かったら、人生はまったく意味が無くなります。もしもそうしたものが無いとしたら、人間は土中の中でたくる虫ケラと大差ないことになります」


 「本当に良い訓えを頂きました」

 「そう思っていただけますか。私には、してあげたくてもしてあげられないことが沢山あるのです。みなさんの日常生活での出来事にいちいち干渉できないのです。

原因と結果の法則の働きをコントロールすることはできないのです。また、あなた方地上の人間は大切だと考え私は下らぬこととみなしている事柄が心に重くのしかかっていることがありますが、その窮状を聞かされても私はそれに同情するわけにはいかないのです。

 私にできることは永遠不変の原理をお教えすることだけです。物質の世界がすみずみまで理解され開拓され説明しつくされても、宇宙にはいかなる人間にも完全に知りつくすことのできない神の自然法則が存在します。それは構想においても適応性においても無限です。
℘179
もしも日常生活に置いて決断を迫られた際に、あなた方のすべてが自分が霊的存在であること、大切なのは物的な出来事ではなく───それはそれなりに存在価値はあるにしても───そのウラ側に秘められた霊的な意味、あなたの本性、永遠の本性にとっていかなる意味があるかということです。

 物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。と言うことは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです。一方あなたという存在は死後も霊的存在として存続します。あなたにとっての本当の富はその本性の中に蓄積されたものであり、あなたの価値はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもありません。

そのことこそ地上生活において学ぶべき教訓であり、そのことを学んだ人は真の自分を見出したという意味において賢明なる人間であり、自分を見出したということは神を見出したということになりましょう。

 地上生活を見ておりますと、あれやこれやと大事なことがあって休む間もなくあくせくと走りまわり、血迷い、ヤケになりながら、その一ばん大切なことを忘れ、怠っている人が大勢います。私たちの説く教訓の中でもそのことが一ばん大切ではないでしょうか。

それが、いったん霊の世界へ行った者が再び地上へ戻って来る、その背後に秘められた意味ではないでしょうか。
℘180
それを悟ることによって生きる喜び───神の子として当然味わうべき生き甲斐を見出してもらいたいという願いがあるのです。

 それは、いわゆる宗教あるいは教会、教義、信条の類い、これまで人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱を生んできたものより大切です。少しも難しいことではありません。自分という存在の本性についての単純きわまる真理なのです。なのに、それを正しく捉えている人はほんの僅かな人だけで、大方の人間はそれを知らずにおります」


 再び霊媒である奥さんが、自分の支配霊も心霊治療を行うことがあると述べ、遠隔治療によって本人の知らないうちに治してあげていることもある事実を取り上げて、こう尋ねた。

 「そういう場合はなぜ治ったかを本人に教えてあげるべきだと思うのです。つまりそれを契機として、自分が神の子であることを知るべきだと考えるのですが、私の考えは正しいでしょうか、それとも多くを望みすぎでしょうか」

 「理屈の上では正しいことです。が、とりあえずあなたの治療行為が成功したことに満足し、そのことを感謝し、同時にその結果としてその人の魂を目覚めさせてあげるところまで行かなかったことを残念に思うに留めておきましょう。
℘181
大切なのは、まず病気を治してあげることです。その上に魂まで目覚めさせてあげることはなお一層大切なことです。が、一方は成就できても他方は成就出来ない条件のもとでは、その一方だけでも成就して、あとは〝時〟が解決してくれるのを待ちましょう。魂にその準備が出来るまでは、それ以上のものは望めないからです。

 肉体は治った。続いて魂の方を、ということになるべきところですが、そこから進化という要素が絡んできます。魂がそれを受け入れる段階まで進化していなければ無駄です。しかし、たとえ全面的に受け入れてもらえなくても、何の努力もせずにいるよりは何とか努力してみる方が大切です。それは私たちすべてが取るべき態度です。

ともかくも手を差しのべてあげるのです。受け入れてくれるかどうかは別問題として、ともかく手をさしのべてあげることです。努力のすべてが報われることを期待してはなりません。

 病気が治り魂も目覚める、つまり治療の本来の意義が理解してもらえるのが最も望ましいことです。次に、たとえ魂にまで手が届かなくても、病気だけでも治してあげるという段階もあります。さらにもう一つの段階は、たとえ治らなくても治療行為だけは施してあげるという場合です。
℘182
 要請された以上はそう努力しなければなりません。が、たとえ要請されなくても施すべき場合があります。受けるよりは施す方が幸いです。施した時点を持ってあなたの責任は終わります。そして、その時点からそれを受けた人の責任が始まります。


 「人間は自分の前生を思い出してそれと断定できるものでしょうか」

 「もしその人が潜在意識の奥深くまで探りを入れることが出来れば、それは可能です。ですが、はたして地上の人間でその深層まで到達できる人がいるかどうか、きわめて疑問です。その次元の意識は通常意識の次元からは遥かにかけ離れていますから、そこまで探りを入れるには大変な霊力が必要です」


 「そうした記憶は現世を生きている間は脇へ置いておかれるとおっしゃたことがあるように思いますが」

 「それなりの手段を講ずることが出来るようになれば、自分の個性のすべての側面を知ることができます。
℘183
しかし、あなたの現在の進化の段階においては、はたして今この地上においてそれが可能かとなると、きわめて疑問に思えます。つまり理屈ではできると言えても、あなたが今までに到達された進化の段階においては、それは不可能だと思います」

  
 「神は特別な場合に備えて特殊な力を授けるということをなさるのでしょうか」 と、かつてのメソジスト派の牧師が尋ねた。

 「時にはそういうこともなさいます。その人物の力量次第です。最も、神が直接干渉なさるのではありません」

 「神学には〝先行恩寵〟という教義があります」 (苦を和らげるために前もって神が人の心に働きかけて悔悟に導くという行為のこと───訳者)

 「ありますね。神は毛を刈り取られた羊への風を和らげてあげるという信仰です(※)時にはそういうこともあることは事実です。が、神といえども本人の受け入れ能力以上のものを授けることはできません。

それは各個の魂の進化の問題です。私がそういう法則をこしらえたわけではありません。法則がそうなっていることを私が知ったということです。

 みなさんもいつかは死ななくてはなりません。霊の世界へ生まれるために死ななくてはなりません。地上の人にとってはそれが悲しみの原因になる人がいますが、霊の世界の大勢の者にとってそれは祝うべき慶事なのです。要は視点の違いです。 私たちは永遠の霊的観点から眺め、あなた方は地上的な束の間の観点から眺めておられます」

(※ 英国の小説家ロレンス・スターンの小説の中の一節で、弱き者への神の情けを表現する時によく引用される───訳者)


 ここでサークルの二人のメンバーが身内や知人の死に遭遇すると無常感を禁じ得ないことを口にすると、シルバーバーチはこう述べた。

 「霊に秘められた才覚のすべてが開発されれば、そういう無常感は覚えなくなります。が、これは民族並びに個人の進化に関わる問題です。私にはそのすべての原理を明らかにすることはできません。私とて、すべてを知っているわけではないからです。あなた方より少しばかり多くのことを知っているだけです。

そしてその少しばかりをお教えすることで満足しております。知識の総計と較べれば微々たるものです。が、私は神の摂理が地上とは別個の世界においてどう適用されているかをこの目で見て来ております。

数多くの、そしてさまざまな環境条件のもとでの神の摂理の働きを見ております。そして私がこれまで生きてきた三千年の間に知り得たかぎりにおいて言えば、神の摂理は知れば知るほどその完璧さに驚かされ、その摂理が完全なる愛から生まれ、完全なる愛によって管理され維持されていることを、ますます思い知らされるばかりなのです。

 私も摂理のすみずみまで見届けることはできません。まだまだすべてを理解できる段階まで進化していないからです。理解出来るのはほんの僅かです。しかし、私に明かされたその僅かな一部だけでも、神の摂理が完全なる愛によって計画され運営されていることを得心するには十分です。

私は自分にこう言い聞かせているのです───今の自分に理解できない部分もきっと同じ完全なる愛によって管理されているに相違ない。もしそうでなかったら宇宙の存在は無意味となり不合理な存在となってしまう。

もしこれまで自分が見てきたものが完全なる愛の証であるならば、もしこれまでに自分が理解してきたものが完全なる愛の証であるならば、まだ見ていないもの、あるいはまだ理解できずにいるものも又、完全なる愛の証であるに違いない、と。

 ですから、もしも私の推理に何らかの間違いを見出されたならば、どうぞ遠慮なく指摘していただいて結構です。私はよろこんでそれに耳を傾けるつもりです。私だっていつどこで間違いを犯しているか分からないという反省が常にあるのです。無限なる宇宙のほんの僅かな側面しか見ていないこの私に絶対的な断言がどうしてできましょう。

ましてや地上の言語を超越した側面の説明は皆目できません。こればかりは克服しようにも克服できない、宿命的な障壁です。そこで私は、基本的な真理から出発してまずそれを土台とし、それでは手の届かないことに関しては、それまでに手にした確実な知識に基づいた信仰をおもちなさい、と申し上げるのです。

 基本的真理にしがみつくのです。迷いの念の侵入を許してはなりません。これだけは間違いないと確信するものにしがみつき、謎だらけに思えてきた時は、ムキにならずに神の安らぎと力とが宿る魂の奥の間に引き込もることです。そこに漂う静寂と沈黙の中にその時のあなたにとって必要なものを見出されることでしょう。

 常に上を見上げるのです。うつ向いてはなりません。うなだれる必要はどこにもありません。あなたの歩む道に生じることの一つ一つがあなたという存在を構成していくタテ糸でありヨコ糸なのです。これまでにあなたの本性の中に織り込まれたものはすべて神の用意された図案(パターン)にしたがって織られていることを確信なさることです。

 さて本日もここから去るに当たって私から皆さんへの愛を置いてまいります。私はいつも私からの愛を顕現しようと努力しております。お役に立つことならばどんなことでも厭わないことはお分かりいただけてると思います。

しかし、楽しく笑い冗談を言い合っている時でも、ここにこうして集い合った背後の目的をゆめゆめ忘れないようにいたしましょう。神は何を目的としてわれわれを創造なさったのかを忘れないようにいたしましょう。

その神との厳粛なつながりを汚すようなことだけは絶対にしないように心がけましょう。こうした心がけが、神の御心に適った生き方をする者にかならず与えられる祝福、神の祝福を受けとめるに足る資格を培ってくれるからです」

(訳者注───本章は一見なんでもないことを述べているようで、その奥に宇宙の厳粛な相(すがた)を秘めたことを何の衒(てらい)もなく述べた、シルバーバーチ霊言集の圧巻であるように思う。特に〝私は自分にこう言い聞かせているのです〟で始まる後半の部分は熟読玩味に値する名言で、その中にシルバーバーチの霊格の高さ、高級霊としての証が凝縮されているように思う。

霊格の高さを知る手掛かりの一つは謙虚であるということである。宇宙の途方もない大きさと己れの小ささ、神の摂理の厳粛さと愛を真に悟った者はおのずと大きなことは言えなくなるはずである。

 反対に少しばかり噛(かじ)った者ほど大言壮語する。奥深い厳粛なものに触れていないからこそ大きな口が利けるのであろう。それは今も昔も変わらぬ世の常であるが、霊的なことが当然のこととして受け入れられるようになるこれからの世の中にあっては、人を迷わせる無責任きわまる説が大手を振ってのさばることが予想される。そうしたものに惑わされないためにはどうすべきか。

 それはシルバーバーチが本章で述べている通り、基本的真理にしがみつくことである。われわれ人間は今この時点においてすでに霊であること、地上生活は次の段階の生活に備えて霊的資質を身につけることに目的があること、人生体験には何一つ無駄なものはないこと、ただそれだけのことを念頭において地道に生きることである。

 本章を訳しながら私はシルバーバーチの霊訓の価値を改めて認識させられる思いがしてうれしかった)
 

Thursday, September 26, 2024

シアトルの秋 種の起源

The Origin of Species



一九一三年十一月二五日  火曜日

 人間に少しでも信仰心があれば、こうして貴殿の精神と手を使って書き記したものを理解することが出来るであろうが、残念ながら物事の霊的真相を探り、それを真実であると得心しうる者は多くは見当たらない。これまでの永い人類の歴史においてそうであり、これからの遠き未来までもそうであろう。

それは事実であるが、更にその先へ目をやれば、吾々の目には遠い遠い未来において人間世界が今日より遥かに強い光の中を歩みつつあるのが見える。

その時代においては吾々と人間とがいかに身近な関係にあるかについて、書物の中のみならず実際の日常生活の中において理解し得心することであろう。

差し当たっては、警戒と期待のうちに吾々の力の及ぶかぎりの努力をし、たとえ吾々の望み通りの協調関係が得られず、無念の思いを断ち切ることが出来ずとも、一歩一歩と理想の関係に近づきつつあり、万事が佳きに計られているとの確信を抱くのである。

 さて現在の貴殿との仕事のことであるが、吾々としては成るべくならば物事が活撥に進行しているこの〝昼〟の時代に多いに進行させたい。何となれば〝夜〟 の時代が到来すれば貴殿は明日の時代を思うであろうが、その明日はもはや今日とは異なる。

いろいろと可能性を秘めてはいても今と同じほどのことが出来るとは限らない。故に現在のこの良い条件の整っている時期に出来るかぎりのことをしようではないか。そうすれば吾々二人により広き界層が開かれた暁に、更に良い仕事が為し得ることになろう。

 人間が理解している科学は吾々の理解している科学と軌を一にするものではない。何となれば吾らは霊的根源へ向けて深く探求の手を伸ばすからである。地上の科学は今やっと霊的根源を考慮しはじめたばかりである。

吾々は互いにようやく近づきつつあるわけである。と言うよりは、地上の現象の意味を探る者の中に、吾々の手引きによって、より高くそしてより深い意味へと近づきつつある者がいると述べた方が正しかろう。

 このことを吾々は有難きことと思う。そしてそのことがこれまでの道を更に自信を持って歩ませてくれる。吾々は人間がきっと付いてきてくれるとの確信を持っており、それだけに賢明にそして巧妙に手引きせねばならないのである。

 さて私はこれより、人間が〝種の起源〟と呼んでいるところのものについて、その霊的な側面を少しばかり説いてみたいと思う。が、結論から申せば、動物的生命の創造の起源は物質界にあらずして吾々の天界に存在する。

こちらへ来て吾々が学んだことは、宇宙が今日の如き形態の構成へ向けて進化の道を歩み始めた時、その監督と実践とを受け持つ高き神霊が更に高き神霊界より造化の方針を授かり、その方針に基いて彼らなりの知恵を働かせたということである。

 その時点においては未だ天界には物的表現としての生命の形態と知能の程度に多様性があったと想像される。そして結果的にはその発達を担当すべく任命された神霊の個性と種別を反映させていくことに決定が下された。

そしてその決定に沿って神の指示が発せられた。なぜかと言えば、計画が完了した時、総体的にはそれで結構であるとの神の同意が啓示されたのであって、その時点ですでに完璧ということではなかったのである。

ともかくも宇宙神が認可を下され、更に各神霊がそれぞれの才覚と能力に従って神の意志を反映させていく自由を保証されたということである。

 かくして動物、植物、鉱物のさまざまな種と序列、そして人類の種族と民族的性格とが生まれた。そしていよいよ造化が着手された時、宇宙神は改めて全面的是認を与えた。聖書風に言えば神がそれを〝なかなか結構である〟と仰せられたのである。

 が、造化に直接携わる神霊はいかに霊格が高いとはいえ全知全能の絶対神には劣る。そして宇宙の経綸の仕事はあまりに大きく、あまりに広いが故に僅かな不完全さが造化の進展に伴って大きくなって行った。

それが単純な知能、特に人間の如き低い階層の知能には事さらに莫大にそして巨大に見えたのである。何となれば、小さくそして未発達な知性には善と悪とを等しく見ることが出来ず、むしろ邪悪の方が目に止まりやすく、善なるものが余りに高尚にそして立派に思えて、その意義と威力を掴みかねるのである。

 が、人間が次のことを念頭に置けば、その不完全さの中にも驚異と叡智とが渾然として存在することが容易に納得がいくことであろう。それはこういうことである。海は海洋動物だけのために造られたのではない。空は鳥たちだけのために造られたのではない。

それと同じで、宇宙は人間だけのために創造されたのではないということである。人間は海にも空にも侵入し、そこをわが王国のように使用している。それは一向に構わない。


魚や鳥たちのものと決まってはいないからである。より強力な存在が支配するのは自然の理であり、地上では人間がそれである。人間は自他共に認める地上の王者であり、地上を支配する。神がそう位置付けたのである。

 が、宇宙には人間より更に偉大な存在がいる。そして人間がその能力と人間性の発達のために下等動物や植物を利用する如く、さらに偉大なる存在が人間を使用する。

 これは自然であり且つ賢明でもある。何となれば大天使も小天使も、更にその配下のもろもろの神霊も所詮は絶対神の配下にあり、常に発達と修養を必要としている点は人間と同じだからである。

その修養の手段と中身は、人間との霊格の差に応じて、人間が必要とするものとは本質と崇高性において自ずと差がなければなるまい。人間であろうと天使であろうと、内部に宿す霊力に応じて環境が定まり構成されていく点は同じなのである。

  人間はその点をよく銘記し、忘れぬようにしなければならない。そうすれば自由意志という生得の権利の有難さを一層深く理解することであろう。これは天界のいかなる神霊といえども奪うことは出来ない。かりに出来るとしても敢えて奪おうとはしないであろう。

なぜなら、自由意志を持たぬ人間では質的に下等な存在に成り下がり、向上進化の可能性を失うことになるからである。

 さて、こうした教説を読んで、これでは人間は上級界の神霊が己れの利益のために使う道具に過ぎないのではないかと思う者もいるであろう。が、その考えは誤りである。その理由は今述べたことにある。


すなわち人間は自由意志を持つ存在であり、これより先も常にそうあらねばならぬということである。

 それのみではない。上級界において神に仕える者を鼓舞する一大霊力が〝愛〟であるということもその理由である。彼らを血も涙もなき暴君と思ってはならない。

威力というものを圧力と並べて考えるのは地上での話である。天界に在っては威力は愛の推進力のことであり、威力ある者はその生み出す愛も強力となるのである。

 更に申せば、悪との戦いの熾烈にして深刻な者には、その試練を経た暁に栄光と高き地位(くらい)とが約束されていることを教えてやるがよい。

何となれば、その闘いの中にこそ、人類が天界の政庁における会議への参列を許され、造化の仕事の一翼を担い、開闢(かいびゃく)頭初に定められた方針に沿って全宇宙の救済の大事業に参加する資格の確かな証しが秘められているからである。

その仕事は勇気ある人間ならば喜び勇んで取り組むことであろう。何となれば、その者は次のことくらいは理解するであろうからである。

すなわちその者は高き神霊が天界において携わるのとまさに同じ仕事に、この地上において、そしてその者なりの程度において携わっているということである。そうと知ればさぞ心躍ることであろうし、意を強くすることであろう。

 更に又、その者の仕事は吾々の仕事と一つであり、吾らの仕事がすなわちその者の仕事であることを知り、互いに唯一の目的すなわち地上の全生命、全存在の向上へ向けて奮闘していることを知れば、イザという時に思慮深く適度な謙虚さと素直な信頼心を持って援助を求めれば、吾々はすぐにそれに応ずる用意があることに理解がいくことであろう。

吾々はそういう人間──悪との闘争の味方であり宇宙の最前線における同志──を援助することに最大の喜びを覚えるからである。

 この真理の大道を惜しくも踏み外せる者たちのその後の見るも哀れな苦しみは、吾々が貴殿より多く見ている。が、吾らは絶望はしない。この仕事の意義と目的とが貴殿たちより鮮明に見えるからである。

その視野から眺めるに、人間も何時の日かそれぞれの時を得てこの高き霊界へと至り、恵まれた環境の中にて更に向上し続けることであろう。

その時はその者たちも修身の道具として今吾々が使用している人材──その者たちが今その立場にあるのだが──を使用することになるであろう。その時は他の人間が現在のその者たちの立場にあり、その者たちが指導霊の立場にまわることであろう。

 キリストはかく述べている──〝悪に勝てる者はわが座位(くらい)に列することを許さん。わが勝利の時、父と共にその座位に列したる如くに〟(黙示録3)と。心するがよい。神の王国は強き者のものであるぞ。首尾よく悪を征服せる者にして始めてその地位を与えられるであろう。

 以上である。この度はこれにて終わりとする。が、これはこの程度のメッセージにてはとても尽くせぬ大きな問題である。神の許しがあれば、いつか再び取り上げるとしよう。

 では健闘と無事を祈る。強くあれ。その強さの中より優しさがにじみ出ることであろう。吾々の界においては最も強い者こそ最も優しくそして愛らしさに満ちているものである。

このことを篤と銘記されたい、そうすれば人間を惑わす数々の問題が自ずと解けることであろう。躓(つまず)くことのなきよう、神の御光が常に貴殿の足元を照らし給わんことを祈る。 ♰

 
    

Wednesday, September 25, 2024

シアトルの秋 〝光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず〟 

“Light shines in the darkness. But the darkness does not realize it.

 




 
一九一三年十二月三日  水曜日

  
 昨日取りあげた話題をもう少し進めて、私の言わんとするところを一層明確にしておきたい。改めて言うが、エネルギーの転換についてこれまで述べたことは用語の定義であり本質の説明ではないことをまず知ってほしい。

 貴殿の身の周りにある神的生命の顕現の様子をつぶさに見れば、幾つか興味深いものが観察されるであろう。

 まず、人間にも視覚が具わっているが、これも外部に存在する光が地球へ向けて注がれなければ使用することは出来まい。が、その光もただのバイブレーションに過ぎず、しかも発生源から地上に至るまで決して同じ性質を保っているのではない。

と言うのも、人間は太陽を目に見えるものとしてのみ観察し、各種のエネルギーの根源とみている。が、光が太陽を取り巻く大気の外側へ出ると、そこに存在する異質の環境のために変質し、いったん人間が〝光〟と呼ぶものでなくなる。

その変質したバイブレーションが暗黒層を通過し、更に別の大気層、例えば地球の大気圏に突入すると、そこでまたエネルギーの転換が生じて、再び〝光〟に戻る。

太陽から地球へ送られて来たのは同一物であって、それが広大な暗黒層を通過する際に変質し、惑星に衝突した時に再び元の性質に戻るということである。

 「光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず」(ヨハネ福1・5)この言葉を憶えているであろう。これは単なる比喩にはあらず、物質と霊のこの宇宙における神のはたらきの様子を述べているのである。しかも神は一つであり、神の王国も又一つなのである。

 光が人間の目に事物を見せる作用をするには或る種の条件が必要であることが、これで明らかであろう。その条件とは光が通過する環境であり、同時にそれが反射する事物である。

 これと同じことが霊的環境についても言える。吾ら霊的指導者が人間界に働きかけることが出来るのは、それなりの環境条件が整ったときのみである。

ある者には多くの真理を、それも難なく明かすことができるのに、環境条件の馴染まぬ者にはあまり多くを授けることが出来ないことがあるのはそのためである。かくて物的であろうと霊的であろうと、物事を明らかにするのは〝光〟であることになる。

 この比喩をさらに応用してお見せしよう。中間の暗黒層を通過して遥か遠方の地上へと届くように、高き神霊界に発した光明が中間の階層を経て地上へと送り届けられ、それを太陽光線を浴びるのと同じ要領で浴びているのである。

 が、さらに目を別の方角に向けてほしい。地球から見ることのできる限りの、最も遠い恒星のさらに向こうに、人間が観察する銀河より遥かに完成に近づいた美事な組織が存在する。そこにおいては光の強さは熱の強さに反比例している。

と言うことは、永い年月に亘る進化の過程において、熱が光を構成するバイブレーションに転換されていることを暗示している。

月は地球より冷たく、しかもその容積に比例して計算すれば、地球より多くの光を反射している。天体が成長するほど冷たくなり、一方、光線の力は強くなってゆく。吾々の界層から見るかぎりそうであり、これまでこの結論に反する例証を一つとして観察したことはない。

 曽てそのエネルギーの転換の実例を私の界において観察したことがある。

 ある時、私の界へ他の界から一団の訪問者が訪れ、それが使命を終えてそろそろ帰国しようとしているところであった。吾々の界の一団──私もその一員であった──が近くの大きな湖まで同行した。訪れた時もその湖から上陸したのである。

いよいよ全員がボートに乗り移り、別れの挨拶を交わしていた時のことである。

吾々の国の指導者格の天使の一人がお付の者を従えて後方の空より近づき、頭上で旋回し始めた。私はこの国の慣習を心得てはいるものの、その時は彼ら──というよりはその天使──の意図を測りかねて、何をお見せになるつもりであろうかと見守っていた。

この界においては来客に際して互いに身に付けた霊力を行使して、その効果をさまざまな形で見せ合うのが慣習なのである。

 見ていると遥か上空で天使のまわりを従者たちがゆっくりと旋回し、その天使から従者へ向けて質の異なる、従って色彩も異なるバイブレーションの糸が放たれた。天使の意念によって放射されたのである。それを従者が珍しい、そして実に美しい網状のものに編み上げた。

二本の糸が交叉する箇所は宝石のような強力な光に輝いている。またその結び目は質の異なる糸の組み合わせによって数多くの色彩に輝いている。

 網状の形体が完成すると、まわりの従者は更に広がって遠くへ離れ、中央に天使一人残った。そして、出来上がった色彩豊かなクモの巣状の網の中心部を片手で持ち上げた。それがふわふわと頭上で浮いている光景は、それはそれは〝美しい〟の一語に尽きた。

 さて、その綱は数多くの性質を持つバイブレーションの組織そのものであった。やがて天使が手を離すとそれがゆっくりと天使を突き抜けて降下し、足もとまで来た。そこで天使はその上に乗り、両手を上げ、網目を通して方向を見定めながら両手をゆっくりと動かして所定の位置へ向けて降下し続けた。

 湖の上ではそれに合わせて自然発生的に動きが起こり、ボートに乗ったまま全員が円形に集合した。そこへ網が降りてきて、全員がすっぽりとその範囲内におさまる形でおおい被さり、更に突き抜けて網が水面に落ち着いた。

そこでその中央に立っている天使が手を振って一団に挨拶を送った。するとボートもろとも網がゆっくりと浮上し、天高く上昇して行った。

 かくて一団は湖上高く舞い上がった。吾らの一団もそのまわりに集まり、歌声と共に道中の無事を祈った。彼らはやがて地平線の彼方へと消えて行った。

 こうした持てなしは、他の界からの訪問者に対して吾々が示すささやかな愛のしるしの一例に過ぎないもので、それ以上の深い意味はない。私がこれを紹介したのは──実際には以上の叙述より遥かに美しいものであったが──強烈な霊力を有する天使の意念がいかにエネルギーを操り質を転換させるかを、実例によって示すためであった。

 目を愉しませるのは美しさのみとは限らない。美しさは天界に欠かせぬ特質の一つにすぎない。例えば効用にも常に美が伴う。人間が存在価値を増せば増すほど人格も美しさを増す。聖は美なりとは文字どおりであり真実である。願わくば全ての人間がこの真理を理解して欲しいものである。 ♰

Tuesday, September 24, 2024

シアトルの秋 自分の責任・他人の責任

Responsibility for oneself and others





 熱心なスピリチュアリストである実業家がある交霊会で質問した。


───背後霊や友人(の霊)に援助を要求するのはどの程度まで許されるのでしょうか。

 「生身(なまみ)の人間である霊媒との接触によって仕事をしている私どもは、地上生活における必要性、習慣、欲求といったものを熟知していなければなりません。物的必要性について無頓着ではいられません。現実に地上で生きている人間を扱っているからです。

結局のところ霊も肉体も神の僕です。霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙という機構の中での役割を果たすための一定の義務というものがあります。

肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。それを得るためには地上世界の通貨(コイン※)であるお金が必要です。そのことはよく承知しております。しかし次のことも承知しております。(シルバーバーチは口グセのように〝奉仕は霊のコインである〟と言っている。それになぞらえている───訳者)

 霊も肉体も神の僕と申し上げましたが、両者について言えば霊が主人であり肉体はその主人に仕える僕です。それを逆に考えることは大きな間違いです。あなた方は本質的には霊なのです。それが人間が潜在的に神性を宿していると言われるゆえんです。つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。
p55           
宇宙という大生命体を機能させている偉大な創造原理があなた方一人ひとりにも宿っているのです。意識をもった存在としての生をうけたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。

全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫から必要なものを引き出すことができるのです。

 そのためには平静さが必要です。いかなる事態にあっても心を常に平静に保てるようになれば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することが出来ます。

 それに加えて、背後霊の愛と導きがあります。困難が生じた時は平静な受身の心になるよう努力なさることです。そうすればあなた自身の貯蔵庫から───まだ十分に開発されていなくても───必要な回答が湧き出てきます。きっと得られます。

われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のあなたの発達程度いかんによっては十分なものが得られないことがあります。が、その場合もまた慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。

 求めるものが正しいか間違っているかは、単なる人間的用語の問題にすぎません。私たちからみて大切なのは〝動機〟です。
p56       
いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、私たちが第一に考慮するのはその動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、けっして無視されることはありません。

それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものがその祈りへの回答を生み出す原理を作用させております」


 ここでメンバーの一人が、学識もあり誠実そのものの人でも取越苦労をしていることを述べると───


 「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たして、しかも何の取越苦労もしないで生きていくことは可能です。

義務に無とん着であってもよろしいと言っているのではありません。かりそめにも私には、そんな教えは説きません。むしろ私は、霊的真理を知るほど人間としての責務を意識するようになることを強調しております。しかし、心配する必要などどこにもありません。霊的成長を伴わない知的発達もあり得ます」

p57      
───あからさまに言えば、取越苦労性の人は霊的に未熟ということでしょうか。

 「その通りです。真理を悟った人間はけっして取越苦労はしません。なぜなら人生には神の計画が行きわたっていることを知っているからです。まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。

無用の心配をするということそのことが霊的成長の欠如の示標といえます。たとえ僅かでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。もし確信があれば心配の念は出てこないでしょう。偉大なる魂は泰然自若(たいぜんじじゃく)の態度で人生に臨みます。

確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺することはありません。このことだけは絶対に譲歩するわけにはいきません。なぜなら、それが私たちの霊訓の土台であらねばならないからです」
   


───たとえば50人の部下がいて、その部下たちが良からぬことをしたとします。その場合は気苦労のタネになってもやむを得ないように思いますが・・・
p58     
 「責任は個々において背負うというのが摂理です。摂理のもとにおいては、あなたは他人の行為に責任を負うことはありません」


───文明社会においては責任を負わざるを得ないことがあるでしょう?。

 「文明はかならずしも摂理に適ったものではありません。摂理は完全です。機能を中止することはありません。適確さを欠くこともありません。間違いを犯すこともありません。あなたには自分のすること、自分の言うこと、自分の考えることに責任があります。

あなたの成長の指標が魂に刻まれているからです。したがって他人の魂のすることに責任を負うことはできません。それが摂理です。もしそうでなかったら公正が神の絶対性を欠くことになります」


───もし私がある人をそそのかし、その人が意志が弱くてそれを実行した場合、それでも私には責任はないでしょうか。
    
 「その場合はあります。他人をそそのかして悪いことをさせた責任があります。それはあなたの責任です。
p59      
一種の連鎖反応を起こさせたことになります。何ごとも動機が第一に考慮されます。私はけっして自分以外のことに無とん着になれと言っているのではありません。


魂がある段階の偉大さを身につければ、自分の責任を自覚するようになり、やってしまったことはやってしまったこと───自分が責を負うことしかないと深く認めるようになるものなのです。いったんその段階まで到達すれば、何ごとにつけ自分にできる範囲で最善を尽くし、これでよいという確信をもつようになります」


───自分で理解しているかぎりの摂理にしたがっておればのことですか。

 「いいえ、(摂理をどう理解しているかに関係なく)原因と結果の法則は容赦なく展開していきます。その因果関係に干渉できる人はいません。その絶対的法則と相いれないことが起きるかのように説く教説、教理、教訓は間違っております。原因と結果の間にはいかなる調停も許されません。

あなた自身の責任を他人の肩に背負わせる手段はありませんし、他人の責任があなたの肩に背負わされることもあり得ません。各自が各自の人生の重荷を背負わねばなりません。そうあってはじめて正直であり、道徳的であり、倫理的であり、公正であると言えます。

それ以外の説はすべて卑劣であり、臆病であり、非道徳的であり、不公平です。摂理は完璧なのです」

p60      
───広い意味において人間は他のすべての人に対して責任があるのではないでしょうか。世の中を住み良くしようとするのはみんなの責任だからです。

 「おっしゃる通りです。その意味においてはみんなに責任があります。同胞としてお互いがお互いの番人(創世記4・9)であると言えます。なぜなら人類全体は〝霊の糸〟によって繋がっており、それが一つに結びつけているからです。

しかし責任とは本来、自分が得た知識の指し示すところに従って人のために援助し、自分を役立て、協力し合うということです。

しかるに知識は一人ひとり異なります。したがって他人が他人の知識に基づいて行ったことに自分は責任はないことになります。しかしこの世は自分一人ではありません。お互いが持ちつ持たれつの生活を営んでおります。

すべての生命が混り合い、融合し合い、調和し合っております。そのすべてが一つの宇宙の中で生きている以上、お互いに影響を与え合っております。だからこそ知識に大きな責任が伴うのです。知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人より重い責任を取らされます。
p61       
その行為がいけないことであることを知っているということが罪を増幅するのです。霊的向上の道は容易ではありません。

知識の受容力が増したことは、それだけ大きい責任を負う能力を身に付けたことであらねばならないのです。幸と不幸、これはともに神の僕です。

一方を得ずして他方を得ることは出来ません。高く登れば登るほど、それだけ低くまで落ちることもあるということであり、低く落ちれば落ちるほど、それだけ高く登る可能性があることを意味します。それは当然のことでしょう」


 その日の交霊会には二人の息子を大戦で失った実業家夫妻が招待されていた。その二人にシルバーバーチは次のような慰めの言葉を述べた。

 「霊の力に導かれた生活を送り、今こうして磁気的な通路(霊媒)によって私どもの世界とのつながりを持ち、自分は常に愛によって包まれているのだという確信をもって人生を歩むことができる方をお招きすることは、私どもにとって大いに喜ばしいことです。

お二人は神の恵みをふんだんに受けておられます。悲しみの中から叡知を見出されました。眠りのあとに大いなる覚醒を得られました。犠牲の炎によって鍛えられ清められて、今お二人の魂が本当の自我に目覚めておられます。
p62          
 お二人は悲痛の淵まで下りられました。魂が謀反さえ起こしかねない酷しい現実の中で人間として最大の悲しみと苦しみを味わわれました。しかし、その悲痛の淵まで下りられたからこそ喜びの絶頂まで登ることもできるのです。

〝ゲッセマネの園〟と〝変容の丘〟は魂の体験という一本の棒の両端です。一方がなければ他方もあり得ません。苦痛に耐える力は深遠な霊的真理を理解する力と同じものです。

悲しみと喜び、闇と光、嵐と好天、こうしたものはすべて神の僕であり、その一つひとつが存在価値をもっているのです。魂が真の自我に目覚めるのは、存在の根源が束の間の存在である物的なものにあるのではなく永遠に不変の霊的なものにあると悟った時です。

地上的な財産にしがみつき、霊的な宝をないがしろにする者は、いずれ、この世的財産は色あせ錆つくものであることを思い知らされます。

霊的成長による喜びこそ永遠に持続するものです。今こそあなた方お二人は真の自我に目覚められ、霊界の愛する人々とのつながりがいっそう緊密になっていく道にしっかりと足を踏まえられました。

 ご子息が二人とも生気はつらつとして常にあなた方のお側にいることを私から改めて断言いたします。昼も夜も、いっときとしてお側を離れることはありません。みずから番兵のつもりでお二人を守り害が及ばないように見張っておられます。

といってお二人のこれからの人生に何の困難も生じないという意味ではありません。そういうことは有り得ないことです。
p63       
なぜなら人生とは絶え間ない闘争であり、障害の一つ一つを克服していく中に個性が伸び魂が進化するものだからです。

いかなる困難も、いかなる苦難も、いかなる難問も、あなた方を包んでいる愛の力によって駆逐できないものはありません。それはみな影であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。訪れては去っていく影にすぎません。

悲劇と悲しみをもたらしたのはすべて、あなたのもとを通り過ぎていきました。前途に横たわっているのは豊かな霊的冒険です。あなた方の魂を豊かにし、いま学びつつある永遠の実在に一段と近づけてくれるところの、驚異に満ちた精神的探検です。

 お二人がこれまで手を取り合って生きて来られたのも、一つの計画、悲しみが訪れてはじめて作動する計画を成就するためです。そうした営みの中でお二人は悲しみというものが仮面をかぶった霊的喜悦の使者であることを悟るという計画があったのです。悲しみは仮面です。本当の中身は喜びです。仮面を外せば喜びが姿を見せます。

 どうかお二人の生活を美しさと知識、魂の豊かさで満たして下さい。魂を本来の豊かさの存在する高所まで舞い上がらせて下さい。そこにおいて本来の温もりと美しさと光沢を発揮されることでしょう。魂が本来の自我を見出した時は、神の御心と一体であることをしみじみと味わい不動の確信に満たされるものです。
p64      
 私たちの述べることの中にもしもあなた方の理性に反すること、叡知と相入れないように思えることがあれば、どうか受取ることを拒否なさってください。良心の命令に背いてはいけません。自由意志を放棄なさってはいけません。私どもは何一つ押しつけるつもりはありません。強要するものは何一つありません。

私たちが求めるものは協調です。ご自分で判断されて、こうすることが正しくかつ当然であるという認識のもとに、そちらから手を差しのべて協力して下さることを望みます。

理性をお使いになったからといって少しも不快には思いません。私どもの述べたことに疑問を持たれたからといって、いささかも不愉快には思いません。その揚げ句に魂の属性である知性と理性とがどうしても納得しないということであれば、それは私たちはあなた方の指導霊としては不適格であるということです。

 私はけっして盲目の信仰、無言の服従は強要いたしません。それが神が自分に要求しておられることであることを得心するがゆえに、必要とあらば喜んで身を捧げる用意のある、そういう協力者であってくれることを望みます。

それを理想とするかぎり、私たちの仕事に挫折はありません。ともに神の使いとして手に手を取り合って進み、神の御心を日頃の生活の中で体現し、われわれの援助を必要とする人、それを受け入れる用意のある人に手を差しのべることができるのです」
p65
 そしてその日の交霊会を次の言葉でしめくくった。

 「始まりも終りもない力、無限にして永遠なる力に見守られながら本日も又、開会した時と同じ気持ちで閉会致しましょう。神の御力の尊厳へ敬意を表して、深く頭を垂れましょう。その恵みをお受けするために、いっときの間を置きましょう。その霊光を我が身に吸い込み、その光輝で我が身を満たし、その御力で我が身を包みましょう。

無限の叡知で私たちを導き、自発的な奉仕の精神の絆の中で私たちを結びつけようとなさる神の愛を自覚致しましょう。かくして私たちは意義ある生活を送り、一段と神に近づき、その無限なる愛の衣が私たちを、時々刻々、温かく包んでくださっていることを自覚なさることでしょう」


シルバーバーチ

Sunday, September 22, 2024

シアトルの秋 神は愛の中にも憎しみの中にも

God is in love and in hate.




 シルバーバーチの説く神の概念はスピリチュアリストにとっても当惑させるものを含んでいる。常識的な愛と善のみの神の概念から、善も悪も、愛も憎しみも超越した〝法則〟としての存在を説くからである。その真意を次の問答から理解していただきたい。(同じ編者による Teachings of Silver Birch からの抜粋と組み合わせて構成した───訳者)


───神とは何でしょうか。あるいは何者でしょうか。それは愛───すべての者に宿る愛の精神、ないしは感覚でしょうか。

「神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫しております。

  神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕にすぎないわれわれがどうして主人(あるじ)を知ることを得ましょうか。ちっぽけな概念しか抱けないわれわれにどうして測り知れない大きさを持つ存在が描写できましょう」


───神はすずめ一羽が落ちるのもご存知であると教わっています。ですが世界の莫大な人口、いわんやすでに他界した幾百億と知れぬ人間の一人ひとりに起きることを細大もらさず知ることがどうして可能なのでしょうか。

  「神と呼ばれているところのものは宇宙の法則です。それはすべての存在に宿っております。すべての存在が神なのです。各自の魂が自分を知っているということは神がその魂を知っているということです。すずめが神であるということは神がすずめを知っているということです。

神が風に揺れる木の葉に宿っているということは、その木の葉が神であるということです。あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的支配下にあります。その法則を超えたことは何一つ起きません。すべてが自然法則すなわち神の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです」


───あなたは神がすべてに宿る───全存在の根源であるから愛にも憎しみにも、叡智にも不徳にも神が宿るとおっしゃいます。そうなると、過ちを犯す者も正しいことをする人間と同じように神の法則の中で行っていることになります。

愛と平和を説く者と同じく、憎悪と戦争を説く者も神の法則の中で行動していることになります。すべてが神の法則の一部である以上、その法則に違反する者もいないことになってしまいますが、この矛盾をどう説明されますか。

 「完全が存在する一方には不完全も存在します。が、その不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生れるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。

 生きるということは進化することです。前に向かって進むことであり、上へ向かって努力することであり、発達であり開発であり発展であり進展です。あなた方のおっしゃる善も悪もその進化の行程における途中の階梯に過ぎません。終りではありません。

あなた方は不完全な理解力でもって判断しておられます。その時点においては善であり、その時点においては悪だと言っているに過ぎません。それはあなただけに当てはまる考えです。あなたと何の係わりもなければ、また別の判断をなさいます。とにかく神は全存在に宿っております」


───では神は地震にも責任を負うわけですか。

 「神は法則です。万物を支配する法則です。法則が万物を支配しているのです。宇宙のどこにもその法則の支配を受けないものは存在しません。

 地震、嵐、稲妻───こうしたものの存在が地上の人間の頭脳を悩ませていることは私も承知しております。しかしそれらもみな宇宙の現象の一部です。天体そのものも進化しているのです。この天体上で生を営んでいる生命が進化しているのと同じです。

物質の世界は完全からはほど遠い存在です。そしてその完全はいつまでも達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化していくものだからです」


───ということは神も進化しているということでしょうか。

 「そうではありません。神は法則でありその法則は完璧です。しかし物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。忘れてならないのは地球も進化しているということです。地震もかみなりも進化のしるしです。地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。

 日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどと言うことは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。

 それと同じ寸法であなた方は、神が存在するならばなぜ他人に害を及ぼすような邪悪な人間がいるのかとおっしゃいます。

 しかし人間各個に自由意志が与えられており、魂の進化とともにその活用方法を身につけてまいります。霊的に向上しただけ、それだけの多くの自由意志が行使できるようになります。あなたの現在の霊格があなたの限界ということです。

しかし、あなたも神の分霊である以上、人生のあらゆる困難、あらゆる障害を克服していくことができます。霊は物質に優ります。霊が王様で物質は召使です。霊がすべてに君臨しております。全生命のエッセンスです。つまり霊は生命であり、生命は霊なのです」


───神という存在はその神がこしらえた宇宙とは別個に存在するのでしょうか。

 「いえ、宇宙は神の反映です。神がすなわち宇宙組織となって顕現しているのです。蠅に世の中のことが分るでしょうか。魚が鳥の生活を理解できるでしょうか。犬が人間のような理性的思考ができるでしょうか。星が虚空(こくう)を理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神をあなた方人間が理解できないのは理の当然です。

 しかしあなた方は魂を開発することによって、ひとことも語らずとも、魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりを持つことができるのです。その時は神とあなたとが一つであることを悟られます。それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙の全ての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです」


───霊が意識を持つ個的存在となるためには物質の世界との接触が必要なのでしょうか。

 「そうです。意識を獲得するためには物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。物 matter から霊 spirit へと進化していくのです。つまり物的身体との結合によって、物的個性を通して自我を表現することが可能となります。霊は物に宿ることによって自我を意識するようになるのです」

(訳者注───質問者は地上の物質を念頭に置いて the world of matter と言っているが、シルバーバーチは spirit との対照におけるmatter の観点から答えていることに注意する必要がある。死後の世界でまとう身体もその一種であり、その精妙化が進むにつれて霊性が発揮されやすくなる。

それを進化というのであり、その究極がイムペレーターのいう〝静の世界〟、インド哲学でいうニルバーナ、いわゆる涅槃の境涯である。

ただ従来はそれが飛躍的に、ないしは短絡的に捉えられており、悟りを開いた人は死後すぐその境涯へ行くかに考えられてきたが、イムペレーターによるとそこに至るのに何百億年かかるか想像もつかないと述べている。

いずれにせよ、そこに至るまでは〝物の世界〟にいるのであり、地上と同じく主観と客観の世界にいるのである。その中でも地上の物質界が最も鈍重というまでのことである)
 


───となると神はわれわれを通じて体験を得ているということでしょうか。

 「そうではありません。あなた方の進化がすでに完全であるものに影響を及ぼすことはありません。」

───でもわれわれは神を構成する分子です。部分の進化は全体に影響を及ぼすのではないでしょうか。

 「それはあなた方を通じて顕現されている部分に影響を及ぼすだけです。それ自体も本来は完全です。が、あなた方一人ひとりを通じての顕現の仕方が完全ではないということです。霊それ自体はもともと完全です。宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹です。

それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。あなた方が霊という別個の存在を進化させているのではありません。

あなた方自身であるところの霊が顕現する身体(※)を発達させているのです」(※bodies と複数になっていることからも、さきの訳者注で述べたこと、つまりシルバーバーチが〝物〟を地上だけにかぎって考えていないことが窺える。幽体も霊体もシルバーバーチに言わせると〝物的身体〟なのである───訳者) 


───霊が自我を表現する身体にもさまざまな種類があるということでしょうか。

 「そういうことです。法則は完全です。しかしあなた方は不完全であり、従って完全な法則があなたを通して働けないから、あなたを通して顕現している法則が完全でないということになります。あなたが完全へ近づけば近づくほど、完全な法則がより多くあなたを通して顕現することになります。

 こう考えてみて下さい。光と鏡があって、鏡が光を反射している、鏡がお粗末なものであれば光のすべてを反射させることができない。その鏡を磨いてより立派なものにすれば、より多くの光を反射するようになります。

 要するに、すべての存在がより一層の顕現を求めて絶え間なく努力しているのです。前に私は、原石を砕きながらコツコツと宝石を磨いているのが人生だと申し上げたつもりです。原石は要らない、宝石だけくれ、というムシのいい話は許されません」


───でも各自にとって良いもの悪いものの概念があるのではないでしょうか。

 「それはその時点での話に過ぎません。進化の途上において到達した一つの段階を表現しているだけです。魂がさらに向上すればその概念を捨ててしまいます。不完全な道具を通して完全な法則が顕現しようとして生じた不完全な考えであったわけです。すべてが大切だと申し上げるのはそこに理由があります」


───それでは神は原初においては善ではなかったということになるのでしょうか。

 「私は原初のことは何も知りません。終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも常に存在し続けるということだけです。神の法則は完璧に機能しております。つまり今の譬え話で申し上げた通り、あなたは完全な光をお持ちです。

ですが、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを、光が不完全だ、光が悪だとは言えないでしょう。

まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で〝悪〟と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している〝不完全さ〟を意味するに過ぎません」


───創造力を持つ存在は神と呼ぶ唯一の存在のみで、われわれには何一つ創造する力はないと考えてよいでしょうか。

 「神は無窮の過去から存在し未来永劫(えいごう)に存在し続けます。全生命が神であり、神は全生命です。ならば、あなた方に何が創造し得ましょう。しかし魂が進化すれば進化するほど宇宙をより美しくし、完成させていくことができます。

進化の程度が未熟であるほど宇宙における位置が低いということになります」(訳者注───〝宇宙をより美しく完成させていくことが出来る〟ということは神の創造の大業に参加できるということである。

『霊訓』 にも 『ベールの彼方の生活』 にもその趣旨のことが述べられているが、マイヤースは 『個人的存在の彼方』 の中でこれを〝創造されたものが創造する側にまわる。そこに生命と宿命の秘密が存在する〟と表現している)


───愛の神が人間の最低の感情の一つである憎しみの中にも存在するということが理解できないのですが・・・・・・

 「それは今だに神というものを人間的存在と考える概念から抜け切っていないからです。神とは法則なのです。法則がすべてのものを維持し保持し顕現させているのです。神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。

晴天だけでなく嵐も法則の支配を受けます。健康だけでなく病気を通しても働きます。晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。

太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。稲妻や雷鳴の中に自分たちの想像する神のせいにしたくないものを感じ取ったのと同じです。

 神は法則なのです。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在出来ません。これは私が繰り返し説いていることです。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。

愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できる性質は憎しみを表現する時に使用する性質と同じものなのです。人生は常に比較対照の中で営まれています。

 たとえば、もしも日向にばかりいたら日光の有難さは分らないでしょう。時には曇りの日があるから太陽の有難さが分るのです。人生も同じです。苦しみを味わえばこそ幸せの味が分るのです。

病気になってみて初めて健康の有難さが分かるのです。病気にさせるものがあなたを健康にもするのです。愛させるものが憎ませもするのです。すべては神の法則の中で表現されていきます。それが人生のあらゆる側面を支配しているのです」

 ここで別のメンバーが、たとえば悪を憎むためには当人が憎しみという要素を持っていることが必要となるのではないか、われわれは憎むということを学ぶべきだということにならないかといった趣旨のことを述べた。すると───

 「私はそのような考え方はしません。私は悪とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴らと思っている人間は未熟な人間ということです。その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるのです。
 
 自分から〝悪人になってやろう〟〝利己主義者になってやろう〟と思って悪人や利己主義者になる人間はめったにいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのない子供みたいなものです。

目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、従って物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない人間なのです。

利己主義とは、利他主義が方角を間違えたにすぎません。善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。
   
 神の表現をそのように限定すれば、もはや絶対神が絶対でなくなります。それは条件つきの神、限定された霊となります。絶対神の本質は無限、全智、全能、不可変、不易であり、それが法則となって絶え間なく機能しているのです。

 神を、右手にナザレのイエスを従えて玉座に坐している立派な王様のように想像するのはそろそろやめなければなりません。それはもはや過去の幼稚な概念です。宇宙全体───雄大な千変万化の諸相の一つひとつに至るまで絶対的な法則が支配しているのです。神とは法則のことです」


 この問答がサイキックニューズ紙に掲載されるとすぐに反響があった。(交霊会はいつも週末に催され、その記事はすぐに翌週に掲載された───訳者)

 読者からの批判的な手紙が読み上げられるのを聞き終わったシルバーバーチはこう答えた。

 「困りました。そうした方たちは永いあいだ神とは善なるものにのみ存在すると教え込まれてきているからです。神とは一個の人間、誇張された立派な人間であるかに想像し、人間から見て良くないもの、親切とはいえないもの、賢明でないものは所有してほしくないというにすぎません。

しかし神は人間的存在ではありません。法則なのです。それが全生命を支配しているのです。法則なくしては生命は存在しません。法則がすなわち霊であり、霊がすなわち法則なのです。それは変えようにも変えられません。

そこのところが理解できない人にとってはいろいろと疑問が生じるでしょうけど、成長と共に理解力も芽生えてきます。神が善なるものを与え悪魔が邪なるものを与えるという論法ではラチがあきません。ではその悪魔は誰がこしらえたかという、古くからのジレンマにまたぞろ陥ってしまいます」


───悪魔はキリスト教が生み出したのでしょう?

 「そうです。自分たちからみて悪と思えるものを何とか片付けるためにはそういうものを発明しなければならなかったのです。悪も進化の過程の一翼を担っております。改善と成長───絶え間なく向上せんとする過程の一つなのです。

人間にとって悪に思え苦痛に思えるものも進化の計画に組み込まれた要素なのです。痛みがなければ健康に注意させる警告がないことになります。暗闇がなければ光もありません。悪がなければ善もありません。

地上にもし悪が存在しなければ、何を基準に善を判断するのでしょうか。改めるべき間違い、闘うべき不正が存在しなければ、人間の霊はどうやって成長するのでしょう」


───いつの世にもその時点での人類の進化の段階からみて不正と思えるものが存在するということでしょうか。

 「そういうことです。進化の階段を登れば登るほど、改めるべきものを意識するようになるものだからです。私が進化は永遠ですと言い、宇宙には始まりも終りもありませんと申し上げるのはそのためです。向上の道に終点はありません。無限に続くのです。

それぞれの段階がそれまでの低い段階への勝利の指標にすぎません。が、低いものがなければ高いものもあり得ないことになります。人生は一本調子(モノトーン)ではありません。

光と蔭、晴天と嵐、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、美と醜、善と悪の双方が揃わなくてはなりません。人生はそうした比較対照を通じてのみ理解できるものだからです。闘争を通して、奮闘を通して、逆境の克服を通してはじめて、神性を宿した人間の霊が芽を出し、潜在するさまざまな可能性が発揮されるのです。

そういう摂理になっているのです。私がそう定めたのではありません。私はただそれを自ら身に修める努力をしてきて、今それを皆さんにお教えしているだけです。

 人間的存在としての神は人間がこしらえた概念以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。黄金色に輝く天国も火焔もうもうたる地獄も存在しません。

そうしたものはすべて視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。

なぜならば、世の中が不変にして不可変、全知全能の法則によって治められていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。

 だからこそ全てが知れるのです。だからこそ何一つ手落ちというものがないのです。だからこそ人生のあらゆる側面が宇宙の大機構の中にあって然るべき位置を占めているのです。だからこそ何一つ見逃されることがないのです。いかに些細なことでも、いかに巨大なことでも。すべてが法則のワク内に収められているからです。

すべてが法則だからです。存在を可能ならしめている法則なくしては何一つ存在できないのが道理です。法則が絶対的に支配しているのです。

人間に与えられている自由意志が混乱を引き起こし、法則の働きを正しく見えなくすることはあっても、法則は厳然と存在しますし、また機能してもらわなくては困ります。私はキリスト教の神学は人類にとって大きな呪いであったと思っています。しかし、その呪われた時代も事実上終わりました」


              

シアトルの秋 〝下界〟と地縛霊

The “lower world” and earthbound spirits


一九二三年十一月二八日 金曜日

 人類の救世主、神の子イエス・キリストが〝天へ召される者は下界からも選ばれる〟と述べていることについて考察してみたい。下界に見出されるのみならず、その場において天に召されるという。

その〝下界から選ばれる者〟はいずこに住む者を言うのであろうか。これにはまずイエスが〝下界〟という用語をいかなる意味で用いているかを理解しなければならない。

この場合の下界とはベールの彼方においてとくに物質が圧倒的影響力を持つ界層のことを指し、その感覚に浸る者は、それとは対照的世界すなわち、物質は単に霊が身にまとい使用する表現形体に過ぎぬことを悟る者が住む世界とは、霊的にも身体的にも全く別の世界に生活している。

 それ故、下界の者と言う時、それは霊的な意味において地上に近き界層に居る者を指す。時に地縛霊と呼ぶこともある。肉体に宿る者であろうと、すでに肉体を棄てた者であろうと、同じことである。

身は霊界にあっても魂は地球に鎖でつながれ、光明の世界へ向上して行くことが出来ず、地球の表面の薄暗き界層にたむろする者同士の間でしか意志の疎通が出来ない。完全に地球の囚われの身であり、彼らは事実上地上的環境の中に存在している。

 さてイエスはその〝下界〟より〝選ばれし者〟を天界へ召されたという。その者たちの身の上は肉体をまとってはいても霊体によって天界と疎通していたことを意味する。その後の彼らの生活態度と活躍ぶりを見ればその事実に得心が行く。

悪のはびこる地上をやむを得ぬものと諦めず、悪との闘いの場として厳然と戦い、そして味方の待つ天界へ帰って行った彼ら殉教者の不屈の勇気と喜びと大胆不敵さは、その天界から得ていたのであった。そして同じことが今日の世にも言えるのである。

 これとは逆に地上の多くの者が襲われる恐怖と不安の念は地縛霊の界層から伝わって来る。その恐怖と不安の念こそがそこに住む者たちの宿業なのである。肉体はすでに無く、さりとて霊的環境を悟るほどの霊覚も芽生えていない。が、

それでも彼らはその界での体験を経て、やがては思考と生活様式の向上により、それに相応しい霊性を身につけて行く。

 かくて人間は〝身は地上に在っても霊的にはこの世の者とは違うことが有り得る〟という言い方は事実上正しいのである。

 これら二種類の人間は、こちらへ来ればそれ相応の境涯に落着くのであるが、いずれの場合も自分の身の上については理性的判断による知識はなく、無意識であったために、置かれた環境の意外性に驚く者が多い。

 このことを今少し明確にするために私自身の知識と体験の中から具体例を紹介してみよう。

 曽て私は特別の取り扱いを必要とする男性を迎えに派遣されたことがある。特別というのは、その男は死後の世界について独断的な概念を有し、それに備えた正しく且つ適切な心掛けはかくあるべしとの思想を勝手に抱いていたからである。

地球圏より二人の霊に付き添われて来たのを私がこんもりとした林の中で出迎えた。二人に挟まれた格好で歩いて来たが、私の姿を見て目が眩んだのか、見分けのつかないものを前にしたような当惑した態度を見せた。

 私は二人の付き添いの霊に男を一人にするようにとの合図を送ると、二人は少し後方へ下がった。男は始めのうち私の姿がよく見えぬようであった。そこで、こちらから意念を集中すると、ようやく食い入るように私を見つめた。

 そこでこう尋ねてみた。「何か探しものをしておられるようだが、この私が力になってさしあげよう。その前に、この土地へお出でになられてどれほどになられるであろうか。それをまずお聞かせ願いたい。」

 「それがどうもよく判りません。外国へ行く準備をしていたのは確かで、アフリカへ行くつもりだったように記憶しているのですが、ここはどう考えても想像していたところではないようです。」

 「それはそうかも知れない。ここはアフリカではありません。アフリカとはずいぶん遠く離れたところです。」

 「では、ここは何という国でしょうか。住んでいる人間は何という民族なのでしょうか。先ほどのお二人は白人で、身なりもきちんとしておられましたが、これまで一度も見かけたことのないタイプですし、書物で読んだこともありません。」

 「ほう、貴殿ほどの学問に詳しい方でもご存知ないことがありますか。が、貴殿もそうと気づかずにお読みになったことがあると思うが、ここの住民は聖人とか天使とか呼ばれている者で、私もその一人です。」

 「でも・・・・・・」彼はそう言いかけて、すぐに口をつぐんだ。まだ私に対する信用がなく、余計なことを言って取り返しのつかぬことにならぬよう、私に反論するのを控えたのである。

何しろ彼にしてみればそこは全くの見知らぬ国であり、見知らぬ民族に囲まれ、一人の味方もいなかったのであるから無理もなかろう。

 そこで私がこう述べた。「実は貴殿は今、曽てなかったほどの難問に遭遇しておられる。これまでの人生の旅でこれほど高くそして部厚い壁に突き当たったことはあるまいと思われます。これから私がざっくばらんにその真相を打ち明けましょう。

それを貴殿は信じて下さらぬかも知れない。しかし、それを信じ得心が行くまでは貴殿に心の平和は無く、進歩もないでしょう。

貴殿がこれより為さねばならないことは、これまでの一切の自分の説を洗いざらいひっくり返し裏返して、その上で自分が学者でも科学者でもない、知識の上では赤子に過ぎないこと、この土地について考えていたことは一顧の価値もない──つまり完全に間違っていたことを正直に認めることです。

酷なことを言うようですが、事実そうであれば致し方ないでしょう。でも私をよく見つめていただきたい。私が正直な人間で貴殿の味方だと思われますか、それともそうは見えぬであろうか。」

 男はしばし真剣な面持ちで私を見つめていたが、やがてこう述べた。「あなたのおっしゃることは私にはさっぱり理解できませんし、何か心得違いをしている狂信家のように思えますが、お顔を拝見した限りでは真面目な方で私の為を思って下さっているようにお見受けします。で、私に信じて欲しいとおっしゃるのは何でしょうか。」

 「〝死〟についてはもう聞かされたことでしょう。」

 「さんざん!」

 「今私が尋ねたような調子でであろう。なのに貴殿は何もご存知ない。知識というものはその真相を知らずしては知識とは言えますまい。」

 「私に理解できることを判り易くおっしゃってください。そうすればもう少しは吞み込みがよくなると思うのですが・・・・・・」

 「ではズバリ申し上げよう。貴殿はいわゆる〝死んだ人間〟の一人です。」
 これを聞いて彼は思わず吹き出し、そしてこう述べた。

 「一体あなたは何とおっしゃる方ですか。そして私をどうなさろうと考えておられるのでしょうか。もし私をからかっておられるだけでしたら、それはいい加減にして、どうか私を行かせてください。この近くにどこか食事と宿を取る所がありますか。少しこれから先のことを考えたいと思いますので・・・・・・」

 「食事を取る必要はないでしょう。空腹は感じておられないでしょうから・・・・・・宿も必要ありません。疲労は感じておられないでしょうから・・・・・・それに夜の気配がまるでないことにお気づきでしょう。」


 そう言われて彼は再び考え込み、それからこう述べた。

 「あなたのおっしゃる通りです。腹が空きません。不思議です。でもその通りです。空腹を感じません。それに確かに今日という日は記録的な長い一日ですね。わけが分かりません。」

 そう言って再び考え込んだ。そこで私がこう述べた。

 「貴殿はいわゆる死んだ人間であり、ここは霊の国です。貴殿は既に地上を後にされた。

ここは死後の世界で、これよりこの世界で生きて行かねばならず、より多く理解して行かねばならない。まずこの事実に得心が行かなければ、これより先の援助をするわけには参りません。しばらく貴殿を一人にしておきましょう。

よく考え、私に聞きたいことがあれば、そう念じてくれるだけで馳せ参じましょう。それに貴殿をここまで案内してきた二人が何時も付き添っています。何なりと聞かれるがよろしい。答えてくれるでしょう。

ただ注意しておくが、先ほど私の言い分を笑ったような調子で二人の言うことを軽蔑し喋笑してはなりません。謙虚に、そして礼儀を失いさえしなければ二人のお伴を許しましょう。

貴殿はなかなか良いものを持っておられる。が、これまでも同じような者が多くいましたが、自尊心と分別の無さもまた度が過ぎる。それを二人へ向けて剥き出しにしてはなりませんぞ。

その点を篤と心してほしい。と言うのも、貴殿は今、光明の世界と影の世界との境界に位置しておられる。そのどちらへ行くか、その選択は貴殿の自由意志に任せられている。神のお導きを祈りましょう。それも貴殿の心掛け一つに掛かっています。」

 そう述べてから二人の付き添いの者に合図を送った。すると二人が進み出て男のそばに立った。そこで三人を残して私はその場を離れたのであった。


──それからどうなりました。その男は上を選びましたか下を選びましたか。

 その後彼からは何の音沙汰もなく、私も久しく彼のもとを訪れていない。根がなかなか知識欲旺盛な人間であり、二人の付き添いがあれこれ面倒を見ていた。が、

次第にあの土地の光輝と雰囲気が慣染まなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に優るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛き屈辱の体験でもあった。

しかし彼は勇気ある魂の持ち主で、ついに己れに克った。その時点において二人の付き添いに召されて再び始めの明るい界層へと戻った。

 そこで私は前に迎えた時と同じ木蔭で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで、安易に人を軽蔑することもなくなっていた。私が静か見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの時のことを思い出して羞恥心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私をあざ笑ったことをえらく後悔していたようであった。

 やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。嗚咽で肩を震わせているのが判った。

 私はその頭に手を置いて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうしたことはよくあることである。 ♰

Saturday, September 21, 2024

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓 6章 編者まえがき

 

  
Silver Birch Speaks Again
Edited by S. Phillips

   編者まえがき

 ハンネン・スワッハー・ホームサークルの指導霊としてあまねく知られているシルバーバーチの霊言集はすでに数冊出版されているが、読者の要望にお応えして新たにこの一冊が加えられることになったのは有難いことである。これが六冊目となる。他に小冊子が二冊、訓えを要約したものと祈りの言葉を精選したものとが出ている。

 もとより活字ではシルバーバーチの温かい人間味が出せないし、ほとばしり出る愛を伝えることはできない。シルバーバーチは実に威厳のある霊であり、表現が豊かであり、その内容に気高さがあり、しかも喜んで人の悩みに耳を傾け、何者をも咎めることをしない。単純素朴さがその訓えの一貫した性格であり、真理の極印を押されたものばかりである。

 交霊会を年代順に追ったものとしては本書が最初である。一章の中に一回の交霊会の始めから終りまでをそっくり引用したものもあるが、他の二、三の交霊会から部分的に引用して構成したものもある。

私はなるべく同じ霊訓の繰り返しにならないようにしようと思ったが、それはしょせん無理な話だった。シルバーバーチの霊訓の真髄は基本的な霊的真理をさまざまな形で繰りかえして説くことにあるからである。内容的には同じことを言っていても煩をいとわず、その時の言葉をそのまま紹介しておいた。

 これまでの霊言集の中でも説明されているように、シルバーバーチの霊言は速記者によって記録されている。が、シルバーバーチは英語を完璧にマスターしているので、引用に際してはただコンマやセミコロン、ピリオドを文章の流れ具合によって付していくだけでよく、それだけで明快そのものの名文ができあがる。これは驚くべきシルバーバーチの文章能力の為せるわざである。

 さらに付け加えておきたいことは、シルバーバーチはその文章をスラスラと淀みなく口に出しているということである。質疑応答となると、質問者が言い終わるとすぐに答えが返ってくる。

そのあまりの速さに、初めて出席した人は、その会が打ち合わせなしのぶっつけ本番であることが信じられないほどである。

 古くからのシルバーバーチファンは本書を大歓迎してくださるであろうし、初めての方も、本書を読まれることによってきっとシルバーバーチを敬愛する数多くの読者の仲間入りをされることであろう。  
                              S ・ フィリップス


一章 神への祈り
 いつの交霊会でもシルバーバーチはかならず祈りの言葉で開会する。延べにして数百を数える祈りの中には型にはまった同じ祈りは一つもない。しかしその中味は一貫している。次はその典型的なもののひとつである。

 「神よ、いつの時代にも霊覚者たちは地上世界の彼方に存在する霊的世界を垣間みておりました。ある者は霊視状態において、ある者は入神(トランス)の境地において、そして又ある者は夢の中においてそれを捉え、あなたの無限なる荘厳さと神々しき壮麗さの幾ばくかを認識したのでした。

不意の霊力のほとばしりによる啓示を得て彼らはこれぞ真理なり───全宇宙を支配する永遠にして不変・不動の摂理であると公言したのでした。

 今私どもは彼らと同じ仕事にたずさわっているところでございます。すなわちあなたについての真理を広め、子等があなたについて抱いてきた名誉棄損ともいうべき誤った認識を正すことでございます。

これまでのあなたは神として当然のことであるごとく憎しみと嫉妬心と復讐心と差別心を有するものとされてきました。私どもはそれに代わってあなたの有るがままの姿───愛と叡知と慈悲をもって支配する自然法則の背後に控える無限なる知性として説いております。

 私どもは地上の人間一人ひとりに宿るあなたの神的属性に目を向けさせております。そしてあなたの神威が存分に発揮されるにはいかなる生き方をすべきかを説こうと努めているものでございます。

そうすることによって子等もあなたの存在に気付き、真の自分自身に目覚め、さらにはあなたの摂理の行使者として、彼らを使用せんとして待機する愛する人々ならびに高級界の天使の存在を知ることでございましょう。

 私どもはすべての人類を愛と連帯感を絆として一体であらしめたいと望んでおります。そうすることによって協調関係をいっそう深め、利己主義と強欲と金銭欲から生まれる邪悪のすべてを地上からいっそうすることができましょう。

そして、それに代ってあなたの摂理についての知識を基盤とした地上天国を築かせたいのです。その完成の暁には人類は平和の中に生き、すべての芸術が花開き、愛念が満ちあふれ、すべての者が善意と寛容心と同情心を発揮し合うことでしょう。地上を醜くしている悪徳(ガン)が姿を消し、光明がすみずみまで行きわたることでしょう。

 ここに、己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます」

Friday, September 20, 2024

シアトルの初秋 神とキリストと人間 

God, Christ and Man



一九一三年十一月十八日  水曜日

 地上の全存在の創造が完了した時、最後に一つだけ最も偉大なものが未完のまま残された。それが人間である。人間はその後の発達に任された。

驚異的な才能を賦与されていたからこそ向上進化の道を啓示され、その道を自ら辿るに任された。一人ぼっちではない。天界の全政庁が、人間がいかにその才能を駆使していくかを見守っていたのである。

 今ここで地上の学者の説く進化論や神学者の説く堕罪と昇天について改めて述べるつもりはない。それよりも、もっと広い視野に立って人間本来の向上心と現状について述べてみたい。

また吾々にも人間の未来を勘案し神の子全ての前途に横たわる、奥深くそして幅広い天界のその少し先くらいは覗き見ることを許されているのである。

 またその考察に当っては、地上で説かれている神学的ドグマに捉われることがないことも承知されたい。神学の世界は余りに狭隘(きょうあい)であり、又あまりに束縛が多いために、広い世界に永く暮らしていた者が不用意に手足を伸ばせば、取り囲む壁に当って傷を負いかねない。

更に広く旅せんとしても、もっと苦しい災難が降りかかるかも知れないとの不安のために、つい躊躇してしまうのである。

 よく聞くがよい。神学の教えをあたかも身体にとっての呼吸の如く絶対的なものを思い込む者には、衝撃があまりに大きく恐るべきものに思えるかも知れないが、吾々にとっては、道を誤らぬために神より賦与されている人間本来の意志と理性の自由な行使を恐れ、ドグマと戒律への盲従をもって神への忠誠であるかの如く履き違えている姿を見ることの方が、よほど悲劇に思えるのである。

 考えてもみよ。神の不機嫌に恐れおののかねばならぬとは、一体その神と人間とはいかなる関係であろうか。

自らの思考力を駆使して真摯に考え、その挙句にたまたまドグマから逸れたからといって、神がその者を無気味な笑みを浮かべて待ち受け網を持って捕らえんとしているとでも言うのであろうか。

それとも〝汝は生ぬるいぞ。冷たくもなく、さりとて熱くもない。よって汝の願いは却下する〟と述べたというのはこの神のことであろうか。自由闊達に伸び伸び生き、持てる才能を有難く敬虔な気持ちを持って存分に使えばよいのである。そしてたまたま過ちを犯しても、それは強情の故でもなく故意でもなく、善なる意図から出たことである。

両足を正しくしっかりと踏まえ、腕を強くふりしぼって矢を射よ。一度や二度的(まと)を外れたとて少しも戸惑うことはない。恐れてはいけない。神が却下されるのは自ら試みてしくじる者ではなく、勇気をもって挑もうとせぬ臆病者である。

このことは自信を持って断言する。私はその二種類の生き方を辿った人間が地上からこちらへ来た暁に置かれる場所、更には高級界へと進み行く門を探し求める経緯(いきさつ)を見て、その真実性を十分に得心しているのである。

 さて、天界の大軍の一員としての貴殿によくよく心して聞いてほしいことがある。改めてこう申すのも、これから私が述べることの中には貴殿の思考にそぐわないものがあるかも知れないからである。願わくば私の伝えるままを記してもらいたい。

 キリスト教徒の中にはキリストを神と認めない者が多くいる。実はその問題に関しては地上のみならずベールのこちら側にても軽々しく論じられている。と言うのも、地上にかぎらず、吾々の世界でも、真理を知るためには自ら努力して求めねばならないという事情があるのである。

吾々には啓示の奇蹟は与えられず、と言って自由な思考が上級界より抑制されることもない。人間と同様に吾々も導きは受けるが、あれこれと特定の信仰を押し付けられることはない。それ故に吾々の世界にもキリストは神にあらずと説き、そう説くことで万事終われりとする者が大勢いることになる。

 この度の私の目的はそれを否定して真相を説くことではない。それを絶対のものとして説くつもりはさらにない。それよりも私はまずその問題の本質を明らかにしたい。そうすることで、用語の定義付けを疎かにしてはこの種の問題が理解できないことを説きたいと思う。

 ではまず第一に、一体〝神〟とは何を意味するかということである。〝父なる存在〟を想う時の、一個の場所に位置する個人、つまり人間のような一人物を意味するのであろうか。もしそうだとすれば、キリストが神でないのは明らかである。

さもないと、それは二重の人物つまり二個の人物が区別のつかない状態で一体となった存在を創造することになる。キリストが〝私と父とは一つである〟と言ったのはそういう意味で述べたのではない。対等の二人の人物が一体となることは考えられないことであり、理性が即座に反撥する。

 それともキリストは父なる人間として顕現したものという意味であろうか。もしそうだとすれば、貴殿もそうであり私もそうである。なぜなら、神は全存在に宿り給うからである。

 あるいはキリストにおいて父なる神の全てが統一体としてそのまま宿ったということであろうか。もしそうだとすれば、これ又、貴殿にも私にも同じように神は完全なる形で宿っていることになる。なぜなら、神は不可分の存在だからである。

 しかしそれを、神の全てがキリストに宿り吾々には宿っていないという言い方をすれば、それは単なる一個の俗説に過ぎず、それ以上の価値は無い。これは非論理的でもある。

何となれば、もしも神がそっくりキリストの中に宿るとすれば、キリストが即ち神となって両者の区別がつかないことになるし、必然的にキリストに宿る神が神自身の中には宿らぬという妙な理屈にもなる。これでは理性が納得しない。

  それ故吾々が第一に理解しなければならぬことは〝父〟というのは神について吾々が考え得るかぎりの最高の要素を指すための名称に過ぎないということである。もっとも、吾々にはそれすら本当の理解は出来ていない。なぜなら、正直に申して、父なる神は吾々の理解を超えた存在だからである。

 私には父なる神を定義することは出来ない。まだ一度もその御姿を拝したことがないからである。それより以下の存在にその全体像が見える道理がないのである。私が拝したのはその部分的顕現であり、それがこれまで私に叶えられた最高の光栄である。

 ならばキリストと父との一体性の真意もまた、吾々の理解を超えた問題である。キリスト自身が吾々より上の存在だからである。キリストは吾々に思考し得るかぎりのことを述べておられるが、吾々にはまだその多くが理解できていない。

地上においてキリストは父なる神を身をもって証言してみせられた。つまり人間の身体によって顕現し得るかぎりの神の要素を吾々に示されたということである。それ以上のことは判らぬ。が、謙譲の徳と敬虔なる愛が深まるにつれて知識も深まり行くことであろう。

 キリストが父と一体であるのと同じ意味において吾々はキリストと一体である。〝人間性〟と呼ぶものと〝神性〟と呼ぶものとの融合したキリストの中に存在することによって、吾々は父なる神の中に存在する。

キリスト自身が述べておられるように、父はキリストより偉大なる存在である。が、どれほど偉大であるかは語られなかった。たとえ語られたとしても、吾々には理解し得なかったであろう。

 さて以上の説を読まれて、これでは私は人間が組み上げてきた足場組を徒(いたずら)に取り払うのみで、しかも結局は建物すら見えないことになるではないかと言う者もいるであろう。が、私の目的は頭初に述べたように、建物を構築することではない。

今何よりも必要なのは確固たる基盤づくりであることを指摘することであった。脆(ぜい)弱な基盤の上に建てたものは、見ているうちにも、あるいは早晩必ず崩壊して多くの労力が徒労に終わることは必定である。実は人間はまさにそれに等しいことをこれまで延々と続けてきたのである。

そして自らはそれに気づいていない。明確であるべき多くのことが未だに曖昧模糊(あいまいもこ)としている原因がそこにある。〝よくは知らぬ、がしかし・・・〟というせりふで始めて断定的な事を述べるのは賢明とは言えない。高慢は得てして謙虚な心の美しさを見えなくする。

また深遠な問題に対して即座に答える者が叡智に溢れていると思うのも誤りである。何となれば、確信は得てして傲慢と相通じていることがあり、傲慢から真実は生まれず、また愛すべきものでもないからである。

 貴殿と、守護霊としての私とは、永遠なる生命であるキリストにおいて一体である。キリストの生命の中において吾々は互いに相見(まみ)え祝福し合う。では私から祝福を述べるとしよう。そして貴殿から届けられた厚意に深く感謝する。 ♰

Thursday, September 19, 2024

シアトルの初秋 ヤコブと天使 

Jacob and the Angel 



一九一三年十一月十七日  月曜日

 「汝の見るところを書に著(しる)せよ」──これはパトモス島にいたヨハネに天使が語った言葉である。彼は可能なかぎりその命に従い、書き記したものを同志に託した。そのとき以来、多くの人間がその解釈に苦心してきた。

そして彼らはああでもない、こうでもないと思案の末に、よく判らぬ、とカブトを脱ぐのである。が、彼らが解釈に戸惑うのは実は自業自得なのである。

何となれば、もし幼子の如く素直な心を持って読めば容易に真理の扉を開く合鍵はあったのであり、神の王国に入り、素直な人間の素直な言葉を受け取る者を待ちうける天界の美を見ることを得たはずなのである。

 ところが人間はいつの時代にも〝複雑〟を好む。そして複雑さの中に真理の深遠さと奥行きとを求める。が、それは無駄である。何となれば、それは言わばガラスの表面を見て、反射する光の眩しさに目が眩むにも似た行為であり、その奥を見透し、そこに潜む栄光を見るべきだったのである。

 かくして人間は複雑さに更に複雑さを加え、それを知識と呼ぶ。が、知識には本来複雑さはない。知識を欠くことこそ複雑を生む要因である。故にもし私が貴殿に、そして貴殿を通して他の者に、何かを説明せんとする時、その説明のうわべだけを見てはならない。

自動書記という通信方法にこだわってはならない。つまり用語や言い回しに貴殿自身のものに酷似したものがあるからといって、それを疑って掛ってはならない。

それは言わば家屋を建てるために使用する材料に過ぎず、そのためには貴殿の記憶の層に蓄えられたものを借用するしかないのである。

 更に言えば、貴殿のこれまでの半生は一つにはこの目的のための監督と準備のために費やされてきた。すなわち、こうした自動書記のために貴殿を使用し、更に又、地上界とのつながりを深める上で吾々の及ばざるところをそちら側から援助してもらうためである。

吾々が映像を見せる、それを貴殿が文章として書き留める。かくして〝汝が見るところのことを書き著 (しる) し〟それを世に送る。

その受け止め方は各人の受容力の程度によると同時に、持てる才覚が霊的真理を感識し得るまでに鋭さを増しているか否かに関わる問題である。各々それで佳しとせねばならない。さ、吾らと共に来るがよい。出来るかぎりのものを授けよう。


──〝吾々〟という言い方をされますが、他に何人か居られるのでしょうか。

 吾々は協調によって仕事を推進する。私と共にこの場に居合わせる者もいれば、それぞれの界にあって必要な援助を送り届けることの出来る者もいる。又そうするよりほかに致し方ない性質の援助もある。

それは海底のダイバーのために地上から絶え間なく空気を送り込まねばならないと同じで、吾々がこうして仕事をしている間中ずっと援助を送り届けてくれる必要がある。

あたかも海底にいる如く、普段摂取している空気は乏しく光は遥か上の方に薄ぼんやりと見える、この暗く息苦しい地上界にあっては、そうした種類の援助を得ることによって高き真理を幾分なりとも鮮明に伝えることが出来るのである。

この点を考慮に入れ、吾々のこともその点に鑑みて考えてほしい。そうすれば吾らの仕事について幾分なりとも理解がいくであろう。

 かく申すのも、天使はなぜ曽てほど地上へ大挙して訪れなくなったのかという疑問を抱く者がいるからである。この僅かな言葉の中に多くの誤解が存在するが、中でも顕著なのが二つある。まず第一は、高い霊格を具えた天使が大挙して地上を訪れたことは絶対にない。

永い人類の歴史の中においても、あそこに一人ここに一人と、極めて稀にしか訪れていない。そしてその僅かな事象が驚異的な出来事の年代記の中において大きく扱われている。

天使が地上へ降りてその姿を人間に見せることは、よくよく稀にしか、それも特殊な目的のある場合を除いて、まず有り得ない。万一そうするとなれば、先に述べた吾々の仕事の困難さを更に延長せねばならない。

つまり、まず暗く深い海底へ潜らねばならない。次にその海底で生活している盲目に近い人間に姿を見せるための諸々の条件を整えなければならない。


 それはあり得ないことである。確かに吾々は人類のための仕事に携わり、人類と共に存在するが、そういう形で訪れることはしない。それぞれの仕事により規則があり方法も異なる。

そこに又、第二の誤解が存在する。確かに吾々の身は今人間界に在り、繰り返し訪れているのであるが、この〝訪れる〟という言葉には、言葉だけでは表せない要素の方が実に多いのである。

ベールのこちら側にいる者でも、あるいは吾々の界と地上界との中間の界層にいる者でも、霊の有する驚異的威力とその使用法については、向上の過程において意外に僅かしか理解していないものである。が、この問題はこれまでにして、次に別の興味ある話題を提供しよう。

 例のジャボクにおいてヤコブが天使と会い、それと格闘をして勝ったという話(創世記32)──貴殿はあの格闘をどう理解しているであろうか。そして天使が名前を教えなかったのはなぜだと思われるであろうか。


──私はあの格闘は本当の格闘であったと思います。そしてヤコブが勝たせてもらえたのはパダン・アラムでの暮らしにおける自己との葛藤が無駄でなかったことを悟らせるためであったと思います。

つまり己れに勝ったということです。そして天使が名を明かさなかったのは、肉体に宿る人間に天使が名を明かすことは戒律(おきて)に反くことだったからだと思います。


 なるほど。最初の答えは良く出来ている。あと答えは今一つというところである。何となれば、考えてもみよ、名を明かさなかったのはそれが戒律に反く行為であるからというのなら、では一体なぜそれが戒律に反くことになるのであろうか。

 さて例の格闘であるが、あれは真実味と現実味とがあった。もっとも、人間が行うような生身と生身の取り組みではなかった。もし天使に人間の手が触れようものなら、天使は大変な危害をこうむるであろう。

確かにヤコブの目に映ずるほどの形体で顕現し、触れれば感触が得られたであろう。が手荒に扱える性質のものではなかった。天使の威力はヤコブの腰に触れただけで脚の関節が外れたという話でも想像がつくであろう。

では、それほどの威力ある天使を組み伏せたほどのヤコブの力は一体何であったのか。実は天使はヤコブの念力によって組伏せられたのである。と言って、ヤコブの念力が天使のそれを凌いだというのではない。天使の謙譲の徳と特別な計らいがそこにあったのである。

天使が去ろうとするところをヤコブが引き止めると、天使はそれに従ったが、ぜひ帰らせてほしいと実にいんぎんに頼んでいる。

 貴殿はこの寛恕の心の偉大さに感嘆するであろう。がそれも、イエス・キリストが地上で受けた恥辱を思えば影が薄くなるであろう。いんぎんさは愛の表現の一つであり、それは霊性を鍛える永い修行において無視されてはならない徳の一つである。
 
 こうして天使はその謙譲の徳ゆえに引き止められた。が、それはヤコブが勝ったことを意味するものではない。新たに自覚した己れの意志の力と性格が、しばし、けちくさい感情を圧倒し、素直に天使に祝福を求めた。天使はすぐに応じて祝福を垂れた。が、その名は明かさなかった。

 名を明かすことが戒律に反くという言い方は必ずしも正しいと言えない。名を明かすこともあるのである。ただ、この時は明かされなかった。それはこういう理由による。すなわち名前というものにはある種の威力が秘められているということである。このことをよく理解し銘記してほしい。

なぜなら、聖なる名を誤って使用し続けると不幸が生ずることがあり、それに驚いてその名の主が忌み嫌われることになりかねないからである。ヤコブが天使の名を教えてもらえなかったのは、ヤコブ自身の為を思ってのことであった。

祝福をよろこんで求めた。が、それ以上にあまり多くを求めすぎぬようにとの戒めがあったということである。ヤコブは天使の偉大なる力をほとんど直接(じか)に接触するところまで体験した。が、その威力をむやみに引き出すことは戒めなければならない。

そうしなければ、その後に待ち受ける奮闘は己れの力によるものではないことになるからであった。

 今、貴殿の心に疑問が見える。吾々に対する浅はかな要求が聞き入れられることがあるかということのようであるが、それは可能であるのみならず、現実にひっきりなしに行われている。

不思議に思えるかもしれないが、その浅はかな要求を吾々が然るべき形にして上層界へ送り届ける。が、往々にしてその結果は、当人自身の力をふりしぼらせ、そうすることによって霊界からの援助に頼るよりも一層大なる力を発揮させるべきであるということになる。

地上の人間が必死にある者の名を呼べば、それは必ずその者に届く。そして可能な限り、そして本人にとりて最良の形で世話を焼き活動してくれる。

 思うにヤコブは兄エサウとの闘争、息子たちとの諍(いさか)い、飢餓との戦い、そして数々の試練によって自己の人間的威力を否応なしに発揮させられることで、たびごと天使の援助を頼りとした場合より飛躍的進歩を遂げたことであろう。

彼の要求はしばしば拒否され、それが理解できないために信仰に迷いを生じ当惑したことであろう。また時には援助が授けられたことであろう。がそれは歴然とした形で行われたであろうから、理解するに努力は要らず、従って進歩も必要としなかったことであろう。

 この問題はこれ以上続けぬ。ヤコブの例を引いたのは、吾々の姿は見えず声も聞こえないからといって、それだけで貴殿が距離的に吾々から遠く離れているわけでもなく、また吾々が貴殿から遠くに居るわけでもないことを示すためであった。

吾々が語り貴殿が聞く。しかしそれは聴力で聞くよりも更に深い、貴殿自身の内奥で聞いている。貴殿の目に映像が見える。が、それは視力で見るより更に内奥の感覚にて見ている。貴殿は何一つ案ずるには及ばない。

吾々も少しも案じてはいない。そしてこれ以後も貴殿を使用し続けるであろう。故に平静さとキリストを通じての神への祈りの気持を持ち続けてほしい。吾々はキリストの使者であり、キリストの名のもとに参る者である。♰  

Wednesday, September 18, 2024

シアトルの初秋 天体の円運動の原理

Principle of circular motion of celestial bodies



一九一三年十一月十五日   土曜日

 さて、もう一つ私の立場から見て貰いたいものがある。地上の科学者は天体について彼らなりに観察し、その結果をまとめ、他の情報と統合して推論を下し、それにある程度の直感力と叡智とを加味して生成の原理を系統だてているが、その天体の生成過程に霊的存在と霊的エネルギーとがどう関わっているか、その真相について述べてみたい。

 そもそも〝天体〟という用語には二重の意味があり、その理解も個人の能力と人間性の程度によって異なる。ある者にとってはそうした球体は物質的創造物に過ぎず、ある者にとっては霊的生命力の顕現の結果以外の何ものでもない。

が、その霊的生命力の働きについても、皆がみな同じように理解しているわけではない。霊的生命力という用語をきわめて曖昧な意味に使用している者もいる。〝神が万物を創造した〟と簡単にいう者がいるが、その意味するところは途轍もなく深遠である。

地上という薄暗い世界を超越して、より明るい世界を知る者にとっては、多分その言い方では真理を表現しているよりむしろ埋葬していると言いたいところであろう。もっとも偉大なものも、もっとも単純な叡智から生まれる。

絶え間なく運動を続ける天体の見事な連動関係(コンビネーション)も、最も基本的な幾何学的計算から生まれる。何となれば、一つの縺(もつ)れもなく自由自在の使用に耐え得るものは、最も純粋にして最も単純なものしかないからである。

その至純にして単純な状態こそ恒久性の保証である。それは地球のみに限らない、遥か彼方の星辰の世界においても永遠に変わらぬ真理である。何となれば、完璧なる理法のもとに統制されているからである。

 さて、それら天体組織の各軌道は二種類の原理によって定められると言っても過言ではない。すなわち直線と曲線である。否、根源的にはたった一つの原理すなわち直線から出来上がっていると述べた方がより正確かも知れない。

つまり全ての天体は本来直線軌道上の上を直進している。ところが突き進むうちに例外なく曲線を描くことになる。その道理の説明は地上の天文学者にも出来るであろう。が、一つだけ例を挙げて説明しておこう。

 地球を例にとり、それが今軌道上を発進したとしよう。するとまず直線コースを辿る。それが本来の動きなのである。ところが間もなく太陽の方向へ曲がりはじめる。

そしてやがて楕円状に働いていることが判る。結果的には直線は一本もない。曲線の連続によって楕円を画いたのであり、それが地球の軌道なのである。

 一方、太陽の引力は決して曲線状に働いたわけではない。やはり一直線なのである。

結局地球の軌道を直線から楕円へと変えたのは二種類のエネルギーの直線的作用──地球の推進力と太陽の引力──だったのであり、その中に多種類の曲線の要素が入り、それが完全な楕円をこしらえたのである。

実はこれには他に多くの影響力が働いているが、貴殿の注意力を逸らさぬよう、一つの原理にしぼっている。これを定義づければこういうことになろう──二本の直線的エネルギー作用が働き合って楕円軌道を形成する、と。

 太陽の引力も地球の推進力も完全な理法に沿って働き、そこには美しさと驚異的な力がある。物体が自ら働くということ自体が驚異というべきであり、真実、驚異なのである。

その両者が互いに動きを修正し合い、また大なるものが小なるものを支配しつつ、しかも小なるものの本来の力と自由を奪うことなく、連動作用により──明らかに対立した動きをしながらも──二本の直線よりも遥かに美しい楕円を画く。これはまさに親と子の関係にも似ている。

 貴殿はまさか両者が対立した運動をするからにはこの機構は誤っており〝悪〟の根源より出たものである、などとは思うまい。考えてもみるがよい。この両者は虚空の中を来る日も来る日も変わることなく連繋運動を幾星霜となく続け、今なお続けている。

それを思えば、侮辱どころか畏敬と崇敬の念を抱くべき事柄である。美しさと偉大さとを併せ持つ叡智の存在を示している。これを考案された神への讃仰の念を抱かずにはおれないであろう。

偉大な叡智と偉大な力とを兼ね備えた存在であるに相違ないからである。むべなるかなである。

 人間は神の御業をこのように正しく理解せず、見た目に映じた皮相な見解のもとに神及び神の働きを安易に疑い過ぎる傾向がある。人間生活の中に先の例のような対立関係を見ると、すぐに神が不完全で在るかの如く言う。もっと良い方法があるはずであると思い、神の叡智と愛を疑う。

人間生活の画く大きな軌道の僅かな曲線のみ見て、あたかも全てが破滅に向かっているかの如く思いつめる。そうまで思いつめなくても、少なくとも全てが直線的、つまりは悲劇もなく苦難も無いコースこそが正しい人生であると思い、対立的勢力の連動作用によって軌道を修正されることを好まない。

 もとより、仮定の問題とすればそれ以外の働き方もあるかもしれない。が、もしそうなれば、神がその霊力によって実現させたところの、かの完璧な星辰の動きには及びもつかぬものとなるであろう。

人生における軋轢(あきれつ)や悩み事や苦痛を生じさせるところの対立関係は、地球を無事軌道上に運行させているエネルギーの対立関係と同じなのである。完全なる全体像を見通す神の目から見ればそれで良いのであり、その成就へ向けて忍耐強く待つのである。

 吾々とて全てが判るわけではなく、これから辿る道もさして遠い先まで見通せるわけでもない。ただ貴殿よりは遠くが見える。少なくとも現在自分の置かれた事情に得心し、同じ道を歩む同胞に援助の手を伸ばし、これより先いかに遠く進もうとも、全てがうまく出来ているとの信念を持って向上へ励むのである。

と言うのも、こうして地上の霧に包まれ視野を閉ざされた状態においては、吾々はその道程についてしつこくその価値を詮索することをせず、天界に戻って煌々たる光の中において全体を眺める。その高き視野より眺めると、完成へ向けて進む人生の軌道は実に美事なものである。

あまりに美事であるために吾々はしばしば愛と叡智の神の尊厳に驚嘆と畏敬の念を覚え、思わず足を止めるのである。その威容の前にひれ伏す時の讃仰の念は最早や私の言葉では表現できない。ただ魂の憧れの中に表現するのみである。

 アーメン。私からの祝福を。勇気を持って怖れることなく歩むがよい。先のことは私が全て佳きに計らうであろう。 ♰                                        

Tuesday, September 17, 2024

シアトルの初秋 迷いの過去から悟りの未来へ

私どもは自己中心主義、物質万能主義、無知、暗黒等々、人生の楽しさ、明るさ、安らぎを奪う勢力のすべてを一掃すべく努力しております。シルバー バーチ

We strive to wipe out self-centeredness, materialism, ignorance, darkness, and all other forces that rob life of its joy, light, and peace.




 スピリチュアリズムの前途には大きな仕事が待ち受けている。霊的交信の目的はただ単に地上の人間に慰めをもたらすことではない。

ある日の交霊会でシルバーバーチは〝生命の法則について精神的側面、道徳的側面、物的側面、ならびに霊的側面から理解を深めるように指導し、身体的に不健全な人が少なくなると同時に霊的に未熟な人も少なくしていくことが我々の使命の一端です〟と述べて、スピリチュアリズムの目指すべき方向を暗示した。それを別の日の交霊会で次のように敷衍(ふえん)した。

 「私どもは自己中心主義、物質万能主義、無知、暗黒等々、人生の楽しさ、明るさ、安らぎを奪う勢力のすべてを一掃すべく努力しております。地上のため───それだけを望んでおります。それなのに、つまり地上のためになることをのみ望み、何一つ邪なものを持ち合わせず、人間性の中に下品なもの、あるいは低俗なものには決して訴えることがないのに、なぜ人間は私たち霊の働きかけを毛嫌いするのでしょうか。

 より次元の高い真理、より深い悟りの道をお教えしようとしているのです。人生の基盤とすべき霊的原理を理解していただこうと努力しているのです。人間の内部に宿る霊的可能性を認識し、真の自我とその内奥に存在する神性を見出していただきたいと願っているのです。

私たちは人間の理性───人間として最高の判断力に訴えております。一段と次元の高い生命の世界を支配する摂理をお教えし、宇宙の物的側面だけで無く、もっと大きな部分を占めているところの永遠不滅の霊的側面を理解していただこうと願っているのです。

 私たちの努力目標は人類が幻を追い求め影を崇めることのないように、霊的真理の実在を得心させることによって人生観を誤った信仰でなく確実な知識の上に確立し、大自然の法則に基づいた本当の宗教心を持ち、たとえ逆境の嵐が吹き荒れ、環境が酷しく、いずこに向かうべきかが分らなくなった時でも〝事実〟に裏打ちされた信仰心によってあらゆる試練、あらゆる苦難に耐えていけるようにしてあげることです。私たちの使命は霊的使命なのです。

人間が内奥に神すなわち実在の生命を宿していることをお教えし、従って人間は動物ではなく一人ひとりが神であることを自覚し、同じ神性が宇宙の他のすべての生命にも宿っていることを知っていただくことを使命としているのです。

 その認識が行きわたれば地上は一変します。理解が広まるにつれて新しい光が射し込み、永遠の大機構の中での人間の位置を悟ることになります。私たちが訴えるのはややこしい神学ではありません。時代遅れの教説ではありません。

素朴な理性───あらゆる真理、あらゆる知識、あらゆる叡知の真偽を判断する手段に訴えております。

もしも私の述べることにあなた方の知性を侮辱し理性を反撥させるようなものがあれば、それを無理して受け入れることは要求しません。最高の判断基準に訴えることによって人間が真の自分を見出し、真の自分を見出すことによって神を見出してくださることを望んでいるのです。

 真理は決して傷つけられることはありません。決して破壊されることはありません。後退させられることはあります。抑えつけられることもあります。しかし永久に埋もれてしまうことはありません。

真なるものが損なわれることはあり得ません。嘘言を持っていかに深くいかに固く埋め尽くされても、いつかは必ず表に出てきます。真理を永遠に抑えつけることはできません。

いま私たちが旗印としている真理は地上にとって重大な役割を担っております。人間というものは煩悶の時代になると永いあいだしがみついていた教説を改めて検討し、それが果たして苦難と困難のときに慰めとなり力となってくれるであろうかと思いはじめるものです。

 霊的実在についての真理を片隅に押しやることはできません。人間がひとりの例外もなく神の子であり成就すべき霊的宿命を背負った存在であるとの証は、宇宙における人類の本当の位置を認識し無限にして永遠の創造の大業の一翼を担う上で絶対必要なことです。

私たちの存在自体を疑う人がいることでしょう。存在は認めても影響力を疑う人がいることでしょう。もとより私たちは万能を主張するつもりはありません。私たちも常に数々の限界とさまざまな制約に直面していることは、これまでたびたび述べてきたことです。しかし私たちがあなた方を援助することができるという事実に疑う余地はないでしょう。

 私たちには霊力というパワーがあります。これは宇宙の全生命を生み、それに形態を与えている力です。正しい環境と条件さえ整えてくれれば、私たちはそのパワーを活用してあなた方を導き、保護し、援助することができます。

それも決してあなた方だけという限られた目標のためでなく、あなた方を通じて顕現した霊力がさらに他の人へも波及して、その人たちも霊的なパワーを感得できるようになるのです。

前途に横たわる道は決して容易ではありません。しかし協調精神をもって臨み、平和的解決を希求し、慈悲心に裏打ちされた公正を求め、憎しみと復讐心に根ざした観念を完全に排除して臨めば、明るい未来をすぐ近くまで招来することができることでしょう」

 これは一九三九年に第二次大戦が勃発して間もない頃の交霊会での霊言で、最後の部分はその大戦のことを指している(本書の出版は一九四一年──訳者)

 さらにメンバーからの質問を受けてこう語っている。

 「物質の世界に生きておられるあなた方は実在から切り離されております。あなた方自身にとって、そのことを理解することが難しいことは私もよく承知しております。なぜならば、あなた方なりに何もかもが実感があり実質があり永遠性があるように思えるからです。

ご自分を表現しておられるその身体、地上と言う大地、住んでおられる住居、口にされる食べ物───どれをとってもこれこそが実在であると思いたくなります。でも、それはことごとく〝影〟であり〝光〟でないことを申し上げねばなりません。

あなた方は五感に感応しない世界を想像することができません。従ってその想像を超えた世界における活動と生活ぶりを理解することができないのは当然です」


 そうした地上とはまったく異なる世界についての知識を得ているサークルのメンバーの一人に〝その知識はあなたにどういう変革をもたらしましたか〟とシルバーバーチの方から質問したことがあった。それを全部聞き終わったあとこう語った。

 「こうしてお聞きしてみますと、あなた方ひとにぎりの方たちにあっても、わずか二、三年間の霊力との接触によっていかに大きな変革がもたらされたかが分ります。となれば、これを世界中に普及させることによってその数を百万倍にもすることができるということです。

それは無知を一掃し、暗闇の中で進むべき道を見失った人々に灯を与え、全宇宙の背後に存在する大目的を教えてあげることによって達成されることでしょう。
℘71
 人類がいかに永いあいだ道を見失なってきたかご存知でしょうか。人類を先導すべき人たち、霊的指導者であるべき人たちみずからが盲目だったのです。玉石混交の信仰を持って事足れりとしてきました。宗教的体系をこしらえ、その上に教義とドグマで上部構造を築きました。

儀式と祭礼を発明しました。教会(チャーチ)(キリスト教)、寺院(テンプル)(仏教)、礼拝堂(シナゴーグ)(ユダヤ教)、モスク(イスラム教の礼拝堂)等々を建造しました。神とその子等との間に仕切りを設けたのです。それぞれに経典をこしらえ、わが宗教の経典こそ本物で宇宙の真理のすべてを包蔵していると主張し合いました。

かんかんがくがく、宗教家としての第一の心掛けであるべき愛の心を忘れ、その上なお情けないことに、憎悪と敵意を持って論争を繰り返してきました。

 予言者、霊覚者、哲人、聖者の類をすべて追い払いました。真の〝師〟たるべき人々を次々と迫害していきました。神の声の通路であるべき人々の口を塞いでしまいました。腐敗した組織にはもはや神の生きた声が聞かれる場がなくなってしまいました。

開かれたビジョンを閉ざし、すべての権力を聖職者に帰属させ、神へ近づける力は自分たち以外にはないことにしてしまいました。聖職者の中にも高徳の人物は数多くいました。ただ、惜しむらくは、その人たちも(そうした環境の影響のために)宗教の唯一の礎石(いしずえ)であり人類にその本領を発揮せしめる原動力である霊力の働きかけに無感覚となっておりました。
℘72
 人類の歴史において大きな革命を生んできたのは全て霊の力です。素朴な男性または女性が霊感に鼓舞されて素朴なメッセージを威信を持って語り、それを素朴な平凡人がよろこんで聞いたのです。今その霊力が、かつてと同じ〝しるしと奇跡〟を伴って再び顕現しております。

目の見えなかった人に光が戻り、耳の聞こえなかった人が聴覚を取り戻し、病の人が健康を回復しております。邪霊を払い、憑依霊を取り除き、肉親を失った人たちに慰めをもたらしております。

 多くの魂が目を覚まし、霊の大軍が存分にその威力を見せることが出来るようになりました。〝死〟の恐怖を取り除き、〝愛〟が死後もなお続きその望みを成就している事実を示すことができるようになりました。インスピレーションは(イエスの時代に限らず)今なお届けられるものであること、人間の心は(他界した時点のままでなく)死後も改めていくことが出来ること、(宗教的束縛から)

精神を解放することが可能であること、自己改革への道が(宗教的教義に関係なく)開かれていること、(宗教的活動から離れたところにも)自分を役立てる機会はいくらでもあること、霊力に鼓舞されて報酬を求めずこの世的な富への欲望を持たずに〝よい知らせ〟を教えてあげたい一心で、すべての人に分け隔てなく近づく用意の出来た魂が存在している事実を立証しております。

℘73
 これほどまで美しい話、これほどまで分り易い話、人生の本質をこれほど簡明に説き明かしてくれる話に耳を傾けようとしない人が多いのは一体なぜでしょうか。光明を手にすることができるのに一体なぜ多くの人が暗黒への道を好むのでしょうか。なぜ自由よりも束縛を好むのでしょうか。

 しかし、われわれはあなた方が想像される以上に大きな進歩を遂げております。難攻不落と思えた古い壁───迷信、既成権力、ご生大事にされている教義、仰々しい儀式を堅固に守り続けてきた壁が音を立てて崩れつつあります。急速に崩壊しつつあります。

一方では多くの魂が霊的真理に感動し、精神に光が射しこみ、心が受容性を増し、よろこんで私たちの教説に耳を傾けてくれております。過去数年間の進歩ぶりを見れば、われわれの勝利はすでにゴールが目に見えていると宣言してもよい時機が到来したと言えます。

その確信を私は語気を強く宣言します。もはや絶望の戦いではなくなりました。私たちが自己中心の物質第一主義に根ざした古い時代は終わった、新しい時代が誕生している、と述べる時、それは有るがままの事実を述べているのです。

 かつて地上において苦難と犠牲の生涯を送った人々、強者と権力者によって蔑まれる真理を護るためにすべてを犠牲にした人々───その人たちがいま霊界から見下ろし、霊的大軍の前進ぶりを見て勝利を確信しております。
℘74
むろんこれは比喩的に述べたまでです。銃を手にした兵士がいるわけではありません。われわれの弾薬は霊力であり、兵器は理性と良識です。私たちは常に人間の知性に訴えます。もっとも、時としてその知性が無知と迷信と依怙地な強情の下敷きとなってしまっているために、果たして(普遍的判断基準であるべき)知性が存在するのだろうかと迷うこともあるでしょう。

しかし、よく目を見開いて自分でそのしるしを求めることです。あなた方にはその判断力があり、囚われなきビジョンを手にする能力をお持ちです。その力で、暗闇を突き通す光を見届けて下さい。

 われわれはもはや軽蔑の対象とされた曽ての少数派ではありません。片隅で小さくなっていた内気な小集団ではありません。科学的立証を得て、やはり真実だったと確信した堂々たる大軍であり、恥じることない社会的位置を獲得し、霊的事実の福音を誇りを持って説いております。

霊的なことを口にしたからといって軽蔑されることはもうありません。それは過去の無知な人間がしたことです。今はそれを知っていることで尊敬される時代です」

 訳者注───モーゼスの『霊訓』によると、かの 〝十戒〟を授かったモーゼが従えていた七十人の長老はみな霊格の高い人物だったという。これは世界に共通した事実であって、古代においては霊感が鋭くかつ霊的なことに理解のある者が要職につき、いわゆる祭政一致が当然のこととされた。
℘75
 それが物質科学の発達と共に意識の焦点が五感へと移行し、物的なものさしで測れないものが否定されていった。ところが皮肉なことに、その物質科学みずからが物質の本質は常識的に受け止めてきたものとは違ってただのバイブレーションに過ぎないことを突き止めたのと時を同じくして、再び霊的なものへと関心が高まりつつある。

 シルバーバーチはそうした潮流の背後には霊界からの地球的規模の働きかけがあることを指摘している。オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻〝天界の大軍〟篇はそれを具体的に叙述して、その総指揮官がキリストであると述べている。シルバーバーチ霊団も、イムペレーター霊団もその大軍に属し、最前線で活躍していたことになる。


 

Monday, September 16, 2024

シアトルの初秋 軽蔑と嘲笑の中で ───スピリチュアリズムの歩み

誤謬と利己主義、迷信と無知、自惚れと悪逆無道の勢力を蹴散らし過去のものとしなければなりません。
We must kick the forces of error and selfishness, superstition and ignorance, egotism and treachery, and make them a thing of the past.


  More Teachings of Silver Birch
Edited by A.W. Austen

 
一九世紀半ばから始まった科学的心霊研究、そしてその結果としてスピリチュアリズムの名のもとに盛んになり始めた霊的知識は、既成宗教界の侮蔑と弾圧の中にあっても着実に普及してきている。スピリチュアリズムの発端からほぼ百年の歩みを振り返ってシルバーバーチはこう述べた。(本書の初版は一九四一年───訳者)


 「私たちの仕事が始まった当初、(その表面の現象だけを見て)世間の人は何とたわいもないことをして、と軽蔑の眼差しで見たものでした。〝テーブルラッパー〟(※)───彼らはサークルのメンバーをそう呼んで軽蔑し嘲笑しました。しかし、そうした現象も実は大きな目的を持った一大計画に組み込まれていたのです。私たちの意図した影響力は次第に大きくなり世界中へ広がっていきました。

各分野で名声を得ていた名士を次々とその影響力に誘っていきました。偏見によって目隠しをされ理性が迷信によって曇らされている者は別として、やはり著名人の証言が全ての人に尊重されるという考えからそういう手段を選んだのです。(※初期の頃はテーブルの叩音(ラップ)による通信が盛んに行われた───訳者)

 その後もますます多くの人材が同じ霊的影響下に置かれていきました。霊媒も増えました。サークル活動が広まり盛んになりました。科学、医学、思想、宗教、その他ありとあらゆる分野の人をこれに参加させ、当時すでに猛威をふるっていた誤った物質万能主義を否定する現象、新しい高度な生命感を示唆する霊的事実、唯物思想の終焉を予告する目に見えない力の存在へ目を向けさせました。

ほどなくして───実に短期間のうちに───そのテーブルラッパーたちは宗教を腐敗から守る運動の旗手となっていったのです。

 僅か百年足らずの間にどれだけのことが成就されたか、それをこうした経過の中から読み取り、それを教訓としてこれ以後どれだけのことが成就できるか、そこに皆さんの先見の明を働かせてください。しかし私たちが今まさに欲しているのは、もっと多くの道具───背後から導き鼓舞してくれる霊の力に満腔の信頼を置いてくれる人材です。

霊的実在を悟りそれを他の同胞のために使用してくれる人、真理を暗い生活の灯火として持ち歩いてくれる人です。

  私たちが望んでいるのは、まずそうした霊的真理のメッセンジャー自らがそれを日常生活において体現し、その誠実さと公明正大さに貫かれた生活を通して、見る人の目になるほど神のメッセンジャーであることを認識させることです。

それから今度は積極的に世に出て社会生活のすべての面にそれを応用していってほしいのです。つまり、まず自らが身を修め、それから他人のために自分を役立てる仕事に着手するということです。これまでもあなた方が想像なさる以上に多くの仕事が成就されてまいりましたが、これから先に成就されていく可能性に較べれば、それは物の数ではありません。

 世の中を見回して、あなた方の努力のしるしを読み取ってごらんなさい。古くて使いものにならない教義やドグマの崩壊が見て取れるはずです。誤った信仰の上に築かれた構築物が至る所で崩壊しつつあります。私達の説く霊的真理(スピリチュアリズム)は(心霊学という)知識を土台として築かれております。

その土台はいかなる嵐にもビクともしません。なぜなら真実───霊的事実───を土台としているからです。あなた方が建造の一役を担ったその殿堂は、あなた方が(死んで)物質界に感応しなくなったのちも、あなた方の奮闘努力の記念碑として末永くその勇姿を失うことはないでしょう」

  同じテーマについて別の交霊会で───

 「真理は前進し、暗黒と無知と迷信と混迷を生む勢力は後退します。霊力はますます勢いをつけ、これまで難攻不落と思われていた分野にまで浸透しながら凱旋し続けます。これが私たちが繰り返し繰り返し宣言しているメッセージです。あなた方は今まさに地上に新しい存在の秩序を招来するために貢献しておられるということです。ゆっくりとではありますが、変革が生じつつあります。

新しいものが旧(ふる)いものと取って替わるとき数々の変動は避けられません。それも神の計画のうちに組み込まれているのです。

 常に基本的な霊的真理を忘れぬように、と私は申し上げております。常にそれを念頭におき、その上に宗教観、科学観、哲学観、倫理観、道徳観をうち立ててください。すぐにご大層なことを想像なさる御仁に惑わされてはなりません。私たちの説く真理は至って単純であるがゆえに、誰にでも分かり誰にでも価値を見出すことができます。神の子としての人間の有るがままの姿を何の虚飾もなく説いているからです。

すなわち神の分霊を宿し、その意味において真実〝神の子〟であり、永遠にして不変の霊の絆によって結ばれているという意味において真に同胞であり、人類全体が一大霊的家族であり神の前に平等であるということです。

 霊の目を持って見る者は民族、国家、気候、肌の色、宗教の別を超えて見つめ、全人類を一つに繋ぐ霊の絆を見てとります。地上世界は今こそそうした単純な真理を見直す必要があります。余りに永いあいだ教義とドグマ、祭礼と儀式といった宗教の本質ないしは生命の大霊とは何の関係もないものに躓(つまず)いてきました。

 私は魂をより意義ある生活へ誘うものでないかぎり教義、信条、ドグマといったものには関心がありません。日常の行い以外のものには関心がないのです。根本的に重要なのは日常生活の生き方だからです。いかなる教義もいかなるドグマもいかなる儀式も、原因と結果の関係を寸毫(すんごう)だに変えることはできません。

霊性を一分(ぶ)たりとも増すことも減らすことも出来ません。それは日常生活によってのみ決定づけられるものだからです。私たちが忠誠を捧げるのは宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理であって、教義でもなく書物でもなく教会でもありません。

 今や霊の力がこうして地上に顕現する新しい手掛かりが出来たことを喜んでください。真理を普及するための新しい人材が次々と霊力の支配下に導かれていることに着目してください。

新しい通信網が出来たことに着目してください。人類の進歩を妨げてきた既成権力が崩され障害が取り除かれていきつつあることに目を向けて下さい。私たちは刀剣や銃を手にせず愛と寛容心と慈悲と奉仕の精神でもって闘っている大軍の一翼を担っております。私達の武器は真理と理性です。

そして目指すのは人間として当然受け取るべきものを手にできずにいる人々の生活に豊かさと美しさをもたらしてあげることです。

 神とその子等の間に立ちはだかろうとする者には、いかなる地位にあろうと、いかなる人物であろうと容赦は致しません。地上に神の王国を築くためには地上のいずこであろうと赴く決意は決して揺らぎません。これまでも数々の虚言、中傷、敵意、迫害に遭ってまいりました。が、

勇気ある心の有ち主、断固たる決意を秘めた魂が闘ってきてくれたおかげで、こうして霊の力が地上に顕現することができたのです。今も新しい世界の前哨地に多くの勇士が歩哨に立ってくれております。ですから私は皆さんに、元気をお出しなさい、と申し上げるのです。

心に迷いを生じてさせてはなりません。変転きわまりない世の中の背後にも神の計画を読み取り、あなた方もその新しい世界の建設の一翼を担っていることを自覚してください。真理は絶え間なく前進しているのです。

 意気消沈した人、悲しげにしている人に元気を出すように言ってあげてください。先駆者たちの努力のたまものをこれから刈り入れるのです。そしてそれが明日を担う子供たちにより大きな自由、より大きな解放をもたらす地ならしでもあるのです。不安は無知という暗闇から生まれます。

勇気は自信から生まれます。すなわち自分は神であるとの真理に目覚めた魂はいかなる人生の嵐を持ってしても挫かせることはできないとの自信です。

 私がお教えしているのはごく単純な真理です。しかし単純でありながら大切この上ない真理です。地上人類がみずからの力でみずからを救い、内在する神性を発揮するようになるためには、そうした霊的真理を日常生活において実践する以外にないからです。 

あなた方はその貴重な霊的な宝を手にされていること、それがすべての霧とモヤを払い、悟りの光によって暗闇を突き破ることを可能にしてくれることを知ったからには、自信を持って生きてください。しかし同時に、知識には必ず責任が伴うことも忘れてはなりません。

知った以上は、知らなかった時のあなたとは違うからです。知っていながら霊力を無視した生き方をする人は、知らないために霊的真理にもとる生き方をする人よりも大きな罪を犯していることになります。

 その知識を賢明にそして有効に生かしてください。一人でも多くの人がその知識を手にすることが出来るように、それによって魂を鼓舞され心が開かれる機縁となるように配慮してあげてください。私たちの方でも一人でも多くの人の涙を拭い、心の痛みを癒し、燦然たる霊的真理を見えなくしている目隠しを取り除いてあげようとの態勢でいるのです。

親である神を子等に近づかせ、子等を神に近づかせ、人生の奥義に関わる摂理を実践に移させようとして心を砕いているのです。そうすることによって利己主義が影を潜め、生命の充実感を地上に生きる人の全てが味わえることになるでしょう」


 ここでメンバーの一人がこうした心霊知識の普及を既成宗教の発端と同列に並べて考えようとする意見を聞いて、シルバーバーチはこう説いた。

 「私たちはこれまで確かに成功を収めてまいりました。しかし、そうしたスピリチュアリズムの発展を私たちは他の宗教と同列に並べて考えていないことを銘記してください。私たちにとってスピリチュアリズムというのは宇宙の自然法則そのものなのです。

これを体系化して幾つかの信条箇条とすべき性質の教えではありません。キリスト教とて頭初は自然法則の一つの顕現でした。ユダヤ教もそうですし仏教もそうです。その他地上に誕生した宗教の全てが最初はそうでした。それぞれの教祖が霊覚でもってその時代の民衆の成長、発展、進化、慣習、鍛錬、理解力等の程度にふさわしいビジョン、インスピレーション、悟りを手にしました。

それがさらに受け入れる用意のある者に受け継がれていきました。それは一部とはいえ真理であることには間違いありませんでした。ところが残念なことに、そのささやかな真理が(人間的夾雑物の下に)埋もれてしまいました。

 真理の持つ純粋な美しさを留めることができなかったのです。まわりに世俗的信仰、神学的概念、宗教的慣習、伝承的習俗などが付加されて、玉石混交の状態となってしまいました。やがて神性が完全に影をひそめてしまいました。そして新たにそれを掘り起こし蘇生させる必要性が生じたのです。

過去の宗教はすべて───例外なしに───今日こうして地上へ届けられつつあるものと同じ啓示の一部であり一かけらなのです。一つの真理の側面に過ぎないのです。それらを比較して、どちらがどうということは言えません。届けられた時の事情がそれぞれに異なるのです。

たとえば今日の世の中ですと、昔では考えられなかった通信手段が発達しています。伝達し合うことにあなた方は何の不自由も感じません。何秒とかからずにお互いがつながり、メッセージを送り、地球を一周することができます。

 これまでの啓示と異なるところは、入念な計画にしたがって組織的な努力が始められたということです。それが地上の計算でいけば約百年前のことでした。こんどこそは何としてでも霊的知識を地上に根づかせ、いかなる勢力を持ってしても妨げることのできない態勢にしようということになったのです。

その計画は予定どおりに進行中です。そのことは、霊的知識が世界各地で盛んに口にされるようになってきていることで分ります。霊力は霊媒さえいれば、そこがどこであろうとお構いなく流入し、新しい前哨地が設立されます。

 ご承知のように私は常に、一人でも多くの霊媒が輩出することの必要性を強調しております。霊界からの知識、教訓、愛、慰め、導きが地上に届けられるためには、ぜひとも霊媒が必要なのです。一人の霊媒の輩出は物質的万能思想を葬る棺に打ち込まれるクギの一本を意味します。

神とその霊的真理の勝利を意味するのです。霊媒の存在が重要である理由はそこにあります。両界を繋ぐ霊媒だからです。知識と光と叡知の世界から私に届けられるものをこうした形で皆さんにお伝えすることを可能にしてくれる(バーバネルと言う)霊媒を見出したことを嬉しく思うのも、そこに理由があります」

 こうした霊媒を仲介役として始められたスピリチュアリズムに対する抵抗がよく話題にされるが、その中から典型的なシルバーバーチの霊言を紹介しよう。

 「私たちはほぼ一世紀にわたって、霊的真理を基本とした訓えを地上に根づかせようと努力してまいりました。それこそがこれから築かれていく新しい秩序の土台である以上、何としでも困難を切り抜けなくてはならないからです。本来は最大の味方であるべき陣営の抵抗と敵意に耐え抜き闘い抜いてまいりました。

宗教的分野において子羊たちを導こうとする人間(キリスト教の指導者)ならもろ手をあげて歓迎すべきものなのに、逆に自分たちの宗教の始祖(イエス)の教えであるとして広めんとしてきた主義・信条のすべてにみずから背いて、そういう立場の人間にあるまじき酷い言葉でわれわれを非難してきました。

そこには愛も寛容心も見られません。それどころか、私たちを悪魔の使いであると決めつけ、神の子羊を正義の道から邪な行為、不道徳、利己主義へ誘導せんとする闇の天使であるとして、悪口雑言の限りを浴びせます。

 しかし、そうした激しい抵抗の中にあっても、私たちの説く真理は今や世界中に広がり、これまで抵抗してきた勢力は退却の一途をたどっております。私たちは現今のキリスト教が基盤としている教説を否認する者です。愛と正義と慈悲と叡知の根源である大霊が地上人類に対して呪うべき行為を働くはずがないことを主張する者です。

神の怒りを鎮めるのに残酷な流血の犠牲(いけにえ)が必要であった。などという言い訳は断じて認めません。いかなる権力を持ってしても自然の摂理に介入出来たためしは一度もないことを主張します。神学の基盤と構造の全てを否定する者です。

なぜならば、それは人類の進歩の時計を逆まわりさせ、その狭苦しいひとりよがりの世界に合わないものはいかなる発見も発明も進歩も拒絶してきたからです。

 そうしたものに代わって私は、啓示というものが常に進歩的であること、かつて指導者の一人ひとりが神の叡知の宝庫からひと握りずつを地上へもたらしてきたこと、そしてその一連の系譜の最後を飾ったのがかのナザレのイエスであり、私たちはそのイエスを鼓舞したのと同じ霊の力の直系の後継者として、同じ福音、同じ真理を説いている者であることを宣言します。

人間に贖(あがな)い主はいらないのです。神との仲介者は不要なのです。自分の荷は自分で背負う義務があり、日々の生活の中の行為によって霊的生命を高めもすれば傷つけもするのです。内部に神性を宿していることは今も、そしてこれから先も永遠に変わりません。

変るのは程度の上下であって、本質は決して変わりません。向上進化というのはその潜在的神性をより多く顕現していく過程にほかならないのです。

 いかなる教義、いかなる信条をもってしても、過った行為がもたらす結果をねじ曲げることはできません。私たちの説く神は永遠・不変の法則によって宇宙を統治しており、その法則の働きによって地上の人間は地上で送る人生によってみずからを裁くようになっていると説くのです。

かつて地上においてこうした真理を説き、それ故に迫害を受けた先駆者たちに対して私たちは、今や彼らの努力が実りの時代(トキ)を迎え、古き秩序が廃れ新しき秩序のもとに霊的生命が芽生え始めている兆しを地上のいたるところに見ることが出来るようになった事実をお知らせしております。

 永いあいだ真理の太陽をさえぎってきた暗雲が足ばやに去りつつあります。そして光明が射して無数の人々の生活を明るく照らし、こんどはその人たちが、自分を自由にしてくれた真理の伝道者となっていきます。それだけの備えができている人たちです。

私どもは地上の人々がみずからの力でみずからを救い、死せる過去と訣別し、精神と霊を物質による奴隷的束縛から解放する方法をお教えするために戻ってまいりました。古くからの教えだからといって有難がってはいけない───知的な目を持って真理を探究し、常識に反し理性を反撥させるものは一切拒絶しなさい、と申し上げているのです」


 しばしの休暇ののちに再会された交霊会でシルバーバーチは年二回開かれるという霊界での指導霊の総会(※)に出席していたと言い、〝光の世界から影の世界へ、実在の世界から幻影の世界へ戻って来るのは気が進まないものです〟と述べてからこう続けた。

(※これはスピリチュアリズム思想推進のために経過報告と次の計画の指示を仰ぐための会合で、世界的規模で行われる。これが年に二回ということであるが、このほかにも実質的に地上の経綸に当たっている霊界の上層部において慣例的に行われる。〝讃仰のための集い〟もある。

オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻に、通信霊のアーネルがその会場に入った時の雰囲気を〝音が無いという意味での静けさではなく静寂という実体が存在する〟と表現している。

又モーゼスの『霊訓』にはイムペレーターからの通信がしばらく途絶えたのでモーゼスがその理由を尋ねると〝地上の用事とは別の用事があって留守にしていた〟と言い、霊界の上層部における神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるために他の多くの霊とともに一堂、集結したのだと言う。その時の日付けが十月十二日となっている。

日本で十月のことを神無(かんな)月と呼ぶことには〝神の月〟と〝神がいなくなる月〟の二つの説があるようであるが、私は両者は詰まるところ同じことに帰すると思う。古代の日本人はそれを直感していたのである───訳者)


 「そもそも私がこの利己主義と残酷に満ちた地上へ降りてくることになったのは、人類への愛と使命があったからです。そこでこの度も(総会を終えたあと)こうしてあなた方のもとへ戻ってまいりました。

私なりに出来るかぎりの援助を与えるためです。人類を霊的奴隷状態から解放し、神性を宿す者が当然わがものとすべき神の恩寵───霊的生活、精神的生活、そして身体的生活における充足───を得させると言う(地球規模の)大使命の推進の一翼を担う者として戻ってまいりました。

 その使命の成就を妨げんとするものは何であろうと排除しなければなりません。私たちが目指す自由は(霊的・精神的・身体的の)あらゆる面での自由です。その道に立ちはだかる既成の特権と利己主義の全勢力に対して、永遠の宣戦を布告します。

あなた方より少しばかり永く生きてきたこの私、あなた方がこれより辿らねばならない道を知っている先輩としての私からあなた方に、どうか勇気を持って邁進されるよう申し上げます。お一人おひとりがご自分で思っておられる以上に貢献なさっておられるからです」

 更に地球規模の霊的活動における指導霊と交霊会の役割りに言及して───

 「過去数年の間に私たちは数多くの人々を知識の大通りへと案内してまいりました。しかしまだまだ大きな仕事が為されます。世界各地で数多くの心霊治療家によって行われている霊的治療の成果に目を向けて下さい。大地に再び視界が開けていく様子を思い浮かべてください。

予言者の声が再び地上にこだまするようになり、夢かと紛(まご)うものを見るようになります。先見の明が開けはじめます。病める人々が癒され、肉親の死を悲しんでいる人々が慰められつつあります。あなた方は本当に恵まれた方たちです。

人間が永遠の魂の旅の中にあってほんの束の間をこの地上という生活の場で過ごしている、永遠にして無限の霊的存在であることをご存知だからです。

 私はそのメッセージをあなた方の助力を得ながら広め、私を地上へ派遣した霊団の使命を推進したいと望んでおります。私たちはいま勝利へ向けて前進しております。誤謬と利己主義、迷信と無知、自惚れと悪逆無道の勢力を蹴散らし過去のものとしなければなりません。

 もはやそうしたものが許される時代は終わったのです。真理が理解されるに従って暗闇が光明へとその場を譲ってまいります。人々はその目を上へ向けて新しい世界の夜明けを待ち望んでおります。新しい世界は新しい希望と新しい悟りを与えてくれます。
 神のみ恵みの多からんことを」