Wednesday, June 15, 2022

シアトルの初夏 自分とは何か 永遠に変わらぬ真理を求めて What is I? In search of the truth that will never change





 世界にはさまざまな宗教が存在しますが、説かれる霊的真理は同じであるべきはずなのに、それぞれに違っています。なぜでしょうか? 組織体制を運営する者たちが摂理をねじ曲げてでも営業活動に精を出してきたからです。その違いが国と国とを離反させ、国民までもが敵視し合うようになっていったのです。

 キリスト教がそのよい例です。コンスタンチヌス帝の時代に宗教が国政と一体化してしまったために(補注1)、聖職者たちが為政者の我儘と悪だくみに加担して、教義を次々と書き換えていきました。

かくして〝宗教〟なるものが国家と人民、さらには家族間にも、なかたがいのタネを蒔くことになったのです。一言で言えば空前絶後の霊覚者イエスが説いた素朴な教えを人間が都合よく書き換えたということです。

 〈訳者補注1〉
 「世界史では西暦三二五年にローマがキリスト教を国教としたしたことになっている。D・ダドレー著 『第一回ニケーヤ会議の真相』 によると、表面の事実はその通りで、コンスタンチヌス帝の命令で、ローマの支配下の国々からキリスト教の司教二千人前後が出席して、第一回キリスト教総会が小アジ゛アのニケーアで開かれた。

五月末から九月までの足掛け五カ月にも及んだと言われる。表向きの表題は〝三位一体説〟の是非を論ずることにあったが、実質的には、その説を否定するアレクサンドリア教会の司教アルウスを弾劾することにあったことは明白である。その証拠に、結果的にはアリウスを支持する一派がローマ兵によって連れ出され、国外追放になり、その後アリウスは暗殺されている。

 見落としてはならないのは、そうした議論の進行中にそれまでのイエスの素朴な言行録が大幅に書き変えられ、さらに勝手にこしらえた教義、例えば、〝贖罪説〟等がキリスト教の絶対的な教義として確立されていったことである。

それはその後も続けられ、西洋史に暗い影を落とす〝暗黒時代〟を生みだしていく。英国の知性を代表するジョン・スチワート・ミルは、名著 『自由論』 の中でこう嘆いている。

 キリスト教を容認した最初のローマ皇帝がマルクス・アウレリュウスでなくコンスタンチヌスだったことは、世界のあらゆる歴史の中でも最大の悲劇の一つであろう。もしもそれがコンスタンチヌスの治世下でなくマルクス・アウレリュウスの治世下であったなら、世界のキリスト教はどれほど違うものになっていたであろうと思うと、胸の痛む思いがする」


 過去一世紀余りの教育水準の向上で目を覚まされ、それまでの 「ただ信ぜよ」 式の説教ではごまかされなくなった民衆は、いわゆる宗教的教義についてさまざまな疑問を抱くようになりました。

それは必ずしも社会の道徳水準の向上にはつながっていませんが、十数世紀も前に勝手にこしらえながら一度も疑念を挟まなかった教会の上層部の責任は大いに問われねばならないでしょう。

 これは他のあらゆる宗教についても言えることで、最初は庶民の道徳的ならびに霊的向上のために霊覚者を通して届けられたものが、時代とともに夾雑物が混ざって玉石混交のまま語り継がれ、教え継がれ、正しいのか間違っているのかにお構いなく〝そういうもの〟と信じられてきました。

が、幸いなことに、近代の飛躍的な科学の発達によってその間違いが誰の目にも明らかになってきました。今の時代に地動説が神を冒涜するものであると教会の言葉を信じる者はいません。
(『はじめに』の〈補注2〉参照)

 そして一九二〇年に至って、ある霊覚者によって地上界に向けて空前絶後ともいうべきメッセージが届けられるようになりました。その霊覚者は地上の人間ではありません。

三千年前に地上生活を送り、今では別の次元で生活をしている霊的存在(スピリット)です。それがモーリス・バーバネルという地上の人間をアンテナとしてメッセージを送ってきたのです。

 同じ地球上でも、アンテナさえあれば、ちょうど裏側に当たる場所とでも交信することができることは、すでに常識となっています。衛星放送がそれを如実に示しています。

それと同じことが次元の異なる階層とでも可能なのです。つまり霊的アンテナさえあれば交信が可能なのです。そうした仕事を言い渡されたスピリットは、バーバネルが母胎に宿った瞬間から、霊的アンテナとして使用するために準備を始めたと言っています。

 そのスピリットは 「シルバーバーチ」 と名のりました。むろん仮の名です。肉体の死後、我々は段階的に次元の高い階層へと進化していきますが(『はじめに』 の〈補注3〉 参照)、次元が高まるにつれて地上時代の民族や国籍、身分や地位、姓名等の価値も必要性も薄れていき、真理の理解度、霊的覚醒の度合いだけが問われるようになります。

そこでシルバーバーチという仮名を使い、地上の人間が関心を持ちそうな事柄は一切打ち明けず、聞かれても答えず 〈補注2〉、 ただひたすら、人類が長い歴史の中で台なしにしてしまった霊的摂理を改めて説きなおすことに専念しました。


  〈訳者補注2〉
 人間らしい欲求として、出現した霊が地上時代にどういう人物であったか、姓名を何といったかを知りたいと思うのは自然であるが、これはいろんな意味で危険をはらんでいることを知っておくべきである。そのためには次の二つの事実を念頭においておく必要がある。

一つは、人間は死後も、個性も本性も容易には変わらないこと。もう一つは、低階層つまり地上界に近い階層で暇を持て余している低級霊ほど交霊会に出たがるし、また出やすいということ。

 ここで忘れてならないのは、霊の側からは出席者の姿が見えても、出席者の目には霊の姿は見えないことで、そうなるとたとえ歴史上の著名人の姓名を名のっても、本当かどうか証明することは不可能ということになる。

人間的煩悩の一つとして、いかにもそれらしい態度で語られると、何となくそう思えてくるもので、それが他界した親族、特に父親や母親、早世した我が子であると言われれば、人間的な情に流されて抱き合って喜んだり感動したりするものである。悪いこととは言わないが、愚かしいことをしているのだということを知るべきである。

 スピリチュアリズムの本来の目的はそんなところにあるのではない。それを、これから著者ニューマン氏がシルバーバーチの言葉を引用しながら、懇切丁寧に説いてくれる。

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