Tuesday, August 6, 2024

シアトルの夏 苦しみと悲しみと ──魂の試練

Suffering, sadness, and trials of the soul




古代霊は語る 第四章 苦しみと悲しみと ──魂の試練

 
一問一答

「もう一度やり直すチャンスは全ての人間に与えられるのでしょうか」

シルバー・バーチ「もちろんですとも。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終わるとしたら、この世は正に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しも出来ないことになります。

私どもが地上の人々にもたらすことの出来る最高の霊的知識は、人生は死でもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことが出来るということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。

人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人は内蔵している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスを与えられ、同時に又、愚かにも神の法則を無視し、人の迷惑も考えずに横柄に生きた人間は、その悪業の償いをするためのチャンスが与えられます。神の公正は完全です。

騙すことも、ごまかすことも出来ません。すべては神の眼下にあるのです。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きている人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです」


問「祈りに効果があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがおわかりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。

ああしてほしい、こうしてほしい。カネが欲しい、家が欲しい───こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。

一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。こうした祈りには魂の内省があります。

つまり自己の不完全さと欠点を意識するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。それが本能的に魂の潜在エネルギーを湧出させます。それが真の祈りなのです。

その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。ただ、これまでも何度か言ったことがありますが、そうした祈りを敢えて無視してその状態のまま放っておくことが、その祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。

こちらからあれこれ手段を講じることが却って当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の心底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。

つまりその願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起し、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。

危険の中にあっての祈りであれば保護するためのエネルギーが引き寄せられ、同時に、救急のための霊団が派遣されます。それは血縁関係によってつながっている霊もおれば、愛によってつながっている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救ってもらったことがあるので、その要領を心得ております」


問「いたいけない子供が不治の病で苦しむのはどうしてでしょう。神は本当に公正なのでしょうか」

シルバー・バーチ「霊的な問題を物的尺度で解こうとしても所詮ムリです。ホンの束の間の人生体験で永遠を推し量ることは出来ません。測り知れない法則によって支配されている神の公正を地上生活という小さな小さな体験でもって理解することは絶対にできません。

小さなものが大きいものを理解できるでしょうか。一滴の水が大海を語ることが出来るでしょうか。部分が全体を説明できるでしょうか。

宇宙はただただ〝驚ろくべき〟としか形容のしようのない法則によって支配されており、私はその法則に満腔の信頼をおいております。なぜなら、その法則は神の完全なる叡智の表現だからです。従ってその法則には一つとして間違いというものがありません。

あなたがた人間から見れば不公平に見えることがあるかも知れませんが、それはあなた方が全体のホンの一部しか見ていないからです。もし全体を見ることが出来たら、成るほどと思ってすぐさま考えを変えるはずです。

地上生活という束の間の人生を送っているかぎり〝永遠〟を理解することは出来ません。あなたがた人間にはいわゆる因果応報の働きは分かりません。

霊界の素晴らしさ、美しさ、不思議さは、到底人間には理解できません。というのは、それを譬えるものが地上に存在しないからです。判断の基準には限界があり、視野の狭い人間に一体どうすれば霊界の真相が説明できるのでしょう。


 ご質問の子供の病の話ですが、子供の身体はことごとく両親からの授りものですから、両親の身体の特質が良いも悪いもみな子供の身体に受けつがれていきます。そうなると不治の病に苦しめられる子も当然出てまいりましょう。しかし子供にも神の分霊が宿っております。あらゆる物的不自由を克服できる神性を宿しているのです。

物質は霊より劣ります。霊のしもべです。霊の方が主人なのです。霊的成長はゆっくりとしていますが、しかし着実です。霊的感性と理解力は魂がそれを受け入れる準備ができた時はじめて身につきます。

従って私どもの説く真理も、人によっては馬の耳に念仏で終ってしまうことがあります。が、そういうものなのです。霊的真理に心を打たれる人は、すでに魂がそれを受け入れるまでに成熟していたということです。まるで神の立場から物を言うような態度で物事を批判することは慎しむことです」


問「こんな戦争ばかり続くみじめな世の中に生まれてくる意義があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「生まれてくる来ないの問題は自由意志の問題です。がその問題はさておいて、地上の多くの部分が暗雲におおわれていることは確かです。が、みじめな世の中と言ってしまうのは適切でないと思います。地球には地球なりの宇宙での役割があります。

生命の旅路における一つの宿場です。魂の修行場として一度は通過しなくてはならない世界です。もしも必要でなければ存在するはずがありません。存在しているということそのことが、それなりの存在価値をもっていることを意味します。

 さて、その物質界に生まれてくるのは各自にそれなりの霊界での仕事があり、それを果たすための修練の場としてこの地上を選んでくるわけです。案ずるより産むが易しと言いますが、決断を下す際に縣念したことも、実際に地上に来てみると、結構なんとかやっていけることがわかります。

あなたがたが不幸な子を可哀そうにと思うその気持ちは得てして思い過しであることが多いのです。大人は子供の気持になって考えているつもりで、その実、大人の立場から人生を眺めていることが多いのです。つまり子供自身にとっては恐ろしくも苦しくもない体験を、大人の方が先まわりして恐ろしかろう、苦しかろうと案じているのです」


問「でも、それも必要な場合があるんじゃないでしょうか。たとえば空襲などというのは体験のあるなしにかかわらず恐ろしいことには違いないでしょう」

シルバー・バーチ「おっしゃる通りです。私が言いたいのも実はその点なのです。子供というのは大人と同じ状態に置かれても、その影響の受け方が違います。

オモチャの兵器をいじくっても、子供はその本当の意味、おそろしさはわかりません。それは実は有難いことなのです。子供は何事も体験しないと理解できないのです。頭だけでは理解できないのです」


問「いかなる苦難の中にあっても、又いかなる混乱の中にあっても恐怖心を抱いてはいけないとおっしゃいました。解決はすべて己れの中に見出せるとのことですが、それはどうすれば見出せるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上の人間の全てが同じレベルの意識をもっているわけではないことを、まず認識して下さい。つまり今地上にいる何億何十億という人間の一人一人がみな違った段階を歩んでいるということです。その中には長い長い旅路の末にようやく魂の内奥の神性が発揮される段階に至った人がいます。

混乱の中にあって冷静さを失わず、内部の神性を発揮させる心構えの出来た人がいます。そういう人は必ずや解決策を見出します。〝どうすれば〟とのことですが、実はそういう疑問を抱くこと自体が、あなたがまだまだその段階に至っていないことを意味します。あなたも神の一部なのです。あなたにも神が宿っているのです。

それはホンの小さな一部ですが、神的属性のすべてを潜在的に所有しております。完成されてはいませんが完全なのです。もしも苦境にあってその神性と波長を合わせ、心を平静に保ち、精神的に統一状態を維持することが出来れば、それは宇宙の大霊と一体となることであり、疑いも迷いもなく、従ってそこに恐怖心の入るスキはありません。

波長が合わないからです。そうした心構えが簡単に出来るとは申しません。努力すれば出来ると言っているのです。現にそうした境地に達した人は大勢います」


問「地上生活を繰り返したあとの、魂の究極の運命はどうなるでしょうか」

シルバー・バーチ「究極の運命ですか。私は究極のことは何も知りません。最初と最後のことは私にはどうにもならないのです。生命は永遠です。進化も無限です。始まりもなく終りもないのです。進化は永遠に続くのです」


問「自由意志の使用を過ったが為に罪を犯した場合、神はなぜ過って使用されるような自由意志を与えたのでしょうか」

シルバー・バーチ「では一体どうあって欲しいとおっしゃるのですか。絶対に過ちを犯すことのないように拵えられたロボットの方がいいとおっしゃるのですか。それとも、罪も犯せば聖人君子にもなれる可能性をもった生身の人間の方がいいと思われますか。ロボットは罪を犯さないかも知れませんが、自由意志も、従って進歩もありません。

それでいいのですか。進歩する為には成功と失敗の両方が必要なのです。失敗が無ければ成功もないからです。人生は常に相対的です。困難と矛盾対立の中にこそ進歩が得られるのです。

ラクだから進歩するのではありません。難しいからこそ進歩するのです。その苦しい過程が魂を鍛え、清め、そして成長させるのです。光のないのが闇であり、善でないのが悪であり、知識の無いのが無知であるわけです。

宇宙全体が光になってしまえば、それはもはや光ではなくなります。相対的体験の中にこそ人間は進歩が味わえるのです。ドン底を体験しなければ頂上の味は分かりません。苦労して得たものこそ価値があるのです。ラクに手に入れたものはそれなりの価値しかありません」


問「自殺した者は霊界でどうなるでしょうか」

シルバー・バーチ「それは一概には言えません。それまでどんな地上生活を送ったかにもよりますし、どういう性格だったかにもよりますし、霊格の高さにもよります。が、何といってもその動機が一ばん問題です。

キリスト教では自殺のすべてを一つの悪の中にひっくるめていますが、あれは間違いです。地上生活を自らの手で打ち切ることは決していいことではありませんが、中には情状酌量の余地のあるケースがあることも事実です」


問「でも、自殺してよかったと言えるケースはないでしょう」

シルバー・バーチ「それは絶対にありません。自分の生命を縮めて、それでよかろうはずはありません。しかし自殺した者がみな死後暗黒の中で何千年何万年も苦しむという説は事実に反します」


問「自殺行為は霊的進歩の妨げになりますか」

シルバー・バーチ「もちろんです」


問「神は耐え切れない程の苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか」

シルバー・バーチ「それは違います。その説明の順序としてまず、これには例外があることから話を進めましょう。

いわゆる精神異常者、霊的に言えば憑依霊の仕業による場合があります。が、この問題は今はワキへ置いておきましょう。いずれにせよこのケースはごく少数なのです。大多数は、私に言わせれば臆病者の逃避行為にすぎません。

果たすべき義務に真正面から取り組むことが出来ず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることが、その苦しみから逃れる一ばんラクな方法だと考えるわけです。ところが死んでも、というよりは死んだつもりなのに、相変らず自分がいる。

そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変らず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを造り出して、それが外界との接触を遮断します。そうした状態のまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。

 しかし、すでに述べたように、一ばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今のべた通りそう思惑どおりには行きません。

が一方、これはそう多くあるケースではありませんが、動機が利己主義ではなく利他主義に発しているとき、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発しているときは、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの臆病心から出た自殺とはまったく違ってきます。

 いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分自身の手で自分の人生を書き綴っているのです。

一たん書き記したものはもう二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。

 いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になればかならず光が見えてきます。魂の内奥に潜む勇気が湧き出て来ます。その時あなたはその分だけ魂を開発したことになり、霊界からの援助のチャンスも増えます。背負いきれないほどの荷は決して負わされません。

なぜならその荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。決して神が〝この男にはこれだけのものを背負わせてやれ〟と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。

 宇宙の絶対的な法則のはたらきによってその人間がそれまでに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷を拵えることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。

つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです」


問「因果律のことでしょうか」

シルバー・バーチ「そうです。それが全てです」


問「たとえば脳神経が異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪はないと考えてもよろしいでしょうか」

シルバー・バーチ「話をそういう風にもってこられると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第ではまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人を勇気づけているようなことになりかねないからです。

 もちろん私にはそんなつもりは毛頭ありません。いまのご質問でも、確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に見てみると、やはりスタートの時点において、私がさきほどから言っている〝責任からの逃避〟の心理が働いているのです。

もしもその人が何かにつまづいたその時点で〝オレは間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても男らしく立ち向かおう。絶対に背を向けないぞ〟と覚悟をきめていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来たはずです。

 ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われてきます。

ついにはノイローゼとなり、自分で自分がわからなくなっていくのです。問題はスタートの時点の心構えにあったのです」


問「いわゆるアクシデント(偶発事故)というのはあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「非常に難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈次第でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけのわからぬ盲目的な力でたまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。

宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。ただその法則の範囲内での自由意志は認められています。しかしその自由意志にもまた法則があります。わがまま勝手が許されるという意味ではありません。

従って偶発事故の起きる余地はあり得ません。偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるからです。ぜひ知っておいていただきたいのは、法則の中にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。

平面的な単純な法則ではないのです。よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。自由意志の法則と宿命の法則とが入り組んで作用しているのです」


問「病気は教訓として与えられるのだとか、人間性を築くためだとか言う人がおりますが、本当でしょうか」

シルバー・バーチ「言っていること自体は正しいのですが〝与えられる〟という言い方は適切でありません。私どもと同じくあなたがたも法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として起きるのです。

言ってみれば、霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。しかしその支払にはまた別に補償という法則もあります。

物ごとには得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観点からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。

 教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で表われることもあるわけです。

人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。よろこびと悲しみ、健康と病気、晴天とあらし、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。

というのは、その双方に神の意志が宿っているからです。良い事にだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知って下さい」


問「死体は火葬にした方がいいでしょうか」

シルバー・バーチ「絶対、火葬がよろしい。理由にはいろいろありますが、根本的には、肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体のまわりに在世中の所有物や装飾品を並べてみたところで何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆に、徒らに悲しみやさびしさを誘うだけです。

 人間の生命の灯が消えてただの物質に帰した死体に対しあまりに執着しすぎます。用事は終ったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。死体を火葬にすることは、道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。

同時に又、心霊知識ももたずにこちらへ来た者が地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。

 衛生上から言っても火葬の方がいいといえますが、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知っていただきたいことは、火葬までに最低三日間は置いてほしいということです。というのは、未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれくらい掛かることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与えかねません」

No comments:

Post a Comment