The Spirits' Book
アラン・カルデック(編)
近藤千雄(訳)
5章 霊としての生活
このページの目次〈さすらう霊〉
〈一時休憩所〉
〈霊の感覚と知覚と苦痛〉
〈試練の選択〉
〈生前と死後の人間関係〉
〈親和力と反発力〉
〈前世の回想〉
〈葬儀にまつわる問題〉
〈さすらう霊〉
訳注――wandering spiritsをそのまま訳したのであるが、原語も日本語もともに適切とは思えない。要するに実在に目覚めずに仮相の世界にあって時には地球に、時には他の天体に再生する霊が、その再生するまでの期間を言わば〝放浪〟するわけである。別のところではerraticityという用語を用いているが、これは“住所不定”とか“無軌道”といった意味をもつもので、やはり放浪の状態を指している。要するに仮相の現象界を旅している霊のことで、“旅する霊”という方が言葉としては適切のように思えるが、取りあえず原語のままにしておいた。
――魂は身体から離れた(死亡した)あと直ぐに再生するのでしょうか。
「直ぐに再生するケースも時たまありますが、大多数は長い短いの差はあっても合間の期間があります。それが地球に比して遥かに進化している天体の場合ですと、再生は、ほとんど例外なく、直ぐさま行われます。そういう天体では同じく物的身体といっても精練の度合いが違いますから、再生後も霊的能力のほとんどを使用することができます。強いて譬えればセミトランスの状態が通常の状態です」
――直ぐに再生しない霊は次の再生までの合間はどうなっているのでしょうか。
「新しい運命(さだめ)を求めてさすらいます。その時の状態は“待ち”と“期待”の状態と言えます」
――合間の長さはどれくらいでしょうか。
「短いのでは二、三時間、長いのになると数千年にもなります。厳密に言うと一定のきまりというものはありません。大変な期間に及ぶ場合がありますが、永遠にさすらうということはありません。前回の物的生活の清算をするために、遅かれ早かれ、いつかは再生する機会が与えられます」
――さすらいの期間は霊の意志で決まるのでしょうか、それとも罪の償いの意味もあるのでしょうか。
「結果的には霊自身の自由意志に帰着します。霊が自由意志で行為の選択をする時は、明確な認識をもっております。ところが神の摂理の働きで、ある者は罰として次の再生が延期されることがあり、またある者は、物質身体に宿らない方がより効果的に遂行できる勉強が許されて、霊界に留まれるように配慮してもらえることもあります」
――さすらうということは、その霊が低級であることの証拠でしょうか。
「それは違います。さすらう霊にも低級から高級まであらゆる等級があります。むしろ再生している状態の方が過渡的期間と言えます。霊の本来の状態は物質から離れている時です」
――物質界へ誕生していない霊は全てさすらいの状態にあるという言い方は正しいでしょうか。
「まだ再生すべき段階にある霊についてはその言い方で正しいと言えます。しかし霊性がある一定のレベルまで浄化されつくした霊はさすらってはいません。その状態で完成されているのです」
――さすらう霊はどのような形で学んでいくのでしょうか。
「それまでの全生活を細かく観察し、さらに向上するための手段を求めます。霊的観察力が働きますから、さすらって通過する境涯の現場の状況を観察したり、聡明な霊による講話に耳を傾けたり、高級霊によるカウンセリングを受けたり、といったことを通じて、どんどん新しい教育を身につけていきます」
――霊にも人間的な感情が残っているものでしょうか。
「洗練された霊になると肉体とともに人間的感情も捨ててしまい、善性を求める欲求だけが残ります。が、低級霊は地上的不完全性を留めています。それさえ無ければ、どの霊もみな最高のものを秘めているのですが……」
――ではなぜその低級な感情を死とともに捨ててしまわないのでしょうか。
「いいですか、あなたの知っている人の中にも、例えば極端に嫉妬心の深い人がいると思いますが、その人がこの地上を去ったら、とたんにその悪感情をあっさりと捨ててしまうということが想像できますか。地上を去ったあと、特に強烈な邪悪な感情をもった人には、その感情に汚染されたオーラが付着したまま残っています。霊は死とともに物的生活の影響から抜け出るのではありません。相変わらず地上時代の想念の中にあり、本当はこうでなくてはいけないという正しい心の持ち方を垣間見るのは、ホンの時おりでしかありません」
――霊はさすらいの状態の間にも進化するのでしょうか。
「努力と向上心の強さしだいでは大いに進歩します。ですが、その状態で獲得した新しい概念を本格的に実行して身に沁ませるのは物的生活の中においてです」
――さすらいの状態にあることを霊自身は幸せに感じるでしょうか、不快に思うでしょうか。
「それはその時点での功罪によりけりです。低級感情に負けるその根本的性格がそのままだと幸せとは感じないでしょうし、物的波動から脱すればその分だけ幸せを感じるでしょう。さすらいの状態にある間に霊は、より幸せになるためには何が必要であるかに気づき、それに刺激されて自分に欠けているものを獲得するための手段を求めようとします。その結果それが再生であると悟っても、必ずしもすぐに許されるとは限りません。それがすぐに叶えられずに延期されることが罰であることがあります」
――さすらいの状態にある霊でも他の天体を訪れることが出来るのでしょうか。
「それは霊性の発達の程度しだいです。霊が物的身体から離れたといっても、必ずしも物的波動から脱したわけではありません。相変わらず今まで生活していた天体、あるいはそれと同等の発達程度の天体の波動の中で生活しております。ただし、地上生活中の試練の甲斐あって霊性が飛躍的に発達していれば別です。そうやって物的生活の体験をするごとに霊性が発達するのが本来の目的です。発達がないようではいつまでたっても完成の域には達しません。
それはともかくとして、さすらいの状態にある霊でも地球より程度の高い別の天体を訪れることはできます。しかし、どうも勝手が違うという印象を受けるはずです。結局はその世界の生活風景を垣間見る程度にしか見ることができません。しかし、その体験が刺激となって改善と向上への意欲が促進され、やがてはそこに定住できることにもなるでしょう」
――浄化の程度の高い高級霊が波動の低い天体を訪れることはあるのでしょうか。
「よくあることです。住人の向上を促進するためです。そういうことがなかったら、波動の低い天体は指導する者もいないまま放置されることになります」
〈一時休憩所〉
――さすらう霊が休息をとる場所のようなものがあるのでしょうか。
「あります。当(あ)て所(ど)もなく放浪の旅を続けている霊を迎え入れるための世界があり、みんなそこで一時的に生活を営みます。言うなればキャンパーが一時的にビバークするキャンプ地のようなもので、とかく退屈しがちな放浪の生活の途中で一服して英気を養うわけです。
そうした世界は秩序を異にする世界との中継所的な役割を果たしており、そこへ訪れる霊の程度に応じて幾つかの段階が設けてあります。それぞれに居心地がいいような状態になっています」
――そこを離れたければいつでも離れていいのでしょうか。
「結構です。赴くべき場所が定まれば、いつそこを出ても構いません。そこは譬えで言えば、渡り鳥が途中で翼を休めて次の目的地へ向けて飛び立つためのエネルギーを蓄える島のようなものです」
――そこでの滞在中にも進歩はあるのでしょうか。
「もちろんあります。そもそもそういう世界へやってくる霊は何らかの指示を得たい、より高い界層を訪れる許しが得たい、そして速やかに向上したい、という願望を持っているのです」
――そこは特殊な世界で、永遠にさすらう霊の逗留地として運命づけられているのでしょうか。
「そうではありません。天界の組織の中での位置は一時的なものです」
――その世界の物質界には物的身体をもった者が生活しているのでしょうか。
「いえ、その天体の物的表面は不毛の土地です。その世界に住む者は物的欲望は持ち合わせません」
――不毛とおっしゃいましたが、永遠に不毛なのでしょうか、それとも何らかの原因でそうなったのでしょうか。
「いえ、不毛性は一時的なものです」
――すると、そういう天体は大自然の美などは何もないわけですね?
「“大自然の美”とおっしゃるのは“地上の生命活動の調和の妙”のことでしょう。それに劣らず見事な美によって創造の尽きせぬ豊かさが演出されております」
――そうした天体が一時的なものであるとすると、この地球もいつかはそういう天体となることも有り得るのでしょうか。
「すでにそういう状態の時期がありました」
――いつのことでしょうか。
「生成期のことです」
〈霊の感覚と知覚と苦痛〉
――魂は、肉体から離れて霊の世界へ戻っても、地上時代に使用した感覚をそのまま所有しているのでしょうか。
「所有していますし、地上時代に肉体に遮られて使用しなかったものまで使えるようになります。知性も霊の属性の一つで、肉体の束縛を受けなくなったため自由に顕現します」
――霊の知覚や知識に際限はない――つまり霊は何でも知ることができるのでしょうか。
「完全に近づくにつれて知識も増えていきます。高級界層の霊になるとその知識の範囲は広大となります。低界層の霊は何につけても相対的に無知です」
――時の推移を感知しますか。
「しません。あなた方から日時や時代を特定するように要求された時、我々の返答が今一つ明確でないことがあるのはそのためです」
――霊になれば地上にいた時よりも物事の真相が正確に把握できるようになるのでしょうか。
「地上時代に比べれば昼と夜の差ほどの違いがあります。人間には見えないところまで見透せますから、物事の判断の仕方も違ってきます。ですが、何度も言っているようにそれも霊性の開発の程度によって違ってくる問題です」
――霊は過去に関する知識をどこから仕入れるのでしょうか。無制限に入手できるのでしょうか。
「我々にとって過去のことは、そのことに意念を集中しさえすれば、あたかも現在の出来事のように感得されます。それは地上でも、強烈な出来事に関しては同じではないでしょうか。ただ異なるのは我々は人間の知性を鈍らせる物的なベールに閉ざされていませんので、人間の記憶から完全に消えていることでも鮮明に思い出せることです。ただし霊といえども全てが知れるわけではありません。たとえば我々がいつどうやって創造されたかは、今もって謎です」
――未来が予見できますか。
「これも霊性の発達程度によって違ってきます。大体において部分的にしか見えませんし、かりに明確に見えても、それをみだりに人間に明かすことは許されません。見える時はまさに現在の出来事のように見えます。霊格が高いほど明確に見えます。死後、霊は過去の転生の全てを一望のもとに見せてもらいますが、未来については見せてもらえません。未来を一望できるようになるのは、いくつもの転生を重ねた末に神と一体となった霊のみです」
――完成された霊には宇宙の未来の全てが完全に読み取れるのでしょうか。
「“完全に”という用語は適切ではありません。神のみが絶対的支配者であり、他のいかなる者も神と同等の“完全性”を身につけることはできません」
――その神の姿を拝することは可能でしょうか。
「最高界の霊のみが神のお姿を拝し理解することができます。それより以下の霊はその存在を霊感で感知するのみです」
――神の姿を直(じか)に拝せない程度の霊が、かくかくしかじかのことは神から禁じられているとか許されているとか述べる時、その許可や禁止の命令をどうやって知るのでしょうか。
「神を直接拝することはできなくても、その神威は感じ取れます。何かが為される、あるいは語られる時は、一種の直覚によってその見えざる警告、つまり公表を控えるようにとの命令を感じ取ります。あなたご自身もその種の密かな印象、つまりやってよいとかいけないとかを感じ取ることがあるのではありませんか。我々とて同じです。ただ程度が高いというだけの違いです。お分かりと思いますが、霊としての実体が人間より遥かに精妙になっていますから、神からの訓戒をより純粋に受け取ることができるのです」
――そうした神からの訓戒は神から直接伝達されるのでしょうか、それとも高級霊によって中継されるのでしょうか。
「神から直接ということはありません。神と直接の交信にあずかるには、それなりの資格が要ります。命令は全て叡知と純粋性において高級な霊を中継して届けられます」
――霊の視力も人間のような限られた視界というものがあるのでしょうか。
「ありません。視力は霊の内部から出ていますから」
――光は必要ないのでしょうか。
「霊の内部から発する視力で見るのであって、外部からの光は必要としません。暗闇というものがないのです。あるとすれば、それは犯した罪への罰として閉じ込められる魂の暗闇です」
――霊が二つの箇所を見る時、一箇所を見て、それからもう一つの箇所まで移動するのでしょうか。例えば地球の北半球と南半球とを同時に見ることができますか。
「霊は思念の速さで移動できますから、結果的には幾つの箇所でも同時に見ることができます。また霊は、同時に幾つの箇所へでも思念を発することができます。ただし、その威力は霊的純粋性によって違ってきます。不純であるほど視野が狭くなります。一度に全体を見通せるのは高級霊のみです」
――我々人間と同じように鮮明に見えるのでしょうか。
「人間の視力より鮮明です。霊の視力は全てのものを貫通します。遮るものは何もありません」
――聴力もありますか。
「あります。人間のお粗末な聴力では聞き取れないものまで聞こえます」
――その聴力も視力と同じく霊そのものの内部にそなわっているのでしょうか。
「霊の感覚は本性として霊そのものにそなわっており、その存在の一部を構成しています。その霊が物的身体に宿ると、その身体のそれぞれの器官を通してしか感識できなくなります。死によってその肉体器官の束縛から離れて自由の身になると、視力とか聴力とかの区別なしに、霊の本質的なものとして働きます」
――感覚能力が霊の本質的なものであるとしたら、その能力を出したり引っ込めたりできるのでしょうか。
「見たいと思ったものを見、聞きたいと思ったものを聞きます。ただしこれは正常な状態、とくに高級界での一般的な話として受け止めてください。と言うのは、贖罪界の低級霊は霊的矯正のために効果のあるものを否応なしに見せられ聞かされます」
――霊も音楽に感動しますか。
「地上の音楽のことですか? 天上の音楽に比べて、一体あれが音楽と言えますか? 天上の音楽のハーモニーを譬えるものは地上にはありません。未開人のわめき声と素敵なメロディほどの差があります。もっとも低級霊の中には地上の音楽を好む者がいます。それ以上の崇高なものが理解できないのです。
高級霊にとって音楽は汲めども尽きぬ魅力の泉です。審美的感覚が発達しているからです。私が言っているのは天上の音楽のことです。これほど甘美で麗しいものは、霊的想像力をもってしても、まず考えられません」
――大自然の美しさについてはどうでしょうか。
「自然の美しさといっても各天体によってその美しさの形態が異なりますから、霊もその全てを知っているわけではありません。美しさを味わいそして理解する才能に応じて、それぞれにその自然界の美を感識しておりますが、高級霊になると細部の美しさは視界から消えて、全体としてのハーモニーの美しさを感得します」
――物的な必要性や苦痛を体験することがありますか。
「そういうものがあることを知ってはおります。地上時代に体験しているからです。しかし、人間と同じようには体験しません。霊なのですから」
――霊も疲労を覚えて休息を必要とすることがありますか。
「あなたがおっしゃる意味での疲労は覚えませんし、従って体を休める必要もありません。体力の補給を必要とする器官は持ち合わせないからです。ですが、霊も絶え間なく動き回っているわけではないという意味においては、休息を取ることがあると言えましょう。動くといっても身体を動かすという意味とは違います。霊にとって行動とは百パーセント知的な働きをいい、休息とは心の静寂をいいます。言い変えれば思念活動が静止して特定の目的に向けられていないことがあるということで、これが言うなれば霊の休息です。身体を休めるという意味での休息とは違います。もし疲れを覚えるとすれば、それは霊性の低さの指標であるとも言えます。霊性が高まるほど休息の必要性が無くなるものだからです」
――霊が苦痛を訴えることがありますか。どういう性質の苦痛でしょうか。
「精神的苦悶です。いかなる身体的苦痛にもまして、魂に激痛を与えます」
――霊が寒さや暑さを訴えることがありますが、なぜでしょうか。
「地上時代の体験の記憶によってそう感じ取っているまでですが、本人としては実際に寒さや暑さを感じていることがあります。しかし、よくある例として、自分の魂の苦悶を表現する手段が思いつかなくて、比喩的に寒さや暑さに擬(なぞら)えていることがあります。霊は、地上時代の身体のことを思い浮かべると、あたかも脱ぎ捨てた衣服をもう一度着るように、実際に身体があるかのように感じるものです」
〈試練の選択〉
――霊界でのさすらいの状態にある霊は、新たな物的生活に入る(再生する)前に、それがどのような人生になるかを予見できるのでしょうか。
「遭遇する試練については自分で選択します。そこに霊としての自由意志の行使が認められます」
――すると罰として苦難を科するのは神ではないのですね?
「神の裁可なくして何事も発生しません。宇宙を経綸するための全法則・全摂理をこしらえたのは神なのですから。
あなた方人間の立場から見ると、神はなぜこんな摂理をこしらえたのか――他に方法がありそうなものだが……と疑問に思うこともあることでしょう。実は各霊に選択の自由を与えるに際しては神は、同時に、その行為とその行為が生み出す結果についての一切の責任も担わせているのです。
霊が自ら選んで進もうとするのを遮るものは何もありません。悪の道を歩むのもよし、善の道を歩むのもよし。かりに悪徳の誘惑に負けて悪の道に入っても、もはや取り返しがつかないというようなことにはなっておりません。しくじった人生をもう一度始めからやり直す機会が与えられます。
もう一つ申し上げておきたいのは、神の意志による業(わざ)と、人間の意志による業とを截然と区別しなければならないということです。例えばあなたが危機にさらされたとします。その危機そのものはあなたがこしらえたのではありません。神が用意したのです。しかし、その危機にさらされることを選択したのはあなた自身です。その危機に遭遇することの中に霊的成長の手段を見出して自ら志願し、そして神がそれを裁可したということです」
――霊が地上生活で体験する苦難を自ら選択するということは、あらかじめ自分の一生を予知し選んでいるということになるのですね?
「そういう言い方は正確ではありません。全部が全部あなたが選んだものとは言えないからです。あなたが選ぶのはどういう種類の試練にするかということで、実際に誕生してからの細かい出来事は、置かれた境遇でそれに対処するあなたの態度が生み出します。
具体例で説明しましょう。かりに一人の霊が悪党ばかりがいる境遇に生まれたとしましょう。当然その霊は、そういう境遇でさらされるであろう良からぬ人間関係は覚悟しているはずです。しかし、それが具体的にどういうものであるかは、いちいち予知しているわけではありません。その時その時の対処の仕方、自由意志の行使の結果によって決まります。
このように、霊は再生に際してはあらかじめ一つの人生航路を選び、その人生では大体かくかくしかじかの苦難を体験するであろうと予測します。つまり人生の大まかなパターンを承知の上で再生してきますが、それがどういう形の人間関係や事件・事故となって具体化するかは、置かれた境遇や時の流れの勢いによって決まる性質のものなのです。もっとも、その中には人生の方向を決定づける大きな要素がいくつかあり、それはあらかじめ承知しております。
別の譬えで言えば、目の前にでこぼこ道が横たわっているとします。用心しながら歩かないと転びます。しかし、その道のどのくぼみで転ぶかが決まっているわけではありません。細心の注意をもって歩めば転ばなくても済むかも知れません。ところが一方、足もとにばかり気をつけていると、どこかの屋根の瓦が頭上に落下してくるかも知れません。そうなるように宿命づけられていたのだと考えるのは間違いです」
――悪党ばかりがいる境遇になぜ誕生しなければならないのでしょうか。
「試練には教訓が込められています。ある霊にとってどうしても必要な教訓を学ばせるために、そういう条件をそなえた境遇に生をうける必要が生じるのです。その際、正さなくてはならない欠点と、その霊が置かれる境遇との間に連携的調和がなくてはなりません。例えば略奪強盗の衝動が沁みついている魂は、そういう境遇に再び放り込まれて、とことんその無情を味わう必要が生じる場合があるのです」
――では地上に邪悪な人間がいなくなったら霊は自分の試練のための条件が無くなることになりませんか。
「結構なことではありませんか。なぜそれが不服なのでしょう? あなたのおっしゃるような世界はまさに高級霊の世界です。悪の要素は一切近づけず、従ってそこに住まうのは善霊ばかりです。地上界も一日も早くそういう世界になるように努力なさるがよろしい」
――完全を目指して試練の道を歩んでいる霊は、ありとあらゆる誘惑にさらされなくてはならないのでしょうか。自惚れ、嫉妬、貪欲、色欲、その他もろもろの人間的煩悩を試される環境に身を置かなくてはならないのでしょうか。
「そのようなことはありません。すでに述べた通り、霊の中には当初から順調なコースを歩み、そういう酷しい試練を必要としない霊もいます。しかし、いったんコースを間違えると次から次へと誘惑にさらされることになります。例えば金銭欲に目が眩(くら)んだとします。そして思い通りの大金が入ったとします。その際、その人の性格によってはますます欲の皮がつっぱり、放蕩の生活に入ってしまうことはあるでしょうし、困っている人々に気前よく施しをして有意義に使用することも可能です。ですから、その人が大金を所有したからといって、それゆえに生じる邪悪性の全ての試練にさらされるということにはなりません」
――霊はその原初においては単純で無知で、体験も皆無のはずです。その状態でどうして知的な選択ができるのでしょうか。またその選択に対してどうやって責任を取るのでしょうか。
「神は、霊の原初における未経験さを、ちょうど人間が赤ん坊を揺りかごの中で保護して育てるように、安全無事であるように叡知でもって保護してくださっています。そして、そうした中で芽生えていく自由意志との釣り合いを取りながら、少しずつ“選択の主”となることを許していきます。が、それは同時に選択を誤り、悪の道に入っていく可能性も出てくることを意味します。先輩の霊のせっかくの忠言も無視するようになるのもこの頃です。聖書に言う“アダムとイブの原罪”(人類の堕落)というのはことのことを言っていると考えてもいいでしょう」
――霊が自由意志を所有するに至れば、その後に選ぶ物的生活は百パーセント本人の意思によるのでしょうか、それとも罪滅ぼしとして神が科することもあるのでしょうか。
「時を超越している神は何事にも決して急ぎません。罪滅ぼしも急ぎません。しかしながら、無知にせよ強情からにせよ、本人がそれから先どうすればよいかに気づかないと見た時、そして霊性の浄化と発達にとって物的生活が適し、それが罪滅ぼしのための環境条件を提供すると見た時は、強制的に物質界へ送り込みます」
――霊みずから試練として選択する時の規準はどのようなものでしょうか。
「過去の過ちを償い、同時に霊性の進化を促進するものです。その目的のためにある者はみずから窮乏生活を選び、酷しい環境の中で力強く生き抜く修行をします。またある者は、財力と権力の誘惑の多い環境に生まれて、その誘惑への抵抗力を試す者もいます。貧乏よりもこの方が危険です。とかくそれを悪用しがちですし、それにまつわる邪悪な感情もどぎついものがあるからです。さらには悪徳の栄える巷に身を投じ、その中にありながらも、あくまでも善を志向する決意を強化せんとする者もいます」
――自分の徳性を試すために悪徳の環境に自らをさらす者がいるとなると、同じ口実のもとにそういう環境に生まれて放蕩ざんまいをする者もいるのではないでしょうか。
「確かにそういう者がいます。しかし、それは当然のことながらよほど霊性の低い霊にきまっています。しかも、そういう場合はそれに対する試練が自動的に生じ、しかも長期間にわたって続きます。遅かれ早かれ彼は動物的本能に浸ることが悲惨な結果を招くことに気づきますが、気づいてもすぐにはその悲惨さから抜け切れず、そのまま永遠に続くかに思われます。神は時としてそういう再生の仕方の罪の深さを思い知らせるために、その状態に放置するのです。そのうち自ら志願して本当の試練によってその償いをする決意をするようになります」
――試練の選択に当たってはなるべく苦痛の少ない人生を選ぶのが人情ではないでしょうか。
「人情としてはそうでしょう。しかし霊の観点からは違います。物的束縛から解放されると錯覚から目覚め、まったく違った感覚で考えるようになるものです」
――完全な純粋性に到達するまでは、霊は何度でも試練に遭わなくてはならないのでしょうか。
「理屈の上ではその通りですが、“試練”の意味が違ってきます。地上の人間にとっての試練は物的な辛苦です。が、霊がある一定の純粋性の段階まで到達すると、まだ完全ではなくても、その種の試練は受けなくなります。代わって今度は進化向上のための仕事が課せられ、その責務の遂行が試練となりますが、それには苦痛は伴いません。たとえば他の霊たちの進歩を手助けする仕事などです」
――試練の選択を間違えるということは有り得ますか。
「自分の力量に余るものを選んでしまうことはあります。その場合は挫折に終わります。反対に何の益にもならない人生を選ぶこともあります。怠惰で無意味な人生を送る場合です。こうしたケースでは霊界に戻ってからそのことに気づいて、その埋め合わせをしたいという欲求を覚えます」
――地球より程度の低い天体ないしは地上の最低の人種、たとえば人食い人種などから文明国に生まれ出ることがありますか。
「あります。思い切って霊性の高い環境に挑戦してみようという考えから地球に誕生してくる霊はいます。ですが、どうも場違いという感じを抱きます。前世での本能や習性を携えてきているために、それが新しい社会の通念や慣習と衝突するのです」
――反対に文明国で前世を送った人間が罪滅ぼしとして未開人種の中に再生することがありますか。
「あります。ただし、その罪滅ぼしの中身が問題です。奴隷に対して残酷だった主人は今度は自分が奴隷の身の上に生まれて、同じ残酷な仕打ちをされるかも知れません。理不尽な権力をふるった支配者は今度は自分が権力者の前に跪(ひざまず)く立場に生まれ変わるかも知れません。そうした罪滅ぼしは権力を悪用したことから生じていますが、善霊が程度の低い民族に影響力のある存在として生まれ出ることもあります。その場合は使命となります」
〈生前と死後の人間関係〉
――霊性の発達の違いは上下関係をこしらえるのでしょうか。つまり霊界にも権威による主従関係というものがあるのでしょうか。
「大いにあります。霊格の差による上下関係は厳然としており、霊性の高い者が低い者に対して持つ優位性は絶対的な不可抗力と言えるほどです」
――地上時代の権力や地位は霊界でも通用しますか。
「しません。霊の世界では謙虚な者が高められ、尊大な者は卑められます。聖書を読みなさい」
――高められるとか卑められるとかいうのはどのように理解したらよいのでしょうか。
「霊には、身につけた霊性の差による秩序があるのはご存じのはずです。ですから地上で最高の地位についても、霊性が低ければ霊の世界では低い界層に位置し、その人の従者だった者が高い界層に位置することがあるのです。
まだ納得がいきませんか。イエスも言っているではありませんか――“およそ尊大な者は卑められ、謙虚な者は高められるであろう”と」(ルカ14・マルコ23)
――地上で偉大な人物とされていた者が霊界では低い界層にいた場合、その違いに屈辱感を覚えるでしょうか。
「そういうケースが実に多いのです。高慢で嫉妬心が強かった場合はなおさらです」
――一兵卒だった者が霊界で上官と出会った時、やはり敬意を表するでしょうか。
「肩書は何の意味もありません。本質的な霊的優位性が全てです」
――霊の世界も霊格の異なるさまざまな霊が入り交じっているのでしょうか。
「そうとも言えますし、そうでないとも言えます。つまり互いの目には姿が見えていても、霊格の違いによる隔たりを直感しています。人間社会と同じで、親密感と違和感とによって近づいたり離れたり避けたりしています。霊の世界はさまざまな状況と霊的関係が混然一体となった世界で、地上界はそのおぼろげな反映にすぎません。同じ霊格の者が親和力の作用で引かれ合い、グループをこしらえ、共通の目的で協力し合っております。
それにも善と悪とがあります。善の集団はあくまでも善を志向し、悪の集団はあくまでも悪を志向します。過去の悪行の不面目(ふめんぼく)を意地で打ち消してさらなる悪行を重ね、また自分と同類の集団の中に身を置くことによって気を紛らすのです」
――霊は誰とでも接触できるのでしょうか。
「善霊あるいは高級霊は悪霊あるいは低級霊へ近づくことができます。善性の影響力を行使するためにはそうする必要があるからです。しかし低級霊が高級霊の界層へ近づくことはできません。ですから邪悪な感情で聖域が汚されることはありません」
――善霊と悪霊の関係の本質は何なのでしょうか。
「善霊が悪霊の邪悪な性向を正すべく闘い、少しでも霊性を高めるように援助してやる――つまり善霊にとっては使命となるような関係になっています」
――低級霊はなぜ人間を悪の道に誘って喜ぶのでしょうか。
「嫉妬心が強いからです。しょせん善霊の仲間には入れないと知ると、未熟な霊が順調に幸せになっていくことに嫉妬心を覚え、それを阻止しようとするのです。自分が味わっている辛い状態を彼らにも味わわせてやろうと考えます。同じような人間が地上にもいるのではありませんか」
――霊どうしの交信はどのようにして行われるのでしょうか。
「見ただけで理解し合います。言語は物質界のものです。言語能力は霊の属性の一形態です。普遍的流動体(エーテル)によって霊どうしは常に交信状態にあると言ってよろしい。地上界の空気が音の伝達手段であるように、流動体が思念の伝達手段です。言うなれば宇宙的霊信装置で全天体を結んでおり、霊はどの天体とでも交信ができます」
訳注――“言語能力は霊の属性の一形態”という意味は、見たり聞いたりする能力と同じく意思表示の能力も霊の本性として直接的に働くものであるが、地上という環境条件の中で生活するためには発声器官を媒体としなくてはならない。が、意思表示しているのは霊そのものの本性だということである。現在の生理学でも、なぜ見えるのか、なぜ聞こえるのかは、脳の働きと同じく、その構造を見ただけでは分からないという。シルバーバーチも、目があるから見えるわけではない、耳があるから聞こえるのではない、見るのも聞くのも“霊”です、と言っている。
――心に思っていることを隠すことができますか。また自分の姿を隠すことができますか。
「できません。何一つ隠すことはできません。霊格が完成の域に達した霊の間ではとくにそうです。たとえ面前から退いても、互いに常に見えております。ただし、これを絶対的にそうとばかりも言えません。と言うのは、高級霊になると、自分が身を隠した方がいいと思った時は、低級霊には見えないようにすることができるからです」
――地上時代にいっしょに生活したことのある人であることが認識できますか。たとえば息子は父親を、友だちはその友だちを。
「できます。何代にもわたって認識できます」
――それはどうやって知るのでしょうか。
「霊は自分の過去世を見ることができるのです。自分の友や敵(かたき)の人生を誕生から死に至るまで見ることができます」
――死んで肉体から離れて直ちに親戚や友人の霊と会えるのでしょうか。
「直ちにというのは正確ではありません。前にも述べたと思いますが、魂が霊界に戻って霊的意識を取り戻し物質性を払い落とすには、しばらく時間を要します」
――どのような迎え方をされるのでしょうか。
「まっとうな人生を送った者は待ちに待った愛する友のように迎えられ、邪悪な人生を送った者は侮蔑の目をもって迎えられます」
――同類の邪悪な霊はどういう態度で迎えるのでしょうか。
「自分たちと似て幸福感というものを奪われた仲間が増えたことに満足を覚えます。地上でもヤクザな人間は仲間が増えると満足するのと同じです」
――地上時代の親族や友人とは必ずいっしょに暮らせるのでしょうか。
「それは霊格の要素が絡んだ問題で、時には向上の道を追いかけなければならないことがあります。つまり一方が遥かに向上していて、しかもそのスピードが速い時は、付いて行けません。もちろんホンの一時だけ会うことはできます。が、いっしょに暮らすことができるのは、遅れている方が追い付くか、または両者が完成の域に達してからです。もう一つの見方として、親族も友人も姿を見せてくれないのは、何らかの罪に対する罰であることがあります」
〈親和力と反発力〉
――霊には大ざっぱな意味での類似性のほかに、特殊な情愛の関係もあるのでしょうか。
「あります。人間と同じです。人間のような身体がないだけ、それだけ感情の起伏がありませんから、霊どうしのつながりは強くなります」
――霊どうしでも憎しみの念を抱くことがありますか。
「憎しみは不浄な霊の間にのみ存在するものです。人間どうしの憎み合いや不和のタネを蒔くのは霊界の不浄霊です」
――地上で仇(かたき)どうしだった者は霊界でもずっと憎み合っているのでしょうか。
「そうとは限りません。憎み合うことの愚かさを悟り、憎しみのタネとなったことの他愛なさに気がつく者が大勢います。いつまでも地上時代の怨恨を持ち続けているのはよほど幼稚な霊です。が、そうした者でも霊性が浄化されるにつれて少しずつその迷いから覚めて行きます。人間として物的生活を送っていた時に些細なことから生じた怒りは、その物的波動から抜けるとすぐに忘れていくものです。諍(いさか)いのタネが無くなってしまうと、本質的に霊性が合わない場合は別として、再び仲良くなるものです」
――地上時代にいっしょに悪事を働いた二人が霊界へ行った場合、その悪事の記憶が二人の関係を損いますか。
「損います。疎遠になりがちです」
――悪事の被害者はどんな気持ちでしょうか。
「霊性の高い人であれば、当人が反省すれば赦すでしょう。霊性が低い場合は怨みを持ち続け、時には再生してでも仕返しに出ることがあります。懲罰として神がそれを許す場合があります」
――情愛は死を境に変化するものでしょうか。
「しません。愛は決して相手を違(たが)えません。地上のように偽善者がかぶるマスクはこちらにはありません。ですから、純粋な愛はこちらへ来てもいささかも変化しません。互いをつなぎ合う愛は崇高なる至福の泉です」
――地上で愛し合った二人は霊界でもそのまま続くのでしょうか。
「霊的親和性の上に成り立っている愛であれば永続性があります。物的な要素の方が親和性よりも多い場合は、その物的要素が無くなると同時に終わりとなります。愛は人間どうしの場合よりも霊どうしの間の方が実感があり、かつ永続性があります。物的打算や自己愛による気まぐれの要素に影響されることがないからです」
――宇宙のどこかに自分の片割れがいて、いつかは一体となるように初めから宿命づけられているという説は本当でしょうか。
「二つの魂が宿命的に特別な合体をするというようなことは有り得ません。一体となるのであれば、全ての霊が一体化へ向かって進化しており、それぞれの霊格の段階で融合し合っています。言い変えれば、到達した霊性の完成度に応じた段階で融合が生じます。完成度が高いほど融和性も深まります。人間社会に悪がはびこるのは融和性が欠けているからです。全ての霊が究極において到達する完全な至福の境涯は融和が生み出すのです」
――完全な親和性をもつ二人が霊界で再会した場合、もうそれで二人は永遠に一体なのでしょうか、それとも、いつかは別れて、また別の霊と一体となるのでしょうか。
「霊はそれぞれの霊性の発達段階で誰かと一体となっていると言えます。私が完全な至福の境涯と言ったのは、完全の域に到達した霊のことです。それ以下の段階、つまり低い界層から高い界層へと向上して行く途中の段階においては、霊格の差によって離れてしまった者に対しては、かつてのような親和性は感じません」
――完ぺきな親和性で結ばれた二人は互いに補完し合うのでしょうか、それともその一体化は本質的な霊性の一致の結果なのでしょうか。
「霊と霊とを結びつける親和力は両者の性向と本能とが完全に一致した時に生じる結果です。もし一方が存在しなければ他方が完全になれないというのでは、両者とも個的存在を失うことになります」
――現段階では親和関係のない霊の間にもいずれは親和関係が生ずるのでしょうか。
「そうです。全ての霊がいつかは親和関係で一体となります。かりに二人の霊がいて、かつては一体だったのが、一方の進化が速すぎて、今のところは別れ別れになっているとします。しかし、これから先、進化の遅れている方が急速に進歩して他方に追いつくことも考えられますし、先を歩んでいた者が試練に負けてある界層で停滞を余儀なくさせられている場合には、後から進化してきた者がそれだけ速く追いつくことも考えられます」
――ということは、今は親和関係にあっても、その関係が切れてしまうことも有り得るわけですか。
「当然です。一方の生命力が弱くて、他方がどんどん向上して行くというケースがあります」
〈前世の回想〉
――終えたばかりの地上生活は死の直後にそっくりそのまま再現されるのでしょうか。
「そうではありません。霊的意識が強まるにつれて少しずつ見えるようになります。ちょうど霧が晴れて少しずつ実体が見えてくるような調子と思えばよろしい」
――その気になれば何でも思い出せますか。
「霊には、前世のありとあらゆる出来事の一部始終を、さらには心に抱いた思念までも、思い出す力がそなわっています。ただ、必要でもないものまで思い出すことはしません」
――過去世はどのような形で再現されるのでしょうか。その霊の想像力によるのでしょうか、それとも絵画のように眼前に映るのでしょうか。
「その両方のケースがあります。興味があって思い出したいと思ったことは、まるで現実の出来事のように再現されます。それ以外のことは多かれ少なかれおぼろげか、まったく忘れ去っております。物的波動が薄れるほど物質界での出来事に重要性を置かなくなるからです。あなたにも体験があると思いますが、地上を去ったばかりの霊を招霊してみると、好きだったはずの人の名前や、あなたから見て大切な出来事と思えるものが思い出せないことがあるはずです。それは彼自身は重要視していないために記憶が薄れているからです。反対に、現在の彼の知的ならびに道徳的向上に影響を及ぼした、人生の重要なポイントとなっている出来事は、完全に思い出します」
――今捨て去ったばかりの肉体をどんな気持ちで眺めますか。
「何かにつけて厄介だった不愉快な衣服を見つめるような気持ちです。脱ぎ去ってさっぱりしています」
――腐敗していくのを見てどんな気持ちですか。
「ほとんどの場合、無関心です。どうでもいいものという感じです」
――死後少したってから、埋葬されている遺骸とか、かつての自分の持ち物とかを確認することがありますか。
「時たまそういうことをすることがあります。が、その時はすでに地上的な物を見る目が大なり小なり高度になっています」
――後に残った者たちによって自分の遺品が飾られて遺徳を偲ばれるのは嬉しいものでしょうか。
「いかなる霊でも地上の縁ある人々によって記念の行事が催されるのは嬉しいものです。そうした時に用意される記念物は、それに参加した人々を思い出す縁(よすが)となります。もちろんその記念物そのものではなく、それを発起した人々の思念がそうさせるのです」
――ある人が一連の重要な仕事に関わっていて、その完成を見ずして他界したとします。その場合、霊界で悔やむでしょうか。
「そんなことはありません。そういう重要な仕事は他の有志によって完成されるように計画されていることを知るからです。悔やまないどころか、その完成のために霊界から現界の後継者に働きかけます。そういう人の地上人生は同胞のためという目的に向けられていたのであり、霊界へ来ても少しも変わりません」
――芸術作品や文学作品の遺作は地上時代と同じ感覚で見るものでしょうか。
「霊格によって違いの大きさは異なりますが、地上時代とは別の視点で鑑賞し、往々にしてそのお粗末さに嫌気がさすものです」
――芸術や科学の進歩のために今地上で為されている努力に霊は関心を持つでしょうか。
「霊格の程度によりますし、授かった使命によっても違ってきます。地上の人間には壮大なものに思えるものでも、霊から見るとどうでもよいものがあります。かりに関心を持つとしても、それは高等教育を受けた人が小学校の教育に関心を持つのと同じ程度にすぎないことがあります。地上に再生した者の霊格の程度を細かく調べ、その進歩に注目しています」
――霊は死後も母国への愛着がありますか。
「霊格の高い霊にとっては宇宙全体が母国です。地球にかぎって言えば、いちばん愛着を感じる場所は親和関係の強い人間がいちばん多い所です」
――この地上へ生まれる以前は霊界に住んでいたのに、なぜ死後も生きていることを知って驚くのでしょうか。
「驚くのは一時期だけのことで、それも死後の目覚めに伴う意識の混乱の結果です。意識が落ち着くとともに過去世の記憶が甦ります」
〈葬儀にまつわる問題〉
――地上に残した愛する人々に関する記憶が甦ることで霊は影響を受けますか。
「あなた方が想像する以上に影響を受けます。現在自分が置かれている状態が幸せであれば、その幸福感が増幅されます。もし不幸であれば、その思い出によって慰められます」
――国によっては命日というものを設けて法要が営まれるのですが、その日は特にその場に引き寄せられるものでしょうか。
「法要の日に限らず、情愛を込めて祈念された時は、いつでも引き寄せられます」
――法要の日は埋葬されている場所に赴くのでしょうか。
「大勢の人が集まってくれている時はその想念に引きつけられてそこへ赴きますが、義理で出席しているだけの人には無関心です。心から祈念してくれている人の一人一人のもとを訪れます」
――自宅で祈るよりも墓に詣でる方が喜ぶでしょうか。
「墓まで足を運ぶということは、その霊のことを忘れていないことを示す一つの方法でしょう。しかし、すでに述べたように大切なのは心です。心からの祈りであれば、どこで祈るかは大切ではありません」
――故人を記念した像や石碑が建立されることがありますが、当の霊はその除幕式に出席するものでしょうか。その様子を喜んで見つめるものでしょうか。
「出席できる状態であれば出席します。ですが、そのようにして記念してくれることを名誉と思うよりも、出席者の思いそのものを有り難く思うものです」
――自分の葬儀に出席しますか。
「出席するケースはよくありますが、多くの場合、死に伴う意識の混乱状態の中にあるために、出席していても何のことか分からないものです」
――葬儀で長蛇の列をなしているのを見て、やはり得意な気分になるものでしょうか。
「どういう心情で集まっているかにもよるでしょうけど、大勢の参列者を見て悪い気はしないでしょう」
――遺産相続人の会合には立ち合うものでしょうか。
「必ずといってよいほど立ち合います。当人の教育として、また強欲が受ける懲罰がいかなるものであるかを見せるために、神がそのように計らいます。つまり、彼が生前受けた愛想の良さやお追従(ついしょう)が本当は何が目的であったかを思い知らされ、さらに遺産をめぐる強欲の張り合いを目(ま)のあたりにして、愕然とします。その相続人たちへの懲罰も、そのうち巡ってきます」
このページの目次〈さすらう霊〉
〈一時休憩所〉
〈霊の感覚と知覚と苦痛〉
〈試練の選択〉
〈生前と死後の人間関係〉
〈親和力と反発力〉
〈前世の回想〉
〈葬儀にまつわる問題〉
〈さすらう霊〉
訳注――wandering spiritsをそのまま訳したのであるが、原語も日本語もともに適切とは思えない。要するに実在に目覚めずに仮相の世界にあって時には地球に、時には他の天体に再生する霊が、その再生するまでの期間を言わば〝放浪〟するわけである。別のところではerraticityという用語を用いているが、これは“住所不定”とか“無軌道”といった意味をもつもので、やはり放浪の状態を指している。要するに仮相の現象界を旅している霊のことで、“旅する霊”という方が言葉としては適切のように思えるが、取りあえず原語のままにしておいた。
――魂は身体から離れた(死亡した)あと直ぐに再生するのでしょうか。
「直ぐに再生するケースも時たまありますが、大多数は長い短いの差はあっても合間の期間があります。それが地球に比して遥かに進化している天体の場合ですと、再生は、ほとんど例外なく、直ぐさま行われます。そういう天体では同じく物的身体といっても精練の度合いが違いますから、再生後も霊的能力のほとんどを使用することができます。強いて譬えればセミトランスの状態が通常の状態です」
――直ぐに再生しない霊は次の再生までの合間はどうなっているのでしょうか。
「新しい運命(さだめ)を求めてさすらいます。その時の状態は“待ち”と“期待”の状態と言えます」
――合間の長さはどれくらいでしょうか。
「短いのでは二、三時間、長いのになると数千年にもなります。厳密に言うと一定のきまりというものはありません。大変な期間に及ぶ場合がありますが、永遠にさすらうということはありません。前回の物的生活の清算をするために、遅かれ早かれ、いつかは再生する機会が与えられます」
――さすらいの期間は霊の意志で決まるのでしょうか、それとも罪の償いの意味もあるのでしょうか。
「結果的には霊自身の自由意志に帰着します。霊が自由意志で行為の選択をする時は、明確な認識をもっております。ところが神の摂理の働きで、ある者は罰として次の再生が延期されることがあり、またある者は、物質身体に宿らない方がより効果的に遂行できる勉強が許されて、霊界に留まれるように配慮してもらえることもあります」
――さすらうということは、その霊が低級であることの証拠でしょうか。
「それは違います。さすらう霊にも低級から高級まであらゆる等級があります。むしろ再生している状態の方が過渡的期間と言えます。霊の本来の状態は物質から離れている時です」
――物質界へ誕生していない霊は全てさすらいの状態にあるという言い方は正しいでしょうか。
「まだ再生すべき段階にある霊についてはその言い方で正しいと言えます。しかし霊性がある一定のレベルまで浄化されつくした霊はさすらってはいません。その状態で完成されているのです」
――さすらう霊はどのような形で学んでいくのでしょうか。
「それまでの全生活を細かく観察し、さらに向上するための手段を求めます。霊的観察力が働きますから、さすらって通過する境涯の現場の状況を観察したり、聡明な霊による講話に耳を傾けたり、高級霊によるカウンセリングを受けたり、といったことを通じて、どんどん新しい教育を身につけていきます」
――霊にも人間的な感情が残っているものでしょうか。
「洗練された霊になると肉体とともに人間的感情も捨ててしまい、善性を求める欲求だけが残ります。が、低級霊は地上的不完全性を留めています。それさえ無ければ、どの霊もみな最高のものを秘めているのですが……」
――ではなぜその低級な感情を死とともに捨ててしまわないのでしょうか。
「いいですか、あなたの知っている人の中にも、例えば極端に嫉妬心の深い人がいると思いますが、その人がこの地上を去ったら、とたんにその悪感情をあっさりと捨ててしまうということが想像できますか。地上を去ったあと、特に強烈な邪悪な感情をもった人には、その感情に汚染されたオーラが付着したまま残っています。霊は死とともに物的生活の影響から抜け出るのではありません。相変わらず地上時代の想念の中にあり、本当はこうでなくてはいけないという正しい心の持ち方を垣間見るのは、ホンの時おりでしかありません」
――霊はさすらいの状態の間にも進化するのでしょうか。
「努力と向上心の強さしだいでは大いに進歩します。ですが、その状態で獲得した新しい概念を本格的に実行して身に沁ませるのは物的生活の中においてです」
――さすらいの状態にあることを霊自身は幸せに感じるでしょうか、不快に思うでしょうか。
「それはその時点での功罪によりけりです。低級感情に負けるその根本的性格がそのままだと幸せとは感じないでしょうし、物的波動から脱すればその分だけ幸せを感じるでしょう。さすらいの状態にある間に霊は、より幸せになるためには何が必要であるかに気づき、それに刺激されて自分に欠けているものを獲得するための手段を求めようとします。その結果それが再生であると悟っても、必ずしもすぐに許されるとは限りません。それがすぐに叶えられずに延期されることが罰であることがあります」
――さすらいの状態にある霊でも他の天体を訪れることが出来るのでしょうか。
「それは霊性の発達の程度しだいです。霊が物的身体から離れたといっても、必ずしも物的波動から脱したわけではありません。相変わらず今まで生活していた天体、あるいはそれと同等の発達程度の天体の波動の中で生活しております。ただし、地上生活中の試練の甲斐あって霊性が飛躍的に発達していれば別です。そうやって物的生活の体験をするごとに霊性が発達するのが本来の目的です。発達がないようではいつまでたっても完成の域には達しません。
それはともかくとして、さすらいの状態にある霊でも地球より程度の高い別の天体を訪れることはできます。しかし、どうも勝手が違うという印象を受けるはずです。結局はその世界の生活風景を垣間見る程度にしか見ることができません。しかし、その体験が刺激となって改善と向上への意欲が促進され、やがてはそこに定住できることにもなるでしょう」
――浄化の程度の高い高級霊が波動の低い天体を訪れることはあるのでしょうか。
「よくあることです。住人の向上を促進するためです。そういうことがなかったら、波動の低い天体は指導する者もいないまま放置されることになります」
〈一時休憩所〉
――さすらう霊が休息をとる場所のようなものがあるのでしょうか。
「あります。当(あ)て所(ど)もなく放浪の旅を続けている霊を迎え入れるための世界があり、みんなそこで一時的に生活を営みます。言うなればキャンパーが一時的にビバークするキャンプ地のようなもので、とかく退屈しがちな放浪の生活の途中で一服して英気を養うわけです。
そうした世界は秩序を異にする世界との中継所的な役割を果たしており、そこへ訪れる霊の程度に応じて幾つかの段階が設けてあります。それぞれに居心地がいいような状態になっています」
――そこを離れたければいつでも離れていいのでしょうか。
「結構です。赴くべき場所が定まれば、いつそこを出ても構いません。そこは譬えで言えば、渡り鳥が途中で翼を休めて次の目的地へ向けて飛び立つためのエネルギーを蓄える島のようなものです」
――そこでの滞在中にも進歩はあるのでしょうか。
「もちろんあります。そもそもそういう世界へやってくる霊は何らかの指示を得たい、より高い界層を訪れる許しが得たい、そして速やかに向上したい、という願望を持っているのです」
――そこは特殊な世界で、永遠にさすらう霊の逗留地として運命づけられているのでしょうか。
「そうではありません。天界の組織の中での位置は一時的なものです」
――その世界の物質界には物的身体をもった者が生活しているのでしょうか。
「いえ、その天体の物的表面は不毛の土地です。その世界に住む者は物的欲望は持ち合わせません」
――不毛とおっしゃいましたが、永遠に不毛なのでしょうか、それとも何らかの原因でそうなったのでしょうか。
「いえ、不毛性は一時的なものです」
――すると、そういう天体は大自然の美などは何もないわけですね?
「“大自然の美”とおっしゃるのは“地上の生命活動の調和の妙”のことでしょう。それに劣らず見事な美によって創造の尽きせぬ豊かさが演出されております」
――そうした天体が一時的なものであるとすると、この地球もいつかはそういう天体となることも有り得るのでしょうか。
「すでにそういう状態の時期がありました」
――いつのことでしょうか。
「生成期のことです」
〈霊の感覚と知覚と苦痛〉
――魂は、肉体から離れて霊の世界へ戻っても、地上時代に使用した感覚をそのまま所有しているのでしょうか。
「所有していますし、地上時代に肉体に遮られて使用しなかったものまで使えるようになります。知性も霊の属性の一つで、肉体の束縛を受けなくなったため自由に顕現します」
――霊の知覚や知識に際限はない――つまり霊は何でも知ることができるのでしょうか。
「完全に近づくにつれて知識も増えていきます。高級界層の霊になるとその知識の範囲は広大となります。低界層の霊は何につけても相対的に無知です」
――時の推移を感知しますか。
「しません。あなた方から日時や時代を特定するように要求された時、我々の返答が今一つ明確でないことがあるのはそのためです」
――霊になれば地上にいた時よりも物事の真相が正確に把握できるようになるのでしょうか。
「地上時代に比べれば昼と夜の差ほどの違いがあります。人間には見えないところまで見透せますから、物事の判断の仕方も違ってきます。ですが、何度も言っているようにそれも霊性の開発の程度によって違ってくる問題です」
――霊は過去に関する知識をどこから仕入れるのでしょうか。無制限に入手できるのでしょうか。
「我々にとって過去のことは、そのことに意念を集中しさえすれば、あたかも現在の出来事のように感得されます。それは地上でも、強烈な出来事に関しては同じではないでしょうか。ただ異なるのは我々は人間の知性を鈍らせる物的なベールに閉ざされていませんので、人間の記憶から完全に消えていることでも鮮明に思い出せることです。ただし霊といえども全てが知れるわけではありません。たとえば我々がいつどうやって創造されたかは、今もって謎です」
――未来が予見できますか。
「これも霊性の発達程度によって違ってきます。大体において部分的にしか見えませんし、かりに明確に見えても、それをみだりに人間に明かすことは許されません。見える時はまさに現在の出来事のように見えます。霊格が高いほど明確に見えます。死後、霊は過去の転生の全てを一望のもとに見せてもらいますが、未来については見せてもらえません。未来を一望できるようになるのは、いくつもの転生を重ねた末に神と一体となった霊のみです」
――完成された霊には宇宙の未来の全てが完全に読み取れるのでしょうか。
「“完全に”という用語は適切ではありません。神のみが絶対的支配者であり、他のいかなる者も神と同等の“完全性”を身につけることはできません」
――その神の姿を拝することは可能でしょうか。
「最高界の霊のみが神のお姿を拝し理解することができます。それより以下の霊はその存在を霊感で感知するのみです」
――神の姿を直(じか)に拝せない程度の霊が、かくかくしかじかのことは神から禁じられているとか許されているとか述べる時、その許可や禁止の命令をどうやって知るのでしょうか。
「神を直接拝することはできなくても、その神威は感じ取れます。何かが為される、あるいは語られる時は、一種の直覚によってその見えざる警告、つまり公表を控えるようにとの命令を感じ取ります。あなたご自身もその種の密かな印象、つまりやってよいとかいけないとかを感じ取ることがあるのではありませんか。我々とて同じです。ただ程度が高いというだけの違いです。お分かりと思いますが、霊としての実体が人間より遥かに精妙になっていますから、神からの訓戒をより純粋に受け取ることができるのです」
――そうした神からの訓戒は神から直接伝達されるのでしょうか、それとも高級霊によって中継されるのでしょうか。
「神から直接ということはありません。神と直接の交信にあずかるには、それなりの資格が要ります。命令は全て叡知と純粋性において高級な霊を中継して届けられます」
――霊の視力も人間のような限られた視界というものがあるのでしょうか。
「ありません。視力は霊の内部から出ていますから」
――光は必要ないのでしょうか。
「霊の内部から発する視力で見るのであって、外部からの光は必要としません。暗闇というものがないのです。あるとすれば、それは犯した罪への罰として閉じ込められる魂の暗闇です」
――霊が二つの箇所を見る時、一箇所を見て、それからもう一つの箇所まで移動するのでしょうか。例えば地球の北半球と南半球とを同時に見ることができますか。
「霊は思念の速さで移動できますから、結果的には幾つの箇所でも同時に見ることができます。また霊は、同時に幾つの箇所へでも思念を発することができます。ただし、その威力は霊的純粋性によって違ってきます。不純であるほど視野が狭くなります。一度に全体を見通せるのは高級霊のみです」
――我々人間と同じように鮮明に見えるのでしょうか。
「人間の視力より鮮明です。霊の視力は全てのものを貫通します。遮るものは何もありません」
――聴力もありますか。
「あります。人間のお粗末な聴力では聞き取れないものまで聞こえます」
――その聴力も視力と同じく霊そのものの内部にそなわっているのでしょうか。
「霊の感覚は本性として霊そのものにそなわっており、その存在の一部を構成しています。その霊が物的身体に宿ると、その身体のそれぞれの器官を通してしか感識できなくなります。死によってその肉体器官の束縛から離れて自由の身になると、視力とか聴力とかの区別なしに、霊の本質的なものとして働きます」
――感覚能力が霊の本質的なものであるとしたら、その能力を出したり引っ込めたりできるのでしょうか。
「見たいと思ったものを見、聞きたいと思ったものを聞きます。ただしこれは正常な状態、とくに高級界での一般的な話として受け止めてください。と言うのは、贖罪界の低級霊は霊的矯正のために効果のあるものを否応なしに見せられ聞かされます」
――霊も音楽に感動しますか。
「地上の音楽のことですか? 天上の音楽に比べて、一体あれが音楽と言えますか? 天上の音楽のハーモニーを譬えるものは地上にはありません。未開人のわめき声と素敵なメロディほどの差があります。もっとも低級霊の中には地上の音楽を好む者がいます。それ以上の崇高なものが理解できないのです。
高級霊にとって音楽は汲めども尽きぬ魅力の泉です。審美的感覚が発達しているからです。私が言っているのは天上の音楽のことです。これほど甘美で麗しいものは、霊的想像力をもってしても、まず考えられません」
――大自然の美しさについてはどうでしょうか。
「自然の美しさといっても各天体によってその美しさの形態が異なりますから、霊もその全てを知っているわけではありません。美しさを味わいそして理解する才能に応じて、それぞれにその自然界の美を感識しておりますが、高級霊になると細部の美しさは視界から消えて、全体としてのハーモニーの美しさを感得します」
――物的な必要性や苦痛を体験することがありますか。
「そういうものがあることを知ってはおります。地上時代に体験しているからです。しかし、人間と同じようには体験しません。霊なのですから」
――霊も疲労を覚えて休息を必要とすることがありますか。
「あなたがおっしゃる意味での疲労は覚えませんし、従って体を休める必要もありません。体力の補給を必要とする器官は持ち合わせないからです。ですが、霊も絶え間なく動き回っているわけではないという意味においては、休息を取ることがあると言えましょう。動くといっても身体を動かすという意味とは違います。霊にとって行動とは百パーセント知的な働きをいい、休息とは心の静寂をいいます。言い変えれば思念活動が静止して特定の目的に向けられていないことがあるということで、これが言うなれば霊の休息です。身体を休めるという意味での休息とは違います。もし疲れを覚えるとすれば、それは霊性の低さの指標であるとも言えます。霊性が高まるほど休息の必要性が無くなるものだからです」
――霊が苦痛を訴えることがありますか。どういう性質の苦痛でしょうか。
「精神的苦悶です。いかなる身体的苦痛にもまして、魂に激痛を与えます」
――霊が寒さや暑さを訴えることがありますが、なぜでしょうか。
「地上時代の体験の記憶によってそう感じ取っているまでですが、本人としては実際に寒さや暑さを感じていることがあります。しかし、よくある例として、自分の魂の苦悶を表現する手段が思いつかなくて、比喩的に寒さや暑さに擬(なぞら)えていることがあります。霊は、地上時代の身体のことを思い浮かべると、あたかも脱ぎ捨てた衣服をもう一度着るように、実際に身体があるかのように感じるものです」
〈試練の選択〉
――霊界でのさすらいの状態にある霊は、新たな物的生活に入る(再生する)前に、それがどのような人生になるかを予見できるのでしょうか。
「遭遇する試練については自分で選択します。そこに霊としての自由意志の行使が認められます」
――すると罰として苦難を科するのは神ではないのですね?
「神の裁可なくして何事も発生しません。宇宙を経綸するための全法則・全摂理をこしらえたのは神なのですから。
あなた方人間の立場から見ると、神はなぜこんな摂理をこしらえたのか――他に方法がありそうなものだが……と疑問に思うこともあることでしょう。実は各霊に選択の自由を与えるに際しては神は、同時に、その行為とその行為が生み出す結果についての一切の責任も担わせているのです。
霊が自ら選んで進もうとするのを遮るものは何もありません。悪の道を歩むのもよし、善の道を歩むのもよし。かりに悪徳の誘惑に負けて悪の道に入っても、もはや取り返しがつかないというようなことにはなっておりません。しくじった人生をもう一度始めからやり直す機会が与えられます。
もう一つ申し上げておきたいのは、神の意志による業(わざ)と、人間の意志による業とを截然と区別しなければならないということです。例えばあなたが危機にさらされたとします。その危機そのものはあなたがこしらえたのではありません。神が用意したのです。しかし、その危機にさらされることを選択したのはあなた自身です。その危機に遭遇することの中に霊的成長の手段を見出して自ら志願し、そして神がそれを裁可したということです」
――霊が地上生活で体験する苦難を自ら選択するということは、あらかじめ自分の一生を予知し選んでいるということになるのですね?
「そういう言い方は正確ではありません。全部が全部あなたが選んだものとは言えないからです。あなたが選ぶのはどういう種類の試練にするかということで、実際に誕生してからの細かい出来事は、置かれた境遇でそれに対処するあなたの態度が生み出します。
具体例で説明しましょう。かりに一人の霊が悪党ばかりがいる境遇に生まれたとしましょう。当然その霊は、そういう境遇でさらされるであろう良からぬ人間関係は覚悟しているはずです。しかし、それが具体的にどういうものであるかは、いちいち予知しているわけではありません。その時その時の対処の仕方、自由意志の行使の結果によって決まります。
このように、霊は再生に際してはあらかじめ一つの人生航路を選び、その人生では大体かくかくしかじかの苦難を体験するであろうと予測します。つまり人生の大まかなパターンを承知の上で再生してきますが、それがどういう形の人間関係や事件・事故となって具体化するかは、置かれた境遇や時の流れの勢いによって決まる性質のものなのです。もっとも、その中には人生の方向を決定づける大きな要素がいくつかあり、それはあらかじめ承知しております。
別の譬えで言えば、目の前にでこぼこ道が横たわっているとします。用心しながら歩かないと転びます。しかし、その道のどのくぼみで転ぶかが決まっているわけではありません。細心の注意をもって歩めば転ばなくても済むかも知れません。ところが一方、足もとにばかり気をつけていると、どこかの屋根の瓦が頭上に落下してくるかも知れません。そうなるように宿命づけられていたのだと考えるのは間違いです」
――悪党ばかりがいる境遇になぜ誕生しなければならないのでしょうか。
「試練には教訓が込められています。ある霊にとってどうしても必要な教訓を学ばせるために、そういう条件をそなえた境遇に生をうける必要が生じるのです。その際、正さなくてはならない欠点と、その霊が置かれる境遇との間に連携的調和がなくてはなりません。例えば略奪強盗の衝動が沁みついている魂は、そういう境遇に再び放り込まれて、とことんその無情を味わう必要が生じる場合があるのです」
――では地上に邪悪な人間がいなくなったら霊は自分の試練のための条件が無くなることになりませんか。
「結構なことではありませんか。なぜそれが不服なのでしょう? あなたのおっしゃるような世界はまさに高級霊の世界です。悪の要素は一切近づけず、従ってそこに住まうのは善霊ばかりです。地上界も一日も早くそういう世界になるように努力なさるがよろしい」
――完全を目指して試練の道を歩んでいる霊は、ありとあらゆる誘惑にさらされなくてはならないのでしょうか。自惚れ、嫉妬、貪欲、色欲、その他もろもろの人間的煩悩を試される環境に身を置かなくてはならないのでしょうか。
「そのようなことはありません。すでに述べた通り、霊の中には当初から順調なコースを歩み、そういう酷しい試練を必要としない霊もいます。しかし、いったんコースを間違えると次から次へと誘惑にさらされることになります。例えば金銭欲に目が眩(くら)んだとします。そして思い通りの大金が入ったとします。その際、その人の性格によってはますます欲の皮がつっぱり、放蕩の生活に入ってしまうことはあるでしょうし、困っている人々に気前よく施しをして有意義に使用することも可能です。ですから、その人が大金を所有したからといって、それゆえに生じる邪悪性の全ての試練にさらされるということにはなりません」
――霊はその原初においては単純で無知で、体験も皆無のはずです。その状態でどうして知的な選択ができるのでしょうか。またその選択に対してどうやって責任を取るのでしょうか。
「神は、霊の原初における未経験さを、ちょうど人間が赤ん坊を揺りかごの中で保護して育てるように、安全無事であるように叡知でもって保護してくださっています。そして、そうした中で芽生えていく自由意志との釣り合いを取りながら、少しずつ“選択の主”となることを許していきます。が、それは同時に選択を誤り、悪の道に入っていく可能性も出てくることを意味します。先輩の霊のせっかくの忠言も無視するようになるのもこの頃です。聖書に言う“アダムとイブの原罪”(人類の堕落)というのはことのことを言っていると考えてもいいでしょう」
――霊が自由意志を所有するに至れば、その後に選ぶ物的生活は百パーセント本人の意思によるのでしょうか、それとも罪滅ぼしとして神が科することもあるのでしょうか。
「時を超越している神は何事にも決して急ぎません。罪滅ぼしも急ぎません。しかしながら、無知にせよ強情からにせよ、本人がそれから先どうすればよいかに気づかないと見た時、そして霊性の浄化と発達にとって物的生活が適し、それが罪滅ぼしのための環境条件を提供すると見た時は、強制的に物質界へ送り込みます」
――霊みずから試練として選択する時の規準はどのようなものでしょうか。
「過去の過ちを償い、同時に霊性の進化を促進するものです。その目的のためにある者はみずから窮乏生活を選び、酷しい環境の中で力強く生き抜く修行をします。またある者は、財力と権力の誘惑の多い環境に生まれて、その誘惑への抵抗力を試す者もいます。貧乏よりもこの方が危険です。とかくそれを悪用しがちですし、それにまつわる邪悪な感情もどぎついものがあるからです。さらには悪徳の栄える巷に身を投じ、その中にありながらも、あくまでも善を志向する決意を強化せんとする者もいます」
――自分の徳性を試すために悪徳の環境に自らをさらす者がいるとなると、同じ口実のもとにそういう環境に生まれて放蕩ざんまいをする者もいるのではないでしょうか。
「確かにそういう者がいます。しかし、それは当然のことながらよほど霊性の低い霊にきまっています。しかも、そういう場合はそれに対する試練が自動的に生じ、しかも長期間にわたって続きます。遅かれ早かれ彼は動物的本能に浸ることが悲惨な結果を招くことに気づきますが、気づいてもすぐにはその悲惨さから抜け切れず、そのまま永遠に続くかに思われます。神は時としてそういう再生の仕方の罪の深さを思い知らせるために、その状態に放置するのです。そのうち自ら志願して本当の試練によってその償いをする決意をするようになります」
――試練の選択に当たってはなるべく苦痛の少ない人生を選ぶのが人情ではないでしょうか。
「人情としてはそうでしょう。しかし霊の観点からは違います。物的束縛から解放されると錯覚から目覚め、まったく違った感覚で考えるようになるものです」
――完全な純粋性に到達するまでは、霊は何度でも試練に遭わなくてはならないのでしょうか。
「理屈の上ではその通りですが、“試練”の意味が違ってきます。地上の人間にとっての試練は物的な辛苦です。が、霊がある一定の純粋性の段階まで到達すると、まだ完全ではなくても、その種の試練は受けなくなります。代わって今度は進化向上のための仕事が課せられ、その責務の遂行が試練となりますが、それには苦痛は伴いません。たとえば他の霊たちの進歩を手助けする仕事などです」
――試練の選択を間違えるということは有り得ますか。
「自分の力量に余るものを選んでしまうことはあります。その場合は挫折に終わります。反対に何の益にもならない人生を選ぶこともあります。怠惰で無意味な人生を送る場合です。こうしたケースでは霊界に戻ってからそのことに気づいて、その埋め合わせをしたいという欲求を覚えます」
――地球より程度の低い天体ないしは地上の最低の人種、たとえば人食い人種などから文明国に生まれ出ることがありますか。
「あります。思い切って霊性の高い環境に挑戦してみようという考えから地球に誕生してくる霊はいます。ですが、どうも場違いという感じを抱きます。前世での本能や習性を携えてきているために、それが新しい社会の通念や慣習と衝突するのです」
――反対に文明国で前世を送った人間が罪滅ぼしとして未開人種の中に再生することがありますか。
「あります。ただし、その罪滅ぼしの中身が問題です。奴隷に対して残酷だった主人は今度は自分が奴隷の身の上に生まれて、同じ残酷な仕打ちをされるかも知れません。理不尽な権力をふるった支配者は今度は自分が権力者の前に跪(ひざまず)く立場に生まれ変わるかも知れません。そうした罪滅ぼしは権力を悪用したことから生じていますが、善霊が程度の低い民族に影響力のある存在として生まれ出ることもあります。その場合は使命となります」
〈生前と死後の人間関係〉
――霊性の発達の違いは上下関係をこしらえるのでしょうか。つまり霊界にも権威による主従関係というものがあるのでしょうか。
「大いにあります。霊格の差による上下関係は厳然としており、霊性の高い者が低い者に対して持つ優位性は絶対的な不可抗力と言えるほどです」
――地上時代の権力や地位は霊界でも通用しますか。
「しません。霊の世界では謙虚な者が高められ、尊大な者は卑められます。聖書を読みなさい」
――高められるとか卑められるとかいうのはどのように理解したらよいのでしょうか。
「霊には、身につけた霊性の差による秩序があるのはご存じのはずです。ですから地上で最高の地位についても、霊性が低ければ霊の世界では低い界層に位置し、その人の従者だった者が高い界層に位置することがあるのです。
まだ納得がいきませんか。イエスも言っているではありませんか――“およそ尊大な者は卑められ、謙虚な者は高められるであろう”と」(ルカ14・マルコ23)
――地上で偉大な人物とされていた者が霊界では低い界層にいた場合、その違いに屈辱感を覚えるでしょうか。
「そういうケースが実に多いのです。高慢で嫉妬心が強かった場合はなおさらです」
――一兵卒だった者が霊界で上官と出会った時、やはり敬意を表するでしょうか。
「肩書は何の意味もありません。本質的な霊的優位性が全てです」
――霊の世界も霊格の異なるさまざまな霊が入り交じっているのでしょうか。
「そうとも言えますし、そうでないとも言えます。つまり互いの目には姿が見えていても、霊格の違いによる隔たりを直感しています。人間社会と同じで、親密感と違和感とによって近づいたり離れたり避けたりしています。霊の世界はさまざまな状況と霊的関係が混然一体となった世界で、地上界はそのおぼろげな反映にすぎません。同じ霊格の者が親和力の作用で引かれ合い、グループをこしらえ、共通の目的で協力し合っております。
それにも善と悪とがあります。善の集団はあくまでも善を志向し、悪の集団はあくまでも悪を志向します。過去の悪行の不面目(ふめんぼく)を意地で打ち消してさらなる悪行を重ね、また自分と同類の集団の中に身を置くことによって気を紛らすのです」
――霊は誰とでも接触できるのでしょうか。
「善霊あるいは高級霊は悪霊あるいは低級霊へ近づくことができます。善性の影響力を行使するためにはそうする必要があるからです。しかし低級霊が高級霊の界層へ近づくことはできません。ですから邪悪な感情で聖域が汚されることはありません」
――善霊と悪霊の関係の本質は何なのでしょうか。
「善霊が悪霊の邪悪な性向を正すべく闘い、少しでも霊性を高めるように援助してやる――つまり善霊にとっては使命となるような関係になっています」
――低級霊はなぜ人間を悪の道に誘って喜ぶのでしょうか。
「嫉妬心が強いからです。しょせん善霊の仲間には入れないと知ると、未熟な霊が順調に幸せになっていくことに嫉妬心を覚え、それを阻止しようとするのです。自分が味わっている辛い状態を彼らにも味わわせてやろうと考えます。同じような人間が地上にもいるのではありませんか」
――霊どうしの交信はどのようにして行われるのでしょうか。
「見ただけで理解し合います。言語は物質界のものです。言語能力は霊の属性の一形態です。普遍的流動体(エーテル)によって霊どうしは常に交信状態にあると言ってよろしい。地上界の空気が音の伝達手段であるように、流動体が思念の伝達手段です。言うなれば宇宙的霊信装置で全天体を結んでおり、霊はどの天体とでも交信ができます」
訳注――“言語能力は霊の属性の一形態”という意味は、見たり聞いたりする能力と同じく意思表示の能力も霊の本性として直接的に働くものであるが、地上という環境条件の中で生活するためには発声器官を媒体としなくてはならない。が、意思表示しているのは霊そのものの本性だということである。現在の生理学でも、なぜ見えるのか、なぜ聞こえるのかは、脳の働きと同じく、その構造を見ただけでは分からないという。シルバーバーチも、目があるから見えるわけではない、耳があるから聞こえるのではない、見るのも聞くのも“霊”です、と言っている。
――心に思っていることを隠すことができますか。また自分の姿を隠すことができますか。
「できません。何一つ隠すことはできません。霊格が完成の域に達した霊の間ではとくにそうです。たとえ面前から退いても、互いに常に見えております。ただし、これを絶対的にそうとばかりも言えません。と言うのは、高級霊になると、自分が身を隠した方がいいと思った時は、低級霊には見えないようにすることができるからです」
――地上時代にいっしょに生活したことのある人であることが認識できますか。たとえば息子は父親を、友だちはその友だちを。
「できます。何代にもわたって認識できます」
――それはどうやって知るのでしょうか。
「霊は自分の過去世を見ることができるのです。自分の友や敵(かたき)の人生を誕生から死に至るまで見ることができます」
――死んで肉体から離れて直ちに親戚や友人の霊と会えるのでしょうか。
「直ちにというのは正確ではありません。前にも述べたと思いますが、魂が霊界に戻って霊的意識を取り戻し物質性を払い落とすには、しばらく時間を要します」
――どのような迎え方をされるのでしょうか。
「まっとうな人生を送った者は待ちに待った愛する友のように迎えられ、邪悪な人生を送った者は侮蔑の目をもって迎えられます」
――同類の邪悪な霊はどういう態度で迎えるのでしょうか。
「自分たちと似て幸福感というものを奪われた仲間が増えたことに満足を覚えます。地上でもヤクザな人間は仲間が増えると満足するのと同じです」
――地上時代の親族や友人とは必ずいっしょに暮らせるのでしょうか。
「それは霊格の要素が絡んだ問題で、時には向上の道を追いかけなければならないことがあります。つまり一方が遥かに向上していて、しかもそのスピードが速い時は、付いて行けません。もちろんホンの一時だけ会うことはできます。が、いっしょに暮らすことができるのは、遅れている方が追い付くか、または両者が完成の域に達してからです。もう一つの見方として、親族も友人も姿を見せてくれないのは、何らかの罪に対する罰であることがあります」
〈親和力と反発力〉
――霊には大ざっぱな意味での類似性のほかに、特殊な情愛の関係もあるのでしょうか。
「あります。人間と同じです。人間のような身体がないだけ、それだけ感情の起伏がありませんから、霊どうしのつながりは強くなります」
――霊どうしでも憎しみの念を抱くことがありますか。
「憎しみは不浄な霊の間にのみ存在するものです。人間どうしの憎み合いや不和のタネを蒔くのは霊界の不浄霊です」
――地上で仇(かたき)どうしだった者は霊界でもずっと憎み合っているのでしょうか。
「そうとは限りません。憎み合うことの愚かさを悟り、憎しみのタネとなったことの他愛なさに気がつく者が大勢います。いつまでも地上時代の怨恨を持ち続けているのはよほど幼稚な霊です。が、そうした者でも霊性が浄化されるにつれて少しずつその迷いから覚めて行きます。人間として物的生活を送っていた時に些細なことから生じた怒りは、その物的波動から抜けるとすぐに忘れていくものです。諍(いさか)いのタネが無くなってしまうと、本質的に霊性が合わない場合は別として、再び仲良くなるものです」
――地上時代にいっしょに悪事を働いた二人が霊界へ行った場合、その悪事の記憶が二人の関係を損いますか。
「損います。疎遠になりがちです」
――悪事の被害者はどんな気持ちでしょうか。
「霊性の高い人であれば、当人が反省すれば赦すでしょう。霊性が低い場合は怨みを持ち続け、時には再生してでも仕返しに出ることがあります。懲罰として神がそれを許す場合があります」
――情愛は死を境に変化するものでしょうか。
「しません。愛は決して相手を違(たが)えません。地上のように偽善者がかぶるマスクはこちらにはありません。ですから、純粋な愛はこちらへ来てもいささかも変化しません。互いをつなぎ合う愛は崇高なる至福の泉です」
――地上で愛し合った二人は霊界でもそのまま続くのでしょうか。
「霊的親和性の上に成り立っている愛であれば永続性があります。物的な要素の方が親和性よりも多い場合は、その物的要素が無くなると同時に終わりとなります。愛は人間どうしの場合よりも霊どうしの間の方が実感があり、かつ永続性があります。物的打算や自己愛による気まぐれの要素に影響されることがないからです」
――宇宙のどこかに自分の片割れがいて、いつかは一体となるように初めから宿命づけられているという説は本当でしょうか。
「二つの魂が宿命的に特別な合体をするというようなことは有り得ません。一体となるのであれば、全ての霊が一体化へ向かって進化しており、それぞれの霊格の段階で融合し合っています。言い変えれば、到達した霊性の完成度に応じた段階で融合が生じます。完成度が高いほど融和性も深まります。人間社会に悪がはびこるのは融和性が欠けているからです。全ての霊が究極において到達する完全な至福の境涯は融和が生み出すのです」
――完全な親和性をもつ二人が霊界で再会した場合、もうそれで二人は永遠に一体なのでしょうか、それとも、いつかは別れて、また別の霊と一体となるのでしょうか。
「霊はそれぞれの霊性の発達段階で誰かと一体となっていると言えます。私が完全な至福の境涯と言ったのは、完全の域に到達した霊のことです。それ以下の段階、つまり低い界層から高い界層へと向上して行く途中の段階においては、霊格の差によって離れてしまった者に対しては、かつてのような親和性は感じません」
――完ぺきな親和性で結ばれた二人は互いに補完し合うのでしょうか、それともその一体化は本質的な霊性の一致の結果なのでしょうか。
「霊と霊とを結びつける親和力は両者の性向と本能とが完全に一致した時に生じる結果です。もし一方が存在しなければ他方が完全になれないというのでは、両者とも個的存在を失うことになります」
――現段階では親和関係のない霊の間にもいずれは親和関係が生ずるのでしょうか。
「そうです。全ての霊がいつかは親和関係で一体となります。かりに二人の霊がいて、かつては一体だったのが、一方の進化が速すぎて、今のところは別れ別れになっているとします。しかし、これから先、進化の遅れている方が急速に進歩して他方に追いつくことも考えられますし、先を歩んでいた者が試練に負けてある界層で停滞を余儀なくさせられている場合には、後から進化してきた者がそれだけ速く追いつくことも考えられます」
――ということは、今は親和関係にあっても、その関係が切れてしまうことも有り得るわけですか。
「当然です。一方の生命力が弱くて、他方がどんどん向上して行くというケースがあります」
〈前世の回想〉
――終えたばかりの地上生活は死の直後にそっくりそのまま再現されるのでしょうか。
「そうではありません。霊的意識が強まるにつれて少しずつ見えるようになります。ちょうど霧が晴れて少しずつ実体が見えてくるような調子と思えばよろしい」
――その気になれば何でも思い出せますか。
「霊には、前世のありとあらゆる出来事の一部始終を、さらには心に抱いた思念までも、思い出す力がそなわっています。ただ、必要でもないものまで思い出すことはしません」
――過去世はどのような形で再現されるのでしょうか。その霊の想像力によるのでしょうか、それとも絵画のように眼前に映るのでしょうか。
「その両方のケースがあります。興味があって思い出したいと思ったことは、まるで現実の出来事のように再現されます。それ以外のことは多かれ少なかれおぼろげか、まったく忘れ去っております。物的波動が薄れるほど物質界での出来事に重要性を置かなくなるからです。あなたにも体験があると思いますが、地上を去ったばかりの霊を招霊してみると、好きだったはずの人の名前や、あなたから見て大切な出来事と思えるものが思い出せないことがあるはずです。それは彼自身は重要視していないために記憶が薄れているからです。反対に、現在の彼の知的ならびに道徳的向上に影響を及ぼした、人生の重要なポイントとなっている出来事は、完全に思い出します」
――今捨て去ったばかりの肉体をどんな気持ちで眺めますか。
「何かにつけて厄介だった不愉快な衣服を見つめるような気持ちです。脱ぎ去ってさっぱりしています」
――腐敗していくのを見てどんな気持ちですか。
「ほとんどの場合、無関心です。どうでもいいものという感じです」
――死後少したってから、埋葬されている遺骸とか、かつての自分の持ち物とかを確認することがありますか。
「時たまそういうことをすることがあります。が、その時はすでに地上的な物を見る目が大なり小なり高度になっています」
――後に残った者たちによって自分の遺品が飾られて遺徳を偲ばれるのは嬉しいものでしょうか。
「いかなる霊でも地上の縁ある人々によって記念の行事が催されるのは嬉しいものです。そうした時に用意される記念物は、それに参加した人々を思い出す縁(よすが)となります。もちろんその記念物そのものではなく、それを発起した人々の思念がそうさせるのです」
――ある人が一連の重要な仕事に関わっていて、その完成を見ずして他界したとします。その場合、霊界で悔やむでしょうか。
「そんなことはありません。そういう重要な仕事は他の有志によって完成されるように計画されていることを知るからです。悔やまないどころか、その完成のために霊界から現界の後継者に働きかけます。そういう人の地上人生は同胞のためという目的に向けられていたのであり、霊界へ来ても少しも変わりません」
――芸術作品や文学作品の遺作は地上時代と同じ感覚で見るものでしょうか。
「霊格によって違いの大きさは異なりますが、地上時代とは別の視点で鑑賞し、往々にしてそのお粗末さに嫌気がさすものです」
――芸術や科学の進歩のために今地上で為されている努力に霊は関心を持つでしょうか。
「霊格の程度によりますし、授かった使命によっても違ってきます。地上の人間には壮大なものに思えるものでも、霊から見るとどうでもよいものがあります。かりに関心を持つとしても、それは高等教育を受けた人が小学校の教育に関心を持つのと同じ程度にすぎないことがあります。地上に再生した者の霊格の程度を細かく調べ、その進歩に注目しています」
――霊は死後も母国への愛着がありますか。
「霊格の高い霊にとっては宇宙全体が母国です。地球にかぎって言えば、いちばん愛着を感じる場所は親和関係の強い人間がいちばん多い所です」
――この地上へ生まれる以前は霊界に住んでいたのに、なぜ死後も生きていることを知って驚くのでしょうか。
「驚くのは一時期だけのことで、それも死後の目覚めに伴う意識の混乱の結果です。意識が落ち着くとともに過去世の記憶が甦ります」
〈葬儀にまつわる問題〉
――地上に残した愛する人々に関する記憶が甦ることで霊は影響を受けますか。
「あなた方が想像する以上に影響を受けます。現在自分が置かれている状態が幸せであれば、その幸福感が増幅されます。もし不幸であれば、その思い出によって慰められます」
――国によっては命日というものを設けて法要が営まれるのですが、その日は特にその場に引き寄せられるものでしょうか。
「法要の日に限らず、情愛を込めて祈念された時は、いつでも引き寄せられます」
――法要の日は埋葬されている場所に赴くのでしょうか。
「大勢の人が集まってくれている時はその想念に引きつけられてそこへ赴きますが、義理で出席しているだけの人には無関心です。心から祈念してくれている人の一人一人のもとを訪れます」
――自宅で祈るよりも墓に詣でる方が喜ぶでしょうか。
「墓まで足を運ぶということは、その霊のことを忘れていないことを示す一つの方法でしょう。しかし、すでに述べたように大切なのは心です。心からの祈りであれば、どこで祈るかは大切ではありません」
――故人を記念した像や石碑が建立されることがありますが、当の霊はその除幕式に出席するものでしょうか。その様子を喜んで見つめるものでしょうか。
「出席できる状態であれば出席します。ですが、そのようにして記念してくれることを名誉と思うよりも、出席者の思いそのものを有り難く思うものです」
――自分の葬儀に出席しますか。
「出席するケースはよくありますが、多くの場合、死に伴う意識の混乱状態の中にあるために、出席していても何のことか分からないものです」
――葬儀で長蛇の列をなしているのを見て、やはり得意な気分になるものでしょうか。
「どういう心情で集まっているかにもよるでしょうけど、大勢の参列者を見て悪い気はしないでしょう」
――遺産相続人の会合には立ち合うものでしょうか。
「必ずといってよいほど立ち合います。当人の教育として、また強欲が受ける懲罰がいかなるものであるかを見せるために、神がそのように計らいます。つまり、彼が生前受けた愛想の良さやお追従(ついしょう)が本当は何が目的であったかを思い知らされ、さらに遺産をめぐる強欲の張り合いを目(ま)のあたりにして、愕然とします。その相続人たちへの懲罰も、そのうち巡ってきます」
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