霊の書
アラン カデラック著
4章 再生
このページの目次〈再生の必要性〉
〈地球外天体への生まれ変わり〉
〈創造的輪廻転生〉
〈幼児の死後の運命〉
〈霊の性別〉
〈家族関係〉
〈容貌と性格の類似〉
〈生得観念〉
〈再生の必要性〉
――物質界での生活で完全性を達成できなかった魂は、その後、浄化のための試練をどのような方法で行うのでしょうか。
「新たな生活での試練を体験することによって行います」
――その新たな生活をどう生かすのでしょうか。霊として何らかの変身を遂げるのでしょうか。
「浄化するにはもちろん変身が伴います。しかしそれには物的生活での試練が必要です」
――となると魂は多くの物的生活を体験するということでしょうか。
「その通りです。あなた方も私も皆、それぞれに何回かの物的生活の経験があります」
――その説から推理しますと、魂は一つの身体を離れたあと別の身体をまとう――つまり新しい身体で再生するということになりますが、そう理解してよろしいでしょうか。
「まさにその通りです」
――再生の目的は何でしょうか。
「罪障消滅、人類の進歩・向上です。これなくしてどこに神の公正がありましょう」
――再生の回数には限りがあるのでしょうか、それとも永遠に再生を繰り返すのでしょうか。
「一回の再生ごとに霊は一歩向上します。それを重ねて不純なものを浄化しきれば、もう物的生活による試練は必要でなくなります」
――再生の回数はどの霊も同じなのでしょうか。
「一人一人違います。進歩の速い者は試練は少なくて済みます。とは言え、再生の回数は多いのが常です。進化の道は無限といっても良いほどですから」
――最後の物的生活を終えたあと、霊はどうなるのでしょうか。
「浄化され尽くした霊として、至福の境涯へと入ります」
――再生説の哲学的根拠は何でしょうか。
「神の公正、そして新たな真理の啓示です。前にも述べたことですが、我が子がいかなる過ちを犯そうと、愛情ある父親は、いつでも帰ってくるのを扉を開けて待つものです。そういう我が子に過ちの償いをする機会を与えずに、永遠に悦びを奪い続けることが公正でないことくらい、少し理性を働かせれば分かることではないでしょうか。人間は全て神の子ではなかったでしょうか。不公正、容赦ない憎悪、無慈悲な刑罰が横行しているのは、利己主義のはびこる人間界だけです」
〈地球外天体への生まれ変わり〉
――物的生活の体験は全てこの地球上で行うのでしょうか。
「全てというわけではありません。他の天体で行うことも少なくありません。今のあなたの地上生活は最初でもなく最後でもなく、最も物質的で、完全性から最も遠くかけ離れた世界での体験の一つです」
――魂は物的生活を、毎回、新しい天体で行うのでしょうか、それとも同じ天体で何回か体験するのでしょうか。
「十分な進歩が得られない場合は何度でも同じ天体で生活することになります」
――では、私たちは何度かこの地上へ生まれてくるかも知れないわけですか。
「もちろんです」
――その前に他の天体で生活して、それから再びこの地球へやってくることもできるのでしょうか。
「もちろんできます。あなたはすでに地球以外の天体で生活していらっしゃいます」
――再びこの地上へ戻ってくる必要があるでしょうか。
「ありません。ですが、もしも進歩がなければ、この地球と同等か、もっと低い天体へ行くことになるかも知れません」
――地上生活は(私にとって)もう一度戻ってくるほどのメリットがあるでしょうか。
「とくにメリットというほどのものはありません。もっとも、使命が十分に果たせていない場合に、その仕上げに戻ってくることはあるかも知れません。その場合は霊的な向上も得られます。それは地球だけに限りません。他のどの天体でも同じことです」
――いっそのこと再生せずに霊のままでいた方が良いのではないでしょうか。
「とんでもない! そんなことでは進歩が止まってしまいます。霊はひたすら進化向上を求めるのです」
――他の天体をいくつか体験したあと初めてこの地球へやってくることもあるのでしょうか。
「あります。今地上で生活している人でも次は別の天体へ行くかも知れません。宇宙の全ての天体は連帯関係によって結ばれています。一つの天体で成就できなかったことを他の天体で成就することができるようになっています」
――では今地上にいる人間の中には今回初めて地球へやってきた人もいるわけですね?
「大勢います。しかも、霊性の進化の程度もまちまちです」
――この人は今回が初めてだと分かる特徴がありますか。
「そんなことを知っても何の役にも立ちません」
――人類の究極の目的である完全性と至福の境涯に到達するためには宇宙に存在する天体の全ての生活を体験しなくてはならないのでしょうか。
「そんなことはありません。その天体の中には発達程度の同じものが沢山あって、そこでは新しい体験が得られないからです」
――ではなぜ同じ天体に何度も再生しなくてはならないのでしょうか。
「訪れる度に新たな環境に置かれ、新しい経験を見出すことになります」
――前回よりも発達程度の低い天体へ再生することもありますか。
「あります。進化を促進する意味も含めて一つの使命を持たされる場合があります。そういう場合は使命に伴う酷しい苦難を喜んで受け止めるものです。霊性の進化を促進してくれることを理解しているからです」
――それが罪滅ぼしの場合もあるのではないのでしょうか。また、言うことを聞かない霊が程度の低い天体へ送られることもあるのではないのでしょうか。
「霊は進化が止まることはあっても決して退化することはありません。言うことを聞かない霊は進化を止められるという形で罰を受けることがあり、また無駄に終わらせた物的生活を、その本性に合った条件のもとで、もう一度やり直しをさせられることがあります」
――もう一度やり直しをさせられるのはどういう霊の場合ですか。
「与えられた使命を怠った者、あるいは用意された試練に耐え切れずに安易な道を選んだ者などです」
訳注――ここでカルデックは何のコメントもしていないが、世間を見ても自分の心の中をのぞいてみても、こういうことは思い当たることが多いのではなかろうか。単純な例では自殺や一家心中が挙げられるが、宗教家や霊能者の中には功名心や金銭欲から良心がマヒし、取り巻き連中に担がれてとんでもない方向へ歩んでいる者が多いことは、ご存じであろう。要するに霊的真理、峻厳な摂理の理解が本物でないことに帰するようである。
――この地球から別の天体へ再生する場合、地上時代と同じ知性を携えて行くのでしょうか。
「当然です。知性は決して失われません。ただ問題は、別の天体へ再生した時のその知性の表現手段が同じでないかも知れないことです。それはその霊の進歩の程度と身にまとう身体の性質によって違ってきます」
――地球外の天体に住む者も我々と同じ身体を持っているのでしょうか。
「身体はあります。物質に働きかけるためには物質で身をくるまないといけないからです。しかし、その外衣は霊が成就した純粋さに応じて物質性の度合いが異なります。その度合いが再生していく天体の程度を決定づける要素となるのです。“我が父の家には住処(すみか)多し”とイエスが述べておりますが、それだけ霊格の差があるということでもあります。そのことを地上生活中から直観している人がいますが、まったく感じていない人もいます」
――地球外の天体の地質的および精神状態(霊性の程度)について細かい知識を得ることは許されるでしょうか。
「我々霊団としては人類の到達したレベルに応じた対応をするしかありません。言い変えれば、そうした知識をむやみに啓示することは許されていないということです。それが理解できるレベルに達していない者がいて、そういう者にとってはただ混乱させるだけだからです」
――一つの天体から別の天体へ再生するに際しては、霊はやはり幼児期を通過しなくてはならないのでしょうか。
「いかなる天体にあっても、幼児期は必然の通過過程です。ただし、同じ幼児期でも分別の程度にそれぞれの差があります。地球での幼児期ほど分別心の芽生えの遅い天体はそう多くはありません」
――再生する新しい天体は自分で選べるのでしょうか。
「必ずしも選べるとは限りません。要望を出すことはできますし、それが叶えられることもありますが、それはその霊にとって相応しい場合に限られます。その霊の霊性の発達の程度によっては相応しくない天体がいろいろとあるからです」
――本人から要望を出さない場合は、どの天体にするかを決める基準は何なのでしょうか。
「霊性の発達程度です」
――各天体上の生活者はいつの時代にも、身体的にも霊的にも一定のレベルの者ばかりなのでしょうか。
「そうではありません。そこに居住する者と同じく天体そのものも進化の法則に従っております。どの天体も最初は地球と同じ粗悪な状態から始まりました。地球もこれから先輩の天体と同じ変質を遂げることになっています。そしていつの日か居住者の全てが善性の強い霊性を身につけるようになれば、いわゆる地上天国が出現します」
――物的身体が浄化しきってペリスピリットだけになっている天体があるのでしょうか。
「あります。しかもそのペリスピリットもさらに精妙となって、人間の目には映じない、つまり存在しないかに思えるほどになります。完全に浄化しきった霊の状態です」
――今のお説から判断しますと、その程度の霊になると物的天体に降誕している霊と霊界の純粋霊との間に明確な境界線はないように思えますが……
「そういう境界線は存在しません。その差異は徐々に無くなっていき、ちょうど夜が次第に明けて昼になるように、一つにつながってしまいます」
――ペリスピリットの成分は全ての天体において同じでしょうか。
「同じではありません。精妙化の度合いが異なります。一つの天体から別の天体へと移動する時、霊は電光の速さで外衣(ペリスピリット)を更え、その天体に相応しい成分で身をくるみます」
――純粋霊は特別の天体に集まっているのでしょうか、それとも、どの天体ということなく、普遍的宇宙空間に存在するのでしょうか。
「純粋霊にも所属する天体はありますが、人間が地球にしばりつけられているような意味でその天体に所属しているのではありません。神速自在の動きを身につけていますから、事実上は遍在と同じです」
〈創造的輪廻転生〉
――霊は個的存在として創造された当初から霊的属性を存分に発揮できるのでしょうか。
「そういうものではありません。霊も人間と同じく幼児期というものがあります。その期間は本能による存在だけで、ほとんど自我意識も意識的行為もありません。知性の発達は実にわずかずつです」
――初めて物質界へ誕生した時の魂はどんな状態でしょうか。
「人間の人生でいう幼児期と同じです。知性はやっと目覚めはじめたばかりで、言うなれば“生活しようとし始めた”ばかりです」
――地上の未開人の魂はその幼児期の状態にあるのでしょうか。
「相対的な意味で幼児期にあると言えるでしょう。が、彼らはすでにある程度の発達を遂げております。その証拠に、彼らには感情があります」
――すると感情は発達のしるしなのでしょうか。
「発達のしるしです。ただし完成のしるしではありません。活動をしていることのしるしであり、“自分”というものを意識しているしるしです。ただ、他面においては原始的な魂です。知性と霊力は萌芽の状態で存在しているのみです」
――現在の地上生活を完ぺきに送ることによって途中の階梯を飛び越えて純粋霊の境涯に到達することは可能でしょうか。
「それはとても不可能なことです。あなた方が“完ぺき”という用語から想像しておられる概念は、真実の完ぺき性からは程遠いものだからです。人間には全く知られていない要素があるのです」
――少なくとも来世(次の地上生活)を現世よりは苦難の少ないものにすることは可能でしょうか。
「それは可能です。苦難の道を短くそして軽くすることはできます。いつまでも苦難から逃れられないのは向上の意志のない者に限られます」
――現世で到達した位置から低い位置に下がるということはありますか。
「社会的地位ならあるでしょう。霊としての進化の程度のことであれば、そういうことはありません」
――善性の高かった魂が悪党になって再生するということはありますか。
「ありません。善性は決して退化しません」
――逆に悪人が善人に生まれ変わることはありますか。
「それはあります。ただし、死後によほど改心した場合のことです。その悔恨の報いとして新しい再生生活が与えられます」
――いけないことと知りつつ悪の道を歩んでいる者が再生の事実を知って、どうせいつかは真っ当な人間になってみせるさと自己弁解することも有り得るのではないでしょうか。
「そんな狡(ずる)い計算のできるほどの人間になると、もはや何事も信じるということができなくなっています。かりに永遠の刑罰の話を聞かされても悪事は止めないでしょう。
確かに地上にはその種の人間がいます。が、そういう人間もイザ死んでみると考えが変わるものです。自分の計算の狡さに気づき、その反省が次の再生生活に反映して真っ当な人生を送ろうと心掛けるものです。こうして進歩が得られるのです。またこうして地上には進歩的な人とそうでない人とが出てくるのです。その原因は前世での体験にあります。が、誰しもいつかは体験します。進歩を促進するのも阻害するのも、みな“自分”です」
――物的生活の苦難を体験することによってのみ進化向上が得られるとなると、物的生活というのは一種の篩(ふるい)ないしは濾過器のようなもので、霊界の存在が完全の域に到達するためには必ず通過しなければならないものということになりますが……
「その通りです。物的生活の試練の中にありながら悪を忌(い)み善を志向することによって向上して行きます。しかし、それも一度や二度ではなく、幾回もの再生を繰り返すことによって可能なことであり、それに要する時の長さは、完全のゴールへ向けての努力の量によって長くもなれば短くもなります」
〈幼児の死後の運命〉
――幼くして他界した子供の霊でも大人の霊と同じくらい進化していることがあるのでしょうか。
「時には大人よりずっと進化していることがあります。前世が多く、それだけ経験も豊富な場合で、その間の進歩が著しい場合は特にそうです」
――すると父親よりも霊性の高い子供もいるわけですね?
「しばしばそういうケースがあります。世間を見ていてそういうケースをよく見かけませんか」
――幼くして他界して悪事を働くこともなかった霊は霊界の高い界層に所属するのでしょうか。
「悪事を働かなかったということは善行もしていないということです。神が、経験すべき試練を免除することは決してありません。霊が高い界層に所属するのは純真無垢な子供のまま霊界へ来たからではありません。幾つもの前世の体験でそれ相当の進化を遂げたからです」
――なぜ幼児の段階で人生に終止符を打たれることが多いのでしょうか。
「子供の観点からすれば、前世で中途で終わった人生をその短い期間で補完をするためである場合があります。親の観点からすれば我が子を失うことによる試練または罪滅ぼしである場合がよくあります」
――幼児期に他界した霊はどうなるのでしょうか。
「新しい生活を始めます」
〈霊の性別〉
――霊にも性別があるのでしょうか。
「人間の概念でいう性別はありません。人間の場合は肉体器官の違いを言います。霊の場合は愛と親和性で引かれ合いますが、その基盤として高尚な情緒が存在します」
――今生(こんじょう)では男性の身体に宿っていた霊が来世は女性として再生するということはありますか。
「あります。同じ霊が男性にもなり女性にもなります」
――これから再生していく霊としては男性と女性のどちらに生まれたいと思うのでしょうか。
「そういう選り好みは霊は無関心です。どちらになるかは、これから始まる新しい物的生活での試練に視点を置いて決められることです」
〈家族関係〉
――親は子に魂の一部を分け与えるのでしょうか、それとも動物的生命を与えるのみで、それに別の霊が宿るのでしょうか。
「両親から貰うのは動物的生命だけです。魂は分割できません。愚かな父親に賢い子が生まれ、その逆もあるのではありませんか」
――お互いに幾つかの前世があるとなると、家族関係は今生を超えたものも存在するわけですね?
「当然そうなります。物的生活が繰り返されていくうちに霊と霊との関係が複雑になり、初めて会った間柄のはずなのに、それが仲の良い関係や仲の悪い関係を生むことにもなります」
――再生説は霊どうしの関係を今生以前にまでさかのぼらせるから、折角の家族の絆をぶち壊すことになると受け取る人がいますが……。
「家族の絆をさかのぼらせることはあっても、ぶち壊すことにはなりません。むしろ今生の家族の家族関係は前世での縁の上に成り立っているのだという自覚が危機を救うことにすらなるのではないでしょうか。互いに愛し合うべきとの義務感を強くさせるはずです。なぜかと言えば、前世で愛し合った間柄、あるいは親子の間柄だった者が、今生では隣の家族の一人になっているかも知れない、あるいは自分の家のお手伝いさんとして働いているかも知れないからです」
――そうはおっしゃっても、やはり多くの人間が抱いている自分の先祖への誇りを減じることは否めないのではないでしょうか。純粋と思っていた血統の中に、かつては全く別の人種に属していた者や、あまり誇れない社会的地位にあった者がいたことになるからです。
「おっしゃることはよく分かります。ですが、今“誇り”とおっしゃったものは大体において“高慢”に根ざしているものです。その証拠に、誇りに思っているのは爵位であったり、身分階級であったり、財産であったりします。父親が謹厳篤実な靴職人であることを口にするのを憚る人が、得てして、放蕩者の貴族の末裔(まつえい)であることを自慢にするものです。しかし人間が何と言おうと、また何をしようと、全ては神の摂理にのっとって進行しているのです。人間の見栄から出た欲求に従って神が摂理を変えるわけにはいかないのです」
――同じ家系の子孫に次々と生まれてくる霊どうしの間に必ずしも家族関係はないとなると、立派な先祖がいたことを誇りに思うのは愚かということになるのでしょうか。
「とんでもない。高級霊が降誕したことのある家系に属することになったことを誇りに思うべきです。もちろん霊は順序よく再生してくるわけではありませんが、家族の絆で結ばれた霊どうしの愛は、離れていても同じです。そしてそうした愛の親和力によって、あるいは幾つかの前世で培われた人間関係による親和力によって、どこそこの家族に、と申し合わせて再生してくることもあります。
念のために申し添えますが、先祖の霊たちは、自分たちのことを自慢のタネにして誇ってくれても少しも嬉しくは思いません。かつて彼らがいかに立派な功績を残したとしても、その功績自体は子孫にとっては徳行への励みとなる以上の意義はないのです。と言うよりは、それを見習うことによってこそ先祖の霊を喜ばせ、徳行に意義を持たせることになるのです」
〈容貌と性格の類似〉
――子供が親にそっくりということがよくありますが、性格上でも似るということがあるのでしょうか。
「そういうことはありません。それぞれに魂ないし霊が異なるからです。身体は親の身体から受けますが、霊は他のいかなる霊からも受けません。一つの人種の子孫のつながりは血縁関係しかありません」
――性格的にもそっくりという親子を時おり見かけますが、その原因は何でしょうか。
「霊的親和力の影響で似たような情緒や性向をもった者が同じ家族として一緒になることがあります」
――では、誕生後の親の霊的影響はないということでしょうか。
「大いにあります。すでに申し上げた通り霊は互いの進化向上のために影響し合うようになっています。その目的で親の霊に子の霊の成長を委託することがあります。この場合はそれが親としての使命であり、それが達成されないと罪悪となることさえあります」
――善良で徳の高い親に歪んだ性格の子供ができることがありますが、さきほどおっしゃったように親和力で善良な霊が引き寄せられそうなものですが、なぜそうならないのでしょうか。
「邪悪な霊が、徳の高い親のもとで更生したいという希望が受け入れられて誕生してくることがあります。その親の愛と心遣いによって良い影響を受けさせるために、神が徳の高い親にあずけることがよくあります」
――親は、心掛けと祈願によって、善良な子を授かることができるでしょうか。
「それはできません。しかし、授かった子の霊性を高めることはできます。それが親としての義務なのです。が、同時に親自身の試練のために霊性の低い子を授かることもあります」
――子供どうし、とくに双子の性格がそっくりの場合があるのは何が原因でしょうか。
「性格の類似性から生まれる親和力によって同じ家に生まれ合わせたのです。そういう場合はいっしょに再生できてうれしいはずです」
――身体の一部がつながっている双子、しかも器官のどれかを共有し合っている双子の場合でも二人の霊なのでしょうか。
「そうです。あまりによく似ているので一人の霊しか宿っていないように思えるでしょうけど……」
――親和力で引かれ合って生まれてくるのであれば、双子の中には憎み合いをするほどのものがあるのはなぜでしょうか。
「双子として生まれてくるのは親和力の強い者だけという法則があるわけではありません。邪悪な霊どうしが物質界を舞台として争いをしたいという欲求から生まれてくる者もいます」
――母胎の子宮の中にいる時からケンカをしているという話は本当でしょうか。
「憎しみの深さ、しつこさを象徴的に表現しているまでです。あなた方は象徴的ないし詩的な表現の理解が少し足りませんね」
――一つの民族に見られる明確な特徴はどこから出るのでしょうか。
「霊には、性向の類似性によって形成された霊的家族(類魂)があります。それにも霊性の浄化の程度によって上下の差がありますが、民族というのはそうした親和力で結ばれた家族の集合体であると思えばよろしい。それらの家族が一体となろうとする傾向が、各民族の明確な特徴を生み出すのです。善良で慈悲に富んだ霊が粗野で野蛮な民族に再生したいと思うでしょうか。思わないはずです。個人どうしで働く親和力は民族という集合体でも働きます。霊も、地上の人類の中でも最も霊的に調和する地域へ赴くものです」
――再生してくる霊は前世での性格の面影を残しているものでしょうか。
「残していることがあるかも知れませんが、成長するにつれて変化します。幾つも再生すれば社会的地位もいろいろと体験していることでしょう。たとえば大邸宅の主人だったこともあれば召し使いだったこともあるでしょう。するとその好みも大いに異なっていて、かりに両者を一度に見たら同一人物とは思えないほどでしょう。もちろん霊そのものは同一人物ですから、何度再生してもどこかに類似点は残っているかも知れません。しかしそれも、再生した国や家柄その他の諸条件の影響を受けてどんどん変わっていきます。そして遂には性格的にすっかり別人になっていきます。たとえば高慢で残忍だった者が悔恨と努力によって謙虚で人間味のある性格の持ち主になっていきます」
――前世での身体上の特徴の痕跡はどうでしょうか。
「身体は滅びます。従って新しい身体は前世での身体とは何の関係もないはずです。ところが霊性がその身体に反映します。そして身体は物質にすぎないとはいえ、霊性の特徴が身体に反映し、それが顔、とくに目に出ます。目は心の窓とは至言です。つまり目を中心とした人相が、身体の他のどの部分よりも霊性を強烈に反映します。形の上のハンサムとか美形とかの意味ではありません。かりに形は悪くても、それに善良で賢明で人間味のある霊が宿れば、見る人に好感を与えます。逆にいくら美形でも宿っている霊しだいでは不快感、時には反発心すら起こさせる人もいます。
一見すると五体満足の身体には円満な霊が宿っているかに思われがちですが、障害のある身体をした人で高潔で徳の高い人なら毎日のように見かけるはずです。そんなわけですから、かりに形の上では前世と今生とでは少しも似たところはなくても、同じ霊が何回も再生するうちに俗に言う“親族間の似寄り”を身体に与えるものです」
〈生得観念〉
――再生した霊は前世で知覚したことや入手した知識の記憶を留めているものでしょうか。
「うっすらとした記憶の形で残っています。それが俗にいう“生得観念”です」
――すると生得観念と呼ばれているものは実際にあるもので、幻想ではないのですね?
「幻想ではありません。物的生活で獲得した知識は決して失われません。物的生活を終えて物質から解放されると、それまでの何回かの生活の記憶が蘇ります。物的身体に宿っている間は具体的には回想されませんが、潜在的な直観力がそのエキスを感識して、霊的進歩を促進します。もしその直観力が無ければ、物質界へ誕生するたびに一から教育をやり直さなくてはなりません。その直観力のお蔭で霊は、次の物的生活を、前世が終わった時点で到達していた発達段階から開始するのです」
――そうなると、前世と現世との間には密接な関係があることになりますね?
「あなたが想像しているような意味での密接な関係はありません。というのは、二つの物的生活の間には生活環境の条件に大きな違いがあり、さらに忘れてならないのは、再生するまでの霊界での期間で大きく進歩することがあるからでもあります」
――予備的な学習もしないのに、たとえば言語とか数学、音楽などで驚異的な才能を見せる人がいますが、何が原因でしょうか。
「今言った過去世の記憶です。かつてそういう才能を磨いていたもので、現在は意識的な記憶がないだけです。もしそうでなかったら一体どこからそういう才覚が出ますか。身体は代わっても霊は同一人物ということです。衣服を着更えただけです」
――その衣替えの時に知的才能、たとえば芸術的センスなどを失うことがありますか。
「あります。その才能に泥を塗るようなことをする――つまり邪(よこしま)なことに使ってしまったりした場合です。これは罰ですが、それとは別に、才能を失うのではなく、今生では別の才能を伸ばすためにそれをしばらく潜在的に眠らせておく場合があります。この場合はまたいつか使用することができます」
――人類に共通して見られるもので原始的生活を送っている者にも見られる、神への信仰心と死後の存続の直観も、やはり遡及的回想の反応でしょうか。
「そうです。再生する前の霊としての知識の回想です。ですが、人間は往々にして自惚れによってその直観をもみ消しております」
――スピリチュアリズムで説かれている霊的真理と同じものが、いずこの民族にも見られますが、これも前世の回想でしょうか。
「こうした霊的真理は地球の歴史と同じくらい古くからあったもので、それが世界中のいたるところで発見されるのは当然のことです。いわゆる遍在で、真理であることの証拠です。再生してきた霊は、霊としての存在の時の直観力を保持していて、見えざる世界の存在を直観的に意識しているのです。ただその直観力が往々にして偏見によって歪められ、無知から生じた迷信とごっちゃになって質を落として行くのです」
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