いま地上人類は五感を通して感識する条件下に住んでおります。
その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。
まだテレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。
まだまだ開発しなければならないものがあります。
地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。
この条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。
なぜなら、地上では思念が物的形態をとるまでは存在に気づかれないからです。
思念は思念の世界においては実在そのものです。
が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が認識されないのです。
肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。
私の世界では霊の表現、または精神の表現が実在の基準になります。
思念はその基本的表現の一つなのです。
勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。
勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。
強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。
労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。
これも正しい視野で捉えないといけません。
あなたはその二つの眼で見ているのではありませんよ。
またその二つの耳で聞いているのではないのですよ。
見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているのです。
もしも脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動も全く無意味なのです。
脳がレシーバーとしての働きをしてくれたあとは、その情報を理解するのは精神なのです。
脳がレシーバーとしての働きをしてくれたあとは、その情報を理解するのは精神なのです。
肉眼そのものには〝見る〟能力はないのです。
ただ光線を感知するための媒体に過ぎないのです。
カメラのレンズと同じです。
自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。
自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。
〝見えた〟という認識は、精神がその印象を脳から受け取った時に生じるのです。
脳を痛めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります。
シルバーバーチ
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