Wednesday, February 21, 2024

シアトルの冬 神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるということは、これまでも度々述べてきた。

We have often said that God drops revelations according to human receptivity.


〔本質においてプライベートなことを公表するのは決して私の本意とするところではないが、それを敢えてこうした形で公表するのは、一人の人間の思想的経験が他の大勢の人々の経験となり得るであろうし、私が辿って来た精神的ないし霊的葛藤の過程が、同じような過程を辿っている人々にとって参考になるかも知れないと考えたからである。

 さて、その後数日間、そうした霊による宗教上の教訓の問題に関する通信が途絶えていたが、私の胸には以前にも増してさまざまな疑念が湧き起こり、それを遠慮なく書かせて貰った。

当時の私の心境を思い起こすと、イムペレーターの通信を読んで途方に暮れ、茫然自失の状態にあったようである。そんな目新しいものを受け入れる余裕はとてもなかった。そして私にとって最も気がかりだったのは〝霊の身元〟であった。

その時の私の考えでは、霊の教説を云々するよりも、霊の地上時代の身元を明かしてくれる方が先決のように思えたのである。またそれ位のことは出来るはずだと信じていたので、それが叶えて貰えないことに焦燥を覚えたのである。

今でこそ理解できるが、先ず獲得すべきなのは〝確信〟であって、私が期待したような形だけの身元の証明ではその確信は得られないことが、当時の私には理解できなかったのである。

 私を悩ませたのは、いわゆる霊界通信の多くが決して有害とまでは言わないにしても、愚かしく且ついい加減なものであると言う印象を拭いきれないことであった。私はそれをキリスト教の思想家の教説と比較してみたが、やはり後者の方が上であった。

また私には霊の見解の中に大きな矛盾があり、あらゆる思想が混ざり合っているようにも思えた。個人的にもその殆どに共鳴できないし、それを受け入れる人にプラスになるとも思えなかった。これを信じるものは狂信家か熱狂者の類であると想像し、不快感さえ感じていた。

内容的にも、また交霊会における現象にも大して魅力を覚えず、私は先に述べた疑問点を書き連ねた。それは主として地上時代の身元の証明に関するものと、神と人間との関係(つながり)、及びスピリチュアリズムの一般的性格とその成り立ちに関するものであった。次がそれに対する回答である──〕


 友よ、再び汝と対話を交えることを嬉しく思う。そして、たとえこの機会に汝の質問の全てに答えることが出来ず、またすべてを解決し得ずとも、神と人間との関係並びにわれらの背負える使命について汝が抱いている誤解の幾つかを解くことが出来るであろう。

 汝の誤解の根源は神及び神と人間との関係についての誤れる概念に在るやに観ぜられる。人類の歴史を通じ、唯一にして同一の神の啓示が一貫して流れていることに間違いはない。が、人間がその啓示を理解せんとするうちに、愚かにもその本性と働きについて真実より大きくかけ離れた奇々怪々な概念を想像するに至った。

 太古においては、そのお粗末なる概念は物体の形を取り、祈りが叶えられれば畏敬され、叶えられぬ時は即座に棄て去られることの繰り返しであった。彼らは、目の前の物体そのものはなんの霊力も持たず、背後に霊が控えて筋の通れる祈りはこれを叶えさせんとしている事実を知らなかった。

彼らにはそれ以上の神の概念は思いつかなかったのである。目に見え手に触れるものにしか神の概念を託し得なかった。この点を篤と注意するがよい。

彼らの神の概念を託したのである。神そのものではなく、彼らが精一杯想像し得た未熟な概念だったのである。いい加減な占いの結果より情報を引き出し、これを基準に勝手に祭礼の規範を拵え、挙句にはそれを以って神を裁くに至った。

自分らの想像せる神を裁いたのである。彼らは同族の者たちの間で畏敬の的とされる人間的属性を神の属性と考えた。人間から切り離せぬ幾つかの弱点を神も有するものと考えたのである。

 かくして出来あがれる神は全てに先んじて己れの名誉の維持に腐心する神であり、時に我慢強く、時には優しい慈悲心をもつ神であった。所詮は神を語る者がその時に神はかく在るべきと想像せるものであった。

要するにそれは栄光を授けられたる人間──普遍絶対性と全知全能を具えた人間であった。彼らはそういう神を想像し、そういう神ならば斯くするであろうと考えたのであった。かくの如くして、いつの時代においても神の概念にはその時代の特色が反映している。それは人間の成長とともに進歩する。

その知的発達と洗練の度合いに応じて進歩したものとなっていく。ほかでもない。その通路となる霊媒が無知の足枷より解放され、光と知識へ向けて進歩しただけ、それだけ神についての正しき概念を把握することが可能となるが故である。

 神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるということは、これまでも度々述べてきた。当然そうあらねばならぬ。神も人間の霊媒を通じて啓示する以上、その霊媒の受容能力に応じたものしか啓示されぬのが道理である。

神につきての知識が人間の受容度を越えることは有り得ぬ。仮に今われらがより完璧に近き神学を述べたとしよう。それは汝には奇異に響き、理解することは不可能であろう。

故にこれ以後もわれらは徐々に汝の受容度に応じて真理を注入していくであろう。そしていずれは現代の汝の観念の誤りに気づく日も来よう。が、今はまだその時機ではない。神について各自が抱ける概念がすなわちその者にとっての神である以上、啓示がその受容度を越えることは絶対有り得ぬ。事の本質上それは不可能なのである。

 それ故汝が神の働きの真意にまで言及して〝そのようなことは絶対に有り得ない。それでは神の本質に反することになる。神がそのような行為に出られるはずがない。

なぜならあの時も神はそのような行為に出られなかったからである〟と述べるということは、言い換えれば〝私の神の観念はかくかくしかじかであるから、今それ以外の観念は 受け入れるわけにはいかぬ。私の信じるところによれば、私の神はそのような挙には出られないはずである〟と述べていることになる。

われらが指摘せんとするのはまさにそこである。汝は汝自身の神を拵え、汝自身が相応しいと考える通りの働きを神に強要している。そのうち──この地上にせよ死後にせよ──汝の視野が広がるにつれて新たなる光が射し込み、〝なるほど自分は間違っていた。神は自分の想像していたものとはまるで違う。なぜ自分はあのような愚かな観念を抱いていたのであろう〟と述懐する日も到来しよう。

 これは全ての進歩的人間に言えることである。その目覚めの時は必ずしも地上生活中に到来するとはかぎらぬ。ある者は死後の新たな生活まで待たねばならぬ。が、この地上にて洪水の如き知識の恩恵に浴する者もいる。

魂が古き信仰に魅力を失い、無味乾燥に思え、新たな、より真実味のある啓示を求める。干天の慈雨の如く、生命を生き返らせる何ものかを求めんとする。

 さて汝は汝なりの啓示を得た。いや、今まさに手にしつつある。観方によればこれは汝の精神が広がり、その受容力に応じた神の観念の入る余地が出来たしるしと言えよう。が、さらに観方を変えれば、外部より新たにして豊かなる神の啓示──人類の歴史を通じて得られた啓示と同じ根源からの啓示──が流入したと言うこともできよう。

 それはどちらでも構わぬ。啓示と理解力、知識と受容力とは常に相関関係にある。受容力が備わるまでは知識は授からぬし、精神がその不足を意識するほど進化するまでは、より高き啓示は得られぬ。その理由は単純である。精神そのものが啓示を受ける通路だからである。

 汝の抱ける神の観念は、全て人間の精神を濾過器として地上にもたらされたものである。神を求める人間的渇仰の具象化である。未熟なる精神の産物であり、その精神の欲求は必ずしも汝の欲求とは一致せず、したがってその神は──と言うよりは、神についての見解は、汝の見解とは異なる。

それを汝はどうにかして汝の思想構造に適合させんとするが、所詮それは叶わぬことである。何となれば、その観念たるや発達程度を異にするさまざまな人間による産物の混合物だからである。

 よく考えるがよい。汝はわれらの述べるところの観念が、汝が聖なる記録より引き出したる観念と相容れぬことを理由に、われらを神の使徒とは認めぬという。では聞くが、われらの説く神が一体どの神と異なると言うのか。

アダムと共に人間の姿で地上を歩き、何も知らぬ者たちの犯せる罪──今では些細なる過ちに過ぎぬとされている罪──に恐ろしき報復をしたと、まことしやかに語られているその神のことか。それとも、忠実なる友にその一人子を供物として捧げることを命じたという神のことか。

あるいは君主としてイスラエルを支配し、公衆衛生法規の発令と礼拝堂の建立に意を注ぎ、イスラエル軍と共に戦場に赴き、罪なき無抵抗の他民族を全滅させるための残忍この上なき法律と法規を発令したという神のことか。

もしかしてその神は、イスラエル軍が流血と修羅場の中でもうあと数時間戦えるよう、ヨシュアに特別の力を与えて宇宙の運行を止まらせ、太陽系を麻痺させたと言う神のことであろうか。それとも、自分が選べる民イスラエル人が目に見える君主を要求したことに腹を立て、以後何百年にも亙って手を変え品を替えて報復し続けたという、あの神のことか。

 さらに、われらの教えは汝らの言う大予言者の説ける神々のうちのいずれと相容れぬというのか。イザヤの神か。エゼキエルの神か。それともエレミヤの病的な心の産物であるあの陰気なる神か。それともかのダビデの神──半ば父の如く、半ば暴君の如く、残忍さと従順さとを交互に見せ、いつも矛盾と不合理に満ちた神か。

それともヨエルの神か、ヨハネの神か。それともパウロのカルヴァン①主義的な、あの身の毛もよだつ天命と地獄と選抜、それに白日夢の如き物憂げな天国等の幻想のことか。そのいずれと矛盾すると汝は言いたいのか。パウロかヨハネかそれともイエスか。

 改めて述べるまでもなく、神の啓示はいつの時代にもその時代の人間の受容能力に応じたものが授けられ、それがさらに人間の精神によって色づけされている。言い換えれば、神の観念は鮮明度の差こそあれそれを受けた霊感者の考えであったとも言える。


精神に印象づけられた霊示がその霊感者を取り囲む精神的環境によって形を賦与されていった。すなわちその霊感者の受容度に応じた分量の真理が授けられ、それが霊感者の考えによって形を整えたのである。

 真理の全てを授かれる者は一人としておらぬ。みなその時代、その民族の特殊なる要請に鑑みて必要なる分量のみが授けられた。今も引き合いに出せる如く、神の観念が種々様々であるのはそのためである。無論われらとわれらの説く神は、ヨシュアとその神ではない。パウロとその神でもない。

もっともわれらは、その神を最も正しく理解しその真近に生活せるイエス・キリストによって、何も知らぬ民に寓話に託して説かれた曨気な神の観念を、われらの説く神と同列に置いて比較しようとは思わぬ。イエスは弟子の誰よりも鮮明に神を認識していた。

その説くところは極めて単純にして平易であり、真摯であった。その神の教えもまた同じく平易そのものであった。〝天に在しますわれらが父〟──無知なる人間が勝手に神の属性を決めつけ、他愛なき要求を神に押しつけている神学上の学説に比して、これはまた何と言う違いであろう!

 神! 汝は神を知らぬ! そのうち汝も、その目を遮るベールの内側に立てる時、汝が愚かにも想像せる神の観念の誤りを知って驚くことであろう。真実の神はおよそ汝の想像せるものとは異なる。もしも神が汝らの説くとおりのものであるとすれば、その神は創造者としてあるまじき侮辱を受けたとして、それを最初になすりつけたる傲慢無礼な人物に報復すべきところである。

 が、神はさようなものではない。人間のお粗末なる奴隷根性などにて捉えられる性質のものではない。神はそうした卑屈なる想像しか出来ぬ愚昧なる人間の無知を哀れみ、赦される。決して咎め立てはなさらぬ。無知は故意でさえなければ決して恥ではない。が、

神は低劣なる観念をいつまでも御生大事にする愚かさ──己れの偶像を宿す暗くカビ臭き心に、新たなる光を入れようとせぬ態度をこそお咎めになる。

闇を好み、光を嫌い、いつまでも過去の未熟なる幻想にしがみつき、イエスの説ける単純素朴にして雄大なる神に美を見出し得ず、その崇高なる概念に未開時代の神人同形同性説を継ぎ木せねば承知できぬ者たちをこそ咎められるのである。

そうした類の、より崇高なる教えを受け入れられぬ者たちは、今なお決して少なくはない。が、汝はまさかその類ではあるまい!

 もしも汝が軽率にもわれらの教えを旧約聖書のそれと矛盾すると決めつけるのであれば、われらとしてはこう答えるほかはあるまい。すなわち、確かにわれらの教えは、神をあのような腹を立て嫉妬するが如き人間的暴君に仕立てたる、古き不愉快きわまる教説とは大いに矛盾しよう。

が、イエスを通じて授けられたる神聖そのものの啓示とは完全に軌を一にする。ただ人間はそのイエスの教えを身勝手なる欲求によって余りに堕落させ、悲しいかな、その真の信奉者まで背を向けしむるに至ったのである、と。

 もしもわれらの述べる神及び死後の生命についての言説に何一つ汝の心に訴えるものを見いだし得ぬとすれば、それは汝の魂がかつて喉を潤せるより雄大にしてより単純素朴なる概念に魅力を覚えなくなったということであるに相違ない。たぶん汝の魂が邪霊の策略にかかり、地上と神との間を遮る暗雲が汝に恐ろしき影響を及ぼしつつあるということであるに相違ない。

願わくはわれらがその暗雲を取り払い、今一度感化と安らぎの光を汝の魂に注ぎ込むことが出来ればと思う。永遠に拭えぬほどの危害が汝に及ぶとは危惧しておらぬ。汝がこれまでの知識の基盤を総ざらいすることを、われらは別に残念とは思わぬ。それも無益ではあるまい。

 さしたる意味もなき些細なる問題に捉われることは止めることである。大いなる問題、神についてのより明瞭なる啓示の必要性、神およびわれら神の使徒について、今地上を席巻しつつある冷ややかなる無知と無関心の問題、われらの説く崇高なる教義、そしてわれらが明かす生命躍如たる来世等を十分に検討するがよい。
   
想像の産物に過ぎぬ〝悪魔〟の問題で心を悩ますことは止めることである。真摯なる者、純真なる者、誠意ある者にとっては神学がまことしやかに説く悪魔も閻魔も存在せぬ。

悪は近づけぬのである。邪霊は逃げ去り、悪の勢力も彼らの前では無力となる。そのまわりは天使によりて保護され、明るき霊の支配を受け、進むべき正しき道へと導かれる。

 彼らの前途にはかぎりなき知識と、彼らの知性を昂揚し気高くする全てのものが待ちうけている。悪魔などは、自ら創造せぬ限り、恐れるに足らぬ。善性への親和力が善なるものを引き寄せるのである。まわりには守護に当る霊が控え、自ら求めぬかぎり邪霊の餌食とはならぬ。悪の誘惑や罠が特別免除というのではない。

試練の時に味わわされる雰囲気も免れることは出来ぬ。魂が悲しみと懊悩の暗雲に被われ、罪の重荷に打ちひしがれるやも知れぬ。すなわち、あたりに見る不幸と悪に己れの無力さを感じ、良心の呵責に苦しめられることもあろう。が悪魔が彼らを囚(とりこ)にし、あるいは地獄へと引きづり下ろすなどということは絶対にない。

そうした懊悩も悲しみも良心の呵責も、所詮は魂の経験の一部であり、その体験の力を摂取して、魂は一段と向上して行く。それは進歩の手段として守護霊が用意せる試練であり、故に細心の注意をもって悪の勢力から保護してくれているのである。

 悪を好み、霊性の発達を欠き、肉体的欲望に偏れる者のみが、肉体を棄てたのちもなお肉体的欲望を棄て切れぬ同質の未発達霊を引き寄せるのである。悪の侵入の危険に曝されているのは、そうした類の人間のみである。その性壁そのものが悪を引き寄せる。

招かれた悪が住みつくのである。そうした人間が、地上近くをうろつきまわり、好きを見ては侵入し、われらの計画を邪魔し、魂の向上のための仕事を挫折させんとする霊を引き寄せるのである。さきに汝は軽率にも霊界通信なるものがいい加減にして益になるとは思えぬと述べたが、それは全てそうした低級なる邪霊の仕わざである。

 友よ、汝はその点の理解を誤っている。低級なる人間が自ら招いたる霊の仕わざをもってわれらを咎めてはならぬ。咎めらるべきは聖純なるものや高尚なるものを嫌い、低俗にして下劣なるものを好む他愛なき人間的愚行の方である。

かの愚かなる法律をまず咎めよ。単なる風習と流行によって助長されたにすぎぬ愚行と罪状によって行く手を阻まれ堕落への道と引きづり下ろされた数多くの人間を、何の準備もなきまま死後の世界へと追いやる法律をまず咎めるべきである。さらには酒場、精神病院、牢獄、そしてそういうものによって増幅されたる情欲と悪魔の如き強欲を咎めよ。

無数の霊が永遠の火刑に処せられるとは実にこのことである。汝らの想像せる物的炎ではない。死後もなお消えやらぬ業欲が炎の如く魂を焼き続けるのである。燃えるだけ燃え、その強欲を焼き尽くして、ようやく魂が清められる。さよう、咎めらるべきは善霊を偽りて汝をごまかし、軽薄と誤りによって汝を翻弄せんと企てる低級霊たちである。

 これ以上のことはまたの機会としよう。すでにわれらは予定せるもの以上のことを述べた。それに、余の耳に神への礼拝の時の到来を告げる声が聞こえる。これより余もその礼拝の儀式に参列する。願わくば余の祈りが慈悲ぶかき神の御胸に届き、そこより流れ出る御恵みの流れの一すじが汝にも届き、和みと静かなる確信が汝の悩める魂を癒し、慰めとならんことを祈る。
                              ♰ イムペレーター

 〔註〕
(1) John Calvin 十九世紀の神学者。宗教改革家。カルビンとも。




  十三 節

〔これまでに受け取った一連の自動書記通信を読み返してみて、私は文体といい内容といい、その美しさにこれまでになく心を打たれた。それというのも、私には何ら意識的思考のないまま、猛烈な勢いで書かれていくその速さ、それでいて文法上の構成に一点の誤りも見当たらないこと、さらに全編を通じて一箇所の挿入も訂正も行われていないこと等を考え合わせると、ただただその美しさに驚きを覚えるばかりだった。

 がその主題の問題となると私は相変わらず受け入れに躊躇せざるを得なかった。共鳴するものも多かったが、同時に、もし受け入れたらキリスト教界の信仰が根底から覆されることになるという危惧を拭いきれなかった。

どう言い換えたところで、そうなることは日を見るよりも明らかである。用語と同時に、その根本理念を受け入れれば、キリスト教徒が絶対的箇条として信じることを誓ったものを数多く棄て去らなくてはならない。特にその中心的ドグマが崩れてしまうように思えた。

各種の神学上の著作──ギリシャ正教、ローマ・カトリック、国教会、プロテスタント、とくに近代ドイツ神学──に幅広く親しんできた私には、その各説の枝葉末節における矛盾はあまり問題にしないだけの心の準備はできていた。

こうした宗教的内容のものには多少の矛盾は避け難いことを認識していたのである。また神の啓示の奥深い神秘の前には、個人的見解は大した価値はないことも認識していた。要するに私はこの種の問題に関しては少々のことでは動揺しないだけの心の準備はできているつもりでいたのである。

 ところがイムペレーターの言葉は全く問題が別であった。集中砲火を浴びているのはキリスト教の根幹にかかわることばかりであった。それをスピリチュアライズする、つまり霊的解釈を施すということは、私の信じている如何なる啓示にも致命傷を与えかねないように思えた。

じっくりと考えに考え抜いた末の結論がどうしてもそこに落着する。しかもそれが私のよく知らない、知ろうにも知り得ない知的存在による〝独断〟である。これはとても受け入れるわけには行かない。私は今少し考える時間をもたねばならぬと考えた。

とにかく、たとえ内容的にはどんなに美しくあろうと、キリスト教ほどの証拠性もなく偶像破壊的でもない教義を受け入れるには、まだ私の心が熟していないと感じた。こうした趣旨のことを述べると次のような通信がきた──〕



 良いことを述べてくれた。かくの如く重大なる問題については、深く考えるために十二分に時間(とき)を費やす必要がある。われらはいずれは汝が理解しその重大性を認識してくれるものとの確信のもとに説いてきた教説を汝の熟考にまかせよう。

疑問があれば何なりと聞くがよい。われらも喜んで答えよう。これまでの通信を十二分に考察するまでは、他の通信は敢えて押しつけぬことにする。すべからく忍耐と真摯なる祈りが肝要である。

 寒々として霊性を寄せつけぬ地上にあっては、汝らの魂と、その欲求を叶えしめんとして待機せる背後霊との間の磁気的霊交が、真摯なる祈りによって如何に強く促進されるものであるかを汝は知らぬ。その絆は使うほどに強化され、交わるほどにその親密度を増す。祈りというものが如何に豊かなる霊的恵みをもたらすかを知れば、汝もより多く祈るようになることであろう。

博学なる神学者は祈りの価値についてその核心を知らぬまま論議を重ね、迷路をさ迷い続けている。かれらは神を求める魂の真の欲求を聞き届けんとして待ちうける背後霊の存在を知らぬ。もっとも無理からぬことではある。

現時点における科学では立証できぬ性質のものだからである。そこで彼らは、愚かにも祈りの効用をその結果によって計らんとする。結果を分析し、統計の収集によってその効用を評価せんとするのである。が、それでもなお彼らは迷路をさ迷い続けている。

何となれば、そうした努力によって掴みうるのは形骸のみであり、その真相は彼らの視界へは入らぬからである。

祈りの結果はそのようなことでは計ることは出来ぬ。人間の科学では捉えられぬものなのである。それはあくまでも霊的なものであり、個々の祈りによって結果もさまざまな形式をとる。背後霊が異なる如く祈りの結果の現われ方も異なるのである。

 無言の願いが叶えられぬままであることが実は魂にとりては最高の恵みであることが往々にしてあるものである。虚空に向けて発せられたる悩める魂の叫び──悲しみによって絞り出されたる叫び──それ自体が魂の救済であることがある。

が、待機せる背後霊がその重荷に苦しめる魂に同情と慰めの芳香を注ぎ込まんと努力している姿を見れば、魂が覚える何とも不思議な安らぎと、神への確信がいずこから来るかが理解できるであろう。それをもって祈りが叶えられたというのである。魂の奥底からの叫びが背後とのつながりをもたらし、苦しみと悲しみに悶える心が慰められるのである。

 緊密なる関係にある者に注がれるこの磁気性の芳香は、神を探し求める魂の切実なる叫びがもたらす恩恵の一つなのである。真の霊交はそれ以外の条件下では実現せぬ。天使の住める〝神秘の間〟に入る者はよほどの霊性を開いた者にかぎられる。

同時に、われらの側より最も近づき易き魂は普段より霊的交わりを重ねている者である。友よ、これには例外はない。それが汝らの世界とのつながりを支配する不変なる法則の一つである。すなわち霊性に目覚めた魂が豊かな霊的恵みを受けるのである。

 願いごとへの真の回答は必ずしも人間がその無知ゆえに勝手に期待するとおりのものとはかぎらぬ。往々にして、その願いごとを叶えてやることが当人に害を及ぼすことにもなりかねないのである。当人は真相を知らぬまま、せっかちに、愚かなる願いごとをする。

当然その祈りは無視される。が、切実に祈れるその心の姿勢が、待機せる背後霊との連絡路を開き、その必要性に鑑みて力と慰めとを授けてくれる。

 人間がもっと祈りの生活をしてくれば、と思う。もっともその祈りとは、為すべき義務を怠り、貴重なる試練の生活を病的ともいうべき自己分析、不健全きわまる自己詮索、怠惰なる瞑想、あるいは無理強い的、かつ非現実的哀願のみに費やす礼拝一途の生活ではない。それは真の礼拝とは言えぬ。真の祈りの生活はそれとは全く別のものである。

 真実の祈りは、守護せんとして待機する背後霊への魂の奥底からの叫びの、直情的発露であらねばならぬ。気まぐれな要求に応えて、変え得べからざる筈の法則を喜んで変えてくれるが如き神への他愛なき幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっている。

そのようなことを信じてはならぬ! 祈り──魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして遥か上界との連絡の労を取らんとして待機せる背後霊を通じての直情的叫び──これは形式の問題ではない。一語一語述べる必要もない。ましてや宗教的慣習、紋切り型の用語等によって拘束する必要などさらさらない。

真の祈りとは魂と魂と直接の交わりであり、日頃より交信せる見えざる仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じてその要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつその回答が思念の如き速さで送り返される。その一連の営みをいうのである。

 言い換えるならば、悩める魂を、慰め癒やすことの出来る霊の手にあずけることである。それには言葉も身構えも形式もいらぬ。むしろそうしたものへのこだわりが消えた時こそ最も真実味を帯びる性質のものである。必要なのは背後霊の存在の認識と、それとの霊交を求めんとする直情的衝動のみである。そのためには、日頃の訓練が望まれる。

さもなければ、日頃の使用を怠れる手足の如く、その衝動に反応を示さなくなる。それ故、日頃より霊性に目覚めたる生活を営む者ほど霊的世界の深奥に深入り出来ることになる。その種のものにはわれらの方からも近づき易い。

外界の喧噪に影響されることなく、その者のみが有するところの、われらにのみ反応する奥深き琴線に触れることを得るのである。彼らは地上に在りながら極めて高い霊性を発揮する。何となれば、日頃より霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しつつあるからである。彼らには物的生活に埋もれる者に閉ざされた霊的真理の秘密の扉が開かれている。

そして不断の祈りによって彼らは、少なくとも、地上生活においては苦しみも悲しみも魂の成長にとって必要不可欠であることを悟りつつ、なおそれに超然とした生活を送ることができるのである。

 ああ、かくの如き素晴らしい摂理を地上の人間が知らぬとは何と悲しきことであることか! この真相が今少し理解されれば、人間は聖純にして気高き霊の雰囲気の中で暮らせるものを! 霊性の自覚によって、覗き趣味的好奇心に駆られ、己れの分際も顧みずに心霊の世界に深入りせる者を悩ませ、また時には、悲しいかな、真摯なる探求者をも悩ませる、かの邪悪霊の影響から免れることを得るであろう。

たとえ完全に免れ得ずとも、その真理の普及は少なくとも危険からの保護を提供し、且つ人間に為しうる他のいかなる手段にも増して、われらの力となるであろう。それはわれらの行為の正当性を是認し、動機の純粋性の証となり、霊界通信の真実性を不滅のものとする最も有効なる力となるであろう。

 故に、ひたすらに祈るがよい。但し、心のこもらぬ紋切り型の哀願とならぬよう心せよ。魂と魂の触れ合いの中でのわれわれとの交わりを求めよ。ひたすらに魂に係る問題にのみ心を向けよ。他のことは収まるべくして収まる。

神学上の難解にして煩わしき問題は捨ておき、汝の魂の安寧に関わる核心的真理に集中せよ。単純素朴なる霊的真理が人間の無益なる混沌によって幾重にも取り巻かれている。

その収拾に汝が係る必要はない。またその中のいずれが汝にとって不可欠か、いずれが不必要かの問題も、今の汝には係わる必要はない。今の汝には絶対重要と思える教説も、こののちには、その教説が啓示された一時代にのみ適用さるべき一面的教説に過ぎぬことを悟る日も来よう。結論を焦るのは人間の弱点である。むしろ歩を緩めるがよい。ゴールへと焦らず、初期の段階にてじっくり時間をかけねばならぬ。すべての秘密に通暁する前に、汝が学ばねばならぬことは幾らでもある。

 このことについてはなお言うべきことがあるが、差し当たって必要なことは述べたつもりである。願わくば神がわれらと汝とを護り給い、われらが首尾よく汝を導き、暗闇に迷う汝の魂に真理の光をともし、安寧をもたらすことを得さしめ給わんことを。
                             ♰ イムペレーター


〔右の通信に対して、私はすぐには抗弁せず、その内容に思いをめぐらした。そしてやがて聞いてみたいことが浮かんだのでそれを書き留めようとした。そのとたん、私の手は強制的にストップさせられた。そして代わってその手が激しい勢いで別のことを書きはじめ、信じられない速さで次のようなことを述べてきた。その間ただの一度も手を休めることがなかった。あまりの激しさに私は書き終えるまで半入神状態となっていた。〕










待つのじゃ! 焦るでない! 待つのじゃ! 今は議論の時ではない。真理を繰り返し吟味するのじゃ。汝はせっかちにすぎる。しかも下らぬことばかり思いをめぐらしている。われらの述べることが他の信仰と相容れぬからとて、一体それが汝に何の意味があるというのか。

何故に躊躇するのか。信仰とは大なり小なり他の信仰と相容れぬものではないのか。否、元来信仰とはそれ自体の中に矛盾の要素を含むものではないのか。

それすら理解できぬようでは先へ進む資格はない。かの古き教義や信仰──当時としてはそれなりに価値はありながら、往々にして未熟であったものに人間は慰めを求めてきた。自分に都合のよき言説を拾い求めてきた。あるはずもないものを態々求めに赴いたのである。なぜ無いのか。魂がそうした古き言説──今の時代には生命を失いたる言説を超えて成長したからこそである。それはもはや汝の益にはならぬ。

汝の魂はもはやそのようなものでは感動せぬ。語りかける言葉を持ち合わせぬ。心を癒す力を持たぬ。かつて或る者にとっては生々しき声として聞こえながら、今の汝には無意味に響く、遠くかすかなこだまに過ぎぬ。

 然るに何故に汝はそのようなものに心を煩わせるのか。何故に汝はすでに汝にとって何の意味も持たぬものから意義を見いだそうと無益なる努力を続け、さ迷うのか。なぜ霊の世界より語るわれらの生々しき、燃えるが如き、真実味あふれる生きた声に耳を傾けようとせぬのか。滅びつつあるもの、あるいはすでに死物と化せるものの代わりに真実なるもの、霊的なるもの、崇高なるものを説くわれらの声になぜに耳を傾けようとせぬのか。

一時の気まぐれとは言え、何故に生命なき過去の遺物を有難がり、生々しき現在、霊との交わり──神および汝らの宿命について崇高なる真理を語る霊団との縁を切らんとするのか。

 これは明らかに狂気の沙汰であり、魂を堕落させ地上へ引きずり下ろすことを楽しみとする邪霊の影響に外ならぬ。われらの啓示が古き啓示と相容れぬからとて、一体それが汝にとって何の係わりがあると言うのか。われらの啓示は生々しき響きを以って汝の魂に訴えている。それは汝にも判るであろう。

汝はそれにて喉を潤し、その有難き力に浴している。古き啓示はもはや汝にとっては死物である。生命なき形骸のまわりを何故にうろつきまわるのか。かつては神の啓示に満ちた生ける存在でありながら、今や朽ち衰えんとしている死骸に何故にすがりつくのか。

 聖書にも、イエスの墓のまわりに集まれる悲しみの者たちの霊耳に霊がこう語りかけたことが記されておろう──〝何故に汝らは死者の中に生者を求むるや。彼はすでにここにはいない。彼は甦れり①〟と。そこでわれらも汝に言う──何故に死せる過去、埋葬されたる真理の墓をうろつきまわり、もはや存在せぬものを無益に求めるのか、と。

それはもはやそこには存在せぬ。蘇ったのである。かつて変転きわまりなき時代に神の真理を包蔵せしドグマのもとを去ったのである。残れるは空ろなる宝石箱のみ。宝石はもはやそこには存在せぬ。生命は蘇ったのである。そして、見よ! われらは汝にその蘇れる崇高なる真理、より気高き教義、より聖なる神を説いているのである。

 かの古き時代に神の命(めい)を担いし地上の使者とその世代に語りかけた同じ声が、今、汝と汝の世代に語りかけている。いつの時代にも同じなのである。神は今も昔も全く同じように人間を扱われる。すなわち、より多くの光、より高き真理へ導かんとされる。

その神の声に従うか否かは人間の意志に任される。神を求める崇高なる志の者にとっても、古きもの、親しめるもの、歴史あるものは棄て難き魅力があり、それが一つの関所となる。その最初の迷いの中で彼らは古きもの、大切にせるものを全て葬り、新しきもの、未知なるものを受け入れねばならぬと悟る。

それは一つの死を意味するかに思える。然して人間は死を恐れる。確かにそれはまさに死である。が生へ向けての死である。暗き墓場を通り抜け、生と希望へ辿り着く通路である。

肉体の死によりて霊がその束縛より放たれて自由になる如く、古き信仰の束縛より解放された魂は自由へと飛躍する。それはまさしくイエスの言える唯一人間を自由にするところの真理による自由②である。汝には今は理解できぬかもしれぬ。が、いずれ悟る日も来よう。

 これがわれらの切なる声である。汝は何故に死せる過去へ目を向けるのか。生気溢れる現在、そして輝ける未来があり、豊かな祝福を約束しているではないか。われらの述べるところが古(いにしえ)の教えと矛盾するからとて、それが汝に何の係わりがあると言うのか。

古き教えにはすでに汝にとって生命はなく、その失われたる生命を再び吹き込むことは出来ぬ。それは今なおその教えに意義を見いだす者に任せるがよい。そして汝はより高き真理へ向けて、神の植えつけ給いし真理探求心の衝動に従いて迷うことなく歩を進めるがよい。死せる過去と決別せよ。それは新しき現在を通過し未知の未来へ進む、その通路でしかない。

 もっとも今の汝にとっては、そうとも言えぬようじゃ。汝にとってはその過去が未だに魅惑があり、われらの説く新しき教説は古き信仰を根本より破壊するとの説に加担している。イエスがそう述べたとでも言うのであろうか。

イエスはモーセの訓えの全廃を説いたのであろうか。前にも述べた如く、われらの教説は、イエスの訓えがモーセの訓えに比して取り立てて、驚異的ではなかったように、イエスの訓えに比して取り立てて驚くほどのものではない。

われらが汝に理解を要求しているのは古き教説との矛盾ではなく、その完成である。より十全なる成長である。より広き知識の発展である。

 イエスがその新しき信仰を説いた時の時代的背景をよく考察すれば、多くの点において今日と共通したものを見いだすであろう。繰り返すことになるが、かのパリサイ派の形式主義やサドカイ派③の無関心主義に比して、イエスの訓えが取り立てて驚くべきものではなかった如く、われらの説く教説は決して今日宗教として流布しているものに比して取り立てて驚くべきものではない。当時は当時なりに新しき啓示を必要とした。

そして今は今なりの新しき啓示を必要としている。ただ、古きものを愛し、慣れ親しみたる道に波風の立つことを望まぬ者にとってわれらの言説が忌々しきものである如く、当時の宗教家にとってイエスの訓えがけしからぬものであったまでである。


 今も同じであるが、当時その時代的要請にあわせて授けられた啓示のまわりに夾雑物がこびりつき、せっかくの啓示が意味も生命もなき、ただの宗教的儀式の寄せ集めとなり果てていた。以来、久しく神の声は聞かれることがなく、人間は新たなる啓示の出現を待ち望んだ。今日とまさに同じである。

古き信仰は死物と化し、人間は新たなる生ける神の声を聞かんと欲した。それがイエスによってもたらされた。人々の想像もせぬ人物──およそ学究的パリサイ派からは敬意を払われず、傲慢なるサドカイ派に容れられる見込みなき人物から神の声がもたらされた。

そしてそれが全世界に広がり、一八〇〇年間にも亙ってキリスト教会の宗教的生活を動かしてきた。然るにその教義は今や堕落し果てた。が、イエスが身をもって示せる犠牲的精神は今なお生き続けている。

今こそ要請されるのはその精神に新たなる息吹を吹き込むことである。さすれば金科玉条と思い込んできた夾雑物が取り除かれた量だけ一層真理の輝きを増すことであろう。


 われらの啓示の源は民衆によって〝ナザレの大工〟と蔑(サゲス)まれたイエスの使用せる霊力の源と少しも違わぬ。民衆はイエスに思いのたけ侮蔑を浴びせた。大衆はいつの時代にもそうである。新しきものを嘲笑するのである。

彼らはイエスのおこす奇跡には目を見張った。目に見える驚異を見んと大挙して押し寄せた。が、その現象が意味するところの霊的教訓を理解するほどの霊性は目覚めていなかった。

それは今でも同じことである。われらの演出する交霊会の現象にはイエスの時代の民衆と同じ驚きをもって興味を示す。が彼らは十字架上のイエスに向いて〝その十字架から降りてみてはどうか。もし降りられたらお前を信じてもよい〟と言い放ちて、証の上にさらに証を求めた如く、今の民衆も完璧なる確信を得るためのテストを次から次へと求める。

民衆はイエスを〝ペテン師めが!〟と罵った。罵声を浴びせてその地域より追い出した。イエスが彼らの中にいることを忌み嫌ったのである。確かに新らしき訓えであったことは事実である。が、その中身は従来と変わらぬ神の真理であった。

その説き方、その理解の仕方を改めたにすぎぬ。われらの説く教説もまた今の時点においては新しきものかも知れぬ。が、いずれ時の経過と共に、それが従来と同じ神の真理を復活させ、永遠の息吹を吹き込んだに過ぎぬことが理解される日も到来しよう。

 われらの説く神の真理は、イエスがあの時代──地位と身分ある教養人すなわち〝パリサイ派や為政者〟の中に一人でもお前の言うことを信じる者がいるかと冷笑的に言われた時代──に説ける真理と同じく、汝らにとっていささかも奇異なるものではない。

どちらも連綿たる同じ真理の流れを汲むものであり、それを希求するものの要求と渇望に合わせて説かれているに過ぎぬ。ニコデモ④の気持ちを察するがよい。

そして、それを汝らの時代の同じ立場にある人々のそれと比べてみるがよい。ユダヤの死せる信仰に新生の息吹を吹き込み、神の観念をより鮮明に啓示せる同じ霊力が、今まさに瀕死の瀬戸際にあるキリスト教信仰に新しき生命を吹き込み、神の観念をより鮮明に啓示せる同じ霊力が、今まさに変死の瀬戸際にあるキリスト教信仰に新しい生命を吹き込み、エネルギーと活力とを蘇らせることが出来ることを信ずるがよい。

 全知全能なる神の導きと祝福のあらんことを。
                            ♰ イムペレーター




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