Humans are nothing more than vehicles for inspiration.
☆ 「人間とは何か? 人間とはいかにもインスピレーションの媒体にすぎません。地上で崇められるいかに立派な人物も、神がその叡智のうち、人間にとって適切とみたごくわずかな一部を伝達するための手段にすぎません。その為すところの者は、偉大なるもの、気高きものもすべて、守護霊の影響でないものはありません。
霊媒が特別の能力ゆえに選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示の為に適当な道具として選ばれ、その啓示が託されたというに過ぎません。霊媒の功績とすべきものではないのです。
また真に忠実な僕としての心得のある者なら、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具にすぎません。その栄誉も、霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕──神のメッセージの受け皿として特に選ばれたという点に於いて、われわれの側にとって有難い存在という意味です。 その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去ってのち、今度は自分が神のメッセンジャーとして、地上の霊媒にメッセージを届ける役目にふさわしい人物として成長していきます。その受け皿はおのずと気高い芳香に満ちております。そして神の僕として仕えれば仕えるほど、その気高さを増していきます。神の真理と言う名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けに足る存在となって行きます。
しかし、万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし神のみに帰すべき栄光を私せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、さらには又、世俗への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害を被ることになります。 それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任が伴うということです。善行の絶好機を手にしつつ無為に過ごした者、あるいはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りつつその実行を怠った僕としての禍が降りかかります。前者が向上するところを彼は下降します。霊的能力は没収され、道徳的にもまた知的にも堕落していきます。栄誉を投げ捨て、そして、見よ、恩恵に代わって禍が彼に降りかかります。
それ故、そうした経歴の持ち主が他界したのちに万が一にも通信を送ってくるとすれば、その通信の内容は、その人物の地上での評判から想像されるものよりは必然的に低いものとなりましょう。地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる言葉でした。が今や神より授かった霊力は没収されています。彼の語る言葉は(親和力によって)ひかれて行く低次元の社会に似つかわしいものとなっています」 (注)──正篇の『霊訓』で同じテーマを同じくインペレーターが別の角度から説いている箇所があるので、長文をいとわず引用しておく。自動書記によるものなので文体がやや異なる。 《われわれにとっての最大の難事は、進化した高級霊からの通信を受け取るにふさわしい霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならない。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ないのが道理だからです。次に、愚かな地上的偏見にとらわれぬものでなければならない。若い時代の誤った思想を潔く捨て去り、例え世間に受け入れられないものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主でなけばならない。 まだある。独断主義から解放されねばならない。この世的思想から抜け出せないようではいけません。神学的独断と派閥と偏狭な教義から解放されなければなりません。己の無知に気づかない、一知半解の塀に陥ってはなりません。
常にとらわれのない探求心に燃えた魂であらねばなりません。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富む者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。要するに真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならないのである。 またわれわれの仕事は、頑固な敵対心からの自己主張、または高慢なでしゃばり根性と利己心によって阻害されることがあってはなりません。
そのような霊媒では仕事らしい仕事は為し得ないし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を排除するのが精一杯ということになる。われわれが求めるのは有能にして真摯、そして飽くなき探求心に燃えた無欲の心の持ち主でなければならないのです。 そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解していただけるであろう。まさに至難の業であり、まず不可能に近い。さればわれわれは、見出し得る限りの最高の人材を着実に鍛錬した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、おのれの知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。そうすることで独断的偏見から抜け出させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物でないとの悟りへの地ならしを行う。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と積み重ね、基礎さえでき上れば、安心して上部構造を築き上げていくことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われわれの初期の目標に調和させていく。
ここに至って多くの者が脱落して行く、そしてわれわれも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能であること、また古来の地上的偏見と頑固な独断的信仰が容易に拭えないものであること、それゆえ時の流れに任せるほかなく、われわれにとって用のない存在となったことを知って諦めるのです。 また真理への完全な忠誠心と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われわれによる教化によって着実に培われていくものである。
われわれは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。そしてわれわれが神より許された範囲での行為と霊的教訓を忍耐強くまつ心構えを培う。こうした心構えは、多くの霊媒に見受けられる苛立った、落ち着きのない不満と正反対である。 この段階でまた多くの者が脱落して行く。恐怖と不安に駆られ、疑念に襲われる。古くからの神学を説く神は、自分のような人間の破滅を今か今かと見守っていると思い、悪魔が罠にかけんとして油断なく見張っていると思い込む。確かに、古い信仰の基盤が揺さぶられてはいても、まだ新しい信仰基盤は敷かれていない。その間隙(すき)に邪霊が付け入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖にたまりかねた者が脱落し、われわれにとって用のない存在となって行く。
それでもなおわれわれは、人間のあらゆる利己心を払拭しなければなりません。われわれの仕事には私心の出しゃばりは許されないのです。さもないと、われわれは何もなし得ません。霊界からの指導にとって人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なものはありません。小知を働かせてはなりません。われわれからの知的働きかけの妨げとなるからです。独断主義に陥った知性は使用しようにも使い物になりません。ましてそれが高慢と自惚れに満ちていれば、われわれには近づくことすらできません。
いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にした預言者たちはみな、我欲を滅却して使命に生きた人たちでした。聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送りました。とくにイエスはその地上生活を通して、使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した、偉大にして崇高なる模範であった。イエスという人物の中に、人類の全歴史を通して最大限の人間の可能性の証を見ることが出来るのです。 この世から誤りを駆逐し真理の光をもたらした人々はみな、おのれに課せられた使命のために無私と献身の生涯を送った者であった。
ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物──我を張らず、尊大ぶらず、自惚れを知らぬ人たちであった。いちずな誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人たちです。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲にとらわれていたならば、その成功の核心が蝕まれていたことであろう。謙虚さと誠実さといちずさとがあったればこそ成就し得たのです。 われわれが求める人材とはそのような資質の持ち主です。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。いちずに神の仕事に目を据え、一切の地上的打算を忘れた性格。こうした麗しい魂の持ち主が稀であることは確かです。
が、友よ、平静にしてしかも誠実かついちずな哲学者の心を心とされよ。情愛にあふれ、寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とされよ。さらに報酬を求めぬ神の僕としての無欲の心を心とされよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主をおいて他に成就し得る者はいない。われわれもそうした人材を油断なく見守り、警戒を怠らぬであろう。神より遣わされた天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれることであろう》
☆ 「皆さんは次のような間違った事実に気づいておられるでしょうか。すなわち大半のキリスト教徒は自分たちこそイエスが保証した天国の継承者であると思い込み、神は自分たちのために死すべく唯一の息子を送ってくださったと信じていること。
また自分たちは神の直属の僕によって授けられたメッセージの啓示を受け、かつてそれ以外のメッセージが人類に授けられたためしはないと信じていること、さらに又、その自分たちにのみ明かされた教義をインド、中国人、その他の異教徒すべてに説くことが自分たちの絶対的義務であると思い込んでいること。そして、その啓示は完全にして、神の最後のお言葉であるとまで信じていることです。 そのような、間違っていると同時に独善的な言説は即刻捨て去られるがよろしい。
最高神がそのような偏ったえこひいきをなさることはあり得ぬことです。すべてを統率される永遠の存在が、地上の一地域の子等の陳腐な願い事だけに耳を傾けるようなことはなさりません。いつの時代にも、それぞれの時代の特殊な事情に応じて神の啓示が授けられているのです。 そのいずれの啓示にも、中核をなす重大な思想が盛られております。
スピリチュアリズムと呼ばれているものは、それらを一つにまとめた総合的思想なのです。これまで断片的に啓示されてきたものが集められ、スピリチュアリズムの名のもとに、偏りのない一個の集合体としたのです。純粋性および真実性において優るものもあれば劣るものもあります。が、イエス・キリストの説いた真理が最も真実味にあふれ、多分インドの古代宗教がそれに続くでしょう。真理の受け入れの最大の障害となるのは偏見です。
私が地上で生活した頃はそうした古い宗教については何の知識も存在しませんでした。そもそもユダヤ人の間には霊魂不滅の信仰と呼べるものは何一つ存在せず、単に憧れる程度にすぎませんでした。そこへイエス・キリストが出現して、真実の信仰として霊の不滅性を説いたのです。使命の一環がその真理を広めることにあったのです。
当時のユダヤ人は今日のクリスチャンとよく似た傾向にありました。いつしか来世についてあまり多くを考えないようになって行きました。そこへイエスが出現して霊の不滅性と永遠性を説いたのです。
それは、こうしてわれわれが他界した霊との交信の可能性を説きに来たのと同じです」 「皆さんが異教徒と呼んでいる者の運命について大部分のクリスチャンが、彼らは死後哀れな道を辿り、お慈悲を要求することを許されぬまま神の裁きに任される、と断じております。不思議でならないのは、イエス自身は同じオリに種類の異なる羊もいると述べ、彼らも同じ仲間として、その行いによって裁かれると教えている事実を忘れていることです。
またパウロが神について語った時も、神は地上のすべての民族を同じ血によってこしらえられたと言い、したがって人類は同じ家系から生じ、神を慕い求める者は誰にでもその願いが叶えられることを説いております」 「キリストが所有していた強大な霊力はとうてい皆さんには理解し得ません。完全な自己滅却が人間の中にあって神のごとき生活を可能ならしめました。その奇跡は天使の背後霊団によって演出されました。そしてその思想は一つの気高い目的に集中しておりました。すなわち人類の福祉への献身です。
キリストは悠久の前生(後注)を有する高級霊の一柱が宿ったものであり、その高い界層においてもなお高い位にありました。人類更生のための大事業はすべてそのキリストを淵源としております。その聖なる影響力は地上のいかなる暗き場所をも数多く啓発しております。これ以降も人類の霊的受容能力が開発されるに従ってその影響力がますます広がって行くことでしょう。
われわれはそのキリストの名のもとに参ります。そのキリストの霊力のお蔭をもって語ります。そしてそのキリストの祝福を皆さんにおあずけしてまいります。その上に安らぎを、安らぎを、安らぎを・・・・・・」 (注)──ここでいう〝前生〟とは誕生前の霊界における生活であって、地上での生活ではない。これは神々の誕生に関わる大問題で、日本の神話では寓話風に語られているが、シルバーバーチは〝物資界に誕生する霊としない霊とが居るのはなぜですか〟という質問に答えて次のように述べている。《霊界の上層部つまり神庁には、一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。
物質器官を通しての表現を体験しなくとも成長進化を遂げることが出来るのです。当初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上へ降りてくることがあります。歴史上の偉大な霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合が幾つかあります》 これは次のインペレーターの霊言とも一致している。
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