───霊力とはどんなものでしょうか。
「霊の力は目には見えません。人間界で用いられているいかなる計量器でも計れないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さもなく色もなく、容積もなく味もにおいもありません。
ですから常識的な地上の計量法でいけば霊力というのはこの世には存在しないことになります。つまり実在とは五感で捉えられないものと決めて掛っている唯物的自然科学者とっては、霊力は存在しないことになります。
しかし、愛は目に見えず、耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。それは深い愛の感動を体験したものが証明してくれます。確かに愛の力は強烈です。しかし、霊の力はそれよりも無限大に強烈です。
あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも、霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも、霊の力があればこそです。あなた方の行動のすべて、存在のすべては霊の力のお陰です。
物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって、存在と目的と指針と生活とを与えられているのです。
物質界のどこを探しても、意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質そのものの中には存在しないからです。物質は、それが、一時的に間借りしている宿に過ぎません。
霊の力は、あなた方が〝神〟と呼んでいるもの、そのものなのです。もっとも、その神を正しく理解していただけないかもしれませんし、誤解してその意味を限定してしまっておられるかもしれません。ともかくその霊力が、かつては火の固まりであったものを今日ご覧になっておられるような生命あふれる緑の地球にしたのです。
その霊力が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。魂がまとう衣服です。地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の成長にまで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが、霊力なのです。
それが雄大であるゆえんは、物質界に限られていないところにあります。すなわち無数の物的現象を通じて絶え間なく働いているだけでなく、見えざる世界の霊的活動のすべて、今のあなた方には到底その存在を知ることのできない、幾重にもつながった高い界層、そしてそこで展開する、これまたあなた方の想像を絶した光輝あふれる生命現象に至るまで、その霊力が支配しているのです。
しかし、いかに雄大であっても、あるいは、いかにその活動が驚異的であるといっても、それにも制約があります。すなわち、それが顕現するには、それが適した器、道具、霊体、通路、霊媒───どうお呼びになっても構いません───そうしたものが無ければならないということです。
壮大な霊の流れも、そうしたものによる制約を受けるのです。地上にどの程度のものが流れ込むのかは、人間側が決定づけるということになります。
私がつねづね、心配の念をはらいなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい。神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。
地上的な力はいつかは衰え、朽ち果てます。人間が築く王国は儚いものです。今日は高い地位にいても、明日は転落するかもしれません。
しかし霊の王国は決して滅びることはありません。霊の尊厳は不変です。神の力は決して衰えません。ただし、その働きの程度を決定づけるのはあなた方であり、現にいつも決定づけております。
スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界の方からこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際には、そうしたことを言う人ほど、霊界からそうしてあげるための条件を整えてくれないものです。
この苦悩に満ちた世界、暗闇と不安におおわれた世界にあって、どうか皆さんには灯台の光となっていただきたい。あなた方の自信にあふれた生きざまを見て人々が近づき、苦悩の最中における憩いの場、聖域、波静かな港を発見することが出来るようにしてあげていただきたい。
皆さんはそういう人たちの心の嵐を静め、魂の静寂を取り戻してあげる霊力をお持ちなのです」
───霊はいつ肉体に宿るのでしょうか。
「霊としてのあなたは無始無終の存在です。なぜなら、霊は生命を構成する要素そのものであり、生命は霊を構成する要素そのものだからです。あなたという存在は常にありました。
生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。が、個体として、つまり他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。
受胎作用とは精子と卵子が結合して、生命力の一分子が自我を表現するための媒体を提供することです。その媒体が提供されるまで、生命力は顕現されません。
それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子とが結合して新たな結合体をこしらえると、小さな霊の分子が自然の法則にしたがってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。
私の考えでは、その時点が意識の始まりです。その瞬間から意識を持った個体としての生活が始まるのです。それ以降は永遠に、個体を具えた存在を維持します」
───何の罪もないのに無邪気な赤ん坊が遺伝性疾患や性病その他の病気を背負ってこの世に生まれてきます。これは公平とは思えません。子供には何の罪も無いのですから・・・この問題をどうお考えでしょうか。
「不公平を口にされるのは、問題を肉体の問題としてだけ、つまり物質界のみの問題としてお考えになり、無限の生命の観点からお考えになっていないからです。霊そのものは性病なんかには罹りません。霊が傷ついたり奇形になったりすることはありません。
両親の遺伝的特質や後天的性格を受け継ぐことはありません。それは霊が自我を表現する媒体であるところの肉体に影響を及ぼすことはあっても霊そのものを変えるようなことにはなりません。
確かに、地上的観点から、つまり物的観点からのみ人生を眺めれば、病弱な身体を持って生まれた人は健全な身体を持って生まれた人よりも、物的には不幸の要素が多いと言えるでしょうが、その意見は霊については当てはまりません。
身体が病弱だから霊も気の毒で、身体が頑健だから霊が豊かであるという方程式は成り立ちません。実際にはむしろ宿命的な進化のための備えとして、多くの痛みや苦しみを味わうことによって霊が豊かになるという考え方が正しいのです」
───では、この世をよりよくしようとする衝動はどこから出てくるのでしょうか。
「帰するところ、神がその無限の創造事業への参加者としての人間に与えた自由意思から出ています」
───物的な苦痛によって霊が進化するのであれば、なぜその苦痛を無くする必要があるのでしょうか。
「私はそのような説き方はしておりません。私がそのことを引き合いに出したのは、人生には寸分の狂いもなしに埋め合わせの原理が働いていることを指摘するためでした。
ここに二人の人間がいて、一人は五体満足で、もう一人はどこかに障害があるとした場合、後者は死後も永遠にその障害を抱えていくわけではないと言っているのです。要するに肉体の健康状態がそのまま霊の状態を現すのではないことをお教えしようとしているのです。
霊には霊としてのたどるべき進化の道程があります。その霊がいかなる身体に宿っても、必ず埋め合わせと償いの法則がついてまわります」
───でも、やはり身体は何の障害も無い状態で生まれるのが望ましいのではないでしょうか。
「もちろんです。同じように地上に貧民(スラム)街がない方がいいに決まっています。しかし、その貧民(スラム)街をこしらえるのも地上天国をこしらえるのも、結局は同じ自由意思の問題に帰着します。人間に自由意思がある以上、それを正しく使うこともあれば誤って使うこともあるのは当然です」
───でも不幸が霊のためになると知ったら、地上をより美しくしようとする意欲をそがれる人もいるのではないでしょうか。
「地上の出来事で埋め合わせのないものは何一つありません。もしも神の働きが阻害されて、当然報われるべき行為が報われずに終わることがあるとすれば、これは神の公正を嘲笑う、深刻な事態となります。
私が指摘しているのは、埋め合わせの原理が厳然として存在すること、そして、進化の法則に逆らった行為を犯しながら神の摂理とは別の結果が出るようにいくら望んでも、神の計画は少しもごまかされないということです。
しかし同時に、次の事実も知っておく必要があります。すなわち、たとえ現代の地上の不幸の原因が取り除かれても、人間はまたみずからの自由意思によって、みずからの複雑な文明の中からさらに新たな不幸を生じさせる原因を生み出していくということです。
しょせん、人間は完全へ向けての無限の階段の連続です。一段又一段と、みずからの力で向上していかねばなりません。しかも、いつかは最後の一段にたどり着くと思ってはなりません」
(ここで質問と答えに少しズレが見られるが、このあともう一度同じ質問がでる──訳者)
───肉体の病気は霊的な進化を促進するかも知れませんが、その逆もあり得る、つまり性格を損ねる事もあるでしょう?
「損ねる事もあるし損ねないこともあります。どちらのケースもあります。病気になるのは摂理に反した行為をするからです」
───では病気または病気に相当するものは絶対に不可欠のものとおっしゃるわけですね?
「いえ、私は病気に相当するものとは言っておりません。何らかの〝苦〟に相当するものです。人間に自由意思がある以上、選択の仕方によって楽しい体験となったり苦しい体験となったりするのは当然でしょう」
───それは分かります。苦しみを味わわないと幸福も味わえないからです。ですが、どうも私には、もしもあなたがおっしゃるように、こういうことがあれば必ずこういう埋め合わせがあるというのが事実であれば、世の中を良くしようとして苦労する必要はなさそうに思えるのですが・・・・・・
「人間に選択の自由があるのに、ほかにどうあってほしいというのでしょう」
───この度の戦争のことはさて措いて、私は今日の世界は三百年前よりはずっと幸せな世の中になっていると思うのです。世界中のほとんどの国が、戦争はあっても、やはり幸せな世の中になっております。
「おっしゃる通りですが、それが私が言っていることと、どこがどう矛盾するのでしょう?」
───われわれ人間は(取り立てて人のためと説かれなくても) 常に世の中を良くしてきているということです。
「しかしそれは、世の中を良くしたいと言う願望に燃えた人がいたからこそですよ。魂に宿された神性が自然な発露を求めたのです。神の一部だからこそです。
かりに今日要求したことが明日、法の改正によって叶えられても、明日はまた不満が出ます。進化を求めてじっとしていられない魂が不満を覚えるのです。それは自然の成り行きです。魂が無意識のうちに、より完全なものを求めようとするからです。
今日の地上の不幸は、その大半が自由意思による選択を誤ったことに起因しています。それには必ず照合がなされ、さらに再照合がなされます。そうすることで進歩したり退歩したりします。
そうした進歩と退歩の繰り返しの中にも、少しずつ向上進化が為されております。先んずる者もいれば後れをとる者もいます。先を行っている者が遅れている者の手を取って引きあげてやり、遅れている者が先を進み過ぎている者にとって、適当な抑制措置となったりしております。
そうやって絶え間なく完成へ向けての努力が為されているわけです。が、その間の人生のあらゆる悲劇や不幸には、必ず埋め合わせの原理が働いていることを忘れてはなりません」
───改めるべきものは山ほどありますね。
「あなた方は自由主義を誇りにしておられますが、現実には少しも自由とはいえない人々が無数におります。有色人種をごらんなさい。世界中のどの国よりも寛容心を大切にしているあなた方の国においてですら、劣等民族としての扱いを受けております。
私がいつも、これで良いと思ってはいけない、と申し上げている理由はそこにあります。世の中はいくらでも明るく、いくらでも清らかに、そしていくらでも幸せになるものなのです」
───葛藤や苦悩が霊的進化にとって不可欠なものならば、それは霊界においても必要なのではないでしょうか。なのに、あなたは、そちらには悪と邪の要素が無いようにおっしゃっていますが・・・・・・
「ご質問者は私の申し上げたことを正しく理解していらっしゃらないようです。私は邪と悪には二種類ある───この〝悪〟という言葉は嫌いなのですが───すなわち、既得権に安住している利己主義者が生み出しているものと、人類の未熟さからうまれるものとがあると申し上げたつもりです。
私たちの世界には邪悪なものは存在しません。もちろん、ずっと低い界層へ行けば霊性が貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。が、そうした侘しい世界は例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。
邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心行くまで従事しております。
葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっとも、その意味が問題ですが・・・・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で、絶え間ない葛藤があります。
一つは動物的先祖ともいうべきもの、つまり身体的進化向上に属する獣的性質、そしてもう一つは神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を賦与してくれた神の息吹です。
その両者のどちらが優位を占め、そしてその優位をどこまで維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で、自由意思によって選択することです。
こちらの世界へ来からでも葛藤はあります。それは、低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする、絶え間ない努力という意味です。
完全へ向けての努力、光明へ向けての努力ということです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精錬と試練をへて、ようやく霊の純金が姿を現します。
こちらの世界にも悩みはあります。しかしそれは、魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表れであって、ほんの一時のことです。完成へ向けて長い行進の中で短い調整期間のようなものです」
───でも、葛藤と進歩、そして努力の必要性はつねにあるわけでしょう?
「おっしゃる通りです。だからこそ私は、先ほどの言葉の解釈が問題だと申し上げたのです。自然界の常として、より高いものがより低いものを無くそうとします。それは当然のことで、そうでなかったら進化というものが真実でなくなります。
人間は低い段階から高い段階へ向けて成長しようとする、進化性を持った存在です。進化するためには、光明へ向けての絶え間ない葛藤がなければなりません。その場合の葛藤は、成長のための必須の過程の一つであるわけです。
さきほど私が言いたかったのは、地上には不必要な葛藤、無益な努力が多過ぎるということです。それは自由意思の使用を誤って、薄汚い知恵、病気、貧民(スラム)街といった、あってはならないものを生み出し、それが霊界からの働きかけをますます困難にしているのです」
───〝神(ゴッド)〟は完全無欠ですか?
「あなたがおっしゃる神が何を意味するかが問題です。私にとって神とは、永遠不変にして全知全能の、摂理として顕現している宇宙の大霊です。その摂理に、私はいかなる不完全さも不備も見つけたことがありません。
原因と結果の連鎖関係が完璧です。この複雑を極めた宇宙の全生命活動のあらゆる側面において、完璧な配慮が行きわったっております。
例えば、強大から極微までの無数の形と色と組織を持った生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただけば、神の法則の全構図と全組織とがいかに包括的で完全であるかを認識なさるはずです。
私にとっては神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなた方人間は不完全な物質の世界に生活しておられるということです。
物質の世界に生きておられる皆さんは、今のところその物質すら、たった五つの物的感覚でしか理解できない限られた条件下で、限りある精神を通して自我を表現しておられるわけです。物的身体に宿っているかぎりは、その五感が、周囲の出来ごとを認識する範囲を決定づけます。
それゆえに、あなた方は完全無欠というものを理解すること自体が、そもそも不可能なのです。五感に束縛されている限りは、神の存在、言いかえれば、神の摂理の働きを完全に理解することは不可能ということになります。
その限界ゆえに、摂理の働きが不完全であるかに思えることがあるかもしれませんが、知識と理解が増し、より深い叡智をもって同じ問題を眺めればそれまでの捉え方が間違っていたことに気づきはじめます。
物質の世界は進化の途上にあります。その過程の一環として、時には静かな、時には波動を作った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していく為の絶え間ない自然力の作用と反作用の現れです。
常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素なのです。実に複雑なのです」
───神は完全だとおっしゃいましたが、われわれ人間が不完全であれば神も不完全ということになりませんか。
「そうではありません。あなた方は完全性を備えた種子を宿しているということです。その完全性を発揮するための完全な表現器官をそなえるまでは、完全にはなり得ないということです。現在のところ、その表現器官がきわめて不完全です。
進化して完全な表現器官、つまり完全な霊体をそなえるに至れば、完全性を発揮できるようになりますが、それには無限の時を要します」
───ということは、神のすべての部分が完全の段階に至るのにも無限の時を要するということでしょうか。
「違います。神は常に完全です。ただ、現在物質の世界に人間という形態で顕現されている部分の表現が不完全だということです。それが完全な表現を求めて努力しているわけです」
───それを譬えて言えば、ある正しい概念があって、それが人によって間違って理解され使用されているようなものでしょうか。
「その通りです。しかも、それも、一歩ずつではあっても、絶えず理想へ近づいていかねばなりません。完全は存在します。それを私は、あなた方は本当の自分のほんの一かけらしか表現していないと申し上げているのです。
もしも現在のその身体を表現されている一かけらだけであなたを判断したら、極めて不当な結論しか出てこないでしょう。が、それは本当のあなたの一部に過ぎません。
もっと大きなあなた、もっと大きな意識が存在し、それが今もあなたとつながっているのです。ただ、それは、それに相応しい表現器官が与えられないと発揮されないということです」
───お聞きしていると、神が一個の存在でなくなっていく様に思います。独立した存在として神はいるのでしょうか。
「真っ白な、豪華な玉座に腰掛けた、人間の姿をした神はいません。神とは一個の身体を具えた存在ではありません。摂理・法則です」
───それに心が具わっているわけでしょうか。
「心というものは、あなた方の身体を通してのみ働いているのではありません。法則を通して働いているのです。心を脳味噌と切り離して考えないといけません。
意識というのは、そのお粗末な脳細胞だけを焦点として働いているのではありません。脳とは完全に独立した形で存在します。その小さな脳という器官との関連で心の働きを考えるのは止めないといけません。
心はそれ自体で存在出来ます。しかしそれを自覚するには何らかの表現器官が必要です。そのために、人間には幾つもの、霊的身体が具わっているわけです。
身体を具えていない状態を想像することは可能であり、その状態でもあなたは厳として存在しますが、それではあなたと言う個性を表現する手段がないことになります。
神という存在を人間に説明するのは、実に困難です。人間には、独立した形態を具えた存在としてしか想像できないからです。言語や記号を超越したものを地上の言語で説明しようとするのが、そもそも無理な話です。創造の本質に関わることなのです。
神と言う存在をどこかのある一点に焦点を持つ力として考えてはいけません。そんなものではないのです。神とは完全な心、始めも終りもなく、永遠に働き続ける完璧な摂理です。
真っ暗だったところへ、ある日突然、光が差し込んだというものではありません。生命は円運動です。始まりも終りもありません」
───宇宙のすみずみまで神が存在するのと同じように、我々一人ひとりにも神が宿っているとおっしゃるわけでしょうか。
「私のいう神は、全創造物に顕現されている霊の総体から離れて存在することは出来ません。残念ながら西洋世界の人は、いまなお人類の創造をエデンの園(アダムとイブの物語)と似たような概念で想像します。実際はそれとはまったく異なるのです。
宇宙の進化は無窮の過去から無窮の未来へ向けて延々と続いております。かつて何もなかったところへ、突如として宇宙が出現したのではありません。宇宙は常にどこかに存在します。生命は何らかの形態で常に顕現してきました。そしてこれからも何らかの形で永遠に存在し続けます」
スピリチュアリズムによる新しい啓示の重大性について、こう述べる。
「闇に閉ざされたこの地上界にあって、意義ある貢献する機会を与えてくれる霊的知識を手にされた皆さんは、何と幸せな方たちでしょう。幾十世紀にもわたって偉大なる頭脳を悩ませてきた多くの謎を解くカギを手にされた皆さんは、何と幸せでしょう。
歩むべき道を照らしだし、永遠の生命の機構の中におけるご自分の存在すべき位置を理解させてくれる叡智を授かった皆さんは、実にお幸せな方たちです。そうした霊的知識を誇りに思わないといけません。
誤った教えの下敷きとなってしまっている人々を救いだし、正しい知識と理解への道を指し示してあげることが出来るからです。
しかしそれにも増して大きいのは、そうした知識を手にした人が背負うことになる責任です。本当の意味で大霊の使徒となるからです。最高神の道具となったということです。忠誠を捧げる聖なる大義を汚すようなことは絶対にしないという責任が、その人の双肩に掛ってきます。
地上世界は霊的知識を必要としております。それは生活の全側面を照らしだし、理解に苦しむ問題を簡単に解いてくれます。人類の進歩のブレーキとなってきた誤った教えの粗悪さと不当性によって、これ以上苦しめられることは無くなるでしょう。
今まさに地上世界は、歴史的に見ても重大な時期を迎えているのです。皆さんの目の前で新しい歴史が刻まれつつあるのです。魂の最終のゴールである〝自由〟の獲得への道を、あなた方が整備してあげているのです。
皆さんには霊的貢献の分野があります。大霊の子が人生の嵐の中を生き抜く上での正しい基盤を手にすることが出来るように、この霊的真理を普及させないといけません。
その普及活動を阻止しようとする勢力は次第に衰えつつあります。かつては脅威に思えた反抗が、今やおぼろな影となっております。かつて先駆者たちが直面させられた苦難は、その先駆者たち自身のお陰で大幅に取り除かれました。
しかし、まだまだ為すべきことが多く残されております。その大きな仕事の一端が、あなた方の双肩に掛っているのです。
堂々と胸を張り、魂の自由と進歩と啓発に貢献していることに、誇りを持って下さい。大霊の子等が暗闇でなく真理の光の中で生きるための魂の自由と解放という仕事において、皆さんは、ご自分で考えておられる以上に、大きな貢献をしておられます。
本当の自我に目覚める霊が増えつつあります。ここぞという重大な時に何の役にも立たなかった古い教えに背を向ける男女が増えつつあります。今や古い秩序は完全に砕かれました。
古いものはやはり古いという認識のもとに、古い宗教的体制への不信感が加速されております。新しい教義、新しい人生指導原理を求めているのです。
人々は光明を求めています。のちの世代に光明を約束してくれるものに希望を託しております。過去が残してくれたものに不審を抱き、新しい霊的真理を渇望しているのです。それを提供するのが、あなた方の役目です。
これから始まる再構築の大事業に備えるための知識と力とを身につけさせるために、陰ながら導いてくれている背後霊の存在を認識させてあげるのです。
肩書(ラベル)と言うものが次第に魅力を失いつつあります、地上人類は今まであまりに長い間、タイトルや肩書を崇めてきました。それが今、そうしたものに幻滅を感じ始めております。新しいタイプの魂、真実を問い質す魂、真理を求める魂、権威を自称するものを容易に信用しない魂、遠い昔の聖なる書はあくまでもその時代のもので、しかもただ霊的啓示であると信じられているに過ぎないから信じない、と主張する魂が生まれつつあります」
次に、霊的交流を求める上での心掛けについてのアドバイスを求められて───
「精神を受け身の状態にし、冷静でいてしかも受容力に富んだ態度を保つ修業が必要です。霊力は、人間の方から命令的に求められる性質のものではありません。秩序正しい段階を踏んで用意を整えて下さらないと、授けることは出来ないのです。
ある一定の必須の条件というものがあるからです。通信回路が正しく開かれていないと、インスピレイションは流れませんし、たとえ流れても、歪められてしまいます。
何よりも大切なのは、いかなる困難、いかなる騒ぎの中にあっても、平静さを失わないようになることです。私たちの教えを知識としていくら沢山詰め込んで下さっても、心の平静さを保つ修業ができないかぎり、その価値は十分に発揮されないことになります。
あなたも大霊の一部なのです。その無限の力の宝庫から必要なものを引き出すことができるのです。いかなる人生の嵐、喧騒、混乱の中にあっても、平然とそれを達観し、永遠にして無限なる霊的存在としての〝あなた自身〟は絶対に惑わされないとの、不敵な信念に燃えないといけません。
困難には正面から取り組んで、それを克服しないといけません。その葛藤の中においてこそ性格が形成され、霊性が磨かれ、真実の自我を発見していくことになるのです。
霊的真理を手にした私たちには、為すべきことが山ほどあります。今行われている(第二次)世界大戦、大量の肉体の殺し合い、狂気の破壊行為、世界全体を被う悲しみの波動は、これから先、大変な困難を生み出して行くことでしょう。
しかし、戦争は永遠に続くものではありません。いつかは終わります。その時には私達が再びその使命を果たす役目が廻ってきます」
そして最後に、地球浄化の大事業者に携わっている世界中の指導霊を代表する形で、こう激励した。
「この事業が成功するかしないかは、皆さんのような地上の道具の忍耐力と共鳴度と理解力に掛っております。私も、これまでずいぶん永い間、みなさんを陰から導いてまいりました。せっかく順調に奉仕の道を歩んでいるのに、ふと迷いが生じて不純な動機を宿した時、私が、皆さんの良心の耳元で囁いて、無事正しい道に引き戻したことが何度あったか知れません。
長年にわたるそうした苦労の末に、こうして同志の方を一堂に集めることに成功しました。その目的は、地上の人間が大霊の意図したとおりに霊的属性を発揮するにはどういう生き方をすべきかを教えてあげることです。皆さん方から背を向けない限り、私たちはこれからも忍耐強くこの仕事を続けてまいります。
大霊から授かっている才覚を精一杯発揮して、一人でも多くの人に霊的真理を知らしめるのが、私たちの使命なのです。最初はごく少数の集まりでした。が、その滴のような小さな集まりが小川となり、やがて大河となって海へ注ぐことになるのです。
スピリチュアリズムと呼ばれている新しい啓示が世界中に知れわたるのに、(十九世紀半ば以来)ほぼ一世紀を要しました。もう一世紀後には、その数は信じられないほど多くなっていることでしょう。皆さんはその先駆者(パイオニア)なのです」
シルバーバーチ
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