私たち霊団の者は皆さんにいかなる教義も儀式も作法も要求しません。ただひたすら大霊の愛の実在を説くだけです。それが、大霊の子等を通して発現すべく、その機会を求めているからです。
そのためには、いかなる書物にもいかなるドグマにも縛られてはいけません。いかなるリーダーにもいかなる権威にも、またいかなる巻物にもいかなる教義にも縛られてはなりません。
いかなる聖遺物を崇めてもいけません。ただひたすら大霊の摂理に従うように心がけるベきです。摂理こそが宇宙で最も大切なものだからです。宇宙の最高の権威は大霊の摂理です。
教会と呼ばれているものの中には中世の暗黒時代の遺物が少なくありません。そもそも大霊はいかなる建築物であってもその中に閉じこめられる性質のものではありません。
あらゆる所に存在しています。石を積み重ね、その上に尖塔をそびえ立たせ、窓をステンドグラスで飾ったからといって、大霊が喜ばれるわけではありません。
それよりも、大霊が用意してくださった太陽の光が子等の心を明るく照らし、大霊が注いでくださる雨が作物を実らせることの方が、よほど喜ばれます。
ところが、残念なことにその大霊の恩寵と子等との間に、とかく教会が、政治家が、そして金融業者が介入します。こうしたものを何としても取り除かねばなりませんし、現に今まさに取り除かれつつあります。
霊力を過去のものとして考えるのは止めにしないといけません。ナザレのイエスを通して働いた霊力は今なお働いているのです。
あの時代のユダヤの聖職者たちは、イエスを通して働いている霊力は悪魔の力であるとして取り合いませんでしたが、今日の聖職者たちもスピリチュアリズムでいう霊力を同じ理由で拒絶します。
しかし、地上界も進歩したようです。その霊力を駆使する者を十字架にかけることはしなくなりました。
イエスが放った光輝は、あの時代だけで消えたのではありません。今なお輝き続けております。そのイエスは今どこにいると思われますか。
イエスの物語はエルサレムで終わったとでも思っておられるのでしょうか。
今なお苦悩と混乱と悲劇の絶えない地上界を後にして天上界で賛美歌三昧に耽っているとでもお思いですか。
私たち霊界の者からの働きかけを信じず悪魔のささやきかけであると決めつけているキリスト教の聖職者たちは、その昔ナザレのイエスに同じ非難のつぶてを浴びせたユダヤ教の聖職者たちと同列です。
イエスは私たちと同じ大霊の霊力を携えて地上界へ降誕し、同じ奇跡的現象を起こして見せ、同じようなメッセージを届けました。
即ち、喪の悲しみに暮れる人々を慰め、病める人々を癒し、暗闇に閉ざされた人々に光をもたらし、人生に疲れた人々には生きる勇気を与え、何も知らずにいる人々には霊的知識を授けてあげなさい、と。
私たちもあなた方も皆、大霊への奉仕者です。その点は同じです。ただ私たちは進化の道程においてあなた方よりも少しばかり先を歩んでおります。そこでその旅先で学んだ知識と叡智を教えてあげるべく舞い戻ってきたのです。
奉仕、即ちお互いがお互いのために自分を役立てるというのが、生命原理の鉄則だからです。奉仕精神のないところには荒廃あるのみです。奉仕精神のあるところには平和と幸せが生まれます。
地上界は、互いに奉仕し合うことによって成り立つような生活形態を目指さないといけません。それは本当はいたって簡単なことなのですが、なぜかそれが難しい形態となっております。その元凶が実は組織宗教なのです。
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