Saturday, July 30, 2022

シアトルの夏 何億年の昔、まだ地上に何一つ生物の存在しなかった時から太陽は地球を照らし続け、Hundreds of millions of years ago, the sun has been illuminating the earth since there were no living things on the earth.


人間が誰一人居ない時からエネルギーをふんだんに放射し続け、そのおかげで石炭その他の、太陽エネルギーの貯蔵物を燃料とするこ 何億年の昔、まだ地上に何一つ生物の存在しなかった時から太陽は地球を照らし続け、とが出来ているのです。何と悠長な教訓でしょう。

 せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台無しにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターン(型)があり、そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も、自ら定めた摂理の枠から外れて働くことは出来ないのです。指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えなくてはいけません。そのためには、それまでの経験を活用しなくてはいけません。

それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信を持つことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。

正しい条件さえ整えば、その神性は、神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。

 故にあなた方は常にリラックスし、受身的で穏やかで平静で、しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。その状態にある限り万事がうまくいき、必要とするもの全てが施されるとの確信を持たなければいけません。安易な人生からは価値あるものは得られません。困難な人生からのみ得られるのです。神は決してあなた方を見捨てません。

見捨てるのはあなた方の方です。あなた方が神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開けるのだという自信を持つことです。不動の信念を持てば道は必ず開かれます。これはすでに私が何年にもわたって説いてきたことです。真実だからです。実践してみればその通りであることを知ります。物質は霊の僕です。

霊は物質の僕では無いのです。身体がひとりで呼吸し動いているのではありません。霊がいなかったら身体は生きておれません。現に、霊が去れば身体は朽ち果てるのみです。

 霊性を悟ることは容易なことではありません。もし容易であれば価値は有りません。その道に近道は有りません。王道は無いのです。各自が自分で努力し自分で苦労をしなくてはなりません。しかし同時にそれは登るにつれて喜びの増す、素晴らしい霊的冒険でもあるのです。

Friday, July 29, 2022

シアトルの夏 死後の喜びと悲しみ  Posthumous joy and sadness

 



〈善悪の報い〉


――死の直後の心情はどんなものでしょうか。疑念でしょうか、恐怖心でしょうか、それとも希望でしょうか。


「懐疑的人間は疑念を抱き、罪深い人間は恐怖心を抱き、善性の強い人間は希望にあふれます」


――神は人間の一人一人に係わっているのでしょうか。宇宙の大霊ともなると人間のような小さな存在に直接係わるとは思えないのですが……


「神は自ら創造されたもの全てに係わっておられます。完全なる公正のためには小さ過ぎるものは一つもありません」


――我々人間の一人一人の言動の一つ一つに善悪の報いの裁可が下されるのでしょうか。


「神の摂理は人間の言動の全てにわたって働きます。そのことで勘違いしないでいただきたいのは、人間がその摂理の一つを犯すと神が、こいつは欲が深すぎるから懲らしめてやろうなどと言って裁くような図を想像してはいけないことです。神は欲望に一定の限度を設けています。もろもろの病気や災厄、あるいは死でさえもが、その限度を踏みはずした結果として自然に発生するのです。罰というのは全て、法則に違反したその結果です」


――完成された霊の幸福感はどういうものでしょうか。


「全てを知り得ること、憎しみも嫉妬心も怨みも野心も、その他、人間を不幸にしている悪感情が何一つないということです。互いに睦み合う情愛は至福の泉です。物的生活につきものの、欲しいものや苦痛、悩みなどが一切ありません。

その幸せの度合いは霊性の高さに比例しています。最高の幸せは(相対的な意味で)完全な純粋性を身につけた霊が味わいますが、その他の霊が幸せを感じていないわけではありません。悪いことばかり考えている低級霊から最高級の霊の界層までには、霊性と幸せにおいて無数の格差があります。それぞれに、それなりの徳性に応じた楽しみがあるということです。

霊性がある一定の高さにまで向上すると、その先、つまり自分の境涯よりも高い界層で味わえる幸福感がいかなるものであるかが予感できるようになります。そしてその幸福感にあこがれて修養に励みます。嫉妬心などとは違います。やむにやまれぬ憧憬です」


――キリスト教では浄化しきった霊は神の御胸の中に集められて、そこで神をたたえる歌を永遠にうたい続けるというのですが、これはどう解釈したらよいでしょうか。


「これは神の完全性について理解した高級霊がそれを寓話的に表現したもので、これをその言葉どおりに受け取ってはいけません。自然界のもの全て――砂の一粒でさえもが――神の威力と叡知と善性を高らかに謳(うた)っていると言えます。これを高級霊が神を拝みつつ永遠に讃美歌をうたい続けるかに想像するのは間違いです。そんな退屈で愚かで無駄な話はありません。

それほどの界層の霊になると、もはや地上生活のような艱難辛苦はありません。いわゆる解脱の境地に入っているわけで、それ自体が喜びです。また、すでに述べたように、彼らには何でも知ることができ、物事の因果関係が理解できますから、その知識を駆使して、進化の途上にある他の霊を援助します。それが又、喜びなのです」


――下層界の低級霊の苦難はどのようなものでしょうか。


「原因しだいで、こうむる苦難も異なります。そして、高級霊の喜びがその霊性の高さに比例して大きくなるように、低級霊が感じる苦痛の程度も、各霊の霊性によって異なります。

大ざっぱに言えば、到達したい幸せの境地が見えていながら行かせてもらえないこと、その幸せを味わうことのできる霊性の高さに対する羨望(せんぼう)、幸せを妨げている自分のそれまでの所業に対する後悔の念、嫉妬、憤怒、絶望、そして言うに言われぬ良心の呵責、等々です。要するに霊的な幸せや喜びを求めながらそれが叶えられないことから生じる苦悩です」


――その中でも最大のものは何でしょうか。


「罪悪の中には、それが生み出す苦痛が計り知れないものがあります。本人自身も叙述できないでしょう。が、間違いなく言えることは、その苦痛の状態がいつまでも変わらず、もしかしたら永遠に続くのではないかという恐怖心が必ずあります」


――“永遠の火刑”のドグマはどこから生まれたのでしょうか。


「よくあるように、これも言葉による比喩的表現にすぎません」


――しかし、このドグマによる恐怖が良い結果をもたらすこともあるのではないでしょうか。


「周囲を見回してごらんなさい。このドグマで悪事を思い止まった人がいるでしょうか。たとえ幼少時から教え込まれた者でも効き目はないはずです。理性に反した教えは、その影響に永続性がなく、健康的でもありません」


――邪霊にも善霊の幸せがどのようなものかが分かるのでしょうか。


「分かります。そこにこそ彼らの苦悶の源があるのです。自分の過ちによってその幸せが味わえないという因果関係が分かっているからです。そこでまた再生を求めます。新たな人生で少しでも罪滅ぼしをすれば、それだけ幸せな境涯に近づけると思うからです。だからこそ苦難の人生を選択するのです。自分が犯した悪、あるいは自分が大本になって生じた一連の悪、また、しようと思えばできたはずなのに実行しなかった善、さらには、そのために生じた悪、そうしたことについても一つ一つ償いをしなくてはなりません。

霊界へ戻ってさすらいの状態にある時は、ちょうど霧が晴れて視界が見晴らせるようになるごとくに現在の自分の境涯と上級界層の幸せの境涯との間に横たわる罪の障害が、ありありと分かるのです。だからこそ苦悶が強まるのです。自分が咎めを受けるべき範囲が明確に理解できるからです。もはやそこには幻想は存在しません。事実を有るがままに見せられます」


――高級な善霊にとっては、そうした苦悶する霊の存在は幸福感を殺(そ)がれる要因となるのではないでしょうか。


「その苦悶にはそれなりの目的があることを理解していますから、幸福感が殺がれることはありません。むしろその苦しむ霊たちを救済することに心を砕きます。それが高級霊の仕事であり、成功すればそれが新たな喜びとなります」


――苦しんでいる霊が何の縁もない人であればそれも理解できますが、地上時代に何らかの縁があって情的なつながりがある場合は、自分のことのように辛いのではないでしょうか。


「今申したのと同じです。地上時代と違って今はまったく別の観点から見ていて、その苦悶に打ち勝てばそれが進化を促すことになることを理解していますから、自分の苦しみとはなりません。むしろ高級霊が残念に思うのは、彼らから見ればほんの一時的でしかないその苦しみよりも、その苦しみを耐え抜く不抜の精神が欠如している場合です」


――霊の世界では心に思ったことや行為の全てが他に知れるとなると、危害を及ぼした相手は常に自分の目の前にいることになるのでしょうか。


「常識で考えればそれ以外の回答は有り得ないことくらい、お分かりになるはずです」


――それは罪を犯した者への懲罰でしょうか。


「そうです。あなた方が想像する以上に重い罰です。ですが、それも霊界ないしは地上界での生活の中で償いをして行くうちに消えて行くことがあります」


――罪の浄化のために体験しなければならない試練があらかじめ分かることによって、もし間違えば幸福感が殺がれるとの不安が魂に苦痛を覚えさせるでしょうか。


「今なお悪の波動から抜け切れない霊についてはそういうことが言えます。が、ある一定レベル以上に霊性が進化した者は、試練を苦痛とは受け止めません」
〈悔い改めと罪滅ぼし〉


――地球よりも垢抜けのした天体への再生は前世での努力の報いでしょうか。


「霊性が純化されたその結果です。霊は純粋性が高まるにつれて、より進化した天体へ再生するようになり、ついには物質性から完全に解脱し、穢れも清められて、神と一体の至福の境地へ至ります」


――人生をまったく平穏無事の中で過ごす人がいます。あくせく働くこともなく、何の心配事もありません。そういう人生は、その人が前世において、何一つ償わねばならないことをしていないことの証拠でしょうか。


「あなたは、そういう人を何人もご存じだとおっしゃるのですか。もしもそのお積もりであるとしたら、その判断は間違いです。表向きそう見えるというだけのことです。もちろん、そういう人生を選択したというケースも考えられないことはありません。が、その場合でも、霊界へ戻ればそうした人生が何の役にも立たなかったこと、無駄な時間を無為に過ごしたことに気づき、後悔します。

霊は活発な活動の中でこそ貴重な知識を収得し霊性が向上するのであって、のんべんだらりとした人生を送っていては、進歩は得られません。このことによく留意してください。そういう人は、地上生活に譬えれば、仕事に出かけながら途中で道草を食ったり昼寝をしたりして、何もしないで帰ってくるようなものです。

そういう風に自らの意志で送った無益な人生には大きな償いをさせられること、そして又、その無駄という罪はその後の幸せに致命的な障害となることを知ってください。霊的な幸せの度合いは人のための善行ときちんと比例し、不幸の度合いは悪行の度合いと、不幸な目に会わせた人の数と、きちんと比例します。神の天秤には一分(ぶ)の狂いもありません」


――悔い改めは地上生活中に行われるのでしょうか、それとも霊的状態に戻ってからでしょうか。


「本当の悔い改めは霊的状態において行われます。しかし、善悪の判断が明確にできるレベルに達した人の場合は地上生活中でも有り得ます」


――霊界での悔い改めの結果どういうことになるのでしょうか。


「新たな物的生活(再生)への願望です。霊的に浄化されたいと思うようになるのです。霊には幸せを奪う自分の欠点が正直に意識されます。そこでそれを改めるような人生を求めることになります」


――地上生活中の悔い改めはどういう結果をもたらしますか。


「欠点を改めるだけの十分な時間があれば地上生活中でも霊性が向上します。良心の呵責を覚え、自分の欠点を十分に認識した時は、その分だけ霊性が向上しているものです」


――地上時代には絶対に自分の非を認めなかったひねくれ者でも、霊界へ戻れば認めるものでしょうか。


「認めます。必ず認めるようになりますし、次第にその罪の大きさに気づきます。地上時代の自分の過ちの全てが分かってきますし、自分が原因で広がった悪弊も分かってくるからです。もっとも、すぐに悔い改めるとは限りません。一方でその罪悪への罰に苦しみつつも、強情を張って自分の間違いを認めようとしないことがあります。しかし遅かれ早かれ道を間違えていることに気づき、やがて改悛の情が湧いてきます。そこから高級霊の出番となります」


訳注――高等な霊界通信に必ず出てくるのがこの“高級霊の出番”である。高級霊団は地上で迷っている者や死後いわゆる地縛霊となってしまった霊の思念の流れを一つ一つ把握していて、たとえ一瞬の間でも改悛の情や善性への憧れをのぞかせたり、真理の一筋の光でも見出し始めると、その一瞬を狙って働きかけ、その思念を持続させ増幅させようとする。

もちろんその一方には悪への道へどんどん深入りさせようとする邪悪集団の働きかけもある。一人の人間が殺意を抱くと邪霊集団が大挙して集まってくるという。ヒステリックな言動はもとより、その反対に、どこかに良心の呵責を感じながらも身勝手な理屈で打ち消しつつ密かに抱いている不健全な、あるいは非人道的な思いも、邪霊の格好の餌食である。
〈天国・地獄・煉獄〉


――宇宙には霊の喜びや悲しみに応じてこしらえられた一定の場所というのがあるのでしょうか。


「その問いについてはすでに答えてあります。霊の喜びや悲しみは、その霊性の完成度に応じて、本来そなわっているものが開発されて行くのであって、外部から与えられるものではありません。各自がその内部に幸不幸の素因を秘めているのです。霊はどこにでも存在するのですから、幸福な霊はここ、不幸な霊はあそこ、といった区画された地域があるわけではありません。物質界に誕生する霊に関して言えば、生まれ出る天体の霊的進化の度合いに応じて、ある程度まで幸不幸の度合いが決まるということは言えるでしょう」


――と言うことは“天国”とか“地獄”は人間の想像したもので、実際には存在しないのですね?


「あれは象徴的に表現したまでです。霊は幸不幸に関係なく至るところに存在しています。ただし、これもすでに述べたことですが、霊性の程度がほぼ同じ者が親和力の作用で集まる傾向があります。しかし、完全性を身につけた霊はどこででも集結できます」


――“煉獄”というのはどう理解したらよいのでしょうか。


「身体的ならびに精神的苦痛のことです。罪が贖(あがな)われていく期間と見ることもできます。煉獄を体験させられるのは必ずといってよいほど地上界です。罪の償いをさせられるのです」


――“天国”はどういう意味に解釈すべきでしょうか。


「ギリシャ神話にあるような、善霊が何の心配事もなく、ただ楽しく愉快に遊び戯れているというエリュシオンのような場を想像してはいけません。そんな他愛もないものではありません。天国とは宇宙そのものです。惑星の全てであり、恒星の全てであり、天体の全てです。その大宇宙の中にあって、物的束縛から完全に解放され、従って霊性の低さから生じる苦悶からも解脱した高級霊が、内在する霊的属性をフルに発揮して活動しているのです」


――通信霊の中には第三界とか第四界といった呼び方をする者がいますが、あれはどういう意味でしょうか。


「人間側がとかく階段状の層のようなものを想像して、今何階に住んでいるのですかなどと聞くものですから、その発想に合わせて適当に答えているまでです。天界は人間の住居のように三階・四階と重なっているわけではありません。霊にとっては霊性の浄化の程度の差を意識するだけで、それは即ち幸せ度の象徴でもあります。

地獄についても同じことが言えます。地獄というものがあるかと尋ねた時、その霊がたまたま非常に苦しい状態にあれば、たぶん“ある”と答えるでしょう。その霊にとっては地獄とは苦悶のことです。火あぶりにされる地獄のかまどのことではないことくらい本人も知っています。ギリシャ神話しか知らない霊であれば“タルタロス”にいると答えるでしょう」(地獄の下にある底なし淵のこと)
〈永遠の刑罰〉


――この現世においても過ちの贖いは可能でしょうか。


「可能です。それなりの償いをすれば可能です。ただ、勘違いしないでいただきたいのは、罪滅ぼしのつもりで通りいっぺんの苦行を体験したり遺産を寄付する旨の遺言を書いたりしたところで、何の償いにもならないということです。そんな子供騙しの悔い改めや安直な懴悔の行では、神はお赦しになりません。この程度のことをしておけば済むのではないかという、結局は自己打算の考えがそこにあります。

悪行は善行によって償うしかありません。懴悔の行も自尊心と俗世的欲望とを完全に無きものにしてしまわないかぎり、無意味です。神の前にいくらへり下ってみたところで、他人へ及ぼした悪影響の全てを善行によって消滅させないかぎり、何の意味もありません」


――死を目前にして己の非を悟りながら、その償いをする余裕のない人はどうなるのでしょうか。


「悔い改めたという事実は、更生を速める要素にはなるでしょう。が、その程度で赦されるものでないことは今述べた通りです。それよりも将来があるではありませんか。神はいかに罪深い霊にも将来への扉を閉ざすことはありません」


――永遠に罰せられ続ける霊というのが実際にいるのでしょうか。


「永遠に邪悪性を改めなければ永遠に罰せられるのは理の当然です。つまり永遠に悔い改めなければ、あるいは永遠に罪滅ぼしをしなければ、永遠に苦しむことになります。しかし神は、霊が永遠に悪の餌食であり続けるようには創造しておりません。最初は無垢と無知の状態で創造し、自由意志が芽生えてからは、その判断の違いによって長短の差はありますが、霊的本性そのものの働きで進化するようになっているのです。

人間の子供と同じです。早熟な子と晩生(おくて)の子とがいるように、霊にも意欲しだいで進化の速い霊とゆっくりな霊とがいますが、いずれは抑え難い向上心に突き上げられて、低劣な状態から脱し、そして幸せを味わいたいという願望を抱き始めます。従って苦しむ期間を規制する摂理は、本人の努力という自由意志の働きと密接不離の関係にあるという点において、叡知と愛に満たされていると言えます。自由意志だけは絶対に奪われることはありません。が、その使用を誤った時は、その過ちが生み出す結果については自分が責任を取らねばならないということです」


――その説から言えば“永遠の火あぶり”の刑などというのは有り得ないことになるわけですね?


訳注――これから紹介する四人の歴史的大人物による回答は、その内容と語調から察するに、“永遠の刑罰”というキリスト教のドグマについてカルデックが執拗に質問を繰り返し、その中から“これは本物”と確信したものを選び出したようである。これほどの大人物がこれぽっちの文章を書きに(自動書記と察せられる)やってくるわけはないから、原物はずいぶんの量にのぼったのではなかろうか。なお原書では最後に署名が記されているが、ここでは、便宜上、文頭に置いた。


アウグスティヌス「そなたの常識、そなたの理性に照らして、果たして公正なる神がほんの瞬間の迷いから犯した罪に永遠の刑罰を与えるか否かを考えてみられることです。人間の一生など、たとえ数百年もの長さに延ばしてみたところで、永遠に比べれば一瞬の間ではないですか。永遠! そなたにはこの永遠という言葉の意味がお分かりでない。わずかなしくじりをして、終わりもなく希望もないまま苦悶と拷問にさいなまれ続ける! こんな説にそなたの分別心が直観的に反発しませんか。太古の人間が宇宙の主宰神を恐ろしい、嫉妬深い、復讐心に燃えた人格神のように想像したのは容易に理解できます。自然現象について科学的知識がありませんでしたから、天変地異を神の激情の現れと考えたのです。

しかし、イエスの説いた神は違います。愛と慈悲と憐憫(れんびん)と寛容を最高の徳として位置づけ、自ら創造し給うた我々にもそれをそなえることを義務づけておられる。その神が一方において無限の愛をそなえながら、他方において無限の復讐を続けるというのでは矛盾していませんか。

そなたは神の義は完ぺきであり人類の限られた理解力を超えるとおっしゃる。しかし、義は優しさを排除するものではありません。もしも神が自らの創造物である人類の大多数を終わりなき恐怖の刑に処するとしたら、神には優しさが欠けていることになります。もしも神自らが完ぺきな義の模範を示し得ないとしたら、そのような神には人類に義を強要する資格はありません。

神はそのような理不尽な要求はしておられません。罰の期間をその違反者による償いの努力しだいとし、善悪いずれの行いについても、各自その為せるわざに相応しい報いを割り当てる――これこそ義と優しさの極致ではないでしょうか」(アウグスティヌスについては十二章に前出


ラメネイ「あなた方の力で可能なかぎりの手段を尽くして、この永遠の刑罰のドグマと闘い、完全に無きものにするために、これより本腰を入れていただきたい。この概念は神の義と寛容に対する冒涜であり、知性が芽生えて以来この方、人類を侵し続けてきた懐疑主義と唯物主義と宗教的無関心主義の元凶だからです。

知性がいささかなりとも啓発されれば、そのような概念の途方もない不公正に直ちに気づきます。理性は反発し、その反発を覚える刑罰と、そのような理不尽な罰を科する神とのつながりに矛盾を感じないことはまず考えられません。その理性的反乱が無数の精神的病弊を生み出し、今まさに我々がスピリチュアリズムという処方箋を用意して馳せ参じたのです。

これまでのキリスト教の歴史を見ても、この教義の支持者たちは積極的な擁護説を差し控えています。公会議においても、また歴代の教父たちも、この余りに重苦しい問題に結論を出し得ずに終わっております。その分だけ、そなたたちにとってこの説を撲滅する仕事は容易であると言えるでしょう。

よしんばキリストが福音書や寓話の直訳的解釈にある通りに“消すことのできない火”の刑罰をもって罪人(つみびと)を脅したとしても、その言葉の中には“永遠にその火の中に置かれる”という意味はみじんもありません」


訳注――フェリシテ・ド・ラメネイ(一七八二~一八五四)はナポレオンの治政下にあって宗教学者として、政治にも問題を投げかける著書を著し、一時はその進歩的すぎる思想が危険視されて投獄されたこともある。が、獄中でも執筆活動を止めなかった。晩年は貧困と病に苦しみながらも、ダンテの『神曲』をフランス語に翻訳した。その宗教的ならびに政治的影響は二十世紀にも及んだと言われている。


プラトン「愚かきわまる舌戦! 児戯に類する言論戦! たかが言葉の解釈の問題にどれほどの血が流されてきたことでしょう! もう十分です。この無益な言葉をこそ火刑に処して然るべきです。

人類は“永遠の刑”とか“永遠に燃えさかる炎”という言葉について論議を重ねながら、その“永遠”という用語を古代の人間は別の意味で用いていたことをご存じないのでしょうか。神学者にその教義の出所をよく調べさせてみるとよろしい。ギリシャ民族やラテン系民族、そして現代人が“終わりなき、かつ免れ難き罰”と訳したものは、ヘブライ語の原典においては、そういう意味で用いられていないことが分かるはずです。

“罰の永遠性”とは“悪の永遠性”の意味です。そうなのです。人間界に悪が存在するかぎりは罰も存在し続けるという意味です。聖典の言葉もそうした相対的な意味に解釈すべきなのです。従って罰の永遠性も絶対的なものではなく相対的なものです。いつの日か人類の全てが悔い改めて無垢の衣装を身にまとう日が来れば、もはや嘆き悲しむことも泣き叫ぶことも、あるいは無念の歯ぎしりをすることも無くなるでしょう。

確かに人間の理性は程度が知れています。が、神からの賜(たまもの)であることには違いありません。心さえ清らかであれば、その理性の力は刑罰の永遠性を文字通りに解釈するような愚かなことはいたしません。もしも刑罰が永遠であることを認めれば悪もまた永遠の存在であることを認めなくてはならなくなります。しかし、永遠なるものは神のみです。その永遠な神が永遠なる悪を創造したとしたら、神的属性の中でも最も尊厳高きもの、すなわち絶対的支配力をもぎ取られることになります。なぜなら、神が創造したものを破滅に追いやる力がもし創造されたとしたら、その神には絶対的支配力が無かったことになるからです。

人類に申し上げたい! もうこれ以上、死後にまでそのような体罰があるのだろうかと、あたかも地球のはらわたを覗き込むような愚は止めにしてもらいたい! 良心の呵責に密かに涙を流すのはよろしい。が、希望まで棄ててはいけません。犯した罪は潔(いさぎよ)く償うがよろしい。が同時に、絶対的な愛と力、そして本質において善そのものである神の概念に慰めを見出すことも忘れないでいただきたい」


訳注――言わずと知れた紀元前五世紀~四世紀のギリシャ人哲学者で、人類の知性の最高を極めたと評されている。著書としては『ソクラテスの弁明』などの『対話篇』が有名であるが、その中の『断片』の中に伝説上の大陸アトランティスの話が出ていて、本来の哲学者とは別の面で話題を生み、それは今日でも関心の的となっている。ジブラルタル海峡の少し西のあたりに高度な文明をもった民族が住んでいたが、それが地殻変動で一夜にして海中に没したという。

しかしエンサイクロペディア・アメリカーナの執筆者によると、地理学者の調査で確かにそのあたりの大陸は大きくアメリカ大陸方向へ延びていたことは事実であるが、それが埋没したのは有史以前のことと推定されるという。

どうでもよさそうな伝説を紹介したのは、世界中のチャネラーが好き勝手なことを言い、トランス霊媒を通じて語る霊の中に自分はアトランティス大陸の住民だったなどと言う者が後を絶たないからで、全ては低級霊の仕業であるから相手にしないことである。


パウロ「宇宙の至高の存在すなわち神と一体となることこそ人間生活の目的です。その目的達成のためには次の三つの要素が必要です。知識と愛と正義です。当然これに対立するものにも三つあります。無知と憎しみと不正です。

あなた方は神の厳しさを誇張しすぎることによって却って神の概念を傷つけております。本来の神にあるまじきお情け、特別の寵愛、理不尽な懲罰、正義のこじつけが通用するかに思わせる結果になっております。中世のあの拷問と断罪、そして火あぶりの刑という、身の毛もよだつ所業に見られるように、“赦し難き罪”の解釈を誤って、心まで悪魔となっています。そんなことではキリスト教の指導者は、その無差別の残虐的懲罰の原則が人間社会の法律から完全に排除された暁には、その懲罰が神の政庁の原理であるとは、もはや信じさせることはできなくなってしまいます。

そこで神とイエス・キリストの御名のもとでの同志諸君に告げたいのです。選ぶ道は次の二つのうち一つです。これまでの古いドグマをいじくり回すような小手先のことをせずに、いっそのこと全てを廃棄してしまうか、それとも今我々が携わっている(スピリチュアリズムの)活動によってイエスの教えに全く新しい生命を吹き込むか、そのいずれかです。

例えば燃えさかる炎と煮えたぎる大釜の地獄は、鉄器時代だったら信じる者もいたかも知れません。が、現代では他愛もない空想物語でしかなく、せいぜい幼児の躾にしか役に立ちません。その幼児も少し成長すればすぐに怖がらなくなります。そのような根拠のない恐怖を説き続けることは、社会秩序の破壊の元凶である“不信”のタネを蒔くことになります。そしてそれに代わる権威ある処罰の規定もないまま、社会の基盤が崩れ瓦解してしまうのを見るのが、私は怖いのです。

生きた信念に燃える熱烈な新時代の先駆者が一致団結して、今や悪評の絶えない古い寓話の維持に汲々となることは止めて、今の時代の知性と風潮に調和した、真の意味での罰の概念を蘇らせてほしいのです。

ところで“罪を犯せる者”とは一体どういう人間のことでしょう? 魂の間違った働きによって人の道から外れ、創造者たる神の意図から逸脱した者のことです。その神の意図とは、人類の模範として地上に送られたイエス・キリストにおいて具現されている善なるもの・美なるものの調和です。

では“懲罰”とは一体何なのでしょう? 今述べた間違った魂の働きから派生する自然な結果のことです。具体的に言えば、正道から外れたことに自らが不快感を抱くに至らせるために必要な苦痛、つまりその逸脱によって生じる苦の体験のことです。言うなれば家畜を追い立てる突き棒のようなもので、時おり突きさされて、その痛みに耐えかねて放浪を切り上げて正道に帰る決心をさせるためのものです。罰の目的はただ一つ、リハビリテーションです。その意味から言って、永遠の刑罰の概念は存在そのものの理由を奪うことになるのです。

どうか善と悪の永続性の対比の議論は、いいかげん止めにしていただきたい。対比することで、そこに懲罰の基準というものをこしらえてしまいます。が、そういうものには何の根拠もありません。そうではなく、物質界での生活をくり返すことによって欠陥が徐々に消え失せ、それだけ罰も受けなくなるという因果関係をしっかりと理解してください。そうすれば公正と慈悲との調和による創造者と創造物との一体化という教義に生命を賦与することになるのです」


訳注――改めて紹介するまでもなくイエスの弟子の一人で、イエスの死後その教えを各地に伝道してまわった人物として知られる。聖書の中にも「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙」「テサロニケ人への手紙」等々、十指に余るパウロの文書が見える。それが果たして本物か否かの問題は別として、カルデックがこの署名入りの一文を掲載したということは、その内容からあのパウロに間違いないとの確信を得たからであろう。“聖パウロ”と呼ばれることが多いが、署名は“弟子パウロ”とある。

Thursday, July 28, 2022

シアトルの夏 魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。When the soul wakes up, it becomes aware of its incredible power hidden behind it.

 




 魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。
 
それはこの宇宙でも最も強力なエネルギーの一つなのです。その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。 
これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。 
その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し延べます。

 この霊的自覚が確立された時、あなたにはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないもの──盤石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心を所有することになります。
 
そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ──自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。

 人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。
 
どうか、何処でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。

議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけまません。無理して植えても不毛の土地には決して根付きません。
 
根づくところには時が来れば必ず根づきます。あなたを小馬鹿にして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来ることでしょう。

 私たちを互いに結びつける絆は神の絆です。神は愛をもって全てを抱擁しています。
 
これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来事は宇宙のいずこにも決して起きません。

 宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。従って私たちも神を見捨てるようなことがあってはなりません。
 
宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。

種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そして再び新しい芽を出すことを繰り返しています。色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやに靡(なび)き、かくして全世命が法則に従って生命活動を営んでおります。

 私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。私たちもその一部を構成しているからです。
 
どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれていることを忘れぬようにしましょう。

Wednesday, July 27, 2022

シアトルの夏 古代霊は語る おしまいに Words at the end of the book




  「私はこうした形で私に出来る仕事の限界を、もとより十分承知しておりますが、同時に自分の力の強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません。


私自身はいつも謙虚な気持です。本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない───私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。

が私はその援助の全てを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちていると言っているのです。

 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると、自信をもって語ることが出来ます。霊団が指示することを安心して語っていればよいのです。

威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人類全体の進化の指導に当たっている、真の意味で霊格の高いスピリットなのです。

 私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけない、といったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れ、といった指示を受けます。

私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束が出来ているということです。

私よりすぐれた叡知を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。

 そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているからです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在なのです。

私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会い出来ることを無上の光栄に思っております。その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。
 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。

神界というのはあなたがた人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が地上経綸の仕事を実施するとなると、こうした小さな組織が必要となるのです。

 私自身はまだまだ未熟で、決して地上の一般的凡人から遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなたがたの悩みがよくわかります。私はこの仕事を通じて地上生活を長く味わってまいりました。

あなたがた(列席者)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く係わりあってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないこともわかります。

 私たちはひたすらに人類の向上の手助けをしてあげたいと願っています。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えするためにやって来たのです。そこから正しい叡知を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。

そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も、地上から送られてくる無知で何の備えも出来ていない厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる。そう思って努力してまいりました。

 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度を取りたくありません。ロボットのようには扱いたくないのです。

死の淵を隔てていても、友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の肉体と心と霊に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。


 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶さなるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。

私たちがあなたがたに代って生きてあげるわけにはまいりません。援助は致しましょう。指導もしてあげましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけにはいかないのです。

 スピリットの中には自らの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私は自ら買って出た口ではないのです。が依頼された時は快く引き受けました。

 引き受けた当初、地上の状態はまさにお先まっ暗という感じでした。困難が山積しておりました。がそれも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに比べれば物の数ではありません。

 私たちの願いはあなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい───持てる知能と技能と天賦の才とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生を享けた真の目的を成就することにつながり、死と共に始まる次の段階の生活に備えることにもなる。そう願っているのです。

 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそ全てを律する実在なのです。そこでは仮面も見せかけも逃げ口上もごまかしもききません。すべてが知れてしまうのです。

 私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。よろこびと楽しみを持ってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなたがたに何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。


 あなたがたは、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が信じて下さい。私も物事を感じ、知り、そして愛することの出来る能力を具えた実在の人間です。

こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。

 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が、幾多の障害をのり超えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。

 神よ、忝(カタジケナ)くもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私たちは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を佳しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場となることを知らしめ給わんことを。

 では神の御恵みの多からんことを。」                                            シルバー・バーチ
  

シアトルの夏 それは魂の自然の欲求なのである。より高き向上! より多くの知識! より深き愛! かくして不純物が一掃され、神に向いて高く、より高く向上していくのである。 Higher improvement! More knowledge! Deeper love! Thus, impurities are wiped out, and it is higher toward God and higher




地上的体験は貴重なのである。 
その体験を得んとして大勢の霊が地上に戻り、霊媒の背後霊となりて己に必要な体験を積まんとしている。 
それは、ある者にとっては博愛の開発であり、ある者にとっては苦しみと悲しみの体験であり、またある者にとっては知性の開発であり、感情の抑制つまり心の平静の涵養であったりする。

かくの如く、地上に戻り来る霊には、われらの如き特殊な使命を帯たる者を除いては、それ自身にとって必要な何らかの目的がある。 
つまり、われら並びに汝らとの接触を通じて向上進化を遂げんとしているのである。

それは魂の自然の欲求なのである。より高き向上! より多くの知識! より深き愛! かくして不純物が一掃され、神に向いて高く、より高く向上していくのである。


───地上に戻ることだけが進歩のための唯一の手段ではないでしょう。

 無論である。しかもそれが普通一般のことでもない。われらの世界には数多くの教育施設が用意されている。また、一度失敗した方法は二度と採用せぬ。


〔このあと霊の世界の住居と仕事についての通信が続いたが、私にはいま一つ理解がいかないので、筆記者は自分の境涯以外のこと、というよりもむしろその上の界の事情にも通じているかどうか、また、地上よりもっと低い境涯への誕生もあるのかどうかを尋ねてみた。

すると、霊にも霊界の全てに通暁する能力はないこと、また魂が向上発達し完成されていく、いわゆる〝試練〟もしくは〝浄化〟の境涯と、そのあとに来るいわゆる超越界───いったん突入したら(よくよく特殊な場合を除いて)二度と戻ることのない〝無〟の世界───との間には大きな懸隔があるということだった。そしてこう綴られた。〕









Tuesday, July 26, 2022

シアトルの夏 神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。God has planted a part of the divinity of reason in humans.



 

 ここで牧師がイエスの言葉を引用して、イエスが信者の罪を贖ってくれるのだと主張しますが、シルバー・バーチは同じくイエスの言葉を引用して、イエスは決してそんな意味で言っているのではないと説きます。

するとまた牧師が別の言葉を引用しますが、シルバー・バーチも別の言葉を引用して、罪はあくまで自分で償わなくてはならないことを説きます。そしてキリスト教徒が聖書一つにこだわることの非を諭して次のように語って会を閉じました。



シルバー・バーチ 「神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなたがたもぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する───それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変らず罪として残っております。いいですか。それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることは出来ないのです。

 前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとはかぎらないのです。そのうちの多くはのちの人が書き加えたものです。イエスがこうおっしゃっている、とあなたがたが言う時、それは〝そう言ったと思う〟という程度のものでしかありません。

そんないい加減なことをするより、あの二千年前のイエスを導いてあれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知ってほしいのです。

 あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡知、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。なにも神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。

今ここに在しますのです。二千年前とまったく同じ神が今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物 (霊媒・霊能者) は今も決して多くはありません。しかし何故にあなたがたは、二千年前のたった一人の霊能者にばかり頼ろうとなさるのです。なぜそんな昔のインスピレーションにばかりすがろうとなさるのです。なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです。

 何故に全知全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです。宇宙の神が一個の人間、あるいは一冊の書物で全部表現できるとでもお思いですか。私はイエスよりずっと前に地上に生を享けました。すると神は私には神の恩恵に浴することを許して下さらなかったということですか。

 神の全てが一冊の書物の中のわずかなページで表現できてるとお思いですか。その一冊が書き終えられた時を最後に、神はそれ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとでもお考えですか。聖書の最後の一ページを読み終った時、神の真理の全部を読み終ったことになるというのでしょうか。

 あなたもいつの日かに天に在します父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応しい住処に住まわれます。神の子としてのあなたに分っていただきたいことは、神を一つワクの中に閉じ込めることは出来ないということです。神は全ての存在に宿るのです。

悪徳のかたまりのような人間にも、神か仏かと仰がれるような人にも同じ神が宿っているのです。あなたがた一人一人に宿っているのです。

あなたがその神の御心をわが心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力とやすらぎとが、あなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」

シアトルの夏 利己主義 egoism、人格者 Virtuous person







霊の書(れいのしょ、仏語原題 Le Livre des Esprits、英書名The Spirits' Book)
アラン・カルデック

 

〈利己主義〉


――悪徳の中でもその根源にあるものは何でしょうか。


「利己心です。このことはすでに何度も説いてきました。およそ悪と呼ばれているものは全てこの利己心から生じているからです。悪いこと、いけないこととされているものをよく分析してご覧なさい。その底には必ず自分中心の欲が巣食っています。それと闘い、克服して、悪を根絶やしにしないといけません。

利己主義こそ社会的腐敗の根源です。この地上生活(だけとは限りませんが)において幾らかでも道徳的に向上したいと願う者は、まず自分の心の奥から利己心を根こそぎ取り払わないといけません。利己心があるかぎり公正も愛も寛容心も生まれません。あらゆる善性を無力化してしまいます」


――利己心を撲滅するにはどうすればよいでしょうか。


「人間的欠点の中でも最も取り除き難いのがこの利己心です。その原因は物質の影響力と結びついているからです。人類はまだまだ物質性を多分に残していますから、それから解放されるのは容易ではありません。人間界の法律、社会的組織、そして教育までもが唯物主義の上に成り立っています。物的生活が精神的生活によって支配されるようになるにつれて、利己主義も薄められて行くでしょう。

それにはスピリチュアリズムの普及によって死後の生命の実在についての認識が浸透することが大前提です。スピリチュアリズムの教義が正しく理解され、それまでの人類の信仰や慣習が見直されれば、習慣やしきたり、社会的関係の全てが改められるでしょう。

利己主義は自分という個的存在にこだわりすぎ、平たく言えば自分が偉いと思っているところから生じています。スピリチュアリズムを正しく理解すれば、それとは逆に、全てを大いなる生命の観点から見つめるようになって、己の小ささに気づきます。全体の中のささやかな存在にすぎないという認識によって自尊心が消え、必然的に利己心も消えてしまいます」

(署名)フェヌロン
訳注――フランソワ・フェヌロン(一六五一~一七一五)はフランスの聖職者・教育論者・著述家。ルイ十四世から孫(王子)の教育を託され、その功によって大主教に任ぜられるが、前任の教育係との間の神学論争に敗れて主教に降格される。その後王子の教育論を述べた大著を発表するが、ルイ王はそれを自分への風刺と受け取って発禁処分にし、対立する教育論者たちからも非難を浴びる。が、「王は臣民のためにあるのであり臣民が王のためにあるのではない」との説は最後まで歪げなかったという。


 〈人格者〉



――高等な霊性をそなえていると判断できる人はどういう人格をしているでしょうか。


「肉体に宿っている霊の霊格の判断は、その人の日常生活での言動が神の摂理に適っているかどうか、そして霊的生命についてどの程度まで理解しているかによって決まります」


――地上生活によって徳性を高め、悪の誘いに抵抗していくには、どのような生き方が最も有効でしょうか。


「古賢の言葉に“汝自らを知れ”とあります」


訳注――ギリシャのデルファイの神殿に刻まれている言葉で、誰の言葉であるかは不明。


――その言葉の意味はよく分かるのですが、自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。


「私(聖アウグスティヌス)が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。 
こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。

霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことのできない場にさらされたとしても、青天白日の気持ちで誰にでも顔向けができるか、と。 
まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。

人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。 
その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つの秤(はか)り、二種類のモノサシを用いるはずはありません。

さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。

我々への質問は明確に、そして有りのままを述べ、幾つでもなさるがよろしい。そこに遠慮は無用です。人間は老後に備えてあくせくと働きます。老後の安楽が人生最大の目的――現在の疲労と窮乏生活をも厭わないほどの目的になっているではありませんか。 
疲労こんぱいの身体で人生最後の、ホンのわずかな時を経済的に安楽に過ごすことと、徳積みの生活に勤しんで死後の永遠の安らぎを得るのと、どちらが崇高でしょうか。

そう言うと人間は言うでしょう――現世のことは明確に分かるが死後のことは当てにならない、と。実はその考えこそ、我々霊団が人間の思念の中から取り除いて死後の実在に疑念を持たせないようにせよと命じられている、大きな課題なのです。だからこそ我々は心霊現象を発生させてあなた方の注意を喚起し、そして今こうして霊的思想を説いているのです。

本書を編纂するよう働きかけたのもその目的のためです。今度はあなた方がそれを広める番です」

(署名)アウグスティヌス

訳注――聖アウグスティヌス(三五四~四三〇・聖オーガスチンとも)は言わずと知れた初期キリスト教時代の最大の指導者・神学者・哲学者で、遺産を全て売り払って貧者に恵み、自らは清貧に甘んじ、とくに後半生は病弱と貧困に苦しめられたが、その中にあっても強靭な精神力、底知れぬ知性、深遠な霊性、崇高な高潔さは、キリスト教最高・最大の聖人と呼ばれるに相応しいものだったと言われる。

なお、これまでの通信でも“私”という言い方をしながら、それが誰であるかが記されていないものがある。それにも署名はあったであろうから、それを敢えて記さなかったのは、まったく無名の人物か、カルデックが本人であることに疑念を抱いたかの、どちらかであろう。フェヌロンとオーガスチンに関してはよほど確信を持ったということになる。

Monday, July 25, 2022

シアトルの夏 真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。Only the "time to die" is destined in the true sense of the word.

 





――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……


「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」


――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。


「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」


――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。


「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」


――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。


「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」


――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。


「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。

例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。

神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」

Sunday, July 24, 2022

シアトルの夏 霊の書(The Spirits' Book)さまざまな不平等 Various inequality


 

 

霊の書(れいのしょ、仏語原題 Le Livre des Esprits、英書名The Spirits' Book)は、1857年4月18日にフランスの教育学者アラン・カルデックによって出版されたスピリティズムの書籍。

本書は、霊の起源、生命の目的、宇宙の秩序、善と悪、来世についてのFAQあるいは質問集として構成されている。カルデックによれば、それらに対する答えは1850年代に行われた数回の心霊的セッションにおいて、自らを「真実の霊 (The Spirit of Truth) 」と呼ぶ一群の霊から与えられたという。よってカルデックは、自身はこの本の著者ではなく編者に過ぎない、としている。カルデックは質問と答えを、テーマごとに揃えて編集した。


9章 平等の法則
〈さまざまな不平等〉


――神はなぜ全ての人間に同じ才能を与えていないのでしょうか。


「全ての霊は神によって平等に創造されています。が、創造されてから今日に至るまでの期間に長短の差があり、結果的には過去世の体験の多い少ないの差が生じます。つまり各自の違いは体験の程度と、意志の鍛練の違いにあり、それが各自の霊的自由を決定づけ、自由の大きい者ほど急速に進化します。こうして現実に見られるような才能の多様性が生じて行きます。

この才能の多様性は、各自が開発した身体的ならびに知的能力の範囲内で神の計画の推進に協力し合う上で必要なことでもあります。ある人にできないことを別の人が行うという形で、全体の中の一部としての有用性を発揮できるわけです。さらには宇宙の全天体が連帯性でつながっていますから、より発達した天体の住民――そのほとんどが地球人類より先に創造されています――が地上に再生して範を垂れるということもあります」


――高級な天体から低級な天体へと転生しても、それまでに身につけた才能は失われないのでしょうか。


「失われません。すでに申しているごとく、進化した霊が退化することは有り得ません。物質性の強さのために以前の天体にいた時より感覚が鈍り、生まれ落ちる環境も危険に満ちた所を選ぶかも知れませんが、ある一定レベル以上に進化した霊は、そうした悪条件を糧として新たな教訓を悟り、さらなる進化に役立てるものです」


――社会の不平等も自然の法則でしょうか。


「違います。人間が生み出したものであり、神の業ではありません」


――最終的には不平等は消滅するのでしょうか。


「永遠に続くものは神の摂理以外にはありません。人間社会の不平等も、ご覧になっていて、少しずつではあっても日毎に改められて行っていることに気づきませんか。高慢と利己主義が影をひそめるにつれて不平等も消えて行きます。そして最後まで残る不平等は功罪の評価だけです。いずれ神の大家族が血統の良さを云々(うんぬん)することを止めて、霊性の純粋性を云々する日が来るでしょう」


訳注――“功罪の評価”の不平等というのは、功も罪も動機や目的によってその報いも違ってくるという意味で、“不公正”とは異なる。逆の場合の例を挙げれば、キリスト教には“死の床での懺悔”というのがある。イエスの信仰を告白して他界すればいかなる罪も赦されるという教義であるが、これは間違った平等であって、不公正の最たるものであろう。


――貧富の差は能力の差でしょうか。


「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。詐欺や強盗にも結構知恵が要りますが、これをあなたは能力と見ますか」


――私のいう能力はそういう意味ではありません。たとえば遺産には悪の要素は無いでしょう?


「どうしてそう断言できますか。その財産が蓄積される源にさかのぼって、その動機が文句なしに純粋だったかどうかを確かめるがよろしい。最初は略奪のような不当行為で獲得したものではないと誰が断言できますか。

百歩譲ってそこまでは詮索しないとしても、そもそもそんな大金を蓄えるという魂胆そのものが褒められることだと思われますか。神はその動機を裁かれます。その点に関するかぎり神は人間が想像するより遥かに厳正です」


――仮に蓄財の当初に不当行為があった場合、その遺産を引き継いだ者は責任まで引き継がされるのでしょうか。


「仮に不当行為があったとしても、相続人はまったく知らないことですから、当然その責任までは問われません。しかし、これから申し上げることをしっかりと理解してください。遺産の相続人は、必ずとは言いませんが、往々にして、その蓄財の当初の不正の責任を取ってくれる者が選ばれるということです。その点を正直に理解した人は幸せです。その罪を最初の蓄財者の名において償えば、その功は、当人と蓄財者の双方に報われます。蓄財者が霊界からそのように働きかけた結果だからです」

〈貧富による試練〉


――ではなぜ貧富の差があるのでしょうか。


「それなりに試練があるからです。ご存じの通り、再生するに際して自分でどちらかを選んでいるのです。ただ、多くの場合、その試練に負けています」


――貧と富のどちらが人間にとって危険でしょうか。


「どちらも同じ程度の危険性があります。貧乏は神への不平不満を抱かせます。一方、富は何かにつけて極端な過ちに陥(おとしい)れます」


――富は悪への誘惑となると同時に善行の手段にもなるはずです。


「そこです。そこに気づいてくれれば意義も生じるのですが、なかなかその方向へは向かわないものです。大抵は利己的で高慢で、ますます貪欲になりがちです。財産を増やすことばかり考え、これで十分という際限が無くなるのです」

〈男女の権利の平等〉


――女性が肉体的に男性より弱くできていることには何か目的があるのでしょうか。


「女性に女性としての機能を発揮させるためです。男性は荒仕事に耐えられるようにつくられ、女性は穏やかな仕事に向いています。辛い試練に満ちた人生を生き抜く上で互いが足らざる所を補い合うようにできています」


――機能的にも男女の重要性はまったく平等なのでしょうか。


「女性の機能の方がむしろ重要性が大きいと言えます。何しろ人間としての生命を与えるのは女性なのですから」


――神の目から見て平等である以上は人間界の法律上でも平等であるべきでしょうか。


「それが公正の第一原理です。“他人からして欲しくないことは、すべからく他人にもすべきではない”と言います」


訳注――これはキリストの“山上の垂訓”の一つである「他人からして欲しいことは、すべからく他人にもそのようにすべし」という有名な“黄金律”を裏返して表現したもの。


――法律が完全に公正であるためには男女の権利の平等を明言すべきでしょうか。


「権利の平等は明言すべきです。機能の平等はまた別問題です。双方がそれぞれの特殊な存在価値を主張し合うべきです。男性は外的な仕事に携わり、女性は内的な仕事に携わり、それぞれの性の特質を発揮するのです。

人間界の法律が公正を期するためには男女の権利の平等を明言すべきであり、どちらに特別の権利を与えても公正に反します。文明の発達は女性の解放を促すもので、女性の隷属は野蛮のレベルに属します。

忘れてならないのは、性の違いは肉体という組織体だけの話であって、霊は再生に際してどちらの性でも選べるという霊的事実です。その意味でも霊は男女どちらの権利でも体験できるわけです」


訳注――この問答を見るかぎりでは、当時はまだ自由と平等の先進国のフランスでも男女の平等は法律で謳われていなかったようで、今日の自由主義国の人間が読むと奇異にすら感じられる。しかし“権利”の平等と“機能”の平等を区別し、機能は平等・不平等次元で論じるべきものではないとしている点は、昨今いささか行き過ぎた平等主張、いわゆる“悪平等”が幅をきかせている、日本を始めとする文明先進国に良い反省材料を提供しているのではなかろうか。

Saturday, July 23, 2022

シアトルの夏 最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。Some of the best lessons can only be learned in pain, suffering and difficulty.


 

 教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で表われることもあるわけです。 
人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。よろこびと悲しみ、健康と病気、晴天とあらし、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。

というのは、その双方に神の意志が宿っているからです。良い事にだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知って下さい。

Friday, July 22, 2022

シアトルの夏 問題はスタートの時点の心構えにあったのです       The problem was the attitude at the start.


 



問「たとえば脳神経が異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪はないと考えてもよろしいでしょうか」

 

シルバー・バーチ「話をそういう風にもってこられると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第ではまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人を勇気づけているようなことになりかねないからです。

 もちろん私にはそんなつもりは毛頭ありません。いまのご質問でも、確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に見てみると、やはりスタートの時点において、私がさきほどから言っている〝責任からの逃避〟の心理が働いているのです。

もしもその人が何かにつまづいたその時点で〝オレは間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても男らしく立ち向かおう。絶対に背を向けないぞ〟と覚悟をきめていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来たはずです。

 ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われてきます。

ついにはノイローゼとなり、自分で自分がわからなくなっていくのです。問題はスタートの時点の心構えにあったのです」

Thursday, July 21, 2022

シアトルの夏 もう一度やり直すチャンスは全ての人間に与えられるのでしょうか "Is every human being given the chance to start over?"


 



問「もう一度やり直すチャンスは全ての人間に与えられるのでしょうか」


シルバー・バーチ「もちろんですとも。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終わるとしたら、この世は正に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しも出来ないことになります。

私どもが地上の人々にもたらすことの出来る最高の霊的知識は、人生は死でもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことが出来るということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。

人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人は内蔵している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスを与えられ、同時に又、愚かにも神の法則を無視し、人の迷惑も考えずに横柄に生きた人間は、その悪業の償いをするためのチャンスが与えられます。神の公正は完全です。

騙すことも、ごまかすことも出来ません。すべては神の眼下にあるのです。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きている人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです」

Wednesday, July 20, 2022

シアトルの夏 地上の各地に神の真理普及のための拠点ができ、魂の渇きを潤し知性を納得せしめる真理がふんだんに地上に注がれている。There are bases for the spread of God's truth in various parts of the earth, and the truth that quenches the thirst of the soul and convinces the intellect is poured abundantly on the earth.


モーゼス 霊訓  THE SPIRIT TEACHINGS

 神は汝の想像以上に働きかけを強めておられる。地上の各地に神の真理普及のための拠点ができ、魂の渇きを潤し知性を納得せしめる真理がふんだんに地上に注がれている。 
むろん中には古き訓えのみにて足れりとし、新たなる真理を受け入れようとしない者もあろう。われらはそうした人種を構うつもりはない。それはそれでよい。 
が古き啓示を十分に学び尽し、さらに深き真理を渇望しているものが大勢いる。そうした者に神はそれなりの手段をもって啓示を授けられる。

それが彼らを通じて縁ある人々へと波及し、やがて山上の垂訓の如く、われらが公然と全人類へ向けての啓示を垂れる日も到来しよう。見よ! 神の隠密は地上の低き階層にて研鑽を重ね、その知識と体験をもって真理を唱道する。

その隠れたる小さき泉がやがて多くの流れを集めて大河を成す。測り知れぬエネルギーを宿すその真理の大河は激流となって地上に溢れ、その時は、いま汝を悩ませる無知も不信も、愚かなる思想も罪も一気に押し流してしまうことであろう。


───その〝新しき啓示〟ですがそれは〝古き啓示〟と矛盾していませんか。その点で二の足を踏む者が多いのですが。

 啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾するということは有り得ない。ただしその真理は常に時代の要請と、その時代の人間の受け入れ能力に応じたものが授けられる。

一見矛盾するかに映ずるのは真理そのものではなく、人間の心に原因がある。人間は単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。時の経過と共にいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなってしまう。

矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなり果てる。やがてまた新しき啓示が与えられる。がその時はもはやそれをそのまま当てはめる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り崩さねばならぬ。

新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾はない。が矛盾する如く思わせる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を顕わさねばならぬ。人間は己に宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。

理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達した人間は無知なる者や、偏見に固められた人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。神は決して真理の押し売りはせぬ。

この度のわれらによる啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊なる啓示と思えばよい。これまでも常にそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。

歴史上の改革者をみるがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押しつけはせぬ。用意のある者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者は拒絶する。それでよいのである。

汝の嘆く意見の衝突も相違も単なる正邪の選り分けの現れにすぎぬ。しかも取る足らぬ原因から起こり、邪霊によって煽られている。結束せる悪の勢力の働きかけも予期せねばならぬ。が、足もとのみに捉われてはならぬ。常に未来に目を向け、勇気を失わぬことである。

シアトルの夏  霊魂は無限の可能性を秘めているのです。       The soul has infinite possibilities.   



 
問「占星術というのがありますが、誕生日が人の生涯を支配するものでしょうか」 
シルバー・バーチ「およそ生命あるものは、生命をもつが故に何らかの放射を行っております。生命は常に表現を求めて活動するものです。その表現は昨今の用語で言えば波長とか振動によって行われます。右中間のすべての存在が互いに影響し合っているのです。

雷雨にも放射活動があり、人体にも何らかの影響を及ぼします。言うまでもなく太陽は光と熱を放射し、地上の生命を育てます。木々も永年にわたって蓄えたエネルギーを放射しております。

要するに大自然すべてが常に何らかのエネルギーを放射しております。従って当然他の惑星からの影響も受けます。それはもちろん物的エネルギーですから、肉体に影響を及ぼします。

しかし、いかなるエネルギーも、いかなる放射性物質も、霊魂にまで直接影響を及ぼすことはありません。影響するとすれば、それは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度にすぎません」


問「今の質問者が言っているのは、たとえば二月一日に生まれた人間はみんな同じような影響を受けるのかという意味だと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「そんなことは絶対にありません。なぜなら霊魂は物質に勝るものだからです。肉体がいかなる物的影響下におかれても、宿っている霊にとって征服できないものはありません。もっともその時の条件にもよりますが。

いずれにせよ肉体に関するかぎり、すべての赤ん坊は進化の過程の一部として特殊な肉体的性格を背負って生まれてきます。それは胎児として母体に宿った日や地上に出た誕生日によって、いささかも影響を受けるものではありません。

しかし、そうした肉体的性格や環境の如何にかかわらず、人間はあくまでも霊魂なのです。霊魂は無限の可能性を秘めているのです。

その霊魂の本来の力を発揮しさえすれば、如何なる環境も克服しえないことはありません。もっとも、残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂の方が右往左往させられておりますが・・・・・・」

Tuesday, July 19, 2022

シアトルの夏 個性を与えた霊魂はどこから来るのか、Where does the soul that gave the individuality come from?




問「新しい霊魂はどこから来るのですか」 
シルバー・バーチ「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。聖書でも〝神は霊なり〟と言っております。

ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう


問「ということは、われわれは神という全体の一部だということですか」

シルバー・バーチ「その通りです。だからこそあなた方は常に神とつながっていると言えるのです。あなたという存在は決して切り捨てられることはあり得ないし、消されることもあり得ないし、破門されるなどということもあり得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります


問「でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう」

シルバー・バーチ「これまた用語の意味がやっかいです。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。その意味でしたら、それはよくあることです。

但し、それはいま地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します

Sunday, July 17, 2022

シアトルの夏 霊 訓 W・S・モーゼス著      THE SPIRIT TEACHINGS W. Stainton Moses

  


霊 訓            W・S・モーゼス著 近藤千雄 訳
THE SPIRIT TEACHINGS   W. Stainton Moses
                  
                                          
序 論

 本書の大半を構成している通信は、自動書記(1)ないし受動書記(2)と呼ばれる方法によって得られたものである。これは直接書記(3)と区別されねばならない。

前者においては霊能者がペンまたは鉛筆を手に握るか、あるいは、プランセントに手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれる。一方後者においては霊能者の手をつかわず、時にはペンも鉛筆も使わずに、直接的にメッセージが書き記される。

 自動書記というのは、われわれが漠然と〝霊〟(スピリット)と呼んでいる知的存在の住む目に見えない世界からの通信を受け取る手段として、広く知られている。

読者の中には、そんな得体の知れない目に見えぬ存在───人類の遺物、かつての人間の殻のような存在───を霊と呼ぶのはもったいないとおっしゃる方がいるであろうことはよく承知している。が私は霊という用語がいちばん読者に馴染みやすいと思うからそう呼ぶまでで、今その用語の是非について深く立ち入るつもりはない。

とにかく、私に通信を送って来た知的存在はみな自分たちのことを霊と呼んでいる。多分それは私のほうが彼らのことを霊と呼んでいるからであろう。そして少なくとも差し当たっての私の目的にとっては、彼らは〝霊〟(スピリット)でいいのである。

 その霊たちからのメッセージが私の手によって書かれ始めたのはちょうど十年前の一八七三年三月三十日のことで、スピリチュアリズムとの出会いからほぼ一年後のことであった。もっとも、それ以前にも霊界からの通信は(ラップや霊言(5)によって)数多く受け取っていた。

私がこの自動書記による受信方法を採用したのは、この方が便利ということと同時に、霊訓の中心となるべく意図されているものを保存しておくためでもあった。

ラップによる方法はいかにもまどろこしくて、本書のような内容の通信には全く不適当だった。一方、入神した霊媒の口を使ってしゃべると部分的に聞き落とすことがあり、さらに当初のころはまだ霊媒自身の考えが混じらないほど完全な受容性を当てにすることは不可能でもあった。

 そこで私はポケットブックを一冊用意し、それをいつも持ち歩くことにした。すると私の霊的オーラがそのノートに染み込んで、筆記がより滑らかにでてくることが判った。

それは、使い慣れたテーブルの方がラップが出やすく、霊媒自身の部屋の方が新しい部屋よりも現象が起きやすいのと同じ理屈である。スレートを使った通信(6)の専門霊媒であるヘンリー・スレードも、新しいスレートを使ってうまく行かない時は、使い古したものを使うとまず失敗がなかった。

今このことにこれ以上言及しない。その必要がないほど理屈は明瞭だからである。

 最初の頃は文字が小さく、しかも不規則だったので、ゆっくりと丁寧に書き、手の動きに注意しながら、書かれていく文章を後から追いかけねばならなかった。そうしないとすぐに文章が通じなくなり、結局はただの落書きのようなものになってしまうのだった。

 しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきた。文字はますます小さくなったが、同時に非常に規則的で字体もきれいになってきた。あたかも書き方の手本のような観のするページもあった。(各ページの最初に書いた)私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていた。神 Godの文字は必ず大文字で、ゆっくりと、恭しげに綴られた。

 通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図した私的(プライベート)な色彩を帯びていた。

一八七三年に始まって八十年まで途切れることなく続いたこの通信のなかに、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言語、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類は、私の知るかぎり一片も見当たらなかった。

知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわないものはおよそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つが誠実さと実直さと真剣さに満ちあふれていた。

 初期の通信は先に説明した通りの、きちんとした文字で書かれ、文体も一貫しており、署名(サイン)はいつもドクター・ザ・ティ―チャー(7)だった。

通信の内容も、それが書かれ続けた何年かの間ずっと変わらなかった。いつ書いても、どこで書いても筆跡に変化がなく、最後の十年間も、私自身のふだんの筆跡が変わっても、自動書記の筆跡はほとんど変わることがなかった。文章上のクセもずっと同じで、それは要するに通信全体を通じて一つの個性があったということである。

その存在は私にとって立派な実在であり、一人の人物であり、大ざっぱな言い方をさせていただければ、私がふだんつき合っている普通の人間とまったく同じように、独自の特徴と個性を具えた存在であった。

 そのうち別の通信が幾つか出はじめた。筆跡によっても、文体及び表現の特徴によっても、それぞれの区別がついた。その特徴は、いったん定着すると等しく変わることがなかった。私はその筆跡をひと目見て誰からの通信であるかがすぐに判断できた。

 そうしているうちに徐々に判ってきたことは、私の手を自分で操作できない霊が大勢いて、それがレクター(8)と名のる霊に書いて貰っているということだった。

レクターは確かに私の手を自在に使いこなし、私の身体への負担も少なかった。不慣れな霊が書くと、一貫性がない上に、私の体力の消耗が激しかった。そういう霊は自分が私のエネルギーを簡単に消費していることに気づかず、それだけ私の疲労も大きかったわけである。
℘18
 さらに、そうやって代書のような役になってしまったレクターが書いたものは流暢で読み易かったが、不慣れな霊が書いたものは読みずらい上に書体が古めかしく、しばしばいかにも書きづらそうに書くことがあり、ほとんど読めないことがあった。

そう言うことから当然の結果としてレクターが代書することになった。しかし、新しい霊が現れたり、あるいは、特殊なメッセージを伝える必要が生じたときは本人が書いた。


 断っておきたいのは、私を通じて得られた通信の全てが一つの源から出たものではないということである。本書に紹介した通信に限って言えば、同じ源から出たものばかりである。すなわち、本書はイムペレーター(9)と名のる霊が私と係り合った期間中の通信の記録である。

もっともイムペレーター自身は直接書くことをせず、レクターが代書している。その期間、特にイムペレーターとの関係が終わったあとは明らかに別の霊団からの通信があり、彼らは彼らなりの書記を用意した。

その通信は、その霊団との係わりが終わる最後の五年間はとくに多くなっていった。

 通信の書かれた環境はそのときどきでみな異なる。原則としては、私は一人きりになる必要があり、心が受身的になるほど通信も出やすかったが、結果的には如何なる条件下でも受け取ることができた。

最初の頃は努力を要したが、そのうち霊側が機械的に操作する要領を身につけたようで、そうなってからは本書に紹介するような内容の通信が次から次へと書かれていった。本書はその見本のようなものである。

 本書に紹介したものは、初めて雑誌に発表した時と同じ方法で校正が施してある。最初は心霊誌 Spiritualist に連載され、その時は筆記した霊側が校正した。もっとも内容の本質が変えられたところはない。その連載が始まった時の私の頭には、今こうして行っている書物としての発行のことはまったく無かった。

が多くの友人からサンプルの出版をせがまれて、私はその選択に取りかかった。が、脈絡のことは考えなかった。

その時の私を支配していた考えは、私個人の私的(パーソナル)な興味しかないものだけは絶対に避けようということだけで、それは当然まだ在世中の人物に言及したものも避けることにもつながった。私個人に係わることを避けたのは、ただそうしたいという気持ちからで、一方、他人に言及したものを避けたのは、私にそのような権利はないと考えたからである。

結果的には私にとって或る意味で最も衝撃的で感動的な通信を割愛することになってしまった。本書に発表されたものは、そうした、今は陽の目を見ることができないが、いずれ遠い将来、その公表によって私を含め誰一人迷惑をこうむる人のいなくなった時に公表を再考すべき厖大な流の通信の、ほんの見本にすぎないと考えていただきたい。

 通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なほどの配慮をしたつもりである。

最初の頃は筆致がゆるやかで、書かれて行く文をあとから確かめるように読んでいかねばならなかったほどであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも、間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。

でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れれぬ正確さで筆記されていった。

 こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体でつづられているのである。

 だからといって、私は決して私自身の精神が使用されていないというつもりはないし、得られた通信が、それが通過した私という霊媒の知的資質によって形体上の影響を受けていないというつもりもない。

私の知るかぎり、こうした通信にはどこか霊媒の特徴が見られるのが常である。影響がまったく無いということはまず考えられない。

しかし、確実に言えることは、私に送られてきた通信の大部分は私の頭の中にあることとはおよそ縁のないものばかりであり、私の宗教上の信念ともその概念上において対立しており、さらに私のまったく知らないことで、明確で確実で証明可能な、しかもキメの細かい情報がもたらされたことも幾度かあったということである。

テーブルラップによって多くの霊が自分の身許についての通信を送ってきて、それを後にわれわれが確認したりしたのと同じ要領で、私の自動書記によってそうした情報が繰り返し送られてきたのである。

 私はその通信の一つ一つについて議論の形式で対処している。そうすることで、ある通信は私に縁もゆかりもない内容であることが明確に証明され、またある通信では私の考えとまったく異なる考えを述べる別個の知的存在と交信していることを確信することができるわけである。実際、本書に収録した通信の多くはその本質をつきつめれば、多分、まったく同じ結論に帰するであろう。

 通信はいつも不意に来た。私の方から通信を要求して始まったことは一度もない。要求して得られることはまずなかった。突如として一種の衝動を覚える。どういう具合にかは私自身にも判らない。とにかくその衝動で私は机に向かって書く用意をする。

一連の通信が規則正しく続いている時は一日の最初の時間をそれに当てた。私は起きるのが早い。そして起きるとまず私なりの朝の礼拝をする。衝動はしばしばその時に来た。

といってそれを当てにしていても来ないことことがあった。自動書記以外の現象もよく起きた。健康を損ねたとき(後半よく損ねたが)を除き、いよいよ通信が完全に途絶えるまで、何の現象も起きないということは滅多になかった。

 さて、膨大な量の通信の中でもイムペレーターと名のる霊からの通信が私の人生における特殊な一時期を画している。本書の解説の中で私は、そのイムペレーターの通信を受け取った時の魂の高揚、激しい葛藤、求めても滅多に得られなかった心の安らぎに包まれた時期について言及しておいた。

それは私が体験した霊的発達のための教育期間だったわけで、結果的には私にとって一種の霊的新生となった。その期間に体験したことは他人には伝えようにも伝えられる性質のものではない。伝えたいとも思わない。

しかし内的自我における聖霊の働きかけを体験したことのある方々には、イムペレーターという独立した霊が私を霊的に再教育しようとしたその厚意ある働きかけの問題は、それでもう十分解決されたと信じていただけると思う。

表面的にはあれこれと突拍子もないことを考えながらも、また現に問い質すべきいわれは幾らでもあるにもかかわらず、私はそれ以来イムペレーターという霊の存在を真剣に疑ったことはただの一度もない。

 この序論は、私としては全く不本意な自伝風のものとなってしまった。私に許される唯一の弁明は、一人の人間の霊体験の物語は他の人々にとっても有益なものであることを確信できる根拠が私にある、ということだけである。 

これから披露することを理解していただくためには、不本意ながら、私自身について語る必要があったのである。私は、その必要を残念に思いながらも、せめて本書に記載したことが霊的体験の一つの典型として心の琴線に触れる人には有益であると確信したうえで、その必要性におとなしく従うことにした。

真理の光を求めて二人の人間がまったく同じ方法で努力することはまずないであろう。しかし、私は人間各自の必要性や困難には家族的ともいうべき類似性があると信じている。ある人にとっては私のとった方法によって学ぶことが役に立つ日が来るかもしれない。

現にこれまでもそうした方がおられたのである。私はそれを有難いと思っている。

 こうしたこと、つまり通信の内容と私自身にとっての意義の問題以外にも、自動書記による通信の形式上の問題もあるが、これはきわめて些細な問題である。通信の価値を決定づけるのはその通信が主張する内容そのもの、通信の目的、それ本来の本質的真理である。その真理が真理として受け入れられない人は多いであろう。

そういう人にとっては本書は無意味ということになる。また単なる好奇心の対象でしかない人もいるであろう。愚か者のたわごととしか思えぬ人もいるであろう。私は決して万人に受け容れて貰えることを期待して公表するのではない。

 
その人なりの意義を見出される人のために本書が少しでも役に立てば、それで私は満足である。
                  ステイントン・モーゼ 一八八三年三月

シアトルの夏 なぜ人間は間違った方向にばかりに走りたがるのでしょう。Why do humans want to run only in the wrong direction?




 なぜでしょう。なぜ人間は間違った方向にばかりに走りたがるのでしょう。 
シルバー・バーチの霊言に耳を傾ける前に私は、そうした人間の愚かさを批判し警鐘を鳴らしつづけている数多くの良識ある知識人の一人である生化学者のセント・ジェルジ博士 Albert Szent-Gyorgyi の意見を紹介したいと思います。 
博士はハンガリー生まれで現在はアメリカに在住していますが、ビタミンCの発見者として知られ、一九三七年にノーベル賞を受賞しています。

 もっとも博士は、受賞で得た〝生涯のんびり食べていけるほどのお金〟を、これは国民の税金だからということで、社会に還元する方向でいっぺんに使い果たしています。

この事実一つだけでも博士の物の考え方がほぼ察しがつくというものですが、私の手許にある著書は特にこれからの若い世代のために書いた The Crazy Ape (狂った猿)という小冊子です。その「まえがき」の中でこう述べています。


 なぜでしょう。なぜ人間は間違った方向にばかりに走りたがるのでしょう。シルバー・バーチの霊言に耳を傾ける前に私は、そうした人間の愚かさを批判し警鐘を鳴らしつづけている数多くの良識ある知識人の一人である生化学者のセント・ジェルジ博士 Albert Szent-Gyorgyi の意見を紹介したいと思います。

博士はハンガリー生まれで現在はアメリカに在住していますが、ビタミンCの発見者として知られ、一九三七年にノーベル賞を受賞しています。

 もっとも博士は、受賞で得た〝生涯のんびり食べていけるほどのお金〟を、これは国民の税金だからということで、社会に還元する方向でいっぺんに使い果たしています。

この事実一つだけでも博士の物の考え方がほぼ察しがつくというものですが、私の手許にある著書は特にこれからの若い世代のために書いた The Crazy Ape (狂った猿)という小冊子です。その「まえがき」の中でこう述べています。

 『人類が今まさに歴史始まって以来の最大の危機に直面していること、つまり、このまま行けば人類全体がそう遠からぬ将来においていっぺんに滅亡することも十分にありうるという危険な時期にさしかかっていることに、ほぼ疑いの余地はない。

なぜこんなことになってしまったのか、どうすればその危機から脱することが出来るかについては、数えきれないほどの意見が説かれてきた。軍事的見地から、政治的立場から、社会的観点から、経済的角度から、科学技術的な面から、はたまた歴史的見地から、それなりの分析が為されてきた。

しかしながら、一つだけ大きく見落されている要素がある。それは、人間それ自身───生物学的存在としての人間そのものである。(中略)究極の問題は、はたして人類はおよそまともな人間のすることとは思えない、言わば狂った猿とでもいうべき振舞いをする現状を首尾よく切り抜けられるかということである。』

 そして続く第一章の冒頭でこう述べています。

 『人間はなぜ愚の骨頂ともいうべき振舞をするのか。それが私がこれから取り扱う問題である。ある意味では今日ほど人生をエンジョイできる時代は歴史上かつてなかった。寒さにふるえることもない。空腹を耐えしのぶということもない。病気でコロコロ死んでいくということもなくなった。

つまり生きていく上で最低限必要とされるものが全て充足されたのは現代がはじめてのことであろう。ところが同時に、自らこしらえた爆弾のたった一発で人類全部を絶滅し、あるいは環境汚染によってこの愛すべき母なる大地を住めない場所にしてしまう可能性をもつに至ったのも、歴史上はじめてのことである。』

 さらに次のような興味深い物の観方を提言して第一章をしめくくります。

 『もし人間が真に愚かであるとしたら、一体どうして地球上に発生してからの百万年という歳月を首尾よく生き抜いてこれたのであろうか。この問いに対しては二つの考え方ができるように思う。

一つは、人間は決してそんな愚かな存在ではない。むしろ地球という生活環境の方が人類が適応できないほどまでに変化してしまったのだという考えである。がもう一つ、こうも考えることが出来よう。すなわち人間は今も昔も少しも変わってはいない。人類というのは本来が自己破壊的なのだ。

ただこれまでは、一度に絶滅させるほど強力な武器を持つに至らなかっただけなのだというのである。確かに人間の歴史は無意味な殺し合いと破壊の連続であった。

それが人類絶滅という事態に至らしめなかったのは、殺人の道具が原始的で威力に欠けていたからというにすぎない。だからこそ、どんなに烈しい戦争でも多くの生存者がいたわけである。が現代の科学技術の発達で事情が一変してしまった。今や人類は集団自殺の道しかないのだ。

 この二つの考えのどちらが正しいにせよ、とにもかくにもこの危機を切り抜けて生き延びるためには、一体どこがどう間違ってこんな事態に至ったかを見極め、そこから抜け出る可能性もしくは良い方法があるのかどうかを早急に検討しなければならない。』


 翻訳権の問題がありますのであまり多くを紹介できないのが残念ですが、私があえてスピリチュアリズムに直接関係のない人の意見を紹介したのは、スピリチュアリズムに関係のない、あるいは心霊を知らない人で案外スピリチュアリズム的な透徹した物の考え方をしている人が幾らでもいることを痛感しているからです。

 論語読みの論語知らずという諺がありますが、心霊心霊とやたらに心霊を口にする人、あるいはその道の本まで書いている人がまるで心霊の真髄を理解していないことが多いのにはウンザリさせられます。私は主義として、心霊とかスピリチュアリズムということを口にすることは滅多にありません。

そうしたものは自分の人生観や物の考え方の中で消化醗酵させておけばいいのであって、それが無形のエネルギーとして生きる力となり、人間性や生活態度に反映していくのだと信じているからです。

 やはり人間の全てを決するのはその人の日常生活ではないでしょうか。シルバー・バーチもその点を繰り返し協調しています。

 『唯物主義者や無神論者は死後の世界でどんなことになるのかという質問をよく受けますが、宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を長いこと迷わせて来たようです。実際は必ずしもそうばかりとも言えないのです。

ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。祭壇の前にひれ伏し神への忠誠を誓い〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物主義者とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。

問題は何を信じるかではなくて、これまでどんなことをして来たかです。そうでないと神の公正(Justice)が根本から崩れます。』


 少しわき道にそれたようですが、ではシルバー・バーチは右のセント・ジェルジ博士の提起した問題にどう答えるか、それをみてみましょう。シルバー・バーチは語ります。

 『人間はなぜ戦争をするのか。それについてあなた方自身はどう思いますか。なぜ悲劇を繰り返すのか、その原因は何だと思いますか。なぜ人間世界に悲しみが絶えないのでしょうか。

 その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることが出来ないために、万物の背後に絶対的統一原理である〝神〟が宿っていることを理解できないからです。宇宙全体を唯一絶対の霊が支配しているということです。

ところが人間は何かにつけて〝差別〟をつけようとします。そこから混乱が生じ、不幸が生まれ、そして破壊へと向かうのです。

 前にも言ったとおり、私どもはあなた方が〝野蛮人〟と呼んでいるインデアンですが、あなた方文明人が忘れてしまったその絶対神の摂理を説くために戻ってまいりました。

あなた方文明人は物質界にしか通用しない組織の上に人生を築こうと努力してきました。言いかえれば、神の摂理から遠くはずれた文明を築かんがために教育し、修養し、努力してきたということです。

 人間世界が堕落してしまったのはそのためなのです。古い時代の文明が破滅したように、現代の物質文明は完全に破滅状態に陥っています。

その瓦礫を一つ一つ拾い上げて、束の間の繁栄でなく、永遠の神の摂理の上に今一度文明を築き直す、そのお手伝いをするために私どもは地上に戻ってまいりました。

それは、私どもスピリットと同様に、物質に包まれた人間にも〝神の愛〟という同じ血が流れているからに外なりません。

 こう言うと、こんなことをおっしゃる人物がいるかもしれません。“イヤ、それは大きなお世話だ。われわれ白人は有色人種の手を借りてまで世の中を良くしようとは思わない。白人は白人の手で何とかしよう。有色人種の手を借りるくらいなら不幸のままでいる方がまだましだ〟と。

 しかし、何とおっしゃろうと、霊界と地上とは互いにもたれ合って進歩して行くものなのです。地上の文明を見ていると、霊界の者にも為になることが多々あります。

私どもは霊界で学んだことをあなた方に教えてあげようと努力し、同時にあなた方の考えから成る程と思うことを吸収しようと努めます。その相互扶助の関係の中にこそ地上天国への道が見出されるのです。

  そのうち地上のすべての人種が差別なく混り合う日がまいりましょう。どの人種にもそれなりの使命があるからです。それぞれに貢献すべき役割を持っているからです。

霊眼をもって見れば、すべての人種がそれぞれの長所と、独自の文化と、独自の教養を持ち寄って調和のとれた生活を送るようになる日が、次第に近づきつつあるのが分かります。

 ここに集まられたあなた方と私、そして私に協力してくれているスピリットはみな、神の御心を地上に実現させるために遣わされた〝神の使徒〟なのです。私たちはよく誤解されます。

同志と思っていた者がいつしか敵の側にまわることがしばしばあります。しかしだからといって仕事の手をゆるめるわけにはいきません。神の目から見て一ばん正しいことを行っているが故に、地上にない霊界の強力なエネルギーのすべてを結集して、その遂行に当たります。

徐々にではあっても必ずや善が悪を滅ぼし、正義が不正を駆逐し、真が偽をあばいていきます。時には物質界の力にわれわれ霊界の力が圧倒され、あとずさりさせられることがあります。しかしそれも一時のことです。

 われわれはきっと目的を成就します。自ら犯した過ちから人間を救い出し、もっと高尚でもっと気の利いた生き方を教えてあげたい。お互いがお互いのために生きられるようにしてあげたい。

そうすることによって心と霊と頭脳が豊かになり、この世的な平和や幸福でなく、霊的なやすらぎと幸福とに浴することが出来るようにしてあげたいと願っているのです。

 それは大変な仕事ではあります。が、あなた方と私たちを結びつけ一致団結させている絆は神聖なるものです。どうか父なる神の力が一歩でも地上の子等に近づけるように、共に手を取り合って、神の摂理の前進を阻もうとする勢力を駆逐していこうではありませんか。

 こうして語っている私のささやかな言葉が少しでもあなた方にとって役に立つものであれば、その言葉は当然それを知らずにいる、あなた方以外の人々にも、私がこうして語っているように次々と語りつがれていくべきです。自分が得た真理を次の人へ伝えてあげる───それが真理を知った者の義務なのです。

 私とて、霊界生活で知り得た範囲の神の摂理を、英語という地上の言語に翻訳して語り伝えているに過ぎません。

それを耳にし、あるいは目にされた方の全てが、必ずしも私の解釈の仕方に得心がいくとはかぎらないでしょう。しかし忘れないでください。私はあなた方の世界とはまったく次元の異なる世界の人間です。英語という言語には限界があり、この霊媒にも限界があります。

ですから、もしも私の語った言葉が十分納得できない場合は、それはあなた方がまだその真理を理解する段階にまで至っていないか、それともその真理が地上の言語で表現し得る限界を超えた要素をもっているために、私の表現がその意味を十分に伝え切っていないかの、いずれかでありましょう。

 しかし私はいつでも真理を説く用意ができています。地上の人間がその本来の姿で生きていくには、神の摂理、霊的真理を理解する以外にないからです。盲目でいるよりは見える方がいいはずです。聞こえないよりは聞こえた方がいいはずです。居睡りをしているよりは目覚めていた方がいいはずです。

皆さんと共に、そういった居睡りをしている魂を目覚めさせ、神の摂理に耳を傾けさせてやるべく努力しようではありませんか。それが神と一体となった生活への唯一絶対の道だからです。

 そうなれば身も心も安らぎを覚えることでしょう。大宇宙のリズムと一体となり、不和も対立も消えてしまいましょう。それを境に、それまでとは全く違った新しい生活が始まります。

 知識はすべて大切です。これだけ知っておれば十分だ、などと考えてはいけません。私の方は知っていることを全部お教えしようと努力しているのですから、あなた方は吸収できるかぎり吸収するよう努めていただきたい。

こんなことを言うのは、決して私があなた方より偉いと思っているからではありません。知識の豊富さを自慢したいからでもありません。自分の知り得たことを他人に授けてあげることこそ私にとっての奉仕の道だと心得ているからにほかなりません。

 知識にも一つ一つ段階があります。その知識の階段を一つ一つ昇っていくのが進歩ということですから、もうこの辺でよかろうと、階段のどこかで腰を下ろしてしまってはいけません。人生を本当に理解する、つまり悟るためには、その一つ一つを理解し吸収していくほかに道はありません。

 このことは物質的なことにかぎりません。霊的なことについても同じことが言えるのです。というのは、あなた方は身体は物質界にあっても実質的には常に霊的世界で生活しているのです。

従って物的援助と同時に霊的援助すなわち霊的知識も欠かすことが出来ないのです。ここのところをよく認識していただきたい。あなた方も実際は霊的世界に生きている───物質はホンの束の間の映像にすぎないのだ───これが私たちのメッセージの根幹をなすものです。

 そのことにいち早く気づかれた方々がその真理に忠実な生活を送って下されば、私たちの仕事も一層やりやすくなります。スピリットの声に耳を傾け、心霊現象の中に霊的真理の一端を見出した人々が、小さな我欲を棄て、高尚な大義の為に己れを棄てて下されば、尚一層大きな成果を挙げることが出来ましょう。

 繰り返しますが、私は久しく忘れ去られてきた霊的真理を、今ようやく夜明けを迎えんとしている新しい時代の主流として改めて説くために遣わされた、高級霊団の通訳にすぎません。要するに私を単なる代弁者と考えて下さい。

地上に霊的真理を普及させようと努力している高級霊の声を、気持ちを、そして真理を、私が代弁していると考えて下さい。その霊団を小さく想像してはいけません。それはそれは大きな高級霊の集団が完全なる意志の統一のもとに、一致団結して事に当っているのです。

その霊団がちょうど私がこうして霊媒を使っているように私を使用して、霊的真理の普及に努めているのです。

 決して難解な真理を説こうとしているのではありません。いま地上人類に必要なのは神学のような大ゲサで難解で抽象的な哲学ではなく、いずこの宗教でも説かれている至って単純な真理、その昔、霊感を具えた教祖が説いた基本的な真理、すなわち人類は互いに兄弟であり、霊的本質において一体であるという真理を改めて説きに来たのです。

 すべての人種に同じ霊、同じ神の分霊が宿っているのです。同じ血が流れているのです。神は人類を一つの家族としておつくりになったのです。そこに差別を設けたのは人間自身であり、私どもがその過りを説きに戻ったということです。

 四海同胞、協調、奉仕、寛容───これが人生の基本理念であり、これを忘れた文明からは真の平和は生まれません。協力し合い、慈しみ合い、助け合うこと、持てる者が持たざる者に分けてあげること。こうした倫理は簡単ですが繰り返し繰り返し説かねばなりません。

個人にしろ、国家にしろ、人種にしろ、こうした基本的倫理を実生活で実践するときこそ、神の意図した通りの生活を送っているといえましょう。

 そこで私の使命は二つの側面をもつことになります。すなわち破邪と顕正です。まず長いあいだ人間の魂の首を締めつけてきた雑草を抜き取らねばなりません。

教会が、あるいは宗教が、神の名のもとに押しつけてきた、他愛もない、忌わしい、不敬きわまるドグマの類を一掃しなければなりません。なぜなら、それが人間が人間らしく生きることを妨げてきたからです。これが破邪です。

 もう一方の顕正は、誰にもわかり、美しくて筋の通った真実の訓えを説くことです。この破邪と顕正は常に手に手をとり合って進まねばなりますまい。それを神への冒涜であると息巻いたり尻込みしたりする御仁に係わりあっているヒマはありません。』

 シルバー・バーチの交霊会の全体のパターンは、最初に 「祈りの言葉」 があり、続いて右に紹介したような 「説教」 があり、そのあとに列席者との間の一問一答があり、そして最後にしめくくりの 「祈り」 があります。

 質問は個人的な内容のものから哲学的なものまで種々様々ですが、時にはすでに説教の中で述べたことと重複することもあります。が、シルバー・バーチは煩をいとわず懇切ていねいに説いて聞かせます。

 かつては週一回だった交霊会が晩年には月一回になったとはいえ、半世紀以上にわたる交霊会での応答は大変な量にのぼります。その中から各章に関連のあるものを選んで章の終りに紹介しようと思います。

シアトルの夏 霊界からの指導の実際  The practice of guidance from the spirit world



霊界からの指導の実際


〔シルバーバーチは自分のことはあまり言いたがらないが、自分と同じスピリチュアリズムに携わる指導霊一般については、いろいろと語ってくれている。その中から幾つか拾ってみた〕


――指導霊は世界中で働いているのでしょうか。


もちろんです。ですが、試行錯誤の末にどうにか継続しているというのが実状です。その原因は、せっかく目星をつけた霊能者がどこまでこちらの期待に応えてくれるかは、前もって判断できるとは限らないからです。最後の段階で堕落して使いものにならず、何十年にもわたる努力が水の泡となることがあります。ですが、物質界の至るところで、こちらからの反応に応えてくれる人間を見出して働きかけている霊が大勢います。


――人類の進歩のために働いているのでしょうか。


物質界の進歩のために役だつ仕事の背後には、それに拍車をかけて発展させようとする霊団がつきます。善を志向する努力が何の反応も得られないということは決してありません。人類を向上させたい、人類の役に立ちたい、大霊の子の不幸を軽減してあげたいと思う霊が待機しております。


――政治体制の異なる国々、例えば民主主義の国と独裁主義の国で働いている指導霊の関係はどうなっているのでしょうか。


あなた方は、本来は言葉を道具として使用すべきところを、逆に言葉の奴隷になっていることがよくあります。私たちは大霊の真理を、それが人間を通して顕現することを目的として説いているだけでして、どの国の誰といった区別は致しません。うまく行くこともあれば手こずることもありますが、手にした道具で最善を尽くすしかなく、その能力は千差万別です。その際、民主主義とか独裁主義といったラベルは眼中にありません。どれだけ役に立つかということだけです。


――その際、積極的な働きかけを受けている人物がそれに気づかないということがあるでしょうか。


大いにあります。その事実を知ってくれる方が、知らないままでいるよりも効果が上がります。


――霊力が出しやすくなるのでしょうか。


その人物とのコンタクトが親密になるのです。知らずにいるよりは知っている方が良いに決まっています。光が得られるというのに暗闇にいたがる人がいるでしょうか。泉があるのに、何ゆえに渇きを我慢するのでしょう?

Saturday, July 16, 2022

シアトルの夏 幸せであるべき所に不幸があり、光があるべき所に暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。The world we see on earth has unhappiness where it should be happy, darkness where there should be light, and people who should be satisfied suffer from hunger.




 私が定住している世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真の生きるよろこびがみなぎり、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、互いに己れの足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。 
 それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せであるべき所に不幸があり、光があるべき所に暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。神は必要なものはすべて用意してあるのです。問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

 それを取り除いてくれと言われても、それは私どもには出来ないのです、私どもに出来るのは、物質に包まれたあなた方に神の摂理を教え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通じて運用されるかを教えてさしあげるだけです。ここにおられる方にはぜひ、霊的真理を知るとこんなに幸せになれるのだということを、身をもって示していただきたいのです。

 もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることが出来たら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上に降りて来た努力の一端が報われたことになりましょう。  
    私ども霊団は決してあなた方人間の果たすべき本来の義務を肩がわりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとするだけです。』

 この物質界は霊界から見てそんなにひどいところなのだろうか───右のシルバー・バーチの言葉を読まれた方の中にはそんな感慨を抱かれた方が少なくなかろうと思います。

 が、シルバー・バーチなどは霊言現象のせいで言葉に気をつけて表現しているほうで、一ばんひどいのになると「地球はまるでゴミ溜めのようなもの」と書いている霊もいます。

Friday, July 15, 2022

シアトルの夏 世界の全ての宗教の背後に埋もれてしまった必須の霊的真理 Find in this book the essential spiritual truths buried behind all the religions of the world.

 



巻頭言 

 

あなたがもしも古き神話や伝来の信仰を持って足れりとし、あるいは既に真理の頂上を極めたと自負されるならば本書は用はない。がもしも人生とは一つの冒険であること、魂は常に新しき視野、新しき道を求めて已まぬものであることをご承知ならば、ぜひお読みいただいて、世界の全ての宗教の背後に埋もれてしまった必須の霊的真理を本書の中に見出していただきたい。

そこにはすべての宗教の創始者によって説かれた訓えと矛盾するものは何一つない。地上生活と、死後にもなお続く魂の旅路に必要不可欠な霊的知識が語られている。もしもあなたに受け入れる用意があれば、それはきっとあなたの心に明りを灯し、魂を豊かにしてくれることであろう。                                                シルバー・バーチ 


   

 はじめに

 シルバー・バーチ Silver Birch というのは、英国のハンネン・スワッハー・ホームサークル Hannen Swaffer Home Circle という家庭交霊会において、一九二〇年代後半から五十年余りにわたって教訓を語り続けてきた古代霊のことで、紀元前一〇〇〇年ごろ地上で生活したということです。

 もちろん仮りの呼び名です。これまで本名すなわち地上時代の姓名を教えてくれるよう何度かお願いしましたが、その都度、「それを知ってどうしようというのですか。戸籍調べでもなさるおつもりですか」 と皮肉っぽい返事が返ってくるだけです。そして、

 人間は名前や肩書にこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だとわかったら、私がこれまで述べてきたことに一段と箔がつくと思われるのでしょうが、それは非常にタチの悪い錯覚です。前世で私が王様であろうと乞食であろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもよろしい。

私の言っていることが成るほどと納得がいったら真理として信じて下さい。そんなバカな、と思われたら、どうぞ信じないで下さい。それでいいのです」 というのです。今ではもう本名の詮索はしなくなりました。 

 霊視家が画いた肖像画は北米インデアンの姿をしていますが、これには三つの深い意味があります。
 ひとつは、実はそのインデアンがシルバー・バーチその人ではないということです。インデアンは言わば霊界の霊媒であって、実際に通信を送っているのは上級神霊界の高級霊で、直接地上の霊媒に働きかけるには余りに波長が高すぎるので、その中継役としてこのインデアンを使っているのです。

 もう一つは、その中継役としてインデアンを使ったのは、とかく白人中心思考と科学技術文明偏重に陥りがちな西洋人に対し、いい意味での皮肉を込めていることです。

 むろん、それだけが理由の全てではありません。インデアンが人種的に霊媒としての素質においてすぐれているということもあります。

そのことは同じ英国の著名な霊媒エステル・ロバーツ女史 Estelle Roberts の支配霊レッド・クラウド Red Cloud、グレイス・クック女史 Grace Cook の支配霊ホワイト・イーグル White Eagle などがともに(男性の)インデアンであることからも窺えます。

 そして表向きはそのことを大きな理由にしているのですが、霊言集を細かく読み返してみますと、その行間に今のべた西洋人の偏見に対するいましめを読み取ることが出来ます。

 さらにもう一つ注意しなければならないことは、どの霊姿を見る場合にも言えることですが、その容姿や容貌が必ずしも現在のその霊そのものではなく、地上時代の姿を一時的に拵えて見せているにすぎないことが多いことです。シルバー・バーチの場合も、地上に降りる時だけの仮化粧と考えてよいでしょう。

 さて、シルバー・バーチの霊訓は「霊言集」の形でこれまで十一冊も出版されております。ホームサークルの言葉どおり、ロンドンの質素なアパートでの非常に家庭的な雰囲気の中で行われ、したがって英国人特有の内容や、その時代の世相を反映したものが多くみられます。

たとえば第二次世界大戦勃発の頃は 「地上の波長が乱れて連絡がとれにくい」 とか、 「連絡網の調子がおかしいので、いま修理方を手配しているところだ」 といった興味深い言葉も見られます。

 何しろ一九二〇年代に始まり半世紀以上にわたって連綿と続けられてきたのですから、量においても質においても大変なものがあります。

 そこで私は、あまりに特殊で日本人には関心のもてないものは割愛し、心霊的教訓として普遍的な内容のものを拾いながら、同時に又、理解の便を考慮して、他の箇所で述べたものでも関連のあるものをないまぜにしながら、易しくそして親しく語りかける調子でまとめていきたいと思います。「訳編」としたのはそのためです。

 重厚な内容をもつ霊界通信の筆頭は何といってもモーゼスの「霊訓」 Spirit Teachings by S. Moses であり、学究的内容をもつものの白眉としてはマイヤースの「永遠の大道」 The Road to Immortality by F. Myers があげられます。後者には宇宙的大ロマンといったものを感じさせるものがあります。

 私事にわたって恐縮ですが、東京での学生時代やっとのことで両書の原典を英国から取り寄せ、宝物でも手にした気持ちで、大学の授業をそっちのけにして、文字通り寝食を忘れて読み耽った時期がありました。

 特に 「永遠の大道」 はその圧巻である 「類魂」 の章に読み至った時、壮大にしてしかもロマンに満ちた宇宙の大機構にふれる思いがして思わず全身が熱くなり、感激の涙が溢れ出て、しばし随喜の涙にくれたのを思い出します。

「霊訓」 は非常に大部でしかも難解です。浅野和三郎訳のものもありますが部分的な抄訳にすぎません。何しろ総勢五十名から成る霊団が控え、その最高指導霊であるイムペレーター(もちろん仮名)紀元前五世紀に地上で生活した人物──実は旧約聖書に出てくる予言者マラキ Malachi ──です。

筆記者すなわち直接霊媒の腕を操った霊はかなり近代の人物が担当していますが、イムペレーターの古さに影響されてか、文章に古典的な臭いがあります。もっともそれが却って重厚味を増す結果となっているとも言えますが・・・・・・。

 それに比べるとシルバー・バーチの霊訓はいたって平易に心霊的真理を説いている点に特徴があります。モーゼスとマイヤースが主として自動書記を手段としたのに対し、霊言現象という手段をとったことがその平易さと親しみ易さの原因と考えてもよいでしょう。

 私はこれを、さきほど述べたように、一冊の原書を訳すという形式ではなく、十一冊の霊言集をないまぜにしながら、平たく分かり易く説いていく形で進めたいと考えます。

 時には前に述べたことと重複することもありましょう。それは原典でも同じことで、結局は一つの真理を角度を変えて繰り返し説いているのです。

 さらに私は、必要と思えば他の霊界通信、たとえば右のモーゼスやマイヤースの通信などからも、関連したところをどしどし引用するつもりです。大胆な試みではありますが、シルバー・バーチの霊訓の場合はその方法が一ばん効果的であるように思うのです。


 ここで、まことに残念なことを付記しなければならなくなりました。本稿執筆中の一九八一年七月、シルバー・バーチの霊言霊媒であったモーリス・バーバネル氏 Maurice Barbanell が心不全のため急逝されたとの報が入りました。

急逝といっても、あと一つで八十歳になる高齢でしたから十分に長寿を全うされ、しかも死の前日まで心霊の仕事に携わっていたのですから、本人としては思い残すことはなかろうと察せられますが、われわれシルバー・バーチ・ファンにとっては、もっともっと長生きして少しでも多くの霊言を残してほしかった、というのが正直な心境です。

 特に私にとっては、その半年前の一月にロンドンでお会いしたばかりで、あのお元気なバーバネルさんが・・・・・・としばし信じられない気持でした。あの時、バーバネル氏の側近の一人が私に 「あなたの背後にはこんどの渡英を非常にせかせた霊がいますね」 と言ったのを思い出します。

その時の私は何のことか分かりませんでしたが、今にして思えば、私の背後霊がバーバネル氏の寿命の尽きかけているのを察知して私に渡英を急がせたということだったようです。

 同時にそれは、私にシルバー・バーチの霊訓を日本に紹介する使命の一端があるという自覚を迫っているようでもあります。氏の訃報に接して本稿の執筆に拍車がかかったことは事実です。

 氏の半世紀余りにわたる文字通り自我を滅却した奉仕の生涯への敬意を込めて、本書を少しでも立派なものに仕上げたいと念じております。

 心霊はコマーシャルとは無縁です。一人でも多くの人に読んでいただくに越したことはありませんが、それよりも、関心をもつ方の心の飢えを満たし、ノドの渇きを潤す上で本書が少しでもお役に立てば、それがたった一人であっても、私は満足です。



    第一章 シルバー・バーチの使命

 シルバー・バーチが地上に戻って心霊的真理つまりスピリチュアリズムを広めるよう神界から言いつけられたのは、のちにシルバー・バーチの霊言霊媒となるべき人物すなわちモーリス・バーバネル氏がまだ母体に宿ってもいない時のことでした。

 そもそもこの交霊会の始まったのが一九二〇年代のことですから、シルバー・バーチが仕事を言いつけられたのは一八〇〇年代後半ということになります。

バーバネル氏が霊言能力を発揮しはじめたのは十八才の時でした。正確なことは分からないにしても、とにかく人間の想像を超えた遠大な計画と周到な準備のもとに推進されたものであることは間違いありません。

 さて言いつけられたシルバー・バーチが二つ返事でよろこんで引き受けたかというと、実はそうではなかったのです。

 『正直いって私はあなた方の世界に戻るのは気が進みませんでした。地上というのは、一たんその波長の外に出てしまうと、これといって魅力のない世界です。私がいま定住している境涯は、あなた方のように肉体に閉じ込められた者には理解の及ばないほど透き通り、光に輝く世界です。

 くどいようですが、あなた方の世界は私にとって全く魅力のない世界でした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなくてはなりません。

地上の同志を見つけ、その協力が得られるよう配慮しなくてはなりません。それから私の代弁者となるべき霊媒を養成し、さらにその霊媒を通じて語る真理を出来るだけ広めるための手段も講じなくてはなりません。

それは大変な仕事ですが、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証を得ました。そして計画はすべて順調に進みました。』

 その霊媒として選ばれたのが、心霊月刊誌 Two Worlds と週刊紙 Psychic News を発行している心霊出版社 Psychic Pressの社長であったモーリス・バーバネル氏であり、同志というのは直接的にはハンネン・スワッハー氏を中心とする交霊会の常連のことでしょう。

 スワッハー氏は当時から反骨のジャーナリストとして名を馳せ「新聞界の法王」の異名をもつ人物で、その知名度を武器に各界の名士を交霊会に招待したことが、英国における、イヤ世界におけるスピリチュアリズムの発展にどれだけ貢献したか、量り知れないものがあります。

今はすでにこの世の人ではありませんが、交霊会の正式の呼び名は今でもハンネン・スワッハー・ホームサークルとなっております。

 いま私は「直接的には」という言い方をしましたが、では間接的には誰かという問いが出そうです。


 一八四八年に始まったスピリチュアリズムの潮流は、そのころから急速に加速された物質文明、それから今日見るが如き科学技術文明という、言わば人間性喪失文明に対する歯止めとしての意義をもつもので、その計画の中にモーゼスの「霊訓」のイムペレーターを中心とする総勢五十名から成る霊団がおり、

「永遠の大道」のフレデリック・マイヤースがあり、さらに、これはあまり知られておりませんが、ヴェール・オーエン氏の「ベールの彼方の生活」のリーダーと名告る古代霊を中心とする霊団がおり、

南米ではアラン・カルデックの「霊の書」を産んだ霊団があり、そしてこのシルバー・バーチを中心とする霊団がいるわけです。

 このほかにも大小さまざまな形でその大計画が推進され、今なお進められているわけです。心霊治療などもそのひとつで、中でもハリー・エドワーズ氏などはその代表格(だった)というべきでしょう。日本の浅野和三郎氏などもその計画の一端を担われた一人でしょう。

 が、分野を霊界通信にしぼってみたとき、歴史的にみてオーソドックス(正統)な霊界通信は右に挙げたものが代表格といってよいでしょう。そのうちマイヤースについて特筆すべき点は、こうしたスピリチュアリズムの流れを地上で実際に体験した心霊家としてあの世へ行っていることです。

そしてこのシルバー・バーチについて特筆すべきことは、前四者が主として自動書記通信である(注)のと違って霊言現象の形で真理を説き、質疑応答という形も取り入れて、親しく、身近かな人生問題を扱っていることです。

(注──モーゼスの「霊訓」には「続霊訓」という百ページばかりの続編があり、これには霊言現象による通信も含まれています。その中でイムペレーターを中心とする数名の指導霊の地上時代の本名を明かしております)

 体験された方ならすぐに肯かれることと思いますが、数ある心霊現象の中でも霊言現象が一ばん親しみと説得力をもっています。

 もっとも霊媒の危険性と、列席者が騙されやすいという点でも筆頭かも知れません。が、それは正しい知識と鋭い洞察力を備えていれば、めったにひっかかるものではありません。

 シルバー・バーチも、自分が本名を明かさないのは、真理というものは名前とか地位によって影響されるべきものではなく、その内容が理性を納得させるか否かによって判断されるべきものだからだ、と述べていますが、確かに、最終的にはそれ以外に判断の拠り所はないように思われます。


 こう見てきますと、シルバー・バーチを中心とする霊団がロンドンの小さなアパートの一室におけるささやかなホームサークルを通じて平易な真理を半世紀以上にもわたって語り続けてきたことは、スピリチュアリズムの流れの中にあっても特筆大書に価することと言ってよいでしょう。

 しかし霊団にとっては、それまでの準備が大変だったようです。シルバー・バーチは語ります。

『もうずいぶん前の話ですが、物質界に戻って霊的真理の普及に一役買ってくれないかとの懇請を受けました。このためには霊媒と、心霊知識をもつ人のグループを揃えなくてはならないことも知らされました。私は霊界にある記録簿を調べ上げて適当な人物を霊媒として選びました。

それは、その人物がまだ母体に宿る前の話です。私はその母体に宿る日を注意深く待ちました。そして、いよいよ宿った瞬間から準備にとりかかりました』

 この中に出てくる「霊界の記録簿」というのは意味深長です。

 神は木の葉一枚が落ちるのも見落さないというのですから、われわれ人間の言動は細大もらさず宇宙のビデオテープにでも収められているのでしょうが、シルバー・バーチの場合は、霊媒のバーバネル氏が生まれる前から調べ上げてその受胎の日を待った、というのですから、話の次元が違います。続けてこう語ります。

 『私はこの人間のスピリットと、かわいらしい精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる面を細かく観察し、霊的に一体となる練習をし、物の考え方や身体上のクセをのみ込むよう努めました。要するに私はこの霊媒をスピリットと精神と肉体の三面から徹底的に研究したわけです」

 参考までにここに出た心霊用語を簡単に説明しておきましょう。スピリットというのは大我から分れた小我、つまり、神の分霊です。それ自体は完全無欠です。それが肉体と接触融合すると、そこに生命現象が発生し〝精神〟が生まれます。私たちが普段意識しているのはこの精神で、ふつう〝心〟といっているものです。これには個性があります。

肉体のもつ体質(大きいものでは男女の差)、それに遺伝とか自分自身及び先祖代々の因縁等が複雑に混り合っていて、それが人生に色とりどりの人間模様を織りなしていくわけです。

 シルバーバーチは続けてこう語ります。

 『肝心の目的は心霊知識の理解へ向けて指導することでした。まず私は地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的にはそのいずれにも反発させ、いわゆる無神論者にさせました。それはそれなりに本人の精神的成長にとって意味があったのです。

これで霊媒となるべきひと通りの準備が整いました。ある日私は周到な準備のもとに初めての交霊会へ出席させ、続いて二度目の時には、用意しておいた手順に従って入神させ、その口を借りて初めて地上の人に語りかけました。

いかにもぎこちなく、内容も下らないものでしたが、私にとっては実に意義深い体験だったのです。その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、ごらんの通りの状態になりました。今ではこの霊媒の潜在意識を完全に支配し、私の考えを百パーセント述べることが出来ます。』

 その初めての交霊会の時、議論ずきの十八歳のバーバネル氏は半分ヤジ馬根性で出席したと言います。そして何人かの霊能者が代わるがわる入紳してインデアンだのアフリカ人だの中国人だのと名告る霊がしゃべるのを聞いて〝アホらしい〟といった調子でそれを一笑に付しました。そのとき「あなたもそのうち同じようなことをするようになりますヨ」と言われたそうです。

 それが二回目の交霊会で早くも現実となりました。バーバネル氏は交霊会の途中で〝ついうっかり〟寝込んでしまい、目覚めてから「まことに申し分けない」とその失礼を詫びました。すると列席者からこんなことを言われました。

 「寝ておられる間、あなたはインデアンになってましたヨ。名前も名告ってましたが、その方はあなたが生まれる前からあなたを選んで、これまでずっと指導してこられたそうです。そのうちスピリチュアリズムについて講演をするようになるとも言ってましたヨ」

 これを聞いてバーバネル氏はまたも一笑に付しましたが、こんどはどこか心の奥に引っかかるものがありました。

 その後の交霊会においても氏は必ず入神させられ、はじめの頃ぎこちなかった英語も次第に流暢になっていきました。その後半世紀以上も続く二人の仕事はこうして始まったのです。

Thursday, July 14, 2022

シアトルの夏 バイブルの原典はご存じのバチカン宮殿に仕舞い込まれたまま一度も外に出されたことがないのです。The original text of the Bible has never been taken out while being stored in the Vatican Palace you know.

 





「バイブルの原典はご存じのバチカン宮殿に仕舞い込まれたまま一度も外に出されたことがないのです。 
あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典のコピーのコピーの、そのまたコピーなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。 
初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しませんでした。ところが、いつになっても再臨しないので遂に締めて、記憶をたどりながらイエスの言ったことを記録に留めたのです。 
イエス曰く……と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは、書いた本人も確かでなかったのです」

Sunday, July 10, 2022

シアトルの夏 大霊が用意してくださった太陽の光が子等の心を明るく照らし、The light of the sun prepared by the spirit illuminates the hearts of children,

 



私たち霊団の者は皆さんにいかなる教義も儀式も作法も要求しません。ただひたすら大霊の愛の実在を説くだけです。それが、大霊の子等を通して発現すべく、その機会を求めているからです。 
そのためには、いかなる書物にもいかなるドグマにも縛られてはいけません。いかなるリーダーにもいかなる権威にも、またいかなる巻物にもいかなる教義にも縛られてはなりません。 
いかなる聖遺物を崇めてもいけません。ただひたすら大霊の摂理に従うように心がけるベきです。摂理こそが宇宙で最も大切なものだからです。宇宙の最高の権威は大霊の摂理です。

教会と呼ばれているものの中には中世の暗黒時代の遺物が少なくありません。そもそも大霊はいかなる建築物であってもその中に閉じこめられる性質のものではありません。 
あらゆる所に存在しています。石を積み重ね、その上に尖塔をそびえ立たせ、窓をステンドグラスで飾ったからといって、大霊が喜ばれるわけではありません。

それよりも、大霊が用意してくださった太陽の光が子等の心を明るく照らし、大霊が注いでくださる雨が作物を実らせることの方が、よほど喜ばれます。 
ところが、残念なことにその大霊の恩寵と子等との間に、とかく教会が、政治家が、そして金融業者が介入します。こうしたものを何としても取り除かねばなりませんし、現に今まさに取り除かれつつあります。

霊力を過去のものとして考えるのは止めにしないといけません。ナザレのイエスを通して働いた霊力は今なお働いているのです。 
あの時代のユダヤの聖職者たちは、イエスを通して働いている霊力は悪魔の力であるとして取り合いませんでしたが、今日の聖職者たちもスピリチュアリズムでいう霊力を同じ理由で拒絶します。 
しかし、地上界も進歩したようです。その霊力を駆使する者を十字架にかけることはしなくなりました。

イエスが放った光輝は、あの時代だけで消えたのではありません。今なお輝き続けております。そのイエスは今どこにいると思われますか。 
イエスの物語はエルサレムで終わったとでも思っておられるのでしょうか。 
今なお苦悩と混乱と悲劇の絶えない地上界を後にして天上界で賛美歌三昧に耽っているとでもお思いですか。

私たち霊界の者からの働きかけを信じず悪魔のささやきかけであると決めつけているキリスト教の聖職者たちは、その昔ナザレのイエスに同じ非難のつぶてを浴びせたユダヤ教の聖職者たちと同列です。 
イエスは私たちと同じ大霊の霊力を携えて地上界へ降誕し、同じ奇跡的現象を起こして見せ、同じようなメッセージを届けました。 
即ち、喪の悲しみに暮れる人々を慰め、病める人々を癒し、暗闇に閉ざされた人々に光をもたらし、人生に疲れた人々には生きる勇気を与え、何も知らずにいる人々には霊的知識を授けてあげなさい、と。

私たちもあなた方も皆、大霊への奉仕者です。その点は同じです。ただ私たちは進化の道程においてあなた方よりも少しばかり先を歩んでおります。そこでその旅先で学んだ知識と叡智を教えてあげるべく舞い戻ってきたのです。 
奉仕、即ちお互いがお互いのために自分を役立てるというのが、生命原理の鉄則だからです。奉仕精神のないところには荒廃あるのみです。奉仕精神のあるところには平和と幸せが生まれます。 
地上界は、互いに奉仕し合うことによって成り立つような生活形態を目指さないといけません。それは本当はいたって簡単なことなのですが、なぜかそれが難しい形態となっております。その元凶が実は組織宗教なのです。

Friday, July 8, 2022

シアトルの夏 大霊は無限の存在であり、あなた方はその大霊の一部です。  The Great Spirit is an infinite being, and you are part of it.

 



大霊は無限の存在であり、あなた方はその大霊の一部です。もしも完ぺきな信念をもち、正しい人生を送れば、大霊の恩寵にあずかることができます。


地上界の全ての人が完ぺきな信念をもてば、大霊はそれぞれの願いを嘉納されることでしょう。魂が真剣に求め、しかも大霊に対する絶対的信念に燃えていれば、必ずやその望みは叶えられるでしょう。

神の摂理はそのようにして働くのです。つまり摂理に順応した生活を送っていれば、望み通りの結果が生じるようになっているのです。結果が出ないということは、生き方のどこかに摂理に順応していないところがあることの証拠です。

歴史をひもといてご覧なさい。最も低い界層、最も貧しい民の中から身を起こして、厳しい試練の末に偉大なる指導者となっているケースが少なくありません。試練に耐えずして神に不平を言ってばかりいる人を相手にしてはいけません。

もちろん時には挫折して不遇に喘ぐこともあるでしょう。しかし、完ぺきな信念に燃えていれば、いつかはきっとこの世的な不遇から立ち直ることが出来ます。大霊の象徴である太陽に向かってこう言うのです――「私は大霊の一部だ! 私を破滅させ得るものは何もない。永遠の存在なのだ! 無限の可能性を秘めた存在なのだ! 限りある物質界の何一つとして私を傷つけることは出来ないのだ!」と。 
もしもこれだけのことが言えるようであれば、あなたが傷つくことは絶対にありません。

誰しも心に恐れを抱きつつ出発します。望み通りにならないのではなかろうかという不安です。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。しかし「完全なる愛は恐れを取り除く」(ヨハネ一)と言い、「まず神の国とその義を求めよ。そうすればそれらのものは皆お与えくださるであろう」(マタイ六)と言われております。

これは、遥か遠い昔、摂理を完ぺきに理解した人物によって述べられた教えです。それを彼は見事に実践してみせたのです。あなた方も、摂理が働けるような条件を整えれば、必ずや望み通りの結果が得られます。

しかし、もう一つ別の摂理をお教えしましょう。何の代価も支払わずして入手できるものは、この地上界には一つもないということです。霊的能力の値打ちが上がるということは、霊的感度が増すということです。 
それをおろそかにして金儲けにうつつを抜かすと、そちらの世界では金持ちと言われても、こちらの世界では哀れな貧しい魂になってしまいます。

人間はその内部に何よりも貴重な神性という富を宿しています。大霊の一部です。地上のどこを探しても、それに匹敵する富や宝は存在しません。その魂の内部の鉱脈をいかにして探査し、肉体的本性の奥に埋もれたダイヤモンドを引き出すか、それをお教えしようとしているのです。

そのためには霊の世界の最高の界層のバイブレーションに反応するようになっていただかねばなりません。また、あなた方は一時として一人ぼっちでいることはないこと、周囲には常にあなた方を愛する大勢の人々が見守り、導き、援助し、鼓舞せんとして待機していることを知っていただきたいのです。

そうした中で霊性が開発されて行くにつれて少しずつ大霊に近づき、その摂理と調和して行くのです。

大霊に奉仕すると言っても、それは大霊の子である地上の同胞に奉仕することになります。同胞のために役立つことをしている時、神の無限の腕に抱かれ、その愛に包まれ、それが完全なる安らぎをもたらしてくれることになります。

Wednesday, July 6, 2022

シアトルの夏 大霊は完全なる存在ですから、当然、大霊の摂理・法則も完ぺきです。the Great Spirit is a perfect being, naturally, the providence and laws of the Great Spirit are also perfect.

 

 

祈りとは魂の表現です。そのことを分かり易く説明しましょう。祈りとは光明と導きを求めての魂の叫びです。その行為そのものが回答をもたらすのです。なぜならその行為が思念のパワーを生み出すからです。 
そのパワーが原因となって回答を生み出します。その回答が結果です。霊はあなたが何を祈るかを待っているわけではありません。その必要はないのです。祈りの思念そのものが、その波動のレベルの界層の霊に届くのです。あなたの魂の進化の程度に応じた界層です。

当然その霊たちも役に立つことを切望していますから、あなたの思念のパワーにその霊たちのパワーが加わって、一段と強力となります。あなたが生み出した思念が新たな活動を呼ぶわけです。 
あなたの霊性のレベルに応じた段階での宇宙のエネルギーを動かすのです。と言うことは、そのエネルギーをあなたも活用することが出来るようになったということです。

祈る人の進化の程度によっては、ある一つの理想の要求に向かって意念を集中しなければいけないことがあるかも知れません。その方が有効だという人に私はあえて異議は唱えません。 
ただ私が申し上げたいのは、大霊、生命の摂理、宇宙の自然法則、こうしたものを基盤にして考えないといけないということです。

大霊は完全なる存在ですから、当然、大霊の摂理・法則も完ぺきです。その完全なる大霊の一部があなた方の内部に潜在していて、その発現を求めているのです。 
祈りやサービスによってそれを発現させるということは大霊があなたを通して働くということになります。そうしたもの、要するに魂の成長を促すものは全てあなたの霊性の進化を促しているのです。

Tuesday, July 5, 2022

シアトルの夏 祈りの言葉はたった一言しかありません。There is only one word of prayer.

 



祈りの言葉はたった一言しかありません。

「何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え」これです。

「大霊のため、そして大霊の子等のために一身を捧げたい」

この願いより崇高なもの、これ以上の愛、これに勝る宗教、

これより深い哲学はありません。どのような形でもよろしい。

大霊の摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、

飢えに苦しむ人に食べるものを与えてあげることでも、

あるいは暗い心を明るく晴らしてあげることでもよろしい。

人のために役立ちさえすれば、

形式はどうでもいいのです。

Sunday, July 3, 2022

シアトルの夏 改めて申し上げますが、偶然というものは存在しません。I would like to reiterate that there is no such thing as a coincidence.


Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)


――同じ原因で病気になりながら、一方は治療家によって治り、もう一方は(治療家との縁がなくて)治らないというのは不公平ではないでしょうか。

あなたは病気になった人が霊的治療家のところへ行くのは偶然のしわざだと思っておられるのですか。偶然というものはあなた方の世界にも私たちの世界にも存在しません。断言します――大霊の摂理は完ぺきです。そのうちあなたも摂理の働きをつぶさに理解して、私と同じように、その完ぺきな摂理を生み出した完ぺきな愛の存在に気づいて、驚異の念で陶然となることでしょう。

誰しも――この私も含めてのことですが――暗闇の中で模索し、時たま光を見出し、摂理を洞察し、驚異の念に打たれます。しかし、暗闇の中にいて摂理の存在に気づかない時は、偶然とか偶発の出来事であると考えたがります。が、改めて申し上げますが、偶然というものは存在しません。

そう言うと、では自由意志はどうなるのかとおっしゃるに相違ありません。お答えしましょう。人間にも自由意志はあります。しかし、自由のつもりでいても、それはその段階での魂の進化の程度に支配されているのではないでしょうか。自由とは言っても魂の成長度によって規制されているということです。宇宙をすみずみまで支配している法則によって縛られているといってよいでしょう。いかに巨大な星雲であろうと、極微の生命体であろうと、その法則から遁(のが)れることはできません。何一つ遁れることはできません。大霊の摂理は完ぺきなのです。

Saturday, July 2, 2022

シアトルの夏 人生は行為だけで成り立っているのではありません。Life does not consist solely of actions.

 


絶対的摂理の存在


〔宇宙は逃れようにも逃れられない自然法則によって支配されている。いかなる霊もその法則を変えたり、それを犯した時に生じる結果から逃れさせてあげることは出来ない。しかし、そうした法則の存在を教えることによって無知から生じる危険から救ってあげることは可能である。シルバーバーチはそうした法則ないしは摂理の中から、例えば引力の法則のような身近なものを取り上げて説き明かす〕


私たちは大霊が定めた摂理をお教えしようとしているのです。それを守りさえすれば物的生活に健康と幸せをもたらすことが出来るからです。教会で説教している人たちはいつの日かその間違いをご破算にしなければなりません。いかなる人間も摂理の働きかけから逃れることはできません。牧師といえども逃れることはできません。なかんずく霊の声を聞いた者(良心の痛みを感じた者)はなおさらのことです。間違っていると知りつつ改めることの出来ない者は、知らずに犯す者より重い責任を取らされます。

魂が目覚め、霊力とともにもたらされる愛の恩恵に浴した人、つまり霊的真理の啓示の恩恵に浴しながらもなお自分中心の生き方に終始している人は、その怠慢に対する罰がそれだけ大きくなります。知らずに犯したのではなく、知っていながら犯しているからです。人のために役立てるべき霊能を授かりながら、それを銀貨三十枚で売っている人が大勢います。

大霊はあなた方すべての内部にあるのです。進化の跡をたどれば確かに人間もあらゆる生命体から進化してきており、遺伝的には動物時代の痕跡も留めておりますが、それを遥かに凌ぐ資質として、大霊から授かった神性を宿しており、それを機能させれば地上にあっても神の如き生き方が可能なのです。

病気に関しても、人間の内部にはいかなる病気でも自らの力で治す治療力と、いかなる困難をも克服する霊力をそなえているのですが、あなた方はまだそれを実感しておりません。いざという窮地において引き出せる霊力の貯蔵庫を持っているのです。神の王国は各自の内部にあるのです。そのことがまったく理解されていないのです。

その貯蔵庫から必要なものを引き出すにはどうすればよいかと言えば、大霊の摂理にのっとった生活に徹しさえすればよいのです。しかし、果たして何人の人がそう心掛けているでしょうか。

人生は行為だけで成り立っているのではありません。口に出して述べること、そして頭や心の中で思考することも大切な要素です。行いだけが責任を問われると思ってはいけません。確かに行いが重大な要素を占めていることは事実ですが、言葉や思念も、あなたという存在の大切な一部です。よく言われるように、人間の多くは思想の主人であるより奴隷となっております。