Wednesday, November 4, 2026

シルバーバーチの霊訓 (十)

 Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva

近藤千雄訳 





五章 死んだあと、どうなるのか  
 

 (われわれはいつかは肉体を捨てて次の世界へ行く。そこでの生活はどのようなものなのか、何をして過ごすのか、こうした疑問にシルバーバーチが答える)



 こちらには昼も夜もありません。地軸の回転に依存していないからです。太陽の周りを回転しているのではありません。こちらには永遠の光が存在します。したがって地上のような時間というものがありません。

 こちらへ来てからも仕事があります。が、それは自分がやりたいと思う仕事であって、お金を稼ぐためとか家賃を払うためとか衣服や食料を買うためにするのではありません。

 地上で発揮されることのなかった能力や才能や技能を持つ人が次々と霊界へやってまいります。そういう人たちはこちらでそれを存分に発揮して、霊界の住民として全体の豊かさの向上に寄与することができます。

 みんな自分がしたいと思うことにたずさわっております。霊界には無限の種類の楽しみがあります。音楽が好きであれば地上と霊界の名曲を鑑賞することが出来ます。コンサートも開かれております。文学が趣味の人は地上と霊界の名作を読むことが出来ます。絵画に興味のある人も地上と霊界の傑作の全てを鑑賞することができます。

 子供が好きな人は両親に先立ってこちらへ来た子供の世話をすることができます。魂に病のある者に関心を寄せる人は、そうした霊のための更生施設で看護し介抱して霊的健康を取り戻させる仕事にたずさわります。それぞれに応じた無限の種類の仕事があります。その上に更に私のように地上世界のための仕事に従事する者もいます。

 とにかく地上を去ってこちらへお出でになれば、言葉では言い尽くせないほどの豊かさが待ち受けております。たとえば音楽であれば、地上にない音階が存在します。絵画であれば、地上に存在しない色彩があります。そのすべてをお話しすることはとても不可能です。


───霊界へ行っても地上と同じように何らかの形体を具えるのでしょうか。

 幽霊や妖怪になるのではありませんよ。首のないお化けになるのではありませんよ。立派な胴体と、他人と区別のつく容貌を具えた、実在の個的存在です。また他人を認識するための感覚もちゃんと具えております。霊の世界で生きて行く上で必要な霊的器官が全部そろっています。

 ちゃんと姿があります。形体を具えております。個人的存在を有しております。具えていないのは肉体的器官だけで、それに代わって、霊界で機能していく上で必要な霊的器官を具えています。

 よく理解していただきたいのは、あなた方人間にとって物質は固体性があり、実感があり、霊というと何だか影の様で実態がないかに思えるのでしょうが、私たち霊界の者にとっては霊こそ実在であり、実感があり、反対に物質の方が影のようで実体感がないということです。

 と言っても、人間がしゃべるに必要な器具は霊にはありません。しゃべる必要がないからです。こちらの世界では思念で通じ合っています。お互いに思念を出し合い、それだけで通じ合えるのです。霊界では思念は実体のある存在なのです。

存在するものすべてが思念でこしらえられているのです。ですから、必要と思うものはどんなものでも手に入れることが出来るのです。

(訳者注───別のところで、言葉でしゃべる必要があると思い込んでいる間はまだ幽質の発声器官が残っていて実際にしゃべり合っていると述べている。いわゆる地縛霊として地球圏内で自分が死んだことにも気づかずに生活している霊には地上時代に使用した器官がすべて残っていて、同じように食べて飲んで寝るという生活を繰り返しているのが実情である)

 海もあれば山もあり、湖もあり、花も樹木もあり、動物も小鳥もいます。その美しさの中には実際にこちらへ来ないと分からない種類のものがあります。ある程度の霊性に目覚めた者なら、もはや物質界の愉しみ(飲食欲・性欲等)を求めなくなります。仮にいても、それは例外に属します。

 もう一つの霊界の有難い点は、地上のような〝生きるための必需品〟を得るための苦労が要らないことです。食糧品や衣類を買う必要がありません。お金を払ってまでして家を求める必要がありません。全部揃っているのです。


───物的財産というものが無くなれば、貪欲とか権力欲とかも無くなりますか。

 いわゆる幽界でも低級な境涯にはまだ貪欲とか権力欲とかが存在します。忘れてならないのは、死んだ人間は霊的には死ぬ前と全く同じであることです。地上と違って霊界は思念が実在の世界です。心に思うことに実体が伴い実感があるのです。

 私たちから皆さんを見ると、身体は影のように見え、皆さんが心に思っておられることの方が実体があります。このことはなかなか説明が難しいのですが、たとえば皆さんが夢を見ているのと同じだと思えばよろしい。夢の中に現れるものは夢を見ている間は実在です。

もしも永遠に目覚めなかったら夢の世界がその人にとって実在の世界となります。乗る船も飛行機も、訪れる国も、夢の中ではみな実在です。

 こちらの世界では思念が全てのものをこしらえる素材です。ですから心に思うことがみな存在するわけです。貪欲と権力欲を持ったままこちらへやって来れば、それがこちらでは無用のものであることに気づくまで、それを持ち続けます。

そうした地縛的状態から解放される段階まで成長すると、ようやく救われることになります。(これが本当の意味での〝成仏する〟ということ───訳者)

 困ったことに、権力欲や強欲は霊を地上へ縛りつけます。身体的に死んでいますが、同時に霊的にも死んだも同然の状態です。波長が私たちより人間の方に近い状態です。そこで同じ欲に燃えた地上の人間と感応し合って、その欲望を増幅してまいります。


 ───と言うことは、地上をうろつく霊がますます増え、同時にそれが地上問題の解決を難しくしているということでしょうか。

 その通りです。というのは、こちらの世界は地上からの他界者で構成されていることを知らねばなりません。地球からの渡来者しかいないのです(※)。何の用意も身支度も出来ていない未発達霊で適応性のない霊をそちらから送り込んでいる限り、地上と霊界双方の問題を増幅するばかりです。

そこで私たちが地上人類の啓発のためにこうして働いているのです。暴力・貪欲・唯物思想・利己主義・強欲等々、要するに世界各地での戦争と不協和音と分裂の元凶である恐ろしいガンの発生を防ぐためです。

(※同じく〝霊界〟という言い方をしても地球圏の霊界、太陽の霊界、太陽系の霊界、銀河系の霊界、そして宇宙全体の規模の霊界がある。ここでは地球に限っての話である───訳者)


───霊界はこの地球からの他界者で占められているとおっしゃいましたが、その世界は地球を取り巻くように存在しているのでしょうか。それともずっと遠くまで広がっているのでしょうか。霊界も沢山あるのでしょうか。

 神は無限です。生命は無限です。あなた方の小さな天球は宇宙の中の一個のマメ粒のような存在でしかありません。


───地球のような世界がたくさんあって、それぞれに霊界があるということですね?
 
 霊の住む世界は無数に存在します。あなた方はこの宇宙の孤児(みなしご)ではありません。


───となると〝死後の世界〟はどこにあるのかという問いにはどう答えたらよいのでしょうか。明確に答えるのは困難だと思いますが・・・・・・

 死後の世界とは、要するに今生活している世界の目に見えない側面、耳に聞こえない側面のことです。死んでからではなく今の時点で霊の世界に住んでいるのです。死んでからそこへ行くのではありません。今いる場所に霊界があるのです。

その世界の波長ないし振動、その他どう呼ばれても結構ですが、それをキャッチするための霊的感覚を発揮しないかぎり、それが認識できないというに過ぎません。別個の世界ではないのです。宇宙全体を構成する不可欠の側面であり、地球もその小さな一側面にすぎません。


───その見えない世界の存在を認識するために霊的感覚を養成することも、地上に生活しているわれわれの義務と言ってよいでしょうか。

 おっしゃる通りです。物質の世界の裏側に霊的側面があることを認識してはじめて本当の意味で生きていることになります。霊的実在に気づかない限り、悲しいかな、霊的な意味で目と耳と口を塞がれているようなものです。


───霊界から地上へ戻ってくると地上が陰鬱に感じられるとおっしゃいました。するとあなたはどこか別の場所からやってくることになりますが・・・・・・

 自我の表現形態が変わるのです。霊界でのいつもの振動の速度を落とす操作をするのです。地上の低いオクターブをキャッチするために高いオクターブの振動に属する要素を霊界にあずけてこなければなりません。


 (質問者が代わる)

───なぜ霊界と物質界とが存在するのでしょうか。なぜ霊界一つだけではいけないのでしょうか。


 それに対する答えは〝なぜあなた方はお子さんを学校へ通わせるのですか〟という問いに対する答えと同じです。学校を出たあとの生活で直面するさまざまな状況に備えて、勉強させるためです。

物質界へ来るのも同じ理由からです。地上を去ったあとに訪れる生活に備えさせるために、地上生活がさまざまな体験と挑戦の好機を提供してくれます。次の段階に備えるための学習の一過程です。

 物質界、霊界、そして果てしなく広がる宇宙は、あなた方のいう神、私が大霊と呼んでいる絶対的なエネルギーが顕現したものです。宇宙に存在する最高の力です。それは無限です。始まりも終わりもありません。その叡智も無限です。その愛も無限です。その貯蔵庫も無限です。

  大霊の意志の表現である自然法側の働きは絶対です。かつて宇宙間に生じた現象、あるいはこれから生じるであろう現象で、その働きによる配慮が為されていないものは何一つありません。

 人間界の法律は予期せぬ事情が生じて絶えず改正が行われます。しかし自然法則は完璧です。その働きの及ばないものは存在しません。誰一人、何一つ、極大・極小、複雑・単純に関係なく、その働きからはみ出るものはありません。

宇宙間のあらゆる事物、あらゆる環境、あらゆる事情、あらゆる現象が不変・不滅の法則によって規制されているのです。

 私が何よりもまず、その絶対的な大霊に崇敬の念を捧げるのはそのためです。荘厳さと深遠さにおいて、これに勝るものは何一つ、誰一人、存在しないのです。その知性の壮大さは到底地上の言語では表現できません。

 皆さんのどなたよりも永い間顕幽にまたがる生命の旅を続けている私は、今なお、あらゆる存在の次元において働いている自然の摂理の完璧さに驚くことの連続です。

 そこで申し上げますが、宇宙に存在するものは何らかの役目があるからこそ存在しているということです。自然の摂理と調和して生きていれば、健康・幸福・霊的明るさ・精神的特性という形でその恩沢を受けます。それは、内在する神性を発揮していることに他ならないからです。

 あなたは有限の知性で持って無限なるものを理解しようとなさっていることを認識しておくことが大切です。


───あなたはその〝大霊〟と交信なさるのですか。

 あなた方の理解しておられる〝交信〟(コミュニケーション)の意味では〝ノー〟という答えになります。人間が交信するには口でしゃべるか、書くか、とにかく何か道具を使用しなければなりません。

自分の言いたいことを伝えるには言語を使用しなければなりません。しかし言語は有限なものであり、したがって無限なものを表現することはできません。いかなる文章の達人も宇宙の無限性と、そこに存在するもの全てを、言語によって表現することは不可能です。

 霊界では界層が高くなると意志の伝達が心と心との直接的なものとなります。そこで、私が大霊と交信し合うのかとのご質問ですが、交信が言語の使用を意味するのであればノーです。私達は直接的に意志を通じ合うのです。大霊の無限の力にチャンネルを合わせて、できるだけ多くの力を頂戴するように努力するのです。


───あなたたち霊の方が私たち人間より大霊と密接な関係にあるとお考えですか。

 あなた方も同じように大霊と密接な関係にあります。なぜなら大霊はあなた方の内部に存在するからです。大霊の火花が一人ひとりに宿って生命を与えているからこそ生きていられるのです。

 それとも〝密接〟とおっしゃったのは大霊とのより大きな調和、より強い一体関係が得やすいという意味でしょうか。それならば〝イエス〟です。なぜならば霊には無限の可能性と完全性が秘められていて、こちらの方がそれを発揮しやすいからです。しかし地上においても霊界においても、その完全性をすべて発揮できる段階は来ません。


 (質問者が代わる)

───完全性は永遠に達成できない───完全を目指しての絶え間ない努力の連続であるとおっしゃるのですが、それは完全性が二重性の一面だからでしょうか。二重性の原理を超えたところに別の意識の界層ないし状態があるのでしょうか。もしあるとすれば、それは理解を超えたものであるに相違ありません。


 〝完全〟というものは、その本質ゆえに達成できません。〝これで完全です〟という段階、もうこれ以上目指すものがないという段階があるとしたら、ではその先はどうなるのかという問題が生じます。

 完全とは無限に続く過程です。霊の純金を磨き出すために絶え間なく不純なものを取り除いていく過程です。知識と同じです。知れば知るほど、また先に知るべきものが存在することを知ります。

全知識の頂上に到達することは出来ません。意識には無限の次元、レベル、界層があるのです。それが霊の属性の一つであり、無限であるが故に絶え間なく発展して行くことを意味します。

 ところで、あなたは〝二重性〟という言葉を用いておられますが、どういう意味ですか。


───〝対照性の原理〟のことです。

 私のいう〝両極性〟のことですね。無限の知性と叡智によって案出され、ありとあらゆる可能性に配剤した自然法則があります。これには改正とか破棄とかの必要性は絶対に生じません。本質そのものが無限の知性の働きの証なのです。

もうこれでおしまいという限界がない───どこまで行ってもまだその先があるというのは、これは素晴らしいことです。いわゆるニルバーナ───霊的進化のゴールとしての至福の境涯はないということです。


───いわゆる因果律の次元を超えて、現在のわれわれに理解できない別の次元の摂理が存在しますか。

 摂理は無限に存在します。が、いかなる摂理も因果関係を律している総合的摂理の一部です。


───このサークルから離れている時のあなたは、どういうレベルの意識で機能しておられるのでしょうか。

 人間の理解力を超えた境涯へ戻っております。霊の世界では地上的言語を超越し内的直覚を必要とする状態となります。私がこの地上を去って本来の次元の住処に引き返している間は、地上でこうして交信している時には出すことのできない高いレベルの意識を表現しております。それは皆さんに理解していただけるような言語ではまったく用をなさない、霊的実感の世界です。


 (初めてサークルに招待された人が質問した)

───死後の生命の存在を立証しようとすると、いろいろと不可解に思えることが生じてきます。どう証拠立てたらよいか思案しているのですが、存続するというのは一種のエネルギーとしてでしょうか、思念としてでしょうか。それともそれは今のわれわれと同じような、何らかの身体を具えたものなのでしょうか。

 死後の生命とおっしゃいますが、私は時おり地上世界を見渡して、果たして死ぬ前に生命があるのかと、疑わしく思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、あるいは、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。

 霊界での生活がどのようなものであるかを伝えるのは、とても困難です。なぜかと言えば、私たちは人間のその五感に限られた状態で理解できる範囲を超えた次元で生活しているからです。言語というのは、あなた方の三次元の世界を超えたものを伝えるにはまったく無力です。

 死後の世界の豊かさをお伝えしようにも、それを例えるものが地上には無いので、うまく言い表せないのです。強いて言えば、本来の自我の開発を望む人達の憧憬、夢、願望が叶えられる世界です。発揮されることなく終わった才能が存分に発揮されるのです。

 経済問題がありません。社会問題がありません。人種問題がありません。身体ではなく魂が関心のすべてだからです。魂には白も赤も黄も黒もないのです。

 界層ないしは境涯というものがあり、そこに住む者の進化の程度に応じて段階的な差ができています。あなたが他界後に落ち着く先は、あなたが地上で身に付けた霊的成長に似合った界層であり、それより高いところへは行けません。行きたくても行けません。

また、それより低いところでもありません。行こうと思えば行けますが、何らかの使命を自発的に望む者は別として、好んで行く者はいないでしょう。

 霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性があること、完全への道は果てしない道程であることを認識するようになります。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪等が強烈に意識されるようになり、その償いをするための行ないに励むことになります。

 埋め合わせと懲罰の法則があり、行為の一つ一つに例外なく働きます。その法則は完全無欠です。誰一人としてそれから逃れる者はいません。見せかけは剥ぎ取られてしまいます。すべてが知れてしまうのです。と言うことは、正直に生きている人間にとっては何一つ恐れるものはないということです。

 難しい問題が無くなってしまう分けではありません。解決すべき問題は次から次へと生じます。それを解決することによって魂が成長するのです。何の課題もなくなったら、いかなる意味においても〝生きている〟ということにはならなくなります。魂は陽光の中ではなく嵐の中にあってこそ自我を見出すものなのです。

 もしも私があなたの悩みは全部こちらで引き受けてあげますと申し上げたら、それはウソを言っていることになります。私にできることは、問題に正面から対処して克服していく方法をお教えすることです。いかに大きな難題も障害も、霊の力の協力を得れば、人間にとって克服できないものはありません。

 霊は、今の私のように人間の口を借りてしゃべらなくても、いつまでも援助の手を差し伸べることができます。時間と空間という厄介なものがないからです。あなたがいつどこにいても援助できます。その時の条件下で可能なかぎり援助し続けましょう。


───埋め合わせと懲罰があるということは、たとえば立派な行いには褒賞があるということになりますが、そういうことを裁定する神様はどこにいるのでしょうか。

 もしも埋め合わせと懲罰がなかったら、神の公正はどうやって発揮されるのでしょう。罪深い人間が聖者と同じ霊格を具えることがあって良いでしょうか。もちろん、よいはずはありません。いかなることにせよ、良いことをすればそれだけ霊性が向上し、自己中心的なことをすれば、それだけ霊性を損なうのが道理です。

 良きにつけ悪しきにつけ、あなたの霊的命運を定めていくのは、あなた自身です。あなた自身のことに関して最後に責任を負うのはあなた自身です。もしも死の床にあって罪を告白し特別の信仰を受け入れれば立ちどころに罪が赦されて潔白の身になれるとしたら、それはまさにお笑いものであり、茶番劇というべきです。


───最後に責任を負うのは私であるとしても、それは生まれる時に思い通りの才能を選ばせてくれていたならば、の話です。私には選択の余地はありませんでした。

 そう言い切れる根拠はどこにありますか。


───自分でそう自覚しているはずですが・・・・・・
 
 その自覚は本来の自覚の一かけらにすぎません。あなたはこの地上へ誕生するに際して今の意識よりはるかに大きな意識によって、そう決断なさったのです(※)。ですから、それを最大限に活用しないといけません。

 (※別のところで、このことは大半の人間について言えることだが、それは人間にはなかなか得心のいかないことでしょう。とも言っている。インペレーターもそれは高級霊でも同じであると言い、唯一その自覚を取り戻せたのはイエスだけだと言っている───訳者)


───その小さな意識を活用しろということでしょうか。

 いえ、あなたが選んだ地上人生を、です。でもあなたは幸せな方です。一ばん必要とする時に霊的な啓示を受けられたのですから。人生における最大の危機にもしも霊があなたの進むべき道を指示してくれなかったら、現在のあなたはどうなっていたか分かりません。

 あなたは地上のどこのマーケットでも買うことのできない知識を手にされた、本当に恵まれた方です。霊的実在についての知識を手にされたのです。バイブルにも〝汝の信仰に知識を加えよ〟とありますが、私は反対に〝汝の知識に信仰を加えよ〟と申し上げておきます。

(よく指摘される問題として、来世についての通信の食い違いがあることが挙げられる。その点について質されてシルバーバーチがこう語った)


 霊の世界が無辺であること、したがって当然そこに住む者による体験の多様性もまた無限であることを知らなければいけません。霊界の生活には霊的に上下の段階があり、従ってそれぞれに体験の相違というものが生じるわけです。

 あなたと交信している霊は、その時の段階での自分の体験を述べているだけです。その後進歩してもう一つ上の次元の存在の場へ行けば、かつて抱いていた意見を改める可能性があるわけです。

 このように、霊界についてどういう内容のことが伝えられるかは、通信霊の進歩の程度によって違ってくるわけです。ここで忘れてならないのは、地上近くで生活している霊ほど、これから体験することになっている上層界の高度な霊的事実を伝える能力が限られているということです。

 その霊が今生活している界層については何でも入手できます。が、それより高い界層のことは理解出来ませんから、伝えてくることは必然的にその霊にとって明白なことに限られることになります。低い界へ下りることはできますが、高い界へは上がれないのです。

 私から申し上げる忠告はいつも同じです。霊からの通信はことごとく理性で持って判断しなさいということです。常識的に考えてどうしても受け入れ難いものは拒否なさることです。私たちとて絶対に間違いを犯さないわけではありません。

まだまだ完全からは程遠い存在です。完全に到達するには無限の時を要するのです。何度も申し上げているように、それは永遠に続く過程なのです。

 サークルのメンバーの方にも、あるいはご招待した方にも、私は決して〝こうしなさい〟とか〝これを信じなさい〟とかは申しません。独裁的指導者ではないからです。私たちは協力者なのです。

皆さんの愛さえ獲得すれば仕事は成就したも同然であるとの認識のもとに私たちは、真実と叡智と論理と理性と愛を持って皆さんの協力を得なければならないと考えているのです。

 私たちの宗教は真理の宗教です。私たちから提供するのは真理のみです。私たちが真実であると理解した限りの真理、私たちおよび皆さんに啓示された通りの真理です。その表現の仕方は拙劣(せつれつ)かもしれません。なぜなら私たち霊団の者もあなた方と同じ人間味を残している存在であり、過ちも犯しますし、欠点もあるからです。

 しかしこれからも私たちは、人生のすべての基盤となっている永遠にして不変の霊的原理であると信じるものを皆さんに説き続けます。その霊的摂理に忠実に生きているかぎり、絶対に危害はこうむらないことを断言します。

 と言って、地上生活につきものの困難と苦難と面倒なことから逃れることはできません。なぜなら、それは魂の進化にとって必須のものだからです。光明を味わうには暗黒を体験しなくてはなりません。太陽の有難さを知るには雨の日を体験しなくてはなりません。

人生は両極性を体験しなくてはなりません。一方だけでは他方の存在価値が分からず、物質的にも精神的にも霊的にも啓発が得られないからです。

 無限の叡智を具えた大霊はあなた方に理性と言う才能を賦与なさっています。何ごとにもそれを使用することです。たとえ霊界からのものであっても理性が反発を覚えるものは恐れずに拒否なさるがよろしい。


───私は地上はいずれまた戻ってくる学校だと考えているのですが、正しいでしょうか。

 学ぶべき教訓を学ばずに終われば、それは学ぶためにまた戻って来なければならないでしょう。
しかしこれまであなたの人生を振り返ってご覧になれば、万事休すと思われた時に霊の道標(みちしるべ)があなたの進むべき方角を教えてくれていることがお分かりになるはずです。

霊の力はそういう形で働いているのです。あなたは決して一人ぼっちではありません。いつもあなたと血族関係のあった霊だけでなく、血縁とは別の霊的近親関係によって結ばれている霊によっても導かれております。神の子を導くことによって神に奉仕する、その手段として人間を導いているのです。


 (質問者が代わる)

───霊界でピアノを習いたいときはやはり練習が必要なのでしょうか。

 もちろんです。何もしないで身に付くものはありません。霊界には各自の才能に応じて指導してくださる立派な先生が大勢います。地上において経済的理由や社会的環境の為に発揮できなかった才能を持つ新参者は、霊界へ来てから驚くほど素晴らしい機会を与えられることがよくあります。霊界では、なにものにも束縛されることなくそれを最高度に発揮することができます。


───睡眠の必要がないそうですが。休息とか寛ぎの時間はありますか。

 あります。寛ぐ必要を感じたら寛ぎます。


───霊体はどうやって養いそして維持するのでしょうか。

 食べ物によって養う必要のある物質的身体ではありません。


───霊的な栄養はありますか。

 あります。摂取すべき霊的エネルギーがすべて揃っています。霊は無限です。


───こうしたことは無論そちらへ行くまでは理解できないことなのでしょうね。

 その通りです。こちらへお出でになれば、今度は私と同じように、それを地上の人に説明する難しさを知ります。


───ここにいる私が、死後はあなた方と同じ世界へ行くことは疑う余地もなく理解しております。あなたのお陰でその事実に途方もなく大きな意味があることを知りました。その意義を地上にいる間に実現しなければなりません。

また私たち人間には何らかの霊的才能が宿されていて、それを地上において発達させるのが私たちの義務であることも知りました。私たちは地上では大たい以上のように理解するのが精一杯であると考えてよろしいでしょうか。

 非物質的な霊の世界のことを物質界の言語で表現できないのは、あなた方の思考そのもの、あなた方の精神的概念のすべてが、その言語によって規制され、意識がその三次元の地上界だけに縛られているからです。

 五感もそれ自体は素晴らしいものですが、現実にはそれが外界から摂取するものを制限し、また摂取したものの理解を制約しています。

霊覚者は表面の生命活動の裏側にある大きな実在を霊覚によって認識しますが、それを伝えようとすると言語の無力さを痛感します。言語は人間がこしらえたものであり、インスピレーションはその言語を超越したものだからです。


───霊界の各界層間の連絡はどのようにして行うのでしょうか。

 今も申し上げた通り、そうした質問にお答えする上で問題なのは、言語を超越した実在を言葉によって表現しなければならないということです。〝界層〟という用語自体がまず問題です。皆さんは地球の表面のようなところを想像なさるのでしょうが、実際はただの〝状態〟であり、〝段階〟の一つです。

 霊界は段階的に上下の差があります。一つの段階はすぐ上と下の段階と融合してつながっており、それが限りなく続いております。明確な境界線が引かれているわけではありません。地理的な区域というものはないのです。

 ある界からそれより高い界へ一方的に通信を送ることは出来ません。が、高い界から低い界へ向けて通信を送ることはできます。その方法は以心伝心によります。言葉はしゃべりません。音声を発するための物的な器官がないからです。思念対思念による交信です。


 ───すると霊界には思念のプライバシー(秘密)はないわけですか。

 ありません。私たちの世界では何一つ隠すことができません。すべてが知れてしまうからです。だからといって、別に恥ずかしく思うことはありません。地上ではごまかし、ウソをつき、だますことができます。名前を合法的に変えることもできます。が、本性を変えるわけにはまいりません。


(招待客が自分のホームサークルに出てくる霊の中には歴史上の著名な人物の名を名のるのがいることを述べると───)

  私たちの世界では名前は何の意味もありません。地上時代の名声は何の価値もありません。魂の価値は地上時代の肩書ではなく、何を為したかによって自ら裁き、それが現在の個性を形成しているのです。霊界での唯一のパスポートは魂の発達程度です。それが衆目に赤裸々にさらされるのです。

 ごまかすことはできません。ウソをつくこともできません。見せかけも通じません。こちらへ来ると地上時代の仮面が剥ぎ取られ、あるがままの姿が知れてしまいます。魂の霊的発達程度が誰の目にも分かります。

 名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものにすぎません。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい。お金があるとか世間的に出世したということで名が知れたにすぎません。イエスはそういう名声は一切求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者と言われる人は名声を求めたでしょうか。

 大切なのはどれだけ人のためになることをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名のって出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の規準は何と名のっているかではなくて、どういう態度でどんなことを説いているかです。

 いつもお願いしているように、もしも私の言っていることにあなた方の知性を侮辱し理性を反発させるようなところがあったら、遠慮なく拒絶なさってください。愛の心で接し真理の核印を押されたものを説きながら、それで皆さんの魂に訴えることが出来なかったら、それは私達霊団の努力は失敗に終わったことを意味します。

(親密な間柄だった親戚の霊がどうしても出てくれないのはどういう事情があってのことかとの質問に対して───)

 自由意志の問題です。地上へ無理に引き戻そうとする強制力は一切働きません。こちらの世界へ来て、例えようもない楽しさと美しさと光輝を少しでも味わった者にとって、地上というところは、戻ってみたいと思うほど魅力ある世界ではありません。

薄暗くて、じめじめして、これほど面白くない雰囲気はありません。こうした世界へ戻ってくるのは大変な犠牲を強いられるのです。


─── テレパシーによって霊との交信ができた場合、それは霊にとって苦痛なのでしょうか。自分の所属界にいるままでは交信できないものでしょうか。

 それは十分可能なことです。私たちとしてはそちらとこちらとがお互いに半分ずつ歩み寄る形で交信できれば有難いのですが、残念ながらそう希望どおりにはまいりません。私たちの方から地球の大気圏、地上的環境、地上界のバイブレーションの中へ下りて行かねばならないのが実情です。

つまり霊的なものを物的なものへ近づけなければならないのです。本当は物的なものを霊的なものへ近づけてほしいのですが・・・・・・


 (質問者が代わる)

───人間が幽体で旅行する話を聞くことがありますが、私にも同じ体験があるみたいです。どういう現象なのでしょうか。

 いたって簡単なことです。幽体が肉体から脱け出て、時には私たちの世界へ、時には地上の遠隔の地まで旅行するのです。実は睡眠中は一人の例外もなく幽体で旅行しております。

一時的に肉体を離れて私たちの世界を訪れ、縁のある人たちと会っているのです。これは死後の環境の変化がショックにならないように、あらかじめ準備させるための神の配慮なのです。

 死の現象(二つの身体をつないでいるコードの切断)をへてこちらの住民となれば (意識の中枢が幽体へ移って)地上時代の睡眠中の体験を思い出し、それから始まる素晴らしい霊界生活への準備が整います。皆さんは毎晩死んでいると言ってもよいのです。


───誰しも夢を見ます。その中で親しい人と会ったことを思い出すことがありますが、本当に会っているのでしょうか、それともただの想像にすぎないのでしょうか。あるいは会いたいという願望がそういう夢となって現れるのでしょうか。

 いえ、実際にその人と会っておられるのです。といって想像力を見くびってはいけません。厄介な面もありますが、豊かな創造性も秘めております。純粋にして最高の形態で発揮された時の想像力は驚異的な働きをします。未開発の能力を花開かせていく創造的な力となります。

 夢のすべてが霊的体験というわけではありません。潜在意識に蓄積した観念の反映にすぎないこともありますし、夜遅く食べた物の反応にすぎないこともあります。


───その違いは分かるものなのでしょうか。

 分かります。食べた物や潜在意識のせいである場合は霊的な効用がありません。実際に霊界の愛する人に会った場合は精神的ならびに霊的な温もり、充足感を覚えます。その違いは明確に分かります。

 もっとも、その違いを見分けるには能力の発達が要請されます。物質的な印象にすぎない場合は肩にずっしりと重たさを感じますが、霊的な体験の場合は蝶に口づけをされたみたいな気分がいたします。


 (質問者が代わる)

─── 霊界では一個の霊が数か所で同時に仕事をすることができると聞いております。これはグループソールの原理と関係したことなのでしょうか。つまり一個のダイヤモンドの複数の相の一つ一つが行うことが、あたかも一つの相が同時に行っているように思えるのでしょうか。

 霊界ではさまざまな霊相を表現することが出来ますが、一個の霊が複数の相を別々の場所で同時に表現することはできません。一度に一つの場所にしか存在できません。

 ただ、地上の人間のように物的条件による距離の制約は受けません。たとえば地上の距離にして何千マイルも離れたところへでも、行きたいと思えば一瞬の間に行くことができます。

 それはダイヤモンドの一側面、つまりグループソールの一個の単位であることとは何の関係もありません。その側面が全体としての進化に寄与するための体験を獲得するために地上へ誕生します。


───その結果ダイヤモンドが全体としてより立派なものとなるわけですね。

 そういうことです。一段と深い霊的覚醒と発展が得られるからです。各側面が地上での体験によって霊性を高めるのです。地球も本質的には霊的進化の場としての存在価値を有しているのです。そうでなかったら存在しないはずです。


───地上で意識しているような時間は無いのでしょうか。

 ありません。地上の時間というのは昼と夜と四季を生じさせている地球の自転と公転によって支配されております。私たちは地球の回転の影響は受けません。したがって昼とか夜とか春夏秋冬の区別がありません。時間は私たちにとっては存在しません。強いて言えば〝永遠の現在〟の中に生きております。


───〝永遠の過去〟でもあるわけですね。

 私たちにとっては過去も未来も、ともに永遠の現在です。皆さんの睡眠中のことをお考えなれば、さほど理解の困難な話ではないと思います。睡眠中は一時的に物的束縛から解放されています。

ですから夢の中ではそういう束縛を受けないで、途方もない距離を行き来できます。いつもの時間の観念が無視されています。永い夢の出来事も数分のうちに起きております。


───この世では時間に縛られているかに思えても、霊界では時間というものが存在しないのですね。

 時間そのものには過去も未来もありません。時間は永遠の現在の中に存在しています。過去と未来はあなたと時間との係わり方一つによって生じているにすぎません。

(別のところで時間を無限に回転する輪にたとえ、今触れているところが現在で、すでに触れたところが過去、これから触れるところが未来ですと言っている──訳者)

 皆さんは三次元の世界に生きておられます。私たちは地軸の回転、つまり昼と夜を生じさせる回転する球体とは無縁です。永遠の光の中で生活しております。これをどう説明すればよいのでしょう。

肉体のような物質的身体がありませんから眠る必要がありません。睡眠を必要とする身体を持っていないのです。休息を必要とする時は、元気が回復するまで休止するだけです。

 私たちの世界は、皆さんには到底想像できないほど豊かで美しい世界です。皆さんの聴覚を超えたオクターブの世界、みなさんの視覚の限界を超えたスペクトルの世界がどうして説明できましょう。どうにもならないほど説明が難しいのですが、それでも実在しているのです。

 物質の世界に生まれて来た以上は物質の法則によって制約を受けざるを得ません。が、皆さんも霊なのです。魂が宿っているのです。それはいかなる物質なものよりも上です。霊が主人であり物質は召使いです。霊は不変の実在であり、物質には永続性はないのです。

 その霊が去ると肉体はもろくも崩れてチリと化します。形体を変えてしまいます。 そして二度と同じ形体には戻りません。一方、真実のあなたである霊は生き生きと輝いた姿を見せております。

心臓だの肝臓だの肺だのによって生かされているのではないのです。肉体に生きるエネルギー、あるいは生命を維持する上で必要なものすべてを供給しているのは霊なのです。
  

Tuesday, November 3, 2026

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva

近藤千雄訳 




四章 死ぬということはどういうことか



 死ぬということは霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。何一つ怖がる要素はありません。死は有難い解放者です。死は自由をもたらしてくれるのです。

 地上では赤ん坊が生まれると喜びます。ところが、いよいよ地上へ誕生しようとする時こちらでは泣いて別れを惜しむ霊が大勢いるのです。それと同じく、地上で誰かが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を出迎えて喜んでいる人たちがいます。

 死とは地上生活がその目的を果たし、霊がこれから始まる霊的生活が提供してくれる圧倒的な豊かさと美しさとを味わう用意が出来たことを意味します。少なくとも本来はそうあらねばならないのです。

 皆さんにも霊が宿っております。生命を与えている霊的本性です。肉体もお持ちですが、それもその霊によって生命を賦与されてはじめて存在しているのです。霊が最終的に引っ込めば───〝最終的に〟と申し上げるのは、一時的には毎晩のように肉体から引っ込み、朝になると戻ってくるからです──肉体に死が訪れます。生命活動が切れたからです。
 
 霊視能力者が見れば、霊体と肉体とをつないでいるコードが伸びて行きながら、ついにぷっつりと切れるのが分かります。その時に両者は永久に分離します。その分離の瞬間に死が発生します。そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても肉体を生き返らせることはできません。


(訳者注──近似死体験というのがあるが、これは医者が〝ご臨終です〟と宣告しても玉の緒がまだ切断していなかった場合である)

──臓器移植の技術的進歩によって新たな問題が生じております。医師たちは死者の心臓とか腎臓を取り出すために死の瞬間を待ちうけております。問題は〝果たして本当に死んだと言えるか──もう臓器を取り出してもよいか〟という点です。

 臓器移植についてはよく存じております。そして又、その動機が立派な場合があることも承知しております。しかし私としては人体のいかなる部分も他人に移植することに反対であると申し上げます。


──死者はある一定期間そっと安置しておいてあげる必要があると信じている人がいます。それと言うのも、最近では人体を使って実験をするために死体をかっさらうように実験室へ持っていくことがよくあるのです。こうしたことは魂ないし霊にとって害があるのでしょうか。

 それはその死者の霊が霊的事実についての知識があるかどうかによります。もし何の知識もなければ、一時的に害が生じる可能性があります。と言うのは、霊体と肉体とをつないでいるコードが完全に切れた後も、地上での長い間の関係によって相互依存の習性が残っているからです。

 その意味では一般的に言って埋葬または火葬迄に死後三日は間を置いた方がよいでしょう。それから後のことは、どうなさろうと構いません。死体を医学的な研究の材料として提供したければ、それも結構でしょう。そちらで判断なさるべきことです。

 ただ一言いわせていただけば、誰にも生まれるべき時があり死すべき時があります。もしも死すべき時が来ていれば、たとえ臓器移植によってもその肉体を地上へ永らえさせることは出来ません。


──飛行機事故で即死するケースがありますが、その場合は霊的にどういう影響があるのでしょうか。

 今申し上げたこととまったく同じです。霊的事実についての知識がある人は何の影響もありません。知識のない人はそのショックの影響があるのでしょう。が、いずれにせよ、時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。


──偶発事故による死があるとなると再生の事実を受け入れたくなります。

 偶発事故という用語は感心しません。私は因果律の働きしか知らないからです。偶発のように思えることも、ちゃんとした因果律の働きの結果なのです。再生の問題ですが、これは大変複雑な問題で、今ここで十分な説明をする余裕がありません。

(訳者注──原書をお持ちの方のために参考までに付言すれば、本章のここのところまでは Silver Birch Speaks <シルバーバーチは語る>というカセットテープに収められた特別交霊会での〝死〟にまつわる部分が引用されているが、ところどころでリーバ女史が修正している。

内容上は別に問題はないが、この最後の再生に関する部分はカセットのままの方が分かりやすいので、その通りに訳してある。なお他の章にも断片的に同じカセットから引用されているが、カセットをお持ちの方の便宜も考えて、それらをまとめて次の第十一巻で紹介する予定である)

     
 (質問者が代わる)

──私はテレビで The Making of Mankind <人類発達史>を見ておりますが、見ているうちに人類の霊魂の起源のことを考え始めました。その当初において人類の霊魂は何らかの動物の種から発生したのでしょうか。

 いいえ。


──ということは、動物界はわれわれ人類と別個の存在ということでしょうか。

 いいえ。

──では人類の霊魂はどこから発生したのでしょうか。

 何処からも発生しておりません。霊魂に起源はありません。


──これまでずっと私は、人類の霊魂は徐々に進化してきたものと思っておりました。

 そうではありません。進化してきたのは身体の方です。霊は大霊の一部であり、無始無終です。霊は無窮の過去から存在しています。それが人間の身体に宿った時に個別性を具えるのです。霊には始まりも終りもありません。

バイブルにも〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟というイエスの言葉があります(第八巻101頁参照)。霊は常に存在しているのです。霊は人間的形体に宿って初めて個別性を持つことになるのであり、霊ないし魂は常に存在していたのです。(P119参照)

 (質問者が代わる)

 ──霊魂の永遠性についてお伺いしたいことがあります。年輩の霊と若い霊という言い方をする人がいますが、霊が新たにこしらえられることがあるのでしょうか。私たちはどこから来たのでしょうか。すべての霊が再生されたものなのでしょうか。それとも大霊から新しい霊が産み出されてくるのでしょうか。

 霊はこしらえられるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。先ほど〝私はアブラハムが生まれる前から存在している〟というイエスの言葉を引用しました。霊としてはあなたも無始無終に存在しているのです。

霊を新たにこしらえなければならなかったことは一度もありません。無が有になる段階というものはこれまで一度もありません。

 生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生まれるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、全てそうです。霊は存在の大原動力です。

 母胎に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばらくの間地上で機能するわけです。

 しかし霊は様々な側面を持つことができます。その幾つかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはあり得ます。その意味では〝年輩の霊〟〝若い霊〟と呼べる霊は存在します。しかし〝新しい霊〟というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。

 胎児が無事に宿り地上生活のための身体が用意されると、霊は個別的存在として地上へ誕生してきます。霊そのものは別に新しいものではありません。個的形態を具えたというだけです。一個の人物となったというだけです。その男性また女性が成長してやがて地上を離れると、大きい自我の一側面として新しい要素を加えることになります。


──各自に生まれるべき時があれば、同じく死ぬべき時もあることになりますが、帝王切開で生まれた場合はどうなるのでしょうか。決っていた誕生の日時を変えることになりませんか。

 「それは地上へ生まれ出る日時を変えるだけです。母胎に宿って個としての表現を開始した日時を変えることにはなりません。また地上的生命に自ら終止符を打つ自由も与えられておりますが、その時はその時で自動的に報いがあります。


──出産を医師が人為的に早めたりすることがあります。するとその子は定められた時期より早く生まれることになりますが、これは占星学的になにか影響を及ぼしませんか。

 「出生の日時がよくよく気になると見えますね! 地上への誕生に関して唯一大切なことは、いつから自我を表現し始めるかということです。それは受胎した瞬間からであって、生まれ出た時からではありません。占星学については私は何の関心もありません。受胎と共に地上的生命が始まります。受胎なしには地上的生命はありません。


──ブラジルに来られたローマ法王が民衆の貧しさに嘆かれ、一方、家族計画(産児制限)は許されるべきでないことを強調されましたが、その矛盾をどう理解すればよいのでしょうか。

 法王はとても立派な方ですが、宇宙の全知識を貯えられているわけではありません。家族計画は人類自身で解決すべきことですから、これからも続く問題です。ただ、一個の霊が人間界へ誕生することになっている時は、いかなる計画を立てても必ず生まれてきます。


 (質問者が代わる)

──死後の生命なんかほしくないと、本心からそう思っている人がいます。そういう人たちにどう説かれますか。

 地上なんかに二度と生まれたくないと本心から思っている霊がいますよ。しかしそれは、いかんともし難いことなのです。自然の摂理との縁を切ることは出来ません。あなたがどう思うかに関係なく摂理は働きます。開けゆく大自然のパノラマが人間の小さな欲求や願望、あるいは反坑にもお構いなく展開していく姿をご覧になれます。


──と言うことは、私たちは地上へ来たくなくても無理やり来させられるということでしょうか。私はその点は自由な選択が許されると思っていました。

 必ずしも強制されるわけではありません。地上からこちらへ来るのにも自由選択が許されるように、こちらから地上へ行くのにも選択の余地が与えられています。

是非とも為さねばならない仕事があることを自覚して地上へ誕生する霊がいます。行きたくはないけど、どうしてもしなければならない用事があるので止むを得ず誕生する霊もいます。あるいは償わねばならない業(カルマ)があって誕生してくる場合もあります。


──自殺することまで計画されていることがあるというのは本当でしょうか。

 とんでもありません! 計画というのは母胎に宿る以前に霊自身によって立てられるのです。


──自殺行為によって学べる教訓は何一つ無いということでしょうか。

 あるわけがありません! 生命は宇宙の大霊が授けるのです。それを縮める権利は人間にはありません。

──死んで霊界入りした人間は自分が死んだことが自覚できるのでしょうか。

 みんながみんな自覚できるとは限りません。大半の者が自覚できます。が、完全な自覚(悟り)に到達するには相当な時間が掛かります。


──霊界の人たちは何もしてくれないのでしょうか。

 いえ、いろいろと指導しております。本人は気付かなくても陰から手助けしております。霊界はすべてが知れるように組織されております。上層界には高級霊による政庁が組織されており、その中には一度も物質界に誕生したことのない霊(天使)がいます。

その霊達が神の計画推進の任に当たっているのです。大規模な総合計画があって、有意識・無意識の区別なく、あらゆる存在を包摂しております。その宇宙的規模の摂理から外れて存在できるものは何一つありません。


──人間が死ぬと肉親や愛する人たちが出迎えて手引きしてくれるそうですが、それらの霊は他界者と同じ霊格の者ばかりでしょうか。

 そうではありません。なぜなら、その霊たちは死後も霊的に進化しているからです。他界してきた者のレベルに合わせて交信するために、いわば階段を下りてくるのです。霊的成長とは成熟していくことであることを理解しないといけません。

 地上の年齢とは一致しません。では、さっき述べた完全な悟りに到達できるのはどの段階においてかということですが、これはお答えしにくい問題です。と申しますのは、悟りというのは固定した限りあるものではなく、いつまでも成長し続ける状態だからです。

悟りには無限の奥行きがあります。これでおしまいという終点がないのです。深まれば深まるほど、さらにその奥に悟るべきものがあることを自覚するものです。

 それは事実上永遠に続く過程です。段階的に少しずつ理解が深まっていく過程です。無知の状態からいきなり悟りが開かれるという、そういう突然の変化ではありません。段階があり、魂がより高い段階への準備が整うにつれて、少しずつ開けていくのです。


──たとえ生活水準が今より向上したところで不老不死ということは有り得ないのは言うまでもないのですが、もしも完全な生活条件が整ったら百五十歳までは生きられるのではないかと思うのですが・・・・・・

 肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の程度です。

 肉体が地上で永らえる年数を長引かせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えが出来ると肉体が滅びるということでよいのです。ですから、寿命というものは忘れることです。長生きをすること自体は大切ではありません。

 地上生活の一番肝心な目的は、霊が地上を去ったのちの霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身につけずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです。


 (永年スピリチュアリズムの仕事に努力した夫に先立たれた女性にシルバーバーチが次のような励ましの言葉を述べた)

 本日あなたをここへお迎えして、苦労と試練の時の力となった基本的な霊的真理の真実性を改めて確認して差し上げることを、とてもうれしく思います。

 地上に籍を置く人間にとって、たとえ死後にも生命があるとの知識を手にしている方でも、身近な者が宇宙の別の次元の世界へ連れて行かれた時に平然としていることは、容易なことではありません。

死という身体上の別離には悲しみが伴うものであるという事実を軽視するのは、愚かでもありましょう。しかし、それはあくまでも身体上の別離であって霊的には少しも別れてはいないことを御認識すべきです。

 地上に生を受けた人間にとって死は避けられません。いつかは地上に別れを告げなければならない時がまいります。それは、もはや地上生活がそれ以上その霊に与えるものが無くなり、完全へ向けての進化の不可欠の要素として、次の冒険へ旅立つ用意が出来たということです。

 その死別という試練に直面した時に自分をどう慰められるかは、各自が考えるべきことです。それが容易でないことは私も理解しております。

 しかし死は愛によって結ばれた者を引き裂くことはできません。愛は、生命と同じく不滅です。また愛は、生命と同じく、条件さえ整えば望み通りのことを叶えさせる強烈な威力を秘めております。もとより、心ひそかに声もなく流される涙もあることでしょう。しかし、うなだれてはいけません。霊の力は決して見捨てません。必ずや援助の手が差し伸べられます。

 悩んではいけません。悩みの念はその援助の通路を塞いでしまいます。あなたはご自分ではそうは思えないかも知れませんが、ある意味でとても幸せな方です。と申しますのは、悲哀のドン底を味わうことによって霊的真理を受け入れる資格を身につけられたからです。

そのドン底から這い上がるのは容易ではありませんでしたが、道は間違いなく啓示されました。今あなたは愛する方が身近な存在として実在していることを確信なさっておられます。

 私はいつも思うのですが、地上の人々、中でも特に霊的知識を手にされた方が背後霊の存在を実感を持って認識してくだされば、どんなに有難いことでしょう。地上の愛する者へ無益な害が及ばないように庇い、守り、導いている霊の姿を一目ご覧になることができれば、と思うのです.

 その影響力の大きさを知ることができたら、明日のことを思い煩うようなことは絶対にしなくなることでしょう。それで私はここに集まる同志の方にいつも申し上げているのですが、新しい一日の訪れを素晴らしい霊的冒険の到来として喜んで迎えることです。

 あなたの人生は、手にされた証拠によって一変しました。そこであなたは今、ご自身が有難く思われた同じ思いを人にも体験させてあげようと、いろいろと努力をなさっておいでです。私は実際にそのご様子を拝見して、良く存じております。

 他人がどう言おうと気になさらぬことです。まったく下らぬことばかり言っております。大切なのはあなたの人生をどう生きられるかです。できるかぎりの最善を尽くして人のために力になってあげることです。

 ご主人は肉体の束縛から解放されました。晩年にイヤな思いをされたあの痛みと不自由はもう二度と味わうことはありません。これからは今なお〝わが家〟とされているあなたの住居での生活の中で、ご自分の死後の存在の事実をあなたに実感させてくれることでしょう。

ですから、気を強くお持ちになり堂々と胸を張って、愛する者を失っても霊的知識があればこれだけ立派に生きて行けるのだという、一つに手本を示していただきたいのです。

 別離といっても身体上のことであり、霊的には別れていないのです。愛によって結ばれた者どうしを引き裂く力は地上にも霊界にも何一つありません。愛は、生命と同じく、死よりも強いのです。愛は、生命と同じく霊に属するものであり、霊は決して滅びないのです。
     

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva
近藤千雄訳


三章 生きがいある人生を送るには
  
 われわれ一同は神の道具です。神の道具として役立つということは光栄なことです。人の為に役立つことをすることほど立派な宗教的行為はありません。それこそが霊の正貨(コイン)です。人のために自分を役立てることは崇高なことです。

 それは人の生活を豊かにすると同時に自分の生活をも豊かにします。また、この世には自分のことを思ってくれる者はいないと思い込んでいる人々に慰めをもたらします。

 人のために役立っていると思う時、私たちは心の奥に安らぎと静けさと満足感を覚えます。宇宙の絶対的な支配力への全幅の信頼、神へ向けて一歩また一歩近づかんとする努力の支えとなる堅忍不抜さは、人のために尽くしている中でこそ得られるのです。

 目標の頂点は宇宙の大霊すなわち神です。われわれが生活するこの果てしない宇宙を創造し、ありとあらゆる存在に配剤するための摂理を考案した無限の愛と叡智の粋です。

 大霊と離れて何ものも存在しません。大霊が全てなのです。大なるもの、小なるもの、複雑なもの、単純なもの、生命現象のありとあらゆる側面に対して神の配剤があるのです。

霊の働きがあってこそ、すべてが存在できているのです。神の霊がすべてに潜在している以上、神との縁は切ろうにも切ることができないのです。人間がいかなる説を立てようと、神がすべてに宿り給い、したがって神はすべてであり、すべてが神であるという事実は変えることはできません。

 無限なる創造主であり、その愛と叡智によって壮大な宇宙を経綸し、その完全なる知性によって摂理を考案して、壮大といえるほど大きいものから顕微鏡的に小さいものまでの、ありとあらゆる存在を包摂し、その一つ一つに必要な配剤をしてくださっている大霊を超えた存在は、誰一人、何一つありません。

その摂理の作用は完全無欠であり、その支配の外に出られるものはありません。

 小さすぎるからということで無視されたり、見落とされたり、忘れ去られたりすることはありません。それは大霊の一部が生きとし生けるものすべてに宿っているからです。言いかえれば神がその霊性の一部を各自に吹き込んだからこそ存在しているのであり、その霊性が神とわれわれとを結びつけ、また、われわれお互いをつないでいるのです。

 その絆を断ち切ることの出来る力は地上にも死後の世界にも存在しません。その絆があるからこそ、叡智と真理と啓示の無限の貯蔵所を利用することも可能なのです。

 生命力すなわち霊がすべての存在、すべての人間に宿っているのです。その最高の形が他ならぬ人類という存在に見られます。人類の一人一人の中に、永遠に神と結び付け、また人間同士を結びつけている霊性が宿っているのです。その絆こそ万全の宇宙的ネットワークの一環なのです。


 皆さんより永い経験を持つ私達霊団の者も、この果てしない大機構を生み出された神の叡智の見事さに感嘆せずにはいられないことばかりです。

 また私たちの心の視野を常に広げ、自分が何者であり、いかなる存在であるかについての認識を増やし続けてくれる真理と叡智とインスピレーションの絶え間ない流れ、私たちの一人一人に宿る霊の力、わがものとすることができるにも関わらず、霊の豊かさと神と同胞とのつながりについて何も知らずにいる地上の人たちのために活用すべき才能を授かっていることに、私たち霊団の者は改めて感謝の意を表明せずにはいられません。

 大自然の法則は、われわれの一人一人に生命を吹き込んでくださった創造神と常に一体関係にあるように、そして地上世界はおろか霊の世界のいかなる力によってもその絆が断ち切られることが無いように配慮してあるのです。

 さらにその霊の機構を愛の力が導き管理し常に調和を維持して、受け入れる用意のある者が霊力と叡智と真理とインスピレーションとを授かるための手段を用意しております。

 その上われわれ自らが道具となって、地上の人間生活を豊かにし、病める者を癒やし、喪に服する人を慰め、人生に疲れた者に力を与え、道を見失える者に導きを与える、全存在の始源からの崇高な霊力の恩恵をもたらすことができるのです。

 われわれはそのための才能を授かっているのです。それを発達させることによって、われわれが手にした掛けがいのない知識の恩恵にあずかれずにいる不幸な人たちの為に活用することができます。

要するに、この荘厳な霊力の流れる通路として一層磨きをかけ、受け入れる用意のできた人々に惜しみなく恩恵をもたらしてあげられるようになることが、われわれの大切な務めなのです。

 さて、ここで人生体験が霊的に見てどのような意味を持っているかをご説明しましょう。
℘29
地上の人間は、なぜ苦しみがあるのか、病気には何の目的があるのか、なぜ危機、困難、障害といったものに遭遇しなければならないかといった疑問を抱きますが、これらはみなそれに遭遇することによってまず カタルシス(※)を起こさせ、続いてカタリスト(※※)として霊的真理を学ばせる機会を提供してくれる、魂が是非とも体験しなければならない挑戦課題なのです。


(※ 語源的には〝浄化する〟ということで、それが精神医学において、無意識の精神的抑圧を洗い流す作用を意味する。※※ 精神的革命の触媒となるもの───訳者)

 魂は低く落ち込むことが可能であるだけ、それだけ高く向上することもできます。それが両極の原理です。すなわち作用と反作用は相等しいものであると同時に正反対のものであるという法則です。憎しみと愛、光と闇、嵐と静けさ、こうした〝対〟は同じコインの表と裏の関係にあるのです。

 私の好きな諺がバイブルの中にあります。〝信仰に知識を加えよ〟というのですが、私はこれを〝知識を得たら、それに信仰を加味せよ〟と言い変えたいところです。所詮すべての知識を手にすることはできません。あなた方は人の子であり、能力に限界があるからです。

人生の嵐に抵抗し、何が起きようと盤石不動であるためには、その土台として霊的知識を必要としますが、限られた知識ではすべてを網羅(カバー)することは出来ません。その足らざる部分は信仰心で補いなさいと私は言うのです。

 本来の住処である霊界から地上へこうして戻ってきて皆さんの賛同を得るのに私たち霊団が愛と理性に訴えていることを、私は誇りに思っております。有無を言わせず命令することはしません。

ああしてほしいとか、こうしてくれとかの要求もいたしません(※)。あなた方の判断によって自由におやりになられるがよろしい。そして霊の世界から申し上げることがあなた方の理性を納得させることができず反発を覚えさせる時、知性が侮辱される思いをなさる時は、遠慮なく拒絶なさるがよろしい。

(※ この姿勢は頭初からの方針として徹底しており、例えば霊言を公表すべきか否かについてさえバーバネルとスワッハーとの間で意見が対立し激論を闘わせたこともあったのに、シルバーバーチはそのことに一言も口をはさんでいない。

これは霊界の計画だから早く公表するように、といった助言があっても良さそうに思えるのであるが、それすらなく、実際にサイキックニューズ紙に掲載され、やがて霊言集として出版されるまでに十数年の歳月が流れている──訳者)

 私たちとしては皆さんが自発的に望まれた上で協力と忠誠心を捧げて下さるように、皆さんの内部の卑俗なものではなく最高の判断力に訴えなければならないのです。と言って私たちの方からは何もしないというのではありません。

それぞれの活動の分野、日常の仕事において援助を受けていらっしゃることに気づかれる筈です。そしてそれとは別の分野において、人のために役立つことをするように導かれているのです。

 私も私なりに皆さんのお役に立ちたいと願っております。気付いていらっしゃらないかも知れませんが、これまでに味わったことのない精神的ないし霊的な豊かさをきっと手にされることになる生き方にそって導かれていらっしゃいます。

そうした中にあってさえ皆さんの心の中には次々と悩みが生じ疑問を抱かれるのも、地上の人間としては止むを得ないこととして私は理解しております。がしかし、どう理屈をこねたところで、全宇宙の中にあって唯一の実在は〝霊〟であることを改めて申し上げます。

 物質はその本性そのものが束の間の存在であり移ろいやすいものです。物的に顕現している形態そのものには永続性はありません。それが存在を保っているのは霊によって生命を与えられているからです。

原動力は霊なのです。霊こそがあなたを、そして他の全ての人を地上に生かしめているのです。霊が引っ込めば物質は崩壊します。あなたの身体は元の塵に戻りますが、本当のあなたである霊は永遠の進化の旅を続けます。

 あなた方は霊を携えた身体ではありません。身体を携えた霊なのです。本当のあなたは鏡に映る容姿ではありません。それは霊が地上で自我を表現するための物的な道具、複雑な機械に過ぎません。霊は物質に勝ります。霊が王様であり、物質は召使です。

 こうした事実を追及していくうちに、あなたの視野と焦点の置きどころが変わっていくことに気づかれます。自分がなぜ地上にいるのか、真の自我を発揮するにはどうすべきか、そうしたことを理解し始めます。どういう種類のことであっても結構です。自分の能力を伸ばして他人への援助を啓発の為に活用する───それがあなた方のなすべきことです。

 忘れないでいただきたいのは、皆さんは不完全な世界に生きている不完全な存在だということです。もしも完全であれば神はあなた方を地上へ送らなかったでしょう。その不完全な世界においてあなた方は、持てる才能をいかに活用するかについて、自由な選択権が与えられております。

 地上世界の特異性は対照的、ないしは両極性にあります。美点と徳性を具えたものと、それらを欠いたものとが同じ地上に存在していることです。これは霊界では有り得ないことです。各界が同じ性質の霊で構成されていて、対照的なものが存在しません。

 地上生活の目的は善悪様々な体験を通じて魂が潜在的霊性を発揮して、強くたくましく成長するチャンスを提供することです。それで悪事があり、罪があり、暴力があるわけです。進化は一直線に進むものではありません。スパイラルを描きながら進みます。表面的には美しく見えても、その底はあまり美しくないものがあります。

 私が霊界の界層の話をする時、それは必ずしも丸い天体のことを言っているのではありません(※)。さまざまな発達段階の存在の場のことを指しており、それらが地理的に平面上で仕切られているのではなくて、低いレベルから高いレベルへと、段階的に繋がっているのです。

(※〝必ずしも〟と言っていることから察せられるように、地球と同じ丸い形をした界層も存在する。それがとりもなおさず地縛霊の世界で、地球圏の範囲から抜け出られないまま地上と同じような生活の場を形成している。同じことが各天体についても言えると考えて良い──訳者)

 それが無限に繋がっており、これでおしまいという頂上がないのです。霊性が開発されるにつれて、さらに開発すべきものがあることに気づきます。知識と同じです。知れば知るほど、その先にもっと知るべきものが存在することに気づきます。

 各界層にはほぼ同等の霊的発達段階にある者が集まっております。それより高い界層へ進むにはそれに相応しい霊格を身につけなければなりません。それより低い界層へはいつでも行くことができます。現に私たちは今こうして低い界層の人々を啓発する使命を担って地上へ下りて来ております。

 向上とは不完全さを洗い落とし、完全へ向けて絶え間なく努力して成長していくことです。それには今日一日を大切に生きるということだけでよいのです。毎朝の訪れを性格形成のための無限の可能性を告げるものとして迎えることです。それが自我を開発させ、人生に目的性を持たせることになります。残念ながら今の地上の余りに大勢の人たちが人生に対する目的意識を忘れております。

 神の心をわが心とするように心掛けることです。霊力と一体となるように心がけることです。皆さんの一人一人が神の愛の御手が触れるのを感じ取り、常に守られていることを知り、明日が何をもたらすかを恐れないようにならないといけません。そして人のために自分を役立てる機会をいただいたことを喜ぶことです。

 私たちは大きな戦いに参加しております。小競り合い、大規模な戦争がいくつもありました。が、本当に闘っている相手は貪欲、怨念、利己主義という、地上を蝕んでいる物質中心主義の副産物です。

 そこで私たちは全存在の始源は、無限の創造主から発せられる聖なる霊力であることを実証し、死が言語に絶する素晴らしい霊の世界への扉に過ぎないことをお教えするのです。

 それがあなた方も参加しておられる闘いです。その将校や指揮官は、戦闘のあまりの激しさに退却することがないよう、厳しい試練を受けねばなりません。

 あなた方の進むべき道は、霊界からあなた方を愛している大勢の霊が必ず示してくれます。それは地上で血縁関係にあった者だけではありません。霊的な近親関係にある者もいます。その霊たちがあなた方を使って恵まれない人々のために影響力を行使するのです。

 われわれはみな同じ霊的巡礼の旅を続ける仲間です。神への巡礼の道は無数に存在します。いかなる知識も、それがわれわれの視野の地平線を少しでも広げ、この宇宙についての理解を深める上で役立っていることを感謝いたしましょう。

 知識には責任が伴います。それなりの代価を支払わねばなりません。知識を手にしたということは、それを手にしていない人よりも責任が大きいということです。しかし私たち霊界の者は、私たちの道具として協力してくださる地上の人々を見棄てるようなことは決していたしません。

本当ならここで、あなた方地上の人たちも決して私たちを見捨てませんと言うセリフをお聞きしたいところですが、残念ながらそれは有り得ないことのようです。

 皆さんはご自分で気づいていらっしゃる以上に霊界からいろいろと援助を受けておられます。いずれ地上を去ってこちらへお出でになり、地上でなさったことを総合的に査定なされば、きっと驚かれることでしょう。私たちは魂の成長に関わったことで援助しているのです。それが一ばん大切だからです。


 それに引きかえ、地上の各分野での混乱ぶりはどうでしょうか。宗教は本来の目的を果たせなくなっております。科学者は自分たちの発明・発見が及ぼす被害の大きさを十分に認識しておりません。

唯物思想の袋小路に入り込んでしまった思想家たちは、誰一人救えないどころか自分自身すら救えなくなっております。その点われわれは光栄にも神の道具として大切な仕事を仰せつかり、一人ひとりに託された信頼を自覚しております。

 私たち霊界の者は、縁あって皆さんのもとを訪れる人たちに霊と精神と身体に真実の自由をもたらす崇高な真理を理解させ真の自我を見出させてあげるべく、皆さんを導き、勇気づけ、元気づけ、鼓舞する用意が出来ております。本当の自分を見出すこと、それが人生の究極の目的だからです。

 地上には霊的進歩を計るものさしがありませんから、そうした協力関係の中で皆さんがどれほどの貢献をなさっているかがお分かりになりません。しかし、たった一人の人の悲しみを慰め、たった一人の人の病気を治し、たった一人の人に真の自我に目覚めさせてあげることができたら、それだけであなたの全人生が無駄でなかったことになります。私たちはひたすら〝人のために役立つこと〟を心掛けております。

 不安を抱いたり動転するようなことがあってはなりません。不安は無知の産物です。知識を授かった人は、それによって不安を追い払えるようでなくてはなりません。皆さんは宇宙最大のエネルギー源とのつながりが持てるのです。

これまでに知られた物的世界のいかなるエネルギーよりも壮大です。崇高なエネルギーです。それをあなた方を通して流入させ、恵み深い仕事を遂行することが出来るのです。

 落胆したり悲観的になったりしてはなりません。幸いにして不変の基本的な霊的真理を手にした者は、いかなる事態にあっても霊は物質に勝るとの信念を忘れてはなりません。解決策はきっと見つかります。ただ、必ずしもすぐにとはいきません。

しばらく待たされることがあります。(別のところで、忍耐力と信念を試すためにわざとギリギリのところまで待たせることもする、と述べてる───訳者)

 自分より恵まれない人のための仕事に従事することは光栄この上ないことです。われわれが人のために尽くしている時、われわれみずからも、より高い、進化せる存在による働きかけの恩恵を受けているのです。

自分のことは何一つ望まず、ただひたすらわれわれを鼓舞して、暗闇のあるところには光を、無知のはびこっているところには真理を、窮地に陥っている人には援助をもたらすことに精励しているのです。

 そうした強大な霊団───生きがいのある人生を模索している人のために、われわれを道具として尽力している高級霊───の存在をますます身近に感じることが出来るように努力いたしましょう。 

 その崇高なる霊力がますます多くの人間を通じて地上へ注がれ、恩恵を広め、悲しむ人々を慰め、病の人を癒し、道に迷いもはや解決の手段は無いものと思い込んでいる人々に導きを与えることが出来ているということは、本当に有り難いことです。

 霊力がどこかで効を奏すると、そこに橋頭保が敷設され強化されます。続いて新たな橋頭保の敷設と強化を求めます。かくして次第に霊力が地球を取り囲み、ますます多くの人々がその莫大な恩恵にあずかることになります。

 われわれはこれまでに存在の始源から勿体ないほどの多くの恩恵を授かってまいりました。それによって同志の多くが霊的に豊かになりました。なればこそ、われわれより恵まれない人たちが同じ豊かさと美と栄光を分かち合えるように、われわれの奉仕的精神を一段と堅固に、そして強力にすることができるように神に祈りたいと思います。

 知識がもたらすところの責任も片時も忘れないようにいたしましょう。われわれはもはや、知らなかったでは済まされません。精神的自由と霊的解放をもたらす真理を手にしているからです。

人間の一人一人に神性の一部を植え付けて下さった宇宙の大霊とのより一層の調和を求めて、人のために自分を役立てる機会をますます多く与えて下さるように祈ろうではありませんか。

 そうした生き方の中においてこそ、すべて神が良きにはからって下さるという内的な安らぎ、静寂、悟り、落ち着きを得ることが出来ます。そして無限の創造活動を促進する上でわれわれも役目を担っていることになるのです。


 ───あなたは人類全体が霊において繋がっているとおっしゃっていますが、大半の人間はそのことに気づいておりません。その霊性を発見するためになぜ目覚めなくてはならないのでしょうか。そこのところがよく分かりません。

 
 表面をご覧になって感じられるほど不可解な謎ではありません。理解していただかねばならないのは、人間は肉体を携えた霊であって霊を携えた肉体ではないということです。

物質が存在出来るのは霊による賦活作用があるからであり、その霊は神性の火花として存在のすべて、生命を表現しているあらゆる形態の根源的要素となっているのです。

 改めて申し上げるまでもなく、地上へ誕生してくる目的は各自の魂の成長と開発と発達を促進するような体験を積み、肉体の死後に待ち受ける次の段階の生活に相応しい進化を遂げることです。

 地上は幼稚園であり、霊界は大人の学校です。今この地上においてあなたは教訓を正しく身につけ、精神を培い、霊性を鍛えて、神から頂いた才能を心霊治療その他の分野で人のために使用できるまで発達させることを心掛けるべきです。


 ───この世的なものをなるべく捨てて霊的なものを求める生き方が理想なのでしょうか。それとも出来るだけ多くの地上的体験を積むべきなのでしょうか。

 物質と言うものを霊から切り離して、あたかも水も通さない程に両者が仕切られているかに思ってはいけません。両者には密接な相互関係があります。地上にいる間は、霊が物質を支配していても物質がその支配の程度を規制しております。物質を霊から切り離して考えてはいけません。

 地上生活の目的は、いよいよ霊界へ旅立つ時が来たときに霊に十分な備えが出来ているように、さまざまな体験を積むことです。まずこの地球へ来るのはそのためです。地上はトレーニングセンターのようなものです。霊が死後の生活に対して十分な支度を整えるための学校です。

 あなた方にとってイヤな体験こそ本当はいちばん為になるのですよと繰り返し申し上げるのは、そういう理由からです。魂が目覚めるのは呑気な生活の中ではなく嵐のような生活の中においてこそです。雷鳴が轟き、稲妻が走っている時です。

 酷い目に遭わなくてはいけません。しごかれないといけません。磨かれないといけません。人生の絶頂と同時にドン底も体験しなくてはいけません。地上だからこそ味わえる体験を積まないといけません。かくして霊は一段と威力を増し強化されて、死後に待ち受けている生活への備えが出来るのです。

  
 (ベトナムから訪れた青年が質問する)

───私は余暇を利用して人のために何かしたいと思っているのですが、何をしたらよいか分かりません。何かアドバイスをいただきたいのですが・・・・・・


 距離的にも霊的にも、あなたはずいぶん長い旅をしてこられましたね。しかし今こうしてこの交霊界に出席していらっしゃるという事実が、霊力というものがイザという時に導いてくれることの証明です。

 人のために何かをなさりたいという願望に対しては、いずれそのチャンスが用意されます。ただし、急(せ)いては事を仕損じます。地上の大勢の方々に苦言を呈すれば、長い迷いの末に霊的実在に目覚めた方は、とかく何でもいいから心霊的能力を発揮したいという気持ちに駆られすぎます。

 道はそのうち示されます。導きを祈ることです。あなたもこれまでの人生で、もう少しで人間への信頼を失いそうになるほどの精神的打撃を受けてこられました。しかし信頼を地上の人間にのみに置いてはいけません。神すなわち愛と叡智と知識の権化である大霊が存在します。

 疑念が生じた時は精神を統一して物質界の喧騒から逃れるのです。すると霊的理解が得られます。統一状態が深まれば深まるほど内的な安らぎ、静寂、安心感、決意といったものが深まり、自分にとって最良のものが授けられるとの確信を持つことができるようになります。

 私からお答えできるのはそれだけです。あなたは今素晴らしい御手に抱かれております。決して一人ぼっちにはされません。時がたつにつれて人のために仕事をするチャンスが背後霊によってもたらされてまいります。


 (もう一人の招待客が尋ねる) 


───心霊治療を体験したあと私自身もグループを結成して心霊治療を開始したのですが、その後私だけ独立して一人で治療活動を続けております。人のためになるのであればどういう形でやっても同じと考えてよろしいでしょうか。


 あなたご自身はどうお考えですか。

───私は霊的な観点から言うと同じではないと思います。私なりに出来るだけの努力はしているつもりです。が、次々と難しいことが生じてくると、私の取った態度が霊界側に迷惑をかけたのではなかろうかと思うことがあるのです。

 奉仕は霊の正貨です。奉仕に勝る宗教はありません。人のために自分を役立てることは尊い行為です。あなたの望み通りの分野で仕事ができなくても、人のためになると思うことを、その時その時に行えばよろしい。ドアを押してみてすぐに開けば、その道を行けばよろしい。カギの掛かったドアをしつこく叩いてはいけません。時間とエネルギーの無駄です。

 次々と生じる難問に動じてはいけません。困難は挑戦すべき課題です。困難もなく難問もなく、障害を妨害もないようでは、潜在する能力を発揮するチャンスがないことになります。

 人間は危機に直面して初めて、自分の奥に思いも寄らなかった力があることに気づきます。ふだんはその貯えの表面をひっかいている程度に過ぎません。その潜在力と背後霊の導きをもってすれば、克服できないほど大きな困難はありません。

 私たち霊界の者は地上で仕事をしなければならないのです。したがってその限界というものを弁えております。つまり私たちが使用する道具は人間的煩悩を具えており、もろく、かつ気まぐれです。しかし私たちとしては差し当たって使用出来るもので最善を尽くすしかありません。

 このサークルに来られる人々にいつも申し上げていることですが、信念に迷いが生じた時は、かつて自分がドン底にあった時に立ち返ってみることです。もう絶対に救われる見込みはないと思われた奈落の底にいたのです。そしてその絶体絶命のピンチで道が開かれたのです。これからも道は必ず開けてまいります。

 あなたはあなたなりに最善を尽くしていればよいのです。所詮あなたは完全な存在ではありません。地上においても霊界においても、完全というものは達成できないのです。

完全への道は永遠に続くのです。このことは、このサークルのメンバーの方は耳にタコができるほど聞かされております。しくじってもまた立ち直ることができるのです。

(ここでその質問者はシルビア・バーバネルに向って 「私はあなたがお書きになった When a Child Dies <子供の死後> を読んでいろいろと慰められました。私も娘を二人亡くしているものですから。つい最近も男の子を亡くされた方にお貸ししたばかりです。私と同じように大きな慰めを得てくださればと期待しているところです」と述べると、シルバーバーチがこう述べた)

 パン種が発酵するのです。これからも発酵し続けることでしょう。この大規模な戦いにおいて、われわれは勝ち組の方に属しております。最後は必ず勝利者となります。敗者とはなりません。背後に控える勢力は全宇宙でも最大のものです。

大霊の力なのです。地上で知られているいかなる力よりも強大です。これまでその力が成就してきた数々の驚異をこの目で見てきている私は、その力に全幅の信頼を置いております。私の目には何一つ心配すべき理由は見当たりません。


 (霊的指導者としても人生相談にものっている人が述べる)

 ───自分自身、霊的指導者として恥じない生活をしているだろうかという疑問を抱くことがよくあります。人には自信を持って霊的真理を説きながら自分では時おり、ふと、疑いの念を抱くことがあるのです。

 あなたのお名前はまさかトマス(※)ではないでしょうね。疑ってはなりません。霊的現象をその目でご覧になりその耳で聞くことのできた人は幸いです。すぐ身の回りに存在する驚異的生命の世界をかい間見るという大変な光栄に浴されたのです。

その世界には自分のことは何一つ求めず、寄るべない身の上をかこつ人々の救済のために献身している霊がひしめいているのです。それが私たちの仕事でもあるのです。

(※イエスの弟子の一人で非常に疑い深い性格で、イエスの復活についても実際に手と足のクギ跡を見るまでは信じなかった。八日目にイエスが物質化して出現してトマスにその傷を見せて信じさせた。その時の有名なセリフが〝見ずして信じることの出来る者は幸いである〟───現代人にも通じる名言と言うべきであろう───訳者)

 私には人間のもろさ、疑念や取り越し苦労はよく理解できます。しかし、これまで荘厳と美観と光輝と威力と指導力とを見せ付けてくれた霊力に全幅の信頼を置けば、その霊力は絶対にしくじることがないということを、徐々にではあっても理解していかれることでしょう。

人間の方が私たちを裏切った例はたくさんあります。が、私たちがその人達を裏切ったことは一度もありません。

 くり返しますが、あなた方にはご自分がどれほど貢献していらっしゃるかが推し測れないのです。絶体絶命と思いこんだ魂が本当の自我を見出す上で、あなた方もずいぶん手助けしていらっしゃいます。

 自分がいったい誰なのか、何者なのかが分からず、霊的実在に目も耳も塞がれている無数の人を見るのは悲しいことです。道を見失い、沼地に足を取られ、もがきながら生きております。これだと確信できる道が見出せないのです。

 幸いにしてそれを見出しているわれわれは、その責任の重大さを自覚して、われわれを頼ってくる人々を喜んで迎え、暗闇の中で光明を見出させてあげようではありませんか。

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva
近藤千雄訳





まえがき
 
 人間は何のために生まれてくるのだろうか。死んだらどうなるのだろうか。もっと幸せで生き甲斐のある生活を送るにはどうすればよいのか。天地万物の背後には知的な〝こころ〟が存在するのだろうか。物的宇宙に、そして人間に、何か〝計画〟というものがあるのだろうか。

 知性の芽生えとともに、人類はこうした謎を追求しつづけてきた。そして今その解答が、かつて同じこの地球で生活し今は一段と次元の高い世界へ進化して行っている人類の先輩霊の一人によってもたらされつつある。

 その霊は人間の無知の暗闇を照らす松明の持ち手としての使命を引き受け、地上で語るための霊媒としてモーリス・バーバネルを選んだ。

 間もなくそのバーバネルを通して語るメッセージに耳を傾ける小さなグループができた。そしてそのうちの一人で〝フリート街の法王〟(英国ジャーナリズム界の御意見番)の異名をもつハンネン・スワッハーの名を冠して〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟を正式の名称とした。

 そのメンバーのうちの三人は世襲的にはユダヤ教徒であり、さらに三人はキリスト教徒だった。が、シルバーバーチと名のるその霊は 
 「我々が忠誠を捧げるのは一つの教義でもなく、一冊の書物でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の大自然の摂理です」
と語るのだった。

 一人の人間が人類全体の命運を左右することは現実に有りうることである。イエスがそうだったし、ヒトラーがそうだった。このモーリス・バーバネルとシルバーバーチという二つの世界にまたがるコンビは、以来、数え切れないほどの人々の人生を変え、悲しむ人には慰めを、絶望の淵に沈む人には希望を与え、今や世界のすみずみまでその愛好者が増えつつある。

 ところで、そのシルバーバーチとはいったい何者であろうか。

 それについては、最も身近かな存在である霊媒のバーバネルも、一九二〇年に始めて入神させられてシルバーバーチのマウスピースとなった時に何も知らなかったことは、間違いない事実である。そしてそれから六十一年後に他界するまで、もしかしたら知っていたかも知れないが、ひとことも口にしていない。

 が、彼はその六十一年の歳月を支配霊シルバーバーチの語るメッセージを世界中に広めることに献身した。他界する当日まで倦むことなく忠実にその使命を全うし続けた。本書には彼による最後の交霊会の霊言が収録されている。

 私はこの霊言集を次の三人の先達に捧げたい。すなわち優れた編集者であり、ジャーナリストであり、作家であり、また実業家としての才も見せた霊媒のモーリス・バーバネル、四十九年間にわたってその地上での良き伴侶であった奥さんのシルビア、そしてサークルのメンバーであり同時に霊言の速記者でもあったフランシス・ムーア女史である。                  パム・リーバ



 一章 シルバーバーチの挨拶

 私たち霊団の者は、一種名状しがたい暗闇に包まれている地上各地において、大々的救済活動に従事しております。霊の光がその暗闇を突き破り、人間が全生命の根源──物質的に精神的に霊的に豊かにする崇高な霊力の恩恵にあずかれるようにしてあげなければならないのです。

 進歩は遅々たるものです。克服しなければならない障害が山ほどあります。が、着実に進展しつつあります。各地に新しい橋頭堡が築かれつつあります。霊力はすでに地上に根づいております。それが、幾百万とも知れぬ人々に恩恵をもたらすことでしょう。

 私をはじめ、私を補佐してくれる霊団の者、そして地上にあって私たちの道具となってくれるあなた方は、この気高い事業に奉仕する栄誉を担っているわけです。それ故にこそわれわれは、双肩に託された信頼をいかなる形にても汚すことのないように心掛ける責任があると言えます。

あなた方は霊力を活用する立場にあります。私も同じです。そして必要とあれば私は、こうして私たちがあなた方のために尽力しているように、あなた方が他人のために自分を役立てるための霊力を、さらに余分に引き出すこともできます。

 これまでに啓示していただいた知識のおかげで、われわれは背後に控える力が地上のいかなる霊力よりも強大であるとの認識によって、常に楽観と希望をもって臨んでおります。敗北意識を抱いたり意気消沈したりする必要はありません。

すべて神の計画どおりに進行しており、今後もそれは変わりません。人間が邪魔することはできます。計画の進展を遅らせることはできます。が、宇宙最高の霊が地球救済のために開始した計画を台なしにしてしまうことはできません。

 われわれが有難く思うべきことは、地上的なものが提供してくれるいかなるものにも優る、物質の領域を超えた、より大きくより美しい生命の世界をかいま見ることを可能にしてくれる霊的知識を手にしていることです。

その世界には、地上に豊かな恩恵をもたらす霊力の道具としての人間を援助し鼓舞し活用することを唯一の望みとしている、進化せる高級霊が存在することをわれわれは、信仰ではなく事実として認識しております。

 その霊力は病気を癒やし、悲しむ人を慰め、道を失った人を導き、無知を知識に置きかえ、暗闇を光明に置きかえ、生きる意欲を失った人には元気を与え、真理に渇いた人の心をうるおし、真の自我を見出そうとする人には神の計画に基づいたガイドラインを提供してあげます。

 援助を求める祈りが聞かれないままで終わるということはありません。人のために何か役立つことをしたいという願いが何の反応もなしに終ることはありません。霊界においては、自分より恵まれない人のために役立てる用意のある地上の人間を援助せんとして万全の態勢を整えております。

ただ単に霊感や啓示を手にすることができるというだけではありません。霊力という具体的なエネルギーの働きかけによって、受け入れる用意のできた魂にふんだんに恩恵がもたらされるのです。
 
 その道具として、内部の神性をより多く発揮すべく、進化と発達と開発のために不断の努力を怠らないというのが、われわれの絶対的な義務です。

 生命に死はありません。墓には生命を終わらせる力はありません。愛にも死はありません。なぜなら愛は死を超えたものだからです。この生命と愛こそ、われわれが所有しかつ利用することのできる大霊の絶対的神性の双子(ツイン)です。それを発達させ開発させることによって、われわれより恵まれない人々のために、他の資質とともに活用することができます。

 今の地上は大霊すなわち宇宙の神よりも富の神マモンを崇拝する者の方が多くなっております。本来ならば人間生活を豊かにする霊的知識を携えた霊的指導者であるべきはずの宗教家がまずもって無知なのです。

霊的真理とは何の関係もない、人間が勝手にこしらえた教義や信条やドグマを信じ、それに束縛されているからです。洞察力に富んでいなければならない立場の人みずからが、悲しいかな、一寸先も見えなくなっているのです。

 そのために、霊の力を地上に顕現させ、生命と愛とが永遠であるとの証拠を提供し、医者に見放された患者を治してあげることによって霊力の有難さを味わわせてあげるためには、いろいろとしなければならないことがあるわけです。

 霊力の機能はそれ以外にもあります。日常の生活において他のすべての策が尽きたと思えた時の支えとなり、指示を与え、導きます。

宇宙機構の中における地上の人生の目的を認識することによって、各自がその本性を身体的に精神的に霊的に発揮できる道を見出し、かくして、たとえわずかな間とはいえ、この地上での旅によって、これ以後にかならず訪れる次のより大きい生命の世界に備えて、大自然の摂理の意図するままに生きられるように導いていきます。

 自分はこれからどうなるだろうかという不安や恐怖を抱く必要はどこにもありません。霊は物質に勝るのです。大霊はいかなる地上の人間よりも強大な存在です。いつかは必ず神の計画どおりになるのです。

 そのためには、あなた方人間の一人ひとりに果たすべき役割があります。いま住んでおられるところを、あなたがそこに存在するということによって明るく豊かにすることができるのです。そのための指針はあなたが霊的に受け入れる用意ができたときに授けられます。

 いったん宇宙の最大の力とのつながりができたからには挫折は有り得ないことをご存知ならば、いつも明るく信念と希望に燃えてください。あなたを愛する霊たちがいつでも援助に参ります。

あなたと地上的な縁によってつながっている霊だけではありません。霊的知識を地上全体に広めるためにあなたを霊的通路として活用せんとしている上層界の霊である場合もあります。

 私からのメッセージはいつも同じです───くよくよせずに元気をお出しなさい、ということです。毎朝が好機の訪れです。自己開発のための好機であると同時に、あなた自身ならびに縁によってあなたのもとを訪れる人々の地上での目的が成就される、その手段を提供してくれる好機の訪れでもあります。


  シルバーバーチの祈り

 私ども一同は、暗黒と無知と迷信と利己主義と暴力、そのほか地上のガンともいうべき恐ろしい害毒を駆逐することによって、神の永遠の創造活動にわれわれならではの役目を果たすことができますよう祈ります。

 私どもの仕事は、そうした害毒に代わって、神の子等が内部にその可能性を宿している燦爛たる光輝を発揮させる崇高な知識を授けることです。

これまでに私どもが授かった恩恵への感謝の表明として、私どもは今後ともその崇高な叡智と霊力の通路たるにふさわしい存在であり続け、恵まれない人々を救い他の人々に救いの手を差しのべ、生き甲斐ある人生の送り方を教える、その影響力の及ぶ範囲を強化し、そしてますます広げていく上で少しでもお役に立ちたいと祈る者です。

 ここに、常に己を役立てることのみを願うインディアンの祈りを捧げます。

Monday, November 2, 2026

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva
近藤千雄訳



二章 何のために生まれてくるのか

 地上生活の目的は人間の霊性の発現を促すことです。

 地球という天体上に住む人間の一人一人に生きる目的があります。なのに大半の人間がその生活の基盤となっている霊的実在に気づいていないのは悲しいことです。まるで穴居人のように、ガランとした暗がりの中で暮らしております。視角がズレているのです。焦点が狂っているのです。

ビジョンが間違っているのです。人生がもたらしてくれる莫大な豊かさをまったく知らずにいます。霊的真理に気がつけば自分がいま何をしなければならないかを自覚して、そこに人間革命が生じます。

 われわれはみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。

 私には皆さんの人間であるが故の弱点がよく理解できます。しかし、一つ一つの問題を自分への挑戦(チャレンジ)として平然と受け止めると同時に、内部の霊性を強化し、開発し、発展させて霊性を高めるための触媒として、それを克服していかねばなりません。

 地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではのさまざまな条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、いわゆる人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。
℘19
 しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を受けた意味があるのです。つまりそうしたさまざまな浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質を顕現させることになるのです。困難と逆境とに遭遇してはじめて発揮されるものなのです。
 
 魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。

 これは、霊的叡智を求める求道者のすべてに言えることです。断腸の思い、悲痛、苦痛を体験しないことには、そのあとに訪れる恩寵の有難さが十分に理解できません。人のために役立とうとする人間は試練を覚悟しなければなりません。時には力の限界までしごかれることもあります。

 人間一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。すべてが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧にできあがっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。

 神の法則に例外というものはありません。存在するもののすべて───地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの───が神の配剤にあずかっているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。

小さすぎて見落とされたり、大きすぎて法則のワクからはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則があなたにも働いているのです。もちろん私にも、そして他のすべての人にも働いております。

 これで、作用と反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはドン底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。

そして又、皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をおもちです。


 しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在に不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。

大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。

 ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。

 そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。

元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。

 その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させ進化させていく上において必要不可欠の要素なのです。

 地上というところはバイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引きかえ霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です。

 太陽がさんさんと輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難門が無いようでは霊的真理は理解できません。困苦の真っ只中に置かれてはじめて触媒が働くのです。

 霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。鋼が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。

 黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で焼き上げねばなりません。同じことが皆さん方すべてに言えるのです。

 霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意ができなくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。

 苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。

光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。

 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。

絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。

 ですから、私たち霊界の者は魂にその受け入れ準備ができるまで根気よく待つほかないのです。馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。

 私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのおかげで、われわれのすべてを包摂し全存在に配剤した自然法則の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております。

 時おり私は地上の同志のもとを訪ねてみることがありますが、霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。

霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。

 地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器───非常事態や危機に際して活用できる霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決できない問題は何一つありません。

霊の書 アラン・カルデック(編)第3部 摂理と法則 6章−12章

 The Spirits' Book

スピリチュアリズムの真髄「思想編」
近藤千雄(訳)






6章 破壊の法則


このページの目次
〈必要な破壊と不当な破壊〉


――破壊も自然法則の一つでしょうか。


「形あるものは別の存在物の材料となって生まれ変わるために破壊される必要があります。破壊とは変化のことにほかなりません。その目的は生き物の新生と改良です」


――すると生き物には神の配剤として破壊の本能が植えつけられているのでしょうか。


「神の創造物は、神が意図しておられる目的を達成するための道具です。生き物は互いが互いの食糧となるために破壊し合います。それは生産と消費の均衡を保つためであり――生産ばかりでは過剰となります――また外衣としての物質の再利用のためでもあります。あくまでも外衣であり、考える力をもった存在の本質部分、すなわち知的要素は破壊されません。外衣がさまざまな変態を経ていくうちに、その知的要素が鍛練されてまいります」


――新生のための破壊が必要であるならば、なぜ自己保存の本能を授けてあるのでしょうか。


「破壊作用が適切な時期より早すぎることがないようにという配慮からです。破壊の時期が早すぎると知的要素の発達が阻害されます。神が各存在に生き延びようとする力と再生しようとする力とを授けた理由はそこにあります」


――破壊の法則は地球人類には常に必要なのでしょうか。


「物質に対する霊性の優位が高まるにつれて破壊の必要性も減少します。その必然の結果として、知的ならびに精神的発達に破壊の恐怖が伴う理由がお分かりでしょう」


――破壊が必要性と安全性の限度を超えているケースがあります。例えばスポーツとしての狩猟(ハンチング)などは意味がありませんし、殺すことの楽しさ以外の動機は考えられません。どういう見方をすべきでしょうか。


「狩猟は霊性に対する獣性の優位以外の何ものでもありません。生きる上での必要性の限度を超えた破壊は全て神の摂理に違反します。肉食動物でも空腹を満たす以上のことはしません。それと較べて人間は自由意志を持っているために不必要な破壊行為をします。自由意志の乱用は、いずれ神から釈明せよとのお達しがあるでしょう。本来なら抑制すべき本能に負けたのですから」
〈自然災害による破壊〉


――神は何の目的で自然災害という破壊をもたらすのでしょうか。


「人間の進化に拍車をかけるためです。精神的新生のためには破壊も必要です。新しく再生する毎に霊的浄化において新しい一歩を踏み出すのです。何事につけ、その過程を正しく理解するためには、結果を見届けなくてはいけません。人間はとかく我が身に置き代えて判断するために、苦しいことはみな災害と考えがちですが、新たな秩序をもたらすためには思い切った混乱を必要とする時があるのです。それまでの平穏無事の惰性では何世紀も要するような改革が二、三年で成就されることがあります」


――神はそういう破壊の手段以外に何か別の手段を取ることが出来ないのでしょうか。


「取っておられます。日常生活の中での善悪の判断を通じて進化を促すという方法です。ところがこの方法では人間はなかなか向上しません。そこでその高慢の鼻をへし折り、人間の弱さを思い知らせる必要が生じるのです」


――ですが、そうした災害による犠牲は、邪悪な人間だけでなく善良な人間も悲嘆に暮れさせるだけではないでしょうか。


「人間は、地上を旅する間の出来事は、どうしてもその肉体の生存期間を尺度として捉えます。ところが死んで霊界に戻ってくると観点が大きく変わり、地上時代の出来事が実に些細なことであることに気づきます。地上の一世紀は永遠の時の中では一瞬の花火のようなものに思えます。そして、地上の時間にして何日、何か月、何年にもわたる苦しみもどうということはないように思えてくるものです。

どうかこの点を今後のあなた方の生き方の参考にしていただきたい。霊こそ実在であり、全てのものに優先し、全てのものが消滅したあとも残り続けます。その霊の在り方こそ神が何よりも気遣うものであり、肉体は地上を生き抜くための仮の媒体にすぎません。

多くの尊い人命を奪う大災害におけるそうした犠牲者たちは、戦闘後の兵士のようなものです。軍服はボロボロに破れ、あるいは千切れ、あるいは無くなっているかも知れません。が、生命(いのち)は失っていない。その姿を見て将校は軍服のことよりも生命があったことを喜ぶものです。軍服が肉体であり生命が魂です」
〈戦争・殺人・残虐行為〉


――人間を戦争に駆り立てるものは何でしょうか。


「獣性が霊性を凌駕すること、そしてその動物的激情を満足させたいという欲求です。霊性が野蛮な状態では弱肉強食の原理しか通用しません。従って闘うということが通常の状態となるのです。霊性が発達するとともに争いを引き起こす原因が少なくなります。それだけ闘争が少なくなり、仮に闘争が避けられないことがあっても、その闘争の中にも人道的行為が見られるようになります」


――地球上から戦争が無くなる日が来るでしょうか。


「来ます。正義というものを理解し、神の摂理を実践すれば、戦争は無くなります。その時は人類がみな兄弟であるとの理解が行きわたるからです」


――神は何のために戦争を必要と認めたのでしょうか。


「自由と進歩のためです」


――戦争によって自由がもたらされるというのであれば、敗戦国が往々にして隷属させられる結果となるのはなぜでしょうか。


「隷属といっても一時的なことです。それを神が許すのは隷属の状態にうんざりさせて、自由へ向けての急速な進歩を促すためです」


――殺人はいかなるケースでも極悪な罪でしょうか。


「神は常に公正であると申し上げたつもりです。何事につけ、行為そのものよりも、その行為に出る動機ないし意図を審判なさいます」


――正当防衛であれば許されますか。


「絶対的な必要性があった場合にのみ許されます。攻撃を仕掛けられて、我が身を守るために相手の生命を奪うのは、やむを得ないことです」


――戦争における殺人行為にも責任を負わされるのでしょうか。


「命令によって戦わされている以上は責任は問われません。が、戦争によく見られる残虐行為には責任が問われ、人道的行為にはそれなりの報いがあります」


――残虐行為に駆り立てる心情は破壊的本能と関係があるのでしょうか。


「破壊的本能の中でも最も悪質なものです。破壊が必要になることはありますが、残虐行為が必要になることは絶対にありません。邪悪な心情が生み出す結果です」
〈死刑制度〉


――人間界の法律から死刑制度が消える日が来るでしょうか。


「いずれ消えることは間違いありません。それが成就されれば人類にとっての大きな進歩を画することになります。霊性が啓発されるにつれて、地球上の全土から死刑制度が無くなります。人間が人間を裁く必要が無くなるからです。もっとも、ずっと先の話ですが……」


――死刑制度が文明国から消えるということは、文明が開けない時代には必要悪だったということでしょうか。


「必要悪という用語は適切ではありません。人間は他に良い方法が見つからないとすぐに必要悪だと決めつけます。霊性が開発されるにつれて正しいことと正しくないこととの分別が明確になってきます。そして無知な時代に正義の名のもとに行った誤った慣習をやめます」






7章 社会生活の法則

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〈社会生活の必要性〉


――社会生活は自然なことでしょうか。


「もちろんです。神は人間を社会という形態の中で生活するように意図されています。言語を始めとして人間関係に必要な能力を授けてあるのはそのためです」


――すると社会から隔絶した生き方は自然法則に反するのでしょうか。


「そうです。人間は本能的に他の人間との交わりを求めるものであり、お互いがお互いの進歩を援助し合うように意図されているからです」


――他との交わりを求めても結局は利己的な感情に負けるのではないでしょうか。それとも、そうした点にこそ神の配剤があるのでしょうか。


「人間は進化という宿命があります。それは一人だけの生活では達成されません。誰一人として才能の全てを所有してはいないからです。そこに他との接触の必要性が生じます。隔絶した一人の生活では人間らしさが失われ、太陽に当たらない植物のように弱々しくなります」
〈隠遁生活〉


――原則として社会志向の生活が自然であることは理解できますが、その社会から遁(のが)れた生活への志向も、それで本人が満足するのであれば、悪いとは言えないと思うのですが……


「そういう満足は利己的満足だからいけないのです。酒びたりの生活を送っている人がいますが、あなたはそれを、満足しているのだから良いとおっしゃるつもりですか。自分をその立場に置いてみて、自分以外の人に何の意味も持たないと思ったものは、神はお喜びにならないと思ってください」


――不幸な人々のために生涯を捧げる決意をして世を捨てる人々はどう理解すべきでしょうか。


「そういう人は自ら身を低くすることによって魂を高めています。物的享楽を捨てることと、仕事の法則を成就することによる善行の二つの点で大きな功績があります」


――ある種の仕事の成就のために世俗から遁れて静寂の中で生活している人はいかがでしょうか。


「そういう動機からであれば利己的ではありません。実質的には人のためなのですから、社会から隔絶してはおりません」


――ある宗派では“無言の誓い”というのを教義としておりますが、これはいかがでしょうか。


「言語能力が自然な能力であること、神から授かったものであることをお考えになれば、自ら答えが出るはずです。神は能力の悪用は咎めますが、正しい使用は決して咎めません。もっとも、静寂の時を持つこと自体は結構なことです。そういう時こそ本来の自我が顕現し、霊的な自由が増し、背後霊との内的コミュニケーションが持てます。ですから、そういう目的のために自発的な苦行を行うのは、動機の点で有徳の行為と言えます。が、基本的に見てそういう行に終始する生活は、神の摂理を十分に理解していないという点で、やはり間違いです」



8章 進歩の法則

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〈野生と進歩〉


――野生のままの状態と自然の法則とは一致しますか。


「しません。野生のままということは原始的状態のことです。文明は野生の状態とは相容れません。一方、自然の法則は人類の進歩に貢献します」


――人間は進歩を促す力を内部に秘めているのでしょうか、それとも進歩は外部からの働きかけの結果なのでしょうか。


「人間は自らの力で自然に発達します。ただ、全ての人間が同じ速度で同じ形で進歩するわけではありません。従って最も進歩している者が社会という形態の中での接触を通じて他の者の進歩を助ける仕組みになっているのです」


――道徳的進歩は知的発達に続くものでしょうか。


「知的発達の結果として道徳的進歩が生じますが、必ずしもすぐにというわけではありません」


――知的発達がどうして道徳的進歩を促すのでしょうか。


「知的発達によって善と悪とを理解するようになり、続いて、そのどちらかを選択するようになります。知性が発達すると自由意志が発達し、そこから人類の行動の責任が増してきます」


――人間にはそうした進歩を止める力がありますか。


「ありません。もっとも、時おり遅らせることをします」


――人類の進歩のためと思って真剣にやっていることが実際には進歩の邪魔をしているというケースがあるように思えるのですが……。


「あります。大きな車輪の下に小石をばらまく人がいますが、そんなことで進歩が阻止されるものではありません」


――人類の進歩は常にゆっくりとしたペースなのでしょうか。


「時の勢いで必然的に生じる一定の速度の進歩がありますが、それがあまりに遅すぎると、思い切った転換を促すために、時として物理的ないしは精神的ショックを神が用意します」


――進歩の最大の障害は何でしょうか。


「高慢と利己主義です。ただし道徳的進歩に限っての話です。と言うのは、知的進歩は時の勢いで常に進んでおります。そして、一見すると野心や富への欲望といった悪徳を煽るかに見えますが、代わってそれが精神を修養するための探求へ駆り立てます。

このように人間生活の全てが物的のみならず精神的にもどこかでつながっていて、悪と思えるものからでも善が生まれるのです。ただ、そういう形での因果関係は永続性がありません。それよりも、霊性が開眼して地上的享楽のレベルを超えた、限りなくスケールの大きい、そして限りなく永続性のある至福の境涯があることを悟るようになります」(十二章〈利己主義〉参照)
〈滅びゆく民族〉


――進歩性を完全に失ってしまった民族もあるように見受けられるのですが……。


「あります。ただしそれは一度にではなく、日を追って少しずつ人口が減少するという形を取ります」


――究極的には世界の全民族が一つの国家に統一されるのでしょうか。


「一つの国家にはなりません。それは有り得ないことです。気候の違いが多様な慣習と必要性を生み、それが自ずと多様な国民性を生み出します。そしてその一つ一つが特殊な慣習と必要性に適応した法律を必要とします。しかし思いやりの摂理には地域の差はありません。神の摂理にのっとった法律を施行していれば、国家と国家の間にも人間どうしと同じ思いやりによって結ばれ、互いが平和で幸せな生活が送れるようになります。誰一人として他を傷つけたり他を犠牲にして利益を得ようとする者はいなくなるからです」
〈文明の進歩〉


――文明は人類の進歩の現れでしょうか、それとも何人かの学者が言っているように、デカダンスでしょうか。


「進歩には違いありません。が、まだまだ完全からは程遠いです。人類は幼児期から一気に理性の時代へと移行するわけではありません」


訳注――デカダンスというのは、ちょうど本書が編纂されている頃、すなわち一九世紀末にフランスを中心にヨーロッパで広まった官能主義的頽廃思想のことで、現代のアメリカに代表される機械的物質文明とは質を異にする。


――文明をいけないものとする考えはいかがでしょうか。


「文明を悪用する者を非難すべきであって、神の配剤に文句を言うべきではありません」


――いずれは文明も浄化されて、それが生み出していた悪弊も消えるのでしょうか。


「そうです。人間の道徳性が知性と同じ程度にまで発達すればそうなります。花が咲く前に実がなることはありません」


――文明が頂点に達したことは何をもって知ることができるのでしょうか。


「道徳的発達です。あなた方は少しばかり発明や発見をし、立派な家に住んでシャレた服を着るようになると、えらく文明が発達したかに思い込んでいるようですが、本当の意味で“開化”したと言えるのは、不名誉な悪徳が消え、イエスの説く慈悲を実践して兄弟のごとく仲良く暮らせるようになった時です。それまでは“知的に啓発された”だけの国家であって、文明化の初期の段階を通過したにすぎません」
〈社会的法律の進歩〉


――人間社会を治めるには、人間がこしらえた法律の助けなしに自然の法律だけで十分なのでしょうか。


「自然の法則が正しく理解され、それを人間が素直に実践するのであれば、それで十分でしょう。が、社会には無法者がいますから、それに応じた特別の法律が必要となります」


――現段階の人間社会では刑法にも厳しさが必要でしょうか。


「堕落した社会には厳格な刑法も必要ですが、不幸にして現在の刑法は罰することにばかり偏って、悪の発生源を改めることに意を用いていません。人類を啓発するのは教育しかありません。教育さえしっかりすれば現在のような厳しさは必要でなくなります」


――法律を改めるにはどうすればよいでしょうか。


「時勢の流れによっても改められて行きますが、地上界をリードする偉大なる人物の影響によっても改められて行きます。これまでに多くの悪法が改められてきましたし、これからも改められて行くでしょう。焦らぬことです」
〈スピリチュアリズムの役割〉


――スピリチュアリズムはいずれは世間一般に受け入れられて行くのでしょうか、それとも限られた少数派のものであり続けるのでしょうか。


「間違いなく一般に受け入れられて行き、人類史上における画期的な時代が到来するでしょう。本質的に自然界の秩序に属するものであり、人類の知識の一部門として位置づけられるべきものだからです。しかしそれまでには、まだまだ烈しい抵抗に遭うでしょう。それは教義の真偽を問われるというよりも損得から生じる抵抗です。スピリチュアリズムの普及で経済的に被害をこうむる者、虚栄心を守ろうとする者、さらには世俗的面子(めんつ)にこだわる者などがいることを忘れてはなりません。しかしそのうち自分たちが少数派になってしまったことを知ると、恥を承知の上でも、手のひらを返すような態度に出ることでしょう」


――なぜ霊界側は人類発生の初期からこうした真理を説かなかったのでしょうか。


「あなただって大人に教えるようなことを子供に説くようなことはしないでしょうし、赤ん坊が消化しきれないものを食べさせるようなことはしないでしょう。何事にも時期というものがあります。これまでだって全く説かれていないわけではありません。が、その意義が理解されず、あるいは曲解されたりしています。そして今ようやく正しく理解してもらえる段階が到来したということです。が、これまでの教えも、不完全だったとは言え、これから本格的な実りを得るタネ蒔きのための土地を耕してくれていたのです」



9章 平等の法則

このページの目次〈さまざまな不平等〉
〈貧富による試練〉
〈男女の権利の平等〉

〈さまざまな不平等〉


――神はなぜ全ての人間に同じ才能を与えていないのでしょうか。


「全ての霊は神によって平等に創造されています。が、創造されてから今日に至るまでの期間に長短の差があり、結果的には過去世の体験の多い少ないの差が生じます。つまり各自の違いは体験の程度と、意志の鍛練の違いにあり、それが各自の霊的自由を決定づけ、自由の大きい者ほど急速に進化します。こうして現実に見られるような才能の多様性が生じて行きます。

この才能の多様性は、各自が開発した身体的ならびに知的能力の範囲内で神の計画の推進に協力し合う上で必要なことでもあります。ある人にできないことを別の人が行うという形で、全体の中の一部としての有用性を発揮できるわけです。さらには宇宙の全天体が連帯性でつながっていますから、より発達した天体の住民――そのほとんどが地球人類より先に創造されています――が地上に再生して範を垂れるということもあります」


――高級な天体から低級な天体へと転生しても、それまでに身につけた才能は失われないのでしょうか。


「失われません。すでに申しているごとく、進化した霊が退化することは有り得ません。物質性の強さのために以前の天体にいた時より感覚が鈍り、生まれ落ちる環境も危険に満ちた所を選ぶかも知れませんが、ある一定レベル以上に進化した霊は、そうした悪条件を糧として新たな教訓を悟り、さらなる進化に役立てるものです」


――社会の不平等も自然の法則でしょうか。


「違います。人間が生み出したものであり、神の業ではありません」


――最終的には不平等は消滅するのでしょうか。


「永遠に続くものは神の摂理以外にはありません。人間社会の不平等も、ご覧になっていて、少しずつではあっても日毎に改められて行っていることに気づきませんか。高慢と利己主義が影をひそめるにつれて不平等も消えて行きます。そして最後まで残る不平等は功罪の評価だけです。いずれ神の大家族が血統の良さを云々(うんぬん)することを止めて、霊性の純粋性を云々する日が来るでしょう」


訳注――“功罪の評価”の不平等というのは、功も罪も動機や目的によってその報いも違ってくるという意味で、“不公正”とは異なる。逆の場合の例を挙げれば、キリスト教には“死の床での懺悔”というのがある。イエスの信仰を告白して他界すればいかなる罪も赦されるという教義であるが、これは間違った平等であって、不公正の最たるものであろう。


――貧富の差は能力の差でしょうか。


「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。詐欺や強盗にも結構知恵が要りますが、これをあなたは能力と見ますか」


――私のいう能力はそういう意味ではありません。たとえば遺産には悪の要素は無いでしょう?


「どうしてそう断言できますか。その財産が蓄積される源にさかのぼって、その動機が文句なしに純粋だったかどうかを確かめるがよろしい。最初は略奪のような不当行為で獲得したものではないと誰が断言できますか。

百歩譲ってそこまでは詮索しないとしても、そもそもそんな大金を蓄えるという魂胆そのものが褒められることだと思われますか。神はその動機を裁かれます。その点に関するかぎり神は人間が想像するより遥かに厳正です」


――仮に蓄財の当初に不当行為があった場合、その遺産を引き継いだ者は責任まで引き継がされるのでしょうか。


「仮に不当行為があったとしても、相続人はまったく知らないことですから、当然その責任までは問われません。しかし、これから申し上げることをしっかりと理解してください。遺産の相続人は、必ずとは言いませんが、往々にして、その蓄財の当初の不正の責任を取ってくれる者が選ばれるということです。その点を正直に理解した人は幸せです。その罪を最初の蓄財者の名において償えば、その功は、当人と蓄財者の双方に報われます。蓄財者が霊界からそのように働きかけた結果だからです」
〈貧富による試練〉


――ではなぜ貧富の差があるのでしょうか。


「それなりに試練があるからです。ご存じの通り、再生するに際して自分でどちらかを選んでいるのです。ただ、多くの場合、その試練に負けています」


――貧と富のどちらが人間にとって危険でしょうか。


「どちらも同じ程度の危険性があります。貧乏は神への不平不満を抱かせます。一方、富は何かにつけて極端な過ちに陥(おとしい)れます」


――富は悪への誘惑となると同時に善行の手段にもなるはずです。


「そこです。そこに気づいてくれれば意義も生じるのですが、なかなかその方向へは向かわないものです。大抵は利己的で高慢で、ますます貪欲になりがちです。財産を増やすことばかり考え、これで十分という際限が無くなるのです」
〈男女の権利の平等〉


――女性が肉体的に男性より弱くできていることには何か目的があるのでしょうか。


「女性に女性としての機能を発揮させるためです。男性は荒仕事に耐えられるようにつくられ、女性は穏やかな仕事に向いています。辛い試練に満ちた人生を生き抜く上で互いが足らざる所を補い合うようにできています」


――機能的にも男女の重要性はまったく平等なのでしょうか。


「女性の機能の方がむしろ重要性が大きいと言えます。何しろ人間としての生命を与えるのは女性なのですから」


――神の目から見て平等である以上は人間界の法律上でも平等であるべきでしょうか。


「それが公正の第一原理です。“他人からして欲しくないことは、すべからく他人にもすべきではない”と言います」


訳注――これはキリストの“山上の垂訓”の一つである「他人からして欲しいことは、すべからく他人にもそのようにすべし」という有名な“黄金律”を裏返して表現したもの。


――法律が完全に公正であるためには男女の権利の平等を明言すべきでしょうか。


「権利の平等は明言すべきです。機能の平等はまた別問題です。双方がそれぞれの特殊な存在価値を主張し合うべきです。男性は外的な仕事に携わり、女性は内的な仕事に携わり、それぞれの性の特質を発揮するのです。

人間界の法律が公正を期するためには男女の権利の平等を明言すべきであり、どちらに特別の権利を与えても公正に反します。文明の発達は女性の解放を促すもので、女性の隷属は野蛮のレベルに属します。

忘れてならないのは、性の違いは肉体という組織体だけの話であって、霊は再生に際してどちらの性でも選べるという霊的事実です。その意味でも霊は男女どちらの権利でも体験できるわけです」


訳注――この問答を見るかぎりでは、当時はまだ自由と平等の先進国のフランスでも男女の平等は法律で謳われていなかったようで、今日の自由主義国の人間が読むと奇異にすら感じられる。しかし“権利”の平等と“機能”の平等を区別し、機能は平等・不平等次元で論じるべきものではないとしている点は、昨今いささか行き過ぎた平等主張、いわゆる“悪平等”が幅をきかせている、日本を始めとする文明先進国に良い反省材料を提供しているのではなかろうか。



10章 自由の法則

このページの目次
〈自由と束縛〉


――人間が完全な自由を得るのはどういう条件下においてでしょうか。


「砂漠の中の世捨て人くらいのものでしょう。二人の人間が存在すれば、互いの権利と義務が生じ、完全に自由ではなくなります」


――と言うことは、他人の権利を尊重するということは、自分の権利を奪われることを意味するのでしょうか。


「それは違います。権利は生得のものです」


――奴隷制度が既成の慣習となっている国家において、使用人の家に生まれた者はそれを当たり前のことと思うに違いありませんが、その場合でも罪でしょうか。


「いけないことはいけないこと、いくら詭弁を弄しても悪い慣習が良い慣習になるわけではありません。が、責任の重さとなると、当人がその善悪についてどの程度まで理解していたかによって違ってきます。

奴隷制度で甘い汁を吸っている者は神の摂理に違反していることは明白です。が、その場合の罪の重さは、他の全ての場合と同じく、相対的なものです。長年にわたって奴隷制度が根付いている国においては使用人は少しも悪いこととは思わず、むしろ当たり前のことと思っているでしょう。しかし例えばイエスの教えなどに接して道義心が目覚め、理性が啓発されて、奴隷も神の前には自分と同等なのだと悟ったあとは、どう弁解しても罪は罪です」


――使用人の中には心の優しい人もいて、扱い方が人道的で、何一つ不自由をさせないように心を配っていながら、解放してやると却って生活が苦しくなるという理由から奴隷を雇い続けている人がいますが、これはどう理解すべきでしょうか。


「奴隷を残酷に扱っている使用人に較べれば自分のしていることについての理解が立派であると言えるでしょう。が、私に言わせれば、それは牛や馬を飼育しているのと同じで、マーケットで高く売るために大切にしているだけです。残酷に扱っている人と同列には問えませんが、人間を商品として扱い、生来の独立した人格としての権利を奪っている点において罪に問われます」
〈良心の自由〉


――他人の良心の自由に柵を設ける権利はあるでしょうか。


「思想の自由に柵を設ける権利がないのと同じく、そういう権利は許されません。良心を判断する権利は神のみが所有しておられます。人間が法律によって人間と人間との関係を規制していますが、神は自然の摂理によって人間と神との関係を規律づけています」


――ある宗教で説かれている教義が有害であることが明らかな時、良心の自由を尊重する立場からこれをそのまま許すべきでしょうか、それとも、良心の自由を侵さない範囲で、その誤った教義によって道に迷っている人を正しい道に導いてもよろしいでしょうか。


「もちろんよろしいし、また、そう努力すべきです。ただし、その時の態度はイエスの範にならって、優しさと説得力をもって臨むべきで、強引な態度は慎まないといけません。強引な態度は、その相手の間違った信仰よりも有害です。確信は威嚇によって押しつけられるものではありません」
〈自由意志〉


――人間には行為の自由がありますか。


「思想の自由がある以上、行為の自由もあります。自由意志がなかったら人間はロボットと同じです」


――その自由意志は誕生の時から所有しているのでしょうか。


「自らの意志で行為に出るような段階から自由意志を所有したことになります。誕生後しばらくは自由意志は無いに等しく、機能の発達と共に発達しはじめ、目的意識を持つようになります。幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています」


――未開の段階では人間は本能と自由意志のどちらが支配的なのでしょうか。


「本能です。と言っても、完全な自由意志による行動を妨げない面もいくつかあります。幼児と同じで、自分の必要性を満たすために自由意志を行使していて、その自由意志は知性の発達を通してのみ発達します。と言うことは、あなた方のように知性の発達した人類は、自由意志の行使による過ちに対しては未開人よりも責任が重いということになります」


――社会的地位が自由行動の妨げになることはありませんか。


「社会に属している以上、当然、それなりの制約はあるでしょう。神は公正であり、そうした条件も全て考慮に入れて裁かれますが、そうした制約に負けないだけの努力をしているか否かも神は見ておられます」


――人生での出来事にはいわゆる運命、つまりあらかじめ決められているものもあるのでしょうか。もしあるとすれば自由意志はどうなるのでしょうか。


「再生する際に自ら選択した試練以外には必然的な宿命(さだめ)というものはありません。試練を選択することによって、そのようになる環境へ誕生しますから、自然にそうなるのです。

もっとも私が言っているのは物的な出来事(事故など)のことです。精神的な試練や道徳的誘惑に関しては、霊は常に善悪の選択を迫られており、それに抵抗するか負けるかのどちらかです。その際、当人が躊躇しているのを見て背後霊がアドバイスをしてくれますが、当人の意志の強さの程度を超えて影響を及ぼすことはできません。

一方、低級なイタズラ霊が大げさな取り越し苦労の念を吹き込んで悩ませたり怖がらせたりすることもします。が、最後の選択権は当人にあります」


――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……


「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」


――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。


「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」


――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。


「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」


――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。


「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」


――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。


「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。

例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。

神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」


――例えば殺人を犯した場合、再生する時から殺人者になることを知っているのでしょうか。


「そうではありません。自分が選択した人生において殺人を犯しかねない事態が予想されていたかも知れません。が、その時点では殺人を犯すか犯さないかは分かっておりません。殺人を犯した者でも、その直前までは理性を働かせる余裕があったはずです。もしも殺人を犯すことに決まっているとしたら、自由意志による判断力を働かせることができないことになります。罪悪も、他のあらゆる行為と同じく、自由意志による判断力と決断力の結果です。

あなた方はとかく二種類のまったく異なるものを混同しがちです。すなわち物的生活での出来事と精神的生活での行為です。もし宿命性というものがあるとすれば、それは物的生活において、原因が本人の手の届かない、そして本人の意志と無関係の出来事にかぎられています。それとは対照的に、精神生活における行為は必ず本人から出ており、従って本人の自由意志による選択の余地があります。その種の行為に宿命性は絶対にありません」


――では“幸運の星の下に生まれる”とか“星回りの悪い時に生まれる”という表現はどこから生まれたのでしょうか。


「星と人間とを結びつける古い迷信から生まれたもので、愚かな人間が比喩的表現を文字通りに受け取っただけです」



11章 公正・愛・寛容の法則

このページの目次〈生得の権利と公正〉
〈隣人への寛容と愛〉

〈生得の権利と公正〉


――公正とはどう定義づけたらよろしいでしょうか。


「公正とは他人の権利の尊重を基本として成り立つものです」


――その権利を定めるのは何でしょうか。


「二つあります。人間の法律と自然の法則です。人間の法律はその時代の人間的性格と習性に合わせてこしらえられていますから、啓発が進むにつれて規定される権利も変わってきます。今日のフランスの法律は、まだ完全からは程遠いとは言え、中世において権利として認められたものは、もう認めていません。今日のあなた方には途方もないものに思えるでしょうけど、当時としてはごく当たり前だったのです。

そういう次第ですから、人間がこしらえた法律は必ずしも絶対的公正とは一致しません。その上、人間の法律が規定するのは社会生活に関連した側面に限られております。しかし各個人の生活においては、時々刻々の言動や思念について、良心の法則による裁きを受けております」


――では人間的法律はさておいて、自然の摂理に適った公正の基本は何でしょうか。


「イエスが言っております――自分が他人からしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい、と。神は、公正の真実の尺度として、自分の権利を尊重してもらいたいという願望を各自に植えつけておられます。対人関係において難しい事態に立ち至り、如何なる行為に出るべきかに迷った時は、自分を相手の立場に置いて、自分だったらどうしてもらいたいと思うだろうかと考えてみることです。その判断に基づいて行動した時は良心が咎めることはありません」


――生得の権利で第一に挙げられるのは何でしょうか。


「生きる権利です。従って他人の生命を奪う権利、あるいは個人的存在を危うくする権利は、誰にもありません」
〈隣人への寛容と愛〉


――イエスが説いた“慈愛”の本当の意味は何でしょうか。


「全ての人間への善意、他人の欠点への寛容、自分への中傷の容赦です」


――イエスは“汝の敵を愛せよ”とも言っておりますが、それは人間の自然な心情にはそぐわないように思います。


「自分に敵対する者に優しくし愛の心を向けることは、確かに人間には不可能でしょう。イエスも決して文字通りのことを要求しているわけではありません。敵を愛するということは、敵を赦し、悪想念に対して善意で返すということです。それができた時、あなたは本当の意味で敵に勝ったのであり、悪意でやり返した時は敵に負けたことになります」


――施しをすることはいけないことでしょうか。


「そんなことはありません。いけないのは施しそのものではなく、施しの仕方です。イエスの説いた慈愛の心を理解した者は、物乞いをするという下卑(げび)た態度に出させないようにして困っている人々に施しをするべきです。

真の慈善の行為は、ただ施しをするというだけでなく、その態度に優しさが無くてはいけません。同じく人のためになることでも、その行為に思いやりの心がこもっていると二重の功徳になります。反対に恵んでやるといった高慢な態度で施しをしたのでは、飢えている人は形振(なりふ)り構わず頂くでしょうが、感謝の念は抱かないでしょう。

もう一つ忘れてならないのは、見栄からの施しは神の目から見ると功徳にはならないということです。イエスは“右の手が行ったことを左の手に知らしめてはならない”と言っております。せっかくの慈善行為を高慢と見栄で汚してはいけないという意味です。

施しと善意との違いを知ってください。本当に困っているのは必ずしも道端で物乞いをしている人ではありません。飢えに苦しみながらも、恥を知る人間は物乞いをしません。本当に善意のある人とは、そうした人知れず飢えに耐えている人に施しをし、そしてそのことを口外しない人のことです」



12章 完全なる人格

このページの目次

〈美徳と悪徳〉


――美徳とされているものの中で最も徳性が高いのは何でしょうか。


「美徳はすべて価値があります。霊性の向上の証だからです。邪悪性を帯びた影響力の誘惑に自ら抵抗する行為も全て徳行と言えます。が、その徳行の崇高さは、他人への善行のために私利私欲を滅却するところにあります。最も崇高なる徳は、できるだけ多くの人への無私の善行という形を取った時です」


――誰の目にも明らかな欠点と悪徳は別として、一見するとそうは見えない不完全さの表れの中で最も特徴的なものは何でしょうか。


「利己主義です。一見すると徳の高そうな風貌をしていても、実はきらびやかなメッキにすぎず、試金石にはとても耐え切れないことがあります。世間的には“立派な方”で通っていて、確かにそこそこの人格をそなえていても、厳しい試練には耐え切れず、すぐに利己心をのぞかせます。それだけでどの程度の霊格をそなえているかが知れます。もっとも、絶対的な無欲というのは地上界では滅多にお目にかかれるものではなく、もしあれば驚嘆に値するでしょう」


――人のためになることを計画して、その実行のための資金を稼ぐということは間違っているでしょうか。


「純粋にそう思ってやっているのであれば結構でしょう。ですが、果たして心底から人のためと思っているでしょうか。利己心は一切無いと断言できるでしょうか。人のためと言いながら、その実、第一に考えているのは自分のことではないでしょうか」
〈感情〉


――感情というのは、本来、悪なのでしょうか。


「悪ではありません。悪となるのは度が過ぎた時だけです。度を越すということは意念の悪用の結果だからです。基本的には感情は人間の性格の形成に益するもので、偉大な仕事の成就に強烈な拍車をかけてくれることがあります。感情が害を及ぼすのは、その使い道を誤った時です」


――その善用と悪用の境界はどうやって認識するのでしょうか。


「感情は馬と同じです。手綱をうまく操っている間は役に立ちますが、いったんコントロールを失うと危険が生じます。抑えることができなくなると自分だけでなく他人をも傷つけるようになります」


――それは意志の力で克服できるのでしょうか。


「できます。ホンのちょっとした意志の働かせ方で抑えられるものです。その意志、抑えようとする意志の欠如が感情を暴走させてしまうのです。残念ながら、そういう努力をする人が少なすぎます」
〈利己主義〉


――悪徳の中でもその根源にあるものは何でしょうか。


「利己心です。このことはすでに何度も説いてきました。およそ悪と呼ばれているものは全てこの利己心から生じているからです。悪いこと、いけないこととされているものをよく分析してご覧なさい。その底には必ず自分中心の欲が巣食っています。それと闘い、克服して、悪を根絶やしにしないといけません。

利己主義こそ社会的腐敗の根源です。この地上生活(だけとは限りませんが)において幾らかでも道徳的に向上したいと願う者は、まず自分の心の奥から利己心を根こそぎ取り払わないといけません。利己心があるかぎり公正も愛も寛容心も生まれません。あらゆる善性を無力化してしまいます」


――利己心を撲滅するにはどうすればよいでしょうか。


「人間的欠点の中でも最も取り除き難いのがこの利己心です。その原因は物質の影響力と結びついているからです。人類はまだまだ物質性を多分に残していますから、それから解放されるのは容易ではありません。人間界の法律、社会的組織、そして教育までもが唯物主義の上に成り立っています。物的生活が精神的生活によって支配されるようになるにつれて、利己主義も薄められて行くでしょう。それにはスピリチュアリズムの普及によって死後の生命の実在についての認識が浸透することが大前提です。スピリチュアリズムの教義が正しく理解され、それまでの人類の信仰や慣習が見直されれば、習慣やしきたり、社会的関係の全てが改められるでしょう。

利己主義は自分という個的存在にこだわりすぎ、平たく言えば自分が偉いと思っているところから生じています。スピリチュアリズムを正しく理解すれば、それとは逆に、全てを大いなる生命の観点から見つめるようになって、己の小ささに気づきます。全体の中のささやかな存在にすぎないという認識によって自尊心が消え、必然的に利己心も消えてしまいます」

(署名)フェヌロン


訳注――フランソワ・フェヌロン(一六五一~一七一五)はフランスの聖職者・教育論者・著述家。ルイ十四世から孫(王子)の教育を託され、その功によって大主教に任ぜられるが、前任の教育係との間の神学論争に敗れて主教に降格される。その後王子の教育論を述べた大著を発表するが、ルイ王はそれを自分への風刺と受け取って発禁処分にし、対立する教育論者たちからも非難を浴びる。が、「王は臣民のためにあるのであり臣民が王のためにあるのではない」との説は最後まで歪げなかったという。
〈人格者〉


――高等な霊性をそなえていると判断できる人はどういう人格をしているでしょうか。


「肉体に宿っている霊の霊格の判断は、その人の日常生活での言動が神の摂理に適っているかどうか、そして霊的生命についてどの程度まで理解しているかによって決まります」


――地上生活によって徳性を高め、悪の誘いに抵抗していくには、どのような生き方が最も有効でしょうか。


「古賢の言葉に“汝自らを知れ”とあります」


訳注――ギリシャのデルファイの神殿に刻まれている言葉で、誰の言葉であるかは不明。


――その言葉の意味はよく分かるのですが、自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。


「私(聖アウグスティヌス)が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。

霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことのできない場にさらされたとしても、青天白日の気持ちで誰にでも顔向けができるか、と。まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。

人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つの秤(はか)り、二種類のモノサシを用いるはずはありません。

さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。

我々への質問は明確に、そして有りのままを述べ、幾つでもなさるがよろしい。そこに遠慮は無用です。人間は老後に備えてあくせくと働きます。老後の安楽が人生最大の目的――現在の疲労と窮乏生活をも厭わないほどの目的になっているではありませんか。疲労こんぱいの身体で人生最後の、ホンのわずかな時を経済的に安楽に過ごすことと、徳積みの生活に勤しんで死後の永遠の安らぎを得るのと、どちらが崇高でしょうか。

そう言うと人間は言うでしょう――現世のことは明確に分かるが死後のことは当てにならない、と。実はその考えこそ、我々霊団が人間の思念の中から取り除いて死後の実在に疑念を持たせないようにせよと命じられている、大きな課題なのです。だからこそ我々は心霊現象を発生させてあなた方の注意を喚起し、そして今こうして霊的思想を説いているのです。

本書を編纂するよう働きかけたのもその目的のためです。今度はあなた方がそれを広める番です」

(署名)アウグスティヌス


訳注――聖アウグスティヌス(三五四~四三〇・聖オーガスチンとも)は言わずと知れた初期キリスト教時代の最大の指導者・神学者・哲学者で、遺産を全て売り払って貧者に恵み、自らは清貧に甘んじ、とくに後半生は病弱と貧困に苦しめられたが、その中にあっても強靭な精神力、底知れぬ知性、深遠な霊性、崇高な高潔さは、キリスト教最高・最大の聖人と呼ばれるに相応しいものだったと言われる。

なお、これまでの通信でも“私”という言い方をしながら、それが誰であるかが記されていないものがある。それにも署名はあったであろうから、それを敢えて記さなかったのは、まったく無名の人物か、カルデックが本人であることに疑念を抱いたかの、どちらかであろう。フェヌロンとオーガスチンに関してはよほど確信を持ったということになる。

霊の書 アラン・カルデック(編)第3部 摂理と法則 1章−5章

  The Spirits' Book

スピリチュアリズムの真髄「思想編」
近藤千雄(訳)






1章 自然法則


このページの目次

〈自然法則の特性〉 〈自然法則の理解〉
〈自然法則の特性〉


――自然法則とは何でしょうか。


「神の摂理です。人間の幸せを保証する絶対的な摂理です。それが人間の為すべき事と為すべきでない事を示しており、それに逆らう者は苦しむのみです」


――神の摂理は永遠ですか。


「神ご自身と同じく永遠にして不変です」


――神の摂理は人間の倫理・道徳面だけに係わるものでしょうか。


「自然界の法則も全て神の摂理です。神が全存在の創造主だからです。科学の探求者は自然界の理法を研究し、善性の探求者はそれを魂の中に求め、そして実践します」


――人間はその全摂理に通暁できるのでしょうか。


「できます。ただし、たった一度や二度の地上生活では無理です」


――摂理は宇宙の全天体にわたって同一なのでしょうか。


「理性的に考えれば、当然、各天体の特殊性とそこに住む存在の発達程度に応じたものであるに決まっています」
〈自然法則の理解〉


――物的身体に宿る前の霊は、宿った後よりも神の摂理を明確に理解しているのでしょうか。


「到達した霊性の発達レベルに応じた理解をしており、身体に宿った後も直覚的な回想力を保持していますが、低劣な人間的本能がそれを忘れさせます」


――その摂理の理解は霊のどこに刻み込まれているのでしょうか。


「良心(善悪の分別力)です」


――良心に刻み込まれたものを、なぜ改めて啓発する必要があるのでしょうか。


「低劣な本能のせいで忘却したり誤解したりしているからです。人間がそれを思い出してくれるようにというのが神の御意志です」


――神はそうした摂理を外部から啓示する使者を派遣しておられるのでしょうか。


「もちろんです。あらゆる時代にその使命を授かった者がいます。霊性の高い霊で、人類の発達を促進する目的で地上へ降誕しています」


――そうした使者の中で模範とすべき最も完全に近い人物は誰でしょうか。


「ナザレのイエス」


訳注――カルデックの背後霊団がスピリチュアリズム、すなわち地球浄化の大事業の一翼を担っていたことは改めて指摘するまでもないであろう。巻頭の《カルデックへの霊団からのメッセージ》に「イエスの偉大なる愛の原理のもとに集える我々は」云々……とあるのを見ても明らかである。スピリチュアリズム運動の最高責任者がほかならぬあのナザレのイエスであることはシルバーバーチもインペレーターも明言している。

そのイエスは一体どういう風貌をしていたのだろうか。数多いインディアンの指導霊の一人であるホワイト・ホークが叙述しているところを紹介しておくと「体格はすらりとして品があり、髪はコーン色(浅黄)、顔は色白で卵形、わずかに頬が張り、髪よりも黒みがかったクリ色のアゴひげをたくわえていた。腕はほっそりとしていたが強靭で、容貌は優しさの中に憂いをたたえ、いつも紫色のマントをまとっていた。」
〈善と悪〉


――道徳的摂理とはどう定義づけたらよいでしょうか。


「道徳的摂理とは正しい行為を判断するための規準です。言い変えれば、実践において善と悪とを分別するための規準です。神の摂理の遵守が基本です。行為の動機と規準が善を志向するものであれば、その行為は正しいと言えます。神の摂理を遵守したことになるからです」


――善と悪との分別は何を規準にしたらよいのでしょうか。


「善とは神の摂理に適ったものであり、悪とは神の摂理から逸脱したものです。正しい行為とは神の摂理に適ったことをすることであり、過った行為とは神の摂理を侵害することです」


――人間には自ら善悪を弁(わきま)える能力がそなわっているのでしょうか。


「その両者を弁別するための直観的判断力(良心)が授けられています」


――自分では正しいと思っても間違っていることがあります。


「イエスが言っております――“自分がしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい”と。道徳的摂理の要諦はこの言葉に尽くされております。これを行動の規準にすることです。決して間違えることはありません」


――それは言わば相互依存の関係であり、自分自身に対する個人的な行為には当てはまらないと思うのです。自分自身への行為の善悪にも判断の規準があるのでしょうか。


「食べ過ぎると胃腸の調子がおかしくなります。神はその不快感をもって各自の限度の規準としています。その限界を超えると神が罰するということです。同じことが他の全てのことについて言えます。何事にも摂理によって必要限度というものが設定されており、それを超えると自動的に苦しみが生じて罰せられます。“それで十分”という神の声に人間が耳を傾けるようになれば、天災と思い込んでいる地上の災害の大半が未然に防げるはずです」


――善と悪は全ての人間にとって絶対的なものでしょうか。


「神の摂理は全ての人間に分け隔てなく働きます。が、罪悪はその実行に当たっての魂の欲望の中に潜んでいます。善はあくまでも善であり、悪はあくまでも悪であり、地位や職権には関係ありません。異なるのは責任の度合いです」


訳注――シルバーバーチは「罪は動機によって決まる」と一貫して述べている。ここでは「その実行に当たっての欲望」という難しい表現をしているが、煎じつめれば“動機”という用語に含まれているのではなかろうか。誉れ高き地位や名声を手にすると、善悪の判断に際してそれを失うまいとする欲望が先走り、良心との葛藤が渦巻く。しかし、シルバーバーチ曰く――「良心が命じることは、たとえその方向へ進むと物的には不遇になることが分かっていても、迷わず従いなさい。最後はきっと良いようになります。難しく考えることはないのです。これほど簡単な話はありません。」

とは言え、肉体をまとって地上の人間になってしまうと、それがそう簡単に行かない。“低劣な人間的本能”が邪魔をするのであるが、逆に考えると、だからこそ地上の物的生活の意義もあるのではなかろうか。


――すでに罪悪のタネが蒔かれていて、たまたま置かれた地位や立場上その責任を負わざるを得ないことがあります。この場合、最大の咎めを受けるのは誰でしょうか。


「最初にタネを蒔いた者です。罪悪そのものに対して責任を取らされるだけでなく、図らずもそのトラブルに巻き込まれた者がこうむった苦しみに対しても責任を問われます」


――反対に、自分は直接手を染めなかったけれどもその罪悪によって利益を得た者は、直接参加した場合と同じ罪に問われるのでしょうか。


「その通りです。罪による利益を手にした者は、罪を犯したのと同じです。仮に気が咎めて直接犯罪行為に加わらなかったとしても、実際に犯罪が実行され、その結果として得られた分け前を懐にすれば、直接参加したのと同じです」


――心に罪悪の思念を宿すということは、それを実行した場合と同じ罪に値するのでしょうか。


「それはそのケースによりけりです。犯意を抱きながらも、やはりいけないと必死に抑制した場合、これは立派です。しかし、同じく実行しなかった場合でも、実行するチャンスが無かったというのでは、これは罪を犯したのと同じです」


――置かれた立場上、善行のチャンスがないという人はいないでしょうか。


「善行のチャンスがない人間は一人もいません。もしいるとすれば、それは利己主義者のみです。人間関係が全く無いというのならともかく、毎日のように他人と接するチャンスがある生活環境においては、よほどの利己主義者を除いて、何らかの善行のチャンスはあります。善行というのは人に物を上げることを言っているのではありません。どんな形でもよろしい、他人の役に立つことをすることです」


――試練として悪徳の巷に生をうけた場合、悪への誘惑が抗し切れないものとはならないでしょうか。


「強烈ではあっても抗し切れないことはありません。悪徳の環境の中で徳性の高い行いを実践してみせる人はいます。そういう人は霊格の高い霊の生まれ変わりで、その程度の誘惑に負けないだけの霊力を身につけていますから、試練に打ち克つと同時に、周囲の人々に気高い影響力を行使する使命も果たします」


――徳行の価値の高さは、それを実行する環境の厳しさによって計られるものなのでしょうか。


「有徳の行為の価値は、実行の困難さによって決まります。克己も奮闘努力もなしに簡単に成就できるものは何の価値もありません。神は金持ちによる山ほどの供物よりも貧者による一切れのパンの方を嘉納されます。それをイエスは“寡婦の賽銭”の寓話で語っております」(新約聖書マルコ伝12)



2章 祈りの法則

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〈讃仰(さんごう)の祈り〉


――讃仰の祈りとはどのような祈りでしょうか。


「思念の波動を神に近づけるための祈りです。その祈りを通して神に近づくのです」


――それは内部の感性の発露でしょうか、それとも祈りの言葉による産物でしょうか。


「宇宙の大霊の存在への信仰と同じく、内部の感性の発露です」


――やはり自然法則の範疇に入るのでしょうか。


「自然法則の一つです。なぜなら、人間の内部の感性の発露だからです。だからこそ、形式は異なっても、世界中の民族に見られるのです」


――表現形式は不可欠のものでしょうか。


「真実の祈りは心の中での働きです。いかなる形式を用いるにせよ、神の目が常に注がれていることを忘れないことです」


――と言うことは形式も無用ではないということでしょうか。


「見せかけのものでなければ無用ではありません。わざとらしい仰々しい態度や見せかけだけの敬虔な振る舞いを伴った祈りでは、人々を欺くと同時に、想像以上の弊害をもたらします」


――祈りは一人よりも集団で行う方が好ましいのでしょうか。


「思念と感情において親和性のある人々が集まれば善霊を呼び寄せる強力な波動が出せることはご存じと思いますが、それと同じで、祈りの波動も強力となります。だからといって一人での祈りは感心しないという意味に受け取ってはいけません。各自の思念の中において神を崇めることができるのですから」


――生涯を俗世から離れ、悪とも無縁で、ひたすら神を求めて瞑想三昧で過ごす生き方は、神の目から見て賞讃に値するものがあるのでしょうか。


「ありません。そういう人生では他人へ悪事を働くこともないでしょうが、善行もしません。しかも他人への善行がないということそれ自体が悪です。神は子等が神の存在を忘れないように配剤しておられますが(良心の声など)、同時に同胞に対しても果たすべき義務も与えておられます。精神統一と瞑想の行に費やす人生は、神の目から見て賞讃には値しません。そういう人生はその人だけのものであり、人類にとって何の益にもならないからです。いずれ神から、無為に終わらせた人生の穴埋めをするようにとのお達しがあるでしょう」
〈祈願〉


――一般的な意味での祈願とは何でしょうか。


「祈願も讃仰の祈りの一つです。神に祈るということは神の存在を意識することであり、神に近づくことであり、内的自我が神とコミュニケーションを持つことです。祈るということには三つの要素があることを認識してください。すなわち神を讃(たた)えること、神に何かを求めること、そして神に感謝すること、この三つです」


――よくお祈りをする人の中に、時として無愛想だったり、嫉妬深かったり、慈しみや忍耐心に欠ける人、極端な場合は悪徳の固まりのような人すら見かけますが、どう理解したらよろしいでしょうか。


「大切なのはたくさん祈るのではなく正しく祈ることです。今おっしゃったような人は祈りとは長々と言葉を述べることと思い込み、それを自分の欠点とは無関係と思っているのでしょう。彼にとっては言わば日課にすぎず、自己反省の要素は皆無です。効き目がないのは薬ではなく、その使い方を間違っているからです」


――自分の過ちを許してくださいと祈ることには何か意義があるのでしょうか。


「神の目には善か悪かは一目瞭然です。祈ったからといって神の目をごまかせるものではありません。過ちの許しを求める方法は、行いを改めるしかありません。善行が最高の祈りです。行為は言葉に優ります」


――他人のために祈ることに効用があるでしょうか。


「他人のためを思って祈る人の霊力が、力になってあげたいという欲求を通して影響を及ぼします。祈る人の波動によって善霊が引き寄せられ、その善行に加勢します」


――死者の霊および霊界で苦しんでいる霊のために祈ることは意義があるでしょうか。もしあるとすれば、その祈りがどういう形で苦痛を和らげ、あるいは苦しむ期間を短くしてあげることになるのでしょうか。祈りには摂理さえ変える力があるのでしょうか。


「神の摂理そのものは祈りによって何の影響も受けません。しかし、人間から送られてくる祈りの念によって霊の心が慰められます。孤独な霊にとっては自分に関心を向けてくれる人がいることの証であり、その思いが何よりの慰めとなるのです。が、それだけで終わっては何にもなりません。そこから高級霊の出番となります。慰めを得た霊に罪を悔い改め善性を志向する心が芽生えます。その一瞬を狙って高級霊が善性志向を増幅させ、結果的には苦悶の期間を短縮することになります」
〈生(い)け贄(にえ)〉


――祈りにつきものとして太古から生け贄を捧げる儀式がありますが、人類はなぜこんな残酷なことで神を喜ばせようとしたのでしょうか。


「まず第一は、神の概念が幼稚だったこと。第二に、ただの品物よりも生きたものの方が価値があると考え、始めのうちは動物を、やがて人間を捧げるようになりました。あなた方が贈り物をする時、高価なものほど受け取る人は喜ぶと考えるのと基本的にはいっしょです」


――すると、“人身御供(ひとみごくう)”というのは必ずしも残酷なこととは思われていなかったのでしょうか。


「その通りです。その方が神の怒りを鎮める効果が大きいと考えたのです。もちろん誤った神の概念から生まれたことですが……」


――動物の生け贄よりも果物のお供えの方が本当は神の目から見て喜ばしいわけですね?


「血なまぐさい生け贄よりも大地が生み出した果実の方がいいに決まっています。何度も言うように神が嘉納されるのは心です。形ある供物はどうでもよろしい。心の底から発せられた祈りの方が、山と積まれた供物よりも、遥かに神に通じます。くり返します――何事も心が大切です。形式はどうでもよろしい」



3章 仕事の法則

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〈仕事の必要性〉


――仕事の必要性も自然法則でしょうか。


「自然法則の一つです。そのことは、仕事は自然の成り行きでどうしてもせざるを得ないこと、そして文明が進むほど必需品と娯楽が増え、それだけ仕事の量も増えるという事実からも立証されます」


――“仕事”という用語は物的性格の労働と理解してよろしいでしょうか。


「それは違います。霊も仕事をしています。役に立つことは、いかなる性格のものでも仕事と言えます」


――なぜ人類に仕事が課せられているのでしょうか。


「物的生活の必然の結果です。罪滅ぼしの要素もありますが、同時に知性を発達させるための手段でもあります。もしも働くということが無かったら、人類は幼稚な知性のままでしょう。そこで食べるものを獲得し、安全を保ち、健康を維持するために働き活動をするようになっているのです。力の要る労働のできない虚弱な人には、それを補うだけの知性が授けられています。知性の活動も仕事です」


――地球よりも高度に発達した天体でも同様の仕事の必要性があるのでしょうか。


「仕事がどういう性格のものであるかは、その天体の必要性と関連してきます。物質性が少なければ仕事も物質性が少なくなります。だからといって活動がなくなり、何もしなくなるわけではありません。することが無いということは有り難いどころか、苦痛です」


――働こうにも働けない人がいるのではないでしょうか。そういう人の人生はまったく無駄なのでしょうか。


「神は常に公正です。神が罰するのは意図的に無為の人生を送る者だけです。それは他人の世話になるだけの一生に終わるからです。各自がその才能に応じて意義ある存在となるように神は配剤しておられます」
〈仕事の限度と休息〉


――仕事の後には休息が必要であるからには休息も自然の法則の一つではないでしょうか。


「もちろんそうです。休息によって体力が回復し、同時に身体が休むということは精神が自由になることであり、物的束縛から一時的に解放されます」


――仕事の限度は何が目安でしょうか。


「体力の限界です。ですが、神はその点については人間に自由を与えています」


――雇い人のような弱者に権力者が過激な労働を科するのは罪でしょうか。


「重大な罪の一つです。権力を振り回す者は、理不尽な程度に及ぶ時は、それに対する責任を取らされます。神の摂理を侵犯しているからです」


――仕事をしなければ生きて行けないのに、老齢で働けない場合はどうすればよいのでしょうか。


「元気な者が弱った人のために働くべきです。家族の援助が得られない場合は社会が面倒を見るべきです。それが慈悲の法則です」



4章 生殖の法則

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〈地球の人口問題〉


――生きものの生殖作用は自然の法則でしょうか。


「まさしく自然法則です。生殖作用が途絶えれば物質界の生物は絶滅します」


――これまでのような割合で地球の人口が増え続ければ多くなり過ぎるのではないでしょうか。


「そういう心配はいりません。神の配剤によって常に均衡が保たれるようになっています。神は何事につけても無駄は許しません。人間の視野には宇宙の全パノラマのほんの一部しか入りません。それゆえ全体にハーモニーが行き届いていることは知覚できません」


――現時点でも地上の幾つかの民族が明らかに減少しつつあります。それは最終的には地上から消滅してしまうのでしょうか。


「その通りです。ですが、代わって別の民族が生まれます。あなた方の民族もいずれは新しい民族と入れ替わるのです」


――現在の地上人類はまったく新しく創造されたものでしょうか、それとも原始的人類の進化した子孫でしょうか。


「霊系は同じです。それが新しい身体に宿り何度も再生し進化して行きつつあるところです。ですが、まだまだ完成からは程遠い段階にあります。いずれにしても現在の人類は人口の増加によって地球全土に広がり、消滅しかかっている民族と取って代わって行きますが、やがてそれも減少傾向に入り、消滅してしまいます。そして別の、もっと完成度の高い民族によって取って代わられますが、それも現人類の子孫です。ちょうど現在の文明人も粗野な原始人の子孫であるのと同じです」
〈繁殖の人工的抑制の是非〉


――人間は法律や慣習によって繁殖を防ぐ方法を講じていますが、これは自然法則に反することでしょうか。


「自然界の営みを妨げることは全て摂理に違反します」


――しかし動物や植物には繁殖しすぎると他の種属に害を及ぼし、巡りめぐって人類の破滅にもなりかねないものがあります。それを人間が抑制するのは間違いでしょうか。


「神は、地球上の生物全体の管理人的立場にある人間に、良きに計らうべき力を与えています。が、乱用は許されません。繁殖作用を必要性に応じて抑制するのは結構ですが、必要以上に阻止すべきではありません。人間の知的活動は大自然のエネルギーの均衡を保持するために神が用意した錘(おもり)のようなものです。そこにも人間が動物と大きく異なる点があります。つまり大自然全体の均衡のために人間は、自らを行使して、洞察力を働かせて協力しますが、動物は本性的に与えられている破壊の本能によって無意識のうちに協力しているのです。動物は自己の種の保存のためにのみ生きていながら、あまり繁殖しすぎると危険でさえある動物や植物を餌として食し、結果的に調和の維持に貢献しています」
〈結婚と禁欲〉


――結婚、つまり一対の男女が一個の単位となって生涯を送ることは自然法則に反したことでしょうか。


「人類が成就した進歩の一つです」


――もし一夫一婦制の結婚形態が廃止されたら人間社会はどうなるでしょうか。


「野獣の生活に戻ります」


――離婚の絶対禁止は自然法則に適っているでしょうか、それとも人間のこしらえた法律にすぎないのでしょうか。


「人間がこしらえた法律であり、自然法則に完全に違反します。しかし、人間は法律を少しずつ書き変えています。神の摂理のみが不変絶対です」


――禁欲生活は神の目から見て立派なことでしょうか。


「立派なこととは言えません。利己的な動機から独身生活を送ることは、神はお喜びになりません。社会の一員としての義務を果たしていないからです」


――同じく禁欲生活でも人類の福祉のために一切をなげうつという犠牲的精神から発している場合はいかがでしょうか。


「それはまったく話が別です。私がいけないと言っているのは“利己的な動機”に発している場合です。犠牲的精神から発しているものは、その目的が人のために役立つものであれば称讃に値します。犠牲が大きいほど功績も大きくなります」


訳注――ここでいう“利己的な動機”というのは性欲を諸悪の根源とするキリスト教の教えにこだわって、己の潔癖のみを守る生き方を言っているものと察せられる。

これは真理探究者がうっかりはまる落とし穴で、表面上の意識、つまり頭の中で考えていることの奥に、自分にも気がつかない、自己中心的な思惑が潜んでいることがある。“汝自らを知る”ということは実に難しいことである。



5章 自己保存の法則

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〈自己保存の本能〉


――自己保存の本能も自然法則の一つでしょうか。


「もちろんそうです。知的発達の水準に関係なく、全ての生き物に賦与されています。ある生物では純粋に機械的にすぎないものもありますが、理性と直結したものもあります」


――神が全ての生き物に自己保存の本能を授けた目的は何でしょうか。


「神の計画の成就にとって不可欠だからです。生きる意欲を与えているのもそのためです。その上、生きているということが進化にとっての不可欠の条件です。そのことを理解はしていなくても本能的に知っているということです」


――人間にも生きる意欲を授けている以上、神は生きるための手段も授けてくださっているのでしょうか。


「その通りです。その手段を人間が見出せないとすれば、それは周りに存在する始源の利用法を知らないからにすぎません。神が、生命への愛を植えつけておいて、その生命を維持する手段は与えないということは有り得ません。だからこそ生物の全てに生殖本能を授けて生命維持のための必要物が十分に得られるようにしてあるのです。ただし必要分だけです。有り余りすぎるものは益になりません」


――しかし、必ずしも人類の全てが必要物を十分に得ているとは言えません。なぜでしょうか。


「それは素晴らしい母なる大地を粗末にして感謝の念を忘れているからです。さらに、人間は自分の技術の未熟さや先見の明の無さを棚に上げて自然界の不毛のせいにしています。人間が“足れるを知る”生き方に徹すれば、生きるために必要なものは大地が必ず与えてくれます。必要なものが十分に手に入らないのは、必要の限度を超えたものを要求しているからです。

砂漠のアラブ人をご覧なさい。あの不毛の土地においてさえ生きるに必要なものはちゃんと手に入っています。余計な人工的文化生活を取り入れないからです。文明国の人間は他愛もない欲望を満たすために地球の産物の半分を無駄にしながら、少しの天候不順で欲しいものが手に入らなくなると困った困ったと不満をかこちます。なぜそういう時のために、節約して備えないのでしょうか。くり返します――自然が供給しないのではありません。人間がその恵みの使用を賢明に規制しないからです」


訳注――本書の原典の出版が一九世紀末であるという事実を思い合わせると、現代はこの通信霊が警告する人工的文化はとっくに限度を超えていると言えるであろう。


――この豊かな物質文明の中にありながら、生計を立てる手段が得られない人がいますが、どこに間違いがあるのでしょうか。


「利己主義がそういう結果を生んでいることがあります。が、最も多いのは、本人の意欲が不足している場合です。イエスは“求めよ、さらば見出さん”と言いましたが、これは地面に目を注いで欲しいものを探し歩きなさいと言っているのではありません。必要なものを真剣に、そして忍耐強く求め、障害に遭遇しても落胆しないことです。そうした障害は往々にして志操の堅固さ、忍耐力、そして決意のほどを試す手段として霊団側が用意することがあります」


――しかし、意志は強固でも、置かれた環境の中ではどうしても生計手段が得られない人もいるのではないでしょうか。


「そういうケースはあります。しかしそうした環境は再生に先立ってあらかじめ自分で選んで覚悟を決めていた試練です。いくら知恵をしぼっても苦境から脱し切れない時は、神の意思に全てをゆだねる覚悟にこそ、その人間の究極の偉さが生きてきます。このまま進むと死に至ると覚悟した時は、慌てず騒がず、いよいよ肉体の束縛から解放される時が来たことを喜び、自暴自棄に陥ることは折角の悟りを台なしにしてしまうことになることを知るべきです」


――極端な飢えの状態で生き残った者たちが仲間を食い合う話があります。これは罪でしょうか。仮に罪だとしても、自己保存の法則の極端な例として罪の重さが割り引かれるのではないでしょうか。


「人生の全ての試練に対しては勇気と克己心で対処すべきであると述べましたが、ご質問に対する答えもその中に含まれていると思います。今おっしゃった例には殺人の罪と自然に対する罪が含まれています。二重の罪には二重の罰が適用されます」


――人間の肉体よりも純度の高い身体で生活している天体上でも食糧は必要なのでしょうか。


「必要です。ですが、その身体の性質に応じたものです。その天体上の食物ではあなた方の身体は養えません。また、あなた方の食物は彼らの身体では消化できません」
〈大地の恵みの享受〉


――人間には大地の恵みを楽しむ権利があるのでしょうか。


「それは権利というよりも、生きる上での必要性が生み出す結果です。神は、義務を与えておいてその義務を果たす上で必要な手段は与えないというような理不尽なことはなさいません」


――その物的な恵みになぜ神は“魅力”を添えたのでしょうか。


「一つには、その義務の遂行に拍車がかかるように、もう一つは、その魅惑によって試すためです」


――何の目的で試すのでしょうか。


「度を超さないように自制する理性的判断力を発達させるためです」


――物的満足にも適度の限界というものが自然にそなわっているのでしょうか。


「必要性と幸せとが一致する限界が設けられています。その限界を超えると飽き飽きしてきます。その限界を超えた分だけ罰をこうむることになります」


――その限界はどのようにして知るのでしょうか。


「賢者は直観で知ります。体験で知る人もいます。つまり痛い目に遭って」
〈修行としての窮乏生活〉


――物的生活をエンジョイすることはいけないことでしょうか。


「物的な幸せを求めるのは人間として極めて自然なことです。神が禁じているのは過度の享楽です。自己保存の目的にとって有害だからです。楽しさを求めるのは、それが他人の犠牲を強いるものでなく、かつ又、当人の精神的ならびに身体的エネルギーを衰えさせるものでないかぎり、罪ではありません」


――自発的な罪障消滅を目的とした窮乏生活は神の目から見ていかがでしょうか。


「人のために役立つことをする――この心掛けでの平凡な日常生活の方が、自ら求めて窮乏生活をするよりも立派です」


――清貧の生活に甘んじること自体は良いことではないでしょうか。


「無用の贅を無くすることは良いことです。それだけ物質への執着を少なくし、魂の意識を高めます。節度を超えた贅への誘惑と無益な道楽を慎むということは立派なことです。自分の必要分を削って足らない人に分けてあげるということが基本的理念です。しかし、そうした修行の裏側に見栄が潜んでいたら、それは単なる心のオシャレであり偽善です」


――古来どの民族にも禁欲的修行者がいますが、どう見るべきでしょうか。


「そういう生活が誰にとって有益なのかを問うてみれば、自ずと答えが出るはずです。もしも自分にとっての修行であり人のために役立つ要素が無いとすれば、いかに弁明しようとそれは一種の利己主義です。本当の苦行とは人のために役立つことをするために自ら節約し克苦することです」


――動物性食品を摂取するのは自然法則に反しますか。


「地上の人間の体質からすれば、体力を維持するためには動物性食品は摂取する必要があります。それを欠くと体力が衰えます。自己保存の法則は健康と体力を維持する義務を要求します。そうしないと仕事の法則が成就できないからです。身体器官の必要性に応じた食品を摂取すべきです」


――人間は地上生活での苦難を通じて向上しているのであれば、自らに苦行を課することによって向上することも有り得るのではないでしょうか。


「人間の霊性を高める苦難は自然の成り行きで遭遇するものに限られます。神が用意したものだからです。人間が自らの考えで自らに課したものは、結果的に人のために役立つことに寄与しないかぎり無意味です。

考えてもご覧なさい。超人的な苦行をするヨガの行者やイスラム教の托鉢僧、ヒンズー教の苦行者、さらにはどこかの宗教の狂信者たちは、それによって一体どれだけ霊性が向上したというのでしょう? そんなことをしている暇があったら、なぜ地上の貧しい同胞のために慈悲を施さないのでしょうか。着るものにも事欠く人に衣類を与え、喪の悲しみの中にある人に慰めの言葉を与え、食べるものにも事欠く人のために自分のものを分けてあげ、そのために自分は断食もあえてする――そういう生活こそ有意義であり、神の意思に適っております。自分のためだけに修行をする者は一種の利己主義者です。他人のために自分が苦しんでこそ慈悲の法則を実践したことになります。それがイエスの教えです」