Wednesday, September 16, 2026

シルバーバーチの霊訓 古代霊は語る

世界最高峰の霊界通信 ”シルバーバーチの霊訓” より、
『古代霊は語る』この1冊で本質をつかめる入門編です。

近藤千雄訳編


第六章 動物の進化と死後の生命


 動物にも死後の生命があるのか、あの世で再び会うことが出来るのかという問題は、スピリチュアリズムに関心のある人にとって共通した関心事ですが、動物をいわゆるペットとして吾が子のように可愛がっている人々にとっても大きな関心事であろうかと思われます。

 心霊問題に熱心な方なら、動物の存続を証明する確証を何らかの形で得ておられることでしょう。心霊写真に動物が写っていることがよくありますし、霊界通信でもそれを証言する霊がいくらもいます。

 さて、ひと味違った霊界通信に、英国の女性心霊治療家オリーブ・バートンの 「子供のための心霊童話」 Spirit Stories for Children, retold by Olive Burton というのがあります。これはバートン女史のお嬢さんのエドウィーナちゃんの守護霊が語った一種の童話で、一つ一つの話に立派なカラーの挿画も付いていて、

日本も早くこうしたものが出せる世の中になってほしいと思わせる心霊書ですが、この童話の中ではペットだけでなく野獣も含めた動物のすべてが、人間(の霊)と完全に調和した生活を送っている様子が描かれており、それがそのまま霊界での真実であると述べています。

 それより先の一九四〇年に、バーバネル氏の奥さんであるシルビア・バーバネル女史が When Your Animal Dies というのを出しています。

文字どおり動物の死後を扱ったもので、出版と同時に大変な反響を呼び、幾度か版を重ねております。この本を読んでスピリチュアリズムを信じるようになったという人が少なくありません。

私はこれもいずれは日本でも出さねばならない心霊書の一つだと考えておりますが、その第十八章に動物に関するシルバー・バーチの霊言が特集してあります。

 もちろん一九四〇年までの十年余りの間の霊言が引用されているわけで、その後もシルバー・バーチは折にふれて動物愛護を説き、娯楽のための狩猟、食用のための屠殺、科学に名を借りた動物実験の罪悪性を戒めておりますが、

その十八章にはシルバー・バーチシリーズ(全十一冊)に編集されていないものが相当あり(注)、しかも内容的に見てもそれで全てをつくしているようですので、ここではその十八章をそのまま引用することにしました。

 単に動物の死後の問題にとどまらず、生命の進化、自我の発生など、心霊学徒にとって興味深い問題が次々と出て来ます。章の始めは当然のことながらシルバー・バーチという霊の紹介に費やされておりますが、われわれにとっては不要ですので、早速本題に入ります。

(注──このシリーズは各編者が半世紀に亘るシルバー・バーチの霊言の中から自分の主観によって編集したもので、従って全十一冊が霊言のすべてではないわけです。何冊かに重複して編集されている部分もあれば、どの霊言集にも載せられていない部分もあるわけで、その一例がこれから紹介する部分です)


問「動物は死後もずっと飼主といっしょに暮らすのでしょうか。それとも、いずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」

シルバー・バーチ「どちらとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛がかかわっているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かは、その動物に対する飼主の愛一つにかかっているのです。

もしも動物とその飼主──この飼主 (owner) という言葉は好きではありません。他の生命をわがものとして所有する(own)などということは許されないのですから──その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼主のところで暮らします。

愛のある場所が住処となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は動物界へ行く必要はありません。しかし、もしも飼主より先に他界した場合は、動物界へ行ってそこで面倒をみて貰わなくてはなりません。

飼主との愛が突如として切れたのですから、単独で放っておかれると動物も迷います。地上では人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けたのですから、その主人が来るまで、ちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家にあずけるように、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」


問「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

シルバー・バーチ「長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは法則の働きによって、動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身につけたわけです。

すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが神の息吹きで目を醒ましたわけです。

さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込むことが出来るはずです。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。

動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。

また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同士でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。愛があればこそ生命は進化するのです」


問「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」

シルバー・バーチ「いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても分かれなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違うために、どうしても人間について行けなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、向上進化を求める霊性が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力が他の生命の進化を援助する方向へと発揮されていきます。

そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はいかに愛によって結ばれているとは言えそのスピードについて行けなくなり、やがてこの愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます」


問「すると動物の場合は個性を失ってしまうということですか」

シルバー・バーチ「その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体として未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間となります。

ペットとして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び越えて人間と一緒に暮らすわけで、人間の進化についていけなくなって愛の糸が切れてしまえば、もとの類魂の中に戻るほかはありません」


問「せっかく人間との接触で得たものが消えてしまうのでは愛がムダに終ったことになりませんか」

シルバー・バーチ「そんなことはありません。類魂全体に対して貢献をしたことになります。類魂全体としてその分だけ進化が促進されたことになるのです。全体に対する貢献です。

今までその類魂に無かったものが加えられたわけです。全体のために個が犠牲になったということです。そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて人間へと進化していきます」


問「その時点で人間界へと誕生するわけですか」
シルバー・バーチ「そうです。人間界への誕生には二種類あります。古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と、そうやって動物界から始めて人間界へ誕生してくる場合です」


問「一人の人間としてですか」
シルバー・バーチ「そうです。双方とも霊魂です。双方とも自我意識をもった霊であり個性を有しております。ただ、一方がベテラン霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上へやってくるのに対し、他方は、やっと人間の段階にまで達した新入生です。

直前まで動物だったのが人間へとジャンプしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階を辿って、今ようやく人間へと達したのです」


問「セオソフィー(神智学)の教えと同じですね」

シルバー・バーチ「何の教えでもよろしい。私に対して、学派だの宗派だのを口にするのはやめて下さい。世の評論家というのはアレコレとよく知っていることをひけらかすだけで、その実、素朴な真理を何一つご存知ない。

困ったことです。それは措いて、あなたはまさか蜘蛛を家の中に持ち込んでペットとして飼ったりはしないでしょう。

カブト虫に温い人間愛を捧げるようなことはしないでしょう。それはあなたと、そういう昆虫との間の隔たりを意識するからです。進化の道程においてはるかに遅れていることを本能的に直感するからです。

一方、犬とか猫、時に猿などをペットとして可愛がるのは、一種の近親感を意識するからです。もうすぐ人間として生まれ代わってくる段階まで近づいて来ているために、動物の方でも人間の愛を受け入れようとするのです」


問「では下等動物が人間に飼われるということは、その動物はもうすぐ人間に生まれ代わるということを意味するのでしょうか」

シルバー・バーチ「進化にも、突然変異的な枝分かれ、いわゆる前衛と、後戻りする後衛とがあります。つまり前に行ったり後に下がったりしながら全体として進化していきます。中には例外的なものも生じます。

動物で知的な面でずいぶん遅れているものもいれば、小鳥でも犬より知的に進化しているものがいたりします。しかしそうした例外と、全体の原理とを混同してはいけません」


問「動物の類魂は同じ種類の動物に何回も生まれ代わるのですか、それとも一回きりですか」
シルバー・バーチ「一回きりです。無数の類魂が次々と生まれ代わっては類魂全体のために体験を持ち帰ります。動物の場合はそれぞれ一度ずつです。そうしないと進化になりません」


問「われわれ人間としては、犬や猫などのペットと同じように、生物のすべてに対して愛情を向けることが望ましいのでしょうか」

シルバー・バーチ「それはそうです。しかし同じ反応を期待してはいけません。愛情は愛情を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶというのが原則ですが、進化の程度が低いほど反応も少なくなります。

あなたの心に怒りの念があるということは、それはあなたの人間的程度の一つの指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。

あなたの心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります」


問「動物がようやく人間として誕生しても、その人生がみじめな失敗に終った場合は、再び動物界へ戻るのでしょうか」

シルバー・バーチ「そういうことはありません。一たん人間として自我意識を具えたら、二度と消えることはありません。それが絶対に切れることのない神との絆なのですから・・・・・・」


問「屠殺とか動物実験等の犠牲になった場合の代償──いわゆる埋め合わせの法則はどうなっていますか」

シルバー・バーチ「もちろんそれにもそれなりの埋め合わせがありますが、一匹とか一頭とかについてではなく、その動物の属する類魂を単位として法則が働きます。進化の程度が異る動物と人間とでは因果律の働き方が違うのです。

特に動物の場合は原則として死後は類魂の中に個性を埋没してしまうので、個的存在とは条件が異ります。類魂全体としての因果律があるのですが、残念ながら人間の言語では説明のしようがありません。譬えるものが見当たりません」


問「シラミとかダニなどの寄生虫は人間の邪心の産物だという人がいますが、本当でしょうか。あれはホコリとか病気などの自然の産物ではないかと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「仮りにホコリや病気のせいだとした場合、そのホコリや病気は一体だれがこしらえたのですか。原因を辿れば人間の利己心に行きつくのではありませんか。その利己心はすなわち邪心と言えます。

たしかに直接の原因は衛生の悪さ、不潔な育児環境、ホコリとか病気、直射日光や新鮮な空気の不足とかにありますが、さらにその原因を辿れば、そういう環境を改めようとしない、恵まれた環境にある人たちの利己心、非人間性に行きつきます。

これは一種の邪心であり、私に言わせれば人間の未熟性を示しています。そういう利己心を棄て、弱者を食いものにするようなマネをやめ、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります」


問「それは、たとえばハエのようなものには当てはまらないでしょう」

シルバー・バーチ「いいですか。大自然全体は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何によって左右されており、人類が進化すればするほど、地上の暗黒地帯が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。

人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。双方の進化は大体において平行線を辿っています。

人間は神によって創造されたものでありながら、同時に又、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家をも司配する自然法則に影響を及ぼします。

 私は今、人間と自然界の進化は大体において平行線を辿ると言いました。両者にはどうしても少しずつズレが出てくるのです。なぜなら、過去の世代が残した業はかならず処理していかねばならないからです。」


問「今おっしゃったことは恐ろしい野獣についても当てはまるのでしょうか」

シルバー・バーチ「全面的ではありませんが一応当てはまります。ただ忘れないでいただきたいのは、進化というのは一定の型にはまったものではないのです。いろいろと変化をしながら永遠に続くのです。

原始的なものからスタートして低い段階から高い階段へと進むのですが、かつては低いところにいたものが次第に追い抜いて今では高い所にいたり、今高いところに位置しているものが、将来は低い方になることもあります」


問「では進化にも後戻りということがあるわけですか」

シルバー・バーチ「それを後戻りと呼ぶのであればイエスという答えになりましょう。というのは、進化というのは一種のサイクル、現代の思想家の言葉を借りればスパイラル(らせん状)を画きながら進むものだからです。どちらの言い方でもかまいません。

要は進化というものが常に一直線に進むものでないことを理解していただければよろしい。一歩進んでは後退し、二歩進んでは後退し、ということを繰り返しながら延々と続くのです」

問「動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は動物実験をやってはいけないのでしょう」

シルバー・バーチ「それが人間の進化の指標だからです。人間が進化すればするほど地上から残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎった時、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと羊が仲良く寄りそうようになります」


問「しかし動物の残忍性も動物としての発達の表われではないでしょうか」

シルバー・バーチ「あなたもかつては動物だったのですよ。それがここまで進化してきた。だからこそ太古に比べれば動物界でもずいぶん残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したのもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです」


問「おとなしい動物の中にも絶滅したものがいますが・・・・・・」

シルバー・バーチ「進化の一ばんの指標が残忍性に出るといっているのです。太古でも進化上の枝分かれがいくつもありました。それらは進化の先進者とでも言うべきものです。

進化というのはどの段階においても一定の型にはまったものではありません。優等生もおれば劣等生もおり、模範生もおれば反逆児もおります。おとなしい動物はさしずめ優等生だったわけです」


問「寄生虫の類も動物と同じ類魂の中に入っていくのですか」

シルバー・バーチ「違います」


問「動物の類魂は一つだけではないということですか」

シルバー・バーチ「各種属にそれぞれの類魂がいます」


問「それが更に細分化しているわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。細分化したものにもそれぞれの類魂がおります。新らしい霊───はじめて人間の身体に宿る霊は、動物の類魂の中の最も進化した類魂です」


問「動物で一ばん進化しているのは何ですか」

シルバー・バーチ「犬です」


問「寄生虫の類魂の存在は害を及ぼしますか」

シルバー・バーチ 「別に害はありません。全体のバランスから見て、ほとんど取るに足らぬ勢力ですから。でもこれはずいぶん深入りした質問ですね」


問「動物の類魂の住処はやはり動物界にあるのですか」

シルバー・バーチ「私にはあなたより有利な点が一つあります。それは地理を学ばなくてもいいということです。場所とか位置がいらないのです。霊的なものは空間を占領しないのです。地上的な位置の感覚で考えるからそういう質問が出てくるのです。

魂には居住地はいりません。もっとも、形体の中に宿れば別です。類魂そのものには形体はありませんが、もしも形体をもつとなれば、何らかの表現形態に宿り、その形態で自己表現できる場が必要になります」


問「動物の類魂は地球上に対して何か物質的なエネルギーを供給しているのでしょうか。地球にとってそれなりの存在価値があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「進化の過程においての存在価値はあります。ただ気をつけていただきたいのは、どうもあなた方は物的なものと霊的なものとをあまりに区別しすぎるきらいがあります。

地上に存在していても立派に類魂の一部でありうるわけで、死ななければ類魂の仲間入りが出来ないと錯覚してはいけません」


問「ペットも睡眠中に霊界を訪れますか」

シルバー・バーチ「訪れません」


問「では死んでから行く世界にまるで馴染みがないわけですか」

シルバー・バーチ「ありません。人間の場合は指導霊が手を引いて案内してくれますが、動物の場合はそれが出来るのは飼主だけですから、飼主が地上にいれば案内できない理屈になります」


問「飼主が先に死んだ場合はどうなりますか」

シルバー・バーチ「その場合は事情が違ってきます。いま述べたのは一般的な話です」


問「人間より動物の方が心霊能力がすぐれている場合があるのはどうしてですか」

シルバー・バーチ「人間がいま送っているような〝文化生活〟を体験していないからです。人間がもしも文化生活の〝恩恵〟に浴さなかったら、心霊能力が普段の生活の一部となっていたはずです。つまり人間は文明と引き替えに心霊能力を犠牲にしたわけです。

動物には人間のような金銭問題もなく、社会問題もないので、本来なら人間が到達すべきであった段階へ人間より先に到達したのです。

人間の場合は物質文明が心霊能力を押さえ込んでしまったわけです。いわゆる霊能者というのは進化のコースの先駆者です。いずれは人間の総てが発揮するはずの能力をいま発揮しているわけです」


問「動物にはいわゆる第六感というのがあって災害を予知したり、知らないところからでもちゃんと帰って来たりしますが、これも心霊能力ですか」

シルバー・バーチ「そうです。霊能者にも同じことが出来ます。ただ動物の場合はその種属特有の先天的能力である場合があります。いわゆる本能といわれているもので、ハトがどんな遠くからでも帰ってくるのもそれです。これも一種の進化の先がけで、その能力だけがとくに発達したわけです」


問「死んだばかりの犬が別の犬と連れだって出て来ている様子を霊能者が告げてくることがありますが、犬同士でも助け合うことがあるのですか」

シルバー・バーチ「ありません。ただし地上でその二匹が一緒に暮らした経験があれば連れだって出ることはあります」

問「動物界にはどんな種類の動物がいるのでしょうか」

p196    
シルバー・バーチ「地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間とほとんど同等に扱われて知性や思考力を刺戟された動物のすべてがおります。

そうした動物は飼主の手から離れたことでさみしがったり迷ったりするといけないので、動物界に連れてこられて、他の動物といっしょに暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。

そこには動物をよろこばせるものが何でも揃っており、やりたいことが何でも出来るので、イライラすることがありません。そして時には地上にいる飼主の家の雰囲気内まで連れてこられ、しばしその懐しい雰囲気を味わいます。

心霊知識のない人が自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言ってさわぐのはそんな時のことです。何となくあの辺にいたような気がするといった程度にすぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達していますから・・・・・」


問「動物界で世話をしている人間が連れてくるわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。それ以外の人について戻ってくることはありません。ところで、その世話をしている人はどんな人たちだと思いますか。動物が大好きなのに飼うチャンスがなかった人たちです。

それはちょうど子供が出来なくて母性本能が満たされなかった女性が、両親に先立って霊界へ来た子供の世話をするのと一緒です。

犬とか猫、その他、人間が可愛がっている動物が飼主に先立ってこちらへ来ると、動物が大好きでありながら存分に動物との触れ合いがもてなかった人間によって世話をされるのです。

もちろん獣医のような動物の専門家がちゃんと控えております。それもやはり地上で勉強したことがそのまま霊界で役に立っているわけです。知識は何一つ無駄なものはありません」


問「病気で死亡した動物の場合も人間と同じように看護されるのですか」
シルバー・バーチ「そうです。そうしたチャンスをよろこんで引き受けてくれる人が大勢います」


問「動物界は種類別に分けられているのですか、それとも全部が混り合っているのですか」
シルバー・バーチ「種族の別ははっきりしています」


問「動物界は一つでも、それぞれの境界があるということですか」
シルバー・バーチ「そうです。とにかく自然に出来あがっております。一つの大きなオリの中に飼われているのではありません」


問「猫は猫、犬は犬に分けられているわけですか」
シルバー・バーチ「その通りです」


問「特に仲の良かったもの同士は別でしょう。その場合は互いに境界の近くに来るわけですか」
シルバー・バーチ「そういうことです。すべてが至って自然に出来あがっていると考えて下さい」


問「犬の次に進化している動物は何ですか。猫ですか猿ですか」
シルバー・バーチ「猫です」

問「なぜ猿ではないのでしょう。人間と非常によく似ていると思うのですが」
シルバー・バーチ「前にも述べましたが、進化というのは一本道ではありません。必ず優等生と劣等生とがいます。人間はたしかに猿から進化しましたが、その猿を犬が抜き去ったのです。その大きな理由は人間が犬を可愛がったからです」


問「犬が人間の次に進化しているから可愛がるのだと思っていましたが・・・・・・」

シルバー・バーチ「それもそうですが、同時に人間の側の好き嫌いもあります。それからこの問題にはもう一つの側面があるのですが、ちょっと説明できません。

長い長い進化の道程において、猿はいわば足を滑らせて後退し、残忍にはならなかったのですが、ケンカっぽく、そして怠けっぽくなって歩みを止めてしまい、結局類魂全体の進化が遅れたのです。

それと同時に、というより、ほぼその時期に相前後して、犬の種族が進化してきました。猿よりも類魂全体の団結心が強く、無欲性に富んでいたからです。しかしどうも説明が困難です。もっともっと複雑なのです」


問「猿の種族が法則を犯したのでしょうか」
シルバー・バーチ「法則を犯したというのではなく、当然しなければならないことをしなかったということです」


問「では猿と同じように、将来、犬が進化の階段をすべり落ちるということもあり得るのでしょうか」

シルバー・バーチ「それはもう有り得ないでしょう。というのは、すでに何百万年もの進化の過程を辿って来て、地上の種がすっかり固定してしまったからです。

種の型がほとんど定型化して、これ以上の変化の生じる可能性はなくなりつつあります。物質的進化には限度があります。形体上の細かい変化はあるかも知れませんが、本質的な機能上の変化は考えられません。

 人間の場合を考えてごらんなさい。現在の型、すなわち二本の腕と脚、二つの目と一つの鼻が大きく変化することは考えられないでしょう。これが人間の定型となったわけです。もちろん民族により地方によって鼻とか目の形が少しずつ違いますが、全体の型は同じです。

動物の場合はこの傾向がもっと強くて、霊界の類魂に突然変異が発生することはあっても、それが地上の動物の型を大きく変化させることはまずないでしょう」


問「猿の転落もやはり自由意志に関係した問題ですか」
シルバー・バーチ「それは違います。自由意志は個的存在の問題ですが、動物の場合は類魂全体としての問題だからです」


問「動物に個体としての意識がないのに、なぜ類魂全体としての判断が出来るのですか」

シルバー・バーチ「個々には理性的判断はなくても、働くか怠けるかを選ぶ力はあります。必要性に対して然るべく対処するかしないかの選択です。そこで種としての本能が伸びたり衰えたりします。

個々には判断力はなくても、長い進化の過程において、種全体として然るべき対処を怠るという時期があるわけです」


問「それは植物の場合にも言えるわけですか」
シルバー・バーチ「そうです」

問「それは外的要因によっても生じるのではないですか」
シルバー・バーチ「それはそうですが、あなたのおっしゃる外的というのは実は内的でもあるのです。それに加えて更に、霊界からコントロールする霊団の存在も考慮しなくてはいけません」


問「例えば猿の好物であるナッツが類が豊富にあれば、それが猿を怠惰にさせるということが考えられませんか」

シルバー・バーチ「結果論からすればそうかも知れませんが、ではナッツがなぜ豊富にあったかという点を考えると、そこには宇宙の法則の働きを考慮しなくてはいけません。

つまり人間の目には外的な要因のように見えても、霊界から見れば内的な要因が働いているのです。私の言わんとしているのはその点なのです。

人間はとかく宇宙の法則を何か生命のない機械的な、融通性のないもののように想像しがちですが、実際は法則と法則との絡まり合いがあり、ある次元の法則が別の次元の法則の支配を受けることもありますし、その根源において完全にして無限なる叡知によって支配監督されているのです。

法則にもまず基本の型というものがあって、それにいろいろとバリエーション(変化)が加えられています。といっても、その基本の型の外に出ることは絶対に出来ません。どんなに反抗してみたところで、その法のワクはどうしようもなく、結局は順応していくほかはありません。

しかし同じ型にはまっていても、努力次第でそれを豊かで意義あるものにしていくことも出来るし、窮屈で味気ないものにしてしまうことも出来ます。

別の言い方をすれば、その法則に調和した色彩を施すのも、あるいはみっともない色彩を塗りつけてしまうのもあなた次第ということです。いずれにせよ、型は型です」


問「動物実験がますます増えておりますが、どう思われますか。これを中止させようと運動している団体もありますが、霊界からの援助もあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「ためになる仕事をしようと努力している人は必ず霊界の援助を受けます。神の創造物に対して苦痛を与えることは、いかなる動機からにせよ許されません。

ただ、動物実験をしている人の中には、人類のためという一途な気持でいっしょうけんめいなあまり、それが動物に苦痛を与えていることに全く無神経な人がいることも忘れてはなりません。しかし罪は罪です」



問「でもあなたは動機が一ばん大切であると何度もおっしゃっています。人類のためと思ってやっても罰を受けるのでしょうか」

シルバー・バーチ「動機はなるほど結構なことかも知れませんが、法の原理を曲げるわけにはいきません。実験で動物が何らかの苦痛を受けていることがわからないはずはありません。それでもなお実験を強行するということは、それなりの責務を自覚しているものと看做されます。

動機は人のためということで結構ですが、しかしそれが動物に苦痛を与えているわけです。そうした点を総合的に考慮した上で判断が下されます。いずれにせよ私としては苦痛を与えるということは賛成できません」


問「動物は人類のために地上に送られてきているのでしょうか」

シルバー・バーチ「そうです。同時に人類も動物を助けるために来ているのです」


問「動物創造の唯一の目的が人類のためということではないと思いますが」

シルバー・バーチ「それはそうです。人類のためということも含まれているということです」


問「動物の生体解剖は動機が正しければ許されますか」

シルバー・バーチ「許されません。残酷な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませて、何が正義ですか。それは私どもの教えと全く相容れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです」



問「動物を実験材料とした研究からは、たとえばガンの治療法は発見できないという考えには賛成ですか」

シルバー・バーチ「神の摂理に反した方法で手に入れた治療法では病気は治せません。人間の病気にはそれぞれにちゃんとした治療法が用意されています。しかしそれは動物実験からは発見できません」


問「そうしたむごい実験を見ていながら、なぜ霊界から阻止していただけないのでしょうか」

シルバー・バーチ「宇宙が自然法則によって支配されているからです」


問「私はキツネ狩りをしたことがありますが、間違ったことをしたことになりますか」

シルバー・バーチ「すべて生命のあるものは神のものです。いかなる形にせよ、生命を奪うことは許されません」


問「でも、ウチのにわとりを二十羽も食い殺したんですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「では、かりに私がそのキツネに銃を与えて、二十羽もにわとりを食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなります。すべての地上の生命は神の前には平等なのです。人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなく、人間自身が勝手な考えをもつからです。

キツネやにわとりをあなたがこしらえたのなら、これをあなたが食べても誰れも文句は言いません。人間がにわとりやキツネを殺してもいいというのが道理であるとしたら、あなたの兄弟姉妹を殺してもいいという理屈になります。生命は人間のものではありません。神のものです。生命を奪う者はいつかはその責任を取らなくていけません」


問「オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっておりますが、これについてはどうでしょうか」

シルバー・バーチ「人間は本来そこにあるべきでないところに勝手に持ってきて、それがもたらす不都合についてブツブツ文句を言います。私の地上のふるさとである北米インデアンについても同じです。

インデアンはもともと戦争とか、俗に言う火酒(ウイスキー、ジン等の強い酒)、そのほか不幸をもたらすようなものは知らなかったのです。

白人が教えてくれるまでは人を殺すための兵器は何も知らなかったのです。そのうち人間も宇宙のあらゆる生命───動物も小鳥も魚も花も、その一つ一つが神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを知るようになるでしょう」


問「イエスの教えの中には動物に関するものが非常に少ないようですが何故でしょうか」

シルバー・バーチ 「その当時はまだ動物の幸不幸を考えるほど人類が進化していなかったからです」


問「ほかの国の霊覚者の訓えにはよく説かれているようですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「それは、全部とは言いませんが大部分はイエスよりずっと後の時代のことです。それはともかくとして、あなた方はイエスを人類全体の模範のように考えたがりますが、それは間違いです。

イエスはあくまで西欧世界のための使命を担って地上へ降りてきたのであって、人類全体のためではありません。イエスにはイエスの限られた使命があり、イエス個人としては動物を始めとする全ての生命に愛情をもっていても、使命達成の為に、その教えをできるだけ制限したのです。

その使命というのは、当時の西欧世界を蝕んでいた時代おくれの腐敗した宗教界にくさびを打ち込んで、難解なドグマに代る単純明快な人の道を説くことでした」


問「下等動物への愛を説かない教えは完全とは言えないのではないでしょうか」

シルバー・バーチ 「もちろんそうです。ただイエスの場合はその教えをよく読めば動物への愛も含まれています。イエスは例の黄金律を説きました。すなわち〝汝の欲するところを人に施せ〟ということですが、この真意を理解した人なら、他のいかなる生命にもむごい仕打ちは出来ないはずです」


 以上がシルビア・バーバネル著『動物の死後』に収録されているシルバー・バーチの霊言です。霊言集にも動物に言及したものは無いことはないのですが、右に紹介したものが一ばんまとまっているようです。

 では最後に、英国のテレビ番組 「サファリ」 を製作したデニス夫妻 Michael & Armand Denis を招待してシルバー・バーチが讃辞を述べた時の様子が霊言集に見えますので、これを紹介したいと思います。夫妻は熱心なスピリチュアリストとして有名です。

『あなた方(デニス夫妻)は、肉体に閉じ込められて霊覚が邪魔されているので、ご自分がどれほど立派な仕事をされたかご存知ないでしょう。

お二人は骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物との間に同類性があり従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。

大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり片輪にしたりするのは、人間のすべきことではありません。

強き者が弱き者を助け、知識あるものが無知なるものを救い、陽の当たる場所にいる者が地上の片隅の暗闇を少しでも少なくするために努力することによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。

その点あなた方は大自然の大機構の中での動物の存在意義を根気よく紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人間の大切な役割の一つなのです。

地上の難題や不幸や悲劇の多くが、人間の愚かさや欺瞞によって惹き起こされていることは、残念ながら真実なのです。

 慈しみの心が大切です。寛容の心を持たなくてはいけません。自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こすとき、その相手が人間同士であっても動物であっても、結局は人間自身の進化を遅らせることになるのです。人間が争いを起こしているようでは自然界に平和は訪れません。

 平和は友好と一致と協調の中にこそ生まれます。それなしでは地上は苦痛の癒える時がなく、人間が無用の干渉を続けるかぎり、災害はなくなりません。

人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営む時、地上に平和が訪れ、神の国が実現するのです。

 残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が愛は愛を生み、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間みずからが破滅の道を辿ることになります。諺にも 「風を播いてつむじ風を刈る」 と言います。悪いことをすればその何倍もの罰をこうむることになります。

 何ものに対しても憎しみを抱かず、すべてに、地上のすべての生命あるものに愛の心で接することです。それが地上の限りない創造進化を促進するゆえんとなります。くじけてはなりません。

あなた方の仕事に対して人はいろいろと言うでしょう。無理解、無知、他愛ない愚かさ、間抜けな愚かさ、心ない誹謗等々。

これには悪意から出るものもありましょうし、何も知らずに、ただ出まかせに言う場合もあるでしょう。それに対するあなた方の武器は、他ならぬ心霊知識であらねばなりません。

所詮はそれが全ての人間の生きる目的なのです。心霊知識を理解すれば、あとは欲の皮さえ突っ張らなければ、神の恩恵に浴することが出来るのです。

 お二人は多くの才能をお持ちです。まだまだ動物のために為すべき仕事が山ほど残っております。地上の生命は全体として一つのまとまった生命体系を維持しているのであり、そのうちのどれ一つを欠いてもいけません。

お二人が生涯を傾けている動物は、究極的には人間が責任を負うべき存在です。なぜなら人間は動物と共に進化の道を歩むべき宿命にあるからです。共に手を取り合って歩かねばならないのです。動物は人間の食欲や道楽の対象ではないのです。動物も進化しているのです。

 自然界の生命は全てが複雑にからみ合っており、人間の責任は、人間同士を越えて、草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは是非とも阻止しなくてはいけません。

装飾品にするために動物を殺すことは神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺生は絶対にやめなければなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事に携わる者は、常にそうした人間としての道徳的原理にうったえながら戦わなくてはいけません。

小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。

 動物への残忍な行為を見て心を痛め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだという信念のもとに、勇気をもって動物愛護のための仕事を続けて下さい。多くの残酷な行為が無知なるが故に横行しています。

そうした行為は霊的知識を知って目が覚めれば、たちどころに消えてしまうのです。さらに、一つの霊的知識に目覚めると、その知識の別の意味にも目覚めてくるものです。そうやって心が目を覚ました時こそ、魂が真の自由への道を歩み始めた時でもあるのです。』

シルバーバーチの霊訓 古代霊は語る

世界最高峰の霊界通信 ”シルバーバーチの霊訓” より、
『古代霊は語る』この1冊で本質をつかめる入門編です。

近藤千雄訳編




第五章 死後の世界     


一八四八年のフォックス家における心霊現象が近代スピリチュアリズムのキッカケとなったことはすでに常識となっておりますが、物事の受け取り方や解釈の仕方は人によって異るもので、心霊現象をどう解釈するかという点に関しても、大きく分けて二つ、細かく分けると三つの観方があるようです。
 二つの分け方は言うまでもなく肯定する者と否定する者の二者で、肯定する側はもちろんスピリチュアリズム、否定する側──少なくとも肯定することを躊躇している側の代表がSPR (Society for Psychical Research )という純粋の学術機関で、英米をはじめ多くの国にあります。

 SPRの基本的態度は心霊現象を科学的に検討するということに尽きるわけですが、科学的というのはあくまでもこれまで物質科学について行われてきた科学的方法という意味であって、それを超物質の分野である心霊問題にそのまま適用しようとするところに無理があるようです。


  これまで度々紹介しているマイヤースなども心霊研究に興味をもち始めた初期のころは英国SPRの会長までしたことがありますが、こんなやり方ではいつまでたってもラチが明かないと考えて、いち早く辞めております。

名探偵シャーロック・ホームズの活躍する探偵小説で有名なコナン・ドイル卿 A. Conan Doyle(本職は医師)や、ケーティ・キングと名告る美人物質化霊の出現した心霊現象の研究で有名なウィリアム・クルックス卿、あるいは英国を代表する世界的物理学者だったオリバー・ロッジ卿 Sir Oliver Lodge なども、それぞれにSPRの会長を務めておりますが、いち早く霊魂の存在を信じてSPRから離れていきました。

 英国で Sir (卿)の称号がつくということは大変なことで、そうした名誉ある地位の人が、予期される非難をものともせずに霊魂説を認めたことは注目に値します。

ついでに言えば、私の師である間部氏はもともと子爵の家柄ですが、戦前、官憲から心霊と爵位のどっちを取るかと迫られて、あっさり爵位を棄てたという話を聞かされました。なぜか地上というところは昔から、あまりあからさまに真理を述べると迫害を受けるところのようです。

 そもそもSPRが霊魂説に踏み切れないのは、従来の科学的方法で検討するかぎりでは証拠不十分ということに理由があるのであって、頭から霊魂説を否定しているわけではありません。

それはちょうど刑事事件で証拠不十分の故に〝疑わしきは罰せず〟で無罪、というのと同じようなものですが、無罪になったからといって犯人がいなかったということにはならないように、物質科学的証明が出来ないからといって霊魂の存在を否定するのは余りに短絡的です。


 心霊実験を見ても、心霊体験を聞いても、霊魂の存在は火を見るより明らかなのに、いかんせん物的証拠、それも従来の科学的方法で立証できるような証拠がないという理由で、SPRは今なお霊魂説に踏み切れずに、単なる資料集めとその分類に時を費しておりますが、この調子ではまず永遠に結論の出る日は来ないでしょう。

コナン・ドイルも 「新らしい啓示」 The New Revelation の中で 「これだけのものを見せつけられて尚かつ信じようとしないようでは、その人間の頭の方がどうかしている」 と語気強く述べております。


 さて、細かく分けると三つになると言ったのは、霊魂説を認める人にも大きく分けて二種類あると考えられるからです。その一つは心霊現象や霊能をただ興味本位に取りあげ、見た目に映る異常さ、意外さ、面白さを目玉にしてこれを一つの商売にしている人たちです。

 心霊現象はたしかに魅力があります。霊魂の存在を信じるには物理実験を見るにかぎります。私自身もたった一度の実験会ですっかり霊魂の存在を信じるようになったのですが、問題はそのあとです。

 死んでもなお生き続けているとなると、その世界はどんなところなのか、その世界とこの世はどうつながっているのか、神は存在するのか等々、興味と疑問はつきることを知りません。

それを追求していくのがスピリチュアリズムであり、心霊実験もその案内役としてはじめて正当な意義を発揮するのです。その点を理解せず、いつまでも現象ばかりをいじくりまわしている人がどんなに多いことでしょう。

 こうした傾向は世界的に言えることのようです。拙訳『スピリチュアリズムの真髄』 の原著者レナードもその点を遺憾に思い、一種の警告を込めて The Higher Spiritualism 直訳すれば「より高度なスピリチュアリズム」と題したわけです。

私は、これは日本人にとってもいい警告になると信じて訳しましたが、これを更に一歩も二歩も先に進めたのが他ならぬシルバー・バーチです。

 シルバー・バーチは徹底して話題の中心を道徳、倫理、哲学に置き、心霊現象に関してはホンのちょっぴりしか述べていません。

 私の編纂もその影響を受けて、これまでご覧いただいたように、最初から非常に固い内容のものばかりになっておりますが、シルバー・バーチ霊言集全十一冊の内容は二、三、四章の表題の順に比重が置かれていると考えていただけばいいわけです。


 さて本章では少し趣きを変えて、霊界とはどんなところなのか、死んだらどんなところへ連れて行かれるのか、といったことについてシルバー・バーチに聞いてみることにしましょう。

 この問題つまり生命の死後存続の問題を扱うに当って人間が一ばん心しなければならないことは、現実の地上生活の常識を一たん棄て去ることです。全てを白紙の態度で素直に受けとめることです。

 成人した人間はこの物的地上生活に慣れ親しんでいるために、こうした生活を当り前と思い、さらには、こうした常識に合わないものは変だと思い、異常だときめつけます。

 しかしよく考えてみますと、われわれとてもこの世に誕生した時は、ほとんど無に等しい状態だったのです。乳房を吸うという本能以外は何の能力もない状態だったのです。

それがやがて目が見えるようになり、寝返りをうつようになり、ハイハイをするようになりながら言語能力や立体感覚を発達させてきたのです。

 その道の専門書によりますと、ハイハイの仕方と脳の発育との間に密接かつ重要な関係があるとのことです。さらに発達して歩いたり走ったり、ころんだり泣いたり、ケンカしたりいじわるしたりされたりすることにも、それなりの意味があるらしいのです。

 たとえば漢字を理解する能力──ただ単に暗記する能力とは別の、いわゆる語感──は、幼児期にころんだり、でんぐり返しをしたり、鉄棒にぶらさがったり、水に頭から飛び込んだりする運動の中で発育しているらしいのです。

私自身の教育体験からもそれを実感することがありますが、最近の教育がそうしたことには無とん着に、実生活からかけ離れた詰め込み教育に終始していることは問題です。

 つい話がそれてしまいました。人間生活が三次元の世界の環境で作り上げられていることを述べようとして脱線してしまいましたが、しかし、われわれ成人はそういう過程を無意識のうちに体験し、すっかり地上生活に慣れ切っているわけで、こうみてきますと、

地上生活というのは実に特殊な環境と条件の中での生活であり、これをもって常識と考えたり、当り前と思ったりすることは極めて危険なことだとも言えるわけです。

 ここで私が思い出すのは例のオリバー・ロッジの『幻の壁』です。すでに第三章で紹介しましたが、私は煩をいとわず、ここでもう一度引用しますので、ロッジの言わんとするところをよく理解していただきたいと思います。

私に言わせればロッジの考えはいわば〝死後の問題のコペルニクス的転回〟であり、こうした転回が出来ないと、レナードの言う Higher Spiritualism は理解できないと思うのです。


 『われわれはよく〝肉体の死後も生き続けるのだろうか〟という疑問を抱く。が一体死後というのはどういう意味であろうか。

もちろん肉体と結合している五、七十年の人生の終ったあとのことに違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問にすぎない。というのは、こうして物質をまとってこの世にいること自体が驚異なのである。

これは実に特殊な現象というべきである。私はよく〝死は冒険であるが、楽しく待ち望むべき冒険である〟と言ってきた。確かにそうに違いないのであるが、実は真に冒険というべきはこの地上生活の方なのである。地上生活というのは実に奇妙で珍らしい現象である。

こうして肉体をまとって地上に出て来たこと自体が奇蹟なのだ。失敗する者はいくらでもいるのである』


 〝真相〟というものが見た目や常識による判断とはまるで違う、ということは科学の世界では珍らしいことではありません。コペルニクスの地動説がその最たるものです。

正直いって今の世でも誰れがどう見たって太陽の方が地球のまわりを回っているようにしか見えませんが、実際は足もとの地球の方が太陽のまわりを回っているのです。

それも時速一六〇〇キロという猛スピードです。これがまた人間の常識では信じられません。が事実であればそう信じるよりほかはありません。

 もろもろの霊界通信によりますと、死後の世界は地球に近いところほど環境が地上に似ているということです。死の直後に置かれる環境などは地上とそっくりだそうです。地面を踏みしめて歩くし、山もあれば川もある。花も木もあり、

それが上の界へ行くにつれて美しさを増し、さらに神々しさを感じるようになっていき、さらに上の世界へ行くと地上の言語や常識では表現も理解もできなくなると言います。

 そうみてきますと、どうやらロッジが言うように、われわれはホンの束の間の冒険をしに地上に降りて来ているというのが真実のようです。霊界が本来の生活の場で、ホンの束の間だけ、特殊な体験を求めて地上に来ているにすぎないということです。

 もしそうであるとすれば、地上の苦も楽も、富も貧乏も、また違った目で見ることが出来るわけで、古来、幾多の僧侶や行者が難行苦行をしながら悟ろうとした人生の謎も、スピリチュアリズムを正しく理解されれば、たとえば数学の難問がちょっとしたヒント一つでスラスラと解ける如くに、簡単に悟ることが出来るわけです。

 私の師である間部詮敦氏は浅野和三郎氏の四魂説、すなわち人間は肉体の他に幽体、霊体、神体又は本体という三種のエーテル体があり、それぞれの生活の場として物質界、幽界、霊界、神界があるという説を知った時、

それまで愛読していた古今東西の人生の書や哲学書を全部捨ててしまったという話を聞かされました。捨てたというのは比喩的に言ったのでしょうが、

たしかにその四魂説やマイヤースの類魂説、シルバー・バーチの因果律や再生説は、古来の理屈っぽい説教や難解な哲学書を超越した、まさに快刀乱麻を断つが如き、いわば宇宙の謎を解く大方程式であるように思えます。そこにスピリチュアリズム本来の妙味があり真髄があるわけです。

 ではその幽界、霊界、紳界とはどんな世界なのか。これを浅野氏とマイヤース、それに今回新らしく紹介するトウィーデールという人がまとめた霊界通信によって検討し、最後にシルバー・バーチで締めくくってみようと思います。それにはまず、さきに述べた浅野氏の四魂説から説きおこすのが一番理解に便であるようです。

 これから氏の 「心霊研究とその帰趨」 の第一章及び第二章から引用しようと思うのですが、その前にひとこと前置きしておきたいことがあります。

 この四魂説と四界説は浅野氏が晩年にもっとも力を入れた課題であったようで、氏自身は確固たる自信をもちながらも、これを支持してくれる説が西洋に見当らないことに一抹の不安と不満を抱いておられたことを、弟子である間部先生から聞いておりました。

そのうち私は米国のルース・ウェルチ女史の Expanding Your Psychic Consciousness by Ruth Welch (『心霊的意識の開発』)に四魂説をずばり図示したイラスト(第2図)が出ているのを発見して早速お見せしたところ、

先生は飛び上がらんばかりに驚ろかれ、日頃あまり感情を表に出されない方なのに顔面を紅潮させて〝よくぞいい本を見つけてくれた〟と言ってよろこばれたことを思い出します。

 その後、英国から取り寄せたトウィーデール氏の News From the Next World by C.Tweedale (『他界からの通信』) の中にこんどは四界説をずばり図示したイラスト(第1図)を発見しました。

その時はすでに間部先生は霊界の人となっておられましたが、私はこれで浅野氏説がスピリチュアリズムの定説ともいうべき確固たる説であることを確信した次第です。

 まず四魂説について浅野氏はこう述べています。(意味に変化を来たさない範囲で読み易く書き改めます)



『(一)人間はその肉体の内に超物質的エーテル体を有っている。但しエーテル体とは概称であって、詳しくいえばそれは幽体、霊体、本体の三つに大別し得る。

(二)肉体、幽体、霊体、本体の四つは滲透的に互いに重なり合っているのであって、各個に層を為して遍在しているのではない。

(三)これらの四つの体はいずれも自我の行使する機関であって、それぞれの分担がある。すなわち肉体は主として欲望、幽体は主として感情、霊体は主として理性、本体は主として叡智の機関で、必要に応じてこもごも使い分けられる。

(四)概してエーテル体は非常に鋭敏に意念の影響を受け、その形態は決して肉体の如く固定的ではない。又その色彩、なかんずく感情の媒体である幽体の色彩は情緒の動きにつれて千変万化する。

(五)エーテル体は時空を超越している。少なくとも時空の束縛を受けることが極めて少ない。故にその活動は極めて神速自在である。

(六)エーテル体は人間の地上生活中においてもしばしば肉体を離脱するが、そうした場合には必ず白色の紐で肉体と連絡されている。死とは右の紐が永遠に断絶した現象である』


 次に四界説について──

 『四大界──人間の自我表現の機関が四大別されるように、人間のおかれる環境もやはり四大別し得るようである。
すなわち (一)物質界、(二)幽界、(三)霊界、(四)神界である。

 右の中、物質界はわれわれが五感をもって日常接触する世界であるから、これはここに説く必要がない。説明を要するのは幽界以上である。

幽界──とは、心霊研究の立場からすれば要するに地球の幽体と思えばよい。地球に限らず天地間の万有一切は自然法則の束縛から免れることはできない。従って地球にもむろん幽体もあれば、霊体もあり、又その本体もあり、互いに滲透的に重なり合っている。

これらのすべての中でその構成分子が一ばん粗く、且つその容積が一ばん小さいのはむろん地球の物質体である。地球の幽体ともなればその構成分子は遥かに微細で、内面は物質的地球の中心まで滲透し、また外面は物質的地球のずっと外側まではみ出している。

その延長距離についてはまだ定説はないが、しかし地球の幽体が、他の諸天体、少なくとも太陽系所属の諸天体の幽体とどこかの地点で相交錯しているのではないかと思われる節がある。「ステッドの通信」の中にこんな一節がある。

 「私達の住む世界(幽界)は地上の人達が考えるところとは大分違う。幽界の居住者は物質的生活が営まれる諸々の天体からの渡来者である」

   ──中略──

 他にもこの種の通信はまだ沢山ある。
 で、幽界について従来一般人士が抱いている観念には大々的修正を要するものがある。その要点をのべる。

(一)幽界は肉体を有する人間にとっても密接な関係のある境地である。

 幽界はもちろん肉体を棄てた帰幽者の落ちつく世界には相違ないが、しかし人間は生前においてもその幽体を用いて間断なくこれと交渉を有している。各種の黙示又はインスピレーション、思想伝達現象、交霊現象、霊夢等は殆ど全部幽界と交渉の結果である。


(二)幽界を単に距離で測ろうとするのは誤謬である。

 仏者のいわゆる西方浄土、十万億土等はむしろ単なる方便説で、実際には当てはまらない。幽界は要するに内面の世界で、場所からいえば大地の内部にも、又その外部にも亘っている。従ってわれわれの居住する物質界とても、その内面は立派に幽界でもある。


(三)幽界はまだ途中の世界である。

 幽界は物質界に比べれば比較にならない程自由であり、思念する事は直ちに具象化するといった世界であるが、しかし理想を距ることまだ甚だ遠く、とりとめのない空想又は熾烈なる感情等によって歪曲された千変万化の現象が盛んに飛躍出没する境地らしい。

旧式の宗教家は、信仰次第で死後人間が直ちに光明遍照の理想世界に到達し得るように説くが、あれは事実に反している。


霊界──となると、そろそろ地上の人間の思索想像に余るものがある。むろんわれわれの内にも未発達ながら霊体はある。

故に一切の欲念や感情を一掃し、冷静透明、あたかも氷のような心境に入りて沈思一番すれば、霊界のある一局部との接触が敢えて不可能というわけではないが、しかし実際問題となれば、なかなか思うように行かないのが現在の地上の人類の状態である。

神人合一だの、神は内にあるのだと、口に立派なことを述べるものは多いが、いずれも実は浅薄卑俗(センパクヒゾク)なる自己陶酔にすぎぬ。

その何よりの証拠には、そう広言する人達から殆んど何ら偉大なる思想も生まれず、又何ら破天荒の発明又は発見も現れないではないか。要するにその説くところは単なる理想であり、空想であり、口頭禅であって、実際の事実ではない。

 実際問題とすれば、現在の地上の人類として僅かに期待し得るのは霊界とのすこぶる狭い、局部的の接触である。それもよほど優れた天分の所有者が刻苦精進の上でできることである。

首尾よくこれに成功した人がつまり人間界の偉大なる哲学者、科学者、思索家又は発明家達である。何分にも地上の人間は鈍重なる肉体で包まれ、又きまぐれな幽体で蔽われているので、なかなかそれ等を突破して、色も香も、歪みも、又錯(あやま)りもない、明鏡のような純理の世界には容易に突入し得ないのである。

 が、この霊界とてもまだまだ理想の世界ではない。この境地の最大の欠点は、それぞれの局面に分割されていることである。ある与えられた筋道の見通しはつくが、他の方面のことは少しも判らないのである。


神界──つまり地球の本体となると、いよいよ以って筆をつくすべき余地がない。強いて想像すれば、それはおそらく他の諸天体と合流同化し、玲瓏清浄、自在無碍、何もかも見通しのつく光明遍照の理想境とでも言うより外に途がないであろう。死んで幽界に入ったステッド等も次のように歎息している。

 「私は生前こう考えていた。人間は死んだらすぐ神と直接交通を行い、自己の取るにも足らぬ利害損失の念などはきれいに振りすて、礼拝三昧、讃美歌三昧にひたるであろうと。そういった時代も究極においては或いは到達するかも知れない。

しかし現在のわれわれはまだそれを距ること甚だ遠い。人間の地上生活は言わば一つの駅場、われわれの進化の最初の駅場にすぎない。現在の私の幽界生活は第二の駅場である。われわれはまだ不完全である。われわれはまだ個々の願望欲念を脱却し得ない。

われわれは依然として神に遠い。要するに宇宙は私の想像していたよりも遙かに広大無辺であり、その秩序整然たる万象の進展は真に驚歎に値する・・・・・・』


 人間は自己の置かれたる環境がいかに広大であるかを知り、成るべく奥へ奥へと内観の歩を進むべきであるが、同時によく自己を省みて、かりそめにも自然の秩序階級を無視し、社会人生に何の貢献をも為し得ない誇大妄想の奴隷になることを避けねばならぬ。』


 浅野氏の説はきわめて概略的で抽象的に過ぎ、理屈の上では成るほどと思っても、これだけでは実感をもって理解することはとても無理です。それを補うためにトウィーデール氏の「霊界からの便り」を紹介したいと思います。

 これは英国国教会の牧師であるトウィーデール氏が、霊能者である奥さんを通じて起きた各種の心霊現象をまとめたものですが、中でも注目されるのが自動書記通信です。

 通信者はコナン・ドイルを始めとして、小説家のエミリー・ブロンテ、ピアニストのショパン、バイオリン製作者のストラドバーリ、天文学者のロバート・ボール等、世界的に著名だった人のほかに二、三の知人や縁者から成っていて、それぞれ個別に質問を書いて出し、その用紙に書かれた回答をまとめたものです。


 霊媒の先入観が入るのを防ぐ意味で質問の内容は前もって奥さんに知らせず、入神してからさっと書いて出したといいますが、回答はすぐさま書かれ、またそのスピードがものすごくて、時には用紙が破れることもあったということです。

 ではその中から他界直後の様子や霊界の位置などに関する興味深い部分を訳出してみましょう。果たして本当にショパンなのかドイルなのかといった問題はトウィーデール氏が徹底的に探りを入れておりますが、ここではあまり名前にこだわらずに、その内容に注目していただきたいと思います。特に天孫降臨をズバリ指摘している箇所は日本人には興味津々です。



 〇死の過程と意識について

問「死んで霊界へ行くという現象は怖ろしいですか、苦痛ですか」
ストラドバーリ「私の場合はただ眠くて夢見る心地でした。杖を持った天使が見えました」

問「まだ肉体の意識のある間の話ですか」
ストラドバーリ「そうです。死ぬ前です。そして死んでからもその霊はずっと何年も私に付き添っています。ずっと高い世界の方だそうで、多くの人のために尽くした人に付き添うために派遣されているとのことです。当分の間付き添うことになるとのことでした」

問「では死は別に苦痛ではなかったわけですね」
ストラドバーリ「全然」(ストラドバーリは老衰死)

ショパン「死そのものは少しも苦痛でないし恐ろしいものでもないが、私の場合は死ぬ前の方がつらかった」(ショパンは結核で死亡)
問「そうでしたね。で実際に死ぬ時はどうでした」

ショパン「自分のことしか知らないが、私の場合は最後は何もかもわからなくなった。ただただ深い眠りに落ちていった」

ドイル「私の場合は大変な劇痛と突然の忘却でした。発作が来た時は悶え苦しみました」(咽頭炎と心臓病のこと)

問「劇痛はどこに感じましたか」 
ドイル「全身を走り抜けたようです」

問「忘却というのは何のことですか」
ドイル「深い眠りです。目が覚めたら川岸の土手の上にいました」

ブロック(トウィーデール氏の知人)「そうね、私の場合は半ば意識がありました。死ぬ一時間前まで感覚が残っていましたが、しゃべることは出来ませんでした。晩年はつらかったから死ぬのはうれしかったです」

タビサ(生後数週間で死亡した女の子)「死ぬということは私には何のことかわかりません。何も思い出せません。気が付いたら椅子の上の方の高いところにいたということだけです」

(霊視すると今では十七、八歳の娘に成長しているとのこと。この子の通信は水子の問題にいろいろと示唆を与えてくれます──編者)

問「だからタビサちゃんにとっては、まだ死んだ記憶がないということね」
タビサ「そう、そうなの」


  〇死後の身体について

問「今あなたが使用している身体は形態、容貌、機能ともに地上時代の肉体とそっくりですか」
ストラドバーリ「今の身体はあなたの肉体とまったく同じで実感があります。実にラクです。目はちゃんと見えます。ただ心の方が地上より大きく作用します」

ドイル「地上時代の肉体よりはるかに美しいです。しかもこうして地上に降りて来られます。機能的にも霊体の方が具合がいい。有難いことに痛みというものを感じません。地上の人生を終えたその場から今の人生が始まったわけです。

ブロック「このからだは地上の肉体と少しも変わりません。ただし、がっかりさせられることが多い。あれ持って来いこれ持って来いと、うまいものを注文するのだが、食べてみるとまったくうまくない」

タビサ「私はずっと今のままよ。そちらで私がどんなからだをしていたか知りません。ただこれだけは言えます。みんなの目には見えなくても、私はおうちの中をスキップして回ったり歌ったりしているということ」


  〇飲食と睡眠について

問「エーテル体を養うために必要なものがありますか。食べるとか飲むとか寝るとか・・・」
ストラドバーリ「そうしたいと思わないかぎり飲むことも寝ることもしません。その気になれば何でも出来ますが・・・」

問「じゃ、あなたは食べることも寝ることも飲むこともしないわけですか」
ストラドバーリ「時にはすることがあります。寝ようと思えば寝られます」

ショパン「寝るも飲むも思いのまま。行くも戻るも思いのまま」 (ショパンはよく詩文で通信を書いていますが、意味を伝える程度に訳しておきます──編者)


問「では呼吸もしているわけですか」
ショパン「然り」

ドイル「飲食の必要はありませんが、欲しいと思えば摂取できます。成長するにつれて地上的なものを欲しがらなくなり、求めなくなり、もっと高尚なものを求めるようになります」
ブロック「欲しいものは何でも手に入りますが、我慢も出来ます」

問「エーテル体を維持する上で必要ですか」
ブロック「必要です。ですが、摂取するものもみなエーテル質です。私は今もって幻影に悩まされております。これは、聞くところによると一種の罰だそうです。もっとも私の場合は地上の人のためになることもしているので、まだお手やわらかに扱ってくださっています」

ショパン「本当に欲しくなれば食事をすることもあります。が欲しいだけ食べればそれでやめます」
タビサ「私はやりたいことは何でもします。食べるし、飲むし、寝ることもあります。でも、そうしなければならないことはありません。必要なものは全部空中(エーテル)から摂取していますから・・・・・・」


 〇時間の感覚について

問「時間を意識することがありますか。たとえば記録したり約束したりする上で時間の経過を計るための尺度が必要ですか」

ストラドバーリ「地上の時間とは異りますが、それに相当するものはあります。私たちの時間は太陽時間で、光の変化で判断します」

問「光の変化は何が原因で生じるのですか」
ストラドバーリ「あなたがたが見ている太陽です」

ショパン「時間はあります。さもないと大きな集会に参加する用意が出来ません。幽霊にも時間が分かることはあなたがたもよくご存知のはずです。だって必ず真夜中に出るでしょう」

問「地上へ来られる時はやはり地上の時計を見て準備をされるのですか」
ショパン「地上に来る時はそうしますが、それ以外の時は地上の時刻は知りません」

問「ストラドバーリは霊界では太陽光線の変化で時間を知ると言っていますが・・・・」
ショパン「その通りです。太陽の光で動いています。時間が来ましたので失礼します」

ドイル「こちらでも太陽の光による時間があります。地上の時間も太陽の働きによっているわけですが、太陽に関する認識に大きな違いがあるのです。あなたがたにはちょっと理解できないことがあります。約束の時間はちゃんときめられます」

問「地上の時刻もわかりますか」
ドイル「分かります。地上に近いですから」


  〇霊界の位置について

問「いま現在どこに住んでおられますか。霊界というのは一体どこにあるのですか」

ストラドバーリ「地球と同じような天体上にいます。私は今あなたのすぐ近くにいます。私にはあなたの姿はよく見えますが、そちらからは見えないでしょう。霊能者は別ですが。私たちも天体上にいます。太陽も見えます。あなたがたが見ている太陽と同じです」

問「界は幾つありますか」
ストラドバーリ「七つ」 (第1図参照)

問「その七つの世界はミカンの皮のように、あるいは大気のように地球を取りまいているのですか」
ストラドバーリ「そうです、でも肉体をもった者はここには住めません。地球は人間が住むようになる以前は高級な霊的存在、あなたがたの言う天使が居りました(聖書の)創世記にある通りです」

問「ということは当時の地球は高級霊の通う場所だったわけですか」
ストラドバーリ「その通りです。物質化した霊魂がそのまま居残ったのが最初の人類です」

問「あなたのいる界は地表からどの位の位置にありますか」
ストラドバーリ「それは私には分かりませんが、かなり近いようです」

問「界と界との境はなにかゆか floor のようなもので仕切られているのですか」
ストラドバーリ「空間 space によって仕切られています」

問「それらの界が地表の上空にあるとなると、人間の目には透明なわけですね。それを通して星とか太陽とか惑星を見ているわけだから・・・・・・」

ストラドバーリ「ご説明しましょう。人間の視力はある限られた範囲の光線しか受けとめることが出来ません。霊的なものは人間の目には映らないのです。

死んでこちらへ来ると最初はどこへ行っても違和感があり新らしいことばかりですが、感覚が慣れてくると、こちらの土地、海、草木なども地上とまったく同じように実感があることが分かり、しかもはるかに美しいことを知ります」

ショパン「私の住んでいるところは地球から遠く離れています。円周の外側にあります」

問「何の円周ですか。地球のことですか」
ショパン「地表から完全に離れています。こうして通信するために降りてきている間はあまり離れていません」

問「エベレスト(八八四八メートル)がひっかかりますか」
ショパン「いいえ」

問「どの位の距離がありそうですか」
ショパン「およそ五万メートルです。ですが、距離とか空間はわれわれが移動する際は全く関係ないようです。心に思えばもうそれでそこへ行っています」

ドイル「難しい問題です。同じ国の人間でも、その国についての説明をさせれば一人一人違ったことを言うでしょう。霊界についても同じで、霊によって言うことが違ってきます。私に言わせれば、私は今あなたの上の空中にいます」

問「距離は地表からどの位ですか」
ドイル「分かりません」

問「地表に近い大気圏のあたりが幽界より上の界へ行くための準備をする所、いわゆるパラダイスですか」(第1図)

ショパン「そうです。はじめは地上で過します。同じパラダイスでも地上から離れて第一界(幽界)に近い部分もあるわけです」

問「キリストも、それからキリストと一緒に処刑された例の盗っ人も、そこで目を覚ましたわけですか」
ショパン「そうです。キリストはそこから戻って来て姿を見せたわけです」

問「そこは地球の表面になるのですか」

ショパン「そうです。中間地帯です。界と界との間には必ずそういうものがあります。人間はみな地上にいた時と同じ状態で一たんそこに落着きます。がそこで新らしい体験をさせられます。

地上でも、九死に一生を得た人がその瞬間にまるでビデオを見るように自分の全生涯を眼前に見たという話がありますが、あれと同じで、地上生活の全てを、夢でも見るように、見せられます。犯した罪や過ちを反省し改めさせるためです。それをしないと先に行けないのです。反省しない人間は下降していきます」


ブロック「私がここで見たものは、実にきれいな青色でした。どう呼べばいいのでしょうか。何か島みたいで、青色をしていて、いかにも健康に良さそうな感じでした。私は自分がどこにいるのか心細くなって付き添っていた人(指導霊)に〝ここは一体どこですか〟と聞いてみました。

すると〝ここは二つの界の中間境だ。そのうち慣れるだろう。大体ここに来る人間は仕事仕事で生涯を終った者ばかりだ〟という返事でした。さらにそのあと出会った人はこんな風に話してくれました。

〝心配しないでよろしい。大丈夫ですよ。あなたはどうも宗教心が足らなかったようだが、心がけはまずまずだった。ここではその心掛けが大切だ。生まれた環境は自分の責任じゃあない。宗教的でない環境に生をうければ宗教心は芽生えにくいのは当然だが、そうした逆境の中にあって良い行いをすれば、その価値も一層増すというものだ。何事もその時の条件を考慮して評価されるわけだ〟と。

これでおわかりでしょう。ドイルも云っていたように、要するに大切なのは教義ではなくて行いです。地上の人間が Love(愛、慈しみ、思いやり)の真の意味を理解すれば戦争など起こらないのですが・・・・・・」

 編者注──浅野和三郎氏の著書の引用文の中に〝ステッドの通信〟というのがありましたが、これは The Blue Island by W. T. Stead のことです。これは文字通りに訳せば〝青い島〟で、仏教でいう極楽浄土、西洋でいう、パラダイスに相当するようです。

ここは地上生活での疲れや病いを癒す一時休憩所のような場所であって天国 Heaven とは違います。天国と呼ぶにふさわしい界は浅野氏のいう神界、マイヤースのいう超越界でしょう。こうした問題はあとで扱います。


 さてトウィーデール氏はパラダイスについてドイルに尋ねます。

問「あなたは全ての霊は一たんここに来るとおっしゃいましたね」
ドイル「言いました」

問「ということは善人も悪人もみなここに来るということですか」
ドイル「その通りです。キリストが刑場で隣の盗っ人にこう言っているでしょう──〝今日この日に再び汝とパラダイスにて相見(アイマミ)えん〟と」

問「そうするとパラダイスも善人の行く場所と悪人の行く場所とに別れているわけですか」

ドイル「地上に善人と悪人がいて悪いことをした人間は刑罰を受けるように、パラダイスでも善人は幸せを味わい、悪人はよろこびとか幸福感を奪われるという形での刑罰を受けます。

さらに、犯罪を犯した人間はその現場に引きつけられていきます。故意の殺人者は例外なく地縛霊になります。罪を悔い改める心が芽生えるまでは、何時までもその状態から抜け出られません。それはそれは長い間その状態のままでいる人間が大勢います」


問「そちらで見たり聞いたり触ったりする感覚は地上と同じですか」
ドイル「肉体よりずっと鋭敏です」

問「今この部屋にいますか、それとも遠く離れたところにいるのですか」
ドイル「あなたのすぐうしろにいます」

問「私と同じように実体がありますか」
ドイル「ありますとも、立派に実体があります」

問「何百マイルも何千マイルも遠くから通信を送っているわけではないのですね」
ドイル「(皮肉たっぷりに)火星から通信しているわけではありませんよ」

問「部屋にあるものが全部見えますか」
ドイル「見えます。あなたがたよりもよく見えます。視力が肉眼より鋭いですから」

問「霊魂は霊能者の肉眼を通してしか地上のものが見えないのだという人がいますが・・・」

ドイル「とんでもない! あなたがたと同じように、いやそれ以上に、私たちにとって地上のものはきわめて自然に見えます」

最後に英国の著名な天文学者だったロバート・ボール卿 Sir Robert Ball の学者らしい回答を紹介します。


問「天文学者であられた卿にお伺いしますが、霊の世界は地球の近くにあるのでしょうか」
ボール「地球の外側をぐるりと取り巻いています」

問「地球からの距離はどのくらいでしょうか」

ボール「これは難しい問題です。三十キロ程度の近いものもあれば百キロほど離れているものもあり、遠いものになれば何千、何万キロも離れています」

問「人間の肉眼には透けて見えるわけですか」
ボール「肉眼は限られたものしか見えません。霊の世界は肉眼にも天体望遠鏡にも映りません」

問「例えばガラスのコップのようなものを考えてもいいでしょうか。実体があり固いけど、透明であるという・・・・・・」

ボール「なかなかいい譬えです」

問「そうした世界はどの天体にもありますか」
ボール「あります。どの恒星にも惑星があるように、どの天体にもそれなりの霊の世界があり、同時にそれぞれの守護神がいます。秘密はエーテルにあります」

問「大気圏を三十キロの高さまで上昇していったら霊の世界に触れることが出来ますか」
ボール「それは不可能です」

問「ということは霊の世界は透明であるだけでなく、身体に触れることも出来ないということですか」
ボール「その通りです」

問「本質はエーテルで出来ているのですか」
ボール「そうです」

問「霊界の秘密はエーテルにあるとおっしゃったのはその意味ですか」
ボール「さよう」

問「そのエーテル界の生活や存在は地上生活と同じく実感がありますか。そして楽しいですか」

ボール「はい、楽しくて実感があります。但し善人にとってのみの話です」 (善人 the good の文字に二本の下線が施されている)

問「地球の霊魂が太陽系の他の惑星、例えば火星や金星のエーテル界を訪れることが可能ですか」
ボール「高級霊になれば可能です」

問「例えばオリオン座のベテルギウス星(地球から5,670,000,000,000,000キロ《5,670兆㌔》)の様な遠い星でも同じですか」
ボール「同じです」

問「普通の霊魂は行けませんか」
ボール「行けません」

問「ではこういうことですか。つまり普通の人間は死後その天体のエーテル界で生活し、高級になると他の天体のエーテル界を訪れることが出来るようになる」
ボール「その通りです」


ボールはこのあと「この章は実に重要ですよ」 と付け加え、署名して終りにしておりますが、高級霊になれば他の天体のエーテル界に行けるようになるということは、要するにエーテル界の上層部が他の天体の上層部と合流しているということを意味しています。

ヴェール・オーエン氏の『ベールの彼方の生活』に次のような箇所があります。

『以上のことからおわかりのように、吾々が第一界から上層界へと進んでいくと、他の惑星の霊界と合流している界、つまりその界の中に地球以外の惑星の霊界が二つも三つも含まれている世界に到達する。

さらに進むと、こんどは他の恒星の霊界と合流している世界、つまり惑星間の規模を超えて、太陽系の規模つまり太陽の霊界が二つも三つも合流している世界に到達する。

そこにはそれ相当に進化した存在、荘厳さと神々しさと偉力とを備えた高級神霊が存在し、下層霊界から末端の物質界に至るすべてに影響を及ぼしている。

かくして吾々はようやく惑星から恒星へ、そして一つの恒星から複数の恒星の集団へと進んできた。が、その先にもまだまだもっと驚ろくべき世界がいくつも存在する。が第十界の住民であるわれわれには、それらの世界のことはホンのわずかしか分からないし、確実なことは何一つ判らない」


 レナード氏の『スピリチュアリズムの真髄』はこうした死後の世界の区分の問題を実にくわしく扱っており、是非とも参考にしていただきたいと思います。

私が本章であえてトウィーデールの著書から引用したのは、本書が非常にいい内容をもちながら一般に知られておらず、引用されることもないので、この機会にと思ったわけです。

 特に天孫降臨を髣髴とさせる言説を霊界側から述べているのは、私の知るかぎり西洋では他に見当らないようです。

 もっとも人類誕生の問題はまだスピリチュアリズムもそれを論じるに足るだけの十分な資料を積み重ねていないようです。しかしこれがスピリチュアリズムでないと絶対に解けない謎であることだけは断言できます。

 ダーウィンの進化論はいま学界でも集中砲火を浴びています。あまりに唯物的すぎ、あまりに単純すぎたところに原因があるわけですが、といってスピリチュアリズム的要素を取り入れた説が受け入れられる時機はまだまだ遠い先のようです。

 かつてダーウィンと同時代の自然科学者で心霊学者でもあった A・R・ウォーレスが〝霊的流入〟Spiritual influx という用語を用いた説を発表したことがありますが、まともに取りあってもらえないまま眠り続けています。当時としてはあまりに飛躍的すぎたからでしょう。

 ちなみに霊的流入というのは、ダーウィンの言うように人類がアメーバから進化して動物的段階に至ったその最終段階で、神的属性をもった人間の霊魂が宿ったという説で、シルバー・バーチも同じようなことを述べていますが、私はこの説と、さきの天孫降臨の説の双方とも真実であると考えております。

つまり、一方に動物的進化の過程でウォーレスのいう霊的流入を受けて人間へと跳躍した系統があり、他方に、高級霊の物質化によるもう一つの系統があったとみるのです。


 思うにその物質化現象は霊界あげての大事業だったことでしょう。数え切れないほどの失敗の繰り返しがあったことでしょう。時間もかかったことでしょう。日本の古典はその辺の事情を象徴的に物語っていて興味があります。

 これには異論もありましょう。が真相はどうであれ、今までに得た霊的知識を土台にして、そうした問題に想像の翼を広げていくのは実に楽しいことです。

 その問題はこれ位にして、次にマイヤースの通信から死後の世界に関する箇所を紹介しましょう。例によって The Road to Immortality からですが、ここでは第三章を浅野和三郎訳「永遠の大道」を下敷きにしながら紹介します。

 「人間がその魂の巡礼において辿るべき行程をまとめればおよそ次のようになる。
 (一)物質界
 (二)冥府、又は中間境
 (三)夢幻界
 (四)色彩界
 (五)光焔界 (編者注──浅野氏の四界説にあてはめれば(三)(四)(五)が幽界、(六)が霊界、(七)が神界となる。

 (六)光明界
 (七)超越界

 各界の中間には冥府又は中間境があり、各霊はここでそれまでの行為と経験を振り返って点検し、上昇すべきか下降すべきかの判断を下す。


 (一)の物質界は地上の人間が馴染んでいるような物質的形体に宿って経験を積む世界である。これは必ずしも地上生活のみに限られない。遠い星辰の世界にも似たような物的条件をもった天体がいくらもある。またその中には人体よりも振動数の多いものもあれば少ないものもあり、まったく同じというわけではないが、本質的にこれを〝物質的〟と表現しても差支えない性格を具えているのである。

 (三)の夢幻界というのは物質界で送った生活と関連した仮相の世界である。

 (四)の色彩界ではもはや五感の束縛から脱し、意念による生活が勝ってくる。まだ形態が付随しており、従って一種の物的存在には相違ないが、しかしそれは非常に希薄精妙なる物体で、「気」と呼んだ方が適当かも知れない。この界はまだ地球又は各天体の圏内に属している。

 (五)の光焔界において各自の霊魂ははじめて永遠の生命における自己の存在の意義を自覚しはじめ、一つのスピリット(本霊)によって養われている同系の類魂たちの精神的生活に通暁するようになる。

 (六)の光明界において各自の霊魂はこんどはその類魂たちの知的生活に通暁できるようになり、仲間の全前世を知的に理解することになる。同時に物的天体上に生活している類魂の精神的生活にも通暁する。

 (七)最後の超越界は本霊並びに本霊の分霊である類魂の全てが融合一体となって宇宙の大霊である神の意志の中に入り込む。そこには過去、現在、未来の区別がなく、一切の存在が完全に意識される。それが真の実在であり実相である。』

 マイヤースの説明はあまりに抽象的で簡単すぎますが、これはあくまでも死後の世界の図表のようなものですから已むを得ません。マイヤースもこのあと順を追って詳しく説明していきます。

そしてついに「類魂」の章に至るわけですが、これはすでに第三章で詳しく紹介しましたので、お読み下さった方には右の箇条書だけで人間の辿るべき旅路が髣髴としてくることと信じます。

 こう観て来ると、人間がいかに小さな存在であるかを痛感させられます。言ってみれば地上生活は宇宙学校のホンの幼稚園、イヤ保育園程度のものかも知れません。その程度の人間のすることであれば、良い事にせよ悪い事にせよ、程度はおのずから知れています。

 浅野和三郎氏はよく「人間はいい加減ということが一ばん大事じゃ」と言われたそうですが、これは己れの小ささに気づいた、真に悟った人間にして初めて口に出来る言葉でしょう。

 浅野氏はまたその著『心霊学より日本神道を観る』の中で「人間味のない人間は畢竟(ひっきょう)この世の片輪者で・・・・・・」と述べていますが、無理や禁欲や荒行で五官を超越し、あるいは抑え込もうとすることの愚を戒めているわけです。

私自身も精神的にまた肉体的にかなり無理な修行を心がけた時期がありましたが、その挙句に悟ったことは、結局神は人間にとって五感でもって生活するのが適切だから五官を与えて下さったのであり、要は節度 moderation を守ることに尽きるということでした。

 むろん人それぞれに地上生活の目的と使命があり、禁欲がその人にとって大切な意味をもつことがあり、それがいわゆる業(カルマ)のあらわれである場合もありましょう。

がシルバー・バーチも繰り返し述べていることですが、物事には必ずプラス面とマイナス面とがあり、禁欲生活によって得るものがある一方には、それ故に失わざるを得ないものが必ずあるわけで、それはまた別の機会に補わなければなりません。

 こうした禁欲とか行、戒律といったものは、その土台となるべき霊的知識が過っていると飛んでもない方向へ走ってしまう危険性があり、スピリチュアリズムの真理に照らしてみると滑稽でさえある場合が少なくありません。

又それ故に何千年何万年と、想像を絶する長い年月に亘って、自分が拵えた殻の中で無意味な、しかし本人は大マジメな暮らしを続けている霊が大勢いるようです。

そういった既成宗教の過った教義については九章で検討する予定でおりますので、ここではひとまず措いて、では最後にシルバー・バーチに死後の世界と生活ぶり、そしてこの世とのかかわり合いについて語ってもらいましょう。


 『私たちが住む霊の世界をよく知っていただけば、私たちをして、こうして地上へ降りて来る気にさせるものは、あなた方のためを思う気持以外の何ものでもないことがわかっていただけるはずです。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰れが、ダテや酔狂で降りてまいりましょう。

 あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、ついきゅうしたいことにいくらでも専念できる、

お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中にはたとえるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたには分かっていただけません。


 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる。

 人間にとって死は恐怖の最たるもののようです。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。

なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。ただし、徐々にではあっても成長はしています。

霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗やみが後退していきます。

 霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなた方が〝死んだ〟といって片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。

 この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。

地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。インスピレーションなどという仰々しい用語を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。


 金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。

失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。

 地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現できなくなります。正直言って私は地上に戻るのはイヤなのです。

なのにこうして戻って来るのはそう約束したからであり、地上の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持があるからです。そして、それを支援してくれるあなたがたの、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。


 死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です。

 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです、苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。

痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。

 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端なりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律のひと節たりとも表現できないでしょう。

いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。そのうちあなた方もこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。

 いま地球はまさに五月。木々は新緑にかがやき、花の香がただよい、大自然の恵みがいっぱいです。あなた方は造花の美を見て〝何とすばらしいこと〟と感嘆します。

 がその美しさも、霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色褪せた摸作ていどしかありません。地上の誰一人見たことのないような花があり色彩があります。

そのほか小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。

そのうちあなた方もその美しさをじっくりと味わえる日がきます。その時あなたはいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ真の意味で生きているのです。

 実は今でもあなた方は毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。

肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識をもって見ることが出来ます。その時すべての記憶がよみがえります。」


 一問一答

問「死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたこと──多分低い世界だろうと思いますが、それを思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか」

シルバー・バーチ「低い世界へ引きつけられて行くような人はやはり睡眠中にその低い界を訪れておりますが、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。

なぜかというと、そういう人の目覚める界は地上ときわめてよく似ているからです。死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが粗いからです。高くなるほどバイブレーションが細かくなります」


問「朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか」

シルバー・バーチ「睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界にしばりつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。

その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。なぜかというと脳があまりにも狭いからです。小は大をかねることが出来ません。ムリをすると歪みを生じます。それは譬えば小さな袋の中にムリやりに物を詰め込むようなものです。袋にはおのずからと容量というものがあります。

ムリして詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。

実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。私は〝地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですヨ〟と言っておくのですが、どうも思い出してくださらないようです。

皆さんお一人お一人にお会いしているのですヨ。そして、あちらこちら霊界を案内してさしあげているんですヨ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから・・・・・・」


問「死んでそちらへ行ってから役に立つわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。何一つ無駄にはなりません。神の法則は完璧です。長年霊界で生きてきた私どもは神の法則の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものかといった地上の人間のお粗末なタンカを聞いていると、まったくなさけなくなります。知らない人間ほど己れの愚かさをさらけ出すのです」


問「睡眠中に仕事で霊界へ行くことがありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的ですか」

シルバー・バーチ「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの能力をもった人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。

そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをすると言うのはその辺に理由があるわけです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。

あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光のまぶしさにすぐ慣れるかどうかの問題です。

闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのにずいぶん時間がかかります。地上での体験も、こちらでの体験も、何一つ無駄なものはありません。そのことをよく胸に刻み込んでおいて下さい」


問「霊的知識なしに他界した者でも、こちらからの思いや祈りの念が届くでしょうか」

シルバー・バーチ「死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。
その意味でもわれわれは無知と誤解と迷信と誤った教義と神学を無くすべく闘わねばならないのです。

それが霊界での目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれないかぎり、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかはありません。長い長い休息が必要となるのです。又、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。

反対に人のためによくつくした人、他界に際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます」


問「死後の生命を信じず、死ねばおしまいと思っている人はどうなりますか」

シルバー・バーチ「死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかないわけです。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。霊格が高ければ、死後の存続の知識がなくても、死後の世界に早く順応します」


問「そういう人、つまり死んだらそれでおしまいと思っている人の死には苦痛が伴いますか」

シルバー・バーチ「それも霊格の程度次第です。一般的に言って死ぬということに苦痛は伴いません。大ていは無意識だからです。死ぬ時の様子が自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」


問「善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎めを受けますか」

シルバー・バーチ「私にはその善人とか悪人とかの意味がわかりませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有った方がましです。がその人の真の価値は毎日をどう生きてきたかに尽きます」


問「愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では嫁に行くとか嫁を貰うといったことはないと言っておりますが・・・」

シルバー・バーチ「地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとってはより自由な世界への入口のようなものですから、二人の結びつきは地上より一層強くなります。

が二人の男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差があるときは、死とともに両者は離れていきます。それぞれの界へ引かれていくからです。若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことではなく、成長、進化、発達という形で現われます。

つまり形体ではなく魂の問題になるわけです。イエスが嫁にやったり取ったりしないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。

男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上がっておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます」


問「死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪が一ばん多いですか」

シルバー・バーチ「もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。

従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌にあらわれて、霊格が下がるのが分かります。そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、さきほど言ったように、利己主義の罪と呼ぶよりほかに良い表現が見当たりません」


問「死後の世界が地球に比べて実感があり立派な支配者、君主、または神の支配する世界であることはわかりましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか」

シルバー・バーチ「霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はおりません。霊界の支配者は自然法則そのものなのです。

また地上のように境界線によってどこかで区切られているのではありません。低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて上へ上へと上昇してまいります」


問「地上で孤独な生活を余儀なくされた者は死後も同じような生活を送るのですか」

シルバー・バーチ「いえ、いえ、そんなことはありません。そういう生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁あるものとの再会もあります。神の摂理はうまく出来ております」


問「シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか」

シルバー・バーチ「とくに愛着を感じ、慕っている人物には、大ていの場合会うことが出来るでしょう。共通のきずな a natural bond of sympathy が両者を引き寄せるのです」


問「この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上よりはるかに実感があり、しっかりしてます。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実体感は味わっておられません」


問「ということは地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか」

シルバー・バーチ「だから言ってるでしょう。地上よりもっと実感がある。と、こちらの方が実在なのですから・・・・・・あなた方はいわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられて、物質という壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外をのぞいているだけです。地上では本当の自分のホンの一部分しか意識していないのです」


問「霊界では意念で通じ会うのですか。それとも地上の言語のようなものがあるのですか」
シルバー・バーチ「意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます」

問「急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるでしょうか」
シルバー・バーチ「魂の進化の程度によって違います」


問「呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのですか」

シルバー・バーチ「魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのが分かります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新らしい生活が始まります。

魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所──病院なり休息所なり──に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます」

問「愛し合いながら宗教的因習などで一緒になれなかった人も死後は一緒になれますか」
シルバー・バーチ「愛をいつまでも妨げることは出来ません」

問「肉親や親戚の者とも会えますか」
シルバー・バーチ「愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません」


問「死後の生命は永遠ですか」
シルバー・バーチ「生命はすべて永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです」


問「霊界はたった一つだけですか」
シルバー・バーチ「霊の世界は一つです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側には必ず霊的表現があるのです。

その無限の霊的世界が二重、三重に入り組みながら全体として一つにまとまっているのが宇宙なのです。あなたがたが知っているのはそのうちのごく一部です。知らない世界がまだまだいくらでも存在します」


問「その分布状態は地理的なものですか」
シルバー・バーチ「地理的なものではありません。精神的発達程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます」


問「ということは、私たち人間の観念でいうところの界層というものもあるということですか」
シルバー・バーチ 「その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような〝地域〟とか〝層〟が存在します」


問「たとえば死刑執行人のような罪深い仕事に携わっていた人は霊界でどんな裁きを受けるのでしょうか」

シルバー・バーチ「もしその人がいけないことだ、罪深いことだと知りつつやっていたなら、それなりの報いを受けるでしょう。悪いと思わずにやっていたなら咎めは受けません」


問「動物の肉を食べるということについてはどうでしょうか」

シルバー・バーチ「動物を殺して食べるということに罪の意識を覚える段階まで魂が進化した人間であれば、いけないと知りつつやることは何事であれ許されないことですから、やはりそれなりの報いを受けます。

その段階まで進化しておらず、いけないとも何とも感じない人は、別に罰は受けません。知識には必ず代償が伴います。責任という代償です」


 以上、各種の資料を引用しながら死後の世界を見てきましたが、全体を通じて最も注目しなければならないのは、死後の世界と現実の地上生活とが密接不離の関係にあるという点であろうかと思います。

 地上生活中の体験と知識が死後に役に立つという現実的な意味にとどまらず、地上生活中の意識や道徳感覚が時として死後の霊的進化向上に決定的な影響を及ぼすこともあるという意味においても、多寡が六、七十年の人生と軽く見くびることが出来ないものがあるようです。

 たとえば大哲学者と仰がれた人が、その強烈な知性が却って災いして、死後、自分の知的想像力で造り上げた小さな宇宙の中で何百年、何千年と暮らしている例があると聞きます。これをマイヤースは〝知的牢獄〟と呼んでいます。各宗教の指導者やその熱烈な信者にも当然同じことが言えます。

 この問題は別の章で改めて取り扱うことにして、話を元に戻して、もしも地上生活と死後の生活とに現実的にも道徳的にも何の因果関係もないとしたら、また仮りに関係があるにしても、それが仏教に見るような永遠の地獄極楽説とか、キリスト教に見るような、嫉妬したり報復したりする気まぐれな神の支配する世界だとしたら、

一体われわれは地上生活をどう生きたらいいのでしょう。まったく途方に暮れるばかりではないでしょうか。

 そうした観点から改めてスピリチュアリズムをみると、それがいかに合理的で、知性も道義心も宗教心も快く満足させてくれるものであるかを再認識するのです。

しかし同時にもう一つ別の観点、すなわちオリバー・ロッジの説に見られるコペルニクス的転回によってこれを見ますと、地上生活と死後の世界とに関係があるのは至極当り前といえるわけです。

われわれは肉体という鈍重な衣服をまとってホンの束の間を地上で暮らしているわけで、すぐまた元の生活すなわち霊界での生活に戻るわけです。つまり、もともと霊界で暮らしている者が危険を冒して地上へやってくるにすぎないのです。

 とは言え、地上に生を享けるということは、ロッジも言っているとおり、そう易々と叶うものではないようです。その問題になると仏教の方に一日の長があるようです。 「帰経文」 という経に次のような箇所があります。

 「人身受け難く、今巳(すで)に受く、仏法聞き難く、今巳(すで)に聞く。此の身今生に度(さと)らずんば、更に何(いづれ)の生に度(さと)らん。我等もろともに、至心(ししん)に三宝に帰依(きえ)し奉(たてまつ)る。」

 死後の世界を知ったからといって、われわれは、かりそめにも地上生活を軽んじることがあってはならないと思います。その戒めをよく表わした俳句があります。決して名句とは言えないまでも、よき教訓を含んだ句として最後に紹介しておきます。

 浜までは海女(あま)も蓑(みの)きる時雨(しぐれ)かな
                         高神覚昇著「般若心経講義」より
  

Tuesday, September 15, 2026

ベールの彼方の生活(四)

 著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)

近藤千雄 訳





九章 男性原理と女性原理
1 キリストはなぜ男性として誕生したか
1 キリストはなぜ男性として誕生したか
 一九一九年三月二十一日  金曜日

 貴殿に興味のありそうな話題は多々あるのですが、話が冗漫(じょうまん)になるといけませんので割愛させていただき、兄弟(けいてい)かきにせめぐ今日の危機(第一次大戦一九一四~一八──訳者)に至らしめた大きな原因について述べようと思います。

 それはつまるところ、霊的なそしてよりダイナミックな活動をさしおいて、外面的な物的側面を高揚する傾向であったと言えます。

その傾向が西洋人の生活のあらゆる側面に浸透し、それがいつしか東洋人の思想や行動意志まで色濃く染めはじめました。それは実際面にも表れるようになり、一般社会はもとより政治社会、さらには宗教界にも表れ、ついには芸術界すらその影響から逃れられなくなりました。

すでにお話した物質と形態へ向けて〝外部へ、下方へ〟と進んできた宇宙(コスモス)の進化のコースを考えあわせていただければ、そのことは別段不思議とは思えないでしょう。

 顕現としてのキリストについてもすでに述べました。私はこう述べました──いかなる惑星に誕生しようと、言いかえれば、地上への降誕と同じ意味でいかなる形態に宿ろうと、キリストはその使命を託された惑星の住民固有の形態を具えた、と。

そのことは降誕する土地についても言えますが、同時に降誕する時代についても言えます。

 ではこれより私は、ガリラヤのイエスとしての前回の地上への降誕について述べてみます。

人間は次の事実すなわち、少なくとも吾々が知るかぎり、神性において性の区別はないこと、男性も女性もないこと、なのにイエスは、いつの時代においても、かのガリラヤにおいても、男性として降誕したという事実のもつ重要性を見落としております。私はこれよりその謎について説明してみます。

 これまでの全宇宙の進化は〝自己主張〟すなわち形体をもって自己を顕現する方向へ向かってまいりました。絶対的精髄である霊は、本来、人間が理解している意味での形体はありません。悠久の(形態上の)進化もようやく最終的段階を迎えておりますが、その間のリーダーシップを握ったのは男性であり、女性ではありませんでした。

それには必然性があったのです。自己主張は本来男性的な傾向であり、女性的ではないからです。男性は個性を主張し、その中に自分の選んだ女性を組み入れて行こうとします。

その女性を他の女性から隔絶して保護し、育(はぐく)み、我がものとしていきます。我が意志が彼女の意志──つまり女性は自分の意志のすべてを男性の意志に従わせます。

その際、男性の性格の洗練度が高いか低いかによって女性に対する自己主張の仕方に優しさと愛が多くもなり少なくもなります。しかし、その洗練というものは男性的理想ではなく女性的理想へ向かうものです。この点をよく注意してください。大切な意味があるのです。

 そこで地球について言えば──このたびは他の天体のことには言及しません──悠久の進化の過程において、身体的にも知性的にも力による支配の原理が表現されてきました。

この二元的な力の表現が政治、科学、社会その他あらゆる分野での進歩の推進的要素となってきました。

それが現代に至るまでの地上生活の主導的原理でした。人類の旗には〝男性こそリーダー〟の紋章が描かれておりました。キリストが女性としてでなく男性として地上へ誕生したのはそのためでした。

 しかし、男性支配の時代はやっとそのクライマックスを過ぎたばかりです。と言うよりは、今まさにそれを越えつつあります。そのクライマックスが外部へ向けて表現されたのが前回の大戦でした。


──その大戦のことはすでに多くを語っていただいております。これからまたその話をなさるのではないでしょうね。

 多くは語るつもりはありません。しかし私がその惨事について黙することは、その大戦で頂点を迎えた、人類の進化に集約される数々の重大な軌跡を語らずに終わることになります。その軌跡が大戦という形で発現したのは当然の成り行きであり不可避のことだったのです。


冷静に見つめれば、自己主張の原理の良い面は男性的生活態度が創造主の面影をほうふつとさせることですが、それは反面において自分一人の独占・吸収という野蛮な側面ともなりかねないことが分かるでしょう。

洗練された性格の男性は女性に対して敬意を抱きますが、野獣的男性は女性に対して優位のみを主張します。同じ意味で、洗練された国家は他の国家に対して有益な存在であることを志向し、相手が弱小国家であれば力を貸そうとするものです。が、

野蛮な国家はそうは考えず、弱小国を隷属させ自国へ吸収してしまおうとする態度に出ます。

 しかし、程度が高いにせよ低いにせよ、その行為はあくまでも男性的であり、その違いは性質一つにかかっております。善性が強ければ与えようとし、邪性が強ければ奪おうとします。が、与えることも奪うことも男性的性向のしからしむるところであり、女性的性向ではありません。


与えることは男性においては美徳とされますが、女性においては至極(しごく)あたりまえのことです。男性は功徳を積むことになりますが、女性はもともとその性向を女性本能の構成要素の中に含んでおります。

 キリストはこの自己主張の原理をみずから体現してみせました。それが人類救済の主導的原理だったのです。男性としてキリストも要求すべきものは要求し、我がものとすべきものは我がものとしました。これは女性のすることではありません。が、

徹底的にその原理を主張してしまうと、こんどは男性の義務として、すべてを放棄しすべてを与えました。が、

その時のキリストは男性としての理想に従っているのではなく女性としての理想に従っているのです。しかも女性としての理想に従っていながら、いっそう完全なる男性でもあるのです。

このパラドックスはいずれ根拠を明らかにしますが、まずはイエス・キリストの言葉を二、三引用し、キリストが身体的には男性でありながら、男性と女性の双方の要素が連帯して発揮されている、完全なる神性の顕現であることをお示ししましょう。

 「人、その友のために己れを棄つる、これに優る愛はなし」(ヨハネ15・13)確かにそうですが、それは男性的な愛です。それよりさらに大なる愛が存在します。

それは敵のために己れの生命を棄てることです。自分を虐待する男になおもしがみつこうとする女性の姿を見ていて私は、そこに女性特有の(友のために捧げる愛よりも偉大な)憎き相手に捧げる愛を見るのです。

イエスは自分を虐待する者たちのために自分の生命(イノチ)を棄てました。私にはそれはイエスの本性に宿る男性的要素でなく女性的要素が誘発したように思えるのです。

 また、なぜ「奪うよりは与える方が幸福」(使徒行伝20・35)なのか。男性にとってはこの言葉は観念的にも実際的にも理解が困難ですが、女性にとっては容易にそして自然に理解がいきます。

男性はそれが真実であることに同意はしても、なお奪い続けようとするものです。女性は与えるという行為の中によろこびを求めます。

受けたものを何倍にもして返さないと気が済まないのです。このことを考え合わせれば、今だに論争が続いている例の奇蹟に敬虔の念を覚えられることでしょう。つまり、わずかなパンを何十倍にも増やして飢えをしのがせた行為も同じ女性的愛から発していたのです。
 しかしこの問題はこれ以上深入りしないでおきましょう。

 私が言いたかったことをまとめると次のようなことになります。つまりこれまでの地上世界はすべての面において英雄的行為が求められる段階にあったということ。

従って〝雄々しい力〟という言葉が誰の耳にも自然な響きをもって聞こえ、〝女々(めめ)しい力〟という言い方から受ける妙な響きはありません。

 しかし男性は神威の一つの側面──片面にすぎないのです。その側面がこれまでの永い地上の歴史の中で存分に発揮されてきました。が、

これより人類が十全な体験を積むためには、もう一方の側面を発揮しなければなりません。これまでは男性が先頭に立って引っぱってきました。そしてそれなりの所産を手にしました。これからの未来にはそれとは異質の、もっと愉しい資質が用意されております。 アーネル ±

      

2 男性支配型から女性主導型へ

 一九一九年三月二十四日  月曜日

 吾々から送られるものをそのまま書き記し、疑問に思えることがあってもいちいち質問しないでいただきたい。全部を書き終わってから読み直し、全体として判断し、部分的な詮索はしないでいただきたい。

このようなことを今になって改めて申し上げるのも、吾々が用意している通信は多くの人々にとって承服しかねるものであろうと思われるからです。ですが、とにかく書き留めていただきたい。

吾々も語るべきことは語らねばなりません。それをこれより簡略に述べてみましょう。

 キリストがガリラヤのイエスとして地上に降誕するまでの人類の進化は、知性においても力においても、男性の〝右腕〟による支配の線をたどっておりました。

それが人類進化における男性的要素でした。他にもさまざまな要素があったにしても、それは本流に対する支流のようなもので、進化の一般的潮流にとっては大して意味はありません。私はこれよりそうした細かいことは脇へ置いて、本流について語ります。

 イエスは地上に降り、人間社会の大混乱を鎮静させるためのオイルを注がれました。聞く耳をもつ者に、最後の勝利は腕力にせよ知力にせよ強き者の頭上に輝くのではなく、〝柔和(ニュウワ)なる者が大地を受け継ぐ〟(詩篇37・11)と説きました。

受け継ぐのです。奪うのではありません。お分かりでしょう。イエスは人類の未来のことを語っていたのです。

 この言葉を耳にした者は実際的であると同時に美しくかく真実であることを認めました。そして以来二千年近くにわたって両者を融合させようと努力してまいりました。


すなわち支配力に柔和さを継ぎ木しようとし、国内問題、国際問題、社会問題その他あらゆる面で両者をミックスさせようとしたのです。が両者は今なお融合するに至っておりません。そこである者はキリスト教は公共問題においては無能であると言います。


その結論は間違っております。キリストの教えは地上の人生において唯一永続性のある不変の真理です。

 人間は暴力と威圧による支配が誤りであったことを認識しました。が、それを改めるためにこれまでに行ってきたことは、その誤った要素はそのまま留めておいて、それを柔和さという穏やかな要素によって柔らげることでした。

つまり一方では男性が相変わらずその支配的立場を維持しつつ、他方では女性的要素である柔和さによってその支配に柔らかさを加味しようと努力したのです。

結果は失敗でした。あとは貴殿にも推察がつくでしょう。唯一残されたコースはその誤った要素を棄て、女性的要素である柔和さを地上生活における第一位の要素としていくことです。
 地球の過去は男性の過去でした。地球の未来は女性の未来です。

 女性は今、自分たちの性の保護のための何か新しいものの出現を期待する概念が体内から突き上げてくるのを感じております。それは感心しません。

ひとりよがりの考えであり、従ってそうあってはならないことだからです。かの昔、一人の女性が救世主を生みましたが、それは女性の救世主としてではなく全人類の救世主として誕生しました。現在の女性の陣痛から生まれるものも同じものとなるでしょう。

 何か新しいものを求める気持の突き上げを感じて女性は子孫への準備に取りかかりました。男児のための衣服を作りはじめております。私は今〝男児〟と言いました。

女性が作りつつある衣服はやはり男性のためのものなのです。そのための布を求めに女性は、男性だけが売買をしている市場へ行って物々交換を申し出ました。

〝私たち女性にだって男性の仕事はできます〟と言います。そのとき女性は自分が新しいブドウ酒を古い皮袋に入れているにすぎないことに気づいていません。いけません。女性が男性の立場に立つことをしては両者とも滅びます。

女性は男性がこれまでに学ばされてきた苦い体験から女性としての教訓を学び取らなくてはいけません。男性はどこに挫折の原因があったかを学びました。

ではどうすべきかが分からぬまま迷っております。片方の手で過去をしっかりと握り、もう一方の手を未来に向けて差し出しています。が、その手にはいまだに何も握られていません。過去を握りしめている手を放さないかぎり空をつかむばかりでしょう。

  女性は今、かつての男性がたどったのと同じ道をたどろうとしています。男性と対等に事を牛耳ろうとしています。しかし女性の未来はその方向にあるのではありません。

女性が人類を支配することにはなりません。単独ではもとより、男性と対等の立場でも支配することにもなりません。これからは女性が主導(リード)する時代です。支配するのではありません。

 前にも述べた通り、これまでの地球の進化は物的なものへ向けての下降線をたどって来ました。そこでは男性が先頭に立ち、荒々しい闘争のために必要な甲冑がよく似合いました。が、


その下降線も折り返し点に到達し、今まさにそこを後にして霊的発達へ向けて上昇を開始したところです。霊の世界には人間が考え出した(神学の)ような、ややこしい戒律(キマリ)による規制はありません。あるのはただ愛による導きのみです。

地上にも、優位の立場からの支配は女性の性(さが)に不向きであることを悟った暁に女性が誘導(ガイダンス)によってリードしていく場があります。

 しかし、その女性主導の未来がどういうものであるかは、いかなる形にせよ説明するのはとても困難です。と言うのも、これまでのそうした主導権の概念は支配する者と支配される者、抑える者と従わされる者、といった二者の対立関係を含んでおりますが、これからの主導権にはそうした対立関係は含まれていないからです。

この〝主導〟という用語からしてすでに一方が先を行き他方がその後に付いていくという感じ、一種の強制観念をもっています。これからの人類を待ちうけていると私が言っている主導はそれとは異なるものです。

 次のように説明すればどうでしょうか。それはイエス・キリストにおいて明白に体現されております。男性としての美質が一かけらの不快さも醜さも伴わずに体現されていると同時に、女性としての優しさが一かけらの弱々しさも伴わずに融合されております。

未来は両者が、すなわち男性と女性とが、いかに完璧に一方が他方を吸収した形であっても、二つの性としてではなく、一つの性の二つの側面という形をとることになります。

 力の支配するところでは〝オレが先だ。お前はあとに付いてこい〟ということになります。愛の支配するところでは言葉は不要です。以心伝心で〝最愛なる者よ、ともに歩もう〟ということになります。


 私の言わんとすることがこれでお分かりと思います。


──分かります。ただ、今日までの慣習に親しんできている者にとっては、一方が(優しく)手引きし他方が(素直に)付いて行くようでなければ進歩が得られないというのは、いささか理解が困難です。

 おっしゃる通りです。今の言いまわしにも苦心のあとがうかがえます。いま貴殿は地上でいう組織や整然とした規制、軍隊や大企業における上下の関係を思わせる語句を使用しておられます。

 もちろん天界においても整然たる序列が存在します。しかしそれは権力の大小ではなく、あらゆる力の背後に控えるもの──愛がそうあらしめるのです。

 実際においてそれが何を意味するかを次の事実から微(カス)かにでも心に描いてみてください。比喩的な意味ではなく実際の事実として、地上でいうところの高い者と低い者、偉大な者と劣等なる者は存在しません。

地上から来たばかりの霊と天使との間にもかならず共通した潜在的要素が存在します。

その意味で、若い霊も潜在的には天使と同じであるのみならず、さらに上の大天使、力天使、能天使とも同じであると言えるのです。

(訳者注──ここではオーエンがキリスト教の牧師であることから神学における天使の分類用語を使用しているまでのことで、実際にそういう名称で呼ばれているわけではない。要するに造化の仕事に直接たずさわっている高級霊と考えればよい)

 さらに、たとえば天使と父との関係について言えば、地上的な観点からすれば当然天使の方が小さい存在ですが、天界全体として考えた時、両者の関係は一つの荘厳なる実在すなわち絶対神の中に吸収されてしまいます。

そこにおいては天使も絶対神と一体となります。〝より大きい〟も〝より小さい〟もありません。それは外部にまとう衣服については言えましょう。

宝石のわく飾りのようなものです。が、内奥の至聖所ではその差別はありません。

 そのことはキリストの顕現の度に思い知らされることです。すなわちキリストはたしかに王であり吾々はその従臣です。しかしキリストはその王国全体と一体であり、その意味において従臣もその王の座を共有していることになるのです。

キリストが命を下し、指揮し、吾々はその命に服し、指揮に従います。が、命じられたからそうするのではなく、キリストを敬慕するからであり、キリストもまた吾々を敬愛なさるからです。お分かりでしょうか。

ともかく、こうした天上的な洞察力の光をいくばくかでも人類の未来へ向けて照射していただきたい。きっとそこに、こうして貴殿に語りかけている吾々に啓示されているものを垣間みることができるでしょう。

 また次のことも銘記してください。理性というものは男性的資質に属し、したがって私のいう未来を垣間みる手段としては不適当であることです。

直感は女性的資質に属し、人間の携帯用望遠鏡のレンズとしては理性より上質です。

思うに女性がその直感力をもって未来をどう読まれるにしても、理性的に得心がいかないと満足しない男性よりは、私が言わんとすることを素直に理解してくださるでしょう。女性は知的理解をしつこく求めようとしません。理屈にこだわらないのです。

あまりその必要性がないとも言えます。直感力が具わっているからです。それで十分間に合いますし、これより先は女性と男性の双方にとってそれがさらに有益となっていくことでしょう。


──例によって寓話をお願いしたいですね。

 ある金細工人が王妃の腕輪(ブレスレット)に付ける宝石としてルビーとエメラルドのどちらにしようかと思案しました。彼は迷いました。ルビーは王様がお好みであり、エメラルドは王妃がお好みだったからです。

思案にあまった彼は妻を呼んで、どう思うかと聞いてみました。すると妻は〝あたしだったらダイヤにする〟と答えました。

〝なぜだ。ダイヤはどっちの色でもないぞ〟と聞くと、〝お持ちになってみられてはいかが?〟と答えます。彼は言われた通りに持参してみることにしました。

 恐るおそる宮殿を訪れてまず王様にお見せしたところ、〝でかしたぞ。このダイヤはなかなかの透明度をしている。ルビーの輝きがあふれんばかりじゃ。さっそく妃(キサキ)のところへ持っていって見せてやってくれ〟と言います。

そこで王妃のところへ持っていくと王妃もことのほか喜ばれ、〝なかなか宝石に目が高いのお。このダイヤはエメラルドの輝きをしている。さっそくそれでブレスレットを仕上げておくれでないか〟とおっしゃいます。

 わけが分からないまま帰ってきた金細工人は妻になぜ王妃はこのダイヤが気に入られたのだろうかと聞いてみました。

すると妻は〝お二人はどんなご様子だったのですか〟と尋ねます。〝お二人とも大そうお気に召されたんだ。王様はなかなか上質でルビー色をしているとおっしゃり、王妃もなかなか上質でエメラルド色をしているとおっしゃった〟と彼は言いました。

 すると妻は答えました。〝でもお二人のおっしゃる通りですよ。ルビー色もエメラルド色も、砕いてみれば何もない無色の中から出ているのであり、ほかにも数多くの色が混ざり合っているのです。

愛はその底にすべての徳を融合させて含んでおり、一つ一つの徳が愛の光線の一条(ヒトスジ)なのです。王様も王妃もその透明な輝きの中にお好みの色をごらんになられたのです。


お二人が違う色をごらんになったからといって別に不思議に思われることはありません。お互いの好みの色はその結晶体の中で融合し、自他の区別をなくして本来の輝きの中に埋没してしまっているのです。それはお二人が深く愛し合う仲だからですよ〟
                            アーネル ± 


3 崇高なる法悦の境地

一九一九年三年二十五日  火曜日

 さて、未来へ向けて矢が放たれたところで一たん出発点へ戻り、これまでお伝えしたメッセージを少しばかり手直しをしておきましょう。私が述べたのは人類の発達途上における目立った特徴を拾いながら大ざっぱな線について語ったまでです。

しかし人類が今入りかけた機構は単純ではなく複雑をきわめております。次元の異なる界がいくつも浸透し合っているように、いくつもの発展の流れが合流して人類進化の大河をなしているのです。

 私がこれからは男性支配が女性の柔和さにその場をゆずると言っても、男性支配という要素が完全に消滅するという意味ではありません。そういうことは有り得ません。

人類の物的形態へ向けての進化には創造主が意図した目的があるのであり、その目的は、成就されればすぐに廃棄されてしまう程度のものではありません。ようやく最終段階を迎えつつある進化の現段階は、男性の霊的資質を高める上で不可欠だったのです。

ですから、その段階で身につけた支配性は、未来の高揚のために今形成しつつある新しい資質の中に融合されていくことでしょう。

 ダイヤからルビーの光が除去されることはありません。もしそうなればダイヤの燦然たる美しさが失われます。そうではなく、将来そのダイヤが新たな角度から光を当てられた時に、その輝きがこれまでよりは抑えられたものになるということです。

かくしてこれからのある一定期間は、そのまたたきが最も顕著となるのはこれまでのルビーではなくエメラルドとなることでしょう。(訳者注──前回の通信の最後の寓話になぞらえて、ルビーが男性的性格、エメラルドが女性的性格を象徴している)

 また遠い過去においてそのルビーに先立って他の色彩が顕著であった時期があるごとく、ダイヤの内奥には、このエメラルドの時代の終ったあと、永遠の時の中で然るべき環境を得て顕現するさらに別の色彩があるのです。

 さらに言えば、私のいう女性の新時代は激流のごとく押し寄せるのではなく、地上の人間が進歩というものを表現する時によく使う言い方に従えば、ゆっくりとした足取りで訪れます。言っておきますが、その時代はまだ誕生しておりません。が、

いずれ時が熟せば誕生します。その時期が近づいた時は──イヤ、(ここで寓話に変わる──訳者)救世主は夜のうちに誕生し、ほとんど誰にも気づかれなかった。

しかも新しい時代の泉となり源となった。それから世の中は平凡なコースをたどり、AUC(ローマ紀元。紀元前七五三年を元年とする)を使用している間は何の途切れもなく続いた。

が今日、かの素性の知れぬ赤子(イエス)の誕生がもとでキリスト教国のすべてがDU(西暦紀元)を採用することになり、AUCは地上から消えた。貴殿は私の寓話を気に入ってくださるので、どうか以上の話から何かの意味を読み取ってください。

 また例の天使の塔におけるキリストの顕現の話を思い出していただきたい。あれはこの地上への吾々の使命に備えるための学習の一環だったのです。

私の叙述から、その学習がいかに徹底したものであったかを読み取っていただけるものと思います。物的宇宙の創造を基盤とし、宇宙を構成する原子の構造を教えてくださったのです。

それが鉱物、植物、動物、そして人間となっていく永くかつ荘厳な生命の進化の過程が啓示されたのです。さらに学習は続き、地球に限定して、その生命を構成する要素を分析して、種類別に十分な検討を加えました。

それから地球の未来をのぞかせていただき、それが終わって今こうして貴殿にメッセージを送っているわけです。


 その人類の未来をのぞかせていただいた時の顕現のすべてを叙述することはとても出来ません。ダイヤモンド(※)の内奥には分光器にかからない性質の光線が秘められているからです。

ですが、その得も言われぬ美と秘密と吾々にとっての励ましに満ちた荘厳なるスペクタクルについて、貴殿にも理解しうる範囲のことを語ってみましょう。(※これも前回の通信の寓話になぞらえて、すべての色彩が完全に融合したときの無色透明な状態を象徴している──訳者)

 地球を取り巻く例の霧状の暗雲が天界の化学によって本来の要素に分析されました。それを個々に分離し、それぞれの専門家の手による作業にまかされました。


その作業によって質を転換され、一段と健康な要素に再調合する過程がほぼ完了の段階に近づいた時に、吾々は各自しばし休息せよとの伝達をうけ、その間は他の霊団が引き受けてくれました。

 そこで吾々は所定の場所へ集合しました。見ると天界のはるか上層へ向けて一段また一段と、無数の軍勢が幾重にも連なっておりました。

得も言われぬ壮麗なる光景で、事業達成への一糸乱れぬ態勢に吾々は勇気百倍の思いがいたしました。その数知れぬ軍勢の一人一人が地球上の同胞の救済のために何らかの役割分担を持ち、その目的意識が総監督たるキリストにおいて具現されているのでした。

 それを内側から見上げれば、位階と霊格にしたがって弧を描いて整列している色彩が、あたかも無数の虹を見るごとくに遙か遠くへと連なっておりました。

 そしてその中間に広がる、一個の宇宙にも相当する大きさの空間の中へ、すでにお話したことのある静寂という実体(一章2)が流れ込んできました。それはすなわち、そこに吾らが王が実在されるということです。

静寂の訪れを感じて吾々はいつものごとく讃仰のために頭(コウベ)を垂れました。崇高なる畏敬の念の中に法悦を味わい、目に見えざる来賓であるキリストを焦点とした愛の和合の中にあって、吾々はただただ頭を垂れたまま待機しておりました。 アーネル ±

 
4 地球の未来像の顕現
 一九一九年三月二十八日  金曜日

 この段階で吾々はすでに、それぞれの天界の住処(スミカ)にふさわしい本来の身体的条件を回復しておりました。それ故、吾々は実際は地球を中心としてそれを取り囲むように位置しているのですが、地球の姿はすでに吾々の目には映じませんでした。

もちろんこのことは私自身の境涯に視点をおいて述べたまでで、私より地球に接近した界層の者のことは知りません。多分彼らにはそれらしきものは見えたことでしょう。これから述べることは私自身の視力で見たかぎりのことです。

 私はその巨大な虚空の内部を凝視しました。すべてが空(クウ)です。その虚空が、それを取り巻くように存在する光輝によって明るく照らし出されているにもかかわらず、その内部の奥底に近づくにつれて次第に暗さが増していきます。

そしてその中心部になるとまさに暗黒です。そう見ているうちに、その暗黒の虚空の中心部から嘆き悲しむ声に似た音が聞こえて来ました。

それが空間的な〝場〟を形成している吾々の方角へ近づくにつれてうねりを増し四方へ広がっていきます。が、その音が大きくなってくるといつしか新しい要素が加わり、さらにまた別の要素が加わり、次々と要素を増していって、ついに数々の音階からなる和音(コード)となりました。

初めのうちは不協和音でしたが吾々に近づくにつれて次第に整い、ついには虚空の全域に一つに調和した太く低い音が響きわたりました。そうなった時はもはや嘆き悲しむ響きではなく、雄々しいダイヤペーソンとなっておりました。

 それがしばらく続きました。するとこんどはそれに軽い音色が加わって全体がそれまでのバス(男声の最低音)からテノール(男性の最高音)へと変わりました。変化はなおも続き、ついに吾々が囲む空間全体に女性の声による明るい合唱が響きわたりました。

 そのハーモニーが盛り上がるにつれて光もまた輝きを増し、いよいよ最高潮に達したとき吾々が取り囲む内部の空間が得も言われぬ色合いを見せる光輝に照らし出されました。

そしてその中央部、すなわち吾々の誰からも遠く離れた位置で顕現が始まっていることが分かりました。それは次のようなものでした。

 まず地球が水晶球となって出現し、その上に一人の少年が立っています。やがてその横に少女が現れ、互いに手を取り合いました。


そしてその優しいあどけない顔を上方へ向け、じっと見つめているうちに二人ともいつしか青年に変身し、一方、立っている地球が膨(フク)れだして、かなりの大きさになりました。

するとその一ばん上部に曲線上に天蓋のついた玉座が出現し、女性の方が男性の手を引いて上がり段のところへ案内し、そこで女性が跪(ひざまず)くと男性だけが上がり段をのぼって玉座の中へ入りました。

 そこへ大ぜいの従臣が近づいて玉座のまわりに立ち、青年に王冠と剣(ツルギ)を進呈し、豊かな刺しゅうを施した深紅のマントを両肩にお掛けしました。それを合図に合唱隊が次のような主旨の祝福の歌をうたい上げました。

 「あなたは地球の全生命の主宰者として、霊の世界よりお出ましになられました。あなたは形態の世界である外的宇宙の中へ踏み込まれ、あたりを見まわされました。

そして両足でしっかりと踏みしめられて、地球がどこかしら不安定なところを有しながらも、よき天体であるとお感じになられました。それから勇を鼓して一方の足を踏み出し、さらにもう一方の足を踏み出され、かくして地上を征服なさいました。

 そこで再び周囲を見渡されて、あなたのものとなったものを点検なさいました。それに機嫌をよくされたあなたは、その中で最も麗しいものに愛をささやかれました。そのとき万物の父があなたのために宝庫よりお出しになられた全至宝の中でも、あなたにとっては女性が最愛の宝物となりました。

 征服者としての権限により主宰者となられたあなたへの祝福として詠唱した以上のことは、その通りでございましょうか」
 青年は剣を膝の上に斜めに置いてこう答えました。

 地上での数々の闘いに明け暮れた私をご覧になってきたそなたたちが歌われた通りである。正しくご覧になり、それを正しく語られた。さすがにわれらの共通の主の家臣である。

 さて私は所期の目的を果たし、それが正当であったことを宣言した。武勇において地上で私の右に出る者はおりませぬ。地球は私が譲りうける。私みずからその正当性を主張し、今それを立証したところである。

 しかし私にはまだ心にひっかかるものがある。これまでの荒々しい征服が終了した今、私は次の目標をいずこへ求めればよいのであろう。永きにわたって不穏であった地球もどうにか平穏を取り戻した。が、まだ真の平和とは言えぬ。


地球は平穏な状態にうんざりとし、明日の平和を求める今日の争いにこれきり永遠に別れを告げて、真の平和を求めている。

 そこで、これまで私を補佐してこられたそなたたち天使の諸君にお願いしたい。幾度も耳うちしてくれた助言を無視して私がこれまでとかく闘いへの道を選んできて、さぞ不快に思われたことであろう。それは私も心を痛めたことであった。

しかし今や私も高価な犠牲を払って叡智を獲得した。代償が大きかっただけ、それだけ身に泌みている。そこで、これより私はいかなる道を選ぶべきか、そなたたちの助言をいただきたい。

私もこれまでの私とは違う。助言を聞き入れる耳ができている。今や闘いも終わり、この玉座へ向けて昇り続けたその荒々しさに、われながら嫌気がさしているところである」

 そう言い終わると従臣たちが玉座の上がり段を境にして両わきに分かれて立ち並び、その中間に通路ができました。するとその中央にさきの女性が青のふちどりのある銀のロープで身を包んで現れました。

清楚に両手を前で組み、柔和さをたたえた姿で立っておられます。が、その眼差しは玉座より見下ろしている若き王の顔へ一直線に向けられています。

 やがて彼はおもむろに膝の上の剣を取り上げ、王冠を自分の頭から下ろして階段をおり、その女性のそばに立たれました。そして女性が差し出した両腕にその剣を置き、冠を頭上に置きました。それから一礼して女性の眉に口づけをしてから、こう告げました。

 「そなたと私とで手を取り合って歩んで来た長い旅において私は、数々の危機に際してそなたの保護者となり力となって来ました。嵐に際しては私のマントでそなたを包んであげました。


急流を渡るに際しては身を挺して流れをさえぎってあげました。が、行く手を阻(ハバ)む危険もなくなり、嵐も洪水も鎮まり、夏のそよ風のごとき音楽と化しました。そして今、そなたは無事ここに私とともにあります。

 しかし、この機をもって私は剣をそなたに譲ります。その剣をもってその王冠を守ってきました。ここにおいてその両者を揃えてそなたに譲ります。

もはや私が所有しておくべき時代ではなくなりました。どうかお受け取りいただきたい。これは私のこれまでの業績を記念する卑しからぬ品であり、あくまで私のものではありますが、それが象徴するすべてのものとともに、そなたにお預けいたします。

どうかこれ以後もそなたの優しさを失うことなく、私が愛をもって授けるこの二つの品を愛をもって受け取っていただきたい。それが私より贈ることのできる唯一のもの───地球とその二つの品のみです」

 青年がそう言い終わると女性は剣を胸に抱きかかえ、右手を差しのべて彼の手を取り、玉座へ向かって階段を上がり玉座の前に並んでお立ちになりました。

そこでわずかな間を置いたあと彼は気を利かして一歩わきへ寄り、女性に向かって一礼しました。すると女性はためらいもなく玉座に腰を下ろされました。彼の方はわきに立ったまま、これでよしといった表情で女性の方を見つめておりました。

 ところが不思議なことに、私が改めて女性の方へ目をやると、左胸に抱えていた剣はもはや剣ではなく、虹の色をした宝石で飾られたヤシの葉と化しておりました。

王冠も変化しており、黄金と鉄の重い輪が今はヒナギクの花輪となって、星のごとく輝く青と緑と白と濃い黄色の宝石で飾られた美しい茶色の髪の上に置かれていました。その種の黄色は地上には見当たりません。

 若き王も変っておりました。お顔には穏やかさが加わり、お姿全体に落着きが加わっておりました。そして身につけておられるロープは旅行用でもなく戦争用でもなく、ゆったりとして長く垂れ下がり、うっすらとした黄金色に輝き、そのひだに赤色が隠れておりました。
 そこで青年が女性に向かってこう言いました。

 「私からの贈りものを受け取ってくれたことに礼を申します。では、これより先、私とそなたではなく、そなたと私となるべき時代のたどるべき道をお示し願いたい」

 これに答えて女性が言いました。

 「それはなりませぬ。私とあなたさまの間柄は、あなたさまと私との間柄と同じだからでございます。これより先も幾久しく二人ともども歩みましょう。ただ、たどるべき道は私が決めましょう。しかるべき道を私が用意いたします。

しかし、その道を先頭きって歩まれるのは、これからもあなたさまでございます」
   アーネル ± 
 

シルバーバーチの霊訓 古代霊は語る

 世界最高峰の霊界通信 ”シルバーバーチの霊訓” より、

『古代霊は語る』この1冊で本質をつかめる入門編です。
近藤千雄訳編




第四章 苦しみと悲しみと ──魂の試練

 前章では再生というスピリチュアリズム思想の中でも最も異論の多い課題を取り上げました。たとえ異論はあっても、そこに必ずや真実があるはずであり、万一再生することが真実であれば、これほど人生観に与える影響の大きいものはないと考えたからです。

 影響が大きいと言えば、死後の存続という事実こそ、まずだれにとっても画期的な影響を与える話題であるはずです。

私自身も哲学的な思考の芽生え始めた高校時代にスピリチュアリズムに接して、万一死後もこのまま生き続けるとしたら、賢こぶった哲学的で抽象的な思考にふけっている場合ではないという、せっぱつまった心境で心霊学に取り組み、結果的には一種の思考革命のようなものを体験しました。

 つまり〝生と死〟を深刻な主題としていた思考形式から、死を超越した生のみの思考形式に変異し、それ以後は想像の翼がひとりでにはばたいて、自由自在に広がっていく思いがしました。そしてそれは今なお続いており、私にとってこれほど楽しいレクリエーションはないといってもいいほどです。

 それというのも、シルバー・バーチやマイヤース、イムペレーター等のアカ抜けのした霊界通信のおかげにほかならないのですが、その前に、心霊実験会において目に見えない霊の存在をまざまざと見せつけられていたことが大きな転換のキッカケとなっているようです。


 この死後の存続という事実は今では少なくともスピリチュアリズムでは自明の事実であり、真理探究の大前提となっておりますが、私は、前章でも述べた通り、再生に関する事実も、第一級の霊界通信の述べるところが完全に符節を合しているところから、まず前章で紹介したところが再生の真相とみて差し支えないと信じます。

 とくに半世紀にわたるシルバー・バーチの霊言が、その間いささかの矛盾撞着もなく、首尾一貫して同じ説を述べ続けていることに注目すべきだと考えます。

 そのシルバー・バーチが説いていることの中で特に着目すべきことは、いかなる真理も、それを受け入れる準備が魂に備わるまで、言いかえればそれを理解するだけの意識の開発、難かしく言えば霊格の進化がなければ決して悟ることはできない、ということです。

 従って知識ばかりをいくら溜め込んでも、それが即その人の成長のあかしとはならない。シルバー・バーチの譬えでいえば、世界中の蔵書を全部読んだところで、それを実地に体得しないことには何にもならない。再生する目的はつまるところは体験を求めに来ることにほかならない、というわけです。

 さてその〝体験〟ということを考えてみますと、同じ条件下に置かれても、人によってその反応は百人百様の違いがあるはずです。ましてや男性と女性とでは比較しようもないほどの差があります。

男らしいといい、女らしいといっても、地上の人間に関するかぎり、それは肉体の生理的表現にすぎず、つきつめて言えば性ホルモンの違いというにすぎません。前章のシルバー・バーチの最後の言葉にあるように、大半の人間は物質によって魂が右往左往しているのが現実の姿であることは確かです。

 そうなると当然一回や二回の地上生活ではとても十分とは言えないわけで、その辺に再生の必要性が生じてくるわけですが、厳密に言えばマイヤースの言う通り、たとえ何十回何百回再生を繰り返しても地上体験による魂の成長には限度がある。

つまり魂に響くほどの体験、俗な言い方をすれば、骨身にしみるほどの体験がそうやたらにあるものではないことは、実際に地上生活を送っているわれわれが一ばんよく知っています。

 となると、漫然と日常生活を送ることには何の意味もないことになり、そこに守護霊を中心とする背後霊団の配慮の必要性が生じてまいります。表向きは平凡な生活を送っているようで、その実は次々と悩みや苦労、悲しみのタネが絶えないのが現実です。

シルバー・バーチに言わせれば、それは全て魂の試練として神が与えて下さるのであって、それが無かったら人生は何の意味もないと言います。


 『あなたがたもそのうち肉体の束縛から離れて、物質的な曇りのない目で、地上で送った人生を振り返る時が来るでしょう。その時、その出来ごとの一つ一つがそれぞれに意味をもち、魂の成長と可能性の開発にとってそれなりの教訓をもっていたことを知るはずです。』

 そう述べて、困難も試練もない、トラブルも痛みもない人生は到底あり得ないことを強調します。では少し長くなりますが、シルバー・バーチの訓えに耳を傾けてみましょう。


『この交霊会に出席される方々が、もし私の説く真理を聞くことによってラクな人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。

それに敢然と立ち向い、それを克服し、そして一層力強い人間となって下さることが私どもの真の目的なのです。

 霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それは一たん身についたらお金を落とすような具合に失くしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐え切れないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません。

解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが、旅する魂の当然の姿なのです。

 それはもちろんラクなことではありません。しかし魂の宝はそう易々と手に入るものではありません。もしラクに手に入るものであれば、何も苦労する必要などありますまい。

痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一ばんの薬なのです。

 私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、あえて手をこまねいて傍観するほかない場合がよくあります。そこからある教訓を学び取り、霊的に成長してもらいたいと願い祈りながら、です。

知識にはかならず責任が伴うものです。その責任をとってもらうわけです。霊は一たん視野が開ければ、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。

さんさんと太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身にしみません。魂が目を覚ましそれまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲たれこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。

 地上の人生は所詮は一つの長い闘いであり試練なのです。魂に秘められた可能性を試される職場に身を置いていると言ってもいいでしょう。

魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が秘められております。即ち動物的進化の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなたの個的存在の源である神的属性も秘められているのです。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。

地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには是非とも厳しい試練が必要なのです。

 運命の十字路にさしかかる度毎に、右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然として立ち向うか、それとも回避するかの選択を迫られますが、その判断はあなたの自由意志にまかされています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。

その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されているのです。

そのチャンスを前にして、積極姿勢をとるか消極姿勢をとるか、滅私の態度にでるか利己主義に走るかは、あなた自身の判断によってきまります。

 地上生活はその選択の連続といってよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生をおりなしていくのであり、同時に又、寿命つきて霊界に来た時に霊界で待ち受けている新しい生活、新しい仕事に対する準備が十分できているか否か、能力的に適当か不適当か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まるのです。単純なようで実に複雑です。

 そのことで忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。地上に再生するに際して、各自は地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。

才能がありながらそれを使用しない者は、才能のない人よりはそれだけ大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。

 悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に降れた時、一ばんよく眠れる魂の目を醒まさせるものです。魂は肉体の奥深くに埋もれているために、それを目覚めさせるためには余ほどの強烈な体験を必要とします。

悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる準備の出来た霊にとって深甚なる価値があると言えるのです。

 繰り返し述べて来たことですが、真理は魂がそれを悟る準備の出来た時初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。こちらからいかなる援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。

霊的知識を理解する時機を決するのは魂の発達程度です。魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれたあなたがた人間が、物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来ごとを物的ものさしで量り、考え、評価するのは無理もないことではありますが、それは長い物語の中のホンの些細なエピソード(小話)にすぎません。

 魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂の肥しです。魂がその秘められた力を発揮するにはどういう肥しを摂取すればいいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。

失意のドン底にある時はもう全てが終ったかの感じになるものですが、実はそこから始まるのです。あなたにはまだまだ発揮されていない力───それまで発揮されたものより、はるかに大きな力が宿されているのです。

それはラクな人生の中では決して発揮されません。苦難と困難の中でこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないとその純金の姿を拝むことが出来ないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出て来ないのです。それ以外に方法がないのです。ほかにもあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。

 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気ラクな人生ばかりを送っている者よりも一段と大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。

何もかもがうまく行き、日向ばかりの道を歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということなのです。

 困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂の肥しなのです。むろん困難のさ中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。つらいのですから。

しかしあとでその時を振り返ってみたとき、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥しであったことを知って、神に感謝するに相違ありません。この世に生まれくる霊魂がみなラクな暮しを送っていては、そこに進歩も開発も個性も成就もありません。

これはきびしい辛い教訓には違いありませんが、何事も、価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞は、そう易々と手に入るものではありません。
℘112   
 神は瞬時たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。

あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりにも小さすぎるのです。物的尺度でみるかぎり、世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真実の敗北しか見えないでしょう。当然かも知れません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

 地上ではかならずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律はかならずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが、地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤はかならずその平衡を取りもどします。

霊的に観て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身にはわかりません。もしかしたら、あなたにとって一ばんイヤなことが実は、あなたの祈りに対する最高の回答であることも有りうるのです。

 ですから、なかなかむずかしいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するよう努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。祈りはそれなりの回答が与えられます。

しかしそれはかならずしもあなたがたが望んでいる通りの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとって一ばん望ましい形で与えられます。神は決してわが子を見棄てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的な物さしで批判することはやめなければいけません。


 絶対に誤ることのない霊的真理がいくつかありますが、そのうちから二つだけ紹介してみましょう。一つは動機が純粋であれば、どんなことをしても決して危害をこうむることはないということ。もう一つは人のためという熱意に燃える者にはかならずそのチャンスが与えられるということ。その二つです。あせってはいけません。

何事も気長に構えることです。何しろこの地上に意識を持った生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。

さらに人間という形態が今日のような組織体をもつに至るのに何百万年もかかりました。その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。その力、宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤ることのないその力を信じることです。

 解決しなければならない問題もなく、争うべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」───こうおっしゃる方があるかも知れません。

しかし私は実際にそれを体験してきたのです。あなた方よりはるかに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。一つとして偶然ということがないのです。

偶発事故というものがないのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然と分かるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。

 あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静にそして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。

そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことが出来るのです。愛がすべての根源です。愛───人間的愛はそのホンのささやかな表現にすぎませんが───愛こそ神の摂理の遂行者なのです。

 霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にもかならずや神の御加護があることを一片の疑いもなく信じることが出来なければいけません。苦難にも悲しみにもくじけてはいけません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも優るからです。

 恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心をむしばみます。恐怖心は理性をくじき、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。


 つとめて恐れの念を打ち消すことです。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信にあふれ、決して乱れることがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対 all-powerful というだけではありません。

絶対的な叡智 all-wisdom であり、また絶対的な愛 all-love でもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力があるのです。

 はがねは火によってこそ鍛えられるのです。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそなのです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証しです。

夜明けの前に暗黒があるように、魂が輝くには暗黒の体験がなくてはなりません。そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善をつくし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。

 霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません。陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、いわば硬貨の表と裏のようなものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。

人間の進歩のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。

そうした法則の全てに通暁することは人間には不可能です。どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかはありません。盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。

 
 知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を産み出さなくてはいけません。そういう義務があるのです。それも一つの法則なのです。

恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。われわれは信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念はわれわれ霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。

 太陽がさんさんと輝いて、全てが順調で、銀行にたっぷり預金もあるような時に、神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスなのです。

しかるべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がり且つ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆をかかげる時です。

 霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験してはじめて、それを理解するための魂の準備が出来あがるのです。

その点がどうもよくわかっていただけないようです。タネを蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりますまい。養分が揃っていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまく揃った時にようやくタネが芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。

 人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇です。何もかもうまく行き、鼻歌まじりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて、霊的知識を理解する素地が出来あがるのです。

そして一たん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮しはじめることになるのです。

そして一たん身につけたら、もう二度と失うことはありません。それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて霊界から力なり影響なり、インスピレーションなり真理なり美なりを引き出せるようになるのです。魂が進化した分だけ、その分だけ自由意志が与えられるのです。

 霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されます。あなたは所詮、現在のあなたを超えることは出来ません。そこがあなたの限界といえます。が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。

いかなる困難、いかなる障害も、かならず克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質にまさります。霊は何ものにもまさります。霊こそ全てを造り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。』


 一問一答

問「もう一度やり直すチャンスは全ての人間に与えられるのでしょうか」


シルバー・バーチ「もちろんですとも。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終わるとしたら、この世は正に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しも出来ないことになります。

私どもが地上の人々にもたらすことの出来る最高の霊的知識は、人生は死でもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことが出来るということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。

人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人は内蔵している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスを与えられ、同時に又、愚かにも神の法則を無視し、人の迷惑も考えずに横柄に生きた人間は、その悪業の償いをするためのチャンスが与えられます。神の公正は完全です。

騙すことも、ごまかすことも出来ません。すべては神の眼下にあるのです。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きている人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです」


問「祈りに効果があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがおわかりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。

ああしてほしい、こうしてほしい。カネが欲しい、家が欲しい───こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。

一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。こうした祈りには魂の内省があります。

つまり自己の不完全さと欠点を意識するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。それが本能的に魂の潜在エネルギーを湧出させます。それが真の祈りなのです。

その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。ただ、これまでも何度か言ったことがありますが、そうした祈りを敢えて無視してその状態のまま放っておくことが、その祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。

こちらからあれこれ手段を講じることが却って当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の心底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。

つまりその願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起し、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。

危険の中にあっての祈りであれば保護するためのエネルギーが引き寄せられ、同時に、救急のための霊団が派遣されます。それは血縁関係によってつながっている霊もおれば、愛によってつながっている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救ってもらったことがあるので、その要領を心得ております」


問「いたいけない子供が不治の病で苦しむのはどうしてでしょう。神は本当に公正なのでしょうか」

シルバー・バーチ「霊的な問題を物的尺度で解こうとしても所詮ムリです。ホンの束の間の人生体験で永遠を推し量ることは出来ません。測り知れない法則によって支配されている神の公正を地上生活という小さな小さな体験でもって理解することは絶対にできません。

小さなものが大きいものを理解できるでしょうか。一滴の水が大海を語ることが出来るでしょうか。部分が全体を説明できるでしょうか。

宇宙はただただ〝驚ろくべき〟としか形容のしようのない法則によって支配されており、私はその法則に満腔の信頼をおいております。なぜなら、その法則は神の完全なる叡智の表現だからです。従ってその法則には一つとして間違いというものがありません。

あなたがた人間から見れば不公平に見えることがあるかも知れませんが、それはあなた方が全体のホンの一部しか見ていないからです。もし全体を見ることが出来たら、成るほどと思ってすぐさま考えを変えるはずです。

地上生活という束の間の人生を送っているかぎり〝永遠〟を理解することは出来ません。あなたがた人間にはいわゆる因果応報の働きは分かりません。

霊界の素晴らしさ、美しさ、不思議さは、到底人間には理解できません。というのは、それを譬えるものが地上に存在しないからです。判断の基準には限界があり、視野の狭い人間に一体どうすれば霊界の真相が説明できるのでしょう。


 ご質問の子供の病の話ですが、子供の身体はことごとく両親からの授りものですから、両親の身体の特質が良いも悪いもみな子供の身体に受けつがれていきます。そうなると不治の病に苦しめられる子も当然出てまいりましょう。しかし子供にも神の分霊が宿っております。あらゆる物的不自由を克服できる神性を宿しているのです。

物質は霊より劣ります。霊のしもべです。霊の方が主人なのです。霊的成長はゆっくりとしていますが、しかし着実です。霊的感性と理解力は魂がそれを受け入れる準備ができた時はじめて身につきます。

従って私どもの説く真理も、人によっては馬の耳に念仏で終ってしまうことがあります。が、そういうものなのです。霊的真理に心を打たれる人は、すでに魂がそれを受け入れるまでに成熟していたということです。まるで神の立場から物を言うような態度で物事を批判することは慎しむことです」


問「こんな戦争ばかり続くみじめな世の中に生まれてくる意義があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「生まれてくる来ないの問題は自由意志の問題です。がその問題はさておいて、地上の多くの部分が暗雲におおわれていることは確かです。が、みじめな世の中と言ってしまうのは適切でないと思います。地球には地球なりの宇宙での役割があります。

生命の旅路における一つの宿場です。魂の修行場として一度は通過しなくてはならない世界です。もしも必要でなければ存在するはずがありません。存在しているということそのことが、それなりの存在価値をもっていることを意味します。

 さて、その物質界に生まれてくるのは各自にそれなりの霊界での仕事があり、それを果たすための修練の場としてこの地上を選んでくるわけです。案ずるより産むが易しと言いますが、決断を下す際に縣念したことも、実際に地上に来てみると、結構なんとかやっていけることがわかります。

あなたがたが不幸な子を可哀そうにと思うその気持ちは得てして思い過しであることが多いのです。大人は子供の気持になって考えているつもりで、その実、大人の立場から人生を眺めていることが多いのです。つまり子供自身にとっては恐ろしくも苦しくもない体験を、大人の方が先まわりして恐ろしかろう、苦しかろうと案じているのです」


問「でも、それも必要な場合があるんじゃないでしょうか。たとえば空襲などというのは体験のあるなしにかかわらず恐ろしいことには違いないでしょう」

シルバー・バーチ「おっしゃる通りです。私が言いたいのも実はその点なのです。子供というのは大人と同じ状態に置かれても、その影響の受け方が違います。

オモチャの兵器をいじくっても、子供はその本当の意味、おそろしさはわかりません。それは実は有難いことなのです。子供は何事も体験しないと理解できないのです。頭だけでは理解できないのです」


問「いかなる苦難の中にあっても、又いかなる混乱の中にあっても恐怖心を抱いてはいけないとおっしゃいました。解決はすべて己れの中に見出せるとのことですが、それはどうすれば見出せるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上の人間の全てが同じレベルの意識をもっているわけではないことを、まず認識して下さい。つまり今地上にいる何億何十億という人間の一人一人がみな違った段階を歩んでいるということです。その中には長い長い旅路の末にようやく魂の内奥の神性が発揮される段階に至った人がいます。

混乱の中にあって冷静さを失わず、内部の神性を発揮させる心構えの出来た人がいます。そういう人は必ずや解決策を見出します。〝どうすれば〟とのことですが、実はそういう疑問を抱くこと自体が、あなたがまだまだその段階に至っていないことを意味します。あなたも神の一部なのです。あなたにも神が宿っているのです。

それはホンの小さな一部ですが、神的属性のすべてを潜在的に所有しております。完成されてはいませんが完全なのです。もしも苦境にあってその神性と波長を合わせ、心を平静に保ち、精神的に統一状態を維持することが出来れば、それは宇宙の大霊と一体となることであり、疑いも迷いもなく、従ってそこに恐怖心の入るスキはありません。

波長が合わないからです。そうした心構えが簡単に出来るとは申しません。努力すれば出来ると言っているのです。現にそうした境地に達した人は大勢います」


問「地上生活を繰り返したあとの、魂の究極の運命はどうなるでしょうか」

シルバー・バーチ「究極の運命ですか。私は究極のことは何も知りません。最初と最後のことは私にはどうにもならないのです。生命は永遠です。進化も無限です。始まりもなく終りもないのです。進化は永遠に続くのです」


問「自由意志の使用を過ったが為に罪を犯した場合、神はなぜ過って使用されるような自由意志を与えたのでしょうか」

シルバー・バーチ「では一体どうあって欲しいとおっしゃるのですか。絶対に過ちを犯すことのないように拵えられたロボットの方がいいとおっしゃるのですか。それとも、罪も犯せば聖人君子にもなれる可能性をもった生身の人間の方がいいと思われますか。ロボットは罪を犯さないかも知れませんが、自由意志も、従って進歩もありません。

それでいいのですか。進歩する為には成功と失敗の両方が必要なのです。失敗が無ければ成功もないからです。人生は常に相対的です。困難と矛盾対立の中にこそ進歩が得られるのです。

ラクだから進歩するのではありません。難しいからこそ進歩するのです。その苦しい過程が魂を鍛え、清め、そして成長させるのです。光のないのが闇であり、善でないのが悪であり、知識の無いのが無知であるわけです。

宇宙全体が光になってしまえば、それはもはや光ではなくなります。相対的体験の中にこそ人間は進歩が味わえるのです。ドン底を体験しなければ頂上の味は分かりません。苦労して得たものこそ価値があるのです。ラクに手に入れたものはそれなりの価値しかありません」


問「自殺した者は霊界でどうなるでしょうか」

シルバー・バーチ「それは一概には言えません。それまでどんな地上生活を送ったかにもよりますし、どういう性格だったかにもよりますし、霊格の高さにもよります。が、何といってもその動機が一ばん問題です。

キリスト教では自殺のすべてを一つの悪の中にひっくるめていますが、あれは間違いです。地上生活を自らの手で打ち切ることは決していいことではありませんが、中には情状酌量の余地のあるケースがあることも事実です」


問「でも、自殺してよかったと言えるケースはないでしょう」

シルバー・バーチ「それは絶対にありません。自分の生命を縮めて、それでよかろうはずはありません。しかし自殺した者がみな死後暗黒の中で何千年何万年も苦しむという説は事実に反します」


問「自殺行為は霊的進歩の妨げになりますか」

シルバー・バーチ「もちろんです」


問「神は耐え切れない程の苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか」

シルバー・バーチ「それは違います。その説明の順序としてまず、これには例外があることから話を進めましょう。

いわゆる精神異常者、霊的に言えば憑依霊の仕業による場合があります。が、この問題は今はワキへ置いておきましょう。いずれにせよこのケースはごく少数なのです。大多数は、私に言わせれば臆病者の逃避行為にすぎません。

果たすべき義務に真正面から取り組むことが出来ず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることが、その苦しみから逃れる一ばんラクな方法だと考えるわけです。ところが死んでも、というよりは死んだつもりなのに、相変らず自分がいる。

そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変らず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを造り出して、それが外界との接触を遮断します。そうした状態のまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。

 しかし、すでに述べたように、一ばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今のべた通りそう思惑どおりには行きません。

が一方、これはそう多くあるケースではありませんが、動機が利己主義ではなく利他主義に発しているとき、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発しているときは、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの臆病心から出た自殺とはまったく違ってきます。

 いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分自身の手で自分の人生を書き綴っているのです。

一たん書き記したものはもう二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。

 いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になればかならず光が見えてきます。魂の内奥に潜む勇気が湧き出て来ます。その時あなたはその分だけ魂を開発したことになり、霊界からの援助のチャンスも増えます。背負いきれないほどの荷は決して負わされません。

なぜならその荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。決して神が〝この男にはこれだけのものを背負わせてやれ〟と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。

 宇宙の絶対的な法則のはたらきによってその人間がそれまでに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷を拵えることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。

つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです」


問「因果律のことでしょうか」

シルバー・バーチ「そうです。それが全てです」


問「たとえば脳神経が異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪はないと考えてもよろしいでしょうか」

シルバー・バーチ「話をそういう風にもってこられると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第ではまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人を勇気づけているようなことになりかねないからです。

 もちろん私にはそんなつもりは毛頭ありません。いまのご質問でも、確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に見てみると、やはりスタートの時点において、私がさきほどから言っている〝責任からの逃避〟の心理が働いているのです。

もしもその人が何かにつまづいたその時点で〝オレは間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても男らしく立ち向かおう。絶対に背を向けないぞ〟と覚悟をきめていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来たはずです。

 ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われてきます。

ついにはノイローゼとなり、自分で自分がわからなくなっていくのです。問題はスタートの時点の心構えにあったのです」


問「いわゆるアクシデント(偶発事故)というのはあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「非常に難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈次第でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけのわからぬ盲目的な力でたまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。

宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。ただその法則の範囲内での自由意志は認められています。しかしその自由意志にもまた法則があります。わがまま勝手が許されるという意味ではありません。

従って偶発事故の起きる余地はあり得ません。偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるからです。ぜひ知っておいていただきたいのは、法則の中にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。

平面的な単純な法則ではないのです。よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。自由意志の法則と宿命の法則とが入り組んで作用しているのです」


問「病気は教訓として与えられるのだとか、人間性を築くためだとか言う人がおりますが、本当でしょうか」

シルバー・バーチ「言っていること自体は正しいのですが〝与えられる〟という言い方は適切でありません。私どもと同じくあなたがたも法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として起きるのです。

言ってみれば、霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。しかしその支払にはまた別に補償という法則もあります。

物ごとには得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観点からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。

 教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で表われることもあるわけです。

人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。よろこびと悲しみ、健康と病気、晴天とあらし、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。

というのは、その双方に神の意志が宿っているからです。良い事にだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知って下さい」


問「死体は火葬にした方がいいでしょうか」

シルバー・バーチ「絶対、火葬がよろしい。理由にはいろいろありますが、根本的には、肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体のまわりに在世中の所有物や装飾品を並べてみたところで何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆に、徒らに悲しみやさびしさを誘うだけです。

 人間の生命の灯が消えてただの物質に帰した死体に対しあまりに執着しすぎます。用事は終ったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。死体を火葬にすることは、道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。

同時に又、心霊知識ももたずにこちらへ来た者が地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。

 衛生上から言っても火葬の方がいいといえますが、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知っていただきたいことは、火葬までに最低三日間は置いてほしいということです。というのは、未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれくらい掛かることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与えかねません」