Tuesday, November 12, 2024

 四章 既成宗教のどこが間違っているか  ───キリスト教を中心に

What is wrong with established religions?




 〝今もしナザレのイエスが地上へ戻ってきて自分の名のもとに説かれている教えを聞いたら、いったい何のことだか理解できないでしょう。その多くはイエスが説いたものではないからです。後世の聖職者たちがでっち上げたものだからです〟

 これは聖公会(アングリカン)の牧師が初めて交霊会へ出席した時にシルバーバーチが語った言葉である。以下その二人の問答を皮切りに、既成宗教のそもそもの間違いはどこにあるのかを総合的に検証してみよう。まず牧師から質問する───


───あなたの霊訓によってずいぶん教えられております。私は牧師ですが、ドグマと組織化された宗教というものに幻滅を感じております。でも私はキリスト教にもある種の良さを見出しております。そこで、果たして教会内に留まって改革の仕事をすべきか、それとも教会を脱退して外部から仕事をすべきかで迷っております。

 話を教会そのものの起源から始めましょう。他の宗教の教会に相当するもの、つまり寺院、教会堂、礼拝堂と同じく、キリスト教の教会も、その昔、霊力が地上に降りたということがその起源となっております。

それには聖書にいう〝しるしと驚異〟もしくは〝奇跡〟と呼ばれるものが伴っております。霊力というものはその時代の古びた信仰、間違った教義やドグマへの挑戦という形で届けられました。

それが霊的起源であるとの証拠は、病人を癒やすこと、迷える者に導きの光を授けること、物質は殻であり霊こそ実在であるという基本的原理を教えるということで示されたのでした。しかし残念ながら歴史をご覧になれば分かるように、そうした霊力のほとばしりも、ほんの短い期間しか続きませんでした。

 そうした中で神学者というのが次第に勢力を持ち始め、勝手な教義をでっち上げ、それが純粋な霊性を具えていた啓示と置き代えられていきました。不毛の人間的産物が神の声を押しのけてしまったのです。

その後も〝しるしと驚異〟あるいは〝奇跡〟と信じられるものを伴った霊力のほとばしりがあり、それがまたもや人間的産物によって置き代えられるということが何度となく繰り返されました。

 そうしたことばかりしている教会をイエスは〝白塗りの墓〟と表現しました。霊力がすっかり抜き取られているからです。繰り返される作業によって築きあげられた壁の余りの頑強さに、崇高なる霊の力も突き通すことが出来ないのです。そのことをまず率直に申し上げねばなりません。

 さて、あなたがいちばん良い例ですが、それまで信じてきた伝統的な信仰と真っ向から対立する霊的真理に真実性を自覚し始めた時に問題が生じます。

板ばさみの状態の中でどう身を処すべきかということになるのですが、あなたに限って言えば、現在の立場に留まって、その世界の中であなたに耳を傾ける人を啓発していきなさいと申し上げます。スピリチュアリズムという用語を用いる必要はありません。

これは単なるラベルにすぎません。私たちはラベルには拘りません。私たちの関心は魂を解放すること、大霊の意図される生き方を可能にしてくれる自由を与えてあげることです。

 地上世界の問題の大半が物質中心の考え方に起因しております。物的欲望は地上界を毒する悪性のガンです。これは是非とも人生の基盤が霊であり物質ではないという知識、理解、悟りによって駆逐しないといけません。

 それなら教会内でもできるはずです。導きを求めてあなたのもとを訪れる人に教えてあげることができます。あなたの今の実力をもってすれば、真の自我を見出す手引きをしてあげられる立場にいらっしゃいます。人間はいつかは必ず自己革新の過程を経なければならないものです。

自分を救うのは自分でしかないのです。誰も救ってはくれないのです。その手引きをしてあげる方法は教会においても見出せることにお気づきになられます。

 教会を去ってしまえば霊媒その他、スピリチュアリズム関係の人たちとの接触に限られてしまいます。ということは、スピリチュアリズムの啓蒙活動の側からいえば、同志が一人増えただけということになります。

その点キリスト教界に留まっていれば、伝導の使命を帯びた正式の牧師として、あなたの教会に精神的指導を求めてくる人々に手を差し伸べてあげることができます。

 ナザレのイエスは今なおわれわれのこうした仕事の背後の中心的指導者として活躍しておられます。その他にもかつて地上であなたと同じように牧師の聖衣をまとっていた人が大勢参加しております。

他界後に身に付けた知識と霊力とをたずさえて、地上の人類に幅広く援助の手を差し伸べるための道具を求めております。使命感は死とともに終わるものではないのです。

 神は人間に〝疑う心〟を植えつけております。真実性を確かめるための批判的精神です。正直な批判は少しも悪いものではありません。真実を知りたいがために疑ってかかる人を私たちは大いに歓迎します。ですが、口先だけの議論や用語の詮索ばかりする人はご免こうむります。

 私はいつでもどこでも援助します。悲しみや苦しみが触媒となって霊性が目覚め始めた魂を見つけ次第援助します。受け入れる用意ができたからです。


 その牧師には夫人の他にもう一人、学校で宗教教育を担当している女性が同伴していた。その女性が尋ねる───

───私はあなたの霊言集を読み続けております。その中のどこかであなたは、人格神は人間が発明したもの以外には存在しないとおっしゃっています。〝大霊とは法則です〟と述べておられるのですが、別のところでは〝未来永劫にわたって神の愛と愛の神が存在します。

皆さんが愛念を表現するごとに神がみずからを顕現なさるお手伝いをしているのです〟とも述べておられます。これらの表現や他のもろもろの言い回しを拝見しておりますと、私にはあなたは神を人格を具えた存在であるかに表現しておられる印象を受けるのですが、その辺を明確にしていただけないでしょうか。


 分かりました。でも、これはとても難しい問題です。なぜならば、無限なる存在を有限なる言語で定義することは事実上不可能なことだからです。大霊は人間が考えるような意味での人物的存在ではありません。人間を大きく拡大したような存在ではありません。男性でもなく女性でもありません。

 大霊は宇宙最高の力、無限の知性、愛、慈悲、叡智、要するにありとあらゆる霊的資質の原理の総合的化身です。が、その概念をお伝えしようとすれば、どうしても人間の言語を使用せざるを得ません。もしも私が大霊のことを中性名詞で〝それ〟と呼んだら、男性名詞で〝彼〟と呼ぶよりもさらに厄介な問題が生じます。

 物的世界は、他のすべての世界と同じく、絶対不変の摂理によって支配されております。その摂理は無限の過去から存在していましたし、これからも無窮の未来まで存在し続けます。予期しなかった事情が生じて改めざるを得なくなることはありません。

これまでの摂理では間に合わない新たな事態が生じるということも絶対にありません。その作用は完ぺきであり、停止することも、無効になることもありません。無限の知性によって考案されたものだからです。

 生命の存在するところには必ず摂理が働いております。原因には必ず結果が生じます。タネ蒔きには刈り取りが付随します。その因果関係に干渉して、生じるべき結果を変えてしまうような力をもつ存在はありません。

地上世界のどこで何が起きようと、それも摂理のもとに生じています。突発事故も偶然の出来事もありません。大自然の摂理はありとあらゆるものを包摂しております。

 こうした事実は、その背後に崇高なる知性が存在してそれが摂理を生み出し、万物の全側面と全活動を維持・管理していることの証ではないでしょうか。同時に又、その全摂理を通じて愛が支配し、従って完全なる公正が行きわたっているに違いないことを暗示してはいないでしょうか。

悪いことをすればそれ相当の罰が与えられるように、善いことをすればそれ相当の報いがもたらされます。

 死の床での牧師による最後の儀式も、自然の摂理の働きを変えることはできません。いくら誠心誠意の祈りであっても、それだけで摂理が変えられるものではありません。いかなる教義を忠実に受け入れても、摂理を変えることはできません。

なぜならば摂理は完全な公正が行きわたるように働かねばならないからです。あなたの行為が招いた結果を代わりに背負ってあげられる人はいません。

あなたのすること考えることの一つ一つにあなた自身が責任を取らねばなりません。聖人と罪人とが同じ霊格を具えるようなことはあり得ません。霊格をごまかしたり偽ったりすることはできません。そこに神の意志があり、神とはそういうものなのです。

 あなたは〝人間性〟を問題にされましたが、神はあらゆる人間に内在しているという意味では人間性があると言えます。が、神は摂理であるという意味においては非人間的存在です。ましてや、自分を信じる者は可愛がり、信じない者には意地悪くするような、そんな恨み深い神さまではありません。

 摂理によって原因と結果とがきちんと定められております。神はあなたの中に存在するのです。受胎の瞬間から神性の種子が植え付けられているのです。それに芽を出させ、花を開かせ、豊かな実りをもたらすためのチャンスは、日常生活の中でいくらでも用意されております。


───すべてが神がふところの中で行われている、という言い方は正しいでしょうか。

 結構です。神はあらゆる場所に存在します。神のいない場所というものは存在しません。


───新約聖書の中(マタイ9・17)でイエスは、古い皮袋に新しいぶどう酒は入れられないと述べております。これとあなたが説いておられることとはどう結びつけたらよろしいでしょうか。

 古い皮袋に新しいぶどう酒を入れることは出来ません。古いぶどう酒を新しい皮袋に入れるのです。霊力というものを人間が勝手にこしらえた信仰に合わせて働かせることはできません。霊的真理を自分の信仰の型にはめ込むことはできません。

いかなる信仰も、いかなる教義も、いかなる名句も、自分がこれは真実ではあり得ないと確信したものは、いかに古くから伝えられているものであっても、即座に拒絶なさらないといけません。

 イエスはよく寓話を用いました。が、言わんとしていることはきわめて明瞭です。もしもあなたが霊力の存在を自覚していらっしゃるのなら、もしも霊的真理を確信していらっしゃるのなら、それと食い違う教説は一切説いてはなりません。ただそれだけのことです。

 例えば、先ほど大霊についての質問がありましたが、大霊とは、どこかで説かれているような三位一体などというものではありません。大霊はすべてであり、いずこにでも存在します。宇宙の全生命を包摂しております。

もしも神とは三つの部分に分けられるものと信じているとしたら、その信仰は間違いです。それに、そう信じたからといって一体どうなるというのでしょう。神とは一にして三、三にして一であると信じたら、何か霊的に救われることでもあるのでしょうか。


───(最初に質問した牧師) 私には何のことだか、わけが分かりませんでした。

 私にも分かりません。あなたはあなたに啓示された真理に忠誠を尽くすことです。信じられる筈もないものを信じようとするのは、あなたの知性の信用に関かわります。また、あなたの魂の成長にとってもプラスになりません。

        ※          ※

 別の日の交霊会に同じく〝国教会の不満分子〟の一人が夫人とともに招待され〝妻とともに生涯忘れ難い夕べ〟を体験した。まずシルバーバーチが歓迎の言葉を述べる───

 あなたが私の説く真理のいくつかをご存知であることはよく承知しております。あなたなりの厳しい自己批判と精神的苦悶の末に、過去の教条と教説に背を向けられ、これこそ人生に光明をもたらしてくれると信じる霊的真理を手にされました。

 本当を言えばあなたと同じ立場にある他の聖職者たちも、あなたと同じように霊の力とその崇高な真理を手にしてほしいのですが、それが思うに任せないのが残念です。本来ならばその霊力の守衛であり、大霊の大使であり特使であるべき人たちが石の壁を張り巡らして、霊力も真理も突き通せなくしてしまっている光景は、見るも悲しいことです。

 当然の結果として教会は冷たく荒涼として、生命力に欠けた不毛の場と化しております。生気あふれる霊力の顕現がそこにないからです。その点あなたは、悲痛な思いを経た上でのことではありましたが、真理の道を見出されたことを喜ぶべきです。

自分をそこまで導いてくれた光明の存在を知ることになりました。それはこれからも引き続き光輝溢れる光を放ち、あなたの辿るべき道を照らしてくれることでしょう。


───私どもは大霊があなたのような高級界の霊を通して語りかけてくださっていると理解しておりますが、人間の歴史を通じて、かつて大霊が霊を経ないで直接語りかけたことがあるのでしょうか。

 大霊は個的存在ではありません。大霊は個性が神格化されたものではありません。大霊は個性を超越した存在です。摂理・愛・叡智・真理の粋(エッセンス)です。巨大な宇宙で休みなく作用している無限の知性です。

 それは数かぎりない自然現象の中に見ることができます。その子等が英雄的行為、滅私の行為、滅私の行為、慈悲の行為を通じて、自分より恵まれない人のために尽くす時の、その愛の表現の中にも見ることが出来ます。

 又、病の人を癒し、喪中の人を慰め、意気消沈した人を元気づけてあげる時の霊力の流れの中にも見ることができます。
 一個の男性あるいは女性として出現することはできません。個々の人間に宿る神性の発現という形で、部分的に顕現されることはありうるわけです。


───私たちから大霊に直接語りかけることはできるのでしょうか。もしできるとしたら、それは私達自身に内在する神性のことでしょうか。

 あなたは大霊であり、大霊はあなたなのです。その違いは種類でも本質でもなく顕現の度合いに過ぎません。大霊は完全の極致です。あなたはそれに向っての努力を限りなく続けるわけです。したがって大霊は内部と外部の双方に存在するわけです。

あなたが愛・寛容心・慈悲・哀れみ・仁といった神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。なぜなら、あなたを通じて大霊が表現されているからです。

 一方、大霊には無数のメッセンジャー、無数のチャンネルがあります。神意を行きわたらせることを任務とした高級神霊の一大組織が張りめぐらされております。ですから、もしもあなたが大霊に向かって語りかければ、黙って念じるだけでも、精神統一でも、あるいは声に出して祈ることによってでも、

あなたの意志が大霊に届けられます。声に出すということは良いことです。念じるだけではとかく乱れやすい思念を明確にまとめ、具象化することになるからです。

 しかし声に出す出さないに関係なく、衷心からの切望は大霊に知られると同時に、神意の行政を司る任にある高級霊に届きます。


───あなたは霊界でイエスにお会いになったことがありますか。

 あります。何度もお会いしております。このことはこのサークルの皆さんにはすでにお話してあります。定期的にクリスマス(冬至)とイースター(夏至)の二度、この地上から引き上げて、そのイエスが主催される大集会に参列する際に拝謁しております。

今イエスは二千年前にご自身が身をもって示しながら、その信奉者をもって任ずる人々によって台無しにされてしまった霊的真理の普及に携わっておられます。

 その働きによって、二千年前にイエスを通じて顕現したのと同じ霊力による現象(心霊現象及び病気治療)を伴って、その霊的真理が地上に蘇りつつあります。

イエスにとって、又その輩下の神霊にとって、地上の宗教界の指導的立場にある者が基本的な真理について救いようのないほど無知である様子を見ることほど嘆かわしい思いをさせられるものはありません。

 あなたは光明を見出されました。そのことを大いに喜ぶべきです。そして、ここまであなたを導き、間違いない道標を提供してくれた霊力と同じものが、これからも引き続き導いてくれることを信じて下さい。これまでも決してラクな道ではありませんでしたが、使命を担った者にラクな道はないのです。

 もしも使命を担った者が降りかかる困難を克服できないとしたら、地上の寄生虫的営利第一主義に対抗して霊界から挑んでいるこの霊的大戦の将校としては失格であることになります。

 皆さんの心に温もりと愛とをもたらしてくれた真理、そして又、失ったと思っていたのが再び見つかり、さらにここまで導いてくれた愛を、神に感謝しなくてはなりません。

 喜んでください。皆さんはバイブル(マタイ6・19)に言う 〝虫が食いサビがつく〟 ことのない宝を手にされたのです。清澄で光輝に溢れ、永遠に曇ることがなく、決してあなた方の手から離れることはありません。なぜなら、苦難の末に手にされたものだからです。

        ※            ※

             
 米国から訪れた二人の聖職者───うち一人はキャノン(功績のあった牧師に贈られる名誉称号)───に対してシルバーバーチが次の様な歓迎の言葉を述べた───

 お二人は立派なお仕事をなさっておられます。容易なことではありませんが、今日の米国を広く支配している暗黒を霊の光によって駆逐し、黄金の仔牛(富の象徴)に代わって霊的真理を崇拝の対象とするように導くことが是非とも必要です。

 なぜ必要か。それは、無数の魂がいずこへ向かうべきかも分からずに絶望の淵をさ迷っているからです。
 言いにくいことを敢えて言わせていただきますが、残念ながら今の米国には、そうした危機的状態にある人たちの力となり霊的・精神的・物的自由をもたらしてあげられる牧師は何百人、たぶん何千人もいないのではないでしょうか。

 お二人は今その仕事にたずさわっておられるわけです。もともと霊的真理の啓示の場として建立された教会が、人間のこしらえた障害物(教義・教典)のために霊力の働かない場所となってしまっているのは悲しいことです。

 又、もともと霊的問題の指導者、教師、人間の模範であるべき牧師が肝心の霊的基本真理について何一つ知らず、あまつさえ今の時代でも手にすることのできる神のインスピレーションよりも人間の勝手な産物である教義の方を後生大事にしているのも情けないことです。

 こんな手厳しいことを私は決して非難するつもりで申し上げているのではありません。あるがままの事実を申し上げ、それが残念なことであることを指摘しているまでです。

 しかし、霊的光明はそうした障害を突破して、今や地上に根づいております。これ以後もますます増えていく人間的チャンネル(霊媒・霊能者・心霊治療家)を通じて霊力が流入し続けることでしょう。神の証人は今の時代にも大勢いること、全ての人間が神の恩恵に浴することが出来ることを立証していくことでしょう。

 そのためには先ず日常生活を、それを受けるにふさわしいものに整えなければならないことも思い知らされていくことでしょう。困難、死別、病苦を体験して初めて、魂にその素地ができあがるのです。

 神学上の教義やドグマの解釈について討論し合うことに生き甲斐を覚える様な人種を相手に、あなたの貴重な時間を浪費してはいけません。何の価値もないことですし、霊性をひとかけらたりとも伸ばすことには成りません。不毛で無意味です。

 そういう人たちよりも、すでに受ける用意のできた人との出会いを待つことです。そして、そういう人をいつでも受け入れてあげられる準備をしておくことです。いつでもどこでも、真理を説く用意をしておくことが大切です。

その上で、もしも拒絶されたら、せっかくのチャンスを目の前にしながらそれを手にすることの出来なかった人を気の毒に思ってあげるがよろしい。

 神の摂理は完ぺきですから、地上の人間が一人の例外もなく、生涯に一度は必ず真の自分を見出すチャンスに巡り会えるように配慮されております。魂が揺さぶられて神性の火花が炎と燃え上がり、内在する霊の豊かさ、威厳、美しさ、壮大さ、高貴さ、崇高さをいくらでも発揮することができます。

そのチャンスはすべての人に訪れます。そういう人のうちのたった一人でもあなたが手助けをしてあげることになれば、それは掛けがえのない価値をもつことになります。

 霊界には地上の様々な状態───動乱・混とん・暴力・破壊・強欲・大欲・嫉妬、要するに人類全体にはびこっている物的優先の産物の処理に深く関わっている高級霊団が存在します。宇宙の大経綸組織の一部を担っている霊団です。

 人間が真の自我に目覚め、自分とは何なのか、なぜこの地上に存在しているのか、この地上を天国のような住処にする上で人間は何をなしうるのかを自覚するには、先ずそうした物欲優先の産物を根絶しなければなりません。

全ての人間が霊的光明のもとで生きるようになれば、必ずや地上天国が実現するように意図されているのです。

 お二人はそれを実現するという壮大な目的のために貢献する、測り知れない光栄に浴しておられます。そこまで導かれてきたわけです。どんなに辛い思いをしている時でも、どんなにうんざりする思いをさせられている時でも、決して孤独ではないということを忘れてはなりません。

霊の光が常にあなた方の足元を照らし、霊の愛がいついかなる時もあなた方を包み込んでおります。

 何度も申し上げていることですが、人のために役立つことをすることは気高いことです。同胞のために尽くすことによって、共通の親である大霊の役に立つということほど気高い貢献はありません。これに勝る宗教はありません。

 形式を守り教義に盲従するというだけの宗教では何の価値もありません。真の宗教とはみずから世に出て、少しでも住み良い環境にするような行為を心掛けることです。

 自分を取り囲む事情が険しくなってきた時───暗黒が低く垂れこめ、稲光が走り、雷鳴が轟きはじめた時は、心を静かにして、これまで自分を導いてきた力はきっとこれからも導き続けて、次に進むべき道を示してくれるはずだという確信をもつことです。

 力強く前進なさい。最善を尽くすことです。それ以上のものは人間に求められていません。しくじった時は立ち直ればよろしい。しくじるということは立ち直れることを意味します。皆さんは不完全な世の中の不完全な存在である以上、必ず失敗を犯します。完全へ向けての巡礼の旅は永遠に続くのです。これまでに啓示された真理に感謝しなくてはいけません。

                     ※           ※

  別の日の交霊会でサークルのメンバーが質問した───

───こうした霊的真理に目覚めた宗教界の指導者は、それまでに抱いてきた宗教観を棄てるべきでしょうか。

 各人各個の責任ということが絶対的原理の一つです。各自が自分の行為に責任を持つということです。真理をごまかすことはできません。理解の芽生えとともに良心の声が次にとるべき行為を指示します。

その指示を素直に受け止め、なるほどと納得がいったら、何をおいてもその指示に従わなければなりません。それが原理です。その原理を無視している人たちを個人的に私が非難することは控えたいと思います。私がそのようなことをするのは適当ではないからです。


───非難するのは間違いですが、とるべき態度を説くのは許されるのでないでしょうか。

 あなた方のなすべきことは、いつどこにおいても真理を説くということです。人との出会いがそれを目的としている(背後霊によって導かれている)場合があります。

あなたも、あなたにとって最も必要な時にそうした出会いによって救われたのです。そこに摂理の働きがあり、真理はそういう形で広められていくものなのです。

 それからあとのことは、もうあなたの責任ではありません。地上の人間は一人一人がみな異なった進化と発達の段階を歩んでいるのです。すべての者にアピールするたった一つの真理というものは無いのです。したがって、こと霊的な問題に関するかぎり〝集団回心〟ということは有り得ないのです。

 〝風は思いのままに吹く〟(ヨハネ3・8)と申します。霊力はそれを受け入れてくれるところへ浸透していきます。パン種が絶え間なく働いているのです。各自が各自の成長と進化の段階に応じてその真理の意味するところを理解し、そしてそこから次の段階へと進むほかありません。

 大切なのは真理がその人の自我に居場所を見出すということです。前にも申した通り、霊的なつながりは、いったん出来あがったら二度と切れることはありません。それをこしらえることが、霊力が地上へ顕現していくためのチャンネル、つまり通路をこしらえることになるのです。

 自分が理解した限りの真理───あなた方はもとより私自身もまだそのすべてを理解したわけではありません───に照らして行動する以外に生きる道はありません。それ以上のこともそれ以下のことも求められることはありません。何度も申しておりますように、自分としてのベストを尽くすことです。

それ以上のことができるわけがありませんし、又それ以下のことをすべきではありません。

 あなた方が真理を広め、間違いと迷信と無知とを駆逐するために行う努力の一つ一つに、霊界からの祝福と援助があります。私たちがこうして地上世界へ戻ってきた目的もそこにあります。

 それにつけても情けなく思うのは、本来ならば霊的な問題について最も多く知っていなければならないはずの聖職者が、一番無知であることです。

現在の地上世界の既成宗教のすべてが委縮し、霊的啓示の根源からあまりに遠ざかりすぎて、それを最初に受け止めた霊覚者の教えと、その後継者たちによって歪められた教説との間の見分けがほとんどつけられなくなっている現実は、大いに反省すべきであると思います。

 私のような者がこうして地上へ戻ってきて、霊的な教訓、霊的な哲理、霊的な倫理を説き、宗教がその基盤とすべき真実の原理を述べるよう要請されることになったのも、地上の既成宗教がその本来の機能を失い、道を求めて訪れる人に真の導きを与えることができなくなってしまったことが大きな理由の一つなのです。

 そもそもそうした宗教の誕生の基盤となったのが霊力であったのに、選りによってその宗教が作り上げた建造物の中がいちばん霊力がお留守になっているというのは、何とも皮肉なことです。

しかも、その組織のリーダーたちは、他の面(社会奉仕等のこと。第三巻六章参照───訳者)では殊勝な心掛けの人たちかも知れませんが、肝心の霊力に対する受容力に欠け、それを見る目も聞く耳も語る口も持ち合わせなくなっております。

その無知ゆえに今の時代でも聖霊の働きかけがあることを認めようとしません。歴史に語られている大きな事象を起こしたのと同じ霊力が今日でも働きかけているのです。

 その点あなた方は光栄にもその強大な霊力の保管者であり頒布者でいらっしゃいます。為政者の無知と盲目ゆえに危機に陥り、今なおその危機から脱しきれずにいる地上世界のために大切な貢献をしていらっしゃいます。

 あなた方のように真理に目覚めた方は世界中に大勢いますが、そういう人のなすべきことは、自分が受けた影響力をさらに他の人々へ広げていくことです。それによってさらに大勢の人が自分とはいったい誰なのか、何者なのか、なぜこの地上に存在しているのかを知り、その目的を成就するには何をなすべきかを理解していくことでしょう。

 悲しいことですが今の地上世界には、まるで暗い土中に住むモグラのように、人生について、生きる力の始原について、その目的について何一つ理解せず、生命の持つ物的・精神的・霊的な喜びを味わうすべを知らない人が無数に存在します。


───(招待された科学者) 科学者としてのこれまでの人生は悩みの連続でした。その第一は神の概念で、スピリチュアリズムを知ってからは、あなたが 〝大霊〟 と呼んでおられるものを信じておりますが、それまではキリスト教の神の概念が受け入れられなくて私なりの概念を抱いておりました。

それは、神とは広い意味での大自然の法則と同一視できる存在であり、キリスト教で説かれているような個体性をもつ存在ではないということです。いかがでしょうか。


 まず、真実からほど遠いキリスト教の概念から始めてみましょう。ここですぐ問題となるのは、有限の言語では無限なるものは表現できないということです。ゴット、神、あるいは私のいう大霊は永遠の存在であり、初めもなく終わりもなく、無窮の過去から存在し、これからも永遠に存在し続けます。

霊ないし生命力も同じように永遠の存在であり、初めもなく終わりもありません。かくして神、生命、霊、こうしたものは常時存在しているもので、時間的にいつから発生したという性質のものではないということです。

 限りある存在であるあなた方人間には全体を把握するということは不可能ですから、宇宙の背後の壮大な力は、限られた形でしか想像できないことになります。

 今あなたは神を大自然の法則と同一視しているとおっしゃいました。しかし神は大自然の法則よりもっと大きい存在です。なぜなら、その法則を支配しているのが神だからです。神とはその自然法則と同時にそれが作動する仕組みをもこしらえた無限なる知性です。

 残念ながら地上の大部分の人間にとって、神はどうしても人間に似た存在とならざるを得ません。個的形態を具えていない存在というものが想像できないのです。しかし神は、あなた方が想像するような個的存在ではありません。あなた方が存在するような人物的存在ではありません。

 神とは非人間的存在でありながら同時に人間性のすべてを表現する存在です。これはあなた方には理解できないでしょう。神はすべての生命の中に宿っています。その生命が人間という形で個別性をもつことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性をもつ存在として顕現したことになります。

 ですから、神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を具えた実在そのもの、人間に想像しうるかぎりの神性の総合的統一体と考えて下さい。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性でもあり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。

 神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰一人存在出来ません。神から切り離されるということがありえないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在を有するかぎりはすべてのものに宿っているのです。

 私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難のわざです。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。


───(もう一人のゲスト)神が完全な叡智と知性と愛を具えた普遍的な霊であり、全生命を支配し、しかも人間を自分に似せて創造したのであれば、なぜ人間は不完全なのでしょうか。

 それはミクロとマクロの問題です。人間は神の完全性の要素をミクロの状態で内臓しております。人間はそれを発現させ完成させなくてはならないのです。それは無限の時間を要する過程です。

 別に難しい問題ではありません。人間的精神と霊と身体とが完成された状態で創造されたわけではありません。が、内部に神性という完全性の火花が宿されております。その火花を大きな炎と燃え上がらせるために、人生を自然の摂理に順応させるのが人間の務めなのです。

 地上の人間が厄介なのは、自分で勝手な神を想像することです。人間的存在として想像する場合でも、女性ではなく男性として想像します。男性である方が女性であるより勝れているかに信じているわけです。

 神は人間を霊的にご自分に似せて創造されたのです。生命は霊であり霊は生命です。霊的に似せて創造された以上、あなたは永遠に神とつながっており、神性を共有しているのです。

ということは必然的に人間は霊的大家族の一員であることになります。同じ神性が宿っているからです。ですから人間は霊的に神に似ているのであり、姿が似ているというのではありません。

 地上世界を一気に変革することはできません。人々を変えるのも容易ではありません。が、自分を変えることは今すぐからでも始められます。いつどこにいても人のためを心掛けるのです。

力になってあげるのです。自分が教わったものを分けてあげるのです。もしもそれが受け入れられれば喜び、拒否されればその人の思う道を行かせてあげればよろしい。あなたが導いてあげるべき人が次々とあなたのもとに案内してこられるのです。

 神は、愛と知性をもってこしらえその霊力によって活力を与えている地上世界から分離して存在することはできません。


───神は地上世界の人間にはほとほと手を焼いておられることでしょう。

 それは今に始まった話ではありません。太古からずっとそうです。しかし、我慢の大切さを説いている私たちは、それをみずから実行しなければなりません。もしも皆さんに対する愛がなければ、わざわざこれほど暗い世界へ戻ってくるようなことはいたしません。

 同時に又、地上に救いの手を差し伸べるべき時期が到来したからこそでもあります。つまり私たちの援助を受け入れる準備ができた人がいるということです。ただ悲しいかな、魂が目を覚まし真の活動を開始するようになるまでには、霊的な絶望の淵を体験しなければならないことがよくあるものです。

 霊の光は、これからも媒体のあるところならどこでも照らし続けます。場所によってはほのかな明かり程度に過ぎないこともあります。が、神性を帯びたものであるからには完全に消えてしまうようなことは絶対にありません。

自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、あるいは銀河系宇宙だけでなく、全大宇宙を支配し経綸しております。神はその無限の叡智をもって全大宇宙のすみずみまで配剤してくださっています。心配してはいけません。心配は何の役にも立ちません。そして、少しも事態を改善することにはなりません。


───イエスは何回も再生を繰り返しながら進化した一個の人間だったのでしょうか、それとも地球の創造以前から存在していたのでしょうか。

 私に言えることは、イエスを通して発現した霊力は、今日の地上のすべての人間を通して発現している霊力と本質的においてまったく同じものだということだけです。程度の差、霊的進化の違いはあっても、霊の本質において何の違いもありません。

霊はすべて同じです。それが永い年月に多くの個的存在を通してさまざまな形で再生を繰り返すことは有りうることです。


───祈りの効用について説明してください。

 知識の領域を少しでも広めようとする努力、病める人を一人でも多く治してあげたいと思う心、死別の悲しみに暮れる人をもっと慰めてあげたいと思う気持ち、人生に疲れた人があなたという灯台を見つけられるように一層の輝きを増したいという願い───いずれも私たちがたずさわっている仕事なのですが───こうした真摯な祈りが何の反応もなく見過ごされることは絶対にありません。

 あなたは一人ぼっちではないのです。大軍の一員なのです。われわれの背後、見えざる次元には、多分あなたには想像もできないほど進化した霊の大集団が控えているのです。あなたも、私も、そして私達と志を同じくする者は、いつでもその援助を授かることができるのです。

 唯一の制約条件は、それを受け入れ吸収する能力です。霊的資質を培うほど、それだけ多くの美しさと輝きと壮大さと高潔さと光沢を身につけることになります。それが魂を刺戟して、地上への誕生とともに賜わった遺産である内部の神性をますます発現したいと願う気持ちにさせるのです。

 うなだれてはいけません。教会や礼拝堂や寺院よりも、あなたの方がはるかに大きな仕事ができるのです。皆さんは霊力を発揮することができます。そういう建造物にはそれができません。逆に霊の出口を閉じ、外へ出られなくしている不毛の神学の方を後生大事にしております。


───(サークルのメンバー)祈りの対象は自然の摂理であるべきでしょうか。

 いえ、対象は内にも外にも存在する大霊であるべきです。その大いなる霊力とのより緊密な関係を築くべく、先ほど述べたような真摯な願望と精神統一を通して努力すべきです。より多くの啓示、より多くの知識、より多くの叡智、より深い理解を求めての祈りであるべきです。

そうした祈りは必ずや聞き届けられます。なぜなら、それを祈願するというその事実が、内部の神性の発現を促しているからです。

───あることで霊界からの働きかけがあったことを確信することがあるのですが、こちらから別に祈ったわけではありません。どうやってわれわれの必要性に気づいてくれるのでしょうか。

 真摯な祈りは必ずその標的を見出します。皆さんが心から祈る時───〝祈る〟 のであって何かを〝欲しがる〟 のではありません───その祈りの念は必ず聞き届けられます。霊視能力をお持ちの方であれば、皆さんの周囲に何らかの絆、親近感、及び特殊な分野での共通の奉仕的精神をもつ霊がいつも待機しているのが分かります。祈りの念がその霊をいっそう身近なものにするのです。

 磁気力にも似た吸引力の法則が働くのです。祈ることによって霊がそれに応えて働きかける懸け橋ができあがるのです。私がいつも取り越し苦労はお止めなさいと申し上げるのはそのためです。心配の念はその人の周囲の物的ならびに霊的雰囲気を乱し、私たちによる援助が届けにくくなるのです。


───霊の方では人間が神のお助けを祈るまで待つのでしょうか。それとも祈る祈らないに関係なく、放っておくべき時は放っておき、援助すべき時は援助するのでしょうか。

 大自然の摂理の働きは完ぺきですから、その機構の中にあって誰一人、何一つ忘れ去られることは有りえないのです。すべての存在を包摂するように完全な摂理が行きわたっているのです。何一つ、誰一人その外にはみ出ているものはありません。

あなたが神に見落とされるということは有りえないのです。どこにいても神の管理下にあり、すべてを包摂する自然の摂理の活動範囲の中にあります。

 ということは、あなたに必要なものはすべて知れているということです。祈ることによって受ける援助は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的発達段階に応じたものとなります。

 ただ祈り方についてこちらから注文させていただくとすれば、黙禱よりも声に出した方が、その人が本当に目指しているものは何かが明確になるという利点があります。


───祈るどころではなくて絶望のドン底に沈んでいるような人はどうなるのでしょうか。神なんかいるものかと思っている場合は援助は届けられないのでしょうか。

 人間が神なんかいるものかと思ったからとて、別にどうということはありません。それが神を困らせることはありません。


───そういう人にも救いの手は差しのべられるのでしょうか。いろいろな事情から祈ることができない人、あるいは神が信じられない人がいるとします。そしてその人が今苦しい境遇にあり、救いの手を必要としています。こういう場合はどうなりますか。

 援助を受ける能力は神の存在を信じる信じないには関係ありません。その段階での精神的ならびに霊的発達程度によります。それが受け入れるものの中味を決定します。それが最もふさわしいということです。それも原因と結果の関係であり、自然のきまりです。


───聖書には多くの真理が語られているのでしょうか。

 神の真理と人間の作り話の混ぜ物です。


───宗教心をもった人に死後の生命の話を持ち出すと、すぐに聖書から〝死者と語ってはならない〟という文章を引用します。このことをどう思われますか。

 二つの要素が重なっております。聖書は永い間に随分いじくりまわされてきました。誤訳があり、脱落があり、それに元来がコピーのコピーのその又コピーであるということです。誰一人として、原典を持ち出して 〝これが聖書の始まりです〟 と言える人はいません。(第五巻一八四頁参照)

 聖書の中には〝この言葉は本物です〟 といえるものは一つもありません。聖書に述べられていることが神の許可を得たものであるという証拠はどこにもないのです。

身の毛もよだつような話があります。特に旧約聖書がそうです。ペテン、極悪非道、殺人、暴力等、誰が考えてもおよそ神の啓示とは思えない話がたくさんあります。

 旧約聖書がもし本当のことを述べているとすると、神(ゴット)、私のいう大霊は、地上の悪の権化のような暴君でもしそうにない振舞いをすることがあることになります。ですから、聖書に述べられているからといって、それだけで正しいということにはならないのです。

もしも正しいと主張するなら、一点の疑問の余地もないまでそれを証明しないといけません。

 聖書を絶対とする信仰家に申し上げたいのは、もしも本当に死者と語ってはならないというのであれば、ではなぜイエスと三人の弟子が山頂で行った交霊の場に、モーゼとエリヤが出現して語りかけたかということです。モーゼとエリヤはとっくの昔に死んでいるのです。

そのうちのモーゼが 〝死者と語るべからず〟 と述べたというのですが、そのモーゼ自身が死者であり、それが地上に戻ってきて語っているではありませんか。これは信仰厚き方には困ったことであるに相違ありません。


───(質問者が変わる)妻と私の間に子供ができた場合、宗教問題についてその子にどう教えたらよろしいでしょうか。特に私の場合はキリスト教信仰に全面的には納得していませんし、スピリチュアリズムの真実性を理解しております。

 思っていらっしゃるほど難しい問題ではありません。親としてのあなたの責任は、その子が自然な成長をとげるようにしてあげることです。幼少期は精神が柔軟なために、教え込まれたものは思慮分別なしに吸収してしまいます。そういう時期に間違ったことを教えないように、正しい宗教的知識の中で個性を発揮させることが大切です。

 ご承知のように、幼少期に受け入れたものは潜在意識の中に固着し蓄積して、その後の真理の受け入れの障害となります。私たちが人間に真理を教え込もうとする際に一ばん困るのは、幼少期に受けた間違った教育が無意識のうちに抵抗させる働きをすることです。すっかり根づいてしまっているために、それを排除するのに大変な時間が掛かります。

 また時折あるのが一種のカタルシス的反応です。つまり、成人してから、それまでに蓄積したものを良いものも悪いものも一切投げ棄てて、世の中の全てのものへの反抗することに快感を覚えるようになります。

 親としてのあなたの責任は、子供の心に間違った教えを植え付けないようにすることです。どうか子供にはすべての宗教の基本となっている真理、共通した真理を教え、大きくなって神学的教義を教えられても魅力を感じず、単純・素朴な真理を求めるようになる、そういう素地をこしらえてあげて下さい。


───すでに何らかの宗教を教え込まれて育っている人がいます。その教えがもし新しいものの理解を妨げている時は、それをぶち壊すべきでしょうか。

 それは難しいでしょう。不幸なことに、そういう人はすでに子供時代にいわゆる洗脳をされています。これこそ宗教的であると信じられている概念を───実はそうではなく、ただの神学上の概念にすぎないのですが───疑うことを知らない、従って全く無抵抗の柔軟な精神に植えつけられております。

その柔軟な精神が、成人していくにつれて固くなっていきます。やがてその概念はただの概念として所有されている状態から、逆にその人間をがんじがらめに縛り付けるようになります。

 だから厄介なのです。といって、その人が後生大事にしているものをいきなりぶち壊すようなことはしてはなりません。それ以外にもいろんな宗教的概念があることを教えてあげることです。

宗教の起源について読むべき本が沢山あります。キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、仏教徒も、あるいはイスラム教徒も、生まれる国が違っていたら別の宗教の信徒になっていた可能性があることを教えてあげることです。

 地上には数えきれないほどの宗教があります。しかし神は一つ、大霊は一つなのです。その神はクリスチャンでもなければユダヤ教徒でもありません。スピリチュアリストでもありません。

 真の意味で宗教的であるということは、同胞に対してだけでなく動物に対しても思いやりの心を持つことです。他の存在を思いやる心が無いようでは霊性を欠くことになります。

 霊能者や心霊治療家が人生の辛酸をなめさせられることが多いその理由の一つは、自ら苦しんで初めて他人への思いやりの心が芽生えるからです。神の道具としての道が常に酷しく、ラクをさせてもらえないのは、そこに理由があります。


───政治をあずかる人も同じですね。

 でも神の道具の方が酷しいでしょう。為政者というのは、たとえば他国へ戦争を仕掛けておいて、実際に前線で戦うのは一等兵、二等兵ばかりです。物質偏重思想との戦いにおいても、その最前線で酷しい目にあっているのは為政者ではなくて神の道具なのです。

 他人へは哀れみをもって接し、信仰が間違っているからといってそれをぶち壊すのではなく、ほかにもいろいろな信仰があることを教えてあげることです。ハンマーを振り回すのではなく、ほかにも素晴らしい教えがあることをそれとなく気付かせる手段を考えて下さい。

 魂に受け入れる用意ができていれば、それが効を奏するでしょう。用意ができていなければ、残念ながらその人は霊的にも精神的にも地上では暗闇の中を歩む運命であり、霊界へ来てからも当分は同じ状態が続くことになります。


───世界の宗教を統一しようとする運動をどう思われますか。

 そうやってまた混乱に混乱を重ねていくのです。一体それがそんなに大事なことなのでしょうか。当事者は自分たちのことを大そう重要な人物であると考えているのかも知れませんが、霊の力も光も発揮されないただの建造物では、イエスの言った通り、それは〝白塗りの墓〟でしかありません。

 私は、儀式や教義が違うからというだけで共通の場が持てずにいる人たちのことは、あまり構う必要はないと思います。霊は常に一体化の方向へ働きます。仲違いをさせているのは人間の勝手な思想です。霊は、チャンスさえ与えられれば、その統合的意志を働かせるものです。

 本来ならば一つの大きな流れであるべきはずのそうした宗教を誕生させた、そもそもの起源が霊力であったことは歴史的事実です。が、それが何世紀も前から支流に分かれてしまいました。もう、そのまま好きな方向へ進むに任せておけばよろしい。

 私たちは霊力そのものに全幅の信頼を置き、それを唯一の拠り所としております。それが善意の人々を鼓舞し、授かっている才能を駆使して同胞の為に役立たせるように導きます。又、人類に自己革新の道を教えることによって、各自が自分のみならず地上世界そのものを救っていくことになるでしょう。

 霊力は建造物を通して流れるのではありません。一般の大衆が、無限の叡智を具えた神から授かった才能を発揮することによって流入するのです。真の魂の自由をもたらし、本当の生き方を教えてくれるのは、その才能の活用以外にはありません。


──(質問者代わる)あなたのおっしゃる 〝宗教的寛容〟 とはどういうものでしょうか。と申しますのは、私は 〝シルバーバーチの訓え〟 といっても基本的には他の宗教で説かれているものと同じだと信じます。が、それすら独断的で非寛容的であると見なされる可能性があるのではないかと思うのです。たとえば宇宙は自然法則によって支配されていて、それは完全であり、不可変である、といったことです。


 私はそれまで一度たりとも不可謬性(絶対に間違ったことを言わないこと)を主張したことはございません。私もあなた方と同じく一個の人間的存在です。ただ、あなた方の理性に訴えるべき真理を説いているだけです。私はこうだと申し上げても、その裏にはそれを拒否したら罰が当たりますという含みはみじんもありません。

 これが私が真理だと信じているものです。ということしか言えません。それを皆さんに検討していただくために提供しているだけです。仮にそれを押し付けて何が何でも受け入れさせようとしても、私たちにはその手立てがないのです。

 いかなる霊媒であろうと、その霊媒を通して語られたことにあなたの理性が反感を覚えたら、それには構わぬがよろしい。神はあなた方に理性と良識というものを与えておられます。それを使用すべきです。ドグマというのは理性的判断なしに受け入れるべきもののことです。

 私は、霊的な教えは知性でもって厳しく是非を判断すべきであると申し上げております。その厳しい詮索に耐えられるものは受け入れられるがよろしい。耐えられなければ拒否なさるがよろしい。それ以外に何か良い方法があるでしょうか。ご利益でしょうか、それとも罰でしょうか。

 それはいけません。私たちは愛と良識によって共通の場で交われることを確認することによって、皆さんの協力を得なければなりません。


                 ※           ※

 同じ問題について別の交霊会で───

 皆さんとともにたずさわっている仕事の大変な重大性を見過ごさないようにしてください。永年にわたって幾億と知れぬ人々の心を束縛と隷属の状態に置いてきた迷信を駆逐しなければなりません。

人間は本来ならば肉体と精神と霊の調和がもたらす、のびのびとした喜びの中で生活すべきなのです。霊的真理を知ることによって本当に自分とは誰なのか、何なのか、いずこへ向かいつつあるのかを理解し、心の豊かさを味わうことができるはずなのです。それが、その迷信のためにほとんど不可能な状態になっているのです。

 その仕事は、当然、皆さんに辛酸をなめさせることになります。しかし困難はクスリなのです。私たち霊団の者も、こうして地上との接触が得られるようになるまでには大変な苦労がありました。

 世界各地でそうした努力が為され、そして成功しております。今では世界中に霊の光が灯されております。霊力が届けられていない国はもはや一国もありません。

霊力の道具は往々にして隠密裏に仕事をしなければならないことがあります。が、仕事は着実に運ばれてまいります。その真実性に否定の余地がないからです。

 そういう次第で、困難というのは霊の真の資質、神から授かった才能を発揮させるための挑戦として歓迎なさることです。皆さんの内部には地上最大の力が潜在的に宿っているのです。

いかなるハンディキャップも、いかなる障害も、いかなる困難も、その潜在力で克服できないものはありません。

もしもそれまでに開発したものでは敵わないほどのものであれば、祈ることによって、さらに強力な援助を要請することができます。

             ※           ※

 宗教の教義の問題が取りあげられ、それがただの人間的産物であり人間性の霊的向上にとって何の益もないのに、そのツケは結局霊界へ回されてくる事実を指摘して───

 地上の大半の人間が生命とは目に見え手に触れるものにあると考えております。その当然の結果として、人生には深い目的などはないと信じています。

 それに加えて不幸なことに、肝心の霊的・精神的指導者たるべき人たちが、これ又、霊的実在について無知なのです。その証しを見たことも聞いたこともなく、したがって人に説くこともできないのです。今日では宗教とは教義のことであると思われており、それが後生大事にされているために、肝心の霊力の働く余地がないのです。

 教義というのは人間の考えによって作りあげられたものです。霊力は大霊から発せられますから、神性を帯びております。ですから本来は霊力による啓示の方が教義に優先されるべきなのです。

 現代の地上世界には義務教育を行う国が沢山あります。子供たちは一つの目的つまり学校を出たあとの社会生活に適応できるような教育を実施するためのカリキュラムの中で学習するために学校へ通います。

それを首尾よく学んだ子は、大人になって必ず直面する問題を、ある程度の理解をもって迎えることができます。きちんと学ばなかった子は卒業後の人生に備えができていません。

 あなたの地上生活は霊の幼稚園のようなものと思えばよろしい、真の自我である霊が私たちの世界つまり霊界での生活に備えるために、この地上で学習をするのです。

 しかし現実には、あまりに多くの人間が何の備えもなくやってまいります。そのため、こちらで改めて教育しなければなりません。地上でも、学校へ行かなかった大人に基本から教え直すのは難しいものですが、こちらへ来た人間に基本的な霊的教育をするのは、それよりはるかに困難となります。

 死後にも生活があり、そこでは地上生活の言動の一つ一つについて責任を問われるということを知れば、それからの人生観は一変するに違いありません。いえ、一変すべきなのです。

 聖書には〝大地とそこに満つるものは主のものなり〟(コリント①10・26)という言葉があります。一度手にしたら、霊的知識はいくら人にあげても減ることはありませんが、地上の富は、人にあげればそれだけ減ります。そこに霊的財産と物的財産の違いがあります。

 物的財産はいくら貯めても、それを永久に所持することはできません。地上に生きている間だけの管理人であり預かり人であるに過ぎません。失うことがあります。盗まれることがあります。価値が下がることがあります。色褪せてきます。美しさを失います。いずれにしても、何時までも自分のものではあり得ないのです。

 それに引き換え霊的財産は、いったん手にしたら永遠に失うことはありません。

             ※   ※

  〝真理〟は必ずしもすべての人に受け入れられるものではないことを説いて───

 真理は魂の方にそれを受け入れる用意ができるまでは真理として受け入れられることができません。これは真理のあらゆる側面について言えることです。真理とは無限性をもつものですから、その全体を理解するには永遠の時を要します。それがまた無限の過程なのです。

 受け入れる用意のできていない人に真理を押しつけることはできません。そこには必ず混乱・論争・討論・議論といったものが生じます。が、それにもそれなりの意義があります。

その混乱の中から、受け入れる用意のある人にとっての真理が出てきます。その用意というのは霊的進化の程度、発達段階によって決まります。それは各自が自分で決めていくというのが宿命です。

 もしも私がある人たちにとっての真理を説き、それを聞いてあなたが 〝私には信じられません〟 と正直におっしゃっても、私は少しも不愉快には思いません。あなたへの愛の気持ちはそれによっていささかも減りません。

なぜなら、あなたはこの地上においてあなたなりの理性、あなたなりの良識を使い、納得しないものは拒絶することで自己開発するようになっているという理解が私にあるからです。

 その最終的な裁定者として私が敬意を表しているところの理性によってあなたの賛同を得ることができなければ、それは私が役に立たなかったことを意味します。


───私もこうした霊的真理を説きたいと思いながら、今、同じ問題に逢着しているように思います。難しさを痛感しております。教会で説くにしてもサークルで説くにしても、これが真理なのだ、これ以外にはないのだと信じて話します。その際、これが自分の信じていることであると述べて、後は(押しつけがましいことは)何も言わない方がよろしいのでしょうか。

 そうです。後は各自の判断に任せることです。


───拒絶されても構わずにおくということですね。

 真理というものは拒絶されたからといって少しも損なわれるものではありません。そういう人は受け入れる用意ができていないのです。ですから、待ってあげるのです。そして霊性の火花を煽ってみる程度に留めるのです。それ以上のことはできないのです。それで何の反応もなければ、その人のことを気の毒に思ってあげないといけません。


───スピリチュアリズムの組織には事務的なことや物的な問題が多すぎるのはなぜでしょうか。その種のことは(霊的知識のない)事務員を雇うことで処理できることなのですが、肝心の霊的指導者はどうやって探せばよいのでしょうか。霊的な飢餓というものもあることを痛感しております。

 聖書の言葉をご存知ですか。よくご存知のはずの言葉を引用してみましょう。〝まず神の国とその義を求めよ。しからば他のものもすべて添えて与えられん〟(マタイ6・33)これはどういう意味だと思われますか。


───まず第一に霊的なものを求めなければいけないことだと思います。たぶん私たちは方向を間違えているのだと思います。

 霊が王様で物質は従者です。霊は物質に先んじるものです。霊的に正しければ物的な面もおのずと整います。要はどちらを優先させるかの問題です。お金が不足したからといって大義が台無しになることはありません。霊性が発揮されるにはまずお金がなくてはいけない、という発想から金儲けを優先させても、事はそうは運びません。

 私たちは物的エネルギーを操りながら皆さんのもとへやってまいります。私たちのバイブレーションは速くてデリケートなので、この遅鈍で緩慢なエネルギーを操る要領を会得しなければなりません。このサークルの方なら、必要とあらば私たちが物質を操ることができることをご存知です。

(訳者注──シルバーバーチの交霊会でも初期の頃は〝霊の威力〟を見せるために物理的心霊現象を演出していた。とくにテーブルを動かす程度のことは末期に至るまでひんぱんに行っていた。)

 もう一つ聖書の言葉を引用しましょう。〝大地とそこに満つるものは主のものなり〟───物的なものは一つとしてあなたのものではないということです。本当の意味で自分のものとすることはできないのです。

たとえ手に入れてもあなたのものではありません。あなたは地上生活中はただの財産管理人に過ぎません。すべては大霊のものなのです。

 心から人のためという気持ちになれば、必要なものはそのうち必ず揃うものです。霊的なものを優先した仕事をする人は必ず私たちが援助の手を差し伸べていることを知ってくださるはずです。

自然の摂理として、誰一人見落とされるようなことも忘れ去られることもないようになっているのです。その神の力を信じて、その意志が働く通路を神に提供してあげて下さい。


───随分簡単なことのようにおっしゃいますが・・・・・・

 事実、簡単なのです。地上にはややこしく考えるのがお上手で、分かったような分からないような結論を出されるご仁が多すぎます。そこで、幼な子のごとき素直さで持って問題の核心に一直線に突き進む態度が要請されることになるのです。〝幼な子のごとくあらずんば・・・・〟(マタイ18・3)というわけです。

 私たち霊界の者は人のために役立つことをしている人の努力を無駄に終わらせたことは一度もありません。必要なものは必ず手に入ります。それは私たちがこれまでに数知れず試されてきていることです。霊的なものも物的な物も、必要なものは必ず手に入れてさしあげます。

あなた方はあなた方の役割を果たしておればよろしい。私たちは私たちの役割を果たします。

(訳者注───ここでいう〝私たち霊界の者〟とは各自の背後霊のことと考えればよい。つまり守護霊を中心として、同じ霊系や地上的縁でつながった霊の集まりがあって、その霊たちが本人の地上での天命を全うさせるために、いろいろと世話を焼いてくれている。

そのことだけを考えると万事がうまく行ってもよさそうに思えるが、地上界と霊界との関係には二つの絶対条件があり、それが事を厄介にしている。一つは自由意志の要素であり、もう一つは波長の原理である。

 守護霊といえども本人がどうしてもやりたいと思うことを止めさせることはできないし、やりたくないと思うことを無理やりやらせることもできない。守護霊も摂理を無視したことは許されないのである。

 もう一つのは波長の原理というのは、先ほどのシルバーバーチの〝心から人のためにという気持ちになれば必要なものはそのうち必ず揃うものです〟という言葉に暗示されている。そこには〝正しい心掛け〟というものが要請されているわけである。それが波長を整える作用をするのである。

シルバーバーチが〝心配の念を抱いてはいけません〟と口を酸っぱくして言っているのも同じ原理を言っている。

 そのこととは別に、シルバーバーチが言及していないことで私から注意を促しておきたいことがある。それは、金銭上の問題は高級霊ほどニガ手なので、守護霊は直接には関与せずに配下の霊、それもどちらかというと地上臭の抜け切っていない霊に任せるということで、その意味でもわれわれは霊のことを高級・低級のみで安直に区別してはならない。それぞれに得手不得手があり、それぞれに〝役に立つこと〟をしているのであるから。

 もとよりこうしたことは原則として守護霊の管理下で行われていることであるから、その通りに行っていれば問題はないが、本人の方が欲の皮が突っ張り見栄や慢心が出はじめたら、波長の原理でもはや守護霊の管理下から離れ、同じ波長をもつ低級霊、それも邪心をもった悪霊に操られることになる。

 必要以上の金が儲かったり、思わぬ大金が転がり込んだり、預金が面白いほど増え始めたら危険と思わねばならない。それは言わば欲望の肥満体になることであり、魂は活力を失い、霊的病いが出始める。悪霊の思うツボにはまったのである。

 シルバーバーチが〝人のために役立つ〟という心掛けを説く裏にはそういう意味合いも含まれていると理解されたい)


───たしかに私はあなたから大きな援助と叡智のお言葉をいただいて感謝いたしております。

 あなたには霊視能力があります。願わくはその能力がもう少し広がって、神の計画の推進に当たっている神庁の組織、高級神霊の働きの一端をかい間見ることがお出来になればよろしいのですが・・・そうすれば一瞬たりともうろたえたり、ひとかけらの心配の念を宿すことがなくなるはずです。

それを私はこの目で見ているのです。そして、これまでの実際の成果を逐一知っているのです。

 私はここで満身の力を込めて断言いたします。真理普及という大義に身を捧げておられる皆さん方は、宇宙最大の力、生命力そのものの援助にあずかることができるのです。それはもはや義務ともいうべきものと心得るべきです。

 すなわち、それを賢明に、有意義に使うのです。あなたの生活の範囲内で触れ合う人たちの全てに導きの手を差しのべるのです。もしもその手が拒絶されれば、それはそれでよろしい。その人の思う道を進ませてあげればよろしい。

その辺の判断はあなた方自身の叡智の光と良識に照らしてなさるがよろしい。動機がすべてを決します。動機が正しければ、いかなる事態が生じようと最後は必ず勝利します。

 人生には二つの大切な要素があります。一つは知識であり、もう一つは信仰(信念)です。知識の裏付けのない信仰は〝折れた葦〟(マタイ12・20その他)のようなもので、いざという時に頼りになりません。が、知識に信仰を上のせする───これが最高の組み合わせです。
 
 あなたは人生とその意義についての理解をもたらしてくれた知識はすでにお持ちです。が、それとて、これから先あなたが入手していくべき知識に比べれば、ほんのひとかけらに過ぎません。そこでその不足を補うための信仰というものが必要となります。

 しかしそれも、あくまで事実に即した知識を根拠とした信仰です。軽々しい信仰、理不尽な信仰、知性を侮辱する様な信仰ではなく、事実を根拠とした信仰、つまり、かくかくしかじかの事実がある以上はそう信じてもよいはずだという論拠をもった信仰です。それはあなたにとって大切なものです。

 本日お集まりの方の中には、このことを耳にタコが出来るほど聞いておられる方がいらっしゃいます。さぞかしうんざりされることでしょうが、でもやはり真実です。平凡な真理は、たとえ何度繰り返しても真理です。くり返すことによって真実性が減じることはありません。

 私から申し上げたいのは、皆さんは有限の世界で生活する有限の存在だということです。無限の知識から手にすることのできる分量は、皆さんが霊的・精神的に到達した発達段階によって制限されます。

これまでに受け入れられた知識はしっかりと吟味したうえで真実であると確信されたものです。その知識の上に、まだ掲示されずにいるものに対する信仰心(信念)を築くのです。それは理不尽なものではありません。立証可能な事実を土台としています。

 地上の人間の態度をみていてどうも理屈に合わないと思うことの一つは、物的な惰眠から目覚めるまでにはさんざん時間が掛かっているのに、いったん目覚めると、今度は急にせっかちになることです。どんどん事が運ぶことを期待するのですが、そうはまいりません。

霊的な進歩は着実でないといけません。近道というものはないのです。一歩一歩をしっかりと足固めしながら進まないといけません。一歩進むごとに次に進むべき方角が開けます。

 これまでに啓示していただいたものを基盤にして,ひとまずそれに甘んじるのです。そしてもしも疑問が生じたら───きっと生じるものです、あるいはもしも疑念が湧いたら───必ず湧くものです、

そしてもしも困難が厄介な頭をもたげはじめたら、慌てず我慢するのです。霊の力は物質に勝ることを忘れないことです。霊界から働きかけやすい条件さえ提供してくれれば、いかなる障害も、いかなる困難も、いかなるハンディキャップも、霊の力で克服できないものはありません。

 そもそも教会というものが存在するようになったのは、霊力がさまざまな形で顕現したからです。奇跡と思われた現象も、霊力によって演出されていたのです。が、今日の教会にはそれが見られません。かつて〝聖地〟と呼ばれたところも、今は霊的砂漠となり、オアシス一つ見当たらない不毛の土地となっております。

 しかし神の摂理は少しも変わっておりません。そこが 〝聖い処〟 とされたのは霊力が崇高な形で顕現したことによって神聖視されたからです。それと同じ霊力が今あなたを通して顕現し、大きな恩恵をもたらしつつあるのです。

 私はそれぞれの宗教界において真面目に勤しんでいる人たちを非難しようとは思いません。が、その人たちは、苦しんでいる世の中の人のために役立つことは何もしておりません。教義は無味乾燥です。ドグマは不毛です。視野は旧態依然としており、新しい流れがどんどん通り過ぎていきつつあることに気づきません。

 われわれは地上の多くの場所で悪性のガンを生み出している貪欲、強欲、私利私欲が一掃された新しい世界の到来を告げる使者なのです。

あらゆる宗教的行為の中の最高の行為として〝人のために自分を役立てること〟 を掲げ、互いに扶助し合い、寛容(ユル)し合い、人間と動物の区別なしにすべてに哀れみの心をもつべきであると説きます。本当にその気になれば地上天国は叶えられるのです。

 それが今私達が皆さんに協力のもとにたずさわっている仕事です。俗世の悩みに襲われ、暗闇に閉ざされて気が滅入り、疲れ果てあるいは塞ぎ込みそうになった時は、霊的知識を手にした皆さんは、このまま野放しにしたら地上を破滅状態に陥れかねない物質第一主義の風潮に挑む、戦いの中の戦いに選ばれた霊の大軍の一員であることを思い出して、奮い立たないといけません。

 いつまでも絶望感に浸っていてはいけません。私たちは決して見殺しにはしません。援助を届ける通路さえあれば、奇特な心掛けを無為に終わせることは致しません。必要とあらば、いかなる援助でも致します。このインフレの時代にも皆さんに不足の思いをさせないように配慮しております。

 われわれは大事な仕事に携わっているのです。すでに何度も申し上げていることですが、大義に身を捧げることは気高いことであることを今こそ肝に銘ずべきです。人間の気高さは人の為に役立つことをすることから生まれるのです。

 地上の人間は自己改善によってみずからを救済するようにならないといけません。また地上生活ならではの恩恵のすべてが味わえるようになるのは、協調と互助という霊的原理を実行するしかないことを理解しなければなりません。物的恩恵だけのことを言っているのではありません。精神的ならびに霊的恩恵も味わえます。

 人間は精神的にも身体的にも霊的にも自由であらねばなりません。私たちはいかなる形であっても〝隷属〟というものを許しません。人間はみずからの束縛状態をみずからの力で解かないといけません。

そのためには先ず自分を生かしめている力が地上世界の他のすべての存在、生きとし生けるものすべてを生かしめている霊力と同じであることを、しっかりと認識しないといけません。霊力がそれらすべてを取り巻き、すべてを一体とさせ、その存在の究極の責任者である宇宙の大霊すなわち神の前において一つにしているのです。

 私たちが生命の実在について霊的な実感をもたらしてあげるために行っている仕事の背景には、そうした事実があるのです。その目的はそうたやすくは達成されません。

なぜなら、こうした教訓は困難・危機・病気・死別等を体験して初めて学べるものだからです。絶望の底に叩き落とすような苦悩でありながら、実は真実の自我を見出すための手段なのです。

 ですから、皆さんには是非ともやっていただかねばならない役目があります。が、それにはたっぷりと時間を掛けないといけません。われわれの背後には宇宙最大の力、大霊の霊力が控えております。後退させられることはあります。潮は満ちるだけではありません。

必ず引きます。それと同じです。が、霊力の働きが止まってしまうことはありません。常に働きかけております。

 生命のあるものには霊があります。停滞と不活発はわれわれの敵です。なぜなら、そういう条件下では霊力は流入しないからです。あなた方は私たちに通路を提供し、その通路を通って霊力が流入するのです。私たちが欲しいのは献身的な協力者です。操り人形ではなく、私たちが協力するように私たちに協力してくれる、自発的参加者です。

 奉仕は霊の通貨です。宗教とは自分を役立てる行為であり、またそうであるべきです。そうでなかったら宗教は何の意義もありません。


 ───(若い女性のゲスト)あなたのおっしゃる通り私たちは生命を唯一の生命力すなわち神から受けていますから、みんなして愛と奉仕を目的とすれば、すべてがうまく収まると思うのです。そこでお聞きするのですが、平均的な一般人もこうした深い霊的な教えを理解する必要があると思われますか。

一般の人には私たちが同じ神から生命力を受けているという一つの事実を理解させ、それを生活の基盤として、さらに大霊についてより多く知るように持って行けば、スピリチュアリズムだのキリスト教だのという形で理解するよりも、非常に多くの人が理解できるのではないかと思うのです。

 おっしゃることは本質的には結構な事ですし、異議を唱える人は誰一人いないでしょう。ですが、人間は一人ひとり成長と開発と発達と進化の程度が異なるものです。ある人にとってすぐに受け入れられることが、別の人からは拒絶されることもあります。もしも全員が画一的なレベルにあるのであれば画一的なメッセージで済むでしょうけど・・・・・・

 たとえば、ある人に大霊とは愛と叡智の極致であると説いて、それがすんなりと受け入れられても、神の存在を頭から信じない人は即座に否定するでしょう。ですから、メッセージを与える場合は、内容をその人の受容力に応じたものにしないといけません。

 あなたが説くことの単純な素朴さがアピールする人もいるでしょうし、しない人もいるでしょう。人によっては世の中の不公平、さまざまな矛盾、一見無実と思える人の受難、利己的な人間がうまく罰を免れている現実を指摘して、それは一体どうなるのだと言うかもしれません。そこであなたは、延々と骨の折れる議論に巻き込まれてしまいます。

 そういうタイプの人には霊的実在の動かし難い証拠、たとえば〝不治〟の宣告を受けた病気が治った人の例を持ち出すにかぎります。そうすれば常識的な言葉では説明できなくても、実際に慈悲または愛の働きを見せた非物質的エネルギーの存在だけは認めざるを得ないでしょう。

 もう一つ大切なことがあります。知識と叡智と真理は無限に存在しますから、人間が手にすることのできる分量にも限界はないということです。

うわべだけを見るかぎりでは普遍的な愛のテーマは単純に思えるかも知れませんが、その内側はとても複雑です。その複雑な裏側の理解の必要性を痛感するようになるのは、それだけの理解力が具わってからのことです。


───言い替えれば、あらゆる学派や宗派はそれなりの存在価値があるということですね。それぞれが、ある一定水準(レベル)に達した者に何かを与えるようになっている───他の者には満足できない宗教でもその人には満足できるということなのでしょう。

 無限なる霊は無限の表現形態を取ります。生命全体が段階的になっているのです。あなたは休みなく進化しつつあります。一段上がるごとに、その上にもう一段あることを知ります。山頂を一つ克服してみたら、その向こうにもっと高い山頂が見えてくる、と言ってもよいでしょう。

 人類は異なる成長段階にある者で構成されています。したがって、すべての者にアピールする一つの教えというものは提供できないのです。相手がどの程度のものを受け入れる用意ができているかを見きわめる必要があります。あなたの説く思想がそれである人もいるでしょう。

別の論拠を持ち出してそれを論ぱくする人がいるかもしれません。そういう人には五感に訴えるもの───何か常識を超えたもので、根源は霊的でも顕現の仕方が物質的なものを持ち出さないといけません(奇跡的な病気治療などー訳者)

 しかし、いかなる能力を駆使するにせよ、要はその人に成長の機会を与えることになれば、それが一ばん大切なことです。

シルバーバーチ

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