Saturday, November 30, 2024

シアトルの晩秋 光沢のない王冠

crown with no luster



光沢のない王冠  
一九一九年二月二十日  木曜日


 やがて青色のマトンが気化するごとくに大気の中へ融け入ってしまいました。見ると主は相変わらず玉座の中に座しておられましたが、装束が変わっていました。

両肩には同じ青色をしたケープ(外衣)を掛けておられ、それが両わきまで下り、その内側には黄金の長下着を付けておられるのが見えました。

座しておられるためにそれが膝の下まで垂れていました。それが黄金色の混った緑色の幅の広いベルトで締められており、縁どりはルビー色でした。

冠帯は相変わらず頭部に付いていましたが、その内側には一群の星がきらめいて、それが主のまわりにさまざまな色彩を漂わせておりました。

主は右手に光沢のない白い王冠を持っておられます。主のまわりにあるもので光沢のないものとしては、それが唯一のものでした。それだけに一層吾々の目につくのでした。

 やがて主が腰をお上げになり、その王冠をすぐ前のあがり段に置かれ、吾々の方へ向いてお立ちになりました。それから次のようなお言葉を述べられました。

 「そなたたちはたった今、私の王国の中をのぞかれ、これより先のことをご覧になられた。が、そなたたちのごとくその内部の美しさを見ることを得ぬ者もいることを忘れてはならぬ。かの飛地にいる者たちは私のことを朧(おぼ)ろげにしか思うことができぬ。

まだ十分に意識が目覚めていないからである。ラメルよ、この者たちにこの遠く離れた者たちの現在の身の上と来るべき宿命について聞かせてあげよ」


 すると、あがり段の両わきで静かに待機していた天使群の中のお一人が玉座のあがり段の一ばん下に立たれた。白装束をまとい、左肩から腰部へかけて銀のたすきを掛けておられました。

その方が主にうながされて語られたのですが、そのお声は一つの音声ではなく無数の和音(コード)でできているような響きがありました。

共鳴度が高く、まわりの空中に鳴り響き、上空高くあがって一つひとつの音がゴースの弦に触れて反響しているみたいでした。一つ又一つと空中の弦が音を響かせていき、やがて、あたかも無数のハーブがハーモニーを奏でるかの如くに、虚空全体が妙(たえ)なる震動に満ちるのでした。

 その震動の中にあって、この方のお言葉は少しも鮮明度が失われず、ますます調子を上げ、描写性が増し、その意味する事柄の本性との一体性を増し、ますます具体性と実質性に富み、あたかも無地のキャンパスに黒の絵の具で描きそれに色彩を加えるような感じでした。

したがってその言葉に生命がこもっており、ただの音声だけではありませんでした。

 こう語られたのです──

 「主の顕現がはるか彼方の栄光の境涯にのみ行われているかに思えたとて、それは一向にかまわぬこと。主は同時にここにも坐(ま)します。われらは主の子孫。主の生命の中に生きるものなればなり。

 われらがその光乏しき土地の者にとりて主がわれらに対するが如く懸け離れて見えたとて、それもかまわぬこと。彼らはわれらの同胞であり、われらも彼らの同胞なればなり。

 彼らが生命の在(あ)り処(か)を知らぬとて──それにより生きて、しかも道を見失ったとて、いささかもかまわぬこと。手探りでそれを求め、やっとその一かけらを手にする。しかし少なくともそのことにおいて彼らの努力は正しく、分からぬながらもわれらの方へ向けて両手を差しのべる。

 それでも暗闇の中で彼らは転び、あるいは脇道へと迷い込む。向上の道が妨げられる。その中にあって少しでも先の見える者は何も見えずに迷える者が再び戻ってくるのを待ち、ゆっくりとした足取りで、しかし一団となりて、共に進む。

 その道程がいかに長かろうと、それは一向にかまわぬこと。われらも彼らの到着を待ち、相互愛の中に大いなる祝福を得、互いに与え与えられつつ、手を取り合って向上しようぞ。

 途中にて躓(つまず)こうと、われらへ向けて歩を進める彼らを待たん。あくまでも待ち続けん。あるいはわれらがキリストがかの昔、栄光の装束を脱ぎ棄てられ、みすぼらしく粗末な衣服をまとわれて、迷える子羊を求めて降りられ、地上に慰めの真理をもたらされたごとくに、われらも下界へ赴きて彼らを手引きしようぞ。

 主をしてそうなさしめた力が最高界の力であったことは驚異なり。われらのこの宇宙よりさらに大なる規模の宇宙に舞う存在とて、謙虚なるその神の子に敬意を表し深く頭を垂れ給うた。

なんとなれば、すでに叡智に富める彼らですら、宇宙を創造させる力が愛に他ならぬこと──全宇宙が愛に満ち愛によりて構成されていることを改めて、また一だんと深く、思い知らされることになったゆえである。

 ゆえに、神がすべてを超越した存在であっても一向にかまわぬこと。われらにはその子キリストが坐(ま)しませばなり。

 われらよりはるかに下界に神の子羊がいても一向にかまわぬこと。キリストはその子羊のもとにも赴かれたるなり。

 彼らがたとえ手足は弱く視力はおぼろげであろうと一向にかまわぬ。キリストが彼らの力であり、道を大きく誤ることなく、あるいはまた完全に道を見失うことのなきよう、キリストが彼らの灯火(ランプ)となることであろう。

 また、たとえ今はわれらが有難くも知ることを得たより高き光明界の存在を彼らが知らずとも、いつの日かわれらと共によろこびを分かち、われらも彼らとよろこびを分かつ日が到来しよう──いつの日かきっと。

 が、はたしてわれらのうちの誰が、このたびの戦いのために差し向けられる力を背に、かの冠を引き受けるのであろう。自らの頭に置くことを申し出る者はどなたであろうか。それは光沢を欠き肩に重くのしかかることを覚悟せねばならぬが。

 信念強固にして一途なる者はここに立ち、その冠を受け取るがよい。
 今こそ光沢を欠くが、それは一向にかまわぬこと。いずれ大事業の完遂の暁には、内に秘められた光により燦然と輝くことであろう」

 語り終ると一場を沈黙が支配しました。ただ音楽のみが、いかにも自ら志願する者が出るまで終わるのを渋るが如くに、物欲しげに優しく吾々のまわりに漂い続けるのでした。

 その時です。誰一人として進み出てその大事業を買って出る者がいないとみて、キリスト自らが階段を下りてその冠を取り上げ、自らの頭に置かれたのです。

それは深く眉のすぐ上まで被さりました。それほど重いということを示しておりました。そうです、今もその冠はキリストの頭上にあります。しかし、かつて見られなかった光沢が少し見えはじめております。

 そこで主が吾々にこう述べられました──
 「さて友よ、そなたたちの中で私について来てくれる者はいるであろうか」
 その御声に吾々全員が跪(ひざまず)き、主の祝祷を受けたのでした。
     アーネル  ±  

Thursday, November 28, 2024

シアトルの晩秋 物質科学から霊的科学へ

From Material Science to Spiritual Science


物質科学から霊的科学へ
  一九一九年二月二十八日  金曜日
 

 人類が目覚めのおそい永い惰眠を貪(むさぼ)る広大な寝室から出て活発な活動の夜明けへと進み、未来において到達すべき遠い界層をはじめて見つめた時にも、やはり神々による廟議は開かれていたのでした。

その会議の出席者は多分、例のアトランティス大陸の消滅とそれよりずっと後の奮闘の時代──人類の潜在的偉大さの中から新たな要素がこれより先の進化の機構の中で発現していく産みの苦しみを見ていたことでしょう。

後者は同じ高き界層からの働きかけによって物質科学が発達したことです。人間はそれをもって人類が蓄積してきた叡智の最後を飾るものと考えました。

しかし、その程度の物的知識を掻き集めたくらいでおしまいになるものではありません。

大いなる進化は今なお続いているのです。目的成就の都市は地上にあるのではありません。はるか高遠の彼方にあるのです。

人間は今やっと谷を越え、その途中の小川で石ころを拾い集めてきたばかりです。こんどはそれを宝石細工人のもとへ持っていかねばなりません。そういう時期もいずれは到来します。細工人はそれを堂々たる王冠を飾るにふさわしい輝きと美しさにあふれたものに磨き上げてくれることでしょう。しかし細工人はその低き谷間にはいません。

いま人類が登りかけている坂道にもいません。光をいっぱいに受けた温い高地にいるのです。そこには王とその廷臣の住む宮殿があります。しかし王自身は無数の廷臣を引きつれて遥か下界へ降りられ、再び地上をお歩きになっている。ただし、この度はそのお姿は(地上の人間には)見えません。

吾々はそのあとについて歩み、こうした形で貴殿にメッセージを送り、王より命じられた仕事の成就に勤しんでいるところです。


──では、アーネルさん、キリストは今も地上にいらっしゃり、あなたをはじめ大勢の方たちはそのキリストの命令を受けていると理解してよろしいでしょうか。

 キリストからではないとしたら、ほかに誰から受けるのでしょう。今まさに進行中の大変な霊的勢力に目を向けて、判断を誤らぬようにしてください。

地上の科学は勝利に酔い痴れたものの、その後さらに飛躍してみれば、五感の世界だけの科学は根底より崩れ、物的尺度を超えた世界の科学へと突入してしまいました。皮肉にも物的科学万能主義がそこまで駆り立てたのです。

今やしるしと不思議(霊的現象のこと。ヨハネ4・48―訳者)がさまざまな形で語られ、かつてはひそひそ話の中で語られたものが熱弁をもって語られるようになりました。

周囲に目をやってごらんなさい。地上という大海の表面に吾々無数の霊が活発に活動しているその笑顔が映って見えることであろう。声こそ発しなくても確かに聞こえるであろう。姿こそ見えなくても、吾々の指先が水面にさざ波を立てているのが見えるであろう。

人間は吾々の存在が感じ取れないと言う。しかし吾々の存在は常に人間世界をおおい、人間のこしらえるパイ一つ一つに指を突っ込んでは悦に入っております。中のプラムをつまみ取るようなことはしません。

絶対にいたしません。むしろ吾々の味つけによって一段とおいしさを増しているはずです。

 あるとき鋳掛屋(いかけや)がポーチで食事をしたあと、しろめ製の皿をテーブルに置き忘れたまま家に入って寝た。暗くなって一匹の年取ったネコが現われてその皿に残っていた肉を食べた。それからネコはおいしい肉の臭いの残る皿にのって、そこを寝ぐらにしようとした。

しろめの硬さのために寝心地が悪く、皿の中でぐるぐると向きを変えているうちに、その毛で皿はそれまでになくピカピカに光り輝いた。

 翌朝、しろめの皿のことを思い出した鋳掛屋が飛び出してみると、朝日を受けてその皿が黄金のように輝いている。

 「はて、不思議なことがあるもの・・・・・・」彼はつぶやいた。「肉は消えているのに皿は残っている。肉が消えたということは〝盗っ人〟のしわざということになるが、皿が残っていて、その上ピカピカに光っているところをみると、そいつは〝良き友〟に違いない。

しかし待てよ。そうだ。たぶんこういうことだろう──肉は自分が食べてしまっていたんだ。そして星のことかなんか、高尚なことを考えながら一ぱいやっているうちに、自分のジャーキン(皮製の短い上着)で磨いていたんだ」


──この寓話の中のネコがあなたというわけですね?

 そのネコの毛一本ということです。ほんの一本にすぎず、それ以上のものではありません。
アーネル  ±

 訳者注──この寓話の部分はなぜか文法上にも構文上にも乱れが見られ細かい部分が読み取れないので、大体のあらすじの訳に留めておいた。要するに人類は各分野での進歩・発展を誇るが、肝心なことは霊の世界からのインスピレーションによって知らないうちに指導され援助されているということであろう。



  一九一九年二月二十八日  金曜日 

 人類が目覚めのおそい永い惰眠を貪(むさぼ)る広大な寝室から出て活発な活動の夜明けへと進み、未来において到達すべき遠い界層をはじめて見つめた時にも、やはり神々による廟議は開かれていたのでした。

その会議の出席者は多分、例のアトランティス大陸の消滅とそれよりずっと後の奮闘の時代──人類の潜在的偉大さの中から新たな要素がこれより先の進化の機構の中で発現していく産みの苦しみを見ていたことでしょう。

後者は同じ高き界層からの働きかけによって物質科学が発達したことです。人間はそれをもって人類が蓄積してきた叡智の最後を飾るものと考えました。

しかし、その程度の物的知識を掻き集めたくらいでおしまいになるものではありません。

大いなる進化は今なお続いているのです。目的成就の都市は地上にあるのではありません。はるか高遠の彼方にあるのです。

人間は今やっと谷を越え、その途中の小川で石ころを拾い集めてきたばかりです。こんどはそれを宝石細工人のもとへ持っていかねばなりません。そういう時期もいずれは到来します。細工人はそれを堂々たる王冠を飾るにふさわしい輝きと美しさにあふれたものに磨き上げてくれることでしょう。しかし細工人はその低き谷間にはいません。

いま人類が登りかけている坂道にもいません。光をいっぱいに受けた温い高地にいるのです。そこには王とその廷臣の住む宮殿があります。しかし王自身は無数の廷臣を引きつれて遥か下界へ降りられ、再び地上をお歩きになっている。ただし、この度はそのお姿は(地上の人間には)見えません。

吾々はそのあとについて歩み、こうした形で貴殿にメッセージを送り、王より命じられた仕事の成就に勤しんでいるところです。


──では、アーネルさん、キリストは今も地上にいらっしゃり、あなたをはじめ大勢の方たちはそのキリストの命令を受けていると理解してよろしいでしょうか。

 キリストからではないとしたら、ほかに誰から受けるのでしょう。今まさに進行中の大変な霊的勢力に目を向けて、判断を誤らぬようにしてください。

地上の科学は勝利に酔い痴れたものの、その後さらに飛躍してみれば、五感の世界だけの科学は根底より崩れ、物的尺度を超えた世界の科学へと突入してしまいました。皮肉にも物的科学万能主義がそこまで駆り立てたのです。

今やしるしと不思議(霊的現象のこと。ヨハネ4・48―訳者)がさまざまな形で語られ、かつてはひそひそ話の中で語られたものが熱弁をもって語られるようになりました。

周囲に目をやってごらんなさい。地上という大海の表面に吾々無数の霊が活発に活動しているその笑顔が映って見えることであろう。声こそ発しなくても確かに聞こえるであろう。姿こそ見えなくても、吾々の指先が水面にさざ波を立てているのが見えるであろう。

人間は吾々の存在が感じ取れないと言う。しかし吾々の存在は常に人間世界をおおい、人間のこしらえるパイ一つ一つに指を突っ込んでは悦に入っております。中のプラムをつまみ取るようなことはしません。

絶対にいたしません。むしろ吾々の味つけによって一段とおいしさを増しているはずです。

 あるとき鋳掛屋(いかけや)がポーチで食事をしたあと、しろめ製の皿をテーブルに置き忘れたまま家に入って寝た。暗くなって一匹の年取ったネコが現われてその皿に残っていた肉を食べた。それからネコはおいしい肉の臭いの残る皿にのって、そこを寝ぐらにしようとした。

しろめの硬さのために寝心地が悪く、皿の中でぐるぐると向きを変えているうちに、その毛で皿はそれまでになくピカピカに光り輝いた。

 翌朝、しろめの皿のことを思い出した鋳掛屋が飛び出してみると、朝日を受けてその皿が黄金のように輝いている。

 「はて、不思議なことがあるもの・・・・・・」彼はつぶやいた。「肉は消えているのに皿は残っている。肉が消えたということは〝盗っ人〟のしわざということになるが、皿が残っていて、その上ピカピカに光っているところをみると、そいつは〝良き友〟に違いない。

しかし待てよ。そうだ。たぶんこういうことだろう──肉は自分が食べてしまっていたんだ。そして星のことかなんか、高尚なことを考えながら一ぱいやっているうちに、自分のジャーキン(皮製の短い上着)で磨いていたんだ」


──この寓話の中のネコがあなたというわけですね?

 そのネコの毛一本ということです。ほんの一本にすぎず、それ以上のものではありません。
アーネル  ±

 訳者注──この寓話の部分はなぜか文法上にも構文上にも乱れが見られ細かい部分が読み取れないので、大体のあらすじの訳に留めておいた。要するに人類は各分野での進歩・発展を誇るが、肝心なことは霊の世界からのインスピレーションによって知らないうちに指導され援助されているということであろう。

シアトルの晩秋 シルバーバーチの霊界通信の目的

The Purpose of Silver Birch's Spirit World Communications



〔それにしてもいったい、シルバーバーチのような高級霊がわざわざ地上圏へ戻ってきて人類を啓発しようとするのは、どうしてなのか。どのような理由があるのか。それについてシルバーバーチは、現在の地上人類にとって最も欠けているもの、裏を返せば人類が最も必要としているものは「霊的真理」についての正しい理解であると言う。では、交霊会の本来の目的についてシルバーバーチの説明を聞いてみよう。〕


私は、他の同僚と同じように、さる筋から物質圏での仕事の要請を受けました。その仕事というのは、自分たちの住む地球もろとも自らを破滅へ追いやるようなことばかりしている人類を救済することでした。

それをお引き受けして以来、私たちはずっと皆さんとともに仕事をし、今なおこうして努力しているのです。その目的は、人間は地上を去っても同じように大霊の懐(ふところ)の中にあって、より高い領域(霊界)において生き続けることを証明することです。それによって今地上で生活している人々に、自分が大霊の一部であることを理解していただきたいのです。

こうした目的で私たちは奮闘しているのですが、肝心の教訓よりも、どうでもいいことに関心を向ける人が少なくありません。メッセージが“白人”と呼ばれている者から届けられようと、“黒人”と呼ばれている者から届けられようと、黄色い肌をした人やレッド・インディアンから届けられようと、そんなことはどうでもいいことではないでしょうか。大霊の摂理を届ける者がかつて高い教育を受けた人間であろうとなかろうと、要は摂理でありさえすれば、正しい真理でありさえすれば、それはどうでもいいことではないでしょうか。


旧約聖書に「狼は仔羊とともに住み、豹は仔山羊のそばに横たわり、仔牛と小獅子が仲良く食(は)み、幼な子がそれらを導く」(イザヤ書十一)とあります。小賢(こざか)しい人間の浅はかな考えを捨てて幼な子のような無邪気さに立ち戻るまでは、この地上にあっても、あるいは私たちの世界へ来ても、大した進化向上は得られません。地上の人間は肌の色の違いによって上下の差をつけたがります。肌の色だけを見て、霊性においては皆が一つであることを知らずにいます。

なぜ人間は戦争をするのでしょうか。それについて皆さんはどう思いますか。なぜ悲劇を繰り返すのでしょうか。その原因は何だと思いますか。どうして人間の世界には悲しみが絶えないのでしょうか。

その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることができないために、万物の背後にすべてを一つに結びつけている大霊が存在していることが理解できないからです。人間は何かにつけて“差別”をしようとするため、そこから混乱が生じ、悲劇が生まれ、そして破壊へと向かうことになるのです。

前にも申し上げたように私たちは、あなた方が“野蛮人”と呼んでいるインディアンですが、あなた方文明人が忘れてしまった大霊の摂理を説くために戻ってまいりました。あなた方文明人は、物質界にしか通用しないシステムの上に人生を築こうと努力してきました。教育と教養を求め、大霊の摂理からかけ離れた文明をつくり上げようとしてきました。


訳注――スワッファーの序文にある通りシルバーバーチ自身はインディアンではないし、霊団の構成員も英米の著名人が主体になっている。地上時代にインディアンだったのは霊界側の霊媒のことである。

シルバーバーチはあとで「実は私はインディアンではありません」と告白するまで、そのインディアンを自分自身であるかの表現に終始している。またこの直前の文の中で“私たち”と、いかにも霊団全員がインディアンであるかのごとき表現をしたのは、現代の物質文化が白人による“便利文化”にすぎず、それが霊性進化の観点から見るかぎり間違っていること、そしてインディアンの文明が理想的であることを諭す意図があったのであろう。

人間世界が堕落してしまったのは、そのためなのです。古い時代の文明が破滅してしまったように、現代の物質文明は完全に破綻状態に陥っています。そのかけらを一つひとつ拾い上げて、永遠の霊的摂理の上に今一度築き直す、そのお手伝いをするために私たちは戻ってきたのです。それは私たち全員に大霊からの愛が流れており、その愛であなた方を愛しているからです。

こう言うと、中にはこんなことをおっしゃる人がいるかもしれません。「いや、それは大きなお世話だ。我々白人は肌の色の違う者たちの手を借りてまで世の中を良くしようとは思わない。白人の世界は白人の手で何とかしよう。有色人種に助けてもらうくらいなら、不幸のままでいる方がいい」と。

しかし、何と言おうと、霊界と地上界は互いに助け合って進歩していくものなのです。地上の文明の中には、霊界の者にとっても役に立つものが多々あります。私たちは霊界で学んだことをあなた方にお教えしようと努め、同時にあなた方から得られるものは何でも吸収しようとしています。そうした相互扶助の摂理を通してこそ、地上世界に天国が到来するようになるのです。

いつの日か、地上のすべての人種が差別なく混じり合うようになるでしょう。どの人種にも、果たすべき役割があるからです。それぞれが人類に役立つものを持っているために、すべての人々が混じり合うようになるのです。霊眼を持って見れば、すべての人々がそれぞれの人種の長所と、独自の文化と、独自の知恵を持ち寄って調和のとれた生活を送るようになる日が、しだいに近づきつつあることが分かります。

ここに集っているあなた方と私、そして私たちと一緒に働いている者たちは皆、大霊の御心(みこころ)を地上に実現させるための“大霊の使徒”なのです。私たちはよく誤解されます。同志だと思っていた者が、最大の敵となることがしばしばあります。しかし、だからといって仕事の手をゆるめるわけにはいきません。大霊の目から見て正しいことであるがゆえに、私たち霊界の者は、地上のいかなるものよりも強力な霊力を結集しているのです。徐々にではあっても善が悪を滅ぼし、正義が不正を駆逐し、真実が偽善を暴いていきます。時には物質界の力に私たち霊界の力が押し戻されることもありますが、それも一時(いっとき)のことにすぎません。

私たちはきっと目的を成就します。自ら犯した過ちから人類を救い出し、もっと気高くて優れた生き方を教え、奉仕の人生を送ることによって魂と霊と精神を豊かにし、この世的な平和や幸福ではなく、崇高で霊的価値のあるものを得させてあげたいと願っているのです。

それはたいへんな仕事です。が、あなた方と私たちを結びつけ一致団結させている絆は神聖なものなのです。どうか、大霊の力が一歩でも地上の子供たちに近づくことができるように、ともに手を取り合い、大霊の摂理の普及を阻もうとする勢力を駆逐していこうではありませんか。

こうして語っている私のささやかな言葉が、少しでもあなた方にとって役に立つものであれば、その言葉は当然、それを知らずにいるあなた方以外の人々にも、語り継がれていくべきです。自分が手にした真理を次の人に伝えてあげる――それが真理を知った者の義務です。それが摂理なのだと、私は理解しております。

私は、大霊の摂理をあなた方の言葉(英語)で伝えているにすぎません。その言葉を手にした方が、必ずしも私の説明に同意するとは限りません。私は、あなた方とはまったく異なる世界の人間です。地上の言語には限界があり、この霊媒にも限界があります。ですから、もしも私の語った言葉に得心がいかないとするなら、それはあなた方の魂がまだその真理を理解する段階に至っていないためか、それとも地上の言語では表現できない高度な内容が含まれているために、そのすべてを説明することができないということなのです。

しかし私は、いつでも真理を説く用意ができております。地上の人間が大霊が意図した本来の生き方をするには、摂理を理解する以外にないからです。盲目でいるよりは見える方がいいはずです。聞こえないよりは聞こえる方がいいはずです。居眠りをしているよりは目覚めている方がいいはずです。居眠りをしている魂を目覚めさせ、大霊の摂理にそった生き方をさせてあげるために、ともに努力しようではありませんか。それが地上の人間にとって大霊と一体となる道だからです。

そうした生き方ができれば、人々の心は安らぎを覚えることでしょう。宇宙の深遠なリズムと調和し、不和も対立も消えてしまうことでしょう。そして、それまでとはまったく違った新しい生活が始まります。

知識はすべて大切です。これだけ知っていれば十分だ、などと思ってはいけません。私は知っていることを残らずお教えしようと努力しているのですから、あなた方はできるかぎり多くの知識を吸収するように努めていただきたいのです。こんなことを申し上げるのは、私があなた方よりも偉いと思っているからではありません。知識の豊富さを自慢したいからでもありません。自分が知り得たことをあなた方に授けてあげることこそ、私にとっての奉仕の道だと心得ているからなのです。

知識には段階があります。その知識の段階を一つひとつ上っていくのが進歩ということですから、もうこの辺でよかろうと、どこかの段階で腰を下してしまってはいけません。人生を本当に理解するためには、その一つひとつを吸収していくほかに道はありません。

このことは人生における物質的な側面に限らず、霊的な側面についても言えます。したがって物的なことに対する導きと同時に、霊的知識も与えられなければならないということなのです。あなた方は今この時も霊的世界に生きているのです。物質界での生活は永遠の人生におけるほんの束の間の時にすぎません。これが私たちからのメッセージの根幹をなすものです。

そのことにいち早く気づいた方が真理に忠実な生活を送ってくだされば、私たちの仕事もいっそうやりやすくなります。霊界からのメッセージに耳を傾け、心霊現象の中に霊的真理の一端を見いだした人々が、我欲を捨て、可能なかぎり自らの魂を引き上げてくださるなら、なおいっそう大きな成果をあげることができるでしょう。

これまで私たちが成し遂げてきたものは、これから成就可能なことに比べれば、ほんのささやかなものでしかありません。大霊の働きに“限界”というものはないのです。地上の道具(霊媒)が私たち霊界の者に正しい通路を準備してくれるならば、地上界へ届けられる叡智にも、インスピレーションにも、霊的真理にも、限りはありません。地上界を満たすべく用意されている強大な霊力にも制限というものはないのです。

シアトルの晩秋 人類の未来をのぞく

A Peek into the Future of Mankind



人類の未来をのぞく 
一九一九年二月十九日 水曜日

 今夜貴殿とともにいるのは、一年前に王冠状の大ホールにおける儀式についての通信を送っていた霊団の者です。ご記憶と思いますが、あの時は貴殿のエネルギーの消耗が激しかったために中止のやむなきに至りました。

このたび再度あの時のテーマを取り上げて、今ここでその続きを述べたいと思います。

キリストと神への讃仰のために最初に玉座に近づいたのは人類を担当する天使群でした。
すると玉座の背後から使者が進み出て、幾つもの部門に大別されたその大群へ向けて言葉をかけられた。


天使とはいえその部門ごとに霊的発達程度はさまざまで、おのずから上下の差がありました。その部門の一つひとつに順々に声をかけて、これから先の進化へ向けて指導と激励の言葉をお与えになられたのでした。

 以上が前回までの要約です。では儀式の次の段階に進みましょう。
 創造の主宰霊たるキリストが坐す玉座のまわりに一群の霧状の雲が出現しました。その中で無数の色彩がヨコ糸とタテ糸のように交錯している様子は見るからに美しい光景でした。

やがてその雲の、玉座のまうしろになる辺りから光輝が扇状に放射され、高くそして幅広く伸びていきます。主はその中央の下方に位置しておられます。

 その光は青と緑と琥珀色をしており、キリスト界の物的部門──地球や惑星や恒星をこれから構成していく基本成分から成る(天界の)現象界──から生産されるエネルギーが放散されているのでした。

 やがてその雲状のものが活発な動きを見せながら凝縮してマントの形態を整えたのを見ると、色彩の配置も美事な調和関係をみせたものになっておりました。

それが恍惚たる風情(ふぜい)の中に座する主宰霊キリストに掛けられ身体にまとわれると、それがまた一段と美しく映えるのでした。全体の色調は青です。

深く濃い青ですが、それでいて明るいのです。縁どりは黄金色、その内側がボーダー(内ベリ)となっていて、それが舗道に広がり、上がり段にまで垂れております。

ボーダーの部分がとくに幅が広く、金と銀と緑の色調をしており、さらに内側へ向けて深紅と琥珀の二本の太い筋が走っております。時おり永い間隔を置いてその青のマントの上に逆さまになった王冠(そのわけをあとでオーエン氏自身が尋ねる──訳者)に似たものが現れます。

冠の緑にパールの襟飾りが付いており、それが幾種類もの色彩を放っております。パールグレー(淡灰色)ではなくて──何と言えばよいのでしょうか。

内部からの輝きがキリストの頭部のあたりに漂っております。といって、それによってお顔が霞むことなく、後光となってお顔を浮き出させておりました。

その後光に照らされた全体像を遠くより眺めると、お顔そのものがその光の出る〝核〟のように見えるのでした。しかし実際はそうではありません。

そう見えたというまでのことです。頭部には王冠はなく、ただ白と赤の冠帯が付けられており、それが頭髪を両耳のうしろで留めております。前にお話した〝祈りの冠帯(ダイアデム)〟にどこか似ておりました。


──このたびは色彩を細かく説明なさっておられますが、それぞれにどんな意味があるのでしょうか。

 吾々の目に映った色彩はグループごとに実に美しく且つそれなりの意図のもとに配置されていたのですが、その意図を細かく説明することは不可能です。が、大体の意味を、それも貴殿に理解できる範囲で述べてみましょう。

 後光のように広がっていた光輝は物質界を象徴し、それを背景としてキリストの姿を明確に映し出し、その慈悲深い側面を浮き上がらせる意図がありました。頭部の冠帯は地上の人類ならびにすでに地上を去って霊界入りした人類の洗練浄化された精髄の象徴でした。


──赤色と白色をしていたとおっしゃいましたが、それにも意味があったのでしょうか。

 ありました。人類が強圧性と貪欲性と身勝手さの境涯から脱して、すべてが一体となって調和し融合して一つの無色の光としての存在となっていくことを赤から白への転換として象徴していたのです。

その光は完璧な白さをしていると同時に強烈な威力も秘めております。外部から見る者には冷ややかさと静けさをもった雪のような白さの帯として映じますが、

内部から見る者にはそれを構成している色調の一つひとつが識別され、その融和が生み出す輝きの中に温か味を感じ取ります。外側から見ると白い光は冷たく見えます。内側から見る者には愛と安らぎの輝きとして見えます。


──あなたもその内側へ入られたわけですか。

 いいえ、完全に内側まで入ったことはありません。その神殿のほんの入口のところまでです。それも、勇気を奮いおこし、意念を総結集して、ようやくそこまで近づけたのでした。しかもその時一回きりで、それもお許しを得た上でのことでした。

自分で神殿の扉を開けたのではありません。創造界のキリストに仕える大天使のお一人が開けてくださったのでした。

私の背後へまわって、私があまりの美しさに失神しないように配慮してくださったのです。すなわち私の片方の肩の上から手を伸ばしてその方のマントで私の身体をおおい、扉をほんの少しだけ押し開けて、少しの間その状態を保ってくださいました。

かくして私は、目をかざされ身体を包みかくされた状態の中でその内側の光輝を見、そして感じ取ったのでした。それだけでも私は、キリストがその創造エネルギーを行使しつくし計画の全てを完了なされた暁に人類がどうなるかを十分に悟り知ることができました。

すなわち今はそのお顔を吾々低級なる霊の方へお向けになっておられる。吾々の背後には地上人類が控えている。吾々はその地上人類の前衛です。が、

計画完了の暁にはお顔を反対の方向へ向けられ、無数の霊を従えて父の玉座へと向かわれ、そこで真の意味で全存在と一体となられる。その時には冠帯の赤は白と融合し、白も少しは温みを増していることでしょう。

 さて、貴殿の質問で私は話をそらせて冠帯について語ることになってしまいましたが、例の青のマントについては次のように述べておきましょう。

すなわち物質の精髄を背景としてキリストおよびマント、そして王座の姿かたちを浮き上がらせたこと。冠帯は現時点の地上人類とこれ以後の天界への向上の可能性とを融合せしめ、一方マントは全創造物が父より出でて外部へと進化する時に通過したキリストの身体をおおっていること。

そのマントの中に物質と有機体を動かし機能させ活力を賦与しているところの全エネルギーが融合している、といったところです。

その中には貴殿のご存知のものも幾つかあります。電気にエーテル。これは自動性はなくてもそれ自身のエネルギーを有しております。それから磁気。そして推進力に富んだ光線のエネルギー。

もっと高級なものもあります。それらすべてがキリストのマントの中で融合してお姿をおおいつつ、しかもお姿と玉座の輪郭を際立たせているのです。


──さかさまの王冠は何を意味しているのでしょうか。なぜさかさまになっているのでしょうか。

 キリストは王冠の代りに例の赤と白の冠帯を付けておられました。そのうち冠帯が白一色となりキリストの純粋無垢の白さの中に融合してしまった時には王冠をお付けになられることでしょう。

その時マントが上げられ広げられ天界へ向けて浮上し、こんどはそのマントが反転してキリストとその王座の背景として広がり、それまでの光輝による模様はもはや見られなくなることでしょう。

又その時すなわち最終的な完成の暁に今一度お立ちになって総点検された時には、頭上と周囲に無数の王冠が、さかさまではなく正しい形で見られることでしょう。

デザインはさまざまでしょう。が、それぞれの在るべき位置にあって、以後キリストがその救える勇敢なる大軍の先頭に立って率いて行く、その栄光への方向を指し示すことでしょう。                             アーネル  ±

                                        
訳者注──王冠がなぜさかさまについては答えられていないが、それがどうであれ、霊界の情景描写は次元が異なるので本来はまったく説明不可能のはずである。

アーネル霊も〝とても出来ない〟と再三ことわりつつも何とか描写しようとする。すると当然、地上的なものに擬(なぞら)えて地上的な言語で表現しなければならない。しかもオーエンがキリスト教の概念しか持ち合わせていないために、その擬えるものも用語も従来のキリスト教の色彩を帯びることになる。

 たとえば最後の部分で私が〝最終的な完成の暁〟とした部分は in that far Great Day となっていて、これを慣用的な訳語で表現すれば〝かの遠い未来の最後の審判日〟となるところである。が〝最後の審判日〟の真意が直訳的に誤解されている今日では、それをそのまま用いたのでは読者の混乱を招くので私なりの配慮をした。

マント、玉座等々についても地上のものと同じものを想像してはならないことは言うまでもないが、さりとて他に言い表しようがないので、そのまま用いた。
 

Wednesday, November 27, 2024

シアトルの晩秋 霊界を挙げての大計画

A grand plan for the entire spiritual world

Teachings of Silver Birch


〔シルバーバーチはここで、霊界通信の背後にある(世界的規模の)計画について語っている。〕


私たちが携わっている仕事には重大な目的があります。絶対不変の摂理の存在を証明すると同時に、地上の人間に慰めを与え、霊的知識を広めるという目的があるのです。物質を超えた法則の存在を示すだけでなく、霊的真理を明らかにすることも私たちの仕事なのです。

その仕事の前途に立ちはだかるのは、誤った宗教的教義によって築かれた巨大な組織です。何世紀にもわたって続いてきたものを元に戻さなくてはなりません。偽りの教義を土台として築かれた上部構造を取り壊さなくてはならないのです。

私たちは物質世界の子供たちがどのようにすれば霊的真理の光に浴し、伸び伸びと生きることができるか、どのようにすれば人間的産物である教義への隷属状態から脱け出せるかをお教えしようとしているところです。もとよりそれは容易な仕事ではありません。なぜなら、いったん宗教的束縛を受けるようになると、迷信の厚い壁を真理の光が突き抜けるには、永い永い時間を要するからです。

私たちは常に霊的真理の宗教的意義を示そうと努めています。なぜなら地上人類がその霊的な重要性を認識すれば、戦争や流血による革命よりも、はるかに大きな革命が生じるからです。それは“魂の革命”と呼ぶべきものです。地上のすべての人間が霊的存在としての本来の権利――霊の自由を享受する権利を手にすることになります。そのときには何世紀にもわたって人々の魂の足かせとなってきたものが、すべて取り払われることでしょう。

私たちが忠誠を尽くすのは、一つの教義ではなく、一冊の書物でもなく、一つの建造物でもなく、生命の大霊とその永遠なる摂理です。

いずれ、強大な霊力が物質界へと流入します。あらゆる国において、その威力を感じ取ることができるようになります。地上世界の利己主義と無知を駆逐するという重大な仕事には多くの苦労がともないますが、いつかは必ず成就します。

あなた方の味方として、数えきれないほどの霊が差し向けられております。その中には、あなた方がよく知っている人々もいます。血縁でつながっている人もいれば、あなた方への愛の念から馳せ参じている人もいます。またそれ以外に、あなた方とは縁もゆかりもない人々で、自分の存在を知ってもらいたいとも功績を認めてもらいたいとも思わず、ただひたすら自分を役立てたいとの願いから参加している霊が無数にいることを忘れないでください。

地上世界は、サウロがダマスカスへ向かう途中で体験したという目が眩(くら)むような閃光(せんこう)で一気に改革されるものではありません。霊的真理に目覚める人の数が増し、大霊の霊力の道具が増えるにつれて、少しずつ霊的な光明が地上界に行きわたるのです。


訳注――サウロ、のちのパウロは、もとはキリスト教徒に対する迫害の急先鋒で、いよいよ聖地エルサレムで教会を徹底的に破壊する目的で旅に出た途中、ダマスカス近くにおいて突然、天から光が降ってきて彼を包み、彼は目が眩んでその場に倒れた。すると「サウロよ、何ゆえにそなたは私をそうまで迫害するのか」というイエスの声が聞こえた。彼の目はそのまま三日間も見えず、飲み食いもできないほどだったという。この体験がもとで、サウロは後にキリスト教初期の最大の伝道者となっていく。

霊に関わることは慎重な配慮による養成と進歩を要します。急激な変心は永続きしません。私たちの仕事は永続性を目指しています。一人また一人と大霊の道具となり、暗闇から光明へ、無知から知識へ、迷信から真理へと這い出ることによって地上界は進歩するのです。その一人ひとりが物質第一主義の棺(ひつぎ)に打ち込む一本のクギなのです。

人間の発達には二種類あることを知らなくてはいけません。精神に関わるものと霊に関わるものです。前者は心霊的(サイキック)能力の発達にすぎませんが、後者は魂そのものの成長です。サイキック能力が発達しても魂の成長がともなわなければ、低いバイブレーションの仕事しかできません。両者がうまく結びついたときには、優れた霊能者であると同時に、偉大な人格を備えた人物となります。

私たちは、素晴らしいメッセージを地上という物質界へお届けしているところです。それは人間を真の意味で自由にし、大霊から授かった資質をありがたいものだと思わせてくれるメッセージです。あらゆる束縛や足かせを捨て去る方法を教え、霊的知識を満喫させてくれるメッセージです。物質界だけでなく死後の世界にも通用する生き方を教えてくれるメッセージであり、美と愛と叡智、理解力と真実と幸せをもたらしてくれるメッセージです。そして「人のため」というサービスの精神を説くメッセージなのです。

それなのに私たちは、大霊の啓示が理解できない人たちによる拒絶に遭っております。彼らは、いつの時代にもそうであったように、霊というものの存在を否定します。

しかし私たちの行っている仕事は、今後ますます必要性を増していきます。地上世界は流血と苦悩の涙と敵意にあふれています。霊的無知の中で地上人は、神の摂理にそって生きるのではなく暗黒と絶望へ向かう道を選択してしまいました。

そこで私たちが、希望と光明、安らぎと調和へと導く叡智をお教えしようとしているのです。それを地上の人間は無知ゆえに軽蔑します。私たちが届けようとするメッセージを拒絶し、霊力の働きかけを否定します。しかし、そうした態度にかまわず、真理は確実に地上に広がっていくことになります。大霊を始原としているからです。

神の摂理に逆らった生き方をする人は、自ら苦い結果を刈り取らなければなりません。摂理に素直に従って生きる人は、物的な面においても霊的な面においても、幸せと豊かさを手にすることになります。

地上界に蔓延している暗黒の中にあっても決して希望を失うことなく、人類の霊的成長のためにあなた方とともに働いている霊たち、物質界を少しでも良くしようと心を砕いている霊たちは、必ずや勝利するとの信念に燃えてください。それは宇宙で最強の力だからです。

価値あるものは苦難と悲哀なくしては成就しません。その教訓を地上人は、体験という唯一の方法によって学ばなければなりません。私たちは物質界の全側面に突破口を開こうと努力しているところです。私たちのメッセージが各分野の人々の心を明るく照らし、霊の光が広がるにつれて唯物主義の暗闇が消滅していきます。

私たちは、神の懲罰という脅(おど)しをちらつかせてあなた方を怖がらせようとしているのではありません。あなた方を、不安におびえて人生を歩むような臆病者にさせようとしているのではありません。私たちは、人間の内部に存在している神性に気づかせてあげることで、あなた方が大霊をもっと顕現させ、さらなる高みへと自らを引き上げ、その心がより高次の真理と知識で満たされるように努めているのです。

これまでに得たもので満足してはいけません。良い意味での不満と向上心が、より大きな知識を呼び込むことになるのです。手にしたものに満足してしまう者は、そこで留まってしまいます。満足できない者が、より大きな自由を求めて苦闘するのです。

「理屈を言ってはいけません。ただ信じればよいのです」――私はそんなことは申しません。反対に「神が与えてくださったもの(知的思考力・理性)を存分に使って私を試してください。しっかり吟味してください。そして、もしも私の言うことに卑劣なこと、酷(ひど)いこと、道徳に反することがあれば、どうぞ拒否してください」と申し上げます。

私たちは常に、崇高な生き方、高い理想を求める献身的な生き方を説いています。私たちの教えには、大霊の刻印が押されています。

もし私たちが、たった一個の魂を引き上げてあげることができたら、喪の悲しみに沈んでいる魂に慰めを与え、意気消沈している魂に希望を与え、人生に疲れきった魂に生きる力を与えてあげることができたら、それだけで十分に価値ある仕事をしたことになるのではないでしょうか。

私たちがお届けするメッセージに困惑する人々、教義に縛られているために逃れようにも逃れられず、それでいて“自由”の呼び声が聞こえて必死にもがいている多くの人々がいることを思い起こしてください。

私たちのメッセージは、そうした人たちを意図したものです。そのメッセージが魂に大きな刺激を与えるのです。すべての真理は(進歩のための)踏み石にすぎません。

今こうして語っている霊媒の口から、皆さんの理性が反発を覚えるようなこと、大霊の愛と矛盾するようなこと、愚かしいこと、皆さんの知性を侮辱(ぶじょく)するようなことが聞かれるようになったら、それは私の失敗を意味します。そして私の時代は終わりを告げることになるでしょう。

何度も申し上げてきたことですが、私自身としては皆さん方の魂の最も崇高な願望に反するようなことは何ひとつ述べたことはないつもりです。私たちは常に、あなた方の内部にある最高のものに訴えるように心がけています。

地上の人間は、自分自身の魂を救済することを学ばなければなりません。そのための既成の方法というものはありません。前もって用意された型通りのシステムというものはないのです。あらゆる生命現象の背後に永遠の実在としての霊が存在していること、人間も物的身体に宿っているという点では物的存在であっても、その身体を通して自我を表現している霊的存在であることを理解しなければなりません。

まず、生命を維持するために必要なすべてのものを大霊の意図している通りに存分に摂取して、肉体を健康にしておくことです。そのうえで、既成宗教のドグマや信条の束縛から精神を解放しなければなりません。無意味なもの、霊的価値のないものに忠誠を尽くすことなく、真実のためにのみ働き、これまで何千年もの永きにわたって地上人類を束縛してきたドグマ(教義)をめぐる戦争や論争や不和をなくさなければなりません。

私たちは、大霊を共通の父として全人類が霊的に同胞であるという福音を説きます。その福音の理解を妨げるのがこの世的な概念であり、間違った土台の上に建てられた教会であり、既得権力の横暴であり、狭量で独裁的な支配者の高慢と強権です。

私たちの教えが地上に広まるということは民族間の離反の終わりを意味します。国家間のバリア(障壁)の消滅を意味します。人種や民族や階級の差別、さらにはチャーチ、チャペル、テンプル、モスク、シナゴーグなどの区別もなくなります。なぜなら、それぞれが大霊の真理を宿しており、他の宗教の教えの中に含まれる真理は、自分の信じる宗教で大切にされているものと矛盾しないことを悟るようになるからです。

見た目には混乱が生じているようであっても、地上に真理が広まることによって神の意図が具現化し、調和と平和が訪れるようになります。こうしたことを申し上げるのは、あなた方に、地上に真理を広めるための壮大な計画の一端を知ってもらい、私たち霊界の者がこうして物質の世界へ戻って来たのは、それを推進するためであることを理解していただきたいからです。そして今回の地上生活を終えるまでに、あなた方一人ひとりに果たさなければならない役割があることを知っていただきたいのです。

私たちが説く教えは、かつての改革者たち、聖者と呼ばれた人たち、予言者たち、あるいは理想主義者たちが、それぞれの時代に天啓を受けて説いた崇高な教えと完全に一致しています。彼らは魂の偉大さゆえに、霊的な視力によって霊的実在を垣間見ることができました。そしてその美しさ、その素晴らしさが、逆境と葛藤の中にあって心の支えとなったのです。

彼らは、いつの日にか実現する神の計画を理解していました。だからこそ物質界の子らを高揚すべく努力し、自分を役立てたのです。

彼らは、手を差し伸べた物質界の子らから貶(けな)されました。反抗され、嘲笑の的にされました。しかし彼らの仕事は生き続けました。今、世界各地で行われている無数の交霊会――この交霊会もその一つですが、そこに参加した人々は忘れ去られても、交霊会は存在し続けます。強烈な霊力が再び物質界に放たれています。地上のいかなる力も、その潮流をせき止めることはできません。

地上の人間は相変わらず流血によって問題が解決するかのように考えていますが、歴史をご覧になればお分かりのように、流血という手段で問題が解決した例(ためし)はありません。流血という行為は、何の益もない無用なものなのです。

人間はなぜ、大霊が与えた理性を使わないのでしょうか。なぜ、唯一の解決法ができるだけ多くの相手を殺すことだと考え、最も多くの敵を殺した者を英雄として称えるのでしょうか。地上というところは不思議な世界です。

あなた方の世界は、私たちからのメッセージ・霊の教えを必要としています。霊的真理についての理解、すなわち霊的摂理の存在と、自分自身の内部(魂)とより高い世界(霊界)からの導きがあることを知る必要があります。そうすれば困難に遭遇したときには慰安と導きと援助をどこに求めるべきかを、学ぶことができるでしょう。

私たちは、何ひとつ見返りを求めてはいません。栄誉を欲しているわけではありません。ただ、皆さん方のお役に立ちたいと思っているだけです。忘れられてしまった霊的摂理を改めて啓示し、それによって地上の人間が物質界にも存在する霊力を再発見し、新たな希望と新たな生命を呼び覚ますことになればと願っているのです。

古い規範が捨て去られ、あらゆる権威が疑念を持って見直され、その威力が衰えつつある今、私たちは大霊を絶対最高の権威として明らかにしようとしています。決して働きを止めず、また誤ることもない摂理として顕現している大霊を啓示しようとしているのです。その大霊の摂理にのっとった生き方さえすれば、地上界に再び平和と調和が訪れます。

それが私たちの使命のすべてというわけではありません。見捨てられた古い信仰の瓦礫(がれき)の中にある人間が、単なる疑念や不信からすべてを拒絶することなく、本物と偽物とを選り分け、真に価値あるものを手にすることができるように働きかけることも私たちの仕事です。あらゆる宗教の内奥(ないおう)に秘められたもの、長いあいだ地上人の想像物の下敷きとなってしまっている霊的真理を我が物とすることができるように仕向けることも使命の一環なのです。

もし、地上の子供たちが摂理の働きの中に霊力を見いだすことを学べば、その昔、人々を鼓舞し、洞察力と勇気、奉仕への熱誠と願望を与えた霊力を今日でも活用することができるのです。

教会・聖典・教義――こうしたものは今や衰微の一途をたどっています。少しずつ廃棄されていきつつあります。しかし、霊的真理の権威だけは永遠に変わることはありません。私が地上界へ戻ってきたとき目にするのは混乱と無秩序ですが、鮮明な霊の光――隙間からもれるわずかな光ではなく、すべてを照らす強力な光が降り注ぐようになれば、それらは立ちどころに消えてしまいます。

その光が得られるというのに、なぜ人間は暗闇を好むのでしょうか。知識が得られるというのに、なぜ無知のままでいたがるのでしょうか。叡智が得られるというのに、なぜ迷信にしがみつこうとするのでしょうか。生きた霊の真理が得られるというのに、なぜ生命のない死人の骨のような教義を好むのでしょうか。霊的叡智の水が得られるというのに、なぜ神学という濁った水を好むのでしょうか。

自ら選んだ暗闇の中で、自由になれるのに鎖につながれ、奴隷のような生き方をしている魂が数多くいます。私が案じているのは、そうした束縛された状態があまりに長く続くと、その束縛から解き放たれるのが怖くなってしまうことです。鳥カゴの中で長いあいだ飼われていた小鳥は、鳥カゴから放たれたときに、もしかしたら飛べないのではないかと心配になるものです。

ですから、束縛から解放してあげるのはよいのですが、自由になったときに歩むべき道も用意してあげないといけません。何の道しるべもない場所へ放り出したままにしておいてはいけません。自由になってもらわなければなりませんが、同時にその自由が導いてくれる道も教えてあげなくてはならないのです。

人間というのは、長いあいだ束縛された状態に置かれたあとで自由になると、誰のアドバイスにも耳を傾けようとしなくなるものです。「いや、もうけっこうです。これまでさんざん懐疑と困惑を味わってきて、今ようやく脱け出たところです。宗教というものには、もうこれ以上関わりたくありません」――そう言って拒否するのです。一種の反動です。

私は、私という一個人、メッセンジャーとしてのシルバーバーチに多大な関心を寄せていただくことを望んではいません。私はただ、皆さんにメッセージを送り届けているだけなのです。

これまで人類は、教えを説く人物に度を越した関心を寄せ、過大評価して途方もない地位に祭り上げ、肝心な教えそのものをなおざりにしてきました。

私たち霊団の使命は、誰かを権威ある地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智を授けることです。語る言葉が真理であるかぎり、私が歴史的に名高い人物であろうと無名の人物であろうと、それが何の関係があるというのでしょう。私たちは名前や権威をかざすことなく、理性に訴えます。

私たちは、人間の知性が反発を覚えるようなことは何も要求しません。真実とは思えないようなこと、人間としての品位にもとるようなこと、卑劣なこと、人類を侮辱するようなことは説いていないつもりです。人類全体を引き上げ、宇宙の生命機構の中における人間の存在価値についての正しい概念を大霊との結びつきによって啓示し、地球全体としての霊的一体関係についての理解を得させてあげたいと願っているのです。

私たちは、すぐに聖典の文句を持ち出したり、指導者の言葉や権威に頼るようなことはしません。人間が神から授かっている理性を頼りとして、これに訴えます。私たちがお届けする真理は“聖”の文字を冠した書物の言葉を引用することで広められる性質のものではありません。理性に照らして納得がいかなければ、拒否してくださってけっこうです。

しかし、すでに皆さんは、私たちが最高にして最善の人間的本性に訴えていること、古い時代からの間違った概念を払いのけて、これなら人々も大事にしてくれるであろうと思われる真理をお届けしていることを理解してくださっているものと信じます。“宗教”と呼ばれているものは「真理」を土台としなくてはいけません。理性による攻撃を受けて脆(もろ)くも崩れるようなものは、すべて捨て去ってしまうべきです。

私は、人間がせっかく手にしながらいつしか見失うということを繰り返してきた真理を改めて啓示し、それを物質界の最も重要な位置に据えるために努力している、一個の道具にすぎません。

私たちは、今度こそは“唯物主義”と“利己主義”の勢力が絶対にはびこらないように努力しています。そのためには人間みずからが、その勢力に負けないようにならなくてはいけません。日常において発生するさまざまな問題に霊的真理を活用することによってのみ、人類の前に迫りつつある恐ろしい破局を防ぐことができるのです。

地上世界は今や破滅に瀕し、混乱の極(きょく)にあります。絶望と敵意と苦痛に満ちています。理性が敗走して利己主義が支配しています。私たちは人類に理性を取り戻させ、誤った概念に代わって真理を教え、迷信に代わって正しい信仰を説いています。そして暗闇を光明で照らすことによって、人生の闘いに負けそうな人には力を与え、いじけそうな人を健全な精神に立ち戻らせ、生きることに疲れ果てた人には気力を回復させ、不当な扱いに苦しめられている人には正当な報いを得させてあげたいと努めているところです。

私たちがお届けしようと努力している真理は、霊的摂理に関わるものだけではありません。物的法則に関わるものもあります。なぜなら、私たちから見れば物的世界も大霊の宇宙の一部であり、そこで絶望し苦しんでいる人類に無関心であるなら、本当の意味で“宗教的な人間”とは言えないからです。私たちからすれば、人のために役立つことをする人はすべて立派な人間ですが、その「役に立つ」というのは真理を普及することだけに限られるわけではありません。他にもいろいろあります。

病(やまい)に蝕まれた身体で苦しんでいる人々をその痛みから解放してあげること、不正と圧政に戦いを挑むこと、憎み合いをやめさせること、自由を守り悪を排除し、魂の奥にある大霊の資質を発揮させてあげること――こうした仕事は真の意味でのサービス(奉仕)と言えます。

大霊の子供たちが霊的なことからあまりにもかけ離れてしまったことにより、大霊の摂理を教えるためにラップなどの物理的心霊現象を用いなければならなかったことを残念に思います。

あなた方人間は皆、大霊の一部なのです。大霊がこう呼びかけていると思ってください。「ここに私の摂理のすべてがあります。この摂理を使えば素晴らしい世界をつくり上げることができます。すべてを差し上げますから、これを使用して正しいことと間違ったことを選り分け、摂理に適った生き方をしてもよし、摂理に反した生き方をしてもよし、どちらでも試してみられるがよろしい」と。

霊界の指導霊は、地上界が大霊の意図にそって発展するように、大霊のバイブレーションに相応できる者(霊媒・霊能者)を地上へ派遣してきましたが、大霊からかけ離れてしまった人類は霊的に鈍感になり、物的なことしか理解できませんでした。

しかし、嵐が吹き荒れたあとには必ず新しい生命が芽吹く春が訪れます。雪が大地を覆いすべてがわびしく映るときには、はつらつとした春の息吹を感じることはできないでしょう。が、春は必ずめぐってきます。そして太陽が昇るにつれて徐々に、生命力が最高潮に達します。今、地上界には不満の暗雲が立ち込めていますが、いつかは夢にまで見た春が訪れ、そして充実感あふれる夏へと向かっていきます。

それがいつになるか――早いか遅いかは、人間が大霊から授かった“自由意志”をどう使うかによって決まります。が、一人の人間が他の人間に救いの手を差し伸べようとするとき、その背後では数多くの霊が群がって援助し、気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善のための努力が忘れ去られることは絶対にありません。奉仕への願望が無駄に終わることは決してありません。

誰かが先頭に立って藪(やぶ)を切り開き、後に続く者が少しでも楽に通れるようにしてあげなければなりません。やがてそこに道ができ上がり、通るほどに平坦になっていきます。

私は時おり、霊界の高級霊たちが目に涙を浮かべている姿を見かけることがあります。地上の人間が同胞を引き上げる大きなチャンスを捨て去っている姿を見て、いつかその愚かさに気づいてほしいと願い、じっと眺めているのです。そうかと思うと、嬉しさに顔をほころばせているのを見かけることもあります。名もない人が善行を施し、それが暗い地上世界に新しい希望を灯してくれたからです。

私も他の大勢の同志と同じく、すぐそこまできている新しい世界を一日でも早く招来するために、バイブレーションを物質界のレベルに近づけて降りてきました。その目的は、大霊の摂理を教え、その摂理に忠実に生きるなら、あなた方の心は大霊の恵みをふんだんに受けられるようになることを教えてあげることです。

私が地上世界へ降りてきて目にするのは、幸せであるべきところに悲しみがあり、光があるべきところに暗闇があり、豊かであるべきところに飢えがあることです。大霊は、必要なものはすべて用意してくださっています。問題は、その公平な分配を妨げている者がいるということです。取り除かなければならない障害が存在するということです。

その障害を霊界側で取り除いてくれたらいいと思われるかもしれませんが、それは私たちには許されないのです。咎(とが)め立てすることも許されません。私に許されているのは、物的身体に宿っているあなた方に大霊の摂理を説き、どうすればその摂理があなた方を通して正しく運用されるようになるのかを教えてあげることだけです。それができる人が、地上の悪弊(あくへい)を指摘し、摂理による矯正手段を講じて見せなくてはなりません。

要するに、あなた方みずからが毎日の生活の中で、霊的真理を知った者はこれだけ立派な生き方ができるのだということを率先して見せることです。

私としては、あなた方に摂理の存在を説き、それがどのように作用するかを教えることができれば、それで良しとします。その結果として不幸が幸いに転じ、無知が知になれば、少なくともあなた方のお役に立てたことになります。

私たちは、あなた方の人生上の責務を取り除くようなことはしません。大霊の御心(みこころ)があなた方を通して働いていることを、身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとしているだけです。

私が時おり残念に思うのは、次のような言葉を耳にすることです。「もちろん食べるものに事欠いている人にはパンを施しますよ。しかしその前に大霊に祈っていただかないとね。」なぜ大霊に祈るか祈らないかにまで干渉するのでしょうか。お腹(なか)を空かしている人には、食べるものを施してあげればそれだけでよいのではないのでしょうか。

また、寝る場所もない人に「どうぞウチで寝ていってください」と言ってあげるのはよいことですが、「ちゃんとお祈りをしてくださいよ」などと付け加える人もいます。

スピリチュアリズムの霊的知識の一つに「物心両面の均衡をはかる」というものがありますが、その知識を手にしている皆さんは、自ら均衡をはかったことがあるでしょうか。

スピリチュアリズムを知ったということは、地上では推し量ることができないものを手にしたということです。大霊の真理についての貴重な知識を得たということです。皆さんは、自分の魂が大霊の偉大なる魂とつながっていることを悟られたのです。すなわち、自分が大霊の一部であることを知ったということです。霊界から派遣されているメッセンジャー(高級霊)のバイブレーションに、いかにして反応すべきかを学ばれたのです。

それほどのものに比べれば、物的なものはいかに高価なものであっても、まったく価値はありません。今は物質界にいる皆さん方も、これから霊の世界で計り知れない歳月を生き続けます。そして、この交霊会を通して得た知識や叡智が、地上で物的身体のために一生懸命に求めていたものよりも、はるかに貴重なものであることを実感するようになります。

何事も見かけの結果だけで判断してはいけません。あなた方は物的な目で眺めることしかできないのです。霊的な目で見ることができれば、人間は一人の例外もなく完全に公正な扱いを受けていることが分かるはずです。私は時おり人間の祈りに耳を傾けてみることがあるのですが、もし大霊がその願いを叶えてあげたらかえって不幸になるだろう……と思うことがあります。

また私は、死の関門をくぐり抜けて霊界入りした人々と語り合ってみることがあるのですが、大霊から不当な扱いを受けたと文句を言った人は一人もいません。

地上界には三つの大きな問題があります。一つは“無知”、もう一つは“悲しみ”、そして三つ目は“貧しさ”です。この三つは、政治に霊的知識が生かされ、人々がその知識の指し示す通りに生きるようにならないかぎり、地上からなくなることはないでしょう。

しかし、勝利へ向けてのうねりは止まりません。古い秩序が死滅し、新しい秩序と入れ替わります。新しい世界は着実に到来しつつあります。が、新しい世界になったからといって暗い面が完全に消え去ると思ってはいけません。涙を流すこともあるでしょう。心を痛めることもあるでしょう。犠牲を強いられる局面も生じることでしょう。

大霊に関わる仕事は犠牲なくしては成就されません。涙なくして新しいものを打ち立てることはできません。物質的な惨事に遭遇すると、人間は霊的なものに目覚め始めるようになります。物的な手段がすべて失敗に終わったとき、ワラをも掴む思いでそれまで試みられてきた制度を吟味し、そこに頼れるものがないことを悟ります。

そこに至ってようやく霊的真理の出番となり、新しい世界の構築が始まります。大霊の摂理が正しく運用される世界です。そこへ至るまでには大きな混乱は避けられません。もっとも、いつの時代にも完全な世界は存在しません。なぜなら完全に近づくと、その先にもっと次元の高い完全性が存在することを知るからです。
質疑応答


――霊界側がスピリチュアリズムの普及を望んでおられるのなら、もっと新聞などを使った宣伝をなさるとよいのではないでしょうか。


これは、これは、驚きました。あなたは霊的知識の普及がどういうものか、よくご存じないようですね。知識が普及するのはよいことです。しかし宣伝効果となると、また話は別です。魂が真理に目覚めて感動するには、それぞれに時期というものがあるのです。

私たちは私たちなりの手段を講じています。計画はきちんとでき上がっています。あとは、あなた方の世界からの協力が必要なのです。

あなた方は常に、私たちが魔法の杖で一気に悟らせるようなことはしないことを知っておいてください。魔法の処方箋があるわけではありません。宇宙の自然法則を啓示してあげようとしているだけです。

私たちは、人類のすべてが大霊の一部であり、一人ひとりの人間を通して大霊の摂理が働くことができることを理解してほしいと願っています。そしてあなた方の魂を揺り動かそうと努力しているのです。霊界からの普及活動が休止することはありません。ただ、それは地上界の騒々しい宣伝によって行われるのではなく、あなた方の魂に訴え、霊との一体関係を緊密にすることによって成就されるのです。


――この地球上での体験、すなわち戦争、痛み、物心両面の苦しみ、病気、悲しみ、憎しみ、喜び、幸せといったものはみな人類の進化のために必要不可欠なもので、神の計画の一環なのでしょうか。


いいえ、違います。戦争は大霊がやらせているのではありません。病気は大霊が与えているのではありません。いずれも地上人が自由意志の行使を誤ったために引き起こしているのです。学ぶべき教訓というものがあることは事実です。しかし、それは身の毛もよだつ蛮行や冷酷な行為に訴えなくても学べます。人間の行為と大霊の行為とを取り違えてはいけません。


――共和国となった現代でも英国は「王室」という体制を維持していますが、これは意義のあることでしょうか。


はい、意義のあることです。なぜなら国民を一体化させるものは大切にすべきだからです。国家は拠って立つべき共通の要素によって一体化を求め、国民全体が一丸となるべきです。一体化を妨げ分裂させようとする者たちに私たちが批判的なのは、そのためです。魂が解放されれば、おのずと互いに近づき合いたくなるものです。


――霊的プランがあるということを何度も聞かされているのですが、その影響はどこにも見当らないようですが……。


それはあなたが物的視点からのみ見ているからです。あなた個人の短い人生を尺度として見ているために進展がないように思われるのであって、別の次元から見ている私たちには進展が分かるのです。霊的知識が広まり、霊的なものへの理解が深まり、寛容的精神が高まって善意が増し、無知と迷信と不安と霊的束縛による障壁が崩れていきつつあるのが見て取れます。

突如として革命が起きるかのように想像してはいけません。そういうものは決して起きません。霊的成長は、ゆっくりと段階を追ってなされるものだからです。絶望する必要はありません。拡大する物質主義の勢力を見ていると絶望感を抱いてしまうかもしれませんが、他方では唯物的な利己主義の霧を貫いて霊的真理の光が射し込みつつあります。知識が広がり続けるかぎり霊的真理の勝利は間違いありません。

だからこそ、地上人類にとって霊界からのメッセージが重要なのです。私たちにとって大切なのではありません。あなた方地上人にとって大切なのです。私たちは、利己主義、はなはだしい無知、故意の残虐行為への代償を払わなければならないことをあなた方に気づかせるために努力しています。私たちは人類に奉仕し、手助けをしようと努めていますが、それは皆さん方を愛しているからなのです。

私たちは、人類を破滅に追いやろうと企む邪霊集団ではありません。人間を罪深い存在に陥れたり、残忍なことや摂理に反する行為を唆(そそのか)したりするようなことはいたしません。それどころか、あなた方が自分に潜在している神性と霊力を自覚し、摂理にのっとってサービス(奉仕・利他愛)を実践するように働きかけているのです。そして大霊の計画を推進するための手助けをしていただきたいと思っているのです。

シアトルの晩秋 通信霊シルバーバーチについて

About Silver Birch, the Spirit of Correspondence



〔高級霊団から使命を仰せつかったシルバーバーチが、地上圏での活動の準備と開始に至るまでの経緯について語る。〕


ずいぶん前の話になりますが、他の多くの指導霊と同じように私も地上圏に降りて協力者の一団を集め、霊的メッセージを地上界へ届ける仕事を引き受けてくれないかとの懇請を受けたとき、私はそれを使命としてお引き受けしました。

そのためには、メッセージを受け取ってくれる霊媒を探し出す必要があることも知らされました。そこで私は霊界の記録簿を調べ、この霊媒に白羽の矢を立てました。


訳注――霊界の記録簿とは地球圏の記憶の層のことで、「生命の書」とか、サンスクリットを英語読みにして「アカシック・レコード」などと呼ぶこともある。なお、チャネラーを自称する人の中にはいとも簡単に読み取れるような態度で語る人がいるが、高級霊にして初めて可能なことであり、肉体に包まれている人間にはまず不可能と断言しておきたい。

それは、この霊媒がまだ母胎に宿る前の話です。私は彼が母胎に宿る一瞬を注意深く待ち、いよいよ宿って自我を発現し始めた瞬間――と言っても、まだほのかな明かり程度のものにすぎませんでしたが――から私なりの影響力を行使し、今日まで続いている一体関係がその時から始まったのです。

私はこの人間の霊とその小さな精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる側面を細かく観察し、互いの一体関係を促進し、物の考え方や身体上の癖を呑み込むように努めました。つまり私は、この霊媒を霊と精神と肉体の三面から徹底的に研究したわけです。

次に私がしなければならなかったことは、この霊媒を霊的真理の理解へ向けて指導することでした。まず、地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的には彼はそのいずれにも反発を覚えて、いわゆる無神論者になってしまいました。が、それはそれなりに当人の精神的開発にとって意味があったのです。これで「霊言霊媒」となるべき一通りの準備が整いました。

ある日、私は周到な準備のもとに初めて彼を交霊会へ出席させ、彼の口を使って私の意思を発言してみました。いかにもぎこちなく、内容もつまらないものでしたが、私にとっては実に意義深い体験だったのです。

その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、今ではご覧の通りにまでなりました。今はこの霊媒の潜在意識に邪魔されることなく、私の考えを百パーセント伝えることができます。

ここで私自身の使命についてお話ししたいと思います。先ほど申した通り私はさる筋から使命を仰せつかったのですが、そのときこう言われたのです。「使命を果たすためには、あなたは物質界まで降りなければなりません。そして適当な道具(霊媒)を見つけてから、その霊媒と霊的に親近性のある人間を数名選び出し、その霊媒を通してあなたがメッセージを語る場を用意しなくてはなりません。」その言葉通り、私がここへ、あなた方を導いたのです。

私にとっての最大の問題は、物理的心霊現象を演出するか、それとも教えを説く、つまり霊的真理を説くか、この二つのどちらを選ぶかということでした。そして私は、あえて困難な後者を選びました。

私はその使命をお引き受けしたとき、こう言いました――「これまでの長い霊界生活における多種多様な体験を携えて地上圏へ戻り、慈しみの心で人間に接してみます。まず何よりも理性に訴えたい。霊的に進化し、成熟した魂の持ち主に訴えてみたい。霊界からのメッセージをできるだけ単純明快な形で説き明かすべく努力します」と。

また、こうも言いました――「人間の理性が反発を覚えるようなことは絶対に述べないことにしたい。慈しみの心で接し、怒りをもって諌(いさ)めることだけは絶対にすまい。自ら公言している通り自分が確かに大霊の使者であることを、教訓と模範と実際の行為によって証明したい」と。

さらに私は、地上時代の姓名を絶対に明かさないという重荷を自ら背負いました。仰々しい名前や称号・地位・名声は持ち出さず、私が述べることと態度で私という存在を判断してもらいたいと思ったのです。

実は前回の会合で神庁の高級霊たちとお会いしたのですが、その席上で私はお褒(ほ)めの言葉をいただき、使命が順調に進捗(ちょく)していることを聞かされました。その言葉に、私は思わず感激の涙を流しました。しかし、使命が終わったわけではありません。まだまだ為さねばならないことがあります。


訳注――モーゼスの『霊訓』にも出てくることであるが、霊界では一年に二回、地上のクリスマスとイースターに相当する時期に、地球圏で指導霊として活動している霊が一堂に会して、反省と今後の方針についての指示を受けるという。そのときの主宰霊が地上で“イエス”と呼ばれた人物である。

私の霊団と同じ仕事に携わっている他の霊団による尽力もあって、あなた方の世界ではかつてよりも多くの光明が射し、幸せが生まれ、悲しみが減り、涙が流されることが少なくなりました。死についての無知が、わずかながら克服されたことを意味します。

また、私たちは多くの魂を鼓舞して、日常生活において高度な自我を自覚させました。正義と真理についての目を曇らせてきた数々の間違った概念を駆逐しました。長年にわたって地上界を毒し続け、愚行によって理性を辱(はずかし)めてきた教義(ドグマ)の牢獄から多くの人々を解放しました。

私たちは、特定の者だけをかわいがり、憤怒(ふんぬ)に燃えて報復したり、疫病をまき散らしたりする神に代わって、慈しみと叡智の始原としての大霊の概念を説くことに努め、それはある程度まで成功しました。また、ナザレのイエスを(唯一の神の子としてではなく)偉大なる人間の模範として示そうと努めてきました。そして多くの人々が、私たちの説く教えを理解してくれるようになりました。

確かに大きな成果をあげることができましたが、これから為さねばならない、もっと大きな仕事があります。地上世界にはいまだに、あってはならない戦争が存在します。もしも私たちが説く真理を理解し、日常生活に生かすなら、殺し合いなどなくなるはずです。

飢餓もあります。大霊は十分な恵みを与えてくださっているのに、新鮮な空気も太陽の光も入らない粗末なあばら家で、生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人々がいます。困窮(こんきゅう)と悲嘆と苦痛が多すぎます。廃絶すべき迷信が数多く存在します。心を痛めている人が多すぎます。根絶すべき病気があります。私たちの仕事は、まだ終わっていません。

私たちはこれまでの成果を喜ぶと同時に、あなた方の協力を得て、さらに多くの奉仕(サービス)を成し遂げるための力を授かりたいと願っています。

私は、この地上へ私を派遣した高級霊団のマウスピース(本来は楽器の吸い口ないしは電話機の送話口のことで、転じて「代弁者」の意――訳注)にすぎず、私という一個の存在としての栄誉とか褒賞を求める気持ちはみじんもありません。誇大に宣伝したり地上時代の偉そうな人物名を名乗ったりする趣味も持ち合わせていません。私はただ、これまで申し上げたような霊的真理、長いあいだ忘れ去られていた真理に改めて「神の真理」のシールを貼って、こうして地上界へお届けするための道具であることに喜びを感じているのです。

私の役目は、私が所属する霊団からのメッセージをお届けすることです。この霊媒と私自身の力量の範囲内で受け取ったものを、忠実に伝達する努力を続けてまいりました。私はただ、お役に立てばそれでよいのです。もしも私がお伝えするささやかな教えが、人生の嵐の中にあるたった一個の魂にとっての安らぎとなり、疑念の嵐をくぐり抜けてきたあとの真理の避難所となれば、あるいはまた、こうした素朴な霊的真理の聖域の中に幸せと生き甲斐を見いださせてあげることになれば、父なる大霊から仰せつかった使命の幾ばくかを成就したことになりましょう。

Tuesday, November 19, 2024

シアトルの晩秋 二人三脚の原理

principle of the three-legged race



二人三脚の原理
 一九一八年 三月二十二日 金曜日

 今夜も例の顕現の場における宇宙創造に関する研究から得た原理をテーマとして述べてみたいと思います。

 エネルギー作用におけるスパイラルの原理についてはすでに述べました。そこでもう一つ吾々が学んだ原理をお教えしましょう。

 創造的生命のあらゆる部門においてその発展を司る者が必ず遭遇し適応しなければならないものに、潜在的な反抗的衝動があります。

その影響力が生ずるに至った始源をたどれば悠久の太古にさかのぼり、しかもそれは神の心を物質という形態での顕現を完遂させようとする天使群の努力の中から生じたものなのです。

 当時──はるか太古のことですが──その完遂へ向けての道程に関して天使群の間で意見が二つに分かれました。時間をかけるべきと主張する側と早く仕上げるべきと主張する側です。と言っても真っ向から対立したわけではありません。

その考え方には共通した部分がいろいろとありました。が、不一致から生じた混乱によって今日人間が〝悪〟と呼ぶ要素が生まれたのです。今すべてが完成へ向けて進行していることは事実です。

が、そのための活動の分野は無限といえるほど広大であり、当然それに要する期間は地上の年数で計算すれば無限といってもいいでしょう。

永遠の存在である神の目から見れば長いも短いもないのですが、川の流れと同じで、上から見下ろせば一つの流れであっても、これを始源からたどれば全体をカバーするに延々とした道のりとなります。

 造化の進展におけるその多様性が現時点の地球意識が機能している外的界層にいかに顕現しているかは貴殿にもお分かりでしょう。

と言うのは、地球の表面には一方においては今なお発達途上にある才能の蓄積を生み、他方においては進化の大機構における目的に寄与して今や生命の質の向上によっていっそう入り組んだより敏感な媒体が必要となったために捨てられてしまった、かつての天使の叡智の試練の贈(タマモノ)があふれている──否、地球全体がそれによって構成されていると言えるほどだからです。

遠い太古の遺物にもそのことが言えますが、他方、発展せんとする衝動の強さにとって媒体が不適当であることが表面化し、窮屈となり、生命の鼓動が小さくなり、無力化し、ついにその系統の進化活動が停止するに至ったことを物語るものがあります。


 現在化石として残っている巨大な哺乳動物や爬虫類は創造物としては高度の技術を要した素晴らしい産物でした。が、現時点から見るとお粗末で不格好な作品に見えます。

ただ見落としてならないのは、そうしたぎこちない創造物の中にも、今なお造化の過程にある生き生きとして進歩性に富む生命力の宿る神殿(媒体)の基礎を据える上で役に立ったものがあるということです。

そうした基礎工事に較べれば神殿のデザインがいかに改良されてきたかがお分かりになると思います。今貴殿らが立って眺めている階段の標高がいかに高いかもお分かりでしょう。

その位置からは、今日の地上の生命の基礎が据えられた時の地球と同じ段階にある新しい天体の造化に当たっている他の天使群の作業場が、はるか虚空の彼方に見晴らせるのです。

 そこで私のいうもう一つの原理はこうです。発展というのは必ず二重のコースが並行して進みます。

一つはすでに述べた通りの統一性から多様性へ向けるのコースですが、それと並行して必ず、その対であるところの霊的なものから物的なものへのコースが伴うということです。両者は常に並んで走る二人のランナーのようなものです。

一人は〝統一性から多様性へ〟のランナー、もう一人は〝霊から物質へ〟のランナーです。二人は常に同じペースで走らなければなりません。一方が他方を追い越すことは許されません。競争ではなく、同時にゴールインしなければならないのです。

 ところが、その造化の大業にたずさわる者の中にタイミングの読みを間違えて、まだゴールの標識に至らないうちに外部への進展を止め、その創造的生命力をふたたび霊の方向へ向かわせる操作をした者がいたのです。

その標識とは地上の科学者が〝宇宙〟と呼んでいるところの、創造的活動の物質的表現のことです。実はそれが宇宙の全てではありません。

もっと奥深い次元での内的顕現の物質的側面に過ぎません。その背後には造化を司る天使群が控え、意念の活性化によって、銀河の世界の恒星の大艦隊が首尾よく物質の大海原を航海し、目指す港に到着すればくるりと向きを変えて帰路につけるように、たゆみなくその操作に当たっているのです。

 しかし、帰路に着くといっても、来た時と同じ航路を逆戻りするのではありません。

と言うのは、疾風怒濤の荒波を乗り越えてきた航路において生命の多彩な表現の豊かさを身につけて、最初に船出した時はただの漕ぎ手と荷上げ人足に過ぎなかったのが今や一人ひとりが船長の資格を持ち、指導者としての霊格を身につけていますから、来た時よりはるかに陽光にあふれた航路を進むことになるのです。

 さて私が先ほど混乱が生じたと申し上げたのは、その造化の天使群のうちの一部が目指す港への到着を待ちきれずに旋回しようと企てたことです。

艦隊はすでに悠久の時を閲しながら航海してきて、その大海のど真ん中で帆をいっぱいに膨らませたまま旋回しようというのです。疾風と怒涛の真っ只中です。

各船体が大きく揺れ、激突し合って今にも沈没しかけるものもありました。そこに至って彼らもやはり順風を受けて進むべきであることを思い知らされ、ふたたび当初の目的地へ向きを戻したのでした。

そうしてようやく目指す港へ着いた時は船体は傷つき、帆は破れ、くぐり抜けてきた嵐の跡がそこかしこに見られるのでした。

 以上の物語の意味を説明しましょう。大海は無限絶対の心すなわち神が外部へ向けて顕現していく存在の場です。艦隊は神の命を受けて造化に当たる天使群によって創造された顕幽にまたがる宇宙です。

外部へ向けてのコースの目指す港は現在の地球が一部を占めている物的宇宙です。帰路のコースは貴殿らがいま向かいつつあるものです。

最も外部の地点まで辿り着き、そこの標識を今まさに折り返しつつあるところです。

今日地上に何かと不穏な状態が生じているのは、人類がその折り返し点に来ているから──不活潑な物質の港から活潑な外洋へと船出せんとしている、その旋回が原因です。

そのうち帆に風いっぱいに受けてぶじ帰路に着くことでしょう。そして士官も乗組員も上機嫌となり、艦隊が存在の場を波を切って進むにつれて、悠久の港に船出した母港へと近づきます。すでに光が射しはじめ神の微笑が見えるはるか遠い東の空に待ちうける歓待へ向けて進むにつれて、喜びと安らぎが次第に増していくのです。


──混乱が生じたのはいつ頃のことだったのでしょうか。つまり造化にたずさわる天使群が過ちを犯しはじめたのは進化のどの段階でのことだったのでしょうか。

 私にもたどることができないほど遥か遠い昔のことでした。さらに言えば、地上の視点からすれば〝読み間違えた〟ように思えるかもしれませんが、実際には必ずしもそうではないのです。私は貴殿からは見えないところに位置しておりますが、進歩の程度からいえば、ほんの一歩先を歩んでいるだけです。

私およびここにいる私の仲間たちには、その〝間違えた〟と言っているものも、目指す港に着いてみれば現在の吾々が考えているものとは異なったものであるように思えるのです。

我々が〝悪〟だとか〝不完全〟だとか決めつけ、そう思い込んでいるものも、そこへ行き着けばまるでミニチュアの小島の岩に打ち寄せる小さな波のようなもの──無限なる大海の真っ只中の小さな一滴にすぎないのです。

その波が砕けて(大げさに)しぶきを上げているように思えます。が、落ちゆくところは母なる海であり、しょせん元の大海は増えてもいなければ減ってもいないのです。

吾々はその真っ只中の一点の島に当たって砕け散ったカップ一杯ほどの水でもって海の深さを測ってはならず、豊かなその懐の威厳を推し測ってもならないように、無限なるもののほんの一かけらを取り上げて神の偉大なる叡智に評価を下してはなりません。

 あるとき一匹のアリが仲間に言いました。

 「なあ、オレたちはアリマキよりは頭がいいんだよな。あいつらを働かせてオレたちが要るものを作らせてるんだから・・・・・・」

 「そりゃあそうさ」と仲間は答えました。

ところがそこへアリ食いが現われて、そのアリたちの知恵も一瞬のうちに消えてしまいました。アリ食いは日なたで寝そべってこうつぶやきました。

「アリたちはあんなことを言ってやがったが、みろ、オレはその上を行ったじゃないか。だが、オレよりもっと大きな知恵をもったヤツがいるに違いないんだ・・・・・・」

 人間がアリと同じような考えでいても、宇宙にはもっと大きい、そしてそれに似合った力を具えた存在がいるのです。そういう大きな存在はせっかちな結論は下しません。それを知恵が足りないからだと考えてはなりません。 
                                アーネル ±

シアトルの晩秋 造化の原理 ー スパイラルの原理

Principle of Creation - Principle of Spiral

五章 造化の原理

1 スパイラルの原理
一九一八年 三月十一日  月曜日

──創造的活動にたずさわる天使の大群とともに例の大学の大ホールで体験されたことや学ばれたことについて語っていただけませんか。

 私が仲間の学徒とともに大学を見学することになってすぐさま気がついたことは、すべてが吾々の理解を促進する知識の収集に好都合に配置されていることでした。

すべてが整然と構成されているのです。巨大な造化の序列の間には向うの端が遠くかすんで見えるほどの長い巾広いもの (avenues とあるが並木道、本通り、通路等の訳語しか見当たらない──訳者)で仕切られています。

と言っても、序列のどれ一つとして他から隔離されたものではないので、それはただの〝仕切り〟division ではなく、横切って通るための〝路〟road でもなく、実はそれ自体が両隣りを融和させる機能を具えた〝部門〟department なのです。

 そこを見学しているうちに吾々は、創造活動において造化の天使が忠実に守っている基本原則が幾つかあることを知らされて感心しました。その原則は無機物にも植物にも動物にも本質的には同じものが適用されています。

しかし最も進化せる界層に顕現されている叡智と巧みさに満ちた豪華絢爛たる多様性も、原初におては単純な成分の結合に端を発し、永い進化の時を閲しながら単純なものから複雑なものへと発達し、ついに今日見るがごとき豪華な豊かさへと至っていることを思えば、その事実は当然のことと言えるでしょう。

 私が言わんとすることを例を挙げて説明してみましょう。

 その仕切りの一つを通って行くと、天体がいかにして誕生したかが分かるようになっていました。左側は神の思念が外部へ向けて振動し鼓動しつつ徐々に密度を増し、貴殿らのいうエーテルそのものとなっていく様子が分かるようになっていました。

それを見ると〝動き〟の本質が分かります。本質的には螺旋状(スパイラル)です。それが原子の外側を上昇して先端までくると、今度は同じくスパイラル状に、しかし今度は原子の内部を下降しはじめます(これが象徴的表現に過ぎないことをこの後述べている──訳者)。

空間が狭いために小さなスパイラルでも上昇時よりもスピードを増します。そして猛烈なスピードで原子の底部から出ると再び上昇スパイラルとなりますが、スピードは少しゆるやかになり、上昇しきると再びスピードを増しながら内部を下向していきます。

 原子は完全な円でなく、といって卵形でもなく、内部での絶え間ない動きの影響で長円形をしています。その推進力は外部からの動力作用で、もしその動力源をたどることができれば、きっと神の心に行き着くのではないかと私は考えています。

お気付きと思いますが、〝先端〟とか〝底部〟とか〝上昇〟とか〝下降〟という言い方は便宜上そう表現したまでのことです。エーテルの原子に上も下もありません。

 さて、エーテルの原子を例に挙げたのは、これを他のさらに密度の高い性分へとたどっていくためのモデルとしていただくためです。たとえば地上の大気のガス物質を構成する原子にまでたどっても、やはり同じ運動をしております。

エーテルの原子の運動とまったく同じ循環運動をしております。細かい相違点はあります。

同じスパイラルでも細長い形もあれば扁平なのもあります。スピードの速いのもあれば遅いのもあります。いずれにせよ原子の内側と外側のスパイラル運動であることに変わりはありません。

 鉱物の原子を見てもやはり同じ原理になっていることが分かります。また一つの原子について言えることは、原子の集合体についても言えます。たとえば太陽系の惑星の動きもスパイラルです。但し、惑星を構成する物質の鈍重さのせいで動きはずっとゆっくりしています。

 同じことが衛星の運動にも言えます。さらに銀河系の恒星をめぐる惑星集団、さらに銀河の中心をめぐる恒星集団についても言えます。

 ただし各原子の質量と密度の双方がスパイラル運動の速度に影響します。密度の高い原子から成る物質においては速度が遅くなります。しかしその場合でも原子の内部での速度の方が外部での速度より速いという原則は同じです。

内側の運動から外側の運動へと移る時は、動くのがおっくうそうな、ゆっくりとしたものになります。しかしあくまできちんと運動し、その運動は軸を中心としたスパイラルの形をとります。

月もいまだに軌道運動に関してその性則を維持しようとしています。地球を中心とするかつてのスパイラル運動をしようとしながら出来ずにいるかのごとく、みずからを持ち上げようとしては沈みます。地球も同じことを太陽の周りで行ってなっております。

完全な円運動ではなく、完全な平面上の円運動でもありません。地軸に対しても平面に対しても少しずつずれており、それで楕円運動となるのです。

 以上のようにエーテルの原子、地球のガス物質、および地球そのものについて言えることは太陽ならびに銀河の世界についても言えます。その運動は巨大なスパイラルで、恒星とその惑星が楕円を描きながら動いております。

 こうした情況を吾々はその巾広い通りの左側に見たのです。がその反対側には物的創造物の霊的側面を見ました。つまり両者は表裏一体の関係になっているのです。

そして吾々が位置している通りが両者を結びつける境界域となっているのです。地上生活から霊界へ入る時はそれに似た境界域を横切るのです。そしてやがてその〝部門〟から次の〝部門〟へと移行することになります。

横切る通りは言わば地球の人間と天界の人間とを隔てる境界ということになります。


──さっき述べられた原理すなわちスパイラル運動の原理の他にも何か観察されたのでしょうか。

 しました。あの原理を紹介したのは説明が簡単であり、同時に基本的なものでもあるから・・・・・・いや多分基本的だから単純なのでしょう。

 では、もう一つの原理を紹介しましょう。基本的段階を過ぎると複雑さを増し説明が困難となります。が、やってみましょう。

 吾々が知ったことは造化の神々は先に述べたエーテルの原子よりさらに遡った全存在の始源近くにおいて造化に着手されているということです。またエーテルの進化を担当するのも太古より存在する偉大なる神々であるということです。

そこで吾々はずっと下がって材質の密度が運動を鈍らせるに至る段階における思念のバイブレーションを学習することになりました。

そしてまず知ったことは、吾々学徒にとって最も困難なことの一つは、正しく思惟し正しく意志を働らかせることだということです。物質を創造していく上でまず第一にマスターしなければならないことはスパイラル状に思惟するということです。

これ以上の説明は私には出来ません。スパイラルに思惟する───これを習慣的に身につけるのは実に困難な業です。

 しかし貴殿は別の原理を要求しておられる。それでは感覚的創造物───植物的生命の創造を観てみましょう。

 例の〝通り〟の一つを進んでいくと片側に地球ならびに他の惑星上の植物的生命が展示され、反対側にその霊的裏面が展示されていました。

それを観察して知ったことは、植物界の一つ一つの種に類似したものが動物界にも存在するということでした。それにはれっきとした理由があります。

そしてそれは樹皮、枝、葉という外部へ顕現した部分よりもむしろ、その植物の魂に関連しております。が、それだけでなく、よく観察するとその外見と魂との関係にも動物と植物の関連性を垣間みることができます。


──どうもお話について行けないのですが・・・・・・もう少し説明していただけますか。

 では、いったん動物と植物の対比から離れて、それからもう一度その話に戻ってきましょう。その方が分かりやすいでしょう。

 天界はさまざまな発達段階の存在──権威において異なり、威力において異なり、性格において異なり、さらには各分野における能力において異なる存在がいます。

 このことは途上に関しても言えることです。

 従ってそれは動物界についても言えることであることがお分かりでしょう。動物は種類によって能力がさまざまです。それぞれに優れた能力を発揮する分野があります。性格的にそうなっているのです。馬は蛇よりも人間と仲良くなり易いですし、ハゲワシよりオウムの方が人間によく懐(なつ)きます。

 さて先程述べかけた類似に原理は、大ていの場合さほど明確でないにしても、植物界と動物界にも存在することが分かります。たとえば植物の代表としてカシの木を、動物の代表として小鳥を例にとって考えてみましょう。

カシの木は種子(どんぐり)を作って地上に落とします。これが土に埋もれて大地で温められ、内部の生命が殻を破って外部へと顕現します。

実はそのどんぐりと小鳥は構造においても発生のメカニズムにおいても本質的にはまったく同じなのです。

 この〝内部から外部へ〟という生命の営みは普遍的な法則であって、けっして敗れることはありません。それは又、現在の宇宙を生んだ根源的物質の奥深く遡っても同じです。エーテルの原子の説明を思い出してください。原子の最初の運動は内部に発します。

そこでは速度が加速され、運動量が集積されます。外部に出ると両方とも鈍ります。


 同じルールが他の分野についても言えることが分かりました。創造界の神々が順守すべき幾つかの統一的原理が確立されているということです。

そのうちの一つが、まず外皮があってその内部の美がそれを突き破って顕現し、その有用性に似合っただけの喜びが見る者の目を楽しませるということであり、また一つは二つの性──能動的と受動的──であり、循環器系でいえば樹液と血液であり、呼吸器系で言えば毛穴と気孔であり、その他にもいろいろと共通の原理があります。

 これ以上貴殿のエネルギーが続きそうにありません。これにて中止されたい。
                                アーネル ±


 訳者注──最後の部分がよく理解できないが、これは次の通信の冒頭でアーネル霊も指摘し、通信が正しく伝わっていないと言って、その補足説明を行っている。

しかし年代的にアーネル霊は中世の人間であり、オーエンは現代の人間であっても科学的には素人なので、内容の表現や用語に素人くささが出ている。

大巾な書き変えは許されないので原文のまま訳しておいたが、読者はその趣旨を読み取る程度にお読みいただきたい。

Monday, November 18, 2024

シアトルの秋 シルバーバーチの教え 序文 ハンネン・スワッファー

Preface Hannen Swaffer
Teachings of Silver Birch

我々がシルバーバーチと呼んでいる霊は、実はレッド・インディアンではない。いったい誰なのか、今もって分からない。分かっているのは、その霊はたいへんな高級界に所属していて、その次元からは直接地上界と接触できないために、かつて地上でレッド・インディアンだった霊の霊的身体を中継して我々に語りかけている、ということだけである。

いずれにせよ、その霊が“ハンネン・スワッファー・ホームサークル”と呼称している交霊会の指導霊である。その霊が最近こんなことを言った。

「いつの日か私の本名(地上時代の名前)を明かす日もくることでしょうが、私は仰々しい名前などを使用せずに、私の説く中身の真実性によって確かに大霊の使徒であることを立証したいと思っています。それが地上の皆さんの愛と献身とを獲得する道であり、そのためにこうしてインディアンに身をやつしているのです。それが大霊の摂理なのです。」

もっとも、一度だけ、シルバーバーチがその本名をもう少しで口にしそうになったことがあった。一章の冒頭に出てくる、自分が使命を仰せつかってそれを承知するに至る場面でのことだった。

ところで、私とシルバーバーチとの出会いは、一九二四年にスピリチュアリズムの真実性を確信して間もない頃のことだった。以来私は、毎週一回一時間あまりシルバーバーチの教えに耳を傾け、助言をいただき、いつしかその霊を地上のいかなる人物よりも敬愛するようになった。


訳注――スワッファーはシルバーバーチの交霊会に出席する前は、同じ作家仲間が司会をするデニス・ブラッドレー・ホームサークルという交霊会に出席して死後の個性存続を確信していた。正確に言うと最初に出席したのは一九二四年二月二十七日で、そのときは親戚の者が(声で)出現しているが、まだ得心するには至らなかった。それが同年十月七日の交霊会に大先輩で《デイリー・メール》の創刊者のノースクリフ卿が出現して動かしがたい証拠を見せつけられ、会の終了後にブラッドレーに「今日のは凄かった。私もこれで死後の存続と、霊との交信の真実性を確信したよ」と語った。その五日後にスワッファーは、自分が主筆をしていた《ザ・ピープル》でその体験を公表し、続いて『Northcliffe's Return』という単行本を出版して大センセーションを巻き起こした。

シルバーバーチの地上への最初の働きかけは、普通とは少し違っていた。ある日、十八歳の無神論者の青年が、ロンドンの貧民街で行われていた交霊会にひやかし半分の気持ちで出席した。そして霊媒が次々といろいろな言語でしゃべるのを聞いて、青年は思わず吹き出してしまった。ところがその中の一人の霊が、「そのうちあなたも同じことをするようになりますよ」と諌(いさ)めるように言った。

その日はバカバカしいという気持ちで帰ったが、翌週、再び同じ交霊会に出席したところ、青年は途中でうっかり居眠りをしてしまった。目覚めると慌てて非礼を詫びたが、すぐ隣に座っていた人が「今あなたは入神しておられたのです」と言ってから、こう続けた。「入神中にあなたの指導霊が名前を名乗り、『今日までずっとあなたを指導してきたが、近いうちにスピリチュアリストの集会で講演をするようになる』と言っておられました」と。これを聞いて青年(モーリス・バーバネル)はまた笑い飛ばしたが、間もなくそれが現実となった。

当初、シルバーバーチは多くを語ることができず、それもひどいアクセントの英語だったが、年を経るにつれ語る回数が増えたことも手伝って、英語が飛躍的に上達した。今日ではその素朴で流麗な英語は、私がこれまで聞いたいかなる演説家もその右に出る者はいないほどである。

ところで、霊媒のバーバネルが本当に入神していることをどうやって確認するのか、という質問をよく受けるが、実はシルバーバーチが我々列席者に、霊媒の手にピンを刺してみるように言ったことが一度ならずあった。恐る恐るそっと刺すと、「思いきって深く刺しなさい」と言う。入神から覚めたバーバネルにそのことを聞いてもまったく記憶がないし、その傷跡も見当たらなかった。

もう一つよく受ける質問は、霊媒の潜在意識の仕業ではないことをどうやって見分けるのか、というものであるが、実はシルバーバーチとバーバネルとの間には思想的に完全に対立するものがいくつかあることが、そのよい証拠と言えよう。例えばシルバーバーチは再生説を説くが、バーバネルは通常意識のときには再生は絶対にないと主張する。そのくせ入神すると再生説を説く。(晩年は「再生説」を信じるようになった――訳注)

些細なことだが、さらに興味深い事実を紹介すると、シルバーバーチの霊言が《サイキック・ニューズ》紙に掲載されることになって速記録が取られるようになるまでのことであるが、バーバネルがベッドに入ると、その日の交霊会で自分が入神中にしゃべったことが霊耳(れいじ)に聞こえてくるのだった。

これには訳がある。バーバネルはもともと入神霊媒になるのがイヤだったのであるが、自分がしゃべったことをあとで聞かせてくれるのなら、という条件をシルバーバーチとの間で取りつけていたのである。速記録が取られるようになると、それきりそういう現象は止まった。

翌日、交霊会の速記録が記事になったのを読んでバーバネルは、いつものことながら、その文章の美しさに驚く。自分の口から出た言葉なのに……。

シルバーバーチは教えを説くことに専念しており、病気治療などは行わない。また心霊研究家が求めるような、証拠を意図したメッセージも滅多に持ち出さない。「誠に申しわけないが自分の使命は霊的教訓を説くことに限られているので……」と言って、我々人間側の要求のすべてには応じられない理由を説明する。

最近、私は各界の著名人を交霊会に招待している。牧師、ジャーナリスト、その他あらゆる分野から招いているが、シルバーバーチという人物にケチをつける者は誰ひとりいない。その中の一人で若い牧師を招いたとき、私は前もって「あなたの考えうる限りの難解な質問を用意していらっしゃい」と言っておいた。その牧師は、日頃仲間の牧師からさんざん悪口を聞かされている“交霊会”というものに出席するというので、この機会に思いきってその“霊”とやらをやり込めてやろうと意気込んで来たようである。しかしシルバーバーチが例によって“摂理”というものをやさしい言葉で説明すると、若者はそれきり黙り込んでしまった。難解きわまる神学が、いとも簡単に解きほぐされてしまったからである。

さて、シルバーバーチを支配霊とする私のホームサークルは毎週金曜日の夜に開かれ、その霊言は定期的に《サイキック・ニューズ》紙に掲載される。その版権が私のホームサークルに所属するのは、サークルとしての私用を目的としてのことではなく、これを世界中に広めるためである。今ではシルバーバーチは、地上のいかなる説教者よりも多くのファンを持つに至っている。あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる肌の色(人種)の人々に敬愛されている。

そうしたシルバーバーチの言葉も、いったん活字になってしまうと、その崇高さ、その温かさ、その威厳に満ちた雰囲気の片鱗(へんりん)しか伝えることができない。交霊会の出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバーバーチがどんなに謙虚に語っても、我々は高貴にして偉大なる霊の前にいることをひしひしと感じる。決して人を諌めない。そして絶対に人の粗探しをしない。

キリスト教では“ナザレのイエス”なる人物についてよく語るが、実は本当のことはほとんど知らないし、そもそもイエスという人物が実在した証拠は何ひとつ持ち合わせていないのである。

そのイエスをシルバーバーチは、彼が連絡を取り合っている霊団の中で最高の霊格を持つ存在と位置づけている。私は長年にわたってシルバーバーチと親しく交わってきて、その誠実な人柄に全幅の信頼をおいているので、シルバーバーチの言う通り、新約聖書の主役であるイエス・キリストは地上で開始した霊的刷新の使命に今なお携わっていると確信している。

そう信じて初めて、(マタイ伝の最後にある)「見よ! 私はこの世の終わりまで常にあなた方と共にいる」というイエスの言葉の真の意味が理解できる。今の教会では、この説明はできない。

これから紹介するシルバーバーチの教えを読むに当たってあらかじめ知っておいていただきたいのは、そのすべてが真っ暗闇の中で語られ、それがベテランの(盲人用の)点字速記者によって書き留められたという事実である。

元来じっくり語りかけるシルバーバーチも時には早口になることがあり、そんなときは付いていくのは大変だったろうと察せられるが、あとで一語たりとも訂正する必要はなかった。もとよりそれはシルバーバーチの英語が完璧だったことにもよるであろう。が、通常の英語に直したときに要求される作業は句読点を書き込むだけで、しかもその位置はいつも、きわめて自然に決まるような文章の流れになっていたというから驚きである。

シルバーバーチの哲学の基本的概念は、いわゆる汎神論(はんしんろん)である。すなわち神は大自然そのものに内在し、不変の法則としてすべてを支配している。要するに、神とはその法則(摂理)なのである。それをシルバーバーチは、「あなた方は大霊の中に存在し、また大霊はあなた方の中に存在します」と表現する。ということは、我々人間も潜在的にはミニチュアの神であり、絶対的創造原理の一部ということになる。

もっともシルバーバーチは理屈をこね回すだけの議論には耳を貸さない。人間は何らかの仕事をするためにこの地上へ来ているのだということを繰り返し説き、「宗教とは、人のために自分を役立てること」と単純明快に定義する。そして、お粗末とはいえ我々は今この地上にあって、戦争に終止符を打ち、飢餓を食い止め、神の恩寵(おんちょう)が世界中にふんだんに行きわたる時代を招来するための“霊の道具”であることを力説する。

「我々が忠誠を捧げるのは一つの教義ではなく、一冊の書物でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の摂理です」――これがシルバーバーチの終始一貫して変わらない基本姿勢である。

それはサークルのメンバーの構成からも窺(うかが)われる。当初、サークルは六人で構成されていたが、その中には三人のユダヤ人がいた。スピリチュアリズムは民族の違いや宗教の違いには頓着しないことの表れである。残りの三人は懐疑論者であり、うち一人はメソジストの牧師だった人物で、スピリチュアリズムの真理を知ってメソジストの教義が信じられなくなり、サークルのメンバーになる前に脱会している。

シルバーバーチは交霊会に変化をつけるために、時おり自分以外の人物にも語らせている。《デイリー・メール》の創刊者ノースクリフ、英国の小説家ゴールズワージー、同じく英国の小説家ホール・ケイン、政治家だったギルバート・パーカー、米国のジャーナリストだったホーラス・グリーリー、英国の聖職者ディック・シェパード、かの有名な米国大統領リンカーン、その他、サークルのメンバーの親しい知人などが声で出現している。

長年のメンバーである私は、シルバーバーチが前回での約束を忘れたという事実を、いまだかつて知らない。シルバーバーチは大切な真理を、平易に、そして人生に役立つ形で説くという本来の使命から一瞬たりとも逸脱したことはない。

Sunday, November 17, 2024

シアトルの晩秋 最後の晩餐

the Last Supper

More Philosophy of Silver Birch
Edited by Tony Ortzen
 

 訳者前置き───本章はシルバーバーチの交霊会を録音したカセットテープ Silver Birch Speaks<シルバ-バーチは語る>の全訳である。原書では部分的に1/3程度が紹介されているが、本書では全部を紹介することにした。シルバーバーチの交霊会は初期の頃は速記のみで、その後は速記と録音とによってすべて保存されているが、市販用にカセットテープに収められたのは、これまでのところこれが唯一である。

〝最後の晩餐〟という見出しは、たまたま出席者の数がキリストの最後の晩餐の時と同じ十三人だったので、リーバ女史がそう呼んだのであるが、シルバーバーチの霊訓の最後を飾るものとしてもふさわしいので、そのまま用いた。

訳文の中で(後注1、2、3、4)として章末にまとめたものは原書をお持ちの方への配慮である。

 なおカセットテープと原書をご希望の方は巻末の〝訳者あとがき〟を参照されたい。入神したバーバネルに乗り移っていよいよ話せる用意の整ったシルバーバーチが冒頭に呼びかけているサム・デニス Sam Dennis は司会者で、他のカセットでも司会やインタビュアーの役をしている人である。(この八章の会話行頭の───はすべてサム・デニス氏)

 最初に女性の声でこのカセットの内容についても解説があり、最後に〝それではシルバーバーチ霊に語っていただきましょう〟と結んだあと、シルバーバーチの次のような言葉で会が始まる。(カッコ内はすべて訳者による)


 サム・デニスさん、始めることにいたしましょう。

───よろしくお願いします。(後注1)

 皆様に大霊の祝福のあらんことを。
 本日もいつもの順序で会を進めることとし、悩みごとや厄介なこと、心配ごとや不安はとりあえず脇へ置いていただきましょう。そしてお互いが可能な限り和気あいあいのうちに最高のものを求めんとする願望において一つとなるよう努力いたしましょう。(次第に開会の祈り(インボケーション)にはいる)

 無限なる愛と叡智の根源である大霊を超えるものは誰一人、何一つ存在し得ません。その大霊こそが、私たちの住まうこの果てしなき宇宙の責任者であらせられ、その無限なる知性が、巨大と微細とを問わず、また複雑と単純とを問わず、ありとあらゆる存在を支配し規制する摂理の全てを創案し維持しておられます。

それが、およそ例外というものを知らない不変不動の法則に従って一糸乱れることなく働いているのでございます。

 私たちはその崇高なる力に深甚なる敬意を表するものでございます。その力が驚異的真理を啓示し、それが私たちの精神の領域を広げ、自分とは一体誰なのか、また何者なのかについてのより大きな理解を与え、さらには、われわれのすべてをその懐に抱きかつ支配する崇高なる力について一層明瞭なる心象を抱かせてくれるところとなりました。

その驚異的機構の中にあっては、誰一人、何一つ、見落とされることも忘れ去られることも、あるいは無視されることもございません。いずこにあろうと、ありとあらゆる存在が扶養と供給を受けるよう配慮されているのでございます。

 同時に私どもは、いついかなる時も私たちの背後には強大なる高級霊団が控えていることも認識いたしております。その望むところはただ一つ、私たちのために力を貸し、代わって私たちが恵まれぬ人たちのために力を貸すようになる、ということでございます。

私たちはこれまで多大の援助を受け、慰めを与えられ、導きを得てきたからには、こんどは代わって私たちが、授かった才能のすべてを駆使して、死別の悲しみの中にある人には慰めを、病の苦しみの中にある人には癒しを、悩める人には導きを、人生に疲れた人には力を、

道を見失える人には道しるべを与え、彼らを取り巻く暗闇に光輝溢れる真理の光明をもたらしてあげる心の用意を常に整えさせ給わんことを。

 ここに、常に己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。


 本日こうして皆さんのもとへ参り、霊の世界からの愛とメッセージをお届けできることを嬉しく思います。今夜の集りの特別な目的(市販の為の録音をすること)はよく存じております。

そこで私は、私の言葉をお聞き下さる方々のために、私の使命ならびに私と同じ願いに動かされている霊団の使命の背後に託された目的をまずご説明するのが適切と考えた次第です。 (それを冒頭の祈りの中で簡単に述べたということ)

 霊的なことはこれが初めてという方々に申し上げたいのは、私は皆さんと同じ一個の人間的存在であるということです。ただ私は、私の言葉をお聞きくださっている方のどなたよりも永い人生を生きてまいりました。

そしてこの地上より遥か彼方の世界における経験のたまものとして私は、あなた方が神と呼んでおられる大霊、ならびにその大霊の意志を究極において是非とも行きわたらせるために案出された大自然の摂理について、いくばくかの知識を手にいたしました。

 その経験の結果学んだものを、私は受け入れて下さる方に喜んでお分けしたいと思います。何かのお役に立つものと考えるからです。私はいかなる意味においても神さまのような存在ではございません。

私はまだまだ人間的要素を残しており、誤りも犯せば弱点もあり、不完全です。皆さん方のどなたとも同じように、まだまだ完全へ向けての長い長い道のりがあります。それは無限に続く道です。

 しかし私は、他の同僚と同じように、これまでに辿ってきた道を後戻りして、その間に得た真理と叡智と知識のいくばくかを披露して、それを皆さん方にもお分けするようにとの要請を受けたのです。

と同時に、私たちに協力してくださる方々の援助を得て、千変万化の生命形態のすべてを支配する崇高なる霊力を利用して、霊媒的能力を持つ人々を通じて恵み深い目的を果たすように手筈を整えることもできます。

 過去においても同じ霊力が流入して、今日の人が奇跡とみなしているところの驚異的な現象を演出いたしました。が、ここで申し上げておきたいのは、いかなる現象にも自然法則というものが働いており、それはいかなる力によっても停止されたり廃止されたりすることはあり得ず、原因に従って結果が生じるという整然たる因果律にのっとって働くほかはないということです。

  
 過去において発生したものも、それがいかに目を見張らせるものであろうと、いかに度肝を抜くようなものであろうと、いかに途方もないものであろうと、いかに驚異的なものであろうと、かならず自然法則の働きによって生じていたのです。

その法則は物質の領域においてだけでなく、霊的領域においても絶え間なく働いており、条件さえ整えば、霊的法則(スピリチュアル)・心霊的法則(サイキック)・半物質的法則(アストラル) (※)・エーテル的法則を総動員して、かつては奇跡と呼ばれ、今日では交霊会において霊媒的能力によって演出される、いわゆる心霊的現象を起こすことができます。

(※ 物的身体と霊的身体とをつなぐ媒体を複体(ダブル)と呼んでいるが、これがエーテル的な半物質体でできている。ここではその生理的法則のことを言っている)

さて、霊媒というのは霊的能力を授けられている人間のことで、それをバイブルの中で使徒パウロがうまく説明しております(コリント①12)。こうした能力は神から授かるものであり、授かった者は、それを開発することによって神の恵みが届けられる通路として使用されることが可能となるわけです。

 霊媒による現象は全て霊力の作用によります。したがってそれを今ご覧になっている皆さんは、かつて〝聖なる地〟と呼ばれた地方において起きていたのとまったく同じ現象を見ていることになるのです。大霊は不変です。自然の摂理も不変です。

それが今も昔と同じく作用していることは、かつて(三千年前に)この地上で生活したことのあるこの私が今こうして霊力を利用することによって霊媒を通じて皆さんに語りかけることができるという事実が証明しております。

 もう一つご説明したいことがあります。それは、私たちは途方もなく大きい霊的組織の一翼を担っており、総合的な基本計画とでも申し上げたいものを推進しているということです。

その基本計画は、霊力が引き続き地上へ流入してますます多くの人々の元に行きわたり、無知と過りと迷信を駆逐して正しい真理と知識の光明のもとへ誘い、かくして地上へ生を受けたその目的に沿って各自が神の意図された通りに生き天命を全うするようにもくろまれているのです。

 霊力は人間の記憶を絶した遠い過去の時代から間断なく地上へ流入しております。ただ、これまではそれが一時的で散発的なものに過ぎませんでした。

驚異的な出来事も、神わざのような現象も、啓示された教えも、その時代その民族に似合ったものが授けられたのでした。が、やがてそれが朽ち始めます。せっかく啓示されたものに政治的、神学的、時には国家的利害のからんだ、意図的な作為がなされたのです。

 しかし今は違います。先ほど申し上げた総合的計画というものがありますから、霊力はすでに地上に立派に根づいております。なぜか。どうしてもそうしなければならない必要性が生じているからです。

 組織的宗教は数多く存在しますが、地上の人間に真の自我を見出させ、生命の根源である神性を発現させるような理想に沿って生きる、その指針を提供することはできませんでした。何よりもまず〝霊性〟が日常生活の中で顕著とならないといけません。

皆さんの住んでおられる地上というところは、とても暗い世界です。騒乱と暴力沙汰が絶えず、貪欲と妬みに満ちております。大霊の代わりに富の神が崇められております。今なお間違った偶像が崇拝の対象とされています。

 すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはあり得ないことを得心なさるはずです。

物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦壊してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはあり得ないのです。

 死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生を受けて肉体を通して表現し始めた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へ赴き、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。

 あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。不滅の個霊としてのあなたはその肉体の死後も生き続け、あなたという個的存在を構成しているものはすべて存続するという事実を立証するだけの証拠は、すでに揃っております。

死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせ愛を表現する力が具わっています。愛は神性の一つなのです。愛はその最高の形においては神々しさを帯びたものとなります。そして、生命と同じく、不滅です。

 私たち霊団はなぜこの地上へ戻ってくるのか?数々の心痛と難題と苦悶と災難と逆境の渦巻く地上世界へ永遠に別れを告げることは、いとも簡単なことです。しかし、私たちには地上人類への愛があります。そして又、それに劣らない愛の絆によってあなた方と結ばれている霊(地上的血縁で繋がっている霊や類魂)も存在します。

 教会で行われる婚礼では 〝死が二人を別つまで〟という言い方をしますが、もしも二人が霊的に結ばれていなければ、死が訪れる前から二人は別れております。そこに愛があれば二人を別れさせるものは何もありません。

愛は宇宙における強力なエネルギーの一つです。ひたすら人類のためと思って働いている霊界の高級霊を動かしているのも愛なのです。

 私たちは自分自身のことは何一つ求めません。崇拝していただこうとは思いません。敬っていただこうとも思いません。もしも私たちが何かのお役に立てば、そのことを神に感謝していただき、ご自身が恩恵を受けたそのお返しに同胞へ恩恵を施してあげて下されば、それでいいのです。

 今地上にはびこっている欲望は是非とも愛と置き代えないといけません。なぜならば愛は霊性の表現の一つだからです。愛はいろいろな形をとります。哀れみ、奉仕、友情、協力などです。人間は、誰であろうと、いずこにいようと、お互いがお互いに無くてはならない存在です。肌の色、階級、国家、言語───こうしたものは物質的な相違に過ぎません。

 霊的に言えば皆さんはお互いにつながり合った関係にあります。人類は一大霊的家族を構成しているのです。なぜなら、霊性という共通の要素が、神とのつながりと同じように、切っても切れない絆によってしっかりとお互いを結びつけているからです。

 その力は、とかく離反させるそうした物的相違のいずれよりも強力です。皆さんはその霊力を最大限に発揮させなければいけません。真の自己革新とは何かを知らなくてはいけません。

物的欲望に拘らないという意味で〝我を捨てる〟ことが必要です。(後注2)それは〝霊の宮〟である身体を養うための物的必需品まで捨てなさいという意味ではありません。

  しかし、それと同等に〝永遠のあなた〟である霊の属性も大切にしなくてはいけません。あなたに潜在する神性を最大限に発揮し、あなたの存在の本来のあり方である同胞関係を実践しなくてはいけません。魂は白色でも黄色でも黒色でも赤色でもありません。魂には特殊な色も人種上の差別もありません。

 この事実をよく理解し実践しなくてはなりません。人類の優越性はその内部の神性を開発し、それを愛と哀れみと思いやりの形で他の同胞のみならず、同じ地球上に住む動物に対しても発揮するようになって初めて得られるのです。

地上の至る所で行われている無益な残虐行為と乱獲は止めないといけません。真の平和は人類がその霊的起源と天命に恥じない行為を実践できるようになった時に訪れます。

 私が申し上げることはすべて、皆さんの日常生活に少しでも理解と知識と真理と叡智をもたらしてあげたいという一念から出ているのです。が、それの基本となっている原理の中には、皆さんが子供の時から教えられてきた神学的な教義やドグマや信条と対立するものがあることは十分に考えられます。

 私たちは皆さんの理性に訴えているのです。もしも私たちの言うことと態度にあなた方の知性を侮辱し理性を反発させるようなものがあれば、それはどうぞ受け入れないでください。私たちはあなた方の理性、あなた方の知性による納得を得たいのです。

その上でなら、私たちの仕事の協力者として、神の意志を地上に行きわたらせるための道具となっていただけるでしょう。そしてそれが地上平和の到来を促進することになりましょう。

 かくして霊的資質を十分に発揮するようになれば、その当然の結果として、豊かさと光輝と落着きと決意と自覚と内的安らぎが得られます。なぜならば、それは神が生み出した摂理と調和していることを意味し、さらには、各自がその一部を宿している神性の大源である神そのものと一体となっていることになるからです。
 神の祝福のあらんことを。


 サム、以上で私が用意してきたものは終わりました。聞こえますでしょうか。

───ええ、よく聞こえております。


 それでは、もし何かご質問があれば・・・・・・皆さんご用意はよろしいでしょうか。

───結構です。用意はできております。結構です。


 もしご質問なさりたいことがあれば、精いっぱいお答えいたしましょう。

───これは多くの知人からよく聞かれることで、とても厄介なことになっている問題ですが、つまり人間はいつ死んだと言えるかという問題です。最近の新聞やテレビでも、いつ本当に死んだことになるかについて医師や法律家の間で随分議論されております。

心臓が停止したら死んだことになると言う人もいれば、脳死を持って本当に死だと主張する人もいます。あなたは何を持って〝死んだ〟と判断すべきだとお考えですか───この地球という惑星へ別れを告げる時、つまり物的身体と別れるのは・・・・・。

 分かりました。ご承知の通り人間には霊が宿っています。その身体を生かしめている、神性を帯びた存在です。そして、その霊によって活力を与えられて初めて存在を得ている物的身体を具えています。

 すでに述べましたように、霊が最終的に引っ込んだ時───この〝最終的に〟というところをここで特に強調しておきます。なぜなら一時的ならば毎晩寝入るごとに引っ込み、朝目が覚めると戻っているからです───霊が最終的に引っ込んでしまえば、物的身体は活力源を失うので、死が訪れます。

 さて、いわゆる〝霊視能力〟を持った人が見ると分かりますが、霊体と肉とをつないでいるコード(玉の緒)が霊体から次第に離れるにつれて伸びていき、それがついに切れた時、両者の分離が最終的に完了します。その分離の瞬間が死であり、そうなったら最後、地上のいかなる手段を持ってしても、肉体を生き返らせることはできません。


───そもそもこの問題が生じたのは臓器を摘出する技術が新たに開発されたからです。今日では医師は生きた心臓とか腎臓を頂戴するために人が死ぬのを待っているという状態です。そこで問題となるのが〝この人は本当に死んでいるか〟〝もう臓器を摘出することが許されるか〟ということで、それが医師を悩ませる深刻な問題となっているわけです。

 臓器移植については私もよく存じております。そして又、その動機が立派である場合が多いことも知っております。ですが私は、人間のいかなる臓器も他人に移植することには反対であると申し上げざるを得ません。

 そもそも死というのは少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。(このあたりから〝大勢いるのです〟というところまで、おかしさを噛み殺した言い方でしゃべっている)

 死は自由をもたらしてくれます。皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私たちの世界ではこれから地上へ生まれていく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私たちの世界ではその霊を喜んで迎えているのです。

なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。


───もう一つ、多くの人を悩ませているのは、死後の死体の取り扱いの問題です。人によっては、死体をいじくり回す前は一定の時間そっとしておいてあげる必要があると信じており、そういう人たちは、今日の医学界では人が死ぬとさっさと実験室へ運び込んで医学実験ないしは教材として使用する傾向があるので心配しているわけす。死後すぐに死体をいじくり回すと魂または霊に何らかの害があるでしょうか。

 それはその霊が霊的なことについての知識があるか否かによって違います。何も知らない場合は一時的に障害が及ぶことがあります。なぜかと言えば、例え肉体と霊体とをつないでいるコードが切れても、それまでの永年にわたる一体関係の名残りで、ある程度の相互作用が続いていることがあるからです。

 一般的に言えば、霊的なことにまったく無知だった人の場合は、埋葬ないし火葬を行う前に三日間は合間を置くことをすすめます。それから後はどうなさろうと構いません。死体を何かの役に立てるために提供したいのであれば、それは当事者がそう決断なさればよろしい。

 ただ、次のことも申し添えておきます。人間には生まれるべき時があり、死すべき時があります。もしその死すべき時が来ておれば、たとえ臓器移植をしても、肉体をそれ以上地上に永らえさせることはできません。


───それと関連した問題として〝突発事故〟による死の問題があります。たとえば百二十人の乗客を乗せた飛行機が離陸して十五分後に爆発して全員が即死したとします。この場合は乗客の魂または霊にどういう影響があるでしょうか。

 今申し上げたのとまったく同じことです。霊的実在についての知識がある場合は何の影響もありません。知識のない人はショックによる影響があります。しかし、いずれ時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。

───天命を全うしないうちに突発事故で他界した場合、次の再生が早まることになるのでしょうか。

 私はその〝突発事故〟という用語が気に入りません。原因と結果の要素以外には何も働いていないからです。〝たまたま〟と思われるものも因果律の作用に過ぎないものです。再生の問題についてですが、これは大変複雑な問題で、もっと時間を頂かないと十分なお答えが出来ません。


───最後に・・・・・最近私はルドルフ・シュタイナーの本を読んだのですが、その中で彼は 〝死者へ向かって読んで聞かせる〟 という供養の仕方を説いております。この 〝読んで聞かせる〟 ことの効用についてご教示を仰ぎたいのですが。

 〝死者〟というのは何のことでしょうか。


───ですから、物的身体から離れて霊界へ行った人たちです。

 ああ、なるほど ! 私はまた、目の前に横たわっている死体に向かって読んで聞かせるのかと思いました。 (ここでシルバーバーチは独特の含み笑いをする)


───違いますよ!

 そうすることで一体どうなると言っているのでしょうか。(後注3)


───何人かの弟子達が他界した親類縁者へ向けて毎日かなりの時間、ある教えを読んで聞かせるというのです。それを聞くことで、その親類縁者の霊がよい影響を受けると考えているわけです。

 別に害はないでしょうが、たいして益になるとも思えません。こちらの世界には受け入れる用意のできた人なら誰でも知識が得られるように、たくさんの施設が用意してあります。受け入れる素地ができていなければ受け入れることはできません。それをそちらでしようと、こちらでしようと、それは同じことです。

そうでしょう、サム、師は弟子に応じて法を説くほかはないわけでしょう。(訳者注──原則的にはシルバーバーチの言っている通りかもしれないし、事実、霊界ではわれわれの想像を超えた規模で地縛霊の救済が行われているのであるが、それとは別に、愛着を覚える人間に意識的にあるいは無意識のうちに寄り添ってくる霊がいて、

その人間が考えていることや読んでいるものによって感化されるということは実際にあるようである。背後霊がそう仕向けるのである。

その意味からも私は、読経のように形式化するのは感心しないにしても、例えばシルバーバーチの名言を繰り返し読んだり祈りの言葉を声に出して唱えることは、自分の魂の高揚になるだけでなく、聞いてくれているかもしれない霊にとっても勉強になると考えている。

シルバーバーチは〝よくあなた方はご自分で想像しておられる以上に役に立っておられますよ〟と言っているが、それはそういう意味も含まれているのではないかと考えている)


───まったくおっしゃる通りです。では最後に、霊体への心霊治療についてお伺いします。医学では物的身体しか治しませんが、最近エーテル体(※)の治療を熱心に行っているところがあります。それは可能なこと、実際にありうることでしょうか。

(※ 霊的身体にも幾つかあるが、セオソフィ―などではその一つをエーテル体と呼んでいる。一方、英米の心霊家には肉体以外の身体を総合してエーテル体と呼んでいる人が多い。が、ここでは〝複体〟(ダブル)という肉体と幽体との接着剤にあたる半物質体のことを言っている。チャップマン氏の〝霊体手術〟も実際にはこの複体を手術している)

 本当の霊的治療の仕組みは至って単純です。人間は肉体をたずさえた霊であり、霊をたずさえた肉体ではありません。その肉体が健康を損ねる、つまり病的状態となって、その結果苦痛を覚えるようになったら、それは健康を保たせている調和あるいは円満性が崩れているという単純な事実の表われです。

また人間には霊と肉体だけでなく精神もあります。霊が自我を表現し肉体を機能させるための機関です。(別のところでは〝コントロールルーム〟のようなものと言っている)

 さて霊的治療においては大始源から発せられる霊的エネルギーが霊的な治癒能力を持つ治療家に送られ、それが治療家を通して今度は患者の霊へ向けて発射されます。

その仕組みは〝霊から霊を通して霊へ〟というふうに、至って単純に表現することができます。すべての操作が霊的なものなのです。

 霊は生命力ですから、不調和状態───調和を阻害している何か、障害となっている何かがあって精神と霊と肉体という三つの側面が有効に機能していない状態───を改善して調和状態を取り戻させようとします。それが効を奏すると、一体性つまり健康が患者に戻ります。

 それをエーテル体(複体)を通して行うか霊体を通して行うか幽体を通して行うかは、単なる技術上(テクニック)の問題に過ぎません。肝心なことは霊力が患者の霊を再充電して、本来の能力を取り戻させ調和を回復させることです。


───どうも有難うございました。

 ほかに質問はありませんね?(少し間を置いて)よろしい。それでは、これからサークルの皆さんにお一人ずつお話することに致しましょう(これがいつものしきたりで、個人的な相談を受ける。それは当然カセットでは省略されている)
 

───有難うございます。

 いえ、お礼はよろしい。私はお礼は頂戴しません。

 (個人相談が終わって閉会の祈り(ベネディクション)で締めくくる)

 私のすべての同志に対して、私からの愛の気持ちをお届したいと思います。その方たちの多くはまだ一度もお会いしたことがございません。しかし皆さんからお寄せくださる愛と好意の念を私はいつも有難く思い、それがあればこそこうして地上での仕事ができているという事実を知っていただきたく思います。

 これは容易ならざる仕事です。私はこれを一つの素晴らしい挑戦としてお引き受けしたのです。地上は冷ややかな世界です。荒涼として陰うつで暗い世界です。しかし、その中にあって私たちはそこここに愛と好意と友情の炉辺(ロバタ)を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことができております。

 また新参の方々には〝導きを祈り求めなさい。知識を祈り求めなさい。真理を祈り求めなさい。必ずや授かります〟と申し上げたいと思います。昔から〝求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん〟と言われておりますが、これはまさしく至言です。

 それではこれを(カセットで)お聞き下さる方々、ならびに本日ここにおいでの皆様にも、常に大霊の祝福のあらんことを(後注4)。


注1、直訳すれば「私に声をお掛けくださってありがとう」 となるが、ここはデニス氏個人ではなく交霊会の司会者としての挨拶と取るべきところ。

注2、直訳すれば 「欲望が物的であるという意味においての〝我〟を忘れないといけない」 となるが、裏返せば本文のようになる。

注3、この言葉には〝さっきの話ではその点が分からなかった〟というニュアンスが含まれている。

注4、原文では同じ文句のくり返しになっているが、すぐ前の言葉から、訳文のような気持ちで述べていることが推察される。                     

Saturday, November 16, 2024

シアトルの晩秋 人類の宿題 ー 地上天国の建設 

Mankind's Homework ── Construction of Heaven on Earth

シルバー バーチの霊訓

 科学技術の急速な発達は目を見張るものがあるが、最近の情勢を見ていると、それがうっかりすると今よりさらに恐ろしい戦争と破壊の凶器をこしらえることになりかねない気がする。人間の人間に対する非人間的行為が相変らず後を絶たない。

果たして完全に終止符が打たれる日が来るのだろうか。お互いが霊的に兄弟であり姉妹であるという認識のもとに暮らせる真に平和な時代が本当に来るのだろうか。殺し合いは避けがたい人間の宿命なのだろうか。戦争は正当化されうるものだろうか。霊界はこうした地上世界をどう見ているのだろうか。  

 本章はこうした問題についてのシルバーバーチの知恵に耳を傾けることにしよう。


───今日の世界の風潮、物的利益優先の考え、暴力、そのほか〝文明国〟と呼ばれる国においてますます増加しつつある恐ろしいことを憂慮する人たちへ何かメッセージをいただけないでしょうか。果たして希望はあるのでしょうか。

 大霊の御心は必ずや行きわたります、と申し上げます。人類の霊的革新及び動物問題の改善に関わる仕事にたずさわる者、無駄な苦しみから救い、残虐行為を止めさせ、いつどこにいても人の力になってあげる仕事に献身する者は、絶対に弱気になってはいけません、と申し上げます。


 地上天国はいつの日かきっと成就されますが、それはゆっくりとした段階をへながら、そして時には苦痛を伴いながら成就されてまいります。おっしゃるような暴力・混乱・衝突・戦争・残虐行為が増えつつあるのは、今地上世界がオーバーホール(修理・点検の為の全面的解体作業)の過程にあるからです。

 すでに多くの伝統的思想が葬り去られました。若者は自由を求めて騒ぎたてております。又、あまりに永いあいだ手枷足枷となってきた制度、しかも何の努力もしない一部の階層の特権をこしらえている制度に対する不満がもはや抑制できなくなっております。

 そうしたるつぼの真っ只中にいる人間にとっては、その背後の神の意図を読み取ることは難しいことです、しかし歴史を振り返ってごらんになれば、そこには段階的な進化の跡があることに気づかれるはずです。

 総体的にみて人類はかつてより親切心と寛容心が増え、その一方において偏見と残虐行為と抑圧政策がのさばっております。これは物的宇宙の進化の仕組みの一環なのです。つまり対立する勢力が激突して、そこからより良いものが生まれ、全体として進化していくということです。


 気を落としてはなりません。大切なのは霊的真理と霊力とが世界の多くの土地にしっかりとした足場をつくり、退却させられることがないようにすることです。それが至るところに恵み多い影響力を及ぼし、全体としてパン種の働きをしつづけます。

その影響力が浸透するにつれて暗闇と無知と愚行と蛮行を追い払い、地上世界を汚している醜悪と邪悪を駆逐していくことでしょう。

 明るい希望と楽観の根拠がいつでも十分に揃っているのです。なぜなら大霊の働きの休む時はないからです。


───われわれがスピリチュアリズムと呼んでいる神のメッセージが届けられたのも、その働きの現れだと私は思います。

 それでこのたびの大事業を敢行する決断が下されたのです。それも、これまでに幾度かあったような一時的暴発に終わらせてはならないということになっているのです。ですから、いったん根づいたものは徹底的に地固めが行われ、地上の永続的な要素となっていくことでしょう。


───地上世界は渦巻き状(スパイラル)に進化しているように思います。

 おっしゃる通りです。その渦巻の一ばん底は恐ろしい様相を呈していても上層部は実に明るい展望が開けております。落胆してはいけません。霊的知識を携えた者が絶望感を抱くようなことがあってはなりません。このことはすでに何度も申し上げてまいりました。大霊は宇宙創造の当初からずっと地球を管理しておりますから、次になすべきこともちゃんとご存知です。

 もう一つ別の側面もあります。人間社会のあらゆる分野で古い概念が覆され廃棄されていきつつあります。その多くはあまりに永いあいだ人間を迷わせてきた間違った概念です。これから徐々に愛と善の勢力が欲得づくの勢力と取って代わり、生活状態が改善されていくことでしょう。

 大切なのは取り越し苦労をしないということです。心配の念は私たち霊界から援助する者にとって非常に厄介な障害です。拒否的性質があります。腐食性があります。恐れ・心配・不安、こうしたものはその人を包む物的・精神的・霊的雰囲気を乱し、私たちが近づくのを一段と困難にします。

  真理を知った者は、それがわずかであっても───たとえ多くを知ったとて、無限の真理からすれば多寡が知れています───いついかなる事態に直面しても、穏やかで平静で受容的態度を維持すべきですし、又そう努力すべきです。

全生命に存在を与えている霊力より強力なものはないとの断固たる自信に満ちていなければなりません。

 何度でも繰り返し申し上げられる私からのメッセージがあるとすれば、それは〝心配の念を棄てなさい。そうすれば内部に静穏が得られます。内部が静穏になれば外部も静穏になります〟ということです。


───暴漢やチンピラによる被害が多くて、散歩に出るのにも防具を用意しなければならないのかと本気で考えている始末です。ぶん殴られて金を巻き上げられるのを許すわけにはいきません。そういう時はやり返すべきでしょうか。

 悪を大目に見たり暴力を助長することになってもよいということは絶対にありません。剣を取るものは剣にて滅ぶと申します。あなたの身体は霊が地上で自我を表現する唯一の手段ですから、それを守るのはあなたの義務です。が、そのことに限らず、地上生活に関わることはすべて自分の理性によって判断しなくてはなりません。

 ですから、ご自分で正当だと思う手段によって身を守ってよいことは言うまでもありませんが、同時にそうした愚かな若者、自分のしていることの理非曲直も弁えないほど道を間違えている若者のことを可哀そうに思う心も忘れてはなりません。

それは一種の群集心理、劣等感から生まれるヒステリー症状です。つまり自分たちの存在を認めさせる唯一の手段としてそういう態度に出て関心を引こうとする、幼稚な自己憐憫の情です。

 もとより私たちには暴力への同情心はひとかけらもありません。霊力は暴力という形では表現されません。霊力も常に冷静・平穏・安らぎ・落ち着いた自信の中で表現されるものです。そうした心理状態が調和を醸し出し、物質の世界と霊の世界との間の障害を取り除くのです。

 それとは反対に暴力は調和を乱します。激情を噴出させます。挙げ句にその反動が自分に戻ってきます。本人にとって何一つ良いことはありません。これも物質偏重思想の副産物です。

 暴力的になっているのは若者だけではありません。若者はその元気さゆえに衆目にさらされやすくて非難の的とされているだけです。暴力的傾向は私利私欲の追及に目がくらんで人間としての道を見失っている、病める地上社会の一症状です。

無明の中で、他人の幸福にまったく無とん着に、ますます暴力的になってまいります。しかもそれは人間どうしだけでなくて、可哀そうにも、何の罪のない動物にも向けられています。

それは若者が見せているような破壊的エネルギーがたまたまその方向へ切り換えられているにすぎないという考えは、大変な見当違いです。全体としての調和ということを考えないといけません。

他の存在への慈善(チャリテイ)の心を発揮するには貧乏人の存在が必要だという意見がありますが、そういうものではありません。仁愛の心があってはじめて慈善が施せるのです。哀れな人の姿を見ないと慈悲の心が生まれないというものではありません。

 若者がその持てる強烈なエネルギーを社会のために活用する分野はたくさんあります。不幸なことに、正しい指導を受けていない若者が多すぎるのです。が、正しい指導を受けた場合、そして又、霊的な動機づけから行動した場合は、大人が心を洗われる思いをさせられるようなことをやってのけます。

 若者が若者としてのベストを見せた時は、敬服に値するものを発揮します。道を誤ると手の施しようのないほど惨めなことになります。

 皆さんは暴力やテロ行為の生み出す陰惨さに巻き込まれないようにしないといけません。超然とした態度、俗世にあって俗世に染まらない生き方を心掛け、自分の霊的本性、神から授かった潜在的可能性を自覚して、せめて皆さんだけでも、小さいながらも霊の灯台となって、導きの光を放ってあげて下さい。


─── 戦争はどう理解したらよいのでしょうか。

 無限なる叡智と愛を具えた大霊は地球人類を創造するとともに、ある範囲内での自由意志を授けられました。同時に大霊は、人間が個的存在としていかに生きるべきかについての誤りない指標としての神性が開発されるように、人類全体の霊と精神と身体とに配剤なさっております。

 大霊は人間をただの操り人形───選択する自由も力も持たない、機械仕掛けのような存在にすることもできたのです。が大霊は自由意志を与えて下さいました。しかし自由意志があるということは、同時に自分の行為への責任もあるということになります。

 あなたは〝善いこと〟をしてもいいし〝悪いこと〟をしてもいいのです。善と悪とは一つのコインの表と裏のようなものです。愛と憎しみ、光と闇、嵐と静けさもそうです。これを両極性といいます。そのどちらを選ぶかにあなたの選択権があるということです。

 そこで戦争のことですが、あなたはその動機に立ち帰って、こう自問するのです───〝なぜ戦争をしなくてはならないのか〟〝両者が共通して求めているものはいったい何なのか〟 〝それは互いに相手を支配することなのか〟  

 そうした問いにあなた自身が考えて答えを出さないといけません。所詮はあなた方の世界です。パラダイスとするも地獄とするもあなた方人間次第です。どちらかを選ぶ自由と、どちらにもできる手段を具えているからです。

───私個人にはできません。一人の人間ではどうしようもありません。

 〝個〟が集まって地上人類全体ができ上がっているのです。一人でも多くの〝個〟が貪欲と強欲と残虐と横暴を止めれば、その数だけ平和に貢献するのです。あなたはあなたの生活、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念に責任を負うのです。

他人のしたことで償いをさせられたり報酬を受けたりすることはありません。それが摂理なのです。

 平和を求めて祈り、霊界の高級霊の道具として協力しようとなさる努力は必ず報われます。人間の協力を得てはじめて霊力を地上へ届け、戦争や暴力行為、その他、地上の文明を混乱させ存在を脅かすものすべてに終止符を打たせることができるのです。


しかし、これより先もまだまだ地上から戦火の消えることはないでしょう。なぜなら、人類全体が一つの巨大な霊的家族であるという、この単純な真理が未だに理解されていないからです。

肉体は撃ち殺せても霊は死ないのです。この事実が世界各国の国政をあずかる人たちによって理解され、その関連分野を通じて実行に移されるようにならないかぎり、戦争の勃発は避けられないでしょう。

 人間が人間に対して行う非人間的行為に対して、私たちは何の責任もありません。これは因果律の働きが片付ける問題です。もちろん人類にとって〝より良き時代〟は到来します。

是非ともそうあらねばなりません。が、失望のドン底から一気に幸福の絶頂へと一夜の内に転換するようなわけにはまいりません。一歩一歩の段階的過程をへるほかはありません。

 霊的真理を理解する人が増えるにつれて、その知識にのっとった生き方をする人が増え、その人たちの生活が依存している各種の制度も、霊と精神と身体がその幸福と成長と成熟にとって必要な体験が得られるように改善されていくことでしょう。

 あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられる霊的思想が前世紀(一八四八年)に勃興したのもそこに目的があります。それはかつてのように突発的ですぐに立ち消えになるようなものではなく、総合的な計画のもとに行われて、すでに霊力は完全に地上に根づいております。
 
これからもその前線基地は誇張しつづけ、ますます多くの人間がその恩恵に浴することになるでしょう。

 ある人は〝黄金時代〟と呼び、ある人は〝地上天国〟と呼んでいるものは、いつかは成就されます。それまでにどれほどの時が掛かるかは、私の口からはあえて予言しないでおきましょう。ただ、物的進化が絶え間なくその目的を果たしつつあるように、それと併行して霊的進化もそれなりの役割も果たしつつあることを申し上げておきます。


───人間はどの程度まで殺すことが許されているのでしょうか。

 〝許されている〟という言い方は感心しません。確かに人類には自由意志が与えられておりますが、それは条件つきであり制約があります。やりたいことは何をやってもよいという意味での、無制約の自由ではありません。

 そもそも自由意志の授与は、人間が大自然の創造の過程に参加し、大自然の摂理と調和して生き、健康と理解と悟りを得て天命を全うするための神の計画の一環なのです。そうでなかったら進化も発展もありません。

 自由意志がなかったら皆さんは成長と進化のチャンスのない、ただの操り人形となってしまいます。せいぜいロボットのような行動しかできません。が、自由意志があるということは、その行使の仕方に責任を持たねばならないということになります。

 殺すという行為は、たとえやむを得ない事情はあるにしても、いけないことであることは明らかです。生命を与える力はないのですから、奪う権利もないはずです。が、酌量すべき情状というものがあることも事実です。

 霊的に進化するにつれて人間は、霊的実在についての知識を基盤とした明確な原理にのっとって生きなければならないことを自覚するようになります。所詮完璧な生き方は望むべくもありませんが、改善の余地は大いにあります。

 地球は生命活動の場の一つに過ぎません。これからもっともっと多くの生活の場を体験することになっております。

それが永遠に続くのです。地上生活なんかいい加減に送ればよいと言っているのではありません。あなたが送るべき全生活のほんのひとかけらに過ぎないことを申し上げているのです。

 その地球をよりよい生活の場とするために努力なさってください。地球は宇宙の惑星の中で最も進化の程度の低い部類に属します。が、それなりの進化の目標があります。

同時に、進化とは永遠の過程でもあります。完全ということは永遠に達成できないのです。なぜなら、完全に近づけば近づくほど、その先にまだ達成すべきものがあることを知るからです。


───(ゲストの一人)われわれスピリチュアリストは形骸化しつつある古い宗教と対決し反抗することに多大な時間とエネルギーを注ぎ込んでいるようですが、もう一つの宗教である───信奉者は宗教と呼ばれることを拒否なさるかも知れませんが───マルキシズムないしはコミュニズム(共産主義)についてはまったく言及しておりません。

今では少なくとも思想上の共鳴者は人類の三分の一にも達しています。既成宗教のいずれよりも遥かに頑強で、その影響力は強烈です。これこそ純粋な唯物観を説いている点で、われわれの本当の敵ではないかと思うのですが・・・・・


 コミュニズムというのは何のことでしょうか。

───マルクスとレーニンとエンゲルスの著作をもとにした政治的、経済的、ならびに社会的思想と言ってよいかと思います。

 もしもコミュニズムが真の協調性を意味し、階級上の差別もなく、住民がお互いに助け合う心をもった社会のことであるとすれば、現在の地上世界で思想的にコミュニズムを標榜している国家には、そういうものは存在しておりません。私の言わんとするところを明確に述べてみましょう。 

 地上社会の問題のそもそもの根源はマテリアリズム(物質偏重・唯物思想)にあります。皆さんはそれと真っ向から対立するスピリチュアリズムを提唱し唱道なさっているわけです。そして霊が実在であることが単なる理論ではなくて事実であることの証拠を提供しております。

私と同じく皆さんは、ナザレのイエスをリーダーとする神庁の霊団によって考案された霊的大計画の一環として、霊力を地上へ送り届けるだけでなく、そこにしっかりと根付かせ、いかなる地上の勢力がたとえ束になってかかっても、それを駆逐できないようにするために、本日もこうして集まっているわけです。

 今まさに世界中にそのための霊的橋頭保が設営され地固めされつつあります。それはさらに多くの橋頭保を築くためです。霊力はすでに地上にしっかりと根付き、その恵み深い影響力を発揮しております。公的には禁じられている国々においてすら働いており、これからも働き続けます。
                       
 皆さんは明日のことを思い煩う必要はどこにもありません。最善を尽くして私たちに協力してくださればよいのです。そのうち徐々にではありますが、地上のガンである物欲が除去されていきつつあることに気づかれるでしょう。


───(もう一人のゲストが息子から依頼された質問として)〝共産主義者(コミュニスト)の指導霊〟というのも存在するのでしょうか。

 そういう質問をされて私がどういう受け取り方をするかを説明しますので、しっかりと理解してください。

 私はラベルというものにはまったく関心がありません。私にとっては何の意味もありません。地上世界ではラベルが大切にされます───共産主義者、社会主義者、保守党、労働党、スピリチュアリスト、セオソフィスト、オカリスト、等々、挙げていったらキリがありません。

しかし、大切なのはラベルではなく、その中身です。コミュニストという用語の起源は、物的財産は共有するのが正しいと信じた遠い昔にさかのぼります。それ自体はとても結構なことです。

 いかがでしょう。有り余るほど持っている人が足りない人に分けてあげるというのは公正なことではないでしょうか。教師というのは持てる知識を持たざる生徒に譲ってあげようとする人のことではないでしょうか。

 分かち合うというのは立派な原理です。私たち霊がこうして地上へ戻ってくるそもそもの目的も、やはりそこにあります。皆さんは私たちから学び、私たちは皆さんから学ぶということです。

 聖書にも〝地球とそこにあるものすべては主のものなり〟(コリント①10・26)とあります。これは人間は地上のものは何一つとして所有できない───自分のものとはなり得ないことを意味します。地上にいる間だけリースで所有しているようなものです。永遠に自分のものではありません。

地上のゴタゴタは皆が自分がいちばんいいと思うものを少しでも多く自分のものとしようとする───いちばん悪いものを欲しがる者はいません───そこから生じております。その結果として強欲、貪欲、私利私欲が王座に祭り上げられ、物欲第一主義が新しい神として崇拝されることになります。

 地上には物欲優先の副産物が、見るも痛ましいほどはびこっております。悲劇・卑劣行為・飢餓・栄養失調・残虐行為・動物実験、こうしたものはすべて物欲を優先させることから生じる恐ろしい産物です。

 みんなで分け合うという理念は結構なことです。共産主義者(コミュニズム)という用語そのものに怯えてはいけません。初期のクリスチャンには全財産を共有し合った時期が、少しの間でしたがありました。ということは彼らのことをコミュニストと呼んでもよいことになります。

 一つの理念をもつことと、それを実現するために拷問や抑圧や迫害や専制的手段を用いることとは別問題です。そこに大事な違いがあります。

 ですから、ご質問に対するお答えは、大霊の恩恵を惜しみなく分かち合うべきであると信じて働いているコミュニストの指導霊はいます、ということになります。そこに何ら問題とすべきものはないと思います。
   
           ※ ※

 別の日の交霊会で戦争がもたらす地上と霊界双方の弊害について語る───

 私たちは霊界が再び傷ついた魂の病院となるのは御免こうむります。こうして地上の皆さんとともに仕事をしている私たちから申し上げたいことは、皆さんは私たちがお教えしていることのすべてを地上生活に摂り入れていくだけの用意ができていなければならないということです。

 私たちが代わりにやってあげるわけにはいかないのです。私たちには人間のしている間違ったことがもたらす結果が分かります。地上でそういうことをしていたら霊界へ来てからこうなりますよ、ということをお教えすることしかできません。

 そのことをわざわざこうして地上へ戻ってきて教えねばならないのは、戦争のもたらす結果が破綻と害悪でしかないからです。霊界へ送り込まれてくるのは霊的に未熟な魂ばかりです。

言ってみれば、熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。地上で使用していた肉体という表現機関を破壊されて分別を失った魂を一体なぜ私たちが癒やしてあげねばならないのでしょうか。

人間が人間としての義務を果たさないがために霊界へ送られてくる未熟な魂の世話をしに、一体なぜ私たちが巡礼の旅先からこの地上へ後戻りしなければならないのでしょうか。

 もしも私たちに愛の心がなければ、つまりもしも大霊の愛が私たちを通して表現されなかったら、こうして同じ大霊の子である地上の皆さんと交わるようなことはしていないでしょう。

どうか私たちの説く真理を唯一の判断の基準として私たちを裁いて下さい。〝あなたの教えは間違っている───われわれの常識に反するから〟などという幼稚なことを言ってはなりません。 

霊界にとっての迷惑はさておいても、地上での戦争を正当化することが許されるわけがありません。物質的な面にかぎってみても、ただ破壊するのみです。

霊界にとっても正当化の根拠はありません。なぜならば、神の摂理への干渉にほかならないからです。霊はその機が熟した時に肉体から離れるべきであるとの摂理に、よくも平気で逆らえるものだと呆れます。

 皆さんもかくあるべきという原理を何としても擁護しなくてはなりません。分別のない人たちに霊の仕事の邪魔を許してはなりません。ご存知でしょうが、進歩と平和と調和を求めて戦う私たち霊団の向こうを張って、それを阻止せんとする組織的な活動をしている邪霊集団もいるのです。(章末注参照)

 地上世界は人類というものを民族別に考えず、すべてが大霊の子であるという観点から考えないといけません。障壁をこしらえているのは人間自身なのです。大霊ではありません。大霊は人間の一人ひとりに神性を賦与しているのです。したがって人類の全てが大霊の一部なのです。

 地上は建設すべきものが山ほどあるというのに、上に立つ〝お偉方〟はなぜ破壊することばかりしたがるのでしょう。大霊はそうした人間の行為のすべてを規律的に治めるための摂理を用意しております。

それに干渉するようなことをしてはなりません。逆らったことをすれば、その結果は破壊と混乱でしかありません。そのことは(世界大戦で)目のあたりにしたばかりではないでしょうか。

 ここにお集まりの皆さん方の一人ひとりが積極的にその影響力を行使して、大霊の計画の推進のために尽力する人たちを先導していただきたいのです。大霊が流血を望まれると思いますか。

戦争による悲劇、苦痛、失業、飢餓、貧民窟を大霊が望まれると思いますか。子等が味わえるはずの恵みを奪われて喜ばれると思いますか。戦争で親を奪われて、幼な子が路頭に迷う姿を見て大霊が喜ばれると思いますか。

 殺意が芽生えた時、理性が去ります。人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残りとしての獣性もあります。人間としての向上進化というのは、その獣性を抑制し神性をより多く発揮できるようになることです。獣性が優勢になれば戦争と衝突と殺人が横行します。

神性が発揮され、お互いに援助し合うようになれば、平和と調和と豊かさが得られます。

 地上世界を国別、民族別に考えてはなりません。すべてが大霊の一部であることを教えないといけません。みんな大霊の子なのです。海で隔てられていても大霊の前では兄弟であり姉妹なのです。私たちの教えは単純です。しかし真実です。自然の摂理に基づいているからです。
  
摂理を無視した方法で地上世界を築こうとすると混乱と無秩序が生じます。必ず破綻をきたします。

 忍耐強い努力と犠牲を払わないことには、これからも数々の戦争が起きることでしょう。タネを蒔いてしまった以上は、その産物を刈り取らねばなりません。因果律はごまかせないのです。

流血の争いというタネを蒔いておいて平和という収穫は刈り取れません。他国を物理的に支配せんとする欲望の張り合いをしながら、その必然の苦い結果を逃れるわけにはまいりません。

 愛のタネを蒔けば愛が実ります。平和のタネを蒔けば平和が実ります、互助のタネを地上の至る所に蒔いておけば、やがて互助の花が咲き乱れます。

 単純な真理なのです。あまりに単純すぎるために、かえって地上の“〝お偉方〟を当惑させるのです。


───〝大戦〟(※) で戦死した人たちの犠牲は何一つ良い結果を生み出さなかったのでしょうか。(※英語で〝大戦〟Great War という時は第一次世界大戦のことをさすが、ここでは第二次大戦も含む戦争一般のこととして訳したー訳者)

 何一つありません。今の世界の方が〝偉大なる戦争〟勃発以前よりさらに混とん状態に近づき、破壊が増しております。


───数多く見られた英雄的行為が無駄に終わってしまうこともありうるのでしょうか。霊的に何の報いもないのでしょうか。

 その犠牲的行為をした当事者個人にはあります。動機が正しかったからです。ただ忘れないでいただきたいのは、そうした英雄を後世の人間が裏切っていることです。犠牲を無駄に終わらせています。その原因は相変わらず物的欲望を優先しているからです。


───毎年のように〝終戦記念日〟の催しがありますが、少しは役に立っているのでしょうか。

 たとえわずか二分間であっても、まったく思い出さないよりはましでしょう。が、その日をライフル銃と銃剣と花火という、戦争で使用する軍事力の誇示で祝って、いったいどうなるというのでしょう。何か霊的な行事で祝えないものでしょうか。


───同じ日にスピリチュアリストの集会で行っている記念行事を続けることには賛成なさいますか。

 真実が表現されているところには必ず価値あるものが生まれます。説教も奉仕的精神を生むものであれば結構です。ただ聴くだけで終わる説教では無意味です。聴衆をいかにも平和の味方であるかの気分に浸らせるだけのキザな説教ではいけません。

 私が望むのは実際の活動を生み出すような説教、人のために役立つことをしたいと思わせるような説教、弱者に勇気を与えるような説教、喪の悲しみに暮れる人を慰めてあげるような説教、住む家さえない人たちの心の支えとなるような説教、物質界の汚点である虐待行為のすべてに終止符を打たせるような説教です。

 お互いがお互いのためになることをする以外に平和の道はありません。すべての人間が互助の精神に満たされ、人のためになる行為を実践するようになるまでは、平和は到来しません。これまで続けられてきた終戦記念日も、今日では次の戦争の準備のための小休止でしかありません。


───不戦主義(兵役拒否)の運動に賛成なさいますか。
 
 私はどの〝主義〟にも属しません。私にはラベルはありません。名目に惑わされはいけません。その目的としているものは何か、何を望んでいるのか、そこが大切です。なぜなら、敵と味方の双方に誠実で善意の人がいるからです。

 私たちの教えは至って単純ですが、それを実行に移すには勇気がいります。一つの糸口をつかんだら、つまり霊的真理を知ることによって覚悟を決め、物的生活のあらゆる事柄に奉仕と無私の精神で臨めるようになれば、地上に平和と和合が招来されます。

 それは主義・主張からは生まれません。神の子がそうした精神の真実性を悟り、それを日常生活において、政治活動において、工場において、政府機関において、あるいは国際政策において応用していくことによって初めて実現されるのです。

 私たちにできるのは、これこそ真実に基づいていると確信した原理を説き、それを応用すれば、必ずや地上世界に良い結果がもたらされることを自信をもって申し上げるのみです。

 その地上世界にいるのはあなた方です。最後の責任はあなた方にあります。しかし皆さんが人の道を誤ることさえなければ、私たちも精一杯の愛と厚意をもって導き、万全の協力を惜しまないことだけはお約束します。

訳者注───私が〝英国の三代霊訓〟と呼んでいる 『シルバーバーチの霊訓』 と 『ベールの彼方の生活』 と 『霊訓』のうち、邪霊集団の存在についていちばん強く説き警告しているのは 『霊訓』 である。その中から参考とすべき箇所を部分的に紹介しておきたい。通信は自動書記によるインペレーターからのもの。

≪すでに聞き及んでいようが、今汝を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われわれ霊団と邪霊集団との反目であり、言い替えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせんとする働きとの闘いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。

 逆行派の軍団には悪意と邪心と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによって煽られる者もいれば、真の悪意というよりは悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。

要するに程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われわれをはじめとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。

 汝にそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状が汝の肉眼に映らぬからのようである。となれば汝の霊眼が開くまでは、その大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。

 その集団に集まるのは必然的に地爆霊、未発達霊の類である。彼らにとって地上生活は何の益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとっては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的な喜びには何の反応も示さぬ。

かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつき回り、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。(中略)

 一方、人間の無知の産物たる死刑の手段によって肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつき回り、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ───その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼らはその哀れなる犠牲者なのである───を抱き、

その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪をそそのかし、自分が犠牲となったその環境の永続を図る。(中略)

 かくの如く地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上へ舞い戻るこうした邪霊は、当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。

 久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖純にして善良なる霊に変わりうるであろうか。肉欲の塊りが至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるであろうか。それがあり得ぬことぐらいは汝にも分かるであろう。

 彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍とともに、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗にあうのは彼らの存在のせいであり、汝にそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し、彼らに攻撃のスキを見せることがあってはならぬ≫