霊界から届けられた通信の内容に、時おり矛盾が見出されることがある。その原因とそれが及ぼす影響の大きさは表裏一体の関係にあるようである。
その意味は、我々はともすると霊界を平面的に想像して、霊の言うことならみな同じであるものと考えがちである。が、霊の世界の実情が分かってみると、地上界に近い最低の界層から、物的束縛から完全に解脱した超越界に至るまで、事実上無限の階梯があって、上層界へ行くほど広い視野から眺めるので誤りが少なくなるが、地上の人間に通信を送るのは低界層の霊が多いので視野が狭く、それだけ誤った認識も多くなり、結果的には矛盾点も多いことになる。
では、そうした玉石混交の中にあって本物と偽物、上等と下等を見分けるにはどうすればよいか――本章はその点に的をしぼった質疑応答を集めた。
―同じ霊が二つの交霊会に出て述べたことが矛盾することが有り得るでしょうか。
「その二つの交霊会が思想的に異質であれば支配している霊団が異なるわけですから、その伝達した通信が枉(ま)げられることがあります。通信霊は同じことを述べていても、霊媒を通して届けられるまでに、その場を支配する波動で内容が脚色されるのです。」
―その場合は理解できるのですが、二つの交霊がともに高級霊団によって指導されていて、しかも出席者も真摯な真理探求者である場合でも、高級霊の述べることが食い違うことがあるのはなぜでしょうか。
「その霊団が本当に高級霊団であれば、その言説に矛盾撞着は有り得ません。交霊会の出席者とその場の雰囲気で表現方法に違いが生じることがあっても、実質的には同じことを述べているはずです。仮に矛盾していても表面上のこと、つまり言説よりも述べ方の違い程度にすぎません。じっくりと読めば基本的には同じことを述べているはずです。
しかし、出席者の霊格の程度によっては同じ霊でも違った答え方をすることは有り得ます。例えばあなたが幼児と科学者から同じ質問をされたとします。あなたはその二人に同じ答え方をしますか。それぞれに理解しやすい形で答えるはずです。そして質問者はそれぞれに納得するでしょう。ところが表面上は二つの答え方は全く異なります。それでいながら本質的には同じことを述べていることだってあるわけです。」
―真面目と思える霊がある思想、時には偏見と思えるような言説を、相手によって適当に言い換え、完全に食い違うようなことすらあるのですが、これはどう理解すればよいでしょうか。
「私たちは出席している人間の理解力の程度に応じて表現を変えなければならない立場にあります。例えば何らかの教説について絶対的な信念を抱いている人を相手にした場合、仮にそれが誤りであっても、それを頭ごなしに論駁せずに、穏やかに、そして徐々に改めさせようとします。すると当然その人の信仰の用語を借用し、その教説に共鳴するところがあるかのような印象を抱かせることもします。そうやって相手をムキにならせず、次の会にも出席しようという気持ちにさせるわけです。
間違った先入観に急激なショックを与えるのは賢明とは言えません。そういうことをすると、それっきりこちらの教説に耳を傾けなくなります。そこで我々としては、あらぬ反発を買わないように、出席者の信仰に理解を示す態度で臨むわけです。
さらに言えば、人間から見て矛盾しているかに思えることでも、同じ真理を偏った角度から表現しているにすぎないことがよくあるものです。スピリチュアリズムに係わっている霊団にはそれぞれに大霊からの割り当てがあり、こうして授ける通信が効率よく受け入れられ霊性の進化を促すような方法と状態を工夫して、それぞれの役割分担を遂行しなくてはならないのです。」
―たとえ表現上の違いにすぎないとは言え、矛盾した言説は人によっては疑念を生じさせます。そういう矛盾した通信を正しく理解して、これが真実だという確信を得るにはどうすればよろしいでしょうか。
「真実と誤りとを選り分けるには、手にした通信の内容を時間をかけてじっくり検討することです。そこにはこれまでになかった新しい知識の世界が広がっています。まったく新しい考究課題であり、したがって時間と努力を要します。何でもそうですが……。
その言わんとするところを真剣に考究し、他と比較検討し、奥の奥の核心に至る――真理というものはそれほどの代償を払って初めて手にできるものなのです。考えてもごらんなさい。これまでの狭い通念を後生大事にし、それに照らして簡単に片づけるだけで、どうしてスピリチュアリズムという果てしなく広大な真理の世界が理解できますか。
こうした霊的教訓が世間一般に広まる日はそう遠い先の話ではありません。本質だけでなく、枝葉末節に至るまで、矛盾撞着のない形で広まることでしょう。が、現段階においては、これまでの誤った概念を打破することがスピリチュアリズムの使命です。それも、一つ一つ片づけていくしかないのです。」
―そうした深刻な問題に深く係わる時間も欲求もない者がいる一方には、霊の言うことは何でも彼でも信じる者もいます。そのような形で間違ったものを受け入れていくことは性格に害を及ぼさないでしょうか。
「その人がそれでいいと思うのであればそうすればよろしい。いけないと思えばやらなければよろしい。この自由意志の原理には例外はありません。アラーの神の名のもとであろうとエホバの神の名のもとであろうと、良いものは良い、悪いものは悪いのです。宇宙には大霊という名の神しかいないのですから。」
―知的には相当なレベルと思われる霊でも、問題によっては明らかに間違った考えを抱いていることがあるのは、どうしてでしょうか。
「人間と同じで、霊も独断と偏見を抱いているものです。自惚れて実際よりも賢いつもりでいる霊は、真理についてよく間違った考えや不完全な概念を抱いているものです。人間と少しも変わりません。」
―矛盾した説の中で最も顕著なのが“再生説”です。再生が霊にとって必要不可欠のものであれば、なぜ全ての霊が同じ説を説かないのでしょうか。
「あなたは、霊も人間と同じで、今の自分のことにしか思いが及ばない者が大勢いることをご存じないのですか。現在の自分の感覚だけで物事を捉え、今の状態が永遠に続くと思っているのです。そうした感覚の範囲を超えた先のことまでは思いが至らず、自分は一体どこから来たのか、この後どこへ向かって行くのかといった観念は浮かばないのです。
しかし、摂理は逃れられません。再生するということを知らなくても、再生すべき時機は必ず到来します。その時になって初めて再生があることを知ります。が、そういう霊的進化の仕組みについては何も知りません。」
―未熟な霊には再生問題が理解できないことは分かりました。ただ、そうなると、霊的にも知的にもどうみても低いと思われる霊が自分の前世の話を持ち出して、その間の不行跡を償うためにもう一度再生したいと思っていると述べたりするのは、どう理解したらよいでしょうか。
「霊の世界の事情には地上の人間には理解し難いことが沢山あります。具体的には説明しにくいのですが、例えば地上でも、ある分野の事に関しては造詣が深いのに、別の分野の事については皆目知らないという人、あるいは学問は無くても直観力は鋭い人、判断力は乏しくてもウィットに富んだ頭脳の持ち主など、いろいろなタイプがいるのと同じです。
それに加えて知っておいていただきたいのは、霊の中には自分の優位を保ちたいという浅はかな根性から、人間にわざと教えないでおこうとする者もいることです。つまり人間から真剣に論議を挑まれたら自分の優位が崩れることを知っているので、それを意図的に避けようとして、巧妙に議論をスリ抜けるのです。
むろんそれは低級霊の場合です。が、高級霊による慎重な配慮の結果として、たとえ真理であっても、現段階で急激にそれを広めることはいたずらに目を眩ませるだけで賢明でないとの判断から、わざと差し控えることがあるということです。そして、時と場所と出席者のレベルに応じて小出しにします。
モーセを通して語られなかったものをキリストが語り、そのキリストを通してさえ時期尚早ということで後世へ持ち越されたものがあります。
あなたの疑問は再生が真実ならばなぜ世界の各民族で早くから説かれなかったのかということのようですが、よく考えてみてください。仮に肌の色による差別と偏見の激しい国で説いていたら大変な反発を買ったことでしょう。なぜかはお分かりでしょう。短絡的に受け止める者は、今奴隷の身にある者は来世では主人となり、今主人である者は奴隷となるのだと考えて、怪しからん説だということになるに決まっています。
まずは霊界と現界との間にも交信が可能なのだという基本的事実から始めて、徐々にそうした倫理・道徳の思想的問題へと進めるのが賢明です。大霊の配剤について人間はなんと近視眼的なのでしょう! 大霊の認可なしにはこの宇宙に何一つ発生しないのです。人間には到底推し量ることのできない深遠な叡智があるのです。
すでに述べたことですが、改めて申し上げておきます。スピリチュアリズムの思想はいつかはきっと地球上にあまねく広まります。今は統一性がないかに見えても、人間の霊性の発達とともに徐々にその食い違いは少なくなり、最後は完全に消えて失くなることでしょう。そこに大霊の意思が働いており、究極的にはその意思が成就されます。」
―誤った教説はスピリチュアリズムの発展を阻害しようという策略から行われているのでしょうか。
「人間はとかく困難もなく手間取ることもなく物事が運ぶことを求めがちです。しかし、よく考えてごらんなさい。どんなに立派な庭にも必ず雑草が生え、きれいに保つには一本一本それを手で抜き取らないといけません。誤った教説は地球人類の霊性の低さが生み出す雑草のようなものです。もしも人類が完全であれば高級霊しか近づかないでしょう。
誤りというのは、言うなれば偽のダイヤモンドのようなものです。見る目のない人間には本物に見えるでしょうが、見る目をもった者にはすぐに偽物と分かります。その見分け方を学びたければ年季奉公に出るしかありません。考え方によっては偽物の存在にも意味があるのです。本物と偽物とを見分ける判断力を養う良い試金石です。」
―でも、偽物を信じた者はそのことで進歩が阻害されるのではないでしょうか。
「そういう気遣いは無用です。そもそも偽物をつかまされるようでは本物を見る目がないということです。」
―スピリチュアリズムの実践面でのいちばん不愉快な障害は、そうやって霊に担(かつ)がれることです。これを避ける手段はないものでしょうか。
「それに対する回答はこれまでにお答えしてきたことで十分だと思いますが……方法はあります。しかも極めて簡単です。要するにスピリチュアリズム本来の目的に徹することです。そして、その目的とは人類の霊的啓発、これに尽きます。これを片時も忘れないようにすれば、邪霊にたぶらかされるようなことは決してありません。それこそが真実の人の道だからです。
高級霊は人のために役立つ仕事のためには大いに援助しますが、名誉心や金儲けといった情けない人間の野心の満足のためには絶対に手を貸しません。そういう他愛もないことや人間に伝えることを許されていない事柄についてしつこく要求しないかぎりは、邪霊集団に操られるようなことにはなりません。こうした事実からも、低級霊に騙されるのは騙されるようなことをしている人間に限られるということがお分かりになるはずです。
霊団の仕事は世俗的問題に関するアドバイスを授けることではありません。地上人生を終えた後に訪れる霊的人生に自然に順応するための生き方を指導することです。もちろん世俗的問題に言及することがありますが、それはその時点で必要性があると見なしたからであって、そちらからの要請に応じることは絶対にないと思ってください。霊界通信を運勢判断や魔術と同種のような受け止め方をしていると、低級霊につけ入られます。
また霊界の知識の蒐集のようなことにばかり偏っていると霊的存在としての自由意志が硬直してしまい、大霊によって意図されている人間としての進むべき進化の道を歩めなくなってしまいます。人間は自らの意志で“行為”に出なくてはいけません。こうして我々が地上へ派遣されるのは人間の歩む道を平らにならしてあげるためではありません。来るべき霊的生活に順応するための準備を手助けしてあげるためです。」
―ですが、こちらから世俗的問題を持ち出したわけでもないのに、霊の方から言及してアドバイスを与えてくれて、それに従ったらとんでもないことになった人もいますが……
「そちらから持ち出さなかったとしても、交霊会でそんな俗っぽい問題を霊側が持ち出したという点が問題です。そちらからそれを許したということであって、結果的には同じことです。それを鵜呑みにせず理性的に疑ってかかる態度で臨み、霊界通信の本来の在り方に徹すれば、そう簡単に担がれることはないはずです。」
―真面目な求道者(ぐどうしゃ)がそういう形で担がれることを神はなぜ許すのでしょうか。せっかくの確信をわざと崩すように計算されているみたいです。
「その程度のことで崩れるような信念ではまだ本物とは言えません。そのことでスピリチュアリズムに愛想をつかすようであれば、それはまだスピリチュアリズムを真に理解していないことを示しています。張りぼてだったということです。その種のたぶらかしは、一つには忍耐力の試金石であり、一つには交霊会をご利益の手段に利用する者への懲罰です。」
(完)
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