Tuesday, January 31, 2023

シアトルの冬 畏敬と崇拝と愛、 reverence and worship and love,

モーゼス「霊訓」

 

〔繰り返し反論してきた問題───これまで再三言及してきたもの───が八月三十一日になってようやく本格的な回答を得た。〕

 これまでにも言及しながら本格的に扱わずにおいた問題について述べたく思う。汝はわれらの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めなく、実体が感じられぬという主張を固持し、それを再三に亙って表明してきた。

汝の主張によればわれらの教説は徒に古来の信仰に動揺をもたらし、それに替る新たなる合理的信仰を持ち合わせぬという。その点に関してはこれまでも散発的に述べることはあったが、それが大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に述べたことはなかった。それをこれより可能なかぎり述べることとする。

 まずわれらは全創造物の指揮者であり、審判者であるところの宇宙神───永遠の静寂の中に君臨する全智全能の支配者から説き始めるとしよう。その思考の尊厳の前にわれらは厳粛なる崇敬の念をもって跪(ひざまず)くものである。その御姿を拝したことはない。

また御前(おんまえ)に今すぐ近づこうなどとも思わぬ。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、汝らの時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることであろう。それはもはや限りある数字では表せぬであろう。

 しかしたとえ拝したことはなくとも、われらはその御業(みわざ)を通じて神の奥知れぬ完璧さをますます認識する。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりである。それは汝には叶わぬことであるが、われらは無数の方法にてその存在を認識することを得ている。地上という低き界層には届かぬ無数の形で認識する。

哀れにも汝ら人間はその神の属性を独断し、愚かにも汝らと同じ形体を具えたる神を想像しているが、われらはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し感得している。われらとの繋がりの中に優しさと愛を感得するのである。

 過去を振り返れば、慈悲と思いやりに満ち溢れていることを知る。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われている。未来は・・・・・・これはわれらは余計な憶測はせぬ。

これまでに身をもって味わえる力と愛の御手に全てを託す。詮索好きな人間が好んでするが如き、己の乏しき知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯さぬ。神への信頼があまりに実感溢れるものであるが故に、敢えて思案をめぐらす必要を感じぬのである。

われらは神の為に生き、神に向いて生きていく。神の意志を知り、それを実践せんとする。そうすることが己自身のみならず、全ての創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信じるからである。そうすることが神に対する人間としての当然敬意を表明する所以であり、神が嘉納される唯一の献上物なのである。

われらは神を敬愛する。神を崇拝する。神を敬慕する。神に絶対的に従う。が神の御計画に疑念を挟み、あるいは神秘を覗き見するが如き無礼はせぬ。


 次に人間についてであるが、われらは未だその知るところの全てを語ることを許されておらぬ。徒に好奇心を満足させることも、あるいは、汝の精神を惑わせることにしかならぬ知識を明かすことも許されておらぬのである。

人間の霊性の起原と宿命───いずこより来たりいずこへ行くか───については、いずれ汝にその全てを語るべき時期が到来することを信じるに留めておいて貰いたい。差し当たっては神学が事細かく語り広く受け入れられているところのアダムとイブの堕罪の物語は根拠なき作り話であることを知られたい。

恐らく汝らキリスト者においても、これにまともな思考を巡らせた者ならばそのような伝説に理性がついていけぬのが正直な事実であろう。差し当たっては人間が物質をまとえる霊魂があることを認識し、支配する神の法則に従って進歩していくことこそが地上での幸せと死後の向上を導くことを理解すべく努力することである。

遥か遠く高き世界のこと───洗練され浄化され尽くせる霊のみが入ることを許される天界のことは、ひとまず脇へ置くがよい。その秘奥はかぎりある人間の目には見ることを得ぬ。天界への門扉は聖なる神霊にのみ開かれる。そして、いつの日か十分なる試練と進化の暁に、汝もその列に加えられる日もきっと来ることを信ずればそれでよい。

 それよりも今の汝には、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要であろう。人間は汝も知る如く一時期を肉体に宿れる〝霊魂〟なのである。霊体を具えた霊魂であり、その霊体は肉体の死後もなお生き続ける。

そのことについては聖書でも述べられている。仔細の点には誤りも見られるが、一応正しいと見てよかろう。

この霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばならぬ。死後の生活は、汝の知性の届く限りにおいて、無限である。もっとも、汝には無限の真の意味は理解できまい。差し当たって汝の存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておこう。

 その存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿りて生活するに過ぎぬとは言え、意識を有する責任ある存在であり、果すべき責任と義務があり、各種の才能をもち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものとみなしている。

肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心───往々にして粗末であり未熟ではあるが───を先天的に有する。各自その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、且つまた、要請があり次第与えられる援助の手段も用意されている。

こうした事実についてはすでに述べた。こののちにも更に述べることもあろうが、取り敢えず地上という試練の場における人間の義務について述べたく思う。
  
 人間は責任ある霊的存在として、自己と同胞と神に対する義務を有する。その昔、汝らの先師たちはその時代の知識の及ぶかぎり、そして表現し得る能力の限りにおいて、霊的生活に適切なる道徳的規範を説いた。しかし彼らの知識の及ばぬところ、そしてまた彼らの伝え得ぬところにも、まだまだ広く深き真理の領域が存在する。

霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によりて理解され始めたところである。がその事実により、人間の進化向上を促進せんとする勢力とこれを妨害せんとする勢力とが存在することを窺い知ることが出来るであろう。

このことについては、こののち更に述べる機会もあろう。それはさて置き、霊的存在としての人間の最高の義務は向上進化の一語─── 己に関する知識を始めとして霊的成長を促すあらゆる体験を積むことに要約されよう。

次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は教養の一語に要約されよう。

一つの枠にかぎられぬ幅広き教養を積むことである。地上生活のためのみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動である。そして肉体に宿れる一個の霊としての己に対する義務は、思念と言葉と行為における純粋の一語に要約されよう。

以上の進歩と教養と純粋の三つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そしてまた肉体的存在として人間の己に対するおよその義務が要約されていよう。

 最後に、人間と神との関係について申せば、それは最も低き界層の者といえども〝無始無終の光の泉〟、〝万物の創作者〟であり〝父〟であるところの神に近づけるものであらねばならぬ。神を目の前にせる時の人間として相応しき態度は聖書において〝天使もその翼もて顔を被う〟と表現されているが、まさにその通りである。

それは人間の霊に最も相応しき畏敬と崇拝の念を象徴しているのである。敬い畏れるのである。奴隷的恐怖心ではない。崇め拝むのであって、従属的恐怖に身をすくめるのではない。神と人とを隔てる計り知れぬ距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、人間はかりそめにも神の御前にすぐに侍(はべ)ることを求めてはならぬ。

ましてや天使にしてなお知ることを得ぬ深き神秘を覗き込まんとする傲慢なる態度は控えねばならぬ。畏敬と崇拝と愛、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性である。

 大略ではあるが、以上が自己と同胞と神に対する人間の義務である。枝葉の点については追って付け加えることになろうが、以上の中に人間が知識を広め、よき住民となり、全ての階層の人間の手本となるべき資質が述べられている。

この通信、並びにこれまでの通信の中にパリサイ派の学者が重んじたところの儀式的ないし形式的義務についての叙述が見られぬのは、それはわれられがその必要性を認めぬからである。人間が物的存在である以上、物的行事も当然大切である。われらがその点について詳しく言及せぬのは、その重要性について敢えてわれらが述べずとも事足りていると観たからである。われらの中心的関心は霊性にある。

全てを生み出すところの霊性である。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行事も自ずと正しく行なわれるものである。われらはこれまで汝を一貫した原則のもとに扱ってきた。それは汝の関心を真の自己であるところの霊に向けさせ、全ての行為をその内的自我の発現として捉えさせることである。

その霊性が地上を去ったのちの霊的生活の全てを決定づけるからである。そこに真の叡智が存する。全てを動かす霊、千変万化の大自然と人生の移り行く姿の底流に存在する生命の実相を知った時、汝は真の叡智に動かされていると言えよう。

現時点においてわれらが汝に示し得る義務は以上の如きものであるが、次に、その義務を果たせる時と怠(おこた)れる時にもたらされる結果について述べねばならぬ。

 自己の能力の限りにおいて正直にそして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして生き甲斐と向上とが得られる。われらが敢えて向上を強調するのは、人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見いだすとの不変の真理を見失いがちだからである。

これでよしとの満足は真の魂にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかない。魂は過ぎ去りしものの中に腰を下ろすことは許されぬ。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかもたぬ。過去をふり向く態度は満足の表れであり、未来へ向かう態度は一層の向上を求める希望と期待の顕れである。

満足感に浸り、それにて目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、そのとき魂は退歩の危機にある。霊的存在としての正しき姿勢は常により高き目標に向いて努力しつづけることである。その絶え間なき向上の中にこそ真の幸せを見いだす。これで終わりという時は来ぬ。決して来ぬ。絶対に来ぬ。

 このことは汝らが人生と呼ぶところの地上の一時期のみに限らぬ。生命の全存在に関しても言えることである。さよう。肉体に宿りて行なえる行為は肉体を棄てたるのちの霊界の生活にも関わりを有する。その因果律は汝らが死と呼ぶところの境界には縛られぬ。

それのみではない。霊界にて落着くところの最初の境涯は、地上の行為のもたらす結果によって定まるのである。怠惰と不純の生活に浸りし霊は当然の成り行きとして、霊界にてそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになる。

犯せる罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、一歩また一歩と高き境涯へと向上していく。これが神の法を犯せる者に与えられる罰である。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではない。意識的生活の中に犯せる違反が招来する不可避の悔恨と自責の念と懲罰である。

これは懲らしめのムチと言えよう。が、それは復讐に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではない。愛の神がわが子にその過ちを悟らせんとして用意せる因果律の働きなのである。

 同様に、善行の報いは天国における永遠の休息などという感覚的安逸ではない。神の玉座のまわりにて讃美歌三昧に耽ることでもない。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によって安易に得られる退屈きわまる白日夢の如き無為の生活でもない。

義務を果たせる満足感、向上せる喜び、さらに向上する可能性を得たとの確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持し得たとの自信。こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に始めて味わえるものである。

休息の喜びは働かずしては味わえぬ如く、食事の味は空腹なる者にしか味わえぬ如く、一杯の水の有難さは渇ける者にしか味わえぬ如く、そして我家を目の前にせる時の胸の昂(たか)まりは久しく家を離れし者にして始めて味わえる如く、善の報酬は生活に刻苦し、人生の埃りにまみれ、真理に飢え、愛に渇ける者にして始めて真の味を賞美できるものである。

怠惰なる感覚的満足はわれらの望むところではない。あくまでも全身全霊を込めて努力せるのちに漸く得られる心の満足であり、しかもそれはすぐまた始まる次の向上進化へ向けて刺激剤でしかないのである。

 以上に見られるごとく、われらは人間を数々の果たすべき義務と数かぎりなき闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱ってきた。別の要素として人間には背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もあるが、ここでその問題を取り挙げる必要性を認めぬ。取り敢えず汝の視野に映り汝自ら検討し得る範囲内の事柄にかぎって述べてきた。

また、われらとしては罪なき神の御子、というよりは神との共同責任者としてのイエスに己の足らざるところを全て償わせるが如き、都合よき言説は説かぬ。一度の信仰告白によって魔法の如く罪を消す、かの贖罪説も説かぬ。

卑しき邪悪なる魂も死の床にて懺悔すればイエスがその罪の全てを背負うことによって立ちどころにして〝選ばれし者〟の仲間に列せられ、神の国へ召されるなどという説は到底認めるわけにはいかぬ。われらは、そのような卑屈にして愚劣なる想像の産物に類することは一切述べたことはない。援助はある。常に手近にあり、いつでも活用できる強力なる霊力が控えている。

しかし、放蕩と貪欲と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くせる人間が、その最期の一瞬に聖者の一人として神の聖域に列せられんが為に自由に引き出せる、そのような都合よき徳の貯えなどはどこにも存在せぬ。

臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼び起こす死後の苦しみに怯える余りに縋らんとする身代わりの犠牲など、どこにも存在せぬ。そのような卑劣なる目的のためには神の使者は訪れぬ。そのような者に慰めを与えに参る霊などおらぬ。万が一にも己の罪に気づき、後悔することがあれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるであろう。

神の愛のムチを当てられるままに放置することであろう。何となれば、その苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからである。然るに神学者はそのような者のために神は御子を遣わし、そして全ての罪を背負いて非業の死を遂げさせたのであると説く。

それをもって最高の情けある処置であるとし、神の慈悲の最高の表現であると説く。

 そのような作り話はわれらの知識の中には存在せぬ。徳の貯えは自分自ら一つ一つ刻苦勉励の中に積み重ねたるもの以外には存在せぬ。至福の境涯に至る道は曾て聖者たちが辿れる苦難の道と同じ道以外にはない。

一瞬にして罪深き人間を聖者に変え、強(したた)かなる無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、汝らの言う天国に相応しき霊となす魔法の呪文など、われらは知らぬ。そのような冒瀆的想像の産物はおよそわれらとは縁はない。

 人間は一方においてそのような無知にして到底有り得ぬ空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻く折角の霊的援助と加護には全く気づかずにいる。われらは人間自ら果たすべきことを人間に代わって果たすべき力は持ち合わせぬ。

が援助は出来る。慰めることは出来る。心の支えとなることは出来る。われらは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当っている。

時としてあまりにあくどく、あまりに物質にかぶれ過ぎてわれらの霊力に感応せず、霊的なるものを求めようとせぬ霊に手こずり、あるいは翻弄されることもあるが、霊的援助の手は常に用意されており、真摯なる祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによって結びつきを強化することが可能なのである。

 ああ、何たる無知! 至誠、至純、至善なる霊が常に援助の手を差し延べんと待機しているものを、祈ることを疎かにするが故に、その霊との交わりを得ることが出来ぬのである。魂を神に近づける崇拝、そして天使を動かす祈り───この二つはいつでも実行可能な行為である。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手なる信仰、教義、宣誓、身代わり等々、事実とは程遠き謂れなき作り話に託している。

 われらはそうした個々の信仰は意に介さぬ。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩改められていくものだからである。狂気の如き熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体より解放されれば一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられる。

生涯抱き続けた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散する。いかに誠意を込めて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われらは信条にはさしてこだわらぬ。それよりもわれらは行為を重要視する。何を信じたるやは問わぬ。何を為せるやを問う。

なぜなら人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解するからである。そうした性格も長き苦難の過程を経てようやく改められるものであり、それ故にわれらは言葉より行いに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのである。

 われらの説く宗教は行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれなる信仰の宗教ではない。身体の宗教でもあり魂の宗教でもある。打算なき進歩性に富む真実の宗教である。その教えに終局というものはない。

信奉者は数知れぬ年月をかけてひたすらに向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨きつくされたる霊───苦しみと闘争と経験によって磨き上げられたる霊───がその純真無垢の姿にて神の足もとに跪く。この宗教には怠惰も安逸も見出せぬ。

霊の教育の基調は真摯と熱意である。そこに己の行為のもたらす結果からの逃避は見出せぬであろう。不可能なのである。罪科はそれ自らの中に罰を含むものだからである。また己の罪を背負わせる都合よき身代わりも見出せぬであろう。自らの背に負い、その重圧に自ら苦悶せねばならぬからである。

さらにまた、われらの宗教には、これさえ信ずれば堕落せる生活をごまかし、これさえ信ずれば魂の汚れを被い隠せるなどという卑怯なる期待をもたせて動物的貪欲と利己主義を煽るが如き要素も、いずこにも見出せぬであろう。われらが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではない。

そのような気紛れなる隠蔽物は死とともに一気に剥ぎ取られ、汚れた生活が白日のもとに曝され、魂はそのみすぼらしき姿を衆目に曝す。またわれらの宗教には、そのうち神は情けを垂れ全ての罪に恩赦を下さるであろうなどという、けちくさきお情けを求める余地などさらさら見いだせぬであろう。

そのような人間的想像は真理の光の前にあっけなく存在を失う。神の情けは、それを受けるに相応しき者のみが受ける。言い換えるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進化がおのずとその報酬をもたらすことであろう。そこにはもはや情けも哀れみも必要とせぬであろう。

 以上がわれらの説く霊と肉の宗教である。神の真理の宗教である。そして人類がそれを理解する日も漸く近づきつつある。

                           ♰ イムペレーター

Sunday, January 29, 2023

シアトルの冬 祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、Prayer is a means of soul longing and introspection,

冬の森14 白樺 うさぎのイラスト素材 [72045345] - PIXTA


〝あなたはなぜ神に祈るのですか〟と問われてシルバーバーチは〝祈り〟の本来のあり方について次のように述べた。

 「それは、私に可能なかぎり最高の〝神の概念〟に波長を合わせたいという願いの表れなのです。

 私は祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、つまり抑え難い気持ちを外部へ向けて集中すると同時に、内部へ向けて探照の光を当てる行為であると考えております。ほんとうの祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。

われわれの心の中に抱く思念は神は先刻ご承知なのです。要望は口に出される前にすでに知れているのです。

 なのになぜ祈るのか。それは、祈りとはわれわれのまわりに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段だからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態に置くことになるのです。

僅かな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることが出来、かくしてわれわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。

 利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーのムダ使いをしているに過ぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。が、自分をよりいっそう役立てたいという真摯な願いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめるための祈りであれば、その時の高められた波長を通して力と励ましと決意を授かり、祈りが本来の効用を発揮したことになります。

 では誰に、あるいは何に祈るべきか───この問題になると少し厄介です。なぜなら人間一人ひとりに個人差があるからです。人間は必然的に自己の精神的限界によって支配されます。その時点までに理解したものより大きいものは心象として描きえないのです。

ですから私もこれまでに地上にもたらされた知識に、ある程度まで順応せざるを得ないことになります。たとえば私は言語という媒体を使用しなければなりませんが、これは観念の代用記号にすぎず、それ自体が、伝えるべき観念に制約を加える結果となっています。

 このように地上のための仕事をしようとすれば、どうしても地上の慣例や習慣、しきたりといったものに従わざるを得ません。ですから私は、神は人間的存在でないと言いながら男性代名詞を使用せざるを得ないことになります (たとえば〝神の法則〟というのを His Iaws というぐあいに───訳者)。私の説く神は宇宙の第一原因、始源、完全な摂理です。

 私が地上にいた頃はインディアンはみな別の世界の存在によって導かれていることを信じておりました。それが今日の実験会とほぼ同じ形式で姿を見せることがありました。その際、霊格の高い霊ほどその姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。

そこで我々は最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像したわけです。いつの時代にも〝白〟という のは 〝完全〟〝無垢〟〝混ぜもののない純粋性〟 の象徴です。そこで最高の霊は 〝白光の大霊〟 であると考えました。当時としてはそれが我々にとって最高の概念だったわけです。

 それは、しかし、今の私にとっても馴染みぶかい言い方であり、どのみち地上の言語に移しかえなければならないのであれば、永年使い慣れた古い型を使いたくなるわけです。ただし、それは人間ではありません。人間的な神ではありません。神格化された人間ではありません。

何かしらでかい存在ではありません。激情や怒りといった人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的な宇宙エネルギーであり、それが個別的意識形体をとっているのが人間です。

 しかしこうして述べてみますと、やはり今の私にも全生命の背後の無限の知性的存在である神を包括的に叙述することは不可能であることを痛感いたします。が少なくとも、これまで余りに永い間地上世界にはびこっていた多くの幼稚な表現よりは、私が理解している神の概念に近いものを表現していると信じます。

 忘れてならないのは、人類は常に進化しているということ、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっているということです。知的地平線の境界がかつてほど狭くなくなり、神ないしは大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれにともなって進化しております。しかし神自体は少しも変わっておりません。

 これから千年後には地上の人類は今日の人類よりはるかに進化した神の概念を持つことになるでしょう。だからこそ私は、宗教は過去の出来ごとに依存してはいけないと主張するのです。過去の出来ごとを、ただ古い時代のことだから、ということで神聖であるかに思うのは間違いです。

霊力を過去の一時代だけに限定しようとすることは、霊力が永遠不変の実在であるという崇高な事実を無視することで、所詮は無駄に終わります。地上のいずこであろうと、通路のあるところには霊力は注がれるのです。

(訳者注───聖霊は紀元六六年まで聖地パレスチナにのみ降り、それきり神は霊力の泉に蓋をされた、というキリスト教の教えを踏まえて語っている)

 過去は記録としての価値はありますが、その過去に啓示の全てが隠されてるかに思うのは間違いです。神は子等に受容能力が増すのに応じて啓示を増してまいります。生命は常に成長しております。決して静止していません。〝自然は真空を嫌う〟という言葉もあるではありませんか。

 あなた方は人々に次のように説いてあげないといけません。すなわち、どの人間にも神性というものが潜在し、それを毎日、いえ、時々刻々、より多く発揮するために活用すべき才能が具わっていること、それさえ開発すれば、周囲に存在する莫大な霊的な富が誰にでも自由に利用できること、言語に絶する美事な叡知が無尽蔵に存在し、

活用されるのを待っているということです。人類はまだまだその宝庫の奥深くまで踏み込んでいません。ほんの表面しか知りません」

───あなたは霊的生活に関連した法則をよくテーマにされますが、肉体の管理に関連した法則のことはあまりおっしゃってないようにお見受けします。

 「おっしゃる通り、あまり申し上げておりません。それは、肉体に関して必要なことはすでに十分な注意が払われているからです。私が見るかぎり地上の大多数の人間は自分自身の永遠なる部分すなわち霊的自我について事実上何も知らずにおります。

生活の全てを肉体に関連したことばかりに費しております。霊的能力の開発に費している人は殆ど───もちろんおしなべての話ですが───いません。第一、人間に霊的能力が潜在していることを知っている人がきわめて少ないのです。そこで私は、正しい人生観を持っていただくためには、そうした霊的原理について教えてあげることが大切であると考えるわけです。

 私はけっして現実の生活の場である地上社会への義務を無視して良いとは説いておりません。霊的真理の重大性を認識すれば、自分が広い宇宙の中のこの小さな地球上に置かれていることの意味を理解して、いちだんと義務を自覚するはずです。

自国だけでなく広い世界にとってのより良き住民となるはずです。人生の裏側に大きな計画があることを理解し始め、その大機構の中での自分の役割を自覚しはじめ、そして、もしその人が賢明であれば、その自覚に忠実に生きようとしはじめます。

 肉体は霊の宿である以上、それなりに果たすべき義務があります。地上にいるかぎり霊はその肉体によって機能するのですから、大切にしないといけません。が、そうした地上の人間としての義務をおろそかにするのが間違っているのと同じく、霊的実在を無視しているのも間違いであると申し上げているのです。

 また世間から隔絶し社会への義務を果たさないで宗教的ないし神秘的瞑想に耽っている人が大勢いますが、そういう人たちは一種の利己主義者であり、私は少しも感心しません。何ごとも偏りがあってはなりません。

いろんな法則があります。それを巾広く知らなくてはいけません。自分が授かっている神からの遺産と天命とを知らなくてはいけません。そこではじめて、この世に生まれてきた目的を成就することになるのです。

 霊的事実を受け入れることのできる人は、その結果として人生について新しい理解が芽生え、あらゆる可能性に目覚めます。霊的機構の中における宗教の持つ意義を理解します。科学の意義が分かるようになります。

芸術の価値が分るようになります。教育の理想が分るようになります。こうして人間的活動の全分野が理解できるようになります。一つ一つが霊の光で啓蒙されていきます。所詮、無知のままでいるより知識を持って生きる方がいいに決まっています」

 続いて二人の読者からの質問が読み上げられた。

 一つは「〝神は宇宙の全生命に宿り、その一つを欠いても神の存在はありません〟とおっしゃっている箇所がありますが、もしそうだとすると神に祈る必要ないことになりませんか」というものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「その方が祈りたくないと思われるのなら、別に祈る必要はないのです。私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないものを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列に過ぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。

魂の開発を促進するという霊的な目的です。ただし、だからといって祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。

 祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にするための刺戟───これから訪れるさまざまな闘いに打ち克つために守りを固める手段です。何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方にかかわってくる問題です。

 言い変えれば、祈りとは神性の一かけらである自分がその始源とのいっそう緊密な繋がりを求めるための手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めたとき、その時こそ真の自我を見出したことになります」


 もう一つの質問は女性からのもので、 「イエスは〝汝が祈りを求めるものはすでに授かりたるも同然と信ぜよ。しからば汝に与えられん〟と言っていますが、これは愛する者への祈りには当てはまらないように思いますが、いかがでしょうか」というものだった。これに対してシルバーバーチは答えた。

 「この方も、ご自分の理性にそぐわないことはなさらないことです。祈りたい気持ちがあれば祈ればよろしい。祈る気になれないのでしたら無理して祈ることはありません。イエスが述べたとされている言葉が真実だと思われれば、その言葉に従われることです。真実とは思えなかったら打っちゃればよろしい。

神からの大切な贈りものであるご自分の理性を使って日常生活における考え、言葉、行為を規制し、ご自分が気に食わないもの、ご自分の知性が侮蔑されるように思えるものを宗教観、哲学観から取り除いていけばよいのです。私にはそれ以上のことは申し上げられません」


───〝求めよ、さらば与えられん〟という言葉も真実ではなさそうですね。

 「その〝与えられるもの〟が何であるかが問題です。祈ったら何でもその通りになるとしたら、世の中は混乱します。最高の回答が何もせずにいることである場合だってあるのです」


───今の二つの格言はそれぞれに矛盾しているようで真実も含まれているということですね。

 「私はいかなる書物の言葉にも興味はありません。私はこう申し上げたことがあるはずです───われわれが忠誠を捧げるのは教義でもなく、書物でもなく、教会でもない、宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理である。と」



 シルバーバーチの祈り

 ああ神よ。私たちはあなたの尊厳、あなたの神性、無限なる宇宙にくまなく行きわたるあなたの絶対的摂理を説き明かさんと欲し、もどかしくも、それに相応しき言葉を求めております。

 私たちは、心を恐怖によって満たされ精神を不安によって曇らされている善男善女が何とかあなたへ顔を向け、あなたを見出し、万事が佳きに計らわれていること、あなたの御心のままにて全てが佳しとの確信を得てくれることを期待して、霊力の豊かな宝の幾つかを明かさんとしているところでございます。

 その目的の一環として私どもは、これまで永きにわたってあなたの子等にあなたの有るがままの姿───完璧に機能している摂理、しくじることも弱まることもない摂理、過ちを犯すことのない摂理としてのあなたを拝することを妨げてきた虚偽と誤謬と無知と誤解の全てを取り払わんとしております。

 私たちは宇宙には生物と無生物とを問わず全ての存在に対して、また全ての事態に対して備えができているものと観ております。あなた方から隠しおおせるものは何一つございません。神秘も謎もございません。あなたは全てを知ろしめし、全てがあなたの摂理の支配下にございます。

 それゆえ私どもは、その摂理───これまで無窮の過去より存在し、これより未来永劫に存在し続ける摂理を指向するのでございます。子等が生活をその摂理に調和させ、すべての暗黒、すべての邪悪、すべての混沌と悲劇とが消滅し、代わって光明が永遠に輝き渡ることでございましょう。

 さらに又、愛に死はないこと、生命は永遠であること、墓場は愛の絆にて結ばれし者を分け隔てることはできぬこと、霊力がその本来の威力を発揮したときは、いかなる障害も乗り切り、あらゆる障壁を突き破って、愛が再び結ばれるものであることを証明してみせることも私どもの仕事でございます。

 私たちは、人間が進化を遂げ、果たすべく運命づけられている己れの役割に耐えうる素質を身に付けた暁に活用されることを待っているその霊力の豊かさ、無尽蔵の本性を持つ無限なる霊の存在を明かさんと欲しているものでございます。
 ここに、己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

Saturday, January 28, 2023

シアトルの冬 みずから光を求める者こそ向上する─       Those who seek the light themselves will improve


 

〔八月二十六日。私はこれまでの通信を読み返し、それが象徴している意味についてあれこれと思いを巡らした。私は自分の解釈が字句にこだわり過ぎているのだろうかと考えて、その点を霊側に質してみた。するとまだ私の精神状態は通信をするのに相応しい状態になっていないという返事であった。

このように交信の難しさをはっきりと言ってきたことは何度もあった。私は気分の転換が必要であることを指摘された。生憎(あいにく)その日は空模様の鬱陶しい憂鬱な日であった。

私の身は見知らぬ土地にあり、健康も勝れなかった。私は言われるまま気分転換になることをしたあと机に向かった。すると始めのうち少し書き辛く速度もゆっくりだったが、やがて楽に筆が運ぶようになった。〕

  状態はまだ十全とは言えぬが、前よりは良好となってきた。通信を求むるに際しては、精神と肉体の双方を整えることが肝要である。満腹状態の身体が操作し難いことは前に述べたが、逆に機能の低下せる弱々しき身体もまたわれらの目的に適さぬことをここに指摘しておく。


飽食と泥酔はもとより感心できぬが、度の過ぎたる節制による体力の低下も感心せぬ。われらは全てに判断の及ぶかぎりの中庸を説く。極端なる節制も、節度なき放縦も、ともに好ましからぬ結果を招く。

中庸こそ身体機能を自由に働かしめ、一方精神的能力を曇りなく且つ激することなく自在に発揮させる。われらが求むるのは明晰にして元気はつらつとし、それでいて興奮することなき精神と、活力に溢れ、その活力を使い過ぎもせず欠乏もせぬ身体である。


各自がその思慮分別に基いて、己に課せられた地上の仕事に勤しむ上でより一層適切なる身体を具え、同時にその援助のために派遣されたる背後霊からの指示を素直に受け取れる精神を整えてくれることが大いに望まれるところであるが、日常生活における習慣は往々にして感心せぬものが多く、徐々に心身を蝕んでいく。

尤もわれらとしては一般的原則としての注意と節制を説く以上のことは出来ぬ。当人にとって何がもっとも適切であるかは当人と深く関わってみなければ判らぬものである。自分のことは自分で判断して最も適切と思うものを決めることである。

 われらの使命はもとより魂の宗教を説くことにあるが、その一部として身体の宗教も説かねばならぬ。汝に、そして全ての人間に宣言するが、身体の健康管理は魂の成長にとりて不可欠の要件である。

魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿るかぎりは、その肉体によって魂が悪影響を受けぬよう、これを正しく管理していくことが必須である。

ところが衣食の選択と日常の生活習慣に賢明なる配慮が為されることは実に稀である。今の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上の全域に見られる暴飲暴飲食の傾向、こうしたものは全て真の霊的生活にとっては障害であり妨害となる。

 汝の質問であるが、これまで幾度も述べたる如く、われらは汝の精神の中に存在するものを取り出し、付属せる夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なるもの、真実にあらざるものは放棄する。

古き言説については、イエスがユダヤの律法を扱える如くに扱う。イエスはその字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たなる崇高なる意味を賦与した。

われらが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、並びにラビ的①学説を扱える如くに扱う。イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説いた。

これはいつの時代にも同じであり、われらも聖書の言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす②、と述べておこう。律法の字句にあまりに厳密にこだわることは肝心の意味を疎かにすることと同じ、と言うよりは、次第に疎かにさせて行くものである。

儀文の一つ一つを几帳面に遵守する信仰態度は高慢不遜にして鼻もちならぬ独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に巻き込まれて、自分は他の者とは違うとの特殊意識を抱き、その意識で神に感謝するようになる。

 こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対して、われらは断固たる闘いを挑むものである。人間の勝手な産物である神学の中に束縛されるよりは、たとえ迷いは多くとも、きっと神を見いだすとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索する方が、真理を求むる魂にとってどれほどよいかも知れぬ。

神学は神への道を規定する。その道へ入る狭き門は神学という名の鍵なくしては開かぬことになっている。が、それのみに留まらぬ。神学が神そのものを規定するのである。かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、霊性の一片もなき機械的信仰生活へと落ちぶれ果てる。

 確かに、汝らの仲間の中には、高位高階の者ばかりとも限らぬが、宗教の深き哲学に関しては出来合いの信仰教義でなければならぬ者がいる。彼らにとって、その教義から逸脱して自由に思いを巡らすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味する。

目も眩む高所に登り、隠れたる秘密を覗き込み、曇りなき真理の太陽の輝きを目のあたりにすることなどは思いもよらぬ。永遠の真理の横たわる深き谷間を見おろす高き峰に登ることは、彼らには出来ぬ。

落ちることを恐れて覗き込むことが出来ぬ。その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのである。そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通れる、より安全なる常道を選ぶことになる。その道は両側に高き壁がそそり立ち、その外側を見ることは出来ぬ。油断なく一歩一歩、転ばぬよう、全ての起伏を避けつつ歩む。

そうするようにと教会の教説が説いているのである。疑うことは破壊を意味する。思考すること結局は迷いに終わる。信じることが唯一の安全策である。故に信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい───そう説くのであるが、彼らにはそれが素直には受け入れられぬ。受け入れられる筈がないのである。

彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解することが出来ぬのである。ならば真理を秘納せる奥の院までどうして入ることを得ようか。

 中にはまた、神の真理の全てであると教え込まれた古来の神学と相容れぬ教説を受け入れる能力に欠けると同時に、それを喜ばぬ者もいる。

 キリスト教の聖徒にとってはその神学で十分であった。殉教者はその信仰ゆえに笑顔をもって刑台に上がり、死の床にあっても心の慰めを得て来た。それは今も昔も変わらぬ。その信仰は先人たちの残してくれた大切な教義であり、母親の口から聞かされた救いの福音であった。

それは言わば真理の遺産として受け継いだものであり、それを是非とも今度は自分たちが子供たちに譲渡していかねばならぬものであり、代わってその子供たちがさらにその子供たちへと引き継いでいくことであろう。そうなれば当然彼らの心はその信仰、それほどの伝統的な繋がりと思い出をもつ信仰と少しでも衝突するものには目もくれぬことになる。

彼らはその伝統的信仰の擁護者をもって任じているのである。その中には殉教者の情熱が燃え続けている。われらの語りかける言葉は彼らの耳には届かぬ。われらとしても、それほどまで居心地よき安住の世界に敢えて踏み込もうとは思わぬ。

万一踏み込むとなれば、彼らが作り上げた信仰の殿堂を根底より突き崩さねばならぬであろう。それほどまで大切にせる信仰に対して宣戦布告し、容赦なく切りつけねばならぬことになろう。

彼らにとっての絶対神、型にはまりたる宗教、それは何世代にも亙って些かも変わらず、また変わりようもないのであるが、これに攻撃を挑み、たとえ神の観念は変わらずとも人間の心は変化し過去の世代には事足りたものも次の世代には十分ではないかも知れず、現に満足できなくなっている事実を指摘せねばならぬ。

また彼らが露ほども気づかずにいる啓示の進歩性、思想の自由の度合いに応じた人間の啓発、そして彼らが〝神の啓示〟と銘うって崇めている夥(おびただ)しき量の人間的創作に反省を迫られることであろう。

が、これも所詮は徒労に終ることであろう。われらは、そうと知りつつ敢えて試みるほど愚かではない。彼らは地上とは別の(死後の)世界において必要なる知識を得るほかはあるまい。

 これとは種類を異にし、こうした問題について一切思考を巡らさぬ者もいる。宗教とは名ばかりにて、一種の世間体としての意味しか持たぬ者たちである。故にその信仰心は極めて薄く、慣習としての場を除いては意識することもない。いわばよそ行きの衣服であり、単なる見せかけ以上のものではない。遠くより見てそれらしく見えればそれで良いのである。こうした人種、及びこれに類する人種はわれらにとって難敵である。

彼らにとっては、宗教について思索を強いられること自体がすでに退屈であり迷惑なのである。不愉快きわまる問題であり、慣習によりやむを得ず軽く体裁を繕う程度にしか係わろうとせぬ。人間としてどう在るべきかは牧師が決めてくれるものと考え、言われるままに信じるのみなのである。

ましてや古き信仰の欠点を指摘され、新しき信仰の美点を説き聞かされることは彼らにとっては二重手間であり、有難迷惑なのである。そのいずれも理解できぬであろう。

相変わらず古きものにすがり、その中にて生き続けるのみである。今のままで結構なのである。進歩はご免こうむりたいのである。自由などは思いもよらず、精々、自由とは所詮は服従に近づくことであるとの教えしか念頭にはない。

彼らにとって自由なる思索は懐疑心と不信感と無信仰を意味する。そのいずれも彼らにとって有難からぬものであり、一種の社交的誤りを犯すことになる。進歩することは国策上からも宗教上からも恐るべきことなのである。

単に尻込みするに留まらず、機嫌と侮蔑とをもって自由を観る。彼らの理想は全て古き良き時代に大切に仕舞い込まれている。その良き古き時代には自由だの進歩だのという問題は一切語られていない。故にそれは彼らにとって邪悪なるものであり避けねばならぬものなのである。

 以上の三種の人間にわれらが一切の係わりをもたぬことは汝にも明白であることを疑わぬ。同時にその中間に存在し、能力もなければやる気もなく、さりとて堂々と反抗的態度に出るでもない人種にもわれらは関知せぬ。

それがわれらの選択を超えた問題であることは、いずれ汝にも判る時が来よう。たとえ手を出したくとも出せぬのである。

 神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件の一つを犯していること、こうしたことをわれらは教えんとしている。神への道を閉ざし、その門戸に鍵をかけ、己の説く道へ進むことを強要する権利を有する者は一人もおらぬと言うのである。

硬直化せる神学、人間の発明せる用語にて勝手に規定せる頑(かたくな)な信仰、その道より外れし者は神より見放されると説き、一字一句たりとも動かし難き教説───これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたかんとする魂を引き留め、地上にくぎ付けにせんとする拘束物であると言うのである。

そのような宗教を教え込まれるまま受け入れ、自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として自ら迷い、自ら祈り、自ら思考し、自ら道を切り開くことによって真理の日の出を見るに至るほうが、どれだけよいか知れぬ。

その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、且つ心を満たしてくれずとも良い。

冷たき風に吹きさらされ、嵐に吹きまくられ、身の細る思いをするほうが、息苦しく風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込めれ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても、与えられるものが石ころの如き古き教説であり、化石の如き人間的無知の産物でしかない生活よりは、遥かに良い。

複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴であっても背後霊の直接の働きかけによって、自分なりの神の観念のもとに生き、神の息吹を受ける方がどれほど良いか知れぬ。

己に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探究における第一の条件である。これなくしては魂は羽ばたくことが出来ぬ。そしてこれさえあれば必ず進歩する。

 このことを主イエスに示されたる規範の中に今少し見てみなければならぬ。

 霊性に目覚めた人間のとるべき態度はどうあるべきかについてはすでに述べた。幸いにして勇気をもって因習より脱け出し、神を求むる旅に発てる者は必ずや、聖書の字句どおりのドグマ的解釈に代わりて、われが説くところの崇高なる霊的信仰へと導かれる。

霊の啓示には目に映る形而下的意味と同時に霊的意味も含まれているからである。物的傾向の色濃き時代にはこの霊的解釈が完全に疎かにされる。かくして人間はイエスの教説のまわりに、推論と憶測と形而下的解釈によって作り上げた壁をはりめぐらした。

それはパリサイ派の学者がモーセの律法のまわりにめぐらせる壁と同じである。こうした傾向は人間が霊界の存在を忘れるに比例して強くなる。かくして今やわれらの目に映るのは、本来なら霊性を吹き込み物的儀式を排除すべく意図されたはずの教説より導かれた、硬直化せる冷ややかなる物質偏重の教説である。

 われらの任務はイエスがユダヤ教のために行えるのと同じことを汝らのキリスト教のために行うことである。すなわち古き形式に霊的意味を賦与し、新しき生命を吹き込むことである。排除しようというのではない。復活させることこそわれらの望むところである。

繰り返すが、イエスが地上にもたらせる教えの一かけらたりともわれらは排除はせぬ。排除するのは人間の勝手な産物であり、それも、その奥に隠されて見失える霊的意味を表に出して見せるためである。

われらは汝を肉体的支配下の日常生活より少しでも救い出し、そこに浸透せる霊的生活の象徴的意義をより一層理解させんと務めている。字句にこだわって批難する者は、われらの教説の皮相的解釈しかできぬ人種である。

われらは汝を身体中心の生活より引き上げ、肉体を棄てたるのちの生活に相応しき生き方へ導かんと願っている。目下のところ、それには程遠き状態である。が、いずれ汝にも、この地上にありながらも真の霊的生活の尊厳と、そこに満ち溢れる隠れたる神秘を見ることを得る日も到来するであろう。それは今の汝の精神状態ではわれらも説明することは困難である。

 その時が到来するまでは、すべてに霊的意義が秘められていること、聖書もその霊的意義に溢れていること、神学に見られる人間的解釈も定義も注釈も、霊的真理の核心を包蔵せる形而下的〝殻〟に過ぎぬことを知るだけにて佳しとせねばならぬ。

もしもわれらがその殻を一気にはぎ取る挙に出れば、その核心が萎(しお)れ、生命を失うであろう。そこでわれらとしても汝の理解力の届く範囲において、汝の長く親しめる形而下的教説の下に隠れたる生きた真相を指摘する程度にて満足せねばならぬ。

 キリストの使命もそこにあった。律法を廃止することでもなく、削除することでもなく、正しく成就せしむることこそわが使命であると公言したのである。モーセの戒律の根底に潜む真理を指摘した。

パリサイ派の儀式にまつわる夾雑物を取り除き、ユダヤ学者の空想空論を排除し、その奥底に横たわる霊的真理───人間が埋葬しかかっていた崇高なる原理を白日のもとに曝したのであった。キリストは宗教改革者であると同時に社会改革者でもあった。

その生涯の大事業は人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面を剥ぎ取ることであり、暴君より逃れんとしてあがく魂をその魔手より救い出すことであり、そして神より託された真理の徳によって人間を解放することであった。イエスはいみじくも述べた───〝汝らに真理を知らしめん。真理は汝らを解き放たん。然して汝らは自由の身とならん③〟と。

 キリストは生と死と永遠の生命について説いた。人間の真の尊厳を説いた。神について進歩的知識を説いた。律法の偉大なる体現者として地上へ降りた。律法の意図されたる真の目的すなわち人類の改革者を身をもって実践する人間として地上へ来たのである。

民衆に心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして行為のすべてを唯一の尺度、つまりそれがもたらすところの結果によって価値を判断するよう説いた。常に謙虚に、慈悲を忘れず、誠実で純真で私心なく、己に正直であれと説いた。そして自らそれを実践してみせたのであった。

 イエスは偉大なる社会改革者であった。その目的は死後の幸福を説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することであった。イエスは言うなれば日常の宗教を説いたのである。より高き真理を求める日々の生活の中においての霊性の道徳的向上を説いた。

過去の過ちを反省し、償い、そして向上する───そこにイエスの訓えのほぼ全てが要約されている。イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧政下にあった。

そこでイエスは信仰と政治の双方の自由を説いた。がその自由とは気儘の自由ではなかった。神と自己に対する責任を持つ自由であり、置かれた環境における同胞への責任を持つ自由であった。イエスは人間の真の尊厳を示さんと努力した。

真の尊厳───人間性を束縛から解き放す真理の偉大さを民衆に知らしめんとした。身分にはこだわらなかった。同志も伝道者も身分の低き貧しき階層の者の中より選んだ。そして庶民と共に生きた。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとった。

そして人間として必須の、しかも彼らに理解し得る、素朴なる訓えを説いた。伝統的信仰と高貴なる社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長けた者たちの中には滅多に足を運ばなかった。慣習的に教え込まれた信仰より少しでも気高く少しでも崇高なる真理を求めんとする情熱を庶民の心に沸かしめた。そしてその真理を手にする方法をも説いたのであった。

 人類にとって真の福音と言うべきはイエス・キリストの福音である。これこそ人間にとって唯一にして必須の真理である。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音である。

 われらはそれと同じ福音をイエスより引き継ぎて説くものである。イエスを地上に送りし神と同じ神の命令を受け、同じ神の権威と霊示を受け、今まさに同じ福音を説きに参ったのである。イエスの説いた真理と同じものをわれらは説く。人間的無知と誤解による夾雑物を払い落して、改めて説く。物欲的生活の下に埋もれた真理を蘇らせんと望むものである。

 人間が墓場へ葬れる霊的真理を掘り起こし、それが未だ生き続けていることを、聞く耳をもつ者に教えんと欲しているのである。人間の進歩性と、人間への神の絶え間なき係わり合い、そして昼夜を分かたぬ天使の看護と言う、単純にして荘厳なる真理を教えたいと願っているのである。

 独善的宗教家集団が背負わせた荷はわれらが風に吹き飛ばさせよう。魂の成長を妨げ向上心の足を引っ張るドグマはわれらが引き裂きて魂を解き放とう。われらの使命は人間があまりに歪め過ぎた古き教えの真の姿を継承することである。その源は同一であり、その辿る道も同じであり、その向かうところもまた同じである。



〔イムペレーターの指揮のもとに続けられているこの教化事業はイエス・キリストの命によるものと理解してよいかとの問いに対して───〕

 


 その通りである。先に余は、余の使命が〝動〟の世界より〝静〟の世界へと突入せる一柱の霊より授けられ今なおその指令下にあると述べた・・・・・・ イエス・キリストは過去に蓄積せる誤れる信仰を払い清めると同時に、これより一段と啓示を押し進めんがために天使を招集する計画を用意されつつあるところである。

 ───他の交霊会でもこれに類する話を耳にしましたが、これが〝キリストの再来〟ということですか。

 キリストの再来とは霊的再来のことである。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではない。使徒を通じて聞く耳をもつ者に語りかけるという意味での再来である。イエス自身もかく述べているであろう───「聞く耳をもつ者は聞くがよい。受け入れ得る者は受け入れるがよい④」と。

 ───こうした通信は多くの人々にもたらされているのでしょうか。

 さよう。神がこの時期にとくに影響力を強めておられることを大勢の者に知らしめているところである。が、今はこれ以上は述べぬ。神の祝福のあらんことを。
                                ♰イムペレーター

Friday, January 27, 2023

シアトルの冬 ここにおいでの皆さんの多くはみずから地上への再生を希望し、

 Many of you here wish to be reborn on earth,

 

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  別のメンバーの関連質問に答えて───

 「私たちはまだまだ舵取りに一生けんめいです。あらんかぎりの力を尽くしております。が、地上的条件による限界があります。やりたいことが何でもできるわけではありません。私たちが扱うエネルギーは実にデリケートで、扱い方が完全でないと、ほとんど成果は得られません。

コントロールがうまくいき、地上の条件(霊媒及び出席者の状態)が整えば、物体を私たちの意のままに動かすこともできます。が、いつでもできるというものではありません。そこでその時の条件下で精一杯のことをするしかないわけです。ですが、最終的な結果については私たちは自信を持っております。

 神の地上計画を妨害し、その達成を遅らせることはできても、完全に阻止することはできません。そういう態度に出る人間は自分みずからがみずからの進歩の最大の障害となっているのです。愚かしさ、無知、迷信、貪欲、権勢欲、こうしたものが地上で幅をきかせ、天国の到来を妨げているのです。

 物的な面では、すべての人にいきわたるだけのものがすでに地上にはあります。そして霊的にも十分すぎるほどのものがこちらに用意されています。それをいかにして受け入れる用意のある人にいきわたらせるか、その手段を求めて私たちは一層の努力をしなければなりません。問題はその受け入れ態勢を整えさせる過程です。

何かの体験が触媒となって自我を内省するようになるまで待たねばならないのです。外をいくら見回しても救いは得られないからです。

 これまでこの仕事にたずさわっている方々の生活において成就されたものを見ても、私たちは、たとえ一時的な障害はあっても、最後は万事がうまくいくとの自信があります。

皆さんのすべてが活用できる莫大な霊力が用意されているのです。精神を鎮め、受容性と協調性に富んだ受身の姿勢を取れば、その霊力がふんだんに流入し、人間だけでなく動物をも治癒させる、その通路となることができます。

 ここにおいでの皆さんの多くはみずから地上への再生を希望し、そして今この仕事にたずさわっておられます。地上にいらっしゃる間に自我の可能性を存分に発揮なさることです。そして最後に下される評価は、蓄積した金銀財宝で問われるのではありません。霊的なパスポートで評価されます。それを見ればあなたの霊的な本性が一目瞭然です」

シルバーバーチ

Thursday, January 26, 2023

シアトルの冬 あらためて基本的真理を basic truth again


 シルバーバーチが霊媒を招待した時はいつも温かい歓迎の言葉で迎えるが、古くからの馴染の霊媒であればその態度はいっそう顕著となる。これから紹介する女性霊媒とご主人はハンネン・スワッハー・ホームサークルの結成当初からのメンバーで、最近は永らく自宅で独自の交霊会を催しておられ、今回は久しぶりの出席である。

 夏休みあとの最初の交霊会となったこの日もシルバーバーチによる神への祈願によって開始され、続いて全員にいつもと同じ挨拶の言葉を述べた。

 「本日もまた皆さんの集まりに参加し、霊界からの私のメッセージをお届けすることができることをうれしく思います。

 僅の間とはいえ、こうして私たちが好意を抱きかつ私たちに好意を寄せてくださる方々との交わりを持つことは、私たちにとって大きな喜びの源泉です。こうした機会に自然の法則にしたがってお互いが通じ合い、お互いの道において必要なものを、よろこびと感謝のうちに学び合いましょう。

 もとより私は交霊会という地上世界と霊界との磁気的接触の場のもつ希少価値はよく理解しており、私が主宰するこの会の連絡網の一本たりとも失いたくない気持ちですが、次のことは一般論としてもまた私個人にとっても真実ですので、明確に述べておきます。

 それは、私はしつこい説教によって説き伏せる立場にはないと考えていることです。面白味のない霊的内容の教えを長い説教調で述べることは私の望むところではありません。

 そのやり方ではいかなる目的も成就されません。私が望むやり方、この交霊会で私がせめてものお役に立つことができるのは、ここに集われたすべての方に───例外的な人は一人もいません───ともすると俗世的な煩わしさの中で見失いがちな基本的真理を改めて思い起こさせてあげることです。

 物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ、その解決に迫られたとき、言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばならないときに、本来の自分とは何か、自分はいったい何者なのか、なぜ地上に生活しているかといったことを忘れずにいることは困難なことです。


 そこで私のような古い先輩───すでに地上生活を体験し、俗世的な有為転変に通じ、しかもあなた方一人一人の前途に例外なく待ち受けている別の次元の生活にも通じている者が、その物的身体が朽ち果てたのちにも存在し続ける霊的本性へ関心を向けさせていただいているのです。それが基本だからです。

 あなた方は霊的な目的のためにこの地上に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫(うたかた)のようなものに過ぎません。
 
 といって、地上の人間としての責務を疎かにしてよろしいと言っているのではありません。その物的身体が要求するものを無視しなさいと言っているのではありません。

 大切なのは正しい平衝感覚、正しい視点を持つこと、そして俗世的な悩みや心配ごとや煩わしさに呑み込まれてしまって自分が神の一部であること、ミニチュアの形ながら神の属性の全てを内蔵している事実を忘れないようにすることです。

 そのことを忘れず、その考えを日常生活に生かすことさえできれば、あなた方を悩ませていることがそれなりに意義を持ち、物的、精神的、霊的に必要なものをそこから摂取していくコツを身につけ、一方に気を取られて他方を忘れるということはなくなるはずです。

 こう言うと多分〝あなたにとってはそれで結構でしょう。所詮あなたは霊の世界の人間です。家賃を払う必要もない、食料の買い出しに行く必要もない、衣服を買いに行かなくてもよい。

 そういうことに心を煩わせることがないのですから〟とおっしゃる方がいるかもしれません。たしかにおっしゃる通りです。

 しかし同時に私は、もしもあなた方がそうしたことに気を取られて霊的なことを忘れ、霊の世界への備えをするチャンスを無駄にして、身につけるべきものも身につけずにこちらへ来られた時に果たしてどういう思いをなさるか、それも分かっているのです。こんな話はもう沢山ですか?」


 「とんでもございません。いちいちおっしゃる通りです」とその女性霊媒が答えると、

 「私の言っていることが間違いでないことは私自身にも確信があります。地上の全ての人にそれを確信させてあげれば視野が広がり、あらゆる困難に打ち克つだけの力が自分の内部に存在することを悟って取越苦労をしなくなり、価値ある住民となることでしょうが、なかなかその辺が分かって頂けないのです。

 霊の宝は神の子一人一人の意識の内部に隠されているのです。しかし、そうした貴重な宝の存在に気づく人が何と少ないことでしょう。あなたはどう思われますか」と言って、今度はご主人の方へ顔を向けた。


 「まったく同感です。ただ、そのことをいつも忘れないでいることが出来ない自分を情けなく思っています」と御主人が答えると、
 
 「それが容易でないことは私も認めます。しかし、もしも人生に理想とすべきもの、気持ちを駆り立てるもの、

 魂を鼓舞するものがなかったら、もしも目指すべき頂上が無かったら、もしも自分の最善のものを注ぎ込みたくなるものが前途に無かったら、人生はまったく意味が無くなります。もしもそうしたものが無いとしたら、人間は土中の中でたくる虫ケラと大差ないことになります」


 「本当に良い訓えを頂きました」

 「そう思っていただけますか。私には、してあげたくてもしてあげられないことが沢山あるのです。みなさんの日常生活での出来事にいちいち干渉できないのです。

 原因と結果の法則の働きをコントロールすることはできないのです。また、あなた方地上の人間は大切だと考え私は下らぬこととみなしている事柄が心に重くのしかかっていることがありますが、その窮状を聞かされても私はそれに同情するわけにはいかないのです。

 私にできることは永遠不変の原理をお教えすることだけです。物質の世界がすみずみまで理解され開拓され説明しつくされても、宇宙にはいかなる人間にも完全に知りつくすことのできない神の自然法則が存在します。それは構想においても適応性においても無限です。
 
 もしも日常生活に置いて決断を迫られた際に、あなた方のすべてが自分が霊的存在であること、大切なのは物的な出来事ではなく───それはそれなりに存在価値はあるにしても───そのウラ側に秘められた霊的な意味、あなたの本性、永遠の本性にとっていかなる意味があるかということです。

 物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。と言うことは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです。一方あなたという存在は死後も霊的存在として存続します。あなたにとっての本当の富はその本性の中に蓄積されたものであり、あなたの価値はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもありません。

 そのことこそ地上生活において学ぶべき教訓であり、そのことを学んだ人は真の自分を見出したという意味において賢明なる人間であり、自分を見出したということは神を見出したということになりましょう。

 地上生活を見ておりますと、あれやこれやと大事なことがあって休む間もなくあくせくと走りまわり、血迷い、ヤケになりながら、その一ばん大切なことを忘れ、怠っている人が大勢います。私たちの説く教訓の中でもそのことが一ばん大切ではないでしょうか。

 それが、いったん霊の世界へ行った者が再び地上へ戻って来る、その背後に秘められた意味ではないでしょうか。

 それを悟ることによって生きる喜び───神の子として当然味わうべき生き甲斐を見出してもらいたいという願いがあるのです。

 それは、いわゆる宗教あるいは教会、教義、信条の類い、これまで人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱を生んできたものより大切です。少しも難しいことではありません。自分という存在の本性についての単純きわまる真理なのです。なのに、それを正しく捉えている人はほんの僅かな人だけで、大方の人間はそれを知らずにおります」


 再び霊媒である奥さんが、自分の支配霊も心霊治療を行うことがあると述べ、遠隔治療によって本人の知らないうちに治してあげていることもある事実を取り上げて、こう尋ねた。

 「そういう場合はなぜ治ったかを本人に教えてあげるべきだと思うのです。つまりそれを契機として、自分が神の子であることを知るべきだと考えるのですが、私の考えは正しいでしょうか、それとも多くを望みすぎでしょうか」

 「理屈の上では正しいことです。が、とりあえずあなたの治療行為が成功したことに満足し、そのことを感謝し、同時にその結果としてその人の魂を目覚めさせてあげるところまで行かなかったことを残念に思うに留めておきましょう。

 大切なのは、まず病気を治してあげることです。その上に魂まで目覚めさせてあげることはなお一層大切なことです。が、一方は成就できても他方は成就出来ない条件のもとでは、その一方だけでも成就して、あとは〝時〟が解決してくれるのを待ちましょう。魂にその準備が出来るまでは、それ以上のものは望めないからです。

 肉体は治った。続いて魂の方を、ということになるべきところですが、そこから進化という要素が絡んできます。魂がそれを受け入れる段階まで進化していなければ無駄です。しかし、たとえ全面的に受け入れてもらえなくても、何の努力もせずにいるよりは何とか努力してみる方が大切です。それは私たちすべてが取るべき態度です。

 ともかくも手を差しのべてあげるのです。受け入れてくれるかどうかは別問題として、ともかく手をさしのべてあげることです。努力のすべてが報われることを期待してはなりません。

 病気が治り魂も目覚める、つまり治療の本来の意義が理解してもらえるのが最も望ましいことです。次に、たとえ魂にまで手が届かなくても、病気だけでも治してあげるという段階もあります。さらにもう一つの段階は、たとえ治らなくても治療行為だけは施してあげるという場合です。

 要請された以上はそう努力しなければなりません。が、たとえ要請されなくても施すべき場合があります。受けるよりは施す方が幸いです。施した時点を持ってあなたの責任は終わります。そして、その時点からそれを受けた人の責任が始まります。


 「人間は自分の前生を思い出してそれと断定できるものでしょうか」

 「もしその人が潜在意識の奥深くまで探りを入れることが出来れば、それは可能です。ですが、はたして地上の人間でその深層まで到達できる人がいるかどうか、きわめて疑問です。その次元の意識は通常意識の次元からは遥かにかけ離れていますから、そこまで探りを入れるには大変な霊力が必要です」


 「そうした記憶は現世を生きている間は脇へ置いておかれるとおっしゃたことがあるように思いますが」

 「それなりの手段を講ずることが出来るようになれば、自分の個性のすべての側面を知ることができます。

 しかし、あなたの現在の進化の段階においては、はたして今この地上においてそれが可能かとなると、きわめて疑問に思えます。つまり理屈ではできると言えても、あなたが今までに到達された進化の段階においては、それは不可能だと思います」

  
 「神は特別な場合に備えて特殊な力を授けるということをなさるのでしょうか」 と、かつてのメソジスト派の牧師が尋ねた。

 「時にはそういうこともなさいます。その人物の力量次第です。最も、神が直接干渉なさるのではありません」

 「神学には〝先行恩寵〟という教義があります」 (苦を和らげるために前もって神が人の心に働きかけて悔悟に導くという行為のこと───訳者)

 「ありますね。神は毛を刈り取られた羊への風を和らげてあげるという信仰です(※)時にはそういうこともあることは事実です。が、神といえども本人の受け入れ能力以上のものを授けることはできません。

 それは各個の魂の進化の問題です。私がそういう法則をこしらえたわけではありません。法則がそうなっていることを私が知ったということです。

 みなさんもいつかは死ななくてはなりません。霊の世界へ生まれるために死ななくてはなりません。地上の人にとってはそれが悲しみの原因になる人がいますが、霊の世界の大勢の者にとってそれは祝うべき慶事なのです。要は視点の違いです。 私たちは永遠の霊的観点から眺め、あなた方は地上的な束の間の観点から眺めておられます」

(※ 英国の小説家ロレンス・スターンの小説の中の一節で、弱き者への神の情けを表現する時によく引用される───訳者)


 ここでサークルの二人のメンバーが身内や知人の死に遭遇すると無常感を禁じ得ないことを口にすると、シルバーバーチはこう述べた。

 「霊に秘められた才覚のすべてが開発されれば、そういう無常感は覚えなくなります。が、これは民族並びに個人の進化に関わる問題です。私にはそのすべての原理を明らかにすることはできません。私とて、すべてを知っているわけではないからです。あなた方より少しばかり多くのことを知っているだけです。

 そしてその少しばかりをお教えすることで満足しております。知識の総計と較べれば微々たるものです。が、私は神の摂理が地上とは別個の世界においてどう適用されているかをこの目で見て来ております。

 数多くの、そしてさまざまな環境条件のもとでの神の摂理の働きを見ております。そして私がこれまで生きてきた三千年の間に知り得たかぎりにおいて言えば、神の摂理は知れば知るほどその完璧さに驚かされ、その摂理が完全なる愛から生まれ、完全なる愛によって管理され維持されていることを、ますます思い知らされるばかりなのです。

 私も摂理のすみずみまで見届けることはできません。まだまだすべてを理解できる段階まで進化していないからです。理解出来るのはほんの僅かです。しかし、私に明かされたその僅かな一部だけでも、神の摂理が完全なる愛によって計画され運営されていることを得心するには十分です。
 
 私は自分にこう言い聞かせているのです───今の自分に理解できない部分もきっと同じ完全なる愛によって管理されているに相違ない。もしそうでなかったら宇宙の存在は無意味となり不合理な存在となってしまう。

 もしこれまで自分が見てきたものが完全なる愛の証であるならば、もしこれまでに自分が理解してきたものが完全なる愛の証であるならば、まだ見ていないもの、あるいはまだ理解できずにいるものも又、完全なる愛の証であるに違いない、と。

 ですから、もしも私の推理に何らかの間違いを見出されたならば、どうぞ遠慮なく指摘していただいて結構です。私はよろこんでそれに耳を傾けるつもりです。私だっていつどこで間違いを犯しているか分からないという反省が常にあるのです。無限なる宇宙のほんの僅かな側面しか見ていないこの私に絶対的な断言がどうしてできましょう。

 ましてや地上の言語を超越した側面の説明は皆目できません。こればかりは克服しようにも克服できない、宿命的な障壁です。そこで私は、基本的な真理から出発してまずそれを土台とし、それでは手の届かないことに関しては、それまでに手にした確実な知識に基づいた信仰をおもちなさい、と申し上げるのです。

 基本的真理にしがみつくのです。迷いの念の侵入を許してはなりません。これだけは間違いないと確信するものにしがみつき、謎だらけに思えてきた時は、ムキにならずに神の安らぎと力とが宿る魂の奥の間に引き込もることです。そこに漂う静寂と沈黙の中にその時のあなたにとって必要なものを見出されることでしょう。

 常に上を見上げるのです。うつ向いてはなりません。うなだれる必要はどこにもありません。あなたの歩む道に生じることの一つ一つがあなたという存在を構成していくタテ糸でありヨコ糸なのです。これまでにあなたの本性の中に織り込まれたものはすべて神の用意された図案(パターン)にしたがって織られていることを確信なさることです。

 さて本日もここから去るに当たって私から皆さんへの愛を置いてまいります。私はいつも私からの愛を顕現しようと努力しております。お役に立つことならばどんなことでも厭わないことはお分かりいただけてると思います。

 しかし、楽しく笑い冗談を言い合っている時でも、ここにこうして集い合った背後の目的をゆめゆめ忘れないようにいたしましょう。神は何を目的としてわれわれを創造なさったのかを忘れないようにいたしましょう。

 その神との厳粛なつながりを汚すようなことだけは絶対にしないように心がけましょう。こうした心がけが、神の御心に適った生き方をする者にかならず与えられる祝福、神の祝福を受けとめるに足る資格を培ってくれるからです」

(訳者注───本章は一見なんでもないことを述べているようで、その奥に宇宙の厳粛な相(すがた)を秘めたことを何の衒(てらい)もなく述べた、シルバーバーチ霊言集の圧巻であるように思う。特に〝私は自分にこう言い聞かせているのです〟で始まる後半の部分は熟読玩味に値する名言で、その中にシルバーバーチの霊格の高さ、高級霊としての証が凝縮されているように思う。

 霊格の高さを知る手掛かりの一つは謙虚であるということである。宇宙の途方もない大きさと己れの小ささ、神の摂理の厳粛さと愛を真に悟った者はおのずと大きなことは言えなくなるはずである。

 反対に少しばかり噛(かじ)った者ほど大言壮語する。奥深い厳粛なものに触れていないからこそ大きな口が利けるのであろう。それは今も昔も変わらぬ世の常であるが、霊的なことが当然のこととして受け入れられるようになるこれからの世の中にあっては、人を迷わせる無責任きわまる説が大手を振ってのさばることが予想される。そうしたものに惑わされないためにはどうすべきか。

 それはシルバーバーチが本章で述べている通り、基本的真理にしがみつくことである。われわれ人間は今この時点においてすでに霊であること、地上生活は次の段階の生活に備えて霊的資質を身につけることに目的があること、人生体験には何一つ無駄なものはないこと、ただそれだけのことを念頭において地道に生きることである。

 本章を訳しながら私はシルバーバーチの霊訓の価値を改めて認識させられる思いがしてうれしかった)
 

Monday, January 23, 2023

シアトルの冬 人生の究極の目的は、地上の死後も、霊性を開発することにあります。

 The ultimate purpose of life is to develop spirituality after death on earth.



───他界した肉親が地上へ戻って来る───たとえば父親が息子のもとに戻ってくる場合、その根本にあるのは戻りたいという一念でしょうか。それとも今おっしゃった目的で霊媒を通じてメッセージを送りたいからでしょうか。
 

「戻りたいという一念からです。ですが一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望は愛に根ざしています。

 父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ父親はあらゆる障害を克服して戻って来るのです。

困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって息子は、父親の他界という不幸を通じて魂が目を覚まし霊的自我を見出します。

 

かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが霊的発達のスタートという形で終わることになります」


───なるほど、そういうことですか。言いかえれば神は進化の計画のためにありとあらゆる体験を活用するということですね?
 

「人生の究極の目的は、地上の死後も、霊性を開発することにあります。物質界に誕生するのもその為です。

 

その目的に適った地上生活を送れば霊はしかるべき発達を遂げ、次の生活の場に正しく適応できる霊性を身につけた時点で死を迎えます。

そのように計画されているのです。

 こちらへ来てからも同じ過程が続き、その都度霊性が開発され、その都度古い身体から脱皮して霊妙さを増し、内部に宿る霊の潜在的な完全さに近づいてまいります」

シルバーバーチ

Sunday, January 22, 2023

シアトルの冬 霊媒の書 The Medium's Book

 



霊媒の書
アラン・カルデック


序文

スピリチュアリズムの実践面(交霊実験会・霊能開発等)において遭遇する困難や失望が霊的基本原理についての無知に起因していることは、何よりも日頃の経験が雄弁に物語っている。

これまで我々はそのことを警告する努力を重ねてきたが、その努力の甲斐あって、本書にまとめたようなことを精読することで危険を回避することができた人が少なくないことを知って、喜びに堪えない。

スピリチュアリズムに関心を抱くようになった人は、霊と交信してみたいと思うようになる。それは極めて自然なことで、本書を上梓する目的も、これまでの長くそして労の多かった調査研究の成果を披露することによって、健全な形でその願望を叶えさせてあげることにある。

本書をしっかりお読みいただけば、テーブル現象はテーブルに手を置くだけでよい、通信を受け取るにはエンピツを握りさえすればよいかに想像している人は、スピリチュアリズムの全体像を大きく見誤っていることに気づかれるであろう。

とは言うものの、本書の中に霊能養成のための絶対普遍の秘策が見出せるかに期待するのも、同じく間違いである。と言うのは、全ての人間に霊的能力が潜在していることは事実であるが、その素質にはおのずと程度の差があり、それがどこまで発達するかは、自分の意志や願望ではどうすることもできない、さまざまな要因があるのである。

それは、たとえば詩や絵画や音楽の理論をいくら勉強しても、先天的に優れた才能を持って生まれていないかぎりは、形だけは詩であり、絵画であり、音楽といえるものはつくれても、詩人・画家・音楽家といえるほどの者になれるとは限らないのと同じである。


本書についても同じことが言える。その目的とするところは、各自の受容力が許す範囲での霊的能力の発達を促す手段をお教えすることであり、とりわけその能力の有用性を引き出す形で行うことである。

ただし、それだけが本書の目的の全てではないことをお断りしておく。本格的な霊能者といえる人以外にも、霊的現象を体験したいと思っている人が大勢いる。そういう人たちのさまざまな試みのためにガイドラインを用意してあげ、その試みの中で遭遇するかも知れない――というよりは、必ず遭遇するに決まっている障害を指摘し、霊との交信の手ほどきをしてあげ、すぐれた通信を入手するにはどうすべきかを教えてあげること、それが、十分とは言えないかも知れないが、本書が目的としているところである。

であるから、読者によってはなぜそんなことを述べるのか理解に苦しむことにも言及しているが、それは経験を積んでいくうちに「なるほど」と納得がいくであろう。前もってしっかりと勉強しておけば、目撃する現象についてより正しい理解が得られるであろうし、霊の述べることを奇異に思うことも少なくなるであろう。そのことは、霊媒や霊感者としてすでに活躍している人だけでなく、スピリチュアリズムの現象面を勉強したいと望んでいる人すべてに言えることである。

そうした指導書(マニュアル)をこんな分厚い書物でなしに、ごく短い文章で述べた簡便なものにしてほしいという要望を寄せた人がいた。そういう人たちは、小冊子の方が価格が安くて広く読まれるであろうし、霊媒や霊感者の増加にともなって強力なスピリチュアリズムの宣伝の媒体となると考えたようである。しかし、少なくとも現時点でそういう形で出すことは、有用どころか、むしろ危険ですらあると考える。

スピリチュアリズムの実践面には常に困難がつきまとうもので、よくよく真剣な勉強をしておかないと危険ですらある。従ってそうした複雑な世界に簡便なマニュアルだけで安易に入り込むと、取り返しのつかない危害をこうむることがあるのである。

このようにスピリチュアリズムは軽々しく扱うべき性質のものではないし、危険性すらはらむものであるから、まるで暇つぶしに死者の霊を呼び出して語り合うだけの集会のように考える人間がこの道に手を染めてもらっては困るのである。本書が対象としているのは、スピリチュアリズムの本質の深刻さを認識し、その途轍もなく大きい意義を理解し、かりそめにも面白半分に霊界との交信を求めることのない人々である。

本書には、これまでの我々の長年にわたる実体験と慎重な研究の末に得た資料の全てが収められている。これをお読みいただくことによって、スピリチュアリズムが、人生を考える上で見過ごすことのできない重大な意義を秘めているとの認識が生まれ、軽薄な好奇心と娯楽的な趣味の対象でしかないかに受け取られる印象を拭い去ることになるものと期待している。

以上のことに加えてもう一つ、それに劣らず重大なことを指摘しておきたい。それは、心霊現象のメカニズムについての正しい知識もなしに軽率に行われた実験会は、出席した初心者、およびスピリチュアリズムに良からぬ先入観を抱いている者に、霊界というものに関して誤った概念を植えつけ、そのことがさらにスピリチュアリズムは茶番だと決めつける口実にされてしまうことである。

半信半疑で出席した者は当然その種の交霊会をいかがわしいものと結論づける。そしてスピリチュアリズムに深刻な側面があることを認めるまでには至らずに終わる。スピリチュアリズムの普及にとって、肝心の霊媒や霊感者みずからが、その無知と軽薄さによって、想像以上に大きい障害となっているのである。


一八四八年に勃興したスピリチュアリズムは、当初の現象中心から霊的思想へと重点が移行してきたここ数年(一八六一年の時点)で飛躍的な発達を遂げた。このことには、多くの学者や知識人がその真実性と重大性を認識したことが大きく貢献している。もはや、かつてのような見世物(ショー)的な段階から脱して、確固とした教説としての認識を得ている。

確信をもって断言するが、こうした霊的教説を基盤とするかぎりスピリチュアリズムはますます有能な同志を引き寄せるであろう。すぐに現象を見せようとして安直な交霊会を催すのは得策ではないし、危険でもある。この確信は、前著『The Spirits' Book』をひと通り目を通しただけで我々のもとへ駆せ参じた人の数の多さが雄弁に物語っている。

その思想的側面については前著で詳しく語ったので、本書では、自分の霊能で霊的現象を求めておられる人、および霊媒による交霊会で現象を正しく理解したいと思っておられる方のために、おもにその実際的側面を扱うことにした。これをしっかりとお読みいただけば、遭遇する障害についてあらかじめ理解し、かつそれを回避することにもなるであろう。


最後に付言すれば、本書の校正は、内容そのものに係わった霊、いわゆる通信霊みずからが行った。全体の構成についても、かなりの部分に彼らの思う通りの修正を加え、彼ら自身が述べた意見の一つ一つについても確認作業を行っている。

通信霊は自分の所見にはかならず署名(サイン)をしているが、本書ではその全てを付記することは避け、通信者が誰であるかをはっきりさせた方がよいと思うものだけにとどめた。

が、本来、霊的なことに関するかぎり、通信霊が地上でどういう名前の人物であったかは、ほとんど意味をなさない。要はその通信の内容そのものだからである。

アラン・カルデック

一八六一年 パリにて。

Saturday, January 21, 2023

シアトルの冬 霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかはありません。

 Those who desire spiritual growth have no choice but to live in a way that promotes spiritual growth.



タネ蒔きと収獲(絶対不変)の摂理

 大地が〝実り〟を産み出していく自然の営みの中に、神の摂理がいかに不変絶対であるかの教訓を読み取るべきです。大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、大自然の仕組みのすばらしさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、そのすべてを計画した宇宙の大精神、すなわち神の御心をいくばくかでも悟られるはずです。

蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。

蒔かれた原因(たね)は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの結果(みのり)をもたらします。自然界ついて言えることは人間界についてもそのまま当てはまります。

 
利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。

寛容性のない人、頑(かたくな)な人、利己的な人は、不寛容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。

発生した原因は数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。

聖職者であろうと、聖職者でなかろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。

霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかはありません。

その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのです。

邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身が犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。

人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡智と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは神がぜんぶ用意してくださっております。

材料は揃っているのです。あとは各自がそれをいかに有効に使用するかに掛かっております。

シルバーバーチ

Friday, January 20, 2023

シアトルの冬 なぜなら神こそ真の博愛主義者だからである。Because God is the true philanthropist.


〔本章の通信も前章と同様イムペレーターからのものである。地上という人格養成学校における最も望ましい生活はいかなる生活かという質問から始まった。

 イムペレーターは頭脳と同時に心の大切さを強調し、身体と知性と愛情の調和の取れた発育が望ましいことを説いた。

 要するにバランスの欠如が進歩を妨げる大きな要因であると言う。そこで私は博愛主義者が理想的人間像なのかと尋ねた。すると───〕


 真実の博愛主義者、全てに先んじて同胞の利益と進歩を慮(おもんばか) る人こそ真実の人間、真の神の子である。なぜなら神こそ真の博愛主義者だからである。

 真の博愛主義者とは時々刻々と神に近づきつつある者のことである。絶え間なき努力によりて永遠にして不滅の同情心を広げつつ、その不断の同情心の行使の中に、汲めども尽きぬ幸福感を味わう。

 博愛主義者と哲学者、すなわち人類愛に燃える人間と偏見なき道理探究者こそ神の宝───比類なき価値と将来性に満ちた珠玉である。

 前者は民族の違い、土地の違い、教義の違い、名称の違い等の制約に捉われることなく、一視同仁、全人類を同胞としてその温かき心の中に抱き込む。

 全ての人間を、友としてまた兄弟として愛するのである。

 思想の如何を問わず、ひたすらにその者の必要とするものを洞察し、それに相応しい進歩的知識を授けることに無上の喜びを覚える。

 これぞ真の博愛主義者である。もっとも、しばしば似て非なる博愛主義者がいる。己の名声を広めんがために己に同調する者、それに媚びへつらい施しをする者のみを愛する。

 かくの如き似非博愛主義者はその真実の印である〝博愛〟を傷つける者である。

 一方哲学者は一切の宗教、いかなる教派のドグマにも媚びず、一切の偏見を捨て、いかなる真理でも、いやしくも証明されたものは潔く受け入れる。

 即ち、かくあるべき───従ってかくあらねばならぬという固定観念に捉われることなく、神的叡智の探求に邁進し、そこに幸せを見いだす。

 彼には宝庫の尽きることを懸念する必要はない。なんとなれば神の真理は無限だからである。

 生命の旅を通じてひたすらに、より豊かな知識の宝の蒐集に喜びを見いだす。言い換えれば神についてのより正しき知識の蒐集である。 

 この二者の結合、すなわち博愛主義者的要素と哲学者的要素とが一体となりし時、そこに完璧なる理想像ができあがる。両者を兼ねそなえし魂は片方のみを有する魂より大いなる進歩を遂げる。


───〝生命の旅〟といわれましたが、これは永遠ですか。

 然り。生命は永遠である。そう信じるに足る十分な証がある。生命の旅には二つの段階がある。即ち進歩的〝動〟の世界と超越的〝静〟の世界である。

 今なお〝動〟の世界にあり(汝らの用語で言えば)幾十億年───限りある知性の範囲を超えし事実上無限の彼方までも進化の道程を歩まんとするわれらとて、超越界については何一つ知らぬ。

 が、われらは信じる───その果てしない未来永劫の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。過去の全てを捨て去り、神の光をあびつつ宇宙の一切の秘密の中に寂滅(じゃくめつ)する、と。

 が、それ以上は何一つ語れぬ。あまりに高く、あまりに遠すぎるのである。汝らはそこまで背伸びすることはない。生命には事実上終末はなきものと心得るがよい。

 そしてその無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院に通じる遥か手前の門に近づくことを心がけておればよい。


───無論そうであろうと思います。あなたご自身は地上に居られた時より神について多くを知ることを得ましたか。

 神の愛の働き、無限なる宇宙を支配し導く暖かきエネルギーの作用についてはより多くを知ることを得た。

 つまり神については知ることを得た。が神そのものを直接には知り得ぬ。これより後も、かの超越界に入るまでは知りえぬであろう。われらにとっても神はその働きより知り得るのみである。

インピレーター





Thursday, January 19, 2023

シアトルの冬 「天国では嫁を貰うとか嫁にやるとかいうことはなく、すべて神の使いとして暮らすのみである」


"In heaven, there is no such thing as getting a wife or giving daughter to a wife, they just live as messengers of God."

モーゼスの「霊訓」


〔しばしば交霊会に出現していた夫婦の霊が、別の仕事の境涯へ向上して行ったと聞いていたので、夫婦の絆は永遠のものかどうかを尋ねた。〕

 それはひとえに霊的嗜好の類似性と霊格の同等性による。その両者が揃えば二者は相寄り添いて向上できる。われらの世界には共通の嗜好をもつ者、同等の霊格をもち互いに援助し合える者同士の交わりがあるのみである。われらの生活においては魂の教育が全てに優先し、刻一刻と進化している。同質でなければ協同体は構成されぬ。

したがって当然互いの進化にとって利益にならぬ同士の結びつきは長続きせぬ。地上生活において徒らに魂を傷つけ合い、向上を妨げるのみであった夫婦の絆は、肉体の死と共に終わりを告げる。

逆に互いに支え合い援助し合う関係にあった結びつきは、肉体より解放されたのちも、さらにその絆を強め発展していく。そして二人を結ぶ愛の絆が互いの発展を促す。かくの如く両者の関係が永続するのは、それが地上で結ばれた縁であるからというのではなく、相性の良さゆえに、互いが互いの魂の教育に資するからである。

かくの如き結婚の絆は不滅である。ただしその絆は親友同士の関係程度の意味である。それが互いの援助と進化によって一層強化されていく。

そして互いに資するところがあるかぎり、その関係は維持されていく。やがてもはや互いに資するものがなくなる時期が到来すると、両者は分かれてそれぞれの道を歩み始める。そこにはなんの悲しみもない。なぜなら相変わらず心を通じ合い、霊的利益を分かち合う仲だからである。

もしも地上的縁が絶対永遠のものであるとすれば、それは悲劇までも永遠であることを意味し、向上進化が妨げられることになる。そのような愚行は何ものにも許されていない。


───それは分かります。しかし私の観たかぎりでは、知的にも道徳的にも同等とは思えない者同士が互いに深く愛し合っているケースがあるように思えるのですが。

 愛し合う者同士を引き裂くことは絶対に出来ぬ。汝らはとかくわれら霊同士の関係を時間と空間の観念にて理解せんとするが故に納得がいかぬのである。霊同士は汝らの言う空間的に遠く離れていても親密に結び合うことが出来るということが理解できぬであろう。

われらには時間も空間も存在せぬ、われらは知性の発達程度が完全に同一でない限り直接の交流は有り得ぬ。それはわれらには全くあり得ぬことなのである。が、たとえわれらの言う同一の発達程度まで到達していなくても、真実の愛があれば、その絆によって結ばれることは可能である。

愛は距離をいかに隔てても霊同士を強く結びつける。それは地上に置いても見られることである。離ればなれになった兄弟も、たとえ海を隔てて、別れて何年経ようとも、兄弟愛はいささかも失われぬ。求めるものは異なるかも知れぬ。

物の考え方も違うであろう。が共通の愛は不変である。夫に虐待され死ぬ思いに耐えつつ、なおその夫を愛し続ける妻もいる。

 肉体の死は妻をその虐待の苦しみから救ってくれる。そして天国へと召される。一方地上の夫はさらに地獄の道を下り続けるであろう。が、たとえ二人二度と結ばれることはなくとも、夫への妻の愛は不滅である。その愛の前に空間は消え失せるのである。

われらにとっても空間は存在せぬ。これでも汝は朧気(おぼろげ)ながらも理解が行くことと思うが、われらにとっての結合関係とは発達程度の同一性と、嗜好の共通性と、進化の協調性を意味するのであり、汝らの世界の如き一体不離の関係などというものは存在せぬ。


───では聖書の「天国では嫁を貰うとか嫁にやるとかいうことはなく、すべて神の使いとして暮らすのみである」という言葉は真実ですか。

 その言葉どおりである。先にわれらは進歩の法則と交わりの法則について述べたが、その法則は不変である。現在の汝にとって立派と思えることも、肉体の死とともに捨ててしまうであろうことが数多くある。地上という環境が汝の考えを色づけしているのである。

よってわれらとしても、比喩を用い、地上的表現を借りて説明せざるを得ぬことが多々ある。それ故われらの世界にのみ存在して汝らの世界に存在せず、現在の汝の知識を超越し、従って地上の言語によって大凡のことを伝えるほかなき事情のもとで用いた字句にあまりこだわりすぎてはならぬわけである。

Wednesday, January 18, 2023

 シアトルの冬  神とは  What is God

   


 
大自然の仕組みの美事な芸術性

ダイヤモンドの如き夜空の星の数々、
太陽のあの強烈な輝き、
名月のあの幽玄な輝き、
あたかも囁(ささや)きかけるようなそよ風、それを受けて揺れる松の林、
さらさらと流れるせせらぎと、
怒涛(どとう)の大海原に目を向けさせ、
そうした大自然の一つ一つの動きが
確固とした目的を持ち、
法則によって支配されていることを
指摘します。


そして更に人間がこれまで自然界で発見した
ものはすべて法則の枠内に収まること、
自然界の生成発展も法則によって支配され規則されていること、
その全体に人間の想像を絶した広大にして
入り組んだ、
それでいて調和した一つの
パターンがあること、
全大宇宙のすみずみに至るまで秩序が
行き亘っており、
惑星も昆虫も嵐もそよ風も、
その他あらゆる生命活動が───いかに現象が複雑をきわめていても───その秩序によって経綸されていることを説いて聞ませます。

そう説いてから私は、
その背後の力、
すべてを支えているエネルギー、
途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、
人間にはまだ知られていない見えざる
世界までも支配している奇(くしび)な力、
それを神と呼ぶのだと結びます。

シルバーバーチ

Tuesday, January 17, 2023

  シアトルの冬 さ迷う子供たちへ  lost children 




神よ、
かたじけなくも、
あなたは私たちに御力の証を授け給い、
私たちが睦み合い、
求め合って魂に宿れる御力を発揮することを
得さしめ給いました。

あなたを求めて、
数知れぬ御子らが無数の曲がりくねった道を
さ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私たちは、
切望する御子らに、
それを知らしめんと努力いたしております。

願わくは、
その志を良しとされ、
限りなき御手の存在を知らしめ給い、
温かき御胸こそ魂の憩いの場なる事を知らしめ給わんことを。

シルバーバーチ

Saturday, January 14, 2023

シアトルの冬 スピリチュアリズムとは信仰ではありません。Spiritualism is not a belief.

 



スピリチュアリズムとは信仰ではありません。

人間とは本来は霊的存在であるということ、我々は神の不変の法則のもとで生きているということを知る〝知識〟なのです。

神はこの宇宙を不変の法則によって支配し顕現していくように定めました。

宇宙のあらゆる側面が法則によって治められているのです。

この物的地上界であろうと、人間に感知できない、それよりはるかに大きな霊界であろうと、法則が行き届かないというところはどこにもありません。

シルバーバーチ

Friday, January 13, 2023

シアトルの冬 霊 訓 W・S・モーゼス著        The Spirit Teaching Written by W. S. Moses                            近藤千雄 訳     序 論



 本書の大半を構成している通信は、自動書記(1)ないし受動書記(2)と呼ばれる方法によって得られたものである。これは直接書記(3)と区別されねばならない。

前者においては霊能者がペンまたは鉛筆を手に握るか、あるいは、プランセントに手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれる。一方後者においては霊能者の手をつかわず、時にはペンも鉛筆も使わずに、直接的にメッセージが書き記される。

 自動書記というのは、われわれが漠然と〝霊〟(スピリット)と呼んでいる知的存在の住む目に見えない世界からの通信を受け取る手段として、広く知られている。

読者の中には、そんな得体の知れない目に見えぬ存在───人類の遺物、かつての人間の殻のような存在───を霊と呼ぶのはもったいないとおっしゃる方がいるであろうことはよく承知している。が私は霊という用語がいちばん読者に馴染みやすいと思うからそう呼ぶまでで、今その用語の是非について深く立ち入るつもりはない。

とにかく、私に通信を送って来た知的存在はみな自分たちのことを霊と呼んでいる。多分それは私のほうが彼らのことを霊と呼んでいるからであろう。そして少なくとも差し当たっての私の目的にとっては、彼らは〝霊〟(スピリット)でいいのである。

 その霊たちからのメッセージが私の手によって書かれ始めたのはちょうど十年前の一八七三年三月三十日のことで、スピリチュアリズムとの出会いからほぼ一年後のことであった。もっとも、それ以前にも霊界からの通信は(ラップや霊言(5)によって)数多く受け取っていた。

私がこの自動書記による受信方法を採用したのは、この方が便利ということと同時に、霊訓の中心となるべく意図されているものを保存しておくためでもあった。

ラップによる方法はいかにもまどろこしくて、本書のような内容の通信には全く不適当だった。一方、入神した霊媒の口を使ってしゃべると部分的に聞き落とすことがあり、さらに当初のころはまだ霊媒自身の考えが混じらないほど完全な受容性を当てにすることは不可能でもあった。

 そこで私はポケットブックを一冊用意し、それをいつも持ち歩くことにした。すると私の霊的オーラがそのノートに染み込んで、筆記がより滑らかにでてくることが判った。

それは、使い慣れたテーブルの方がラップが出やすく、霊媒自身の部屋の方が新しい部屋よりも現象が起きやすいのと同じ理屈である。スレートを使った通信(6)の専門霊媒であるヘンリー・スレードも、新しいスレートを使ってうまく行かない時は、使い古したものを使うとまず失敗がなかった。

今このことにこれ以上言及しない。その必要がないほど理屈は明瞭だからである。

 最初の頃は文字が小さく、しかも不規則だったので、ゆっくりと丁寧に書き、手の動きに注意しながら、書かれていく文章を後から追いかけねばならなかった。そうしないとすぐに文章が通じなくなり、結局はただの落書きのようなものになってしまうのだった。

 しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきた。文字はますます小さくなったが、同時に非常に規則的で字体もきれいになってきた。あたかも書き方の手本のような観のするページもあった。(各ページの最初に書いた)私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていた。神 Godの文字は必ず大文字で、ゆっくりと、恭しげに綴られた。

 通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図した私的(プライベート)な色彩を帯びていた。

一八七三年に始まって八十年まで途切れることなく続いたこの通信のなかに、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言語、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類は、私の知るかぎり一片も見当たらなかった。

知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわないものはおよそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つが誠実さと実直さと真剣さに満ちあふれていた。

 初期の通信は先に説明した通りの、きちんとした文字で書かれ、文体も一貫しており、署名(サイン)はいつもドクター・ザ・ティ―チャー(7)だった。

通信の内容も、それが書かれ続けた何年かの間ずっと変わらなかった。いつ書いても、どこで書いても筆跡に変化がなく、最後の十年間も、私自身のふだんの筆跡が変わっても、自動書記の筆跡はほとんど変わることがなかった。文章上のクセもずっと同じで、それは要するに通信全体を通じて一つの個性があったということである。

その存在は私にとって立派な実在であり、一人の人物であり、大ざっぱな言い方をさせていただければ、私がふだんつき合っている普通の人間とまったく同じように、独自の特徴と個性を具えた存在であった。

 そのうち別の通信が幾つか出はじめた。筆跡によっても、文体及び表現の特徴によっても、それぞれの区別がついた。その特徴は、いったん定着すると等しく変わることがなかった。私はその筆跡をひと目見て誰からの通信であるかがすぐに判断できた。

 そうしているうちに徐々に判ってきたことは、私の手を自分で操作できない霊が大勢いて、それがレクター(8)と名のる霊に書いて貰っているということだった。

レクターは確かに私の手を自在に使いこなし、私の身体への負担も少なかった。不慣れな霊が書くと、一貫性がない上に、私の体力の消耗が激しかった。そういう霊は自分が私のエネルギーを簡単に消費していることに気づかず、それだけ私の疲労も大きかったわけである。
℘18
 さらに、そうやって代書のような役になってしまったレクターが書いたものは流暢で読み易かったが、不慣れな霊が書いたものは読みずらい上に書体が古めかしく、しばしばいかにも書きづらそうに書くことがあり、ほとんど読めないことがあった。

そう言うことから当然の結果としてレクターが代書することになった。しかし、新しい霊が現れたり、あるいは、特殊なメッセージを伝える必要が生じたときは本人が書いた。


 断っておきたいのは、私を通じて得られた通信の全てが一つの源から出たものではないということである。本書に紹介した通信に限って言えば、同じ源から出たものばかりである。すなわち、本書はイムペレーター(9)と名のる霊が私と係り合った期間中の通信の記録である。

もっともイムペレーター自身は直接書くことをせず、レクターが代書している。その期間、特にイムペレーターとの関係が終わったあとは明らかに別の霊団からの通信があり、彼らは彼らなりの書記を用意した。

その通信は、その霊団との係わりが終わる最後の五年間はとくに多くなっていった。

 通信の書かれた環境はそのときどきでみな異なる。原則としては、私は一人きりになる必要があり、心が受身的になるほど通信も出やすかったが、結果的には如何なる条件下でも受け取ることができた。

最初の頃は努力を要したが、そのうち霊側が機械的に操作する要領を身につけたようで、そうなってからは本書に紹介するような内容の通信が次から次へと書かれていった。本書はその見本のようなものである。

 本書に紹介したものは、初めて雑誌に発表した時と同じ方法で校正が施してある。最初は心霊誌 Spiritualist に連載され、その時は筆記した霊側が校正した。もっとも内容の本質が変えられたところはない。その連載が始まった時の私の頭には、今こうして行っている書物としての発行のことはまったく無かった。

が多くの友人からサンプルの出版をせがまれて、私はその選択に取りかかった。が、脈絡のことは考えなかった。

その時の私を支配していた考えは、私個人の私的(パーソナル)な興味しかないものだけは絶対に避けようということだけで、それは当然まだ在世中の人物に言及したものも避けることにもつながった。私個人に係わることを避けたのは、ただそうしたいという気持ちからで、一方、他人に言及したものを避けたのは、私にそのような権利はないと考えたからである。

結果的には私にとって或る意味で最も衝撃的で感動的な通信を割愛することになってしまった。本書に発表されたものは、そうした、今は陽の目を見ることができないが、いずれ遠い将来、その公表によって私を含め誰一人迷惑をこうむる人のいなくなった時に公表を再考すべき厖大な流の通信の、ほんの見本にすぎないと考えていただきたい。

 通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なほどの配慮をしたつもりである。

最初の頃は筆致がゆるやかで、書かれて行く文をあとから確かめるように読んでいかねばならなかったほどであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも、間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。

でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れれぬ正確さで筆記されていった。

 こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体でつづられているのである。

 だからといって、私は決して私自身の精神が使用されていないというつもりはないし、得られた通信が、それが通過した私という霊媒の知的資質によって形体上の影響を受けていないというつもりもない。

私の知るかぎり、こうした通信にはどこか霊媒の特徴が見られるのが常である。影響がまったく無いということはまず考えられない。

しかし、確実に言えることは、私に送られてきた通信の大部分は私の頭の中にあることとはおよそ縁のないものばかりであり、私の宗教上の信念ともその概念上において対立しており、さらに私のまったく知らないことで、明確で確実で証明可能な、しかもキメの細かい情報がもたらされたことも幾度かあったということである。

テーブルラップによって多くの霊が自分の身許についての通信を送ってきて、それを後にわれわれが確認したりしたのと同じ要領で、私の自動書記によってそうした情報が繰り返し送られてきたのである。

 私はその通信の一つ一つについて議論の形式で対処している。そうすることで、ある通信は私に縁もゆかりもない内容であることが明確に証明され、またある通信では私の考えとまったく異なる考えを述べる別個の知的存在と交信していることを確信することができるわけである。実際、本書に収録した通信の多くはその本質をつきつめれば、多分、まったく同じ結論に帰するであろう。

 通信はいつも不意に来た。私の方から通信を要求して始まったことは一度もない。要求して得られることはまずなかった。突如として一種の衝動を覚える。どういう具合にかは私自身にも判らない。とにかくその衝動で私は机に向かって書く用意をする。

一連の通信が規則正しく続いている時は一日の最初の時間をそれに当てた。私は起きるのが早い。そして起きるとまず私なりの朝の礼拝をする。衝動はしばしばその時に来た。

といってそれを当てにしていても来ないことことがあった。自動書記以外の現象もよく起きた。健康を損ねたとき(後半よく損ねたが)を除き、いよいよ通信が完全に途絶えるまで、何の現象も起きないということは滅多になかった。

 さて、膨大な量の通信の中でもイムペレーターと名のる霊からの通信が私の人生における特殊な一時期を画している。本書の解説の中で私は、そのイムペレーターの通信を受け取った時の魂の高揚、激しい葛藤、求めても滅多に得られなかった心の安らぎに包まれた時期について言及しておいた。

それは私が体験した霊的発達のための教育期間だったわけで、結果的には私にとって一種の霊的新生となった。その期間に体験したことは他人には伝えようにも伝えられる性質のものではない。伝えたいとも思わない。

しかし内的自我における聖霊の働きかけを体験したことのある方々には、イムペレーターという独立した霊が私を霊的に再教育しようとしたその厚意ある働きかけの問題は、それでもう十分解決されたと信じていただけると思う。

表面的にはあれこれと突拍子もないことを考えながらも、また現に問い質すべきいわれは幾らでもあるにもかかわらず、私はそれ以来イムペレーターという霊の存在を真剣に疑ったことはただの一度もない。

 この序論は、私としては全く不本意な自伝風のものとなってしまった。私に許される唯一の弁明は、一人の人間の霊体験の物語は他の人々にとっても有益なものであることを確信できる根拠が私にある、ということだけである。 

これから披露することを理解していただくためには、不本意ながら、私自身について語る必要があったのである。私は、その必要を残念に思いながらも、せめて本書に記載したことが霊的体験の一つの典型として心の琴線に触れる人には有益であると確信したうえで、その必要性におとなしく従うことにした。

真理の光を求めて二人の人間がまったく同じ方法で努力することはまずないであろう。しかし、私は人間各自の必要性や困難には家族的ともいうべき類似性があると信じている。ある人にとっては私のとった方法によって学ぶことが役に立つ日が来るかもしれない。

現にこれまでもそうした方がおられたのである。私はそれを有難いと思っている。

 こうしたこと、つまり通信の内容と私自身にとっての意義の問題以外にも、自動書記による通信の形式上の問題もあるが、これはきわめて些細な問題である。通信の価値を決定づけるのはその通信が主張する内容そのもの、通信の目的、それ本来の本質的真理である。その真理が真理として受け入れられない人は多いであろう。

そういう人にとっては本書は無意味ということになる。また単なる好奇心の対象でしかない人もいるであろう。愚か者のたわごととしか思えぬ人もいるであろう。私は決して万人に受け容れて貰えることを期待して公表するのではない。

 
その人なりの意義を見出される人のために本書が少しでも役に立てば、それで私は満足である。
                  
ステイントン・モーゼ 一八八三年三月


Thursday, January 12, 2023

シアトルの冬 通信の内容に矛盾が生じる諸原因     Causes of discrepancies in communication content



霊界から届けられた通信の内容に、時おり矛盾が見出されることがある。その原因とそれが及ぼす影響の大きさは表裏一体の関係にあるようである。


その意味は、我々はともすると霊界を平面的に想像して、霊の言うことならみな同じであるものと考えがちである。が、霊の世界の実情が分かってみると、地上界に近い最低の界層から、物的束縛から完全に解脱した超越界に至るまで、事実上無限の階梯があって、上層界へ行くほど広い視野から眺めるので誤りが少なくなるが、地上の人間に通信を送るのは低界層の霊が多いので視野が狭く、それだけ誤った認識も多くなり、結果的には矛盾点も多いことになる。

では、そうした玉石混交の中にあって本物と偽物、上等と下等を見分けるにはどうすればよいか――本章はその点に的をしぼった質疑応答を集めた。

―同じ霊が二つの交霊会に出て述べたことが矛盾することが有り得るでしょうか。


「その二つの交霊会が思想的に異質であれば支配している霊団が異なるわけですから、その伝達した通信が枉(ま)げられることがあります。通信霊は同じことを述べていても、霊媒を通して届けられるまでに、その場を支配する波動で内容が脚色されるのです。」

―その場合は理解できるのですが、二つの交霊がともに高級霊団によって指導されていて、しかも出席者も真摯な真理探求者である場合でも、高級霊の述べることが食い違うことがあるのはなぜでしょうか。


「その霊団が本当に高級霊団であれば、その言説に矛盾撞着は有り得ません。交霊会の出席者とその場の雰囲気で表現方法に違いが生じることがあっても、実質的には同じことを述べているはずです。仮に矛盾していても表面上のこと、つまり言説よりも述べ方の違い程度にすぎません。じっくりと読めば基本的には同じことを述べているはずです。

しかし、出席者の霊格の程度によっては同じ霊でも違った答え方をすることは有り得ます。例えばあなたが幼児と科学者から同じ質問をされたとします。あなたはその二人に同じ答え方をしますか。それぞれに理解しやすい形で答えるはずです。そして質問者はそれぞれに納得するでしょう。ところが表面上は二つの答え方は全く異なります。それでいながら本質的には同じことを述べていることだってあるわけです。」

―真面目と思える霊がある思想、時には偏見と思えるような言説を、相手によって適当に言い換え、完全に食い違うようなことすらあるのですが、これはどう理解すればよいでしょうか。


「私たちは出席している人間の理解力の程度に応じて表現を変えなければならない立場にあります。例えば何らかの教説について絶対的な信念を抱いている人を相手にした場合、仮にそれが誤りであっても、それを頭ごなしに論駁せずに、穏やかに、そして徐々に改めさせようとします。すると当然その人の信仰の用語を借用し、その教説に共鳴するところがあるかのような印象を抱かせることもします。そうやって相手をムキにならせず、次の会にも出席しようという気持ちにさせるわけです。

間違った先入観に急激なショックを与えるのは賢明とは言えません。そういうことをすると、それっきりこちらの教説に耳を傾けなくなります。そこで我々としては、あらぬ反発を買わないように、出席者の信仰に理解を示す態度で臨むわけです。

さらに言えば、人間から見て矛盾しているかに思えることでも、同じ真理を偏った角度から表現しているにすぎないことがよくあるものです。スピリチュアリズムに係わっている霊団にはそれぞれに大霊からの割り当てがあり、こうして授ける通信が効率よく受け入れられ霊性の進化を促すような方法と状態を工夫して、それぞれの役割分担を遂行しなくてはならないのです。」

―たとえ表現上の違いにすぎないとは言え、矛盾した言説は人によっては疑念を生じさせます。そういう矛盾した通信を正しく理解して、これが真実だという確信を得るにはどうすればよろしいでしょうか。


「真実と誤りとを選り分けるには、手にした通信の内容を時間をかけてじっくり検討することです。そこにはこれまでになかった新しい知識の世界が広がっています。まったく新しい考究課題であり、したがって時間と努力を要します。何でもそうですが……。

その言わんとするところを真剣に考究し、他と比較検討し、奥の奥の核心に至る――真理というものはそれほどの代償を払って初めて手にできるものなのです。考えてもごらんなさい。これまでの狭い通念を後生大事にし、それに照らして簡単に片づけるだけで、どうしてスピリチュアリズムという果てしなく広大な真理の世界が理解できますか。

こうした霊的教訓が世間一般に広まる日はそう遠い先の話ではありません。本質だけでなく、枝葉末節に至るまで、矛盾撞着のない形で広まることでしょう。が、現段階においては、これまでの誤った概念を打破することがスピリチュアリズムの使命です。それも、一つ一つ片づけていくしかないのです。」

―そうした深刻な問題に深く係わる時間も欲求もない者がいる一方には、霊の言うことは何でも彼でも信じる者もいます。そのような形で間違ったものを受け入れていくことは性格に害を及ぼさないでしょうか。


「その人がそれでいいと思うのであればそうすればよろしい。いけないと思えばやらなければよろしい。この自由意志の原理には例外はありません。アラーの神の名のもとであろうとエホバの神の名のもとであろうと、良いものは良い、悪いものは悪いのです。宇宙には大霊という名の神しかいないのですから。」

―知的には相当なレベルと思われる霊でも、問題によっては明らかに間違った考えを抱いていることがあるのは、どうしてでしょうか。


「人間と同じで、霊も独断と偏見を抱いているものです。自惚れて実際よりも賢いつもりでいる霊は、真理についてよく間違った考えや不完全な概念を抱いているものです。人間と少しも変わりません。」

―矛盾した説の中で最も顕著なのが“再生説”です。再生が霊にとって必要不可欠のものであれば、なぜ全ての霊が同じ説を説かないのでしょうか。


「あなたは、霊も人間と同じで、今の自分のことにしか思いが及ばない者が大勢いることをご存じないのですか。現在の自分の感覚だけで物事を捉え、今の状態が永遠に続くと思っているのです。そうした感覚の範囲を超えた先のことまでは思いが至らず、自分は一体どこから来たのか、この後どこへ向かって行くのかといった観念は浮かばないのです。

しかし、摂理は逃れられません。再生するということを知らなくても、再生すべき時機は必ず到来します。その時になって初めて再生があることを知ります。が、そういう霊的進化の仕組みについては何も知りません。」

―未熟な霊には再生問題が理解できないことは分かりました。ただ、そうなると、霊的にも知的にもどうみても低いと思われる霊が自分の前世の話を持ち出して、その間の不行跡を償うためにもう一度再生したいと思っていると述べたりするのは、どう理解したらよいでしょうか。


「霊の世界の事情には地上の人間には理解し難いことが沢山あります。具体的には説明しにくいのですが、例えば地上でも、ある分野の事に関しては造詣が深いのに、別の分野の事については皆目知らないという人、あるいは学問は無くても直観力は鋭い人、判断力は乏しくてもウィットに富んだ頭脳の持ち主など、いろいろなタイプがいるのと同じです。

それに加えて知っておいていただきたいのは、霊の中には自分の優位を保ちたいという浅はかな根性から、人間にわざと教えないでおこうとする者もいることです。つまり人間から真剣に論議を挑まれたら自分の優位が崩れることを知っているので、それを意図的に避けようとして、巧妙に議論をスリ抜けるのです。

むろんそれは低級霊の場合です。が、高級霊による慎重な配慮の結果として、たとえ真理であっても、現段階で急激にそれを広めることはいたずらに目を眩ませるだけで賢明でないとの判断から、わざと差し控えることがあるということです。そして、時と場所と出席者のレベルに応じて小出しにします。

モーセを通して語られなかったものをキリストが語り、そのキリストを通してさえ時期尚早ということで後世へ持ち越されたものがあります。

あなたの疑問は再生が真実ならばなぜ世界の各民族で早くから説かれなかったのかということのようですが、よく考えてみてください。仮に肌の色による差別と偏見の激しい国で説いていたら大変な反発を買ったことでしょう。なぜかはお分かりでしょう。短絡的に受け止める者は、今奴隷の身にある者は来世では主人となり、今主人である者は奴隷となるのだと考えて、怪しからん説だということになるに決まっています。

まずは霊界と現界との間にも交信が可能なのだという基本的事実から始めて、徐々にそうした倫理・道徳の思想的問題へと進めるのが賢明です。大霊の配剤について人間はなんと近視眼的なのでしょう! 大霊の認可なしにはこの宇宙に何一つ発生しないのです。人間には到底推し量ることのできない深遠な叡智があるのです。

すでに述べたことですが、改めて申し上げておきます。スピリチュアリズムの思想はいつかはきっと地球上にあまねく広まります。今は統一性がないかに見えても、人間の霊性の発達とともに徐々にその食い違いは少なくなり、最後は完全に消えて失くなることでしょう。そこに大霊の意思が働いており、究極的にはその意思が成就されます。」

―誤った教説はスピリチュアリズムの発展を阻害しようという策略から行われているのでしょうか。


「人間はとかく困難もなく手間取ることもなく物事が運ぶことを求めがちです。しかし、よく考えてごらんなさい。どんなに立派な庭にも必ず雑草が生え、きれいに保つには一本一本それを手で抜き取らないといけません。誤った教説は地球人類の霊性の低さが生み出す雑草のようなものです。もしも人類が完全であれば高級霊しか近づかないでしょう。

誤りというのは、言うなれば偽のダイヤモンドのようなものです。見る目のない人間には本物に見えるでしょうが、見る目をもった者にはすぐに偽物と分かります。その見分け方を学びたければ年季奉公に出るしかありません。考え方によっては偽物の存在にも意味があるのです。本物と偽物とを見分ける判断力を養う良い試金石です。」

―でも、偽物を信じた者はそのことで進歩が阻害されるのではないでしょうか。


「そういう気遣いは無用です。そもそも偽物をつかまされるようでは本物を見る目がないということです。」

―スピリチュアリズムの実践面でのいちばん不愉快な障害は、そうやって霊に担(かつ)がれることです。これを避ける手段はないものでしょうか。


「それに対する回答はこれまでにお答えしてきたことで十分だと思いますが……方法はあります。しかも極めて簡単です。要するにスピリチュアリズム本来の目的に徹することです。そして、その目的とは人類の霊的啓発、これに尽きます。これを片時も忘れないようにすれば、邪霊にたぶらかされるようなことは決してありません。それこそが真実の人の道だからです。

高級霊は人のために役立つ仕事のためには大いに援助しますが、名誉心や金儲けといった情けない人間の野心の満足のためには絶対に手を貸しません。そういう他愛もないことや人間に伝えることを許されていない事柄についてしつこく要求しないかぎりは、邪霊集団に操られるようなことにはなりません。こうした事実からも、低級霊に騙されるのは騙されるようなことをしている人間に限られるということがお分かりになるはずです。

霊団の仕事は世俗的問題に関するアドバイスを授けることではありません。地上人生を終えた後に訪れる霊的人生に自然に順応するための生き方を指導することです。もちろん世俗的問題に言及することがありますが、それはその時点で必要性があると見なしたからであって、そちらからの要請に応じることは絶対にないと思ってください。霊界通信を運勢判断や魔術と同種のような受け止め方をしていると、低級霊につけ入られます。

また霊界の知識の蒐集のようなことにばかり偏っていると霊的存在としての自由意志が硬直してしまい、大霊によって意図されている人間としての進むべき進化の道を歩めなくなってしまいます。人間は自らの意志で“行為”に出なくてはいけません。こうして我々が地上へ派遣されるのは人間の歩む道を平らにならしてあげるためではありません。来るべき霊的生活に順応するための準備を手助けしてあげるためです。」

―ですが、こちらから世俗的問題を持ち出したわけでもないのに、霊の方から言及してアドバイスを与えてくれて、それに従ったらとんでもないことになった人もいますが……


「そちらから持ち出さなかったとしても、交霊会でそんな俗っぽい問題を霊側が持ち出したという点が問題です。そちらからそれを許したということであって、結果的には同じことです。それを鵜呑みにせず理性的に疑ってかかる態度で臨み、霊界通信の本来の在り方に徹すれば、そう簡単に担がれることはないはずです。」

―真面目な求道者(ぐどうしゃ)がそういう形で担がれることを神はなぜ許すのでしょうか。せっかくの確信をわざと崩すように計算されているみたいです。


「その程度のことで崩れるような信念ではまだ本物とは言えません。そのことでスピリチュアリズムに愛想をつかすようであれば、それはまだスピリチュアリズムを真に理解していないことを示しています。張りぼてだったということです。その種のたぶらかしは、一つには忍耐力の試金石であり、一つには交霊会をご利益の手段に利用する者への懲罰です。」

(完)

Tuesday, January 10, 2023

シアトルの冬 霊に尋ねる質問の規範 ――尋ねてよいこと・いけないこと Code of Questions to Ask Spirits ――What you can and cannot ask


        
アラン カデラック

――霊は、出された質問には喜んで答えるものでしょうか。

「それは質問の内容によりけりです。向上心から出た真剣な真理探求のための質問には、高級霊は喜んで応じるでしょう。下らぬ質問には無関心です。」


――真剣な態度で尋ねた質問には真剣な返答が返ってくると思ってよろしいでしょうか。


「そうとばかりも言えません。一つには返答する霊の霊格の程度によって返答の程度が決まるからです。」


――真剣な質問はふざけた霊を追い払いますか。


「ふざけた霊を追い払うのは質問ではありません。質問する人間の霊格です。」


――真面目な霊にとって特に不愉快な質問とはどんなものでしょうか。


「意味のない質問、あるいは面白半分から出る質問です。取り合わないというよりは、不快感を覚えます。」


――反対に低級霊が特に不愉快に思うのはどういう質問でしょうか。


「彼らの無知あるいは狡猾さがあばかれるような質問です。騙そうとしているからです。そういう気遣いのない質問には、本当かどうかに無頓着に、適当に答えます。どんな質問にでも。」


――面白半分に霊界通信を求める者、あるいは俗世的利害関係のからんだ質問をする者はどうでしょうか。


「低級霊を喜ばせるだけです。自分たちも面白半分にやっているのであり、人間を手玉に取って好きに操って喜んでいるのです。」


――ある質問に霊が答えなかった場合、それは答えたくないからでしょうか、それとも高級霊から止められるのでしょうか。


「両方のケースが考えられます。その段階では教えてはならないことというのがあります。また霊が知らなくて答えられないこともあるでしょう。」


――強く求めれば霊も折れて答えてくれることもあるでしょうか。


「ありません。答えてはならないと判断した場合にしつこく求められると、霊は引き上げます。その意味でも、しつこく返答を求めてはいけないのです。真面目な霊は引き上げますから、代わって低級霊がつけ入るチャンスを与えることになるのです。」


――人間から出される問題はどんな霊にでも理解できるのでしょうか。


「そんなことはありません。未熟霊には理解できない問題が沢山あります。しかし、だからといって未熟霊が答えないというわけではありません。地上でも、知りもしないくせに、さも知った風な態度で答える人間がいるのと同じです。」
(二)未来のことに関する質問について


――霊には未来の予知ができるのでしょうか。


「もしも未来のことが分かってしまうと人間は現在のことを疎(おろそ)かにするでしょう。なのに人間がいちばん知りたがるのは未来のことです! こうした傾向は間違いです。スピリチュアリズムは占いではありません。もし未来のこと、あるいは何か他のことについて断固として求めれば、教えてくれるでしょう。知恵のない低級霊が(高級霊が引き上げたスキをついて出て)適当なことをしゃべるでしょう。これは口が酸っぱくなるほど言ってきたつもりですが……」


――でも、こちらから要求していないのに霊の方から予言して、事実その通りになったということがありますが……。


「もちろん霊には未来のことが予知できることがあり、それを知らせておいた方が良いと判断する場合もあれば、高級霊から伝達するように言いつけられる場合もあります。しかし、将来のことを軽々しくあげつらう時は大体において眉唾物とみてよろしい。そういう予言の大半は低級霊が面白半分にやっていることです。予言の信頼度の判断はありとあらゆる事情を考慮して初めてできることです。」


――絶対に信じられない予言はどんな場合でしょうか。


「一般の人々にとって何の役にも立たない場合です。個人的なことは、まずもってまやかしと思ってよろしい。」


――そういうまやかしの予言をする目的は何なのでしょうか。


「大ていは、すぐに信じ込む人間の習性をもてあそんで、脅かしたり安心させたりして喜ぶだけです。が、時として高級霊がわざとウソの予言をして、どういう反応を見せるか――善意を見せるか悪意を見せるか――をテストすることがあります。」


編者注――たとえば遺産がころがり込むといった予言をして、欲の深さや野心をテストする場合などのことであろう。


――真面目な霊が予言をする時に滅多に日時を明確に言わないのはなぜでしょうか。言えないのでしょうか、わざと言わないのでしょうか。


「両方のケースがあるでしょう。ある出来事の発生を予知し、それを警告します。が、それがいつのことかは時として知らせることを許されないことがあり、時として知らせられないこともあります。分からないのです。出来事自体は予知できても、その正確な日時は、まだ発生していない他の幾つかの事情もからんできます。これは全知全能の神にしか分かりません。

そこへ行くと軽薄な霊は人間がどうなろうと一向に構わないのですから、何年何月何日何時何分に、などと好きなことが言えるわけです。その点から言って、あまりに細かい予言は当てにならないと考えてよろしい。

改めて申し上げますが、我々の霊団は人間の霊的向上を促進し、完全へ向けての進化の道を歩むように指導することを使命としているのです。我々との係わりにおいて霊的叡智のみを求めるかぎり、低級霊にたぶらかされることはありません。人間の愚かな欲求や運勢占いに時間を無駄に費やすのにお付き合いさせられるのはご免こうむります。そうした児戯に類することは、そんなことばかりして愉快に過ごしている低級霊に任せます。

そもそも人間に知らしめてよいことには大霊の摂理によって一定の枠が設けられております。その辺の摂理に通じている高級霊は、返答すべきでないことにはあくまでも沈黙を守ります。そうした事情を弁(わきま)えずにしつこく返答を求めることは、低級霊につけ入るスキを与えることになります。彼らは実にもっともらしい口実をこしらえて、人間が有り難がるように話をもっていきます。」


――未来の出来事を予知する能力を授かっている人もいるのではないでしょうか。


「います。物質による束縛を断ち切る力を有している人がいて、その状態において未来の出来事を見ることができます。一種の啓示を受けるのです。そしてその啓示が人類にとって有益と見なされれば、公表することを許されます。しかし、そういう人は例外に属します。一般に予言者と称して災害や不幸を安直に予言している人間はイカサマ師でありハッタリ屋だと思って間違いありません。

ただ言えることは、人類の進化とともに今後ますます予知能力が一般化して行くでしょう。」


――人の死亡年月日の予言を得意にしている霊がいますが、どう理解すべきでしょうか。


「非常に趣味の悪い霊の集団で、その程度のことで人間を感心させて得意になっている低級霊です。相手にしてはいけません。」


――自分の死を予知する人がいますが、これはいかがでしょうか。


「霊が肉体から離れている間に死期が近いことを感知し、それが肉体に戻ってからも意識に残っているケースです。それほどの人になると、その予知によって恐れを抱くことも戸惑うこともありません。一般に“死”と呼んで恐れているものを、ただの“変化”と見なし、譬えて言えば厄介な重苦しいオーバーコートから軽やかなシルクのコートに着替えるのだと考えます。スピリチュアリズムの知識が普及するにつれて死の恐怖は薄らいでいくことでしょう。」
(三)過去世および来世に関する質問について


――霊には人間の過去世が簡単に分かるのでしょうか。


「大霊は、時として、ある特殊な目的のために、いくつかの前世を啓示することを許すことがあります。あくまでも、それを知らせることが当人の教化と啓発に役立つと判断された時にかぎられます。そうした場合は必ず何の前ぶれもなく自然発生的に見せられます。ただの好奇心から求めても絶対に許されません。」


――では、こちらからの要求に喜んで応じていろいろと語ってくれる霊がいるのはなぜでしょうか。


「それは、人間側がどうなろうと意に介さない低級霊のすることです。

一般的に言って、特に大切な意味もない過去世を物語る時は、すべて作り話と思ってよろしい。低級霊は前世を知りたがる人間が有頂天になるように、前世では大金持ちだったとか大変な権力者であったかのような話をこしらえて語ります。また出席者も、あるいは霊媒も、聞かされた話をすべて真実として受け止めます。その時、当人のみならず霊自身もけちくさい虚栄心にくすぐられて、そんな前世と現世との間に何の因果関係もないことまでは思いが至りません。実質的には大金持ちや大権力者だった前世より平凡な今の方が向上していると考える方が理性的であり、進化の理論に適っており、本人にとって名誉なことであるはずなのです。

過去世の啓示は、次の条件下においてのみ信用性があります。すなわち思いも寄らない時に突如として啓示された場合、まったく顔見知りでない複数の霊媒によって同じ内容のものが届けられた場合、そして、それ以前にどんな啓示があったか全く知られていない場合。これだけの条件が揃っていれば信じるに足るものと言えます。」


――かつての自分がいかなる人物であったかが知り得ないとなると、どういう人生を送ったか、また性格上の長所と欠点についても知り得ないことになりましょうか。


「そうとばかりも言えません。知らされる場合がよくあります。それを知ることが進歩を促進すると見なされた場合です。が、およそのことは現在のご自分を分析すればお分かりになるのではありませんか。」


――来世、つまり死後また再生して送る人生について啓示を受けることは有り得るでしょうか。


「有り得ません。有り得るかのごとく述べる霊の言うことは全てナンセンスと思って差し支えありません。その理由は、理性的に考えればお分かりになるはずです。次の物的生活は現在の人生での行いと死後における選択によって決まることであって、今から決まっていることではないからです。

概念的に言えば、罪滅ぼしの量が少ないほどその一生は幸せでしょう。しかし、次の物的生活の場(天体)がどこで、どういう経過をたどるかを予知することは不可能です。ただし、滅多にない例外として、重大な使命を帯びている霊の場合はあらかじめ予定が組まれていますから、予知することは可能です。」
(四)世俗的問題に関する質問について


――霊に助言を求めることは許されますか。


「もちろんです。善良な霊が、真摯に求めてくる者を拒絶することは絶対に有り得ません。とくに“生き方”に関して真剣に意見を求める場合はそうです。あくまでも真剣でないといけません。実生活ではいい加減な生き方をしながら、交霊の場では真剣な振りをする偽善者は受けつけません。」


――プライベートな悩みごとに関してのアドバイスも求めてよろしいでしょうか。


「アドバイスを求める動機と、相手をする霊によっては、許されることがあります。プライベートな悩みごとは普段から親しく係わり合っている指導霊が最も適切です。指導霊は身内のようなものであり、当人の秘めごとにまで通じているからです。だからといって、あまり甘えた態度を見せると引き上げてしまいます。

街角で出会った人に相談を持ちかけるのが愚かであるのと同じで、いくら善良な霊でも、あなたの日常生活について何も知らない霊に助言を求めるのは筋違いというものです。また質問者の霊格と回答霊の霊格とが違いすぎでも、良い結果は得られません。さらに考慮しなければならないのは、いくら親(ちか)しい指導霊であっても、根本的に邪悪性の強い人間には邪霊がついていますから、そのアドバイスも決して感心したものではありません。何らかの体験をきっかけとして善を志向するようになればその霊に代わって別の、より善性の強い霊が指導霊となります。類が類を呼ぶわけです。」


――背後霊は私たちの物的利益のために特別の知恵を授けてくれるものでしょうか。


「授けることを許されることがないわけではありません。事情次第では積極的に援助します。が、ただの金儲けや卑しい目的のためには、善霊は絶対に係わり合わないと思ってください。そういう時に積極的に知恵を授けるのは邪霊です。巧みに誘惑して、あとで欺くのです。

ご注意申し上げますが、霊的浄化のために仮にあなたが艱難辛苦をなめる必要があると見た時、あなたの守護霊や指導霊は、それに対処する心構えを支え、あまり過酷すぎる時に少し和らげることはしても、艱難辛苦そのものを排除するようなことは許されていません。それに耐えることこそあなたのためであり、長い目で見た時はその方が良いからです。守護霊というのは叡智と真の愛情をもった父親のようなものです。欲しがるものを何でも与えるようなことはしませんし、為すべきことを避けるようなことも許しません。」


――仮にある人が相続の問題の最中に死亡したとします。そして、その人が残した遺産の在り処が判らず、公正な解決のためにはその人から情報を得る必要があるとします。そんな時、その霊を呼び出して聞き出すことは許されるでしょうか。


「そういう質問をお聞きしていると、あなたは死というものが俗世的労苦の種からの解放であることをお忘れのようですね。地上への降誕によって失われていた自由をやっと取り戻して喜んでいる霊が、多分その霊の他界によって遺産がころがり込むと期待している遺族の貪欲を満たしてやるために、もはや何の係わりもなくなった俗事の解決に喜んで出てくると思いますか。

“公正な解決”とおっしゃいましたが、世俗的な貪欲に燃える者のために大霊が用意している懲罰の手初めとして、その貪欲な思惑の当てが外れるということにも公正さがあっても良いのではないでしょうか。

もう一つの考え方として、その人の死によって引き起こされる問題は、それに係わる人々の人生の試練の一つなのかも知れません。そうなると、どの霊に尋ねても解決法は教えてもらえないでしょう。大霊の叡智から発せられた宿命として、その者たちに課せられた宿題なのですから。」


――埋蔵された財宝の在り処を教えてもらうのはいけませんか。


「霊格の高い霊はそうした話題にはまったく関心がありません。が、いたずら霊がいかにも霊格が高そうな態度で、ありもしない財宝の話をしたり、実際に隠されている財宝についてはわざと違う場所を教えたりしてからかいます。

そうした行為を大霊が許していることには意味があるのです。本当の財産は働くことによって得るものであることを教えるためです。もしも隠し財宝が発見される時期が来れば、それはごく自然な成り行きで見つかるように配慮されるでしょう。霊が出てきて教えるという形では絶対に発見されません。」


――隠し財宝にはそれを監視する霊がついているというのは本当でしょうか。


「地臭の抜け切らない霊がそういうものに執着しているというケースはあるでしょう。守銭奴が財産を隠したまま死亡して、霊界からそれを油断なく見張っていることはよくあります。それが発見されて奪われてしまうことで味わう無念残念は、蓄財の愚かさを教えるための懲罰です。

それとは別に、地中に住んでいる精霊が自然界の富の監理人のように物語られることがあります。」


ブラックウェル脚注――カルデックが編纂の仕事を託された通信には霊団側によって大きく制約が設けられていて、この精霊の問題もその一つであった。ここではノームとかコボールドと呼ばれる地の精のことを指している。人類とは別の進化のコースをたどっている精霊で、鉱夫や霊視能力者によってその実在が証言されている。思うに、世界各地の伝説で語られているフェアリーとかエルフとかサラマンダーと呼ばれている“原始霊(エレメンタリー)”も同系統に属するものではなかろうか。


訳注――もう一冊の『霊の書』にもいくつかの質問が出ているが、その回答には、あまり深入りしないように、といった感じの配慮がうかがえ、「それはいずれ明らかにされる日も来るでしょう」と述べている箇所がある。
(五)他界後の霊の状況について


――死後どうしているかを尋ねるのは許されますか。


「許されます。ただの好奇心からでなく、思いやる心、あるいは参考になる知識を得たいという願望に発したものであれば、霊は喜んで応じます。」


――霊が自分の死後の苦痛や喜びを語ることは許されているのでしょうか。


「もちろんです。そういう啓示こそ地上の人間にとって大切この上ないものです。死後に待ちうける善悪両面の報いの本質が分かるからです。それまで抱いていた間違った見解を破棄して、死後の生命についての信仰と神の善性への確信を深めようとするようになります。(“神の善性”というと“清浄と穢れ”の観念の強い日本人には奇異の感じを与える。私も訳語に抵抗を覚えるが、“神(ゴッド)”と“悪魔(サタン)”の観念の根強いキリスト教国では“神は善”という捉え方が普通であることに配慮したのであろう――訳注)

スピリチュアリズムの真髄が地上の人間の霊的覚醒にあることを忘れてはいけません。また、そのようにして霊が死後の情報を披瀝することを許されるのは、ひとえにその目的のためであり、さまざまな体験から学んでもらうためのものであることを忘れないでください。死後に待ちうける霊的世界の事情にくわしく通じるほど、現在自分が置かれている、思うにまかせない身の上を嘆くことが少なくなるはずです。そこにこそスピリチュアリズムという新しい啓示の真髄があるのです。」


――招霊した霊がすでに他界した霊なのか生者の霊なのかが明確でない時、そのことをその霊から聞き出すことは許されますか。


「許されます。ただし、そういうことに興味をもつ人間への試練として、知ろうとしても曖昧のままで終わることがあります。」


――もしも他界している霊であれば、自分の死の前後の状況について明確な証拠性のある証言ができるでしょうか。


「死の前後の状況がその霊にとって格別な意味があれば証言できるでしょうが、そうでなければ語りたがらないでしょう。」
(六)健康に関する質問について


――健康についてのアドバイスを求めてもよろしいでしょうか。


「地上生活における仕事の成就には健康であることが第一ですから、霊は人間の健康問題に係わることを許されていますし、しかも皆喜んで勉強しています。しかし、何事にも言えることですが、できの良い霊と悪い霊とがいます。できの悪い霊の言うことを何でも信じるのは考えものです。」


――地上で医学者として名声を博した霊だったら間違いがないでしょうか。


「地上時代の名声というのは全く当てにならないものです。しかも死後も地上的謬見(びゅうけん)を引きずっていることがしばしばです。死んだら直ぐに地上的なものが無くなるわけではありません。地上の学問というのは霊界に比べればチリほどのものでしかありません。上層界へ行くほど学問は深みを増します。そういう世界には地上の歴史にまったく痕跡をとどめていない霊が大勢います。

もっとも、博学であるというだけが高級霊の条件ではありません。皆さんもこちらへ来れば、あれほどの大学者が……と思って驚くほど、低界層で迷っている人が大勢いることが分かります。地上の科学の大先駆者だった人でも、霊性において低かった人は、霊界でも低い界層に所属し、したがってその知識もある一定次元以上のものではありません。」


――地上の科学者が間違った説を立てている場合、そのまま霊界へ行けばその間違いに気づくでしょうか。


「ですから、死後順調に霊性が開発されて自分の不完全さに気づけば、学問上の間違いにも気づき、潔(いさぎよ)くその非を認めるでしょう。が、地上的波動を引きずっているかぎり、地上的偏見から脱け出せません。」


――医者が自分が診察したことのある患者の霊を呼び出して、本当の死因について聞き出し、その間違いを確認することによって医学的知識を広げるということは許されるでしょうか。


「許されることですし、とても有益な勉強になることでしょう。高級霊団の援助が得られればなおさらのことです。ですが、そのためには前もって霊的真理について行き届いた勉強をし、真摯に、そして不幸な人々に対する純真な慈悲心をもって臨む必要があります。労少なくして医学的論文の資料や収入を目当てにするようではいけません。」
(七)発明・発見に関する質問について


――霊が学者の研究や発明に関与することは許されているのでしょうか。


「学問の研究成果が真実であるか否かの確認は、学者の天賦の才に係わる仕事です。人間はあくまでも勤勉と努力によって進歩することが建前ですから、学問も人間自身の労力によって発展しなくてはいけません。努力もせずに結論だけを霊から教わっていては、人間としての功績はどうなりますか。ろくでなしでも労せずして大科学者になれることになりませんか。

発明・発見についても同じことが言えます。しかも新しい発見には有効なタイミングというものがあり、また人間の精神にそれを受け入れる準備ができていないといけません。もしも高級霊にお伺いを立てれば何でも教えてもらえるとしたら、人類の精神的発達に合わせた物事の発生の規律が乱れてしまいます。

旧約聖書にも、神はこう述べたとあります――“額に汗してパンを食せよ”と。この比喩は低次元の界層に属する人類の有るべき姿を見事に表現しております。人間は進化・向上すべき宿命を背負っており、それは努力によって獲得しなければなりません。必要なものが既製服を買うような調子で何の努力もなしに手に入るとしたら、知性の存在価値はどうなりますか。宿題を親にやってもらう小学生のようなものです。」


――でも、学者も発明家も霊界からの援助を受けているのではないでしょうか。


「ああ、それはまた話が別です。ある発見がなされるべき時機が到来すると、人類の進化を担当する霊団がその受け皿になってくれる人物を探し、首尾よく地上にもたらされる上で必要なアイディアをその人物の精神に吹き込みます。もちろん本人は自分のアイディアのつもりです。霊団の方でもその人物の功績となるように仕向けます。というのは、最終的にそれを完成させるのは確かに当人だからです。

人類の発達史における発明・発見は全てそうやって地上に届けられてきたのです。といって、誰でもよいというわけではありません。土地を耕す者、タネを蒔く者、そして穫り入れる者と、それぞれに分担が違います。宇宙の秘中の秘を、それを受け取る資格のない者に簡単に授けるようなことはしません。大霊の計画の推進者として適切な者にのみ、その計画の一端が啓示されます。

あなた方も、好奇心や野心から、スピリチュアリズムの目的から外れた、知らずもがなの宇宙の秘密の探求へ誘惑されるようなことのないよう気をつけないといけません。いたずらに神秘主義的になって、挙げ句には失望・落胆の落とし穴にはまってしまいます。」
(八)他の天体ならびに死後の界層に関する質問について


――他の天体や死後の世界に関する霊界通信にはどの程度の信憑性があるのでしょうか。


「それは通信霊の霊性の発達程度によりけりです。発達程度の低い霊は自分の国から一歩も出たことのない人間と同じで、何も知りません。あなた方はよくその程度の霊にしきりに尋ねています。よしんばその霊が善性が強くて真面目であっても、その述べていることの信憑性は別問題です。ましてそれが意地の悪い霊だと、ただの想像の産物にすぎないことを、さも知った風な態度で述べます。

だからといって信頼のおける情報が絶対に得られないと決め込むのも間違いです。霊性の発達した霊が、後輩である人間の進歩・向上のために、自分が知り得たかぎりでの情報を喜んで提供することがあります。」


――それが間違いない情報であることの証拠は何でしょうか。


「多くの情報をつき合わせてみて全てが一致するということが最大の証拠です。ですが、それ以前の問題として、そういう情報は地球人類の霊性の向上という目的にそって提供されるものであること、したがって、たとえば他の天体の物的ないしは地質学的情報そのものよりも、その天体上の知的存在の霊性面についての情報の方が大切であることを忘れてはなりません。というのも、地質学的なものは、たとえ情報そのものは正確な事実であっても、現段階の地球人類には理解できないでしょう。そんな理解困難な情報は人類の霊性の向上には何の役にも立ちません。どうしても知りたければ、その天体へ再生すればよろしい。」




Sunday, January 8, 2023

シアトルの冬 霊能者のモラルの問題 moral issues of psychics

 

  霊媒の書

 訳注――ここで“霊能者”と訳したのは英文版では前章までと同じmedium(ミーディアム)である。これを“霊媒”と訳さなかったのは、日本では霊媒という用語は、物理現象や自動書記ならびに霊言現象における“入神(トランス)霊媒”というニュアンスが定着していて、本章のように同じくミーディアムでも霊視・霊聴・霊感といった主観的霊能を使用する人にも当てはまる内容には“霊媒”では不適切と判断し、限定的に用いるにとどめた。また、人格・識見を兼ね備えた優れた霊能者を“霊覚者”と呼ぶことにしていることも理解していただきたい。


――霊的能力の発達は霊能者自身のモラルに掛かっているのでしょうか。

「そうとは言えません。厳密に言うと、元来、霊的能力は体質に係わる問題であって、モラル的要素とは無縁です。しかしその霊能をいかに使用するかの問題になるとモラルの面が出て来ます。最終的にはモラルの高い低いが霊媒現象の質を決定づけます。」


――霊能は“大霊からの贈り物”と言われますが、そうであれば立派な人だけが授かればよいのに、中にはどうみても不似合いと思える人、つまり霊能の使い道を間違っている人がいるのはなぜでしょうか。

「才能はすべて神の恩寵として感謝すべきものです。あなたの言い分は、神はなぜ悪人に良い視力を与えるのか、なぜペテン師に鋭い勘を与えるのか、人を口車に乗せるのがうまい者になぜ流暢な弁舌を与えるのかとおっしゃっているようなものです。

霊能についても同じことが言えます。相応しくないと思える人が霊的能力に恵まれていることがよくありますが、それはその人にとって必要だからであって、それを使用することによって人間的に向上することを目的として授けられているのです。大霊が邪悪な人間には更生の手段を与えないということが有り得るでしょうか。その逆です。少しでも進歩すると、さらに多くの手段を用意なさいます。その手にしっかりと持たせるのです。

ですから、才能というのは、まずは当人がその恩恵に浴するためのものなのです。」


――その霊能の使用を誤った時は、それ相当の報いがあるのでしょうか。

「倍の報いを受けます。普通の人より多くの啓発の手段を授かっているからです。目が見えるのに道を間違える人は、目の見えない人が溝に落ちるのとは別の次元の裁きを受けます。」


――自動書記霊媒の中には同じテーマ、たとえばモラルの問題やその霊媒の短所に関連した通信が繰り返し綴られる者がいますが、何か特別な意図をもって行われているのでしょうか。

「そうです。繰り返し言及されているテーマについて当の霊能者を啓発し、短所を改めさせようという意図があります。霊団側はその目的のもとに、ある霊能者には自尊心について、別の霊能者には慈悲心について説きます。おのれの欠点に目覚めさせるために警告と忠告を繰り返しておく必要がある、そういう性癖をもった霊能者がいるものです。

野心や我欲のために才能を悪用する者、あるいは自惚れ、独善、軽率さといった欠点によって、せっかくの霊能を台なしにしかねない者には、霊団から折あるごとに警告が発せられます。が、残念なことに、そうした霊能者ほど自分には関係ないと思うものです。」


――しかし、霊能者自身のためという意図はなしに、一般的な戒めとして、その霊能者を通して授けている場合もあるのではないでしょうか。つまり一般人への教訓の道具として霊能者を使っているという場合です。


「もちろんです。我々霊界側としては、霊能者を媒介として届ける以外に方法のない人々のためを意図して忠告することがよくあります。もちろん取り次ぐ者がそれを自分への警告として受け止めることもあるでしょう。原則として霊的能力はその霊能者本人の霊性の向上だけでなく、人類一般の啓発のために授けられるのですから、ただ今のご意見はまさにその通りです。

我々は霊能者をあくまでも“道具”と見なし、道具として大切にしますが、決して他の一般の人々より特別に扱うわけではありません。従って体質的に霊的教訓の通路として役立つと見た時は、どの霊能者でも利用します。が、それも現段階での話です。いずれ人類が進化して優れた霊能者が続々と輩出するようになれば、体質だけで選ぶことはなくなり、精神的・道徳的に霊性の発達した霊能者を選ぶようになるでしょう。」


――霊能者の徳性の高さが低級霊を近づけなくしているとすれば、間違いなく徳性が高いと思える霊媒を通して信の置けない愚劣なメッセージが届けられたりするのはなぜでしょうか。

「間違いなく徳性が高い、とおっしゃいますが、あなたは霊能者の魂のすみずみまでお見通しなのでしょうか。邪悪性はないとしても、まだまだ軽薄さのような欠点が残っていることがあるものです。その意味でも常に反省を怠らぬように、こちらから時おり警告を発する必要があります。」


――優れた霊能を有し、従って大きな貢献をする可能性のある人が誤った道へ外れて行くのを、高級霊はなぜ許すのでしょうか。

「霊団側としては、あらゆる種類の霊能者に正しい道を歩ませるべく指導します。が、それに耳を傾けず、堕落の道を歩み続ける者には見切りをつけます。そして、霊能そのものは劣っても、少しでも徳性の高くある者を、渋々ですが、使用します。それ以上の人材が見当たらないのですから、やむを得ません。偽善者を通して真理が正しく伝えられることは有りません。」


――モラルの感覚に欠ける霊媒を通して高等な通信が得られることは、絶対にありませんか。

「そういう霊媒でも、能力的に良いものを持っていれば、今も述べた通り、他にこれといった人材がいないという特殊事情にかんがみて、取りあえずその者で間に合わせます。が、そのうち他に適切な霊媒が見つかれば、すぐに見捨てます。」

編者注――注目すべき事実として、高級霊団は霊能者が道徳的に堕落して低級霊の餌食になり始めたら、必ずといってよいほど、大きな事件を持ち上がらせてその過ちを暴くことをする。真面目な求道者がその霊能者に騙されないようにとの配慮からである。高級霊になると、いかに霊能が優れていようと、それには代えられないという見方をするようである。


――では完全な霊覚者とはどういう資質を有するのでしょうか。

「完全? ああ、残念ながらこの地上には完全なものは存在しません。もし完全だったら、この世には存在しないでしょう。“まっとうな”霊能者とでも呼びましょうか。いや、それでもまだ言い過ぎでしょう。まっとうな霊能者にも滅多にお目にかかれません。“完全な”霊覚者だったら邪霊集団も騙そうという考えすら抱かないでしょう。地上で求められる最高の霊覚者としては、常に高級な善霊との親和関係を保ち、せめて邪霊に騙されることが滅多にない者といったところでしょう。」


――善霊との親和関係を保っていてもなお騙されることがあるということでしょうか。なぜでしょうか。

「いかに優れた霊能者であっても、高級霊があえて騙されるに任せることがあるのです。洞察力を試すためであり、また、真実と虚偽との見分け方を教えるためでもあります。さらには、いかに優れているといってもどこかに欠点があるわけですから、邪霊のつけ入るスキは必ずあるものです。そこで時おり痛い目に遭わせるのです。

時おり他愛もない通信を受け取るのは、決して油断はならぬとの警告であり、自惚れさせないためです。手回しオルガンの奏者がいくら良い曲を聞かせても自慢にはならないのと同じで、いくら高等な通信を受け取っても自分が偉いわけではないのですから。」


――高等な霊界通信を受け取るための最適の条件とはどんなことでしょう?

「動機にやましい点がないこと、我欲と高慢がないこと。この二つが必須の条件です。」


――高級霊からの通信がそんなに厳しい条件のもとでしか入手できないとなると、霊的真理の普及の障害となるのではありませんか。

「そんなことはありません。求める者には必ず光が与えられます。取り払うべき地上の闇は不純な心から生まれたものです。高慢と貪欲と無慈悲をなくすことです。そうすれば、格好つけた交霊会など開かなくても、善霊は光明へ導いてくれます。

霊能者に恵まれないまま真理の光を求めている人々には、自分自身の理性を頼りとして大霊の無限の霊力と叡智を学ぶように告げてあげてください。その真摯な求道心はいつかは最高の証しを生み出し、必ずや高遠の世界からの援助にあずかることでしょう。」

Friday, January 6, 2023

シアトルの冬 霊界の区分けと名称について      Regarding the classification and names of the spirit world



霊界の区分けと名称について
訳者 近藤  千雄
 
本シリーズ(シルバーバーチの霊訓)をお読みくださっている方は、私が死後の世界を〝霊界〟又は〝霊の世界〟という用語で通していることにお気づきと思う。

時に上層界とか高級界、あるいは下層界、低級界といった大ざっぱな言い方をすることもあるが、他の霊界通信に見られるような幽界とか神界、精霊界、地獄といった特定の用語は用いていない。これはシルバーバーチ自身が意図的にそうしており、私もその意図を佳しとして忠実に従っているからに他ならない。

 その意図とは何か。それは前巻の解説でも触れたように、今は難解な理屈を捏ねまわしている時ではない───最も基本的な霊的真理を説くことこそ急務であるという認識のもとに、誰もが知っておくべき真理を誰にでも分かる形で説くということである。

 その具体的な例が〝死後の世界〟ないし〝霊の世界〟の存在という簡単な事実である。人類は太古よりいずこの民族でも〝死んでもどこかで生き続けている〟という漠然とした信仰を抱いてきた。

本来が霊的存在であることが分かってみればそれは当然のことと言えるが、従来はそれが〝信仰〟という形で捉えられ、しかも地上での生身の生活が実在で、死後の世界は形体も実質も無い世界であるかのように想像したり、地獄や極楽、天国といった人間の恐怖心や願望から生まれるものをそれに当てはめていたが、所詮はそう思う、そう信じるといった程度のものに過ぎなかった。

 それが十九世紀半ばに至って、各種の超常的現象、いわゆる心霊現象が五感で確認できる形で実験・観察できるようになり、それによって〝霊〟の存在が信仰から事実へと変わり、その〝霊〟からのメッセージによって死後の世界の真相が次から次へと明かされていった。

 その代表的なものを挙げれば、モーゼスの「霊訓」、オーエンの「ベールの彼方の生活」、マイヤースの「永遠の大道」並びに「個人的存在の彼方」、カルデックの「霊の書」、そしてこの「シルバーバーチの霊訓」等々があり、その他にも地味ながら立派なものが豊富に存在する。

 その一つひとつに他に見られない特徴があり、従ってどれが一番良いとか悪いとかのランク付けは出来ないし、又すべきことでもないが、その中には死後の世界の段階的区分けに力を入れているものが幾つかある。

中でもマイヤースが一番詳しく、七つに分類して各々に名称まで付けている。同じく七つに分けているものに「霊訓」のインペレーターがいるが、それをマイヤースの七つの界と同じと考えてはならない。

と言うのは、インペレーターは宇宙を大きく三層に分け、それぞれの界に七つずつ界があり、最下層の最高界が地上界で、中間層に七つの〝動〟の世界があり、その後に至福の七つの〝静〟の世界がある、とだけ述べて、各界の特徴については何も述べてはいない。

また〝静〟の世界の内面については何も知らない。つまり究極の実在界の真相は知らないと言う。

 その点はオーエンを通じて通信を送ってきている守護霊のザブディエルも同じで、自分は第十界の者であると言い、第十一界との境界でザブディエル自身の守護霊と面会した話が出ている(第二巻)が、それから先はどうなっているのか、何界あるのか、見当もつかないと述べている。

 究極のことは何も知らない、と正直に告白するのは筆者がこれまで翻訳・紹介してきた通信の全てに共通した特徴で、筆者は、そう告白出来るか否かがその霊の霊格の高さを占うものさしになるとさえ思っている。

 さて日本人にとって一番馴染みやすいのは四界説であろう。これは日本の古代思想である惟神(かんながら)の道の考えに四魂説があるところから来ているのではないかと筆者は考える。

つまり人間には荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)の四つの身体があり、それを一つの霊が使用しているというのであるが、

身体───霊が顕現するための媒体が四つある以上は、その身体で生活する世界も四つある(その一つが物質界)というのは極めて自然な発想であり、確かに西洋でもそれを裏付ける通信が幾つか出ている。

そして浅野和三郎がこれを現界、幽界、霊界、神界と呼んだのは、日本人の心情に照らしてもスピリチュアリズムの光に照らしても、けだし当を得た説であると思う。

 ただ問題はその理解の仕方である。これは霊の使用する媒体を中心に考えた分類法であって、霊そのものは決してそのうちのどれか一つに固定されているわけではない点をよく理解しなければならない。

つまり身体は現界にあっても霊の意識の焦点は幽界にある人、霊界にある人、神界にある人等々の区別があり、睡眠中もその世界に出入りし、死後も一気にその界へ赴く。

「霊訓」の続編である「続霊訓」の中でインペレーターが霊言で語っているところによると、イエスは在世中、一人でいる時は何時も肉体を離れ(幽体離脱現象)、一度も物質界に降りたことのない天使───日本流にいえば自然霊───の一団と交わっていたという。

 これで判る通り、媒体を基準にした分類法とは別に、霊格を基準にした分類法もあり得るわけで、霊界通信の分類の仕方がまちまちである原因も、その基準の置きどころの違いにあるわけである。霊の言うことが矛盾していることを理由にその信憑性を疑う人がいるが、これは短絡的すぎる。

 さてシルバーバーチが死後の世界の事を〝霊界〟the Spirit Worldと言ったり〝霊の世界〟the World of Spirit と言ったりするだけで、それ以上に細かい分類をしないのは決して段階的界層がないことを主張しているからではない。その証拠に(また英語の解説になって恐縮であるが)a Spirit World と言ったり a World of Spiritと言ったりすることがあるからである。

前回の解説でも述べた通り、the を冠している時は普遍的な意味に用い、a 冠している時は個々の界の一つを指している。言えかえれば界が複数あるということを示唆しているわけである。

 ではなぜ個々の界を分類的に説明しないのか。これに対する回答も前回と同じく、そんな理屈っぽい知識は霊性の向上にとって何の益にもならない、人類にとって急務でもないということに尽きるようである。

 筆者もこの考え方に全面的に賛成である。誤解されそうな箇所では注釈を入れることはあっても、全体的には一貫して〝霊界〟で通している。霊の世界という意味である。

 むろん死後の世界の段階的分類が面白いテーマであることを否定するわけではない。私なりの見解も持っているが、少なくともシルバーバーチを翻訳・紹介していく上では、そういう理屈っぽい問題に深入りしないように気を配っている。

どうしてもという方は拙訳「スピリチュアリズムの真髄」(ジョン・レナード著・国書刊行会)を参考にしていただきたい。〝死後の世界〟と〝死後の生活〟とに分けて、そのテーマに関する数々の霊界通信から抜粋が豊富に紹介されていて興味深い上に、レナード自身の解説にも説得力がある。
                                              

Thursday, January 5, 2023

シアトルの冬 完成へ向けての長い行進        long journey to completion



───葛藤や苦悩が霊的進化にとって不可欠なら、それは霊界においても必要なのではないでしょうか。なのに、あなたはそちらには悪と邪の要素がないようにおっしゃっています。


 「ご質問者は私の申し上げたことを正しく理解していらっしゃらないようです。

私は邪と悪には二種類ある───この〝悪〟という言葉は嫌いなのですが───すなわち既得権に安住している利己主義者によって生み出されているものと、人類の未熟さから生まれるものとがあると申し上げたつもりです。

私たちの世界には邪悪なものは存在しません。もちろん死後の世界でもずっと低い界層へ行けば、霊性があまりに貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。

が、そうした侘しい世界を例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。

邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心ゆくまで従事しております。

葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっともその意味が問題ですが・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で絶え間ない葛藤があります。

一つは動物的先祖とでもいうべきもの、つまり身体的進化に属する獣的性質と、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹です。

その両者のどちらが優位を占め維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で自由意志によって選択することです。私達の世界へ来てからも葛藤はあります。

それは低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする絶え間ない努力という意味です。完全へ向けての努力、光明へ向けての努力というわけです。

その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精錬と試練をへてようやく霊の純金が姿を現わします。

私たちの世界にも悩みはあります。しかしそれは魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表れであって、ほんの一時のことに過ぎません。

完成へ向けての長い行進の中での短い調整期間のようなものです」


───でも、葛藤と進歩、それに努力の必要性は常にあるわけでしょう。

 「おっしゃる通りです。だからこそ私は先ほど言葉の解釈の仕方が問題だと申し上げたのです。自然界の常として、より高いものがより低いものを無くそうとします。

それは当然のことで、そうでなかったら進化というものが真実でなくなります。

人間は低い段階から高い段階へ向けて成長しようとする進化性を持った存在です。進化するためには光明へ向けての絶え間ない葛藤がなければなりません。

その場合の葛藤は成長の為の必須の過程の一つであるわけです。

先ほど私が言いたかったのは、地上には不必要な葛藤、無益な努力が多すぎるということです。

それは自由意志の使用を過って、薄汚い知恵、病気、スラム街といった、あってはならない環境を生み、それが霊界からの働きかけをますます困難にしているのです」

シルバーバーチ